JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

オジン0523 @ Re:3か月でマスターする数学・『モンティホール問題』(09/23) 最近は、難しいことをやっていますね! 私…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…

Favorite Blog

伊勢原市の寺社史跡… New! オジン0523さん

2002年8月チベット東… New! 隠居人はせじぃさん

【無花果を買いに ・… Gママさん

ビルトイン食洗機の… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2020.03.17
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『関神社』を後にし、路地を旧東海道に戻ると右手にあったのが『伊藤酒店倉庫』。



左手には上部が漆喰の白い壁で覆われた倉のある旧家。



旧東海道に戻る手前左側にあった『大井家』。
『平入り中二階、前面格子』の造り。
「平入(ひらいり)」とは、日本の伝統建築において、建物屋根の「棟(むね)」に対して
直角に切り下ろした側を「妻(つま)」、棟と並行する側を「平(ひら)」と言い、
平入とは建物の出入口がこの「平」にあるものをさすのであると。
関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中ごろの建築で、明治中頃までのものが半数以上を
占めるのだと。



「大井家
同家は、代々玄庵を名乗り、医科であった。明治初期には西洋医学を学び、種痘医として、
また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。
「本草網目」など医学書の他、江戸末期の往診用の駕籠、医療機器などの一部が遺されている。」



旧東海道に突き当たる場所の正面にあったのが
関宿を代表する芸妓置店『開雲楼』(左)。凝った意匠の二階手摺に格子窓等昔の面影を残す。
『松鶴楼』(右)、今は鮮魚青果物商・「遊快亭」。

かつて旅籠では飯盛女と呼ばれる遊女やそのような専門の場があった。
 開雲楼と松鶴楼は、その代表的な建物だったのだ。
『松鶴楼』は今は鮮魚青果物商・「遊快亭」。
「遊快亭」の名は飯盛女の存在を考えると意味深か。誰がいつ付けた店の名前なのであろうか?



旧東海道に戻り左手にあったのが『関の山車会館』。
市の民俗文化財である「関の山車(やま)」の保存や祭囃子などの伝承活動の拠点として、
「関の山車会館」が昨年・2019年7月6日に開館。
会館には、主屋、離れ、土蔵、山車収蔵展示棟の4棟の建物があった。
館内では夏まつりに曳き出される山車とその付属品を保存・展示するとともに、
祭りで演奏されるお囃子などの保存伝承活動の拠点とするため整備したもので、
あわせて祭りに関する歴史資料等を展示していると。



奥にあった『山車収蔵展示棟』。



『せきのやまかいかん』入口。

屋敷の前の出格子窓は明治時代以降に取り付けられたもの。



『関の山車会館』案内板。



旧家の前には休憩用ベンチが。



『しき島肥料』の看板。



右手に『百五銀行』があった。



『百五銀行』は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞
(景観づくり部門)を受賞している。なるほど周囲の景色に完全に溶け込んでいた。
『百五銀行』の先の十字路を左折すると、JR関西本線の『関駅』があった。



『百五銀行』の先、左手にあった『御食事処 山石』の屋根にあった『漆喰彫刻 虎』。



『百五銀行』の先の十字路の手前右側の屋根には『細工瓦 虎』。



『百五銀行』の先の十字路を右折すると、突当りに浄土真宗西本願寺派の




『関宿イラスト案内図』によると『延命寺山門』は旧川北本陣の門を移築したものであると。


          【 https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_8392.html 】より

南に行くと『関駅』。
最初は「南関駅」があると思ったのであった。







左角の店の前には案内板が。



『関町 関宿』案内板。
「関の地名は7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたことに由来します。
江戸時代以降は地蔵院を中心に東海道で47番目の宿場町として栄えました。宿場の西端は
大和街道との、東端は伊勢別街道との分岐点で、豊かな自然環境の中、古くから交通上の
重要な地でした。街道筋には今日でも200棟以上の伝統的な家々が建ち並び、かっての宿場町の
様子を知ることができます。」



『東海道 道標』。



更に関宿・重要伝統的建造物群保存地区の光景を楽しみながら進む。
やや早足の自分が、いつの間にか自ずとゆっくりになっていると気づいたのであった。



人の姿がない、二人占めの異様な?空間が続いたのであった。



町家の通りに面した右手旧家の柱に付けられた直径5㎝程の丸い金具。
人を乗せたり荷物を運んだりした馬の手綱をかけるためのもので、
『馬つなぎぎの環金具』と呼ばれているのだと。
この環金具は、柱の中ほど、大人で言えばヘソの高さ位の位置に付けられていた。
関宿の町家では、同じような輪金具が土台や柱の根本などの低い位置にも付けられていることも。
これも使用法としては同じなのだが、繋がれた動物が馬ではなく牛だったと。
そのほうが、牛や馬がおとなしく待っていると。
つまり、関宿では馬は柱の中ほどの高い位置で、牛は柱の根本や土台など低い位置でつないだ
という訳。そうなると、低い位置に付けられた環金具は『牛繋ぎの環金具』と呼んでいた
のであろうか。
「環金具に 手綱つながれ 馬や牛」関宿かるた。



更に関宿を進む。



『延命寺』を出た十字路から右手一本目の細い路地の入口に、民家の壁に貼られた小さな
『瑞光寺』の木札があった。この先に入って行くと突当りに曹洞宗の『河上山瑞光寺』が。
「権現柿」の文字も色褪せていたが確認できたのであった。



『瑞光寺山門』と扁額『河上山』。



重厚な『山門』の扉。



『鐘楼』。



『観音堂』。



『観音堂』に掛かる『観?自在』の扁額。



嘉永2年(1849)の『旧観音堂鬼瓦』。



境内からの『本堂』。



『本堂』前右側にあった『権現柿(ごんげんがき)』。



「権現柿
瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、三河国(現愛知県)宝飯郡に生まれ、幼少のころ徳川家康と
親交があった。永隆の弟子隆眞が、元和元年(1615)に記録した「開山和尚伝」によると、
家康は上洛の際当寺永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから、後世、この柿を
「権現柿」と呼ぶようになった。
瑞光寺は、応永4年(1371)の創立と言われ、小野川の上流にあったが、兵火により焼失した。
その後、永禄~天正年中(1558-1591)に、当時の亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として
現在地に移し再興したと言われている。」



『本堂』。
瑞光寺は、応安4年(1371)の創建と云われ、兵火により焼失したのち、永禄~天正年中
(1558-1591)に亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として再興したという。



『本堂』に掛かる『瑞光禅寺』の扁額。



しだれ桜であろうか。その先に『鐘楼』が。



『瑞光寺』を出ると、直ぐ左手に『関まちなみ資料館』があった。



この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、
亀山市関町の文化財・歴史資料の展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを
写真展示していると。



『町屋の細部詳細』。
「関宿の町屋には、庇下の幕板、軒の持ち送りの操形、二階の虫籠窓や漆喰細工、
起り屋根、格子建貝など、細部の意匠に工夫されたものが多くあります.
特に.漆喰細工や瓦細工は.子孫繁栄・家運長久などを願って職人が技をこらして
作ったものです。こうした様々な細部の意匠は、多くの人々が行き交った宿場町の町屋に
ふさわしいものといえます。」



『関宿まちなみ資料館』の斜向かいに『鶴屋脇本陣跡』があった。
鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣とも呼ばれていた。
二階壁面に千鳥破風を乗せた派手ではあるが美しい意匠であった。
『鶴屋』は『玉屋』、『会津屋』と共に関を代表する旅籠の一つ。



『鶴屋脇本陣跡』の隣に『問屋場跡』があり、『山車庫』が建っていた。
「関の山」 の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あったのだと。
互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。
現在はわずか4基の山車が4箇所に残っているのだと。



『東海道関宿 問屋場跡』。



『中町三番町山車(やま)』案内板。
「関の山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)から伝わる
お祭りです。
最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を
競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて
巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という
言葉の語源になりました。
現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、
祭りは毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。
中町は関宿の中央部で、江戸時代には街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、
また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。
中町三番町山車は、白木造りで、天場高欄下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、
全体は質素なつくりになっています。電線が巡行の支障になることから、最上層にあたる
天障子が撤去されていましたが、平成十四年の大修理の際、これを復元して往時の姿に
戻しました。
また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。
見送り幕には、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848~1853)に製作されたと
伝えられています。」



左側に『岩木屋 吉澤家』。



「同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、
酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。
明治十七年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。」



更に『関宿』の旧東海道を進む。



右手に『川北本陣跡』碑があったが、昔の建物は何も無かった。



『岩田商店』。



川北本陣跡の斜向かいに『百六里庭・眺関亭(ちょうかんてい)』が。
江戸から106里余にある処から付けられた小公園で、通りに面した「眺関亭」の2階からは
宿場の家並みが一望でき、街道で見るそれとはまた異なった感動があったのであった。



『百六里庭』と書かれた木札。



『旧東海道 四十七番目 関宿』案内地図。



『百六里庭』の中庭に入る。
中庭には井戸や、庭の中央には礎石が残されていた。



「百六里庭
この「百六里庭」は、住民参加によるポケットパーク・デザインワークショップによる
デザイン案をもとに造った庭園です。
舗装の中に点在する石は、埋蔵文化財調査において発見された、昔の町家の「礎石」です。
また、井戸も既存の位置に復元したものです。」



これが『西追分』方向の絶景。



こちらは『東追分』方向の絶景。






                                                                                       ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.02 16:42:08
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: