JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.05.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『西照寺』の南西山側に『松尾神社』と天台宗の『美松山 南照寺』が隣接していた。



『松尾神社鳥居』。



石燈籠が並ぶ参道を進む。
この参道の桜は開花をはじめていた。



参道を進むと左手前方に案内板が見えた。



「南照寺・松尾神社
桓武天皇延暦24年(805)宗祖伝教大師美松山麓に草堂を建立、これが南照寺の開基である。
のち文徳天皇の仁寿3年(853)領主藤原頼平、山城の国より松尾明神を同所に勧請し、
南照寺はその神宮寺となった。
至徳年間(1384-87)火災により焼失、至徳3年(1386)現在地に再建、現在地は
元岡之山城跡である。
天然記念物の 「うつくし松」 は当明神のご神木として地域住民は信仰し山林を守っている。
本尊薬師如来は秘仏で33年目に開扉、内陣には本尊を中心に十二神将、不動明王、神変大菩薩、
十一面観世音菩薩等を祀り、他に本坊お内仏に阿弥陀如来を祀り、滅罪の道場を設けている。」



『地蔵尊』。



参道階段の先には近江湖南二十七名刹霊場第12番の標札が掛かる『山門』が。
そしてその手前には『手水舎』が。



正面に『芭蕉句碑』。



『西行の 庵もあらん 花の庭』。



「松尾芭蕉 句碑
西行の 庵もあらん 花の庭 はせを
元禄6年(1693)芭蕉51歳の句
屋敷の庭には大きな桜があり、その見事さは吉野の山を想い出させる。
西行もこんなところに居を構えていたであろうと想像し、招かれた人の庭をほめた句」



『南照寺 本堂』。



別の場所から『南照寺 本堂』を見る。



『平松城阯の研究』。
「平松城は松山の北東麓にあったとされる丘城。
『嶋記録』によると田那部(田辺)式部丞の居城とされるが、詳しくは不明。
田那部式部丞は今井氏の被官で、長沢城を本拠とした人物。
平松地区の南照寺および松尾神社の背後の山中が城域と考えられる。
松尾神社の周囲には土塁と思われる土盛りが確認できるが、城郭遺構であるかは定かでない。」
とネットから。



『松尾神社』の拝殿に向かう。



『松尾神社 拝殿』。



拝殿に掛かる『松尾宮』の扁額。



『松尾神社 神門(中門)』とその奥に『本殿』。



「松尾神社略記

祭神 大山咋神 天忍日命 道臣命
神紋 亀
由緒
桓武天皇延暦24年(805)宗祖伝教大師美松山麓に草堂を建立、これが南照寺の開基である。
のち文徳天皇の仁寿3年(853)領主藤原頼平、山城の国より松尾明神を同所に勧請し、
南照寺はその神宮寺となった。至徳年間(1384-87)火災により焼失、
至徳3年(1386)現在地に再建、現在地は元岡之山城跡である。天然記念物の 「うつくし松」 は
当明神のご神木として地域住民は信仰し山林を守っている。本尊薬師如来は秘仏で33年目に
開扉、内陣には本尊を中心に十二神将、不動明王、神変大菩薩、十一面観世音菩薩等を祀り、
他に本坊お内仏に阿弥陀如来を祀り、滅罪の道場を設けているという。」
摂社 三宝社 天満宮 愛宕大権現 稲荷大明神 弁財天
御神徳 醸造 開発 縁結び 交通安全
例祭日 五月一日
毎年7月31日に 『ぼんのこへんのこ』祭りが行われる。
夏越しの祓・五穀豊穣・火難厄除けなどの祈願が混然一体となった祭り。直径2メートル余りの
茅の輪(笹竹を荒縄で縛る)の前部に御幣1本と茄子三個(串刺し)を付け、その両者の間に、
木製黒色の男根(約60センチ)をぶらさげる。
神殿儀式が終わると男子児童が『ぼんのこへんのこ、さあーくえもんのなーすびやーい』と
囃しながら、男根をぶらさげた茅の輪をお旅所までかついでまわる のだと。



『天満大自在天神・三宝大荒神』。



『稲荷大明神』。



『針塚』。



『南照寺』、『松尾神社』を後にし坂道の参道を下る。



先程訪ねた『西照寺』の『鐘楼』を再び見る。



『西照寺』の『山門』を再び。



『西照寺』の『山門』横の石碑。



『南無阿弥陀佛百萬持書塔』



街道に戻って進むと、左手の 「みよし酒店」 脇の筋に『天然記念物うつくしまつ自生地』の
道標があった。
うつくしまつ自生地は、ここから1㎞程先の標高227mの美松山(びしょうざん)の中腹にあり、
自生するアカマツの変種である。



みよし酒店の斜向かいにあったのが、真宗大谷派の『松香山 浄休寺』。
『真宗大谷派 松香山 浄休寺』寺標。



『山門』。
境内に入れないと思ったが、旅友が脇門から入れると。



『浄休寺 本堂』。
浄休寺は、天正元年(1573)俊哲が中興し、元和5年(1619)現在地に移転したというが、
現在、無住寺となっており、法事がある時のみ門が開けられると。



『旧平松村』の集落には、旧家も点在しており、わずかに旧街道の面影を残していた。



左手の空地の前に『高木陣屋跡』が。
「元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年(1699)に平松を
領するようになった。その後、文化年間(1804-17)に広壮な二階建てに陣屋を建てたが、
明治維新後、個人の所有となり建物が取り払われた。しかし、陣屋の門は、その後所有者が
転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の門として再移築されて、
当時の面影を残している。」



『高木陣屋跡』の板塀。



旧家が続くが人の姿は・・・。



更に進むと右手に真宗大谷派の『平等山 愍念寺(みんねんじ)』があった。



『愍念寺 山門』。



『鐘楼』。



『愍念寺 本堂』。
愍念寺は、もと天台宗の極楽寺と称したが、文亀元年(1501)大澤坊教西が、本願寺実如に帰依し、
浄土真宗に改宗して愍念寺と改めた。本堂は、江戸時代中期の一般末寺の素朴で簡素に構成された
外陣がそのまま残り、その頃の建立と推定され湖南市指定文化財に指定されている。



「愍念寺 本堂
愍念寺の前身は文治元年(1185)に大澤幽順によって八島より移り平等山極楽寺(天台宗)を
再興し、文亀元年(1501)10代目になる大澤房教西(金ヶ森道西の次男で当寺の養子となる)が、
本願寺実如に帰依し、浄土真宗に改宗し一宇を建立して平等山愍念寺と改称した。
その後、元和5年(1619)に寺地を現在地に移して再建したと伝える。
本堂の建立年代について明確な資料はないが、向拝の虹梁彫刻の様式が江戸時代中期の特徴を
示しており、この頃に本堂が完成したと考えられる。本堂は間口5間に対して奥行が長い
(7間)妻入りの平面。柱は面取り角柱、屋根は入母屋造の茅葺に見せかけた銅板葺(当初は茅葺)
として地方の民家に近い外観を示す。
正面には一間の向拝が付く。向拝の柱上は虹梁を架けた大斗・桧様肘木を組み、中備に蛙股を
置いて寺院風に造る。
内部は外陣と内陣に分かれる。外陣は中央に4本の角柱を立てて柱間に胴差を入れ、天井上の小屋梁を
直接受ける。外陣は間仕切りのない一室として畳を敷き詰め、天井は竿縁天井に造られた惣道場を思わせる簡素な構成である。
外陣の簡素に対して内陣は派手な意匠になっている。内外陣境は金障子に欄間は金箔の彫刻を飾り、内陣中央には丸柱の来迎壁に須弥壇を構え、漆塗りに金箔を押した華やかさである。
このように内陣が派手になったのは、文化7年(1810)の改造修理によるものである。当時、一般末寺に
おいて「三つ並び仏壇」型式から、来迎壁に須弥壇を構えた「後門」式に改造することが普及した、
後門式に改造するには来迎壁を設ける関係から内陣の奥行を大きくする必要があった。柱などの痕跡を調べると、内外陣境は半間外陣側に広げ、背面柱筋を半間後退して奥行を約一間(5尺7寸5分)大きくしていることが判明した。これによって当初の内陣は、奥行が一間(約8尺9寸)と浅く、背面側を三間に間仕切り床式の三つ並び仏壇形式であった。
余間においても両側面を各一間拡張し、床の高さに上げた。
屋根は明治14年(1881)の修理棟札に茅葺から桟瓦葺に変更したと記す。この修理によって小屋組は
茅葺に適した屋根勾配の強い 首組から勾配をゆるくした和小屋に変わった。
平成17年(2007)に行われた解体修理では、当初が茅葺であったことが判明し、桟瓦葺から萱葺屋根に見せかけた銅板葺に変更された。
本堂は、江戸時代中期の一般末寺の素朴で簡素に構成された外陣がそのまま残る。内陣についても、
文化頃に普及した三つ並び仏壇から後門式への改造経過を知ると共に、今後においても部材に残る
痕跡から当初の内陣形式の復原が可能である。奥行の長い平面に妻入、茅葺(防災上から銅板葺)の
惣道場から発展した本堂の経過を知る上で貴重な建物である。」



境内に居られた若い住職が本堂の扉を開けて下さり、本堂の内陣に案内して下さったのであった。
『本堂』の鬼瓦。



『鼓楼、太鼓楼』。



『山門』の屋根を見る。



旧東海道に戻ると左手に案内板が。

光林寺は建長4年(1252)青木民部の開基であり、もと天台宗であったが、
文明9年(1477)蓮西により浄土真宗に改宗した。



『浄土真宗本願寺派 紫雲山 光林寺』寺標。



境内には、奥村志宇の句碑が。



寛政7年(1795)の旧本堂鬼瓦。



『光林寺 本堂』。



本堂に掛かる『紫雲山』の扁額。



光林寺寺標の向かいに建つ道標。
『八嶋寺地蔵堂』と刻まれていた。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.11 16:01:15
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