JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.11.26
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カテゴリ: 海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次





ここにあったのが「有馬水道記念碑
海老名町旧有馬地区は往時から良質な地下水が存在し、井戸水が滾滾と湧く自然水の恵みに
浴してゐたのであるが社会開発の進むにつれ急速に枯渇しはじめ日常飲料水にもこと欠く
事態となり。生活上由々しき問題となった。昭和三十四年の夏当時の部落区長及び町議会議員の
職にある者相寄り相謀りこれが対策のため日夜談合を重ね種々方策を講究した結果地区内に
浄水場を有する横須賀市水道からの分水による簡易水道布設が最も適切な処置であるとし関係
当局に実情を訴え地域住民を啓発しこれが促進を期するため今年十一月有馬水道期成同盟会を
結成し実行委員会挙げ計画の策定既設地区度の視察地域内の実地踏査を行い数度に亘り町県当局

として給水人口五〇〇〇人を見込み総事業費三七四ニニ千円を以って町営実施の運びに
至らしめた。これと同時に期成同盟会を切替えることとし加入者を会員する有馬水道組合を組織
組合長に期成を推進して貰った役員の中から金指喜代治氏を推し◯組合長以下の役員を選出
自主的に事業に協力することになり爾来住民福祉の向上と事業の円滑な運営に努力を傾けて来た
結果当初加入約八〇〇戸から一五〇〇戸を超える規模ににまで生々発展し水道事業とする域に
まで成長した。ここに於いてこの事業が〇〇と確固たる基盤を有するに至った事を認め当初
有志の目的を充分達しものとして昭和四十二年十ニ月発展解消することにした。茲に組合」
解消に当たり発◯起当初数々の御苦労と輝やかしい功績を積まれた実行委員各位の名を
ささやかな碑に託し後世に残さんとするものである。」
海老名市杉久保南2丁目4。



公園内には小さな社が。稲荷社であろうか。







そして県道43号線の「杉久保南四丁目」交差点を渡り、次の目的地の「定国寺」に向かって
進む。



そして「定國寺(じょうこくじ)」山門に到着。



「臨済宗建長寺派」。



「明寶山 定國寺」。







「水子地蔵尊」。



ズームして。



更に。



「六地蔵尊」。



「庚申塔」が並ぶ。



「本堂」
「定國寺」は、圓模(永享3年1431年卒)が開山したと。
本尊は釈迦如来像。「本堂」は六間四方で、三面がガラス張り。
海老名市上河内1086 



扁額「定國禪寺」


内陣。



内陣の扁額は「明寶山」。



墓地。



「畜霊の塔」。



「馬頭観世音」碑。



こちらも「馬頭観世音」碑。



石祠。



「聖観音菩薩像」か。



お顔をズームで。



寺務所。



巨大な屋根には「卍」紋と 北条家の家紋「三つ鱗」が。



そして次に訪ねたのが「有馬浄水場」。



「横須賀市水道局有馬浄水場」。


旧海軍の浄水場として創設されたが、第2次大戦後、旧軍港転換法により横須賀市に
無償譲渡され、数次の拡張事業などを経て、現在は、日量73,900m3の水道水を造り出す
ことができる浄水場。
有馬浄水場は、相模川の表流水を水源として、約2km離れた社家の相模大堰から取水し、
浄水した水を約29km離れた横須賀市内まで送水している。
有馬浄水場では、粒状活性炭を用いた高度浄水処理を採用し、急速ろ過方式により
浄水処理を行っている。
有馬浄水場の敷地面積は46,500平方メートルで、沈でん池、活性炭吸着池、ろ過池、
調整池、天日乾燥床などの施設を配し、これらの施設の運転について管理本館内の
中央管理室で24時間常に集中管理するとともに、浄水工程や水源の水質検査なども
有馬浄水場で行われている。
また、有馬浄水場では、神奈川県内広域水道企業団が持つ浄水場のうち、酒匂川を水源と
する伊勢原浄水場で浄水された水を受水し、有馬浄水場で浄水した水とあわせて
横須賀市内まで送水しているのだと。



門は閉まっていた。



門の脇には横型ポンプが展示されていた。



「管理棟」。



上空から見た「有馬浄水場」。



そして「有馬浄水場」の脇の道を西に進む。



左手に「海老名市立有馬中学校」
海老名市本郷4601。



その隣に「海老名市立有馬小学校」
海老名市中河内1784。



突き当りを左折して進むと左手に「吾妻坂」案内柱があった。
むかし、この坂修復工事の際、仏像が掘り出され今も近くの本覚寺に安置されています。
この寺の山号を吾妻山ということから、この名がつけられたようです。
また別名「泣き別れ坂」ともいわれ、悲しい歴史を持つ坂でもあります。



その手前にあった石碑群。
「泣き別れ坂」にあった石仏には言い伝えがあるとのことだが・・・。



石碑には「・・・神位」とあるが解読不能。供養塔のようであるが。



そして「吾妻坂」を下って行くと右手奥にあったのが「貴日土(きびと)神社」。



「貴日土神社」の参道を進む。



「鳥居移築」碑。
「大東亜戦争陣地構築の廃土 基礎埋没につき移築改修」と。



狛犬(阿形像(右))。



狛犬(吽形像(左))。



石鳥居を潜る。



右手奥にあったのが「御獄大神」。



小さな「社殿」。



境内の左手に「中河内自治会館」が。



「拝殿」。
明治8(1875)年10月に、中河内村内の弁財天・稲荷・金比羅の3社を合祀して創建されました。
神体は丸石です。
社殿は、金比羅社(旧河内村の鎮守)の本殿を充当したものといわれています。
境内に文久2(1862)年8月に、佐藤八左衛門が寄進した手水鉢がありますが、これは合祀以前の
3社のいずれかのものと思われます。トタン屋根の社殿であった。
「貴日土(きびつ)」の社名は、中河内村の寺子屋の師匠植田佐兵衛が、農業にとって大切な
「日を貴び、土を貴ぶ」という意味で名づけたといわれています。明治24年に改築されています。
また、境内には武州御嶽大神を祀った社があります。



「 貴日土神社
 所在地 海老名市中河内一七四三番地      
 祭神 稲荷社(宇気母知命・倉稲魂命) 享保六年辛丑十一月、勧請。
 厳島大神(市岐島姫命) 宝暦六年丙子九月、相殿。
 琴平宮(大物主命) 秋葉大神(火之迦具土神) 東照宮(徳川家康)  文化十三年三月。
 山王宮(日枝大神・大山咋命)  文化十三年丙子相殿。
 明治八年十月合併、貴日土神社と改称。明治二十四年九月、改築。
 明治二十七年八月、台風により倒壊・復元。
 昭和五年四月、改築現在に至る。
 境内神社 御嶽大神(日本武命) 武州御獄山を勧請」



境内の石碑群。



境内から大山を見る。



富士山の姿も。



丹沢山塊の東端、宮ヶ瀬ダムの東側に聳える山々であろうか?



「馬頭観世音」碑。



「自然と歴史のさんぽみち」
ここは「貴日土(きびと)神社」。



                              ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2022.05.18 19:11:13
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