JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





200m程進んで県道381号線を右折し直ぐに左折し旧東海道を更に進む。
天理教会の先右側の歩道に『東海道藤枝宿東木戸跡』の木柱があり、側面には「領主番所跡」と
書かれていた。しかし「東海道藤枝宿東木戸跡」文字は道路側に。



「東木戸跡」のすぐ先、300m程進むと右手にあったのが『藤枝成田山新護寺』。
本町4丁目にあり、県下唯一の成田山。



入口を境内に入ると左右に大きな金剛力士像が迎えてれた。
向かって右側に阿形像。



左側に吽形像。



本堂。
住 所:静岡県藤枝市本町4丁目5-24
名 称:藤枝成田山
宗 派:真言宗
本 尊:大日大聖不動明王
特 記:大本山成田山新勝寺(千葉県)の直末寺院



千葉県の成田山新勝寺で修行された法憧が不動明王を本尊として「成田山新護寺」を開山。
『開山 法憧法師像』。



『開山 法憧法師像』略傅。
全て漢字で理解できません。



『おたすけ観音』。



『ボケ除の像』
お二人の頭とカボチャを『必死!!』にシツコイくらいに撫でて来ました。



『水かけ不動尊』。



『日限地蔵尊』。



『南無釈迦如来像』。



『南無水子地蔵尊』。



『​ 十二支守本尊 ​』⬅リンク。
生まれ年の干支によって定められているお守りご本尊。 
私は寅年、虚空蔵菩薩。



角度を変えて。



『布袋尊』。
いつもお会いしお腹を見る度に、他人とは思えない布袋様。



『弘法大師修行像』。



『南無大聖不動明王』。



こちらにも『布袋和尚』。



『布袋和尚』説明板。
太鼓腹をさらして呵々大笑。見ているこちらも太平楽な心地になる。それが「布袋和尚」だ。
9~10世紀、中国・唐の時代の明州(浙江省寧波市付近)に実在したといわれ、
釈契此という名前も残っているが、トレードマークの大きな布袋をいつも背負っていた
ことから「布袋」と通称されている。



島田信用金庫藤枝東支店。



その支店敷地の道路側隅にあったのが『従是西下伝馬 従是東左車』道標。



藤枝市の花:ふじ 藤枝市の鳥:うぐいす 藤枝市の木:まつ
のプレートが歩道に埋め込まれていた。



右手に『下伝馬会館』の広場の入口。



『東海道藤枝宿』。



常夜燈。
台座には「町内安全」と。



『東海道 藤枝宿 左車町 下伝馬町 白子町』の『藤枝宿 絵図』。

旧東海道沿線の史跡や神社等が載っていた。



下伝馬会館の右横奥にあったのが『恵比寿大神、大黒天』。



現在の場所は藤枝市本町3-2‐23。
「旧東海道から左手1kmほどの場所には『旧田中城跡』があった。(黄色の ​◯​ の中)。
田中城は、今から500年ほど前、この地の豪族・一色氏が今川氏の命を受けて、その屋敷を
拡大して城としたのがその始まりだといわれています。その後、武田氏の手に落ち、さらに
江戸時代になってから四之掘が増設されて、直径およそ600mの全国的にも珍しい同心円形を
した城ができあがりました。現在、市立西益津小学校が建っている場所がかつての本丸で、
江戸時代には4万石程度の譜代大名が城主となって、志太平野の村々を治めていました。

この日は『​ 旧田中城跡 ​👈リンク』を訪ねることは出来なかったが、後日訪ねブログアップ
したたのでリンクにアクセス下さい。



藤枝市の商店街を歩くが人の姿はほとんど無し。
この日は3月20日(水)、時間は15:30前であったが。



店のウィンドウ内には『真田信繁(幸村)』の甲冑が。



路地の右奥には大きな白い蔵が。



『白子由来の碑』が道路左手に。ここは藤枝市本町2丁目6−1。



藤枝市の街道沿いの繁華街に白子町と呼ばれる一角がある。
ここは三重県鈴鹿市白子に因んで町名が付けられたという。
この由来は、天正10年(1582)織田信長が殺された「本能寺の変」に端を発する。

堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に出た。
ここで小川孫三が家康一行を舟に乗せ対岸の知多半島まで運んだという。家康はこの恩に
報いるため、孫三に藤枝宿の一角を与え諸役御免(伝馬役など宿場の業務を免ずる)とした。
孫三は、ここに居住し町名を故郷の白子町とした。
現在の住居表示は本町となっているが、子孫の小川家の前に町名由来記の石碑がある。




本能寺の変の折、家康の危機を救った伊勢国白子の小川孫三が、
天正14年この地を賜り白子町と称したと。



『西暦1586年(天正14年)白子町誕生 白子由来の碑』と書かれた立て看板。



『小川孫三(おがわまごぞう)』。
天正10年(1582年)、本能寺の変があったとき、徳川家康は和泉国堺にいました。
身の危険を感じた家康は、伊賀から伊勢へと逃げましたが、伊勢の白子(しろこ)という
あたりで敵に捕まりそうになりました。その時、畑で麦を刈っていた小川孫三という
お百姓さんが、その麦の中に家康を隠して、敵の目をあざむきました。
お陰で家康は命拾いしたのですが、一方の孫三は家康をかくまった罪で白子にいられなく
なってしまいました。これを聞いた家康は、孫三をあわれに思い、藤枝に呼び寄せて新白子と
いう町をつくる許可を与えました。これが現在の白子町で、小川家には家康の朱印状が
残されています。



小川医院前の町名由来碑・『白子由来碑』。
凡今より390年前本能寺の事変の折、伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い、
覚えとして天正14年8月14日御朱印を賜る。是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す




更に藤枝の商店街を進む。



旧東海道の左手奥にある『長楽寺』のプレートが。



案内に従い『長楽寺』を訪ねた。



山門。



境内参道。



中央に『六地蔵』。



朱の太鼓橋とその先に『弁天堂』。



『慈母観世音菩薩像』。



『本堂』。
長楽寺の創建は諸説ありますが伝承によると、平安時代末期の仁安年間(1166~1168年)
当地の有力者、粉川長者が善政を敷いた為、成仏できなかった青龍が屋敷に住み着き、
成仏出来るように長者に頼みました。そこで長者は御堂を建立し境内に「真薦が池」を設けて
青龍の住みかにしたと伝えられています。その後、蘭渓道隆大覚禅師を招き臨済宗の寺院として
開山し境内には七堂伽藍が建立され寺運も隆盛したそうです。鎌倉時代末期の正中年間
(1324~1326年)、芝巌徳香を招き中興開山、中世は今川家の庇護から寺領を広げ、
豊臣家政権下では450石を有していました。江戸時代には寺領が減少しますが、
朝鮮通信使の宿泊所や田中藩(藩庁:田中城)の藩主土屋家の香花所などの格式を得ています。
山号:青龍山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釋迦牟尼如来。



扁額は『長楽寺』。



長楽寺通りを進み『蓮生寺』入口前まで来ると塔のある建物が右手に。
本格イタリアン料理の人気の店『リストランテ・ダルピーノ(Dalpino)』。



夢舞台東海道道標『藤枝宿』。 
江戸から 50里1丁(196.5Km)、京へ75里19丁 人口約 4430人。 



『安藤広重 東海道五拾三次之内・藤枝『人馬継立』』。
「この宿場の図は、副題の「人馬継立」とあるように、宿場の問屋場の様子である。
朝早く荷物や駕籠の手配をしているところだろう。問屋場では宿役人が下役に指示を出している。
羽織袴の武士と帳付役が打ち合わせをし、手前には荷の引き継ぎを待つ人足たちがいる。」





                              ​ その7 ​  に戻る。

                   ・・・​ つづく ​・・・​ ​​





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Last updated  2020.05.01 11:39:27
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