JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.04.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道は横田川を渡り真直ぐ対岸に行くルートであったが、現在この付近に橋がないため、
川の右遠くに見える国道1号線の横田橋を迂回するしかなかったのであった。
川に沿った道を行くと1号線に合流するので、ここで大きな橋を渡り、
旧甲西(こうせい)町に入って行くのであった。
前方に国道1号線と合流する「泉西」交差点が。



『水口宿』と書かれた塔。
ここが『水口宿』の出入り口。



野洲川(旧横田川)を渡る前、この『泉西』交差点の先で『湖南市』に入ったのであった。
平成16年(2004)10月に甲西(こうせい)町と石部町が合併して出来た『湖南市』。



右手に行くと国道1号線の『水口道路』、旧東海道に合流するために
左側の「三雲」案内板の道路を進む。



これから渡る『横田橋』には上り方面にのみ並行する歩道があるので歩道橋を渡り
上り車線側に向かう。
この歩道橋は『朝国横断歩道橋(あさくにおうだんほどうきょう)』。



『横田橋』を望む。その先に湖南市三雲の町並みと栗東市との境界の山の姿が見えた。



『横田橋』の右側に並行する「人・自転車専用道」を進む。



野洲川(やすがわ)は、滋賀県を流れる淀川水系の一級河川。
琵琶湖への流入河川では最長である。近江太郎の通称がある川。
この橋より上流の甲賀市水口町酒人で杣川と合流しているが、この合流地点より琵琶湖への
下流は『横田川』と呼ばれていたのだと。
「​ 琵琶湖に流入する川 ​」の数をネットで調べてみるとは大小合わせておよそ119本を数えるが、
最長は栗歌詞になるがこの「野洲川」であると。
その一方で、出ていく川はたったひとつ、「瀬田川」。
近代に入って、「琵琶湖疎水」という、京都市内に人工的に水を引くことも始まったが、
それでも2つしか「出口」がないのだと。



明治時代までは先程の泉~三雲間に板橋を架けていたようだが、昭和初期に橋は下流へと移され、
さらに1951(昭和27年)には現在の位置へと橋を架け替えているのだと。
橋の上から右手の下流方面を見ると、先代の橋脚の一部が今もなお残っていたのであった。



橋の中央付近に日本橋より『457km』の表示版。残すところ35kmの場所まで来たのであった。
表記されている所在地は、合併して現在の湖南市になる前、甲西町時代の「甲西町 三雲」が
更新されることなく残っていたのであった。敢えて残しているのであろうか?



『横田橋』を渡り終え、脇にある階段を降りて左折し歩いて来た
県道13号線(彦根八日市甲西線)の下を潜り旧東海道に合流しここを左折して
旧東海道を戻って行った。



草津線の踏切の真ん前にあったのが『東海道 横田の渡し 常夜燈』。



角度を変えて。



「東海道五十三次 石部宿 横田常夜燈
東海道十三の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場、湖南市側に建立されている。
安永八年(一七七四)に東講中によって建てられた火袋付の常夜灯である。
高さ四・八五メートル、五段の石積みの上に建っている。水口側の常夜灯より五十年以上前に
建てられていた。建立された当時は現在地よりも二百メートルばかり上流に建っていたが、
いつの時代か現在地に移転された。」



『広重二代 東海道五十三駅』
左に石部「春の景」と右に水口「名物干瓢 」。



「東海道五十三次 石部宿 園養寺(おんようじ)
天台宗のお寺で平安時代の初期、伝軟大師が延暦寺の用材を杣庄から牛車で運搬されたため、
牛馬の労をいたわるために、大日如来の尊像を刻み、牛馬の安全を祈られたことから
「牛の寺」と呼んでいる。また江戸時代に境内から野洲川を渡ろ人か手に取るように
見えたことから、東海道を行き来きする人々を監視していたともいわれている。」



『横田常夜燈』の前には小さな地蔵堂が。



『横田常夜燈』の先に現代の天保義民碑の道標があり、この向かいの筋のJR草津線を越えた
左手の丘上に『天保義民之碑』が建っていた。
「東海道五十三次 石部宿 天保義民碑
天保十三年(一八四ニ年)十月、現在の野洲市の三上地区で近江天保一揆(天保十三年近江国
三上藩一揆・水口藩一揆)が発生しました。野洲・栗田・甲賀三郡の農民約四万人が幕府による
検地(見分)の中止を要求して決起し、三上村に集まり、幕府が派遣した役人から十万日の
日延べを勝ち取りましたが、多くの犠牲者を伴い、義民として永久に伝える為、碑が建立
されました。」



『草津線』の踏切を渡って進む。



「ビジネス旅館 天保閣」への坂道を上って行く。



左手に『新海道』と刻まれた石碑が。
「新海道」は、「東海道」の旧街道と考えられていた別街道で、
別名「杣街道(そまかいどう)」ともいわれてきたもの。
「東海道」の鈴鹿峠がかなりの難所だったため、旧道として三雲から杣川を上って、
柘植で「大和街道」と合流し、加太越を経て関宿に至る別街道。
古くから利用され、「壬申の乱」後に一時廃れ、平安期仁和2年(886)に鈴鹿峠越えで
関に降りる「阿須波越」に変更されるまで「東海道」として利用されたと。
少し行程は長くなったが、鈴鹿越をしなくて良いという価値があったのだがが、
余り利用されなくなったのは、山賊や忍者が沿道に出没したことが影響していたのではないか、
との説があるのだと。
経路は、三雲~三本柳~深川市場~寺庄~大原市場~上野(甲賀町)~
柘植(伊賀市)<大和街道に合流> ~加太市場(亀山市)~関(亀山市) だったと。



『県民花の森 天保義民の丘』



「モニュメントの造形について
天保13年(1842年)10月に旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の1万数千人の農民が結集し
検地十万日日延の承認をさせるという「農民一揆」を起こした。
その時農民が手に取った鍬、鎌を形どり、背の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗と流れを
表わしている。
全体としては、基礎石を農民に見たて農民の努力の賜で虹の石(希望のかけ橋)が
架ったものである。」



『天保義民の丘』案内図。



『天保義民の丘』を更に上がって200mほど進むと、広場に高さ10m余もある
『天保義民の碑』が立てられており、その義民=犠牲者を讃えて、後世の明治の人々が、
天保時代(1830~44年)に過酷な検地に対する一揆(近江天保一揆)を起こして処刑されたことを
偲んで立てられたもので、両脇には石燈籠が設置されていた。



近寄って。



「天保13年(1842)10月14日、幕府の命によって検地を始めた勘定役市野茂三郎以下40余名の
苛酷な測量に対して農民の怒りは大きかった。三上村の庄屋土川平兵衛や甲賀郡内の各村の庄屋
たちも相談し合って農民らと力をあわせその検地を停止させた。「十万日の延べ」の証言を得た
一揆の農民は大聲をあげて喜んだ。
その後、事件の中心人物として80余名の取り調べはきびしかった。ことに土川、田島、黄瀬らの
庄屋に加えられた拷問は惨酷そのものであった。しかし、調べられた者たちは一人として白状
しなかった。獄舎中で次々と死んだ者もあったが首謀者として11名が江戸送りとなった。
針の文三郎、油日の惣太郎、上野の九兵衛、氏川原の庄五郎、深川の安右衛門、岩根の弥八、
松尾の喜兵衛、杣中の平治、宇田の宗兵衛、市原の治兵衛、三上の平兵衛らの11人は檻に
入れられて江戸へ送られた。
街道には農民の多くが涙を流しながら見送り、別れを惜しんだ。うち江戸へ着いたのは
8名であった。遺体はもちろん満足な場所へ埋めなかった。死ぬまで市野不法を訴え、
庶民の正しさを申し立てたという。
その後、明治となり罪人の名を大赦し、相続をみとめた。明治31年5月20日に
「天保義民」の碑を現在の地に建立した。その文字は厳谷修氏の書である。
高さ10mの人造石でその費用は2900円であった。毎年10月15日にはこの碑前で郡町村が
主として義民の追悼慰霊の例祭が催され、関係の遺族の多くが参列される。
奉納すもうも催される。」



遊歩道脇の法面に咲くこの花の名は「ショウジョウバカマ」。
名前の由来は、紅紫色の花を空想上の生き物ショウジョウ(猩々)の顔に、地面を放射状に
這うように広がる葉っぱをそのハカマ(袴)に見立てたという説や、花の色が猩々の赤い髪や
緋色の袴の色にいているところから名付けられたなどの諸説があるのだと。



そして旧東海道に戻り進むと、左手にあったのが『草津線 三雲駅』。



三雲駅前の右手に『微妙大師萬里小路藤房郷墓所』碑。
臨済宗妙心寺派、湖南市三雲町にある『​ 妙感寺 ​』👈リンク は、開山:微妙大師 
開基:微妙大師(藤原藤房)によるもの。
微妙大師は建武中興の元勲萬里小路(までのこうじ)中納言藤原藤房卿その人であり、
後世、新田義貞、楠木正成とともに建武の三忠臣と讃えられた人である。
また、後醍醐天皇の側近で、元弘の乱の謀議が露見したため、天皇ともに笠置山に脱出し、
その後、出家して京都妙心寺の第二世となり、晩年は当寺に隠棲したといわれている。



その先には『明治天皇聖跡』。
明治天皇は大政奉還以後各地に行幸されたがそのときの行幸記念碑。
湖南三山の国宝二寺や遷都の折、明治天皇が訪れたとのこと。



石仏が納められた祠。



湖南市三雲の旧東海道にも旧家が。



『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』
旧東海道に沿って草津線が走っているのであった。



民家の玄関の上に藁でできた箒のような形のものが飾られていた。
それも一つではなく数え切れないほどの数が。
ネットで調べてみると『厄除け粽(ちまき)』と呼ぶようだ。
祇園祭で販売される粽は食べ物でなく、藁を笹の葉で束ねこれをイグサで縛り、更に束にして
作られた疫病・災難除けのお守りで祇園祭のときだけ各山鉾や八坂神社で販売されるものと。
なるほど『長刀鉾(なぎなたほこ)』の文字のある『粽(ちまき)』が何個も。



民家の前の小さな社。



野洲川に流れ込む『荒川』に架かる『荒川橋』を渡る。
JR草津線もすぐ横を渡っていた。



『荒川橋』の先左手に3つの石碑・道標が。



手前から明治廿四年(1891)の銘のある『田川ふどう道』碑。
この辺りは、横田の渡しを控えた「田川立場」で賑わった所であると。
「田川ふどう道」の上には指のマークのようなものが彫られていた。
指で「あっち」という感じで現代風。




「万里小路藤房」は、後醍醐天皇に諫奏して容れられず、出家して妙感寺に入寺した人物。
横には道標『霊照山妙感寺 従是十四丁』と刻まれていた。



大正11年(1922)の『立志神社』碑。
立志神社(国常立命を祭る氏神)は近く、約500mの所にあるようだ。 



『JR草津線三雲踏切』を渡る。



湖南市吉永の街並みに入る。



先に進んでJR草津線を三雲踏切で渡ると、右手に『旧東海道標識』が。
⬅石部宿場
水口宿場➡
⬅妙感寺・信楽



『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』は日光にやられ更新の時期。



カーブのところに常夜燈が見えた。



水路や水辺が整備され『湖南市吉永 三吉景観水路』が作られていた。
この施設は地域の憩いの場として利用して貰えるように石積護岸や、階段工、遊歩道を整備した
景観水路です。また河川水(農業用水)を利用して耐震性貯水槽40m3を設置しています。
農業用水は、いろいろな役割を果たしています。
みんなで大切に利活用し、いつもきれいにしましょう。



その先に比較的新しいモニュメント的な『常夜燈』。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.06 06:31:40
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