JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.12.13
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カテゴリ: JINさんの農園
そして正面の「 拝殿 」。



「拝殿」前の石鳥居(右)。



「拝殿」前の石鳥居(左)。



正面から。



さらに「拝殿」に近づいて。



賽銭箱は無数に鋲を打った金属製で重厚感に溢れていた。
防火の為だろうか、それとも防犯なのか。



さらに、天井は格子天井。







住吉神社略縁起
御祭神 底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(ながつつのおのみこと)
    ・表筒之男命(うわつつのおのみこと)(住吉三神)
    息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神宮皇后)
    東照御親命(あずまてるみおやのみこと)(徳川家康)
例祭  八月六日

「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」とト部兼直の和歌にあるように
住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐
大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
神功皇后三韓征伐の祭、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。
その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪
佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
遥か後、天正年問に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船を
もって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の
漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため
社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。
天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社
(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年問に幕府
より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島エ事を起こし、正保ニ年に竣工し、元の名から佃島と名付け、
住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月ニ十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の
御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。
佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航
安全の守護神として信仰を集めました。
その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰
されています。」



そして境内を戻ると、「水盤舎」の奥にあったのが 「鰹塚」碑



鰹塚
鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国
最古の法典である「大宝律令」(七〇一年)、「養老律令」(七一〇年)に海産物調賦に、堅魚、
岩堅魚、堅魚煎汁(岩詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、
調味料としても利用してきました。

東京鰹節類卸商業協同組合は、の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和ニ十八年
五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合邑九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれ
ました。
塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。
表面の揮毫は、日展審査委員で組合邑・節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の
碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。
     東京鰹節類卸商業協同組合」



歴史を感じさせる石塔。
1798年(寛政10年)、江戸住吉構が佃住吉神社に石灯籠を奉納したのだと。
基壇には「住吉組」 の文字が刻まれていた。



藤棚の下の木柱には文字が。



近づいたが・・・??



藤棚の様子をネットから。



その奥に「 」と刻まれた石碑。



疱瘡神社 」・「 疫神社 」。
祭神
 素戔嗚命(すさのおのみこと)
 疫神(えきじん)
御神徳
 麻疹(流行病・疫病)退散
佃島では文久2年(1862)に麻疹が流行し、多くの人が命を落としました。
その際には7尺の船を造り、そこへ災いを移した藁の人形(ひとがた)を乗せて、
漁師の子供らの手によって沖へ流させたという記録が残っているとのこと。



扁額「疱瘡神社」。



扁額「疫神社」。



こちらは、住吉神社の 末社 船魂神社 」が「疱瘡神社」・「疫神社」の左隣りに。
1869年(明治2年)、大伝場町(おおでんまちょう)1丁目(現在の東京都中央区日本橋本町
2・3丁目)の太物店(ふとものだな)が入船稲荷社を佃住吉神社の境内へと遷座したのだと。
太物店とは綿織物・麻織物などの太い糸の織物(太物)を商う店舗を指す。



御大禮記念植樹碑 」?が石鳥居の横に。



船魂神社 」に近づいて。



御祭神
 船魂神(ふなだましん)
 住吉三神(すみよしさんじん)
御神徳
   船体安全・大漁満足・航海安全
社殿の左右に見事な龍の彫刻



扁額「船魂神社」。



末社「入船稲荷神社 」。
住吉神社の拝殿の右奥にある宮神輿庫の隣りにあった。
手前左には、板で塞がった水盤が。
明治2年2月27日に鎮座。
佃島(佃1丁目)にはこの他に「森稲荷神社」・「浪除稲荷神社・於咲稲荷神社」の三か所
四社の稲荷神社が鎮座し、毎年初午祭が行われる と。



石鳥居に近づいて。


狛狐(右)。



狛狐(左)。



御祭神
   宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

御神徳
 五穀豊穣・産業発展



扁額「 入船稲荷神社



見事な龍の彫刻。



そして「 新神輿庫 」。



横壁のガラス窓越しに新旧の神輿を。
2011年(平成23年)秋山三五郎が佃住吉神社の八角神輿を新たに制作した。
これを機に旧い八角神輿が神輿としての役割を終え、現在は東京都中央区の中央区民文化財
として、このコンクリート造りの神輿蔵に鎮座していると。
旧神輿は1838年(天保9年)芝大門の大仏師・万屋利兵衛が佃住吉神社の八角神輿を制作した。



かつての神輿渡御(みこしとぎょ)は氏子が八角神輿を担ぎ、隅田川や江戸湊の水中に入って
執り行った。気密を高めるために、八角神輿の内部は漆で仕上げられている と。





こちらは 2011年(平成23年)秋山三五郎が新たに制作した佃住吉神社の八角神輿 であっただろうか。



こちらはネットから。



住吉神社宮神輿 八角神輿
【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定
【左】平成二十三年製作
芝大門の万屋利兵衛により天保九年(一八三八)に製作されました。
八角の型は天皇陛下の御座 高御座(たかみくら)を擬したといわれています。
古くは海中渡御が行われていたため、内部も漆が塗られ気密性が高められています。
一七〇年以上例祭におて使用されてきましたが、保存のため平成ニ十三年に八丁堀
秋山三五郎により新しく製作されました。」



ネット
​👈リンク ​から。
【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定
【左】平成二十三年製作



「入船神社」の奥は水路になっていた。



石井ぎんざ歌碑



明治は 遠くになっても 江戸が 残る 佃の夏祭り ぎんざ



歌碑の手前にも石灯籠が。



歌川広重 名所江戸百景 佃しま住吉の祭
佃島にある住吉神社のお祭りの風景を描いた作品。
画面中央にある氏子旗には「住吉大明神」と書かれ、横には「安政4年6月」と書かれている
ように、この祭りは6月に行われた。氏子旗の奥には、神輿を担ぐ裸の若衆連中によって
海中まで担ぎ込まれている様子が、勇壮に描かれている。
初夏の爽やかな空気が感じられる と。



お祭りで御輿をかつぐ人々の姿が描かれ、多くの人々で賑わう祭りの様子が伝わって来る と。




                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2023.12.13 21:45:28
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