JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.03.26
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そして次に訪ねたのがスーパーTAIGA 岡津店の前にある「西林寺」。
横浜市泉区岡津町1432。



「浄土宗 亀鶴山 一心院 西林寺」寺号標碑。



掲示板には
「冬のあとに 春は訪れ 闇の向こうに 光は見える」と。
「冬」を「コロナ」と読み替えられる日を待ちたいと。



入口左にあったのは「西林寺」の「斎場」のようであった。



「枝垂れ桜(シダレザクラ)。
樹齢百六十年といわれ四月の花祭(八日)ごろ美しい花を咲かせます。

それを花の下の和歌と呼んでいます。」



春には・・・・!!!。


      【https://4travel.jp/travelogue/10871200】より

「本堂」。
本尊は、約一四五cmの座像の阿弥陀如来で、安永五年(一七七六)、品川願行寺十五世
檀誉性善作といわれている。戸塚区郷土誌(昭和四十三年刊)によると、西林寺は、
長禄四年(一四六〇)の開創で、開山は、慶運寺開山聖観の弟子で、新橋町の中丸氏から出た
円蓮社団誉閑悦といわれている。
開創当初は、念仏堂であったが、三世称念によって一寺になったということである。
この称念も新橋町の中丸氏の出身で、左衛門尉道昭の子で、晩年には浄土宗本山知恩院の山上に
一心院を開いた捨世派(しゃせいは)の鼻祖(びそ)である。

江戸時代の後から明治初期にかけて寺子屋「不及庵稽古所」を開き、明治六年に開校した小学校
「岡津学舎」の先生をした原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」や西林寺住職で寺子屋の師匠を
していた栄隆の筆子塚がある。
また、境内には「ほしのや・ぐみょうじ道」の道標を兼ねた出羽三山供養塔がある。








「本堂 内陣」をネットより。


    【https://4travel.jp/travelogue/10930050】より

豪華な天井。


       【https://4travel.jp/travelogue/10930050】より

「亀鶴山一心院西林寺
長禄四年(一四六〇)中丸左衛門尉定昭が神奈川宿慶運寺音誉聖観上人(増上寺第三世)の
弟子団誉閑悦上人を招き、藤沢道に沿った向い山=天台山(通称首切山)の麓に建立したのが
西林寺の初めです。
徳川家康の側女於万の方は岡津の人で、代官頭彦坂小刑部元正の推挙によって大奥に仕えて
いましたが、四十歳のころ辞任したのち清源院尼と称し、竹の鼻に草庵を設けて住んでいました。
その後戸塚に清源院を建て移住した跡地に移転したのが、今の西林寺です。
三世称念上人は浄土宗捨世派の派祖で、京都知恩院の南隣に一心院を建立したり、知恩院の
御影堂に屋根瓦をのせるために努力した高僧です。
本尊は阿弥陀如来で、浄土宗です。」



原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」。



「原田由右衛門の頌徳碑
原田由右衛門は江戸末期に寺子屋師匠をつとめた人で、この碑は筆子中が建てたものです。
筆子とは教え子ということです。
明治六年(一八七三)はじめて岡津に小学校が建てられた時には、一年間だけですが先生に
なっています。そのあと継いだのは西林寺二十九代目の住職であった栄隆和尚で一時小学校は
西林寺の本堂を使用していましたが、のち岡津橋のたもとに移されました。
そのとき教師になったのが宮本臻でした。」



「文殊菩薩像
学問を身につけ、知恵を授けて下さる仏さまといえば、『三人寄れば文殊の知恵』といわれて
いますように文殊菩薩です。右手に剣を持っているのは知恵をみがくという意味が左手に
本(経巻)を持っているのは、本には知識がいっぱい収まっているということをあらわして
います。
獅子は百獣の王といわれ、その獅子ですら知恵にはかなわないというのです。
知恵の方がより勝っているのです。
住職智誉俊雄上人は、平成四年の春、文学博士の学位を得られました。そのとき檀信徒や
有縁の人たちからいただいた祝金をもとに、上人の発願によって『学問や知恵の仏さま』である
文殊菩薩を建立いたしました。
原型は日展会員田端功一、鋳造は佐脇義光、仕上は矢木紀行、着色は立川善信諸氏の優れた
技能によって造られたものです。
学問は巾広く生涯を通じて大切なものです。仏さまは皆さんの願いごとを聞いて下さいます。
合掌してお詣り下さい。」。



ズームして。



「観音像」。



「観音像
昭和五十五年七月皆さんのご協力によって造立されたもので台石の下にはアメリカ・イギリス・
フランス・チェコスロバキア・ロシアをはじめ、各地の知人から平和を祈っていただいた石が
納められています。
観音さまは三十三の姿に身をかえ・人びとに楽しみをあたえ・苦しみを取り除いてあげようと
白夜のぞんでおられる仏さまです。
観音さまにお願いすれば、水火・刀剣・悪魔・怨霊などの難から逃れ重い病気もまた軽く受ける
ことがてきるのです。」



「石仏」(左)と「徳本上人の名号塔」(右)。



「徳本上人の名号塔
徳本上人は徳本行者ともいい紀伊国(和歌山県)の人で全国にお念仏を弘めて歩いた高僧です。
文政二年(一八ニ一)十月西林寺の檀家の人は神奈川宿の慶運寺まで行き教えを受けました。
その人たちの名前が台石に刻まれています。」。



「地蔵尊」。



「六地蔵」。



「地蔵菩薩
地蔵菩薩はお地蔵様と呼ばれて親しまれています。
お地蔵様は境内や墓地の入口あるいは辻なのに建てられています。
地蔵様の建てられているつじ辻が六道の辻です。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・
天上のことで、お地蔵さんの建てられている所までが六道、苦しみの世界なのです。
それを越えると仏の世界です。仏の世界に導かせようと案内している仏が地蔵さんですから
お地蔵さんの前でも阿弥陀さんのおられる本堂の前で手を合わせたように、手を合わせ
幸せが得られるようにお願いしましょう。」



「鐘楼」。



「梵鐘」。
昭和57年(1982年)銘が。



「角柱型出羽三山供養塔」
正面-「月山 湯殿山 羽黒山供養」
道標:東-「かまくら ぐみょうじ道 江戸」
   西-「あつぎ ほしのや 八王子道」
「弘明寺道(ぐみょうじ道)」とは、東海道の保土ヶ谷宿から弘明寺観音を経て鎌倉へ通じる道
として利用されていたと。
「ほしのや」は座間の「ほしのや観音」のことであると。



「本堂」を斜めから。



「老松」。



「老松
宮内庁植木職の調査によりますと盆栽仕立てとして植えられていたものが、植木鉢では
たえられなくなって大地に植えられたもので少なく見積もっても五百年はたっているだろうと
言うことです。」



「西林寺」を後にして、「阿久和川」まで北に進み「堂の前橋」を渡る。



下を流れる川は「阿久和川」。



そして民家のフェンスの奥に石碑を発見。



「光背型双体道祖神塔」。



そして横浜共立鋼業の先、左奥にあった小さな社。



「社」の名前は?「稲荷社」であろうか?



「社」の裏には「阿久和川」に流れ込む小川があった。



再び「阿久和川」まで戻る。
前方に「新岡津橋」。



「新岡津橋」を渡る。



川にたくさんいる「鴨」をデザインに入れていると。



「新岡津橋」を渡り50mほど真っ直ぐ進むと左手高台にも神社があった。



階段を上がると新しい石造りの社殿の姿が。



「稲荷社」。
横浜市泉区岡津町1529-2。
地面もすべてコンクリートで固められ、新しくなり過ぎたという印象。
ここは泉区岡津町の、かつて中川村と呼ばれていた地区でこの辺は
昔の大山道の街道沿いでもあったのだ。
東海道の戸塚から大山を目指してここを歩いたのであろうが・・・。



そして「稲荷社」の前の急な坂道を上っていくと、右手に白壁の塀が現れた。
この近くに「白山社」があるのであったが。
手前のネットフェンスの入口は施錠され閉まったいた。



隙間に手を入れ、感でシャッターを押したが。
先に木製の「社殿」が写っていたが、これが「白山社」なのであろうかと。
横浜市泉区岡津町1552。



そしてその先左には「ルネ戸塚弥生台」が。
岡津町に建つ、1989年10月築、RC造地上10階建、総戸数238戸の大規模マンション。
横浜市泉区岡津町1500番2号。





                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2021.05.25 16:22:51
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