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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行寺の坂、またの名を道場坂を上っていくと右側にあるのが諏訪神社。江戸時代は藤沢宿大久保町、大鋸町の鎮守社。遊行寺の鎮守でもあったのだ。階段を上って、小高いところにある諏訪神社の境内へ。箱根駅伝の観戦ついでに訪ねたのが何年前であったろうか。この時は階段にも長蛇の列であったがこの日は神社を独り占め。藤沢七福神めぐりのスタンプは、鳥居の手前右の社務所前でした。 諏訪神社も御朱印ではなくスタンプを頂く。諏訪神社の石の鳥居。 本殿を目指し更に進む。 手水舎にてお清め。 本殿。旧東海道沿いのこの諏訪神社は藤沢宿東方面の総鎮守。遊行第四代の呑海が山中鎮護のために勧請したとされるが、鳥居の前で落馬事故が度々起きたために37代上人により慶安年間(1648年~1651年)に風早之谷(諏訪ヶ谷戸)へ一時祀り、元禄12年(1699年)に現在地に移転した。明治維新後の神仏分離令により、遊行寺から独立。祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)。いろいろな境内社が。 太子堂。 祖霊神。大黒天社。 道祖神。 諏訪神社四神剣展示館。 この展示館の中に大黒様が鎮座。お参りを終わり階段を下る。寒い日であったがそれにしても人が来なかったのであった。大黒天の赤い旗の下には国道1号線が。 そして目の前には時宗総本山遊行寺の脇門が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2016.01.29
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク今年の1月は地元藤沢の七福神めぐりにも行ってきました。『第19回 新春藤沢七福神めぐり』の行事は昭和28年から行われており、現在の形になってからは毎年曜日に関係なく1月7日~31日までが拝観期間。藤沢の七福神は、白旗神社と片瀬の龍口寺が毘沙門天を祀っていることから、8社寺をめぐる珍しいもの。早い方で3時間、通常で半日弱で回れるコースだが、1日で回る必要もなく、期間中の9時~16時までは専用用紙にスタンプが押せるようになっていました。近場の七福神をめぐり、幸多い一年であるように祈願したのでした。まずは、藤沢橋近くにある感応院(かんのういん)へ向かう。 感応院は高野山真言宗の寺院。山号は三島山。建保6年(1218年)道教を開山、源頼朝が静岡の三島から「三嶋大社」を勧請したのが始まりといわれている。応永5年(1398年)に幸海が中興した。江戸時代の慶長14年(1609年)江戸幕府から檀林所の指定を受け、慶安2年(1649年)には3石7斗の朱印地を与えられたと。感応院の山門・薬医門を潜る。歴史を感じさせる鐘楼。藤沢宿では最も古い寺院とのこと。三嶋大明神。源頼朝が建てたものとされ、堂が360°回転するように造られているとのこと。長谷寺の輪蔵などにも見られるように、経が納められた堂を回転させることで御利益があると。扉の両脇の木の壁には見事な彫刻が。本堂。本尊は不動明王。手入れの行き届いた境内の庭には石造りの十三重の塔が聳え荘厳な雰囲気が漂う。弘法大師修行像。感応院には弘法大師像が2つあり、1つは本堂内にある木造弘法大師像で、相模国準四国八十八箇所の一番。境内中央にはこの弘法大師修行石像があり、これは二十三番。八十八箇所を巡礼する人は、ここに2度来ることになるのです。この境内の一隅に、ちょっと変わった六地蔵を見つけました。右から「六地蔵」と彫られた台座の上に、一枚の石板に六地蔵が線彫りされていた。磨耗してよく見えなくなっているが、確かに6体。寿老人の御朱印を頂きたかったが、御朱印には対応されてないようであったのでスタンプのみとなりました。次の諏訪神社に向かう途中、遊行寺近くの交差点近くには広重作の東海道五十三次「藤澤」の絵が。遊行寺橋と絵の手前に大きな鳥居が描かれている、これは江ノ島弁天の一の鳥居。そしてその横には手前の宿「戸塚」も。早朝に日本橋をたった健脚が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれています。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で有名な店。軒下には伊勢参りをする一団(講)の名前を記した木札が掛けられています。 ・・・つづく・・・
2016.01.28
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『歩いて見よう藤沢宿』の見学・撮影を終え、藤沢橋まで戻る。この場所の歴史ある橋は実は現遊行寺橋(旧大鋸橋)であり、立派な造りのこの藤沢橋は昭和に入って架けられたものであるということを知らない人も多い。ここは様々な時代で「藤沢宿の玄関」となった場所。鎌倉時代には鎌倉に向かう入り口、そして遊行寺の入口でもあり、江戸時代には宿場町の入口として見附が置かれた場所、更に江の島へと向かうスタート地点等ハブ交差点。石灯籠には下を流れる『境川』と刻まれた文字板が。 遊行寺東門まで足を延ばし境内へ。遊行寺境内案内図。一般的にはお寺にない建物が。神仏分離の為に諏訪神社と遊行寺が分かれてしまっが、昔は仲良くしていたので、今でも遊行寺境内に諏訪神社の神輿社が残っているのだと。 中には遊行寺の神輿が2基そして諏訪神社と書かれた掛け軸が。 本堂前の手水舎では、明治100年を記念して造られたという龍の口から水が流れ初詣の人々がお清めを。本堂の初詣客はだいぶ少なくなっていた。遊行寺は時宗の総本山。正式名称は、「藤澤山無量光院清浄光寺」。「遊行上人のおわす寺」ということから「遊行寺」の名で親しまれて来た。本堂は、関東大震災で崩壊した後、1937年(昭和12年)に落成した東海道随一といわれる木造建築物。 一遍上人像。 時宗総本山遊行寺こと藤沢の清浄光寺にある宗祖一遍上人。1239(延応元)年に河野通広の子として生まれた一遍上人は1289(正応2)年に兵庫観音堂で無くなるまで、念仏を唱えれば仏になれるという教えを踊念仏の形で庶民に伝えた人物。 鐘楼。藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、鋳造は、銘文によると延文元年(1358年)。 遊行寺で最古の中雀門が約5年前に改修されており、特に菊の御紋や葵の御紋もみられ、フクロウなどの鳥の彫物が素晴らしい。遊行寺宝物館。 特別展「遊行寺の至宝」・後醍醐天皇像特別公開中!のポスター。明治天皇御膳水。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸とのこと。 大銀杏。高さ16m、幹周り6.84mと鶴岡八幡宮の大銀杏と並ぶ巨木であったが鎌倉の大銀杏は・・・・・。境内には多くの食べ物の出店が立ち並び賑わっていた。 本堂を後にし惣門への石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれている。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々に憩いを与えているのだ。地元ではいろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれている。 途中、真徳寺の赤門が左手に。遊行寺の塔頭、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であると。惣門手前の右手に板割浅太郎の墓が。説明板によると『板割浅太郎は、国定忠治の子分であった。ところが、忠次が浅太郎の叔父の中島勘助を裏切り者と疑ったとき、忠次は浅太郎の忠誠心を試すために、浅太郎に勘助の殺害を命じた。やむなく勘助を殺害した浅太郎だったが、そのときに4歳になる勘助の子勘太郎も殺害してしまった。これを悔やむ浅太郎は、遊行上人の手引きにより、遊行寺で出家し、やがて遊行寺の塔頭の1つ貞松院の住職となった。貞松院は今はなく、浅太郎の墓は現在ここ遊行寺内の真徳院の墓地にある。』 と。惣門を再び。日本三大黒門と称する冠木門、通称黒門。遊行寺以外の黒門はどこに?見事な巨大な青銅製灯籠。高さ約2メートル80センチの灯籠で、惣門前に対になって建立されている。 惣門を出て進むと左手に『ふじさわ宿交流館』 が建設中。完成すると、内部には郷土資料展示室を設け東海道五十三次を行き交う人々を描いた絵図や、藤沢宿の名物、旅の道具などを展示し、江戸時代の藤沢宿と東海道五十三次を中心に郷土の歴史を紹介するのだと。浮世絵に描かれている現遊行寺橋から藤沢橋を望む。 自宅に向かう為のバスを待つ。バス停の前には黒い重厚な造りの桔梗屋洋紙店の土蔵が。 自宅への帰路の途中、バスの中から白旗神社を。文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、6月13日腰越で首実検が行われた後、この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承と共に伝源義経首洗井戸や弁慶塚が残され、宝治3年(1249年)に源義経をこの白旗神社に合祀したのだと。 「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」を待つ多くの初詣客が神社前の道路の歩道まで長蛇の列を。そして帰宅し、再び箱根駅伝の復路の激走をテレビ観戦したのであった。
2016.01.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク12番『藤澤 五十三次 神谷伊右衛門お岩霊』藤沢宿の立場「四ッ谷」に歌舞伎の外題『東海道四谷怪談』をかけて役者による見立にした作品。左の神谷伊右衛門役に二代中村翫雀(がんじゃく)、右のお岩(霊)役に嵐璃珪(りかく)という二人の大坂の歌舞伎役者が描かれている。上部に描かれた絵は大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居の組み合わせという藤沢宿の風景。 13番『東海道 藤澤(上洛東海道)』文久3年(1863)の十四代将軍家茂の上洛を意識して出版された東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているもの。この画は馬方が飾りを付けた馬の足の具合を見ているところ。行列はすでに宿場を抜けようとしていて、馬がそちらを見据えている様子が印象的。背後にある緑の三角は、大山。大山は、丹沢表尾根の東端にあり、富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた山(大山信仰)。14番『東海道五十三図会 藤沢(美人東海道)』このシリーズは前面に美人姿を大きく描いているので一般に美人東海道と呼ばれてる。右端に「相州 江の嶋詣」とあるのでこの女性が江の島帰りであることがわかる。女性の脇の駕籠の上に乗っている品物は、江の島名物「アワビの粕漬け」。背景(上段)は藤沢宿の景観。 15番『東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)』このシリーズは図柄の中に狂歌が1首ずつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれている。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠で大山詣を象徴。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺える。 16番『東海道中栗毛彌次馬 藤澤』このシリーズは大ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』を摸して作られている。芳幾が弥次さんと北さんの二人が各宿でくりひろげる道中模様をユーモラスに描き、魯文が各宿のテーマとなる文章、狂歌一句と二人の会話をおもしろおかしく記している。(二人が狐拳(きつねけん)に興じているところ。) 17番『武英名馬競 小栗小次郎助重』このシリーズは「武者絵」シリーズと呼ばれ、国芳が武英名馬競(武将とゆかりの名馬の組み合わせ)を描いたもの。この絵は、藤沢ゆかりの小栗小次郎助重と、小栗判官物語に登場する鬼鹿毛(おにあしげ)が描かれている。18番『東海道五十三対 藤澤』このシリーズは、初代広重、三代豊国、国芳の3人の当時代表的人気浮世絵師が分担して描いたもの。この絵は国芳の手による小栗判官照手姫で、いったん地獄へ堕ちた小栗が熊野で本復した様子を描いている。岩を持ち上げているのが小栗で、しゃがんで驚いた様子をしている女性が照手姫。小栗の後方の滝は那智の滝。 19番『東海道五十三次内 藤澤 ひらつかへ二り余』このシリーズは芳員が各宿場にまつわる伝説や逸話を面白おかしく紹介。藤沢の場面では、侍と馬が囲碁を打っているもので、藤沢ゆかりの『小栗判官照天姫伝説』に登場する「鬼鹿毛乗馬の段」を暗示しており、侍が小栗判官、馬が鬼鹿毛、横で見ている女性が照天姫。鬼鹿毛が轡(くつわ)の印の浴衣を着ているのもご愛敬。 20番『双筆五十三次 藤澤』このシリーズは、広重と豊国との双筆(合作、描き分け)で描かれている。人物は『小栗判官伝説』の主人公の一人の照天姫で、地獄からよみがえって土車(つちぐるま)で熊野まで送られた夫の小栗を、車の綱を引いて運んだという当時有名な話を絵の題材にしている。特に解説をしないでも、街道で車を引く女性というだけで照天姫だと分かったもの。21番『東海道五十三次之内 藤澤 小栗判官(役者見立東海道)』このシリーズは「役者見立東海道」と呼ばれ、各宿ゆかりの歌舞伎役者を大きく描き背景にその地方の風景を添えた絵で、こうした趣向を見立(みたて)という。この画は藤沢宿ゆかりの物語「小栗判官照天姫伝説」を描いており、扮する役者は坂東竹三郎(のち、五代坂東彦三郎)、背景は初代広重の保永堂版東海道の構図を使っている。 22番『雪月花 相模 横山の花 照手姫 小栗判官』このシリーズは「雪月花」シリーズと呼ばれ、周延が各地(国)の歴史や伝説上の人物を花に見立て描いている。この絵は、相模の国「横山の花」照手姫を花に見立てて描いたもの。小栗判官物語では、照手姫は武蔵・相模郡代である横山氏のひとり娘と言うことになっている。 江ノ島道の道標。 遊行通りを藤沢駅北口に向かう道には浮世絵ではなく子供?が描いた遊行寺が。藤沢市の市章はフジを図案化したもの。そして市の花、藤の花、市の鳥カワセミが描かれていた。遊行寺本殿そして屋根の上に描かれた時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)。遊行寺の大イチョウ(藤沢市指定天然記念物)の葉が舞っていた。残念ながらこの桜咲く寺の絵には悪戯書きが。
2016.01.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「歩いて見よう 藤沢宿」と書かれた、藤沢宿にちなんだ浮世絵箱が遊行通り四丁目商店街より国道467に合流した地点より藤沢橋まで両側の歩道際に22ヶが並んでいる。今まで気になっていたのでしたが、今回、2日間に渡った箱根駅伝観戦の後、徒歩にて見物そして撮影してきました。遊行通り4丁目から藤沢橋にかけてトランスボックスに藤沢宿にちなんだ浮世絵がラッピングしてあるのです。トランスボックスは、街路より電柱をなくし景観を良くするために、地中ケーブル工事にともなう、電力会社の配電箱なのです。デコボコの表面に浮世絵をラッピングしたことにより落書き等がなくなったと。1番 それぞれの下記説明は『http://ecom-plat.jp/fujisawa-chiku/group.php?gid=10070』より抜粋しました。浮世絵箱の下側に書いてある説明文には「十四代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで『上洛東海道』と言われているものの一つ。鳥瞰的な構図で遊行寺坂上から大鋸橋(現、遊行寺橋)まで続く行列の長さが強調されている絵。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居です。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっている。作者: 橋本貞秀 制作時期:文久3年(1863)2番安藤広重作 『東海道五拾三次之内 藤澤』。藤澤は、時宗の総本山である 遊行寺の門前町として生まれ、東海道の宿駅となり発展。藤澤橋の手前の鳥居は、ここから5キロほど先の江ノ島弁財天の入り口を示している。 3番『藤澤』女性の艶姿を前景に大きく描いた「美人東海道」シリーズの一つで、背景には江ノ島一ノ鳥居付近の様子が描かれ、旅姿の女性像の右側には、宮戸連(俳句の結社)其生の「此しゆく(宿)に ゆかりの色や杜若(かきつばた)」という句が添えられている。4番『東海道五拾三次之内 藤澤図』「五拾三次景色入女画」シリーズの一つで、バックの風景画は広重の保永堂版東海道に非常によく似ている。保永堂版に描かれた時間を少し進めたような感じ。後ろの小山は遊行寺で、大鋸橋(現遊行寺橋)付近を表している。5番『東海道 藤澤』十四代将軍家茂の上洛を意識して出版された「上洛東海道」と同じく、宿場の風景に行列を描き込んだシリーズ。朝霧のなか、大鋸橋(現遊行寺橋)を行列が通り過ぎていくところをシルエットで描いたもので、左手前の鳥居は江の島一ノ鳥居。上方の屋根は遊行寺。6番『東海道一ト眼千両 藤沢 弁天小僧菊之助』人気歌舞伎役者をゆかりの宿場を背景に描いたシリーズ。「一眼(目)千両(ひとめせんりょう)」とは、一目見ただけで千両という大金を払う価値があるというたとえ。白波五人男の一人、女装した弁天小僧菊之助に扮する四代市村家橘(いちむらかきつ。のちの五代尾上菊五郎)が「知らざあ言って聞かせやしょう」と見栄を切るところ。7番『東海道名所 藤澤 遊行寺』遊行寺山門の雪景色で、現在よりも急な参道の突き当たりには重厚な仁王門が描かれ狂歌が添えられている。この門は江戸時代に遊行寺が発行している境内絵図にも同様に描かれている。8番『東海道五十三次之内 藤澤(行書東海道)』このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれる。画面右に江の島一ノ鳥居、辯才天と書かれた扁額が掲げられている。左の茶色の橋は大鋸橋(現遊行寺橋)。橋の上には御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)を担いでいる大山詣の帰りの一行が描かれている。9番『東海名所 改正道中記 藤澤 江のしまみちの鳥居』三代広重描くこのシリーズは、明治前期の東海道各宿駅の風景が華やかな色彩で描かれている。大鋸橋(現遊行寺橋)には馬に乗った外国人が描かれ、明治時代を象徴。横浜居留地から十里四方以内は外国人の通行が認められていた。10番『書画五拾三駅 相模藤澤 山帰定憩』このシリーズは上部に文人墨客の文章と絵、下部には各宿駅ゆかりの故事、伝承や風景が描かれている。表題の「山帰」の山とは大山(雨降山)のことで、女性のうしろの縁台には、大山詣をあらわす御神酒枠(おみきわく。大山から水や酒を持ち帰る容器)が置かれている。また、右端の「電信柱」が、明治の街道を象徴している。11番『東海道 五十三次 藤澤(隷書東海道)』このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つ。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられる。 ・・・つづく・・・
2016.01.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク箱根駅伝の復路応援の後は、遊行寺境内の散策。時宗の総本山で『藤澤山無量光院 清浄光寺』が正式名称。時宗の法主が遊行上人といわれるところから遊行上人のおいでになるお寺ということで、遊行寺と呼ばれているのです。大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の惣門。 惣門を入った左側には板割浅太郎の墓が。 板割浅太郎は、国定忠治の子分であった。ところが、忠次が浅太郎の叔父の中島勘助を裏切り者と疑ったとき、忠次は浅太郎の忠誠心を試すために、浅太郎に勘助の殺害を命じた。やむなく勘助を殺害した浅太郎だったが、そのときに4歳になる勘助の子勘太郎も殺害してしまった。これを悔やむ浅太郎は、遊行上人の手引きにより、遊行寺で出家し、やがて遊行寺の塔頭の1つ貞松院の住職となった。貞松院は今はなく、浅太郎の墓は現在遊行寺内の真徳院の墓地にある。 境内の大銀杏。 藤沢市指定天然記念物。幹周:7.1m、樹高:16m、樹齢:300年~700年.この大イチョウは雄株。かつては樹高が31mもあったが、 昭和57年(1982)の台風で上部が折損してしまい、繭玉のように横に広がった樹形となったとのこと。本殿には多くの初詣客が。 宗祖一遍上人像。境内にはたくさんの出店が。 中雀門。 鐘楼。 本殿へと続く立派な回廊。 回廊の隅の建物。 宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰されたと。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されているとのこと。中雀門をくぐった先は本坊。 宝生池。案内板には以下のように記述されていた。この池は一名「宝生の池」とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」(元禄七年十月)の日記によれば、金魚・銀魚等を放生せんと思わば、清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし、目付へ届出づべし。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている と。 野鳥ものどかな正月か。 池の中の小島には祈りの像が。 遊行寺宝物館。時宗美術とも言うべき、仏教美術を中心とした絵画・彫刻・陶磁器・工芸品・書跡・典籍や、関連する中近世文書など、約二万点の収蔵品があるとのこと。特別展 遊行寺の名宝が開催中。そしてこの日はバスにて帰宅。
2015.01.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク今年も「湘南ねぶた」が8月23・24日に行われました。我が町が1年で最高に賑わう日なのです。 自宅から徒歩にて会場へ。祭りの責任者?が挨拶中。「湘南ねぶた」は、祭りを通して人の心を燃えさせ、健全なエネルギー発散の場を作り、人と人の心が通い合うあたたかい地域社会をつくりだすことを願っておこなうものであると。警察官も警備のため動員されていました。 そしていいいよ『ねぶた』パレードのスタート。 子供達が囃子方で先導。 子供達の創った『金魚』 ねぶた。ドラえもんとアンパンマン。 そして本場の青森県にも負けない巨大な山車が登場 。祭りを通して地域コミュニケーションを促そうと、今年で18回目になる「湘南ねぶた」。毎年、本場青森ねぶたで使用されたものを運んでくるとのこと。 今年のテーマは織田信長 『天下布武』 。『天下布武』とは日本全国を武力で統一するという信長の意志を示したもの。地元の神社名も。 顔はいまいち怖くなかったのですが。 後ろには『永楽通宝』が描かれた永楽銭ののぼり旗が。常時戦える兵士を雇う為の軍資金、信長の永楽銭ののぼり旗は信長の力の源泉。跳ね人が続く。 大太鼓を載せた山車。 3個の大太鼓。 湘南ねぶたのシンボルマーク。 踊り手の地元のオバチャン達。駅前のロータリーを2周。 太鼓のリズムに合わせて、掛け声も勇ましく回転も何回か。跳ね人も大張り切りで拍手喝采を。らっせ~らっせ~らっせ~ら と声を合わせて。この暑い時期には若い方でないとこの跳ね人は無理。道路脇の駐車場には多くの出店が。 金魚すくいを楽しむカップル?も。 ねぶたが国道467線を横断するために国道も一時閉鎖。 そして国道を横断する大型ねぶた。 今年は、本場・青森の五所川原の立佞武多(たちねぷた)を見てしまったので感動は小さかった が本音であるが、地元の年一度の賑やかな祭りとしていつまでも続けていって欲しいと思うのであった。
2014.08.31
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢の夏の夜を彩る『湘南ねぶた』が24,25日と、我が地元の小田急線・六会日大前駅周辺で開催されました。我が街が1年に1回最も賑わう2日間。今年で17回目。今年の主役は『阿弖流爲(アテルイ)』。平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。 阿弖流為という名は『続日本紀』、『日本略記』という古い文献2冊にそれぞれ1度登場するとのこと。 『続日本紀』では、延暦8年(789)、巣伏村(すぶせむら)での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして記載されているとのこと。 裏側は鳳凰? 横には菩薩が。先導する山車。 そして跳人、子供達が「ラッセーラ♪ ラッセーラ♪」と元気に。大太鼓山車。 アンパンマン ドラエモン 金魚 前日は雨の心配があり、ビニールシートを被せてのパレードだったようですがこの日はシート無しでのお目見えとなったのです。
2013.08.31
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク先週の日曜日は妻に誘われ、江ノ島 八坂神社のお祭りを見に行ってきました。この祭りは、「天王祭」と呼ばれ、毎年7月14日に近い日曜日に海上渡御(とぎょ)が行われるのです。昔、対岸の腰越・小動神社(こゆるぎじんじゃ)の御神体が海に流されたとき、江の島の漁師が江島岩屋近くの海で拾い上げ、それを八坂神社に祀ったのが始まりといわれているとのこと。この日は祭り最終日の神幸祭。小田急線で片瀬江ノ島駅まで。駅舎は竜宮城を模したユニークなデザイン 片瀬海岸と江ノ島を結ぶ橋・弁天橋。神奈川の橋100選にもなっているのです。海をテーマに、ヨットをイメージした橋。江ノ島に架かるのは「江の島弁天橋」とやや、ややこしい。 江ノ電江ノ島駅から片瀬江ノ島駅、もしくは江ノ島へ向かう道に「すばな通り」という商店街。境川の鼻先という意味で「すばな」と呼ばれ、江戸時代より、江ノ島神社詣での通り道として旅籠、観光土産店が立ち並んでたと。このすばな通りを反対向きに江ノ電江ノ島駅そして竜口寺方面に向かう。 途中から脇道にそれ467号線脇を歩く。この時間、お祭りのため江ノ電は片瀬江ノ島駅~稲村ヶ崎駅間が運休中。2台の神輿は既に竜口寺前を通過し小動神社へ向かっていた。 竜口寺は江ノ島を望む片瀬山の眺望の良い南端にある日蓮宗の寺。もともとの腰越の地元は、五町からなっており、それぞれの町ごとに以下の人形を戴いた山車で祭りを盛り上げてくれていたのです。濱上町:源義経と辨慶 神戸町:八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政 土橋町:源頼朝と御所五郎丸 下町:神功皇后と武内宿禰、応神天皇 中原町:須佐男命 こちらは土橋町:源頼朝と御所五郎丸。中原町:須佐男命 。電車道を仮宮までの神輿の競演。神幸祭で最も華やぎ、熱気に溢れる時間。漸く神幸祭の先頭を歩き先導する猿田彦の姿まで追いつく。手には、旗が付いた鉾持ち、一本歯の高歯の下駄を履いていた。左側は江ノ電腰越駅。 神戸町:八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政 。神戸町は『ごうどまち』と読むのだと妻から教わる。妻はこの近くで生まれ、育った祭り好き。小動神社入り口。 幟旗が一対。神社前には、源義経公と弁慶像が臨時に祀られていたが、腰越は義経公のゆかりの土地。その横には、四神相応の幟(黄色)が立てられていた。そしてその横から清龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)の幟。 小動神社説明板。『主祭神 建速須佐之男命・建御名方神・日本武尊小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬の頂にあったということに由来します。縁起によれば、源頼朝に伊豆配流の時代から仕えた佐々木盛綱が、源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられています。元弘3年(1333)5月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したといいます。7月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、町一帯を回る御輿や氏子五か町の囃子屋台などで大いに賑わいます。』 と。小動神社社殿。 神社近くからの絶景。腰越港と江ノ島。帰りは満福寺に立ち寄る。この寺で源義経が兄源頼朝の許しを得るための「腰越状」を書いたのだ。本殿。 134号線まで行き引き返して来た神輿。 先導の神主一行。 お囃子も賑やか。 緊張の中、巫女さんも暑さで大変。 神輿の競演。「どっこい」、「どっこい」、「どっこいそーりゃ」の掛け声とともに両神輿が揺ていた。
2013.07.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク藤沢の夏の夜を彩る湘南ねぶたが25日、我が地元の小田急線・六会日大前駅周辺で開催されまた。我が町が1年に1回最も賑わう2日間。今年も土曜日の19時前に徒歩で見学に行ってきました。地域振興を目的に地元商店街などによる湘南ねぶた実行委員会が1997年から毎年開催しているのです。今年で15回目。ねぶたが通過する場所は六会日大前駅周辺。地元亀井神社の恒例の行事。 今年のねぶた。人物は伊達政宗。伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名。 幼い頃に患った天然痘により右目を失明し、独眼となったことから後世独眼竜と呼ばれている人物。今年の青森ねぶたをレンタルし毎年トラックで我が町まで運んで来るのです。道路幅いっぱいの勇壮なねぶたが途中、回転すると観客から拍手が湧いていました。瑞鳳殿は70歳で生涯を閉じた伊達政宗の遺命により、その翌年に造営された霊廟。今年の春の仙台出張時に訪ねた場所。地元住民や県立藤沢養護学校の生徒らが参加。アンパンマンなどのキャラクターをあしらったねぶたも登場し子どもたちを喜ばせていた。新市長も初登場。なまはげも登場。 実行委員会の役員さん達も赤いユニホームで汗まみれで焼き鳥と格闘。道路脇や近くの公園には数多くの出店が。美味しそうなお好み焼き?の店には長蛇の列。大きな太鼓を懸命に叩く若者達。「らっせぇら」の掛け声とともに運行されるねぶたは圧巻で、跳人やお囃子がまつりを盛り上げていました。山車の提灯には知った人の名前も。国道467号線をねぶたが横切るため。国道も一時封鎖。今年のテーマは、東日本大震災の復興祈願を意味しているのです。16回目を迎えた風物詩に多くの市民らが詰め掛け、熱く盛り上がったのでした。
2012.08.27
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク鵠沼皇大神宮人形山車のパレードを楽しんだ後は、引き続き北口大パレード2011を楽しんだ。まずは藤沢鳶職連合会の木遣り唄付きのハシゴ乗りの披露。本来は、仕事するための準備運動として鳶職がハシゴに乗ったとのこと。鳶職は高所の作業をするため身軽でなければ務まらず、また、度胸がなければ出来ないので、ハシゴ乗りで身のこなし方と度胸をつけ、一人前の鳶職として活躍できるよう訓練したと。3人の見事な技が成功。鳶口で支える仲間も真剣。続いて『江の島ばやし保存会』。指定無形民俗文化財とのこと。藤沢市消防音楽隊。隊員は、消防本部や消防署・出張所で働く消防職員。藤沢暴力追放推進協議会。派手なハーレー軍団。大韓民国保寧市。2002年に姉妹都市提携。大韓民国西海岸の中核拠点都市で、世界で唯一の貝殻で出来た白浜と、青い海と水平線に点在する大小さまざまな島々が一望できる大川(テチョン)海水浴場は西海岸第一の海水浴場とのこと。米海軍第七艦隊パレードバンド。アメリカ合衆国第七艦隊は50隻以上の艦船、400機の航空機と、海兵軍・海兵隊員合わせて6万人の規模を誇り、太平洋とインド洋の5千2百万平方マイルを責任範囲とする最大の艦隊とのこと。やはりプロの見事な演奏。海の女王・王子。湘南海の女王・海の王子コンテストは、毎年7月の海の日前後の週末に藤沢市で行われるコンテスト。ここで選ばれたのである。神奈川県立湘南台高校吹奏楽部。H22年全国マーチングバンド全国大会金賞受賞。湘南ドルフィンズマーチングバンド。小学生だけのマーチングバンド。鎌倉女子大学中・高等部マーチングバンド部。マーチングバンド・バトントワーリング全国大会 金賞の常連校。大道小学校トランペット鼓隊茅ヶ崎湘南マリンバトン。バトントワリングに美しさとかっこよさが見事。鵠沼高等学校マーチングバンド部。2004年に鵠沼女子高等学校から鵠沼高等学校と校名を変更し男女共学に変わった学校。マーチングバンドの中にも数人の男性生徒が。鵠沼バトンガールズ一連のパレード終了後、駅前の高架広場に戻る。あいかわらず多くの人でごった返していた。東北いわきからの出店のウニ蒸しを購入。貝殻にこんもりとウニが山積み。ほっき貝という貝をお皿にみたて獲れたてのうにを贅沢にも4コから5コ分も乗っていました。本音は家に持ち帰り「うに焼き」を楽しみたかったのですが・・・・・。南口に廻り御輿を上から見学。ロータリー周辺はここも人、人、人、・・・・・。珍しい四角の御輿も見ることが出来た。藤沢市民まつりの各種パレードを楽しんだ後、日曜日にも拘わらず追浜にある我が社の研究所へ打合せに向かったのであった。
2011.09.27
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク9/24、25の両日、我が市の市民祭りが行われました。25日は午前中に鵠沼皇大神宮人形山車のパレードが行われるとのことで妻と長男と共に見物に行ってきました。この皇大神宮は東海道線の北側の鵠沼地区にある歴史深い神社。神宮境内には樹齢600年の巨木など樹木が多く、かって烏が多く棲んでいたことから「烏森神社」ともいわれているのである。この烏森神社が我が母校(高校)の裏にあるため、高校時代のクラブ活動のランニングの為に幾度となくこの神社の鳥居を往復したことを懐かしく想い出したのであった。幼き頃、亡き父の妹がこの神社の近くに嫁いでいたため、例祭の折、祖母に連れて行かれこの山車のパレードを見た記憶があるが、この神社の例祭は毎年休日に関係なく8月17日に開催されるため、なかなか休日と重ならないためこの山車のパレードを見学できる機会が長年なかったのである。駅に着いてみると多くの市民が既に駅前高架広場に集まっていた。北口駅裏の通りに行って見ると既に9台の山車が一列に整列中。この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の9氏子町内会がそれぞれ製作したものとのことで、参進行列の順番は決まっており、宮之前町の那須与一、上村町の源頼朝、清水町の神武天皇、宿庭町の源義経、苅田町の徳川家康、大東町の楠正成、仲東町の浦島太郎、原町の日本武尊、最後に堀川町の仁徳天皇という順で山車が並でいた。三層式・総高約8メートル、最上部にそれぞれの人形が飾られ、下層はまわり舞台で、時々激しく回転させることができる独特の造り。屋台の中では若い男女がその町内特有の囃子の演奏・競演を行っていたのであった。先頭には人形山車の旗を持つ長老の姿が。まずは宮之前の一番山車の『那須与一』屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げた有名な源氏方の武士。若々しい勇壮な顔立ち。久しぶり(50年近く?)の面会。次は上村の『源頼朝』。もちろん鎌倉幕府を開いた人物。鎧を付け烏帽子を被り、左手をかざしていました。清水町の『神武天皇』日本神話に登場する人物で日本の初代天皇。神武天皇の実在性には疑問の声も聞こえてきますが・・・・。宿庭町の『源義経』平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸と呼ばれた人物。 苅田町の『徳川家康』。1603年,征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた人物。現在、NHK総合大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で北大路欣也が演じている人物。大東町の『楠正成』鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した人物。仲東町の『浦島太郎』虐められている亀を助けるが、亀に「礼がしたい」と言われ、竜宮城へ。乙姫に迎えられ、踊りや食事の歓待を受ける。三日たって、さすがに帰りたくなる。みやげに玉手箱を渡され、「絶対開けるな」と言われる。故郷に帰ると、見たことのない風景。それもそのはず、出発してから三百年たっていた。悲嘆に暮れ、玉手箱を開けると煙を浴びて老人に、という子供の時に教わった話。右手で吊り竿を担ぎ、左手に玉手箱。原町の『日本武尊(ヤマトタケルノミコト)』日本武尊は、日本神話の中でももっとも武力に優れた英雄のひとり。 最後に堀川町の『仁徳天皇』日本の第16代天皇。人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気づいて税金を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えさせなかった、と言う記紀の逸話のある人物。そして数年後?の御歌。「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」 9台の人形山車が勢揃いする神奈川県最大の山車祭として知られているのである。1982(昭和57)年、「かながわのまつり50選」に指定されたとのこと。 この山車に登場する人物の鵠沼皇大神宮との関係は如何に。頼朝・義経・那須与一は源氏の勇で鎌倉が近いので理解できた。そして楠木正成は鎌倉幕府の終焉に関与したから?日本武尊は腰越にある小動(こゆるぎ)神社に祀られているから?浦島太郎は江の島の弁財天との関係?後は仁徳天皇、神武天皇と徳川家康は? 巡行を開始すると、背の高い山車は動くと上部がゆらゆらと揺れるため、歴史上の人物達が列を成して歩いているようで面白かったのであった。
2011.09.26
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク今年も我が町の最大のイベント『湘南ねぶた 2011』が開催されました。ねぶたの駅前道路の引き回しの前に、各種の催し物が開催されるとのことで、妻と早めにでかけました。会場はいつものスーパー駐車場。太郎、次郎一座の猿回し。太郎の膝の上に次郎が手をつく「反省」のポーズがフジテレビのバラエティ番組『笑っていいとも!』で一躍人気を博したことは有名。地元の子供達による祭り囃子の太鼓の披露。そして津軽三味線。演者は『寂空 JACK』。本年度の第30回津軽三味線全国大会でB級(4年以上の経験者)で見事準チャンピオンを獲得した若手ホープ。小学校3年までこの町に住んでいたとのこと。津軽あいや節、津軽たんと節、湘南音頭、津軽じょんから節の4曲を演奏。近くの発電機の音がやや気になったのであったが・・。舞台の横には出番を待つねぶたが突然の雨に備えて巨大なビニール袋で被われていた。実行管理者のご苦労に思いを馳せるのであった。 地元サークル?のフラダンスの披露。披露舞台はビニールシートの上。これぞ我が町の最高の舞台なのであった。各種のイベントを楽しんでいる内に19時になり本番の引き回し開始。今年のメインねぶた。我が小田急線の駅間道路にあった大きさのねぶた。今年の武者は誰?先導する山車にぶら下がる提灯には知った名前も。藤沢養護学校の生徒の作品の金魚ねぶた。祭りには、この金魚の山車のほか、スヌーピーやトトロ、アンパンマンなど人気キャラクターが集結。毎年登場する色鮮やかなアンパンマンは子供達に超人気。地元のテレビ放送局の取材も。TVK、JーCOM?まさかNHKではあるまい。ねぶたの裏側には『復興祈願 共に生き抜く』、『復興祈願 一心一進』との言葉が添えられた老松が。一心一進とは初めて触れる言葉。皆で心を一つにし、力を合わせれば、何事も旨く進み成し得る事が可能になるとのことであろう。ねぶたの後ろには多くのハネトとラッセラーラッセラー!の元気な掛け声が。そして道路の両脇、駐車場には多くの出店が。そしてその前には親子連れの長蛇の列が。帰りにねぶた実行委員の同級生に出会う。そして彼の背中。毎年1回、我が町が一番賑やかになるこの宵。東北の青森、弘前、五所川原のねぶた、ねぷたには遠く及ばないが、我が町の姿に似つかわしい小規模なねぶた祭り。地元の子供達がこの祭りを多いに楽しみ、そして地元の人と人の心が通い合うあたたかい我が町をつくりだすことができればと願っている、この町に生後61年間住み続けている男の想いなのである。
2011.08.20
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク今日は妻と午後から『藤沢市民まつり』の大パレードを見学に藤沢駅周辺まで行ってきました。第37回を迎えた『藤沢市民まつり』は、市制施行70周年記念事業として9月25日(土)・26日(日)に開催されたのです。今年の大きな特徴は、「ふじさわ屋台村」が市民会館前広場と奥田公園多目的広場で25・26日の両日行われたとのこと。そして今日は、藤沢駅南口と北口で大パレードです。友好姉妹都市の保寧市(韓国)が来藤し、パレード参加とサンパール広場に出展。サンパール広場では名物の韓国海苔の味見と販売をしていました。藤沢駅に到着してみると、すでに駅前から賑やかな太鼓と鉦の音が聞こえてきました。既に南口ロータリーでは御輿の大パレードがスタートしていたのです。南口パレードの最後は地元川名町の山車、山車の上には鎌倉権五郎平景政の像の飾りが。人形山車と共にお囃子(川名屋台ばやし)がロータリーを練り歩いていました。ついで藤沢駅構内を横断して北口へ。サンパール広場ではミニコンサートが行われていました。そして屋台では金魚すくいを楽しむ子供達の姿も。しかし真剣なのは子供よりもお父さん達?北口道路ではすでにお囃子のパレードがスタートしていました。トラックに乗り込み祭囃子(まつりばやし おはやし)の演奏のパレードが。囃子の奏者は祭りを主催する神社や寺社の氏子や檀家の人々と子供達。和太鼓、笛、、鉦の3種が軽やかにその地域特有のお囃子を奏でていたのでした。先週頃から我が家にも聞こえてきたお囃子の音はこの氏子のお囃子だったのです。いろいろなユニークなお面を被り舞う人たち。地元白旗神社の御輿も。この白旗神社の近くに伝源義経公首洗井戸があるのです。腰越浦での首実検の後、境川に捨てられ流れ着いた義経の首がこの地に葬られたという伝説の場所なのです。そしていかにも重そうな大きな御輿。神輿を激しく振り立てていました。神の霊威を高め、豊作や大漁を願うものなのです。そしてパレードの最後には清掃用のパッカー車と小型トラックが。約2時間にわたる、山車、お囃子、御輿のパレードを大いに楽しんだのでした。目の前を通過する神輿全てに、日本の伝統文化と様式美、礼節や作法が息づいており、この祭りや神輿を通して日本人の魂を子供達に伝えていきたいと願っているのです。
2010.09.26
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク江の島の散歩の後、徒歩で20分ほどの龍口寺(りゅうこうじ)に向かいました。日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法聖人が1337年に寂光山龍口寺と称し寺を建立したのが始まり。大本堂と県内唯一の本式木造の五重塔は神奈川建築物百選に選定されているのです。毎年9月11日~13日の間、ここ龍口寺において『法難会』が開催されるのです。龍口寺は、「立正安国論」を唱えた日蓮上人が、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、現在の寺のある場所、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけるが、処刑を免れ、その後の評定の結果佐渡へ流罪となったのです。そして今年はその時から740年目に当たるのです。日蓮上人が1271年9月12日にこの刑場に引き立てられ、いざ処刑というときに江の島の方から光が輝いて斬首役人の目をくらませ、上人は危ういところで斬首から逃れることができ、これを龍の口法難と呼ばれているのです。9月11日~13日にかけて盛大な法要が営まれ、万灯籠数十基が灯され、門前には夜店が並び、厄除けぼた餅が撒かれるのです。このぼた餅撒きは、日蓮上人が龍の口の刑場へ引き立てられて行く時に、桟敷にいた尼僧が仏の加護を願って胡麻のぼたもちを差し上げたところ、その法難を避けられ斬首から逃れることができたという故事に由来するとのことです。境内の階段を上がり本殿に近づいて見ると、既に本殿内部には多くの人々が集まって来ておりこのぼた餅を食べると年中無事のご利益があるといわれている為、ぼた餅が撒かれるのを待ちわびている様子。小さな胡麻のぼた餅が2個、これも小さなビニール袋に入れられ撒かれるのだと妻の言葉。妻はこの寺の付近で生まれ子供の頃からこの祭りに慣れ親しんでいるのです。7時前に漸くぼた餅が撒かれ一時本堂入り口部は騒然となりましたが、けが人もなく撒き始めると一分くらいで終わってしまったのです。餅を確保しようとする大人たちで大混雑のなかでの空中キャッチは難しく、床に落ちたものを拾う事に専念した子供たちの方が確実であったのでは とこれも妻の経験談が。そしてしばらくして遠くから鉦と太鼓の音が聞こえてきました。漸くこの夜のメインエベント、「万灯練り供養」が始まったのです。「万灯練り供養」は鎌倉や東京池上などの寺院の檀徒が次々に本堂に訪れるのだと。先頭の者が、江戸の火消し衆が参拝する折りに始めた纏を勇壮に振い、そのあとを摺鉦や太鼓、横笛など軽快な音色を奏でる人達、そのあとに花をあしらった山車が続くのです。各地から集まった数十基が続々と続き本堂を目指して練り歩いて来たのでした。そして本道の手前でアップテンポになり、纏を操る人のベストパフォーマンスを披露するのです。クライマックスは「万灯」と呼ばれる花笠状の飾りと一緒に纏いを翳す若い衆。子どもたちも一緒にドンツクドンと練り歩くのです。この日は日曜日とあってごった返す賑わい。県道沿いや寺の前の空き地には各種の多くの屋台が。残暑厳しき中、湘南のこの時期の最大の夜祭りに今年も大いに感動し、その華やかな纏の動きとお囃子の音の去った中に、秋の気配を感じさせる静けさの余韻を楽しみながら家路へと向かったのでした。
2010.09.15
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク日曜日に妻と江の島へ早夕散歩に行ってきました。小田急線に乗り15分で終点片瀬江ノ島駅に到着。ここで隣の駅の鵠沼海岸の『鵠』の字に注目。『鵠』とは訓読みで「くぐい」と読み白鳥の古名。かつてこの辺りには沼が多くあり、そこに鵠(くぐい)が多く飛来していたことが「鵠沼」の由来と。今は「牛」+「口」+「鳥」であるが、昔の漢字は「告」+「鳥」であったのが変更になったのだ。しかし牛+口よりも告の方が理にかなっていると考えるが、何故現在の字になったのであろうか?「鵠」の字は国内で鵠沼の地名で使う以外に使われていないのでは思っていたが、あにはからんや、下記の如き地名があることが解ったのであった。 ふりがな漢字地名県名経度 緯度掲載地形図名くぐい鵠徳島134゚37'E/33゚51'N馬場/橘くぐいがわ鵠川徳島134゚37'E/33゚51'N馬場/橘くぐいど鵠戸茨城139゚52'E/36゚02'N水海道/宝珠花くぐいどぬま鵠戸沼茨城139゚52'E/36゚02'N水海道くげぬま鵠沼神奈川139゚29'E/35゚19'N江の島※鵠沼海岸・本鵠沼などの住所表記も出てくるが、周知なので省略する。こうのしり鵠ノ尻石川136゚46'E/37゚21'N皆月こうのす鵠ノ巣石川136゚57'E/37゚23'N輪島こうのもりやま鵠ノ森山岡山133゚30'E/34゚46'N高梁 http://kugenuma.sakura.ne.jp/k094b02.html より小田急線片瀬江ノ島駅から江の島に向かう途中の境川に架かる橋からの江の島の眺め。「江の島」「江ノ島」と表記には違いがあるが、市により正式な地名としているのは「江の島」なのである。江ノ島電鉄や小田急江ノ島線の駅名はそれぞれ「江ノ島駅」「片瀬江ノ島駅」であるが、湘南モノレールの駅名は「湘南江の島駅」なのである。一方、神社名は江島神社で「えのしまじんじゃ」と読ませるのだ。あまりとやかく言わずにこれも重い歴史の為せる産物と理解したい。 江の島の玄関口「青銅の鳥居」をくぐり、参道を登る。途中、干物や海苔、相模湾の海の幸はもちろん、夫婦饅頭や羊羹、貝細工の土産物店をはじめ、老舗旅館が左右に。行列が出来ている店があった。見事にタコがプレスされた、丸焼きタコせんべいを売っている店。朱い鳥居の奥には龍宮城の入口のような瑞心門が見える。今回は江の島名物エスカー(昭和34年に運行開始した国内初の屋外エスカレーター)には乗らずに徒歩で江ノ島展望灯台へ向かう。途中、旧江の島植物園の中に大きな果実がぶら下がっている植物を発見。これは実ではなく芭蕉の花。花の元の方にはバナナに似た小さな実を付けているが、秋にはどの様になるのだろうか。展望灯台からの眺め。苑と同じく平成15年にリニューアルされた。高さは59.8mあり、その斬新なスタイルは江の島の新しいシンボルとして親しまれているのだ。スチール製のフレームのみで囲まれ、その中心にあるエレベーターの周囲を取り巻くように螺旋階段がぐるぐると続いているのだ。高さ42mのところにガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台があり、富士山や丹沢などのワイドな眺望が楽しめるのだ。しかし残念ながら雲がかかり、勇壮な富士山や夕焼けはこの日は諦めなければならなかった。灯台の下のレストラン横のテラス下には太陽光発電のパネルが並んでいた。この発電を蓄電してで灯台のライトアップ?まさか・・・・・・・・・・・。振り返ると灯台のライトアップが始まっていた。参道を下っていると、途中懐かしき同級生の女性と再会。5分ほどご主人の話(同じ同級生)や10月に開かれる予定の同窓会の話で盛り上がった。歩道専用の江ノ島弁天橋からの江の島灯台、既に暗くなり灯台の光は鮮やかになってきていた。この時間でもまだまだ江の島へ向かう観光客の多さに驚く。江の島の夜景を楽しみながら、この日の主目的である龍口寺の大祭(日蓮 龍の口法難会)見物に向かったのであった。
2010.09.14
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