JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.02.19
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カテゴリ: JINさんの農園
参道を進むと突き当りになり、右手奥・東側にも山門が。



東門に向かって進む。



左側の紅葉。





東門を出て振り返る。



九品佛淨眞寺東門 」 と。



「二〇一四~二〇三四年
淨真寺「平成 令和 九品佛大修繕事業」大勧進」と。 



東門の扁額。
何と書かれているのであろうか?
『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』??
その意味は「この地は釈迦如来が現れて説教された場所で、極楽浄土の東門に当たる」という




昔、訪ねた大阪・四天王寺の鳥居の扁額にも同じような文字が。
その時の写真です。



引き返して。
駐車場の先の紅葉。



ズームして。



総門からの参道との突き当り越しに。



2014年~ 2034年 浄真寺「平成 令和 九品佛大修繕事業」大勧進 」。
九品佛像(上品上生仏より下品下生仏)及び釈迦如来像、計十躯の大修繕が始まりました。
ー躯ずつ修理所に搬出し、一躯当たり一年半からニ年の修繕となります。
この稀代の「平成九品佛大修繕事業」広く浄財の勧募(大勧進)をお願いしております。
浄財を喜捨された方の芳名は、結縁高名帳に記録し、九品佛像の臺座内に永久に奉安されます。何卒この勝縁に、格別のご協賛を賜り度く存じます。
詳しくは、寺務所、龍護殿にございます勧進趣意書をご覧項ければ幸甚てす。
                                                                                         浄真寺」



未来に残す『貴方の化佛』
2881軀の化佛寄進をお願いしております。
三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。」



大きな石灯籠。



紅葉のトンネルの中を進む。



右手に 「開山堂」への「中門・薬医門」 が。その手前には 石碑 が。



珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く
元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む 九月二十三日高弟珂憶上人河内国より
来る 師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり 堂宇荘嚴志有って遂げず
老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく修立せよ 身後の事は皆汝に付嘱す汝それ
忽にすること勿れ 又門人に告げて曰く我が後に珂憶あり憶はわれに異なる所なし 汝等謹みて
その教命に従ふべしと 十月七日夜半合掌し弥陀の宝号を唱し寂す
珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ材木一式を河内王手山にて切り舩にて下し、元禄
十一年十月十五日現本堂三佛堂の揚棟を成し給えり
閲世二百七十年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これを昭和大修理と称しいさゝか
祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血汗の御労苦を偲び 之を碑面に刻し以って記念とす 乞ふ来山
の諸氏弥陀の名号を唱し 恭敬礼拝し給はん事を
                   昭和四十一年五月七日佛歓喜日
                   九品山唯在念佛院浄眞寺第十六世 心譽順碩」



境内地図が手書きにて。



「開山堂」への「中門」



開山堂
当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人
御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、
如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・
開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の
開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を
望んでいる。




珂碩上人 安産厄除開運 」(右)



九品山寺務所 」(左)。



開山堂



開山堂 」。
「開山堂」には浄真寺開山珂碩上人のお像を安置。
このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。
この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、
水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく
信仰をあつめている。



石段の下から。



「開山堂」の屋根の「 宝珠 」。
「宝珠」とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。
放射状の物は何を表すのであろうか?火炎宝珠に似てはいるが。
「校閲」の師匠から、この形状の宝珠は平城宮跡第一大極殿の大棟中央飾りがあり、これは
法隆寺夢殿の宝珠を参考にしたとのこと。



法隆寺夢殿の宝珠の写真をネットから。
「頂上の露盤宝珠は宝瓶に八角形に宝蓋や華麗な光明をともなったもので、世上著名な優作である。 」
また「宝珠から光明を発しているような線状の装飾がみられる。」とも。
よって放射状の飾りは「光明」を表していると。
仏教による「光明(くゎうみゃう)」とは、仏が発する光で、大乗仏典では智慧や慈悲の
象徴として、瞑想中の全身から光明を放つ場面が描かれる。 転じて「光明を得た」といえば
比喩的に覚ったことを表すこともある。 『倶舎論』によると自ら光を発するもの(太陽など)を
光といい、その光を反射するもの(月など)を明という と。



そして、平城宮跡第一大極殿の大棟中央飾りの写真もネットから。

写真も絵も残っていない古代の建造物・平城宮跡 第一次「大極殿」再現の難しさとは!? | 歴史人

「開山堂」に近づいて。



ガラス越しにズームして内陣を。



「開山堂」の「手水舎」
「手水鉢」には寺紋の「 龍胆車(りんどうぐるま) 」が刻まれていた。



サギソウ(鷺草) 」。
浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並ぶのだと。
純白のさぎが翼を広げているかのような可憐で繊細な花、さぎ草。
この花が世田谷区の花となったのは1968(昭和43)年で、区民から公募して決まったと。



「実は世田谷区には、さぎ草にまつわるこんな伝説があります。
ときは16世紀後半。世田谷城主・吉良頼康(きら よりやす)は家臣にして奥沢城主である
大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘・常盤姫(ときわひめ)を側室にしていました。
その美しさゆえ、頼康に寵愛された常盤姫でしたが、妬む者がいました。頼康の側室たちです。
彼女たちは常盤姫を陥れるため、姫が不義を犯したかのような話をでっちあげ、頼康に告げます。
最初は気に留めていなかった頼康でしたが、何度も聞かされるうちに姫を疑い、遠ざけるように
なります。

後方には 洗手偈 】という手水場で唱える偈文が書かれていた。
洗手偈(せんしゅげ)
(いすいかんしょう)  当願衆生(とうがんしゅじょう)
得清浄手(とくしょうじょうしゅ) 受持仏法(じゅじぶっぽう)
」と。
口語訳
【水で手掌を洗い 祈る衆生は
清浄な手を得て 仏の教えを受け取り自分のものとすることができる】



「死を決意した常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白さぎの足に身の潔白を記した遺書を結び、
実家の奥沢城へと放します。飛び立った白さぎはやがて、奥沢城近くで狩りをしていた頼康の
矢で射落とされてしまいました(一説には足に結ばれた遺書の重みで力尽きてしまったとも)。
白さぎの足に結ばれていた遺書を読んだ頼康は、常盤姫の無実を知り、急いで世田谷城に
戻りますが、時すでに遅し。姫は息を引き取っていました。後に白さぎを奥沢城の近くに埋めて
供養したところ、なんと翼を広げた白さぎに似た花が咲きました。 」とネットから。



「サギソウ(鷺草)」に近寄って。
常盤姫が放った白さぎが射落とされた場所といわれるのが、この「九品仏 浄真寺」。
姫の実家である奥沢城址に建てられ、今も境内の鐘楼の後方にある土塁跡が奥沢城の微かな
面影を伝えているのであった。



裏側には蕾も。



その先にあったのが「 水子(子育)地蔵尊 」。
稚児と花に囲まれて。



お顔をズームして。




昨年の写真を見ると、稚児と同様に、赤い帽子を被っていたが。



「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」碑。
「九品佛幼稚園を創立してより満三十年の星霜を閲した。この間仏教保育の網領である。
一、慈心不殺(生命尊重の保育)
一、仏道成就(正しきを見て絶えず進む保育)
一、正業精進(よき社会人をつくる保育)
の三網領に則り、園の関係者一同力を戮せて保育の聖業に精勤して今日に至っている。近時世相の
変移は、身籠れる胎児の扱いにつき真に遺憾の念を禁じ得ない。嬉々として遊ぶ園児に接する毎に
生れるべくして、その小さな尊い命の絆を絶たれた闇冥に叫ぶ水子に思いを致し、憐憫の情、転、
切なるものがある。
茲に、多くの水子の菩提を薦め、併せて、可憐なる幼児の健全な成育を祈念しつつ、本地蔵尊像
建立、発願の趣意を述ぶと云爾。
維時昭和五十五年十二月七日    九品佛浄真寺第16世 心譽順碵  合掌」



浄大供養 地蔵 」。



近づいて。



「開山堂」を斜めから。



正面に「 観音堂 」。



西國三拾三番札所供養塔 」。
西国三十三所は、観音巡礼の一つ。観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の
札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場。
日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が
衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を
巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が
消滅し、極楽往生できるとされる。
文化庁の令和元年度「日本遺産」の16件(累計83件)の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅
〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された とのこと。



「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。
こちらは左側の「三十三観音」。



ズームして。



「観音堂」に近づいて。



扁額「観音堂」。



見事な彫刻であったが、ピンボケ。



如意輪観音像 」。



千手観音像 」。



「開山堂」の「中門・薬医門」方向へ引き返す。
右手には「手水舎」。



再び、鷺草(さぎそう)にズームして。




                                 ・・・​ もどる ・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.02.20 06:37:25
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