JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.04.17
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カテゴリ: 大和市歴史散歩
【大和市の神社仏閣を巡る】目次

「徳善寺別院 全通院」を後にし、「環状4号線」の歩道橋を渡る。



「環状4号線」の相鉄線「瀬谷駅」方面を見る。



「相沢川」を渡る。



「相沢川」の下流側を見る。
この先で1500m程で「境川」に合流するのだ。



橋の名は「東橋(あずまはし)」。



「下瀬谷公民館前」交差点を左折し「さくら小学校北側」交差点を渡る。



「横浜市立瀬谷さくら」小学校。
入口付近の非常用階段?の壁も桜色。







橋の名は「宮久保橋(みやくぼばし)」。



「境川」。



「境川」の上流側。



白き流れ。



オオバン(大鷭)であろうか?



そして「境川」沿いを上流側に向かって歩き、「宮久保1号公園」の手前を
左に折れると前方に神社が。



「渡邉組稲荷神社」。「三貫目稲荷」とも呼ぶようであった。
大和市上和田2390付近。



狛犬・阿形(右)。



狛犬・吽形(左)。







「社殿内陣」。



境内には「水神 地神塔」が。
「渡邉組稲荷神社」の名前の「渡邉組」が何故か気になったのであったが、ネットからは
明らかにならなかったのであった。



そして「宮久保1号公園」裏側を通過。




「かながわのナショナル・トラスト2号緑地」
久田緑地について
この緑地は線地東部を流れる境川のゆるやかな河岸段丘に沿って
約1キロ伸びる樹林地で、近代以前から人々の生活に必要な燃料や
木材なとを供給するために大切に扱われてきました。
現在では土地所有者の協力により雑木林や人工林、竹林なと様々な環境の中で、多種多様な
動植物が生息する自然生態系の保全が図られ、樹林地と周辺の畑や屋林が織りなす農村景観が
雅持されています。」。



様々な樹木が生い茂っていた。



キクザキリュウキンカ(菊咲立金花)に似ているが。



薄いピンクの八重椿。



そして「神奈川県道45号丸子中山茅ヶ崎線」を小田急江ノ島線方面に向かって坂道を進む。



左手奥にあった小さな社。



「内陣」。「豊川閣寚牘守護攸」と書かれた豊川神社の御札が中に。



道路の拡張工事が行われていた。



「県道45号(丸子中山茅ヶ崎)事業案内」。
幅員 27.0m 、事業延長 約1.0km の4車線化工事のようだ。



そして左に折れ進むと「上和田左馬神社」入口手前にあった石碑群。



「念佛供養塔」。



「庚申塔」
文政六年(1823)
正面:《青面金剛立像(合掌六臂》《日》《月》《三猿》
左面:相州高座郡上和田村 施主 神谷平兵衛



右面:文政六癸未十一月吉日



地蔵尊?



「文字庚申塔」。



「山王大権現」碑。



「地神塔」
お顔は損傷しているが、両手で盛り花を持っていると。
「地神右面に供養 相州和田村久田村中」左面に「寛政三辛亥十月吉日」と彫られていた。



角柱? 「□田彦大神」・道標 造立年不明 11月
右側面「□□・・年十一月吉日 上和田 講中」
左側面「西あつぎ 東ほしのや 道」



「青面金剛立像(合掌六臂》 《三猿》」安永八年(1779)。



左面:安永八亥年九月吉日 庚申供養。



右面:右 ほしのや道 久田村中。



反対側から再び。



そして「上和田左馬神社」入口。



社号標「左馬神社」。



「左馬神社
一、御祭神 左馬頭義朝
一、鎮座地 大和市上和田一一六八
一、例祭日 九月二十四日
由緒
宝暦十四年三月、桃園天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門・
小川清右門この地に宮を建立。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神道場と
なるや漸次庶民の崇敬の的となり文化三年四月三日、上和田信法寺十四世
住職憧与上人、氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたるや、其の
御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与う。
以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬者多し。
尚、境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斉し、
国土安穏氏子崇敬者の安泰(疫病、痘瘉、厄除)守護を念ずる参拝者今尚多し。
境内三社殿
御祭神 天照皇大神(中央)
    神武天皇(向かって右側)
    須佐之男命(向かって左側)」



「鐘楼堂」。
「鐘楼堂」は昔からの藁葺で破損も進み見苦しくなったため、昭和四十七年九月二十四日
改築され現在に至る。



「梵鐘」。
庶民の平和を願う神鐘は、文政十一年九月上句の作と伝えられている。
この神鐘は昭和十八年第二次世界大戦の際に軍部の命令により供出を余儀なくされた。
そして終戦後、昭和二十八年頃社会情勢が落ち着く頃、昔懐かしき平和の鐘の音を
取り戻したい氏子の願いにより、昭和二十九年春に現在の神鐘が鋳造されたのだと。
神鐘の局さ 120cm
直径      60cm
重量           301. 5kg
なお、文政十一年九月作の神鐘の彫字は戦中供出する時点に書写され原文は次のように
記されているのだと。
掛畏左馬大明神者相陽鎌倉高座之鏡平流川遷左右仁宮柱太メン敷立七箇所之内に鎮り坐す
ー側の御神と而霊験殊に新たに然往右当社有之所鐘中津猶今般氏子致円情御当主御武運切中
蒼生子々孫まで安全祈耳

千早振神遷綿娯
民分双方琉馬斯
安占廼丹戻稲之
甫苔細< 夫>楼徳門



神楽殿と神輿殿(八坂神社お仮屋)。



「鐘楼堂改築紀念碑」。



「手水舎」。



「社殿」。
周辺12箇所のサバ神社のうち、上和田、下和田、高倉、今田、下飯田、上飯田、瀬谷の
7つのサバ神社に参拝すると厄除けとなるという、「七サバ参り」という信仰があり、
この神社もその7社のうちの一つ。
この地区には数えで13または14歳の男子が地区内の家々を回り、無病息災を祈願しながら
鉦を鳴らす「ジャンジャン講」という伝統行事が今も残っており、この神社はその出発点となる。



屋根の「社紋」は「笹竜胆」。



扁額「左馬社」。



「社殿」から境内を見る。



「八坂神社」(三社殿)。
境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命の三神を奉斎したもので、国上安穏と
氏子崇敬者の安泰(疫病、痘癒、厄除)の守護神として崇敬されてきている。
この社殿は昭和五十一年に改築されている。




向かって右側が神武天皇、
中央が天照皇大神、
向かって左側が須佐之男命 
が祀られている。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.09.05 06:03:30
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