JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2020.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

雨が激しくなる中、水口宿の本町商店街の旧東海道を進む。



『曳山と三筋の町』。ここで旧東海道を挟む2つの道が合流。
『秋葉神社』(左)と『曳山を模したからくり時計台』(右)。



『時計台』。



「宿場町の水口
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて
公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。 宿場は、町数27、家数718と発展、
俳聖芭蕉も逗留し 「命二つのなかに生たる桜かな」 の句を残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで
賑わいました。
宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は
歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。」



『旧東海道』案内板。



『時計台』を正面から。『三筋の町道標』も。



『からくり時計台』を振り返る。



三筋が合流した先に『東海道』と刻まれた石橋があった。
この南側にある近江鉄道本線の水口石橋駅の名は、この石橋に由来すると。



「石橋

江戸時代初期はここが「京口」とされていました。年頭に勧請縄が張られた際には、旅人は
被り物を取り、馬かから降りて通っていました。
水口はこの「石橋」を境にして、水口岡山城の城下町として整備された以東と、寛永以降
水口城の築城などにともなって発展した以西に大きく分けられます。
石橋の下を流れる小川は、水口岡山城の堀から流れる「馬渡川」です。
また、東と西では、水口曳山祭のお囃子の曲調も異なります。」



『曳山と三筋の町』を再び振り返る。
ここで3つの道が合流していた。



そしてこの日には、雨が激しかった為に訪ねられなかった『大岡寺(だいこうじ)』を
次の移動日の3月20日に訪ねたのでここにアップいたします。
『山門』への階段。



『山門』への参道階段。



『龍王山 大岡寺』。



『本堂』。



「龍王山 大岡寺の由緒

十一面千手観世音像を安置し創建したという。
その後、寺勢盛大を極め、16の坊舎を擁していたと伝えられるが、天正2年(1574)の兵火で、
堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。
天正13年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転し、大岡山山頂に
城郭を構築したが、落城後、享保元年(1716)に至り、時の住職寂堂法印が再び現在の地に
堂宇を再建した。以後、水口城主加藤氏歴代の祈願所となった。
本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・商売繁盛・進学・就職・厄除等諸願成就の守護仏で、
近江西国三十三箇所第二十六番霊場として多数の参詣者がある。また、恵心僧都の作で、
阿弥陀如来立像は、ともに国の重要文化財に指定されている。
当寺には、史跡が多く、鴨長明発心之所であり、巌谷一六の記念碑や、
芭蕉の 「命二つ 中に活きたる 桜かな」 の句碑等がある。




扁額は『大岡寺』。



『本堂』の正面には『四国第廿六番札所』木札と『賓頭盧様像』。



『賓頭盧様像』



『本堂内陣』。



『鐘楼』。







『命ふたつ 中に活きたる 桜かな』。



境内の『放生池』と『弁財天』。



『釈迦誕生仏立像』。



『日清戦役忠魂碑』。



『諏訪大社本宮』。



『鉛筆供養』塔のある珍しい寺。



『行者堂』。



『大岡寺務所』。



『境内』。



『宝篋印塔』。



『六地蔵尊』。



『巌谷一六顕彰碑』。



「この碑は水口出身で、明治時代を代表する書家巌谷一六(天保五~明治三八)の業績を賛えて
明治四四年に建てられた。
碑文の撰文は漢学者三島中洲、揮毫は一六とともに近代書道の確立に邁進した日下部鳴鶴、
「従三位巌谷君之碑」の題額は、一六らに大きな影容を与えた清国の金石学者楊守敬の手になる。
鳴鶴の謹厳な隷書は、一六を賛える心を映してあまりある。」



『栗園中村先生寿蔵碑』。
水口藩儒者。中津藩絵師 片山東籬の次男として生まれ天保2年(1831年)水口藩儒者
中村介石の養子となる。
広瀬淡窓、亀井昭陽、帆足万里などに師事する。ペリー艦隊来航後に藩主の命により藩政に参画し、
水口藩の勤王派の中心人物となっていく。
明治元年、藩主 加藤明実と上京し岩倉具視を介して東征案を奏上。明治2年に大参事に就任。
文化3年(1806年)誕生。明治14年12月20日死去。



『確堂中村先生之碑』。
水口藩校翼輪堂教授。教育家。水口藩士 山県彦三郎の三男として生まれる。
14歳で翼輪堂に入り、15歳で翼輪堂藩校助手となる。
中村栗園の養子となり17歳の時には養父 中村栗園に代わり翼輪堂で講義を行う。
21歳から33歳まで大阪、京都に遊学し帰藩後に翼輪堂で漢学教授となる。
中村栗園が水口藩勤王派の中心として活動を始めた事により、中村確堂も他藩士と交際し
情報収集するなど中村栗園を補佐していく。
第二次長州征討、鳥羽伏見の戦いに従軍。維新後は埼玉師範学校長、彦根中学校長、
本願寺大教校教授、京都師範学校教諭を勤め明治29年に老齢を理由として退職した。
天保3年(1832年)10月8日誕生。明治30年3月3日死去。



最後に『境内』を再び。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.04.26 06:31:47
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