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藤沢・鎌倉・葉山地区の神職がお供物を順次神事舞台へ奉納を始めた。神棚に奉納。次々と別の神職がお供物を神棚に。大きな木桶に入っていたのは「福餅」であった。そして「湯立神楽」で神事を務める、藤沢・鎌倉・葉山地区の各神社の神職・宮司が「義経藤」の下に整列を始めた。8名の神職・宮司が「笏」を持ち並ぶ。「笏」は礼服(らいふく)、束帯のとき威儀をととのえるため右手に持つ細長い板。元来は君命などを書きつけた備忘用の板であった。五位以上は牙(げ)、六位以下はイチイ、サクラなどの木製で、天皇の笏は上下の縁が方形、臣下のは丸みを帯び、すそすぼみである。明治以後は神官にも用いられている。そして「湯立神楽」の神事が始まろうとしたのであった。そしてここ白旗神社の宮司も列に加わり「湯立神楽」の神事が始まった。横笛を奏でる神職。宮司の列が舞台横の定位置に向かう。一番奥に「白旗神社 宮司」が。まずは「秋季大祭」の神事がスタートした。「湯立神楽」の司会進行の神職。湯立の大釜の下の火も確実に燃えて。②初能(はのう)の開始。 宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米を散供(さんく)して、 諸々の霊を和め清める舞です。祝詞奉上。招待者の「玉串奉奠(たまぐしほうてん)」が始まった。まずは、白旗神社の別当寺である真言宗白王山荘厳寺(しょうごんじ)の住職による「玉串奉奠」。荘厳寺は、明治8年までの133年間、現在の白旗神社社務所辺りに本堂が建てられており、また、神仏分離後には、荘厳寺43世 原王照代徒弟英経師が近藤内記と名を改め白旗神社の宮司となったとのこと。氏子代表・総代の「玉串奉奠」。副総代。氏子一同も合わせて。関係団体長の玉串奉奠が続く。藤沢市長の「玉串奉奠」。地元の衆議院議員・星野つよし氏の「玉串奉奠」。藤沢市議会議長の「玉串奉奠」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.20
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この日は10月28日(土)、「白旗神社」の「湯立神楽」神事が14時から執り行われるとのことで自宅近くから神奈中バスで向かう。「湯立神楽」は「白旗神社秋祭り」の特殊神事で、約800年前に京都の石清水八幡宮から鎌倉の鶴岡八幡宮に伝わった「神楽」と言われ、両社では一時期途絶えことで原型を残しておらず藤沢・「白旗神社」で行われている「神楽」が原型に一番近いとされている、と言われる神事とのこと。「白旗神社」には初詣、藤の花見物等で今まで何回も訪ねているが、「湯立神楽」神事に行くのは初めてなのであった。バス停「白旗神社前」で下車し、「白旗神社」に向かう。「白旗川」に架かる「御典橋」を渡る。社号標石「白旗神社」。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだ と。正面に「大鳥居」。日本初のグラスファイバー製の大鳥居であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「大御神灯」慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。石段の上に拝殿が見えた。参道左手に「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。唐破風下の見事な唐獅子の彫刻。小鳥、馬、猿。唐獅子、菊の花、亀、飛龍などの彫刻があり、江戸時代や明治なら通常ではあり得ない多様さであるのだ と。四隅にある木鼻は龍であり、懸魚は鶴であることから鶴亀をテーマにしていることは確かだ。亀の姿が。源義経は、文治5年(1189年)閏4月30日に奥州衣川館で自害した。首級は鎌倉に送られ首実検された。しかし、首級は腰越で曝されたあと江の島の対岸にある片瀬の浜に捨てられたが、泥にまみれたまま亀に背負われ境川をのぼり藤沢の里にたどり着いたとされる。また、社殿が建つ山は亀の形をしていることから亀尾山と呼ばれている。それで、亀が大切にされているのであろうとのこと。そして右手には「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。顔にズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。ズームして。さらに顔をズームして。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」そして「湯立神楽」の見学席に座る。正面に神事の舞台の奉納品が。「湯立神楽」の説明書をいただく。「湯立神楽白旗神社に伝わる湯立神楽は江戸時代から承け継がれて来た神職が演じる格調高いお神楽です。大釜に熱湯をたぎらせ湯華(湯玉)の立ち昇りでその年の吉凶を占います。」神事の舞台を確認する宮司そして神職の皆様。「湯立神楽 十二座」の案内。「湯立神楽の解説(十二座)」。「湯立神楽の解説(十二座)一、打囃子(うちはやし) はじめに笛・締太鼓・大胴の楽器によって音合わせをします。神職一同でこれからの奉仕に 備え祈念をし心意気を高め調子を揃えるのが打囃子です。二、初能(はのう) 宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米を散供(さんく)して、 諸々の霊を和め清める舞です。三、御祓(おはらい) お神酒とお祓いの道具を持ち、舞に使うすべての道具・斎場(さいじょう=神さまが 降臨される場所・釜場・火・水)を祓い清め、神様の降臨を待つ舞です。四、御幣招(ごへいまねき) 神楽の対象となる産土神(うぶすなのかみ)・火の神・水の神をお招きする舞です。 舞が終わると参列者に恩頼(みたまのふゆ=神様の御霊魂)を授ける神事があります。五、湯上(ゆあげ) 火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸し、熱湯を桶に汲み取り、 神前に捧げます。六、中入れ(なかいれ) 前半の清め・祓い・神招きが終了して短い休憩となります。神職は狩衣(かりぎぬ)を 脱いで白衣・袴の姿になり、後半の新人共楽の神楽に備えます。また神前にお供えされている お神酒とお赤飯を参列者に分かちます。七、掻湯(かきゆ) 御幣(ごへい)で四方を舞い鎮め、舞が終わると大釜の前に進み、煮えたぎった湯釜を 御幣の串で掻き回すと、渦巻きが生じて湯華(湯玉)が立ち昇ります。古くはこの湯立ちに よってその年の吉凶を占いました。湯立神楽を象徴する舞です。八、大散供(だいさんく) 初能(はのう)の二人舞で、祓い清めの舞です。このお祭りに招かない八百万神 (やおよろずのかみ)に洗米を散供し、四方を和め鎮めます。勇壮かつ優美な二人舞です。九、湯座(ゆぐら または笹の舞という) 二人の舞手が笹の葉で四方を舞鎮めた後、交互に大釜に向かい、熱湯を笹に浸して参列者の 頭上に散らし掛けます。このしぶきを浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられて います。十、射祓(いはらい または弓祓と書く) 四隅に矢を放ち悪霊を退散させます。最後に正面(神前)に向かいますが、悪霊がいないため 矢を放たず鳴弦(めいげん)にとどめます。四方に放たれた矢を授かると開運招福・息災延命 になると伝えられています。十一、剣舞(けんまい) 赤面の天狗(猿田彦)が剣を持ち邪悪を清め、悪しき大気を体内に吸い込み浄化され、二本の 指で空中に九字を切り、護身・除災・勝利のまじないをしながら豊年万作・大漁満足・ 天下泰平を祈念し、天地運行の乱れを正します。十二、毛止幾(もどき) 剣舞の途中より黒面の山の神がしゃもじを持って現れ、天狗の真似をしたり滑稽な仕草を しながら、斎場にいるすべての人の心に平安と安らぎを取り戻させる『もどき』で神楽は 終了します神楽が終わると斎場に取り付けられた紙垂(しで)を持ち帰り、家の神棚に祀り、災い除けにする風習があります。我が座席の真ん前に「大釜」が。「大釜」、木材の確認をする宮司。「大釜」下に木材を差しいれ、火入れの準備を。神さまが宿るとされる榊(さかき)という木の枝に、紙垂(しで)や麻を結びつけた「玉串」の確認。そして「大釜」への火入れ。新聞紙を挿入して火起こし。神棚をズームして。左から塩、野菜、ご神酒、米、餅、榊。その下に赤、黒の鬼の面が。奉納品の神酒瓶、稲束、米袋。「藤沢市指定重要無形民俗文化財湯立神楽白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月ニ八日 平成ハ年三月一日指定 藤沢市教育委員会」火がついた大釜。赤い炎が激しく。「湯立神楽」の神事舞台を再び。観客も増えて。準備完了。「大釜」の火の面倒を見る方も真剣に。再び鬼の面をズームして。剣舞を行う赤面の天狗(猿田彦)。黒面の山の神。準備された「玉串」をズームして。白旗神社の社紋・義経(源氏)の紋章「笹竜胆」。白の地下足袋を履いて、あくまでも白。笹竜胆紋は、笹に似た5枚の葉を下向きに広げて描き、その上に3つの花を描く。村上源氏、宇多源氏一門の代表家紋。また、清和源氏の一部でも使用されている。舞台を丸く半円で囲む観客。社のカメラマンも神事の舞台を写真撮影。 ・・・つづく・・・
2023.11.19
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続いて「西浜区の山車」。囃子手は女性三人。後ろ姿を。そして、眼の前を通過しゆっくり進む山車を見る。「東り町の山車」。「下之谷・や組の山車」。先頭は片瀬・諏訪神社の入口に到着しているようであった。山車も止まり、囃子手以外は賑やかに談笑中。私も、片瀬・諏訪神社の入口に向かって歩く。先程、目の前を通過した「山車」を再びカメラに。そして諏訪神社の神輿の横に。「新屋敷の山車」、「西片町の山車」、「西浜区の山車」が境内入場を待っていた。そして先頭の「新屋敷の山車」。「西片町の山車」。そして山車が回転・「ぶん廻し」👈リンク。通行止めのはずなのだが、大型トラックが上り車線に。再び回転する「新屋敷の山車」をカメラで追う。そして最後に「片瀬・諏訪神社例大祭」のメインの「片瀬・諏訪神社神輿」を。時間は19:42、まだまだ、境内での神輿、山車の披露が1時間ほど続くようであったが引き上げたのであった。帰路は「湘南海岸公園」駅から江ノ電を利用。そして300形の車輌が入線。1956年(昭和31年)から1968年(昭和43年)にかけて合計6編成12両がデビューした。全てが旧形⾞両を改造したもので、現役の305-355号⾞は京王電鉄の台枠を流⽤し、⾞体は東横⾞両・台⾞は東急⾞輛で新造された⾞両である。なお、同⾞両は1998年(平成10年)に制御装置及び制動装置を更新。1991年(平成3年)に306号⾞、1992年(平成4年)に301号⾞、1997年(平成9年)に302号⾞、2005年(平成17年)に304号⾞、2007年(平成19年)に303号⾞が新造⾞両に道を譲り引退しているとのこと。よって、この305号車は300形の最古老の現役車輌であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.10.06
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そして18:20前、西の空は茜色に。空には月齢11の月。ズームして。19:10、漸くや組の囃子屋台が目の前を通過。片瀬地区では住所表記と異なる地域の呼び方がほかにもあるのだ。日常的に使われているのは「新屋敷(あらやしき)・西浜・西方・下之谷・東(とお)り町(ちょう)」で全体を「五町」と括る(くくる)。地元の商店主や昔から代々住む人たちでは一般的な呼び方で、町内会の一部でも名称として残るのだ と。「下之谷・や組」の囃子屋台。「東り町」の囃子屋台。「西浜区」の囃子屋台。「西方町」の囃子屋台。「新屋敷」の囃子屋台。そして「片瀬諏訪神社」。「諏訪神社」と書かれた提灯が一対。その後に「右三つ巴」紋の大太鼓。「五色幕」。片瀬諏訪神社の神主さん。その後にも5張りの提灯。神官が唐櫃(からびつ)の如き木箱を担いで。そしていよいよ「片瀬諏訪神社の神輿」👈リンク が目の前に。神輿は片瀬諏訪神社に向かって。そして「新屋敷の山車」「西片町の山車」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.05
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さらに片瀬・諏訪神社下社の境内を散策する。片瀬の地は現在とは地形が異なり、以前は水面の覆われた大きな沼湖であり、それが諏訪湖を取り巻く諏訪の地に良く似ていたことからこの地が選ばれたと。スワとは 州端(スワ)で水辺の端に鎮座した所から名付けられました。「札納所」。「祖霊社」鎌倉尋常高等川口小学校(現・片瀬小学校)に昭和4年に建立された御真影奉安殿を移築したもの。「祖霊舎日清日露の戦争及び支那事変大東亜戦争に片瀬江の島から出征して尊き命を捧げられた百七十七柱の英霊が奉祀されています。」近づいて。内陣。OneCUP、野菜や果物が手向けられていた。「本殿」を横から見る。廻り込んで反対側から「本殿」を見る。「社務所」。奥に「授与所」。様々なお守りや御札が。拝殿、本殿を振り返る。そして正面からも。ニの鳥居の左側奥にあった「道祖神」碑。右に「石祠道祖神」。中央に手を握り合っている「男女双体像」。その左隣に庚申塔「青面金剛(合掌6手標準型)」。一番左にも「石祠道祖神」、内陣には???そして再び境内の屋台の出店を楽しむ。幟用柱の見事な龍の彫刻。近づいて。湘南界隈に出没する人気のたこ焼き屋台「湘南宮だこ」。大きなタコがごろり!生地は表面がカリッと中はとろっとろの絶品B級グルメ!縁日といえば「お面屋さん」!。大鳥居が前方に。ここにも幟用柱の彫刻。今年の干支「癸卯(みずのと・う)」。2023年の「癸卯」の干支でいう意味十二支や十干は数や方角だけでなく、それぞれ独自の意味を持っています。例えば「癸」が持つのは第10位であり、物事の終わりと始まりを意味する他、「揆(はかる)」という文字の一部であることから「種子が計ることができるほどの大きさになり、春の間近でつぼみが花開く直前である」という意味だと言われています。「卯」はもともと「茂」という字が由来といわれ「春の訪れを感じる」という意味、また、「卯」という字の形が「門が開いている様子」を連想させることから「冬の門が開き、飛び出る」という意味があると言われています。この2つの組み合わせである癸卯には、「これまでの努力が花開き、実り始めること」といった縁起のよさを表しているといえるのだと。神輿用の台車が境内に戻って来ていた。台車にも彫刻が。近づいて。そして仮宮に納まって。「諏訪神社」と書かれた大きな提灯。諏訪神社は全国に10000社近くあるとされるが、上社・下社を備えているのは信濃国諏訪の信濃国一之宮の諏訪大社とここ片瀬の諏訪神社のみといわれていると。片瀬諏訪神社の創立は、養老7年(723)に諏訪大社の分霊を勧請したのが始まりで、両社は別の地にあったが、上社は天長3年(826)に、下社は弘仁3年(612)に現在地に移された。社殿は、元弘3年・元徳4年(1333)に新田義貞の鎌倉攻めにより類焼し、安永7年(1778)に改修された。その後、甘糟豊太郎・三郎・四郎の三兄弟が社殿を造営・整備した。ご利益:古くは狩猟の神として崇められてきたが、のち農耕神、武神として信仰されていると。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.04
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この日は8月27日(日)。妻と片瀬で行われている諏訪神社の例大祭を訪ねました。妻は子供の頃、江ノ島電鉄江ノ島駅の近くに住んでいたため、この祭りは子供の頃の懐かしい祭りなのです。小田急藤沢駅から江ノ電に向かう。藤沢駅の江ノ電に向かうコンコースで見かけた「手回しオルガン」👈リンク での演奏デモ。ハンドルを手で回して演奏をすることにより、オルゴールのようにあらかじめ用意された旋律を奏でることが可能な自動演奏楽器。このオルガンは装着した折り畳み式のブックに打ち込まれた穴に空気が送り込まれ、木管パイプを抜けて音が出るとのこと。左右に打楽器も。この「手回しオルガン」を自作し、イベントや公共施設等で演奏を行うのは星道也さん(秦野市西田原在住)とのこと。手回しオルガンは小さいものは18〜27鍵盤が多いそうだが、星さんのはその1・5倍の43鍵盤。バイオリン・ブルドンセレッセ・ビブラフォンの3色の音色に切り替えられ、19本×3種のメロディーと10の和音、9つのバスを持つ。打楽器も備え、ザ・ミュージアムMATSUSHIMAの大型の手回しオルガンと同じ規格の楽譜が演奏可能という。楽譜は主に、海外に制作を依頼しており、手回しオルガンを見に行った際に知り合った楽譜作成の機械を持つ人に自ら作った楽譜データを送り取り寄せているのだ とネットから。 江ノ電藤沢駅のホームから。2023年3月より5月にかけて、藤沢駅から江ノ島駅にかけて装飾されたアート。ホームの端に旅人を見送る町娘を描くことで乗客の旅行気分を高め、降車ホームの壁面には宿場町を描くことで和の要素を取り入れ外国人観光客にも楽しめるような意図を込めているのだと。そして江ノ電江ノ島駅に到着。下之谷の山車が、国道467号「江ノ島駅入口」交差点の手前で出番を待っていた。囃子手も小太鼓を。諏訪神社・下社に向かって国道467号に沿って歩く。「御神燈?」。この紋は諏訪大社の神紋「丸に立ち梶の葉」に似ているが。「下之谷町花代 御芳名」板。西浜区の山車も集合場所の龍口寺に向かっていた。囃子手の太鼓は2人の女性が。そして片瀬・諏訪神社下社前に到着。社号標石「諏訪神社」。幟「諏訪神社」。出店が参道両脇に。その先に「大鳥居」が。石造りの「大鳥居」を見上げて。出店は多くの子供たちで賑わっていた。正面に「仮宮」8月23日(水)に神輿庫から出た神輿はこの仮宮にて8月27日(日)朝の「浜降式」を待つのだ。両側に黄金の獅子が一対。左。神輿を守っていたのであろう。右。「五色幕」。参道を振り返る。「頌徳碑」。當氏神社は距今千二百年前養老七年三月信州諏訪大社より勧請思赖を無窮に給ひ郷内の崇敬極めて篤し偶明治甲申の災禍は不圖も上下兩社の社殿を倒潰す再建上社成りて下社成らざること久し甘粕五郎右衛門翁感慨殊に深く至誠以て其の再興を決意し事半にして命を終わるや森太郎淺五郎吉三郎三子に能くその旨を傳え◯願の達成を遺言す三氏精勵特にニ弟は海運産業に成功し頭角を現す時恰も皇紀二千六百年の佳節を迎へ亡父の遺志に應へ神助の奉賽に巨戝を投じて下社再興の任を果す即ち荘嚴なる社殿を改築し社務所を新築し神域を擴張し參道を設けて雄渾なる鳥居社標石燈籠狛犬等を奉献し以て社頭の面目を一新するに至る赫々光彩更に著し茲に父子敬神の美徳を稱へ崇神至考の美学を讃え功績を刻み以て後世に傳ふと云爾皇紀二千六百年二月片瀬町長 林吉次郎社司 相原直八郎【当氏神社は、約1,200年前、養老七年三月に信州諏訪大社から神を勧請し、郷土の人々によって非常に崇敬されていました。しかし、明治時代の甲申年に大きな災禍が訪れ、上社も下社も社殿が崩れてしまいました。その後、甘粕五郎右衛門氏は深い感慨に駆られ、心から再建を決意しました。彼は命を捧げて再建の計画を進め、最終的にはその遺志を三人の子供たちに伝えました。特に二人の弟は海運産業で成功し、父の遺志を叶えました。そして、皇紀2,600年の節目に、亡き父の遺志に応えるべく、神助を仰ぎながら下社の再建に着手しました。彼らは厳かな社殿を建て替え、社務所を新しく建設し、神域を拡張し、参道を整備し、立派な鳥居や社標、石灯篭、狛犬などを奉納し、神社の顔を一新しました。その輝かしい業績により、父子は神を敬い、美徳を称え、美学を尊び、後世にその功績を伝えることとなりました】石燈籠(右)。石燈籠(左)。「上社」👈リンク へのご案内。上社の祭神:八坂刀売命(やさかとめのみこと)。ニの鳥居。地上に置かれていた扁額。「大鳥居扁額昭和十五年建立の一の鳥居 御影石製社号額重量一トン余りを以ち永く掲げられしが安全を期し新設の台座に奉安し後世に伝承致す寄進者 甘糟汽船株式会社 株式会社甘糟商店揮毫 神奈川県知事 飯沼一省」「諏訪神社」案内板。「諏訪神社御祭神 上社 建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)(大国主神の御子神) 下社 八坂刀売命(やさかとめのみこと)(建御名方神の祀神)御神紋 梶の葉 上社四本梶 下社五本梶長野県諏訪大社(御本社)は、上社下社から成り、古代より著名な神社として知られ、水の神風の神、ひいては生活の根源神として崇敬されています。神名のタケは、強く正しい威霊を表わし、その神威を称えて朝廷は素より、鎌倉時代には源頼朝公をはじめ、北条氏等武家の信仰が極めて篤く、次第に諏訪神社の御分霊が諸国に奉遷され、郷村の守護神又は氏神として拡まりました。当社も御本社の御分霊が上下両社に御分祀されており、御分社は全国数千社に達します。御本社同様に両社御鎮座の形態は極めて稀であります。現在の御社殿は、下社が昭和十四年に、上社は昭和五十九年にそれぞれ御改築されました。殊に上社社殿左右の脇障子の彫刻は、長野県乙事村鎮座諏訪神社(旧諏訪大社社殿-国宝指定)の彫刻を模し、飛騨高山の伝統工芸士により御神紋梶の葉が見事に施されています。上下両社を御参拝され、お諏訪様の有難い御神徳をお受け下さい。 例祭日 八月二十七日」「令和五年 御鎮座300年例大祭 8月23日(水):仮宮出御祭、上社奉告祭 8月26日(土):宵宮祭 8月27日(土):浜降祭、例大祭、神幸祭、神輿渡御 8月28日(月):仮宮還御祭、上社奉告祭」左手に「神輿庫」。扁額「神輿庫」。手前に狛犬、正面に拝殿。狛犬・右(阿形)。狛犬・左(吽形)。幟「奉祝 御鎮座千三百年 片瀬諏訪神社」。前方に「茅の輪くぐり」。「茅の輪くぐり」とは、参道の鳥居などの結界内に、茅(ちがや)という草で編んだ直径数メートルの輪を作り、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願するというもの。日本神話のスサノオノミコトに由来するといわれ、唱え詞を唱えながら8の字に3度くぐり抜けます。1周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る2周目:正面でお辞儀、右足で茅の輪をまたぎ、右回りで正面に戻る3周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、参拝へ茅の輪くぐりのときには、神拝詞(となえことば)を声に出さずに唱えます。代表的なものは以下のようなものです。「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)拝殿正面。中央の提灯には根が4本で「諏訪梶・四本梶」と呼ばれる「四本足三つ梶の葉」の紋が。この梶の葉紋は「諏訪大社」の神紋として平安時代から地元に伝わっていると。これは片瀬諏訪神社では「上社」の紋である。後方のここ下社拝殿幕は根が5本で「五本梶」と呼ばれる「明神梶の葉」となっているのであった。片瀬諏訪神社は、諏訪大社を勧請して養老7年(723)に創建、村岡五郎義員や源頼朝公、北条氏など歴代武家の崇敬を受けてきたといいます。片瀬の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。境内社。「白山神社、山王社、第六天」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.03
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そして次に入場して来たのが『七番 中東町 浦島太郎』。釣り竿を右手で担いでいる若くてイケメンの浦島太郎。現在一般的に普及している浦島太郎のストーリーは、教科書を通じて広く国民に知れわたったもので、概ね以下のような内容である。浦島太郎という人(あるいは漁師)は、浜で子供達が亀をいじめているところに遭遇。その亀を買いとって保護し、海に放してやる(太郎は子供達をわざとつついて「お前たちは亀に同じことをしたんだぞ?」と叱る場合もある。)。2、3日後、亀が現れ、礼として太郎を背に乗せ、海中の竜宮に連れて行く。竜宮では乙姫が太郎を歓待[注 2]。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して蓋を開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に乗って元の浜に帰ると、地上では700年もの年月が経過していて、太郎が知っている人は誰一人いない。太郎が忠告を忘れて玉手箱を開けると、中から白い煙が発生し、太郎は実年齢の白髪で皺だらけの老人の姿に変化する。ズームして。左側定位置に向かう。そして『八番 原町 日本武尊』。お面を被って日本武尊下で踊る姿が。ヤマトタケルは、記紀などに伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では主に「日本武尊」、『古事記』では主に「倭建命」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。そして定位置へ。左から『六番 大東町 楠木正成』『七番 中東町 浦島太郎』『八番 原町 日本武尊』が並ぶ。『六番 大東町 楠木正成』をズームして。『七番 中東町 浦島太郎』をズームして。さらに。そして最後に『九番 堀川町 仁徳天皇』が入場。仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位: 仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇(おおさざきのみこと)。4世紀末から5世紀前半に在位し、その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。鷦鷯は「ミソサザイ」とのこと。日本産の鳥では最小で、全長約一〇センチメートル。尾は短い。羽は焦茶色で暗黒色の細横紋がある地味な鳥。雄は美しい声でさえずる と。『七番 中東町 浦島太郎』、『八番 原町 日本武尊』の後ろ姿を。左側にも4基の人形山車が並ぶ。再び左から、『七番 中東町 浦島太郎』、『八番 原町 日本武尊』。『八番 原町 日本武尊』をさらに。踊り手も暑さに負けずに頑張っていました。『六番 大東町 楠木正成』を再び。原町の人形山車に掲げられていた「皇大神宮縁起」説明板。「皇大神宮縁起藤沢市鵠沼神明町鎮座勧請年月不詳であるが天長九年(八八三)第五十三代淳和天皇の御代社殿造立のことあり御祭神は天照皇大神相殿に天手力男命天太玉命天児屋根命宇受賣命石凝姥命を勧請第六十五代醍醐天皇の延喜元年(九〇一年)延喜式の撰上により当藤沢市の大字西富大鋸鵠沼が併せられて土甘郷(となみごう)となるや土甘郷總社に列せられ以来土甘郷神明宮と称された。本殿棟木に添えられた棟札によれば天喜三年(一〇五五)元亨ニ年(一三ニニ年)天正十三年(一五八五年)と再建をかさね現在に至っている。天喜年間八幡太郎源義家奥州安倍氏征討の途次立ち寄り祈願奉常あり又貞享年間(五代将軍徳川綱吉の代)寺社奉行所への言上記録に「寿永三年」即ち元暦元年(一一八四年)那須与一宗髙は源頼朝義経の不和祈願のため屋島にて扇の的を射たる一張と残りの矢を奉納し併せて領地那須百石の朱印を寄進すこの時別に伊勢三郎義盛は鶴岡八幡宮に参殿し卯花縅鎧一領を奉納し武蔵坊弁慶は府中の六所宮(大国魂神社)を参詣し烏作りの大刀一振を納めたりとかくの如く武蔵大国魂神社及び鶴岡八幡宮と並び称せられし大社にして代々の領主の崇敬もあつく土甘郷神明宮の盛名が髙かったが延享年間(九代将軍徳川家重の代)の盗難によって古記録等を失ったその後明和ニ年六月十七日(一七六五年十代将軍徳川家治の代)領主布施孫兵衛尉頼路武運長久天下泰平祈願のため参籠し◯札をあらため白絹御戸張に天照皇大神宮と謹書奉納太々御神楽を奉奏し以来毎年御祭典に御供米を奉献このことは維新まで續けられた明治元年九月征東大総督一名中務有栖川宮熾仁親王御東下の碑参拝せられ武運長久祈願のため「神明宮」の御染筆を奉納せらる明治六年十二月村社に被列明治四十年四月勅令第九十六号神社に指定せらる。例大祭は八月十五日より十七日まで三日間行なわれ十七日には湯立神楽神事及び九輌の人形山車参道等がある。前にある幟は文化拾四年人形は日本武尊」『八番 原町 日本武尊』を見上げて。右側の人形山車。左側の人形山車。各人形山車が3基ずつ中央に出て、山車の回転、お囃子の披露が次々と行われたのであった。最後の場所を移動して。4年ぶりの【皇大神宮 例大祭】👈リンク を大いに楽しんで、そして帰路に。「皇大神宮」の境内を振り返って。ところで、この日の人形山車に登場する人物の鵠沼皇大神宮との関係は如何に。頼朝・義経・那須与一は源氏の勇で鎌倉が近いので理解できた。そして楠木正成は鎌倉幕府の終焉に関与したから?日本武尊は腰越にある小動(こゆるぎ)神社に祀られているから?浦島太郎は江の島の弁財天との関係?後の仁徳天皇、神武天皇と徳川家康は?歴史上の有名な人物であることは明らかだが。 ・・・もどる・・・ ・・END・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.02
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そして順番に宮入する9基の人形山車のリストを再び。明治20年前後に造られた人形山車が多い事が解るのであった。3基の人形山車が入ってきた。ズームして。多くの見物客が山車の下に集って来ていた。4基目の姿も見えて来た。祝庭町の「人形山車責任者」。人形山車の高さから山車は鳥居を潜れないため、参道横にある道が山車の境内入口となる。人形山車がニの鳥居前で、境内への入場許可を待っていた。入場許可を与える「皇大神宮 人形山車責任者」と例大祭の司会者・MC(Master of Ceremonies)を務める女性。前方の人形山車の整列状況を確認する「皇大神宮 人形山車責任者」。これが人形山車の倉庫なのだ。右手に5基分、左手に4基分が。日影で人形山車の到着を待つ人の姿。「宮ノ前」の獅子舞の男性は暫し休憩中。山車を引く人々も今や遅しと。そして15時になり『1番山車 宮之前町 那須与一』が入場開始。境内広場に向かって進む。破風屋根の上には獅子舞と横笛の囃子手が。那須与一像。ズームして。集合場所の広場の真ん中に到着。お囃子の音色も激しく。凜々しい姿の那須与一像。そして定位置に。そして『2番山車 上村町 源頼朝』が境内入場。左手を掲げて狩りの姿を見つめる源頼朝。ズームして。そして広場中央に。男女の囃子手も横笛を懸命に。『1番山車 宮之前町 那須与一』が回転を始めた。源頼朝像をズームして。『2番山車 上村町 源頼朝』が定位置に向かう。『3番山車 清水町 神武天皇』が境内入場。神武天皇像。ズームして。横笛を吹く女性。定位置へと。『4番山車 宿庭町 源義経』が境内入場。源義経像。ズームして。『5番山車 苅田町 徳川家康』が定位置に向かう。1~5番の人形山車が定位置に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.10.01
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出番の時間まで待機している9台にの山車を見た後は、再び皇大神宮の一の鳥居まで戻る。一の鳥居から続く狭い参道には多くの幟が風に棚引いていた。山車の高さから山車は鳥居を潜れないため、参道横にある道が山車の境内入口となる。「皇大神宮」配置案内図。創立は天長9年(832)の由緒あるお社で主祭神は天照皇大神。明治23年(1890)に藤沢町(当時)と鵠沼村は合併しましたが、鵠沼の中心は「皇大神宮」。境内は3300坪あり、樹齢700年のタブの木や樫・ケヤキ・椎などの樹木がうっそうと茂り、その昔、カラスが群棲していたことから、この鎮守の森は「烏森」といい、「烏森神社」または「鵠沼神明宮」とも呼ばれています。この地域はかつて「大庭御厨(おおばみくりや)」といって、後三年合戦で源義家に従い手柄をたてた鎌倉権五郎景政が、この地を開発して伊勢神宮に寄進しているのだ。そして我が住む町も「大庭御厨」の一部であったのだ。参道の両脇には様々な出店が。「奉納 大神宮」と書かれた幟が並ぶ。ニの鳥居に向かって進む。「とり皮焼き」、美味そう!!そして三の鳥居前の広場に。人形山車はこの広場に集合するのだ。三の鳥居越しに皇大神宮・拝殿を見る。「相模國土甘(とかみ)郷総社 皇大神宮」 と刻まれた石碑。奈良時代の天平7年(735年)、相模国司が「相模国封戸租交易帳」を作成し、中央政府に報告した中に、ここ鵠沼付近を表す「土甘郷」が見られるとのこと。この「土甘」は「とかみ」あるいは「つちあま」とも「となみ」とも読む説があるのだと。「相模國土甘(とかみ)郷総社 皇大神宮 由緒【鎮座地】神奈川県藤沢市鵠沼神明ニ丁目十一番五号【御祭神】(主祭神) 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) (合祀神) 天手カ男命(あめのたちからおのみこと)・天太玉命(あめのふとだまのみこと) 天字受売命(あめのうすめのみこと)・石凝刀売命(いしこりどめのみこと)【例祭】 八月十七日 人形山車九基参進 (藤沢市重要有形民俗文化財) 湯華神楽(湯立神楽)奉奏 (藤沢市重要無形民俗文化財)【由緒】第53代淳和天皇の御代天長9年(832年)創建。天喜3年(1055年)、元亨2年(1322年)、天正13年(1585年)、昭和60年(1985年)と造営を重ねられている。第60代醍醐天皇の御代、延喜式が選進された頃に、奈良時代以来称えられていた相模国土甘郷(とかみごう)総社に列せられた。また、長治元年(1104年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのしょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので、大庭荘が大庭御厨と呼ばれるようになり、相模国土甘郷はもとより東は境川から、西は小出川に挟まれた広大な地域の区域の伊勢神領大庭御厨総鎮守として尊崇を集める事となった。これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永3年(1184年)、那須与一宗高は源平屋島に合戦の戦勝を祈願し、屋島にて的を射た弓一張と残りの矢を東帰の際奉納、併せて所領の那須野百石の朱印地を神恩報謝の為に寄進したと伝えられている。明和2年(1765年)6月17日、領主布施孫兵衛尉頼路、参篭し祈願奉幣あり、又「天照皇大神宮」と謹書した白絹御戸張を奉納、太々神楽を奉奏し、例年奉幣を明治維新まで続けられた。明治元年9月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下御東下の際参拝し、「神明宮」の御染筆を賜る。例奈日には人形山車九基の参進があり、神奈川の民族芸能として県の指定があり、又、例祭は「神奈川のおまつり五十選」に選定されている。人形山車は、昭和六十三年藤沢市重要有形民俗文化財に、又、例祭日に奉奏される「湯華神楽(湯立神楽)」は平成八年に藤沢市重要無形民族文化財に指定された。「昭和六十三年十二月十六日指定市指定重要文化財(有形民族文化財)皇大神宮人形山車9基この人形山車は、明治中頃に皇大神宮の九氏子町内会がそれぞれ製作したもので、三層式・総高約8メートル。人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施され、県下で盛観を誇っている。かつては各町内に保管され、八月十七日の例祭に境内に参集したが、現在は、交通事情などのため境内の山車庫に納められている、例祭には、いったん参道脇に整列してから、あらためて境内に入る、その参進行列の順番は宮之前の那須与一、上村の源頼朝、清水の神武天皇、宿庭の源義経、苅田の徳川家康、大東の楠木正成、中東の浦島太郎、原の日本武尊、堀川の仁徳天皇という順で決まっている。山車が境内に集まる頃、拝殿では湯華神楽(湯立神楽。市指定文化財)が行なわれる。この皇大神宮の例祭は、昭和五十ニ年選定「かながわの民俗芸能五十選」に挙げられている。平成三十年(ニ〇一八)八月 藤沢市教育委員会」三の鳥居に向かって進む。三の鳥居を潜って拝殿へ。拝殿は参道が、何故か斜め左方向に曲がっていてその先に拝殿正面が。。藤沢市の無形民俗文化財に指定されている「湯立神楽」の神事奉納が行われる場所が右手に。湯立神楽は、日本の伝統的な神楽の形式のひとつ。釜で湯を煮えたぎらせ、その湯を用いて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う。拝殿を正面から。内陣には巫女さんの姿が。巫女が持っている鈴の名前は「神楽鈴(かぐらすず)」といいます。巫女が神楽舞(巫女舞)を舞う時等に持つ鈴。シャンシャンときれいな音色が特徴的。背中に「皇大神宮」と書かれたユニホーム姿を。そして拝殿の左側には多くの境内社があった。石楯尾神社 (石楯尾神)。石楯尾神社は皇大神宮よりも約20年以上前に建立された記録が残っている。後から祀られた皇大神宮の境内に鎮座するかたちとなったのは、「天照皇大神」を祀る本殿が「大庭御厨」の鎮守になったことが考えらるとのこと。伊勢ノ宮(伊弉諾尊・伊弉冉尊)。さらに左手にも。右に稲荷神社(宇迦之御魂神)。豊受稲荷神社(宇迦之御魂神)。社は全国でも珍しい神仏習合(神道と仏教の融合)の神社。山王社(大山祇神)。恵比須の宮(八重事代主神・大國主神)と豊受ノ宮(豐宇氣毘賣神)。境内には「末社」と呼ばれる本宮に属する社殿が多く並んでいる。もそのひとつで、毎年正月には藤沢市観光協会主催の「藤沢七福神めぐりスタンプラリー」のポイントになっている。「恵比須の宮」には、えびす様である「八重事代主神」の他、「出雲大社」の祭神である「大国主神」が祀られている。世間では「大黒様」として親しまれており、五穀豊穣の神様。境内に並ぶ末社のなかで本殿から一番離れた場所に社を構えるのが「豊受ノ宮」。祭神の「豊宇気毘売神」は稲作をはじめ、衣食住の恵みを授ける「産業」の神様。そして石楯尾神社 の屋根の先に見えた「本殿」を振り返って。拝殿、境内社を巡った後は、三の鳥居下に陣取り、人形山車の到着を待つ。人形山車の到着時間が近づくと、参道の人の姿も急に増えて。人形山車は前方のニの石鳥居の左側の路から境内に入ってくるのであった。前方に先頭の人形山車『1番山車 宮之前町 那須与一』の姿が現れた。その後には『2番山車 上村町 源頼朝』の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ゲオモバイル
2023.09.30
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「烏森神社」の通称で親しまれる皇大神宮(鵠沼神明2の11の5)でこの日、8月17日(木)、例大祭が行われたので久しぶりに訪ねたのであった。新型コロナ禍の影響で4年ぶりの開催。「那須与一」「源義経」「浦島太郎」など、歴史や伝承にちなんだ高さ8mにもなる人形山車9基が揃い踏み。明治中期に九つの氏子会が製作したもので、藤沢市重要有形民俗文化財にも指定されているのである。屋台にも精巧な彫刻が施された山車が参進する様子は圧巻で、「県下で最も盛観を誇る」祭りと。従兄弟の家の駐車場に車を駐車させて頂き、「皇大神宮」に向かう。かつてはこの杜の周辺に多くの烏(からす)が生息していたことから、「烏森神社」と呼ばれるようになったのだ。「皇大神宮」の一の鳥居前に到着。「記念碑」。「記念碑それ 當社寶前の舊鳥居は昭和十年鵠沼出身にして横須賀在住の篤志家関根治郎吉氏をはじめ幾多有志の絶大なる努力によりて奉献せらりしところなり爾來星霜を閲して風雪の削磨に朽ちあるひは 神徳を害せむことを畏るすなはち總代山上八造氏を中心に多数氏子の熱望を凝らし再建の機運ここに熟して昭和三十五年十月起工の式を擧げ同三十六年春正月吉朝威容湘南の空を壓して竣成せり慶喜何かこれに過ぎむ 希くは 神霊嘉納してとこしへに平和繁榮の惠澤を垂れ給はむことを いささか蕪辞をつらね來由を記すと云爾昭和三十六年一月十七日 関根善之助撰」【当社前の旧鳥居は、昭和10年、鵠沼出身で横須賀に住む篤志家である関根治郎吉氏を含む多くの熱心な支援者たちの協力によって捧げられました。長い年月が経ち、風雪にさらされて朽ち果ててしまいましたが、その中で神徳を傷つけないように恐れ、総代山上八造氏を中心に多くの信者たちの熱望が集まり、再建の機運が高まりました。それにより、昭和35年10月に起工式が行われ、翌昭和36年春正月に竣工しました。その荘厳な姿は、湘南の空を圧倒し、その威容は、まさに大きな喜びであります。神霊を崇拝し、平和と繁栄の恵みを祈り願うものであります。以上、拙文を用いてその由来を記しました。昭和36年1月17日 関根善之助】関根善之助氏は我が高校時代の師である。社号標石「皇大神宮」。「道陸神」碑。「道陸神」は道祖神とも呼ばれ、悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祭られる神様。この日は午後2時、宮之前町内から順番に人形山車が参進。3時頃境内に勢揃いするのだ。出発を待つ9基の人形山車が揃い、JR東海道線に突き当たる日本精工(株)藤沢工場の裏の藤沢232号線で出番を待っていたのでそちらに向かう。時間は13:40。『人形山車』👈リンク が宮入の順番通りに並んでいたので、順番にデジカメに収める。別の場所から人形山車の姿を。皇大神宮の9台の人形山車は,明治中~後期に作成されたもので、三層式、総高約8メートル、人形が飾られ、屋台には精巧な彫刻が施されている。 かつての例祭では、各町内からお囃子の音とともに9台の人形山車が境内に集まったといいますが、今は交通事情などのため、境内の山車庫に収められています。現在の例祭では、数百メートルほど離れた路上に九台の人形山車が並べられ、1時間半~2時間ほどかけて境内まで参進して来るのです。藤沢市重要有形文化財に指定され、「かながわのまつり50選」にも選ばれている祭り。人形山車一覧表。(Wikipediaより転載)神奈川県最大の山車祭として知られているこの祭の一番山車は『一番 宮ノ前 那須与一』。宮ノ前町内は、地名からも判るように皇大神宮境内を含むお膝元の集落で、代々の神主も住んでいた町とのことで、そして源平合戦の屋島の戦いで活躍したこの那須与一が弓と矢をこの神社に奉納したとも伝えられているのです。併せて、所領の那須野百石を寄進していると。「宮之前町」の提灯が一対。人形山車の囃子の座・屋台では太鼓や横笛のお囃子の音が賑やかに。那須与一は、源氏と平家の「屋島の戦い」にて、平家が立てた扇の的を、見事射落としたことで有名な源氏方の武士。与一は、馬を海に乗り入れたが、扇の的までは、まだ40間余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて扇の的は小舟と共に揺れていたと。「南無八幡」と心に念じた与一が渾身の力で鏑矢を放つと、矢はうなりを立てて飛び放たれ、見事に扇の要(かなめ)近くに命中。扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちたと 有名な話。上段四方幕に描かれたいるのは、屋島の戦いで活躍する那須与一の姿。この後、屋根の上で獅子舞を披露するのであろう。緑の「獅子油単(ししゆたん)」。こちらは赤の「獅子油単(ししゆたん)」。『二番 上村町 源頼朝』。上段四方幕には白き富士山と虎の姿が描かれていた。破風屋根正面中央。「上村町」の提灯。人形山車の囃子の座・屋台。源頼朝像をズームして。紫の御祭禮幕には源氏を代表する家紋と思われている「笹竜胆」が。平安末期から鎌倉初期の武将で、父源義朝が平治の乱に敗れると伊豆の国に流されます。やがて北条氏の力を借り平家打倒の旗揚げをして歴戦勝利、壇ノ浦で平家を滅ぼして鎌倉幕府を開きます。山車装飾では一人立ちの頼朝人形だが、彫刻はほとんどが建久4年(1193)の富士の巻狩りシーンであると。『三番 清水町 神武天皇』。上段四方幕には清水町の「清」の文字と龍の踊る姿が。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。神武天皇像。人形は、神武東征神話のなかの象徴的な場面である金鵄(きんし:金色のトビ)がとまった弓を手にしていた。神武天皇が大和(やまと)の実力者である長髄彦(ながすねひこ)と戦って勝てなかったとき、金色の鵄(とび)が天皇の弓弭(ゆはず・弓の両端の、弦の輪をかける部分。)に止まって雷(いかずち)のように輝いたため、賊は眩惑(げんわく)されて戦意を失い、天皇は大和を平定出来たと。胸には三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)?をぶら下げていた。八咫鏡は天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、作ったという鏡。『四番 宿庭(しゅくにわ)町 源義経』。破風屋根正面中央。平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸と呼ばれた人物。こちらにも「笹竜胆」が。ジンギスカンの紋章がこの笹竜胆に酷似しているので、ジンギスカン=源義経 説の一つの根拠になっているとのことではあるが・・・・・。破風屋根と囃子の座。提灯には「左三つ巴」の紋が描かれていたが、理由は?『五番 刈田町 徳川家康』。上段四方幕には黄金の徳川の「丸に三つ葉葵」のご紋が。破風屋根と囃子の座。徳川家康像。徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。もちろん260年続く江戸幕府の初代征夷大将軍。ズームして。『六番 大東町 楠木正成』。破風屋根正面中央。楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍して天皇を助けた。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害。破風屋根と囃子の座。後醍醐天皇は皇室の御紋章である菊紋を楠木正成に与えたのだ。ただし正成以後楠木家は、天皇とおなじ菊の紋を持つことは畏れ多いと、菊の下半分に水の流れの図を添えて菊水紋としたのだ。上段四方幕にはその菊水紋が描かれていた。楠木正成像。『七番 中東町 浦島太郎』。破風屋根正面中央。同じく上段の四方幕には竜宮城も描かれていた。小田急線江ノ島駅はこの絵からの意匠なのか?破風屋根と囃子の座。漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上では随分長い年月が経っていた・・。という話。中段四方幕にはその亀の姿が描かれていた。釣り竿を右手で担いでいる若くてイケメンの浦島太郎。『八番 原町 日本武尊』。破風屋根と囃子の座。破風屋根正面中央。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される古代日本の皇族(王族)。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄。日本武尊像。『九番 堀川町 仁徳天皇』。破風屋根をズームして。破風屋根と囃子の座。仁徳天皇像。手をかざして、かまどの煙を見る仕草を現しているのであろう。仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろうと仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔されたと。お顔を。 ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.29
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そして「本堂」の手前の部屋にも「地獄変相十王図」の拡大絵図がガラスケースに収納され並んでいた。「閻魔大王裁きの場図」は更に一段と大きく。そしてこちらが「小栗實記」十二巻。開いてみると・・・。「小栗實記」は奥付によれば一七三五年 、つまり「享保二十乙卯歳五月吉祥日」の刊 。作者については内題には 「畠山先生著述 / 穂積先生参考」とあり 、奥付には 「伏見畠山先生泰全著述 / 摂州穂積先生以貫参考 」とあって 、内題奥付は一致している。 全十二巻十二冊の藍色表紙の大本で 、近世小説史上では 、「読本様式成立に先立つ読本前史の 一部を占める」〈 仮作軍記 〉と呼ばれるジャンルに属するとされている。「小栗實記巻之一」。「法王院閻魔十王御札」、「閻魔宝印」。「閻魔宝印」に近づいて。「この世の幸せ、あの世の極楽」を約束する「極楽往生の通行手形」閻魔大王から授かった御宝印。様々な参考図書が展示されていた。「西俣野地誌」。「西俣野地誌」の編集後記には、私の姉の義父の名も記されていた。「わたしの藤沢」。「地獄絵巡礼」。「地獄ものがたり」。「地獄ものがたり」には、ここ「花応院」の「地獄変相十王図」が紹介されていた。「ふじさわの農地改革自分誌 おもいでのあらまし」。そして「小栗判官一代記附地獄変相十王図絵解き藤沢市俣野史跡保存会」。「俣野史跡保存会」が纏めたこの書を、後日、ゆっくり熟読したいと思い、「小栗判官一代記」の主要部のみ転記しました。「小栗判官一代記頃は人皇百代後小松天皇の御宇、応永元年(一三九四)今より凡そ五百三拾五年前の出来事でありました。小栗判官満重は偖(さて)は小栗の出所由来を尋ねると、固は京都正八幡むすびの神と言はれておわします。都、三拾六人と其中に三条院高倉大納言兼家と申さるるは四、五拾に成られても世嗣無故鞍馬多門ゑ祈願を掛け吾々は四、五拾になっても世嗣なき故男子なり、女子なり共、何卒子種を一人御授け給えと七日七夜の断食祈誓致さるれば七日目に身体疲れ夢うつゝにとろとろと致すように相成たる。其こえ六拾余りの白髭の老人出来り、成る程汝は子種無きが余りの祈願により此の方が男子一人授けて取らすと言ふより早くふっと消えたる。之ことは誠に鞍馬多門なり。神妙に七日の断食も首尾よく終りて吾家に帰えりけり。最早七日七晩も経ちたるに段々懐妊となり、四ヶ月も夢の内段々身は重くなり最早臨月にと成り給え安産致されて鞍馬の申し子なれば蝶や花やと育てれば段段に成長致し二ッ三ッ四ッ五ッと相成りて、手習算盤の稽古を致され誠に発明にて忽ち手習も人が五字教えれば十字さとる十字教えれば廿字さとると言ふ様な悧巧者。忽ち読書算用習い武芸遊芸迄も致され、又横笛は殊更御上手にて鞍馬に縁がある故池野庄司を御供に連れ遊ばし鞍馬差していで参られました。鞍馬間近く成所に有ければ、泉水にて身を清め早朝殿へと御出遊ばし腰より謠帳抜出し「想夫恋」の御楽御吹召らるれば、天は八方余方、深地は奈落の底迄響き渡り、余りにや笛のねじみの美しさに、はるか沖なる「みどろが池」の大蛇三十二相の姿八十二面の美人と身を隠し、小栗判官御前へと参り「そうふれん」の御楽おもしろそうに、深々耿々と御楽を聞ひで居られる内に御楽も段々御終になりにける。」『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【この出来事は、人皇百代後の小松天皇の御代、応永元年(1394年)から約535年前の出来事です。小栗判官満重は、小栗という場所の起源について尋ねられたとき、それは京都の正八幡むすびの神であると言われています。都には36人の人々がおり、その中には三条院高倉大納言兼家という名前の人物も含まれていました。しかし、彼らは子供を持たず、世継ぎがいなかったため、鞍馬多門に祈願を掛けました。彼らは40歳以上になっても子供がいなかったのです。世継ぎが欲しい男女が一生懸命に祈り、7日7晩の断食を行いました。そして、7日目に、疲れた身体とともに夢に現れました。夢の中に現れたのは60歳以上の白髪の老人で、彼は「あなたたちは世継ぎが欲しいが、私が男の子を授ける」と言いました。その言葉を聞くと、老人は突然消えてしまいました。この老人こそが、鞍馬多門の神でした。神秘的な7日間の断食が成功裡に終了し、彼らは家に帰りました。やがて、7日7晩が経ち、段々と妊娠が始まり、4ヶ月後には出産が近づいていました。安全に出産し、鞍馬の神の子供が生まれました。その子供は成長し、数年後には算盤を使った計算を習得しました。数字の教えを受けると、瞬時に理解しました。読書や算術、武道にも熱心に取り組み、特に横笛は非常に上手で、鞍馬の庄司という名の音楽家を従えて楽しんでいました。鞍馬に近い場所に住んでいた彼は、泉で身を清め、早朝に殿へと向かい、謡帳を取り出し「想夫恋」という曲を演奏しました。その美しい笛の音に魅了され、遠くの「みどろが池」に住む大蛇や美女たちが現れ、小栗判官の前に現れました。そして、楽しそうに演奏を聴いていましたが、段々と音楽が終わっていきました】【要訳そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家様。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若。頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人したのが小栗判官。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの「深泥(みぞろ)ヶ池」にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身し小栗判官前へと】。花應院本堂の「小栗判官照手姫縁起絵巻」より。以下、カラー写真は上に同じ。鞍馬山にお参りする小栗の姿。「小栗大蛇の密通の段偖も、大蛇小栗判官公の御前へと参り恥かしき事乍ら私ははるか田舎の下拙に候が何とわたくしを貴公の傍へ二日なり三日なり御かくまい下さるまいかと申し込まれれば、小栗若し若し時に御心を掛られて汝左様迄に申すならばニ日三日かくまい置くべし、然れども其の夜半頃には我宅へと忍び込れと仰せられて小栗公直様吾家へ帰へりました。すると夜の夜半頃にはみどろが池の大蛇其の寝間へと忍び込み初夜の逢瀬が縁のはじめ二日が三日が十日廿日一年がニ年と成りまたまたかくまい置きたるに三年目に成りました。その内に其の姫様が懐妊に成り安産致すには元の大蛇の正体をあらわせねば成難し。「みどろが池も三年も住かを致さぬ事なれば、よしや菰泓の原と成り果て身を隠す処も無き故。大蛇つぼねへとあばれ出し、是より近所に池があるなれば見て参れとありければ、是より近所と申するに、南面して「しんせん淵」と言ふ池が御座居ます。之れ入させて首尾能く安産いたせ給へと言ければ、又之の「志んせんが池」には八大竜王と言ふ竜神御座候故池に人る事のならん如何に大蛇汝人間と一度契をむすびたれば仏道の身なれば此の池へ這入る事は相ならんとすると、大蛇後へ引く時は安産する事出来ず。其処で大蛇と電神との騒動と成り給えば七日七夜は其間大暴風雨大雷電が興りけり。内裏の御殿も崩る斗りとなり給へば、内裏公でも是は何事ぞやと表て三門には公家大納言を立て給えば、是は何事か易者を呼んで占わせよと有りければ畏て候と、其れより易者を召して是は何事か一々次第に占えとありければ、奥の一間に七五三を張り、巻物取り出し三法を置き一々次第に是は、三条院高倉大納言兼家公の御嫡子小栗判官満重公此度「みどろが池」の大蛇と契りを込め大蛇懐妊いたすには元の大蛇と正躰を現せねば成難しと「みどろが池」の大蛇三年も住家致さねば葦菰泓の原となった故、我身を隠す所も無き故に「志んぜんが淵」の池へ飛び込みければ、池には八大竜王と言う竜神生居り、此池へ這入る事相成らんと、大蛇竜神騒動と相成り給えば。是は、三条院高倉大納言兼家公の嫡子小栗判官満重をば常陸の国へと流人致せし事なれば、此の騒動は必ず静まると占ない出ければ、内裏公と談会致し判官を常陸の国「とつぱた村」と言ふ所へ新造の御殿を建立して鞍木の御所と名を付けて此処へ移す事になり小栗城之なり以下十人の殿原を記す。小栗拾人殿原の姓名池野庄司 間瀬忠右衛門 吉田久太夫近松定四郎 田中弥兵衛 原藤左衛門村松三郎兵衛 千馬源右衛門 木村喜兵衛不破五郎右衛門 都合十人」『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【この物語によれば、大蛇と小栗判官の間に何度も逢瀬があり、最終的に大蛇は懐妊しました。しかし、安産するためには大蛇の正体を明らかにする必要があり、それを達成するためにいくつかの出来事が起こりました。最初に、大蛇と小栗判官は三年間「みどろが池」と呼ばれる場所で暮らしました。しかし、この期間が終了すると、大蛇の正体を明かさなければならなくなりました。彼らは「志んせんが池」と呼ばれる別の池に行きましたが、この池には竜神が住んでおり、大蛇と人間が契約を結ぶことはできませんでした。その結果、大蛇と竜神の騒動が勃発し、大暴風雨や雷電が発生しました。この騒動は非常に深刻で、内裏の御殿が崩れ、公家たちも占いを試みました。易者を呼び寄せて占ってもらった結果、小栗判官満重が大蛇と契約を結ばなければ騒動は収まらないことが分かりました。そこで、彼は流人として常陸の国に追放されることになり、その際、新たな御殿を建てて「鞍木の御所」と名付け、その地に移住しました。この騒動の結末について、物語は以下の十人の殿原(小栗拾人殿原)の名前を記して終わっています。小栗拾人殿原の姓名池野庄司 間瀬忠右衛門 吉田久太夫近松定四郎 田中弥兵衛 原藤左衛門村松三郎兵衛 千馬源右衛門 木村喜兵衛不破五郎右衛門 都合十人】【要訳美女に変身した大蛇は、小栗に、貴公の傍へ二日なり三日なり御かくまい下さるまいかと申し込み快諾される。二条の屋敷に入った大蛇であるが、夜な夜な通い、契りをこめているとの噂は直ぐにひろまってしまった。その為、父の三条院高倉大納言兼家公は小栗判官満重を常陸の国への流人としたのであった。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となったのだ。】横笛を吹く小栗。「小間物屋後藤文使人之段去れば、道は急げば早いもの、惚れて通へば千里も一里の例への如く文の便と其の如く、夜と昼との差別なく間もなく江戸へとおでぬれば、品川越して大森や鶴見、神奈川後にして、行くは横浜その次は程ヶ谷越して戸塚宿や大坂上りて二番坂女殺しと早や過ぎて、藤沢宿へと着きぬれば此処に旅路の疲れをば、直して、北に一里哉、今、其場所をと尋ぬれば、六会村の西俣野御所ヶ谷と字を為す。(花応院より北一町八八五番地也)乾の御門前ゑと来りける。御国自慢の調子にて櫛や笄たばさし、かんざし、けあいの道具尺のかもじは召ませんかと、高声にて呼びければ、十ニ局下の水仕の者迄も、出見るより、是はいつもの商人そうになりや、商人みすちかく来たられよと有ければ、商人喜び御門内え、そっと入り、彼の広縁に籠を下し色々留々と取出し、あれこれやと、商いて、手には文玉章を取出して商い最中に成りぬれば、彼の玉章を取出し是さ女子達某は常陸の国黒木の御城下に四、五日逗留致し商ふ内、此様な美しき文玉章を壱通拾ひし者なるが、良くば手本よ悪くば当時の御笑い艸とたばかりて文を出せば、女子共は請取ってさっとひらいて見給へば、何上成は月に星、下には雨あられと召されしょ何様心狂気の人か、若有事をすぢなきやうに書きなしたりと。一字をもわきまへず、一度にどっとわらひける。」『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【旅路に急ぐ者は道を急げば早いものであり、恋に燃える者は通れば距離は関係ない。夜と昼の違いもなく、ほどなく江戸に到着した。品川を過ぎ、大森、鶴見、そして神奈川を通り過ぎ、横浜に行く。その後、程ヶ谷を越え、戸塚宿や大坂に至り、急いでいた。そして、藤沢宿に着いた。ここで旅の疲れを癒すために立ち寄り、一息ついた。その後、北へ進むと、一里もない距離に六会村の西俣野御所ヶ谷という場所があることがわかった。その場所に向かい、花応院から北へ一町八八五番地に到着した。乾の御門前に立つと、地元の自慢の商人たちが、櫛、笄、かんざし、そして長さが尺のかもじなどを売りつけようと高らかに呼びかけてきた。商人たちはいつものように態度を崩さず、商売をしていました。商人たちが近づいてきたら、商人は喜んで御門に入り、そっと籠を下ろし、さまざまな商品を取り出し、商談を始めました。そして、手には文玉章(文字の彫られた玉飾り)を取り出し、商談の最中になりました。その文玉章には、以前常陸の国の黒木の町で見つけた美しい文が刻まれており、主人公はそれを商人に見せました。文玉章の文には、「上には月、下には雨あられ」という詩が書かれていました。この詩に笑いが込められており、主人公と女性たちは大笑いしました。商人たちも爆笑し、その一瞬を楽しんだのでした。】【要訳さてそこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねてまいります。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫。後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けます。】文玉章(手紙)をしたためる小栗判官の姿。「照手姫文玉章読むの段去る程に照手姫七重八重なる簾みすの内よりしずとお出給い、こりやこりや女子達何か面白きありて笑ふや、其様な面白事あらば、姫にも語り心を慰め給はれやとありければ、承り美文玉章を女より照手姫請取て先上書を誉め給い、此文玉章ばかりは只成らぬ人の書かれしと見たけるなり。筆勢のけだかさよ、墨付の見事さよ、御主は誰とも知らぬ共筆にて人の迷ふとは、此処の仮令を申すなり。如何に女子達、それ百勇達しても一勇とても知らざれば人と争ふ事なかれ。其の達には読まいぞ、自ら読んで聞かすべし、此の文は文読声あるべきか、伊勢物語に事寄せて、さも珍重に此文を大和詞で読むべきか、あら面白きこの読み様。先づ、一番の筆立には峰に立つ鹿の薄紅葉、ね笹にあられと召されしは是をくだいて読もうなら先立処のたとへおば、秋の鹿にはあらね共簾声かぬると是を読む。薄紅葉の仮令をば色に出すなと是を読む。ねざさにあられと召されしは花のたもとが、さわれば落るとこれをよむ。先ず二番の筆立には池のまこもと召されしは、是をくだいてよむなれば、引手になびくと是を読む。先ず、三番の筆立には尺長帯と書かれしは、初恋が国を隔てゝあればとて一期に一度めぐりあい結び合はんとこれを読む。先ず、四番の筆立には弦無き弓に羽抜け鳥埋め火と召れしは是をくだいて読むなれらば、扨てこの恋を思ひつめにし御方はいるにもいられず、たつにも立されず、其の日より我心もいらだっ斗りと是を読む。先ず、五番の筆立には恋を七つに別られて見恋、聞恋、語る恋、逢ての内にはなるゝ恋、雲に掛橋申すべて及ばぬ恋を恋と言ふ。爰に、一つの奥書あり恋する人は常陸北条玉造りの小栗殿にて御座居ます。此文付は人よな人は自らなりと記しあり、今迄は、よその事と思いしに吾身の上の事なれば若し比事父横山兄殿原に聞ゆれば如何なる憂目に逢う共しれずと、彼の文王章を二ツ三ツに引きさばき、みすより外へと物せりとなげすて、簾中差して入にける。去る程に後藤左ヱ門申しける。余儀なき人に頼まれて、文玉章の返事取らいては、頼まれた甲斐もなし。爰は女郎達をばおどす所と心得て彼の広縁泥草鞋にて打上り、大の眼の後藤左ヱ門これさ、女郎達、しらいで御やぶり給ふか、則ち字の始まりを語りて聞そうか先、天竺には大聖門珠の筆を始め唐にては善導和尚、我朝にては高野山におはします。弘法大師四十八字をつくり給えば、文字を一字破れば弘法大師の十の指をもいだる如くなり、又二字破れば弘法大師の命を取りたる如くなり、照手姫女郎達心の程こそおそろしやと広縁をどしやどしやと踏みならしておどしたは、身の毛、よだつばかりなり。男といふは、胸に蓮花といふがあり、其上に三本棒があり、腹を立て棒が阿弥陀如来になりて中をこぐって飛び歩くなり。又、女の胸には棒が三本ありて腹を立って其棒は心欲、貪欲、愚痴と言ひ、三疋の虫になり常平生は泣き、くやしいくやしいと思うと、其の虫め涙は一月に一度の月経となりその血が衣装に付ぬりて、川にて洗い流すれば、川の水神どのの御とがめあり、陸にて、汲げすゝぐれば堅牢地神の御とがめあり。其の血を火にもせば、「ふげん文珠荒神が御しかり、おとがめある、あとは限りなし。夫程の、罪深き物なれば、返事をやらんとすれば、夫程の罪に成と、後藤左ヱ門は彼広縁をどらどらとふみならしておどかしましたからたまらない、照手姫、さては、女の心の浅間しさ、此、由を聞し召し、あら、おそろしき事もかや。扨もはかなや、自からは武蔵相模の両国の諸大名の方よりも、文玉章降る雨のしとうが如くなり。何れか引さき捨けるが、皆、自ら後の後悔と成り申さん。仮命此事父横山兄殿原に洩聞へ如何なる憂目に逢迄も、文の返事を申さんとて、「うすよう」取って一重思召さる事をさも珍重に御書遊ばし、先彼様に引結び兵庫の局に渡さるゝ。願て表へ立出て彼の商人に渡さるゝ。後藤文玉章請取って葛籠の中にかけごに入れん。志つかんで肩にかけ門をいでつと出てゝ、ふっと息をつき、虎の尾のふみ毒蛇の口をのがれたる如くなる心もちして常陸の国、さして帰りける。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【照手姫は静かに簾の中から出てきました。女性たちは笑っていました。その笑い声を聞いて、照手姫は彼女たちに面白い話があれば、それを語って心を慰めてほしいと頼みました。女性たちは美しい文玉章を持って照手姫に渡し、この文は一般の人が書くものではなく、特別な書き手によるものだと誉めました。筆勢や墨付けの見事さも称賛されました。しかし、照手姫は誰が書いたかを知りませんでした。ただ、文字を書く人が誰かを知らず、それを迷宮のように解読することができるのは、この世の中で非常にまれなことだと言いました。照手姫は女性たちに文を読ませようとしました。彼女たちは自分たちで読んで聞かせるべきだと言いました。そして、この文をどのように読むべきかについて議論が始まりました。最初の筆立ては、山に立つ鹿の薄紅葉についてのもので、それに関連する言葉や詩句を使って解釈しました。次に、池のまこもについての筆立てがあり、それについても詠みました。続いて、尺長帯についての筆立てがあり、初恋についての詩を詠みました。その後、弦のない弓についての筆立てがあり、恋を思いつめたり、苦しんだりすることについて詠みました。最後に、恋を七つに分けて見恋、聞恋、語る恋などについての詠詩がありました。その後、後藤左ヱ門が現れ、文玉章の返事を取ってきてほしいと頼まれましたが、後藤は頼まれた甲斐がないと言いました。女性たちは後藤に怒り、彼をおどしました。後藤は女性たちを踏みつけて脅かし、女性たちは恐怖のあまり身の毛がよだつほどでした。男性は胸に蓮の花と三本の棒を持っており、腹を立てて棒が阿弥陀如来になり、中をこぐように飛び回ると信じられていました。女性は胸に三本の棒を持っており、腹を立てるとそれが「心欲」「貪欲」「愚痴」となり、これらの虫が泣いたり、嫉妬したりすると信じられていました。月経の血は、川に洗い流すと水神と陸地神に怒られると考えられていました。後藤は文玉章を葛籠にしまって去り、照手姫は女性たちと一緒に踊りました。この文玉章は彼女たちにとって非常に重要なものであり、誰が書いたのか、どのように解釈すべきかについての議論が続きました。【要訳七重八重、九重の 幔幕の内にいらっしゃる、照手の姫はお聞きになり、中の間までお忍び出ていらっしゃり、「のう、どうしたのです。女房たち、何をお笑いになったのですか。おかしいことがあるのならば、私にも知らせなさい」と。照手姫はその手紙の筆跡、文勢、表現に感激する。そして返事を書き、後藤左ヱ門に手渡し常陸の国へ。】文玉章(手紙)を読む照手姫。「小栗聟入の段偖て、相模国、今の高座郡六会村西俣野字大塚が上に上り、商人申す様向ふに見るは乾の御所照手姫の御所、一方こちらにみゆるが、横山大膳信久が御宅なり。彼の棟が五つ見ゆるが殿久保とて五人のきん達なり。さらば、乾の御所へ御出遊ばし、暫く御休息遊ばされよと、私は、是にて御暇仕ると言ければ、小栗聞召れ、夫れ夫れ商人に引手物取らせよと、畏まって、数多の小袖を下さる。後藤悦び我家を差していで帰りける。夫より小栗乾の御所に来る。時の番衆に出合、是れはと、とがめられいつも来る客なるで存ぜぬかとぞ。へつとは雨にと遷のける座敷の景色を御覧になり遥か向ふに座敷へとむんずひらりと、なおられる、夫より小栗乾の御所に来る。むんずひらりと、なおられる、夫より蓬莱山の景色を飾り色々取肴を拵へ、女郎達の御酌にて御酒盛とぞなりにける。此人々の御中に比翼連理の御契り実に浅からぬ様に見えにける。此事、横山のところへ聞へければ五人の山見をば呼寄せて、いかに、汝方乾の御所に客来る声ありは存ぜぬかと、尋ねるに、いやいや我も存ぜぬ、吾も知らぬと申ければ、横山立腹し、武蔵相模両国の郡代を致す考なれば、何より気支いになり。三男の三郎を軍大将にて照手諸共打って取れと申附らる。夫より、三男支度致し二百騎の軍勢引連れ軍音を取極め、三男軍大将にて黒毛馬に打乗って、あぶみふんばりくら笠に突立上り下籠へと矢を五十対を御右手には重藤の弓を持ち、二百騎の軍勢を引連れて乾を差して急ぎける。乾の御所間近き所にて候へば、高貴の聟入りとあれば、何より気づかいになり、爪腹召されよ、さもなくば、只一打と打て取れと大声かけて呼るる声をふっと心得たりと、十人の殿原達袴の股立取って大刀をすらりと抜き放ち、二百騎の軍勢を相手として、火花をらして戦ひ、中をひらりと飛び給ひ射る矢を手にて請取くも手かく山十文字八字打通し縦横無尽に戦ひしが、二百騎の軍勢皆矢を射尽し◯も我々の及ばぬ事なるや打負けたるやと逃出す、皆横山宅ゑと帰りける。いかに父横山あの小栗判官と申するは父は都三十六人の御中に三条院高倉大納言兼家と申するは四、五十に成っても世嗣なき故、鞍馬多門に祈願をかけ夫婦諸共七日断食致されて、誠の鞍馬の申子故なれば、中をひらりと飛び給ひ、射矢をも手にて請取って候へば中々以て我々共の及ばぬ事なるや、あのやうな者は聟に取置成されたれば、一方を防ぐ大将とも成べし。捨置れては如何と申すれば、横山大いに立腹し、若き身なるに打負けては悲境なり。年寄れ共、此の横山、唯一打に打って遣すと刀の相口を七、八寸くつろげ膝立直しがたがた致され候へば、三男三郎はいかに父殿先、以て、御控なされ我宅には是より八丁の山奥にかや原の中につなぎ置きしあの鬼鹿毛馬は何の為めの馬にて御座るそゃ。あの馬は、我々の手に余る者を馬草に替て食するが為めの鬼かげにて御座る。父、横山も成程と思ひ三男あの鬼かげに食する工夫は先、明日成るならば聟舅の盃現来とし使者を立せべし、小栗来る事は必定なり、其時酒をさんざんもてなし三献目にて成時に何の都の客来るに肴を取届けよと日ふべし。其時、小栗申さんに弓かまりか仕らんと申すべし。其罷出りや、父様は若き時より馬を好かれ候故一馬場に取屈せん。横山聞召しよき事をたくらむ三郎哉。左様ならば直様汝方乾の御所に使者に来れ、畏って候と三郎は乾を差して来りける。小栗判官公昨日御振舞の段は平に御赦免御下さるべし。今日は父横山公が申使せしが、聟舅の現来に御酒一ツと申すれば、小栗判官聞召し、何の勝に事に負ずと直に出で来らんと十人の殿原を引連れ横山宅へと急ぎ歩みけり。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【相模国、現在の高座郡六会村西俣野の大塚山に登り、商人が向こうから見ると、乾の御所である照手姫の屋敷と、こちらには横山大膳信久の屋敷がありました。乾の御所の方向に見えるのは、殿久保という五人の側近でした。そこで、乾の御所へ行って休息し、しばらく滞在させてほしいと私は頼みました。商人の要望に応じて、小栗判官が呼ばれ、小袖(着物)をいくつか提供してくれました。後藤は私たちの家を訪れ、その後、小栗判官のもとに行きました。その後、私たちは乾の御所に向かいました。番衆と出くわし、「あなたはいつも来る客ですか?」と尋ねられました。私たちは雨が降っている座敷の景色を楽しんでいました。しばらくすると、夫からの小栗判官が乾の御所に来ました。景色を楽しむことに加えて、私たちはさまざまな料理を用意し、女性たちに酒を勧めました。人々の中で比翼連理のような関係が見られました。これについて横山に尋ねたところ、五人の山見(山中での見張り役)を呼び寄せ、乾の御所に客が来る声が聞こえるかどうかを尋ねました。山見たちは知らないと答えました。横山は立腹し、武蔵相模両国の郡代を務める考えに至り、三男の三郎を軍大将として派遣し、乾と戦わせることにしました。三男三郎は軍勢を率い、黒毛馬に乗り、弓矢を持って乾の御所に向かいました。乾の御所に近づくと、高貴な人々がいました。それを見た三男三郎は気づかい、爪腹を呼び寄せて戦いに挑みました。しかし、二百騎の軍勢相手には太刀打ちできず、敗北しました。皆、逃げ出し、横山の家に帰りました。横山は、自分が都の有力者であることを示し、三男三郎にもっと戦わせるよう命じました。三男三郎は軍勢を引き連れて再び乾の御所に向かい、戦闘が繰り広げられました。しかし、乾の軍勢は矢を射尽くし、敗走しました。それにより、乾の御所の客たちは遠ざかり、山中に逃げました。横山は、父が都で高倉大納言兼家であることを語りました。父は世継ぎがいなかったため、鞍馬多門で祈願をし、子供が生まれたという鞍馬の申子だったのです。それから、父は三男三郎に、乾の御所の客として小栗判官に振舞われた際には、酒を振舞ってほしいと伝えました。父横山は、乾の御所の使者が来るだろうと予想し、小栗判官に酒を振舞うことを提案しました。その後、小栗判官が使者として来たとき、弓矢を持つように小栗判官に伝えました。小栗判官はそれを受け入れ、急いで横山宅に向かい、酒を振舞いました。】【要訳照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。】相思相愛の小栗判官・照手姫。「小栗宣命を鬼鹿毛に行のうの段如何に鬼かげ聞入れよと、牛は大日如来なり。馬頭観世音の化身と聞くからに余なる馬と申するは、寺門前につながれて、経念仏をきく時は人こそ知ら弥常に仏名と述る汝又かく萱原に繋がれし経念仏を聞かざれば畜生の中の鬼ぞかし。むかし大国のことかとよ。ぎやうさう国のさつた王。ぶもけふやうの其のため。あん国せんにのぼらるる。千りつゞきし竹のはやしに成ぬれば。ゆきかう山にふりつもる。虎がゑもつはなかりけり。虎比由をみるよりも。ぶくせんととんでかかる。さつた御らんじ、少のいとまをさせよとて「如是畜生発菩提心虎成仏」と解き給ふ。虎は、仏に成りとかや。其の身も成り仏とけてあり。汝の姿を木像にきざませ俣野の原に四十八間四面に黄金の塔を建て、供養して馬頭観世音と祝いてこそは得さすべし。鬼鹿毛いかにと仰らる前膝折って、うなだれて是は鬼かげ乗せる気かと心ひかれ、元より鬼かげ名馬の事なれば、小栗殿のみ額に米と言ふ字のすわり、両眼に阿弥陀如来の立給ふを見てより、ものせんと言はぬ斗りにて、前膝折ってうやまいたは、只、人間物を知らぬなり。小栗此の由御覧して、此はこれはいかさま鬼かげのせる景色と見えてあり。さあらば鬼かげに力の程を見せてくれべしと津々と立寄り、くさりに手をかけゑ候や、いとねじ給へむ鉄金強しと申せどもちらりと切れて見えにけり。目かんぬき取てかしこに捨て戸開をひらき其身に馬が平首にいだき付やうもん三べんとなへ給えば、少しも仔細はなかりけり。八方八ツの鎖を一所に御取あり。エンヤットねじ給へば、是もばらり、とれてのこらず取て中をきりりとねぢ合わせ、是をがっしとはませ、頓も馬屋を引出し、すでに乗らんとし給ふが、まてしばし斯様に心ある馬ならば、無駄には乗るまじ一誉めて乗らんとて、馬引出して誉られたり。ノウ此馬候やよき馬と吉興なり。胸は出張たりまはり惣身をもかほとしはとなく不うかいあれて上のロをつって下口をたれてたつの首の如くなり。耳の容態は年を経たるほら貝をニツ取ツておし合せ中より不たんを出た如くなり。眼は鋭く黒して赤金のめつきをし朝日に向ふの如きなり。鼻の様態は法華経の巻物をニ巻合せものゝ上手が造附たる如くなり。志め髪の容体の山すげヶ谷の嵐に一もみもふてふはりと靡いた如くなり。胴の骨の容体はむら重藤が弓の弦を張りたる如くなり。前足の容体はさせ大唐竹に根引してありそのふしをぬき碁板の上たる如くなり。腹の容体はまりをくゝりたる如くなり。後股の容体は庭の批把に二把合せ物の上手が造り附けたる如くなり。尾の容体は奥山の大滝がたきれにたきれてたったっと落る如くなり。志かもけいしのほねあれて鳥の小ぶねになれあいてせいて下り、まいては上り毛なみふねあいよめのふし。爪はあつふて筒高ければ竜の毛にてちり打払ひ。天晴、此馬に打乗りるまじと誉め給ふ。小栗は鬼か毛にむんひらりと乗り給ふ。小栗に、どう骨をはさまれて勇み勇み此処のたとへとは無けれ共、猿猴がこづゑをつたい荒鷲がとやをやぬりてきしにあうあうたる如くなり。八町の萱野を疾く疾くと地道にて乗給へば、白あは吹ひてぞ出来る。殿原達余り面白さに大声上げてぞほめにけり。夫より、小栗はいさ各々来らんと乗出し給へば、横山は今頃は馬に喰れ小栗の最後を見物せんと敷革持せ出られける。三男三郎馳せ走り見に来り候時は、最早山の下〈ぞ乗り下り、三男是を見て急ぎ引返し何に馬に喰るゝ所か、裸馬にて打乗り、地道にはとくとくと、今直に屋敷へ乗込中と候と告げければ、横山もあきれ果ててぞ居りたりけり。鬼かげを横山の門前に繋ぎ置き、一馬場せめ申すべしと、庭先へ乗込み給へば、太郎あまり面白さに三間梯子を持出し、軒場に掛け、これゑこれゑと所望すれば、乗りて見せずんばひきようなり。トクトクと屋根へと上り、詰め屋根も破らず、元の平地へ乗下す。余りの面白さに障子一本取出す、是へ是へと所望する、是もきらず乗り下す。横山、又、碁盤一面取出し、是へ是へと所望する、是も、乗って見せんとてすとすとと乗り給へば、ほねもいためず紙もきらず乗り下す。横山、又、基盤一面取出し、是へこれへこれえと所望すつ、是も、乗って見せんとて四足を揃ひてドッと乗りひきよくを尽して乗り給へば、横山実にあきれは果て、御苦労御苫労と苦誉して庭の桜の古木へ繋ぎ、元の酒宴の座へなをり、夫より家来の者共は右手左手に座らせてあの様な六ヶ敷馬は買はねがよきと申度候へど差支へ、扨て、あの様な猫のような馬は猫鹿毛とも言ふべきや、あまりな事で、御座るなと申しをかしくはなけれ共、一度どっと大声上げて笑ひければ、鬼かげ馬はおれが噂を言ふのかと心得て庭の古桜を根元より折りて、武蔵の方へととっとっと飛出せば、横山一門の者共は、あの馬が逃がして置く事なれば、武蔵相模の人種が絶る故、元の馬屋へ繋ぎ下されと、流石の横山も手ついて小栗に頼めは小栗聞及び広縁の出し、夫より小馬繋ぎふようもんを三度唱へ、日の丸の扇子にて招かれ給えば、鬼鹿毛馬は直様鼻を返して、ヒラリヒラリと飛返り鬼かげ馬は小栗の前にぞ耳をたれ敬いける。御身はかろげに打乗り元の廐に乗込めば、元の如くにしつかと繋ぎ置てぞ帰りける。小栗照手姫を連れて常陸の国へと帰り遊ばせば、今は目出度暮すべきに余り面白さに又乾の御殿へ帰り遊ばし錦の夜具にきら枕を取寄せて「比翼連理」の御笑ひを楽めば又三男の三郎の工夫を廻らしける。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【どのようにして鬼かげと呼ばれる馬が聞き入れるのかと、その馬は大日如来の化身でした。馬頭観世音という仏の化身であることが知られ、非常に特別な馬でした。この馬は寺の門前に繋がれており、仏の名前が唱えられると、まるで人間のようにふるまうのです。しかし、経典や念仏が語られない場合、ただの動物として振る舞うのです。この馬は、昔、大国と呼ばれる場所で王様に仕えていました。ある日、竹の葉を食べることができなくなり、山に向かって行くと、雪が降り、虎が姿を現しませんでした。虎比丘尼という女性が現れ、馬に菩提心を持つように説きました。すると、馬は本当に菩提心を持ち、虎に変身しました。人々はこの出来事に感銘を受け、馬を木彫りにして俣野の原に置き、黄金の塔を建てて供養し、馬頭観世音として祭り上げました。しかし、主人公である小栗は、馬をただの鬼かげだと誤解し、馬に乗ってしまいます。小栗は馬の力と速さに驚き、さまざまな奇妙な冒険に巻き込まれます。小栗は鬼かげの力を試すことを決意し、馬をくさりで繋ぎ、鉄の鎖に手をかけますが、それでも馬は自由になりました。目隠しを取って戸を開けると、馬はすぐに平首になり、三度も馬を乗せようとしましたが、まったく乗ることはできませんでした。馬は鎖や鎖を外す方法に対しても無関心で、どんなに困難なこともありませんでした。小栗は鬼かげの素晴らしい力に感銘を受け、その後、馬を照手姫と一緒に連れて常陸の国へ帰り、幸せな日々を楽しみました。彼らは錦の夜具やきらめく枕を持ち込んで、幸せな比翼連理の生活を楽しんだのです。そして、小栗の三男、三郎の才能も賞賛されました。】【要訳そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。】馬の鬼鹿毛は小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。【照手姫宇津路船にて流さるるの段斯て、ややありて横山申す、人々の子を害し、わが子を助け置事なかれと言ふて、都への聞へもありと申して、(こんこん)と言ふて、うつろう船を作り、(今の高座郡鎌倉郡の境いの境川に流せよ)と、鬼次兄弟を呼出し申付、簾中に指して入りたる。扨て、鬼次兄弟は迷惑至極なり。如何に主人に奉公致すとて千年も万年も命ながらいはせまじとて悔みたり。然れ共、主人の仰に候得ば、是非も無く乾を指して来りけり。乾へ来り、兵庫の局に対面し、小栗殿本日来し其座敷にて切腹相被下候間、御姫様を境川へ「うつろう船」にて流せよとの仰せ付に候付、此段、御姫様へ此事御申聞かせ下さるべし。局打驚き、夫は又何事じゃと、直様御姫様に遂一申上候へば、姫君にはその兄弟の者を簾中近くへ呼び寄せて、鬼次兄弟に嘆きながら簾中近くへ来り、偖て、小栗客来の座敷にて切腹なされ候とや、それは、夢かや幻かや錦のしとね綾の枕もさめぬ内切腹とや自から少しでも知るならば、小栗殿に腹切らせ、其の刀で自切して死んで大河を手に手をとりて越さん者と落涙して泣ました。ややありて申す様、あまり嘆くは後世のさはりと聞く中に、肌の守りと鬢の髪は母上様へ奉る。唐の鏡は藤沢の遊行上人殿へ奉る。其外女郎達には小袖を上げべし。上着小袖は鬼次兄に上るべし。必ず妾しが死んだ其後は念仏申して呉ぞかし。女郎達姫が顔を見給へや、自らもそち達の顔を見置ぞかし。是が、此世の暇乞又々ワァート泣出す。はるか沖に当て松明あげ候得ば、此世の暇乞となさんと約束通り松明上げ候得ば、皆々申候、昔、釈尊が死んだ其時は、鳥類、畜類、皆集りなげき悲しむ。夫れには劣るまいと言ふて泣々皆帰りけり。鬼次申様、いかに鬼次の二人の外、人もなし。千年も万年も生るでなし、御命を助け申すべしと声高し、声低し申上れば、姫喜び必ず、了簡なされよと、拝めば、流石の鬼次も姫の腰の重りの石を腰の差添抜散し、言ふより早く切り落し、うつろう船に乗せて押出し、流石の悪党の鬼次も、吾身の程を覚へ大粒の涙をこぼし何処の国へき栄へよと、共に分れ兼て泣く泣く横山が宅へ帰り、照手姫を只河中へ沈め殺したりと告げれば横山大膳大に喜びたり。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【どのようにして鬼かげと呼ばれる馬が聞き入れるのかと、その馬は大日如来の化身でした。馬頭観世音という仏の化身であることが知られ、非常に特別な馬でした。この馬は寺の門前に繋がれており、仏の名前が唱えられると、まるで人間のようにふるまうのです。しかし、経典や念仏が語られない場合、ただの動物として振る舞うのです。この馬は、昔、大国と呼ばれる場所で王様に仕えていました。ある日、竹の葉を食べることができなくなり、山に向かって行くと、雪が降り、虎が姿を現しませんでした。虎比丘尼という女性が現れ、馬に菩提心を持つように説きました。すると、馬は本当に菩提心を持ち、虎に変身しました。人々はこの出来事に感銘を受け、馬を木彫りにして俣野の原に置き、黄金の塔を建てて供養し、馬頭観世音として祭り上げました。しかし、主人公である小栗は、馬をただの鬼かげだと誤解し、馬に乗ってしまいます。小栗は馬の力と速さに驚き、さまざまな奇妙な冒険に巻き込まれます。小栗は鬼かげの力を試すことを決意し、馬をくさりで繋ぎ、鉄の鎖に手をかけますが、それでも馬は自由になりました。目隠しを取って戸を開けると、馬はすぐに平首になり、三度も馬を乗せようとしましたが、まったく乗ることはできませんでした。馬は鎖や鎖を外す方法に対しても無関心で、どんなに困難なこともありませんでした。小栗は鬼かげの素晴らしい力に感銘を受け、その後、馬を照手姫と一緒に連れて常陸の国へ帰り、幸せな日々を楽しみました。彼らは錦の夜具やきらめく枕を持ち込んで、幸せな比翼連理の生活を楽しんだのです。そして、小栗の三男、三郎の才能も賞賛されました】「要訳横山は、息子達と再び謀議。照手は、夢に見た夫の未来を案じて止めるが、小栗は横山の館へ行ってしまう。横山はついに小栗を十人の家来諸共、毒殺してしまう。また、娘の照手も相模川に流してしまう。」兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。【照手姫松葉いぶしの段去る程に、照手姫河中を夜昼の差別無く、流れ流れて川下の片瀬越して、江の島へと、浮つ流れつ吹き流され、腰越沖の海の中へと浮きつ流れつ漂ふを腰越の漁夫呂八と言ふ慈悲深き人あり、妻は至つて鬼婆となり、或時、呂八海上に網打に行きける。向よりうつろう船とか言ふ、みやうな船一艘見へければ、櫓竿をいて行き、近寄り見れば、只、船中に女一人ありければ、其女をば吾船にうっし吾家を差して帰りける。女房に斯と告れば、有余る身の上らしき御馳走ぶると、火を吹く顔の女房に、姫は気の毒り次の朝いとまを告げて出んとせしを呂八引止め明日用事あり。大森辺迄来るならば、送来らんと情ある言葉に其の日も、終に止りける。呂八今日も暮方より網打かつぎ浜辺差して出行くも、後に女房おとまは身の上、それより志かじかと猶、疑いて隠妻と相違ないと邪推して、姫を己が側へ引寄せ、眼を怒らし、松薪振り上げ姫の黒髪幗んで打ちたゝき、情用捨も荒繩に姫を棟木にくり上げて下より松葉の青ぎをくべて火のつけていぶしければ、煙りは目口にむせびいり、姫は、泣しさ苦しさも絶ゆる斗りになりにければ、姫は之迄と守本尊を日頃拝し居ければ、南無守宮本尊助けて給へと有りければ、煙は段々婆が方へと傾き、いぶせばいぶす程色白き見る見る内に猶一層の美人となり、流石無情の鬼婆もあきれ返り居る処へ、折柄おとまが舎弟にて眼造といふ小悪者、爰に至り外より内を打覗けば、姉なるおとまが美しき女を松いぶしにするは合点の行かぬと、ずっと這り様子を聞けば嫉妬に八百眼造忽ち胸算段姉に何やらささやけば、おとま忽ちにっこりとして表の方へ行きにける。眼造立上り、くゝりし繩をほどきさまざまと介抱するに、此上又も憂目に逢はんと又も守本尊を念じつゝさしうつむきおはしける。眼造は至りけり。猫撫声でコレコレ女子、気を慥に持て、さぞくるしかったであろう、此の家の妻わしの姉なれども、心狭くして女の心から斯様な責わした上からは必ず気支はない。先、此家の女房の帰らぬ内、私が家迄同道して、夫から先は志るべく方へ行き心の儘と情ありければ、地獄で仏と後の難儀も知らぬで只管たのめば眼造は得たりと悦び、猶も親切らしく大魚籠取出し、其中に娘を忍ばせ、我家に連れ行かず、小船に打乗せ浦賀沖なる人買船に連行きて三十両にて売渡し、其夜は姉の方へ帰り少し金を分けて与へ素知ぬ顔で別れたり。偖々、照手姫は眼造にあざむかれ人買の船乗女の源次に売渡され、此上如何なる憂目に逢ふ事かと心の内に思ひ苦労を重ね居る内に、夫より又房州より来れる人買船が沖合に居り厄病神の三次と言ふ小船に三十五両にて源次は売渡し小出原沖にて、又も、三次は人買船を見付け船乗りの助八と言ふ者に、照手姫の美女たるを自慢に四十両にて売り飛し、助八は又も沼津沖にて貧神の孖助と言ふ人買に助八は四十五両にて売飛ばし吾助は又もや駿河湾沖にて人買の喜造と言ふばくち打の親分に五十両にて売渡し、此喜造と言ふばくち打は年中美濃の国府方面に天下の流浪人を集め、賭博開帳し居る故、此頃、国府に万屋長右工門と言ふ、旅人屋有り、女中も多数有る故、是を目的に此の位の玉ならば、客も取れるし相当価売も出来るし、若し、相談出来ざる其の時は、吾が左妻として囲ひ置く事と度胸を定め、万屋差して急ぎけり。或日喜造長右工門を呼出し、本日吾々訪問いたしたるに常陸の国の生れ小萩と言ふ芸者なるが、御当家の昌伺に是非御奉公致度と申立迄、連参り候。玉は御覧の通り、此の位の美女は日本には二人とはあるまじ御気に召したば、大まい百両にて御売渡し申すべく。若し御気に召さなければ、当分の間十五畳一間に良い女故とすっかり惚れ込み此顔立では相当客の御相手も出来るだろうと、百両束を投げ出して、契約も済みました故、喜造の悦びは並大抵では御座居ません。旦那随分御頼み申します。何れ又御目にかゝりませうと御礼もそこそこに出でゝ行く。喜造道ゝ一人言こんな旨言が毎日一ツあれば、御上の御目を盗んで人の金を胡魔化さなく共立派に五十両宛一日に儲かる。此様な事が毎日あれば、ばくち止める者と一人言を言ひ其夜は或茶屋でたらふく飲み尽したそうです。後には長右工門姫に向ひ御前は是から妾の家の女中ですから泊客の相手又御気嫌取りなど良く勤めよと言渡せば、姫は両手を突き、妾は常陸の国の生れ名は小萩と申すが訳あって御当家へ御厄介になります。何卒宜しく御願ひ申します。さり乍ら、私事は神に誓ひ必ず男に肌をふれませんと大願かけて候へば、此の事計りは許しなされて下さりませ。其外の事なれば、かしき、水仕事、いかなる事でもいやとは申しませんと言ふより長右衛門案に反し、金は渡したし、此の玉で一儲けせんと思ひしが、男がきらいでは仕方なし。段々様子を訪問すれば、事情あって国を出で、女の身一つで便る者なく、さまよう内に悪人共の手にかゝり、船人にだまされ良き処へと、地獄に仏と喜び居たる内、「船内から」船内へと人買船から人買船へと売渡され、此御家迄には十人位の手にかゝり、今、此、仕末自分で自分の心さへ夢か現か分らない推量あれと斗りに泣伏せば、流石長右工門も共涙実に不敏なる事なると、夫より外の女子の手前もあり、小萩は今日より十七人前の働きを言ひ付たり。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【かつて、照手姫は川中を昼も夜も区別せずに流れ、片瀬を越えて江の島に漂着し、次に腰越の海中に漂いました。そこで、呂八という漁師が優しい心の持ち主で、彼の妻は鬼のようになっていました。ある日、呂八は船で網を打ちに出かけました。帰り道、不思議な船が目に入りました。その船にはただ一人の女性がおり、彼女を自分の船に連れて行き、自宅に帰しました。その女性は身の上に不幸なことがあったようで、女房にはすっかり身の上を話し、お礼におご馳走を振舞いました。しかし、その女性は翌日早く出発する予定で、それを告げると、呂八はその日も女性を引き止めました。もし大森まで来るつもりなら、送りますと言葉をかけられ、その日も泊まりました。呂八は翌日も網を打ちに行くことになり、しかし、彼の女房は女性の身の上を疑っていました。女性は何か秘密を隠しているに違いないと考え、彼女を自分の近くに引き寄せ、怒りを込めて叱りました。そして、女性の黒い髪を引っ張り、情け容赦なく扱い、最終的には彼女を縛り上げ、松葉の上に火をつけました。煙が目にしみ込み、女性は泣き叫びましたが、姫は守本尊に祈りを捧げ続けました。南無守宮本尊、助けてください、と。そして、煙は少しずつ傾き、燃え尽きました。すると、女性はますます美しくなり、鬼のような女房も驚きました。そのとき、屋根裏部屋で聞き耳を立てていた、姉妹のおとまの兄である眼造という悪党が、美しい女性を見て嫉妬しました。眼造はおとまに対して何かほのめかす言葉を投げかけ、おとまはにっこり笑って外に行きました。眼造が立ち上がり、縄をほどくと、女性は様々なことに挑戦しましたが、嫉妬に燃えた眼造は姉に対して何かをたくらみました。おとまは笑顔で向かいの方に行ってしまいました。眼造が再び立ち上がり、縄を解いて様々な方法で女性をいたわりました。この上、女性はさまざまな困難に立ち向かい、絶えず守本尊に祈りました。しかし、彼女は何度も売られ、多くの男たちの手に渡りました。最終的には喜造というばくち打ちの親分に五十両で売られました。彼は美濃の国府近くでばくちを開いており、美しい女性が客を引き寄せ、儲けることができると考えました。喜造は女性を長右工門という旅館に売り渡そうとしましたが、女性は男性を嫌っていました。しかし、彼女は金を受け取り、男性を受け入れざるを得ませんでした。その後、女性は十七人前の働き手として、常陸の国で働くことになりました。彼女は誓いを守り、男性に対しては心を許さなかったが、自分がどこから来たのか、自分の過去が夢か現か、分からないままでした。】「要訳腰越沖の海の中へと流れ着き漁師に助けられる。漁師の妻は嫉妬深い女だったので照手姫を松の木にしばりつけて、松の青葉でいぶり殺そうとしました。しかし姫はまたも観音様に助け られたが、漁師の妻に人買いに売られてしまい、流れ流れて、美濃の国の遊女屋「万屋」に売られる。だが、照手は遊女になることを嫌い、小萩と名を変え下働きをして苦労する。照手姫の白い美肌も気にくわない漁師の妻は、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責めにする。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのであった。「小萩清水をくむの段御いたはしや、小萩こそ化粧道具を請取て拾八丁向ふなる清水を汲みに出給ふ。心の内こそあわれなり。漸々清水に成ぬれば、桶をどんぶとおろしつゝざんぶと汲みて桶に人れ、汲みたる清水で顔見れば、南無三宝やつれたな、妾が姿夫れに離れて此方は前垂、たすきで暇もなく髪に櫛の歯入ざれば、劣えたる如くなり。是も誰故、夫の為め思へば、恨とも思はれずと相模の方を打向ひ念仏申夫が為め、又も申す念仏を殿原達へと回向して、汲みたる桶を肩にかけ、萬屋さして来りける。長右ヱ門此の様子を見るよりも又も御銭を取出していかに小萩此一文の銭にて世中の市で「トウナン、セイナン、ウゴモリ、カゴモク、カイロウイチシ、並のオノコツレオノコの七色の買物が一色違ふ者なれば、ながれを立つと、思ふべし。長右ヱ門奥へぞ人りにけり。いたましの照手姫とある所に立つよりくどき事あはれなり。相模の国にありし時は、百人一首の札までもっくづくおちやめの上に至る迄、から名を付てつかいしに。いやまてしばし我心是程いぶき事たして、萬屋差して帰りける。如何に御主人御覧ぜよ。先づ、トウナンとはつくづくし、セイナント申すはせりの事にて御坐なきか、ウゴモリトはうどの事、カゴモリトハ山芋の事、カイロウとはゑびの事、イチシと書いていちもちよ、扨ナシノオノツレオノコとはその事のはらにて御座なきやと買って参りました。此の七色の買物が一色違って居りましても、流れをゆるさせ給へとて涙ながらに申しました。長右ヱ門是を見るに偖不思議なる哉、出来ない相談に一文の銭にて是丈の品物を寄集め又此の符調を此で買求め来るとは実に不思議な女なり。何ぞ、訳ある身なるべしと、茲に始めて驚き、十六人の女中達も余りの事に打驚き、小萩様小萩様と情をかけ働き止め、さして真の上番の客相手にとなされました。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【おい、小萩よ、化粧道具を持ってきて、18丁の清水を汲みに行ってくれ。心の中は可哀想だよ。少しずつ水を汲んで、桶を下ろし、その水で顔を洗った。南無三宝(仏教の祈り)と唱えて、自分の姿を見てみたが、ああ、疲れ果てているな。髪をたすき掛けて、髪の毛をとかずにいた。なぜかって?夫のためだからさ。恨むこともない。相模の方を見て念仏を唱え、その念仏を殿原たちにも回向して、桶を肩にかけて、万屋に向かってきた。長右ヱ門はこの光景を見て、さらに金を取り出して、小萩に言った。この一文の金で、世の中の市場で『トウナン、セイナン、ウゴモリ、カゴモク、カイロウイチシ、オノコツレオノコ』と呼ばれる、七色の品物が一つだけ異なるものを買ってこい。長右ヱ門の奥には人が立っていたが、照手姫と言うのに夢中であった。相模の国に住んでいた時、彼女は百人一首の歌までをくどくどと暗記していたのだ。私はしばらく彼女を見ていたが、いぶきが立ち上り、万屋に戻るように促した。御主人に見せてみろ、と言った。最初に、トウナンとはしっかりとした座布団を指す言葉であり、セイナンとはせりのことである。ウゴモリトは、うどのことで、カゴモリトは山芋のことであり、カイロウはゑびのことである。イチシは「いちもちよ」と発音され、扨ナシノオノツレオノコはその内臓を指し示す言葉である。これらの七つの異なる品物が一つずつ違っていても、それを受け入れてくださいと、涙ながらに頼みました。長右ヱ門はこれを見て、何とも不思議なことだと驚き、この一文の金でこのような品物を集めてくる女性は不思議だと感じました。なぜなら、それは一見不可能な依頼だったからだ。茂みに何か訳があるのだろうと思い、初めて驚き、16人の女中たちも驚き、小萩様と呼んで情をかけ、本当の上番の客の相手をすることになりました。】「要訳「常陸小萩」と名を変えた照手姫は、井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れたのであった。」井戸の水を汲み上げて運ぶ小萩(照手姫)。「小萩餓飢阿弥車を引く段いたましゃ、小萩は、主人に烏帽子を申受け紐を結んで下にさげ、裾を結んでかたにかけ、門外差してぞ出給ふ。手綱に引付エンヤラエンヤラと引く程に、萬屋門外早過ぎて、宿々町々関々をひけよひけよと此事を音頭取って引かせける。姫が涙はたるい宿、ふはの関やの板びさし、月洩れとてやまばらなる、美濃近江の境なる寝物語やさめがいの嵐小嵐番場ふけとて、袖寒や、ゑち川を渡れば早やたつたの小野に付くとやすり鉢峠の細道をヱンヤラヱーと引程に御代る鏡山雨は降らねど森山や「がきやみ」の胸の木札に露の玉をば宿らねど草津のしゅく山田下田を見渡せば、さも美しき小乙女の小苗をとり田植歌にぞ歌いけり。五月花の花を見ながら飛んで「ほととぎす」山雀、弘雀、四十雀、長鳥谷も分渡れば、五月花の今が盛なり。小草若草苗代をば打望めつゝ行く程に、尚も思いは瀬田の唐橋をトントロトントロと打渡り、石山寺かや鏡が、かすかに耳にふれ、粟津はや過ぎ裏場に船止めて、彼の山みたい他の山見たい行路の音に驚きて、沖にかもめがバッと立つ。御いたはしや小萩こそ美濃を立出で今日ははや、三日の暇も大津の関寺や、玉屋が門に車付く。別に宿を取るべきか、イヤ待て暫し吾心「がきあみに」添ふも今宵一夜の事なれば、共に一夜を明さんと、車の傍に立寄りて夜もほろりほろりと泣明し。偖は餓鬼飢阿弥が耳に聞ゆる物あれば、冥途の事を聞きたいと、目が又見ゆる物なれば、一筆書て見せたいが、耳は聞へず目は見へず、思に甲斐なきガキアミと泣いて其の夜も明さるる。彼の宗占の鐘の音、月も数へて百はぼんのうの夢を覚ます様の声も静かにて玉屋の方に参り硯と筆を取揃ひガキアミが胸の木札に御書添をなされる。此度ガキアミが車を引く人は中山道は美濃の国青墓の宿万屋長右ヱ門の下の女、見つしの常陸の国の小萩と申せしは上下五日の人なり。くまの本宮の湯場に入りて、耳目明に平癒仕り必ず下行の其は尋ね候へと事懇に書留めて筆もかしことからりと捨横手を一ツ一寸打ツ、扨ガキアミと夫婦の生縁はなさね共いつぞや相模にて夫小栗に離れ志も今かきやみに離れるも何たる生縁つきずして何れ思いは同事、哀れなるやは二ッ屋子一ツは美濃に帰りつゝ、又一ツはガキアミが諸共に熊野本宮の湯に入りて病平癒仕り地獄の様子を聞たりなんは二ッ身は一ツ思ひて甲斐なきガキヤミと、余りの事に連なさに、是が別れが悲しさと泣々側を立退いて美濃国へと帰りけり。も夫よりカキアミ車引人多くして大津のうらを引出し、日野岡峠を遙々と都の町を引過ぐる。山崎千軒宝寺早や津の国に入ぬれば、天馬の森をはるばると急いて心の程もなく権現坂にと就にける扨是よりもカキアミ車には叶ふまじとガキアミを籠にのせ変り変りに擔き込み程なく湯屋に成ぬれば、世話は落なく権現は現はれ給ひガキアミの介抱させ給ふ。一七日入湯し給へば耳は聞ゆる目も見ゆる。二十七日には兵法早業三帯と申しには元の小栗に誕生成らせ給ひける。小栗のさぬる思にて是は正しく熊野山の御山と覚へたり、アラ有難やとふ仕拝み所え権現が山の武士と身を変じ金剛杖を二本御切り如何に夫れ客僧金剛杖を召さぬかやと問へば小栗申す様忝なく此街道をカキアミと呼はれ志も何ぼ無念と思ひしに金剛杖買とは吾を調伏するのかと、ハタと睨んで申すれば、其時権現は如何に客僧此杖に何ぼ由来のましましや一本は音無川に流すれば死での後に長途に赴く時に弘誓の船と浮ぶなり又一本は津き山鹿に下向ましまさば侍ならば所領と見る何程目出度此杖を値か無くば得させんと、かしこに投捨烟の如くに消にけり、小栗御覧じ、扨ては只今のは権現にて御坐るかと御後三度伏拝み数の如く一本は音無川に流さるゝ。扨て一本は津きて鹿の下向ましますが、是より直に美濃の国へと思ひしが一先父母の寿命は尋ね申すべきと思召都差してぞ上らるゝ、頓て都に成ぬれば三条院高倉大納言兼家の御所に行かんと立寄れば、熊野へ通る山伏に時料をたべと申すれば折節小殿の母上は今日は小栗の命日なればあの客僧を召時料を来らすべしと、表に立出如何に客僧来らせん。此方へと御目近くぞ召れける母上御覧じていかに客僧そなたは国は何処とましますかと小栗は取あへず、余は常陸の国とのみ申しけり母上是も聞き常陸の国と聞けば吹く風も馴かしやと吾子小栗も数年の間常陸の国へと流人となりありし其の時に相模国に武蔵の郡代を致す横山が密謀にかゝり毒酒に係って殺されたる。其の由を風の便りに承り常陸の国の客僧にて来たらすなら、小栗最後の体を御存じあるべし。話して聞せ給えや、客僧と先さめざめと泣給ふ。小栗聞召包むに色々増す風情今何をか包むべきか、某こそは此の三条院高倉が一子小栗判官にて候や、今漸々神仏の加護に依り蘇生いたし一遍上人の御助けにて宿次々の多勢の御慈悲にて熊野本宮の湯に入り、僅かニ十七日にて全快いたし、直様常陸へも何とやら久しく逢はぬ母様父様一目逢して下さいと、此世からの有様をば物語れば、母は夢かとも思へ共小栗殿に取りすがり物をも言はず御悦び限りなし。かゝる目出脱ぎ事をば、一刻も早く父兼家殿に申次げんと直様奥えと人りけり。兼家公に近付きて右の様子を物語れば、兼家公も大悦びイヤサ、夫れ、さ見聞せん、而し乍ら死にたる者が何として帰り申すべき。夫は、御身が明暮小栗を焦れて歎きに入更に他人が変装して来る物なるべし。イザ対面せんと座敷に通り立出でイカに客僧御身は吾子小栗と申せしが、吾子小栗と申するは八幡山の鞍馬多門の教へにて、兵法、早業あり、此矢を以て汝を射止め申すべし。若し客僧汝小栗に之有時は、此余が放つ矢を両手を以て取むべしそれなき時は汝の命は此矢を以て其場に倒れんと仰せらるゝ時小栗は眼をふさぎイザ先吾に矢を向け下さいと南無正八幡大菩元の早業矢取を只今現はして給えと眼を閉じて願念して御座居ます。其時、兼家彼の大引を良く引きヒューと放つ矢は左手に取りニッ矢を右手に取り三ツ険しく来れば、金剛杖にて払ひ落し吾元の小栗に疑ふ処更になし勘当許させ給へと差うつむいて御座します。兼家公夢かと斗り心にて御悦び限りなし。かゝる目出度折柄をさあらば御門へ奏門申さんと小栗殿の装束を改め内裏指してぞ上らるゝ。御門に成らば兼家は参内し始め終りを奏聞あり帝は御らん遊ばして死にたる者の帰りしは今迄曽て例なし本領ならばとて常陸の国に駿河国を添て下されけり小栗忝なしと三度頂戴なされ同じく美濃国に相模国を添て給はれと争門あり。論言は汗の如美濃国は馬の飼料にて重ねて御倫示下されける。御前を罷出御所を指して帰りける。夫より父母に暇乞をして御供数多く引連れて、美濃の国へと急がる。青墓の宿萬屋長右ヱ門がゑん入らせ給に、長右ヱ門悦び数多の女郎達御酌に出し取扱ひたる。小栗御覧あり、如何に長右ヱ門流れ女は如何せん汝が下の水汲女に常陸の国生れ小萩と言ふ者を御酌に出せ酌に出さぬ者なれば萬屋夫婦が命を取らんと申ける長右ヱ門驚き常陸の小萩を呼出し、汝は余程の果報者としかし御身が見目良き事を都の国主聞召し酌に出よと有ければ、小袖を着替へ早く出よとありければ小萩此の由聞召おろかや御仰かな斯様に酌に出ましにて十六人の水仕事をば一人にて営み申候へば此事ば斗りは御免下度候得と差うつふしぞ居りました。長右ヱ門大いに立腹し嬉しき事をも早や忘れ給ふいてないた哉、何時ぞや此の門外にてガキヤミ車の有りし時三日の暇と申せしに叶ふまじと言ければ汝其夫婦の身の上に自然大事の有時には必ず身替りて立っと申したではないか汝酌に出ぬ者なれば某夫婦が命が無きぞ早く出よとのたまえばとぞ入りける。『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【いたましゃ、小萩は、主人に帽子をかぶせ、紐を結んで下に垂らし、裾を縛り、門の外に出るように言われました。手綱を引いて、エンヤラエンヤラと引くほどに、万屋の門を出るのが早すぎて、宿や町、関所を次々に引っ張っていき、これを先導しました。姫が涙を流す宿、関所やの板垣、月が漏れて山々が散らかる、美濃と近江の境にある寝物語やさめがいの嵐、小嵐番場を越えて、袖が冷たくなり、えち川を渡れば早くたどり着く小野に向かう道をエンヤラヱーと引いていると、雨は降らずとも森山の「がきやみ」の胸の木札に露の玉が宿り、草津の宿から山田下田を見渡せば、まるで美しい乙女の小さな苗を取るための田植えの歌を歌っているかのようでした。五月の花を見ながら飛び立つほととぎす、山雀、弘雀、四十雀、長鳥谷を越えれば、五月の花が今が盛りです。小さな草や若草が茂る田畑を通るたびに、なおも瀬田の唐橋をトントロトントロと足を踏みしめて渡り、石山寺かや鏡が、かすかに耳に触れ、粟津はや過ぎて裏の場所に船を停め、その山を見つける音に驚き、沖にかもめがバッと立ち上がる。今日は早く美濃を出発しましょう。三日間の休息も、大津の関寺や玉屋の門で車が待っています。宿を別に取るべきか、いや、少し待って、心を寄せ合いましょう。ただし、今夜は一夜限りのことなので、一緒に過ごしましょうと、車の傍らで立ち寄り、夜になると涙がこぼれました。その後、餓鬼飢阿弥が何かを耳にし、冥途について尋ねたり、何かを見たいと思ったりしましたが、耳には聞こえず、目には見えず、ガキアミは甲斐ないと泣いていました。玉屋では宗占の鐘の音や、月の美しさも、静かに私たちを包んでいました。そして、ガキアミが車を引くのは、美濃の国の青墓の宿、万屋長右ヱ門の下に住む女性で、常陸の国の小萩という名前の人でした。彼女は上下五日に一度しか現れず、くまの本宮の温泉に入浴し、その後は下界に戻ると言われています。私たちは彼女のことを尋ねようとし、熊野本宮の湯で待ちましたが、何も聞けず、結局別れを悲しんで美濃国に帰りました。その後、私たちは多くの人々と一緒にカキアミの車で大津を出発し、日野岡峠を越え、都の町を遠くに見ていきました。山崎千軒宝寺を早く出発し、津の国に入った時、私は急いで進み、心の余裕もなく、天馬の森を通って権現坂に到達しました。しかし、そこでカキアミが車に乗せる籠に変わり、湯屋に着いた途端、権現が現れ、カキアミの介抱をしてくれました。私は17日間湯に入り続け、やがて耳が聞こえ、目も見えるようになりました。27日目には、兵法と早業の達人として元の小栗に生まれ変わりました。小栗はこの時、熊野山を正しく御山と認識し、感謝の念を抱きました。しかし、権現が山の武士に変身し、金剛杖を二本持ってきたことに驚き、客僧がこれらの杖を受け取らないかどうか尋ねました。小栗は杖を受け取りたくないと言いましたが、権現は杖を一瞬で消し去り、その後、小栗に金剛杖を見せて三度頭を下げました。一本は音無川に流され、死後に長途に向かうと言われ、もう一本は津き山鹿に下ると言われました。小栗はこの出来事を通じて、杖の由来を知り、感動しました。その後、小栗は常陸の国に流れ、そこで武蔵の郡代である横山の密謀に巻き込まれ、毒酒を飲まされて殺されました。この情報は風の便りとして常陸の国から来た客僧によって伝えられました。客僧は小栗の最期の状況を知っており、その悲しい出来事を語りました。小栗は客僧に取りすがり、何も言葉を発しませんでした。その後、小栗は三条院高倉大納言兼家の御所に行くことを決意しました。しかし、高倉大納言の母は小栗の命日であると知り、客僧を招き入れ、時料を提供することにしました。客僧が三条院高倉大納言の前に現れ、小栗の生存と復活の物語を語り、高倉大納言の母は驚きと喜びに包まれました。そして、小栗は父兼家公に会うことを願い、急いでその場を後にしました。小栗は兼家公に話をし、自身の復活の経緯を伝えました。兼家公は喜び、しかし、小栗が死んだと思っていたため、他人が小栗の姿を借りてきたのではないかと疑念を抱きました。それに応えて、小栗は自身が八幡山の鞍馬多門の教えで兵法と早業を学び、その弓矢で兼家公の試練を受けることを提案しました。そして、もし客僧が小栗だと信じるのであれば、小栗が放つ矢を受け取るように言いました。そのとき、兼家公は小栗に向けて矢を放つよう命じました。小栗は目を閉じて、南無正八幡大菩元の早業矢取りの力を借りて願いました。兼家公は弓を引いて矢を放ち、左手に取り、次に右手に取り、三本の矢を順に向けてきました。しかし、金剛杖を使って小栗は矢をかわし、自身が本物の小栗であることを示しました。兼家公は夢のような出来事に喜び、小栗が生きていることに感謝しました。その後、小栗は兼家公に連れられて御門へと進み、帝に面会しました。帝は小栗の帰還を喜び、美濃国には馬の飼料が豊富であることを認め、さらに小栗に対して駿河国を添えて与えました。小栗は両親に暇を願い出て、多くの従者を連れて美濃の国へ向かいました。美濃の国に到着すると、青墓の宿である万屋長右ヱ門が歓迎し、多くの女性を従えて酌を提供しました。しかし、長右ヱ門が常陸の小萩という女性を酌に出すように命じると、小萩が酌に出ることを拒否しました。そのため、夫婦の命が危うくなると言われ、長右ヱ門は怒り、小萩を呼び出しました。小萩は都の国主が自身を見たいという要請に従い、急いで着替えて酌に出ることになりました。しかし、十六人の水仕事を一人でこなさなければならないという条件がつけられました。長右ヱ門は怒りっぽくなり、かつてガキヤミ車の前で三日間待ったことを思い出し、小栗に対して自分たち夫婦の身をかえて立たせたことを非難しました】「要訳相模国で毒殺され蘇生した小栗判官が餓鬼阿弥と呼ばれる不具の身体となりながらも、「熊野の湯に入れて元の身体に戻せ」との閻魔大王のお告げを聞いた遊行寺の上人が土車を仕立てて餓鬼阿弥を乗せ、人々に曳かれて湯の峰温泉まで辿り着かせる。途中、美濃の青墓から大津までは、妻となる照手姫が正体を知らずに、亡き夫の供養祈願のためにと車を曳くことになる。そして49日間の湯治によって小栗判官はついに元の身体となるのである。」お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。「小栗判官小萩対面の場小栗長右ヱ門の道理に詰られて、今や如何にもして辞する事能はず只免に角もと斗りに客の座敷に出る事に相成りました。こうして銚子を取りて泣く泣く座敷へ向ひける。一間の障子の影よりも都の国様をすかし御覧あり扨も不思議や此の君は我夫の面影に良も似させ給ふうよな是に付けても吾夫は草葉の影にて自からを墲や憎せ給ふ可き、偖も是非なく世の中と泣く泣く座敷へ出給ふ、銚子手に取り御座します。小栗御覧して御身常陸の小萩と言が吾は都の人なるが情を掛て来らせん扨は御身は何国の人成るぞ、先祖を語り給ふべし、如何に如何にと仰せらる。小萩此由聞よりも御主の仰せが重ければ御酌にぞ出て来たり座敷ざんけに来らすと、座敷立さんとありし時小栗続いて袂を取り誤ちある人の先祖を問う時は吾が古を語るやと、定めし見わすれ給うまじ。以前此の街道をガキヤミ車と言はれし時御身情の車道三日引いて下され上り、大津の関寺玉屋の門に引付られし胸木札は是れなりと懐中より取出し差出せば小萩つくづく御覧あり扨も目出度此君や是に付ても、吾夫は修羅道に落ち給ふわ又餓飢道にましますか冥途の人とは聞なれどば、自から先祖を語りつゝ夫の在りかよ尋ねんと、恥か敷事ながら自からは相模国俣野にて横山太郎が妹の照手の姫と名のりあへぬに小栗どの扨て御身はかや吾こそは昔の小栗に候との給へば、照手吃驚仰天し、扨は、吾夫小栗殿にてましますかと思はず知らば抱きつき声を上てぞ泣給ふ。落る涙の下よりもなさけきは無なるが妾が父様よそなたを毒酒で殺し置き、自らも境川へと沈めんと鬼次兄弟に仰付、既に沈みに成べきを彼の兄弟の情にて命かりて、うつろう船にて海え流され人買人買に身を売られ人手に十回余りも売飛され、此家に買取られ流れをけない夫故下の水仕事を致します。此れも君の故なるば恨みと更には思はぬなりと吾夫くどきも只焦れて泣き給ふ。小栗聞召それそれ御主の仰せに御前に出でたる。小栗御覧していに長右ヱ門汝人を遣へばとて、斯様になむごき遣方は有べききかと仰ける。照手頓て押止め彼の御主が自ら買取って有ればこそ再び此処に逢瀬の岩枕、御主の命、自からに御免しなされと詞をつくして仰ける。小栗聞いて其様にそなたが言ふなれば、今よりは此処を庄屋頭を言付沢山の御褒美を下されました。長右ヱ門有難く頂戴して、御前を罷出、扨は其後は小栗殿是より相模へ罷出横山が一族を打亡ぼさと仰けるこれも照手が押止め昔が今にいたる迄子が親に弓ひくためし候はず何事も三郎殿の仕業なり、何うそ赦して下されと。頓て相模に人を遣し三郎を御前に引出す。小栗御覧じて泣く泣く腹も立、今迄の三郎其方の致方は何事ぞ恐れ多くも吾こそは京都三条院大納言兼家の一子小米判官満重と申する者。吾日本国主後小松天皇の仕へ奉る可き資格あり。汝此場にて腹一文字に割切れば、良し左もなくば時は相模武蔵の郡代役とは表向。横暴極まる横山が一族を只一打と致さんと申ければ、有難く三郎は見事割腹いたしける。扨、其後は小栗殿照手姫を供ないて常陸の鞍木の城へと帰りけり。二度生れ返った方は此苦心惨憺たる記事は読者諸君の判断に任せ現在の古蹟と実録と合せて造りたてた実録伝であります。夫れが故に此小栗判官照手姫の恋愛話に依って生れたる非惨なる此の蘇生塚へ参詣する者多く縁結びの神として拝めり。終り『ChatGPT』にて現代語に訳して見ました。【小栗は長右ヱ門の言葉に詰られ、辞退することはできず、座敷へ向かいました。そこでは都の国主を思わせる美しい女性が座っており、小栗はその姿に驚きました。小栗は、この女性が都の人であると思い、自身も都の人であることを話しました。しかし、この女性は小栗に自分の出身地を尋ね、小栗は常陸の国出身であることを告げました。それから、小栗と女性は互いに自分の過去を語り合いました。小栗は、以前にガキヤミ車として三日間待たされたことを話し、女性は自分の過去を語りました。彼女はかつて自分の父が毒酒を盛られて亡くなり、自身も海に流されて売られたことを明かしました。そして、その後、彼女はこの家に買い取られ、水仕事を十回以上もこなさなければならなかったことを話しました。小栗は感動し、彼女が自分の妹であることを知り、再び抱きしめて涙を流しました。彼女は自分の父が小栗を殺し、その報いとして自らも苦しむ運命にあると語りました。小栗は彼女のために報いを求め、美濃の国で多くの褒美を受けたことを伝えました。その後、長右ヱ門は褒美を受け取り、小栗とともに相模へ帰り、横山一族を打ち倒しました。小栗は自身の正体を明かし、三条院大納言兼家の一子であることを証明しました。そして、常陸の鞍木の城へと帰りました。この物語は二度生まれ変わった小栗判官と照手姫の苦難と恋愛を描いており、その物語を元に造られた蘇生塚は多くの人々に拝まれています。蘇生塚は縁結びの神として信仰され、多くの参詣者が訪れています。終わり】「要訳都に戻った小栗は、帝から美濃国を拝領し国守となった。そして照手の働く遊女宿に上がる。小栗は「常陸小萩」の酌を希望する。国守を小栗とは知らない照手はが酌にでると、小栗が照手を見つめ自分の身の上を語りだした。すると照手は黙ってむせぴ泣き出した。こうして二人は再会し、幸せになったという。」小栗判官正清は、相模横山大膳の計略に引っかかり毒殺されて地獄に堕ちるが、閻魔大王の裁定により地上界に戻された。しかし異形の餓鬼阿弥の姿となり、歩くことすらままならない。餓鬼阿弥となった小栗は、藤沢の遊行上人の手助けで、土車にのせられて、妻の照手姫や多くの人々の手助けで熊野本宮の湯の峰へ運ばれ薬湯の効用により蘇る。「矢取りの段」は本復した判官政清が、修験者姿で生家の館を訪ねるが丁度自分の一周忌法要の最中であった。悲しみにくれる母に親子の名乗りをするものの、父高倉大納言は聞き入れず、本物の政清ならば「矢取りの秘術」を習得しているはずと政清に向かって矢を射かけるのであった。そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。原作者及び原作年代は不明なるも江戸時代か明治初期と思はれます。兎角西俣野と東俣野の土地全部小栗判官にまつわる名称古跡である、小栗塚、道場谷、御所ヶ谷、四ッ塚、鬼鹿毛馬の「ませ田」等々皆旧籍を言い伝え又字名が皆旧籍地と一致します。それを飯田与七様が写し、又それを尾島治平様が写したのが今日に伝はったわけです。又尾島貞良が写したわけです。但、中風で指がきかず読みにくいが平に御容赦下さい。昭和四十九年二月元本より写す尾島貞良と記してあります。計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところであると。かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は大団円を迎えます。そして物語は、各地に伝説を残しました と。そして別の部屋にも様々な仏像等が展示されていた。花祭りの時に誕生仏に柄杓(ひしゃく)ですくった甘茶をかけるのだが・・・。七福神 布袋 様。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・モバイル スタンド&クリーナー 240個セット販売 折りたたみ式スマホスタンド クリーナー内蔵 2色取混ぜ タブレットも使用可能 モバイルグッズ 販促品・景品・ノベルティ・記念品
2023.09.22
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そして、花應院12代目住職が、パソコン、プロジェクターを準備されて、「花應院」に伝わる「小栗判官照手姫縁起絵巻」について説明してくださいました。「小栗判官照手姫縁起絵巻」。通常、絵巻は横に長いが、この絵巻は縦に段になって掛け軸絵の形に。また、当初は横長の巻物として描かれたものを、後に切断して、掛け軸絵として装幀し直すこともあるが、こちらはどうやら最初から1枚の絵として、縦に段にして描かれたもののようであった。1段目。そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目右。鞍馬に子供授けて欲しいと詣でる小栗判官の親の姿。1段目左。深泥(みぞろ)ヶ池の淵で横笛を吹く小栗判官。近くの深泥ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身して小栗に近づく。小栗とちぎりを結ぶのであった。2段目。それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家は大激怒。小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となる。そこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねて来る。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けたのであった。2段目右。ラブレターを書く小栗判官。2段目左。小栗のラブレターを読む照手姫。3段目。照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。3段目右。二人は相思相愛。3段目左。馬の鬼鹿毛(おにかげ)は小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。4段目。腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、相模川のおりからが淵へ。ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目右。兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目中。そうして流れ着いたところが、海の浜。その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。4段目左。しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。照手姫の白い美肌も気にくわない。そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責め。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)5段目。そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。5段目右。照手姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。井戸の水を汲み上げて運ぶ照手姫。5段目左。お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。6段目。蘇生した小栗判官が最初に向かったのは、実家の京都、二条大納言兼家の屋敷。しかし、小栗と名乗られても、ゾンビではあるまいし、まさか死んだはずの息子が訪ねてきたとは信じられず、「失礼だが、試させてもらうぞ」と兼家は、障子越しに小栗をめがけて弓をひき、ひょうとぞ放つ。すると、二条家に代々伝わる「矢取りの術」の秘伝、幼い頃より教えられ修練してきたその技で、小栗、一の矢を右手ではったとつかむ。続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。6段目右。一の矢を右手ではったとつかむ小栗判官。続いて放たれた二の矢を左手ではったとつかむ。さらに飛んでくる三の矢を、歯でがちとかみしめ受けとめる。6段目中。そして、青墓の宿で働く常陸小萩──照手姫と再会。横山大膳を討とうと取り囲みますが、姫の言葉で思いとどまり許します。6段目左。計画の首謀者である三男の三郎は罰して死罪に。こちらの絵では、三郎に切腹を命じているところであると。かくして、京都、常陸、藤沢、青墓、熊野と、各地を結ぶ物語は大団円を迎えます。そして物語は、各地に伝説を残しました と。ここ西俣野地区周辺の小栗判官に関連する旧跡地図。閻魔堂跡👈リンク土震塚👈リンク小栗塚碑👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.21
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次に住職による「地獄変相十王絵図」の説明が始まる。江戸時代、西俣野村に浄土宗、旧藤沢宿にある「常光寺」👈リンクの末寺「閻魔堂」(法王院十王堂とも称す)がありました。毎年(陰暦)正月16日(初閻魔)と7月16日(大賽日)は閻魔大王の賽日で人々は「十王詣」といって閻魔堂に行って十王図や地獄変相図を拝んでいました。この日は、閻魔堂には縁日が立ち商家で働く奉公人たちの年2回の休日で実家に帰っていましたので大盛況であった。しかし、天保11年(1840)焔魔堂の火事で「閻魔祭り」もしばらく見ることは出来なくなりました。幸い火事の際、村の若い衆が閻魔堂から近くの花應院へ木造彩色の閻魔大王像をはじめ、小栗判官縁起絵図、地獄変相十王図、閻魔宝印の原版などが運び込まれた。その後、大正13年まで西俣野村の青年が新暦正月と8月の16日には農作業を休んで「閻魔祭り」を行い、小栗判宮縁起絵図や地獄変相十王図の絵解きをしていたが、途絶え、2つの絵図は昭和50年まで旧名主の飯田五右衛門氏の土蔵で眠っていた。土蔵から出された時は見る影もなく痛み、虫が食い、軸棒も落ちていたと。その姿に耐えきれず住民が西俣野史跡保存会を設立、70万円の寄付金で修復された。後、昭和60年から毎年1月15日(本来は16日)と8月16日に「闇魔祭り」として西俣野史跡保存会の飯田氏よって小栗判官縁起絵図絵解きと、花應院ご住職による地獄変相十王図の説明が復活したが、最近になって小栗判官縁起絵図の演者・飯田氏が亡くなり、現在は12世山本雅彦住職による小栗判官縁起絵図と地獄変相十王図の説明が1月16日と8月16日に行われているのである。一般の方も檀家の方々と一緒に聞くことができるのであった。そして「本堂」入口の壁に沿って上部に「地獄変相十王絵図」が並んでいた。右から【畜生報復地獄の図】これは娑婆で動物たちをいじめたり、殺したりしていた人達がこの地獄に落とされ娑婆で自分達が犯したのと全く同じような報復を受けます。不殺生戎(ふせっしょうかい)を破る報いです。虎獅子犬蜂まで巨大な体を持つ動物昆虫等が居て襲いかかります。手足胴までばらばらに食いちぎり、蜂は火をふいて襲い、逃げられないように周囲は火炎地獄が取り巻いています。無理をして逃げ火炎地獄で苦しんでいる亡者も見られます。巨大な虎、獅子、犬、蜂達が亡者を襲いに追いかけられる、そして手、足、腰まで、ばらばらに。【地獄の釜ゆでの図】大釜と臼があり、ご存知の地獄の釜ゆでの場面。大釜の中に亡者をどんどん投げ込んで上手に煮るために鬼がお化けの様なホークでかき廻している。程よく煮られた亡者は臼に移されて鉄棒で打たれて人間の擂身(すりみ)となる。能率を上げるたために地獄の鳥が亡者を空中輸送をしています。何のために大釜があるか?家庭で菜葉やごぼうを湯でると何が出ますか?出るのは「あく」。人間を茹でて「あく」を出す、悪(あく)を出して善だけ残し、悪を為さしめないようにする閻魔大王の大慈悲心がせめ道具の上にもあらわれている様に考えられます。勿論全く悪が抜け、善だけになった亡者は釜の中より極楽浄土に転生します。お化けの様なホークでかき廻しながら大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。【火の車の図】地獄の使者、獄卒の牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに来て待ち構えて居る。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引く。牛頭馬頭(ごずめず)とは、仏教において地獄にいるとされる亡者達を責め苛む獄卒で、牛の頭に体は人身の姿をした牛頭と、馬の頭に体は人身の姿をした馬頭をいう。足ることを知らず、欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。【剣の山と餓鬼地獄の図】剣がいっぱい生えている山で登るまいとすれば獄卒が槍や鉄棒で打ち、登れば剣が手足身体を切りさく。餓鬼道に落ちる者はこの世で食べ物を粗末にしたり、自分だけ美食をして、他の人に食を与えなかったりした人が落ちる地獄。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。地面から剣の刃がいたるところから飛び出して。【賽の河原と奪衣婆の図】賽の河原とは幼い子供たちが行く処で子供たちは河原の石で塔を積みますがもう少しで積み上がろうとすると鬼達が来て、きちんと積んでいないので見苦しいと崩してしまう。積んでも積んでも崩されて何時出来上がるかわからない。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆(だつえば)に着物を剥ぎとられて・・・。奪衣婆とは、三途川(葬頭河(そうずか))で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされている。奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類はこの絵にはないが、懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。この木の葉は鋭利な刃物の様で手を触れることが出来ません。此所では生前の罪の度合いによって、衣を懸けた枝の垂れ下がり具合が異なって来ます。これより先は生まれた時の姿となり娑婆における権力も富も役に立たず平等に地獄の苦を受ける事となるのです。河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。そこに地蔵菩薩が救いにおいでになっています。その先にも「地獄変相十王絵図」が並んでいた。【閻魔大王裁きの場の図】この拾壱幅の絵の中心をなす形で描かれて居ます。其の日は、五、七、三十五日の日で、裁くのは閻魔大王で前には司命、司録が立っている。左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて鏡のまえに。ズームして。閻魔大王はどのような審判を行っていると言われているでしょうか?答えは【死者の転生先(生まれ変わり先)を決める】です。人は天国への旅路で計7回(7日ごと)の裁きを受けます。7日ごとの7回目の裁き=49日をもって仏様となります。5回目(死後35日目)の裁きに登場するのが閻魔大王です。閻魔様はここで天国への切符か地獄への切符かを裁いて死者に渡すことになります。行先は地獄道(その名の通り地獄の世界)餓鬼道(飢えにもがき苦しむ世界)畜生道(人間以下の動物に生まれ変わる世界)修羅道(終始、争いの世界)人間道(楽しいことばかりではなく煩悩に悩む世界)天上道(苦しみもなく優れた世界。しかし、煩悩がないわけではない。衰退もある)の六道のいずれかになります。閻魔大王は極楽浄土、少しでも苦しみのない世界へ向かうに相応しい死者かどうかを裁きます。そこで、ご家族は「どうか極楽浄土へ導いてください」と追善供養(法要)を行うのです。そして無事に49日を迎え、浄土の世界へ旅立ち仏様になる。このように言い伝えられています。閻魔大王は怖い顔で裁きも厳しそうですが、実は地蔵菩薩と呼ばれ私たちを見守ってくれているそうです。中央に人頭の杖が立てられ、頭に首が二つついていて(悪人と善人)大王の象徴とされています。罪をはかる秤(はかり)。さすがに大きな石の分銅も亡者の罪の重さに上がっているのであった。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、縛られて鏡のまえに引き出されて。生前の罪を映す浄玻璃(じょうはり)の鏡。生前に悪事をはたらいた者は、その姿が高性能な防犯カメラの映像のようにくっきりと映し出されるということです。更には心の中の悪い考えまで映し出されるそうです。この亡者は生前娑婆にて火付け(放火)を犯したことがありありと映っているのであった。さらに左側にも「地獄変相十王絵図」が続く。【極寒地獄 氷の池の図】亡者達は氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、と唱え、生き返らせ、苦しめる。ここまでで左より中向の大王が終わり、ここから右より中向の大王五人に移るのであった。氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者の姿。【修羅地獄の図】闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。空中に短剣が舞う。斬りあい首を落とす者。【針の山地獄の図】三途の川の渡し場は三つあるのだ。上流にある渡し場を「浅水瀬」といい、ここは水底が浅く、膝までしかなく罪の浅いものが渡る渡し場、中程に有るのが「橋渡し」といい、この美しい橋は善人だけが渡れるのだと。下流に有る渡し場を「強深瀬」といい、水底の深さが無量で、悪人が渡る場所。この絵は悪人がこの「強深瀬」を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。【畜生再生の図】人間ではありながら、心は畜生にも劣る心を持ち畜生なような生活行動をすると、畜生に生まれ変わって其の苦しみを受けるのだと。元は人間だった証拠に頭だけが人間の男女になっている。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、舌を引き抜こうとする鬼。人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。執念に取り憑かれた男女が大蛇に体が変身して、未だ業が果てることなく亡者の一人をぐるぐる巻にして絞め殺そうとしている。 舌を抜く地獄の鬼 。子供の頃祖母から「嘘をつくと閻魔様に舌をぬかれちゃうぞ!!」と何度も言われた私。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる脳に入れかえる白鬼。【血の池地獄の図】この絵では亡者が腹に釘を打たれている。釘の長さ一尺、人間が悪いと言う場合腹が悪いと言う。其の悪い腹を善くするために釘を打っているのです。其の下には恐しくて逃げている亡者、とうとうつかまって縄でしばられている亡者、下にすでに縄にしばられた亡者が二人転がっている。腹に釘を打たれている亡者の上に餅にささった釘が有ますが、これは四十九の餅の供養の功徳によって釘を打たるるとも餅にささりて苦なしと言う経文中の功徳を現わしているのだと。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。下部の図は血の池地獄で、この地獄はお産で死んだ女の人だけが落ちる地獄。この地獄は往生要素には書いてないが誰でも知っている地獄。これは鎌倉時代頃より読まれ始めた「血盆経(けつぼんきょう)」と言うお経に書かれている地獄で男には関係の無い地獄 と。川の辺に四本の竹を立て、これに般若心経を墨書した晒を渡して傍らに柄杓を置き、通りがかりの人が柄杓で川の水を汲んで晒にかけてやると、文字がたんだん薄くなって完全に消滅すると救われるという「流れ灌頂(ながれかんじょう)」。これに救われたか血の池より一人女がはい上がり山の下で一心に合掌し祈りをささげている。それを地蔵菩薩様がお救にお出でになっている のだと。この十王図には一枚につき一人の王が描かれていたが、どれがどの王かは、はっきりした事は解かっていないと住職から。この「十王」👈リンク とは冥土で亡者の罪を裁断する十人の王の事。人間が亡くなると、極善と極悪の者は直ぐに裁判を受けずに極楽浄土に転生し、片方は地獄に落ちます。中の者は裁判を必要とするので初七日より順次七日ごとに審判を受けて決った者は罪に相当する処に送られる事となります。未定の者は次の裁判へと送られ「十王」👈リンクに裁断されるのだと。亡くなった日を1日目として、49日目までの7日ごとに秦広大王 (しんこうだいおう)、初江大王(しょこうだいおう)、宋帝大王(そうていだいおう)、五官大王(ごかんだいおう)、閻魔大王(えんまだいおう)、変成大王(へんじょうだいおう)、泰山大王(たいざんだいおう)が裁きを行い、それでも結論が出ない場合は、100日目に平等大王(びょうどうだいおう)、1周忌に都市大王(としだいおう)、3回忌に五道転輪大王(ごどうてんりんだいおう)が裁判を行います。このような過程を経て、亡くなった人が極楽浄土に行くのか、それとも地獄に行くのかが決まるのだと。さらに詳しく。地獄の裁判官、十王。地獄に落ちるか落ちないか、というのは現世の裁判のように審査されるのです。審査をされてから正式に地獄行きが通達されるまでかなりの時間を有します。それもなんと49日間!実はこの間に、書類審査から現世の善行診断、軽い実刑まで行われるのです。そしてその裁判を行うのが十王と呼ばれる10人の裁判官たち。その中にかの有名な閻魔大王がいるのです。秦広王:死後から初めの7日目、まず最初に裁判を行うのは秦広王(しんこうおう)。 獄録というものによって書類審査が行われます。ここでは生前に行ったことを全て 見られてしまうため、嘘も通じません。初江王:死後14日目、次は初江王(しょこうおう)により罪の重さを測られます。 ここの裁判所には死者が必ず通ると言われる「三途の川」が実は地獄にあるのです。 三途の川を渡れば天界かと思いきや、そうではありません。 ここには奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という鬼がおり、通る際に亡者の 服を剥ぎ取ります。その服を衣領樹(えりょうじゅ)という木の枝にかけ、初江王の 裁きの前に罪の重さを測るのです。罪が軽いものは枝が曲がらず、罪が重い者ほど枝が しなると言われています。宋帝王:死後21日目、宋帝王(そうていおう)が現世で犯した邪淫(じゃいん)を審査します。五官王:死後28日目には五官王(ごかんおう)が妄語を審査します。五官王は精巧な天秤を 持っており片側に亡者をのせることで、その傾きにより罪の重さは決まり、行く道が 決まるのです。いわゆるここが地獄行きを決定する、最初に判決を出す場所になります。閻魔王:地獄行きが決定しても、一度で全てが決まるわけではありません。地獄も現世の裁判制度 と似ており、その真偽を確かめます。 死後35日目、閻魔大王によって亡者は裁かれます。閻魔大王が持っている鏡は、亡者を 立たせると、亡者の生前の悪行を映し出すことができる特別なものです。 閻魔大王はこの悪行を見て、どこの地獄に行くか判決を下します。ちなみにここで嘘を つけば、閻魔大王に舌を抜かれる事に。また、この裁判日に縁者や親族が追善供養を 行っていると、その徳を認められ人間界や天界に送られることも。変成王:死後42日目、変成王(へんじょうおう)の元に行くために、大岩の流れる川を 渡らされます。ここでは、大岩に身体を砕かれては蘇りまた砕かれと繰り返す事により、 やっとの思いで岸に上がることができます。 そして変成王はここにきて初めて、亡者の言い分を聞いてくれる慈悲深い王になります。 そんな王の前で、亡者はここまで与えられた罰で十分償えたのではないかと 訴えるのです。すると変成王は三つの道を示し、自分が正しいと思うのなら、正しいと 思う道を選んで進め、そうすれば正しい道へ行けると助言します。 これを進んでしまうと罠にハマることに。進めば更なる罰が与えられるのです。お前が 本当に正しい人間なら自分を正しいと思うはずがない!と言うのが変成王の言い分。 上げて落とされた亡者にはなかなかキツい仕打ちです。 この時に、黙って己の行為を恥じ、恐れ入り、罰を受け入れる人間だけが光が差し 救われると言われています。そして、ここで亡者の生まれ変わりの場所の条件が 決定されるのです。泰山王:死後49日目、最後に亡者は泰山王(たいざんおう)の元へ。ここでは最終判決がついに 下されます。六つの道が示されており、それぞれ六道に繋がっています。ここで来世の 生まれ変わる世界が決定する事に。 他にも平等王(びょうどうおう)・100日目、都市王(としおう)・1年目、 五道転輪王(ごどうてんりんおう)・2年目がいますが、彼らは最終的に判決が 決まらなかった際、つまり再審の際に登場するのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.20
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まずは「花應院」の「本堂」の見学をさせて頂きました。慶長9年(1604年)に開山は国境と開基は祖桂として創建された。曹洞宗の寺院。山号は西嶺山。近くにあった「閻魔堂」👈リンク(法王院 十王堂、浄土宗、常光寺末寺、武蔵国六浦金沢からの金沢道沿い。小栗判官の墓がある)が天保11年間(1840年)に火災にあい閻魔大王像がここ「花應院」に運び込まれた。天上から大き黄金の「人天蓋(にんてんがい)」が下がっていた。古くはインドにおける日よけ(日傘)がその原型とされる。暑さをさけるため王様や貴人が使用することから、高貴さや豊かさの象徴であった。のちに、それが転じて、仏や菩薩を守り、美しく厳かに飾るための道具となった。お寺の本堂の中央、導師が立つ位置の天井から吊り下げられるものを「人天蓋(にんてんがい)」、仏像の上にあるものを「仏天蓋(ぶってんがい)」と呼ぶ。箱型、傘型、華型、丸型などの様式があり、いずれも瓔珞(ようらく)や幢幡(どうばん)といわれる装飾が施されている。大きさや形、装飾に違いがあるので、お寺でその違いを見てみるのも面白い。ちなみに、時代劇などで登場する虚無僧(こむそう)が頭にかぶる笠も天蓋と称する とネットから。本堂の祭壇を正面から。大きな「香炉」の台座をズームして。台座には【五七桐】紋が。五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かったのだ と。花應院と【五七桐】紋の関係は?祭壇の右側には、この日の「閻魔祭」の為の塔婆が並んでいた。「閻魔十王 報恩謝徳塔」、「照手姫 追善菩提供養塔」、「忠光院殿刃空浄居士追善菩提供養塔」、「天翁録守信士」と書かれた塔婆も奉納されていた。「忠光院殿刃空浄居士」は小栗判官の戒名。「天翁録守信士」はこの村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守った浪人・「土手番様(どてばんさま)」👈リンク の戒名であるとのこと。再び「人天蓋(にんてんがい)」を見上げる。天蓋(てんがい)とは、仏像や住職が座っている上にかざす笠状の装飾具のことで、それぞれ仏像の上にかざすものを仏天蓋(ぶってんがい)、住職の座る上をかざすものを人天蓋というとのこと。祭壇を更にズームして。最上段に並ぶ仏像を見る。左:曹洞宗の御本尊の「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」右:花應院の御本尊の「聖観音像(しょうかんのんぞう)」総持寺👈リンク を開山した「瑩山禅師(けいざんぜんじ)」像。瑩山禅師は1 2 6 4年( 1 2 6 8年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳て永平寺に入り三世徹通義介禅師のもとで修行を始めました。1 3歳でニ世孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山と名を改め、1 9歳になると諸国行脚の志をたて、求道生活に精進されました。そして3 5歳のとき、義介禅師の後を継いて加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に「伝光録」をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、5 0歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで「坐禅用心記(じんき)」を撰述されたといわれています。その後、5 8歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、6 1歳のとき總持寺の住職を峨山(がさん)禅師に譲られ、翌年62歳てそのご生涯を閉じられました。曹洞宗には、大本山が2つあります。ひとつは大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)であり、ひとつは大本山總持寺(横浜市鶴見区鶴見)です。これを両大本山といいます。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰のみなもとであります。大本山の住職の正式な呼び方は貫首(かんしゅ)といい、禅師さまと親しくお呼びしておりますとネットから。曹洞宗の開祖:道元禅師像。道元禅師は1 2 0 0年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山にて得度されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄禅師のもとて修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。2 8歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと「普勧坐禅儀」を著され、3 4歳のときに宇治に興聖寺を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく「正法眼蔵」の執筆を続けられ、4 5歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1 2 5 3年、5 4歳でそのご生涯を閉じられました。「払子(ほっす)」を持たれていると、校正の師匠から。もともとは、お釈迦さまの時代に、蚊やハエを追い払う道具として使用することが許されたのがはじまり。私たちと同じように飛び回る虫に悩まされていた当時のお坊さん。しかし、むやみに殺すことはできない…。殺生を禁じる仏の教えを実践するための生活道具だった。「払子」はその後、中国に伝わりその意味合いが変化する。お釈迦さまの「髪の毛」にみたて、煩悩や災いを払う功徳を持つと考えた。禅宗では高僧が説法する時や、法要の導師をつとめる時に手にし、厳かに左・右・前に振るようにして払う動作をする。その作法とともに師匠から代々受け継がれる尊い法具である とネットから。そして市指定重要文化財の座像胎内の「石像閻魔大王座像(像高24cm)」。この日は「閻魔祭」であり、閻魔大王像の胎内から出されていたので実物を初めて見ることが出来たのであった。他にも様々な木彫像が。本堂の欄干の彫刻も見事。そして本堂・祭壇の左側の部屋。そしてこれが「閻魔大王像」。花應院の北には、かつて閻魔堂👈リンクがあった。しかし、1840年(天保11年)に火災に遭い、本尊として祀られていた木造閻魔大王坐像は、ここ花應院に運び込まれたのだと。それが現存する木造彩色のこの「閻魔大王坐像」だという。普段は、この「閻魔大王坐像」の胎内に先程の「石像閻魔大王座像」が安置されているのだ と。そして罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と司録(しろく)という2人の書記官(しょきかん)が両脇に配されていた。この閻魔像は、宝冠をつけ道服を着し、沓(くつ)を履いて上畳座に坐していた。また右膝上に笏(しゃく)をかまえ、眉をつり上げ、目を大きく見張り、口を開けて忿怒(ふんぬ)を表していた。お顔をズームして。司録・司命像は宝冠をつけ、上衣と膝下で括った袴を着し、沓をはいて立っていた。左側の司命(しみょう)は死者の行状を究明するための銘札を持っていた。右側に位置する司録(しろく)は、罪状を記録するための筆と巻子を持っていた。「閻魔大王像」の左隣りの祭壇には多くの位牌が安置されていた。そして御住職、副住職による「閻魔祭」の納経・読経が執り行われた。立派な木魚の音が本堂内に拡がったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.09.19
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この日は8月16日(水)、自宅から車で5分程の場所にある「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」を訪ねた。この花應院は、小栗判官と照手姫の伝説が残された寺。「小栗判官照手姫縁起絵巻」と「地獄変相十王図」が永く保存されており、毎年1月と8月の16日の閻魔祭で開帳され住職による複製11幅による「地獄変相十王絵図」の「絵解き」解説が行われているのであった。花應院は、曹洞宗の寺で、慶長年間(1596年~1625年)の創建と伝えられている。最初は自転車で向かうつもりであったが、家を出る直前に激しい雨が降り出したので、急遽車で向かうこととし、境内に車を駐めさせていただき、雨も止んだので山門に向かう。藤沢市西俣野866。「小栗判官・照手姫 縁起の寺 花應院」と。「不許葷酒入山門」碑。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】「葷」は韮(にら)・葱(ねぎ)・大蒜(にんにく)などの香りの強い野菜のこと。多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」碑。側面には「奉祈 馬頭観世音菩薩」と。「案内板」が2種類。「小栗判官・照手姫、縁起の寺小栗判官と照手姫の物語は、中世以降から伝承されてきた物語です。説経節として端を発し、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなり世に広まりました。物語の大筋は、照手姫を見初めた小栗が、姫の父兄に殺され、閻魔大王によって娑婆に戻され、藤沢の遊行上人の助けを得て蘇生し、姫と再会し復讐するというストーリーです。ここ花應院には、小栗判官照手姫縁起絵と地獄変相十王図(地獄絵)が伝来し、例年一月・八月二回の閻魔祭りでは、縁起絵並びに十王図の開帳と共に、伝説の小栗判官・照手姫の奇想天外な物語と、地獄のさまざまな姿の絵解きが行われます。西俣野には「小栗・照手ゆかりの地」として、多くの史跡・地名が残されています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」「市指定重要文化財(彫刻) 昭和四十一年(一九六六) 一月十七日指定 石造閻魔大王像 像高 24.0cm 袖張 25.0cm小像ながら力強さと大きさを感じさせます。安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りあげ、閻魔大王の風貌をよくとらえています。造立年代は近世初期と推定されています。以前は村内の閻魔堂(現、西俣野八〇五)の本尊の「前立ち」として安置されていましたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花應院に移されたものです。木造彩色の閻魔大王像は、像高104cm、袖張104cmと大型像ながら丁寧な彫刻が施されており、『新編相模国風土記稿』には「小野篁(たかむら)彫刻せしと云う」と記されています。背後から石像閻魔大王像を胎内に納める作りとなっています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」そして山門の前には、ジェラート・アイスクリームが人気の店「飯田牧場」があった。参道を進んで行くと右手には「六地蔵」が。正面から。「本堂」に向かい合う位置には様々な石仏が。近づいて。右手に錫杖(しやくしよう=頭部に数個の輪が付いている杖)、左手に宝珠(ほうしゅ=宝の玉)をもつ地蔵菩薩像。こちらも手に何かを持たれていたのであろうか?こちらも同様に。その先右手にも石碑群が。一番右側には馬頭観世音菩薩碑。本堂手前の右側には九重石塔と水子地蔵。「本堂」。扁額「花應院」。「本堂再建記念」碑。昭和五十七年五月十六日落慶花應法地二世 大法逸巖代建設委員長 渋谷彦三 謹書 と。「藤沢市指定重要文(彫刻)石造閻魔大王坐像本像はもと閻魔堂(正しくは法王院十三堂といい、花応院の北方100mに「閻魔堂跡」として保存)の本尊である木造閻魔大王坐像の”おまいだち”として安置されていたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花応院に移されたものである。本尊の閻魔大王像は、木造彩色坐像で像高一〇四.〇cm 袖張一〇四.五cm と大型像ながら、丁寧な彫刻が施されており、一説には、平安時代の漢学者、歌人である小野篁(おののたかむら)の作と伝えられている。他方、市指定重要文化財の石造閻魔大王坐像は、前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高ニ四.〇cm 袖張ニ五.〇cmと小像ながら、安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りこなして、大王の風貌を遺憾なく表現した秀作で、造立年代は室町後期か桃山期と推定されている。昭和四十一年一月十七日 指定 藤沢市教育委員会」 ・・・つづく・・・
2023.09.18
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この日の講義会場に入ると、すでに多くの受講者が着席していた。そして30名ほどの受講者の約半数は、中学校、高等学校の歴史関連の先生であることを後に知ったのであった。この講義受講が先生の研修の一環になっているようであった。講義の先生は下記「大庭御厨に生きる人々」等の著者の伊藤一美氏。1948年、東京都生まれ。学習院大学大学院博士課程中途退学。現在、逗子市・藤沢市・葉山町文化財保護委員、NPO法人鎌倉考古学研究所理事、日本獣医史学会理事、日本城郭史学会理事などを務める と。そして約2時間の講義のスタート。題目は「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義・・「鵠沼」地域は、中世日本史の出発点!・・」大庭御厨は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。大庭御厨は鎌倉景正(景政)によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭氏は保元の乱以降、源氏の配下となった。大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。大庭御厨は典型的な寄進型荘園である。在地領主層が脆弱な地位を守るために寄進を行った事、寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行った事の例示としてよく取り上げられる。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。「(推定)大庭御厨範囲」図。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。伊勢神宮の記録「天養記」によると、大庭御厨の範囲は、東は俣野川(境川)・西は神郷(寒川神社の社領)・南は海・北は大牧崎とあります。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられています。大庭御厨は中世の藤沢の重要な土地の一つであった と。すなわち、藤沢市南半部から茅ヶ崎市全域に及んでいた。小糸・台谷などの神明社は伊勢神宮の所領経営の拠点だったと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。1町≒3,000坪≒10,000m2。大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。まず大庭御厨と伊勢神宮の関係についての説明があった。大庭御厨は伊勢神宮(内宮)の荘園。御厨(みくりや)というのは天皇家・伊勢神宮・上下賀茂社や摂関家などに、お供え物や食料として魚介類その他諸々を貢物として奉るための所領。つまり、大庭御厨は伊勢神宮(内宮)へその貢物を奉っていたということになる と。伊勢神宮(内宮)は大庭御厨から貢納物を徴収するためにどのようにしていたか、下図に。まず、大庭御厨には下司(げし)と呼ばれる実際に耕作したり漁をする人々に指示したり、それを監督したりする人がいた。この下司と呼ばれる人はそもそもこの荘園を開発した人がなることが多く、いわゆる開発領主という人が務めたのだと。大庭御厨の場合、これを開発したのは鎌倉景政(かまくらかげまさ)であり、この大庭御厨の事件が起こった頃は景政の子孫である大庭景宗(おおばかげむね:景親の父親)が下司を務めていた。そして、大庭御厨にはもう一人、給主(きゅうしゅ)と呼ばれる御厨を運営する人物がいた。それが伊勢神宮から派遣されてきた荒木田彦松(あらきだひこまつ)という人。給主というのは上級領主(この場合は伊勢神宮)に貢納物を送ったり、連絡をしたり、上級領主からの指示を聞く役割も果たした。この彦松は先ほどの下司よりも立場は上。大庭景宗が現場監督だとすると、彦松は事業所の所長のようなもの。また、彼は神職でもあり、大庭御厨内の鵠沼郷(くげぬまごう)にあった伊介神社(いすけじんじゃ:鵠沼皇太神宮の前身)の祝(ほうり:神職の名称の一つ)も務めていた。続いて、伊勢神宮の方はというと、伊勢神宮のトップは祭主(さいしゅ)と呼ばれる人、そしてそれを補佐する役割の大宮司(だいぐうじ)、権大宮司(ごんだいぐうじ)、少宮司(しょうぐうじ)と呼ばれる人たちがいた。この方たちがいわば伊勢神宮の首脳陣であった。大宮司・権大宮司・小宮司は宮司庁(ぐうじちょう)という組織を形作って、下部組織に指令を伝達した。ちなみに、この祭主・大宮司・権大宮司・少宮司は大中臣氏(おおなかとみし)一族が独占していた。そして、その宮司庁の下部組織が禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)と呼ばれる人たちで構成される大神宮庁(だいじんぐうちょう)。禰宜・権禰宜は内宮(天照大神〔あまてらすおおみかみ〕を祀る皇太神宮)と外宮(豊受大御神〔とようけのおおみかみ〕を祀る豊受大神宮)にそれぞれ別れ、内宮の禰宜・権禰宜は荒木田(あらきだ)氏が、外宮の禰宜・権禰宜は度会(わたらい)氏が務めてきた。禰宜・権禰宜の定員は時代によって変わるが、この頃は内宮・外宮ともに禰宜が6人ずつ、権禰宜は内宮が34人、外宮に28人いたと。なお、禰宜・権禰宜は全国各地に散らばる御厨などの運営を担っていた。つまり、大庭御厨の荒木田彦松は、この大神宮庁(内宮)に属する人物だったと言えるのだと。「大庭御厨の支配機構」御厨として寄進すると税金がかからなくなったのだと。次に土地をうばったり、むりやりタダ働きをしろという国府の役人の命令を聞く必要もなくなった。また、領地争いもぐっと減ったと。ですから、この時代の豪族(ごうぞく=広い土地を支配する大農民=武士)はこぞって自分の土地を力のある貴族や寺や神社に寄進した.厨(くりや)とは調理場のこと。御厨は神様の食べるものを作る場所という意味が込められている。ですから収穫された米の何パーセントかは、特産品とともに名目上の持ち主に届けられた。大庭の御厨の場合は伊勢神宮(いせじんぐう=三重県)に送っていたのだ。つまり大庭氏は伊勢神宮に収穫されたものを送る見返りに、領地をまもってもらっていたというわけ。図にすると下記のごとくに。「源義朝とは源氏の家系図であるが、源義朝は源頼朝、源義経の実父。保安4年(1123年)、源為義の長男として生まれる。母は白河院の近臣である淡路守・藤原忠清の娘。乳母は摩々局。義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。丸氏・安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏・上総氏・千葉氏など)からも連携して庇護された。東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めた。相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いにも介入した。「源義朝」画像をネットから。「源義朝の大庭御厨濫行」天養元年(1144年)9月、源義朝の大庭御厨濫行事件が起きる。源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張し、在庁官人とともに御厨に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせた。伊勢神宮は直ちに政府に提訴する。しかし、その最中に源義朝は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨に再侵攻し、御厨の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。下司である大庭景宗は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮は、まず義朝の処罰を相模国司に要求するが、国司は「義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答する有様だった。上記の「源義朝の大庭御厨濫行」について詳細に書かれている文書が『天養記(官宣旨案)』。『天養記(官宣旨案)』は2通残っており、ひとつは天養2年2月3日、もうひとつは3月4日。共に漢文全文と、その口語訳が『鎌倉市史・総説編』(高柳光寿著)に載っている。漢文はつらいのでその後者をカナ混じり文にして下さったこちらを参考にあげておきます。主要登場人物は強調の為に太字に。【天養記(官宣旨案)左弁官下す 伊勢大神宮司且つは度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、且つは国司子細を弁え申し、相模国田所目代源義朝並びに同じく義朝郎従散位清原安行、恣に謀計を巧らみ、大庭御厨高座郡内鵠沼郷を以て、俄に鎌倉郡内と号し、供祭料の稲米を運び取り、旁々 濫行を致すに応ずる事右、祭主神祇大副大中臣清親卿の去る月十二日の解状を得て称く、大神宮禰宜等の同月日の解状をに称く、伊勢恒吉の今月七日の解状に称く、謹んで案内を検ずるに、当御厨は本より荒野の地なり。誠に田畠無きの由国判に見ゆるなり。而るに彼の国の住人故平景正(鎌倉権五郎景正)、国判を相副え大神宮の御領に寄進するの刻に、永く恒吉に附属する所なり。即ち御厨の為に開発せしめ、供祭上分に備え進す。漸く年序を経るの間、在廰官人等の浮言に就いて、国司度々奏聞を経せしむの処に、宣旨、院宣等を本宮に下され、子細を召し問うの後、全く綸旨の停廃無きの上、両代の宰吏に問われ、彼の請文に就いて、殊に奉免の宣旨を下さるるの日、国祇承り散位平高政、同惟家、紀高成、平仲廣、同守景朝臣等地頭に臨み文書に任せ、堺の四至に傍示を打ち、立券を言上す。その四至と云うは、東は玉輪庄堺俣野川、南は海、西は神郷堺、北は大牧埼てへり。その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。その旨を訴え申すの処に、本宮の解状、祭主の奏状すでにをはんぬ。而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明(三浦義明のこと)、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。爰に彼等の所帯する宣旨の状を承るの処に、更に御厨に入らざるの事、只指せる官省符新立の庄園に非ず。本庄の外加納の一色別符勘じ入るべきの由なり。また隣国他堺の高家若しくは悪僧等、乱入を停止すべきの状ばかりなり。仍って神宮の御領として尤も大悦なり。しかのみならず、当御厨に於いては奉免の宣旨限り有るの由、披陳すと雖も、敢えて承引無く、神人等敵対に及ばざるの間、同二十二日卯の時より始めて、在廰官人等郷々に押し入り、傍示を抜き取りをはんぬ。また御厨の作田玖拾伍町の頴肆萬七千七百伍拾束を苅る。下司家中の私財雑物悉く以て押し取り、神人紀恒貞、志摩則貞、国元、末永、重国、兼次等を簀に巻き死門に及ばしむ。或いは凌轢せらるる所なり。この外供祭料米農料出挙並びに甲乙輩の私物及び有事縁所宿置熊野僧の供米等百余斗を捌き、負人住人逃げ脱すの間、行方を知らず是非他なり。義朝と頼清と同意を成し、名代を出立するの由、御厨の定使井濱御薗検校散位藤原朝臣重親、下司平景宗(大庭景宗)等言上する所なり。その状に就いて案内を検ずるに、勅免の神領に於いては、縦え国衙より沙汰せしむべきの事有りと雖も、若しくは宣旨を申し下し、若しくは本宮使を相具して、進士せしむるの例なり。爰に当御厨の四至の内字殿原、香川郷、宣旨・代々の国判に背き、国役に充てしむるの事、度々彼の目代頼清朝臣に相触るの次いでに、上件子細の披露すでにをはんぬ。皆返報有って、御厨の事専入宣旨の状に有らざるの上、停廃すべきの由、殊に国の定め無しと云々ばかりなり。高座郡内を以て今俄に鎌倉郡内と称し、濫行を成さしむの條、玄隔たるの事に依って、彼等の所行を省みんが為に、惣所御厨を牢籠せしむか。茲に因って子細を熟察し、沙汰を致さんが為に、先ず国司に経訴するの処に、義朝濫行の事に於いては、国司の進士に能わず。停廃せしめんと擬するの事に於いては、在国を尋ね問い、左右すべきの由、返報せしむるに依って、暫く彼の裁許を相待つと雖も、事を左右に寄せ敢えてその沙汰無きの間、義朝乱行の事宣下せられすでにをはんぬ。然れば停廃の事と雖も、重ねて送達せられざれば、殿原、香川郷のその妨げ絶えざるか。就中国役を御厨田に伐ち充て、御厨田を宮寺の浮免を曳き成し、勘責いよいよ重なるの間、僅所に残る住人また以て逃げ脱すの由、下司重ねて言上するなり。重ねて案内を検ずるに、神宮御領を以て院宮御領と号し押し取らるるの時、本宮より子細を言上するの日、その妨げを停止すべきの旨、宣下せらるるの例、諸国に繁多なり。而るに今勅免の神領を停止し、宮寺の浮免を曳き成すの條、神事の不信不浄の基、何事か斯れに過ぐべきか。また先例を訪うに、職掌人を刃傷し、神人等を殺害し、供祭物を取り穢し、神民の貯えを奪い取るの輩は、贖罪の軽重、或いは法の科罪に任せ、或いは乱行人に解謝を致さしむる所なり。而るに彼等の所為、一つとして尋常ならず。先ず以て他郡を鎌倉郡内と号するの條、誠に矯餝の甚だしきなり。各々證文を召すの日、敢えて遁るる所無きか。しかのみならず、宣旨立券の時、祇承の官人、皆以て見在の輩なり。また庄園の宣旨を以て謀計を巧らみ、御厨を停廃せしむるの條、これ唯神威を蔑爾するのみならず、将に綸言に違背する所なり。然れば則ち義朝の乱行に於いては、宣下の旨に任せ沙汰を致さしむと雖も、猥に傍示を抜き取るに至っては、尤も厳制を加え、向後を懲らしめ、本の如く傍示を立てしめらるべきや。また押し取る所の供祭上分料獲稲見米並びに所司住人の私物等、悉く糺返せらるべきや。これ等の如きの所行、早く糺断せられずんば、神威の凌遅、諸国の狼藉、積習して倍増するものか。宮の廰裁を望み請う。且つは重ねて奏聞を経て、且つは早く牒を留守所に送り、糺行せられば、将に神威の不朽を仰ぎ、綸言の軽からざるを厳とするか。てへれば、解状に就いて覆審を加え、庄園の加納を勘がえ入るべきの由宣旨を以て、限り有る勅免の神領を停廃せしめんと擬すの條、神威を蔑爾するのみならず、すでに綸言を違乘するものか。祭主の裁を望み請う。重ねて奏聞を経て、早く糺行せられてへり。仍って言上件の如く相副え天裁を望み請う。禰宜等の解状に任せ、早く糺行せられば、権大納言源朝臣雅定宣べ、勅を奉りて宣ぶ。度々の宣旨に任せ、その妨げを停止し、供祭物を備進し、兼ねてまた国司をして子細を弁え申さしめば、同じく彼の国に下知既にをはんぬ。宮司宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行え。 天養二年三月四日 大史中原朝臣(宗遠花押影)少弁源朝臣(師能花押影)】【大意・・・当日の資料より転記させていただきました。左弁官から伊勢大神宮司に命令を下す。先の宣旨に任せて源義朝の濫行行為を停止させ、また犯人を召し進め、また大神宮の例に任せて、祓い清めて供祭のつとめを行え。相模国大庭御厨神人が訴え申してきたことについては、高座群字鵠沼郡をもって謀計を企んで、いま急に鎌倉郡の中にあるといって妨げを行い、清原安行と字新藤太等は、伊介神社祝荒木田彦松の頭を打ち割り、神人八人の身を半死半生の目にあわせたことである。右のことについて、天養元年九月十日に相模国大庭御厨神人等から伊勢大神宮に訴えがあり、そのことは同年九月二十九日伊勢大神宮禰宜の解状に取り上げられ、さらに伊勢祭主神祇大副大中臣清親卿の同年十月四日解状で朝廷に訴えが出されてきた。御厨神人が言うことには、謹んで自分たちの手控えの参考書類を調べてみると、当御厨は、相模国高座郡にあるものである。四至は、東は玉輪御庄の堺となる俣野川、南は海、西は相模ー之宮のある神郷の堺、北は大牧崎の地域となる。代々の国判が神宮に与えられ、それに基づいて奉免宣旨が下された時、伊勢の本宮使は国衙の庁官等を率いて認定された通りに傍示を打って定め、立券文を作成して朝廷には言上してきた。その後になって源義朝が字鎌倉の楯を伝え得たと称して、関係者をそこに居住させていたが、にわかに高座郡方面を鎌倉郡だと号して俣野川を越え、大庭御厨内鵠沼郷住人たちを煩わしめた。この折りに鎌倉郡と高座郡は全然異なるのだ、と承引できない旨を給主である荒木田彦松が国衙に沙汰を申し入れた以降は特に問題なく過ぎてきた。ところが九月八日、上件安行と庁官らが鵠沼郷に乱入し、供祭料の魚を奪い取っていこうとしたおり、「鵠沼郷は鎌倉郡内であることは庁宣で明白だ。明日、いずれにしても処置する」と彼らは言った。神人等は奇異に思っていた。翌九日に運送用の負駄八疋を遣わしてきて大豆・小豆等を刈り取らせてしまった。荒木田彦松は「この鵠沼郷は鎌倉郡内ではない」そのことは先日に沙汰してある。また勅免神領では、たとえこうした収納を行う時は、宣旨を下して行うか、又は本宮に連絡をとって本宮使とともに庁官は進止を行うのが通例だ。なのに今は庁宣があるといっているが、それは留守所の下知状か、ほんとの庁宣なのだろうか。言うことは信用できない。」と主張したが、勝手に苅り負って帰っていった。神人等はその時何も敵対しなかったけれども、夜中ばかりに多数の軍兵を連れて押し寄せ、再び到来して特に理由もなくて郷内住人を絡め取ってしまった。彦松はこの理由を聞こうとして騒動の現場へ出かけて行ったところ、有無を言わせず頭を打ち損じられてしまった。ちょうど用務で来防していた熊野神人八人も同様に被害にあってしまった。いやしくも当郷は神宮の供祭所として慎み清めた漁物の御贄を悉く汚されてしまった。これは神威を侮蔑するだけではなく、天子の権威をも恐れないものである。頭を打ち損じられた神人のうち荒木田日彦松は万死一生を得たが、彼に尋ねたところ留守所目代の下知によって、上件安行と庁官が組んでこの乱行を行ったということである。以上の御厨神人の訴えた内容から伊勢大神宮禰宜当局が勘案すれば、上件安行や国衙役人らの行為は誠に言語道断である。当御厨内にある字殿原・香川の両郷にも宣旨・国判に背いて国衙目代が国役を充て課そうとすることについて、当御厨のこれまで全て免除されてきた子細は、給主である荒木田彦松がニ度にわたって彼の目代に触れ送ったところ、既に二度とも返報を得ている。ところが留守所下知を出して闘乱をなしたることは不当なことである。鵠沼郷が鎌倉郡ではなく高座郡にあることを知りながら国衙庁官が同意したことは甚だ不忠のことである。以上の大神宮禰宜当局の解状を勘案して、全て伊勢大神宮の神威を犯し辱め、諸国を狼藉すこと、これをなんと言おうか。重大なことは言うまでもない。大神宮禰宜の解状を副えて朝廷に言上することは以上の如くである。朝廷では、上卿の左大臣源有仁からの伝達によれば、「先の宣旨に任せて源義朝の濫行を停止し、一方ではその犯人を召し進め、もう一方では伊勢大神宮の先例に任せて祓い清めて供祭の勤めを行え。ということである。弁官では、以上の伝達内容を踏まえて、右大臣中原宗遠がこの宣旨の起草と発布を行ったので、伊勢大神宮司が宜しく承知して、この決定を施行しなさい。】上記を要約すると源義朝の名代(代理の清原安行(きよはらのやすゆき)と郎党である新藤太(しんとうた)、相模国の在庁官人(国衙の役人)が鵠沼郷に乱入、伊勢神宮へ納める予定の魚を奪い取り、「鵠沼郷が鎌倉郡内であることは庁宣(ちょうせん※)に明らかである。明日また指示を出す」と述べて、一旦引き上げていき、翌日運搬用の馬8頭を引き連れてきて、鵠沼郷内の大豆や小豆を刈り取ったのです。※庁宣…この場合は遥任国司(任国に赴かない国守)が現地の代官(目代など)に発給した命令書実はこのような事態に至る前に、鵠沼郷には義朝方の者がやってきて、鵠沼郷は鎌倉郡内であることを主張して帰っていったことがあり、その時御厨側は、大庭御厨はすべて高座郡(こうざぐん)内であるから到底受け入れられるものではないと、特に取り合わなかったのですが、今回のこの乱入騒ぎで義朝方がついに実力行使に及んできたということで、御厨側としていよいよ見過ごすことができない事態となったのです。この事態に給主である荒木田彦松は、「鵠沼郷が鎌倉郡内でないことは先刻申し上げたはず!勅免:天皇の許し)を得た荘園に何か指図することがある場合は、まず宣旨が下され、本家(伊勢神宮)に通達して、本家の使者とともに行うのが通例である。ところが今、庁宣ありと称して狼藉いたすということは、留守所(るすどころ※)の命令によるものなのか!そもそもその庁宣が本物なのか信じ難い!」※留守所…国衙内に設置され、遥任国司が派遣する代官(目代など)が執務する行政機関と義朝方に抗議しますが、義朝方はその抗議を受け入れる様子はなく、そればかりか9月9日から10日に日付が変わろうとする子の刻(23時~1時)に清原安行や在庁官人らは軍勢を率いて再び鵠沼郷に乱入。郷内の住人を捕らえるなどの乱暴を働き、子細を聞くために出向いた彦松の頭を問答無用でかち割って瀕死の重傷を負わせ、さらに鵠沼郷を訪れていた神人(じにん:神社関係者)8人にも怪我を負わせ、伊勢神宮に上納するために保管しておいた魚介類をことごとく踏みにじって穢す行為にも及んだのです。大庭の御厨が豊かな神奈川県央地域にあるのに対して、三浦氏、中村氏(土肥氏は中村氏一族)の領地には丘陵部が多く、水田になる低地(沖積地=ちゅうせきち)が少ないことが分かります。つまり源義朝・三浦氏・中村氏は「水田になるべき沖積地が領内に少ない」という同じ立場にあります。三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人でしたが同時に源義朝の郎党(ろうとう=家来)でした.彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのです.その後三浦氏は義明の弟「義実」(岡崎義実)を平野の北である大住郡に配し、さらにその子「義忠」(真田与一義忠)を北西部に配しました。一方、中村氏は宗平の息子である実平(土肥実平)を湯河原・早川に配し、その弟の宗遠を土屋に配しました。土屋と真田は距離も近く両氏は姻戚関係(いんせきかんけい=結婚して親戚になること)を結びます。つまりこの時点において平野部を取り囲む三浦一族と中村一族の包囲網ができあがったというわけです。そしてその要が源義朝でした。こちらは鎌倉:「御霊神社」👈リンクはじめは関東平氏の鎌倉氏、梶原氏、大庭氏の先祖の霊をまつっていたが、やがて後三年の役で活躍した武勇が名高い平安時代の武士、そして大庭御厨を開発した「権五郎景政」がまつられるようになった。地元では「権五郎さま」と呼び親しまれている。下の写真は「歌舞伎」の「暫(しばらく)」に登場する「鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)」清原武衡(きよはらのたけひら)が、自分の意に従わない人々を家来に命じて斬ろうとするところに、「しばらく」という声とともに鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)が登場し、人々の命を助けるというストーリー。江戸歌舞伎では、俳優は芝居小屋と1年ごとに契約を結びました。その契約のスタートする11月の興行は「顔見世(かおみせ)」とよばれ、一座する俳優の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事でした。この「顔見世」で上演される作品には、おもな俳優が一堂に会し、「しばらく」という声とともに登場する正義感あふれる人物が、悪人に殺されかけている人々を救う場面を組込む慣習がありました。「顔見世」で上演されたさまざまな作品で、何度も演じられたこの場面は、次第に洗練されていき、一定の演出が完成しました。明治以降は、この場面を『暫』として独立させて上演するようになり、現在に至っています。このような経緯で誕生したため、ストーリーを楽しむというよりも様式化された演出を楽しむ演目といえます。主人公は代々の市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が得意とした「荒事(あらごと)」で演じられるため、『暫』は團十郎家の「家の芸」である「歌舞伎十八番」の1つに数えられている。むすびに「ここは鎌倉郡ではないのだ。神聖な神領に入って乱暴することは許せない。」大庭御厨を預かる神官荒木田彦松は相模国の役所の役人たちに言い放った。源義朝の郎従たちは荒々しく睨んでいた。天養元(1144 ) 9月上旬のことである。相模国高座郡鵠沼郷辺りは収穫の時期を迎え、御厨内では伊勢の祭神に捧げる供祭料の魚介類、大豆・小豆なども保管してあった。また用事で来ていた神人らの供米などもあった。義朝郎従や国衙役人らは、それらを勝手に運んでいってしまったのだ。止めようとした荒木田彦松は頭を割られて死にそうになった。神人たちもまたケガをさせられた。その後も乱暴は続く、源義朝や三浦義継・義明父子、中村宗平、和田助弘など、後に武家政権成立に係わる知名人が出てくるのだ。この大庭御厨こそ、日本の中世を生み出した、一つの政治基盤といってもよいだろう」と講師の伊藤一美先生より。我が藤沢市の境川沿いにはこの「源義朝」を祭神とする左馬神社・鯖神社があること、は以前から理解していたが。そして我が住む地域が「大庭御厨」であったことも。そして源義朝が左馬頭(サマノカミ;サバノカミ)という役職にあったことから左馬神社(サバじんじゃ)と言われるようになったとされているのだ。しかし、その源義朝が大庭御厨内の鵠沼の地で育った伊勢神宮への奉納品の野菜・魚介類を略奪していた事は全く知らなかったのであった。鎌倉幕府成立前の我が住む地域の歴史を大いに学ぶことが出来たのであった。そして2時間の講義が終わり往路と同じルートで帰路につく。国道1号・藤沢バイパス下のカルバートを再び通過。御殿辺公園の水飲み場ではカラスが水分補給中。カラスにとっても、この猛暑がしんどいのであろう。大切な水分補給に夢中であった。「フジロード」案内板。市内を巡ってもらおうと市民団体「藤倶楽部」が発表している「フジロード」は、引地川・境川沿いの藤棚でフジが美しく鑑賞できる場所そして史跡、寺社をたどる2つの散歩道。御殿辺公園の白旗川沿いのウッドデッキの手摺にもモニュメントが。藤沢市の鳥・かわせみ。白旗保育園の前を通り藤沢市民病院前の交差点に向かう。藤沢市民病院。「厚生年金特別融資 藤沢市民病院」。ブロンズ彫刻作品「真心」。真心を帽子の中にしのばせて。藤沢市民病院前の茂みにひっそりと設置された少女の像。大切な人のお見舞いに来たのでしようか。帽子を両手に大事に持ち、少し緊張した面持ちが表れているよう。作者:陶山定人氏 「藤白橋」越しの藤沢市民病院。藤沢市民病院前の藤沢403号線の横のロータリーを訪ねた。「藤沢宿」について紹介するパネル展示スペースとなっていた。「歩いて見よう 藤沢宿 市民病院のおいたち」。1971年(昭和46年)10月1日 藤沢市民病院開設 病床数 一般300床 伝染病30床1975年(昭和50年) 3月 臨床研修指定病院の指定1989年(平成元年) 3月 西館完成 病床数 一般400床 伝染病30床1991年(平成3年) 4月 東館改修 病床数 一般500床 伝染病30床2006年(平成18年)12月1日 救命救急センター(30床)の開設「浮世絵で見る藤沢宿」。今から180年前に描かれた浮世絵。藤沢宿は1601年に誕生。東海道53次6番目の藤沢宿は、東海道、大山街道、江の島道、鎌倉道などの分岐点として大鋸橋(現遊行寺橋)を中心に大鋸町、大久保町、坂戸町の3町で構成されました。その繁栄の様子は歌川広重等の浮世絵に残されています。「夕刻の賑わいの風景」歌川広重「東海道五拾三次藤沢(狂歌入東海道)製作時期:1840年。「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲居をさして登る春かな」」このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つです。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)です。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられます。「江の島詣・大山詣の人々が行き来する風景」東海道五十三次之内 藤沢(行書東海道)製作時期:天保13年(1842)。このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれます。 画面右に江の島一ノ鳥居、左に大鋸橋(現遊行寺橋)を描いています。大鋸橋を通っているのは東海道で、この鳥居が東海道から江の島道への入口になっています。橋の上の人物が担いでいるは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で、一行が大山詣の帰りであることが分かります。「遊行坂上から大鋸橋まで続く行列の模様」東海道名所之内 ふちさハ 遊行寺 作者=橋本貞秀〈1863年作〉十四代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているものの一つ。鳥瞰的な構図で遊行寺坂上から大鋸橋(現遊行寺橋)まで続く行列の長さが強調されている絵。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居です。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっています。「江の島道鳥居・大鋸橋・遊行寺」東海道五拾三次之内 藤澤 遊行寺藤沢は時宗総本山・遊行寺の門前町として参拝客で賑わった宿場。手前は江ノ島道の第一の鳥居。一見、江ノ島が近いので奥の小山をそれと勘違いするが、これが遊行寺である。橋の上の者は大山詣で納める木太刀を担いでいる。「大鋸橋を行く人々」東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)製作時期:天保11年頃(1840)。「うちかすむ色のゆかりのふち沢や雲居をさして登る春かな」このシリーズは図柄の中に狂歌が1首づつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれています。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山です。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で大山詣を象徴しています。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺えます。「藤沢御殿」このバス停東側には「藤沢御殿」がありました。藤沢宿には”藤沢御殿”と呼ばれる将軍専用の宿泊所が置かれ、徳川家康、秀忠、家光の3代に利用されました。(1596年ごろ設置)その後、民間の本陣、脇本陣が設置され、大名や公家などの宿泊所となりました。「藤沢御殿跡絵図」(堀内家文書)江戸時代。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(旧藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。「東海道分間延絵図」に描かれた御殿跡「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成しています。それらを含めて「五街道分間延絵図」(正式には「五海道其外分間見取延絵図」)と呼んでおり、「東海道分間延絵図」はその一部で、東海道だけで全13巻に及びます。「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。現在、東京国立博物館と逓信博物館に所蔵されています。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。我が実家の檀家寺・妙善寺も描かれている。「江戸時代の藤沢宿今から174年前に描かれた絵図「相中留恩記路」は1839年に完成した地誌です。この絵図には家並みや人の動きが細かに描かれています。藤沢宿は1601年ごろに誕生しました。」「相中留恩記略」(福原家文書)。「現在の旧藤沢宿」「現在の旧藤沢宿現在の藤沢地区ご案内--「なりわい」が活きる地区マップ藤沢宿は、明治になって肥料や米穀等の農産物の集積地として農業関連の商店等を中心に繁栄しました。現在も蔵や店構えにその面影を残しています。商圏は三浦半島から相模原方面まで及んだといわれています。また、この地区は藤沢の街の発祥地で、現藤沢公民館は町役場で、警察署、銀行等が建ち並んでいました。明治20年に藤沢駅が開設してから駅周辺へと中心地が移りました。バスの車窓から、また、徒歩で蔵や建物を見て「なりわい」が活きる「藤沢宿」をお楽しみだくさい。2 0 1 2年(平24 ) 1 2月 藤沢市民病院・藤沢地区地域経営会議」「現在の旧藤沢宿 国道467号(藤沢橋から白旗交差点)」。「藤沢地区景観の一例」・七福神や境内が緑や木々に被われた歴史ある仏閣が多くあります。・市役所前、伊勢山公園、大清水口一ドなど、桜・アジサイの見どころ。交差点脇にあった石碑。「耕地整理記念之碑」。「神奈川縣知事従四位勲三等井上考哉題字相模東部自北亘東南有川田境川源發東京府南多摩郡境村地界交錯上為武相兩國之境・・・・以下省略・・・」裏側。そしてバスにて帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.08.17
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この日は7月25日(火)、「藤沢市教育文化センター」で開催された「令和5年度 藤沢市文書館歴史講座」「大庭御厨(おおばみくりや)の歴史的意義」に事前申込をし、参加しました。「大庭御厨」は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。私の住む場所も、「大庭御厨」に含まれる場所であることを知ったのは、高校時代であった。大庭御厨は長治元年(1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。鎌倉景正は後三年の役(1083年 - 1087年)の勇者として有名である。大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。大牧崎はこれまでの研究で亀井神社南側一帯を指すと考えられているとのこと。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。(1町≒3,000坪≒10,000m2)大庭郷の成立は、9世紀以前と思われる。「大庭」「庭」も祭司の場を意味すると言う。現在も藤沢市に大庭の地名が残る。御厨は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する と。自宅から神奈中バスを利用して、「白旗神社前」で下車。藤沢市民病院方向に進む。右手に「ショッピングモール トレアージュ白旗」。神奈川県藤沢市藤沢2丁目3−15。こちらは、「ハックドラッグ藤沢白旗店」。途中、左折し、境川につながる「白旗川」に架かる「人道橋」を渡り、「御殿辺公園」方向へ。御殿辺公園(ごてんべこうえん)【通称:白旗公園】。名前の由来は、この近くに徳川家康が建てた「藤沢御殿」があったことによる。1984年(昭和59年)3月に、約1.1ヘクタールの面積の公園として整備された。西に白旗神社、東に藤沢市民病院と隣接している。秋になると黄葉が美しいイチョウ並木の道路を進む。右側奥には「藤沢市民病院」が見えた。御殿辺公園内には、はちの巣をモチーフにしたカラフル遊具が。そして、正面に「国道1号・藤沢バイパス」下を潜るカルバートが姿を現す。この道は「藤沢404号線」とのこと。歩行者専用道路・自転車は降りて通行して下さい と。カルバートの壁には様々な絵画が描かれていた。制作は、この日の目的地の「藤沢市教育文化会館」の隣にある神奈川県立藤沢清流高等学校の美術部の生徒達によるものと。様々な花が描かれていた。その先には自然の長閑な風景が。蝶やパンダが。ふたこぶラクダ。フラミンゴ。フラミンゴが紅色なのは、餌であるエビやカニ由来のβ-カロテンやカンタキサンチンによるものであるらしい。キリン。魚の絵も。熱帯魚。オヤビッチャに似ていたが。クラゲやタコ。クジラ。制作者のサインもイニシャルで。そしてその先にあった遊水池にはスイレンの赤い花が。ズームして。蓮の花も開花中。蓮の群生場所。そして右手には「藤沢市民病院」が見えた。「藤沢市立白旗廻り第三公園」。そして「境川」に架かる橋が見えて来た。「鷹匠橋」。境川左岸の藤沢市大鋸と右岸の藤沢市白旗1丁目・2丁目とを結び、市道藤沢409号線が通る。橋の手前に海から6.5km標識、左岸下流に下水用の大清水吐口ゲートが接続されていた。下流の御殿橋付近に徳川将軍家の御殿(別荘)や陣屋が在り、江戸時代に鷹狩りの場でもあったそうで、橋名・「鷹匠橋」はそこからと。「境川」。「鷹匠橋」を渡る。名称:鷹匠橋構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m完成:1990年(H2)。下流方向を見る。国道1号・藤沢バイパスに架かる「境川大橋」を見る。歴史を感じさせる橋名ですが、欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドグラス風な絵が飾られていた。橋の欄干にも同テーマの作品が。上流側を見る。こちらにも。「藤沢市民病院」を再び。「境川」沿いの道を北に進むと、左手高台にも学校の校舎が見えた。「聖園(みその)女学院高等・中学校」と。右手道路沿いには「藤沢市立大清水中学校」。1984年(昭和59年)4月2日 - 開校大清水小学校と俣野小学校、藤沢小学校と本町小学校の卒業生の一部が入学する とのこと。さらに「境川」に沿って進む。この場所は「大清水境川アジサイロード」👈リンク と呼ばれ、6月には美しいアジサイの花が楽しめるのだ。そしてこの日の受講会場・「藤沢市教育文化センター」に到着。 神奈川県藤沢市大鋸1407−1。「掲示板」。「藤沢市教育文化センター」👈リンク 案内と講演会「学校はなにをするところ?」案内書。「藤沢市教育文化センター」。 ・・・つづく・・・
2023.08.16
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さらに「石上神社」の散策を続ける。正面に「社殿」。「石上神社」碑。扁額「奉納 石上神社」。隣接する「鵠沼石上町内会会館・石上会館」。藤沢市鵠沼石上2−3−7。「此の石上神社は別名、砥上明神(とがみみょうじん)と言われました。鵠沼を中心とした此の辺り一帯は天平時代(七三五年頃)「高倉郡(後に高座郡に)土甘郷(とがみごう)と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残してます。江戸時代に入ると砥上地蔵尊が(一六五五)建立されました。石上神社は此の辺り開発の祖、鎌倉時代の武士を祀った神社で、藤沢橋から江の島道の、当時は湾曲していた境川沿いにあった「渡しの舟場」の北側に有り、往来する人たちの守護神として村民は、大明神と崇めていました。しかし、水難で度々水に浸り、一九三四年(昭和九年)に現在地の石上通り沿い(鵠沼石上ニ丁目三番)に遷座され、町の守護神となりました。戦後の宗教法により、藤沢諏訪神社の分社と位置付けられました昭和五十ニ年十一月氏子崇敬者の御芳志により、石上神社と隣の石上会館と共に改築されました。」この後、訪ねた「石上公園(砥上公園)」にもあった「江の島弁財天道標」案内。江の島弁財天道標 市指定重要文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定この石柱は、江の島 への道筋に建てたれた道標(どうひょう)の一つです。江の島弁財天道標は、管(くだ)を用いて鍼(はり)をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(すぎやまけんぎょう)が寄進したと伝えられています。現在、市内外に十数基が確認され、市内所在のうちで十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部のとがった角柱形で、その多くが、正面の弁才天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑ(え)のしま道」、右側面に「一切衆生(いっさいしゅうじょう)」、左側面に「二世安楽(にせあんらく)」と彫られています。この文言(もんごん)は、江の島弁才天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に建設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。平成二十七年(二〇一五)十一月 藤沢市教育委員会」「石上」の案内。内容は上記に同じ。「石上神社」を後にして、鵠沼石上2丁目を北に進む。前方に「石上公園」が見えて来た。先程「石上神社」にあった案内書の中の写真の石碑はここにあった。「石上鵠沼を中心とした一帯は天平時代(七三五年頃)「高倉郡土甘郷(とがみごう)と呼ばれ、鎌倉時代には「砥上が原(とがみがはら)」と呼び、西行法師や鴨長明も砥上が原の歌を残してます。江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)建立されました。此の辺りの開発の祖の鎌倉時代の武士を祀ったといわれる石上神社は、度々水に浸り昭和九年に現在の地に移されました。」江戸時代に入ると江の島、大山詣の道筋で賑わった石上舟渡場があり、その北側に砥上地蔵尊(一六五五)建立されました。「江の島弁財天道標」。正面に弁財天を表す梵字「ソ」と「ゑのしま道」。藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術(かんしんじゅつ)を、江の島で考案したという杉山検校(杉山和一、一六一〇~一六九四)が、寄進したものと伝えられています。現在、市内外に、十数基が確認され、市内所在の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも頂部の尖った角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字(ぼんじ)の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と彫られています。この文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められています。市役所新館脇歩道橋付近に移設されていましたが、新庁舎建設にともなう歩道橋周辺の整備により、「江の島道」の路傍にあたるこの地に移設したものです。平成二十七年(ニ〇十五)十一月 藤沢市教育委員会」右側面に「一切衆生」。左側面に「ニ世安楽」。この上記二つの文言には、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められているとのこと。「江ノ島道 ルート図」。その右奥にあった石碑群。近づいて。右側の4基。右から「青面金剛像」 宝永6(1709)五月吉日6手合掌型 弓、輪、矢、三又切り絵にしてみました。「青面金剛像」 正徳6(1716)丙申(ひのえ さる)二月吉日 6手合掌型 弓、輪、矢、三又戟を持つ 下に3猿。近づいて。「道祖神」 文久三年(1863) 癸(みずのと)正月吉日。近づいて。「青面金剛像」 享保1(1716) 9月吉日6手合掌型 輪、三又戟を持つ 下に3猿。近づいて。その左に「文字庚申塔」等が4基。「文字型庚申供養塔」 文化10年(1813)癸酉(みずのととり)天6月吉日近づいて。「文字型庚申供養塔」明和8年(1771)願主の名前が刻まれていた。「明和八年卯(う)歳」と。文化3(1806) 丙寅(ひのえとら)。近づいて。「馬頭観世音」「万延元年(1860)三月十八日」。そして、さらに藤沢駅方面に進む。江ノ電の線路下の道に出ると、右手にあったのが「カトリック教会」。藤沢市鵠沼石上1丁目1−17。「藤沢カトリック教会 藤沢カトリックセンター」。「聖霊来てください 私の心を温めてください 来て私に祈りを 御父と御子を仰ぎ見るすべを 教えてください信仰の道を指し示して下さい 愛することを そしてとりわけ希望を抱く心構えを教えてください」と。入口門のない珍しい八角形の聖堂。「藤沢教会は、昭和30年(1955年)4月に片瀬教会に続いて藤沢市で二つ目のカトリック教会として生まれました。教会の守護の聖人は使徒聖シモンと聖ユダです。」と。聖堂の内部の写真をネットから。信者さんたちが運営している教会の売店「がらりや」。キリスト教関連の本や聖書、ロザリオ、メダイなどの聖品やカード類、ステーショナリーなどを揃えている と。可愛らしい陶器?の人形。藤沢駅南口の道を駅方向に進む。高架の連絡通路から。江ノ電藤沢駅改札口手前の土産物屋。そしてJR藤沢駅への連絡通路から南口ロータリーを見る。「小田急百貨店ふじさわ」を振り返る。ブロンズ像「地」 高田博厚さんによる作品。高田氏は1900年石川県生まれの彫刻家、文筆家。1931年よりフランスに渡り、多くの芸術家と交流し活発な制作活動を行った。晩年は鎌倉の稲村ヶ崎に住み作品を制作した と。JR藤沢駅 改札外コンコース正面 1980年6月完成陶板レリーフ「湘南讃歌」 原画・監修:ルイ・フランセン。「東海道五十三次 藤澤 遊行寺」。「現在の神奈川県藤沢市にあたる。手前を流れる川は境川、架かる橋は遊行寺橋と見られる。奥の山中にひっそりと佇む遊行寺と、その門前町として栄えた藤沢宿の様子が描かれる。眼前に鳥居を置いた構図は斬新で、広重特有の感性を垣間みることができる。この鳥居は江の島弁財天のもので、江の島を目指す4人の座頭が今まさに通り抜けようとしている。広重はこの鳥居をよほど気に入ったのか、別のシリーズでも違う角度から描いている。」と。「旧東海道・藤沢宿」案内図。名所・旧跡案内。「藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)」のモニュメント。「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言都市」のモニュメント。「藤沢市核兵器廃絶平和都市宣言わが国は世界で唯一の核被爆国であり,核兵器廃絶と恒久平 和の実現は全国民共通の願いである。しかし、すでに地球上には多くの核兵器が貯えられ、人類の 生存に深刻な脅威を与えている。藤沢市は、日本国憲法の精神に基づく国の平和と安全こそが、地方自治の根本的条件であることにかんがみ、非核三原則が完 全に実施されることを願い、核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、この人類共通の大義に向かつて不断の努力を続ける核兵器廃絶の平和都市であることを宣言する。」もちろん平和の象徴「鳩」をイメージしたもの。「藤沢駅北口ペデストリアンデッキ(サンパール広場)」からJR藤沢駅北口方向を見る。ペデストリアン(pedestrian)とは「徒歩の」、「歩行者の」、「歩行者専用の」の意味。そして6月2日にオープンした「ヤマダ電機LABI藤沢店」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.24
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鵠沼・蓮池の花を楽しんだ後は、帰路に。2月に惜しまれつつも閉店してしまった藤沢駅北口さいか屋のニトリの跡地に、『ヤマダデンキLABI LIFE SELECT』が6月2日にオープンしているので立ち寄ることに。しかし開店時間には早いので藤沢駅まで、未だ訪ねていない鵠沼・片瀬の史跡を藤沢駅まで徒歩で巡ることとした。右手に「鵠沼高等学校」の裏門が。創立以来80年余の歴史の中で一貫して女子教育に貢献し、約1万5千人の卒業生を世に送り出して来たが、平成16年(2004)より校名を鵠沼高等学校に改名し、自己と社会をより良く変えていく資質の育成、社会に貢献する人材の育成を目標とした人間教育をより充実させるため男女共学校にしたのであった。踏切を渡り、江ノ島電鉄線沿いを北に向かって進む。藤沢市鵠沼の住宅地を東に向かって進む。民家の庭の「トランペットフラワー」。石上の袋小路にある民家の前庭に祀られていたのが「石上地蔵」。正面から。鉄骨、プラスチック波板で造られた祠の中に鎮座。近づいて。蓮弁上の立像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製。左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。「鵠沼最古の石仏「石上地蔵」についてこの辺りは片瀬川(古くは固瀬川と書かれた)の「川袋」と呼ばれる曲流が始まるところにあたり、古くから渡船場が設けられていました。鎌倉時代には石上郷と呼ばれ、源頼朝の霊を祀る鎌倉二階堂の法華堂が支配していました。渡船場は「祗上渡し」と呼ぱれていましたが、天正年間から「石上渡し」と呼ばれるようになったと『皇国地誌』にあります。江戸時代初期には幕府の右筆(書記)を務めた旗本大橋家の知行地(所領)となり、うち九石分は鵠沼神明の空乗寺領に寄進されました。その時代、一六五四(承応四)年にこの地蔵が造立されました。鵠沼の現存最古の石仏です。」像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製です。右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」中央上部に地蔵菩薩の種子(梵字)である◯(カ)が彫り込まれ、蓮弁上の地蔵菩薩立像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」と彫られています。石上が大橋家知行地だったのは一六七ニ(寛文一ニ)年までで、以後は空乗寺領以外は上知されて幕府領になりました。一八〇〇年頃作られた『江嶋道見取繪圖』に、石上渡しのそばの大山道の路傍に「地蔵」が描かれているのがこの「石上地蔵」と思われます。一八三〇(文政一三)年、小川泰ニ編輯になる『我棲里』巻の中の石神大明神の解説に「渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像となり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る」とあります。」赤い帽子、涎掛け、大きなマスクで、お顔の表情は判らなかった。この印は?右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」。手前の物は何が供えられていたのであろうか?そして次に訪ねたのが「大源太(おおげんた)公園」。神奈川県藤沢市片瀬360−12。「大源太公園」内には「江の島弁財天道標」があった。正面に梵字「ソ」と「ゑのしま道」。右側面に「一切衆生(いっさいしゅじょう)」と。この世に生を受けたすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間を中心にしていう場合が多いと。左側面に「ニ世安楽(にせあんらく)」と。現世の安穏と来世の極楽往生。現世と来世に安楽を得ること。真新しい案内板。「藤沢市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、藤沢宿から江の島へ向かう参詣路である「江の島道」沿いに建てられていた江の島弁財天道標の一つです。江の島弁財天道標は、江戸時代初期の鍼灸師であり管鍼法(かんしんほう)を考案したことで知られる杉山検校(杉山和一、慶長十五年(一六一〇)~元禄七年(一六九四)〕が、参詣者の道しるべのために寄進したものと伝えられています。現在、市内で所在が確認されているもののうち、十ニ基(うち一基は杉山検校による建立ではない)が藤沢市の重要文化財に指定されています。その特徴として、頂部の尖った角柱型で、正面には弁財天を表す梵字「ソ」と「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「ニ世安楽」と刻されており、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への願いが込められています。片瀬市民センター敷地内に設置されていましたが、平成ニ十九年(ニ〇一七)に片瀬地区地域まちづくり事業「江の島道の整備事業」として、かっての江の島道沿いにあたるこの地に移設したものです。令和五年(ニ〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会 片瀬市民センター」「藤沢市大源太公園」。神奈川県藤沢市片瀬360−12。片瀬地区は境川左岸地区と思っていたが、ここは片瀬であるようだ。「藤沢市大源太公園」内から「江の島弁財天道標」を見る。そして再び江の島電鉄線に向かって進む。右前方に「石上駅」のホーム裏側を見る。「えのでん駅アート」には「波」の姿と「ISHIGAMI STATION ENOSHIMA海道・・」と描かれていた。「南橘町内会掲示板」。「南橘町内会便り 56号」。2019年度以来4年ぶりとなる「南橘町内会総会」が開催されたと。前方に現れたのが「藤沢市立橘公園」。藤沢市鵠沼橘1丁目23。タコの形の巨大なすべり台が。地元の子たちからはそのまんま、「タコ公園」と呼んでいると。公園の先の角に石碑が見えた。民家の角にあったのが「佐川英三詩碑」。奈良県吉野郡出身の佐川英三(1913-1992)の詩碑。佐川英三は1945年池田克己、高見順等と詩雑誌「花」を創刊、1946年に同じく「日本未来派」を創刊、長い間その発行責任者を務めた。「戦場歌」「佐川英三詩集」等の詩集の他、「高村光太郎詩がたみ」などの編著がある と。日本現代詩人会の先達の一人である と。藤沢市鵠沼橘1丁目11。「鈍重にしずかにしかも激しくくろがねの独楽がまわっているにぶく光りかすかに唸りながら永遠にまわりつづけようとする孤独な生よ 佐 川 英 三」。「佐川英三(さがわ えいぞう)一九一三年九月四日奈良県吉野郡国栖に生れる 本名大田行雄 一九四五年池田克巳、上田猷夫、高見順らと詩雑誌「花」、一九四六年同じく「日本未来派」を創刊 今日に及ぶ 長くその発行責任者詩集に「戦場歌」「佐川英三詩集など多数編著「高村光太郎詩がたみ」。一九九〇年日本現代詩人会より「先達詩人」の顕彰を受ける同会々員、日本文芸家協会々員一九九二年九月四日建之」。民家の門に「喃(なん)の風」と。元海軍将校の邸宅、フリースペースに、ここ鵠沼橘に住む映画監督の谷光章さん(76)が、自宅の空き室を音楽演奏や美術展示ができる場所として一般開放を始めたのだと。かつて文化人が多く住んだ土地柄から、新たな地域の文化拠点の創出を目指しているとのこと。そして「石上駅」のホームを見る。「藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々を現代のアレンジで表現しました。21世紀の今にレトロやアンティークの良さを取り入れ、それをおしゃれに変換させている江ノ電の良さをアピールできるように考え、ホームで待っている人がこのミックスされた世界に入り込めるように人物を等身大で描きました。同様に外側の壁面にはアンティークな書体で江ノ島海道という標識をタイポグラフィでアートを描き、中からも外からも楽しめるよう駅をまるっとアートで覆っています。」と江ノ島電鉄のページから。藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々そして松並木。Pizzaを運ぶ飛脚の姿や、自転車に乗っている旅人の姿が。再び踏切を渡り、江の島方向を見る。再び「えのでん駅アート」を。そして次に訪ねたのが「石上神社」。横には「石上会館」があった。藤沢市鵠沼石上2丁目3-7。「石鳥居」、「社殿」を正面から見る。「社殿」に近づいて。右手に「石上神社 明治二十九年四月」と刻まれた石碑。左手の掲示板には様々な案内が掲載されていた。「藤沢付近の歴史と年表先土器時代2万~ 3万年前、最後の氷河期で、現在より7 ~ 8度気温が低く、海面は百数十メートル下がり、日本列島は北と南で大陸と陸続きに成り、人間が大陸から日本へ渡ったとされています。約1万年前頃は富士山の火山活動が盛んで、相模の国の土は、上の上1mの厚さで黒土、その下に赤土が堆積していた(関東ローム層) =洪積世。古墳は1つの遺骸の墓で、藤沢でも先土器時代の物も発掘されています(層としては赤土の中に埋もれている文化)東京螺子(ミネべア)敷地内にスクモ塚古墳(九十九塚)跡が有り、遺物は長谷寺に保存されているが、発掘にあたった人夫達が、多くの刀剣類を持ち去ったとされている。片瀬丘陵の横穴墓墳は複数人の基(家族)で、7世紀前後のものと思われる、片瀬丘陵で約2 0 0発見された。相模の国八郷の1 3処1,300戸、鈴鹿王、上甘郷50戸(鵠沼)長屋王の弟で壬申の乱の英雄、高市皇子の第2子が鈴鹿王(745年没)ー天武天皇の時代1180年 源義朝の遺児、源頼朝は伊豆の石橋山の合戦から始まり鎌倉幕府を開く (兄)大庭景義と豊田景俊は源頼朝の味方 大庭景親と(弟)俣野景久は平家側に付き、身内同士で敵、味方に。1333年 (元弘3年) 5月、新田義貞軍は藤沢、片瀬などを焼きっくし鎌倉へ侵攻、 北条高時の自害で鎌倉幕府は150年間の幕を閉じた。 大源太の辻(ミネべア前)は新田義貞鎌倉攻めの戦場であった。1338年 足利尊氏、室町幕府を開く1590年 (天正18年)北条氏、豊臣秀吉に降伏、秀吉、全国統一 徳川家康が関東に国替、藤沢御殿は大名や家康、秀忠、家光らが泊まった処1598年 秀吉死去1603年 (慶長8年)徳川家康、江戸幕府開く 藤沢代官として服部惣左衛門が務めた 幕末の旗本領主、鎌倉郡高谷村には、井上左大夫がいた1707年 (宝永4年) 富士山宝永火山噴火 藤沢付近も火山灰で農作被害が出た1887年 (明治20年) 東海道、横浜~国府津間開通1889年 (〃22年) 横須賀線開業1897年 (〃30年) 江の島桟橋完成1902年 (〃35年) 江ノ電開通(江の島まで)1910年 (〃43年) 〃 鎌倉まで開通 〃 (〃 〃 ) 龍ロ寺五重塔完成 1916年 (大正5年) 辻堂堂駅開業1923年 (大正12年) 関東大震災1929年 (昭和4年) 小田急線長後~江の島間開通 1937年 (昭和12年) 白百合片瀬乃木小学校開校1938年 ( 〃 13年) 〃 乃木高校開校 ( 〃 〃 ) 藤沢第4小学校開校(本町)1940年 ( 〃 15年) 藤沢市制執行10月1日を記念日とする、令和2年は80周年 藤沢市の木ークロマツ、藤沢市の花ーフジ、藤沢市の鳥ーかわせみ2011年 (平成23年) 3月11日東日本大震災 (死者、行方不明約2万人)江の島神社ー女の神大山神社 ー男の神石上神社は鴿沼石上町内会、皆さんの神です。」「明治十五年測量 神奈川縣下相模國高座郡鵠沼村(後 藤沢町大字鵠沼)」「「江の島」「江ノ島」正解どっち?表記の違いを記者が追う藤沢担当の記者として以前から気になっていた。江ノ島・江の島・江島。社名や観光施設、団体、様々な表記がある。地元生まれの記者に聞いても「地名は平仮名だけど、駅名はノだったような・・」と歯切れ悪い。別の記者は「サザンの歌詞では『江ノ島』でしたね」。なぜ表記が分かれるのか、夏の自由研究に挑んだ。【中面に関連記事】向かった先は炎天下の江の島。開始早々、島の入口、弁天橋で3つの表記が並ぶ標識を発見した。神社・駅・ヨットハーバー。それぞれどんなな使い分けをしているのか、早くも謎が深まる。汗を拭きつつ石段を昇り降りし島をぐるっと一周。一見、島内の看板には「江の島」が比較的多いが、やはり様々な表記が散見される。「表記が混在する大きな理由は、1966年に住所表記が変更されたことが理由のようです。ただ現在は『江の島』の表記に統一しています」。そう話すのは(公社)藤沢市観光協会の担当者。同担当によると、1962年の「住所表示に関する法律」の施行に伴いそれまでの「江之島」から「江の島」に変更。その後観光促進に向けてイメージを統一するため、69年に島で話し合いが持たれ、住所表示以外の表記も「江の島」にすることに決定。以後名称を使用する場合は江の島とするよう市外にも協力を呼ぶ掛けたという。地元商店からなる江ノ島観光会も江の島に名称変更。同協会では観光施設や書面などでは「江の島」表記に統一している。「ノ」でなく「の」が採用された正確な理由は不明だが、戦後教育でカタカナ表記よりひらがな表記が推奨されていたことも影響すると考えられている。島外にも足を運ぶと、66年以前から存在する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。「現在は「江の島」に統一されています。」「石上神社(諏訪神社藤澤)の分霊社」1955(昭和30)年頃、石上の渡し(上山本橋の付近)の北にあって、村民は大明神とたたえている。昭和9年に現在地(石上2-3)に移され町の守護神。「鵠沼鵠沼は天平時代(七三五年頃)には「高座郡土甘郷(たかくらごおりとがみごう)」(砥上)と呼ばれていました。又、この地に多くの「クグヒ」(白鳥古名)が飛来したことがこの地名の由来といわれ、平安時代(一一四四年頃)には「鵠沼郷(くくひぬまごう)」、江戸時代(一八四一年頃)には「鵠沼村(くくひぬまむら) 久々比奴末牟良と呼ばれていたのが訛って現在の「くげぬま」に成ったとされています。」「藤沢市保存樹木」案内。先程訪ねた「石上地蔵」、「大源太公園」、「江の島弁財天道標」案内。そして「石上神社735年頃(天平時代)当時境川沿いの砥上渡しの舟場の北に有り、守護神で有り村民は大明神と崇めた。」石碑が境内に並んでいた。右から「石上会館建設記念碑」、「土地寄贈記念碑」、「記念碑」。「石上会館建設記念碑此の会館は、藤沢市南部土地区画整理事業を機に、石上町内会員並に有志の寄付金により、石神神社及び鳥居と神輿の新造に併せて当地に建設した。」「記念碑」。碑の裏には「本町ノ守護神石上神ハ 従来町最南端低地ニ鎮座セラレシ 其ノ位置極メテ参詣ニ不便且ツ出水ノ都度社殿碑石共ニ浸水スルノ不敬ヲ憂慮シ 昭和九年八月七日部落ノ 中央現地ニ遷座安置シ奉ル依テ之ヲ永遠ニ記念スル為メ 建設委員一同自費ヲ投ジ茲ニ此ノ碑ヲ建設ス 昭和九年拾壱月弐拾日建之」移転の碑を建設したのが昭和九年。移転は明治29年。さらに、昭和52年、区画整理事業で現在地に移ったようだ。そして「時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)境内案内」👈リンク。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.23
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「リサイクルプラザ藤沢」を後にして、この日の最後の訪問場所の「亀井神社」に向かって県道403号線・菖蒲沢戸塚線を進む。「円行新橋」交差点の手前左側にあったのが「徳本上人名号供養塔」。「徳本上人は宝暦8(1758)年紀州で生まれ、文政元(1818)年に61歳で亡くなった念仏行者です。天明4 (1784)年に出家得度し、寛政10(1798)年、4 0歳のときに高野山に登ります。文化11(1814)年5 7歳のとき、京都を発ち増上寺住職典海大僧正の招きで関東に下向し、典海大僧正に出迎えを命じられた鸞洲和尚と藤沢で落ち合います。徳本上人は鸞洲和尚とともに、鎌倉光明寺・英勝寺を経由して、6月12日に江戸に到着し、伝通院内の清浄心院に入られました。・徳本上人名号供養塔(重頭角柱型)安政6 (1859)年7月15日 全高158cm 供養塔のある場所の隣地で旧円行571番地にある町内会館敷地は、昔、曹洞宗の青雲寺の跡地と いわれています。青雲寺は円行山と号し、亀井野村雲昌寺の末寺でした。本尊正観音で 開山浄清は本寺の住僧で正保元(1644)年に本寺を隠居寺として開創しました。 なお、亀井野の雲昌寺には青雲寺から持ち出された相模国準四国8 8ヶ所のうち、4 6番 弘法大師像が移動されています。 鏝頭形円頭 方柱型、塔身高1m、幅37.5㎝、厚35㎝ 銘(塔身正面)南無阿弥陀仏 徳本 花押 (塔身背面)維時 安政六舎己未之天七月十有五日造立(1859年) (台石向って 右面)世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村 (台石前面)講中 (台石向って左面)元世話人 石川村 下土棚村 下和田村 遠藤村 (台石背面)長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村 徳本上人の筆になる「南無阿弥陀仏」の名号碑」藤沢市湘南台3-17-17・旧円行字中丸 青雲寺跡。塔身正面:「南無阿弥陀仏 徳本 花押」と。台座:「講中」。台石向って 右面:世話人 亀井野村 七ッ木村 上土棚村 菖 蒲沢村 葛原村 用田村塔身背面:維時 安政六舎己未之天 七月十有五日造立(1859年)台石背面:長後村 中田村 深谷村 福田村 大庭村「徳本上人名号供養塔」の裏にあったのが「藤沢市消防団 第十七分団」。「円行新橋」交差点の先「カメラのキタムラ」の角にも小さな石碑があった。雑草の中に隠れるように。「南無妙法蓮華経 征清戦士忠魂供養塔」。日清戦争(一八九四~一八九五)の戦没者の供養塔。藤沢市湘南台3丁目18−1。「発起人 青木綱治郎」と。そしてこの日の最後に「亀井神社」に到着。藤沢市亀井野553-5(大字亀井野字不動上)。石鳥居手前の左側に社号標石「亀井神社」。境内を見る。亀井野の鎮守亀井神社の祭神は天迦具土神(あめのかぐつちのかみ)です。古くは源義経の家臣である亀井六郎重清により崇敬されました。天正18 (1590)の年に再建され、宝永の頃(1704ー11)この地を知行していた旗本岡部和泉守の崇敬が厚く社殿を改築しました。明治初期の神仏分離までは不動明王を本尊と祀る不動堂もありました。なお、神社周辺は旧小字「不動上」、「不動前」といわれていました。「御由緒」碑が見えた。「御由緒不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)。明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかぐつちのみこと、火の神様)當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。 平成五年六月之建」右手に社務所と御神木。「身代り不動尊」と両側には真っ赤な「幟」が並ぶ参道を見上げる参道、石段の上に社殿。手前右手に手水舎。龍の吐水口からは清水が。右手池のほとりのに石鳥居は「身代わり不動尊社」の石鳥居か?「玉垣奉賛者御芳名」碑。社殿を斜めから。扁額「亀井神社」。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。知っている方の父親の名前も。社殿の「唐破風」を見上げる。破風とは屋根の裏側に山形に取り付けられた板部およびその付属品の総称。唐破風は破風の一つで破風板の中央部を高く、左右両端に曲線状に反っているもの。主としては玄関、門、向拝などに取り付けられる。唐破風下は白鳥の懸魚であろうか。社殿、本殿を斜めから。「絵馬のいわれ絵馬は本來神の乗り物と考えられた生き馬の代わりに神前に捧げられたものです。のちに祈願文は願い事がかなったお礼として絵馬に画いた板額を奉納する風習が現在に残った物です。」奥にあった石碑。「大震災復興記念碑」。当地は震災当時は高座郡六会(むつあい)村字亀井野でした。1942年(昭和17年)に藤沢市に編入。六会村の死者数は15名でしたが、石碑の記載によると亀井野で14名が亡くなっており、六会村の死者のほとんどは亀井野が占めていたようです。「大震災復興記念碑噫(ああ)大正十ニ年九月一日午前十一時五十八分旻天(びんてん)何ノ□情ゾ此日此時有史未曾有ノ大震火災ニ遭遇ス 天地鳴動□震源地ハ伊豆大島ノ東方四十五里ノ海底ニシテ帝都ヲ囲む東京神奈川静岡千葉埼玉ノ一府四縣ニ及ビ其死者三十萬傷者百余萬家屋被害五十萬戸損害額実ニ一日十五億人類史上凄絶空前ノ大惨事タリ當時摂政デアラセラレタ今上陛下ニハ畏(かしこく)モ御内帑金(ごないどきん)一千萬円ヲ御下賜ニ相成リ山本新内閣を非常徴発令を布キ金九百三十億円ヲ救護費ニ宛テ戒厳令忙裡暴利取締令等三大緊急勅令ヲ布キ罹災民ヲ護セリ 當時亀井野ハ総戸数百八十戸全憒家屋百十三戸半憒家屋六十七戸死者十四名傷者百余名神社佛閣ヲ始メ殆ド全減ス 茲ニ於テ百七十四ノ氏子協力ニヨリ大正十四年十月神社再築ニ着手シ本殿奥行九尺間口九尺拝殿奥行ニ間間ロ三間其他鳥居石垣等総工費五千三百円ヲ以テ大正十五年四月落成ス 爾来辛苦粒々十有余年茲ニ漸ク復興ス 斯ノ苦シキ試線ハ人ヲ偉大ナラシメ大災ノ人生ニ與フル教訓ノ深甚測リ難キモノ存ス 是ヲ永久後世ニ傳フ昭和十年四月建之 長」「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」見事な唐破風下の懸魚の彫刻がここにも。角度を変えて。こちらの虹梁周辺の彫刻も見事。扁額「不動明王」。境内の池を見下ろす。不動明王と六地蔵尊。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「身代わり不動尊社」の石鳥居を振り返る。そして、この日の行程を全て完了し、ここ「亀井神社」で解散したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.20
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発泡スチロールの箱が並ぶ。軽くて保温性や保冷性に優れる発泡スチロールは、体積の大半が空気である省資源な素材。安価でクッション性、耐水性が高く、加工が容易で、強度があるといった特徴がある。そのため肉や魚などの食品トレー、食品の輸送箱、家電やOA機器の緩衝材から建築資材といった様々な用途に使用されている。そして、発泡スチロールは合成樹脂の一種であるプラスチック加工品のため、リサイクルして再びプラスチック製品として使用することが可能。発泡スチロール減容機にて火や溶剤を用いることなく、搭載された熱源によって発泡スチロールを溶かし元の容積を減らします。炎や溶剤を使わずに発泡スチロールを溶解するので、不完全燃焼した際の一酸化炭素や溶剤から発生する有害なガスが発生しないので安全に発泡スチロールを溶かすことができます。また、高温の熱処理や溶剤などで発泡スチロールを溶解すると熱・溶剤による劣化のためにリサイクルしにくくなりますが、発砲スチロール減容機であればそういった劣化がほとんどないのでリサイクル利用することが可能になります。「爆発火災事故が発生しています!」 家庭用小型ガスボンベは「穴を開けられたら」➡カンの収集日に 「穴が開けられなかったら」➡「プラ・油・特定品目」の収集日に様々な「乾電池」が並ぶ。特定処理品目の収集日に透明・半透明袋に入れてお出しください。「使用済み小型充電式電池の再資源化行程」&「小型充電式電池のリサイクル」説明ボード。充電式・ボタン式、小型充電式の電池はプラス極とマイナス極の金属部分に、それぞれセロハンテープ等で絶縁してください。「ニッケル水素電池」、「リチウムイオン電池」。ニッケル&リチウムイオン電池等の電池類を不燃ごみなどで収集してしまうと、ごみ収集車やごみ処理施設で火災や爆発が発生するおそれがあります。絶対に他のごみと一緒に捨てることはせず、決められた方法で廃棄してください。これは?屋上緑化の植物を片付けたものか?屋上に出る。「太陽光採光システム Himawari」。太陽光採光システム「ひまわり」は3つの仕組みから構成されています。屋外に設置した集光機で太陽の光を集め専用の石英ガラス製光ファイバケーブルを使って照射希望の場所まで運び、専用の照射器具から太陽の光を照射するシステムです。日の出から日の入まで太陽を自動追尾しますので、天窓や鏡を利用するシステムのように部屋の位置や窓の方位、太陽高度による影響がなく、一日中安定した採光が可能になります。「Himawari ひまわり」集光機の機能。近づいて。「太陽光採光システム ひまわり」仕様。こちらは風力発電装置。屋上から遠く南方向にもう一つの「石名坂環境事業所」の焼却炉の煙突が見えたのでズームして。市内駒寄小学校の4年生が、見学後にゴミ収集車・パッカー車のボディにお礼を書いたものが展示されていた。「藤沢市のごみ関連施設」案内。「現在のプラットホームの様子」が大型ディスプレイに映し出されていた。「①プラットホーム収集車で集めらられた資源やごみは、計量機で重さを量った後、プラットホーム内の種類ごとに決められたヤード(一時保管場所)に運び込まれます。」「プラットホーム」を窓越しに見下ろす。説明くださった方もユーモアを交えて。重機にてゴミを移動している作業員の姿も。入口前の駐車場を見る。様々な「表彰状」が掲げられていた。手選別ラインの紹介パネルは手書きにて。「プラスチック製容器包装破袋機」にてビニール袋を破り、手選別ラインで異物、未破袋品不燃ごみ等を手選別していると。「手選別」の作業員の方々。紹介ビデオコーナー。屋上に設置されたの太陽光パネルを窓越しに見る。別の場所から。そして「中央操作室」を窓越しに。手書きの設備フローシート。ゴミピットのゴミクレーンの運転員の姿。「太陽光発電装置廃棄物処理施設には、太陽光発電装置としてソーラーパネルが3基設置されています。屋上緑化屋上緑化として、乾燥に強い多肉植物のセダム(メキシコマンネングサ)を使用し、建物に直射日があたるのを防き、建物全体の温度を卞げる効果があリます。」「スチール缶磁選機」。「スチール缶磁選機異物を取リ除かれた缶は、コンべアてスチール缶磁選機に運はれてきます。スチール缶磁選機では磁石のカてスチール缶を吸い付けることて選別し、スチール缶だけを効率よく回収しています。」「サイクロン」と「バグフィルター」。ちりやほこりを空気から吸い込み、きれいな空気にしてから排出する装置。ペットボトル、プラスチック製容器包装も作業員の手によって異物を取り除いていた。多くの人の手によって、ごみが処理されていくことを実感!!藤沢市ではペットボトルのキャップ・ラベルは剥がし、プラスチック製容器包装に出すことになっているが、そのまま出している人が多いのだと。瓶の出し方中身を出して水で軽くゆすいでください。ビンの中に異物を入れないでください。栓・キャップ・ふたは不燃ごみへ出してください。手選別したものが箱別に。手選別は重労働であることを実感したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.19
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「円行公園」を後にして、高倉遠藤線に合流し「上河内」交差点を左折して藤沢北警察署方面に歩く。「藤沢北警察署」前を通過。左手に「いすゞロジスティクス(株)藤沢物流センター」。入口。日本最古の自動車メーカー「いすゞ自動車」グループの物流会社として、 自動車部品の国内外からの調達から、工場への納入、完成車両やノックダウン部品の出荷・輸出・納車、アフターサービス部品のお届けまで、サプライチェーンの物流をトータルに担う会社。反対側・右手には「いすゞ自動車藤沢工場」の「第4工場」。そして「円行」交差点の先に、「協同組合藤沢市建設資源リサイクルセンター」が姿を現した。アスファルトコンクリート、セメントコンクリート(無筋・有筋)、コンクリート2次製品、自然石(大谷石・鎌倉石を含む)、路盤廃材、砂質廃材を再生処理をし、用途に応じた品質規格の再生砕石へ再資源処理しているのだ。さらに信号をわたり直進。右手にあったのが「藤沢市 北部環境事業所」。可燃ごみの焼却処理、不燃ごみ及び大型ごみの破砕処理、し尿の処理及び汚泥の処分を行っている事業所。2023年3月31日に同施設「藤沢市北部環境事業所新2号炉」の建設工事が完了し、同年4月より20年間の運営事業を開始したのであった。現在、我が家の可燃ごみ、不燃ごみは4月からここに運ばれ処理されているのである。そして次の目的場所の「リサイクルプラザ藤沢」に到着。神奈川県藤沢市桐原町23番1。「リサイクルプラザ藤沢 廃棄物処理施設」は、不燃ごみや不燃系大型ごみの破砕処理、ビン・缶・ペットボトルなどの再資源化処理を行う施設。最初に「湘南台地区の発展」の説明が館内に入る前に行われた。そして「リサイクルプラザ藤沢」の案内が。・リサイクルプラザ藤沢・環境啓発施設は、「環境にやさしい行動・くらし」について、 見たり、聞いたり、具体的に体験しながら学べる施設です。3R(リデュース・リユース・ リサイクル)の取り組みや再生可能エネルギーの活用、地球温暖化防止などについて、 楽しく学ぶことができます。・太陽光発電、風力発電、屋上緑化・壁面緑化など、省エネルギー型の設備を導入しており、 建物自体がエコに関する展示となっています。・施設内の「市民体験教室」では、古紙を使った紙すき・廃ビンを使ったガラス細工など、 リサイクル等に関する体験型ワークショップ(申込制)や、おもちゃ病院などの催しを 随時開催しています。・併設する廃棄物処理施設の見学コースでは、不燃ごみや大型ごみ、資源を処理する様子を、 自由に見学することもできます。そして館内に。「リサイクルプラザの発電量と消費電力をみてみよう」「リサイクルプラザ藤沢」の「鳥瞰図模型・CGパース」。斜めから。「リサイクルプラザの風力発電量の平均は? 3Wだよ」「私たちができること--うちエコ!アクション①--現在、国民1人あたりが家庭から排出する二酸化炭素は1日平均で約6kg、自分にできることからひとつひとつ、取組を積み重ねて二酸化炭素の排出量を減らしましょう」「私たちができること--エコドライブをしよう--車は発進する時に多くの燃料を消費します。普通の発進より少し緩やかに発進するだけで燃費が10 %程度改善をします.やさしいアクセル操作は安全運転にもつながります。時間に余裕を持ってゆったりした気分て運転しましょう。この他にもできることをやってみよう・加速度の少ない運転をしよう 車間距離は余裕をもって交通状況に応じた安全な定速走行に努めましょう。・道路交通情報を活用しよう 出かける前に計画・準備をして、渋滞や道路障害等の情報をチェック。・駐車場所に注意しよう 渋滞などをまねくことから、違法駐車はやめましよう。・アイドリングストップは5秒以上! 工ンジンを始動するときに心要な燃料はアイドリング約5秒分。5秒以上のアイドリング ストップをすれば省エネになります。「私たちができること--自然を感じる家へ--心地よく暮らせて省エネもできる。そんな贅沢な住まいを作る。そのヒントは昔から日本の風土に根づいてきた、風に親しみ光を感じる暮らし。ムリに何かを削るのではなく、自然の持つ力を最大限に生かす工夫を加えてもっと豊かに住みこなしていく。人に心地よく、地球にもやさしい「エコ・リュクス」なアイディアをわが家にもぜひ採り入れてみよう。」「病気やケガ」の野生の鳥との関わりかた」。「ふじさわECOかるた」。「ふじさわECOかるたで遊ぼう♪藤沢市では、COOL CHOICE(クールチョイス)の取り組みを遊びながら楽しく学べる「ふじさわECO(工コ)かるた」を作成しました。子どもから大人まで幅広く楽しんでいただける内容となっています。COOL BIZ (クールビズ)やWARM BIZ (ウォームビズ)、省エネ機器への買い替えなど、さまざまなエコについてふじキュン♡と一緒に学ぶことができます。」緑色の空き瓶でクリスマスツリー?「選別するもの」。「強力な磁石でスチール缶を選別する機械」スチール缶が磁石で移動しやすいように缶ビール等の空き缶は潰さずに出してほしいと。多くの潰された空き缶が下部に。分離されたスチール缶は「スチール缶プレス機」で圧縮される。スチール缶のリサイクル率は92.9%(2015年度)で、資源ごみでトップクラスのリサイクル率。「アルミ缶プレス機」。アルミ缶のリサイクル率は90.1%(2015年度)、そのうち6~7割がアルミ缶に再利用されている。原料のボーキサイトからアルミ缶を作るには、たくさんの電気を使うんだ。アルミf缶をリサイクルすれば、元の3 %の電気で缶を作ることができ、アルミ缶1缶で液晶テレビがが2 ~ 3時間見られる電気が節約できる と。これは何であっただろうか?横型ハンマーミルか?アルミ缶にはPETボトルやスチール缶、ビニールなどの異物が 混入されていることがあるため、圧縮されたものを改めて バラしてからそれらの異物を手選別する。 さらに、缶についている塗料やコーテイングをキルンで加熱して 除去。それを、回転するハンマーで叩いて、一定の大きさの 粒状、比重に整えて、フレコンに入れて出来上がりとのこと。「回転するハンマー」の使用前、使用後の姿。懐かしき昭和時代の居間の姿が。「ペットボトルの商品化の流れ」。「梱包品フィルム包装機」と「ペットボトル圧縮梱包品」。「ペットボトル圧縮梱包品」。「ペットボトルのメカニカルリサイクルフロー」。「PETボトル再商品化の流れ」。瓶(ビン)のリサイクルコーナー。様々な「リターナブルびん」。返却、詰め替えをすることによって、何度も使用できるガラス容器。店や市町村から回収されたリターナブルびんは、洗びん工場できれいに洗浄され、びん詰め工場で再び中身を詰めて、再使用(リユース)されているのだ。「選別品」白、黒、緑、茶の4種類に選別回収。「地球によく効く「3R」のびん詰びんの3Rにより、天然資源やエネルギーの使用量が節約でき、ごみやCO2の排出量を減らすことができます。リデュース Reduce びんの厚みを薄くしてダイエットします。リユース Reuse 使用後は洗って繰り返し使います。リサイクル Recycle 使用後に砕いて資源にします。」「ガラス瓶の主な原料」。「廃食用油」のリサイクルコーナー。回収された廃食用油は精製して触媒などを混じって、バイオディーゼル(BDF)を製造・燃料としてリサイクルされている。2023年度から使用済み食用油を回収する区市町村1自治体につき200万円まで補助する。回収した油はジェット燃料の代替となる再生航空燃料(SAF)の原料としての活用する と。リサイクルできない瓶を手選別。「古着類」のリサイクルコーナー。リサイクルできないプラスチック類も大量に。リサイクルできない種類のダンボールも大量に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.18
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「円行公園」に着く前に本来訪ねる予定であったが、時間不足で訪ねることが出来なかった「円行八幡宮」に翌日訪ねたので、ここにアップする。写真の一部は以前に訪ねた時のものも含んでいます。藤沢市 湘南台3丁目10−5。「社殿」ここ円行八幡宮の、藤沢駅近くにある鵠沼皇大神宮の兼務社になっているのだ と。「八幡宮(ハチマングウ)祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)と素戔嗚命(すさのおのみこと)が合祀されており例祭は九月十四日です。慶長十九年(一六一四)桐ヶ谷大膳及び全村が一致して円行東南の地字芳荒に再建しましたが、その後、天明年間の水害にあい、青木伊右衛門氏の畑地を買請け現在地に造営したものです。毎年秋の例祭には神輿渡御が行われます。」「円行八幡宮 改築寄進者御芳名」碑。「大東亜戦争戦没者慰霊碑」。この地区から出征して、戦死した方々の名と戦没地・日付が刻まれているのであった。「御神木」。「御神木 クロガネモチ」。秋になると、赤い実を付けますが、この時期には小さな花が咲きます。これがミツバチにとってはこの時期の大好きな蜜源となります。十三重石塔。廻り込んで。「絵馬掛け」。左右非対称の屋根。♡が中央に。左手に「手水舎」。龍の吐水口(とすいこう)に近づいて。横から。「社務所」&「神輿殿」。狛犬(右)。狛犬(左)。正面に「社殿」。唐破風の下の懸魚の彫刻。ズームして。さらに。鳳凰の姿か?その奥の彫刻。下部の彫刻をズームして。上部の彫刻をズームして。木鼻の彫刻(右)。木鼻の彫刻(左)。黄金色に縁取られた扁額。「八幡宮」。「脇障子」の彫刻(右)。裏側は!!「脇障子」の彫刻(左)。「境内社」の「豊川荼枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」。近づいて。昔、順徳天皇第三皇太子である寒巖禅師(かんがんせんじ)が感得された、霊験あらたかな仏法守護の善神です。 豊川荼枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っておられることからいつしか「豐川稲荷」が通称として広まり、現在に至っている と。社殿に向かって左側にあった庚申塔、「軍人戦死碑」。「軍人戦死碑」。「明治十三年?二月建 相州高座郡圓行村」と。 その左隣には、庚申塔が埋め込まれた台座のようなものが!その左隣にも、2基の石碑が並んでいた。「庚申塔」。「庚申塔」。社殿の横から海老虹梁を見る。右側から。左から。柱下部・段木端部の装飾。社殿の四方柱上部の彫刻。中間の柱上部にも。ズームして。賽銭箱の社紋は「左三つ巴紋」。「本年度例大祭宵宮 九月九日 午後五時より式典 九月十日 午前十時 斎行渡御 修祓 午前 十一時 宮出し(雨天決行)」七五三祈願祭日時十一月 十二日十二時より斎行」石鳥居と手水舎を振り返る。そして社殿を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.17
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「今田鯖神社」を後にして、向かいの神奈川県立境川遊水地公園内にあった「今田監理センター」を訪ねた。ここがこの日の昼食会場。昼食は各自持参。ここ、今田管理センター学習室は、境川流域等の河川環境の向上、境川遊水地公園の利用促進、総合学習および生 涯学習、地域におけるコミュニティーづくり及び地域文化の振興に資するために利用する、地域の自治会、文化サークル及び河川環境の向上に資する活動等を行う団体等が利用できるとのこと。内部には既に七夕飾りが置かれていた。「今田遊水池」に飛来する「オオバン」の姿であろうか。管理センター内に展示されていたパネルを追う。「境川遊水地公園の位置神奈川県立境川遊水地公園は、横浜市戸塚区、泉区、藤沢市の境に位置する、広さ26.1ha(東京ドーム約6個分)の都市公園です。河口からおよそ12kmに位置しており俣野・下飯田・今田の3つの遊水地部分とそれらの上部空間よって構成されています。境川下流部の洪水被害を軽減させるための遊水地を平常時には公園として有効利用し、河川事業と連携して整備を行っています。公園内は境川の水辺空間を活かし、様々な生き物が生息できるビオトープが整備され、一年を通じてさまざまな生物の観察や水辺の風景を楽しむことができます。また、少年野球場、多目的グラウンド、テニスコートなどレクリエーションの場も提供しています。」と。【境川について】県北部の城山湖付近を源として、都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ二級河川です。流路延長:約52km流域面積:約211km2流域市:相模原市、町田市、大和市、横浜市、鎌倉市、藤沢市の6市。【藤沢大和自転車道】引地川及ひ境川に沿って北上し、主に河川敷を利用しながら大和市下鶴間に至る自転車道です。距離: 24.5km時間:約2時間30分最大標高差: 66m始点・終点:大和市国道246号~引地川河口【境川遊水地公園】河口からおよそ12kmに位置しており俣野・下飯田・今田の3つの遊水地部分とそれらの上部空間よって構成されています。名称:県立境川遊水地公園開園面積:約18ha公園種別:総合公園開園:平成19年年間来園者数:約24.5千人(平成24年度)「境川の洪水境川流域は市街化が進み、雨水を地中にしみ込ませたり、貯めたりする機能が低くなってきました。そのため水害が起こる危険が高まっています。境川流域では、これまでも台風や集中豪雨による洪水の被害がありました。」近年の主な洪水被害。「遊水地の役割大雨が降ると、雨水が短時間に多量に河川に流れ込みます。このため、遊水地をつくり、その中に洪水を-時的に貯めることで下流に洪水が一気に流れ出すことを防いでいます」「境川の遊水地の概要境川遊水地は3つの遊水池があって、合わせると約30haの広さがあり、約90m3 /秒の洪水調節を行ないます。平成2年度から事業に着手しました。」遊水池配置。「境川遊水地の効果」境川境川遊水地(俣野・下飯田・今田)の効果(平成30年3月豪雨)◯平成30年3月9日の豪雨では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所において、 時間最大雨量が48mm、連続量213mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約890,000m3を貯留しました。(小学校25mプール 約2,400杯分に相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約114cmの水位を低減させる効果があったものと 推測されます。境川 境川遊水地(俣野、下飯田、今田の効果(令和元年10月 台風19号)◯令和元年10月の台風19号に伴う降雨では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所及び 泉消防署雨量観測所において、時間最大雨量が32mm、相模大野観測所において、連続雨量 323mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約960,000m3を貯留しました。(小学校25mプール約2560杯分に 相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約24cmの水位を低減させる効果があったものと推測されます。境川 境川遊水地(俣野、下飯田、今田)の効果(令和3年9月 台風14号)◯令和3年9月の台風14号では、境川流域に設定された相模大野雨量観測所において、時間最大 雨量が62mm、連続雨量213mmを観測しました。◯今回の降雨による洪水では、約653,000m3を貯留しました。(小学校25mプール約1741杯分に 相当)◯遊水地下流の大清水橋地点では、約136cmの水位を低減させる効果があったものと 推測されます。大雨が降ると、3遊水地のうち最も上流にある今田遊水地から水門を閉め、水を貯め始めます。川の水は越流堤から流れ込み、施設全体に水が入ります。雨が止み、川の水位が下がってから貯まった水を放流します。今田遊水地に水を貯める事で下飯田・俣野遊水地への流入が軽減しています。「境川遊水地の鳥」「境川遊水地周辺の魚」アユも紹介されていた。「境川湧水地の植物」そして管理センター内の緑地のベンチで購入しておいたシュウマイ弁当で昼食を楽しんだ。「今田管理センター」前の配置図。ベンチから「芝生広場」を見る。ここが、1次遊水地(ビオトープ)の溢流水の2次遊水地となる。2次遊水地の「芝生広場」の奥に、左に大きくカーブする「横浜市営地下鉄ブルーライン」の高架橋。その奥が「相鉄いずみの線」。そして昼食を済ませ、次に訪ねたのが、「湘南台公園」の北側の住宅地の間にあった石造物群。藤沢市湘南台7-2-13(大字今田字西原)。正面から。入口の左側にあった「地蔵菩薩立像 亨保2(1717)年6月 122cm」。その先にあった三基の「庚申供養塔」。右側:庚申供養塔(尖塔角柱型)、明和元(1764)年11月 124cm左側面には人名が。右側面。高座郡今田村、三名の名前が刻まれていた。中央:庚申供養塔(尖塔角柱型)、天保12(1841)年11月 124cm 南 藤澤道(右側)、北 八王寺道(左側)道標付き北 八王寺道(左側)南 藤澤道(右側)左側:庚申供養塔(重頭角柱塔)、文政13(1830)3月 97cm「庚申供養塔」、「文政十三年」、「寅三月」の文字が刻まれていた。「国道467号」に出て「湘南台文化センター 市民シアター」を見る。湘南台文化センターの象徴とも言える巨大な地球儀。その中にあるのが、この広大なドームスクリーンを有する宇宙劇場。その直径はなんと20メートル。傾斜した床には全160席の全てのお客様が楽しめるように座席が配置されているのだ。そして、次に「円行公園」に向かって湘南台275号線を進むと、カーブ右手にも石碑群があった。藤沢市湘南台3-1-12(大字円行字東谷)。右側に「石廟」と「五輪塔」が。「五輪塔」の残欠集石、52cm高とのこと。「石廟」は切妻・流造で68cm高と。「堅牢地神塔」:文久3(1863)年8月 97cm堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教の「地天」に由来する。天部の神々の中で梵天が天を象徴するのに対し、地天は地を象徴する神とされる。日本の民間信仰では地を堅固に守る神との考えから農村の守護神として信仰されたのだ。右側面に「癸文久三年(1863) 亥八月社日」と。台座には「圓行村」と。左側面には「右婦ち澤(藤澤)道、左八王子みち」と刻まれていた。手前は双体道祖神塔:宝暦12(1762)1月 58cm後ろは庚申橋供養石塔:宝暦5(1755)年3月 76cmそして「円行公園」に到着。藤沢市湘南台3丁目3−6。「湘南台駅から引地川に向かって坂道を下りていくと、緑豊かな円行公園がみえてきます。遊び場としての要素だけでなく、斜面地形を利用した竹林、梅を楽しめる庭園的要素を取り入れたこの公園は、引地川沿いの桜並木と共に、季節に彩りを添えています。」とネットから。「竹林」の中を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ そして今日は私の【♡73歳お誕生日おめでとう♡いつも、見守っていてくれてありがとう。これからも、元気で長生きしてね!!また一緒にお風呂にはいろうね♪大好き!じいじ~♪♪♪】と。
2023.07.16
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「下和泉鯖神社」を後にして、「和泉川」沿いの水田地帯を進む。珍しい色彩のアジサイの花。「ハルシャギク(波斯菊)」であっただろうか。キク科ハルシャギク属の一年草。空き地や道端などに生える雑草であるが。和名の由来となっている「ハルシャ(波斯)」はペルシャのこと。別名はジャノメソウ(蛇目草)。花期は春〜この時期・初夏。花の色は、中心が濃紅色で、周辺は黄色の蛇の目模様であり、別名のジャノメソウ(蛇目草)の由来となっている。花は外側が黄色で、真ん中が濃紅色となっており、上記の如く「蛇の目模様」を連想させます。そもそも「蛇の目模様」とは、大小2つの太い輪からなる模様のことを指します。その名の通り、蛇の目に似ていることに由来しており、おちょこだけでなくさまざまなものにデザインされている。昔の番傘などにもよく用いられた模様であり、通称「蛇の目傘」と呼ばれていたのだ。花色は変化が大きく、黄色と赤茶色の部分の割合は株によってずいぶん異なり、どちらか一色だけになってしまったものもたまに見られます。また八重咲きになることもあるとのこと。「境川遊水地公園テニスコート」が左下に。神奈川県横浜市泉区下飯田町664。「神奈川県立境川遊水地公園」内にある「鷺舞橋(さぎまいばし)」が見えて来た。「境川遊水地公園テニスコート」の先に「横浜薬科大学」の「図書館棟」を見る。「図書館棟」をズームして。「境川」に架かる「鷺舞橋」を渡る。「鷺舞橋」。「境川」の下流側を見る。前回訪ねた「境川遊水池情報センター」の姿が確認できた。「境川遊水池情報センター」をズームして。「鷺舞橋」。「境川遊水地公園」のシンボルとなる国内初の片面吊り曲線吊橋の設計デザイン。2008年12月に開通。自転車・歩行者用の橋。吊橋が片側だけで斜めになっているのが特徴で印象強い。周りは散歩やランニング、サイクリングされている方が多いのであった。国内初の片面吊り形式の曲線吊り橋となる橋長129mのPC(Prestressed Concrete)2径間連続吊り橋。橋脚から斜め外側に鋼製主塔を構築し、頂上から橋台部のアンカーに向けて張ったケーブルで桁を吊っている。ドイツのヨルグ・シュライヒ博士が考案した一面吊り曲線吊り橋の考え方を参考にしたのだと。平成21年度PC技術協会賞受賞作品 と。橋の片側だけをワイヤーロープで釣る世界的にもめずらしい橋。歩行者専用というのがもったいない!!実際にこの地区は白鷺などが飛来するところでもあり、この橋の設計が、鷺が羽を広げて飛び立つ姿に似ていることから「鷺舞橋」と名付けられた と。そして「境川」に架かる「今飯橋」を渡り、次の目的地の「今田鯖神社」に向かって「下根広町線」を西に進む。「県立境川遊水地公園」案内板。案内に従い、右折して進むと右手にあったのが「県立境川遊水地公園」の入口。「県立境川遊水地公園」。「県立境川遊水地公園」案内板。「県立境川遊水地公園」は、境川遊水地の上部空間を県立公園として整備したもので、平成16年(2004)度に事業着手し、令和元年(2019)7月に全面開園した。公園内には、境川の自然豊かな水辺空間を活かし、様々な生きものが生息できるビオトープがあり、環境学習などが体験できる場を提供している。また、レクリエーションの場として、少年野球場、多目的グラウンド、テニスコートの有料施設と、噴水広場や芝生広場などの施設がある。境川遊水地では、上部空間を県立公園として有効利用するため、池の中に中央越流堤を設置し、「ビオトープなどの自然創出ゾーン(一次池)」と「多目的利用ができる広場ゾーン(二次池)」にエリアを分離しているのであった。民家のフェンスには「木イチゴ」が。近づいて。黄色の「ハイビスカス」の花。近づいて。そして前方に「今田鯖神社」の石鳥居が姿を現した。神奈川県藤沢市湘南台7丁目201。「石鳥居」明神鳥居。昭和35年8月杉山憲氏奉納 と。扁額「鯖神社」。「今田鯖神社掲示板」には多くの「今田鯖神社」関連の資料が掲示されていた。平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。ネットから。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鯖神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下諏訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしょう。しかし、そもそもどういういわれで鯖神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」と。「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。美浜町野間法山寺 源義朝公之像をネットから。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」「お神札(ふだ) それはお家(うち) の感謝する時、願う時自然と手のひらをあわせるように私達は祈りのある暮らしの中に生きています。お家(うち) にも、祈りの場としてまずお伊勢さまと氏神さまをおまつりください。」境内参道を進む。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。その先にも石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納。石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納。「鯖神社 由来」。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 当地住人井上瀬兵衛により造立される。祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」。「神楽殿」・大正8年建築 と「社務所」。社務所は平成15年7月改築、神楽殿に増築。正面に「社殿」。祭神:源義朝公。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。左手に「手水鉢(漱水盥・そうすいかん)」。嘉永4年(1851)10月奉納。平成18年9月台座新設。その横に4基の石碑がならぶ。左から用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「道路改修記念」碑。昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「鯖神社 新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年(1702)の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年(1995)八月十一日の放火により、昭和八年(1933)建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年(1997)三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三(2001)年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(2006)十月吉日 氏子中」「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。裏側には「序文昭和八年に新築された社殿の六十余年に亘る歴史が平成七年八月惜しくも無宿人の火気の不始末が原因で全焼するに至った幸にも源義朝公の御神体が無事に搬出された爲有志による試験委員会を設立し計画を進めた結果数多くの人達の心温かい 御支援と再建委員各位の御努力により二年余を経て再建を果たした昭和四十年初めより藤沢市北部開発事業が進み三十余戸の地域の戸数や人口が急激に増加したが当地に居を構えた方をはじめ 関係在る方々がこぞって再建に御協力頂いた事は大変喜ばしい事です 戦後の混乱から高度成長期を経て生活環境が備わった 反面環境破壊やゴミ対策更には人の心のあり方が問題化して来た 今後益々環境の悪化が見込まれ百年先の状況を想像する事は 困難であるが人々が当神社を地域の護り神として敬愛し豊かな心を持ち続け健康で明るい地域を持続する爲にも鯖神社の存在が 大きな役割を果たすことを期待すると同時に末永く存続する様祈るものである 平成九年十月吉日 再建委員長 井上保次謹書」社殿の右側にあった「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。社殿に向かって左側にあった「荒神様」。元禄5年(1963)9月作井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「三面六臂荒神石像」。「鯖神社」の「社殿」を手前から。扁額「鯖神社」。「軒唐破風」。「内陣」。「本殿」を斜めから。社殿の裏には小さな「五輪塔」が反対側にも小さな「宝篋印塔残欠」。「本殿」の屋根。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作令和五年・癸卯(みずのとう)絵馬」そして社殿を振り返る。参道の坂道を下って行った。再び振り返って。右手に「神楽殿」・大正8年建築。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.15
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「下飯田佐馬神社」を後にして、再び「ゆめがおか駅」方向に戻る。横浜市の雨水用マンホール蓋は「横浜ベイブリッジ」のデザイン。相鉄いずみの線「ゆめが丘」駅東口~横浜市営地下鉄ブルーライン「下飯田」駅北口の再開発・大規模商業施設建設現場を見る。地下鉄 下飯田駅方向に向かって進む。地下鉄 下飯田駅前を通過。「和泉川」に沿って歩く。「草木橋」を渡る。「草木橋」。「和泉川」の下流側・ビオトープを見る。ビオトープは、動物や植物が安定して生活できる生息空間(生物生息空間)のこと。ドイツで生まれた概念で、「bio(命)」と「topos(場所)」というギリシア語を組み合わせた造語だ。川やアマゾンの雨林などの大きな空間から、池や小鉢などの小さな空間まで、魚や虫、多様な微生物が住まうところはビオトープと呼ばれる。「和泉川」。「和泉川・ビオトープ」を右に見ながら下流方向に進む。次に訪ねたのが「四ツ谷湧水」。和泉川側道沿いに、案内の標柱も設置されていた。「四ツ谷湧水」の流れに沿って遡る。ここが「湧水」の現場。近づいて。泉区は地下水脈に恵まれ、湧水の数は市内有数であると。四ツ谷湧水は、和泉川の下流、中和泉から下和泉にかかる辺りの一段高くなっている畑の下のくぼみにあり、にじみ出るように水が湧いていた。ほとんど枯れたことがないといわれる湧水であると。和泉川の下流域、中和泉から下和泉に広がる一段高くなった畑の下に水の湧(わ)き出るくぼみがある。長年、畑の水遣(みずや)りに使われてきたが、最近は区の花・アヤメも植えられるなどきれいに整備され、澄んだ水溜(みずたま)りにはオタマジャクシやザリガニの姿も。「四ッ谷湧水」石柱。アジサイの花。そして「和泉川」に沿って南に進むと、「和泉川」の右岸に「稲荷神社」があった。神奈川県横浜市泉区和泉町1032。前方に「赤坂橋」。「赤坂橋」の下を通過。ブルーベリーの苗の栽培であっただろうか?そしてこちらはユーカリの苗。「環状4号線」の地下道の壁には富士見ヶ丘連合一同の絵画が描かれていた。見事な白のアジサイの花。「鍋屋」交差点を渡る。次の目的地の「下和泉鯖神社」に向かって進む。左手にあった長い石段が「密蔵院」👈リンク への参道。途中左手を見上げると、参道の途中を「環状4号線」が横切っているのである。そして「下和泉鯖神社」に到着。神奈川県横浜市泉区和泉町705。一の鳥居を潜り、石段を上って行った。正面に「社殿」。扁額は「鯖大明神」。「下和泉 鯖神社祭神は 贈従二位大将軍佐馬頭源満仲 甲冑帯剣乗竜馬神勧進社は官名をとりたて左馬神社と言う後に国制改革により鯖神社に改名する 相模の国に左馬神社七社ありこれを相模七左馬と言う他の六社同様に古い歴史を有し建立期は慶長年間【西暦一五九六~】で四〇〇年以上経ています社殿に掲示されている【鯖大明神】の額は 天保七年五月に 時の神祇管領卜部朝臣良長が参向の際に奉納したもので 昔からかなり格式の高い神社であった事が分かります。例大祭は毎年九月九日 近年では前後の土日に催行しています。参考文献 泉区の歴史」社殿の内陣。「本殿」を斜めから。その脇の奥にあったのが「境内社」。近づいて。「境内社」の社殿。「下和泉 鯖神社」の奥にあっ民家の墓地。反対側からも「本殿」を見る。説明員の方の話を聞く旅友。社殿前から境内を見る。石灯籠。石灯籠のデザインもいろいろで、神様の使いでもある「鹿(シカ)」がデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.14
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そして「左馬神社」の「一の鳥居」前に。「鯖社境内払下記念碑」。背面には次の如く刻まれていた。「当神社境内地ハ官有地ナリシガ昭和二十二年五月三日布告ノ新憲法ニ依リ当神社払下ヲ受ケ之ガ申請ニ際シ実地測量セシ○旧来ヨリ二間巾ノ参道ヲ三間巾ニ拡張スルニ当リ小菅一雄氏ヨリ地所約四十坪奉納セラル之ニ依リ昭和二十五年一月二十五日付払下許可ヲ受領シ之ヲ永遠ニ記念ス 昭和二十五年四月十八日 氏子中」参道の左側には「下飯田会館」。「二の鳥居」に向かって参道を進む。「二の鳥居」手前の左側には石碑が並んでいた。「供養塔」と「不動明王」。近づいて。「供養塔」。「不動明王」。その左にも石碑が並んでいた。「馬頭観世音」碑。「庚申塔」群。石造りの「二の鳥居」。扁額は「左馬神社」。「奉納大鳥居特志寄附者 小菅長作昭和五十三年七月三十日石工 浅見勝三」。前方に「社殿」。境内の樹叢は神奈川県の風致保安林に指定されており、中でも横浜市の名木古木にも指定されている大イチョウは自然と畏怖の念を覚える迫力があるのであった。「左馬神社 氏子中参道改修記念昭和五十七年十二月吉日」「石灯籠」。ユニークな形状。載っているだけ??「社殿」創建は平安末期とも小田原北条時代とも伝えられ、以前は「鯖神社」と表記されたと。石橋山・富士川の合戦の働きを源頼朝に激賞された飯田五郎家義(飯田三郎家能と同一人物とも)が創建したとも伝えられる。【開創時期は社伝によれば、鎌倉時代初期との伝承を残しているが不明です。文禄年中(1592~95)に境川辺の僧が勧請し、現在地に移って東泉寺持として受け継がれたのではないかと見られます(川戸清氏説)。東泉寺は巨木山と号し、曹洞宗の植木村龍峰寺の末寺でした。下飯田村の鎮守です。】とこの日に頂いた資料から。この付近には「鯖神社」、「左馬神社」、「佐婆神社」といろいろとあるのであった。神奈川県横浜市泉区 下飯田町1389。近づいて。祭神は左馬頭源義朝で、平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも、小田原北条時代に領主川上藤兵衛が勧請したとも言われています。天正18年(1590)に領主となった筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は地域の鎮守さまとして信仰し、社殿を修復しました。境内のイチョウは市指定の名木古木です。他に堅牢地神塔(けんろうじじんとう)・庚申塔などがあった。さらに。扁額は「左馬神社」。内陣。社殿の右側奥に「境内社」。朱の色の祠は、「筧(かけい)稲荷社」。平成二十八年に社殿修復された。「筧稲荷社」に向って右手に堅牢地神塔、青面金剛が形取られた庚申塔(寛延二年(1749))があった。ここにも石碑が。「堅牢地神塔」と六手・合掌型の「青面金剛像」。持ち物は三叉劇、宝輪、弓矢、中2手は金剛鈴と金剛鈷であろうか?「本殿」を右側から。社殿左側の「境内社」。内陣。境内の大銀杏。「第六十一回 平成二十二年五月二十三日全国植樹記念樹神奈川県神社庁」。再び「社殿」を正面から。「サバ神社」とは・・・・頂いたこの日の資料から転記させていただきます(以下同様)。・境川・和泉川の沿岸や引地川沿岸には12社の「サバ神社」と称する神社が現存します。一部は近世になって合祀などにより名称変更されて例えば「飯田神社」、「七つ木神社」となった社もありますが、それらを含む多くの神社がこの周辺地域に存在するのはなぜでしようか。今回はそれらのうち、境川沿岸の左馬神社(下飯田)、鯖神社(今田)ろ和泉川沿岸の鯖神社(下和泉)の3社を巡り、「サバ神社」の由緒は石塚勝氏の説を中心に紹介します。(1)「サバ神社」の謎①なぜ「サバ」という社号の神社が境川流域を中心に、東西3km、南北10kmの狭い範囲に集中して いるのか。(地域の謎)②なぜ当地にだけ、全国的には類例がない源義朝を祭神とする神社があるのか。和泉川流域三社が 源満仲を祭神とするのは何故か。(祭神の謎)③「サバ」の社号が「鯖、佐波、左馬、佐婆、佐馬(現在は無し)」と多岐にわたるのだろ うか。(社号の謎)④引地川沿いの石川地域に一社だけ、「サバ神社」が存在するのはなぜだろうか。(引地川の謎)⑤御霊神社が存在する村落には「サバ神社」は存在しないのはなぜだろうか。(御霊神社との 関係性の謎)《地域の謎》 ・分布域の地理的な特性として水害・湛水地帯であったことがあります。上流から急こう配 で流れた境川が横浜市瀬谷区瀬谷あたりから緩勾配となり、藤沢市西富辺りまでの約16km はほぼ平坦になり、暴れ川の異名に叶った悪水となります。「サバ神社」はいずれも川沿い の小高い場所に鎮座しており、現存の社殿は8社が流路に平行に、4社が川に直面していて います。こうした実状から、水田耕作に苦労する地域に水を鎮める「沢の小祠」として祀られ たのが、同社の始まりといわれています。《祭神の謎》 ・義朝は鎌倉時代を開いた頼朝の父ですが、源氏の元祖でも、中興の祖でも無く神社の分布域に 限っての特別な関りも判然としません。このような状況から推測すると義朝を祭神とする 「サバ神社」は天正19 (1591)年に瀬谷村の領主となった旗本長田(おさだ)忠勝により初めて 祀られたとされます。義朝は平治元(1159)年の平治の乱で敗れて東国に向かう途中、従者 鎌田正清の義父であった尾張知多郡内海荘司長田忠致(ただむね)を頼りましたが、裏切られ 惨殺されました。忠勝は逆臣の一族とされ、江戸初期に境川左岸の古宮を旧社地から300m 北東の高台に社殿を建立し、社名も義朝の最高官位であった左馬頭(さまのかみ)から採って、 義朝の霊を鎮めるとともに、「沢の小祠」を合祀して暴れ川鎮めを図り、これが住民に受け 入れられたと推測されます。 源満仲を祭神とする和泉川沿いの3社は、和泉村を知行した能見松平氏にとって、本源は満仲で 義朝は傍系となるので、祭神を付会させたのではないかと見られています、領主の泉氏が信濃 源氏であり、祖は満仲の弟満快であるが、満快が祭神では頼朝に憚りあり、源氏一門にとって 異論のない満仲にしたと元藤沢地名の会会員植松晴男氏説もあります。」《社号の謎》 ・義朝は勇壮な武将であったので、疫病からの守り神として崇められました。他方、鯖に整腸 作用がなどの薬効があるという知識が江戸時代中期以降に一般化しましたが、鯖の漁獲は 20世紀半ばまでは西国が中心でした。そのため、病を癒すとされた貴重な鯖にちなんで社名 にその字が使われるようになり、19世紀後半から20世紀初めに至り、厄除けのため7つの サバ神社を参拝する七サバ参りが盛んになったといわれます。基本的には沢=「佐波」から 義朝=「左馬」へ、さらに「鯖」へという流れですが、流れの実情は一様ではありません。 ・七サバ参りは年寄りが子供を背負って、正月一日に七社を巡ると子供が流行病に罹らないと いう幕末頃から流行した民族信仰で、大正中期まで盛んだったといわれます。 七サバ社は特定の神社に固定したものではなく、いずれのサバ神社でも七社を巡拝すれば 良いとされます。七サバ参りの巡拝例を下記します。《引地川の謎》 ・石川の「サバ神社」は「佐波」と表記する唯一の神社ですが、昔は引地川の水害で別の場所 から今の高台に移動したこと、西俣野同様、義朝による侵攻を受けた大庭御厨の領域で あったことから、「サバ神社」を建立し、「鯖神社」から「佐波神社」と社号も変えています。 この説は東俣野の郷上史家川戸清氏が示されています。《御霊神社との関係性の謎》 サバ神社周辺の村落には権五郎景正を祀る御霊神社がいくつか存在します。非業の最期を 遂げた義朝の霊が祟りをもたらし、霊を鎮めるために祭神として祀ったサバ神社は、御霊神社が 鎌倉郡内の各地に勧請される過程で、郡境の境川流域に派生し出現した御霊神社の一種と みることができます。そのため、同一地域に神明社・天王社・山王社等の様々な社が混在する なかで、サバ・御霊両社のみは並存せず、地域分けして分布しています。サバ神社のある俣野内 には御霊神社が無く、御霊神社のある深沢・深谷等にはサバ神社はありません。(2)サバ神社一覧 現存する「サバ神社」は12社ありますが、廃絶された東俣野を加えると13社となります。 先の川戸氏は現東俣野(戸塚区東俣野1 7 2 8ー2 )にはもうーっ「大明神」と呼ばれていた ていた石祠が、現在も元の上俣野村域にあり、これは境川の氾濫による流路変更のため、 現東俣野村域に2つの「サバ神社」があると主張されています。西俣野の小宮を含め、保野郷の 3村には西俣野村、上俣野村、東俣野村の3つの「サバ神社」が社殿へ発展前の小宮・石司形態で 存在したとの説です。・「サバ神社新旧対照一覧」を表1に、「サバ神社十二社配置図」を図4に示します。「表1 サバ神社新旧対照一覧表」「サバ神社十二社位置図」屋根に二つあった社紋は「左三つ巴紋(ひだりみつどもえもん)」。「横浜市泉消防団」と。「観世音」碑。「不動明王」と「ニの石鳥居」を振り返って「左馬神社」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.13
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この日は6月20日(火)、藤沢地名の会・第267回例会・地名探索である「境川、和泉川沿いのサバ神社と新たなまちづくり湘南台地区」に参加して来ました。集合場所・時間は相鉄線ゆめが丘駅改札・9:30であった。小田急線の湘南台駅から相鉄線に乗り換え「ゆめが丘」駅に到着。自宅から30分弱。相模鉄道(相鉄線)は2023年3月に、東急との相互直通運転を開始。2019年開業の相鉄新横浜線羽沢横浜国大駅から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅に直通。東京メトロ南北線・副都心線、都営三田線、埼玉高速鉄道埼玉スタジアム線、東武東上線とも直通運転が開始され、神奈川県から渋谷・目黒、さらに埼玉県に至るまで、首都圏の広域鉄道ネットワークに繋がったのであった。また、JR南武線や東急東横線と接続する武蔵小杉駅に続き、西大井、恵比寿、渋谷の各駅に停車終点はJR新宿駅。 JR線内は湘南新宿ラインと同じルート。 相鉄やJRは相鉄海老名~JR新宿間を相鉄・JR直通線と呼ぶのだ。「ゆめが丘」駅のホームはリニューアル工事中。そして「ゆめが丘駅」の西側は泉ゆめが丘地区土地区画整理事業が行われていた。駅舎を見上げて(二俣川方向)。駅舎を見上げて(湘南台方向)。アーチ型の青い鉄骨に囲まれたゆめが丘駅。関東の駅百選にも選ばれているのだ。「ゆめが丘駅周辺案内図」。ズームして。「ゆめが丘まちづくり 完成イメージ」をネットから。「ゆめが丘駅」改札口。この日の参加者が改札口前に集まっていた。そして集合時間の9:30になり、案内役からこの日の散策ルートの案内が。参加者は約40名、2Grに分かれて散策開始。まずは、「下飯田」地区にある「左馬神社」に向かって進む。リニューアル工事中の「ゆめが丘駅」を振り返る。「境川沿いのサバ神社一覧」。境川両岸の上飯田、下飯田を初め、藤沢市、大和市のサバ神社が源義朝を祭神としているのに、なぜか和泉の三社だけが源満仲を祭神としている。義朝も満仲も源氏の祖として後世崇められ、官名も共に左馬頭であるから、源満仲が左馬神社の祭神とされても不思議ではない。しかしこの狭い地域で、なぜ和泉だけが源満仲を祭神としたのだろうか と。北条義時の首を狙った泉小次郎親衡。信濃国を本拠とする親衡ですが、関東の居館とされる場所が横浜市泉区にあるのだ。それが、「泉小次郎親衡館」。中和田城とも呼ばれる城跡。といっても建物が残っているわけではなく、小高い台地があるのみ。そこは現在「泉中央公園」となっている。信濃国出身の泉小次郎親衡という人物が、鎌倉北条氏を倒すために、戦略的にも決して有利な地と思えない和泉に出城を築いたこと、また木曽義仲の愛妾であった巴御前を、木曽に無事帰還させる道として立場を通る間道を確保したという伝承、また宝心寺の寺伝など、この地域の人たちは何故か信濃源氏に思い入れがあり、その心意現象が伝承されて、同じ源氏の祖でも信濃源氏に近い源満仲を祭神としたのであろうとのこと。民家横の畑の隅には美しく色付いたアジサイの花が。ユリの花も。白の「カサブランカ」であろうか。様々な色のアジサイを楽しみながら進む。そして「左馬神社」境内への石段を上って行った。そして正面に「左馬神社」の「一の鳥居」が姿を現した。 ・・・つづく・・・
2023.07.12
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砂の道「トンボロ」まで戻る。時間は干潮時間の11:33から約1時間後の12:25。既に両側からの波は、砂の道「トンボロ」までを超え始め、砂の道の中央付近は濡れ始めていた。両側からの波が重なりあった砂の道「トンボロ」を歩く人々。腰越方向からの波は砂の道「トンボロ」を超えて。「片瀬東浜」も満潮で乾燥した砂浜が狭くなって来た。ズームして。更にズームして。江の島側の砂の道「トンボロ」にはまだ波が迫る状況ではなかった。一番狭かった砂の道「トンボロ」は消え始めていた。「♫海が出会うのよ!! 道が消えるのよ!!浜と浜とが 分かれるの!!♫」「S字」状の砂の道「トンボロ」三浦半島方向を。両側からの波が出会っては分かれて。両側からの波の道を。ズームして。江の島大橋側からの波の先端。消えかけた砂の道「トンボロ」を懸命に渡るご夫婦。私も逆方向に渡り途中から振り返る。更に消えかけている砂の道「トンボロ」を進む。砂紋に近づいて。消えかかった砂の道「トンボロ」を渡り終わって振り返る。歩いて来た砂の道には波の先端が押し寄せて。ズームして。江の島を見る。砂の道「トンボロ」も消えかかり。そして「片瀬東浜」の乾いた砂浜に向かう。砂の道「トンボロ」の全体を振り返る。国道134号方向を見る。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」が左前方に。「片瀬東浜」に砂の山が。ここにも。何処かに持ち出すのであろうか?小田急線・片瀬江ノ島駅に向かう。「弁天橋」から「龍口寺」の「御仏舎利塔」を見る。そして小田急線・片瀬江ノ島駅に到着し帰路についたのであった。そしてこのブログを書きながら、北海道の函館も陸繋砂州(トンボロ)の上に発達した街であることを思い出したのであった。「函館の市街地は、両側が海に面した1kmほどの幅しかない非常に狭いところにあります。その先に突き出た函館山があります。このような地形の特徴は、函館山によるトンボロ(tombolo)現象によってできたものです。陸の近くに島があると、沖からの波が島の両側を回って、裏側で打ち消し合って穏やかになることがあます。そこには沿岸流や河川によって堆積物がたまりやすくなり、砂洲が形成されることがあります。このような島と陸をつなぐ砂洲のことを、「トンボロ」、日本語では「陸繋砂州(りくけいさす)」と呼ばれています。沖に島があることによって、陸との間に砂洲ができることを「トンボロ現象」といいます。」と再び。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.04
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再び「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」をズームして。海上にはヨットが優雅に。英語では、帆走ヨット (sailing yacht)、あるいは単に帆船 (sailboat) と呼ぶことが多い。ただし、これらの船艇を使ったレースは yacht race と呼ばれる。ヨットでの航海やヨット競技のことをセーリング(sailing)ともいう。これはヨットがセール(sail:帆)を使って進むからである。「江の島表磯」を見る。「江の島表磯」の入口にあるここ「釜の口」は、駐車場から表磯に降りるスロープの下にある開けたポイント。クロダイが釣れるポイントであるようだ。岩場には多くの釣り人・磯遊びの方々の姿が。干潮直後の為に「江の島表磯」は広く拡がっていた。「江の島表磯」は下記の写真の場所と。江の島の島の名前、岩場の名前をネットから。白き波頭の近くに釣り人の姿も。そして、湘南港防波護岸の西側先端には、「江の島表磯」に降りる仮設階段が設置されていた。「江の島表磯」に降り、江の島の西側の巨大な岩肌を見る。この目前に広がる平べったい大きな磯が「釜の口」。外洋に向かって釣り竿を出す方の姿を。青から白への瞬きの瞬間。そして再び青のウネリに。白き波頭をカメラで追う。これぞ「白波」!!。そして、「江の島表磯」を後にすると左側には白きモニュメントが。「タイトル:自由の翼 作者:熊坂兌子👈リンク作品解説:この彫刻は1982年に完成した神奈川県婦人総合センター(当時)に設置されていたもので、施設の老朽化による解体に伴い、2017年に現在の場所に移設されたものです。「女性よ、元気よく立ち上がれ」との願いを込め、さんさんと輝く湘南の太陽を浴びた女性が、翼を広げて力強く大地に立つ姿を表しています。」江の島の上部の地域へポンプアップする水道配管。そして「聖天島公園」内にあった「聖天島」とその手前に「聖天上人像社(聖天神社)」もともとこの地は江の島の海に浮ぶ聖天島という島であった。かつては磯で、二つの岩があり、その形が歓喜天に似ていたところから、その別称である聖天にちなんで聖天島と呼ばれた。関東大震災により海底が隆起して地続きとなり、東京オリンピックで湘南港が造られた際に海が埋め立てられて現在の形となった。現在も岩肌の上部が残っており、当時の島の様子がうかがえる。その昔、八坂神社の江の島天王祭の際に禊が行われる神聖な場所でもあったため、公園内には社があり、鎌倉時代の僧・良真上人の像が安置されている と。近づいて。「聖天島と聖天上人僧良真は元久元年二月宋に渡り、慶仁禅師に参じて受法聞かずして、日本に霊地江の島ありと知る禅師より、そこに社壇を開くべしと教えられ帰朝する。後に、江の島東岸の巌窟に籠り、一千余日の間修行を重ねた良真が、建仁二年(1202年)七月、窟内に紫雲香気満ちて、天女が壇上に現れ給うを見る。以来、此処を聖天島と謂う。更に、時の将軍源実朝の帰依僧となる良真は、実朝の懇志を受け「下の宮」現在の江の島神社辺津宮を創建す。建久元年(1206年)「江の島縁起」に依る聖天島 島の東岸にあり、天女影向の古跡を言う。窟内に良真上人の像を安す。(天保12年(1804年)新編相模風土記)爾来、慈悲上人良真に依り、ここ江の島東岸一帯の地霊は守護されるとして、島人は聖天上人と仰ぎ、崇敬を集めて現在に至ります。」「聖天上人・良真上人の像」。辺津宮の開山堂には良真の木像が納められていたが、開山堂が壊されてからはここ聖天島の祠に安置されているのだと。「聖天堂」の脇にあった「龍宮神」と「道祖神」の祠。朱の鳥居の奥に「龍宮神」。「龍宮神」と。その隣に「道祖神」。「道祖神」。「江の島まちづくり憲章」と「江の島名勝図」案内図。「江の島まちづくり憲章1、前文江の島はの海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的な地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たせねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S. 63.4.7江の島一丁目ニ丁目住民一同]」「江の島名勝図」。「現在地」はここ。左手にあったのが江の島の海鮮料理店「島童子(しまわらし)」。美味そうな海鮮丼であったがグッ!!と我慢。数々の海鮮丼。その先にあったのが「江島神社」の「車 お祓い所」。江の島神社の社務所は坂の上なので、専用の「車お祓い所」がここ。「江島神社」。「拝殿」に近づいて。紫陽花(アジサイ)が見事な色で。そして「磯料理」屋の店頭には様々な貝類が。「伊勢海老」。巨大な「栄螺(サザエ)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.03
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「砂の道「トンボロ」」を楽しんだ後は、潮が満ちて「砂の道「トンボロ」」が消えて行く姿を見るまで「江の島ヨットハーバー」周辺の散策に向かう。道路沿いには「シーフード・海鮮料理店」が並ぶ。「江の島ヨットハーバー」に向かって進む。奥に進んで行くと、人の数も少なくなって来た。湘南海岸から相模湾の北東に突き出た陸とつながる島「江の島」にある「江の島ヨットハーバー」は、1964年東京オリンピックのヨット競技場として建てられた。以来、さまざまなヨットレースが開催され、日本における公共ヨットハーバーの草分けとしてヨット活動の普及に貢献してきた。最近では「東京2020オリンピック競技大会」のセーリング競技会場として記憶に残るレースが繰り広げられたのであった。湘南なぎさパーク ヨットハウスにある「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」をゲートの隙間から。店舗面積は40.72平方メートル。店内12席、テラス44席をそろえる。県施設「湘南港」の管理事務所1階に位置し、店舗内はカウンター正面の客席に加えて、店舗前庭が同店専用のテラス席になっている。白と青を基調にした店内は、壁面のうち2面をガラス張りに。サインやディスプレー装飾は「アドリア海のイメージに仕上げた」という。江の島「中津宮」手前にある「展望台広場ウッドデッキ」と「中津宮」への石段が見えた。「cafeとびっちょ 江の島ヨットハーバー店」を道路側から。この地で開催されたオリンピック競技の説明ボード。「第18回 オリンピック競技大会(1964/東京)昭和39年10月10日(土) ~ 10月24日(土)■ヨット会場:江ノ島ヨットハーバー日程:昭和39年10月13日(火)~15日(木)、19日(月)~21日(水)大会の様子ヨット競技は40の国と地域から328名が参加し、レースでは、各選手とも相模湾特有の変わりやすい風をつかむのに悪戦苦闘のレースを展開した。大会期間中は、海上自衛隊等の協力により、円滑な運営ができた。また、競技ではヨットの盛んなヨーロッパ勢やアメリカが上位を占めた。■レースエリア相模湾の3海面において、フィン級、フライングダッチマン級、スター級、ドラゴン級、5.5m級の各レースが開催された。A海面は黄色のブイ及び発煙筒を使用したため、別名黄海面と呼び、B海面は赤海面、c海面は青海面と呼ばれた。第32回 オリンピック競技大会(2020/東京)令和3年7月23日(金) ~ 8月8日(日)■セーリング会場:江ノ島ヨットハーバー日程:昭和3年7月25日(火)~8月4日(水)。■大会の様子セーリング競技は65の国と地域から350名が参加した。世界的に蔓延した新型コロナウイルス感染症の影響により、大会が一年延期され、更に無観客での開催となったが、江の島・富士山を背景に熱い競技が繰り広げられた。日本勢は、470級で男女ともに入賞する健聞を見せた。■レースエリア相模湾の6海面において、10種目のレースが開催され、各海面は藤沢・鎌倉・逗子・葉山といった地名が名付けられた。レースの半数以上は、海岸に近い海面( Enoshima・Kamakura)で行われ、メダルレースは全て、江の島に近いEnoshima海面で実施された。「ヨット」とは、遊びに用いる快速艇(動力源がエンジンか帆かは問わない)のことを意味しており、アメリカズ・カップ(ヨット界最大の国際レース)で使用されているような大型の艇はまさに「セーリング・ヨット」の一つの例である。そして、1人乗り、2人乗りのディンギー(小型のボート)は正しくは「セーリング・ディンギー」といい、ヨットとは区別されていたが、一般的にはこれらも「ヨット」と称されている。しかし、オリンピック競技にウィンドサーフィンが導入(1984)されてからは、帆を使用して行うスポーツをすべて「セーリング・スポーツ」と称するようになった。またオリンピック、国民体育大会等の競技名も、かつては「ヨット競技」という言い方をしていたが、現在では「セーリング競技」という名称に変更している。これにあわせる形で、ヨット競技を統括している国際組織も、1996年にその名称を「国際ヨット競技連合」(International Yacht Racing Union:IYRU)から「国際セーリング連盟」(International Sailing Federation:ISAF)へと変更。さらに2015年、ISAFから現在の「ワールドセーリング」へと、再度その名称を変更した。そして「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」。この場所は依然として名称は「湘南ヨットハーバー」となっているのであった。三種類の旗が。右から「日の丸」、「神奈川県旗」そして、カモメが描かれた「神奈川県鳥旗」。「神奈川県鳥旗」は「シンボルカラー旗」とも呼ばれているようだ。1978年(昭和53年)に県のイメージカラー「かながわブルー」を制定したことを記念し、「シンボルカラー旗」を制定した。制定当初のデザインは青地に県鳥のカモメを白抜きでカントンとして配置し、その下にローマ字で「KANAGAWA」と県名を表記したものであった。現行の旗は1992年(平成4年)に改訂されたもので、旧デザインよりも地色の青を暗くしてカモメを中央に大きく配置し「KANAGAWA」を右下に斜体で表記するようになっている と。「湘南港・港湾管理事務所」内に入る。「湘南海岸 鳥瞰図」。「湘南海岸 鳥瞰図」をズームして。「江の島 鳥瞰図」。入ってすぐ左にはショップ・「マリンショップ 1964 」があって、オリンピックグッズなども販売されていた。「江ノ島」周辺の立体模型地図。セーリング開催レース大会 案内板。「第4回 LOVE OCEAN 5/13~6/18」ポスター。~海のためにできること、海を愛する人たちと一緒に!~「海(相模湾)から見れば市町の境界線がなく一つのランドスケープ」との想いのもと、海を愛する人たちと手を携えて、美しく豊かな海を守り、“人と人”をつなぐ海洋環境イベント『第4回LOVE OCEAN』を開催。今回は、13市町13海岸の陸上で行うビーチクリーンだけでなく、海上に浮かぶゴミ拾いにも挑戦。ヨットレースや釣り大会、海岸線を楽しむスポーツイベントも同時開催を予定している と。「リビエラ湘南ビーチクリーン」スケジュール表。4日間を通じて、神奈川県全域13市町13海岸(三浦・横須賀・葉山・逗子・鎌倉・藤沢・茅ヶ崎・平塚・大磯・二宮・小田原・真鶴・湯河原)のビーチクリーンを実施する と。前方に大型駐車場そしてその先に江ノ島の南側の絶壁を見る。再び3種類の旗を見上げて。道路脇に停車していた大型バイク。ハーレイダビットソン(HARLEY-DAVIDSON)。「ヨットハーバー」案内板。現在地はここ。県立かながわ女性センターは昭和57年(1982)に「婦人総合センター」として開館し、平成3年(1991)に「かながわ女性センター」に名称変更。 「女性の自立と男女のあらゆる分野への参画を促進し、もって男女共同参画社会の実現に寄与するための施設」であった。2015年3月末に閉鎖され、建物も解体撤去され現在は大型バス駐車場になっていた。「湘南港駐車場」入口。「湘南港駐車場」。「江ノ島 湘南 大堤防」下の駐車場。石段を上り、「江ノ島 湘南 大堤防」上に。「江ノ島 湘南 大堤防」の先端にあったのが「湘南港灯台」。江の島の東端、湘南港防波護岸外端に建つ灯台が、湘南港灯台。湘南港(江ノ島ヨットハーバー)は昭和39年8月18日、東京オリンピックのヨット競技場として整備された港湾で、湘南港灯台も湘南港とともに土木学会選奨土木遺産に選定されている。湘南港防波護岸には休憩用のベンチも設置され、江の島のご来光スポットにもなっているのだ。湘南港灯台は、江ノ島ヨットハーバーの灯台(東京オリンピックヨットレース会場のシンボル的デザイン)ということで、ヨットの帆をイメージして造られたデザイン灯台。塔高18m、平均海面から灯火までの灯火標高19m、光達距離8.5海里(15.74km)。この岩の島は、「離鵜島」。この島の名は「広鵜島」か。「江の島セーリングセンター」。「横須賀海上保安部 湘南海上保安署」。湘南港防波護岸から江の島を見る。「江の島シーキャンドル」の頂部が見えた。「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上を歩く。この様々なタイル模様の意味・目的は?「江の島花火大会」をイメージしている?「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上から「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」方向を見る。大きな岩の島の先にはヨット、漁船の姿が。江の島の南側の断崖絶壁をズームして。1時間前は干潮であったので、多くの岩島が海面上に。釣り人の姿はなし。さらに「湘南港防波護岸・江の島 湘南大堤防」上を西に向かって進む。先程訪ねた「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」の白き屋根の建物。湘南港防波護岸上の休憩用のベンチでは上半身を日光浴する人の姿も。そして左前方に見えたのが「江の島表磯」。目前に広がる平べったい大きな磯が「釜のロ」。岩場にはグループの姿も。湘南港防波護岸の西側先端に向かって進む。再び「湘南ヨットハーバー」・「湘南港・港湾管理事務所」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.02
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江の島北緑地広場にあった「弁財天と世界女性群像」。東京オリンピック(1964年)記念として作られた。噴水内、周囲には5体の像が。作者:加藤顕清氏。竣工年月日:1964年10月1日作品材質:ブロンズ七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される「弁財天(弁才天とも書く)」は福徳・諸芸能上達の神として広く信仰されている。ズームして。江の島・辺津宮の境内の八角の堂・奉安殿(ほうあんでん)には、八臂(はっぴ)弁財天と、日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天 が安置されている。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せた。世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江の竹生島、江の島の弁財天のこと。4体の像が「弁財天」を囲んでいた。西洋:ギリシアの古代女性像。「湘南港竣工とオリンピック東京大会ヨット競技開催記念弁財天と世界女性群像噴水池弁天の江の島といわれる江の島弁財天は、近江の竹生島、安芸の厳島とともに日本三弁天の一つであり江の島の象徴であって、この弁財天にちなみ、冥想の弁財天を池の中央に配し江の島の歴史と文化を表現しこれを囲んで東洋と西洋、古典と現代の四つの像つまり東洋の古典像は、オリンピック発祥の地ギリシャの古代女性像、これに対し西洋現代像は優雅な女性裸像と東洋の現代女性像として東南アジア踊り子像をくみあわせこの五体はオリンピックの五輪を表し世界とその平和親善を表現しヨット競技開催を永久に記念するものでこれらはいずれも格調高く気品にみち全体的に美的統一がはかられています。噴水は弁財天を水のベールにつつみ、昼間は太陽のひかりをあびて七色の虹をいろどり夜間は水中照明により様々に変化しつつ一層の美観をくわえます。」「弁財天と世界女性群像噴水池を後世にこの弁財天と世界女性群像噴水池は平成十年第五十三回国民体育大会かながわ・ゆめ国体を機に江の島北緑地の再整備事業として現在の姿となりました。当初の位置は現在地より約二十メートル程南側に位置しその景観は左の写真のとおりであります。弁財天は、発祥地インドではサラスバティーすなわち水の神 音楽の神と云われそれにふさわしく弁財天を中心として世界女性群像はこの水面の上にたたずみ幾年の歳月を>潮騒の調べにだかれて流れる雲とともにその女性美を水面に映してまいりました。ここを訪れ散策する多くの人々の心に安らぎと美しき感銘をあたえ静かにいならぶ弁財天と世界女性群像この五体の彫刻の製作者こそ昭和九年に日本彫刻家境界を創立、造形と精神の両面にわたる人間性の追求に専念した日本彫刻界の重鎮、加藤顕清氏であります。氏は晩年を藤沢市ですごし昭和四十四年市内大庭で没した。享年七十二才。ここに氏の生涯にわたる彫刻美術の偉業に敬意を表し弁財天と世界女性群像噴水池を後世に残すものであります。 平成十二年三月 藤沢市長 山本捷雄」現代:東南アジアの踊り子像。東洋:法隆寺の百済観音像。古典:西洋の女性裸像。そして同じ江ノ島緑地広場にあった「エドワード・S・モース記念碑」。大きな御影石にレリーフがはめ込まれた碑。作者:山本正道氏竣工年月日:1985年4月14日作品材質:ブロンズブロンズ製の博士と子供たちのレリーフ。「エドワード・S・モース記念碑 日本近代動物学発祥の地」碑。「東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは明治10年(1877)7月から8月末までここ江の島に日本最初の臨海実験書を開き、シャミセンガイなどの研究をしました。」こちらは「アカツメクサ(赤詰草)」。日本には明治時代に入ってきました。ムラサキツメクサとも呼ばれます。いわゆるクローバー(シロツメクサ)と同じマメ科ですが、花が赤いやつというだけではないのだと。いくつか違いがあるのだと。まず、クローバーより大きい。花だけでなく、茎もかなり長い。そして、葉っぱは同じ3つ葉ですが、クローバーより細長い。牧草としてだけでなく、肥料や、ハーブとしても用いられるお役立ち植物の一つであると。「砂の道「トンボロ」」の上には多くの家族連れが。遠く三浦半島方面を見る。「砂の道「トンボロ」」は一番狭い場所でも15~20m程度はあろうか。紙くずやプラスチック物を拾うボランティアのオジサンの姿も。波打ち際では潮干狩りする家族の姿が。一番狭い「砂の道「トンボロ」」付近をズームして。さらに。再び「江の島大橋」の橋脚を見る。そして島内の「江の島 モース臨海実験所跡推定地」にも立ち寄りました。「工ドワード・シルベスター・モースは1877年(明治10年) 7月17日~ 8月28日ここに東洋初の臨海実験所を設け海産動物の研究・指導を行い我が国の近代動物学の基礎をつくりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.01
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通常時の海面の姿をネットから。そして「砂の道「トンボロ」」時の上空からの写真を、これもネットから。「江の島大橋」の鎌倉側の海が割れて「砂の道「トンボロ」」が生まれるのだ。これがこの日の「砂の道「トンボロ」」。普段は海面に覆われている場所から、約200~250mの「砂の道「トンボロ」」が生まれているのであった。「トンボロとは江の島は、潮が大きく引くと陸続きになり、この地形をトンボロと呼びます。トンボロはイタリア語で、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)といいます。波は、島のような障害物があると、回り込んで進みます。波は同時に砂を運び、島と海岸の間には、砂が集まり、トンボロができます。江の島のトンボロは、自然現象のため、必す現れるとは限りませんが、潮位がおよそ20cmより低くなる時に現れます。トンボロは江の島以外にも国内や世界各地で見ることができます。『吾妻鏡』という鎌倉時代の歴史書には、1216年1月突然江の島の海に道が開け、舟を使う必要がなくなって国中の人々が集まった、とあります。将軍源実朝をはじめ大勢の方々が驚いて神のおかげではないかと思ったとのことです。また、1600年6月徳川家康が江の島を訪れています。その時の記録によれは江の島に向かい弁財天に参詣したのですが、ちょうど干潮だったので一行は徒歩で渡り、帰路は潮が満ちてきたので舟で帰ったとあり、潮の満ち引きでトンボロが現れる様子がわかります。江戸時代には江の島参詣の人々でにぎわいましたが、参詣者がトンボロを歩いて渡る様子を描いた浮世絵も数多く残されています。」「トンボロ」・「陸繋砂州(りくけいさす)」の様子の写真。「トンボロ」が描かれている「浮世絵」。歌川広重「相州江之嶋弁才天開帳参詣群集之図」。歌川広重(1799-1858)は本名を安藤といい、安藤広重とも呼ばれます。天保年間より風景画家の道を歩み、東海道五十三次シリーズなどで有名です。この作品は弁才天開帳の際の江の島の賑わいを描いたもので、参詣に向かう4組の女講中を揃いの日傘で描き分けています。「砂の道「トンボロ」」上を進む駕籠の姿も描かれている。「砂の道「トンボロ」」越しに腰越漁港方向を見る。「砂の道「トンボロ」」越しに「片瀬東浜」方向を見る。海面上に大きく現れた「江の島大橋」の橋脚の基礎部。正面の黒い帯が「砂の道「トンボロ」」。ズームして。一番狭い場所でも10m以上の幅が生まれていた。更に黒い帯をズームして。「片瀬東浜」の国道134号沿いのマンション群。護岸近くの広場の「ハマヒルガオ(浜昼顔)」。茎は砂の上を這い、毛はなくてなめらか。時に茎が砂に埋もれて葉だけが出る。葉は腎心形、やや丸くて基部は左右に張り出す。葉はつやのある緑で厚みがある。長さは2-4cm、幅は3-5cm。花は5-6月に咲き、淡紅色で、径4-5cm。花柄は葉より長く、葉の上に抜き出て咲く。そしてこちらは一面の白詰草(シロツメクサ)。クローバーとも言う。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。江の島での「砂の道「トンボロ現象」👈リンク を描いた様々な浮世絵があるのだ。葛飾北斎『富嶽三十六景』より「相州江の島」。片瀬海岸から江の島を見たところです。江戸時代は、江の島弁財天は江戸から格好の小さな旅先でした。砂洲の参道が現れれているところから、今は干潮時のようです。人々や馬、駕籠など参詣に行くようです。参道の両側に旅館や土産物が軒を連ねています。三角形の屋根は、定規を使って引いたような直線で描いています。その屋根の上の三重塔は、江島神社上之宮の塔です。右端に船を描き、その先の富士に視線を求めています。波打ち際の波の泡の描写など静かな春を思わせます。多少誇張や演出で描く北斎には、珍しく自然な景観を描いています。干潮時で、一筋の砂州の上「トンボロ」には、人々や馬、駕籠などが島に向かって進んでいます。作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 相州江の島の図制作年 天保年間後期(1842年頃)作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 江の島参詣の図制作年 嘉永6年(1853)そして正にこの時の「砂の道「トンボロ」」の航空写真をネットから。私もこの写真に写っているのかもしれません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.31
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この日は5月21日(日)、前日に妻から、江ノ島で干潮時にしか現れない、江ノ島へ通じる砂の道「トンボロ」が出現することを聞き、訪ねることに。ネットにて、潮見表を。5月21日(日)は大潮で11:33に干潮になり、潮位は-5cmとのこと。江の島は潮位が20cm以下になるとトンボロが現れ陸続きなるとのこと。トンボロを日中歩いて渡れるのは、3月から9月(2022年)の新月または満月の干潮時のみ と。自宅を10:15に出て、小田急線を利用して片瀬江ノ島駅に到着。時間は10:47過ぎ。改札口横には、新江ノ島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽があるのだ。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れている。二十匹ほどのミズクラゲがゆらゆら浮遊するしているのであった。新江ノ島水族館によると、館外に水槽を常設するのは初めて。少し離れた場所にろ過装置があり、地中を通した配水管でつなぎ、水温調節機能も備える。異常が生じれば、近くの同館に警報が伝わり、対応する仕組みになっていると。マリンブルーの神秘的な彩りの中をクラゲが回転しながらゆったりと浮遊しているのであった。改札を出て、クラゲ水槽の裏側を見る。小田急線の片瀬江ノ島駅を正面から。駅舎は神社仏閣に用いられる「竜宮造り」と呼ばれる技法を採用。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ装飾も施されている。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。真っ赤な柱と緑の屋根、黄金に輝く竜の姿が。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。別の場所からズームで「天女」を。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が。屋根の上には鯱ならぬイルカが。下層のアーチ部分の天井は神奈川県産のヒノキ仕上げで、竜宮城らしく四隅にカメの彫刻が泳ぐ。そして江ノ島に向かって、境川に架かる「弁天橋」を渡る。路面には、陽光に輝く、江島神社の鳥居、藤沢市の花・フジそして江ノ島の姿が描かれたパネルが埋め込まれていた。「境川」には水上オートバイ(水上バイク)は走っていた。運転手の背中には「試験中」と。特殊小型船舶操縦士の運転免許試験であったのだろうか。「弁天橋」から国道134号・「片瀬橋」その奥に江ノ島の姿が。「弁天橋」中央に置かれている像。なめらかでふくよかなポーズが悩ましい。「雲の形」と。境川の上流側を見る。そして「片瀬東浜」に到着。時間は10:53。干潮の時間は11:33とのことであった。そして前方を見ると、既に海が割れて砂の道が出来ていたのであった。潮の引いた砂浜には多くの家族連れの姿が。そいて沖には多くのヨットが。熊手、バケツを持ち潮干狩りにTRYしている子供の姿も。「湘南港」、「江の島ヨットハーバー」方向を見る。「腰越漁港」方向を見る。天童よしみの曲:「珍島物語」👈リンク を想い出したのであった。♫海が割れるのよ道ができるのよ島と島とがつながるのこちら珍島(チンド)からあちら芽島里(モドリ)まで海の神様カムサハムニダ霊登(ヨンドン)サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫♫遠くはなれてもこころあたたかくあなた信じて暮らしますそうよいつの日かきっと会えますね海の神様カムサハムニダふたつの島をつないだ道よはるかに遠い北へとつづけねえとても好きよ死ぬほど好きよあなたとの愛よとこしえに霊登サリの願いはひとつ散り散りになった家族の出会いねえわたしここで祈っているのあなたとの愛よふたたびと♫ズームして。江の島の「江島神社 瑞心門」そして「江の島シーキャンドル」も見えた。海が割れて生まれた砂の道を進んで行った。狭い場所でも10m以上の幅の砂の道が出来ていたのであった。「【湘南】江ノ島 トンボロ現象(藤沢市)」👈リンク江の島側には、平塚方面からの波が「江ノ島大橋」下を通過して押し寄せて来ていた。普段なら、この場所は海の下。「江ノ島大橋」の橋脚用の基礎も海面上に顕わに。妻の話によると、昔は橋に下に砂の道「トンボロ」が出来たと。時代とともに腰越方向に移動していると。下部の円柱状の基礎の部分は海中にあるのだが、今日は!!そして砂の道「トンボロ」の先には、護岸上に上る仮設の階段が設置されていたのであった。仮設の階段前から、歩いて来た砂の道「トンボロ」を振り返る。こちらが通常時の波の様子。東からの波は「江の島大橋」の下を通過し、腰越方向からの波とぶつかるのだ。このぶつかった場所が砂の道「トンボロ」となることが解るのであった。護岸下の保護用の岩も完全に姿を現していた。「江の島大橋」の橋脚用の基礎部を見る。そして「砂の道「トンボロ」」の先にあった仮設用階段を見る。この日の「砂の道「トンボロ」」の観光客用に藤沢市の観光協会が設置したものであった。地元では知られた自然現象を観光コンテンツとして活用しようと、市観光協会が「トンボロ」を渡って安全に江の島に上陸する手法を模索しているようであった。「トンボロ」は長年にわたり江の島周辺地区の名物として知る人ぞ知る現象だった。ただし、海の道が現れるのは3月から9月の新月または満月の干潮時のみで1時間ほど。めったに起きないため、これまで同協会などが観光資源としてPRすることはほとんどなかったとのこと。護岸擁壁の保護用の岩が完全に現れて。再び「砂の道「トンボロ」」を振り返る。仮設階段を正面から。安全管理のために観光協会の方も仮設階段の上で立ち会っておられた。多くの方が私と同様に「砂の道「トンボロ」」を歩き、「片瀬東浜」からこちらに向かっていた。私も仮設階段を上って護岸の上に。最終段の踏み板と護岸擁壁の隙間が大きく子供達の為には、もう少し狭くする処置が必要と感じたのであったが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.30
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鯖神社 「社殿」。扁額「鯖神社」。軒唐破風。内陣。「稲荷社」創建年不詳講が行われている。現小祠は平成9年再建。お稲荷さん(右)。「お稲荷さん(左)」「荒神様」。元禄5年9月井上氏・石井氏造立「コウジンヤマ」より移動現小祠は平成9年再建。「荒神様像」。「本殿」を斜めから。この記念樹の名は?「第六十一回 平成二十二年五月二十三日 全国植樹祭記念樹」小さな「五輪塔」。反対側にも小さな「五輪塔」。「本殿」の屋根。ズームして。奉納された「絵馬」が3枚。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてよ~く聞こう」。「耳を澄ましてジックリ聞こう」。「奉納絵馬ビッグ錠(佃 龍二)作」参道を振り返る。「遊水池この施設は、遊水池です。大雨のとき、雨水を一時溜めて、河川へ少しずつ流し河川の氾濫や洪水を防ぐ、大切な役目をしています。」「今田鯖神社」の境内下が遊水池となっているとのこと。境川の守り神である「今田鯖神社」の前に立っていたのが「今田管理センター」。「今田管理センター」の玄関。藤沢市と横浜市戸塚、泉両区にまたがる県立境川遊水地公園内の「今田遊水地」を管理。同センターは、延べ床面積250・77平方メートルの平屋建て。休憩スペースのほか、環境学習などの場となる学習室も完備。遊水地周辺で見られるカワセミやカワウ、ギンブナ、セイタカアワダチソウなどさまざまな動植物を写真パネルで紹介している。また、今田管理センターには、学習室のほか、大雨で河川が増水した際、下流域での洪水被害軽減のため水量を監視、調整する管理事務所も併設されている。「今田遊水地」カーブの高架橋は手前が「横浜市営地下鉄ブルーライン」とその奥に「相鉄いずみの線」。様々な催しの案内ポスター。「今田管理センター ご案内」。以前訪ねた大和市の「左馬神社」にあった説明書きを再度アップしておきます。「特集 左馬神社(さばじんじゃ) ~境川流域に密集するサバ神社について考える~はじめに南大和病院のすぐ側の雑木林の中に『※1左馬神社』という古びた神社があります。この"サバ”という名に珍しさを感じ、調べてみると、大和市、藤沢市、横浜市の瀬谷区・泉区に「左馬」「左婆」「左波」「鯖」と"サバ”という名付け十一社、引地川に一社、計十ニ社密集していることが知られています。祭神は鎌倉幕府を開いた源頼朝とNHK大河ドラマの主役となる源義経の父※2源義朝であり、この義朝を祭神としている神社は全国的に観ても珍しいのだといわれています。更に、近年までそのサバ神社を七社巡る「七サバ参り」という信仰もあったそうです。.今回、この珍しい神社について、サバの名称「左馬」「鯖」、祭神の義朝、七サバ参り、そして、なぜ「サバ」なのか調べようと思います※1左馬神社・・・寛文十年(一六七〇)十ニ月建立。※2源義朝(一一ニ三~六〇)平安末期の武将。詳しくは「1左馬と源義朝」参照。1 左馬と源義朝 源義朝は平安時代末期に起こった※3保元の乱での活躍で「※4左馬頭」となりました。やがて平清盛の出世に不満を抱き※5平治の乱を起こし、敗れます。この時生き残った従者の平賀四郎、鎌田正清、金王丸の三名と※6尾張国知多郡の鎌田正清の義理の父である長田忠致を頼りましたが、忠致の裏切りにあい、金王丸を除いて殺されてしまいました。生き残った金王丸はこの主人を弔うため出家し、土佐坊昌俊となりました。この金王丸(土佐坊昌俊)の兄というのが渋谷重国で、いまの川崎から綾瀬付近、現在の高座渋谷一帯を治めていたといわれています。もちろん、その領域は、サバ神社の建てられた場所も含まれており、この地域は渋谷氏が治めていたことにより、義朝を弔う土壌があったと思われます。更に「極めつけに江戸時代初頭に領主としてこの地域の住民の仇とも言えるあの長田忠致の末裔である長田忠勝、白政兄弟が治めることになります。恐らく、この地域の住民に反感情があったものと思われます。それにより、義朝の役職の「左馬」を用いて「左馬神社」と名付げたのではないでしようか。そして祭神として源義朝を祀ったのではないかと思われます。ただ「左馬」という名称を用いる前の「サバ神社」は大半「鯖」と名付けられた社名が多かったようです。この「鯖」は一体どういうことでしょうか。※3保元の乱・・・保元元年(一一五六)後白河天皇が藤原通憲(信西)を参謀とし平清盛・源義朝を 使って崇徳上皇を破った戦い。※4左馬頭 ・・・平安時代の律令制で諸国の牧場の管理していた役職の長。※5平治の乱・・・平時元年(一一五九)後白河上皇のもと権力を握った信西を藤原信頼と源義朝が 殺し、その後平清盛が両者を滅ほした戦い※6尾張国 ・・・現在の愛知県。2 「鯖」の字について病院の裏手の「左馬神社」もかっては「鯖明神」でありました。境内の古い石燈に「鯖明神社」と刻まれており『※7新編相模国風土記稿』においてこの左馬神社はもちろんのこと、大半は「鯖明神社」と記録されています。この地域で魚の鯖が多く水揚げされるようになったのは昭和の時代に入ってからだと聞いています。マユツバと思いますが、この付近の伝承に「大雨による洪水が発生した後、水が引いて、木に鯖がたくさん引っ掛かっていた」から祀ったといわれています。一説には、初穂の魚を神仏に備える全国的な風習に鯖を用いていたからだとも言われております。サバ神社とは異なる鯖稲荷を紹介してみます。この稲荷は、東京・日比谷神社で別名「鯖稲荷」であり、ご利益は虫歯封じといわれております。虫歯封じとサバにどのような繋がりがあるのかけんとうもつきません。江戸時代の「※8本草書」といういわゆる民間療法の書籍に鯖の"薬効”が書かれています。それによると整陽作用があるそうです。はたして効果はあるのでしようか、謎です。ともかく「鯖」の字が恐らく痛みに対して何らかの効果があったようです。しかしなぜ「鯖」なのか?「あて字」という説には持って行きたくはなかったのですが結局のところ何も見出せませんでした。では「サバ」とは一体何なのでしようか。※7新編相模国風土記稿・・・天保十二年(一八四一)に成立した地詩。林述斎が編集。※8本草学・・・本草とは、薬になる草を意味しており、古代よりそのような研究のため、 書籍が作られていた。初めて何かを食べて効果を見出した人ってすごいと思う。3 では「サバ」とは魚の「サバ」の説はともかく、このサバ神社の「サバ」について様々な考察が行なわれていました。まず、境川が神聖な信仰の境界であったという説です。猟師言葉に「サバワケ」という言葉があります。これは獲物を均等に分ける」という意味で、この「サバ」は境をつける意味合いであったそうで、東側は※9庚申信仰、西は※道祖神信仰の境界とし、両岸に沿って社を建てたとする説です。この説は境川に関してはこの説は通用しますが、その他河川にはあてはまりません。もう一つは、農耕との関係から、「サワ」っまり沢もしくは田の神であったのではないかという説です。東南アジアの言語では水田のことを「サワ」「サバ」と呼んでおり、水に関連するのは確かなようです。歩いて回ってみると、大体のサバ神社は川を見下ろす高台に位置し、その下に水田や現在の住宅地が拡がっていました。沢の神だけで見てみますと、高台に位置し、神社が河川を見下ろすという配置は、水害を恐れていたことに繋がるかもしれません。それに加えて、サバ神社十ニ社中、六社に「稲荷社」、ニ社に「宇迦之魂神」が祀られ、双方とも農耕神であり、田の神です。恐らく、沢の神と田の神として、サバの神は存在していたのではないかという結論に到りました。※9庚申信仰・・・庚申の日に帝釈天・青面金剛・猿田彦などを祭る。 見ざる・聴かざる・言わざるの「三猿」で有名。※10道祖神信仰・・・民間信仰のひとつ。道端に祭られ、五穀豊穣・子孫繁栄を祈った。 男女の神様が仲睦ましく寄り添う姿がかわいい4 七サバ参り今日確認できるサバ神社で「七サバ参り」伝承が残されているのは、このルートです。①境川左岸~和泉川沿いに下ったルート 上和田~瀬谷~上飯田~神田~中の宮~下飯田~鍋屋②境川沿いに両岸を下るルート 瀬谷~上和田~下和田~上飯由~高倉~下飯田~今田このルート以外にも石川(引地川沿い)のサバ神社を含む場合も伝えられているので、自分の出発地点よリ一日工程で巡ることが出来る神社を選び、お詣りしていたように思われます。実際②のルートを歩きましたが、約三時間ニ〇分で踏破できました。しかし明治・大正時代に盛んであった頃に比べ、道路事情の事を考えれば五時間ほど掛ったのではないかと思われます。「七サバ参り」は明治時代の日清・日露戦争に対する先勝祈願や子供が疱瘡・百日咳、はしかなどの流行病にかからないように子供を背負ってお参りしていたそうです。現在は、この七サバ参りも衰退していますが、天明年間(一七八一~八九)に盛んになった"七福神参り”の影響を受け、幕末以降に行なわれるようになったようです。新年あたりに”七サバウォーク”でも皆さんしてみてはいかがでしょうか。おわりに境川流に密集するサバ神社。郷土史の研究者にも注目されている神社でありました。ます、水の神と田の神が合わさり、鯖の字を当て、そして源義朝を祀み事となり、ご利益を求めて七社のサバ参りを行なうようになったのだろうと思います。今年の初詣も鯖神社に"さくらぷらざ”の利用者様を連れて、健康を祈願したいと思います。(文責桜井)みなみやまと平成17年1月25日の記事を再録したものです。」 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.04
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この日は4月25日(火)、仕事で南アルプス市に車で行った帰りに「今田鯖神社」に立ち寄った。先日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る をブログアップした際に全ての鯖神社関連を訪ね終わっているつもりであったが、この「今田鯖神社」が漏れていた事に気が付いたのであった。 小田急電鉄江ノ島線の湘南台駅(相鉄・横浜市営地下鉄)から東へ700mのところにあった。 境川からは西へ250mほどであろうか。「石鳥居」明神鳥居昭和35年8月杉山氏奉納。扁額「鯖神社」。石鳥居を潜って進む。今田鯖神社掲示板平成17年9月新設。「鯖神社の境内」案内。「古(いにしえ)を今に伝える鯖神社」。 年代 西暦 事項元禄 5年(1692) 9月 村人らにより荒神像造立〈銘文〉元禄15年(1702) 9月 井上瀬兵衛により「鯖大明神」創建(棟札)亨保 5年(1720) 2月15日 村中により鎮守として拝殿を建立(棟札)寛政11年(1799) 秋 片瀬の諏訪山玉蔵院により護摩供養が行われる(棟札)文政 9年(1826) 社殿の再建(『高座郡神社略記』)天保15年(1844) 12月 拝殿の再建(棟札)・天照皇太神宮両屋の再建(棟札)嘉永 4年(1851) 4月 氏子中より燈籠一対奉納〈銘文〉嘉永 5年(1852) 1月 玉蔵院を施主とし、木造の御神体を奉納〈神像台座銘〉・玉蔵院により 永代護摩供養が行われる〈棟札〉明治 2年(1869) 9月 片瀬神主により郷内安全の祈祷が行われる〈棟礼〉明治 6年(1873) 村社に列せらる〈『高座郡神社略記』〉大正 8年(1919) 10月 神楽殿の建設〈碑文〉昭和 8年(1933) 4月 社殿の再建、14日上棟式〈碑文・古写真〉昭和35年(1960) 8月 鳥居奉納〈銘文〉昭和50年(1975) 10月1日 子供神輿(大)奉納(古写真〉この頃今田囃子が復活昭和59年(1984) 5月 今田鯖神社氏子の会(現保存会)設立 この頃拝殿でボヤ、火災保検に加入平成 7年(1995) 8月11日 不審火により社殿焼夫 9月30日 境内周辺樹木伐採平成 8年(1995) 8月~ 擁壁工事(翌年1月完成)平成 9年(1996) 1月24日 起工式、3月30日上棟式 9月 再建記念碑建立、石碑類整備、 玉垣設置、荒神・稲荷の小祠再建 10月2日 遷座式、3日 遷宮奉祝祭平成13年(2001) 3月1日 放火により再度社殿焼失、御神体焼損平成14年(2002) 2月13日 起工式、3月6日 上棟式 5月 新たに御神体を鋳造 6月8日 遷座式、9日 遷宮奉祝祭平成15年(2003) 6月 境内に上下水道・遊水池を設置 7月 社務所の改築平成17年(2005) 3月 参道整備平成18年(2006) 3月12日 旧御神体を本殿に安置 10月1日 鯖神社再建之碑の建立 〈 〉 は出典「玉蔵院ってなんでしょう?鰯神社に残された棟札には、「諏訪山玉蔵院」という名前が記され、護摩供養などを行っていたことがわかります。でも、この名の寺は今田にはありません。「新編相模国風上記稿」という書物によると、境川を下っていった片瀬の上下訪神社の別当寺が玉蔵院で、宗派は修験でした。今田に残された古文書からは、江戸時代にはお正月に玉蔵院へご祝儀を出していることもわかりました。その後、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、交流が途絶えたのでしよう。しかし、そもそもどういういわれで神社と関わるようになったのかは謎のままです。皆さん、この謎を解いてみませんか。」「鯖神社再建之碑二度の再建への努力を讃え 鯖神社及び氏子の繁栄を祈り ここに記念碑を建立する今田鯖神社は氏子中の尽力により元禄十五年の創建から数度の社殿の再建を経て今日に到っている。平成七年八月十一日の放火により、昭和八年建立の社殿は失われたが、氏子中は再建委員会を組織し 復興工事を完成させ、平成九年三月には遷宮奉祝祭を執り行った。同十三年三月一日再度不審火により新築の社殿は御神体と共に灰燼と帰したが、氏子中の再建への強い志は途切れることなく、同十四年六月には新社殿に新たな御神体を納め、再び奉祝祭を執り行なうに到った。その成果を讃えると共に二度とこのような災難がないよう末永い神社及び氏子各位の安寧を願い、氏子一同 決意を碑に刻し、その記録を残すものである。 平成十八年(二〇〇六)十月吉日 氏子中」「私たちのすぐ身近の風景にさり気なくとけ込んでいる鯖神社。実は沢山の魅力を秘めた神社なのです。祭神は源義朝公一番の魅力は、なんといっても祭神として源義朝公をお祀りしていることでしょう。源義朝公は、鎌倉府を開いた頼朝、平氏を壇ノ浦で滅ぼした義経の父にあたる方として有名ですが、義朝公ご本人も歴史上きな活躍をした人物です。義朝公は、平安時代末期の1123本拠地を構えて南関東の武士を結集することに努めました。1144年、義朝公が今田の近隣の大庭御厨(みくりや 藤沢市にあった伊勢神宮の荘園)に侵入したことは、関東における源氏勢力を挽回させる出来事として有名な出来事です。1146年頃に義朝公は京に移り、さらなる勢力の拡大に努めました。保元の乱( 1 156 )では、父為義と敵味方に別れて戦って勝利し、実の父を斬る運命を乗り越えて左馬頭(馬を管理する馬寮の長官)に任じられます。しかし平氏への不満と対抗から平治の乱(1159)を共諜します。平清盛と戦って敗れ、再起を図るため東国へ落ち延びる途中、尾張の野間(愛知県知多郡)に辿り着いたとき、旧来からの家臣の長田忠致とその息子景致(かげむね)に裏切られ、湯殿で謀殺されてしまうのです。義朝37才の若い最期でした。「無念なり、我に木太刀なりともありせば」と言い残したと伝えられることから、今も野間大坊の義朝廟には、供養の太刀がうず高く奉納されています。」サバ神社は十ニ社義朝公をお祀りする神社は、今田鯖神社を含めてたった9社しかありません。しかも、その9社の神社名は左馬、佐波、佐姿と漢字が違っていたり、今では別の社名で呼ばれているものもありますが、かってはサバ神社と呼ばれていました。そしてこのサバ神社も全国を探しても12社しかなく、義朝公でなければ同じ清和源氏の満仲公をお祀りしているのですさらに不思議なことに、この極めて珍しいサバ神社12社は、すべて境川・和泉川・引地川沿いの川に向かった高台に建っているのです。なぜ、義朝公をお祀りし、サバと変わった名前の神社が今田の周辺に集中して存在しているのでしようか。その謎の答えを導き出す糸ロは、祭神の義朝公とサバという神社の名前にありそうです。義朝公の死後48年以上もたった江戸時代の初め、義朝公を謀殺した長田忠致の子孫という旗本の長田氏がこの地方を領しました。あるいは、その長田氏が祖先の滅罪に義朝公の霊を祀ったとも考えられます。ちょうど江戸時代の初め頃、この地方は狩場や放牧地を農地として開発し、豊かな収穫を得るようになっていました。水の恵みをもたらす川は反面氾濫を繰り返し、人々の生活を苦しめました。そこで領民たちは、川の精を鎮めるために、また村の結束や繁栄を願い、領主の祀る源氏の勇猛な武将である義朝・満仲を鎮守神に迎えて御神霊とも厄除神、五穀豊穣を祈って礼拝してきたのかもしれません。さらにサバの名の由来には、祭神の義朝・満仲が左馬頭だったことの他に、沢(サワ)の神を祀る小祠や田の神(サンバイ)や生飯(サバ)から転じた、また鯖が持っといわれる強い薬効を願って鯖神社とした、など諸説あり、サバ神社の謎に対する確かな答えはまだありません。答えがなければ、謎はいつまでも謎として残ります。その謎を解いてこの地方の秘められた歴史を明らかにしたい。そんな思いが今田鯖神社の魅力をいっそう深めているのです。七サバ参りサバ神社はこの地域の人々に愛され、崇敬されてきました。その現れの一つに七サバ参りがあります。子供の疱瘡、麻疹、百日咳などの疫病がはやった時に、「相模七サバ」と呼ばれる7社を順次参拝して、早い回復を祈ったものです。子供をおぶって弁当持参、まず近くのサバ神社から始めて、川沿いの道を歩き、橋を渡り、あぜ道をたどって、一日がかりで詣でたのでしようか。病を癒す厄除神参りは、江戸時代末期より大正の中頃迄行われたこの地方の風習でした。「今田鯖神社の棟札を調査しました去る3月12日(日)、今田鯖神社内の新しい厨子に、こ神体であった神像と棟札類が安置されました。同神社は1995年と2001年にニ度の火災にあい、氏子の方々のご尽力で、そのつど建て直しが行われました。当時のこ神体は嘉永5年(1852)に納められた像でしたが、この火災により焼損を受けました。そのため新たに作られた神像にその座をゆずられ、同時に焼損した棟札類とともに、歴史を伝える文化財として末永く保存されることになったのです。それに先立ち、同神社保存会代表総代の方が棟札類に記された内容の調査にみえられたため、当館でも調査をさせていただくことができました。棟札とは、寺社などの建立の際、年月日や関係者の名前を木札に記し棟木に打ち付けるなどしておくものです。棟札類は7点ありました。内訳は、棟札が4枚、祈祷札が3枚です.煤けて文字が見えない部分もあり、生涯学習課の文化財担当と博物館準備担当の協力のもと、赤外線の照射による文字の判読を試みました。その結果、完全に炭化している部分は無理でしたが、かなりの文字を読み取ることができました。棟札の年代は元禄15年(1702)・享保5年(1720)・天保15年(1844)で、天保15年は2枚あり、うち1枚は「天照皇太神宮」の再建のものでした。残り3枚が鯖神社のものです。元禄15年は同神社の創建の年と伝えられていますので、創建時の棟札が残されていたわけです。祈祷札は寛政11年(1799)・嘉永5年(1852)・明治2年(1869)のものです。興味深いのは、棟札1枚と祈祷札2枚に「法主」といった立場で「諏訪山玉蔵院」という名が記されていることです.しかし今田村にこの寺があったという記録はなく、伝承も伝わっていません。調べていくと、片瀬の上下諏訪神社の別当をつとめていた修験の玉蔵院(現存しません)だということがわかりました。今田と片瀬は距離もあり、しかも高座郡と鎌倉郡で郡も異なっています。いったいどういう関わりで、片瀬の玉蔵院が、今田村の法主を務めることになったのでしようか。その謎解きは、今後の課題です。最後になりましたが、調査のきっかけをいただき、また、貴重な史料を快くお貸しくださった、今田鯖神社保存会の皆様に厚く礼申上げます。」参道を望む。更に参道の坂道を上って行った。平成8年石段撤去平成17年アスファルト舗装。石灯籠(右)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。石灯籠(左)宗和型嘉永4年4月奉納昭和8年頃拝殿前より移動。朱の木製燈籠が一対。正面に「拝殿」。石灯籠(右)春日型 平成9年10月1日奉納石灯籠(左)春日型 平成9年10月1日奉納神楽殿・大正8年建築と社務所社務所は平成15年7月改築 神楽殿に増築。「鯖神社 由来祭神源義朝公、創立元禄15年(1702)、例祭日10月1日 党利住人井上瀬兵衛により造立される。 祭神源義朝が佐馬の頭であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が 改築された。例祭日には子供御輿や山車が出てにぎやかである。(藤沢わがまちのあゆみより)」石碑群が左手に。手水鉢嘉永4年10月奉納。平成18年9月台座新設。4基の石碑用水堰改築記念碑大正15年11月建立昭和40年代頃境内へ移動。「記念碑相模中央東部有川日境川其○域以跨於高座○○之二郡有地称沿岸各村利用之設堰以便干灌漑者其數甚多六會村丸山地○亦古来有此堰而其築造不堅牢也頗年屡決関係村民毎俢之理之○供干水田八町八反有餘歩之用為之所費貨財常時尚○為尠若其當一朝偶暴風雨被害激甚也其○不可○○村民苦之負擔久村會議員杉山勘五郎選在管理之任苦心多年提唱堰改造時運亦到実現将近而不幸病没偶遭大正癸亥大震災堰悉破壊殆○可拾○杉山氏嗣子松五郎克幹父蠱策混凝土改良工事興衆相諮稟請縣費補助得其許可大正十五年二月十日起工同年四月十六日竣工於是乎得水田復旧労費亦共除焉挙村僉安堵即樹碑欲教子孫永記念之體其労苦無所苟怠屬文於余余因按状爰録其由云 大正十五年十一月吉○ 牧野随吉撰文又書 印(數:数 會:会 餘:余 當:当 擔:担 縣:県 體:体 混凝土:コンクリート)」「記念碑」。「道路改修記念碑」昭和8年建立昭和40年代頃今田西原バス停脇五差路角(今田710番地)より境内へ移動「道路改修記念」。「神楽殿建築紀念碑」大正8年10月建立。拝殿前壇上向かって左より移設。「神楽殿建築紀念碑」。「鯖神社新築記念碑」。昭和8年4月15日建立。拝殿前壇上向かって右より移動。狛犬(右)。平成9年10月1日奉納。狛犬(左)。平成9年10月1日奉納。「忠魂碑」。「再建資金 寄附者芳名」碑。 ・・・つづく・・・
2023.05.03
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「拝殿」への石段の両脇にあった狛犬(右)。角が無いのが獅子でしょうか。ひょろっとしたしっぽが可愛いかった。角がある狛犬(左)。「本来の狛犬には角があったのだ!」👈リンク と。新緑の溢れる石段を上って行った。最初の石段を上りきると、正面奥に「拝殿」が姿を現した。左手に「掛所(えまかけどころ)」。「心願成就 絵馬」。白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。「合格絵馬」。「令和五年癸卯(みつのとう)歳 絵馬」。境内には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。説明板の根元には「義経松」の碑があった。碑に隠れるように切株があったが松かどうか判断がつかない。松だとしてもさほど大きくなさそうであったが。「是より南の方三丁 「首洗井の史跡」👈リンク あり」と刻まれていた。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」そして更なる石段の上に「拝殿」。拝殿前にも狛犬(右)。奉納は「鳶太子講中」として「昭和二年二月吉日」、世話人以下30名以上の名前と「田島 穂良 書」「石工 服部 源次郎」と刻まれていた。太子講とは鳶職など職人さんが聖徳太子を職能神として祀ったもので、旧暦の1月21日、あるいは22日に太子廟を参拝して安全祈願を行ったり会合を行ったりしたのだと。この狛犬もその日に合わせて奉納されたものであろうか。狛犬(左)。「拝殿」。白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。近づいて。主祭神寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。源義経(みなもとのよしつね)共に祀られている神様天照皇大神(あまてらすおおみかみ)大国主命(おおくにぬしのみこと)大山祇命(おおやまつみのみこと)国狭槌命(くにさつちのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)唐破風下の見事な彫刻。さらに。緻密な彫刻にも目をひかれたのであった。唐破風の懸魚は鶴。奥には龍の彫刻。亀の彫刻。懸魚(鶴)と亀とで、鶴亀が。龍の彫刻。手挟(たばさみ)に龍が彫刻されているのは珍しいか?牡丹などの花が一般的。手挟(たばさみ)には鳥と龍の彫刻。扁額「忠友殿」と。白旗神社近辺の町名が記されていたが、何と呼ぶものなのであろうか?「源氏の家紋・笹竜胆」が多数装飾されていた。「天水桶」には雨水が流れ落ちていた。この正面にも「源氏の家紋・笹竜胆」が。そして「拝殿」の右側の案内板とその下に石が。「白旗神社 弁慶の力石「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。」「力石」。この「力石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。「本殿」の屋根を右側から。白旗神社の幟。「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。「本殿」の屋根を左側から。雨が強くなりだした。拝殿前から参道を振り返る。石段横のモミジ葉の新緑も雨に濡れて輝いていた。境内隅に立つ「祈祷殿」に向かって石段を下りる。再び「鯉のぼり」を見上げた。そして「祈祷殿」。内陣。ズームして。「おみくじ掛け」。「鯉のぼり」と「源義経公武蔵 坊弁慶公之像」を再び。境内の巨大な今年・「令和五年癸卯(みつのとう)歳」絵馬。牛若丸と今年の干支である兎が八艘飛びのように船上で戯れている様子が描かれていた。再び社務所前の雨に濡れた純白の「義経藤」を追う。今年も、相州 藤沢「白旗神社」の「弁慶藤」、「義経藤」を独占・堪能し、そして久しぶりの境内巡りを、これもほぼ独り占めし楽しんで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.02
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相州 藤沢・白旗神社の「弁慶藤」、「義経藤」を愛でた後は、久しぶりに境内の散策を。手前に白旗川に平成8年架橋された「御典橋」とその奥に「大鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「御典橋」の右側欄干には真鯉(まごい)が。「御典橋」の左側欄干には緋鯉(ひごい)が。大鳥居脇には小さな日本庭園があり、奥に「白旗弁財天」が祀られていた。「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。亀が鎮座。その昔、街道から白旗神社を望むと、亀の形に見える事から(白旗神社は頭の部分)亀形山と呼ばれているのだ。正面から。「手水舎」の天井には龍が描かれていた。向かい合うようにあったのが「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」「源義経公武蔵坊弁慶之像」。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。ズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。「八海山大神」と刻まれた石碑。「御嶽大神」と刻まれた石碑。「三笠山大神」と刻まれた石碑。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」「旧東海道・藤沢宿」案内地図。ーーが旧東海道。そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。近寄って。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。「庚申供養」碑。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。近寄って。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「金のしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。」隣の素朴な石碑。その奥にあったのが「歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺 」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。ズームして。江ノ島弁天の鳥居そしてお参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている様子が。更に奥にあった境内社は共に「稲荷社」。向かって右。向かって左。 ・・・つづく・・・
2023.05.01
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「雲昌寺」の境内の散策を続ける。雲昌寺の山門近くには庚申塔、二十三夜塔そして手前にお顔のない仏像・「首なし地蔵」が並んでいた。首なし地蔵は、明治の初めのころ、博打うちの間で地蔵の頭を持っていれば博打に勝つという縁起があり、持ち去られてしまったと。今、その地蔵さんの身代わりなのか、門前の右側に六地蔵があった。左から山状角柱型「廿三夜塔」(講中 明治7年戌歳 二月吉日(1874))、角柱型「二十三夜塔」(亀井野村 南 藤澤 北 八王子道 文久二壬戌年 霜月吉祥日(1862) その横に「庚申塔」(天保)、「庚申塔」が。その先にも。山門前から境内・「本堂」、「鐘楼」を振り返る。そして山門を抜けた右側には庚申塔の青面金剛像が三体。庚申は、十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)の組み合わせで暦の上では60日に一度回ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰。この信仰は平安時代には宮中などにおいて宮廷貴族の間で庚申の御遊びがあり、鎌倉時代には武家たちも守庚申を行って来たと。青面金剛像は、主尊の青面金剛以外に、背面には日月や、台座には猿、鶏、邪鬼、腕の数は、二臂から八臂まであり、腕が持つ 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など様々の姿を。右:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。三猿は三匹の猿が、それぞれ目、耳、口を両手でふさいでいる彫刻。いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」。孔子は論語の中で孔子は「礼節にそむくことに注目してはいけない。礼節にそむくことに耳を傾けてはいけない。礼節にそむくことを言ってはいけない。」と、三つの戒めを言っているのです。中央:駒形板碑 六手剣人青面金剛+三猿 年不詳。左:駒形板碑 六手合掌青面金剛+三猿 年不詳。「六地蔵」。「光輝山雲昌寺宗名 曹洞宗(禪宗)伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禪風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす その教義は瑩山禪師に よって広く全土に実践教化され今日に至ります お二人を両祖大師と仰ぎます大本山 永平寺 高祖道元大師ご開山 福井県 總持寺 太祖瑩山禪師ご開山 横浜市曹洞宗本尊 釈迦牟尼仏当山本尊 如意輪観世音菩薩教え 生まれながらにもっている佛のこころを実践しひたすら人として生きるのが禪である と教えます 人はともすると 我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのみとをつくっています しかし ひとたび佛の御前に悔い改め真心をささげ深く黙照して坐するなら心が 落ち着いて自ずと生活が調えられ人生が明るくなり 他の役に立つことを喜び 又 どんな苦難にも耐えてゆこうとする信念が強まります そこに生き甲斐と 幸せを発見するのが 禪の教えです」併せて創建 建保年間 (1213~1219年)開山 玖山宗順開基 北条義時札所等 相模国準四国八十八ヶ所霊場 第46番・第66番札所」四脚門の「山門」。右手に寺号標石「曹洞宗 光輝山 雲昌禅寺」。山門前の掲示板にあった「北条義時供養塔」案内図。「雲昌寺」の山門を振り返る。左手には「不許葷酒入山門」と。「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。亀井野「防災会館」横にあった石碑。「陸軍歩兵上等兵小菅應輔之碑」、「陸軍歩兵一等兵平川龜次郎之碑」。その予期に日露戦役「紀年碑」。「継立場跡」雲祥寺前を走る旧滝山街道(八王子街道)を約100m弱北に行ったところに、江戸時代には継立場が置かれ、幅3間(約5.5m)の道に沿って、旅人や人足、牛馬の休息所や、乗り換え用の馬、茶店などが整っていた。南は藤沢宿へ1里9町(約5キロ)、北は長後(藪鼻)の継立場まで1里(4キロ)の位置にあった。この地に近くで滝山街道と交差する塩つけ道を通って、金沢・六浦から運ばれた塩の市が、この場所で月に6回開かれていた。右手には、歴史を感じさせる民家の門が今も残っていた。更に進むと、道路の右側にあったのが「上屋敷の道祖神」。滝山街道(八王子街道)沿い、小字・上屋敷の辻に文字神名道祖神1基と、双体道祖神2基が並んでいる。文字神名道祖神は明治30年(1897)、亀井野村氏子中造立だが、双体道祖神の方は2基とも摩耗が激しく銘が読み取れない。1基は寛政5年(1793)造立の記載がある。道祖神の辺りは、街道沿いに亀井野の旧家が並んでいるのであった。寛政5年(1793)造立の「道祖神」。「芭蕉の句碑」が「上屋敷の道祖神」の向かいの民家の庭の中央にあった。滝山街道に沿った、亀井野地区の旧家のひとつである加藤家邸内にあった。明治13年(1880)に松富可都良をはじめとする地元の俳人11名によって建立された。碑面は、「道のべの 木槿は馬に くはれけり」と読める。以前この付近に旅人の通過する継立場があったことから、芭蕉が41歳のとき(貞享元年=1684)、駿河路から大井川辺りを行く旅の途中で読んだこの句が選ばれたようだ。ズームして。この日の【藤沢地名の会 地名探索】の最後に「法泉寺」に向かって進む。「国道467号」の「法泉寺歩道橋」を渡り湘南台方面を見る。藤沢方面を見る。そして「法泉寺」が見えて来た。「法泉寺」山門。寺号標石「日蓮宗 正耀山 法泉寺」。この石塔には?「法泉寺(ホウセンジ)開基は、明治後期頃、加藤九一郎氏るよもので、横浜金沢文庫・杉田付近にあった廃寺法泉寺を現在地に移したものです。御本尊は、日蓮上人で最上稲荷社が合祀されています。また境内には、浄行菩薩像と水子観音像が建立されています。 藤沢市」「本堂」。扁額「正耀山」。「内陣」。「浄行堂」。近づいて正面から。「浄行菩薩像」が鎮座。題目碑「南無妙法蓮華経」。小さな「大師堂」の中に石仏・「弘法大師像」が。当時は、相模国準四国88ヶ所霊場の51番札所であったのだと。「弘法大師像」。この「弘法大師像」は、元円行村八幡社にあったもので、その後、数年前までは同町内の個人宅にあったが、事情があって法泉寺へ移された とのこと。「水子大菩薩女像」。明治7年5月建立。「馬鳴菩薩像」。蚕神ともいい、養蚕の神で、貧しい人々に衣服を与えるとして尊崇される菩薩である と。大きな台座に載った石碑、石仏。中央に「道祖神」、左に「双体道祖神」。「藤沢都市計画事業六会東部土地区画整理事業の為亀井野字大久保一七ニ三番地所在の道祖神を復建移転安置せり 昭和五十一年一月十四日建立 亀井野中組講中」そしてこの日の【藤沢地名の会 地名探索】小栗伝説の残る六会を巡る を完了し小田急線「六会日大前駅」まで戻り解散したのであった。この日の散策ルート。この日の探訪地マップ。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.04.28
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「左馬大明神社」を後にして次の目的地の「土震(すなふるい)塚(小栗判官蘇生伝承地)」に向かって県道403号線に向かって進む。県道403号・菖蒲沢戸塚線の交差点の角にあったのが先程訪ねた「曹洞宗西嶺山花應院入口」案内。「閻魔大王像(藤沢市重要文化財)、小栗判官照手姫縁起絵巻・地獄変相十王図」と。亀井野下から境川への坂を上って行き、左手にあった石段を上って行った。石段の上の高台の畑地の中にあったのが「土震(すなふるい)塚」。毒殺されて埋められた小栗判官が、蘇生した場所と言われる。遊行第14代太空上人の夢枕に、閻魔大王から判官蘇生のお告げがあり、上人が上野原の埋葬地に出向くと、カラスの群れている塚が四方に割れて、醜い餓鬼の姿で判官が蘇生し、体の土を振るい落としたといわれる。塚の上には一本の大きな榊の古木が茂り、昔この榊の枝を伐採したら、地面が震動したため、以降村人はこの榊に手を付けるのをやめたと言われる。榊は今、枝を払われた小木となり、昔を偲ぶことは難しいのであった。この一帯には小栗判官にまつわるものがいくつか残されており、また遊行寺に残る小栗判官の伝説では、ここが小栗を毒殺した横山の屋敷があった場所であるとも言われているのだ。僅かに盛り上がった土盛りの中の榊の古木の周辺には石碑や案内板等は全くなかった。そして「土震塚」への石段の上からは、道路の反対側にある石碑が見えたので次に訪ねた。「伝承小栗塚之跡」と刻まれた石碑。石碑の手前にあったのが「湘南ゆうき村」。「社会福祉法人 藤沢育成会 湘南ゆうき村」。藤沢市の知的障害者通所施設、身体障害者・高齢者デイサービス施設。石碑「伝承小栗塚之跡」前から。小栗塚は湘南ゆうき村建設に伴って消滅したのであった。現在は石垣の上に「伝承小栗塚之跡」の石碑が寂しく建っていた。地元の寺・遊行寺は説経節の「小栗判官」でも登場するゆかりの地であるが、ここには説経節とは異なる伝説が残されているのだ。常陸国にあった小栗満重は、謀反の疑いで鎌倉公方・足利持氏に追われて三河へ落ち延びる途中、相模国藤沢俣野の横山大膳という者の屋敷に滞在した。実は横山大膳は盗賊であり、財宝目当てで小栗を殺そうとした。それを知り窮地を救おうとしたのが、この屋敷で働く照手という遊女であった。しかし毒酒を飲まされた小栗は死に、上野原に棄てられた。14代遊行上人であった太空上人は、夢の中で閻魔大王より小栗を助けよとの言葉を受け、上野原で蘇った小栗を見つけ、熊野湯の峰へ行けるよう段取りをする……という展開となる。いずれにせよ、この小栗塚と土震塚が埋葬と蘇生の伝承地されているのだ。「小栗伝説中世になると、浄土信仰が全国的に広まり、時宗は浄土の教えに小栗説話なども交えて人びとの心をひきつけた。小栗伝説は、説教浄瑠璃などにも登場する。一度は地獄に落ちた判官は、閻魔大王の力によって再びもとの地に、餓鬼となってよみがえる。冥界の人口は小栗塚、娑婆(しゃば)への出口は土震塚、遊行上人の情にもすがった判官は、はるか後方現世の、西方浄土熊野へと送られもとの美男子に生まれ変わる。美女照手姫車引の話もからめ、壮大なロマンとなる。史実・伝承あい混じり江戸初期より伝承する大王像・小栗絵巻などは花応院に現存する。今も「閻魔祭」や「判官絵解き」の行事の時に目にすることがてきる。「湘南ゆうき村」建設に伴って調査し、塚のもとの位置には、現在「伝承小栗塚」の碑が建っている。 平成七年十月一日 西俣野史跡保存会 社会福社法人 藤沢育成会」石碑「伝承小栗塚之跡」を後にして再び「境川」沿いの道に向かって山林の中の山道を下る。途中にあったのが「馬頭観世音」碑。その隣にあった石仏。お顔の部分は補修されていた。竹林の中を進む。そして「境川」沿いの下道に出て再び「横浜薬科大学 図書館棟」を見る。この先の境川には昔は「常使橋(じょうつかいはし)」があったと。「常使橋橋戦後、県道菖蒲沢・戸塚線が開通し、境川を渡る俣野橋が架けられたが、それ以前はやや上流に「常使橋」があり、西俣野と横浜市戸塚区俣野町を繋いでいた。橋名の由来は、俣野郷と大庭城の使者が常に往来していたからと言われる。こから百坂を越えて滝山街道に通じる道は、西俣野を貫く往時の主要道のひとつだったようだ。」その先、民家の大谷石塀の中にあった「庚申塔」。藤沢市西俣野360。この先左側が「西俣野道場跡」常使橋跡から境川に沿って遡ると、西側に今は宅地となった高台が続き、この辺りに以前道場ヶ谷(どうじょうがたに)という字名があった。1325年に藤沢に遊行寺(清浄光寺)が開山となるまで、開祖の呑海が、兄でこの地の地頭であった俣野景平より土地を譲り受け、布教活動の拠点とする修行道場を開いていたとされる。現在小栗塚公園や北窪公園のある一帯が修行道場跡地と推測される。新編相模国風土記稿には、「堂場ヶ谷」と記載されている。相模野台地と境川の低地が交錯する場所で、道場が廃されたあとこの地は、村共有の萱場(屋根葺の材料)となっていた と。「境川」の堤防上にある「藤沢大和自転車道線」を歩く。一般に「境川サイクリングロード」とも呼ばれる。整備済み区間の大部分が境川の右岸(西岸)に沿っている。総延長:24.5km(整備済み区間:20.1km)起点:藤沢市鵠沼海岸 - 国道134号松波交差点の地下に設けられた 地下横断歩道「湘南 海のちか道」終点:大和市下鶴間 - 国道246号大和橋西詰そして前方右手に見えて来たのが「和泉川」の境川への合流地点。「境川遊水地 情報センター」に到着し、自由時間となり、近くのベンチで、各自用意していた昼食を楽しむ。「境川遊水地 情報センター」内にあった「県立境川遊水地公園」周辺の航空写真。遊水地のできる前の航空写真。「境川遊水地 情報センター」の「エントランスホール」。下飯田遊水地のビオトープを見渡せる場所にテーブルセットがあり、ゆっくりくつろぐことができるのであった。「河川情報スペース」。境川遊水地に関するビデオの上映(8分間)と遊水地の機能、県内の河川情報や治水の展示パネル、境川遊水地周辺で見られる生き物の情報展示などがあった。遊水地周辺の「生きもの」展示コーナー。そして自由時間を終了し、定時に再集合。「県立境川遊水地公園」案内図。右から「俣野遊水地」、「下飯田遊水地」、「今田遊水地」。広さは26.1ヘクタールに及ぶ。過去、氾濫を繰り返してきた境川下流部の洪水防止を目的に作られ、2019年に完成、3遊水池を合わせて約90万m3の貯水量がある。水辺の様々な生物が生息できるビオトープが設けられ、少年野球部、テニスコート、多目的グランドなども整備されていたのであった。「境川遊水地 情報センター」を後にして、境川に架かる「遊水池橋」を渡る。「遊水池橋」から「境川」の上流を見る。「遊水池橋」から「境川」の下流を見る。住宅街の東側の坂道を上って行った。右手に鎮座していたのが「北窪の馬頭観音像」と「馬頭観音」碑。天保3年(1832)辰3月吉日の銘があり、念仏講によって建てられた勢至菩薩像(馬頭観音像という説もある)で、隣に明治2年(1869)銘の馬頭観音文字塔もあった。「北窪の馬頭観音像」に近づいて。近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県では馬に跨った馬頭観音像が多く見られるとのこと。周囲には「日本大学生物資源科学部」の実験農場が。緑が一面に拡がる実験農場。立入禁止と。そして地元の寺「雲昌寺」を本堂裏の墓地側から訪ねた。「雲昌寺歴代住職の墓」の奥にあったのが、北条義時の墓?とされる「道西塚碑」。もとは瑞龍寺の跡地にあったが(現県立藤沢工科高等学校の辺り)、雲昌寺住職によって、ここ「雲昌寺歴代住職の墓」に移されたとのこと。碑面には「光輝院殿瑞龍道西居士」と刻まれていた。現存するこの碑は江戸時代後期のものと考えられているとのこと。墓地から雲昌寺の位牌堂を見る。北条義時の墓?とされる「道西塚碑」があった「雲昌寺歴代住職の墓」を振り返る。「雲昌寺」👈リンク の「位牌堂」内の仏様。そして「本堂」前の石碑・石仏群。「水子地蔵」、「愛育地蔵」。その左の石仏と石碑。この石碑には「南無阿弥陀佛」と。大師像が2体。「相模国 準四国 八十八ヶ所第四十六番 円行村青雲寺御詠歌 青雲のうきよはるりの海なれや薬師のめぐみむすばぬはなし第六十六番 亀井野雲昌寺御詠歌 白峯の雲よりうつる月影もよろす代すめり亀井野の水」両方の大師像とも番号不明のため特定できず相模国準四国八十八ケ所結願令和三年十一月吉日豊田澄子秋元道恵」その隣にあった石仏。さらに石仏が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.27
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「花應院」を後にして、少し戻り、境川に向かって進む。途中、右手には一面にピンクの「芝桜」が栽培されていた。これから出荷するのであろうか。テレビのニュースでは、2023年4月15日(土)~5月28日(日) にわたって、「富士芝桜まつり」が行われているとのこと。「富士芝桜まつり」の写真をネットから。行ってみたいが!!いや、一昨日4月24日(月)に行って来ました。そして前方に大きな石碑が2基、西俣野の田んぼを見渡すように建っていた。御嶽神社より移設されたものと。左側の石碑は、当地の悪路を改修し、併せて行った用水路の改修も完成したことを記念する土地改良竣工記念碑「疏通悠容」と。「當部落は従来より水田用水の不足と交通運輸を阻む悪路とに悩まされていたのである。茲に部落農民一同 此の難関打開に蹶起邁進し悪路改修については昭和三十二年度より着工。同三十九年度に入りて竣工を見。用水不足については同三十五年土地改良区を設定し其の改修に着手した。尓来(じらい)四年に亘り総工費約千七百万円、水路延長四千五百六十五米の工事は本年五月完成したのである。此の大事業の成功裡には部落農民一致協力、役員の労苦、市當局の援助等の存在することを思い、転(うたた)、感慨に堪えない。洵(まこと)に近代農業基盤を確立したものと謂うべきか。茲に其の概要を記して以て後人に伝う。昭和三十九年五月五日 藤沢市長 金子小一郎 篆額撰文並書」石碑裏側には「御芳名」と刻まれ関係者の名前が並んでいた。右側は「西俣野暗渠排水之碑」。「西俣野暗渠排水之碑」。「西俣野ハ相模國髙座郡六會村ニ在リ田地約四十五【亜百】(ヘクタール)内十五【亜百】ハ濕田ニシテ収穫ニ乏シク反當(たんあたり)玄米四俵ヲ出デズ、故ニ本邑(ほんゆうの[この村の])人士夙ニ(つとに[以前から])是(これ)ガ改良ヲ念(おも)ヘドモ未ダ其ノ志ヲ得ズ以テ遺憾トセリ。茲(ここ)ニ昭和七年農村匡救(きょうきゅう[救済して良くする])事業國庫補助ノ事アリ 村民 聖恩[天皇の御恩]ノ優渥(ゆうあく[手厚いこと])ニ感ジ以テ更生ノ機至レリトナシ同志三十七名勇躍宿志ノ達成ヲ誓ヒ西俣野暗渠排水組合ヲ組織セリ、乃チ(すなわち)縣耕地整理茅ヶ崎出張所ノ設計ニ據(よ)リ昭和七年十一月十五日起工 同八年四月十日竣工ス。先ノ施工地中央ヲ貫流スル小川ノ延長九〇九米(メートル)ヲ堀渫(くっせつ[土を掘って上げ])シ排水本溝トナシ之に配するに暗渠幹線一八一八米 支線ニ一粁(キロメートル)ヲ以テシ茲ニ二毛作ノ良田約十四【亜百】ヲ得タリ。今ヤ邑民(ゆうみん[村人])多年ノ宿望成リ自力更生ノ酬イラレタルヲ欣ビ(よろこび)以テ碑ニ刻シテ永ク記念トス。後昆(ごこん[後世、子孫])深クソノ本(もと)ニ報イ始ニ反(かえ)リ以テ有終ノ美ヲ濟(もたら)スヲ疑ハザル也昭和八年四月十五日 従五位勲五等 清水勝雄 謹書」※碑文には、ヘクタールを表す一字の漢数字「亜+百」の合字が刻まれていたが、パソコン用の文字はなし。やむを得ず【亜百】として代用するが、本来一字であって、100亜(アール)=1ヘクタールを表す漢数字である。石碑裏側には「昭和八年四月 発起人 故 飯田傅之輔」と。その後には多くの方の名が刻まれていた。石碑前から、南方向を振り返ると、「旧塩つけ道」の「金沢橋」が見えた。ここ俣野という地名は「吾妻鏡」に「大庭(おおば)御厨(みくりや)俣野(またの)郷(ごう)」とあるように古い地名で、境川を跨いで広まった野とか、また横浜市泉区から流れる和泉川とこの辺で合流するので、川が二俣に分かれた形に由来するとも言われています。江戸時代の俣野郷は、中央を流れる境川を挟んで、東側には鎌倉郡上俣野村と東俣野(下俣野)村、西側には高座郡西俣野村の三つの村に分かれていました。現在は、上俣野村と東俣野村が横浜市戸塚区俣野町と同東俣野町に、西俣野村が藤沢市西俣野と呼ぱれているのだ。この地区には、鎌倉時代の古道として知られる「上ノ道」と「金沢道」があった。「上ノ道」は「いざ鎌倉」の軍用路で、元弘3年(1333)、新田義貞が今の東京都府中の分倍河原で北条氏を破り、この道を通り、稲村ヶ崎から鎌倉にうち入って、鎌倉幕府を倒した。「金沢道」は金沢より鎌倉を経て、当地の「金沢橋」を渡り、座間の星谷観音、滝山・八王子方面に通じる「塩つけ道」です。亀井野の継立場では、塩市が開かれ、江戸湾・武蔵国久良岐(くらき)郡(こおり)六浦郷金沢(照手姫が横山館を抜け出し追手に捕まった所、現横浜市金沢区)から朝比奈を越え鎌倉に入り、村岡、東俣野を通り金沢橋を渡って運ばれてきた塩が売られていました とネットから。「藤沢市西俣野」と「横浜市戸塚区東俣野町」の境を流れる「境川」そしてその先の「横浜市戸塚区東俣野町」の街並みを見る。横浜薬科大学の図書館棟を再び。地上21階建て、高さ70m程の建物は大学のシンボルでもある図書館棟で、1階~8階までが図書館、9階~20階が事務室、研究室、学長室であると。因みに前身は横浜ドリームランドに併設されていたホテルエンパイアの建物で、横浜ドリームランドが2002年(H14)に閉園した後、改装されて現在に至っている。その先にあったのが「瞽女淵之碑」。「土手番様(どてばんさま) 水難除供養塔 地蔵菩薩立像 弘化4年(1847)」 下部の基壇に「水難除」と書かれた頭部の欠けた、付近の人々が「土手番様」と呼んでいる石仏。「道祖神」碑。ズームして。昭和53年この地に建立。「瞽女渕(ごぜぶち)と土手番(どてばん)さまむかし境川は、毎年のように決壊氾濫する暴れ川でした。江戸時代、この付近は決壊しては淵となって、村の有志がたびたび埋め立てをしていました。あるとき、瞽女が、この淵に落ちて死にました。それからこの淵を、「瞽女淵」と呼ぶようになりました。「瞽女」とは、三味線を弾いて唄いながら家々を回り、施しをもらい生活していた、目の不自由な女性の旅芸人です。また江戸時代のあるとき、一人の武士が瞽女淵付近に身を投げました。武士は、自分が死んで土手を守ってやろうと書いた手紙と刀、お金を残していたそうです。村の人々は、この武士を閻魔堂の墓地に葬り、はじめ金沢橋に、その後、瞽女淵の側に移して像をまつり「土手番さま」と呼び、明治時代までは正月(もと十二月)に祭礼を行っていました。土手番さまの像は、地蔵の姿をしていますが、明治時代の廃仏毀釈のときに、頭を壊されたといいます。なお、土手番さまの墓と刀と称するものは、今日も残されています。ことの真実はともかく、氾濫を繰り返した土手をめぐって、ただならぬ出来事がかつてあったことが想像されます。そして、明治四十ニ年(一九〇九)には総合耕地整理が実施され、瞽女淵が埋め立てられたので、大正元年(一九一ニ)に記念碑が建てられました。 令和ニ年(ニ〇ニ〇)ニ月 藤沢市教育委員会」「瞽女淵之碑」に近づいて。裏面には「往古ヨリ一小淵アリ、偶々(たまたま)延宝年間一人ノ瞽女溺死シ茲(ここ)ニ始メテ瞽女淵ト称ス。其後溺死スル者数人為メニ深淵ナルカ、有志屡々(しばしば)是ヲ埋メ堅堤ヲ築クト雖(いえど)モ一朝洪水ニ会スルヤ堤塘決壊シテ忍(すなわ)チ淵トナシ 亦田圃ニ氾濫ス。弘化四年一浪士此厄除カント遺書シテ犠牲トナル、依テ村人其霊ヲ祭リ土堤番ト崇敬ス、明治四十二年藤沢町六会村俣野村総合耕地整理施行ノ結果該渕ノ旧態ヲ滅スルニ至ル茲ニ於テ有志ト相謀リ碑石ヲ建立シテ殉難者ノ霊ヲ追福スルト共ニ永ク之カ記念トス 大正元年十二月十四日建之」と。【昔は、この付近の境川はよく大水が出て堤防が切れたため、この辺の百姓は、水で難儀をしていた。延宝年間(1673~80)には、この付近で歌を歌い門付けをしていた盲目の旅芸人(瞽女)が堤防が切れた為に出来た池にはまり命を落とした。それ以後この場所は瞽女渕と呼ばれる様になった。弘化4年(1847)の或る日一人の浪人がどこからか流れて来て瞽女淵のあたりにたたずんでいた。目の前には、切れた堤防からあふれた水で池のように変わった田畑の風景が広がり、野良で働く百姓の姿もなかった。浪々の長旅で体力も衰え、将来への希望も失っていた浪人は、やがてどこかの地で行き倒れる身、それならここで水害に苦しむ農民の為に命を投げ出そうと決心した。次の日の朝、村人は堤の上に置かれた大小の刀と紙片を発見し大騒ぎとなった。淵の水溜りからは浪人の遺体が見つかった。紙片は書置きで、そこには「この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を守りたい。】と。さらに境川に沿って北に進む。左に折れ「旧塩つけ道」を西に進む。右手奥の空き地にあったのが「十王堂跡」。石碑には「末庵 十王堂 常光寺廿七主了譽」と刻まれた石碑。天保11年(1840)の火災で焼失した、「閻魔(えんま)堂」跡(もとの法王院十王堂跡)。「閻魔堂跡(えんまどうあと)(法王院十王堂跡(ほうおういんじゅうおうどうあと))法王院十王堂、通称、”閻魔堂”は慶長5年(1600)の建立といわれ、鎌倉材木座の浄土宗光明寺の末寺、あるいは同系統の藤沢の常光寺の末寺であったという。天保11年(1840)に火災により堂が消失したが、閻魔大王座像・地獄変相十王絵図・小栗判官縁起絵図などは、村の若者たちの手により運び出され、難を免れた。これらの遺産は何れも花應院に現存する。堂跡には小栗墓塔、土手番様の浪人の墓、歴代住職の墓が残っている。 六会地区郷土づくり推進会議」さらに石碑に近づいて。そして小栗墓塔に向かって進む。左手には墓地の所有者の北村家代々の墓があった。右側には古い墓石が横一列に並んでいた。古い墓石の中央にあったのが「小栗判官の墓」。石碑には「小栗墓塔」の文字が刻まれていた。「小栗判官の墓」は閻魔堂消失後、像と共に花應院に移されたが明治になりゆかりのある元の場所に移されたと言われているとのこと。その左隣は「照手姫」の墓石のようであった。卒塔婆にはそれぞれ、「天翁録守信士」、「忠光院殿刃空浄居士」、「照手姫」の文字が。「天翁録守信士」:この村を水害から救う為にわが身を投げ出し、人柱となってこの土手を 守った浪人。「忠光院殿刃空浄居士」:小栗判官「照手姫」:小栗判官の妻「小栗判官の墓」の説明をする山本さん。浪人の墓「天翁録守信士」。「小栗判官の墓」から「境川」方向を見る。ここから「瞽女淵」が見えたのであろう。この右側に「乾の御所跡」があったのだと。閻魔堂のある辺りの小字名を御所ヶ谷という。照手姫の御所がこの辺りに存在したことに由来する。説教浄瑠璃による小栗伝説では、照手は当地の郡代・横山大膳の娘となっている。横山の館が境川を跨いだ東俣野・殿久保(現:字戸ノ久保)にあったとされ、そこから乾の方向(北西)にあるため乾の御所と呼ばれた。またこの地は境川の低地を見晴らす場所で、鎌倉時代後期に地頭職の地位にあった俣野五郎景平の居館跡とも言われる。景平は、遊行寺(清浄光寺)開祖・呑海の兄で、その居館跡については、境川対岸の東俣野にあったという説もある。また御所ヶ谷の北側にかって埓田(ませだ・馬背田)という地名があり、小栗判の鬼鹿毛が馬栓棒をくわえて逃げ、それを捨てたところと言われていた。ハナモモの花が。そして次に訪ねたのが「左馬大明神(さばだいみょうじん)」。「左馬大明神(さばだいみょうじん)祭神は源義朝。「相風記」には「佐馬頭義朝の祠なり、神禮寺持」と記されている。元は小栗塚の台地にあり、明治の初めに現在地に移されたという。。”サバ神社”と呼ばれる神社が、現在境川と引地川の流域に12社散在し、左馬、左波、鯖、左婆などの文字が当てられている。 六会地区郷土づくり推進会議」「左馬大明神」の内陣。「左馬神社」の語源については、源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったためともいうが、諸説あり詳細は不明と。 源義朝を祀る神社が何故ここにあるのかも不明とのことであるが、この地を支配した大庭氏は、1156年(保元元年)の保元の乱までは義朝に従っていたのだ。「源氏の棟梁を祀るサバ神社めぐり①左馬社 👈リンク 横浜市瀬谷区橋戸3ー2 0②左馬神社 👈リンク 大和市上和田1 1 6 8③左馬神社 👈リンク 大和市下和田1 1 1 0④飯田神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町4 8 1 1⑤佐婆神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町⑥中之宮左馬神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町⑦七ツ木神社 👈リンク 藤沢市高倉1 1 8 2⑧鯖社 👈リンク 横浜市泉区下飯田町1 3 8 9⑨鯖神社 👈リンク 藤沢市湘南台7ー2 0 ⑩鯖神社 👈リンク 横浜市泉区和泉町7 0 9⑪左馬大明神 藤沢市西俣野字御所ヶ谷⑫佐波神社 👈リンク 藤沢市石川139 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.26
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そして「小栗判官・照手姫 縁起の寺 花應院」に到着。「不許葷酒入山門」碑。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。「曹洞禅宗 西嶺山 花應院」碑。側面には「奉祈 馬頭観世音菩薩」と。「案内板」。「市指定重要文化財(彫刻) 昭和四十一年(一九六六) 一月十七日指定 石造閻魔大王像 像高 24.0cm 袖張 25.0cm小像ながら力強さと大きさを感じさせます。安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りあげ、閻魔大王の風貌をよくとらえています。造立年代は近世初期と推定されています。以前は村内の閻魔堂(現、西俣野八〇五)の本尊の「前立ち」として安置されていましたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花應院に移されたものです。木造彩色の閻魔大王像は、像高104cm、袖張104cmと大型像ながら丁寧な彫刻が施されており、『新編相模国風土記稿』には「小野篁(たかむら)彫刻せしと云う」と記されています。背後から石像閻魔大王像を胎内に納める作りとなっています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」「石造閻魔大王像(市指定)」。「小栗判官・照手姫、縁起の寺小栗判官と照手姫の物語は、中世以降から伝承されてきた物語です。説経節として端を発し、浄瑠璃や歌舞伎などの題材にもなり世に広まりました。物語の大筋は、照手姫を見初めた子栗が、姫の父兄に殺され、閻魔大王によって娑婆に戻され、藤沢の遊行上人の助けを得て蘇生し、姫と再会し復讐するというストーリーです。ここ花應院には、小栗判官照手姫縁起絵と地獄変相十王図(地獄絵)が伝来し、例年一月・八月二回の閻魔祭りでは、縁起絵並びに十王図の開帳と共に、伝説の小栗判官・照手姫の奇想天外な物語と、地獄のさまざまな姿の絵解きが行われます。西俣野には「小栗・照手ゆかりの地」として、多くの史跡・地名が残されています。 平成三○年(ニ〇一八年) 二月 藤沢市教育委員会」この後見た「小栗判官縁起絵」。境内を進む。右手に「六地蔵」。本堂への参道両脇の銀杏の老木の根元の石仏(右)が迎えてくれた。銀杏の木の根元にも石仏(左)。本堂に向かい合う形で鎮座する石仏群。近づいて。さらに右側を。慈母観音像であっただろうか。そして社務所の脇にあったシャボン玉自動生成装置。住職の自家製なのであろうか。正面に「本堂」。「本堂再建紀念碑」。「藤沢市指定重要文(彫刻)石造閻魔大王坐像本像はもと焔魔堂(正しくは法王院十三堂といい、花応院の北方100mに「閻魔堂跡」として保存)の本尊である木造閻魔大王坐像の”おまいだち”として安置されていたが、天保十一年(一八四〇)のお堂の火災の際に、村の若者の手によって危うく難を免れ、花応院に移されたものである。本尊の閻魔大王像は、木造彩色坐像で像高一〇四・〇cm 袖張一〇四・五cm と大型像ながら、丁寧な彫刻が施されており、一説には、平安時代の漢学者、歌人である小野篁(おののたかむら)の作と伝えられている。他方、市指定重要文化財の石造閻魔大王坐像は、前記の木造閻魔大王坐像の胎内仏で、像高ニ四.〇cm 袖張ニ五.〇cmと小像ながら、安山岩製の硬質な石材を巧みに彫りこなして、大王の風貌を遺憾なく表現した秀作で、造立年代は室町後期か桃山期と推定されている。昭和四十一年一月十七日 指定藤沢市教育委員会」そして「本堂」手前の隣室に入ると壁に沿って「地獄変相十王絵図」が並んでいた。毎年1月16日と8月16日に行われるのは「花応院閻魔祭」にて住職による複製11幅による「地獄変相十王絵図」の「絵解き」解説が行われていると。是非今年こそ。8月16日に花応院を訪ね、住職の説明を聞いて、それぞれの地獄絵について説明書きを追記したいと思います。右から①閻魔大王裁きの場②畜生再生の図③血の池地獄の図①閻魔大王裁きの場 左に罪をはかる秤(はかり)。右に生前の罪をうつす浄瑠璃の鏡。閻魔大王のまえには司命。 司録がいて、人命を司り、一切の記録を。亡者は首枷(くびかせ)をはめられ、しばられて 鏡のまえに。②畜生再生の図 人から再生した馬を、地獄の獄卒、馬頭が追う。亡者の頭に錐(きり)を刺し、善行を命ずる 脳に入れかえる白鬼。鉄の杭にしばり、大きな釘抜で、下を引き抜こうとする鬼。③血の池地獄の図 お産で死んだ人が落ちる血の池地獄。一人女がはい上がり、山の下で祈りをささげる。 救いにこられた地獄菩薩のお姿。亡者の悪い腹に釘を打ち、善に変えようとする鬼。左から④修羅地獄の図。⑤針の山地獄の図。⑥極寒地獄。氷の池の図。④修羅地獄の図。 闘争心が強く、人を殺し、殺そうとする者の落ちる地獄。空中に短剣が舞う。 斬りあい首を落とす者。下には氷の川。氷が割れて、極寒の底に沈みゆく亡者・・・。⑤針の山地獄の図。 三途の川の渡し場は三つ。深瀬を渡り、流される悪人を襲う竜。からだ中に針が刺さっても、 亡者たちは、獄卒に槍や鉄棒で突っつかれて・・・。⑥極寒地獄。氷の池の図。 氷の池に入れられ、冷たさにもがき苦しむ亡者。岸に上がろうとすると、鎌槍、鉄棒をもった 獄卒に突き落とされる。意識を失えば、活、活、ととなえ、生き返らせ、苦しめる。中央から⑦畜生報復地獄の図。その左に⑧針の山と飢餓地獄の図。⑦畜生報復地獄の図。 動物をいじめ、殺した人たちが、地獄に落とされ報いを。巨大な虎、シシ、犬、ハチたちが 襲い、手、足、腰まで、ばらばらにしてしまう。まわりは、逃げ場のない火炎地獄。⑧針の山と飢餓地獄の図。 剣が茂る山。登るまいとすれば獄卒に打たれ、登れば剣がからだを切りさく。餓鬼道に 落ちた者たち。子どもを食べようとする女餓鬼。椀にもった飯は火となり燃えあがる。⑨火の車の図。 地獄の使者、牛頭(ごず)、馬頭(めず)が火の車を引き、死者の霊を迎えに・・・。 足ることを知らず。欲の心がうず巻くとき、おのずから、焦熱地獄に落ちる。⑩賽の河原の図。 河原の石で、塔を積み上げる子。積んでも積んでも、鬼たちに崩される。 地獄菩薩が救いの手を・・・。三途の川の岸にはいあがった亡者は、奪衣婆に着物を 剥ぎとられて・・・。 ⑪地獄の釜ゆでの図。 大釜で亡者を煮る鬼。臼のなかで、亡者を鉄棒で打ち叩く鬼。地獄の鳥が亡者を運ぶ。 人をゆで悪を放出。善行を封じる閻魔大王の慈悲。善だけになった亡者は御蔵浄土に。そして「小栗判官縁起絵」の複製。近寄って。更に。1段目。そもそもこの物語の発端は、京の都におわします二条大納言兼家さま。子どもの出来ないことを嘆いて、鞍馬山にお参りして授かったのが、幼名・有若、頭脳明晰、成績優秀、すくすくと成人し、常陸小栗どのとお成りある。ところがこの小栗、気に入る女がおらぬと嫁を嫌って独身を通しております。あるとき、鞍馬に詣でる途中、一興にと横笛を吹いていたところ、近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目左。横笛を吹く小栗判官。近くの深泥(みぞろ)ヶ池にすむ大蛇、その音(ね)に聞き惚れ、美女に変身。小栗とちぎりを結びます。1段目右。2段目それが都じゅうのうわさとなって、父の兼家は大激怒。小栗は今の茨城、常陸の国へと飛ばされます。そこで官職を与えられ、判官(はんがん)となる。そこへ、化粧品や薬をセールスして歩く小間物商人、後藤左衛門が訪ねて来る。彼が、評判の美人の話をすると、小栗は、その姿を目にしていないのに一目惚れ。その美人こそ、武蔵・相模(現・神奈川県)の国の郡代、横山大膳の娘、照手姫、後藤左衛門は橋渡しとなって、小栗のラブレターを姫に届けたのであった。。2段目左。小栗のラブレターを読む照手姫。2段目右。ラブレターを書く小栗判官。3段目。照手姫も、その文をすっかり気に入り、二人は相思相愛。ところが、姫の父親の横山大膳は、この結婚に猛反対。しかし、そのことは表に出さず、三男の三郎がはかりごとを巡らし、ひそかに小栗を殺そうと企てる。そんなことともつゆ知らず、十人の家臣と横山家を訪れた小栗。そこで横山大膳は、馬の鬼鹿毛(おにかげ)に乗ってみよと誘います。この鬼鹿毛は、小山ほどもあるという暴れ馬。人間を秣(まぐさ)代わりに食べている人喰い馬で、これに殺させようというわけ。ところがこの暴れ馬、今にも小栗を踏みつぶすかと思いきや、小栗に言葉をかけられた途端、すっかりおとなしく従順となる。小栗を背中に乗せて、碁盤の上に乗るという曲芸までやってのける。3段目左。碁盤の上に乗る馬の鬼鹿毛(おにかげ)。3段目右。二人は相思相愛。4段目は右から左へ。腕ではかなわないと踏んだ横山大膳は、三男の三郎に言われるまま、宴会の酒に毒を盛り、小栗と家臣十人を毒殺します。これでは都の聞こえが悪いと考えた横山大膳、わが娘照手姫まで殺そうとする。そこで家来の鬼王・鬼次兄弟に、姫を川に沈めよと言いつけます。牢輿(ろうごし)という罪人を入れる乗り物に姫を閉じ込め、舟に乗せ、相模川のおりからが淵へ。ところが兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目右。兄弟には、どうしても姫を殺すことができません。沈めるための重しである大石をつないだ綱を断ち切ります。かくて姫を乗せた牢輿は、沈むことなく、流れ流れて川下へ。4段目左。そうして流れ着いたところが、海の浜。その浜「ゆきとせが浦」は、現在の横浜市金沢区野島あたりかといいます。発見した漁師たちは不審に思い、不漁続きはこいつのせいだと打ち叩こうとする。そこへ割って入ったのが漁民のリーダーである村君の太夫(たゆう)。太夫は姫を助けて家へ連れ帰ります。しかし、それが気にくわないのが太夫の奥さん。照手姫の白い美肌も気にくわない。そこで太夫が仕事で留守のあいだ、姫の雪の肌を黒くすすけさせてやろうと、松葉をくべて煙責め。けれども、姫は無事に過ごします。というのも、姫のかげに寄り添っている観音さまのおかげなのでした。(照手は日光山の申し子ゆえ、本尊の千手観音が護ってくださったといいます。)5段目。そこでいよいいよ腹を立てた太夫の奥さん、太夫に内緒で、姫を六浦が浦(現・横浜市金沢区六浦あたり)の人買い商人に売ってしまいます。姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。その美貌から遊女にさせられそうになるところを病気と偽って、下働き。今は亡き夫の故国(常陸の国)にちなんで、「常陸小萩」と名を変える。井戸の水を汲み上げて運んでは、お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。5段目右。照手姫はその身を売られては買われ、流れ流れてたどり着いたのは、美濃の国は青墓の宿(現・岐阜県大垣市青墓)の宿屋でした。井戸の水を汲み上げて運ぶ照手姫。5段目左。お客の世話やら馬の世話やら、下女16人分という超ハードな仕事に明け暮れます。「小栗判官」や「花王院」に関する様々な書籍が展示されていた。「小栗實記」。そして隣にあった「本堂」の内陣に。「本堂」の金色に輝く「天蓋(てんがい)」。祭壇に近づいて。中央は御本尊の「聖観音像」であっただろうか?隣にも石?仏が。そして「閻魔大王」。右に司録・左に司命の二脇侍を従えていた。正面から。木造 像高104cm 。近くにあった閻魔堂が火災にあったため担ぎこまれたと伝えられている。お顔をズームして。更に。「閻魔大王像」の胎内仏の「石像閻魔王像(24.5cm)」の写真。祭壇には多くの位牌が並んでいた。多くの卒塔婆(そとうば)が奉納されていた。そして禅宗・曹洞宗の寺であるので「殿鐘」が。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよー」という合図になる と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.25
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次に訪ねたのが「小御嶽神社」から北に50m程離れた場所にあった「御嶽神社」。石鳥居の扁額「御嶽神社」。石鳥居は1986年9月再建と。「文化財ハイキングコース案内板 藤沢市教育委員会」「「小栗判官伝説」の地を訪ねて西俣野には、近松門左衛門の浄瑠璃「当世小栗判官」や歌舞伎の小栗物などでよく知られる小栗判官照手姫伝説にまつわる地名がいくつか残っています。次にそれらのうち、いくつかを挙げてみましょう。小栗判官が土葬された場所といわれる ”小栗塚”。この塚は、県道、戸塚菖蒲沢線の拡張工事で、三分の一程の大きさになってしまいましたが、塚の中央の凹を何度埋めても、いつの間にかまたくぼんでしまう、という不思議な塚です。小栗塚の南西、道をはさんだ向かいの畑の中のサカキの大木の下が、地獄に落ちた小栗判官が蘇生したと伝えられる ”土震塚(すなふるいつか)” です。"御所ヶ谷” は、照手姫の館があったことからついた地名で、この館は「乾の御所」ともいわれていました。これは、東俣野(横浜市)の横山大膳の館から乾(北西)の方角に当たるために、こう呼ばれていたものです。埒田(ませだ)は、北窪河内、市境近くの田で、これは、小栗の乗った荒馬の鬼鹿毛(おにかげ)が、厩栓棒(ませんぼう)をくわえて逃げ、それを捨てた場所とか、鬼鹿毛がはね、厩栓棒がとんで突き立った場所などといわれています。この他、小栗判官縁起の絵解きが行なわれる花応院や、小栗判官と、その家来が眠ると伝えられる”閻魔堂跡” などがあります。」西俣野コースの文化財① 御嶽神社 ② 花応院(かおういん) ③ 瞽女淵・土手番様(ごぜぶち・どてばんさま)④ 閻魔堂跡 ⑤ 左馬神社(さばじんじゃ)「御嶽神社」の境内参道を進む。西俣野にあるここ「御嶽神社」は西俣野の鎮守。「吾妻鏡に、建久6年(1195)11月19日に、相模の国大庭御厨俣野郷の大日堂に仏聖燈油料として田畑を寄進した」と。もとは鎌倉権五郎景政の頃に伊勢神宮の式年遷宮の時、心御柱を伐り取り造立したものと。寛文元年(1661)、寛政4年(1794)、明治20年(1887)に再建。昭和12年(1937)拝殿改築の歴史があると。 左手に「神符神札授受所」。「拝殿」への石段左側に「猿田彦大神石廟入口」と刻まれた石柱が。「奉納 参道敷石」碑。石段を上る。正面に「拝殿」。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で西俣野地区の鎮守。建久6年( 1195 )の創建。鎌倉権五郎景政が信仰した大日如来の化身である大日不動明王(伊勢神宮御柱材から彫られた)を祀る大日堂が始まりとされる。景政の曾孫・俣野五郎景久がこの地を支配して、大日堂の信仰を引継いだが、景久は木曽義仲との戦いで討ち死し、その後この地は三浦義澄、義村の所領となった。景久の後妻はその後も俣野郷に居住し大日堂を守ったとされる。彼女の訴えをもとに、源頼朝が三浦義澄に荒廃した堂の修理を命じている。その後大日堂は御嶽山神礼寺文殊院(真言宗)となり、境内に御嶽神社、小御嶽神社を祀ったが、明治の神仏分離令により廃寺となり、神社だけが残った。大日不動明王は一尺一寸の像が2つあったが、その後行方不明になった。その脇にあった堅牢地神の信仰は、その後も引き継がれてきた。神礼寺はこの地の地神講信仰の中心となり、堅牢地神像図を刷り、それを受けた講中の人々は、掛け軸にして自宅に飾った。地神信仰は地の神、農業の神として、各地に広まっている。境内には、市の有形民俗文化財に指定された猿田彦大神の石廟(延宝8 =1680 造立、天明6 =1786に修復との銘文)がある。「拝殿」前の狛犬(阿形像)。御嶽神社狛犬 (昭和12年奉納・北村喜代治、江戸風)。「拝殿」前の狛犬(吽形像)。向拝(こうはい、ごはい)には精緻な龍の彫刻が。扁額「御嶽神社」。「拝殿」前から境内を振り返る。説明を聞くこの日の参加者。右手奥には「鐘楼」、その先に「俣野山稲荷大明神」の石鳥居。「鐘楼」に近づいて。梵鐘には、「当神社の神鐘は第二次大戦の末期 昭和十九年国家資源総動員令発令と共に 惜別以来三十九年無鐘となり 其の間幾度となく 基本的な計画が進められ 今回氏子中の総意に依り再建された。 昭和五十七年十一月吉日(一九八ニ)」と刻まれていた。「俣野山稲荷大明神」の石鳥居を正面から。石段の上に「社殿」・「拝殿」。「社殿」正面。「正一位俣野山稲荷大明神」 と書かれた扁額。境内の「猿田彦大神石廟」。市指定重要文化財(有形民俗文化財)に指定されている、「猿田彦大神石廟」。 正面から。内陣には石祠が安置されていた。「市指定有形民俗文化財 昭和四十年(1965) 五月三十一日指定 猿田彦大神石廟(さるたひこだいしんせきびょう) 堆積岩製 総高 94センチメートル、間口 60センチメートル、奥行 65センチメートル石廟とは、家屋型の石造物で、本尊や神体を安置するための祠です。現在は保護のため外側を小社で覆ってありますが、この祠の中には猿田彦大神と大鷲(とり)大明神が祀られています。元は御所ヶ谷に祀られていたものを、ここに移したと言われ、地元では石の宮と呼ばれています。この祠は高床式で、扉は観音開き、一石で造られた屋根の上に二匹の猿像を浮彫りにしているのが特徴です。右側の猿は座って葉のついた桃を持ち、左側の猿は腹ばいになっています。外壁面に、延宝八年(1680)の年記と花応院・文殊院(廃絶)のほか村民四十人の連名が刻まれ、前扉に、天明六年(1786)の年記と花応院ほか八人の連名が刻まれています。この銘文から、延宝八年に造立され、天明六年に修復されたものと考えられています。かつて、十干・十二支を組合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日の夜には、睡眠中に三尸という虫が身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので寿命が縮む、という信仰がありました。そのため、その夜は信者が集まって夜明かしする風習があり、その祭神は神道では猿田彦とされています。西俣野には猿田彦大神の石塔がいくつか残っており、この石廟も庚申信仰と関わるものと考えらています。 平成二十二年(2010)二月 藤沢市教育委員会」この祠は高床式で、扉は観音開き、一石で造られた屋根の上に二匹の猿像を浮彫りに。延宝8年(1680)4月石祠(切妻)二猿(屋根上)正 面「天明八年 申九月日」 「花応院 文殊院 延宝八年卯月吉日」 多数の人名。左側の猿は、手足をのばして腹ばいになっているのだと。右側の猿は丸い大きな目をして葉のついた桃を持ち座っていた。「日月(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿元文5年(1740)12月板駒型正面右側「元文五庚申 西俣野村」 〃左側「十二月吉日 中北久保」 〃下側 人名」「案内板」に基いて山本さんが説明して下さいました。御嶽神社の本堂左手に6基の庚申塔が並んでいた。「日日・青面金剛像(剣人・六臂)・邪鬼・三猿正徳3年(1713)10月舟形光背型台 石「相列高座郡 西俣野 庚申講中 以上七人 爲二世安樂 立之者也 正徳三癸巳歳 十月吉祥□ 花應院 現住天祝叟」」下記写真一番左は●月日・「猿田彦大神」 明治15年(1882)3月 山伏角柱 右側面「明治十五午年 第三月建立」 台 石「講中」 台石右面 5人の名●その右隣りは 重頭角柱「猿田彦大神」 明治14年(1881)11月 右側面「明治十四年 十有一月正」 左側面「天明四辰年 十有一月」 ※天明4年塔の再建塔●その隣は 月日・「猿田彦大神」 明治15年(1882)3月 山伏角柱 右側面「明治十五午年 第三月建立」 台 石「講中」 台石右面 5人の名●その隣は 「猿田彦大神」 造立年不明 駒型・道標 前面は風化の為不明 右側面「右 かまくら道」 左側面「左 八おうじ道」反対側から見る。「御嶽神社」の「本殿」を横から見る。本殿は流造り。流造りの構造は、切妻造・平入であるが、側面から見た屋根形状は対称形ではなく、正面側の屋根を長く伸ばす方式。廻り込んで。そして「御嶽神社」を後にして次の目的地の「花応院」に向かって進む。左側に寺院の如き建物があったが「森山工務店」との看板があった。更に進むと右手にあったのがアイスクリーム店「飯田牧場」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.24
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この日は先月・3月22日(水)、「藤沢地名の会」が主催する【地名探索】『小栗伝説の残る六会を巡る~亀井野・西俣野地区、春の歴史散策~』に参加しました。集合場所は、午前9:30に小田急線六会日大前駅東口階段下。そして集合時間の9:30になると、この日の「藤沢地名の会」の案内・説明の方がこの日の散策ルートの説明をしてくださいました。開設当時の「六会」は、1889年(明治22年)の町村制施行の際に六つの村(高座郡円行村、亀井野村、下土棚村、西俣野村、今田村および石川村)が合併した(結び合〔会〕った)ことに由来する六会村からと。昭和17年(1942)に六会村が藤沢市に吸収されてたが、その後、旧六会村の一部であった下土棚村が長後地区へ、さらに今田、円行の大部分が、新たに作られた湘南台地区に編入されたとの説明あり。現在の駅名は日本大学の請願により「湘南日大前」という駅名が提案されたことに始まる。「六会」の地名は駅名にしか残っておらず(付近の住所表記は「亀井野」)、歴史的に意味のある地名を残して欲しいという要望が高かったことから、近隣住民と協議の末、「六会日大前」に改称された。なお、駅名改称に関する費用は日本大学が負担されたと。参加人数は約30名、10人ずつの3グループに分かれそれぞれに5分間隔で時間差スタート。まずは、今年の元旦に初詣をした地元の「地神社」に向かって小田急線沿いの道を進む。参加者は、ほとんどが50歳以上の方々、そして女性の数が多かった。右手に見えたのが「日本大学 生物資源科学部」の校舎が見えた。「日本大学 生物資源科学部 12号館」。そして前方の「日本大学 生物資源科学部」の校内を横断する一般道路への踏切が。踏切を渡らずに反対側方向へ左折する。そして「地神社」の境内への入口の石段を上る。神奈川県藤沢市亀井野2丁目36−4。ここの地名の「亀井野」は、相模野台地上にあり、八王子街道(滝山街道)及びその古道が南北に走る。集落は街道に沿って発達し、江戸時代には藤沢と長後の中間地点となる継立場(つぎたてば・本陣や旅籠屋はなく、人馬の乗り継ぎを行う所)が設けられた。土地はぼ平坦で、ムラサキ(古代の染料)やミシマサイコ(セリ科の薬草)が自生する広大な原野は、中世武将たちの狩場であった。関東ローム層の黒土で覆われた土地は地下水位が高く、近世以降は畑地としても利用されるようになった。また台地に点在する雑木林や草地は、屋根を葺く萱、家畜飼料の秣(まぐさ・馬や牛などの飼料にするほし草・わら、かいば)そして燃料の木々として利用された。また新編相模国風土記稿には、漢方薬の原料となる紫胡(さいこ)の自生地という記載もある。亀井野の地名は、源義経の家臣・亀井六郎重清が不動堂を建てたことに由来するとされる。その跡地は六会日大前駅西北にあり、今その地には「亀井神社」が建っている。『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であったという。石段の横には赤の椿が多くの花を落としていた。落ちた花を。「地神社」は「地神の森公園」内にあった。境内では、地元の方々が集まって朝の体操を行っていた。正面に「石鳥居」そしてその先に「狛犬」、「社殿」が。「石鳥居」を潜って進む。比較的新しい狛犬の先に「社殿」。狛犬(右・阿形像)。狛犬(左・吽形像)。その先に「石灯籠」そして「手水舎」。素朴な形の「手水舎」。そして「地神社」の社殿。創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、山林安全、五穀成就を祈願したという。文政9年(1826年)には再建され、さらに安政年間(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願しているとのこと。大正12年(1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に再建されたとのこと。御祭神は「埴山比売神(はにやまひめ)」、田畑、土壌の神様であると。例祭は9月20日。「神明造り」の「地神社」、屋根の部分の「千木(ちぎ)」が、直角となった造りとなっていることが特徴。屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材「鰹木(かつおぎ)」が確認できた。扁額「地神社」。「地神社」と刻まれた碑。その隣に明和2年(1765)銘の「山之神」と刻まれた碑。「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。平成4年に新築整備された。明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。そして「地神社」を後にして「国道467号」に向かって進む。「国道467号」に突き当たり右折する。「亀井野小学校南側」交差点を左折し「県道403号・菖蒲沢戸塚線」へ。「亀井野小学校南側」交差点の角には「セブン-イレブン」が。そして450mほど歩き、細い路地に入ると「西俣野地区」。「西俣野地区」は六会地区の東端部を成し、亀井野との境界に沿って滝山街道(及びその古道)に走る。西俣野の東端には境川が流れ、対岸は横浜市戸塚区となる。過去には境川を跨しに広がる俣野郷があったが、現在は境川西側の藤沢市西俣野と、東側の横浜市戸塚区東び俣野町(旧上俣野町)に分かれている。西俣野の西側は相模野台地東端で、東側は境カた沖積低地となり、その境界の高低差が崖や坂道となっている。西側の台地上は畑地や疎林、東側の低地は崖からの湧水を利用した水田が広がり、集落は崖下に沿った道筋に発達した と。俣野郷は平安時代後期、地名を冠する豪族・俣野氏の支配地となった。鎌倉時代の俣野三浦氏の支配を経て鶴岡八幡宮の供僧の領地となったが、俣野氏の末裔が引き続き地頭南北朝時代以降も、俣野氏がこの地の管理者として居住していた模様である。戦国期は後北条の支配下に置かれ、玉縄城下の管轄地として、俣野は東、西、及び新分かれてその家臣たちに統治された。江戸時代に入ってからも、後北条時代の分割統治従って、東西俣野、上俣野の3地区それぞれに旗本知行地(西俣野は当初天領)となった地名の由来としては、境川を跨いで広がる土地という説と、境川、宇田川の2川が二股ている土地だからという説がある。途中の空き地で、案内人のこの後に訪ねた「花応院」の「小栗判官と照手姫についての伝説」と「旧塩つけ道」についての説明があった。遠く富士山の姿も見えた。さらに「旧道藤沢町田線」に向かって進む。そして「旧道藤沢町田線」に突き当たる。その先の道が「旧塩つけ道」であるとのこと。往時金沢、六浦方面から、内陸部に馬で塩を運んだ古道。鎌倉上ノ道と東俣野で分かれ、境川を渡り、西俣野、亀井野を通って西北に向かい、八王子方面と通じていた。境川を渡る橋は金沢橋と称し、この道が金沢方面と繋がっていたことを今に伝えている。塩つけ道が滝山街道と交差するすぐ北側から、「旧滝山街道」が右に分岐している。旧道は雲昌寺の裏や藤沢工業高校の脇を抜け北上していたが、現在は今田、湘南台地区の区画整理の中で消えているのだ。今田地区には、古道(ふるみち)の小字名があるのだ。「旧道藤沢町田線」から右斜に分岐した道が「旧滝山街道」である。「旧道藤沢町田線」を国道1号に向かって進む。右手にあったのが「神奈川県立総合 療育相談センター」。発達や障害が心配されるお子さんの支援と障害者更生相談業務を行っている施設。神奈川県藤沢市亀井野3119。再び富士山の姿を。畑の中にポツンと「塚」があり石碑が立っていた。石碑の横には「卒塔婆」が奉納れていた。「卒塔婆」には「大施食為有縁無縁三界萬霊菩薩供養塔」と。三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことであり、万霊とはありとあらゆる精霊のことであるから、三界万霊はこの世のありとあらゆる精霊を合祀することである。どの寺でも三界万霊牌を祀っているということは、我が家の先祖だけでなく自地平等、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものである。ここ西俣野地区側には、北から南に小栗塚、大塚、四ツ塚などの小字名が並ぶ。往時この辺りは上野原と呼ばれた台地状の土地で、平安、鎌倉時代には何度か!戦闘が行われた。その戦死者を弔う塚が点在し、これら「塚」のつく小字名が生まれた。毒殺された小栗判官の従者10人もこの辺りに埋葬されたこととなっており、そのうちの4つの塚が残ったことから「四ツ塚」という地名が出来たとされる。現在畑中に建っ塚は、昭和51年(1976)に西俣野史跡保存会によって建立さたものとのこと。そして西俣野を流れる「境川」に向かって坂道を下って行った。両側の斜面には竹林が拡がっていた。そして「三世ノ坂」下の道路「中道」の手前右にあったのが「小御嶽神社(こみたけじんじゃ)」。「小御嶽神社」の小さな社は道から一段と高くなった樹木の中、昼なお暗い鬱蒼とした雑木林と竹林が覆っている森の中に鎮座。神奈川県藤沢市西俣野1888。石鳥居の先に小さな社殿が。「小御嶽神社(こみたけじんじゃ)文永3年(1266) 別当神札寺が建立。元禄13年(1700)、天明2年(1782) 再建、昭和26年、氏子10軒により再建されました。神明社の氏子から離れて奉祀されたと言われています。 六会地区郷土づくり推進会議」石段の先に社殿。内陣。祭神は日本武尊。本来の「小御嶽神社」👈リンクは富士山の山梨県側5合目の旧火山(小御嶽)の上に鎮座するとのこと。そして下の道を左折して進む。右手前方には「横浜薬科大学」の「図書館棟」が見えた。1964(昭和39)年8月1日、日本ドリーム観光株式会社によって戸塚区に「横浜ドリームランド」が開園した。横浜の大型テーマパークとして栄えていたが、バブル崩壊後経営が悪化し2002(平成14)年には閉園が決定。閉園後、横浜市が敷地を買い取り、南部を学校法人都筑第一学園に売却。北部は市が再開発し俣野公園や市営墓地として利用されている。南部を買い取った都筑第一学園は、2006(平成18)年に横浜薬科大学を開校する運びとなった。建物というよりタワーのようなこのシンボルこそが、「横浜薬科大学」の「図書館棟」。「横浜ドリームランド」当時は最上階は回転展望レストランになっており、床が1時間でい1回転する構造で、話題を呼んでいたのだ。私も当時、数回利用した記憶がある。現在その装置は無くなっているが、自習室として学生が利用しているとのこと。 ・・・つづく・・・
2023.04.23
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私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月9日(月)8:00から近くの公園で行われました。今年も、コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域ではアルコール飲料少々、マスク完全着用にて、例年より行事規模を縮小して今年も執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きからついたようです。我が家の正月飾りも火の中へ。勢いよく燃え上がる炎。正月の我が地区の「恒例」いや『高齢』行事なのであった。知人からの「パクリ」ですが・・・・」。ご自宅の正月飾り、牛蒡注連等を火の中へ投げ込む方々。三々五々に「門松」、「しめ縄」を持って集まって来られる人の数も増えて。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は勢いよく。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。既に「しめ縄」や「正月飾り」が燃やされていました。そして今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。最近は、三叉のある枝を探すのに苦労しています。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。地元の国会議員の方?の姿も。炎も小さくなり、団子焼きのスタートです。煙たくないように、風上側から。この場所での、最高記録の団子の数ではないでしょうか?前日の新年会に来た長男も娘(我が孫)を連れて参加しました。火勢も落ち着いて団子を火の近くに。様々な大きさ、形の団子が。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。御神酒も少々いただきました。そして、自宅に戻り、今年の健康を祈願しながら焼いた団子を一家で食べたのでした。 ・・・END・・・
2023.01.10
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江の島海岸での「初日の出」、「元旦の白き富士山」の光景を楽しんだ後は、地元の駅まで戻り、地元の神社の初詣に妻と向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5鳥居を潜り「亀井神社」の境内へ。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」「社務所」。「お焚き上げ場」に昨年の「破魔矢」を納めた。「亀井神社」の「拝殿」に向かう。「手水場」。龍の吐水口からは水が。亀の像も。右手池のほとりのに石鳥居。参道の石段の先に「国旗・日の丸」が2本。参拝の順番を待つ。扁額「亀井神社」。扁額にある「亀」の異字体。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。内陣。「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」。こちらの蟇股の彫刻も見事。扁額「不動明王」。「不動明王」と「地蔵さま」。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「社務所」で今年の破魔矢を頂き、「亀井神社」を後にする。最後に地元のもう一つの神社「地神社」に参拝。「地神社」の参道。所在地:藤沢市亀井野2丁目36−4。参道の先に社殿が。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「山之神」と刻まれた石碑が右手に。素朴な「手水舎」が左手に。「社殿」御祭神は「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」。日本神話に登場する土を司る神。肥沃な(ひよく)田畑の土、陶器を作る粘土もその支配の範疇で、農業・陶磁器製造業・造園業・土木関係の職業などに縁の深い神様であると。『古事記』によると波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)という男女二柱の神が存在する とネットから。扁額「地神社」。石灯籠とその横にも石碑が。「地神社」と刻まれた石碑。そして元旦の「初日の出」、「富士山」そして地元の神社2社に詣でて帰宅。我が家の家の前の畑の「自然アート」を発見。農家の温室の影の場所だけ「元旦の初霜」がピラミッドの如く白く残されて。半世紀前に訪ねたエジプト・ギザのクフ王のピラミッド、カウラー王のピラミッドの如くに2基並んで。いやその先にはメンカウラ王のピラミッドも。「亀井神社」で頂いた「破魔矢」。絵馬には「親子の兎」そして「開運招福」と。我が家の神棚にお供えして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.02
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「天嶽院」の南側高台には大きな墓地が拡がっていた。この日は徒歩にて、境内から-----のルートにて石段を上って行った。「境内・霊園案内図」境内の周囲に大きな霊園が囲んでいることが判ったのであった。ズームして。新しく整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。「永代供養塔・地蔵菩薩」を正面から。お顔をズームして。「○地蔵」。お顔をズームして。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」👈リンク地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。霊園の隅から藤沢市の本庁舎を見る。江の島の姿は片瀬山で隠れていた。そして「富士山」の姿が見えた。山頂をズームして。そして来た道を引き返す。石段の上から「天嶽院」の境内を見下ろす。そして再び「山門」からのモミジのトンネルを歩く。「参道」の脇に廻って「山門」近くのモミジを追う。そして再び「山門」、「金剛力士像・仁王像」を振り返る。「金剛力士像・吽形像」と「山門」そしてその先の紅葉を。安政二年火災では、大伽藍はことごとく焼失。焼失を免れたのが、現存するこの「山門」と。白壁に松の影が映って。そして道路脇の巨大な「六地蔵」を訪ねた。「温顔和楽」と刻まれた碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいたのであった。右から、「ほかほか地蔵」と名前が刻まれていた。「らくらく地蔵」。「ふくふく地蔵」。「にこにこ地蔵」。「すくすく地蔵」。「いきいき地蔵」。塀の角にあった石碑。これも前回、訪ねた際のブログにて高校時代の友人から教えて頂きました。「古松談般若(こしょうはんにゃを だんじ)幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょ をろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。(下の写真は以前のもの)ドウダンツツジの紅葉もエピローグへ。古そうな石灯籠。この先にも石碑が。この石碑には「純未生流之碑」と刻まれていると師匠から。道路沿いのフェンスの影が地面に映り込んで。こちらは近くにある「藤沢市立藤ヶ岡中学校」。城のような水色の三角屋根が印象的な校舎は、創立40周年を翌年に控えた2000(平成12)年に完成したと。「山門」右手の大きな台座に鎮座する「聖観世音菩薩立像」を見る。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を刺した水瓶を持つ。「慈光遍照」と刻まれた石碑。「お大師様(空海)は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。」と。ズームして。左手は、親指と人差し指を合わせて輪を作る「来迎印(らいごういん)」と呼ばれる印相で。「山門」を見る。再び「金剛力士像・仁王像」を。こちらは墓地への坂道にあった「曹洞禅寺 天嶽院」と大きく書かれた柱。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.12.29
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「参道」の右手にあったのが「不動殿」。「参道」には「狛犬」、その手前に「八角青銅燈籠」が。狛犬(右)。狛犬(左)。「不動殿」を正面から。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動殿。身舎正面に庇を設けた向拝。「内陣」を見る。不動殿には「不動明王像」、「大黒天像」、「愛染明王像」を安置。「天蓋」。中央に「不動明王像」。火焔を背負って鎮座する宝剣と羂索を持つ濃い青色の「不動明王像」。「愛染明王像」。「大黒尊天像」。この美しい線刻の如き絵画が描かれていたのは、これも燈籠であろうか。「不動殿」前には、石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」が。巨大な手水鉢なのであろうか。龍の吐水口(とすいこう)。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められてきた。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、心身を清めるために行うもので、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのである と。ズームして。鉢に「感応」の文字が刻まれていた。仏教の語で「感応」とは 「信心が神仏に通じること」であると。二人の童子が支える蓮華座に結跏趺坐で鎮座する「聖観音菩薩像」。「聖観音菩薩像」をズームして。二重円光を背負い、左手に開蓮を持つ、右手の印相は来迎印。「葛龍池不動尊」碑とこれも師匠より。「本堂」の北側、「鶴夢堂」の東側に「葛龍(ヶ)池」があるようだが、許可なしでは入れないようであった。「昭和平成伽藍恢興之碑」「昭和」の文字がひっくり返した鏡文字のようになっていたが、「昭和」の『異字体』であると師匠より。「山門」方向を振り返る。「道元禅師御道詠の碑」「峰の色 渓(たに)のひゞきも 皆ながら 我釈迦牟尼の 聲と姿と」。【季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌。仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。】とネットには。石庭。左手に「庫裡」。花頭窓の格子模様が美しかった。右手に入母屋造銅板葺で妻入の「淨聖殿」。大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子。両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓本尊の「千手千眼観世音菩薩坐像」を安置。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」をパンフレットから。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。扁額「淨聖殿」。そして切石敷の参道を進んで行くと正面に切妻造銅板葺の「中雀門」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂(法堂)が見えた。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院」と。扁額は「湘中早雲禅寺」。「常香炉」越しに「本堂・法堂」を見る。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれたのであった。「常香炉」には寺紋の「北条鱗」が。鎌倉の北条と小田原の北条(後北条)。家紋も同じ三つ鱗のようでいて微妙に違うらしい。「正三角形の三つ鱗」は、「鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)」が使用していたと言われている。一方、「二等辺三角形の三つ鱗」は得宗家以外の北条氏や「戦国時代の後北条氏」が使用しており、「北条鱗紋」と呼ばれる事がある。ただ、得宗家が二等辺三角形の三つ鱗を使用していた形跡もあるのだと。こちらに関しては厳密にどちらが使用していたかを区分するのは難しいと言えるのだ と。「法堂」をパンフレットより。法堂の前は基本的に白砂で構成するのも、昔の儀式用の礼の場という名残であると。「本堂・法堂」の内陣をパンフレットから。佛師松久宗琳謹作 一佛両祖を奉安する。(釈迦牟尼佛、道元禅師、螢山禅師)。「相中留恩記略所載」もパンフレットより。天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が上の写真「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した と。「本堂・法堂」の右手に入母屋造桟瓦葺の僧堂(座禅堂)があった。寺号の早雲禅寺から扁額の書は「雲堂」であろうか。「不論上智下愚、莫簡利人鈍者」の文字が。「上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。」と。道元禅師が、正しい坐禅をあまねくすべての人々に勧めるために記した「普勧坐禅儀.」の一文であると 。(ふつう世間では思い(アタマ)の智愚ばかりを問題にしているわけだが)坐禅するということにおいては、まるきり人間的智慧・才能の世界ではないのだから,人間の利口・馬鹿、学問のあるなしは問題ではない。)と。中雀門の前、淨聖殿の対面に建つ入母屋造銅板葺の「寺務所」があった。参道側入口玄関前には「掃除小僧」の姿が。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。「木々の色鮮やかな紅葉に目を奪われ、葉が落ちる様子に少しの物悲しさを覚えます。はらはらと庭先で積もる落ち葉は、日々増えて毎日掃いてもきりがないように感じます。今月のことばは、そんな落ち葉の様子を人の心になぞらえた道歌です。心は常に清浄でありたいと願うものの、人との小さな摩擦や日々の出来事で、簡単に人の心はささくれ立ちます。苛立ちや怒り、自分の価値観で凝り固まった自尊心は少しずつ塵のように自分の中に溜まっていくのかもしれません。宮城顗先生のことばに、次のようなものがあります。「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的なこととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみでてきて肌をおおってしまう垢とは、自分のしたことや考えについての執着心であります。その塵と垢とを払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。人々への愛に生きているつもりが、いつしらず、愛に生きている自分自身への自己満足と自己固執にすりかわり、人々がその愛に生きる自分を理解しないときには、逆にその人々を軽蔑し、憎みさえしてしまいます。」自分では気づかないそのような心を掃き清めるのは、一日の終わりの感謝のことばではないでしょうか。静かに一日を振り返り、真摯にわが身を問いかける、そして他者にかけてもらったあたたかいことばや出来事を思い出し、一日が無事に過ごせたことに感謝の思いを抱きます。「ありがとう」の思いでその日を閉じ、「ありがとう」の心を明日へと繋ぎます。感謝とわが身を振り返る生活が、知らず知らず積もっていくわが身の塵に、少しでも気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。」とネットには。「参禅会」、「写経会」が毎月行われているようであった。御朱印の案内はこの日はなかった。これは、2020年に訪ねた時の写真です。御朱印を頂くために「庫裡」の玄関の内部に。そして寺の奥様?から御朱印・「浄聖殿」を頂きました。記念スタンプも。御朱印を入れて下さった袋の中には、山号の「功徳山」そして「三つ鱗」が焼き付けられたお煎餅が2袋入っていました。御朱印を入れて下さった袋の中には、「天嶽院の歴史」👈リンク も。「開山堂」をパンフレットから。「葛籠ヶ池と鶴夢楼」をパンフレットから。「参道」を戻ると右手にあったのが「相生松」。「相生松」碑。「事務所」の白壁には格子付きの「火灯窓」が並んでいた。そして寺の上、南側にある墓地を訪ねることにする。墓地への急な階段を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.28
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この日は12月16日(金)、この秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、今年も訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむのは15時前後からが良いのである。この日も15時過ぎに到着。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。所在地:神奈川県藤沢市渡内(わたうち)1丁目1-1頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「嶽」の字について学びました。 【https://okjiten.jp/kanji342.html】より「---北条早雲公開基の古刹--- 天嶽院」文明年間(1469年 - 1487年)に「虚堂玄白」が草庵を営んだ。この草庵を「玉縄城主、北条綱成」が「北条早雲」を弔うために寺院として創建。虚堂を開山、早雲を開基とした。 天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印地30石を賜る。パンフレットより。「功徳山早雲禅寺 天嶽院」。パンフレットより。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、一昨年?我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。「流水識禅心」(左側)の門柱。「山門」とその前の「寺号標石」と「金剛力士像・仁王像」。寺号標石「天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、 虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成伽藍復興。向かって右側の「阿形像」。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫力たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。長い金剛杵(こんごうしょ)。この金剛杵はあらゆるものを打ち砕けるほど硬く、金剛力士はこれを用いて仏敵や業魔を粉砕するのだと。お顔をズームして。向かって左側の「吽形像」。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。短い金剛杵(こんごうしょ)。お顔をズームして。「掲示板」。「利に群がるな 心で集え 目先の欲は 分裂のもと」と。「山門」前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。そして「山門」を額縁にして、モミジの参道を。「山門」を潜りながら。モミジのトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しいのであった。「参道」を歩く。モミジのトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内。言葉はいらない!!そして苔生した参道を進み、石段の上から「山門」を振り返る。午後3時の逆光にモモジ葉が輝く。「山門」をズームして。自然石を刳って作ったのであろうか、「手水場」が。「舟落葉」が一枚(ひとひら)。正面に「中雀門」を見る。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。右の小さな2体の石仏。左の大きな石仏。「鐘楼」。梵鐘をズームして。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある と。「鐘楼」の先、右手にあった「六地蔵」。「庫裡」を横から。この奥に「鶴夢楼」があった。「早雲閣」。「早雲閣」の玄関。「東司」は手洗い。手洗の中の額に書いてあった言葉を紹介させて頂きます。「禪寺では御手洗のことを東司(とうす)と申します。一、佛殿(ぶつでん)ニ、法堂(はっとう)三、僧堂(そうどう)四、庫裡(こり)五、山門(さんもん)六、東司(とうす)七、浴室(よくしつ) 以上が禪寺に於ける七堂伽藍であります。」と。休憩所「黄楳亭」。そして引き返して再び「鐘楼」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.27
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さらに藤沢・「白旗神社」の参道を進む。左手にあったのが「絵馬掛所(えまかけどころ)」。源義経・弁慶の絵馬。七五三詣の絵馬。「三夜燈」碑。旧暦23日の夜、すなわち二十三夜に講員が宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つことをいう。 三夜様とも三夜供養ともいい、月待行事のなかでも最も盛んに行われた と。参道左手には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「義経松」碑。しかし松の姿は見つからなかった。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」再び「白旗神社」の幟。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。「拝殿」の緻密な彫刻は何度見ても見事。ズームして。ここ白旗神社に縁のある亀の姿が。柱の最下部にも。賽銭箱には「笹竜胆」の家紋が。「笹竜胆」といえば清和源氏、すなわち源義経の家系の家紋。天水桶にも、笹竜胆(ささりんどう)の家紋が。提灯にも笹竜胆。「拝殿」の扁額は「忠友殿」。「白旗神社頭中」板。白旗神社近隣の町の名前が書かれていた。頭貫(かしらぬき)の先端が柱より出ている部分・木鼻部の彫刻。「海老虹梁」を右側から。左側から。「本殿」を右側から見る。ズームして。左側からズームして。白旗神社復興事業奉賛者名」の書かれた板。(右側)。左側にも。「拝殿」の横に白旗神社「弁慶の力石」があった。「カ石 の起源 は、石占 (いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱え、持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。しかし、時代の流れによって娯楽や鍛練のための力試しになったといわれています。白旗神社「弁慶の力石 」はその昔、神社の西側古美根茶屋 (現、古美根菓子舗 )前に置かれ、茶屋 で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げカ比べをしたといわれています。この石は神石 とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶分石守 」をお頒け致しておりますので社務所にお越し下さい。この石に触れると健康になり病気をしないと。亀の甲羅に似ている石は茶店で一服した農家や町内の若者たちが持ち上げて力比べをしたのだと。」「拝殿」前から欅の黄葉を。ズームして。「拝殿」前より参道を振り返る。参道から石鳥居を振り返る。参道脇の石段を下る。「神輿殿」。昭和54年5月、白旗神社神輿保存会が結成され、これを契機に昭和55年11月に造営された。中央に儀式殿があり、向かって右に義経、左に弁慶の二基の神輿を収蔵していると。場所を変えて。見上げて。さらに。七五三祝いの記念撮影用グッズも置かれていた。「御神札授与所・社務所」昭和51年11月に完成した天平建築様式の社務所。お神札、お守り、おみくじの頒布、お祓い・お願い事の受付を行っている。様々な御札。御守も。様々な種類、模様の御守。御朱印帳。熊手。「弁慶松」碑。「弁慶松」はこれ?それともこれ?「白幡神社 社務所」「社務所」の前の藤棚・「義経藤」。今年、5月に訪ねた時の「義経藤」。「湯立神楽 舞台」。「藤沢市指定重要無形民俗文化財 湯立神楽白旗神社 を中心に神官 により継承されている神事芸能 。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽 、鎌倉神楽 等の名称で、藤沢 、鎌倉 から三浦半島 一円におよんでいる。古くは、関東 一帯に分布したとされる神代神楽を源流 とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮 の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。」今年・令和四年の絵馬。今年の干支・虎と戯れる義経の姿を。そして早くも来年・令和五年の絵馬が既に。来年の干支・兎と戯れる義経の姿を。それとも桃太郎?そして「辨慶藤」の藤棚。近づいて。今年の4月28日に訪ねた時の見事な「辨慶藤」の写真。芭蕉の句碑。句碑に近づいて。「草臥て(くたびれて) 宿かる比(ころ)や 藤の花」「歩きつかれ、くたびれてきて、そろそろ宿をとるころ合いとなってきた。ふと気づくと藤の花が見事に咲いているよ。」と。この場の昨日の私も、同じ心境なのであったが。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、江戸の俳人の以足が建立。別号「牛文庵」。碑の裏には以足の句が刻まれていた。「東路や 華にくるまる 鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている。境内の欅の木の紅葉を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.23
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