JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.07.06
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
​【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】​
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

鎌倉市寺分地区の散策を続ける。
「大慶寺」のすぐ先、左手奥にあったのが「駒形神社」そして石鳥居。
鎌倉市寺分1-10-12。



急な石段を上って行く。



階段の上の境内正面に「拝殿」。
祭神は、駒形大神(こまがたおおかみ)ということになっているが、地元では邇々芸命
(ににぎのみこと)と伝えられて来たと。古くより、農業の神として崇められ、治承年間、

境内には、1822年(文政5年)の造られた弁財天(やぐら内)や、富士信仰の名残の石塔が
置かれている。江戸時代までは、本尊として千手観音が安置されていたというが、
現在は、中国風木造人形七体と木造神馬が安置されている。
かつては、東光寺の管理下にあったという。



「拝殿」の奥に「本殿」。



右奥に稲荷社、手前にやぐら内の弁財天。



弁財天像、文政5年銘。



ズームで。



そして更に南に進む。



右手に「 東光寺」と書かれた案内柱が。



「高野山 真言宗 東光寺」。







境内の「聖観世音菩薩像」。
平成19年8月建立。門前の蔵のある家の者が30代の若さで亡くなられそれを悲しんで
建てられたもの。



「南無大師遍照金剛」と書かれた赤い幟が並ぶ。



「太子堂」。

創建は永享3年(1431年)と言われ、中興開山は法印霊範である。高野山慈眼院の法印霊範が
隠居所とした寺と伝えられている。また、本尊不動明王は、智証作と伝わる。



扁額「東光寺」。



「太師堂」前の「弘法大師ご修行像」。



「四国八十八ケ所 お砂踏み霊場

納めさせて頂きました。「南無大師遍照金剛」とお唱えしながら、発心の道場 修行の道場 
菩提の道場 涅槃の道場と、時計廻りにお詣り下さい。そして本四国八十八ケ所霊場遍路行と
同じ御功徳を頂いて下さい」



「やぐら」。



「やぐら」内の石仏、庚申塔群。



「岩壁家之墓」。



「水子地蔵尊」の奥に「探し大師」。
相模国十三番札所の弘法大師坐像。探し物が見つかるのだと。



「六地蔵」。



ここにも「岩壁家」の墓が。
この寺の近くの旧家なのであろうか?



「弘法大師御入定千百五十年御遠忌供養塔」。



白のアジサイ。



そして次に訪ねたのが「梶原 御霊神社」。



「一の鳥居」とその奥に「二の鳥居」。



「二の鳥居」の先に「石燈籠」と「社殿」。
燈籠の台座に遊ぶ狛犬が刻まれていた。



「拝殿」と「狛犬」。



「御霊神社
鎮座地 鎌倉市梶原一丁目十二番二十七号
御祭神 鎌倉権五郎景政霊
由緒
御祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し
安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052)時の人始めて鎌倉権五郎景政に
御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。
後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190)九月
梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。」



向かって左側の阿形「狛犬」。
牡丹?の花を咥えてしかも子連れ。



右側の吽形「狛犬」は何も咥えていない?



「拝殿」。



この石碑には何と?
再び親友から「堅牢地神」ではないかと。
「堅牢地神」は大地をつかさどる地神で、大地が万物を載せて堅固不動であるところから、
堅牢の名がある。万物を生育し負載するはたらきを神格化したものであるようだ。



「本殿」への石段。



「青面金剛童子碑」。



「本殿」。



「陸軍歩兵一等卒勲八等安田定吉之碑」
日露戦争に従軍し、明治37年8月22日に寺児溝西北髙地にて戦死した安田定吉さんの慰霊碑。
有志らによって明治40年2月に建立されたのだと。



「梶原景時の墓」
梶原景時は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。石橋山の戦いで
源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、
武家百人一首にも選出されている。頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」
「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった
「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、
一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変) とウィキペディアより



そして「梶原 御霊神社」を後にし、「新川」沿いを柏尾川に向かって進む。



右手にあったのが「鎌倉市立深沢小学校」。



「新川の由来
この川は潅漑用水路として開削されたものです。
昭和十五年深沢村の中央に西方の柏尾川へ注ぐて五キロメートルの水路が設定されました。
元より主として柏尾川、大塚川、笛田川の三すじの水系に頼ってきた耕地ですから、
この「新川」の誕生はその後の農作業に大きな潤いをもたらしました。
土地の提供や取水方式への合意など地域の人々の共同する心が整わなければ成し得ない
大事業であったと思われます。
深沢耕地は東部の山里から西へど潅水がゆきわたり稲作への貢献度は絶大であったと
推察できます。深沢尋常高等小学校の生徒たちの中には、この開削事業に「川底固め」のために
参画した例もあったと聞きます。それほどに地域社会の悲願だったとも言えるわけでこのエリアの
人々の熱意や気概を伝える「新川」でもあります。」



「湘南モノレール」下を潜る。



「湘南モノレール」
路線距離(営業キロ):6.6 km
方式:懸垂式(三菱サフェージュ式)
駅数:8駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(直流 1500 V)
閉塞方式:自動閉塞式
信号保安装置:ループ式ATS
交換可能駅:4駅(富士見町、湘南深沢、西鎌倉、目白山下)
最高速度:75 km/h




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2021.08.01 20:50:33
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