JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.02.27
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カテゴリ: JINさんの農園
「多摩川台公園」の斜面の遊歩道を上って行った。



「⬅水生植物園」、「あじさい園」案内標識。



そして「 水生植物園 」を望む。



夏になれば(ネットから)。
浄水場の貯水池跡に作られた水生植物園 とのこと。



その先にあった広場。



国指定史跡亀甲山古墳 」案内板。



国指定史跡亀甲山古墳
この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中最大の前方後円墳である。
発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや、その古墳の
形により、 五世紀前半頃の築造 と考えられ、当時、 この地方に勢力のあった首長の墓と
推定されている。
この前方後円墳は、後円部南端を浄水場建設工事により削られているものの、比較的よく
原形を保っている。港区芝公園内にある丸山古墳とならんで、 都内の代表的古墳 である。
昭和三年、国の史跡に指定されている。
                 大田区」   



亀甲山古墳 」の平・断面図。



亀甲山古墳 」の規模。



「亀甲山古墳については、古くは江戸時代の地誌類に記述を見ることが出来ます。
『新編武蔵風土記稿』の下沼部村の亀塚の項には「浅間の西にあり、土人亀塚山といふ、
浅間山より少しく高し、されど其事跡をつまびらかにせず、上沼部村亀塚の条合せ見るべし

又下沼部村にも一所あり、名づけて雌亀雄亀と云、ただかたちの似たるを以て云にや、
その故を詳にせず、古くは御放鷹の節御立場になりしこともありと云、百姓弥右衛門の持なり、」
と書かれています。同書ではこの亀甲山古墳を「亀塚」、「亀塚山」と記述しており、また
宝萊山古墳とこの亀甲山古墳を合わせて「雌亀雄亀」と呼んでいるあたりは、興味深いところです。
また、『玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録』という徳川十二代将軍家慶が亀甲山に御上覧された

ことから、亀甲山は江戸時代当時から「かめのこやま」と呼ばれていることがわかっています」と。
史跡 亀甲山古墳 」碑。



「亀甲山古墳」前の大きな四阿風休憩所からは多摩川の姿も確認できた。



「多摩川台公園で見られるおもな野鳥」案内板。



「亀甲山古墳」を振り返って。



ズームして。



「多摩川台公園」の「古墳展示室」案内表示があった。





ひときわモダンな石作りの四阿があった。



塀に嵌め込まれた「 下村宏のレリーフ 」。



多摩川台公園 (昭和二十八年開園)と下村宏氏
昭和十二年、田園調布に居を構えて以来、この地(多摩川台)は下村宏氏が最も好まれた
散策地でした。
未開の古墳群の丘を眺めながら「何とかならないか」が口癖で、五島慶太氏(東急電鉄創設者)とも、
この辺りの未来図を熱く話し合われていたそうで初代国立公園審議会の要職ににあった下村宏氏は、
当局に掛け合い、まず多摩川台を公立公園とする許可を取り付け、努力の末、昭和二十八年
都立公園として開園、昭和五十年大田区に移管。現在では武蔵野の面影を残す自然林豊かな
公園として区民の憩いの場となっております。
下村宏氏が好んで立たれた丘の上にあずまや(休憩施設)があります。ここが歌人としても活躍された
下村宏氏の号である海南(かいなん)をとって、「海南亭」と名付けられております。
壁面に肖像レリーフと功績を顕彰した銘板を慨め込んでおります。
下村宏氏」(明治八年~昭和三十二)
明治·大正·昭和の官僚、新聞経営者、政治家、歌人。号は海南(かいなん)。
玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、
公益 福祉及び教育事業に尽力するなど、その足跡は極めて多方面にわたりました。また、晩年には
(社)田園調布会会長に就任(昭和二十七年~昭和三十二年)されました。」



「先生名は宏 海南の号をもって広く世人に親しまれた
明治八年和歌山県に生まれ 東京大学をおえて逓信省 台湾総督府の要職を歴任し 転ぜられて
情報局総裁となった また 日本体育協会 日本放送協会 藤楓協会 東京商業高等学校 
自然公園審議会等主宰して 公益 福祉及び教育事業に尽力するなど その足跡はきわめて
多方面にわたった
人となり活丹無私 法学博士の学位を有し 博学で記憶にすぐれ 文章 弁舌の雄として知られた
趣味は百般に及び 情誼はとくに厚く 交友無数であった また国土の自然を重んじ 終生山野を
跋渉して楽しみとした
昭和三十二年十二月九日 田園調布で八十二才の多彩な生涯をとじた
 昭和三十五年十二月 
        下村海南先生記念事業 実行委員会
眼さむれば 松の下草を刈る鎌の 音さやに聞ゆ 日和なるらし」 
大正4年に「心の花」入会。歌集が五冊もある。歌は天草島での作 であると。



海南亭
下村宏
明治8 (1875)年~昭和32 (1957)年
政治家・教育化・ジャーナリスト・歌人(号は海南)
「海南亭」は、多摩川台公園の生みの親である下村宏の数多くの功績を顕彰して、
昭和35(1960)年に多摩川台2号墳の南に建立されたあずまや(四阿・東屋)です。
その壁面には、下村宏氏のレリーフと来歴・人物・和歌を記した銘版が嵌め込まれ、建立以来、
区民憩いの休み処として長年親しまれています。
同氏は昭和20 (1945)年8月15日、国務大臣兼内閣情報局総裁として
昭和天皇による玉音放送を実現させ、終戦に尽力しました。
生前に勲ー等瑞鳳章を受章し、多くの著作があります。
                                  令和元年5月1日」 



大田区立 多摩川台公園 案内板 」。 



現在地は第一広場前のここ!!



黄色く染まったイチョウ。



大田区立多摩川台公園 古墳展示室 」が正面に。



大田区立多摩川台公園 古墳展示室 」入口。



大田区立多摩川台公園 古墳展示室 」案内板。



古墳展示室 」。



「古墳展示室は自由にお入りください 入場無料です」と。



大田区の古墳」  



正面から。
大田区の古墳
多摩川下流一帯は、水資源と肥沃な土地に恵まれ、弥生時代以来、豊かな農耕生産に支えられて
発展した。
その中から有力な首長が誕生し、彼らのシンボルとして巨大な墓「古墳」が造られた。
大田区田園調布から世田谷区野毛に至る、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、数多くの
古墳が分布し、これらは荏原(台)古墳群と呼ばれている。
ここでは、その古墳群のうち、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」を造られた順に
紹介する。」 

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅱ)』 mk-7_a0289546_07091825.jpg

復元された古墳 」 
巨大な古墳の墓が実物大のレプリカで再現。



近づいて。



古墳頂部をズームして。



古墳の下には「 形象埴輪 」が並んでいた。



古墳展示室の見どころ案内
ここから一歩中に入ると6世紀、古墳時代の日本にタイム・スリップ。築造当時のままに
復元された全長約60mの前方後円墳が目の前に現れます。みなさまも、古代人になった気分で
古墳の周溝や石窟の中を散策してください
①古墳展示室の見どころ案内   ②復元された古墳
③マツリの風景「墓前祭」    ④横穴式石室に入る
⑤木棺に埋葬された首長     ⑥大田区の古墳
⑦古墳の断面          ⑧古墳の造り方
⑨荏原(台)古墳群の分布    ⑩武蔵国造の乱
⑪いろいろな古墳とその大きさ  ⑫展望窓」。



横穴式石室を模した展示室への入り口。



まつりの風景「墓前祭」 」。
形象埴輪配列の復元は、以前に見学したことがあるが、人の形としてリアルに復元されたものを
見たのはこれが初めてであった。



まつりの風景「墓前祭」
墓前祭は、亡くなった前首長の埋葬の儀式だけでなく、新首長の即位を広く人々に知らせる
ための、世代交代を執り行う儀式でもあった。
前首長の眠る石室の前で、神に仕える巫女のとりしきる「マツリ」が樂人達の奏でる音楽を
伴奏として、厳かに進められている。」   



大刀を持つ女 」。



大刀を持つ女
大刀
重要な役割をはたしたことと考えられます。
墓前へと向かう葬送の行列では先頭を歩き、これに続いてマツリに参加する人々の先払いとなった。
そして、儀式では守護の象徴して人々とマツリの場を見守った。
このような大刀を特つのは、霊力を持った女性の役目てあったと思われる。
埴輪では巫女の姿で表現されている。


巫女 」。



巫女
椅子に腰掛け、坏を捧げ持つ。
身を清めるための酒でも入っているのであろうか。
肩に回し衣をたくしあげる襷、肩から斜めに被られた游須比、幅の広い帯、腰につけられた鏡
(六鈴鏡)と刀子(小刀)など、マツリを取り仕切る巫女の衣装や持ち物がよくわかる。
顔や首を赤く隈取りするのは、呪術的な理由からであろう。」 



新首長 」。



新首長
椅子に腰掛け、前を見据え、意を正すようすは、即位したばかりの新首長としての緊張感と
力強さを感じさせる。
ボタンのような装飾のある星形の鍔付帽子を被り、腕に籠手、手には手甲をつけ、衣を身にまとう。
椅子の上には左側に玉纏大刀が置かれている。
顔を首を赤く隈取りしているほ他、美豆良(みずら・男性の髪形)を縛る飾り紐も赤い。」 



琴を弾く男 」。



琴を弾く男
マツリの雰囲気を盛り上げる楽人の一人、膝の上に琴を置き、これを奏でている。
琴は埴輪にみられる最もポピュラーな楽器で、マツリの中でも重要な役割を果たしたのであろう。
このような琴は弥生時代の遺跡(2~3世紀頃)から既に発見されている。
奈良時代には中国や朝鮮から伝承した大形楽器に対抗して大きくなり、「和琴」と呼ばれる
ようになるが、これと区別するため「大和琴」、あるいはその姿から「鶏尾(とびのお)琴」とも
よばれる。」 



太鼓をたたく男 」。



太鼓をたたく男
太鼓が生み出す響きやリズムは、人々の心を自然とマツリの世界へ誘ってゆく。
墓前祭においてもこの楽器は重要な役割を果たし、こを奏する楽人もマツリの中心人物の
一人であった。
胸の両側の皮は山形に縫った糸で留められている。
これを肩から吊るし、左手で支え、撥(ばち)でたたいている。
太鼓をたたく姿の埴輪はたいへん珍しい。」  



古墳内部に展示室へ。
壁面には、田園調布古墳群の個々の古墳について、出土品やパネルで詳細な解説がなされていた。
そのうち、この日、めぐった蓬莱山古墳・亀甲山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)を中心に見学。
出土した土器類が年代別に展示されていた。



円筒形埴輪 」。 



土師器形土器 」。 
手前に「 鍔(つば) 」、「 金環 」。



指定書
多摩川台古墳群
指定面積
8964.25平方メートル
右を東京都指定 史跡 に指定する
平成十二年三月六日 東京都教育委員会」。



7世紀初 多摩川台古墳群第3・4号墳
範囲確認調査の際、両古墳の間に周溝の見つかり、各々独立する円墳てあることが判った。
また、埴輪が出土し、第1・2号墳(前方後円墳)と共に、多摩川台古墳群の中て一グループを
形成するものど考えられる。

第3号墳

別名 後藤第3号墳、西岡第44号墳
墳形 円墳
規模 径13m、高さ1m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 土師器坏形土器4、須恵器片、埴輪片

第4号墳
別名 後藤第4号墳、西岡第43号墳
墳形 円墳
規模 径18m、高さ2m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 
大刀3、鍔2、刀子1、鉄鏃3、轡片1、金環1、須恵器、土師器片」 



第3・4号墳の築造関係

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅱ)』 mk-7_f0339895_06565177.jpg

多摩川台古墳群(円墳8基)の模型をアップで。
南から北へ1号墳から8号墳が連なっている。
最下端(南)の前方後円墳は後に円墳2基に築造し直され、1号墳、2号墳となっている。
最上端(北)の円墳は「9号墳」となっているが、のちの「新8号墳」である。

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅱ)』 mk-7_f0339895_09361561.jpg

多摩川台古墳群第5・6・7号墳
古墳の中心点を結び、その直線に横穴式石室の方向を交叉させると各々ほぼ直角に交わる。
これらは古墳の築造が計画的に行われてことを物語っている。
多摩川台古墳群における第4号墳と第5号墳の間隔は、他に比べ広く、埴輪の有無も合わせて考えると、第1~4号墳、第5~7号墳という二つのグループが想定される。
第5号墳
別名 後藤第5号墳、西岡第42号墳
墳形 円墳
規模 径20.1m、高さ2.75m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 
大刀4、刀子3、鉄鏃62、轡1、小玉221、管玉5、勾玉4、棗玉2、切子玉1、
金環、銅環、須恵器片

第6号墳
別名 後藤第6号墳、西岡第41号墳
墳形 円墳
規模 径19.5m、高さ2.8m
埋葬施設 横穴式石室

第7号墳
別名 後藤第7号墳、西岡第40号墳
墳形 円墳
規模 径20m、高さ1.75m
埋葬施設 横穴式石室」 



第5・6・7号墳の築造関係
説明書きにあるように、確かに、3基の古墳の石室は主軸線と直角に設けられている。

『武蔵国史跡めぐり/多摩川台公園古墳展示室(Ⅱ)』 mk-7_f0339895_07010755.jpg

上段:大刀
中断:刀子、轡(くつわ)
下段:小玉、管玉、勾玉、棗玉(なつめだま)、切子玉



7世紀後半
多摩川台古墳群第9号墳(新8号墳) 横穴式石室実測図
小谷を挾んて離れた位置にある。
昭和32年の発堀調査で、前室と奥室=玄室のある横穴式石室が発見された。
出土遺物の内容から、前室は葬送祭祀を行う場所、玄室は遺体安置の場所として
利用されていたと考えられている。」  



土師器杯形土器 」と
須恵器長頸瓶
横穴式石室の前室から3点、土師器坏形土器1点と共に出土した。そのため、前室では
葬送祭祀が行われたのではないかと考えられている。長頸瓶の中には、酒などの飲物でも
入れたのであろうか?その姿からフラスコ形瓶とも呼ばれ、2つの半球形を合わせ、
側面に孔を開け長い口頸部を接合して作られる。これらの生産地は東海地方に限られるとされ、
7世紀前半に始まり、8世紀に続くと考えられている。」   
下段には「鉄鏃」と「金環」、「小玉」、「丸玉」。








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Last updated  2024.02.27 06:09:21
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