JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

日本100名城山中城の… New! オジン0523さん

半つる性のバラ、大… New! 隠居人はせじぃさん

【公園のパーゴラ下… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2021.03.29
XML
「永明寺別院」を後にして「柏尾通り大山道」を西に進む。



「永明禅寺」の裏山に沿って進むと、左手の荒れ地の奥の高台にあったのが
大きな「​ 忠魂碑 ​」👈リンク。
「旧中川地区出身各戦役戦没者諸英霊荘厳菩提供養塔」と刻まれた石柱が「忠魂碑」の前に。
「忠魂碑」の左側に「戦没者芳名碑」そして「旧中川地区出身戦没者名碑」があった。
この敷地は岸井家によって寄付されたと。
神奈川県横浜市泉区岡津町1574 岡津公園。



「岡津公園」の前の家の表札も「岸井家」。




柏尾通り大山道は、東海道の前不動(柏尾)から岡津の永明寺別院前の大山道道標前を経て、
大山へ向かい、西田谷(にしだやと、現、桂坂)で坂道(男坂・女坂)へとつながる道です。
「上り 大山道・下り かしを道」と刻まれた道標になっている地神塔は、坂の上り口に
立っていましたが宅地造成のとき現在地に道されました。地神塔の立っている前の土手
(現在は住宅)にあった庚申塔などは、現在、中川地区センター駐車場横にあります。
また、周辺には製糸場もありました。    泉区役所」



2基の庚申塔が左手に。



左:駒型双体道祖神・・1813(文化10)年
右:角柱型文字「地神塔」・・文字「秋葉大権現」「庚申供養■■ 巳待祭神」



「桂坂公園」内を歩く。



「領家西側」交差点を左折して進む。



「西田・領家土地区画整理事業竣功記念之碑」が道路沿いに。



その周囲の石碑群。



そして左に折れて進んだ所の左手高台にも朱の鳥居の先に石碑群があった。
横浜市泉区岡津町1294-3周辺の領家谷(りょうけやと)地域。



正面に朱の鳥居と小さな「社」が。



左手に丸彫双体道祖神・・1794(寛政6)年と石灯籠。




角柱型文字「庚申塔」・・1859(安政6)年
唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+三猿・・元禄??(1688~1704)
角柱型文字「庚申塔」



左から
角柱型文字「猿田彦大神」塔

笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+日輪月輪+三猿



その後、南下した後「弥生台駅」方面への道を進む。
左手にあった「老人福祉センター横浜市泉寿荘」前を通過する。
横浜市泉区西が岡3丁目。



そして「浄土真宗 本願寺派 西恩寺」に立ち寄る。



「龍王山 西恩寺」掲示板。



「本堂」。
宗派は浄土真宗本願寺派に属す。
通称西本願寺、又は「お西」と言われています。東京で言えば、築地本願寺と同じ
宗派になると。
ご本尊は阿弥陀如来。



「特別養護老人ホーム恒春ノ郷」の美しい生け垣のある坂道を上って行く。



そして「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」に到着。
横浜市泉区中田北3丁目42-1。



神社の前の河津桜も満開に近かった。



見上げて。



中田町御霊神社の鳥居横に石碑が建っていた。
「この碑の建つ土地は大正七年に当時御霊神社総代人であり、また同碑建立世話人であった
小山良作氏によって寄進されたもので、このたびの参道改修に際し嫡男小山俊雄氏の赤誠に
より、整備された。後世のために之を誌す。
昭和五十乙卯年二月吉日 宮司 宮本忠直」と刻まれた石碑。



「​ 宮本湊(いたる)先生頌徳碑(しょうとくひ) ​」👈リンク。
中田の子弟の教育に尽力された中田学校教師宮本湊の頌徳碑である。



「御霊神社
戸塚区・栄区・鎌倉市域の御霊神社と同しく鎌倉権五郎景政を祀った神社で、昔から
中田のごりょう様と呼ばれていました。明治の廃仏毀釈前は宮司家の東端に実相院の不動堂や
護摩堂がありました。保安林に囲まれた石段下の弁天池は村岡川(宇田川)の源流になっています。
池の前の庚申塔は、区内最古のもので、地域文化財に登録されています。
鳥居横には、中田の子弟の教育に尽力された宮本湊先生の頌徳碑があります。 泉区役所」



「御霊神社 石鳥居」。



扁額「御霊神社」。



社号標「村社 御霊神社」。



参道を進むと掃除中のおばあちゃんの姿が。



右手にあったのが「弁天池」と「厳島神社」。



「弁天池」の傍らには石碑が建ちそこに「弁天の湧水 村岡川源流」と。
村岡川とは宇田川の別名。弁天池に湧いた水は流れ出て宇田川となって
境川に合流し相模湾に流れ出るのだ。



「弁天池」のすぐわきに「ふどうばし」がかかり、そこにも「村岡川源流」と記されていた。



「手水舎」。



「石造庚申塔」が左手に。
泉区内で最も古い庚申塔といわれていて、横浜市指定有形文化財に指定。



「横浜市指定有形文化財(石造建造物)
石造庚申塔
指定年月日 平成十三年十一月一日
所有者 宗教法人 御霊神社
所在地 横浜市泉区中田北三丁日三三六五番地
時代  江戸時代 寛文六年(一六六六)在銘
法量  総高一〇九・〇 cm
     笠高  一八・〇cm 巾四四・〇cm 奥行き三九・〇cm
     塔身高 六六・五cm 巾ニ七・〇cm 奥行きニ五・五cm
     台石高 ニ四・五cm 巾五三・五cm 奥行き四七・〇cm
形状  角柱笠塔婆型
員数  一基
この塔は、横浜市域に所在する庚申塔の中でも古く、方形の台石の上に角柱の塔身を立て、
笠を置く角柱笠塔婆型で、台石の上部には、コの字形の池をめぐらし、正面の左右に円形の
半島をつきだし、花立を造っている。
塔身の四面には、南無河弥陀仏の名号が刻まれ、正面には耳をふさいだ猿、向かって左側面には
ロをふさいだ猿、右側面には目をふさいだ猿がそれぞれ浮き彫りにされている。」
平成十四年三月 横浜市教育委員会」


「庚申塔(大山道道標)」。



「この庚申塔は、今から百五十九年も前の嘉永六年(一八五ニ)に、根下集落の庚申信仰集団
(根下講中)の人たちによって、中田東ニ丁目一六九七番地先の大山道(旧長後街道)と
柏尾道(戸塚を経由せず白百合を越えて江戸方面への近道)の分岐する道端に建立されました。
道路の北側に南向きで建立されましたから、「右 とつか道」、分岐の「東 かしを道」、
また反対方向の「西 大山道」と、碑面の左右に記され、庚申信仰の対象物だけでなく、
道案内(道標)も兼ねています・
今回、今までお祀りされていた場所が開発によって鎮祭が不可能となったため、現在の根下講中
及び向根下自治会の人たちが相談し、鎮守様、御霊神社参道のこの地に遷座しました。」


「狛犬(右)・阿形像」。



狛犬(左)・吽形像であるはずだが・・・。



「社殿」。
御祭神:鎌倉権五郎景政(かまくらげんごろうかげまさ)
    平安時代後期の武将、相模国鎌倉の領主、後三年の役で右目を射たれながらも
    奮闘した勇将、関東平氏五家(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)のひとつ
「社殿」は享保11年(1726)に再興されたといいます。しかし関東大震災で倒壊し、
その主要部分を再利用し翌大正13年9月に現在の本殿が再建された。
さらに昭和7年に拝殿、渡殿など新築され、社殿となっている。



扁額「御霊神社」。



「神楽殿」。



「敬神崇租(けいしんすうそ)」碑。
神を敬い先祖をあがめる、 尊いものとしてあつかうこと と。
「敬神崇祖」 の四文字熟語は、 第二次世界大戦(太平洋戦争)までは国語辞典に記されていたとの
ことですが、 戦後教育において“政教分離”のもとに、現在、国語辞典には掲載されていないと。



社殿の向かって右側に境内社が並んでいた。
「矢並稲荷社」「大日大聖不動社」「日枝山王社」「金比羅社」、石廟数基。

境内社「矢並稲荷社」。



扁額「矢並稲荷」。



「矢並稲荷」の「社殿」。



境内社「大日大聖不動社」。



「???」。



境内社の「日枝山王社と金比羅社」。



境内社「石廟」。



「御神木」。



「神輿庫」
横浜市最古の木造学校建築物であると。



「お知らせ
この建物は大正十五(一九ニ六)年六月に、中和田小学校の奉安殿(その頃の学校では、
主要行事が行われるときに、講堂の正面に、天良皇后両陛下のお写真をお飾りした。
また、主要行事が行われるときには、校長先生が教育勅語を奉読して子供たちに聴かせ、
その情神を伝えた。お写真は普段は取り外し、教育勅語と一緒にこの泰安殿に納めて置いた)
として建てられたもので、横浜市最古の木造学校建築物となりました。
平成ニ十六年ニ月の大雪で、上部の楠の技か折れて瓦屋根が壊されました。
先ごろ、瓦下地の木工事や高価な特注の鬼瓦や平瓦を焼いて、修理が終わったばかりです。
この建物には現在お祭りの時に使う、大人用と子供用のお神輿が納められています。」



「御霊神社幼児園」正門。
地域の鎮守さまの「御霊神社」が、昭和43年4月に境内の続きに開園したと。



帰路の参道横にあった「石塔」。
これも庚申塔であろうか?



「山岳信仰碑と起立講遥拝所(きりゅうこうようはいしょ)」
本社鳥居前の右手に石段が山を上って行く。この石段の上り口に建つ石柱には
「木曾御嶽神社」とあった。この石段を上ると起立講(きりゅうこう)の
御嶽山遥拝所(おんたけさんようはいしょ)に至っる。各地に残る山岳信仰の場の一つ。
遥拝所には山岳信仰碑が立ち並んでいた。向かって左に板石碑が建ち、「國常立尊」
(くにとこたちのみこと)、「三笠山神社」、「御嶽山神社」、「八海山神社」と刻まれて
いた。その右わきに、大黒天像がありその台座には「起立講中」と刻まれていた。
その右わきに板石碑が建ちそこには「神武天皇白川神社」と。
起立講とは木曾の御嶽山を信仰する山岳信仰をおこなう集まり。
この御嶽山遥拝所でお参りし、また木曾の御嶽山に登りお参りをしていたのだと。





                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.05.25 16:24:09
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: