PR
Keyword Search
Comments
Calendar
『旧東海道を歩く』ブログ 目次
この日は2020年2月22日(土)、宿泊ホテルの朝食を6:30から取る。
東京・日本橋から『旧東海道を歩く』の29日目(移動日を除く)の朝。
ホテルのフロント。
宿泊者はこの時期少なかった。
そして7時過ぎに予約していたタクシーに乗り貴生川駅に向かう。貴生川駅から7:30発の
バスに乗り換え前日も利用した「近江土山駅」に向かう。
途中、国道1号線・「土山支所」交差点角にあった、日本一の大きい自然石の
石灯籠・『平成万人灯』を車窓から見る。
自然石の灯篭では日本一の大きさを誇り、旧土山宿場町のシンボルになっていると。
夜間は火袋が点灯し、周囲から全体をライトアップし、国道1号線を昼も夜も往来する人々
の安全を祈願して建設されたのだと。
平成3年に甲賀市役所土山支所前国道1号線沿いに建立された、旧宿場町を偲ぶ石灯籠。
例の「ふるさと創生資金」がつぎ込まれたのだと。
石種・・・白御影石(岐阜県恵那郡蛭川村産)
高さ・・・9.33メートル(基礎上)
重さ・・・156.8トン
甲賀の町のシンボルとして、地域の住民にも深く愛されている石灯籠であると。
『平成万人灯』碑をズームで。
「私たちは、郷土に深い愛着をもって土山町を“あいの土山”と呼びます。これは、鈴鹿馬子唄に
よって唄い継がれきた大きな遺産です。そこで土山が宿場町であったことをシンボル化し、
日本一のモニュメントを造ろうと考えました。
鈴鹿峠には旅の往来の安全を祈願し、江戸中期に建立さ
れた「万人講常夜燈(高さ5m、重量38t)と称する石灯籠が現存しています。
その心を平成に生かさんと、完成したのが「平成万人灯」です。
この「平成万人灯」自然の石としては日本一の大きさで、夜間には火袋に明かり
が燈され、またライトアップし昼夜を問わず往来の人々の目を楽しませています。」
組み立てられている石のそれぞれの大きさそして重量が絵とともに示されていた。
『平成万人灯』と刻まれた巨石が横に。
その前には『土山町一??』碑。
そして『近江土山駅』であいくるバスを下車。
乗って来たバスを見送る。
そして『土山宿』の旧東海道沿いの街並みに向かって進む。
前日に訪ねた『東海道伝馬館』横を通り振り返る。
旧東海道の正面の八百屋は既に開店していた。時間は8:06。
店の中にあったこの金魚水槽は店主の趣味なのであろう。
400年に渡って『八百屋』を営んで来たのであろうか。
『八百屋』前から、これから歩いて行く『土山宿』の街並みを見る。
右手奥の緑地にはアンパンマンの姿が。
右手の板塀には『平野屋前右衛門跡』、『大内屋跡』と表示された木札が掲げられていた。
しかし板塀の中は空き地であった。
この朝も人の姿はなし。
右手には『油佐』の木札が。その先には石碑が。
本陣から小路を挟んで隣にある土山宿問屋宅跡。
こちらも本陣に負けず劣らずの風格ある佇まい。油屋佐平治の名で代々松山家が問屋職を務めた。
木札『東海道土山宿 油佐』。
『土山宿 問屋宅跡』碑が『油佐』の横の路地角に。
「土山宿問屋宅跡
近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが
宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から
数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。
宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。
土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。」
「(解読)
行李 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭を憶ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬か 知んぬ是岨か
(意味)
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、
故郷のことを想い起こす。
さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。
いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土が
かぶさっているのだろう。
(解説)
作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。号を道春という。
家康没後の元和二年(1616年)、羅山三十四歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て
故郷の京都へ向かう。
この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、
その前文に「『釋鈷毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」
この詩を詠んだとある。」
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.12