JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.04.12
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カテゴリ: 国内旅行
「香取神宮」の散策を早足で。
「本殿」の裏にあったのが「 末社 櫻大刀自神社(さくらおおとじじんじゃ) 」。
御祭神:木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)(安産子育ての神)。
御神徳:縁結び・安産・子育

この神様は発酵とも縁の深い神様で女性の発酵の神様とのこと。「刀自」は、酒作りの「杜氏」の古語。酒作りのリーダーである杜氏さんは、
古代日本では女性が担っていたのだと。
それで刀自(とおじ)は、女性のリーダーの意、それと同時に発酵を司る神様でもある と。



「拝殿」の正面左側に廻り込む。



香取神宮で行われる11月の「大饗祭」の折に神様のおもてなし料理が準備される
場所がこの「 神饌殿 」。
祭りの当日朝からここで神職が神饌を「調理」するのだと。
一般的に神社で神饌といえば加工しない状態の食物を奉納するのだが、この大饗祭のように

これを「特殊神饌」というのだと。
10月・神無月、ご祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は出雲には行かず、東国鎮守に
徹すると。周辺神社の神様が出雲から帰還した際に、同祭を斎行し、神々を慰労するのだと。



御神砂(おすな) 」。
希望すれば、この清浄な砂・「御神砂(おすな)」を分けていただけると。



海上自衛隊練習艦「かとり」の錨



練習艦かとりの錨
海上自衛隊練習艦「かとり」は昭和四十五年建設され、平成十年除籍になるまでの二十八年間、
毎年、海上自衛隊の幹部候補生を乗せ世界の海で公開訓練を行い、世界各国を歴訪して友好と
親善を深め、幾多の幹部自衛官を輩出した。この錨は去る平成十年七月除籍の記念として、




そして「 三本杉 」。



三本杉
後冷泉天皇御字源頼義公が参拝し「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願成就せば此の杉
自ら三枝に別れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に別れた以来これを三本杉と云う」







摂社 匝瑳(神社
香取大神・経津主大神の親神
御祭神 磐筒男神(いわつつおのかみ) 磐筒女神(いわつつめのかみ)」



「大和心」碑



平成甲午二十六年第十二回式年祭紀念碑
題辞 大和心(やまとごころ)
香取神宮奉三賛会長 安倍晋三様より戴きました大辞であります」



大和心 乙末終日 安倍晋三
平成甲午年式年大祭典の厳修に際り
平成甲午二十六年 皇紀二千六百七十四年は明治十五年に午歳を式年と定められてより第十二回の
大際の年である。
式年大際記念事業として昭和五十三年式年より四度の午歳に際り 拝殿 幣殿 本殿の一部漆塗彩色
檜皮葺と表参道朱鳥居の修復 楼門内側の敷石改修と これ等はすべて大際を前に竣成することが
出来た。
即ち平成二十五年初冬に勅使唐橋在倫掌典の御参向を仰ぎ遷御奉幣の両儀が厳修されたのである。
平成二十六年四月十四日の式年祭には勅使北島清仁掌典の御参向のもと厳修十五日十六日の式年
神幸祭は両日とも好天に恵まれ伝統の随に延々長蛇の行列は四千名に近い供養者の奉仕のもと
万余に及ぶ奉拝者は利根堤を埋め尽くして大利根川に於ける御船遊びは一大絵巻を展開した。
本大祭を通じ御神の昂揚これより大なるは無いのであり 国家鎮護の大神に皇室の弥栄と国家の
隆昌を祈念するとともに特別崇敬者 氏子崇敬者 全国御分社御関係各位の御誠意溢るる御奉賛に
心より感謝をしつつここに大事業を 勒し末永くこれを伝えるものっである。
    平成二十七年 晩秋
      香取神宮宮司 高橋照二」



「摂社 匝瑳神社」前から「本殿」を見る。



「本殿」の両流造 をズームして。
唐破風+千鳥破風 。屋根は 檜皮葺き(ひわだぶき)



更に「 懸魚(げぎょ) 」を。



そして「香取神宮」の「拝殿」、「本殿」を後にして、「 楼門 」に向かって歩く。



「楼門」の内側にも木製狛犬が鎮座していた。
境内の神代杉を使って制作された狛犬は、昭和九年三月二十日(1934)帝国在郷軍人会
千葉支部一同によって奉納されたもの と。
そして、この木彫狛犬は彫刻家の佐藤朝山(玄々)が作ったもの と。



右側の 狛犬(吽形像)



左側の 狛犬(阿形像)



天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑
昭和四十八年十月・・と刻まれていた。



御札売店。



末社 諏訪神社 」。



末社 諏訪神社
御祭神 武御名方神(たけみなかたのかみ)」。



「楼門」を潜り振り返る。



「香取神宮 鳥瞰図」。



日本書紀編纂千三百年
~日本書紀と香取大神~
令和ニ年は日本の歴史書である『日本書紀』が完成して一三〇〇年を迎えます。
日本書紀は奈良時代、天武天皇(四十代)の命により編纂が始められ、舎人親王によって撰進された
最初の正式な歴史書(正史)です。養老四年(七二〇)に完成しました。全三十巻で、神代から
持統天皇(四十一代)までが取り扱われています。
一方日本書紀と共に、「記紀」と称される『古事記』も天武天皇の命で編纂されましたが、
こちらは稗田阿礼が後述したもの太安万侶が書き留めたもので、和銅五年(七一ニ)に完成、
神代から推古天皇(三三代)までの全三巻となっています。
どちらも日本の神話が描かれており「記紀神話」とも呼ばれていますが、両者には異なる
部分があります。
古事記は大和言葉をもとにした変体漢文の物語調で表記されているのに対し、日本書紀には漢文、
しかも年代順に記されており、さらに中国や朝鮮半島の文献も引用しています。これは何を意味
するかというと、古事記は国内向け、対して日本書紀は国外向けに編纂されたということです。
その内容は共に天皇の日本統治の正当性を示したものですが、日本書紀には特に自国の歴史を
国外に知らしめる目的があったのです。
さて、香取神宮の御祭神は『経津主大(ふつぬしのおおかみ)』・天照大御神の御神意を奉じて
出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、日本建国の基を築かれた神様であります。この経津主神は
日本書紀に記されいるのに、古事記には登場しません。
日本書紀には、度重なる葦原中国の平定失敗に高天原の神々は、次に遣わす神は経津主神が適任で
あるとした。これに対し武甕槌神(たけみかづちのかみ、鹿島の神)は、『経津主神だけが雄々しい
立派な神で、私は違うのか!』と激しく抗議した。そのため経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国へ
遣わした、とあります。
古事記の「国譲り」では鹿島の神【虍御雷神】に天鳥船神(あまのとりふねのかみ)を副えて
遣わしたとありますが、日本書紀は、香取の神が「主」であり、鹿島の神は「従」の関孫となって
います。
日本書紀と古事記とではこうも記述の相違があり大変興味深いものがあります。」



左:平国の広矛を奉る出雲・大国主神     右:香取神・鹿島神。



そして「 神池 」まで戻る。



神池
昭和五十三年式年大祭記念事業として同五十五年竣功。
亀甲の池・菖蒲ヶ池・宮下の池の三池より成る。」



石灯籠が並ぶ表参道を下る。



大きさも異なる石灯籠が並ぶ。



1基奉納するのに幾ら必要なのであろうか?



奥宮
当宮の旧参道脇に御鎮座。
御本殿に経津主大神の和御魂(にぎみたま)を御祀りするのに対し、奥宮には荒御魂を御祀りする。
これは大神の大いなる御働きのひとつで「心願成就」に霊験あらたかである。
現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものである。
要石
古伝によればその昔、香取・鹿島のニ柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、
番取ヶ浦付近に至った。
しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
これは地中に大きな鯰魚が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く
石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。
当宮は凸形、鹿島神宮は凹形て地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年
(一六六四)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかった
と伝わる。」



千葉県指定天然記念物
香取神宮の森
昭和四十九年三月十九日指定
この地は古くから信仰の場として保護されてきたため、目通り幹囲り三メートルを越えるスギを
はじめ、イヌマキ・モミなどの巨木が林立しており、落葉に埋もれた古道や古井戸は往時の景観を
しのばせている。また森の全景が亀に似ていることから亀甲山と称されている。
この森の高木層はスギで占めているが、高木層にはスダジイ・シラカシ・シロタモなどの常緑
広葉樹が多くみられる。
草木層にはアスカイノデ・フモトシダ・イワガネソウ・べニシダなどのシダ類をはじめとして
リュウノヒゲ・ヤブラン・フウランなどの草木類が数多く自生している。
スギの老齢林としては県下でも有数であり、学術的にも貴重なものである。
昭和六十年ニ月一日
          千葉県教育委員会
          香取市教育委員会」



「要石道」碑



「奥宮 要石」案内板
その先に 今井夫妻の碑 が立っていた。



元衆議院議員
今井健彦先生頌徳碑 」。



「今井健彦翁頌徳碑
今井健彦は明治十六年静岡県榛原郡初倉村に生まる。夫人邦子女史との間に一男一女あり
・・・・・」



今井邦子の歌碑
いつきても 胸すかすかし 神宮の しつけき森に いろつく楓  邦子女史作紫草の中より 」。



そして「赤の鳥居」が前方に。



「赤の鳥居」を潜って。



「定
一、車馬を乗入れる事
一、魚鳥を捕える事
一、竹木を伐る事
右境内に於て禁ずる。
香取神宮
香取神宮年中主要祭事
歳旦祭 一月一日     神嘗祭 十月十七日
元始祭 一月三日     明治祭 十一月三日
星鎮祭 一月十六日    新嘗祭 十一月二三日
節分祭 二月節分日    大饗祭 十一月三十日
紀元祭 二月十一日    賀詞祭 十二月一日
祈年祭 二月十一日    内陣神楽十二月四日
御田植祭 四月二日    囲碁祭 十二月七日
例祭  四月十四日    天長祭 十二月二三日
神幸祭 四月十五日    月次祭 毎月一日一四日




よど号ハイジャック事件で乗客の身代わりとして人質になった山村新治郎(11代目)と、
その父(10代目)の像。
千葉県佐原市(現在の香取市)出身。江戸時代から米穀商を営む由緒ある名家に生まれ、
九代目新治郎のころから深く政界にかかわり合いを持ち、父の10代目新治郎は、
衆議院議員として予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、
第3次池田内閣において行政管理庁長官を務め、政界に重きをなしたと。



右手に 父十代 正三位勲一等 山村新治郎先生之像 」。



「一九七〇年日航機よど号乗っ取り事件で乗客百余名の人名を救った身代り新治郎」



「第十一代 山村新治郎の像
第八十二代八十三代 内閣総理大臣 橋本龍太郎 書」

山村の名前を一躍有名にしたのが、よど号ハイジャック事件である。
1970年、山村が運輸政務次官を務めていた時にハイジャックが発生。
当時の橋本登美三郎運輸大臣と共にソウルに向かい、交渉の末、乗客の身代わりとして
人質になり、よど号に搭乗して犯人らと共に北朝鮮に向かい、その後解放されて帰国した。
この英雄的行動により「男やましん」「身代わり新治郎」として山村新治郎の名が
広く知れ渡った。
乗客救助の功により内閣総理大臣顕彰を受賞した と。



そして「香取神宮 初詣」ポスター。



                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.04.12 08:03:42
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