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2022.06.25
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カテゴリ: 茅ヶ崎市歴史散歩
【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次

「神明大神宮」の散策を続ける。
拝殿の左側にあった案内板。



案内板に従い「拝殿」の横から奥に進む。
正面奥に、「慰霊」碑、手前に、「鶴岡八幡宮景能祭」碑があった。



「鶴岡八幡宮景能祭」碑。
「景能祭」は、2003年(平成15年)から行われている神事であると。



「懐嶋郷 景能祭」
碑の「景能祭」は鎌倉の鶴岡八幡宮宮司・吉田茂穂氏の揮毫。



「慰霊碑」。




明治二十八年四月 ~ 昭和二十三年二月



裏面には、
過去百年をさかのぼるまでもなく、われわれは幾多の戦争を経て来た。今日の繁栄は
これらの戦争と無縁なものではない。深く戦争の辛酸をなめてきたからこそ平和への
堅い信念はゆるごうとしないでのである。
ここに日清日露戦争日華事変太平洋戦争殉国諸士の遺烈を仰ぎ 広く区民の浄財により
慰霊の碑を建立し英名を刻して後世に伝え、永く祭祀の誠をいたさんとする。



「懐嶋館土塁址
   基底幅  二・五 M     
   高 サ  一・五 M」



「山王権現社」の石鳥居。



  御祭神大山咋命
元禄十四年(1701)十二月大吉日
  相州大圓蔵村氏子創建
鶴田町の小室勇氏所有地に三〇七年間鎮座  
文化財保護の為、当境内を社地と定め遷移」







「懐嶋平権守景能公年譜
保元元年七月十一日(1156) 保元の乱において、為朝の矢に当り負傷する。    保元物
治承四年八月十七日(1180) 頼朝の挙兵に従い、山木兼隆攻めに加わる。     源平盛衰記
    八月廿日      頼朝に従い、蛭が小島から石橋山へ向かう。     吾妻鏡
    八月廿日      弟の景親に対し頼朝軍に加わるよう説得する。    源平盛衰記
    八月廿四日     頼朝、石橋山合戦に敗れ、房州へ逃れる。      吾妻鏡
    十月九日      景能、頼朝の居館、大倉亭の建築工事を始める。          
    十月十一日     景能、頼朝の妻政子の鎌倉入りを迎える
    十月十二日     景能、鶴岡八幡宮の遷宮を指揮する。
    十月十五日     頼朝、景能が移築修理した頼朝邸に入居する。
    十月十七日     景能の預かる囚人松田有常の父義常が自殺する。
    十月廿三日     景能、頼朝より懐島郷を安堵される。
    十月廿三日     景能、囚人の河村義秀を預かる。
    十一月廿日     景能、頼朝に有常の免罪を願う。
    十二月十二日    頼朝、景能が建築を進めた新造の大倉亭に移る。
治承五年一月一日(1181)    頼朝の鶴岡八幡宮拝賀の警固にあたる。
  ・・・・・中略・・・・・
建久六年三月十日(1195)  頼朝の上洛に随行する。
正治元年一月十三日(1199) 頼朝、死去する。
建仁元年三月十日(1201)  景能の鎌倉の旧跡、地震により焼失する。
承元四年四月九日(1210)  景能、死去する。
建暦三年五月二日(1213)  景兼、和田の乱に加勢し敗死する。
    五月九日      二階堂基行、懐嶋郷の地頭となる。」



「享和年間 懐嶋館出土礎石」と。



「懐嶋館址」関連の石碑、石像が所狭しと並んでいた。





「懐嶋館址」碑。







「懐嶋平権守景能公」碑。



お顔をズームして。



「南無妙法蓮華経 大庭景能入道霊」碑。



「懐嶋館とは、八百年前、懐嶋景能が・・・構えた屋敷である。源頼朝の信頼が厚く、終生
身近に仕えた。この館は所領である懐島郷の・・・・・」



「懐嶋平権守景能公没八百年祭
   承元四年四月九日」



「源頼朝、奥州征伐につき景能に意見を聞く
大庭平太景能は武家の故老たり。
兵法の故實を存ずるの間、故にもってこれを召し出され、奥州征伐の事を仰せ合はせられて日
はく、この事天聴を窮ふのところ、今に勅許なし。なまじひに御家人を召し聚む、これをなす
こと如何に計らひ申すべし。てへれば、景能思案に及ばず申しで云はく。
軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるる上は、強ちに其の
左右を待たしめたまふべからず。
随って泰衡は累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり。論旨を下されずといへども、治罰を加へた
まはんこと何事か有らんや。就中に群参の軍士、数日を費すの條、かへって人の煩ひなり。早
く発向せしめたまふべし。てへれば、申状すこぶる御感あり。あまつさへ御厩の御馬を賜はる。
吾妻鏡     文治五年六月三十日」


「八一〇余年前のことです。源頼朝は、命令に従わない奥州の藤原泰衡を討つために、多数の軍勢
を集めて、後鳥羽天皇からの出陣許可を待っていました。しかし、なかなか許可が下りません。
困った頼朝は、兵法にくわしい景能(かげよし)を呼んで意見を尋ねました。「泰衡はあなたの部
下です。部下をこらしめるのに天皇の許可はいりません。直ちに進発なされるがよい」と。
なるほどと決心のついた頼朝はたいへん喜び、景能に馬一頭をさずけて感謝しました。」



「懐島ゆかりの五輪塔」。



「懐島ゆかりの五輪塔」碑。



「供養碑の由来
高橋庄平家、屋敷内に大正十五年十月九日に建立された供養碑は、高橋藤吉氏が眼を病ってから
或る夜、大庭景能が夢枕にたち、自分の供養碑の建立を懇願され、眼の完治を約束した。
兄、高橋豊蔵氏と共に懐嶋館の西方内堀北側に供養碑を建立すると忽ち、眼は治癒し効果が現れ、
平成十六年十一月二十一日境内に移された。
尚、五輪の塔はその時、内堀から出土したものである。
大庭平太景能公は、源義朝に従い保元の乱に参戦し、鎮西八郎為朝の強弓を受け膝を負傷した。
為朝は射外した口惜しさを、自分の矢が外れたのは不思議だ。日本中で「運」のよい武士を探し
ても大庭景能ほどの者はいないであろう。
「保元物語」」



さらに石碑が続く。



「奉載
景能ゆかりの鶴岡八幡宮源平池、鎌倉懐嶋平権守景能邸跡、大庭小次郎景兼ゆかりの和田塚、
三ヶ所の土を戴き、鶴岡八幡宮若宮において、お祓いを受けて層塔内に納め、おまつりして
います。」



五重石塔。



「顕彰碑
鎌倉権五郎景正の代々の子孫は広く相模の各地に土着して開発を進め、それぞれが有力な武士団
となった。
わが懐嶋郷は東の赤羽根川から小出川にまたがる広い地域であって、そこは古くから大庭御厨と
して開発が進められた土地でもあった。やがて景能は、主君の源頼朝から懐嶋郷の領主と認められ、
しかも信頼できる部下として、何事にも重用された。
頼朝が上京の際には、懐嶋館に宿泊したのも、主従の絆の堅さを語っている。さらに景能は鎌倉の
街の整備、ついで鶴岡八幡宮や若宮の造営、および頼朝邸の建築を任されるなどは、極めて厚い
信任によるものであった。それらの工事にあたっては多くの村人らを同伴して、手堅い仕事ぶりを
披露していた。
建久二年、景能は鶴嶺八幡宮の境内、社殿の大造営を行って面目を一新した。鶴岡八幡宮とは
神官僧侶をはじめ、人々を頼りに往来し、鎌倉との文化交流はますます深まった。同時に、
懐嶋郷の存在は広く曲間に知れ渡っていった。
一方、鶴嶺八幡宮前を鎌倉へ通ずる鎌倉街道は、上方と鎌倉を結ぶ軍事上の要路であって、
景能には警備の大任がひそかに課せられていた。かくて景能は、終生鎌倉開府の裏方として志誠を
尽くしたが、武士の勢力争いの激しい時勢のために、やがて孤独に立たされてしまったのは、
余りにも寂しい晩年であった。
まして、息子の景兼が和田の乱にまき込まれて敗北し、ついに懐嶋氏は滅亡の悲運に終わった。
それゆえに、父子の墓さえ明らかではない。ここに有志一同はそこはかとない郷愁にかられ、
八百余年前の景能、景兼ら一族がふるさとに遺した偉業を景仰し層塔を供え、併せて建碑して
後世に問うものである。」



石灯籠。



石灯籠を別の場所から再び見上げて。



「懐嶋平権守景能公没七九五年祭
今は昔、風の音も遠い鎌倉の御代に懐嶋の郷を治めて、偉大なる功績を残した懐嶋権守平景能を
称え、年毎に「景能祭」の祭儀を斎行することと定める。
尚、ここに記念の碑を建立して、ゆかりある鶴岡八幡宮宮司田茂穂氏に「景能祭」の揮毫を
受けた。」



「第六十二回神宮式年遷宮
茅ヶ崎市神社総代会お白石持行事業曳団参加記念」碑。



「掲示板」。



「天照皇大神宮」。



石の社を正面から。
側面には、
「宝暦十三癸未歳 林鐘吉且」と。



「本殿」の横にも石祠(山王権現社)と石灯籠が。
「石祠は平成二十年の暮れまでは円蔵二丁目九番の一画にあったが、新たに移転させられたもの。
大きさは基礎を含まない屋根までの高さ七四センチ、屋根の幅六〇センチ、石祠の幅四五センチ、
屋根の奥行き五八センチである。
銘は石祠の右側面に「山王権現社」 、石祠正面の上部に山王二十一社の種子が最初の一文字
(バク)を除く前半十文字(バイからバイ)が刻まれている。また、年号銘は石祠の左側面に
「元禄拾□□十二月大吉日」とある。 「元禄拾」までははっきりしている。その下の一文字は
「二」か「四」で、 さらにその下の一文字は 「巳」(み) か「己」(つちのと)と読める。
屋根の右側面には 「□□四□/□月吉日」とあり、これはかすかに「慶應四年/六月吉日」と
読める。」とネットより。



「山王権現社 御祭神 大物主命
  滋賀県大津市坂本本町山王総本宮
  日吉大社西本宮より分霊を勧請
 元禄十四年十二月吉日建之の旧祠が破損し、平成二十五年十二月吉日に改修。」



「周遊マップ」。



「拝殿」横から境内を見る。



再び「神輿殿」。



道路沿いには石灯籠が並ぶ。



そして、石鳥居と向かい合うように建っていた建物は「神明大神宮」の倉庫であろうか。



その裏にあったのが「懐嶋権現社」。



鳥居の先に社殿。



鳥居の扁額は「懐嶋権現」。



内陣。社殿の扁額は「懐嶋権現社」。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.06.25 05:13:14
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