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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
国道307号線を渡って水口町元町(作坂町)の旧東海道を進む。
作坂町には本陣や脇本陣が置かれた。先に進むと、左手に『水口宿本陣跡』があった。
消火栓格納箱ほこの位置には不釣り合いなのでは。
「東海道水口宿
水口は道によって開け、道のよって発展した所です。 この地には古くから東国へあるいは
伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が
休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。
しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(一五八五)秀吉が家臣の
中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。 この時山麓の集落は
城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。
関ヶ原合戦翌年の慶長六年(一六○一)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、
東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、
直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として
歩みました。 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客の通行輸送、
あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は
大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。
このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。
水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(一八四三)の記録によれば、
家数六九二(うち旅籠屋四十一)を数え、この地に小規模ながらも水口藩の武家地が加わり、
甲賀郡の中心としての地位を占めました。
このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に
曳山が巡行するようになりました。 また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも
知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。
なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。」
『水口宿本陣跡』。
この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。
本陣とは、大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設で
これを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿はその両方が宿の東部の作坂町にありました。
本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、
その経営には宿の有力者があたりました。
この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、
明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。」
竹垣の間を入って行くと明治天皇聖跡碑・明治天皇行在所御旧跡碑・水口宿本陣跡碑などが建っている。
『明治天皇聖跡碑』。
『明治天皇行在所御旧跡碑』。
『明治天皇聖跡碑』前から竹垣を見る。
古城山(水口岡山城址)を望む。
右手に仏壇・仏具の店『ぬし又本店』。
左手に『桔梗屋文七』」という古いたたずまいが今も残る商家。
ネットで調べてみると、明治38年(1905年)から続くクリーニング店であった。
正面には,水口宿の三筋の東口が見えた。
Y字路の中央に『高札場跡』があり、小さな高札が復元されていた。
水口宿は三筋の通りがあり、ここで二筋に分かれ、右が北通りで、左が中央通りであると。
ここでは東海道道標が示す中央通りを進んで行くこととする。
「高札場跡
「お達し」を公示する掲示板でまちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に
設置されました。水口宿では、作坂町と旅龍町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の
合流するところに設置されていました。
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