JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.01.24
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カテゴリ: 国内旅行
「本丸址」に向けてさらに「尾根通り」の階段を上って行った。



この辺りの紅葉は今が盛り。









岩櫃城 本丸と二の丸の間の堀切から延びる竪堀。



本丸下の堀を望む。



二の丸跡 」。



中城から二の丸に向かっては、現代につけられたルートが出来上がっており、階段が
何箇所かにあった。全体で百数十段にもなるであろうか。 
ルートは、曲輪の外側だったり、曲輪間の横堀だったりしていた。 
ルートの外側に土塁らしきものがあった。




さらに登ると本丸であった。



幟「 続日本100名城 2016年NHK大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地
真田氏上州の拠点 岩櫃城 」。



「本丸跡」に向かって更に進む。



本丸の一部はさらに高くなっており、そこに「岩櫃城本丸址」碑が立っていた。 



「岩櫃城本丸址」碑



岩櫃城由来記
吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かでは
ありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮(すけふさ)により築城されたといわれています。
城郭の規模は、1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後ろに甲斐の岩殿城、駿河の久能城と
並び、武田領内の三堅城と称されました。

重鎮真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を
利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手に落ち、
信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には
長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は
幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代を

沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重鎮出浦対馬守を城代としました。そして、幾多の
ドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年(一六一五))により、
四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。
                                   東吾妻町観光協会」



「六文銭」の下に「岩櫃」と書かれた幟。



近くには小さな石祠も建てられていた。



近づいて。



落ち葉の絨毯と紅葉。



「櫓台
主郭の中で一段高くなっている場所て幅12m、高さ2.5mほどの高台となっている。
周囲を観察する櫓台と考えられ、ここから周囲の展望・状況を確認し城内外に指揮連絡系統を
結んだとされる。」



南東方向の吾妻郡東吾妻町川戸の街並みを見る。



堀上の紅葉。



「腰曲輪」方向を見る。



腰曲輪
南枡形虎口とニの丸から本丸に上る通路で本丸南西を守る郭」


竪堀を再び。



「本丸跡」を振り返って。



祈りの石仏の如き姿。



近づいて。



標高802メートルの岩櫃山中腹に築かれた岩櫃城から見えた景色。



竪堀を見ながら、山を下る。







中城跡 」を左手に見る。



「案内所」に向かって、上って来た同じ道を下る。



そして「案内所」の前を通り左に進んだ場所・天狗丸跡の「 岩櫃神社 」を訪ねた。



この神社は吾妻線・群馬原町駅の南西約1.8kmに鎮座。
岩櫃山の北東麓に鎮座するこの神社は鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城したとされている
岩櫃城の天狗曲輪だった所で、真田氏が支配していた頃には真田忍者の活動拠点であったと
いわれている。
現在はその面影もなく、畑地の中にポッカリと黒々とした森がありそこが神社の社地と
なっていた。
参道途中に立つ根巻鳥居。





岩櫃神社 」の「社殿」
 御祭神:斎藤佐太郎基国命
 祭礼日:4月17日、11月3日
 境内社:三社
 由緒:御祭神の斎藤佐太郎基国命は関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人
    の1人です。岩櫃城は吾妻氏に拠り鎌倉時代に築城され、貞和年中(1345~1349)
    吾妻太郎行盛の時に、碓井の里見氏に略取されました。約10年の後、行盛の遺児・
    千玉丸は之を回復し、上杉氏に属して斉藤越前守憲行と称し、6代・基国の永録6年
     (1563)冬、武田氏の将・真田一徳斎幸盛に攻略されたと言います。
          岩櫃城落城後、斎藤佐太郎基国命は元の領民の安否が気になり、神照坊大天狗と化して
            岩櫃城へ戻り、旧領地の人民を保護したのだといい伝えられています。



扁額「岩櫃神社」。



内陣。



この石碑には「岩櫃神社祈念碑」と。



その右下には末社が3社並んでいた。



鎮守の杜の紅葉を楽しんだのであった。




                               ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.01.24 21:39:14
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