JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.05.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


『葉山川橋』。



『葉山川)(はやまがわ)』。



『葉山川』を見る。
『葉山川』も、周囲より一段高い所を流れる天井川であり、橋の渡り詰め左に
東海道道標が建っていた。



「東海道道標」。
雑草の中の道標には、「東海道」「上鈎」 「川辺」 「安養寺」と刻まれており、
ここより旧川辺村へ入って行ったのだった。



更に旧東海道を進んでいくと前方左手に『う越菊』と書かれた看板が見えて来た。



『割烹、仕出し う越菊(うをぎく)』。
桜が咲くと美しそうであったが。



右手の民家の玄関には様々な動物の像や仏様?の像が。



『葉山川橋』を渡ってしばらく進むと、右手に『真宗大谷派 圓重寺』が見えた。
『圓重寺』は、延宝4年(1676)光英の開基であるが、その後の寺歴などは不明であると。



『圓重寺』を過ぎると長閑な川辺(かわづら)の町並みが続いていた。
川辺の名前は、川の畔に沿ったことに由来するが、「かわづら」 と読むのは珍しいのでは。



『川辺』の交差点を渡り進む。



栗東市川辺の旧東海道を進む。



川辺信号交差点を過ぎると、左手に『真宗大谷派 養煙山 善性寺』があった。



『真宗大谷派 養煙山 善性寺』寺標。



「善性寺縁起
慶安2年(1649)僧玄龍開基、道場を開き竹林坊と号し、宣和法王より佛像を受く。
正徳3年(1713)二世了悦、木仏安置、寺号公稱を許さる。寛保3年(1743)三世示教、
本堂再建。寛政6年(1794)四世恵観、本堂改修。

シーボルト善性寺を訪ねる
文政9年4月善性寺第五世僧恵教のときオランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの
帰途善性寺を訪ねている。 そのときの見聞 「シーボルト江戸参府紀行」 に
「かねてより植物学者として知られている僧恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、
カエデ等の珍らしい植物を見物せり」 云々とある。」



『善性寺 本堂』。
善性寺は、慶安2年(1362)僧玄龍の開基であり、文政9年(1826)4月シーボルトが
江戸からの帰途、善性寺を訪ねている。



境内にはうす黄緑の花の苗木が。



トサミズキ(土佐水木)の花であろうか?



境内は極めて狭く、窮屈なところに『鐘楼』が建っていた。



左手の路地の角にあったのが『稲荷神社 東海道』道標。
上鈎・手原⬅川辺(かわづら)➡坊袋・目川。



「稲荷神社の由来
伏見稲荷神社に勧請し建立されたもので笠杉、三吉、枇杷大明神の三神が祀られている」



前方右手に朱の鳥居、社殿が。



「稲荷神社
昔から「お稲荷さん」と親しみ崇められており、往時お社を囲うように松の大木が
生い茂っていた。昔東海道の川辺村周辺の交通量は通行人一日二千人、馬四百頭の往来があり
商店も十五軒あったと伝う。商売繁盛を祈願して伏見稲荷神社に勧請して建立、三吉、笠杉、
枇杷の三大明神を祀る。その昔、笠杉大明神は神祇を寄せるため小槻大社拝殿南巽の位置に遷座
されるも再度稲荷に還る。以来川辺村の祭礼当番の際にこのお社前でお神輿をあげるのが慣例と
なる。この稲荷のお守り役は青年会であったが現在は地元有志で「稲荷神社を守る会」を結成し
初午祭やお火炊き祭等伝統行事を奉仕している。」




朱の鳥居。



『社殿』。



『社殿』の『内陣』。



「しんびょうしの霊水
この井戸の水源は金勝(こんぜ)の山なみにあると伝う。
井戸の井筒が二つしかない浅い井戸であるが、古き時代から涸れることなく湧き出し、
夏はことのほか冷たく冬は温かいことから、地元民の飲み水として大変よろこばれ重宝された
ものなり。昔、東海道を往来する旅人達、大名といわず町人にいたるまで多くの人が
この冷水で口をすすぎ喉をうるおし、旅の疲れを癒やす憩いの場として楽しんだものと謂う。
この地が新日吉と呼ばれるようになったのは、参勤交代やお殿様がこの井戸の冷水を飲み
心身とも疲労が回復した喜びから「しんびょうしとせよ」と云われたと伝う。」



「しんびょうしの霊水
「しんびょうしの霊水」は金勝(こんぜ)川の伏流水で井筒が二つぐらいしかないので
水面が浅いことから非常に汲みやすく、その上夏はことのほか冷たく、冬は温かいために
昔から飲料水として多くの人に重宝されてきた。
この道を往来する大名をはじめ、旅人、町人に至るまで旅の疲れを癒したり憩の場にと足をとめ、
このの霊水を飲みながら旅をしたものと思われる。」



竹垣で囲まれた『しんびょうしの霊水』。



『しんびょうしの霊水』を覗く。



小さな社。『しんびょうしの霊水』の守り神であろうか?
ところで「しんびょうし」とは漢字でどのように?そして意味は?



旧東海道に戻り、『金勝川』に向かって歩く。



旧東海道はT字路に突当り、正面に道標が2基建っていた。
前方は『金勝川』の堤防が高く聳えていたが、この川も天井川であろうか?



『道標』 
​↱​ 東海道「川辺 坊袋 目川・岡・新屋敷を経て草津へ至る。」
←中郡街道『川辺・下戸山・上砺山・御園・東坂を経て石部へ延長一里24町26間(約6.6km)
現県道、川辺ー御園線起点」
と下に刻まれていた。



左横面には
「川辺灰塚山古墳群栗太郡史に大友与多君の墳墓とあり、弥生式土器が多く出土。
他に塚が数基あり素焼式大瓶等が出土。栗の大樹を焼いた灰で塚をつくったのが、灰塚山の伝承
(東へ約500m)。灰塚山(砦)跡足利義尚公が六角勢討伐のため東方山安養寺に陣し、
急ぎ築城した砦との推測あり。」
と。



右の道標は、正面に 「東海道 やせうま坂」、左側面に 「金勝寺こんぜ」
右側面に「中仙道でみせ」、 と刻まれていた。ここより旧坊袋村へ入って行く。



T字路を右に曲がると、右手に『浄土宗 延命山 地蔵院』があった。



「皇太神宮の碑
ここ目川地蔵院の境内には天照皇大神宮、八幡大菩薩、春日大明神という銘のある碑があり、
側面には「元禄年間亥年」の刻印がある。神仏混文の時代の名残りであろうが由来は明らかでない。」



『子安地蔵尊』。



『天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神と刻まれた元禄年間の石碑』。



『北向地蔵尊』。



『三界萬霊塔』。



『地蔵院本堂』。



本堂に掛かる『地蔵尊』の扁額。



『本堂内陣』。



本尊の『地蔵菩薩像様』をズームで。



内陣『右の間』。



内陣『左の間』。



見事な『欄間の天女』の彫刻。



『地蔵院』を後にし、『地蔵院』の先で左にカーブし『金勝川』に沿った
旧東海道を更に進む。



左手に 『目川ひょうたん展示・販売』の看板を掲げた家があった。
目川は草津宿に接する立場であり、瓢箪(ひょうたん)は旅人が、お茶や酒などを入れる
容器として売られていたものである。江戸時代中期から明治時代まで農家の
副業的地場産業であった。
店頭には、車輪のついた牛と馬の作り物がビニールで被われて置かれていた。



『​ 目川ひょうたん ​』👈リンク はインターネットで購入できると。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・​​






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Last updated  2020.05.20 08:08:19コメント(0) | コメントを書く


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