JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.05.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





右手にブロック塀に囲まれた遠藤権兵衛家があり、塀の上に案内板があった。
そしてその隣に『平清宗の供養塔』の写真が。



「平清宗
平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。 後白河上皇の寵愛をうけ、
3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。
「吾妻鏡」 に 「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」 とあり、当家では代々胴塚として
保存供養しているものである。                 遠藤権兵衛家 当主 遠藤勉」




『平清宗の供養塔』の本物を見たくて周囲を探す。
欅の周りにはなかった。



この植栽の中ではと近づいたが。



いろいろな碑があったが、写真の『平清宗の供養塔』の姿は見つからなかった。



すると、自宅で今回の『旧東海道を歩く』の予習をした折、この『平清宗の供養塔』の位置を
Google mapで確認し、その場所に行くには横の道を進み、右に折れ民家の裏のごく狭い路地を
進むことを思い出したのであった。
そしてその通り、入って良いのかと思いながらも敢えて狭い路地を進んでいくと
『平清宗の供養塔』が姿を現してくれたのであった。



「清宗塚
文治元年(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(8歳)は入水。
平氏の総大将宗盛・長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の
行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて
宗盛の首を刎ね、本地に於いて清宗の首を刎ねる。
清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向かい静かに手を合わせ、
掘弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年6月21日の事、清宗ときに17歳であった。
首は京都六条河原にて晒される。
平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。 時を経て義経は平家一門を滅ぼし、
又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三一歳で殺される。
夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。」



「庭の奥にある覆屋の稲荷社」。



先に進むと、街道が右にカーブする手前左手に真宗大谷派の『玉川山 浄泉寺』があった。
『真宗大谷派 玉川山 浄泉寺』寺標と『山門』。



『手水舎』。



境内からの『鐘楼』。



『浄泉寺 本堂』。
 浄泉寺は長禄4年(1460)円実による開基である。
野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、
法号を円実と賜わっている。



「玉川山浄泉寺縁起
長禄四年、本願寺蓮如上人東国へ御巡化の途次、野路城に入り遊ばさる。城主黒川駿河守宗次、
上人に鄭重に供応し奉り、今宵は名に逢う九月十三夜なれば、草生い繁る篠原の月を御覧ありて、
御心を慰め申しければ、上人限りなく悦び遊ばされ、
「玉ほこの 野路の篠原分け行けば 名に逢う月を 常不住に見る」と一首の御詠歌遊ばし、城主
宗次を側に召して誠に人間の世は空行く月の如く敢えない仮の宿なり、されば只々阿弥陀仏の
本領に帰命し安心決定も専ら佛を念ずべし と御化導を教教なし給え 上人の御教化こそ悉く覚え
今宵こそ千遇の縁ぞと慶喜しあわれ御弟子となし給はり 佛恩を報じ奉りたき旨懇願申し上人より
剃髪を戴き得度し法号を圓実と賜り浄泉寺開基となる。親鸞聖人御真筆大品十字名号 蓮如上人
御筆六字名号を賜る。然る後十禅念佛三昧道場を改め玉川山浄泉寺の寺号を恩許遊ばし○に
一字の浄刹となれり。」



本堂に掛かる『玉川山』の扁額。



『本堂』の鬼瓦。



『鐘楼』。



『石灯籠』と『十三重塔』。



『ようこそ南草津「遺跡と萩の育むまち野路」の玉川へ』



『浄泉寺』の直ぐ先左手筋に新宮の鳥居が建っており、鳥居を潜って100m程進むと左手に
『新宮神社』があったがこの日はパス。



『新宮神社』社標。
その後ろに文政8年(1825)の『常夜燈』が。



一の鳥居の先にある『地蔵尊群』



『新宮神社 拝殿』。
天平年間(729~749年)に行基によって創建されたといわれていると。
付近の住民からは別名、野路神社と呼ばれているそうです。


   【 http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/kusatsu/singu010/noji.html 】より

旧東海道に戻ると右手に寺標があり、奥に進むと長屋門の山門の
真宗大谷派の『白萩山 願林寺』があった。



『膳所城』の『長屋門』を移築した『山門』。



本堂前に枝を張る松。



『親鸞聖人像』。



『鐘楼』。



『願林寺 本堂』。
願林寺は永正9年(1512)祐正による開基でであり、ご本尊は阿弥陀如来である。



本堂に掛かる『白萩山』の扁額。



本堂前に枝を張る松を別の角度から。



『十三重塔』。



旧東海道道に戻ると右手筋門に『野路在郷軍人用地』碑が。
この付近は野路という地名であり、この辺りに在郷軍人の用地があったようである。
在郷軍人は郷土に在住する軍人・団体で、普段は民間人として何らかの生業につき、
必要に応じて召集されたのだと。



更に旧家が点在していた南草津の旧東海道進む。



先に進むと右手にレンガ造りの『地蔵堂』が、何故か旧東海道に背を向けて建っていた。
地蔵堂内には白くお顔を着色された5体の地蔵尊が安置されており、『子守地蔵尊』と
呼ばれているようであった。
ネットサーフィンしていると、
こんなページ( https://ameblo.jp/wanganwalker/entry-12550858032.html ​) に遭遇。
「右手前方に赤レンガの構築物がありました。後ろから見るとゴミ置き場のようですが、
前に回ってみると、中に「子守地蔵」と呼ばれる五体のお地蔵様が並んでいました。
江戸時代のこと、参勤交代の行列の際道端で土下座していた母と息子の前にカブトムシが
飛び出し、それを取ろうとした男の子が行列を乱したため、二人とも切り殺されしまいました。
「子守地蔵」が中山道を背にして立っているのは、子供を守れなかったのが
理由でしょうか。」と。



そして更に先の右手にも小さな祠が2社並んでいた。
この付近がこの後訪ねた『野路萩の玉川』の湧水場所であったようだ。



旧東海道を進んで県道43号線を越えると『萩の玉川遺跡』と書かれた案内板が姿を現した。



民家の車庫の奥のにも小さな社が鳥居もついて。



右手に『野路萩の玉川』があった。
野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような
綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた。
ここには復元された湧水があり、往時の姿を偲ばせているのであった。
正面には『玉川』碑があった。
源俊頼の歌碑で『あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり』と。
しかし、現在は泉は枯れポンプに依る循環式になっていると。



「野路萩の玉川
「野路 」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅 として栄えた所である。  
源平争乱の時代ここ野路は、數多くの武将の宿陣となり時には火に包まれ若い命が消え去った
地とも伝えられる。ここ萩の玉川 は多くの歷史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり
都から公郷、貴族、詩人等しばしばこの地を訪ね景勝をめでて、多くの詩歌を詠んだ中でも
千載集 (1188 年)所載の源俊頼 の作「あすもこん 野路の玉川萩こえて 色なる浪に 月やどりけり」は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記 (阿仏尼 作)には「のきしぐれ ふるさと思う袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」と詠んだ。十禅寺川 の伏流水が清らかな泉となって湧きいでてあたり一面咲匂う萩とあいまって、
その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵 によく描かれいつの頃か
歌碑も建てられた。その後野路宿が草津宿に移り、次第に玉川も亦さびれる運命となった。近年は泉も涸れ形も 小さくなり、風情は一変した。かっては天下の名勝萩の玉川もわずかに
残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住氏は、野路の象徴である
この由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を
行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次来である。」



「古き宿駅 野路駅の名残り
野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名を
みせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、
宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にも
あたり、交通の要衝として重視されていた。
さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりは、日本六玉川の一つとして
古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
『千載和歌集』の源俊頼の歌に
  あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、『近江名所図会』や歌川広重の
浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされて
くるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺など多くの歴史遺跡が
所在する。」



『野路 萩の玉川』碑。



『野路 萩の玉川』碑の奥にあった社。



復元された『萩の玉川』。



別の角度から。



萩の玉川隣の民家脇に安置された『地蔵尊』。



旧東海道を更に進むと『弁天池』に突き当たり、浮島に向かって細い橋が架かっていた。
東海道名勝として名高い弁天池。野路は平安から鎌倉時代にかけて宿駅として、戦略拠点として
栄えて来たと。しかし、東海道の宿駅として草津ができると衰退していった地域でもあると。



この橋は浮島に架けられた『浄財弁財天参道橋』。
真ん中が太鼓橋のごとくにこんもりと盛り上がっていた。



橋の左にあった『弁天池常夜燈』。



『浄財弁財天参道橋』の渡り詰めの鳥居。



『弁財天覆屋』。この弁財天社は琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天が祀られているのだと。



『境内社』。




                                                                                        ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.21 10:26:46コメント(0) | コメントを書く


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