JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2020.03.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

関宿・重要伝統的建造物群保存地区の電話BOX。



『東海道 関宿』道標。



更に関宿の旧東海道を進む。



掲示板には『会津屋』の紹介記事が。



『まつい呉服店』の店頭には和風傘が展示されていた。



の先に『伊藤本陣跡 があった。



「伊藤本陣
伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に
設けられた大名や公家、高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。
伊藤本陣は、間口 十一間余、建坪六十九坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。
現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。」



『伊藤本陣跡』の隣の2階建ての旧家の入り口には俳句が書かれた暖簾が。



そして『関宿 関の山車 保存会』の絵も。



『伊藤本陣跡』の斜向かいに『橋爪家』があった。



「橋爪家

同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、
大坂のこうの池と並び称せられる豪商であった。
江戸末期には、芸伎の置屋として栄えた。
街道に面して手すり付き二階妻入り建てであるが、これは明治期の改造で、もとは、
平入りの屋根であった。」



『旅人宿 石垣屋』が右手に。



その先にあったのが『玉屋』。
玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれ
「鶴屋」「会津屋」と並んで、関宿を代表する大旅籠だった。
玉屋の開業時期は不明だが、寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名の理右衛門の名が
記されており、既にその当時にはここで旅籠を営んでいたと考えられる。
東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)築の木造二階建で、外観は関宿に多い二階を漆喰で
塗り籠める形式で、江戸期の建物としては特別軒が高く、屋号に因んでの宝珠を形どった
虫籠窓が特徴的と言える。

江戸時代その侭の旅籠風景が再現されており、坪庭もあって奥行きが深い。奥には蔵があり、
年4回展示替え(広重の浮世絵など)を行っている由。
主屋の他に、離れ・土蔵・納屋の4棟の建物があり、旅籠当時の建築物が一体的に保存されており、
貴重である。これは、平成5年3月に旧所有者の村山弘道氏から町が買い取り、平成6年3月に
関町有形文化財に指定、平成6年度から8年度迄3ヵ年かけて保存修復工事をして、
往時の旅籠の姿を再現したものである。



『玉屋』の前の『新聞店』の屋根の七福神。



『深川屋 服部家(「関乃戸」菓子店)』。
同家は、屋号を深川屋と称し、代々菓子司で、寛永年間初代服部保重によって考案された
餅菓子「関の戸」は、関宿の代表的な銘菓として名高い。
京都御所より陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜っている。

歴史ある和菓子店であるが、実は服部一族、伊賀忍者の服部半蔵の末裔にあたると。
ご自宅兼店舗はまさに忍者屋敷を思わせるもので、築233年という造りもさることながら、
その2階にはカラクリがあり、ある部屋の畳をめくると1階に下りるための階段がかつては
あったのだと。



この屋根看板(庵看板(いおりかんばん)に特徴が。
江戸側が「関の戸」で「の」がひらがな。



そして京都側が「関能戸」で「能(の)」が漢字。
旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われているのだと。
中町の建物は二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多く、二階壁面を真壁とした新所や

高塀を廻すのがみられたが、その主屋や高塀群は意匠的にも質が高く、町屋の細部意匠
としては漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多いのであった。 
漆喰彫刻の鯉の滝昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く 細工瓦には職業に使う
道具を意匠にしたものなどもあった。



前方右手に『関郵便局』の白き建物が。
関郵便局があるこの場所には天正20年(1592)、徳川家康が休息した「御茶屋御殿」があったと。
江戸幕府初期には代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは藩役人の詰所が
置かれていたのだと。



『関郵便局』前の歴史を感じさせる『書状集箱』・ポストが。



「このポストは、文化財保護法により選定された関宿重要伝統的建造物群保存地区の街並みとの
調和を保ちつつ、みなさんに利用していただけるようにした特別なポストで、京都大阪に
設置され、現在は東京の逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して
作成したものです。
日本の郵便ポストは明治五年(1871)の郵便創始あたり、東京に十二ヶ所、京都に五ヶ所、
大阪に八ヶ所のほか、東海道の各宿駅に六十二ヶ所設置したのがはじまりです。
当時のポストは江戸時代の「目安箱」に似た木製の箱で、「書状集め箱」と呼ばれていました。」



東海道右手の『関郵便局』前に、復元された『高札場跡』があった。



「関宿高札場
高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。
関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)に
ありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を
果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれて
いました。
関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余の
ほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が
行っていました。
『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、
生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、
隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。
明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町
伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、
周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。
この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、
「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望を
いただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を
賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。

(復元概要)
●復元年代  規模及び高札についての資料が残る、寛政年間から天保年間頃
●規模    寛政年間の史料と考えられる「御分間絵図御用宿方明細書上帳関宿」 
       (服部家文書)に「高サ弐問四尺弐寸長三間弐R五寸、幅壱間弐尺」という
       記載かおり、これを基本とした。
●形状    関宿の高札場の形状を描いた図面類は残存せす、他の高札場の幕末から明治期の
       写真等を参考とした。
●高札    掲示する高札については、関宿のものは現存せす、同様の内容を記載した
       他の高札を参考とした。
       また文言については「東海道宿村大概帳』の記載どおりとしたが、読み易さを
       考慮し楷書にとした。
●構造補強  高札場裏側に構造上必要な、補強壁を設けた。



様々な『高札』が。



ズームで。



『喫茶たなかや』を振り返ると、ここの屋根にも七福神の大黒天と恵比寿さんの姿が。



『大黒天』(左)。



『布袋様』(右)。



なぜ、こんなにも人がいないのか?



右手の大きな瓶には『骨董屋』の文字が。
そして昔の貨幣『寛永通宝』が格子戸にぶら下がっていた。



『白玉屋 三宅家』。



一番右に関宿名物『志ら玉』が。



「白玉屋
菓子舗、こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色で色どりを添えた
餅菓子を「志ら玉」と名付けて関の戸と並んで人気があった。
二階は手摺の付いた中二階がある。」



食べたいなぁ!!と旅友が。



関宿名物『志ら玉』を1個100円で購入。
江戸時代より街道の旅人に親しまれてきた関宿名物・『志ら玉』。
北海道産小豆で作ったこし餡を上新粉の生地で包んだ素朴な生菓子で、砂糖を少なくして
甘さを抑えたあっさりとした味わいであった。



『高札場跡』の先右手に、天台真盛宗の『清浄山福蔵寺』があった。
福蔵寺は、天正11年(1583)織田信長の三男・信孝の菩提寺として創建された。
境内には馬頭観音・不動明王・元三大師を祀る観音堂、薬師如来を祀る薬師堂があり、
裏門横には仇討烈女・関の小萬の墓がある。
『福蔵寺山門』。



『関の小万之墓碑』。
「関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足
関の小万は若くして父の仇を討った烈女と伝えられる。15歳から風雪にもめげず亀山の道場に
通って修業につとめ武を練り、天明2年8月本懐を遂げた。享和3年没(妙証信女)地蔵院前には
小万の育った宿屋山田屋の跡が現存する。」



『薬師堂』。



『地蔵菩薩』。



『福蔵寺 本堂』。



『本堂』に近寄って。



『水子地蔵尊』。



『観音堂』を斜めに。



『清浄山 福蔵寺のご案内』
「当山は、天台宗真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本西教寺)に属します。草創は天正11年
織田信長卿三男信孝光の菩提寺として創建されました。本堂のご本尊は阿弥陀如来です。
本堂左のお堂は観音堂で、馬頭観世音菩薩・不動明王・元三大師をお祀りし、道中の安全と
関宿の繁栄を祈願しております。
表門横のお堂は薬師堂で、御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に
移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されています。
裏門横には、仇討烈女・関の小萬の墓と碑があります。
客殿横には英照皇太后(孝明天候后)がご宿泊された書院が現存します。(非公開)」



『観音堂』。



『馬頭観世音菩薩』の幟が。



馬頭観世音菩薩・不動明王・元三大師が祀られた『観音堂内陣』。



『織田信孝の供養塔』。



『福蔵寺の創建と織田信孝公』
「織田信長の三男信孝公は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、
神戸の住人旧臣大塚俄左エ門長政にメイジこの寺の建立にかかりました。
しかし信孝公は羽柴秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、天正11年尾張の国野間に於いて
自害させられましたので、長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。
この墓は信孝公の墓石不祥のため400年忌を迎えた時菩提を弔うため建立したものです。
本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。」



『関の小萬碑』とその左に『関の小萬墓』が。
関の小萬は、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした
仇討烈女として名高い。
関地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小萬は、亀山藩の道場で
武芸を磨き、天明三年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げる事ができたのだと。



旧東海道に戻ると左手に『やまと屋』、右手には立派な板塀が続く旧家が。
正面には『関地蔵院』の大きな屋根が見えて来た。



『いっぷく亭』。
関宿散策拠点施設として設置されたもので、解説文付きの「関宿イラストマップ」掲示や
トイレ・休憩コーナーがあった。



『関宿イラストマップ』。



『関宿・重要伝統的建造物群保存地区』の上空からの写真。



「関宿まちかど博物館」の札が貼ってあったが。



『門音 尾崎家』今は『ANTIQUE 江戸屋』。



『川音 尾崎家』。
「尾崎家は地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から屋号をとって川音と称した。
同家は文久頃の建物と言われる。間口七間半、通り庭をはさんで左手に屋敷、右手に米を収蔵する
家うちの土蔵がある。」




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.02 16:42:30
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