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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。前日の出発予定であったが、箱根周辺の積雪が予想されたため1日出発をずらす。そして、この日の朝も箱根の山越えは、路面凍結の可能性があるため、茅ヶ崎から県央自動車道、東名高速道路で富士川スマートICまで行き。ここから一般道に降り西に進んだのであった。そして、前日1月17日~18日の降雪で車窓からの富士山や周囲の山々は白く輝いていたので車窓からカメラで追いかけ続けたのであった。これぞ『絶景かな!!絶景かな!!』。圏央道の下河原付近からの富士山をドアのガラス越しに。ズームで。目久尻川の橋を渡って。大山も全面に積雪が。海老名JCTから。新東名高速道路に入って再び大山を見る。東名高速道路のバス停『東名大井』手前から。周囲の山々も樹氷の如くに。東名高速道路・左ルートを走る。駿東郡小山町小山付近から。富士山の南に広がる愛鷹山塊(あしたかさんかい)。愛鷹山は富士山の南隣に位置する火山。最高峰は標高1504.2mの越前岳。そして富士川SAにてトイレ休憩と絶景撮影。南面の雪は溶けて?富士市内の紙パ工場の煙突からは白き蒸気がもうもうと。愛鷹山塊。左から越前岳、そして中央に位牌岳、右に愛鷹山。越前岳をズームで。愛鷹山をズームで。富士山頂。富士川サービスエリアのビューポイントから。『覗き富士・穴富士』から。『絶景かな!!』。そして『薩埵峠』に向かうことにする。『薩埵峠』薩埵峠に向けて旧東海道の狭い道を上って行く。そして薩埵峠の駐車場に到着。この駐車場は、かつて山之神、「鞍佐里(くらさり)神社」が祀られていた場所だと。薩埵峠展望台を訪れるのは今回で4回目。「薩埵峠山之神遺跡」の石碑。「薩埵峠山之神遺跡」の石碑の隣に、幸田露伴の次女である「幸田文(こうだあや)・文学碑」があった有名な随筆「崩れ」の中の一節が刻まれていた。『由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。 草木のあるなんでもない山なのだ。だが、そこを見ていると、なにかは知らず、土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた』と刻まれていた。奥に向かって歩くと木製の小さな展望所があった。展望所からの絶景!!富士山とその右に愛鷹山塊。足下の交通路は海側から東名高速道路の上下道、国道1号線の上下道、JR東海道線が見えた。東名高速道路はこの展望台の下からトンネルに入るのだ。安藤広重(歌川広重)の浮世絵「東海道五十三次 由井」さてさて、安藤広重の浮世絵と比べてどうでしょうか?崖の様子がだいぶ異なる事が解ります。浮世絵ということでデフォルメされていることもありますが、もうひとつ理由があるのだと。それは安政の大地震の影響だと。現在は私の写真のように、薩埵峠の崖下に道路が通っています。ところが江戸時代までは、浮世絵のように断崖絶壁の下は海であり、道路を作れるような陸地は無かったのだ。江戸末期(1854年)の安政の大地震により地面が隆起して陸地ができ、海岸線の通行が可能になったとのこと。それにしても『絶景かな!!絶景かな!!』4回目にして、初めて雲ひとつ無い快晴の下、白銀に輝く富士山の姿を見ることが出来たのであった。そして、昔の東海道五十三次を旅する人もこの景色を見て癒された事だろうと思いながら興津に向かって薩埵峠を下ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2019年11月23日(土)、『旧東海道を歩く(豊明駅~桑名宿)』の1日。岡崎城近くのホテルに前夜泊し6:30からの朝食を取る。この日は『旧東海道を歩く』のスタートとなる豊明駅近くまで車で行く事とする。前回の『旧東海道を歩く』で訪ね残った刈谷市今岡町日向にある『洞隣寺』の何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)『中津藩士の墓』を訪ねた。『本堂』左手最奥に『中津藩士の墓』はあった。これは、前回の『旧東海道を歩く』の『洞隣寺』のところで「ブログアップ済み」。👈リンク。そいて豊明駅前の「豊明駅東」交差点手前角の駐車場に車を駐める。24時間で500円の格安駐車場。そしてまずは『豊明駅』前を訪ねた。駅前ロータリーの隅にあった彫像。平成9年8月設置の鷲見香治氏作の『花舞』という作品。『舞』の文字が、ひまわりの花であろうか。旧東海道に戻り直ぐに右の路地に入ると『むつみ保育園』が左手に。真宗大谷派西蓮寺にて農繁期託児所をしていたのが基となり、昭和24年5月に豊明市で最初の保育園として、私立むつみ保育園を開設したと。そしてその先左手にあったのが真宗大谷派の『西蓮寺』。西蓮寺は、明応年間(1492-1501)の創建で、了祐による開基である。本尊は阿弥陀如来。『怡雲山西蓮寺』と刻まれた寺標と境内の『鐘楼』。『鐘楼』とその奥に『本堂』。早朝の為、まだ山門は閉まっており境内には入れなかった。境内には親鸞聖人幼少像もあるようであった。更に狭い路地を進むと右手にあったのが『照栄寺』山門。『曹洞宗 瑞雲山 照栄寺』は、桶狭間十三佛巡りの第5番の寺で御本尊は阿弥陀如来 。豊明市の汚水マンホール蓋は「桶狭間古戦場」のデザインと。そして旧東海道(国道1号線)に戻り進み「正戸川」に架かる「正戸橋」を渡り直ぐに右折し「正戸川」沿いに進むと正面に『琵琶ケ池水辺公園』がありその手前に歌碑が。『東屋治平(あずまやじへい)の歌碑』「水鳥の友 呼つれておもしろや 松が琴弾ひ わか池かな」「琵琶に合わせて松が琴弾く風情のおもしろさに水鳥も仲間入り。嘉永元年(1848)画工小田切春江によって刊行された、「名句小景」に載る。詠み手は知多半田、東屋治平である。」『琵琶ケ池水辺公園』の紅葉。そして県道57号線下に戻り「池下」交差点を右に曲がり県道57号線下を潜り旧東海道へ。『けやき通り』が『旧東海道』。『東海道』を進むと直ぐに『阿野一里塚跡』に到着。写真は街道左の南塚であるが、 ここは江戸日本橋から数えて86里目の一里塚である。『国指定史跡 阿野一里塚』。塚上に文化5年(1808)の道標、そして『市雪句碑』が建っていた。 『春風や 坂をのぼりに 馬の鈴 市雪』。「東海道の阿野一里塚から 「前後」 に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」 の意である。 この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の 「名区小景」 に載る。」こちらは街道右の『北塚』。右手に『史跡阿野一里塚碑』。『国指定史跡 阿野一里塚』。「徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて、道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。 県内の東海道には、18の一里塚があったが、現存するのは4か所、そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。 昭和11年12月に指定を受けた。」更に旧東海道を進むと左手にあったのが『豊明市立豊明小学校』。『豊明市立豊明小学校』の入口にも『石碑』が。校訓の「強く 正しく 明るく」と刻まれているようであった。更に旧東海道を西へ進む。先に進むと豊明小学校の先左手に、医家であった三田家の庭内に明治天皇東阿野御小休所碑が建っているのであった。右手に『坂部善光寺』・『坂部区公民館』。『坂部善光寺』は、三田柳庵が善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像を受け、開眼供養したもの。公民館前にあった『坂部善光寺の由来』。「坂部善光寺は、地元の三田家11世医師三田柳庵氏が明治5年に善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像をお受けし、開眼供養したことから始まる。明治28年には三田柳庵氏から同寺建設用地を提供され、地元有志によりお堂を完成させ、併せて善光寺別当大勧進に寄進された。 それとともに地元信徒の賛同を得て、善光寺講を結成し、戦後の混乱期まで法燈を守ってきた。昭和22年、本堂の傷みも激しく、一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を仮安置した状態が続いてきたが、昭和61年、本堂跡に建てられていた坂部公民館改築、 同時に老人憩いの家建設の計画を機に、仮安置のままであった坂部善光寺本堂の再建とともに坂部善光寺の再組織が図られた。さらに坂部善光寺の再建をより強力に推進するとともに、同寺を地域の人々が末永く支えお祀りしていくために同敷地の所有権が善光寺大勧進から坂部善光寺講に譲渡され、その後坂部区に移転された。」『坂部善光寺』から程なく、前後駅前交差点の右角段上に真宗大谷派の『上宮山西雲寺』が。そして階段の上に『山門』も。『真宗大谷派 上宮山 西雲寺』寺標石碑。『本堂』『鐘楼』。ズームで。『前後駅前』交差点。とりわけ印象に残った駅名『前後駅』。いったい何が「前」で、何が「後」なのか?こんな変わった駅名は日本でここだけではとネットで調べてみました。ネットには下記の如くの説明があった。【https://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=501&comment_sub_id=0&category_id=190&page=2】より転載させて頂きました。「昔この近くの桶狭間で信長が今川義元を破ったという話は有名で、この戦いで亡くなった兵士たちの首を「前後」に並べたところから生まれたという伝説があります。駅から10分余り歩いた小高い丘の上に「戦人塚」という塚が残されています。永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いによる戦死者を地元の曹源寺の和尚が弔ったものとされています。でもこの説は、後世の人の作った語だと考えておきましょう。「前後村」という村名が生まれたのは明治初年のことと言われています。それまでは「五軒家新田」という村でした。その「五軒家新田」のルーツは江戸時代の初期の「間米(まごめ)村」にまでさかのぼります。その「間米村」の枝郷として次の3つの集落ができたのは17世紀のことでした。 「五軒家」…慶安元年(1648) 「八ツ屋」…寛文年中(1661~73) 「三ツ谷」…出来年不詳これらの数字はいずれも軒数を示しています。東京の「四ツ谷」も同じです。間米村の本郷(元の村)から見ると、「八ツ屋」は南に位置し、「五軒家」はさらに南にありました。本郷から見て「南」にあるので、「前郷」(ぜんごう)と呼ばれたという話です。でも、これだけではまだ納得できませんね。「南」にあれば「前」になるかと言えば、そんなことはないはずです。北半球では「南」が「前」で、「北」が「後」というのは何となく言えても決定的な根拠にはなっていません。その決定的な根拠は実は「東海道」にあったのです。間米村の南に位置する五軒家新田は旧東海道に面していました。今でも前後町の「五軒家」として地名は残っています。何といっても「東海道」は人々の往来による文化の流通ルートでした。周りの村々から見れば「前」に見えるのは当然の結果と言えるでしょう。この五軒家新田はそれ以降間米村の「本郷」に対して「前郷」と呼ばれるようになり、それがいつの間にか「前後」に転訛したというのが真実です。「前後」の「後」には意味はなかったのです!」と『前後駅前』交差点の時計塔は8:20を示していた。『とよあけし おすい マンホール蓋』のカラー版。「桶狭間の戦い(1560年)」の舞台となった地が豊明で、国指定史跡の「桶狭間古戦場伝説地」など、織田信長と今川義元にゆかりのある史跡が数多く遺されている。このデザインの蓋は1988年の下水道供用開始からだそうだが、カラー盤が路上に設置されたのは2017年からであると。これも『朝』・鷲見香治氏の作品。三体の裸婦像。鳥のさえずりが聞こえてくるような、爽やかな朝の風景を描いたものでしょうか。こちらは『きのっぴい』。設置当初は定時に時計の周りの人形が動いていたと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『本興寺』を後にし、もう1箇所の立ち寄り予定の『古宮城跡』に向かう。『古宮城』は元亀2年(1571)に奥平氏監視のために、武田信玄の重臣・馬場美濃守信房が甲州流の縄張りで武田軍の最前線基地として築城。2年後、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。現在も縄張りがほぼ完在しており、城郭ファンにおススメの城跡とのこと。市指定天然記念物の大ヒノキが虎口にある。浜名湖の北側の国道301号線を走る。右手に奥浜名湖の『松見ヶ浦』が。猪鼻湖を右に見ながら進むと三ヶ日町に入り国道362号線に合流し、ここを左折して『高橋』交差点を右折。国道301号線をひたすら北上。県道392号線に入り新城市にある豊川に架かる野田城大橋を渡る。そして国道301号線を北上すると新東名高速道路の高架をくぐる。『古宮城跡(ふるみやじょうあと)』は「愛知県新城市作手清岳字宮山15ほか」にある「続日本100名城」となっている城。続日本100名城のスタンプは『作手歴史民俗資料館』に置いてあるとのこと。そして開館&スタンプ押印は15時までとのことで小雨の中急いでなんとか到着。時間は14:56。『作手歴史民俗資料館』の建物。この建物は、周辺に数多く点在する城郭から城風の外観となっていた。『作手歴史民俗資料館』正面。『作手歴史民俗資料館』入口は天守風。階段横には少女像『ふれあい』と『ポットホール』と『力石』『ポットホール』とは、川底にある岩が、水流で回転する石や岩によって徐々に徐々に削られてできた穴のこと。穴単体のものもあるし、穴を作った石や岩自体が穴の中に残っているものもある。館内に入ると作手地区のジオラマが。『作手歴史民俗資料館』の中には民家が再現されていた。民家の部屋の様子。懐かしき農具も。湿原のジオラマ。『続日本百名城認定書 古宮城』スタンプを頂きました。係員の方に尋ねると閉館後や休館日など、不在時のスタンプ置き場は『国道301号線へ左折した200mほどの、Y ショップ(コンビニ 7:00~20:00)にておすことができます』とのこと。慌てて車を走らせて辿り着いたのであったが・・・。『古宮城跡』に向かって車は戻る。途中ガソリンスタンドで給油。この日は11月22日でオロナミンⅭをもらえる「勤労感謝の日」。」何故かそして本来は車1台につき1本のところであったが、2人で『オロナミンC』を3本頂いたのであった。そして『白鳥神社』・『古宮城跡』に到着。白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は古宮と称して崇敬したという。 例祭日は10月7日。神社の裏山が古宮城址で、元亀2年(1571)甲斐の武田信玄が三河の徳川家康攻略の拠点として馬場美濃守信房に命じて宮山(標高580m、比高差80m)に築城、県内唯一の甲州流築城術といわれた。要害を誇ったこの城も天正元年(1573)8月、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。古宮白鳥神社の社殿の前には 「新城設楽の巨木・名木」に選ばれている杉の大木が、社殿の裏には 市指定天然記念物の 大ヒノキ があった。『古宮城跡案内板』「当城址は甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀(1571)に築城したと伝わる。城址は南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなってぃる。当時は南東北の三面か湿地になっており、西方は塞之神械に通じ主腰部が東西に分かれた一部別郭式の要害堅固な城であった。北側から南側にかけて、中央郎に全長140mの豪壮な堅濠があり、東城と西城に分離している。この堅濠な北側下端には、井戸址と、三方を高さ1.5mの土塁で囲んだ約2.5aの溜池がある。西城の本曲輪は、約4.2aで、その東側土塁には左右2箇所の虎口を設けているのが特徴である。また酉五重の濠を擁して西方からの攻撃に備えてぃる。東城は頂部において幅約4mの通路で西城とつながり、約3.8aの本曲輪に並んで二の曲輪がありその北部は多数の曲輪が見られる。東側下端は長さ250m最大幅30mの馬場を備えており県内唯一の甲州流築城といわれる。尚、肇害を誇ったこの城も天正元年(1573))に奥平・徳川連合軍の手によって落城した。」『村社 白鳥神社』社標石碑と石鳥居。扁額は『古宮白鳥神社』。『白鳥神社』拝殿。境内の南側から眺めた、白鳥神社の拝殿光景。ネット情報では、『天和3年(1683年)再建された。新城市裏野にある曹洞宗永住寺(新城市)の有する銅鑼は、もと当社が有していたともいう。この銅鑼は長享2年(1488年)の紀年銘がある』との記述もあった。新城市作手清岳宮山に位置し、古宮城址の一角になります。古宮城が造られる前からあった神社の可能性が高いとのこと。白鳥神社脇の階段の光景。古宮城が現役時代には、西側の虎口を経由する以外ほかにはなかった出入口の階段。古宮城を築城した馬場信春(信房)は、戦国時代の武将で、武田四天王の一人に数えられると。教来石氏時代に足軽大将の山本勘助から城取(築城術)を教授されたと伝わり、後に築城の名手と称せられたと。階段を上ると小さな祠が。これは境内社か?『大ヒノキ』の案内板。更に進むが、『大ヒノキ』は姿が見えなかったので諦めて引き返す。ネット情報によると大ヒノキのある場所は、古宮城址の両袖枡形虎口と呼ばれる枡形(ますがた)の上とのこと。樹齢が600年以上のとても古いヒノキで、幹周5.85m、樹高29mと。 【http://tree-flower.jp/23/furumiya_hinoki_1998/furumiya_ohhinoki.html】より。古宮城址の見学の後、前方の山を見ると『亀山城址』と書かれた案内板があった。『亀山城』は、応永31年(1424)に奥平貞俊によって築城された。貞俊は、天授年間(1375~1380)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされている。その子孫は、この地で支配者としての地位を確立し、後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となった。16世紀になると、今川氏、松平氏、織田氏といった武将の配下を転々としながら、天正3年(1575)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いでの功績により、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。存続期間については、応永年間から城主が長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7(1602)~15(1610)年に奥平信昌の四男 松平忠明が城主となっている2時期が知られている。前方にあった『道の駅 つくで手作り村』でしばし散策&休憩。『石橋城(弾正屋敷)址・慈昌院 』が道の駅の前方にあった。この石橋城(別名:弾正屋敷)址は現在「石橋山 慈昌院」と呼ばれ、ご本尊に釈迦如来を安置し、臨済宗のお寺となっている。作手三弘法 の一つ。「 天文6年(1537)9月22日一族奥平弾正(父は貞久の二男久勝)は公(貞勝)の若年なるに乗じて、不軌を図らんとす。公之を探知するや土佐定雄(貞久公の五男和田出雲貞盛二男)をして、その居館を急襲せしむ。定雄賜う所の長槍を揮うて弾正をたおす。」 と、中津藩史貞勝公の条に記されているのだと。そして東岡崎に向かって車を進める。車窓の紅葉、黄葉を楽しみながら進む。『鬼久保ふれあい広場』のモニュメント。愛知県道37号岡崎作手清岳線を進む。左に行くと『こども自然遊びの森 わんPark』。その後、昔訪ねた『くらがり渓谷』の前を通過し進む。県道37号線の上の『新東名高速道路』。真下から新東名を見上げる。そしてその後、国道1号線に入り、以前歩いた道も通過しながら東岡崎駅近くにあるホテルに到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『本興寺』大書院、庭園を後にし、参道を本堂に向かって進む。参道の左側には『定』が。『定』。「静岡懸濱名郡鷲津町 法華宗 本興寺 ー、建物ヲ汚瀆毀損スルコト 一、午睡又ハ遊戯ヲ為スコト 一、喫煙ヲ為スコト 一、猥リニ火ヲ用ユルコト 一、土足又履物ノ儘上ルコト 一、建物ニ落書スルコト 一、建物ニ廣告等丿類ヲ貼付又ハ打付ルコ卜 右各條ゝ堅ク令禁止者也」右手に『中門』。先程内部を訪ねた『客殿』。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされていた。平成23年度から24年度の行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺型銅板葺きに変更されたのだと。木々の中に石碑が。最初の『花』の字は判ったが・・・。『句碑 星野立子「花の寺 静かな人出 中に歩す」星野立子は、俳人・高浜虚子の次女として東京に生まれ、昭和初期の女流俳人中村汀女とともに双璧と並び称されます。この句は本興寺花祭りに訪れた際に詠んだもので、句碑は昭和五十二年に建立されたものです。本堂入口の木柱『南無妙法蓮華経 奉備門祖南無日陣尊聖人第六百御遠忌併修本堂保存修理落慶法要報恩謝徳之妙塔也』『本堂』への階段横にも句碑が。句碑。『詠 北原白秋』「水の音 ただにひとつぞきこえける そのほかはなにも 申すことなし」階段の両脇には『開山杉』。「開山杉樹叫六百年余と推定きれるこの老杉は、永徳三年(一三八三)門祖日陳聖人の東海巡科の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陳聖人は、応永十三年(一四〇六)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛を喜ばれ、開山記念として杉樹を御手植えされたと伝えられています。樹齢:約六百三十年樹高:約十六メートル(落雷により樹高止まる)胴廻:右・・四・四メートル 左・・三・七メートル科目:スギ科スギそして『本堂』。『常霊山大悲院本興寺』「本堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳三年(一三八三)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文二十一年(一五五二)九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺で、大仏様・禅宗様の二様式と、伝銃株式てある和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています。本尊は本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています。」『國寶本堂』と刻まれた石柱。本堂は約百六十七平方m、寄せ棟造りのかやぶきで密教様式の構造。本興寺の金原日達住職(83)によると、室町時代の建築様式をよく残しているとして、一九〇七年に特別保護建造物に指定、さらに国宝指定されたが、五〇年の文化財保護法で重文に変更された。建築年は不明だが一五五二年に修復した棟札が残り、建物は当時のものとされる。伝統様式である和様式に、鎌倉時代に宋より輸入された唐様(よう)(禅宗様)や天竺(てんじく)様(大仏様)など二様式が巧みに折衷されているのが特徴という。2019年2月に本堂の茅葺屋根の葺き替えが完了したと。『国指定重要文化財』本堂 壱棟天文二十一年(一五五二)建立天竺、唐、和三様式折衷の建造物 三宝諸尊安置『本堂』内部をと。『本堂内部』。更にズームして。『本堂』の右側周辺。『本堂』を斜めから。『三十番神堂』。『三十番神堂』「番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります。前舎、後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により、瓦葺き型銅板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした。」『弁天堂』。『弁天堂』「元禄13年(1700)19世日芳の代に大檀那渡辺越中守方綱(正綱)夫人の寄進により建立されました。音楽、弁財、財福、智慧の徳がある弁財天女が祀られています。嘉永3年(1850)32世日宗の代に再建され、京都の岩倉実相院義賢大僧正の扁額があります。」『鐘楼』。『鐘楼』「宝永2年(1674)17世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造りの袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます。文政5年(1822)二十九世日壇の代に再建、大正4年(1915)三十八世日受の代に修復されました。昭和17年(1942)、太平洋戦争に伴い梵鐘は供出されましたが、昭和34年(1959)四十三世日猷の代に口径二尺七寸の大梵鐘が再鋳され落慶法要が営まれました。」『本堂』前から『山門』への参道を見る。墓石群。広い墓地。『西郡局供養塔』『法界供養塔』と。『西郡局供養塔』「西郡局は、三河国西郡(蒲郡市)の城主鵜殿長忠の娘。長忠の父鵜殿長持は、天文21年(1552)本堂建立に尽力した人物です。西郡局は永禄7年(1564)徳川家康の側室となり、翌年、岡崎において家康の二女督姫を生みました。慶長11年(1606)伏見城において没し、京都本禅寺に葬られました。法号は蓮葉院殿日浄尊儀。当山十世日梅は、西郡局の舎弟に当たることから遺品を納めて供養塔を建立しました。」様々な墓石が。『千仏堂』。『千仏堂』「千仏堂は、元禄13年(1700)十九世日芳の代、渡辺越中守方綱(正綱)夫人の発願により建立、天保13年(1842)三十一世日融の代に再建されました。渡辺方綱は、寛文8年(1668)武蔵国野本藩主となり、延宝8年(1680)没。方綱夫人が娘で方綱の養子基綱夫人の息災延命を願って千体仏とともに寄進したものです。構造は桁行・梁間ともに三間、屋根は宝珠造で単層の桟瓦葺きで、細部の手法から禅宗様の建築様式を備えています。」『千佛堂保存修理竣工記念』。『西郡局供養塔』、『鐘楼』そして『本堂』を見る。『客殿』を正面から。『客殿』。「客殿は寛永14年(1637)、13世日渕の代に建立され、安永2年(1773)25世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き?型板葺きに変更されました。」『客殿』を斜めから。工事中であった『中門』。『中門』「大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門(あかもん)とも呼ばれています。貞享3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用いられました。当初は、客殿正面に建てられていました。」「夕早き庫裡のはひりは日たむろと 築地めぐらして朱き中門 北原白秋」『護國塔』。『大黒堂』。『大黒堂』。「貞亨元年(1684)十七世日観の代の建立で、延亨元年(1744)二十二世日禅の代に再建されました。現世安穏、後世善処を願い招福、開運、学問増進の神である大黒天が祀られています。建物は、桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、外陣の外側には扉や板壁などがなく、吹き抜けになっているのが特徴です。」そして参道を山門に向かって進む。本興寺 掲示板。『本堂』を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『奥書院』から『遠州流庭園』を見る。奥に見える屋根は『大書院』の屋根。『大書院』は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立された。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の対十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水壁画」が描かれ、このことから当寺は「谷文晁寺」とも言われている。下段の間には岸良筆の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれていた。『谷文晁の間』『文晁之間』本興寺 大書院襖谷文晁筆大書院は、文政十年(1827)建立、上段の間十五畳、中之間十八畳、岸良の間十八畳からなる。『花鳥図屏風』(左)と 『四季山水図』の『秋の景色』(右)『花鳥図屏風』『花鳥図屏風』 1双「作者製作不詳「桃山風金屏風」と伝えられ、群青や緑青豊かん花鳥が描かれている。吉田城久世広之の寄進と伝えられる。」「六曲屏風二帖」=「六曲屏風一双」。『谷 文晁』「詩人谷麓谷の子として、宝暦恰三年(一七六三)江戸に生まれた。画をもって田安侯に仕え、松平定信の庇護を受けた。円山派の波辺南岳、北山寒巌の北画風をはじめ、宋、元、明の諸家の名蹟に学び、あらゆる画風の長をとって折衷した。山水、花鳥、人物など一つとして可ならざるはなく、大和絵までこなし、光琳瓜、四条派瓜をとり入れるなど。その画風は江戸期の全流派を集大成した感じがある。旅を愛し、最も得意とするところは山水画で、北宗的な堅い筆法と南宋的で柔和な空問のひろがりを総合して一派を創始、南北総派の祖といわれる。山水画の中でも三十歳前後の作品は、賦彩や濃淡のニュアンス、構成の新しさにおいて当代無類、江戸第一の大家と目され、この期の作は世に「寛政文晁」と珍重される、学才にもすぐれ「画学大全」、「歴代名工両譜」など著述も多い。晩年には流行におぽれて乱作したが。渡辺華山などを門下に輩出、先近代的な画壇形成に力があった。天保十二年十二月十四日(一八四一)七十八才にて没。大書院壁画谷文晁筆・『冬の景色』(中央)と『其三』(左)『冬の景色』(左)、『晩秋の景色』(右)別の角度から。本興寺 大書院壁画谷文晁筆(其一)・『晩秋の景色』本興寺 大書院壁画谷文晁筆(其二)・『春の景色』。大書院から見る庭園。蘇鉄の後ろにある茅葺屋根の建物は奥書院で、山門同様吉田城からの移築と。本興寺大書院の板戸絵16枚は湖西市指定文化財になっている。『瀧の山水画』・『河寺七瀧之由来』『大衝立 安房宮之図』暁堂筆。阿房宮は秦の始皇帝が即位35年(前212)一万人を入れる客殿を造営したところという。『国指定重要文化財 絹本著色』「法華経曼荼羅図 四幅鎌倉時代の作、法華経の経意を四幅にして絵解きに資する絵図。」そして『大書院 一棟』「文政十年(一八二七)建立、上段の間十五畳、中之間十八畳、岸良の間十八畳から成る。」『国指定重要文化財 絹本著色 法華経曼荼羅 四幅』鎌倉時代の作、法華経を四幅にして絵解きに資する絵図。回廊。回廊を伝って客殿に向かう。庭園は「遠州流庭園」となっており、小堀遠州の作庭と言われています。歌人北原白秋は「水の音ただに一つぞ聞へける その外は何も申すことなし」と詠んだと。四季折々の趣があり、特に春は桜の名所となると。静寂な佇まいが心を癒してくれたのであった。客殿。客殿内に展示されていた駕籠・『網代乗物』網代駕籠(あじろかご)の上等なもの。江戸時代、一定の身分に限り乗用を許された。『客殿内部』。客殿は寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建された。『客殿』より外を見る。『客殿』の『仏間』『ごぼち凧』には本興寺の『寺紋』が描かれていた。昔、遠州・鷲津(湖西市鷲頭)には、『ごぼち凧』という独特の凧があったとのこと。特徴は、凧の足の部分(ひらひらした)がないことと。『十一面観音像』か。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2019年11月22日、『旧東海道を歩く』の『豊明駅~四日市宿』を歩くために起点となる東岡崎まで旅友Sさんの愛車で向かう。途中、以前に立ち寄れなかった静岡県湖西市鷲津にある『本興寺(ほんこうじ)』を訪ねたのであった。雨の中、茅ヶ崎からひたすら一般道を走り、本興寺駐車場に到着し散策を開始。時間は12:52。本興寺は、法華宗陣門流の東海別院。山号は常霊山(法華経自我偈の一句「常在霊鷲山」にちなむ)。院号は大悲院。本尊は三宝尊。塔頭が四院ある(長勝院、光明院、玉葉院、東光院)。永徳3年(1383)日乗上人の開山で、今川氏の帰依や徳川家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇った。老杉の茂る広い境内に10余の堂宇が残り盛時の面影を伝えている。天文21年(1552)修復の本堂は単層寄棟造、和・唐・天竺の三様を巧みに取り入れた折衷様式の端正な建築物で重要文化財(国指定)になっている。『山門』。山門の扁額は『常霊山』と。『山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。その後、亨保十年(一七二五)に硯在の本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。」『寺名標』には「南無妙法蓮華経 法華宗別院 本興寺」と。『門祖日陣尊聖人 東海巡化御聖跡 鷲津弘通所(わしずぐづうしょ)之處』と刻まれた石碑。「聖跡 「鷲津弘通所「当法華宗陣門流の祖、南無日陣尊聖人東海巡化の卸聖跡「鷲津弘通所(ぐづうしょ)」とは室町時代すなわち永徳三年(北朝)弘和三年(南朝)[西暦一三八三年]この地を巡教され、法華宗に改修された聖跡である。門祖聖人の御消息の中に布教の重要拠点として「鷲津弘通所」と命名されたところ。この度、門祖第六百御遠忌に当りその記念としてここに顕彰する石碑である。」「弘通」とは、仏教が広く世に行われること、また仏教を普及させること であると。『本興寺 境内地図』。境内26,000坪の広さがあるのだと。塔頭の『東光院』の『山門』とその手前のモミジの紅葉。『脇門』には『東光院』そしてその参道が。巨石には『日陣聖人・・・』と刻まれていた。日陣聖人は法華宗陣門流の開祖。塔頭『東光院』。『東光院』から同じく塔頭の『光明院』を見る。『本興寺』の『参道』を進んで行く。『参道』の両側には更に塔頭の『玉葉院』、『長勝院』があった。「参道浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長三百メートルに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。文化十四年(一八一七)二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保九年(一八三八)三十一世日融の代に再整備されました。平成の大修理事業の一環として、平成二十八年に幅員六メートル、全長百四十メートルにわたり完全舗装整備を行いました。」『光明院』の『山門』。『光明院』の『本堂』。『本堂』内部。『玉葉院』の『山門』。『玉葉院』の『本堂』。『玉葉院』の『本堂』の前庭。更に紅葉の始まった『本興寺』参道を進む。『長勝院』の『山門』。『朱雀石』と書かれた石柱が。赤碧玉(せきへきぎょく、レッドジャスパー、に似ているが、赤鉄鉱を含んでいる為に赤色をしているのであろう。『長勝院』の『本堂』。立派な藤の大樹と藤棚。更に紅葉を楽しみながら『本興寺』参道を。そして右手に『本興寺』の『山門』が現れた。「大書院大書院は、二十九世日壇の代の文政十年(一八二七)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています。」「奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木遣平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成二十四年度から二十五年度に行なわれた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。」『本興寺 山門』を正面から。「遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわえています。広さは約三百坪に及び、『池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれ庭園の起源は不明ですが、永禄六年(一五六三)五月の今川氏真判物に「寺中園林」とあることから、古くから池泉があったことが想像されます。「水の音ただにひとっぞきとえける そのほかにはなにも申すことなし。」<『紙本水墨四季山水障壁画』。「大書院上段の間には、壁画七面、襖四本の両面の計15面に、谷文晁によって描かれた四季の山水画があります。文晁は江戸時代後期の画家で、四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残しています。また、田原の渡辺崋山ら門人たちとの人脈の広さは、当時の絵師の中でも際立つものがありました。所蔵の絵は、文政10年(1827)29世日壇の代、大書院を建築した際に文晁に依頼して製作してもらったものです。」『本興寺』の『方丈』入口。禅宗寺院で長老や住持の居室または客間をいう。方丈(寺務所)で受付をすると、奥書院、大書院、客殿等の内覧が出来た。『大衝立』と『山水画』。最初に目を惹くのが「大衝立・阿房宮之図」暁堂筆、阿房宮は秦の始皇帝が即位35年(前212)一万人を入れる客殿を造営したところという説明がされていた。様々な『古文書』類。『山門改修資料』。『本興寺庭園』の光景を楽しむ。『本興寺』は南北朝時代に創建された古寺で、書院には小堀遠州により桃山末期〜江戸時代初期に作庭されたと伝わる遠州流庭園が残ります。遠江国に残る“遠州三名園”の一つ。小堀遠州の作庭と言われる奥書院・大書院に面した蓬莱式の池泉鑑賞式庭園の池泉は、戦国時代の最中に記録された今川氏真の判物(書物?)にも“寺中園林”とその存在を記されていたと。『奥書院』。『御朱印籠』。『奥書院』には徳川家康公以来歴代の位牌が祀られていた。『徳川家歴代将軍御霊屋』について。『徳川家御霊屋』『徳川将軍歴代譜』には院号、没年月日、墓地の場所も記載されていた。『仏殿』。最下段の両脇には当山の護持に功績があった家康の側室西ノ郡局、小田原城主大久保忠世及び鵜殿休庵の位牌が祀られていた。家康の花押入の文書・判物であろうか。『徳川家御霊屋』「家康公以来十四代家茂公迄徳川歴代の御位牌が安置されています。十五代の慶喜公は在職三ヶ月で大政を朝廷に奉還しましたのでここには祀られていません。黨山は徳川幕府より拾萬石の寺格と御朱印を受けておりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を更に進むと連子格子の建物が左手に。更に北西に約180m向かって進むと、刈谷城主三浦明喬・土井利信の位牌が祀られている『乗願寺(じょうがんじ)』の『山門』が左手にあった。『乗願寺』。「天正15年(1587)の創建ではじめ地蔵寺といった。当初は真宗を内に表向きは浄土宗としていたが、のち真宗木辺派に改めた。本堂に刈谷城主の位牌が祀られている。」脇門には『天林山 乗願寺』の寺標。『真宗木辺派(しんしゅうきべは)』。真宗木辺派は、滋賀県野洲市の錦織寺(きんしょくじ)を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟性信が率いる下総国横曾根(現在の茨城県常総市豊岡町)の報恩寺を中心とする横曾根門徒の流れを汲む。末寺数、約200寺と。『乗願寺』の『本堂』。『乗願寺』は、天正15年(1587)の創建で、はじめ地蔵寺といった。 当初は真宗を内に、表向きは浄土宗としていたが、のち真宗木辺派に改めた。本堂の旧鬼瓦。旧東海道に戻ると、その先も街道を挟んで数軒の旧家が建っていた。乗願寺から程なく、右手に連子格子の大きな旧家が。旧家のある街道を進むと、右手に真宗大谷派の『今川山乗蓮寺』の入口が。『乗蓮寺・シイ』「真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。今川山と号す。境内にあるシイは、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定された。幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられる。昭和34年の伊勢湾台風で、大部分に損害を受けたが、現在は樹勢も回復し、今では実も付き始めている。」『山門』をズームで『乗蓮寺』は江戸時代前期の草創と言われ、境内には推定樹齢850年のシイがあり、市天然記念物に指定されていると。幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられているのだと。疲れもあり、この寺は入口からの撮影だけであった。そして『富士松駅前』を左奥に見る。乗蓮寺を出ると左手に名鉄名古屋本線の富士松駅があり、駅前ロータリーに池の中に『サッカー少年のモニュメント』と駅改札正面に小さな『お富士松』があると。桶狭間の合戦のあと、今川勢が東海道を西へ急ぐ旅人を織田方の回し者として切り殺してしまい、これを見た村人は旅人を丁寧に葬り、そこに1本の松を植えた。この松が富士松の地名の由来。お富士松は当初ここより約200m南東にあったが、昭和34年の伊勢湾台風で枯れてしまったため、ここへ新たに植えられたのだと。再び刈谷のおすいのカラーマンホール蓋は『かきつばた』。よく見ると周囲に『KARIYA』と書かれていた。こちらは消火栓マンホール蓋。駅前の道路に架かる今川歩道橋を渡り旧東海道を更に進む。『地蔵堂』先に進んだ逆Y字路の中央に地蔵堂があり、地蔵尊が安置されていた。2体の『地蔵尊』。地蔵堂の先『今川町』交差点で旧東海道は国道1号線に合流し分断されていたが、その先、国道1号線を越えた延長線上に旧道が続いていたのであったが地図を確認すると短距離で再び合流するので国道1号線を歩くことに。国道1号線を進み、日本橋から343.7km地点。前方に左斜に進むと四日市方面、名古屋高速そして伊勢湾岸道の案内標識が。小さな川・発杭川(ほっくいがわ)を渡る。奥に名鉄名古屋線が見えた。先程の案内標識下を通過。空港への案内板も。『境川』に架かる橋を渡ると『豊明市(とよあけし)』へ。『境川』に架かる『新境橋』を渡る。そして2020年1月19日の四日市に移動の際に、歩き残った旧東海道の『境橋』を渡る。下を流れる川は『境川』。愛知県の中央部を流れる境川は、むかしの尾張国と三河国の国境とされてきた。現在では、尾張国の東郷町、豊明市、大府市、東浦町と、三河国の刈谷市の境界となっている。橋を渡った直後の右側には石碑が。この境橋を詠んだ歌。『うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん』。「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん 光廣」狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文六年(一六六六)当時の境橋は、尾張側は木橋、三州側は土橋の所爾継橋として有名であった、詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正ニ位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された。」『境川』と右手に『境橋』。『境橋』。2020年1月19日の散策はここまで。再び左に『名鉄名古屋線』が。『新境橋』を渡り終えて左側の歩道を進み、国道1号線の下に出て進む。そして伊勢湾岸自動車道の高架を潜り進むと名鉄名古屋線『豊明駅』前に到着。今回の『旧東海道を歩く』はここまでとする。豊明駅前の大きなモニュメントは船のプロペラ?の如き姿。11/3に『豊明秋まつり』が行われるとポスターが。『豊明市 観光マップ』。愛知県豊明市は名古屋市緑区に隣接する町。豊明市の一番の特徴は、桶狭間の戦いが行われた場所であること。桶狭間の戦いに関連した観光地を中心に、歴史好きな人たちが、よく訪れる観光地。特に「桶狭間古戦場伝説地」はNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の誕生のきっかけとなったことで人気となった。歴史的観光地以外にも中京競馬場もあるなど、魅力のある観光地が満載な豊明市であると。駅舎のステンドグラス。『豊明』豊明駅ホーム。先ほど渡った『新境橋』を見る。東岡崎駅で下車。駅前にあった徳川家康の手形をかたどった石碑。この手形の石碑はどのようにして作られたのでしょうか??『東岡崎駅』を振り返る。ホテルに向かって進む。『乙川』に架かる『明代橋』を渡る。途中、左手にあった『専福寺』を訪ねた。『専福寺』は伝馬の交差点から南100mほどで、モダン通りに面した風格ある寺。石垣と隅櫓が特徴で一見城郭のようにも。往時の住職 祐欣は家康と親交があり、一向一揆の時に家康に和議を進めて怒りをかい、寺は破却され住職は岡崎を去ったと。石川数正の母芳春院が家康公に嘆願して、20年近くたって再興されたと。『本堂』は改修工事中であった。岡崎観光きらり百選『岡崎観光文化百選 専福寺』案内板。「寺の旧記には、もと木町大手口(今の材木町)にあったと書かれています。その後の住職祐欣(ゆうきん)は、家康が岡崎城にいたころ親交があり、一向一揆の時、家康に和議をすすめて怒りをかい、この地を去りました。石川数正のの母芳春院が家康に嘆願して、天正8(1580)年ごろ再興されたと言われています。 往事、東海道が北を通るなど、交通の要衝に位置しており、敵を防ぐ拠点ともなっていたことが、高い鼓楼(寺院で、時を知らせる太鼓をつるす建物)などからうかがえます。」『鐘楼』。『角櫓』。一見武家屋敷を思わせる『専福寺』なのであった。『「岡崎の二十七曲り」と田中吉政の都市改革』今宵のホテルへ戻り、旅友Sさんの愛車で帰路に。御油宿から岡崎宿へ向かって歩いている時気になった、名鉄名古屋本線の『本宿駅』へ立ち寄る。駅前に展示されている旧駅舎の模型。 駅は大正15年に開業。模型のモチーフとなった旧駅舎は昭和9年に建てられたもの。平成4年に現在の高架駅が完成したと。ズームで。『本宿駅の由来と歴史』「本宿駅は大正15年(1926)4月、愛電(現名鉄)が東岡崎から小坂井まで開通したとき誕生した。昭和9年(1934)1月、念願の鉢地坂トンネル竣工。本宿と蒲郡を結ぶ県道が開通した。風光明媚、箱根に似ているところから「新箱根観光道路」と命名され、一躍東海の新名所として脚光を浴びた。』帰路に、いつもの道の駅「掛川」で夕食を取る。『かつ丼』を注文。そして車に戻ろうとすると上空には満月が雲間から顔を見せた。そして渋滞もなく順調に走り箱根越えに向かったが、国道1号線の三島塚原インタを上った辺りで緊急工事のため『通行止め』。このため来た道をUターンして、長泉インタから国道246号線を走り御殿場経由松田から国道1号線へ戻ったのであった。箱根路の緊急通行止めは台風19号の影響で土砂崩れだったのであろうか。また国道1号線ではJR二宮駅前で交通事故で渋滞、このため茅ヶ崎の旅友の家には23:45に到着。そして我が家に0:30前に辿り着いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.01.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次天合寺門宗 流汗不動『総持寺』この寺は大正15年に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。徳川家康側室お万の方の誕生地である。正面に『山門』の『竜宮門』。『仏法大師 御自作知立不動尊』と刻まれた石柱。『徳川秀康之生母 於萬之方誕生地』碑。『本堂』「神路山 総持寺は、三河国二宮「知立神社」の別当寺として創建されています。嘉祥三年(850年)、慈覚大師円仁が巡錫でこの地を訪れた際、毒蛇に噛まれ重篤となり知立神社に祈願したところ忽ち治癒しました。大師は神意に感謝し、別当寺院となる神宮寺を開いたと伝えられています。この時創建されたのが神宮寺七坊であり「玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊」などが創建されたそうです。総持寺は、塔頭の一つ玉泉坊が承応二年(1653年)、当時の住職宥海が寛永寺住職天海大僧正に師事したことから寛永寺の末寺となり寺号を現在の総持寺に改めました。創建の経緯もあり、当時から神仏習合してきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により住職が知立神社の神官となったため、廃寺となります。その後昭和二年(1927年)に再興され現在地に境内を移して堂宇も再建されました。又、徳川家康の側室お万の方は知立神社の神官氷見氏一族から出たことからお万の方の生誕地とされています。」『本堂』の手前には『白寿観音』本堂内部『本堂』正面左手。本堂の扁額『神路山松智院 流汗不動 總持寺』。『一願出世不動』。『観音堂』。『観音堂』内部。手前に『地蔵堂』、その奥に『六角堂』。『六角堂』・『愛染堂』扁額。愛染堂内部の『愛染明王像』。ズームで『愛染明王像』を。『留翠微笑観音堂』。『留翠微笑観音像』。広くない境内に様々な石仏、建物が。この仏様は、どの堂におられたのであったか?『地蔵堂』『地蔵堂 弘法大師』と書かれた扁額。『地蔵堂』の内部正面には『おもかる地蔵』が置かれていた。抱き上げたときに軽く感じれば願いがかなうという占断装置だ。試しに抱き上げたところ、思いのほか軽かったが・・・・。そしして地蔵堂の内部。『流汗不動 総持寺』の『裏門』『三河 新四国 三不動 一番札所霊場』の石柱が裏門前(写真手前)に。『流汗不動明王』の御朱印をいただきました。そして旧東海道に戻り進むと、逢妻川(あいつまがわ)に架かる『逢妻橋(あいずまばし)』が姿を現す。『逢妻橋(あいずまばし)』下を流れる川は『二級河川 逢妻川』。『逢妻川(あいつまがわ)』。隣の橋は国道1号線に架かる『逢妻大橋』。欄干には知立神社の多宝塔の姿が。知立神社の『知立まつり』の山車の姿も。そして国道1号線に合流。そして国道1号線を進む。そして刈谷市へ入る。懐かしき青の#のマークのある建物が左手に。『住友建機教習所 愛知教習センター』。フォークリフト技能講習、クレーン、玉掛け特別教育等を実技しながら説明講義してくれ、様々な資格を取得できると。刈谷市一里山町歩道橋の階段の下にあった『一ツ木一里塚』跡は日本橋から85里目の一里塚。「慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松を植えて一里塚を築かせた。この地は松であったといわれる。国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に塚と記載されている。ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。」『旧東海道入口』をズームで。先に進むと国道1号線の右側(北)に旧道が残っていた。この旧道は左を流れる水路に沿っており、程なく国道1号線に突き当たって分断されるが、反対側の延長線上の旧道へ続いていたのであった。しかし、国道1号線を渡る横断歩道が近くにないため、諦め国道1号線を進む。国道1号線の『工業団地入口』交差点を通過。『旧東海道出口』もズームで道路の反対側から。国道1号線に突き当った旧道は、反対側の延長線上へ続いていのであった。近くにある今岡歩道橋手前で再び旧東海道に入って進む。旧東海道は国道1号線から別れて左方向へ進む。刈谷市のおすいマンホール蓋のデザインは『かきつばた』。『十王堂』。旧道に入ると、直ぐ右手の民家に組み込まれた十王堂があった。堂中には三面六臂の馬頭観音、地蔵菩薩半跏像、弘法大師が安置されているとのことであったが・・・・。『長屋門』。十王堂の直ぐ先、左手に大きな長屋門の旧家があった。次に旧東海道沿いにあった『洞隣寺(とうりんじ)』に立ち寄る。寺の入口にあった『常夜灯』は、寛政8年(1796)の年号が刻まれていた。「洞隣寺曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入り口にある常夜燈は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある」正面に『本堂』。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいた。境内の建物。庫裡であろうか。境内の石仏。大きな達摩の姿の石仏。新たな『本堂』を建設中なのであろうか?実は、この時に『洞隣寺』の案内板に書かれていた「墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある」の墓を訪ねていないことに、帰宅してブログアップされていた旅友Sさんが気づき11月23日の「旧東海道歩き」時に立ち寄ったので併せて以下の写真4枚とともに記載する。『中津藩士の墓』と『めったいくやしいの墓』案内板。「中津藩士の墓」寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に斬りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬された。ところが2人の生前の恨みからか、いつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓地を整理して改めてあつく葬ってからは墓は傾かなくなったといわれる。「めったいくやしいの墓」昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいた。ある時、高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし、青年僧は仏法修行の身であり娘には見向きもせず寄せ付けなかった。娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまった。洞隣寺の和尚はこれを聞いて亡骸を引き取って葬ったが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり油の燃えるような音がしたり、「めったいくやしい」と声になったりして火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。女の情炎の恐ろしさが語り継がれている。」案内板を頼りに進むと傾いている『中津藩氏の墓』と『めったいくやしいの墓』が見つかった。その周囲には歴史を感じさせる多くの「無縫塔」(卵塔)の墓石も並んでいた。『にごりなき 心の水に住む月は 波もくだけて 光とぞなる』この和歌は道元禅師が坐禅の境地をあらわしたとされるもの。img src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/ddd738e86192974e71e45726086c24dc615a5270.15.2.9.2.jpeg" border="0" name="insertImg" />旧東海道沿いにあった『津島社』とその手前に『案内板』が。ここ今岡村は今川村・一ツ木村などとともに池鯉鮒宿の助郷村のひとつであり、道路の管理や人馬の供出などの負担を強いられた。村域には東海道沿いに何軒かの茶店があり、洞隣寺の北側には「いもかわうどん」発祥の地の碑が建てられていた。『いもかわうどん』きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴の『好色一代男』には平打ちうどん(いもかわうどん)が登場し、膝栗毛には「今岡村のたてばにいたる。此ところはいもかはと云めんるいの名物、いたって風味よしときゝて、名物のしるしなりけり往来の、客をもつなくいもかわの蕎麦」という記述がある「江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現在に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。」旧東海道を更に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次了運寺の西側の旧東海道を進むとT字路が。その角に看板が「銃砲 小松屋」とあるが「小松屋本家」。「銃砲」とあるが、裏で?取り扱っているのであろうか?『元祖あんまき 小松屋本家』店の角には『常夜燈』があり柱には『地鯉鮒大明神』の文字が。この後訪ねた『知立神社』は『池鯉鮒大明神』と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社。『常夜燈』の柱の横には『永井左京』の文字も。『永井左京』はこの常夜燈の奉納者?この人物はどの様な方?このあと、名物『あんまき』を岡崎にお住まいの旅友Kちゃんから差し入れをいただき知立神社の休憩所でご馳走になったのであった。長方形に焼かれた薄めのどらやき生地であんこをくるっと巻いたお菓子。少しモチモチした生地と甘いあんこが絶妙にマッチで疲れた体を癒やしてくれたのであった。旅友のKちゃんと『小松屋本家』近くでわかれ、我々は緩い坂を下り国道155号線とぶつかり地下道を潜り向かい側へと旧東海道を『総持寺』を目指す。国道155号線の地下道を渡るべく。階段を下る場所に案内板があった。『総持寺跡大イチョウ』。「イチョウ科の落葉喬木で雌木である。 このイチョウは雌木である。イチョウは病虫害が少なく火にも強いため、神社寺院に植えられて巨木となって残る例が多くこの木もその一つである。樹齢二百余年を経た今も樹勢未だ衰えていない。 総持寺は、嘉祥年中(八四五~八五一)に創建されたと伝えられ、知立神社の神宮寺と考えられてきた。戦国時代に消失したが、学頭玉泉坊がここに再建され、承応二年(一六五三)寛永寺末寺となり総持寺に改められた。明治五年(一八七二)廃寺となったが 総持寺はその後大正十五年(一九二六)に西町新川に再建され、現在に至っている。」『延喜式内知立神社』と刻まれた石柱が右手に。ここを右に曲がると『知立神社』へ。旧東海道から知立神社への入口に『池鯉鮒大明神』と刻まれた『常夜燈』。知立神社への途中、左手前に知立公園内に造営されている『土御前社(つちのごぜんしゃ)』が。そして参道正面には石鳥居が。鳥居の奥に、吉備武彦命を御祭神とする土御前社。社殿をズームで撮ったがピンぼけ。左には「明治神宮御分譲 知立花菖蒲苑」と刻まれた石碑も。『知立公園の花菖蒲について』「当公園の花菖蒲は昭和30年、仝32年、仝35年の三回に亘って明治神宮から特に御下賜いただいたものであって明治天皇並びに昭憲皇太后御遺愛の名品種約60種類が年々其の姸を競い5月の八橋の杜若と共に当知立市に於ける名花の双璧と謳われて居る。花の見頃は6月の5日から18日頃までの間であって6月の花期には毎年菖蒲祭りの期間を設けて茶会、宝物展、学童の写生会、写真の撮影会等の諸行事が催され、尚、花期直前には「さつき展」も行われている。」そして正面に『知立神社』の『多宝塔』が見えた。『知立神社 境内図』境内左(西側)『養生館』前に『明治天皇 駐駕館碑』が。『養生館』は明治19年12月、碧海郡役所の東隣に明治用水事務所および議事堂として建築された。明治23年、陸海軍合同の大演習に際し、明治天皇のの御座所として使用され、その経緯が『明治天皇 駐駕館碑』刻まれていた。現在、養生館は「老人クラブ 憩いの家」とされているようです。『延喜式内知立神社』石柱と正面に『多宝塔』。『知立神社と知立公園案内図』。●知立神社(112年創建) 東海道屈指の名社であり、霊験もあらたかである。分K剤には、多宝塔、古額、舞楽面などが あり保存されています。例祭(5月3日)には、山車文楽や山車からくりなどが奉納されます。●花菖蒲園(はなしょうぶ園) 明治神宮より特別下賜された数十種の花菖蒲が6月上旬に美しく咲き誇ります。『大鳥居』を境内側から。『知立神社由緒』。「当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路 此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賛のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、原稿襲来に際して異国調伏の勅願あり、明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献する等、夫々赤誠を捧げた。亦衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え、御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝社の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。」『多宝塔』。『知立神社多宝塔』。「嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を創立したと言われます。その後天文16年(1547)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。相輪先端までの高さは約十四・五メートル、屋根は柿葺(こけらぶき)、四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、大正九年(1920)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。」『知立神社本殿』創建は社記によると、景行天皇42年(112年)「日本武尊東征の帰途、伊知里生命をこの地にとどめ、仲哀天皇元年に社殿を造営したという。平安時代末期には後白河天皇の皇女、安徳天皇、後鳥羽上皇の皇后殿富門院などの御祈願所でもあつた。古来より、雨乞い、安産などに霊験あらたかと信仰を集め、江戸時代には東海道三社の一つに数えられた。毎年五月の例祭では豪華な山車が出る。桁行六間梁間三間、切妻造妻入、檜皮葺で、間口一間、切妻造の向拝を設けて屋根を重ね、正面性を強調する。平面は前方二間分を土間として奥を板敷とする。縦長に配置され、後方の祭文殿や廻廊とともに、尾張造と呼ばれる社殿配置の三河地方への伝播を示す遺構。祭神は次の6柱。主祭神4柱に相殿神2柱を併祀する[1]主祭 ・鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) - 主神。 ・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) - 鸕鶿草葺不合尊の父。 ・玉依比売命(たまよりびめのみこと) - 鸕鶿草葺不合尊の妻。 ・神日本磐余彦尊 (かむやまといわれびこのみこと:初代神武天皇) - 鸕鶿草葺不合尊の子。 ・青海首命 (あおみのおびとのみこと) - 碧海地方の開拓にあたったと伝える人物。 ・聖徳太子『千人燈』。戦前の常夜灯。側面に彫られた「献身報国」という文字が。『太鼓橋』。花崗岩で作られた石橋。その下に『神池』。池の水面には『片目の魚』が。『片目の魚』をズームで。「知立神社の御手洗池の鯉は片目であると本に書かれたり、また、言い伝えられたりしています。その話は、知立の西町に住んでいた長者の家は、代々目の悪い人が多かったということでした。あるとき、長者の家のかわいい娘さんが重い病気にかかりました。いろんな手当をしてもなかなか治りませんでした。その上、かわいそうなことに目が見えなくなりそうになりました。両親は大変心配して、これはもう明神さま(知立神社はその昔、知立大明神といわれていた)にお願いするほかない。「娘の目が治りますように」と、願をかけ、毎日、毎日、一心にお参りしました。二十一日の満願の日、不思議な事に娘の片方の目が見えるようになりました。大変喜んで明神さまにお礼参りをしました。それから、御手洗池の鯉は片目になったということです。明神さまのお使いの鯉が自分の片目を娘さんにあげたからです。やがて、その話が伝えられて、御手洗池の水で目を洗うと目の病気が治ると信仰されるようになりました。その頃は、池の水は透きとおるようにきれいで、本当に目を洗うという人もあったということです。池には目を洗う人たちのために橋のすぐ脇に、柵の無いところがあって、水面近くまで降りられる階段が今でも残っています。」『知立神社石橋』。「この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、高さ1.68mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」と刻まれている。『東海道名所図会』には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある」境内には親母神社や合祀殿・小山天神社などの境内社が並ぶ。『秋葉社』。祭神は、火之夜芸速男神、またの名を火之迦具土神。宝暦4年(1754)五ヶ町衆が駒場・一ツ木とともに遠州秋葉神社より金山(現在の逢妻町)に勧請し、享和3年(1803)、本社南の山林に移転、さらに昭和36年(1961)国道155号線の開通により社地が分断されることとなり、現在地に遷る。『神馬』。ガラス越しに。『親母神社』。 祭神:豊玉姫命 祭神は鸕鶿草葺不合尊(本殿主神)の母。社殿は一間社流造で朱塗で彩られ、屋根は檜皮葺。 明治期の造営で、摂社としては規模の大きいものになる。この社殿は国の登録有形文化財に 登録されている。『小山天神社』。 祭神:少彦名命。『合祀殿』。 祭神:天照皇大神など。明治6年(1873年)の神社合祀令に伴い、 知立神社境内外の小祠を合祀。『シャシャンボ(小小坊)』【分類】ツツジ科 スノキ属【樹形】常緑低木~小高木.高さは2~5mになる。【 葉 】互生.葉身の長さは3~8cmで,ふちには鋸歯がある。【樹皮】縦に裂けて剥がれる。【 花 】総状花序に白い壺形の花をつける.花期:6~7月。【果実】液果.6mm位の球形で,黒紫色に熟す.果期:10~11月。【分布】本州(千葉県以西,石川県以西),四国,九州の丘陵帯。【別名】-【名の由来】小さな果実が多数つく様子から。休憩所で一休み。『愛知の山車 百輌総揃え』。『凛として』。日本ほど国旗を掲げない国民はいないのではと・・・・。そう言う私も。『知立まつり「知立の山車文楽とからくり」』が平成28年12月にユネスコ無形文化遺産に登録された。旅友が差し入れてくださった「あんまき」をご馳走になる。休憩所裏の『養正館』。休息所隣の『トネリコ』。この名前は初めて。「モクセイ科の落葉小喬木で、別名サトトネリコ。本州中部以北の山地に自生し、人家や田の畦にも植える。葉は羽状複葉で、春に淡緑色の細花をつける。雌雄異株。 樹皮を秦皮(しんぴ)と称し、神経痛・リュウマチ・赤痢などの治療に用いる。また材は堅く弾性があるため建築・家具材や野球のバットにも用いられる。 このトネリコは、西三河地方では最も古木と言われている。高さは6m、南北の枝張りが8.3m、根回りは3.4m、幹の太さは1.95mに及ぶ。」『芭蕉句碑』『芭蕉句碑』「『不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市』 芭蕉翁元禄5年(1692)秋9月に江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。池鯉鮒の馬市は歌川広重の浮世絵に描かれて有名であるが、それと並び木綿市も年間を通じて行われ、賑やかであったことがうかがえる。池鯉鮒の蕉門の俳人井村祖風が寛政5年(1793)この句が作られて100年にあったのを記念し、同好の士15名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。」『二宮金次郎像』。『社務所』。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に『知立の松並木』の下を進む。『やすらぎ』『山屋敷用水碑』。大きな碑石だが、文字はとても解読意欲の起きない不鮮明さである。大正5年(1916)年建立の山屋敷用水開削を記念した碑のようであった。『知立松並木』「慶長九年(一六○四)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅七m、約五百mにわたり凡そ百七十本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている」左に『万葉の歌碑』、右に『馬市句碑』。昭和28年建立の万葉歌碑には「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能知師爾」と刻まれている。大宝2年(701)10月に持統上皇が三河國に行幸の砌、随行の長忌寸奥麻呂が詠んだ歌である旨刻まれている。この付近を引馬野と呼んだことから浜松市・宝飯郡御津町に並ぶ持統上皇行幸の推定地として建立したものである。裏の撰文・書は当時の知立町長加藤玉堂。『池鯉鮒宿 馬市之趾』三河は、奈良時代から度々馬を献上し、古くは鎌倉街道に近い牛田周辺に馬市が開かれていたそうです。東海道が整備されてからは、池鯉鮒宿近く、慈眼寺あたりに移り、街道一の賑わいを見せました。裏面には、麦人の句が刻まれている。「杜若 名に八ツ橋の なつかしく 蝶乙鳥 馬市たてし あととめて」『馬市句碑』は『池鯉鮒宿 馬市之趾』の裏に。 「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」 俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。『万葉の歌碑』 「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」 この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。『歌川広重 東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』 天保3~4年(1832~1833)頃「歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。 鎌倉時代の初期に書かれた「海道記」に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。 また、江戸時代の浅井了意の「東海道名所記」、梅月堂宣阿「富士一覧表」、井原西鶴「一目玉鉾」、秋里籬島「東海道名所図会」等に、馬市の盛大な様子が述べられている。 これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。馬を売買する人はもとよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。 刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。」歩いて来た『知立の松並木』を振り返る。写真右手が国道1号線。『御林』交差点・松並木の街道が国道1号線に突き当たる手前右手に、交通安全の『観音菩薩』が建っていた。松並木とは不釣り合いな建物は『イズモ葬祭 知立』。昔は結婚式場であったが現在は葬儀場になっていると。この御林交差点で、国道1号と合流し、その先は右から国道1号・県道51号・旧東海道の3叉路となり、一番左の細い道を行く。横断には地下道を使った。地下道でくぐると、出たところに『東海道池鯉鮒宿碑』が建っていた。街道は、宿碑の先のY字路を左に進んで行く。『東海道池鯉鮒宿碑』 ➡:鳴海 ⬅:岡崎本陣1、脇本陣1、旅籠35、家数292、人口1620・・・天保14年(1843)時点古くは「知立」と書き、語源は「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味している。御手洗池の鯉と鮒から江戸時代は「池鯉鮒」と書いたが、明治2年(1869)に再び「知立」が正式名になった。知立神社の神主の館である知立古城があったため、古くから城下町的村落で、鎌倉街道の要衡の地としても栄え、開かれていた木綿市や馬市は江戸時代には特に盛んだったようだ。ここが池鯉鮒宿の東の入口となる。国道1号線から別れた池鯉鮒宿の旧東海道を進む。知立市のマンホールには、中央に伊勢物語の有名な折句「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」周囲には『カキツバタ』が。『名鉄 三河線』の踏切が前方に。この先に『三河知立駅』がある。『かきつばた』のデザインのマンホール。中央分離白線のない狭い旧東海道を進む。知立市中山町中山付近の街道脇には明治41年(1908)の小さな常夜燈が。そして『知立中町交差点』まで歩を進める。旧東海道(県道285号線)が県道51号線に合流、100m程で中町交差点へ。旧東海道はこの交差点を渡り正面の小道へ。ここを左へ曲がると吉良道。中町交差点の角に「ゑびすや」所在地:愛知県知立市中町中39ここの手前で、この後、ブルガリア・ルーマニア旅行を御一緒した岡崎の旅友Kちゃんが応援に来て下さったのであった。横断歩道を小走りで渡る旅友Kちゃん。知立市の『かきつばたまつり 花しょうぶまつり』のポスター。カラーの『かきつばた』のデザインのマンホールに遭遇。伊勢物語句碑のマンホールの『かきつばた』の花もカラーで。『池鯉鮒宿 見て歩きマップ』都築屋美廣の先の変則十字路を左折すると、街道の南西を走る県道51号線側に『池鯉鮒宿本陣跡』があった。『池鯉鮒宿本陣跡』碑。「本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。品川からかぞえて三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけで対応できない時の予備の宿)が各1軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していた。明治となり宿駅制度が廃止され200年以上続いた永田本陣も、明治8年(1875)に取り壊された。」『明治天皇行在所聖蹟』。『本町山車蔵』街道に戻ると左手に本町山車蔵があった。ここには知立祭りで使われる山車が収納されており、知立祭りでは山車文楽(人形浄瑠璃芝居)や、からくりが上演される。現在、山町・中新町・本町・宝町の4台の山車で 「三番叟」 「傾城阿波の鳴門」 「壷坂観音霊験記」 「神霊矢口の渡し」 などが上演されるのだと。左に『知立古城跡』。城跡は天正9年(1581)頃、刈谷城主の水野忠重が信長接待のために御殿を建て、江戸初期に子の勝成が増築して将軍や藩主の休息所としたが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊。明治期には碧海郡役場や明治用水事務所などが置かれた。現在は児童公園となっており奥には大楠がある。石垣の上に青銅製の『明治天皇駐蹕址碑』が建っていた。公園の真ん中に立つ丸い石柱『知立古城址』そしてその奥に『大楠』。『知立古城址』「江戸時代前期の様子を伝える屏風に描かれた御殿と知立神社。知立古城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代の初めには将軍の休泊用の御殿となっていた。」『東海道案内図』。『知立古城址』の先のT字路突当りに浄土宗の『神前山 浄林院 了運寺』そして見事な『山門』が。山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、四脚鐘楼門(上層部が鐘撞堂の山門)。『知立三弘法第二番札所』『了運寺』の『本堂』。了運寺は、平安時代に天台宗の高僧・慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山したのが始まりと言われている。当初は天台宗であった明応2年(1493)浄林了運大和尚が浄土宗に改宗。了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊(平安時代に天台宗の高僧である慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山した寺院。)として開かれたのが始まりと伝えられています。当初は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し現在の寺号である了運寺に改めています。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により同じく神宮寺七坊の1つ総持寺が廃寺になる多くの仏像が了運寺に移されています(大正時代に総持寺が再興されると戻されています)。寺宝である法然上人御絵伝は昭和40年(1965)に知立市指定文化財に指定されています。本堂は寄棟、桟瓦葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。知立三弘法第二番札所(札所本尊:弘法大師)。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。宝暦4年(1754)の手水石が置かれた『手水舎』。『庚申堂』と『青面金剛』。『三十三観音』。『延命地蔵菩薩』。『了運寺』先の右手にあったのが『知立毘沙門寺』。写真だけ撮り引き返す。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『元禄の道標』を後にし、旧東海道を150mほど歩いた先の両側に、小高い丘が住宅地の先に現れた。ここが『来迎寺一里塚』。場所は愛知県知立市来迎寺町足軽35。江戸から数えて84里目の一里塚で、塚がきちんと残っている貴重な例である。『来迎寺一里塚』「一六○三年(慶長八年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。 この時一里(約四キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。 塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。 この大きさは直径約十一メートル、高さ約三メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。 県下ではかに豊明市の阿野一里塚などがある。」その隣りにあったのが『東海道見て歩きマップ』両脇に知立市観光協会のマスコットキャラクター『なりひらくん』と『かきつ姫』が。平安の歌人在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に詠んだ「無量寿寺」は、伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝地。「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」もちろん『かきつ姫』は市の花に指定されてるかきつばたからのネーミング。観光のおすすめは①馬市の碑 ②松並木 ③元禄の道標 ④来迎寺の一里塚『来迎寺一里塚』の『南塚』と『来迎寺一里塚碑』。『来迎寺町公民館』の後ろの『来迎寺一里塚』の『北塚』。なぜここに『来迎寺町公民館』を建ててしまったのであろうか。昭和36年(1961)に県指定文化財に指定された右塚(北塚)は高さ3.5m、基部の幅10m、奥行9mの規模。左塚(南塚)は、塚の半分ほどが崩され原形を失っており、塚上には従軍記念碑や戦死者記念碑があったため、右塚との同時指定はされなかったが、原形復帰に努力する地元の意志に鑑み、平成8年追加指定された。現在では塚上の石碑等も撤去され、相並んだ双塚の面影を示すようになった。『北塚』の松。一里塚には一般的に「榎」が植えられている。何故「榎」なのかは、家康が一里塚構築を行った大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言ったのをエノキ(榎)を植えよと聞き間違いしてしまったのだとか。来迎寺一里塚の北塚の前を入るとあったのが『源心寺』。『真宗大谷派 吉城山 源心寺』と刻まれた寺標石柱が右手に。『源心寺』に隣接して北側に臨済宗妙心寺の『紫雲山来迎寺』があった。安永7年(1778)の三界萬霊塔と刻まれた『地蔵菩薩』。『今崎城跡』碑。来迎寺は、承平元年(931)山城の国宇治平等院からこの地に来た来迎寺印という僧により開創されたと言われている。ここは織田方の今崎城があったところで、今崎城は永禄3年(1560)今川方に攻められて落城となった。「今崎城今崎城に関する文献は見当たらないが、来迎寺町の地名に古城、足軽等があり、往昔の俤をとどめている。八橋町の葦香城と同時代にあった城のようで、古刹来迎寺の守護に任じていたと思われる」『来迎寺 本堂』帰りに再び『来迎寺町公民館』の後ろの『来迎寺一里塚』の『北塚』そして『南塚』を見る。それにしても『来迎寺町公民館』はこの場所には・・・と。再び旧東海道に戻り進む。一里塚から500m近く進んだ路地を左に入った場所にあったのが『西教寺』。『真宗大谷派(東本願寺) 西教寺 本堂』『鐘楼』。享和3年(1803)再建時の『本堂旧鬼瓦』平成二庚午年(1990)落慶『経蔵』。西教寺の先を進み、前方に衣浦豊田道路の高架が見える手前の左筋角に『道標』が建っていた。道標には 「御室御所御直末重原村道」 「見返弘法大師従是十四丁」「天下泰平国土安全」 と刻まれていた。 この道標は、知立弘法山遍照院への道しるべで、遍照院にある弘法大師像がやや右を向いていることから見返弘法大師と呼ばれているこに由来するのだと。更に進むと、衣浦豊田道路の高架手前にも元禄12年(1699)の『道標』が建っていた。道標には 「八橋山無量寺」 「従是五丁北八橋業平作観音在」 「天下和順」 「元禄十二巳卯年三月吉日施主敬白」 と刻まれているのだと。 来迎寺一里塚の手前にもあったが、この道標は在原業平ゆかりの八橋山無量寿寺への道しるべとして建てられたものであると。前方に『有料道路 衣浦豊田道路』の高架がありこの下の『新田北』交差点の歩道橋を渡ったのであった。右手に『明治用水西井筋緑道』「水環境整備事業明治用水地区管路化された明治用水西井筋の上部を有効に利用し、「農村と都市のふれあう緑あふれる用水の道」として、遊歩道・流水帯・休憩施設・植栽帯などを設置しています。延長は14.3kmで、豊田市、安城市、知立市(6.3km)、刈谷市にまたがっています。」歩道橋の上から『知立松並木』を見る。ここ衣浦豊田道路の高架を過ぎると、知立の松並木となり、この先の国道1号線との交差点まで続いていたのであった。歩道橋の欄干には『かきつばた』のレリーフがはめ込まれていた。歩道橋の花壇を降り『知立松並木』を歩く。知立市は、かつては東海道の宿場町「池鯉鮒(ちりゅう)宿」として賑わっていた。市の東部山町から牛田町に至る約500mの間には旧東海道沿いに松並木が残っており北側93本、南側88本松が現存している。また、市の西部に位置しかつては東海道沿いであった知立神社では木綿市が開かれており、三河木綿が取引されていたといわれている。『旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒』道標石碑。京都三条 四拾壱里。『東海道見て歩きマップ』。野外彫刻プロムナード展15回の開催を記念し、「ちりゅうにちなんだもの」とテーマを設け、東海道松並木周辺の遊歩道に、新たに彫刻作品5体を設置したと。彫刻のある風景を、東海道松並木の新しい風景として皆様にお楽しみいただきたいと。早川 高師 「ようこそ、ようこそ」2015年制作 ブロンズおみやげをもった猫が、池鯉鮒にやってきて、鯉や鮒、池鯉鮒の人々に「ようこそ、ようこそ」と歓迎される様子をおとぎ話風に制作したものです。しばらく続く松並木には各種の『句碑』、『歌碑』があった。『小林一茶の句碑』「はつ雪や ちりうの市の 銭叺(ぜにかます)」池鯉鮒宿の木綿市の繁昌を詠んだものであると。「銭叺(ぜにかます)」とは銭を入れるのに用いるわらむしろの袋のこと。遠藤 透 「旅の途中」2015年制作 ブロンズ江戸時代、東海道を訪れる旅人が池鯉鮒宿に向かう途中、松並木で一休みする姿を、渡り鳥に例えて、旅の魅力を表現しています。「東海道池鯉鮒は江戸時代に東海道五十三次の宿場の一つとして指定されました。当時、池鯉鮒大明神(知立神社)が多くの人々の信仰を集めていたことに加え、馬市や木綿市があり、多くの人でにぎわいました。かつて宿の中心には、宿駅業務を担う問屋場、大名・公家等の泊まる本陣、庶民相手の旅寵などがあり、旅人たちはここで旅の疲れを癒しました。」「旅の途中知立は「池鯉鮒」と呼ばれ、東海道三十九番目の宿場である。旅人は、この町で疲れた体と心を癒し、再び旅立ったのだろう。東海道松並木は昔の旅人を彷彿させる場所である。また旅をしよう。」『東海道 知立松並木』石柱。池鯉鮒では古くから三河産の「木綿市」や木綿を運送するための「馬市」が開かれ、にぎわった。馬市には四百頭~五百頭の馬が集まり、談合松と呼ばれる大松の下で馬の値段を決めていた。広重の保永堂版『東海道五拾三次 池鯉鮒』は馬市の様子を描いている。池鯉鮒は衣浦湾を挟み知多半島をを控え、挙母・吉良・刈谷へ至る道の分岐点でもあった。『新日本歩く道紀行100選 文化の道「東海道宿場散歩みち」』全長:5.6km 所要時間:2時間平成27年11月に、無量壽寺~知立神社を結ぶ、全長5.6㎞のルートが「新日本歩く道紀行100選文化の道 東海道宿場散歩みち」に選定されました。新日本歩く道紀行100選とは、全国のウォーキングルートから10のテーマでそれぞれ100ルートが選定されたものです。選定されたルートは、魅力あるウォーキングルートとして全国のウォーカーに紹介されます。今回は、「文化の道」のテーマで選定されており、歴史や文化を感じる見どころが多くあります。皆さん是非歩いてみてください『明治用水』「現在の明治用水西井筋ここの遊歩道の下には明治用水西井筋が流れています。埋められているパイプは直径150センチで、農地のかんがいに必要な水を下流に送っています。」永井 はな子 「かきつばた姫」 2015年制作 ブロンズ 知立市の花かきつばたを、凛とした成長していく女性に例えています。「かきつばた八橋のかきつばたは、平安の歌人在原業平が伊勢物語で「かきつばた」を折り込んで歌を詠んだといわれ有名です。また、江戸時代尾形光琳が描いた国宝『燕子花図屏風』は、伊勢物語九段「八橋」の場面を描いたとされています。かきつばたは知立市の花として親しまれており、八橋町にある「八橋かきつばた園」では、4月末から5月末までの間、かきつばたが咲き誇る ”かきつばたまつり” が開催されます。」「かきつばた姫 永井 はな子伊勢物語に想いを馳せながら、古代から凛として咲き誇るかきつばたの精神性を、昔ながらの宿場から近代的な町へと移り変わっていく知立と重ねあわせて、かきつばたが美しく成長していく様子を表現しました。」『かきつばた園』。石造りの池。池の水の中には『鯉』や『鮒』の姿はなかった。早川 高師 「ようこそ、ようこそ」2015年制作 ブロンズ「池鯉鮒昔、ちりゅうは知立・智立などと書かれていました。知立神社にはお祭りの際に神輿を洗う御手洗池と呼ばれる池があり、池には鯉や鮒が多くいたので「池鯉鮒」となったとも伝えられています。隔年5月3日の知立まつりで上演される山車文楽とからくりは全国的に有名で、国の重要無形民族文化財に指定されています。」「ようこそ、ようこそ」早川高師おみやげをもった猫が、船に乗って池鯉鮒にやってきた。鯉や鮒、池鯉鮒の人々に「こんにちは」。魚たちも歓迎し「ようこそ、ようこそ」。池を船で表現し、このような様子をおとぎ話風に制作しました。」宇納 一公 「片目の鯉」 2015年制作 ブロンズ知立市に伝わる民話「片目の鯉」を表現した祈りの造形です。「知立神社知立神社は、三河の二の宮で、まむし除け・雨乞い・安産の神として信仰され、隔年に行われる5月3日の知立まつり本祭には、山車文楽とからくり人形芝居が上演されます。正面の鳥居を過ぎると右手に国指定重要文化財の多宝塔があります。また、知立神社の御手洗池には、娘の目が治るようにと毎日神社にお祈りしたところ片目が治り、それから御手洗池の鯉が片目になったという昔話『片目の鯉』が語りつがれています。」「片目の鯉 宇納 一公池鯉鮒のむかし話に、両親が娘さんの目が治るように願をかけた『片目の鯉』のお話があります。祈りの造形として、この作品をいつまでも愛して下さることを願っています。」鬼頭 正信 「知立の昔話より」 2015年制作 銅(鍛金)知立市の民話に登場する3匹の動物をレリーフで表現し、それをかきつばたの花びらに組んだ造形で、金属をたたいて作る鍛金の技法によって制作された作品です。「鎌倉街道江戸時代東海道が開かれる以前、人々は鎌倉街道を行き来しました。伊勢物語の中で、平安の歌人、在原業平がかきつばたの五文字を折句して詠んだ八橋には業平を偲ばせる史跡が今も多く残っています。また、鎌倉街道沿いの地域では多くの民話が残されており、現在に語り継がれています。そこには狐や狸など、可愛らしい動物たちが登場します。」「知立の昔話より 鬼頭 正信知立の昔話には動物たちが登場します。カキツバタの花びらに見立てた3面にその中から選んだ3匹を表しました。さて、どのお話に出て来るでしょう。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次無量寿寺の本堂脇の入口を潜り裏手にあった『かきつばた庭園』に向かう。『業平竹』。「業平竹植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述がみられる。一説には竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように’節から多くの枝を出すため、色男と言われる在原業平に見立てたともいわれる。男女竹と称え縁結びの竹として俗に信仰されている。」本堂の『脇門』か。『心字池』。「杜若池(心字池) 市指定文化財(名勝)昭和40年1月指定この庭園は、寺の再興者であった方巌売茶翁が、以前からあった池や庭を煎茶式に改造したものといわれています。回遊式、刈込式、借景式の様相が特色です。庫裡前の杜若池(心字池)を中心とし、庭全体の高低の落差を四段に分け、段毎の境を生け垣で区切った回遊式となっています。手前の心字池には全体の要となる中の島があり、築山となった中腹には三尊石が設置されています。 造られた当時は正面遠景として岡崎の村積山がみえ、近景に逢妻川の清流が流れ借景として取り入れられていました。この杜若池(かきつばたいけ)のほか、境内には昭和になって新しく作られた杜若池があり毎年五月には合わせて約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わっています。」『杜若池(心字池)』の正面左側。『三尊石』。「この庭の中心 観音菩薩 阿弥陀如来 勢至菩薩。」『杜若池(心字池)』の先に見えるのは『茶室』の裏側。『業平の井』。「業平の井 業平公の水を御くみの井戸。」『玉川卓』と『辻灯籠』。「玉川卓右の長方形の石は煎茶式庭園玉川庭の玉川卓である。この石の上に茶道具をのせ、青空の下で煎茶を楽しんだのである。」辻灯龍左の灯龍は、文政年問に当時の無量寿寺客僧八橋売苓万巌禅師のために、紀州大納言治宝公から贈られた一ついの灯龍である。」『杜若池(心字池)』の周囲を散策。『杜若池(心字池)』の周囲を散策。その先に東屋が。東屋を見上げる。東屋を別の角度から。無量寿寺本堂裏に歴代和尚のお墓が並んでいた。墓を横から。『伝説羽田玄喜(げんき)二児の墓』。昔、野路宿(八橋)に羽田玄喜という医者がいた。妻はこの地の庄司の娘で二人の男児があった。夫は早くに死に、女手一つで二児を育てていた。あるひ妻が生活の糧にと裏で海藻をとっていると、母を慕って来た二児が水に落ち溺れて死んでしまった。妻は悲しみのあまり当時に入り尼となって、子の墓を建て菩提を弔った。以後この地を八橋と名付けたと伝えている。」『カキツバタ(杜若)』の田んぼ。『八橋』。幅の狭い橋板を数枚、稲妻のような形につなぎかけた橋。『八橋』を渡って進む。その先に『在原業平像と歌碑』。「伊勢物語の伝説地八橋ここ八橋は平安時代につくられた「伊勢物語・東下り」の旧跡として、愛知県の史跡に指定されています。特に在原業平が詠んだ「かきつばた」の和歌は、多くの人の心を惹きつけてきました。平安時代の昔から千年余りの間、東海道や鎌倉街道を行き来する人々が、業平をしのんでこの地を訪れ、数多くの紀行文や和歌俳句を残しました。また、能や謡曲にも取り入れられており郷土の誇る大切な文化遺産です。当地の旧跡保存会は「県の花・市の花」であるかきつばたの手入れを続けまた「業平毎歳忌」を営んでいます。かきつばた歌碑と在原業平像は、地元の方々や、知立市のライオンズクラブ、文化協会をはじめとする各種団体からの寄付金、かきつばたまつりにお出でいただいたお客様、全国の篤志家の方々からの募金によってつくられました。八橋伝説地がより多くの方々に愛され、親しまれ、末永く語り継がれるよう願っています。」『歌碑』。伊勢物語で詠んだとされる、歌頭に「かきつばた」の五文字を入れた歌の『歌碑』。「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思う」「八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と詠まれました。この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれています。また、伊勢物語の九段東下りに採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました。」『在原業平像』。お顔をズームで。再び『八橋』、カキツバタ(杜若)園を見る。 カキツバタが咲くと。 【https://4travel.jp/travelogue/10568959】より。「知立市の花である「かきっばた」が咲き誇るこの池、に導かれた水は、先人たちの壮大な計画により、明治13年(1880年)に開削され、碧海大地の農業地帯を創りあげた明治用水の水を利用しています。中央アルプスを源にし、矢作川を経た後この地城までやってきます。この機会に、水の尊さや地域環境につて考えてみてはいかがでしょう。」茶室の周囲の竹林。竹林の中に茶室への入口が。茶室入口。茶室の名は『燕子庵(えんしあん)』。多種な木々が。『祖風翁の句碑』「祖風翁の句碑遺章かきつばた 夏もむかしの なつならず井村祖風は池鯉鮒の旅宿山吹屋の主人で俳人です。延享元年(一七四四)江戸向島に生まれ、芭蕉に私淑して俳諧の道に励み、多くの文人墨客らとも交わりました。岡崎藩主家の本多忠寛(俳人三秀亭李喬)と親交があり、その縁で山吹屋の跡を継ぎました。山吹屋には蜀山人、太田南畝も訪れ、八橋の方巌売茶とも交わるなど風雅の生活を送り、池鯉鮒を代表する文化人でした。現在知立神社にある芭蕉の句碑「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」は祖風が同好の士とともに建てたものです。この墓と書かれた祖風の句碑は、祖風没後二年の文化八年(一八一一)に、門人らによって経巻型式で建てられました。」『供養墓』。墓の方の戒名と本名が。『八橋碑』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。前日の出発予定であったが、箱根周辺の積雪が予想されたため1日出発をずらす。そして、この日の朝も箱根の山越えは、路面凍結の可能性があるため、茅ヶ崎から県央自動車道、東名高速道路で富士川スマートICまで行き。ここから一般道に降り西に進む。最初に訪ねたのが、以前訪ねることが出来なかった知立市にある『八橋山 無量寿寺』。旧東海道の来迎寺町の『元禄の道標』のある交差点を右折し真っ直ぐ進むと『八橋日吉山王社(日吉神社) 』が正面に見えて来た。名鉄三河線 三河八橋駅南410mの場所にあるカキツバタで有名な無量寿寺の門前社と神宮寺の関係にある南向きの神社。南側からの道路が神社正面で左右に分かれるY字路になっていて左側は三河八橋駅、右は駐車場方面に至る。そしてY字路正面の左手は『八橋日吉山王社』、右手には『八橋山 無量寿寺』の参道が並ぶ。写真左側が『八橋日吉山王社(日吉神社)』の参道入口、右前に日吉神社神社石柱。入口には『邨社日吉神社』の社号標が建っていた。正面に地蔵尊。そして『八橋日吉山王社(日吉神社)』の石鳥居と奥に拝殿。『三河新四国総開帳』と書かれた幟が。三河新四国霊場会では札所再興五十五周年記念今年の三月一日より六月十〇日まで『三河新四国霊場の総開帳』が行われている様であった。開帳とは、ふだんは閉じてある厨子(ずし) の扉を、特定日に限って開き、中の秘仏を一般の人に拝ませること・開龕 (かいがん) ,啓龕 (けいがん) ,開扉 (かいひ) 、隠すべきものを人目にさらすこと。右手には無量寿寺の奥にある『八橋かきつばた園』の案内塔が。『無量寿寺』の参道右前に『八橋舊蹟』の石柱が。『知立市 観光めぐり』案内板。『新日本歩く道紀行100選 文化の道「東海道宿場散歩みち」案内板』。★スタート : 無量壽寺→かきつばた園→明治用水緑道遊歩道→東海道松並木→本陣跡→山車蔵 →知立古城址→ゴール 知立神社★全長 : 5.6キロメートル★所要時間 : 2時間程度『無量寿寺』の参道の左側に園内案内図。『無量寿寺』「名勝八橋の中心となる寺で現在臨済宗妙心寺派に属しています。寺伝では奈良時代の 慶雲元年(704)の創立としており、当時は慶雲寺と称し真言宗として寺坊大いに栄えたと 申します。延喜2年(902)山号寺号を八橋山無量寺に改めているので、このころいまの地へ 移されたと伝えられ、その後無量寿寺と改められ現在に至っています。」『かきつばた園』「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」 平安時代の歌人在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に入れて歌を詠んだ八橋は、 伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝地です。敷地13,000㎡の庭園内には 3万本が生息し、5,000㎡の池一面に咲きそろう4月~5月が見所で、 多くの人々を魅了します。」 配置案内図。『八橋日吉山王社(日吉神社)』の境内『八橋日吉山王社(日吉神社)』の手水舎。『御大典紀年』の木。『八橋日吉山王社(日吉神社)』拝殿。 この神社は名鉄三河線・三河八橋駅の南西約500mに鎮座。平安時代の歌人・在原業平の伝説で有名な無量寿寺西に隣接しており、無量寿寺には伝説に由来する業平竹やヒトモトススキなどが植えてあり、又、八橋かきつばた園には3万本のカキツバタが植えられているといわれ、花の時節にはさぞかし壮観だろうと思われた。このカキツバタは知立市の市花でもあり、愛知県の県花ともなっていいるのだと。参道から境内は非常に綺麗に整備され、整えられていた。拝殿前には岡崎狛犬がいたが、吽は子狛が親の前脚を両手で持ち上げている珍しい意匠。拝殿は入母屋造り、本殿は流造で建立。その他多数の境内社が合社の形で祀られていた。御祭神:大山咋尊祭礼日:5月15日により近い日曜日(5月の第2又は第3日曜日)境内社:八坂神社、八朔社、神明社、白山社、春埜山、秋葉山、八幡社、明神社、山の神、 弁財天、天神社由緒:創立は慶雲元年(704)、神宮寺である無量寿寺の開祖、密園法師が寺創建に際し、守護神として境内に勧請安置されたと言われています。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕、社務所の右にある合社の左の旗立ての石の支柱に「慶應3年(1867)八橋山朴仙(無量寿寺第八世和尚の名)」とあります。明治元年(1868)神仏分離令により境内に境界を設け、町内の氏子が氏神としてお祀りしてきて、現在に至りました。代々、全住民輪番で毎夜御灯明を灯し続けていると。境内には、芭蕉の「かきつばた 我に発句のおもひ有り」の古い句碑や、荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた亀甲碑(八橋古碑)が。扁額『日吉山王社』。『拝殿』内部。流造りの『本殿』参道左に『授札所』。『境内社』の八坂神社、八朔社、神明社『境内社』白山社、春埜山、秋葉山、八幡社、明神社、山の神、弁財天、天神社。その奥にY字路左側の道路によりの『脇鳥居』、その先に本殿左側の『脇末社殿』に至る。『脇鳥居』。脇鳥居から入って左側に豊川陀枳尼眞天の『稲荷連鳥居』。拝殿前に戻ると参道右に『知立市八橋史跡保存館』。そして『無量壽寺』の参道を進む。境内に入るとすぐ正面に『芭蕉句碑】 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定』が。「芭蕉句碑 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定 かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉 麦穂なみよる 閏ひの里 知足 芭蕉が『野ざらし紀行』を終えた翌年の貞享二年(1685)四月に鳴海の俳人下郷知足の家を 訪れ、その時に開かれた俳席での作といわれる。 芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしのであろうか。 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とある。 三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである。」『八橋古碑 市指定文化財(建造物) 昭和40年1月指定』芭蕉句碑の傍にあり、亀の上に石碑が乗っていた。「八橋古碑八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れるた。この碑は、岡崎藩に仕えた儒者、秋本嵎夷その門人国分伯機・由良不淰により寛保二年(1742)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。碑文は「八橋紀事弄王孫歌」と題され、八橋と業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。亀型の碑の台を亀趺(きふ)といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では「亀甲碑」と呼ばれる。」この石碑は『八橋由緒記』。全て漢文で記載されていて内容は???これは全てひらがなで『ひともとすすき』。芭蕉句碑の後にあったが、根本から刈り込まれていた。「ひともとすすき謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。八橋の一もとすゝき穂にいでて はるばる来むる人まねくらんと「三河名勝絵図」にはあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。」『卍 三河新四国 第四番・無量寿寺』『本堂』無量寿寺の創建は慶雲元年(704)、密園法師によって開かれたのが始まりと伝えられている。当初は現在の豊田市駒場町にあり真言宗と天台宗を兼学した東海山慶雲寺と称していましたが弘仁12年(821)に現在の寺号である無量寿寺改称し、延喜2年(902)に現在に移り、山号を八橋山に改称しています。その後、真言宗の学頭として寺運が隆盛しますが衰退し、文安5年(1448)に禅源大済禅師が再興、さらに宝永8年(1711)に臨済宗に改宗。文化2年(1805)、方巌売茶が中興の祖となり境内整備に努め現在の庭園もこの時期に作庭されています。寺宝が多く方巌売茶竹製笈が愛知県指定文化財に指定されている他、杜若姫供養塔、亀甲碑(八橋古碑)、芭蕉連句碑、売茶翁墨跡、売茶翁長線、業平八橋図が知立市指定文化財に指定されています。又、境内一帯が「八橋伝説地」として愛知県指定史跡に指定されています。『本堂』内部。『南無大師 遍照金剛』の文字が。「八橋山 無量寿寺 臨済宗妙心寺派慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺が弘仁3年(821)八橋のこの地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。寺宝 売茶翁茶筅 県文化財 墨跡 市文化財 長線 市文化財業平八橋図 市文化財その他にも多くの宝物がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『明治川神社』を後にし、旧東海道に再び戻り『池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)』に向かって進む。断続的に松並木が続いていた。松並木が始まって間もなく、右手に『邨社 日𠮷神社』と刻まれた社標が。『吉』の上は士でなくて土。ここは安城市浜屋町。裏に「明治四十二年十月建之」。『邨』の字を調べてみて初めて『村』の旧字体であることを知ったのであった。奥に社殿?、左に朱の鳥居が見えた。参道は脇へ追いやられて?企業の従業員駐車場?に。社殿?をズームで。調べてみると『社殿』はこの左に、これは『境内社』であろうか。『安城消防署北分署北』という長い名前の交差点を通過。この交差点を左折して名鉄名古屋本線に突き当たり線路沿いを右に進むと『新安城駅』に達する。そして前方から爆竹の音が聞こえて来た。『東栄町』交差点手前、右には『青麻神社』が。『青麻神社鳥居』。鳥居の下の柱の付け根には『青麻神社』の扁額が置かれていた。『森 林平之碑』。この人物は??子安地蔵尊であろうか?『青麻神社』濱碇(はまいかり)の化粧回しを付けた『清見潟又市像』。俵で囲んだ台座の上に仁王立ちする濱碇又七。濱碇は安政7年(1860)に当地(里村)で生まれ、本名は畔柳又七。幼少時は父や兄と死別して一家離散するなど苦労した。慶応3年(1867)頃から草相撲の仲間に入り、いつの頃からか濱碇の四股名を名乗った。地元で草相撲力士をしているとき、新川(碧南)の料理屋の主人の目にとまり、東京相撲に行くことを勧められた。明治11年、前浜村(碧南)出身の親方、五代目清見潟又市に入門したと。『東京大角力 協会清見潟 代理目代正 濱碇碑』大正三年の建立で、石碑の横には『東京角力年寄 発起人 大嶽 門左衛門 武蔵川 谷右衛門』の文字が刻まれていた。『清見潟又市碑』現在の清見潟親方はもと武州山で、藤島部屋の所属。『濱碇』は、明治12年1月の春場所に前相撲で土俵を踏み、同年5月の夏場所で西序ノ口23枚目からプロとしてスタート。明治14年1月の春場所では東三段目34枚目まで上がりますが、茨城県での巡業中に大怪我を負い、以後2年間の休場を余儀なくされた。怪我は治ったものの再起は果たせず、明治16年5月の夏場所で廃業。短い相撲人生を終えた。その後、安城に戻って薬売りで財をなし、あちらこちらに地蔵を寄付したのだと。『里町4丁目西』交差点を渡る。この交差点を左折して約700m程で名鉄名古屋本線の新安城駅に達する。前方から爆竹の音が聞こえて来たのであった。お祭り用の赤いハッピを着た集団がこちらに向かっていた。お祭り用の用具を軽トラックに載せて。この日10月16日は安城市今本町『白山比賣神社』のお祭りのようであった。民家の前に集まり爆竹を鳴らしmこの家の安寧、繁栄を皆で祈り、三三七拍子で手打ちそして万歳を。その後この家の方が御祝儀を出し、返礼として再び爆竹。更に進み『今本町4丁目』交差点を通過。再び松並木が。猿渡川の支流石田川に架かる石田橋を渡ると左手には小さな神社と新田組建立と刻まれた大正3年(1914)の常夜燈が建っていた。常夜燈の奥に昭和50年(1975)の鳥居があり、その先に瓦屋根を葺いた小社が建っていた。石田川はこの先『猿渡川橋』横で猿渡川に合流していた。更に進むと前方に再び橋が現れた。左手にあったのが『豊臣機工㈱本社工場』。トヨタを中心とする自動車ボディ部品の製造、販売会社。『猿渡川』に架かる『猿渡川橋』を渡る。橋の両側の欄干には松並木の情景が描かれたレリーフがはめ込まれていた。『猿渡川』下流を見ながら渡る。『来迎寺(らいこおじ)公園東』交差点。公園の一角には、『玉乃井』と言われる井戸跡がありズームで。猿渡川一帯は、明治23年(1890)に日清戦争を睨んでの陸海軍合同大演習が明治天皇観閲のもと行われた場所で、これを記念して明治27年(1894)に建立された記念碑もあったが・・・・・。来迎寺(らいこおじ)公園を過ぎると右側にあった石碑。左手には『故 陸軍歩兵一等兵 勲八等功七級鈴木新十之碑』と刻まれていた。右手は『日清戦争』の戦没者の慰霊碑のようであった。その隣にあったのが来迎寺村の鎮守であった『御鍬神社(おくわじんじゃ)』。御鍬神社鳥居。御鍬神社『拝殿』。『御鍬神社』は、江戸時代来迎寺村をはじめ、近隣の村々が連合して伊勢より御鍬神社を勧請して祈願したのが始まりであると。。『御鍬神社 由緒』「江戸時代来迎寺村を初め、近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し各村輪番にて御鍬祭を奉仕し豊作を祈願してきたが、 明和年中(1764-71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。 明治5年、村社に列格となり同6年現在の拝殿が造営され同時に宇西中畑に鎮座の山神社と字石田の鎮座の秋葉社と弁天社を境内に遷された。 その後、本殿は大正3年に神明宮を忠実に守って屋根は切妻造の杉皮葺、平入り素木造、一重の繁垂木そりなし、棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の二分の一の大きさに造営された。」『御鍬神社秋季大祭』案内。山神社・弁天社・秋葉社を合祀した『境内社』。この蛸堂はもとの本社殿であったと。『末社と祭神』案内。秋葉社:火産霊命(かぐつちのみこと)弁天社:市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)山神社:大山祇命(おほやまづみのみこと)御神木なのであろうか?直ぐ先のT字路、『来迎寺町』交差点の右角に元禄9年(1696)の道標が建っていた。『八橋山無量寿寺道標』。よく見てみると元禄9年に建立された物。西暦では1696年となり、300年以上前の物になる。ちなみに「無量寿寺」とは、「在原業平」ゆかりの寺らしい。Iphoneで地図を見ると700m以上先で往復では1.5km位になる。寄り道にはちょっと遠すぎるので、次の機会にとそのまま街道を進む事にした。そして「次の機会」👈リンクの2020年1月19日(日)の四日市への移動日に訪ねたのでここにリンクしました。こちら側は読み取れなかったが右側は『天下和順』。左面(裏面)には『元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白』と書き込まれていると。『元禄の道標』「道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた展示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸所にこの様な道標が建てられていた。 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白と記されており、これは、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量壽寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄12年の道標が残されている。」そして横断歩道を渡ると左にも同様な道標が。上り、下り用に対になって設置されていたのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の山側に鎮座する『内外神明社』に立ち寄る。鳥居の先には対の幟がはためいていた。『奉献 内外神明社 氏子中』の文字が。石鳥居を潜り『内外神明社』境内へ。境内ではこの日の夜『秋の大祭』が開催されるとのことで、町内の人達による祭りの準備中。地元の人に聞くと、神主さんが忙しく平日でないと予約できないのだと。また縁日の出店も自分たちで企画し開店するのだと。『大正九年 明治神宮鎮座祭記念梅樹』と刻まれた石碑の周囲には黒白幕(鯨幕)が。本来は、弔事・慶事に関係なく使用され、皇室では慶事にも使用するのだと知ったのはいつのことであっただろうか。古来、黒色は高貴な色とされ、神事では古くから白黒の鯨幕が使用されているのだと。鯨は背の部分が黒く、腹の部分は白。さらに皮をはぐと黒い皮の裏側に白い脂肪がついていると。そこからの連想で、この白黒の幕を鯨幕というようになったのだと。拝殿の前にも準備の方々の姿が。内外神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は天照大神。『明治天皇御駐蹕之所碑』街道を進むと左手の民家前に、昭和15年(1940)建立の明治天皇御駐蹕之所碑が建っていた。ここは高井善兵衛の茶屋 「藤屋」 跡で、この辺りは立場茶屋が何軒かあったところであると。そして右手に美しい姿の『松』が現れた。『県指定 天然記念物 永安寺の雲龍の松』と書かれた木札。文字が消えつつあるが・・・・。『県指定 天然記念物 永安寺の雲龍の松』案内板。「永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。大浜茶屋村(浜屋町)の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場町へ必要に応じて人馬を提供する助郷役村を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たとる伝えられています。領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山永安寺」と名付けられました。一般に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。」松の枝に多くの丸太支柱が。そして『永安寺』の『山門』を潜り境内へ。左手前には『永安寺寺号標』も。『厄除・子安地蔵尊 願主八十三才女』。『地蔵尊』。案内板通りに『永安寺の雲龍の松』は高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びていた。その樹形が、たなびく雲のようであり、また伏せる龍のようでもあるため『雲龍』の名称が冠されているのだと。幹周囲:4.4m、樹高:4.8m、枝張り:東西 17.9m、南北 24.7m樹齢、推定350年。『西国三十三所観音』。多くの『西国三十三所観音』像が並んでいた。『鐘楼』。『本堂』。『永安寺』は、大浜茶屋村の窮状を訴えて刑死した庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺である。『参拝者の方々へ』「新年を迎え本年も宜しくお願い申し上げます。予定行事 予定 ・八月十八日(日) 十七時頃・・・地蔵盆法要(どなたでもご参拝下さい)~ お知らせ ~ ・当山(ホール等)での葬儀・法事 ・納骨、法要(先祖・動物・水子) ・精入れ・精抜き(墓・仏壇等) ・永代供養・納骨・預かり等 ・各祈祷(身体・交通・厄除け等)も要予約にて受付けております当山では、特に宗旨は問いませんので、どなたでもご相談ください。」『本堂』前から『永安寺の雲龍の松』を見る。帰路も『永安寺の雲龍の松』の美しい姿ををカメラで追いかける。本堂への参道にまで太い枝いや幹が伸びて。再び『永安寺の雲竜の松』を振り返る。いつまでも留まっていたい空間なのであった。最後に旧東海道からも。そして『明治川神社』交差点まで進む。交差点の先左手には『明治川神社』の大きな石鳥居が姿を現した。石鳥居の道路を隔てた対面にあった石碑『明治用水記念碑』が3基。『疏通千里 利澤萬世 聖朝嘉績 良民美挙』と漢詩が刻まれた石碑(左) 疏通(水路を通す)すること千里、その利澤(恩恵 )は萬世におよぶ、 先人の血のにじむ努力によって築かれたと。そして漢文が刻まれた石碑は『明治用水開渠記念碑』(右)『明治用水』👈リンクの詳細については関心のある方はリンクにアクセス願います。そして『通水百年記念碑 清流保悠久』。『明治用水開渠記念碑』石碑。『明治川神社』を訪ねた。北参道入口から境内までおよそ150m。『手水舎』。『定』。東参道入口に立つ『明治川神社』社標。東参道入口に立つ伊勢鳥居。『社 記』一、神社名:明治川神社(水神社)一、例 祭:四月十八日一、祭 神:大水上祖神、都築弥厚命、岡本兵松命一、由 緒:文化五年(1808年)頃、都築弥厚翁が碧海台地の開発を計画されて寄り、七十余年の 歳月を経た明治十三年(1880年))四月十八日、松方正義内務卿参列のもとに 用水路竣工の式(水源)と、祝賀の宴(現地)が盛大に挙行された。その時の一同の 歓喜と感激とがここに結集して神社を創立することとなった。 即ち、長年用水の缺乏をかこち農村の疲弊に泣いたのが、用水路の開通によって 一大飛躍を見るに至ったので、水に由縁の深い神、三柱を同年十二月現今の境内地に 勧請し奉った。その後、明治十七年十月社号を明治川神社とし、翌年一月本社の 公認を申請、同年四月一日無格社として認可を得同年十月十日本社が落成した。 明治四十二年(1909年八月無格社より郷社に列格、翌四十三年四月共進神社に 指定された。大正四年(1915年)十一月都築弥厚大人が合祀され、続いて 昭和十七年五月伊与田与八郎命、昭和二十六年五月岡本兵松命がそれぞれ 伊佐雄社より、又、昭和三十一年三月西沢真蔵大人枝下用水が共に合祀されて 用水の守護神として厚く奉斎を受け給うのである。昭和二十八年一月三十日宗教法人と なり現在の神社等級は四級社である。一、神社名:伊佐雄社(いさおしゃ)一、例 祭:十月十八日一、祭 神:田中甚七郎命、本多勘三郎命、加藤太兵衛命、・・・・・・・一、由 緒:当社は本社の左側に鎮座ましまして「功」つまり功労者を奉祀する神社である。 もとは、明治十四年(1881年)上倉池の小島の上に発起者並びに出資者を奉祀し、 開拓小作のため移住した人々と共に鎮守の神として崇敬の誠を捧げていたが、 この上倉池も開拓し盡くされたので、明治十八年明治川神社の公認認可を機会に 現在の地に遷座し奉った。ここに特筆したいのは、関係者が何れも存命中に 神として奉祀せられた所謂、「生祠」であることである。 なお、昭和四十七年八月鹿乘川沿岸用排水土地改良区が明治用水が土地改良区に 合併したため、北野用水、鹿乘川の開さく改修に功労のあった各二柱が 翌四十八年十月合祀せられた。明治用水を引き入れた神池に架かる太鼓橋(右)。『太鼓橋』と『拝殿』。『明治川神社神池』「明治用水の守護神を奉斎する明治川神社の神池は、明治本流が菅水路になった昭和49年から明治用水の流れを引き入れている。しかし、経年により引き込み管路が老朽化したので、これの改修と排水施設の新設を行い、また「簑笠を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメントを設置した。この事業は、明治用水通水120年記念事業として、明治用水の悠久の流れと五穀豊穣地域の発展を祈念して施工した。」『神池』の水の浄化用のばっ気装置か?『太鼓橋』を横から。『神馬』。中央『拝殿』と『回廊』。拝殿前には名石工として名高い酒井孫兵衛によって作られた大正9年生まれの岡崎狛犬が。阿像(右)をズームで。吽像(左)拝殿奥の明治川神社『本殿』。明治13年(188)創建の明治川神社。明治川神社は、大水上祖神・水分神のほか、明治用水建設の功労者である都築弥厚・伊豫田与八郎・岡本兵松・西沢真蔵を祭っている。『社務所』であったか?。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『薬王寺』を後にし、住宅街を歩き、『薬王寺』の北側にある『荒子古墳』を訪ねた。階段を登り古墳の上に向かう。木々もきれいに枝打ちされ管理されている様子。雑草も刈られ、ロープも張られて丁寧に保全されていたのであった。宇頭北町のこの『荒子古墳』は高さ約3m、南北径約25mの円墳でほぼ原形を保っている。木々の根っこが古墳の崩壊を防いでいるのであろうか。そして更に住宅街を西へ向かい『北浦古墳/北裏古墳』を訪ねた。墳丘全景を南から。大塚公園として整備されている直径26.5mの堂々たる円墳。雑草等もなく綺麗に刈り込まれていた。周囲を歩く。公園脇には町内案内図はあったが、現地にもこれが「古墳」であることの解説があったほうがよいのでは?と。こちらは「岡崎宇頭土地区画整理事業 完成記念」の石碑の裏側を。国道1号線に戻り更に西に進む。『岡崎市』から『安城市』に入って進む。明治用水の豊かな水にはぐくまれ「日本デンマーク」と呼ばれるほど農業先進都市として発展して来たが、中部経済圏の中心である名古屋市から30kmという近い距離や、豊田市などの内陸工業都市や碧南市などの衣浦臨海工業都市に隣接するという地理的条件にも恵まれ、自動車関連企業をはじめとする大企業の進出、住宅団地の建設が盛んになり、急速に都市化が進んで来た都市であると。国道1号線の尾崎東交差点を通過。旧東海道はここを右方向に進んで『尾崎の松並木』へと。右手に愛知トヨタ自動車株式会社 宇頭営業所があった。そして『尾崎の松並木』へと。松並木は左側が衷心で右側には所々に。立派な家並みが続く。松並木を過ぎて尾崎町を進んで行くと、右手に『東高根用水記念碑』が建っていた。『東高根用水』は明治用水の分流。明治用水は豊田市の矢作川で取水し安城、岡崎、西尾、碧南、高浜、刈谷、知立市の八市の農業、工業用水を供給する用水。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水である。更に進むと『予科練之碑』が。ここは第一岡崎海軍航空隊跡であり、戦局が悪化して戦力増強を図るため、昭和19年2月練習航空隊を設置し、昭和19年4月に岡崎海軍航空隊となり、昭和20年に第一岡崎海軍航空隊と改称されたと。海軍予科練習生は5月入隊の一期生から12月入隊の八期生までおよそ 6千名に及んだ。傍らに予科練の碑解説、元第一岡崎海軍航空隊配置図などが建っていた。「此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである」『元第一岡崎海軍航空隊配置時』と『第一岡崎海軍航空隊の由来』「第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和十九年二月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、 当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急遽訓練を開始することとなり名称も昭和十九年四月一日岡崎海軍航空隊となり作戦機能も独立して同年五月より本格的訓練が開始され、 その後昭和二十年二月第一岡崎海軍航空隊と改称された。 本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、 昭和十九年五月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。 入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実戦航空隊へ実務練習生として巣立って行った。 しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。 広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後四十年を経た今日、 最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人人の脳裏から消え去らんとしている。 こヽにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。」そしてその隣りにあったのが『村社 熊野神社』そして巨大な常夜燈。入口の左側にあったのが『英霊招魂碑』そしてその隣手前に『東海道 (尾崎)一里塚跡』。ここは鎌倉街道の分岐点であり、江戸日本橋から数えて83里目の一里塚である。『鎌倉街道跡』「1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。 街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。 ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。 この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する 「目印しの松」 が残されている。」『熊野神社』の石鳥居。扁額『熊野神社』。『手水舎』。池には前面に防鳥網が張られていた。『熊野神社拝殿』。境内右側には『秋葉神社』の石鳥居と社殿が。『境内社』の石鳥居。熊野神社の創建年代等は不詳であるが、境内には秋葉神社のほか、山上社・白山社・海津美社・厳島社・社口社が合祀された境内社があった。『社務所』であろうか。『熊野神社』を振り返って。旧東海道・安城市宇頭茶屋町を西に進む。安城市のおすいマンホール蓋。デザインは安城市発祥の三河万歳の扇と桶胴太鼓(大締太鼓)。その先左側にあったのが『法喜山 妙教寺』。法華宗陣門流の寺であると。室町時代の木造彫刻で市指定の文化財・多宝如来坐像附厨子を所有。比較的新しい寺院で、日喜上人が1900(明治33)年に喜徳眞天を勧請し、1903年に志貴教会を開いた。その後、1946(昭和21)年に法華宗法喜山妙教寺として今日に至っていると。境内の『喜徳稲荷神社』。右の石柱には『祭神喜徳真天鎮座』と書かれていた。『寺務所』か?『御本尊 多宝如来・釈迦如来坐像 安城市文化財指定 当山』と書かれた木札が掲げられていた。こちらが『本堂』か?『不動明王像』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次しばらく歩くと右手にあったのが『誓願寺十王堂』。『浄瑠璃姫菩提所』と刻まれた石碑。『誓願寺十王堂』案内板。「長徳3年3月(997)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。 時代は下り、寿永3年(1138)3月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、 十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛 「薄墨」 と姫の鏡を安置した。十王とは、十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である。 すなわち、秦広王、初江王、宋帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう。 死者は冥府に入り、初七日に秦広王の庁に行き、以下順次に 二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周年、三周年に各王の庁を過ぎて 娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け、これによって来世の生所が定まるという。この堂内には、これら十王の極彩色の像が安置してあり、壁には地獄・極楽の有り様が描かれている。」『地蔵堂』。内部には五体の『地藏菩薩像』が鎮座。右側の石柱には『十王誓願寺』と刻まれた石柱があったが門が施錠されており内部への参拝は駄目かと思われたが、運良く中から職員の方が歩いて来られゲートを開けて下さったのであった。最近の世情から、セキュリティの確保のためにゲートを閉めているのだと。保育園奥の誓願寺本堂が見えた。ゲートを入り右側奥・十王堂の裏手には浄瑠璃姫の墓が大切に残されていた。写真中央が浄瑠璃姫の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で左右には侍女更科と乳母冷泉の宝篋印塔であるらしい。左手の方に姫の父親である兼高長者(かねたかちょうじゃ)の五輪塔が残されていた。『浄瑠璃姫縁起』「浄瑠璃姫は、年老いても子どものなかった矢作の長者 兼高夫婦が、日頃から信仰していた鳳来寺(ほうらいじ)の薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)にお願いして授かった子といわれ、浄瑠璃姫と名付けられて、たいそう美しく育ちました。承安4年(1174)、牛若丸(源義経)は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとりました。ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました。しかし、義経は奥州へ旅立たねばならず、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作を去りました。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、添うに添われぬ恋に、悲しみのあまり、ついに菅生川(すごうがわ)に身を投じて短い人生を終えました。時に浄瑠璃姫は十七才であったという。兼高長者はその遺体を当誓願寺に埋葬した。十王堂を建て義経と浄瑠璃姫の木造を造り、「名笛・薄墨」と姫の鏡を安置し、冥福を祈った。浄瑠璃姫の墓や供養塔は、岡崎公園の北口や成就院にもあり人々にその悲しい恋をしのばせてくれる。」左端が兼高長者の墓『五輪塔』。『鐘楼』。『誓願寺 本堂』。誓願寺由来「慶念山誓願寺といい、宗派は時宗で、三河名所記によると、昔、この寺の境内に池があって、住僧の慶念が溺死した。 そして長徳三(993)年三月、恵心僧都(えしんそうず)がその池を埋めて堂を建て、千体地蔵菩薩(せんたいじぞうぼさつ)を造って安置し慶念の冥福を祈ったと言われると。ズームで。銀杏の木の下にも宝篋印塔が。『やはぎ保育園』は『誓願寺』が経営されているようであった。境内の子安(慈母)観音像。境内の銀杏の木にはギンナンがたわわに実っていた。旅友のSさんは、袋を取り出し拾い始める。私は慌てて、近くにいた保母さんの了解を頂きに。更に街道を進んで行くと右手に矢作町四区の鎮守である『竊樹(ひそこ)神社』があった。参道から石鳥居と社殿を見る。『社殿』。竊樹神社の創建年代等は不詳であるが、かつて上矢作村上之切組の加茂大明神の北方に櫃竊大明神(ひつこそだいみょうじん)があったと言われ、その後幾多の変遷を経て此の地に遷座したようである。参道口には地蔵堂があり、境内奥には不明な句碑が建っていた。御祀神は「別雷皇太神(べつらいこうたいじん)」と「御気津神(みけつかみ)」。次に訪ねたのが竊樹神社の直ぐ先、左手にあった『福萬寺』。真宗大谷派の『護水山福萬寺』。『本堂』とその手前の参道右には『太子堂』が見えた。『福萬寺本堂』👈リンク。『福萬寺』の由緒については、上記👈リンクに詳しく書かれていますので興味のある方はアクセス願います。扁額『福萬寺』。『中興之祖碑』。「吉田英生・澄子夫妻は共に福万寺門徒として崇敬の念厚く、本堂修復をはじめ納骨堂建立・内陣仏具の整備等々の御寄進を賜り、寺門の興隆に誠にご尽力いただきました。依って茲に開基同様、中興之祖として記念の碑を建て後世にその御功績を伝え、世世に法要を勤修致します。」そして旧東海道は『安城街道入口』交差点にて国道1号線に合流した。国道1号線を更に進むと中央分離帯の先、道路の左側にあったのが『暮戸神社』。しかし近くに国道1号線を渡る手段が近くになかったため諦める。その先にあったのが『幕戸教会』。『教会』とあるが真宗大谷派の寺院のようであった。『暮戸東交差点』を通過。そして更に国道1号線を10分ほど進むと左手にあったのが『聖善寺』。『聖善寺』の『山門』。門前にある『岡崎市指定文化財』案内板。・木造孝養太子像 一躰 寄木造、太子16歳で、両手で柄香炉を持つ形をとる。首部背面に墨書の銘があ り、慶長4年(1597)に再興したと記されている、かつてあった像が何かの故に 滅失して、新しく制作したと思われる。・聖善寺のしだれ桜 一本 孝養太子像の制作とほぼ同時期、今から400年程前に植えられたものと察せら れる老樹である。境内には様々な木々が。正面が天然記念物の『聖善寺しだれ桜で』あったのだろう。『岡崎市指定文化財 聖善寺』。・彫刻 木造孝養太子像 一躰・天然j記念物 聖善寺のしだれ桜 一本 ヒガンザクラの一種エドヒガンの枝垂れ品である。かつては胸高囲2.4m、高さ 10m、枝張り15mにも及び、枝先が山門まで届く程であったが、伊勢湾台風に より主幹が折れて樹勢が衰えた。『本堂』。『太鼓楼』の重厚な見事な屋根を境内から。そしてこちらが『聖善寺』脇門。脇門の掲示板には『風車(かぜぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな』と広田弘毅の詩が書かれて貼られていた。風が吹いた時に実力を発揮できるような備えを怠らないようにしたいもの、不遇な境遇に直面しても、くさることなく、風が吹くまでの間、学ぶことを怠らず、次に吹く風に備えましょう の意味なのであろうか。そして『聖善寺』の前の道路の反対側にあったのが『薬王寺』。国道1号線の下の地下道を利用して、『薬王寺』に向かう。地下道への階段には地元の子供たちの作品が。地下道にも。国道1号線の地下道を潜り北側(上り線)へ。『和志王山薬王寺』「和志王山薬王寺奈良時代に創建されたと伝えられる由緒あるお寺です。御本尊の薬師瑠璃光如来は17年に一度御開帳される秘仏として本堂に納められています。 この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は和銅年間(708-15、奈良時代初期)に、(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御立笠取の池から光を放ってこの世に現れになった。この池に住んだ豊阿弥長者が念持仏とされたが、後に僧行基を開祖として和志王山薬王寺を創建され納められた。そして、子孫代々相続された。 時は経って淳和天皇天長6年(829、平安時代)春に疱瘡が流行した。長者の子も重い疱瘡を病んだ。そこに、何処からともなく僧が現れた。瑠璃の壺から取り出した薬を子に含ませ、子の五体をさすると病は癒えた。僧は子が遊んでいた銭輪を貰い受け、首にかけて退出され忽然と消えられた。長者は薬師のご利益と気付き尊像をお参りすると、御首に銭をかけ、御身体には疱瘡の痕が残っていた。長者は、我が子の身代りになられた尊像をますます崇敬された。 さらに時が経ち、天文18年の戦い(戦国時代、1549年にあった織田信秀と今川・松平の安祥城を巡る戦い)により寺が焼かれ、長者の子孫も絶えてしまわれた。 元和2年(1616、江戸時代初期)4月、村人たちが豊阿弥長者らの墓を、この地に移そうとしたした際に、土中より御首に銭をかけた尊像を掘り出した。不思議なご縁を感じた村人たちは心を合わせ、御堂を造営した。このように記されています。 なお、薬王寺本堂は、古墳時代中期の前方後円墳・宇頭大塚古墳の後円部に造られています。今は後円部以外は削られ、原形を留めていません。昭和34年岡崎文化財研究会の調査によると、その規模は、周濠を含めた全長約70m、後円部径約30mと推定されています。 和銅年間にこの地に住まわれた豊阿弥長者は五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の子孫と伝えられています。古墳時代中期にこの地に勢力のあった皇孫の古代豪族の子孫が、奈良時代に和志王山薬王寺を建立されたと考えられます。古い歴史を持つ宇頭町の人々が先祖代々崇敬し、お守りしてきた町が誇れる文化財、それが薬王寺と宇頭大塚古墳です」先程訪ねた『聖善寺』の『山門』と『太鼓楼』をこちらから見る。『和志王山薬王寺』の『山門』。門前の、文化8年(1811)の常夜燈(奥)と安永4年(1775)の常夜燈(手前)。『三河国薬王寺刀匠鍛刀造趾碑』この付近に室町後期の刀鍛冶集団の三河薬王寺派刀工が居住していたとのこと。『本堂』。本堂の屋根の最頂部の瓦には「和志王山」と。斜めから。『地蔵堂』であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次新田白山神社を後にし、昨日の続きの「岡崎城下二十七曲り」へ再スタート。『板屋J本通り』を南に向かって進むと、電柱に『東海道岡崎城下 二十七曲り』案内を発見。『板屋本通り』を『乙川』方面に進む。前方左手に『岡崎城下二十七曲り 板屋町角』碑。板屋町はかつて遊郭の街だったのだ。旧東海道・二十七曲りはここを右手に折れるのであったが。よってここに『金のわらじ案内柱』の『よ』があるはずであったが見当たらなかった。曲がらずにしばし直進すると右手にあったのが『板屋稲荷神社』。入口には『板屋本通り』碑。再び二十七曲りに戻り『松葉通り』を進む。そして国道248号線を渡ると左側にあったのが『東海道岡崎城下西出入口 松葉総門跡』の道標石柱。石柱の裏側は共通の説明文が。『金のわらじ案内柱』は『た』。これより八帖町突当り角まで400m。更に『松葉通り』を西に向かって進む。前方に『愛知環状鉄道』の高架が見えてきた。高架は『愛知環状鉄道線』。そして高架下を流れる早川に早川橋が架かっていた。高架の向こう側に以前訪ねた「カクキュー 八丁味噌の郷」工場見学受付の看板を発見。高架を潜ると『八丁味噌の郷』案内板も右手奥に姿を現す。早川橋の渡り詰め左手には岡崎城下二十七曲り『れ』の道標。ここでは『金のわらじ案内柱』ではなかった。『岡崎城下二十七曲り 八帖村』の石柱がその横に。『純情きらり手形の道』「純情きらり」は平成18年(2006)年度上半期におけるNHK朝の連続テレビ小説で八丁味噌の老舗メーカーである「カクキュー」と「まるや」が舞台になった。ドラマの舞台となったロケ地に出演者10人の手形モニュメントが設置されているのであった。沖田徳治郎役の八名信夫の手形。ここから、『松葉通り』は『八帖往還通り』に名前が変わった。『八帖往還通り』を西へ進む。右手に『カクキュー(早川家) 八丁味噌』の工場建屋が。『カクキュー 八丁味噌』は正保2年(1645)創業であり、次の『まるや八丁味噌』は延元2年(1337)創業、それぞれ江戸時代から伝統製法で味噌作りを行っているのだと。続いて左手には連続テレビ小説 「純情きらり」 のロケ地となった 『まるや(太田家)八丁味噌』 があり、中に入ると日吉丸石投の井戸があるとのこと。太田家は、元禄9(1696)年創業と言われていたが、平成10(1998)年に、「創業660年」と認定されたのだと。1337年に、開祖弥治右衛門が味噌づくりを始めたのだと。『岡崎の地場産業 八丁味噌』「大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。「矢作川」沿いであるという立地条件から原料の大豆、塩などの仕入れに便利で、製品の出荷にも舟運が利用でき、「矢作川」の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。江戸時代以来「早川家」と「大田家」の2軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく、江戸にも多く積み出され、その名を高めました。現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。」『歌にみる八丁味噌』。「「摺ってよし 摺らずなおよし 生でよし 煮れば極よし 焼いてまたよし」といわれる「八丁味噌」は、三河武士、農民、承認達の常食、兵食として親しまれ、一日も欠く事の出来ない食品でした。天正18年(1590)、「徳川家康」の関東移封で三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、「矢作川」の舟運や江戸廻船の発達に伴い、「三河木綿」の運搬との相乗関係によって、伊勢、江戸を中心に販路が進展拡充しました。それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という「吉田松陰」の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰らうも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来岡崎城下の名産として称賛されてきました。」右手が『八丁蔵通り』。『まるや八丁味噌』の向かいの筋は『八丁蔵通り』と呼ばれ、通りの右手に『カクキュウ八丁味噌』が建っていた。味噌蔵は国道1号線の近くまで続いていた。入口にあったのが『純情きらり手形の道』有森(松井)桜子役 宮崎あおいさん。宮崎あおいの手形。旧東海道(八帖往還通り)の矢作川との突当り。江戸時代はこのまま直進して矢作川へ進んでいたが現在は橋がないのであった。旧東海道はここを右手に折れて行くのであったが、左折し寄り道を。突当りに石柱道標があり「左 江戸」「右 西京」と。南下した先にあったのが『諏訪神社』。『諏訪神社』社殿。そして右側にあったのが『八帖地蔵堂』。折り返して国道1号線方面に北上すると左手にあったのが『八帖往還通り』石柱。『八帖往還通り』を進む。『光圓寺』本堂の屋根が右手に見えた。『鐘楼』も。そしてゆるやかな坂を登りきると、旧東海道は国道1号線と矢作川手前で合流。この辺りが『岡崎二十七曲り』の終点なのであろうか?これまで歩いて来た『岡崎城下二十七曲り』の詳細地図をネットから。 【http://home.h01.itscom.net/tokaido/4aichi/38okazaki27.html】よりこんな地図も『現代の岡崎市に残る「岡崎二十七曲」』こちらの終点は現在の『矢作橋』より手前の石柱道標・「左 江戸」「右 西京」辺りまで。こちらの方が正しそうであるが。いずれにしても、『岡崎二十七曲り』には明確な始点と終点がまだ決まっていないようであった。『矢作川』に架かる『矢作橋』を渡る。『矢作橋』は、『矢作川』に架かる東海道中一の大橋であり、寛永11年(1634)に幕府によって架けられた橋であった。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていた。天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もあると。 当時は、現在の橋より下流に架かっていたのだと。五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、岡崎藩に大きな恩恵をもたらしたのだ。『矢作川(やはぎがわ)』。『矢作川』は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた水路が現在の本流となっている。愛知県碧南市と西尾市との境で三河湾に注ぐ。矢作橋上からの名鉄名古屋本線鉄橋を見る。江戸時代はじめはこの鉄橋の手前に土橋があったが、寛永11年(1634)家光の上洛時に本格的な板橋になったといわれている。長さ208間(約378m)もあり、東海道で最長の橋、また日本一長い橋だった。矢作川の舟運は三河の重要な運送ルートで、江戸時代はじめから昭和2年(1927)まで320年もの長いあいだ、川舟による輸送が続けられた。最盛期には三百艘が行き交っていたのだと。矢作川に架かる矢作橋の下り車線を渡り終えたが次の目的の像は上り車線横にあった。幸い国道1号線の下に歩道用のトンネルが設けられていたのでそこを潜って像の前まで辿り着いた。像は『出合乃像』。ズームで。『出合乃像』「日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(居間の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。」しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっているのだと。矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことで、すでに、秀吉は亡くなった後。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっていると。話を面白くするためにこういう筋書きにしたのであろうか。 『明治天皇御駐蹕の碑』「旧笹屋こと寺田又治郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。明治元年9月28日及び12月16日の2回、明治天皇がここで御休憩されました。この石碑は、紀元(皇紀)二千六百年記念に建てられたものです。『明治天皇御駐蹕の碑』(右)と『明治35年(1902)の旧矢作橋親柱』(左)。旧東海道沿いの『勝蓮寺(しょうれんじ)』を訪ねた。現在の国道1号線から矢作橋を西に渡り、旧国道(東海道)には入ればすぐの所にあった寺。『親鸞聖人御舊跡柳堂』と刻まれた石碑。その横には『岡﨑市指定文化財』案内板が。 絵画 絹本著色蓮如上人像 一幅 絵画 絹本著色徳川信康像 一幅 徳川家康の嫡男信康が淡い朱色の狩衣に褐色の袴をつけ右手に扇子を持って 畳に座る姿を描く。信康唯一の肖像画で、17~18世紀制作 工芸 獅子牡丹文鎌倉彫香合 一合 『勝蓮寺』「柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞聖人と柳堂、布教の記事が見られます。また、十七代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像をはじめ多くの遺品が残されています。」『山門』。『手水舎』。地蔵堂と思われる御堂。内部には『親鸞が座った石』が。『本堂』。真宗大谷派の当寺は、河原山と号し、天台宗の僧恵堯が師の恵心作の薬師如来を矢作の里の柳樹の元に御堂を建てて納め、柳堂薬師寺と称したことが起源といわれています。その後、嘉禎元年(1235)に、当寺の別当舜行が親鸞聖人の法弟となり、恵眼の法名を受け真宗に改められました。松平8代広忠、家康、信康、石川日向守などの崇敬が厚く、特に17代住職行誓の時には松平信康と関係が深く、多くの遺品が保存されています。本尊の阿弥陀尊像は親鸞聖人から与えられたものといわれています。『鐘楼』。寺務所と住職の家か?『経蔵』。非業の死をとげた徳川信康(家康の長男、正妻築山御前の子供)が残した唯一の絵はこの蔵の中に?。『南無阿弥陀佛』名号碑と刻まれた石碑と墓碑。無縁仏か?旧東海道に戻り西へ進む。『出合之像』から右手の筋を入るとここ矢作町である。矢作の地名は、矢作りの技術集団 「矢作部」 が住む村であったことに由来すると。和菓子の老舗『近江屋本舗』。抹茶味の夢大福」が美々であると。『やはぎ飛鳥まつり』ポスター。北野廃寺は飛鳥時代に建立され、千年ほど前まで岡崎市北部に存在した寺であると。街道を暫く進むと右手に『弥五騰神社』弥五謄神社があった。『弥五騰神社』は矢作町の氏神様で、正平元年(1346)に夢告を得た居守堀田家の弥五郎正泰が、武内大臣及び平定経の二座を祀り、当時の人が弥五郎殿と呼んだのが始まりという。参道入口右手には、「溺死菩提」と刻まれた『南無妙法蓮華経題目』が。石鳥居と参道。『社殿』。昔は弥五郎殿と称した「信州浪合記」に、後村上院の正平の初年(1346)堀田弥五郎正秦と申す者、左太彦宮と内大臣定経の霊を崇め奉って祠を建てる。その願者主の名に困り弥五郎殿という。明治5年・神社調査の際、碧海群第96区5小区・西矢作村員外社となり、社名を弥五騰社と改め無各社として据置かれる。又、字内に祀られた八王子社・諏訪社を明治初年、境内社として祀る。大正5年8月21日・右境内2社を本殿に合祀した。御祀神は【手力雄命】【忍穂耳命】【建御方命】【保食神】【菅原道真】5柱。『矢作三区公民館』が神社社殿の横に。『弥五騰神社』の脇の道路の奥の西側に『岡﨑市指定文化財 三区 山車蔵』があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次岡崎城内の散策を続ける。芭蕉歌碑の斜め向かいにあったのが『アラモの碑』大正三年七月に建立された『アラモの碑』「アラモの碑この碑は、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昻氏が建立されたものです。志賀重昻氏は、テキサス独立戦争アラモの戦いと日本の三州長篠城の戦いがよく似ていることに深い関心を寄せられました。アラモの砦から援兵を求め友軍の下に走った青年ボナムと長篠城を脱出し、岡崎城の家康公に危急を知らせた鳥居強右衛門の両者の「強い使命感に東西の別はない」と感動し建碑を思い立ち、岡崎の石と長篠の石を使って、自作の漢詩を彫刻し、大正3年(1914)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。また、同時にここ岡崎公園の地にもアラモの碑を建立されたものです。」岡崎ロータリークラブの『創立45周年記念植樹』碑が『アラモの碑』案内板の前に。1990年、米国サンアントニオ市アラモ砦のどんぐりより育成 と。左手に『巽閣』。40畳の大広間では和室を活かしたくつろぎの空間で、各種集会や教室・会議等が行えると『巽閣』前の『針塚』。全国でも珍しい針のお墓、『針塚』。右手に『縣社 龍城神社(たつきじんじゃ)』の社務所、その後ろに『岡崎城天守』が。『縣社 龍城神社』を正面から。石鳥居には大正1年9月の文字が刻まれていた。『龍城神社』のブロンズ製の『神馬(しんめ)』を絵馬越しに。右足を上げて、今にも台の上から飛び降りそうな勢い。『岡崎城天守』天守内部には、既に何回か入っていたので、この日はパス。『岡崎城案内図』。「戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。 1959年(昭和34年)に天守が復興された。菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより、つぐより、又は、ちかより)、そして、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城したものである。当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城である。 龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっている。この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。」とウィキペディアより。『東照公遺訓碑』昭和11年4月に建碑とのこと。なぜ亀の石像の上に石碑がのっているのか不思議であるが理由は?ネットで調べてみると「実は亀の様ですが、よく見ると頭に耳、口には牙と歯が見えます、頭は龍です。贔屓(ひいき、ひき、びし)・覇下(はか)と言って、想像上の生き物、龍の九匹いる子供の内の一匹です。伝説では三山五岳を背負い災いを起こした、怪力の持ち主です。夏王朝の禹によってなだめられ、禹のために働き、王朝設立の立役者となりました。禹はその功績をたたえ自分を乗せることを許したという故事より龍(王の印)が載っています。ただ5本指の龍は皇帝の印なので3本指の龍です。」と。『東照公遺訓碑人の一生は重荷を負で遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり。 慶長8年正月15日人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。」『東照公遺訓碑由来』「この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を全うされた。翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の爲に 時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には龍城を象徴する龍を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。碑裏面には、昭和11月4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、また、岡崎市制七十周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。」『家康公遺言』碑。「わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安しされども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし」『岡崎城』案内板。「15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正(だんじょう)左衛門頼嗣(よりつぐ) 稠頼(つぎより)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに、家康の祖先である松平清康(きよやす)が入城し、本格的な岡崎城を構えた。天文11年(1542)12月26日 徳川家康は ここ 岡崎城で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重(やすしげ)系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝(ただかつ)系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと、伝えられる。現在の天守閣は、昭和34年(1959)に復興され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており、三河平野を一望することができる。」松越しに『岡崎城天守閣』を。名 称:岡崎城 別名:龍城・龍ヶ城(たつがしろ)所在地:愛知県岡崎市康生町561築 城:康正元年(1455)頃復興天守閣:昭和34年(1959) 鉄筋コンクリート3層5階『忠義護邦家』の碑『忠義護邦家』の碑の忠義は、名のごとくであるが、邦家とは国家の事だそうだ。日露戦争直後の明治39(1906)年に建立されたそうで山県有朋が書したとの事。「明治以降ひたすら愛国の心に燃えて幾多の国難に殉じた武人達と銃後を護り無残にも空爆に散華した多くの市民の御霊に対し、わが国の繁栄と世界の恒久平和とを衷心より祈念してここに太平洋戦争後五十周年に当たり鎮魂の灯をかかげます。」岡崎城本丸を後にし坂を下る。南側の『龍城(たつき)堀』の赤い『神橋』が見えた。『竹千代通り』に出る。『竹千代橋』が前方に。『純情きらり手形の道』有森(杉)笛子役 寺島しのぶさん。「寺島しのぶ」の手形。竹千代橋東詰め(北側)にあるのが、竹千代と小姓の石像。言うまでもなく竹千代は岡崎城で生まれた徳川家康の幼名で、6歳で人質(織田家から今川家へ)となって城を出るまで、この地で小姓相手に遊んでいる姿を表してます。『竹千代橋』を渡る。『竹千代橋』は『伊賀川』の最も下流に架かる橋で、岡崎公園や岡崎城への西側入口となる。岡崎城天守を振り返る。『伊賀川』沿いの道を『龍城橋西』交差点に向かって進む。右手は『伊賀川』に架かる『坂谷橋』。『岡崎城 二の丸能楽堂』裏に出る橋。そして『新田白山神社』を訪ねた。『新田白山神社の大くす』。「徳川家康誕生後である岡崎城(岡崎公園内)のすぐ西を流れる伊賀川を渡った住宅地の中に新田白山神社がある。神社の鳥居をくぐると立派な社殿があり向かって右側に堂々としたクスノキが立っている。その木はかなり老体のようで、あちこち修復が施されていて、広がる大きな枝にはノキシノブが着生しておりその面持ちは深い歴史を感じさせる。岡崎市の中心部に存在する巨木としても貴重である。この神社はもともと岡崎城内にあったが、1566年に厄除け開運祈願の為、家康により上州新田(群馬県)より勧請(神仏の分霊を移し祭る)されたと伝えられている。祭神は白山姫命と新田義重で、上州新田は皇族と血縁の深い源氏一族の新田氏ゆかりの地である。家康と新田氏の関係には様々な見解があるが、家康はこの頃より征夷大将軍まで上り詰める志を抱いたようだ。樹齢600年以上のクスノキは家康が生まれる前からこの地で根を張り、その行末を見守ってきたのであろう。」参道を進む。境内に入ると左手に立派な『手水舎』。正面に『社殿』。そして右に大くす。扁額『新新田神社』。大くすの下に『境内社』『白山神社の大くす』。「白山神社の大くす胸高囲:7.7m、根囲:9.4m、樹高:12.5mのクスノキの古木。老樹であるが、樹勢なお衰えず、枝張りは東西に22m、南北に14.5mにおよぶ。主幹が高さ2mの位置で二烈し、幹にはノキシノブの着生もみられる。樹形もよく、市街地の中心部にある巨樹として価値が高い。神木として信仰の対象とされ、6月30日には輪くぐり神事がこの前で行われる。白山神社は永禄9年(1566)に徳川家康が厄除け開運祈願のため上野国新田から勧請したとつたえ、岡崎城主の産土神(うぶすながみ)とされていた。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は10/16(水)、岡崎宿から池鯉鮒宿への旧東海道歩きのスタート。なお、この日が日本橋をスタートし延べ日数23日目の旧東海道歩きであると旅友から。6:30過ぎに宿泊したホテルをスタート。ホテル前の老舗「備前屋」。「あわ雪」で知られる三河の菓子舗・備前屋は、天明2年(1782)に初代が岡崎宿伝馬町に菓子屋を始めたのが始まり。以来、この地で菓子舗を営み、社長の中野敏雄氏で八代目となる。店主は代々「藤右衛門」と名乗って来たと。この日の最初に伝馬通りの奥にあった『日蓮宗 円頓寺』を訪ねた。岡崎市久右ェ門町にある日蓮宗の寺院。山号は清信山。正保2年(1645年)岡崎藩主水野忠善が母のために創建した。母は三浦為春の長女(お万の方の姪)で日境(身延27世)の義母であるという。その後、 岡崎藩主本多政朝が正室の浄光院のために建立した成就寺を合併したと。参道を少し入りズームで。正面に見事な『鐘楼門』。再び伝馬交差点まで戻る。この場所に『東海道岡崎宿 東本陣服部家跡』があったとgoogle mapにはあるが、その案内は??そして伝馬通り、西康生通りを歩き、昨夕に夕焼けを楽しんだ岡崎公園前交差点の歩道橋より『岡崎城大手門』を見る。『岡崎城 東隅櫓』が左手に。歩道橋を降りて、『岡崎城大手門』を正面から。ここにも『東海道二十七曲り 岡崎宿』案内の石碑が。下には『東海道分間延絵図』も。『従是西岡崎宿』の石碑も。『岡崎城大手門』を斜めから。岡崎城の周りに「純情きらり手形の道」のプレートが点在している。2006年、ここ岡崎を舞台にしたNHK連続テレビ小説の作品。ヒロイン・有森桜子(さくらこ)を演じたのは宮崎あおい。手形設置場所を地図の ☆印表示。そして母・有森マサ役そして語りも兼ねた「竹下景子」の手形が石柱の上にあった。『岡崎城大手門』をくぐる。岡崎城の電話ボックスも城仕様。十三重石塔。岡崎公園案内図。『岡崎城二の丸御殿の井戸』。「岡崎城二の丸御殿の井戸この井戸は江戸時代の石組井戸で、平成十九年度の発掘調査で発見されました。岡崎城二の丸御殿(現在の家康館からこの井戸付近までの位置に建っていました。)に伴うものと推定されます。二の丸御殿の絵図には、建物の北東側に二基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられます。」井戸の内部。『三河武士のやかた家康館』。家康公の出生から天下統一までと、それを支えた三河武士達を、常設展で5つのコーナーに分けて解説。特別展示室と1階展示室では季節に応じた企画展を開催。また館内には甲冑の試着体験や刀や兜の重さを体験できるコーナーもあるのだと。『からくり時計』の時間は7:16。「この時計塔は、徳川家康公のふるさと岡﨑にふさわしい和風のからくり時計で、定刻になりますと、家康公のからくり人形が現われて、照明と音響の演出で能を舞います。」との案内板が下に。徳川家康の『しかみ像』。「しかみ像世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となって多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です。元亀3年(1572)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ケ原に青年家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。」『岡崎城 二の丸能楽堂』の入口門。入口門をズームで。『本多平八郎忠勝公像』。本多忠勝は徳川四天王のひとりで、豊臣秀吉に「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」と称賛された武将。この像は鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えているのだと。公園内の円形花壇。『徳川家康公銅像』。お顔をズームで。「徳川家康公銅像天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道を歩き、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ケ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以後持ち前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。」『松平元康の像』。この元康像は1992年に開催された、「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が市内外から寄付を募って設置し、岡崎市へ寄贈したものです。若き元康(徳川家康)の騎馬像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角を向いています。背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が、生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様を表しています。巨大な『公園』碑。『小瀧喜七郎(おだききしちろう)翁像』碧海郡書記の後、岡崎町書記、助役を経て、4代目岡崎市長になった人物。『縣社 龍城神社(たつきじんじゃ)』石碑とその先には今はなき本丸御門を支える石垣が。ここが本丸入口、絵図だと本丸御門がここにあったのだ。『天下人家康公 出世ベンチ』。「天下人家康公 出世ベンチ徳川家康公はここ岡崎で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じて下さい。」『岡崎城 天守』を見上げる。八千代本店は、岡崎公園内にある創業120年を超える、和食の老舗。地元名産八丁味噌と備長炭を使用し、八千代本店の伝承技術で焼き上げた名代「木の芽田楽」は、ここでしか味わうことができない繊細で秀逸な一品であると。『清海堀と石垣』を見ながら天守へと進む。歴史的にも価値の高い、岡崎城天守閣の北側にある空堀。創築者西郷頼嗣(清海入道)の名から清海堀と呼ばれています。本丸北防衛のために設けられた。「清海堀(せいかいぼり)本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)を隔てる堀です。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」にちなみ付けられました。城内でも古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀です。本丸側は急斜面の土塁のままですが、対面側は後の改修により石垣が築かれたもので、築城の変遷がみられます。」右手の石垣の下に石碑が。刻まれている文字は「木?????・・・」。『木のもとに汁も膾(なます)も佐久良哉(さくらかな) 芭蕉』。元禄三年三月二日伊賀の小川麦亭において風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。」芭蕉歌碑を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の「連尺通り」を進む。連尺通り1丁目交差点を通過。三菱UFJ銀行 岡崎支店前の『岡崎宿東海道27曲り』碑。歩道の路面タイルにも表示がなされていた。材木町1丁目の交差点の『金のわらじ案内柱』は『と』。『これより次の材木町口角「ち」まで80m』と。この交差点を右折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。右手に折れる道の入口左にあった『岡崎城下二十七曲 岡崎城対面町前角』道標石碑。細い旧東海道を進むと『岡崎城下二十七曲 材木町口木戸前』が正面に。『金のわらじ案内柱』は『ち』。ここを左折して『これより次の材木町角『り』まで100m』。旧東海道・八幡通りを進むと材木座1丁目交差点にあった『金のわらじ案内柱』は『り』。これより次の材木町角『ぬ』まで150m。この交差点を右折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。木まち通りに向かって歩く。この先が木まち通りで前方に「金のわらじ案内柱」が確認できた。材木町1丁目交差点にあった「金のわらじ案内柱」は『ぬ』。これより次の柿田橋角『る』まで350m。この交差点を左折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。木まち通りを進む。柿田橋の2本手前の道を左に入ると『白山神社』の前にあった『常夜燈』。そして『白山神社』を訪ねた。再び木まち通りに戻ると正面にあった古民家。『唐弓弦(とうゆみづる)の看板』が軒下に。『唐弓弦の看板』かつては岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、この辺りには三河木綿に関する職人や商店が多く存在したそうです。「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを扱っていた店の看板が当家に現存しており、当時の面影が残る看板です柿田橋手前の路地に立つ『金のわらじ案内柱』は『る』。これより次の三清橋角『を』まで190m。この交差点を左折し伊賀川に沿って南下し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。『岡崎城下二十七曲り』地図入り案内板。『岡崎城下二十七曲 下肴町角』と。伊賀川に沿って桜並木を南方面へ進む。ここからはようやく岡崎城方面へ向かう小高い所に先ほど訪れた白山神社が。「白山大悲観世音菩薩」の幟が。右手前に伊賀川に架かる『三清橋(さんせいばし)』。橋の袂にあったのが『岡崎城下二十七曲 下肴町より田町角』。『岡崎市立中央図書館』が道路の先に。『三清橋』を渡った交差点先にあった『金のわらじ案内柱』は『を』。これより次の路地まで45m。『岡崎城下二十七曲り 田町北角』道標石碑。二十七曲りはこの先の路地を左に。進むべき『二十七曲り』の詳細な案内図。この場所は、クネクネと曲がっており迷い易いのであった。マンホール蓋は岡崎城と百万石船。『岡崎城下二十七曲り 田町角』道標石碑。この日の二十七曲り散策はここまでとしホテルまで歩いて戻ることにする。前方に岡崎城の天守が。龍城(たつき)橋西交差点を東に向かって進む。再び岡崎城天守をズームで。見事な夕焼けが広がり始めていた。岡崎公園前交差点の先の歩道橋に上り夕景を楽しむ。岡崎城 大手門の後ろに沈む夕日。ズームで。しばし、刻々と変わっていく夕景をカメラで追い続ける。西康生通りを伝馬通りへ向かいホテルへ。店頭の自販機に「オカザえもん」の姿が描かれていた。岡崎市の非公式キャラクター「オカザえもん」は、2012年11月1日から12月2日まで岡崎市で開催された現代美術展「岡崎アート&ジャズ 2012」に現代美術作家の「斉と公平太」が出展した作品で身長180cm。サインは本人が、2014.1.31と。昔の変圧器をテーブル代わりにと提案そして販売?東康生通りからホテル近くの伝馬通りにたどり着いたが、今日の歩行数は46,000歩で旧東海道歩きでは最高の歩行数。このため今夜の夕食はホテルの部屋で反省会を兼ねてやることとし、伝馬通1丁目交差点角にあったコンビニ・MINISTOP岡崎伝馬通店で宴会用アルコール&食料を調達。コンビニの敷地内に建つ「西本陣跡」石柱。コンビニ前からホテルまでは、再び「伝馬歴史プロムナード」。ホテルまでの伝馬通りの北側歩道に並ぶ残り残り10基の石彫をカメラで追いかける。『本陣・脇本陣』。「本陣・脇本陣参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。伝馬の本陣は正徳3年(1712)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒であったが、後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の3軒が本陣、脇本陣は鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒と推移している。岡崎東本陣(服部家)は、現在の伝馬通り2丁目交差点辺りにあり、建坪209坪半で部屋は二百畳以上、脇本陣を勤めた桔梗屋は、総坪数百二十五坪半のうち、建坪百五坪とどちらも玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。」『駒牽朱印(こまびきしゅいん)』「駒牽朱印慶長6年(1601)、徳川家康は以前からあった駅馬・伝馬の制度を踏襲して東海道の宿駅ごとに馬と人足を常置させました。その負担をするのは各宿駅の「伝馬役」です。この岡崎に限らず各地に伝馬の地名が残っていますが、それらは江戸時代に伝馬役を務めた町であることが多いです。「駒牽朱印(こまびきしゅいん)」は徳川幕府が公用に伝馬を使用する時に用いた権威ある印鑑で、この印が押された朱印状が公用旅行者の伝馬使用許可証となります。「伝馬」の文字と馬を引く人物がデザインされた趣のある印です。」『二十七曲』。「二十七曲東海道の中でも三番目に規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれ、屈折の多いその街並の長さでも有名であった。二十七曲がりは欠町、両町、伝馬通りから籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す碑が現在の町並にもいくつか置かれている。」『矢作橋(やはぎばし)』「矢作橋矢作橋は公儀普請の重要な橋であり、岡崎宿を行く旅人にとっても、まだ見ぬ岡崎を思い浮かべる人々にとっても街道一の規模を誇るこの橋の勇壮さは関心の高いものであった。広重の東海道五十三次「岡崎」にも描かれ、東海道を行く当時の紀行文や道中日記には必ずといっていいほど矢作橋が登場する。ドイツ人ケンペルは「江戸参府紀行」で、スウェーデン人ウィルマンは「日本旅行記」の中で矢作橋の大きさを記述し、岡崎宿を訪れた朝鮮通信使の日記にも登場するなど外国人にとっても印象深いものであった。」『あわ雪茶屋』。「あわ雪茶屋江戸時代の岡崎宿の名物といえば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などが挙げられるが、名物の食べ物といえば「淡雪豆腐」が挙げられる。当時、あわ雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、岡崎宿を通行する旅人に親しまれていた。天保13年の記録に「茶飯壱膳、あハ雪豆ふ・香之物付弐拾文、引下ヶ拾八文」とあり、ご飯、おしんこ、淡雪豆腐のセットメニューで18文であった。現在のあわ雪は江戸時代の淡雪豆腐にちなんでつくられたお菓子である。」『作法触れ』。「作法触れ勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくると宿場全体に、町奉行から出迎えのための通達が出た。「作法触れ」とは街道や宿場内での諸注意で、道路に盛り砂を行う事、手桶、箒を出しておくこと、決められた場所に提灯を出すこと、ほら貝、鐘、太鼓、拍子木など鳴らさないこと、街道では通行の前日から田畑などで下肥を施したり、ごみ焼をしないこと、通行に際し土下座をすることなど細かい点まで指示された。また、応接接待の作法についての「御馳走触れ」も出され、出迎え支度は大変なものであった。」『往来手形』「往来手形江戸時代、街道、橋、宿場などが公用旅行者向けに整備されたが、物資の流通や庶民の旅行もそれによって発展していった。一般庶民の旅行では通行許可証となる往来(通行)手形を発行してもらわなければならなかったが、信仰のための旅ならば往来手形を容易に受けられたので、庶民の間には伊勢参りなど、娯楽的要素も加えた寺院神社参詣の旅が広まった。斡旋業者も現われ、旅行のための積立をする「講」と呼ばれる組織ができるなど、旅行は徐々に民衆のものになってゆき、観光旅行の原点となった。」『一里塚』。「一里塚徳川秀忠は家康の発案により、東海道・中山道・北陸道の三街道に一里(約四キロ)ごとに工程の目印となる、一里塚を設けた岡崎の一里塚は東より本宿、藤川、大平、矢作にあったが、現在、大平に南側の一里塚が残っていて国指定史跡となっている。他の一里塚同様、大平の一里塚にも榎が植えられており、この榎は、家康が総監督大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言った言葉を「えのき」と聞き違えたという話が残っている。参勤交代で大名の通過があると藩の使者が送迎の礼をした場所でもあったとされる。」『市隠亭(しいんてい)』。「市隠亭伝馬町の塩商人、国分家は代々学問を好み、国分次郎左衛門衡(伯機)は岡崎藩の儒学者、秋本嵎夷に詩文を学び、屋敷内に「市隠亭」という書斎を作った。 ここでは岡崎だけでなく旅行者など多くの文化人たちの交流が行われ、市隠亭は文化サロン的な役割を果たしました。文化人の中には民族学の先駆者の菅江真澄もいた。主に漢字や漢詩と親しみ、その蔵書も多く、庶民レベルを超える高い文化が身分を問わず広く温められた。他に伝馬の旅篭、柏屋の主人金沢藤右衛門も金沢休と名乗り、文人として活躍した。」最後に宿泊ホテル前にあった『旅籠屋』。「旅籠屋天保年間(1830年~1843年)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣3軒、脇本陣3軒、旅篭屋が120軒あったとされ、東海道五十三次中3番目の規模を誇る宿場であった。旅篭屋はその規模により大宿、中宿、小宿と区別され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もあった。正保・慶安の頃(1644年~1651年)からは飯盛女という遊女を置く旅篭も現われ(岡崎は岡崎女郎衆で有名な宿場ともなった)、庶民の旅行が増え始めた江戸中期頃になると各旅篭屋とも競争が激しかった。」ホテルの部屋に戻り、コンビニで買ったビール・酎ハイを飲みながら部屋で反省会。そしていつの間にか?爆睡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次引き続き『岡崎宿伝馬歴史プロムナード』を進む。伝馬交差点から伝馬通り1丁目交差点にかけて、伝馬通りの南北両歩道に、20基のかわいい石造が並んでいたので、これをカメラで追いかけながら進んだのであった。『助郷』。「助郷大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄7年(1694)に正式に実施されている。人馬を供出するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったものの、やがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。」『飯盛女』。「飯盛女飯盛女(飯売女と表わすこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りを披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(1644~51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯盛女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなど、その繁盛ぶりが全国に届くことになった。」『永田屋精肉問屋』の前を通る。創業百余年の松坂肉取り扱い専門店。記された金文字の看板が風格を感じさせていた。松坂肉を初め肉全般プラス総菜も取り扱っており、人気のある店なのであろう。『田中吉政』。「田中吉政吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった甥秀次の付家老として天正18年(1590)に岡崎に入城し、以降10年間、新しい城下町づくりを行った。関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。」『人馬継立』。「人馬継立旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。公用旅行者は無料・半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150kg)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや旅籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。」『三度飛脚』。「三度飛脚伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった通信書状などを入れた箱をかつぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。こうした逓信業務を行う人間が何人か住んでいるところはいかにも宿場らしい。飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文3年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。」『塩座』。「塩座塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せかえられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草株などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。」『御馳走屋敷』。「御馳走屋敷現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政9年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。ご馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壷、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重にあいさつしたという。」『岡崎宿東海道二十七曲り』案内石碑がここにも。『二十七曲り』。「徳川家康公が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月。同年10月には、豊臣側の田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。吉政は、矢作川に初めて橋をかけ、菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で、岡崎はその典型でした。これが二十七曲りです。しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり城下町・宿場町として栄えていきました。」赤い線が街道で『二十七曲り』。地図には現在地が。やっと距離的には中間点の手前辺りか?まだまだ続くのであった。北斎の浮世絵「岡崎宿其二」。『籠田惣門』。「籠田惣門田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北へ曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく、岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。」伝馬通1丁目の交差点の「金のわらじ案内柱」は、ようやく『ほ』。これより次の六地蔵下り口『へ』まで60m。この交差点を左折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。『伝馬通1丁目』交差点。伝馬通1丁目角が西本陣跡。コンビニ前に『岡崎城下二十七曲 西本陣前角』道標石碑が。ここを左折し南に向かって進む。そしてこの伝馬通1丁目の交差点を右折。前方に金のわらじ案内柱と石碑を確認。横断歩道を渡り、「金のわらじ案内柱」へ。これより次の伝馬通一丁目角『ほ』まで60m。龍田総門からここまでは総門通りとなり、街道はここを左(南)に曲がる。この道標の南側に昔は朝鮮使節などをもてなした「御馳走屋敷」があったと。『明治の道標』の『きらみち 西 京いせ(伊勢)道』と刻まれた石碑。石柱の横に建つ道標、岡崎宿東海道二十七曲り「道標」吉良道(西尾市、岡崎市:いくつかある吉良道のうち、六地蔵坂が南北に通っており、「吉良道」はここを南下するルート)。そして右側に見えてきたのが赤煉瓦作りの『岡崎信用金庫資料館』。前の空き地も遺跡が埋まっていたのであろうか。『岡崎信用金庫資料館』正面。赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を組み合わせた特色ある建物は、本格的なルネッサンス様式を取り入れた建築で、大正6年に旧岡崎銀行本店として建造された。日本近代建築の重鎮、鈴木禎次氏の設計によるもので、全国でも有数の貴重な建物として、その保存管理に大きな期待が寄せられていると。登録有形文化財。免震化工事で休館中であった。総門通りを更に進み次の康生通南3丁目交差点へ。道路の真ん中の緑地帯にあったのが『籠田総門跡』。『籠田総門』とは西側の松葉総門とともに建てられた。籠田町にあったので『籠田総門』と呼ばれた。総門には番所も併置され、東海道(岡崎城二十七曲)を東からやってきて『籠田総門』を通行しようとする者はここで改めを受けた。『岡崎城下をしのぶ籠田総門跡』。天正18年(1592)徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き城下町を形成し、東海道の城門出入口として籠田・松葉の総門を建てたと。旧東海道はここを右折して再び伝馬通り方面へ。『田中吉政公の像』がこれも中央分離帯に。この人物は秀吉びいきらしく、家康の遺構をなくし新しく作り変えていったのだと。「岡崎城主(1590~1600)、当時菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど城下町の整備を行った」それにしても、像の周囲の草を抜いてあげたかったが・・・・。伝馬通りの向こう正面が『籠田公園』。戦災後の復興を記念した「平和の碑」。「躍進」の文字も。戦後の「新生岡崎」の象徴的なモニュメントで、「鳩」が平和をあらわしているのだと。伝馬通りを見る。公園内の芝生の中に旧東海道が通っていたようであった。そして旧東海道であった連尺通りへと向かう。籠田公園を出ると右側角に籠田惣門付近にあった寛政10年(1798)の『籠田公園角常夜燈』が移設されていた。「天正18年(1590)徳川家康の関東移封により、田中吉政が岡崎城主となり総堀を築き城下町としての整備をはかる。 慶長6年(1601)伝馬の制定により東海道の往来も激しく次第に殷賑をきわめるようになり寛文10年(1670)籠田総門が設けられる。時は徳川泰平の世に移り町並はさらに整備され町内旅人のため要所に常夜燈が建立された。この常夜燈は寛政10年(1798)岡崎城下三番目のものとして石工、七左衛門作により籠田総門付近に建立され町内と旅人往来安全の灯として、市井の人々に愛され温かく守護され続けてきたものである。大正時代に旧市役所(現電報電話局)北側に移転し幸いにも昭和20年7月20日未明の岡崎空襲の災禍を免れ、 昭和25年戦災復興事業により整備された籠田公園の一角に再移転、さらに昭和56年4月籠田公園地下駐車場新設により装いも新たにこの地に再建された。 城下町交通の遺物として茲に後世のためその経緯を記すものである。」『岡崎城下二十七曲 篭田町より連尺町角』道標石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道を歩いていくと、前方に冠木門が見えて来た。冠木とは鳥居や門などで両方の柱の上部を貫く横木のこと。二十七曲りの案内石碑と要所にあった木戸(門)を冠木門として再現したと。ここ岡崎は家康の生誕地であり、先祖の松平家の本拠地でもあったので、岡崎城を中心に城下町として発展した。また天正18年(1590)岡崎に入部した田中吉政が東海道を城下に引き入れ、城の防衛上、27曲りと呼ばれるように多くの曲折をなした街道を作った。現在では戦災や戦後復興の道路拡張のため宿場町としての面影はほとんど残らないが、旧東海道に建立されていた城下27曲りの石碑を参考に旧街道筋をたどることができるのであった。東海道岡崎城下27曲がりの東入口にある冠木門(かぶきもん)。藤川宿から行田村、大平村、欠村と歩いて、ここ27曲りの立派な碑がある岡崎宿の入口へと入って来たのだ。ここが27曲がりの一つ目の角のようでであるが・・・。『岡崎城下二十七曲がり碑』碑は鏡面過ぎて写りこみが激しくてとても見にくい写真となってしまった。反射が少ない場所を探して。「岡崎城下二十七曲り江戸時代岡崎城下を通る東海道は、城郭守備のため通称二十七曲りと呼ばれる屈折の多い道となっていました。 この二十七曲りは、西は矢作橋から松葉総門を経て城下をまわり、東は龍田総門を出て伝馬町から両町、投町に至る道筋をさします。 二十七曲りの一部は戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることができます。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に残すために、城下二十七曲りの西口近くの当所に道案内の石碑を建立します。」旧東海道を右に進み150m近く進むと交差点が。『若宮町2丁目』交差点。交差点の向かいの角にはモニュメントが。二十七曲がりの道筋はこの二十七曲がり記念碑を左折した所から始まり、伝馬町、籠田町、連尺町、本町、材木町、下肴町、田町、板屋町、八帖町を経て矢作川を越えるまで。右折して元市民病院の『岡崎げんき館』敷地角には最初の標柱と記念モニュメントが作られていた。『岡崎城下二十七曲 欠町より投町角 岡崎城東入口』道標碑。『岡崎城下二十七曲り』。「江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数一一七軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店が軒を並べていましたが、なかでも茶屋が多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。」若宮町2丁目の交差点から岡崎城下二十七曲がりのスタート。曲がり角には『金のわらじ案内柱』が立っていた。『金のわらじ案内柱』は、いろはの『い』から始まる。これより次の両町角『は』まで650m。交差点を左折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。『岡崎げんき館』。岡崎市若宮町にある公共の健康増進施設。屋内プールとトレーニングジムを備えている。建物の中には岡崎市保健所もある。 2008年3月1日にオープン。旧市立岡崎病院跡地に「健やかに集い、にぎわいを創出する核として」建てられた。旧東海道を若宮1丁目東に向かって進む。『根石原観音堂』。正式名称は根石寺、曹洞宗の寺。岡崎三十六地蔵4番札所。右手に延命地蔵尊、水子地蔵尊が小さな堂の中に。本堂内部。左手に『三界萬霊塔』。『四国西国納経塔』。石を彫り込んだ手水鉢には『恵の水』と。『曹洞宗 根石寺(旧根石観音堂)の由来』「当寺本尊聖観世音菩薩は行基菩薩の作といわれる。和銅元年(708)天下に悪病が流行し世の人々の苦しみは一方でなかった。時の天皇43代元明天皇も大変心を悩まされ直ちに行基法師を召され悪疫を絶やしてほしいと念願された。そこで法師は自ら六体の観音像を彫りその内の二体を根石の森に勧請し17日間祈祷を続けられたところ果たして霊験あらわれ、はやり病も治まり世人の喜びは大変なものであった。また岡崎三郎信康公も天正元年(1573)の初陣の折この観音像を祈願し軍功をあげて以来開運の守り本尊としてもあがめられこの2体の観音像を町の人達が協力してここに堂宇を建立し壇上の厨子に安置したのである。」右手に『法圓寺』。『本堂』。真宗大谷派の寺。扁額『法圓寺』。僅かに右に折れている両町3丁目の「金のわらじ案内柱」は『ろ』。これより両町角『は』まで30m。ここを直進し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。そして更に進むと両町角の「金のわらじ案内柱」・『は』が前方に。両町2丁目の「金のわらじ案内柱」は『は』これより次の伝馬町角『に』まで80m。ここを右折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。『岡崎城下二十七曲 両町より伝馬町角』道標碑。道標碑裏には「天正十八年(1590年)岡崎城主田中吉政は城下の東海道を二十七曲にし防備を図った」と。右手の両町公民館の前の祠の中に『常夜燈』が。「常夜燈の由緒この常夜燈(仏式)は、旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として、今より182年前寛政二庚戌年12月(1790)に建てられたものであります。其の後昭和20年7月20日未明の空襲で災禍にあいましたが、昭和47年10月22日までその原型を留めて居りました。追日の痛みもひどく危険になりましたので取り壊し、其の一部「宝珠」を残しこれを安置保存致したものであります。岡崎では最も古い由緒ある常夜燈で目下重要な文化財として惜しまれて居ります。」一部残された「宝珠」。両町1丁目の『金のわらじ案内柱』は『に』これより次の伝馬通一丁目角『ほ』まで660m。この交差点を左折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。伝馬通5丁目交差点。緑地は南北に走る「太陽緑道」。『太陽緑道』の石碑をズームで。『伝馬通り』を更に進む。伝馬4丁目交差点。伝馬4丁目西交差点を左折し、街道裏。一本奥の道にあった『町内安全秋葉山大権現常夜灯』を訪ねた。『町内安全秋葉山大権現常夜灯』享和3年(1803)秋7月建立『秋葉山大権現常夜燈』には、「町内安全」と刻まれていた。細身で丸みがあり、時代を感じる常夜燈。「光格天皇の御代11代将軍家斉公時代今を去る161年前伝馬町下中之切188番地3銘座東北の角に石工嘉兵ェ氏作によりこれを建立。昭和20年7月20日未明、第二次世界大戦の本土空襲により市内の大半は焦土と化し、当町も戦災のため全焼するも常夜灯は災禍を免れ昔時のまま現存する。昭和三十八年三月、三銘座は三銘会館として再建することとなり館主より常夜燈移転の申し出あり町議決定により岡崎市梅園町一丁目石材商杉浦銓次氏に移転を依頼。岡崎市伝馬通四丁目五番地一(現在地)に移し現在に至る。」この奥に『西照寺』があったが、手前は工事中。県道477号線(モダン通り)に突き当りここを右折し再び伝馬通りに出る。今宵の我々のホテル前の『備前屋』。『岡崎宿伝馬歴史プロムナード』石碑。ホテルでもらった『岡崎城下二十七曲り』パンフレットの『伝馬歴史プロムナード』案内。「かって東海道有数の宿場町であった岡崎宿の歴史の語りべとして伝馬通二丁目の両散歩道には20基のかわいい石碑たちが並んでいる。ひとつひとつの石彫に込められた宿場町伝馬のストーリーを楽しもう。」まず最初に『お茶壺道中』「お茶壺道中寛永9年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壷道中。3代将軍徳川家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせました。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていました。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行は御馳走屋敷で休みました。御馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁寧にもてなしたとの記録が残っています。」『朝鮮通信使』「朝鮮通信使江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節の派遣をしました。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均500人からなる大使節団だったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えました。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かいました。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の応対は一大行事であった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『専光寺』を後にし、大岡越前守陣屋跡(西大平藩陣屋跡)に向かう。『史跡 大岡越前守旧邸』石碑。『大岡越前守陣屋跡』岡崎観光きらり百選 案内板。「「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。」『大岡越前守陣屋跡・西大平藩陣屋跡』陣屋門。立派な門と塀が復元されていたが、中は公園状態で何枚かの案内板が掲げられていた。『西大平藩』案内板。「西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石を加増され1万石の 譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まります。 安政元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、 大部分が三河国内に所在していました。」この庭園は、額田郡の12か村を石で表していると。『西大平藩陣屋』「西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。」『大岡越前守忠相』案内板も。『大岡越前守忠相公』 延宝五年(1677)~宝暦元年(1751)「「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相は旗本の家柄に生まれ、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。 著名なものに、相対済し令・目安箱・小石川養生所設置、いろは四十七組の町火消組織化、江戸防火対策である火除地の確保と「瓦ぶき」屋根とする建築基準の設置など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。 また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通貨改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政の建て直しを図りました。 晩年は譜代大名にとりたてられ、奏者番兼寺社奉行として職務を全うしました。 宝暦元年に75歳で没し、相模国堤村(現神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。」当時の『井戸』も残されていた。陣屋跡に鎮座する『大岡稲荷社』。「寛永元年(1748年)一万石の譜代大名になられた大岡越前守忠相公は、西大平藩主として三河国額田郡西大平村(現在地)に陣屋を置いた。 忠相公は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊「咤枳尼眞天」を厚く信仰した。 江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、ここ西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川咤枳尼尊天」を本尊として祀った。 現社殿は、忠相公没後250回忌の記念事業として平成14年(2002年)に再築されたもので、大岡家の守り本尊として代々引き継がれ守られている。 なお、毎年4月には大岡稲荷奉賛会が中心となり例大祭が行われている。」御本尊「豊川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」と赤く書かれた幟が並んでいた。旧東海道に戻り進むと直ぐ左にあったのが『大平(おおひら)一里塚』ここは「跡」ではなく当時の一里塚が左側だけ残っていた。二代目の榎も見事に生長していた。国指定文化財『国指定文化財 史跡 大平一里塚』案内板。「 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長九(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことによる。 大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から八十里にあたる。東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次の子成重が築いた。現在の大平一里塚は、昭和三(1928)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和二十年の台風で倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。」『史跡 大平一里塚』碑。右側の塚があった場所には『秋葉常夜灯』と『馬頭観音』を祀った堂が。左側の二代目の榎を見上げる。『馬頭観音』の堂。内部の石仏・地蔵尊(右側)。左側が三面六臂の馬頭観音であろう。そして旧東海道が再び国道1号線に合流する手前右側にあったのが『村社 八幡宮』の石灯籠と参道入口。参道を進むと右手にあったのが『更沙川改修記念碑』『更沙川』はこの場所の裏を流れ乙川に合流する川。参道を進むと一の石鳥居が姿を現す。創立:年代不詳安永6年(1777年)8月4日 字八ッ幡より遷座。階段の上に社殿が。二の石鳥居を潜る。水場。拝殿。扁額『八幡宮』。境内社『三姫社』。右から『神明社』と『大森社』。『天神社』。『拝殿』の奥に『本殿』。祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと 応神天皇)。『神宮遥拝所』石碑。『皇居遥拝所』石碑。東名岡崎ICへの入口である岡崎西ICの高架下を潜る。この後再び国道1号線に戻り暫く進む。そして再び更紗川沿いの旧東海道に入って進む。右手に更紗川緑地があった。暫く進むと右手にあったのが『一澤山法光寺』。この寺の山門は、門の上に鐘楼がある珍しいもの。狭い境内と見受けられたのでやむなく山門の上に造ったのであろうか。本堂。境内には立派なそして大きな墓石の墓が並んでいた。境内から山門を見る。こんな張り紙が。お供えした古い花は持ち帰ってくださいと。右手の駐車場には『旧東海道常夜燈』が。手前には『水準点』も。『水準点』は、正確な高さを求める測量をおこなうために、国土地理院が作った高さの基準となる点のこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線を更に西へ進む。岡町神馬崎交差点の先、左手にあったのが『阿弥陀寺(あみだじ)』。阿弥陀寺は、愛知県岡崎市桜形町にある浄土宗西山深草派の寺院。別名應聲山阿彌陀寺・大金谷山西福院。山門前に「令和元年11月4日 本堂落成 慶讃大法要 異香山 阿弥陀寺」と書かれ立札が。境内の石仏。新しい『本堂』。滝脇松平家の菩提寺でもあり、武士との関係が強い寺院であるとのこと。振替休日の11月4日(月)には『お稚児行列』が行われると。更に進むと前方にY字路が。国道1号線と分かれ、旧東海道は左の道を行く。さかしたはし(坂下橋)を渡る。先に国道1号線が見えた。下を流れる『竜泉寺川』。所々に松並木が残っていた。美合新町の交差点を渡る。左に行くと名鉄名古屋本線の美合駅方面に。しばらく住宅街の中にあった旧東海道を進むとその先にあったのが『たかはし(高橋)』下を流れる川は乙川に流れ込む再び『竜泉寺川』。更に乙川に向かって田園地帯を歩く。乙川に突き当たり右折して乙川の堤防を国道1号線に向かって歩く。昔はここに旧太平橋がかかっていたようであった。国道1号線に合流し左方向へ進み『大平橋』を渡る。『乙川』大平橋から旧東海道の辺りを見る。 渇水期は乙川を渡る事が出来たと。大平町東交差点の隅にあった、『旧東海道と五十三次の画』案内板。旧太平橋、現太平橋に関する地図が描かれていた。左手に折れ乙川のたもとにある『太平川水神社』に立ち寄る。昔は、この近くを旧東海道が通っていたのだ。引き返して大平町東交差点で国道1号線を渡る。横断歩道を渡ると正面にあったのが『東光山 藥師寺』境内。『浄土宗西山深草派東光山薬師寺』の本堂。扁額『東光山』。境内の六角堂。京都の中心地、新京極通りの真ん中にある誓願寺が総本山であるようだ。境内の祠に入った石仏。歴代宝塔。この墓石は?梵語(サンスクリット語)が刻まれていたが。『薬師寺』を後にし進むと、岡崎市男川消防団の直ぐ右手に太平の『常夜燈』が。後ろには鉄骨製の火の見櫓が。東海道 道標男川小学校西交差点を通過。『つくて道』石碑。「男川小学校西」三叉路(信号あり)の右角に古い道しるべがあり、右側に「東海道」、左側に「つくて道」と刻まれていた。『西大平藩陣屋跡』碑。ここを右折すると90mで「西大平藩陣屋跡&大岡稲荷社」があるとのことでこの後訪ねたのであった。右手にあった『専光寺』を訪ねた。『山門』。境内に入ると正面に『本堂』が。真言宗大谷派の寺。扁額『上野山』。『手水舎』。『鐘楼』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次右手にあった『関山神社常夜燈』のすぐ先にあった小さな橋・宿場橋(しゅくばはし)を渡る。下を流れる川は『百田川』。『百田川』は『山綱川』に流れ込む川。宿場橋を渡り、直ぐ左に入った正面にあったのが『伝誓寺(でんせいじ)』の小さな『本堂』。『伝誓寺(でんせいじ)』「「伝誓寺」は、浄土真宗大谷派の寺院である。山号は「松音山」といい、寺号を「伝誓寺」と称する。寺の由来は、昔「大蓮坊(だいれんぼう)」といって、天台宗の寺であったが、室町時代の中頃、蓮如上人(れんにょしょうにん)の教えに帰依回収して浄土真宗の寺となった。その後、江戸時代にこの地に移り現在の建物は、昭和45年に改築されたものである。本堂内には、須弥壇の宮殿に「阿弥陀如来立像」が安置され、その右側の脇壇には「親鸞聖人画像」(厨子入)、左の脇壇には「彰如聖人画像」(巻軸)があり、その左の余間には寺の中興に力を尽くした「村井三十郎」の位牌も残っている。伝説として、「泥棒と水晶」の仏頭や左甚五郎が彫ったと伝える「彫りの竜馬」も欄間に掛けられている。」『手水舎』。『垢濯』は「こうよく」?「くよく」?どう読むのであろうか、それとも生々しく「あかすすぎ」?『鐘楼』。無縁仏?と観音像。旧東海道(県道327号線)を進むと岡崎市立藤川小学校の先には松並木が。藤川宿掲示板の手前には藤川宿が地図が描かれていた。その先にあった『西棒鼻(にしぼうばな)』案内板。「「棒鼻」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。藤川に再現された「棒鼻」は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。勝示杭(境界を示す杭)と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。また、脇にある歌碑には、広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌で、「藤川のしゅくの棒はなみわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」と書いてある。この狂歌の中で勝示杭を「杉のしるし」とし、ぶらりと下がる「うで蛸のあし」と、藤の花がぶらさがって咲いている様子とにかけていておもしろい。」藤川に再現された『西棒鼻』を手前から。『西棒鼻』の立て札、常夜燈を正面から。『藤川 江戸へ 七十八里二十九丁 赤坂へ二里九丁京へ 四十六里二十七丁 岡崎へ一厘半『西棒鼻跡』。「宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は東棒鼻を描いたものである」歌川広重の師、歌川豊広の狂歌が刻まれている石碑。歌川豊広歌碑「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」『藤川 歌川豊広』「藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうで蛸を売っており、たこのあしがぶらさがっている。」と。『街道往還図』。藤川の『十王堂』が『西棒鼻跡』の先の十字路の左手に。『十王堂』内部。『藤川の十王堂』「「十王堂は」、十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは、冥土(死者のたましいの行くところ)にいて亡者(死んだ人)の罪を裁く十人の判官をいう。秦広王 初江王 宗帝王 五官王 閻魔王 変成王 平等王 太山王 都市王 五道転輪王の総称である。 藤川宿の「十王堂」はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(一七一○)の記年があるので、 ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。 また地元では、忠臣蔵で有名な神埼与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。」『十王堂』の奥の建物はこれも十王堂の一部か?昔の『十王堂』?『十王堂』の隣には、『松尾芭蕉の句碑』が。「爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせお」これは名物「むらさき麦」を詠んだものであると。『十王堂』の石仏。ここにも。『芭蕉句碑』。表面をズームで。『芭蕉句碑』芭蕉句碑は、江戸時代の俳人松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」碑の裏に、「寛政五歳次葵丑冬十月 当国雪門月亭其雄并連中 以高隆山川之石再建」と、建碑の書誌的事項が彫られている。この碑の高さは1.65m、幅1.07m、厚さ0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。その傍らに、高さ0.9m、幅03.5mほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑は4もと別の所にあったが、大正初期に現在地に移された。」『裏側』。この碑も芭蕉関連?しばらく行くと、左手に『藤川の一里塚』。『藤川宿の一里塚』「「一里塚」は、街道に一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした塚のことである。慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。樹木は普通、榎であった。ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 壱ヵ所 木立 左無之 右榎 但、左右之塚共 藤川宿地内」と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃にはすでに南側はなくなり、北側の榎は昭和初期には枯れててなくなってしまった。」左手に『東海道』案内板。藤川のまつ並木 400m藤川宿資料館・本陣跡 600m。街道脇の松の数が増えて来た。右にカーブした先には名鉄・名古屋線の踏切が。この手前で旧東海道は直進(右)、県道327号線は左に分岐。分岐点の真ん中に1814年(文化11)年に建てられた『吉良道道標』が。右 東海道左 吉良道左の道が三河湾に面した吉良に通じる『吉良道』である。海産物の搬入に使われたほか旧東海道の脇街道としても重要な道であったと。右 東海道。『吉良道道標』案内板。「東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。 この道を「吉良道」と呼んでいて、この分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。 道しるべ石は、高さ一四三センチ、幅二○センチの四角柱で、彫られている文字は、 (右面) 「文化十一年甲戌五月吉日建」 (正面) 「西尾、平坂、土呂、吉良道」 (左面) 「東都小石川住」 と書いてある。 とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。 また、伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。」名鉄の踏切を渡ると松並木が待っていてくれた。『岡崎市指定文化財 天然記念物 藤川のまつ並木』。「慶長九年(一六○四)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。 この松並木はその名残をとどめるもので、現在は藤川町の西端約一キロメートルの間の九十本あまりからなり、クロマツが植えられている。 松並木は旅人には夏の木蔭を提供し、冬は防風林となった。 松並木の東につづく藤川宿は、東海道の三十七番目の宿場である。 歴史的な価値のある松並木であり、大切にして後世に伝えたいものである。」名鉄名古屋線に名古屋方面を見る。旧東海道はゆるい下り勾配で名鉄線の踏切りを渡ると、藤川松並木となった。慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両側に松を植えた。天保14年(1843)には、34間の長さが続いていたと伝えられる藤川の松並木。昭和38年(1963)に岡崎市指定の天然記念物になった際には、幹囲2mのクロマツ90本が町の西はずれに約1㎞に渡って東海道の左右に立ち並んでいたという。快晴ということもあって気分爽快で松並木を歩いたが、国道1号線に合流するまでの約1kmの間に90本の黒松が植えられているのだと。樹高30mクラスの松もあり岡崎市指定天然記念物となっている規模の大きい松並木であった。岡崎市指定文化財(昭和38年5月指定) 天然記念物の『藤川 松並木』。この日も清掃、手入れなどの活動が行われていた。クロマツの枯れ葉が集められて。国道1号との合流地点には『藤川宿』と書かれた案内板が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(県道327号線)を進と城を形どった人形屋『人形処 穂洲作 栗生人形(あおうにんぎょう)』の建物。伝統的な雛人形や五月人形をはじめとした手作り品を今に伝える老舗人形工房。小物や干支人形作りなどの教室も行っており、初心者でも基本から教えてくれる店であると。『刃傷松の廊下』の人形であったが、ガラスが反射して・・・・・『稱名寺』と刻まれた石柱。その脇が『厳松山稱名寺』の参道。『稱名寺』の『本堂』。愛知県岡崎市藤川町にある浄土宗西山深草派の寺院。山号は厳松山。本尊は阿弥陀如来。永禄十一年(室町末期)に開山され、旅人の旅籠の代行をしていたとも伝えられていると。『鐘楼』。愛知県指定文化財「彫刻 木造阿弥陀如来坐像」本堂に本尊として安置されている阿弥陀如来坐像で、木造、寄木造り、像高は87cm。『称名寺』説明板は、風雨に晒されて・・・・。釈迦誕生の潅仏会に登場する『白像』。扁額『厳松山』は青い文字で。境内の石仏群。無縁仏?と観音像。こちらも大平の東光山薬師寺と同じく、浄土宗西山深草派(本山京都・誓願寺)の寺。旧東海道の右手に立て札が。右手に『藤川宿の問屋場跡』の案内板と石碑が民家の生け垣の中に。『藤川宿の問屋場跡』「藤川宿の「問屋場」は、ここ字中町北にあった。「問屋場」は宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿では、ここを「御天馬所」とも称していた。この問屋場については、記録によると「一、人馬継ぎ問屋場 壱ヶ所 字中町 問屋 弐人 年寄 五人 帳付 四人 飛脚番 六人 人馬差 六人 小使 六人」とある。また当初の問屋場は、問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に、現在地に専用の建物を設けて、業務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割は終わった。」旧東海道・県道327号線(市場福岡線)を更に西に進む。左手にあったのが『旧野村家住宅(米屋)』。景観重要建造物『旧野村家住宅(米屋)』「天保年間(1830~1843)頃の建築。幾度かの改修を経ているが、内部の堅牢な柱や梁は現存する。旧東海道に面する北側の店と南側の居住部に分かれた間取りや外壁の一部にある、なまこ壁、木組格子、瓦屋根下の垂木の大きな木割などは、米穀業を営んでいた頃の町家建築の面影を伝え、旧東海道の37番目の宿場として栄えた藤川宿のくらしを偲ぶことができる。」隣の『銭屋(よろづ屋)』の連子格子も昔を偲ばせるのであった。少し歩くと右手の藤川駐在所の先にあったのが、『本陣跡』にある本陣跡広場。『本陣跡』碑。『藤川宿 高札場跡』。『高札場』は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などに掲げ、民衆に周知させるための場所として設置されていた。代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。その内容は ①藤川よりの駄賃並人足賃 ②駄賃並人足荷物次第 ③親子兄弟夫婦みな親しく ④切支丹禁制 ⑤毒薬にせ薬種売買の事禁制 ⑥火付け用心これらの文面は、民衆への周知のために、簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられました。 多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字の墨入れにも許可が必要でした。 そのため、幕府や藩により 「高札番」 という役職が設けられ、厳しく管理を行っていました。藤川宿の高札場は、問屋場の東に設置されていましたが、本陣跡広場の整備に伴い、ここに復元されました。」『東海道と藤川宿』「慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に 「伝馬(駒曳)朱印状」 を下付して 「宿駅」 を指定するとともに、公用の旅行者のために、「伝馬」 三六疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。 これが近世宿駅制度の始まりです。 慶長9年からは幕府の命により、日本橋を起点とした五街道の整備が開始されました。慶長6年に整備された藤川の宿は、品川から数えて37番目の宿駅でした。中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されています。 東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、 宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。 そのために慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる 加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。天保14年(1843)の 「宿村大概帳」 の記録によると、藤川宿の総人口は1,213人、家数は302軒となっています。 これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。 しかし、藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。」『藤川宿』案内地図。本陣内に2つあった『井戸』の一つが復元されていた。『本陣跡』案内板。「宿場には様々な施設がありました。 中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠、茶屋などの休泊施設と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を 次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。 本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。 藤川宿には当初2軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣の役割を果たしていました。 しかし、藤川宿は東亜軌道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、 本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。 そのため、本陣、脇本陣の経営者は退転と交代を繰り返しました。本陣は現在の藤川駐在所等の隣地を含めた長方形の土地に建っていました。 本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。 井戸は二か所あり、中庭に面した座敷がありました。 北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を望む眺望は江戸時代のままです。 本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。明治に入り、廃藩置県が行われ、本陣と脇本陣はその役目を終えました。 その際に本陣を営んでいたのは森川家でした。 平成21年、その御子孫である森川武氏から、岡崎市へ土地が寄附され、平成26年に藤川宿本陣跡広場として整備されました。また、西側にある脇本陣跡には石垣や享保4年(1719)に建築された門が残っており、岡崎市の史跡に指定されています。 現在は、藤川宿資料館が建ち、藤川宿に関わる資料が展示されています。」広場奥には案内用の写真が。手前から、名鉄名古屋本線、山編川、国道1号線、山の麓に関山神社、そして右側の山の中に一畑山薬師寺、牛乗山第三紀末波蝕巨礫群があると。同様に奥には『むらさき麦栽培地』が。食用や染料として使われ、藤川宿の名産品だったが、いつしか作られなくなってしまった。平成6年から農業試験場の協力を得て復活させたのだそうだ。毎年、地元藤川小学校の児童が大事に育てているのだと。奥から『本陣跡広場』を見る。旧東海道に戻り『本陣跡広場』を振り返る。『藤川宿脇本陣跡(藤川宿資料館)』。脇本陣跡は門が現存し、昔の名残を留め歴史を物語るものとして貴重ですあると。門は享保4年(1719)の大火後再建され現在に至る。明治以後は藤川村役場、昭和30年の岡崎市合併後は岡崎市藤川連絡所として利用され、現在は『藤川宿資料館』となっていた。『岡崎市 藤川村 合併記念碑』。『岡崎市指定文化財「史跡 藤川宿脇本陣跡」』「藤川宿は江戸時代の東海道の宿場の内、品川宿から数えて37番目の宿場町であり、伝馬朱印状が慶長6年(1601)に発給された。そのため、本陣・脇本陣・問屋場などが置かれ、東海道の交通を担った。脇本陣は、本陣の予備にあたる宿舎で大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられた。平常は一般旅客の宿泊にも使用が許された。その経営については、本陣に次ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の敷地の四倍、約一三〇坪(約四五〇m2)程の敷地を有していた。現存する門は、関ケ原の戦いの後に藤川へ居住されたといわれる大西喜太夫(橘屋)のもので一部改修も施されているが、昔日の名残をよく留めている。」『藤川宿脇本陣跡』碑。『藤川宿マップ』ここにも『藤川宿の脇本陣跡』の立て札が。「「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。「脇本陣」を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜大夫」で、橘屋と呼ばれていた。入口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので、現在残っている藤川宿内では古い遺構である。明治になって宿場の制度が廃止となり、その後藤川村役場として使われ、現在は「藤川宿資料館」となっている。この敷地は、昭和五十三年十月に岡崎市の文化財に指定された。」左手にも『東海道 藤川宿』石碑が。江戸まで七十八里(約306km)、京まで四十八里(約188km)。『歴史の息づく、住みよいまち 藤川』。「藤川宿の概要 東海道五十三次、37番目の宿場町として設けられた藤川宿の町並みは、9町20間(約1キロ㍍)で、 天保14年(1843)の宿内人口は、1213人(加宿市場村とも、男540人、女673人)、 302軒で本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。 旅籠屋は大7軒、中16軒、小13軒でした。 ここから赤坂宿までは2里9町、岡崎宿へは1里25町でした。 藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は東の新居宿から西の 宮宿(熱田)まで11宿が組合で、赤坂宿とともに「組合」の取締りの宿場でした。 さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の 4宿連名で荷車の使用を願い出て、街道注で初めて幕府の許可をもらっていました。 藤川宿の棒鼻 宿の出入口を棒鼻と呼び、大名行列の際はここで本陣・問屋等は出迎え、「何々宿本陣何の 何等でございます」と口上を述べたと言います。また、宿から差し出される下座触の 「シタニオレッ―」も、この棒鼻から始まる場合が多かったと言います。 歌川広重は、「棒鼻の図」を浮世絵に描いています。 十返舎一九は、「東海道中膝栗毛」に藤川宿の棒鼻の風景を次のように書いています。 「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿。、鉢、みせさきに ならべたてて旅人の足をとどむ、弥次郎兵衛“ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりと下がる 藤川の宿”(紫色と藤川宿の藤をかける。また、藤のぶらりと下がると軒毎に下がる蛸をかける。) これにより、宿をうちすぎ、出はなれ(宿のはずれ)のあやしげなる店にて休みて・・・」 むらさき麦と藤の花 藤川では、むらさき麦と藤の花が美しく、道中記や古歌に多く詠まれてきました。 ◇『芭蕉句碑』(十王堂境内) 「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 ◇『東海道名所記』 「宿を出れば、畑に高野麦とて、一種穂のむらさきなる麦の、はえてみえければ・・・」 ◇『幸亭』 「ふじ川の藤にゆかりの花なれや 麦のふさまでにほふ紫」 宿場のみやげ 宿場のみやげは、「からむし細工」のかんざし、綱袋、縄等でした。縄は、本宿の法蔵寺付近で つくられ、法蔵寺縄とも呼ばれていました。 現在でも本陣裏に自生しているからむしを見ることができます。」藤川宿の街道を振り返って。更に旧東海道を進むと進行方向右に立派な常夜燈が対で立っていた。 これは旧東海道の北200mほどの低山に鎮座する関山神社のもの。参道入り口の『村社 関山神社』と刻まれた石碑。御祀神は【天手刀雄命】【須佐之男命】【仁徳天皇】。創建は明らかではないが、宝永年間(1704~10)藤川城主・内藤弥次右ェ門長家が本殿を再建する、。元文4年(1739)2月・文化6年(1809)8月16日・天保9年(1838)4月・弘化2年(1845)9月・それぞれ社殿を改修の棟札を社蔵する。明治5年10月12日・赤山大明神を関山神社と改め村社に列す。同40年10月26日・供進指定をうける。同41年10月28日・字王子ヶ入りの須佐之男社・字一里山南の若宮八幡社を合祀した。同44年9月28日・社殿の大改修を行う と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線沿いに歩き、しばらく進み、「市場町」の交差点で左の道・県道327号線に入る。市場町の信号を越えた先に、市場村の解説と藤川宿の案内板が立っていた。『東棒鼻(ひがしぼうばな)』藤川宿の東の入口へ到着。棒鼻とは宿場の出入口を指す。『東棒鼻』「「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。」榜示杭『従是西 藤川宿』。『東棒鼻跡』「宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。」安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』 広重は毎年幕府から朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いています。絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、ここを棒鼻と呼ぶようになった。傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、 八朔とは、旧8月1日のことである。こちらが本物?の安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に参加した。図は藤川宿に差しかかるこの行列を迎える様子が描かれている。愛らしい黒赤二頭の馬。夕雲がたなびく。一行を迎えて犬まで座っているところが面白い。街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。道標『藤川』「京へ46里27丁、岡崎へ1里半、赤坂へ2里9丁、江戸へ78里29丁。」『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町』案内板。『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町 ~藤川の歴史と文化を訪ねて~』秋葉山常夜灯 宿場の出入口付近に、寛政7年(1795)に建立の秋葉山常夜灯が」現存しています。商家「銭屋」 問屋場跡から家数にして5軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや 旅人の姿を思い出させる味わいの深い建物です。脇本陣跡(藤川宿資料館) 脇本陣橘屋大西家は中町の東海道北側にあり、明治天皇御小休所の座敷もありました。 昭和30年に藤川村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。脇本陣で 現存するのは門のみですが跡地全体は岡崎市の史跡に指定されています。 現在は宿場町の模型等を展示した藤川宿資料館として利用されています。十王堂(芭蕉句碑) 元禄期に建立されたと伝えられる藤川の十王堂。 その境内には「ここも三河 紫麦のかきつばた」と詠んだ芭蕉の句碑が建てられています。 これは寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されています。棒鼻跡 平成4年に、棒鼻モニュメントが復元されました。東は国道一号との分岐点、西は藤川小学校の 前に整備されています。道標(吉良道) 東海道から左へ分岐する脇道を吉良方面へ通じる道「吉良道」と呼んでいます。 この道は塩の道として利用度の高い道でした。現在でも吉良道の道標が残っています。藤川の松並木 天保14年(1843)には、34間(「町」の間違い。約3.5㎞)の長さが続いていたと伝えられる 藤川の松並木。昭和38年に市指定の天然記念物になった際には、幹周り2㍍のクロマツ90本が 町の西はずれに約1キロに渡って東海道の左右に立ち並んでいたと言います。 『むらさき麦栽培地』「今から三百年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます。」国道1号線の下の県道327号線脇の『秋葉山常夜灯』。静かで落ち着いた道筋。棒鼻の冠木門をくぐり、細い道を抜けて右へ鍵の手に曲がり車道にもどる。『藤川宿の「曲手(かんねんて)』「地元の人たちは、この辺りを「曲手」(かねんて)と呼んでいる。曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。別名「桝形」とも言われている。藤川宿の曲手は、慶安元年(1648)に、三河代官が藤川宿東端に、約500mほどの街道を造り、地割りをして市場村の人々を移転させ、加宿市場村を設けたときに、その東はずれを意識的に道を曲げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から宿場町を守るためとか、道を曲げることによって、街道の長さをふやし、そこに住む人をふやしたとも言われている。この付近は、当時、道中記にも書かれて繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜灯(秋葉山灯篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影を止めている。」『市場町格子造りの屋並』『市場町格子造りの屋並』「藤川宿でも往時を偲ぶ町屋造りは市場町が一番です。格子造りの静かな佇まい、そして町民が町を愛する気持ちが伝わる町、総代始め町民が一体となり日本の歴史の足跡を残す町として現在も、何軒か残っております。」先に進むと右の津島神社標示の両脇に堂々とした常夜燈がどっしり構えていた。神社は奥の名鉄名古屋本線を越えたところにある。『市場町公民館(旧市場公会堂)』が写真左手に。分断する線路の先に『津島神社』の石鳥居。『市場町公民館(旧市場公会堂)』「建設竣工は大正6年7月、当時額田岡﨑地区では、現市の文化財である朝日町の公会堂が大正4年建設され、それにつぐ公会堂として百戸弱の町内で造ったことで評判となり絵葉書として残っています。当時としては小屋組みが合掌工法と云う近代工法を駆使した建物で町内に住する堂宮大工山田許一氏が主となり完成、百年後の現在も長い風雨に耐え、正確無比を誇る完全木造で津島神社の境内にあり社務所も兼ね町民の和と長い歴史を育んできた公民館です。」『市場町公民館(旧市場公会堂)』を正面から。連子格子の民家。江戸時代の商家銭屋の建物(写真)が残っていた。格子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるようになっている。類焼を防ぐために庇の両側に「軒卯建」がある。『藤川宿駐車場』祝日の翌日で休みなのか車の姿はなし。駐車場『定』。駐車場も「藤川宿」らしい趣。いろいろと工夫の跡が。『歴史に息づく住みよいまち』案内板。東海道の宿駅設定にあたり、人口が少ないため幕府は近隣の集落を移住させ細長い宿場町を造った。宿の町並みの長さは9町20間(約1km)に人口1,200人ほどの宿場だった。宿場に特徴がなく、宿泊客は両隣の赤坂、岡崎宿に取られていた。『東海道中膝栗毛』では宿の東西の棒鼻付近の茶屋の様子を「棒鼻の茶屋軒ごとに生き肴をつるし、大平皿、鉢を店先に並べたて旅人の足をとどむ」と紹介している。弥次さんはゆで蛸を食べたと。道路脇にはところどころに連子格子の民家が。『徳性寺』この寺も名鉄名古屋本線、国道1号線の北側に位置する寺院である。左手奥には『明星院(俗称 ほうえんさん)』が。現在は真言宗醍醐派。入り口の緑の門から本堂も垣間見えた。この緑の門は、イヌマキの生垣だと。参道そして境内には『片目不動尊』の幟が並んでいた。『片目の不動尊』『明星院』の本尊は不動明王立像で、「片目の不動尊」と呼ばれ、永禄5年扇子山の戦いで敗走する家康をかばい、矢を受け片目となったと伝えられている。本尊の片目不動尊にはこんな逸話がある。永禄5年(1562)、戦況が劣勢になった家康の背後から白衣の武者が現れて次々敵を倒してゆくので、誰かと考えていると敵の矢が白衣の武者の片目に刺さり、武者は消えた。戦さに勝利し、帰りに明星院に参拝したら、本尊の不動尊の目に矢が刺さっていた。家康は先の白衣の武者が不動尊とわかって、以来崇拝したという。『本堂』。明星院は、真言宗醍醐派の寺院で、三河新四国三十三番・三十四番札所になっていると。一か所なのに何故二つの番号が有るのかと不思議だったが、本堂が三十三番札所で、向かって左側にある「神変大菩薩」の堂が三十四番札所と。『明星院(俗称 ほうえんさん) 現在は真言宗醍醐派』。「元々明星院は愛称ほうえんさんで親しまれ、元来、方位学・易学等を主とする密教系寺院で創建は不明であり、市場と共に加宿市場に来たと伝えられている。ただ、幕末から明治初頭にかけて寺小屋を営み、日本の近代化に先がけ藤川学区の教育の芯をなした学問処であり、今も筆子塚等の足跡が見られ、それにまつわる文書等も現存している。醍醐派に転宗は歴史的に新しく、明治以来建学の精神が受け継がれている。」『岡崎市指定文化財』 ・絵画 那智参詣曼荼羅 一幅 ・工芸 蔵王権現懸仏『明星院』案内板。『大聖殿行者堂』。中央に「神変大菩薩」像。神変大菩薩は役行者、役小角とも呼ばれ、弘法大師空海が、真言密教を開く前から密教の修行をされた偉大な行者さんで、真言宗の中でも特に醍醐派では大切にされている行者。醍醐派を開かれた聖宝理源大師は、修験道を大切にされた方で、恵印灌頂、伝法灌頂と二つの法流を大切に守ってきているのだと。『筆子の塔』『筆子の塔』「明星院の寺子屋で学んだ子どもたちが大人になりお師匠様を偲んで建立した。二代目のお師匠様の塔には百八十名の子どもたちの名前が刻まれている。」『法篋印塔復元』石柱。『三佛堂』『扁額』。中央に『観世音菩薩像』。右に『地蔵菩薩』、左に『文殊菩薩』。『招福堂』『開運招福の大黒さま』「渓流釣りに行った村人が中洲に埋もれていた大黒さまを見つけ、大切にお守りしたところ、村人はいつも思いが叶い幸せに暮らすことができた。「幸せをひとり占めにしてはいけない」と思い、明星院に納め開運招福の大黒さまとして祀られている。」中央に『大黒様』。『寺子屋跡』の立て札が民家の前に。『寺子屋跡』「寺子屋は平屋造りで八畳一間と一間幅の廊下があった。・午前は七・八歳から十歳まで・午後は十歳から十二・三歳まで の四百人ほどが学んでいた。」『藤川宿高札場跡』の立て札の新旧が。『藤川宿高札場跡』「この高札場跡は藤川宿と市場町との境にあり明治21年新政府地積作成に当たり、本来三間四方あり、大きな高札場であった。加宿後、棒鼻は移動したと思われるが高札場はそのまま幕末を迎えたと思われる。ことに特異なことは地積公園を作るに当たり、藤川と市場との字界(境界線)設定につき、地元両町にて高札場を二つに割り、また東海道も道路中央で鍵状に割った特異形状となっている。長年経過のうち代替地等で民間地となり現在も残っている。」『藤川宿の高札場跡』「「高札」とは、立て札ともいい、法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものであった。藤川宿の高札場はここの場所にあり、記録によると「一、高札場 高(たかさ) 壱丈(いちじょう) 長さ 弐間半(にけんはん) 横 壱間 」とあり、規模の大きい、広い場所であった。ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚あったようで、大きいものは横23センチ、縦53センチもあり、もし当時あったものを八枚並べるとすれば、正面に横二面ずつ、四段に掲げて常時掲揚していたのであろうか。現在保存されている高札は六枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、内、三枚は資料館に掲示してある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次本来の旧東海道は名鉄名古屋本線側にあったのだが、短い距離であったので並行して走る国道一号線を歩く。国道1号線沿いにコスモス畑が拡がっていた。『舞木町東』交差点手前を左に入った場所にあったのが『順念寺』の『山門』。扁額は山号の『法隆山』。『鐘楼』『鐘楼』の横に本堂の先代の『鬼瓦』。『本堂』。『真宗大谷派 法隆山 順念寺』。愛知県岡崎市舞木町字阿形37-2にあり名鉄名古屋本線 名電山中駅から0.6kmの場所にある寺。住職の女性が赤い高級車で到着し降りて来た。そして更に国道1号線を歩くと、左手前方の田んぼの先に朱の鳥居が見えて来た。そしてその参道手前には巨大な常夜灯が。国道1号線の『毎木町西』交差点を左折。実はここで旧東海道が国道1号線に合流していたのだ。『御開運御身隠山』と刻まれた石碑。大常夜灯に向かって田んぼの中の道を歩く。天保四年(1833年)建立の『大常夜灯』。『山中八幡宮』の朱の鳥居。文武天皇三年(699)この地の長(おさ)山中光重が、九州宇佐八幡宮のお告げを受け、山の嶺にかかった祥雲から舞い下がった榊にこもった神霊を祀ったのが始まりと伝わる。右手の『山中八幡宮』社号標には大正12年とありました。『山中八幡宮』。「家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。例年正月三日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。」デンデンガッサリの名で当宮に古くから伝わるのは、いわゆる「御田植神事」である。古来旧暦正月三日の夜行われていたが、昭和初期から新暦正月三日の午後に行われるようになった。神事は、前歌・後歌・科白・所作に分かれ、稲の豊作を祈願する。最後に餅投げが行われ、この餅を食べれば夏病にかからないと言われていると。石橋を渡り『山中八幡宮』境内へと。橋の名は『御神橋』。『山中八幡宮』のクスノキ。主幹が二股の巨大なクスノキがご神木。『岡崎市指定文化財 山中八幡宮のクスノキ』。「胸高囲6.6m、根囲10.8mの巨樹である。樹勢旺盛、樹形も整い樹高21mと壮大な姿を見せるクスノキとしては、市内第二の大きさを誇るばかりか、県下でも稀有な存在である。国道1号線や名鉄電車内からも望見できる巨樹として、本市の東部をシンボライズする名木である。」『愛知県山中八幡宮自然環境保全地域』案内板。「山中八幡宮は、岡崎市の南東部の舞木町に位置し、標高106mほどの小さな丘を中心とした社叢5.5haを自然環境保全地域に指定しています。植生●ツブラジイの常緑広葉樹林の社叢としては、県内では規模が大きく、その構成種の中には、県の絶滅危惧種であるルリミノキやオオフユイチゴの群落があります。野生動物●昆虫では、県の準絶滅危惧種であるオオゴキブリが生息しています。また、本社叢は、「ヒメハルゼミの生息地」として岡崎市の天然記念物に指定されています。」石段を上り本殿下の苔むした境内へ。更に階段を上る。正面にあったのが『塵取門』。右手に『手水舎』と奥に『拝殿』が姿を現す。途中にあったのが『百度石』と刻まれた石柱。社寺の境内で、百度参りの往復の標識として立てられている石。『拝殿』。当地に山中光重という人があり、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。敷地内に「鳩ヶ窟」(はとがくつ)と呼ばれる洞窟があり、永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった。慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進された。寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝。『拝殿』に近づいて。祭神は応神天皇、比咩大神、息長足姫命。『拝殿』横から『徳川家康と山中八幡宮』の関係は以下と。■竹千代の誕生天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。■家康の初陣(十七才)弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。■鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。■葵御紋寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。『拝殿』奥の『本殿』。『本殿』をズームで。境内の竹の群生箇所。『御開運竹』「永禄6年(1563)一向一揆の折、徳川家康公 鳩ヶ窟において難を逃れ、神前に開運を祈り矢をこのところに挿し退化せり。この矢根芽を生じ生育せりと伝う この竹四時たけのこを生ず。」『雲居乃錦』と刻まれた石柱。拝殿本殿裏の小さな『境内社』の『神明社』。『愛知県山中八幡宮自然環境保全地域 特別地域』「この地域内では野生の動植物を採取することができません。また、現状変更行為(木竹の伐採、工作物の新改築、土地の開墾など)を行う場合は知事の許可が必要です」岡崎市指定文化財 天然記念物『山中八幡宮のヒメハルゼミ生息地』。暖地系の種であると『ヒメハルゼミ』👈リンク が生息しています。本種は「生きた化石Jといわれ、大古この地域が暖帯照業樹林で覆われていた頃から生き残っている種で、現在では当時の林相が残されている地域のみに生息する貴重な昆虫です。『奥宮神社』に向かって更に進む。ご本殿から5分ぐらいで到着。『奥宮』『奥宮神籬(ひもろぎ)』。神籬(ひもろぎ)とは、神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの。 そして帰路に『鳩ヶ窟』を訪ねようと思ったが場所が解らずIPHONESを駆使して探し漸く見つける。永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった と。この洞窟に身を隠したのだと。『鳩ヶ窟』石碑。『徳川家康公 御開運の鳩ヶ窟』と刻まれた石碑。『鳩ヶ窟』を振り返る。『拝殿』に向かう際に見落とした案内板がこれ『鳩ヶ窟』。そして『山中八幡宮』を後にし、国道1号線に向かう。『名古屋鉄道 舞木検査場』。名鉄名古屋本線は低地を走っているが、舞木検査場は一段と高い所に。10月12日、台風19号による千曲川の堤防決壊で水浸しになった北陸新幹線の長野新幹線車両センター(長野市)。最新鋭の車両が並んで水没した光景に、衝撃が広がったが、これは完全に設計ミスと熱く語る旅友。前方の如き高台に長野新幹線車両センターは設置すべきと。私も珍しく??旅友の意見に同意。HOTEL Antoinette -SPA RESORT- (ホテル アントワネット) 『LOVE』の看板が建物に。そして左側には『山中八幡宮』へ上る階段がここにも。「旧山中郷の郷社であります。山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われまた古墳の跡とも云われています。元来、市場町は本氏子として八幡宮の東麓に住したが、藤川宿へ加宿以来、徐々に粗縁となり現在に至っています。残念に思います。そして、その証として立派な神輿、郷蔵も移築以来、市場町で管理しています。そして、三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名です。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の本宿・岡崎市本宿町南中町を進む。本宿町中集会所の門柱に『不動院』の表札が貼られていた。本宿町中集会所の建物と塀の間に覆屋があり、石仏・石塔が安置されていた。左手に元禄3年(1690)の西国三十三所観世音菩薩と刻まれた『順拝供養塔』。右手に元禄10年(1697)の観世音菩薩と刻まれた『常夜燈』。覆屋の下の中央に『如意輪観音』、左に『青面金剛の庚申塔』、右に『地蔵菩薩』が。右手の民家の大谷石の塀には『本宿古城(もとじゅくふるじろ)』案内板が。「本宿古城(古くは山中古城ともいう)は鉢地川沿いに築かれた東西約76m南北86mの平城であった。城主の松平権兵衛重弘が岡崎城主松平廣忠(家康公の父)に背いたため天文16年(1547)11月徳川廣忠軍の攻撃を受け、激しい戦いの末落城。城跡は名鉄、国道一号、東名の工事により形を留めず往時を偲ぶのみである。」右手の空き地の先には名鉄・名古屋本線が。左手、この坂道を登った場所にあったのが『本宿陣屋跡』と『代官屋敷跡』。工事中の為か、下記の案内板は一時的に撤去されていたようであった。案内には、「元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。 以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。」 と記されているようだ。 【https://ameblo.jp/kyomokansya/entry-12390659464.html】より。坂道を50mほど上って行く。すると突き当り右側の目の前に立派な石垣が。左手にあったのが、『代官屋敷』を改装したイタリアンレストラン「ユギーノ・ユーゴ(Yughino Yugo)」。『代官屋敷』の蔵跡は『郷土史資料展示室』になっていた。旗本柴田氏知行所の冨田家住宅(本宿旧代官屋敷・土蔵)が文化庁の登録有形文化財に登録されていると。柴田家家臣として代官を務め、維新後は代々医業により地域に貢献してきた旧家。汚水マンホール蓋には岡崎城とやはぎはしのデザインが。坂道を下り旧東海道へ戻る。こちらにも案内板が。本宿の『本宿陣屋跡』と『代官屋敷跡』が現在では『富田病院』になっているのだった。旧東海道に戻り進むと、左手に日本レトルトフーズ株式会社の『景観重要建造物』があった。建物に貼られたプレートには、「神谷合名會社」「日本レトルトフーズ株式会社」と記されていた。昔は二階で味噌をつくっていたとのこと。日本レトルトフーズ株式会社の斜向かいに建つ『火の見櫓』が青空に突き刺さっていた。『火の見櫓』の下に『本宿村道路元標』が。「旧道路法(大正9年4月1日施行)によって、各市町村に一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました」『秋葉山常夜灯』。道路元標の隣のT字路角に寛政13年(1801)の秋葉山常夜燈が建っていた。『本宿東海道めぐりMAP』「参勤交代の大名も下乗して参拝した法蔵寺」と。更に旧東海道を本宿駅方面に向って進む。左手民家の前に立て札が。『十王堂跡』。「街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。玄関ガラス扉から十王像がのぞけます。本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和62年岡崎市文化財に指定された(非公開)」。左手奥にあったのが『欣浄寺(ごんじょうじ)』。浄土宗西山深草派に属し、山号を「林光山」、院号を「厭離院」、寺号を「欣浄寺」と称する寺。『本堂』。「ご由来法蔵寺第8代融翁洞文上人は永禄5年(1579年)より18年間在住したのち、53歳で天正7年(1579年)、洞元山の麓に庵を結んで隠栖しました。ここは、鉢地川を隔てて法蔵時本堂が正面に展望できる閑静な場所で、念仏三昧の隠居生活には絶好であったといわれます。これが欣浄寺の始まりでとのことです。東海道が開かれたのち、庶民が参拝するのに不便な地であったため、享保7年(1722年)、第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地に移転し、堂宇を再建しました。幕府旗本の柴田家は信仰篤く、5代にわたる位牌を当寺へ安置しています。近隣の十王堂との結びつきも強く、禎空祥善上人は、弘化3年(1846年)本尊地蔵菩薩を再興し、衣香寺開山と称したそうです。戦後、本宿村公民館西分館を兼ねて本堂を再建し、十王堂が境内に移転されました。現在は十王堂は元の位置に戻っているそうです。」とパンフレットから。扁額『欣浄寺』。本堂内部。ご本尊『阿弥陀如来坐像』境内の地蔵尊。境内の楠の老木。『開運パワースポット』と。日露戦捷記念に植樹されたものか。先代の本堂の鬼瓦も。『岡崎市指定文化財「彫刻 木造地蔵菩薩坐像 一躯」案内板。欣浄寺の本尊である木造地蔵菩薩坐像は、寄木造玉眼崁入(ぎょくがんかんにゅう)で岡崎市指定文化財になっている。かつては、東海道沿いの十王堂の本尊として安置されていた と。『名鉄名古屋本線の本宿駅(もとじゅくえき)』が右手奥に。手前を国道1号線が走る。『本宿駅前にある旧本宿駅舎のモニュメント』蒲郡観光の玄関口として蒲郡ホテルのデザインを取り入れた駅舎。1/3模型が駅前に展示されていた。撮影に行きたかったが国道1号線がありズームアップにて。そして今回の帰路に立ち寄ったのであったその横断地下道には東海道分間延絵図・三州額田郡本宿村絵図が描かれていたのであったが・・。更に旧東海道進むと、右手前方に石柱が見えた。『旧東海道本宿一里塚跡』。ここは江戸日本橋から数えて、78里目の一里塚である。十字路の先左手に無宗派(単立)の『楊珠院』があった。『薬王山 揚珠院』。創建年代等は不詳であるが、本尊は薬師如来。街道に建つ寺標の脇に『地蔵祠』があった。『宇都野龍硯邸跡と長屋門』『宇都野龍硯邸跡と長屋門』「本宿村医家宇都野氏は、古部村(現岡崎市古部町)の出と言われ、宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。安政年間、当時としては画期的な植疱瘡(種痘)を施している。『長屋門』。松並木の先で国道1号線に合流する右手に『東海道道標』があった。道標には、「右東海道 左国道一号」 と刻まれていた。傍らには常夜燈と本宿村の歴史解説板『是より東 本宿村』が建っていた。『是より西 本宿村』と前半は同じ内容か。「この辺りは、山綱村、市場村との村境であり、往古の駅家(うまや)はこの付近といわれている。村絵図からは往還筋両側とも家居はなく並木松が続き、南山裾にかけて山綱村の入会地であった。字平五沢は荻野流、高島流の砲術家でもある代官冨田牧太が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集したと記述されている。家居の西端に幕末期蘭方医として三河の先駆者であった宇都野氏の長屋門造りの屋敷があった。この辺りから上衣文(かみそぶみ)村を経て宮崎村に至るおよそ三里程の山家在道があり、山地との交流に欠かせない道であった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『法蔵寺』の参道を進む。境内入口から本殿までまっすぐ参道が伸びていた。『法蔵寺』。「浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号し、本尊は阿弥陀如来像。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳2年(1385)京都円福寺より来往した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時法蔵寺と改められた。江戸時代には、東海道に接していることから、参拝者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。家康が幼児この寺で勉学したとされ徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。以下略」『岡崎観光きらり百選 No26 法善寺』の看板。「大宝元(701)年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、嘉慶元(1387)年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われています。家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存しています。桶狭間の合戦以後、家康は法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られています。」『掲示板』。朱の欄干の橋の下を『鉢地川』が流れる。橋の名は『来迎橋』。『来迎橋』手前左の石碑には浄土宗の『南無阿弥陀仏』?と刻まれていた。『来迎橋』を渡りながら『鉢地川』を見る。正面に『山門』、左手に宝形造の『地蔵堂』が。『地蔵菩薩像』か?『山門』貫まで袖壁が設けられた薬医門の山門。門を車で通り抜けできるという事は、今まで見てきた薬医門の山門の中では規模が大きい山門。山門には『浄土宗西山深草派 檀林 大神光 二村山 法蔵寺』と。『法蔵寺』の『山門』には狛犬の彫刻が掲げられていた。山門を超えて石段の参道が続く『二村山 勝徳寺』の山門が右手に。「三河新四国霊場三十六番札所」の幟が立っていた。『二村山 勝徳寺』本堂。『賀勝水』。徳勝寺の対面にあり、竹千代が手習いの際にここから水を汲んだといわれいる『賀勝水』と呼ばれる湧き水とのこと。寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じて巌を突くと冷泉が湧き出したので勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝ゝ」と三度唱えたと伝わる と。『ムラサキツユクサ(紫露草)』であろうか。階段上の『鐘楼門』を見上げる。ここ法蔵寺には、三河海岸大師霊場を巡礼するとよく見かけるという一間鐘楼門が石段を上がった先に建てられていた。『本堂』。入母屋造瓦葺平入の向拝が設けられた本堂。高覧のある濡れ縁も設けられていた。また、向拝が三間幅(柱が四本)と広く設けられている本堂。『本堂』に近寄って。『本堂』内部は色彩豊かに。御本尊『阿弥陀如来像』。『本堂』前から『鐘楼門』を見る。『法蔵寺境内案内図』本堂左手の入母屋造妻入りの『太子堂』。三河三十三観音霊場十二番礼所 法蔵寺。『太子堂』の裏には『六角堂』が。大宝二年、行基がこの地を訪れた時、輝く杉の大木を見つけたという。すると突然現れた瞳子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて安置したと。現在の六角堂は、山頂にあった六角堂が大風により倒壊してしまった為、本堂脇に移築再建したもの。『新選組隊長 近藤勇首塚』と書かれた真新しい立て札が。『近藤勇』像。そして首塚台座になっている石に刻まれた氏名、建立の年のところだけ、判読出来ない。土方歳三 戸村静一郎 小笠原新太郎 内田良太郎 鈴木万之助 佐藤善二郎 鈴木源兵衛 菰田幸之助 松下信三郎 市原鐘太郎 太田政一郎 世話人 清水三右エ門、堀川廉之助慶応?年 建立者 内山勝行『近藤勇首塚の由来』。「新撰組隊長近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。また、勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。」なんとか読み切り書き込みました。更に坂道を登っていくと見えてきたのが『東照宮』、そして手前には『三方ヶ原合戦忠死者の墓』が。『松平家御霊廟と三方ヶ原合戦忠死者の墓』。『松平家御廟』家康公が父の廣忠公(慈光院)をここに内葬し、のちに大樹寺に本葬。また、家康公により三方ヶ原の戦いの戦没者もここに祀られている中央の松平廣忠公の五輪塔の墓を中心に松平氏の墓が並んでいた。亀姫(加納御前。家康の長女)の墓。永禄3年生。母は築山御前。天正4年7月奥平信昌に嫁ぐ。寛永2年(1625)5月27日に夫の領地の美濃加納(岐阜県岐阜市)で逝去。誠徳院。徳川家康が九死に一生を得た戦いの一つとされる三方ヶ原の戦いで戦死した武将の墓も名前が添えられて。『東照宮』徳川家ゆかりの東照宮や寺院といえば朱塗りの建物に色鮮やかな彫り物達が想像するが、ここ法蔵寺内の東照宮もまさにそんな感じの建物であった。入母屋造の大屋根に切妻破風が設けられ、さらに向拝が設けられており、その向拝の屋根には唐破風が設けられるという、屋根装飾がこれでもかと取り入れられた本殿。『法蔵寺山内 東照宮』。「■由緒寺伝 御太祖源頼義公 御父子勅命東國御下向の節富山に御参詣有 御子義家公(號 八幡太郎) 両度の御下向御参詣 戦勝御謝恩の為 難事闘戦御勝利の御甲冑御供養の御儀奉る 始祖松平親氏公 三河渡御の折御武運御勝利を御祈願 御手自ら 正八幡之神像を御彫刻 當寺に御宮を御建立され 義家公御甲冑と 御神像を御宮に御遷座奉り 松平御當家の守護神とされた 松平元康(後の家康公)岡崎ご在城の砌 所々ご出陣の節は勿論 平日共に御開運御祈祷を仰付の為 當寺教翁洞恵上人弟子の教山坊 に命じ 元康様初陣御甲冑の御木像を彫刻安置 御供養の御神体は 御相宮にて御遷座 臨時長日共御後裔様御治国平天下の御祈願奉る 御宮は変遷を重ね のち「東照宮」と改められ現在に至る■本殿入母屋 銅板莓 唐破風 極彩色文政 三年(1820)修覆される文政 四年(1821)御遷座平成十一年(1999)大修覆された神前寶鈴「東照宮 元禄元年(1688)」の銘がある神前實鈴が現存する元禄期 御宮は既にこの地に遷座していた神額文政十二年(1829)旗本柴田氏 本宿陣屋代官富田群蔵常業の 願いにより 神祇伯白川雅寿王の染筆である■旗本と御鏡講文化十二年(1815)旗本石川左近衛将監忠房 御宮荒廃を慨嘆 修覆基金「御鏡講」旗本有志の賛同を得て設立する神前には旗本大御番組寄進の奉献石造物が数多く現存している」法蔵寺境内を望む。手前に本堂と回廊で繋がっている『六角堂』が。『東照宮』への階段を振り返る。階段下の鐘楼を入れて。『太子堂』、『六角堂』の屋根越しに『東照宮』を見る。天然記念物 『法蔵寺のイヌマキ』根元近くの幹には、腐朽により空洞があり、年代の古さを物語る。下枝は横に長く伸び、樹冠の拡がりなど自然の樹姿で。『岡崎市指定文化財 天然記念物 法蔵寺のイヌマキ』樹齢1200年、樹高13.0m、幹周2.6m、根周4.0m、枝張り15.0m。行基菩薩が当寺を開創した際に植えたといわれ「行基の開山槙」と称されている。御朱印を頂きに『納経所』へ。『納経所』内部。『納経所』の天井の丸太梁材に歴史を感じるのであった。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線に沿った旧東海道を間の宿『本宿』に向けて進む。豊川市コミュニティバス音羽線『大榎橋』バス停前を通過。そして旧東海道は関屋交差点で国道1号線に合流。左手の工場の小さな建物の中にあった、不思議な形の樹の根が美しく磨かれた巨大な置物が。道路脇には、北アメリカ原産の帰化植物である「セイタカアワダチソウ」の群生地が。もともとは観賞用に導入されたとの説もあるが、急速に広がったのは第二次世界大戦後。蜜源植物として優秀であるので養蜂業者が積極的に種子を散布したとの話もあるのだ。右手には、名鉄名古屋本線が。日本橋からの距離は314.1kmと。これぞ円周率『π☓100』。漸く豊川市に別れを告げ岡崎市に入る。本宿町深田交差点にあった「本宿(もとじゅく)」の石碑。『自然と歴史を育むまち 本宿』。前方に『本宿 案内板』が。『是より西「本宿村」 藤川宿へ壱里』の長文の案内板。「本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前を中心に町並が形成された。鎌倉街道 は東海道 の南、法蔵寺裏山辺りを通り、鉢地から宮路山中へと続いていた。近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿 の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。享和二年(1892)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁余、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。東海道中膝栗毛 に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて法蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻縄(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康公が食したといわれる当地独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。往還南に大宝元年(701)僧行基 開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康公幼少の頃のゆかりの寺として近世を通して下馬の寺であり、往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。そのた、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜燈などが往還筋に設置されていた。慶応四年(1868)柴田勝誠 が新政府に提出した高取調帳には、村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。明治七年(1874)の額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋二、茶屋七、当時の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南は鉢地村道、北は衣文山道である。鉢地村道は、鉢地川に沿って南へ進み、山越えをして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。近代に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流に欠かせない道となった。また、竹島弁財天詣での信仰の道でもあった。衣文山道は、往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。」地図をズームで。江戸時代の街並み、旧東海道、法蔵寺等が描かれていた。本宿碑の直ぐ先に常夜燈と冠木門があった。ここが本宿の東の入口。いずれもモニュメントであるが、ここは本宿の江戸方口(東口)である。この辺りは旧東海道、国道1号線、名鉄名古屋本線、右側には東名高速道路と交通の要衝地である。『新箱根入口』交差点。ここから蒲郡に抜ける国道473号線が箱根の風景に似ているということで、戦前の一時期ちょっとした観光地になったと。今ではその名残はこの交差点の名前だけ。そして前方に旧東海道(左)の分岐点が。東海道道標・常夜燈・本宿解説が設置されていた。この左手から本宿の集落へ入って行く。左から『東海道道標』・『本宿解説』・『常夜燈』。『本宿の歴史と文化をたずねて』。「法蔵寺(二村山浄土宗西山深草派)大宝元年(701)僧行基 の開創といわれ、法相宗出生寺と号したが、至徳二年(1385)京都円福寺龍芸教空上人により、浄土宗に改め法蔵寺と改称した。浄土宗三河三檀林の古刹である。松平氏初代親氏をはじめ、代々の松平氏の帰依深く、諸堂宇を寄進されている。また勅願所、足利義教 の祈願所ともなっている。近世は家康公お手習いの寺として、江戸期を通じて門前下馬を与えられた。慶応四年(1868)新政府に提出した高取調帳には朱印高八十八石余(本宿村七十九石余、鉢地村九石余)と報告している。本堂は嘉慶二年(1388)松平親氏建立、明治十年(1877)に改築された。寺内史跡六角堂 寺伝によれば弘法大師 建立とある。本寺聖観音像は平安末期の作といわれている。嘉慶二年(1388)龍芸 が再建した。堂内安置の六観音像もこの頃の作である。東照宮 創建は江戸前期、本殿入母屋造り、銅板葺。現存の石造物は、旗本大御番組番士の寄進である。神額「東照宮」は寛政十二年(1800)代官冨田群蔵の願いにより神祇伯白川雅寿王 の染筆である。現本殿は、平成十一、十二年に修復された。その他 草紙掛松、賀勝水、松平家堂廟、三方ヶ原忠死者の墓、県市指定文化財、天然記念物、寺宝等がある。近藤勇首塚 新撰組隊長近藤勇 の首塚である。台石には土方歳三始め十一名の隊士名が刻まれている。本宿陣屋跡 元禄十一年(1698)旗本柴田出雲守勝門(三千五百石柴田勝家末裔)が知行所支配のため設けた。以後明治に至るまで存続した。陣屋代官は本宿冨田家が代々就任していた。一里塚跡 南塚、北塚とも榎が植えられていた。宿村大概帳によれば江戸方七十七里余、京方四十七里余、赤坂一里九丁、藤川一里とある。その他史跡 高札場跡、本宿村道路元標、旧本宿村役場跡、蘭方医宇都野家長屋門、並木松。」旧東海道を進む。本宿の集落に入って間もなく、左に右に連子格子の旧家が建っていた。写真の旧家の向かい側が法蔵寺である。左上に、三河新四国、35番 法蔵寺、36番 勝徳寺の案内板が。街道沿いに無人販売所「草創園芸」があった。『マコモダケ』1袋 100円 と。「名前だけ聞くとキノコの仲間を想像しがちだが、水辺で育つイネ科の植物マコモの若い茎が肥大化したものです。外皮をむいた白い部分を食します。見た目も食感もタケノコに似ています。クセがなく、生でも食べられますが、加熱すると甘みが増します。油との相性も良いので、炒め物や天ぷらにしてもおいしいです。」とネット情報から。こちらが『マコモ』。 【https://konohana-family.org/2019/04/12/wild-rice/】より『御草紙掛松』。法蔵寺の入口に御草紙掛松があった。こちらが『御草紙掛松(おんそうしかけのまつ)』。現在の松は2006年3月に植えられた4代目だと。周囲の石柵は文化12年(1815年)に寄進された物とのこと。「寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだといわれる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。代々受け継がれてきたが、平成十七年八月、虫害により枯れた。その後「慣れ親しんだ松を後世に伝えよう」と、地元有志「もづく会」の手により、平成十八年三月、四代目の松が植樹された。周囲の石柵は、文化十二年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。」『法蔵寺団子の由来』。「この団子は、法蔵寺門前の茶店で売られていたことから「法蔵寺団子」と呼ばれるようになった。本宿村方明細書上帳(享和2年・1802)に「此ノ村名物ハ早縄並餅団子・草鞋ニ御座候。」また、参河聡視録(みかわそうしろく)本宿村記(嘉永2年・1849)にも「法像寺辺り前後茶店ニテ餅ニ醤油ヲ付テ炙リ売ル 名高シ。」と書かれている。以後、昭和の初めごろまで売られていた。この団子の特色は、一本の串に指で押し平たくした五個の団子を炙り溜りで味を付けたものである。この独特の風味が、近郷近在はもとより、東海道筋の名物団子として、評判となったのである。」旧東海道は鉢地川に架かる『法蔵寺橋』を渡り更に西に伸びていたが、ここを左折し『法蔵寺』を訪ねたのであった。この橋は大正9年(1920)10月に架け換えられたものである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『開運毘沙門天王尊』音羽中学校を過ぎると、右手の細い路地角に開運毘沙門天王尊碑が建っていた。昭和8年(1933)建立で、「開山三百年記念・御嶽教心願講心巴組先達鈴木富象」 と刻まれていた。開運毘沙門天王尊碑の先は、左手に山が迫り、車は殆んど通らない長閑な一本道であった。長閑な街道を進むと、所どころに連子格子の立派な旧家が建っており、往時を偲ばせていたのだった。『大永山 栄善寺 寺標』。左手に山が迫ったところに浄土宗西山深草派の『大永山 栄善寺 寺標』が建っていた。栄善寺は、文永9年(1272)派祖証空善慧上人二世法孫円空立信上人の創立した寺。石段の右側に二つの石室があり、石仏が祀られていた。境内へ上がる石段脇には、役行者・馬頭観音などがあった。役行者は何故か全身が黒く塗られていたが・・・。平安様式という自然石の石段と言われる草の生えた石段を上ると質素な御堂があった。栄善寺は、1272年、円空上人の創立で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説があるとのこと。この寺は無住であり、鐘楼に梵鐘が無く寂れた感が溢れていた。『八王子神社社標』街道に戻って先に進むと、左手筋角に『八王子神社社標』が建っていた。八王子神社の創建年代等は不詳であるが、永禄10年(1568)6月に上八王子の音羽川の辺りにあった社地から現在の地に移されたという。鳥居の先から急な苔むした石段が。石鳥居には『八王子神社』と書かれた扁額が。『洞泉寺』帰路の突き当りを右に入ると、廃寺となった『洞泉寺』の跡地が?本堂の姿もなく、寂しい光景が。旧東海道を進むと、音羽川の手前のガードレール前に、『一里山庚申道道標』が建っていた。道標の下部は地中に埋まって、「是ヨリ」 までしか見えていない。一里山は、一里塚を言うので、この先の長沢の観音堂かその先の庚申堂らしき建物を指しているのであろうか?道標の直ぐ先で、音羽川に架かる八王子橋を渡り、県道73号線(三河湾オレンジロード)の高架をくぐり、まばらになった家々の間の街道を行く。『八王子橋』。前方左手に木柱が姿を現す。『長沢一里塚跡』。長閑な街道を進むと、左手の畑の前に『長沢一里塚跡』が。江戸日本橋から77里目(約302km)、京三条大橋からは41番目(実測で約202km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)の一里塚。両塚とも現存せず。道標の上に、「分間絵図」が描いてあり、それによると、両側に一里塚が造られ、右の一里塚の手前には、御料傍示杭が描かれていた。長沢小学校の構内手前の角の石垣手前にあった『長沢城跡』案内板。「長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、中世において戦略上重要な位置であった。東海道を挟んで南(御城山山頂)に?略寺城跡、北(古城団地)に長沢城跡がある。長沢城は、東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なもので、主郭の前面を土塁や二重の堀が巡り、南側に出入り口があった。現在は宅地化されて、堀の一部をわずかに残すのみである。また、寛永11年(1634)家光上洛のときに休憩所として建てられたといわれる御殿が長沢小学校敷地内にあった。」『長沢城址の図 元禄12年』。右手にあったのが『豊川市立長沢小学校』。左手にあったのが長沢小学校のプール。『プール使用のきまり』が丁寧に、易しく。児子社社標』旧東海道を先に進むと、右手筋に児子社社標が建っていた。この参道は国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されているようであった。児子社の創建年代は不詳であるが、明暦2年(1656)の棟札が残っているという。直ぐ先の誓林寺前バス停の手前で街道が右にカーブする所に『庚申堂』らしき建物があり、建物前に地蔵尊が建っていた。祠のない『地蔵尊』『誓林寺』街道を曲がると右手に浄土真宗本願寺派の『古谷山誓林寺』の山門があった。『本堂』。誓林寺は、源氏の武士・高梨高直が親鸞聖人の弟子となり、山中村に草庵を建てたのが始まりと言われる。その後、ここ音羽の地に移り、領主松平氏により山号を古谷山と改めた。現在の本堂は、文政7年(1824)に建て替えられたものであると。前代の本堂の鬼瓦であろう。可愛らしい豊川市コミュニティ 音羽線バス停『誓林寺前』。音羽川に沿って旧東海道を進む。このあたりの旧東海道は交通量も少なく。『巓(だけ)神社』。誓林寺の先で十字路を渡ると、右手筋の角に巓神社社標と寛政10年(1798)の秋葉山常夜燈が建っていた。巓神社の参道も児子社と同様、国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されていた。巓神社の創建年代等は不詳であるが、宝徳元年(1449)の棟札が残っているという。民家の前の花壇には花々が植えられて、楽しませてくれた。街道を進むと、やや上り坂の左手に連子格子の旧家がいくつか並んで建っていた。かなり狭い旧東海道を進む。『観音堂跡』。更に進んだところに建つ連子格子の家の前に観音堂跡があり、観音菩薩・馬頭観音・歌碑などの石造物が建っていた。 歌碑は弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の念仏供養のため糟谷磯丸に歌を依頼して建てたものと言われていると。最奥にあった石仏をズームで。『磯丸 みほとけ 歌碑』?と書かれた石柱。磯丸とは、糟屋磯丸のことで、伊良湖村に生まれた漁師で、漁夫歌人と呼ばれた。一生を通じ数万首の和歌を詠じたといわれている。この碑は、観音堂の庵主が、落馬して亡くなった旅人の供養のため建てられたのだと。『観世音菩薩』と刻まれた石碑。カーブする所右手に、『秋葉常夜燈』と対の祠の中には『石仏』が安置されていた。安政6年(1859)の『秋葉常夜燈』を正面から。地蔵堂・観音堂が一対で建っているようだ。堂の中には『石仏』が。観音堂の『石仏』。地蔵堂の『石仏』。唯心橋で音羽川に流れ込む枝流の千束川を渡河。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『見真大師・聖徳太子 御奮跡』の石碑の横を折れ、左に進むと正面に見えて来たのが『正法寺(しょうほうじ)』山門。境内の『鐘楼』。『本堂』。正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている。弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山した。当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗している。本堂扁額の『正法寺』。寺宝が多く、鎌倉時代に製作された絹本著色釈迦如来像が愛知県指定文化財に指定されている他、室町時代に製作された十三仏唐画、室町時代に呉道子が筆した十三仏画像、江戸時代に制作された関白草紙、江戸時代に製作された業平涅槃之図、室町時代に製作された不動尊画像、鎌倉時代に制作された源範頼の守り本尊である観音立像、聖徳太子立像、江戸時代に徳川家康から寄進された網代団扇、同じく徳川家康から寄進された木蘭地袈裟、鎌倉時代に親鸞が筆した六字名号、室町時代に蓮如が筆した六字名号、室町時代に蓮如が筆した九字名号、が豊川市指定文化財に、正法寺のワビスケ(有楽椿)、正法寺のイヌマキ(雌雄)が豊川市指定天然記念物にそれぞれ指定されている。「正法寺の文化財絵 画:六 幅彫 刻:二 躯工 芸:一 領、一 柄書 籍:八 幅天然記念物:ワビスケ(有楽椿)一樹、イヌマキ(雌雄) 二樹」 真宗大谷派の『太子山』。寺務所。正法寺の山門を入ってすぐ右手にあった、市指定天然記念物『有楽椿(うらくつばき)』。『市指定天然記念物 正法寺の有楽椿(うらくつばき)』。「正法寺のウラクツバキ(有楽椿)ウラクツバキは、茶人織田有楽斎(織田信長の弟)が、茶花として愛好したことからこの名が付いたといわれています。 関東では「太郎冠者」とも呼びます。この木の樹齢は約400年で、花は、1月上旬から3月末まで咲きつづけます。わずかに淡紫色を帯びた桃色で、白斑の入った花もあります。形状は一重中輪です。」花の写真。この日の蕾の姿。旧東海道に戻り進むとすぐ右手にあったのが『御休処 よらまいかん』平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設。当時の建築様式を再現し、2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しており、宿場町として栄えた江戸時代の様子を観覧できます。また、内外にベンチを配し旅行者が足をのばしてくつろげる空間になっており、トイレ・駐車場なども設置してあります。9時に開館であったが、係のオバチャンが親切にも開けてくれたのであった。『東海道赤坂宿』と刻まれた石碑。「東海道宿駅・伝馬制度 制定400年記念事業 平成13年 音羽町」 とも。京へ四十九里十六町、江戸へ七十六里二十六町と。石碑の横に刻まれた「飯盛女」?の姿か。こちらは大名行列の姿が。施設内部。『赤坂の文化財(絵画、彫刻、工芸)』総木造作りの『御休処 よらまいかん』の天井の梁の造作をしばし鑑賞。『御休処 よらまいかん』を振り返る。『御休処 よらまいかん』の斜め向かいの駐車場の前にあった『赤坂陣屋跡(三河県役所跡)』説明板。「陣屋〔じんや〕とは代官所 ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが元禄二年(一六八九)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。幕末に三河県 役所と改められた。手狭になったため明治二年(一八六九)再び大藪地内へ新築移転された。(上図)廃藩置県後、明治五年に廃止となった。」中央分離線のない旧東海道を進む。『赤坂の舞台 伝統芸能公演』が10月27日に行われると。左手にあった連子格子の民家。軒先には販売用?の焼き物が並べられ展示されていた。右側にも2階建ての民家が。エアコンの姿から既に住人は不在か。右手に石鳥居が姿を現す。『杉森八幡社』』入口。「郷社 八幡社」と書かれた柱も。石鳥居の足元には『赤坂の舞台』と書かれた木柱が。『宮路山(みやじさん)』の案内板。標高362mの小高い宮路山は、万葉集などにその名が登場するなど、古くからもみじの名所として知られている。山にはコアブラツツジが数千本自生しており、秋には温かい赤色・オレンジ色などに染まる。山頂からは三河湾や豊川市街が一望でき、天気の良い日には富士山も拝むことができるスポットとなっているのだと。『杉森八幡社』の参道を進む。『郷社 八幡社』の社殿と巨木の楠の木。『郷社八幡社』案内板は木目が美しかった。杉森八幡社(すぎもりはちまんしゃ)は、愛知県豊川市赤坂町に建つ神社である。祭神は天照大神、誉田別尊(応神天皇)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)、息長足姫尊(神功皇后)。社伝に大宝二壬寅年(702)10月、持統天皇この地に来られ、頓宮に在りし際、伊勢の大神と八幡大神を勧請し神鏡を納めた。寛和2年(986)以来の棟札あり。慶長6年(1601)2月、黒印の社領三石を寄進する。伊勢の大神の事は旧伝につき正徳年間(1711~5)神主金沢兵部伊勢に行き、度会貞盈神主に尋ねたところ、伊勢にも旧録ありと更に神鏡を下賜せられた。この鏡は正保4年(1647)9月11日、勅使参議左大弁藤原綵光が外宮に12面奉納したものの1面なりという。明治5年10月12日、村社に列し、同40年10月26日、供進指定となり、昭和7年4月20日、郷社に昇格する。『杉森八幡社の楠』。「杉森八幡社の楠杉森八幡社境内・拝殿向かって左側、前から2本がそれであり、根株が一本化し二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。当社は大宝二壬寅年(702)持統上皇が東国巡幸のとき当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領厨跡に大神宮・八幡社を勧請し、両宮とも神鏡を納められたと伝えられている。社の発生から考察し、また調査したところ、この楠は推定樹齢約1000年と考えられる。目通り6m、高さ20m、根張りが楠の特徴をよくあらわしている。」巨木をしばし見上げる。根株が一本化し二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。『杉森八幡社 社殿』。社務所であろうか。境内奥にあった『農村舞台』👈リンク。『赤坂の舞台』「明治5年に建てられた農村舞台が復元され、年1回、歌舞伎の公演が行われているのだ。建築面積243m3(間口10.4間 奥行7間) 当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。赤坂宿では、江戸時代には人形浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。平成十二年に改修復元した。」再び『赤坂の舞台 伝統芸能公演』のポスター。赤坂の舞台の『小屋掛け作業見学会』のポスター。拝殿右側の農村舞台の前に建設途中の小屋掛けの姿。見事な竹ドームの屋根も。孟宗竹を組み合わせてアーチ状の屋根が。杉森八幡社の境内にある小さな社は末社。『社殿』と『夫婦楠』を再び。手水舎も。左側の駐車場前にあった『十王堂跡』の碑。『十王堂跡』の碑の上の写真は『地蔵菩薩像(向称寺所蔵』。道路の脇の小さな祠には石仏が。その先左手にあった『常夜灯』。更に西に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次赤坂宿の旧東海道を更に西に進む。いまでも東海道の面影を感じさせる町並みが残っていた。路地を左手に折れると、正面に見えたのが『長福寺』の山門。入口は薬医門で左右は白壁になっていた。長福寺のある場所は、行政上の区分から言えば音羽町になる。豊川市のほうから東海道をたどると旧御油宿、御油の松並木、赤坂宿は隣接していてひとつの宿場町の様相を呈していた。江戸時代には遊女の多かった宿場だったというから、単に宿駅としての機能だけではなく近郷から男たちが遊びにくる歓楽街的な機能も持っていたのであろう。いつの世も変わることなく・・・・。山門の扁額には『三頭山』と。山門前右側には「信州善光寺出張所」と記載された石柱が。『鐘楼』。境内にある『長福寺のヤマザクラ』。昭和55年(1980)に豊川市指定天然記念物に指定。町内で一番大きなサクラの古木であると。「この木は、推定樹齢約300年で、幹の周りは目通り約3.3mあり町内で一番大きなサクラの古木です。この木について、幕末の頃、赤坂の代官所に努めていた役人の手紙の中に「長福寺の桜も満開になったでしょう。昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します。と記されています。」開花すると・・・。 【http://yutabi.cside4.com/sakura/hokuriku_tokai/aichi/chofukuji.html】よりそして『手水舎』と正面に『本堂』。長福寺の創建は平安時代、宮路弥太郎長富が息子である三河守大江定基の愛妾である力寿姫(赤坂の長者の娘:定基との別れを悲しんで自害)の菩提を弔う為開かれたのが始まりとされます。その後、荒廃しましたが大永年間(1521~1528年)善誉慶印が再興した。『長福殿』と書かれた本堂の扁額。正面には見事な向拝虹梁(ごはいこうりょう)、海老虹梁(えびこうりょう)があり、龍の彫刻が配されていた。正面に向かって右側の海老虹梁。正面に向かって左側の海老虹梁。鐘楼と本堂の改修事業供養之宝塔。寺宝である『彫刻 観音立像』、昭和30年(1955)に愛知県指定文化財に指定されている。「この像は、三河の国司であった大江定基が、愛人力寿姫の死を悲しみ、その菩提を弔うために寄進したとされる聖観世音菩薩です。平安時代の11世紀後半から12世紀前半に作られたといわれ、恵心僧都の作と伝えられています。像高190cmのヒノキの寄木造りで、当初は鮮やかな彩色が施されていましたが、現在ではほとんどの彩色も落ち、素木造りの様相を呈しています。」裏山の観音堂へと登る石段があった。石段の途中には弘法堂、鎮守社があるのだと。観音堂の周りにはかわいい石仏群も。更に 本殿裏の山中には三河の国司大江定基との別れを悲しんで 自害した『力寿姫の墓』や『原田伝左衛門の墓』があるとのこと。 石段横の小さな祠。民家の前の電柱横にあったのが『赤坂宿問屋場(伝馬所)跡』説明板。「赤坂宿問屋場(伝馬所)跡。間口六間(10.9m)、奥行三十間(56.4m)。瓦葺きの事務所は、慶長5年、徳川幕府の命令によって設けられた。人馬の継立、即ち、伝馬事務を取り扱い、問屋取締・年寄・帳付・馬差・飛脚役などの役人を置き、人足30人ほど・馬数10頭をつないで、即時の用に供した。」赤坂宿では、初め彦十郎が本陣と兼務していたが、文化年間より弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行っていたと。赤坂宿の本陣の門が復元されていた。残念ながら、内部は更地になっていました。説明板によれば、宝永8(1711)年には、間口17間半、奥行き28間。門と玄関がついた建物だったそうだ。「本陣跡本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、一般の旅籠屋とは違い、門・玄関・式台・上段の間などを備えることが許されていた。赤坂宿の本陣は宝永8年(1711)の町並図によると、四軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。」「宝永8年の間取り図によると、間口17間半、奥行き28間、座敷通り422畳で門・玄関付きの立派なものであった。」左手角にあったのが復元された『高札場』と『赤坂宿街並みの図』案内板。広場奥の『高札場』。『きりしたん宗門禁制』。切支丹を密告すれば褒美を出すとして、ばてれん:銀500枚、いるまん:銀300枚、などと書いてある。更にこれらの者を匿ったりしたら名主は元より五人組、一族共に罪科を問うと書いてある。まさに住民による相互監視の推奨。ただイルマンとは?調べてみると「宣教師の称号の一つ。助修士。平修道士。イルマンが司祭職に叙階されると伴天連となる」なるほど、それで伴天連に比べ銀200枚も少なかったのだ。その他、火付け禁止の定め、親子兄弟夫婦仲良くし、奉公に精を出すべきこと、もあった。『赤坂宿街並みの図』。『赤坂宿町並の図 宝永八年(1711)』住民の名前入りの詳細な図。現在では個人情報の観点からすると・・・。右手には『赤坂宿公園』赤坂宿跡公園にあった『赤坂宿のまつり』についての案内板。「赤坂宿の『大名行列』は歴史ある旅籠など江戸時代に栄えた宿場町の面影が残る通りを、参勤交代の一行が練り歩きます。赤坂杉森八幡社の祭礼で、大名行列の最後尾では長持ち衆による寸劇も披露。境内に芝居舞台があることでも知られる八幡社では、古来から人形芝居や神楽などが奉納されてきており、その伝統を偲ばせる余興が祭りの楽しみのひとつです。」毎年10月の第2日曜日に開催されるとのことで、今年は前々日の13日(日)に開催されたとのことであった。「東海道赤坂宿に伝わる『雨乞まつり』は、約300年むかしの宝永年間に発するといわれています。宝永年間には富士山の噴火、大地震、干ばつによる飢饉など、天変地異による被害が多かった。そんな中ここ赤坂宿でも、雨乞いの神事が行われたのでしょうが、それを恒例の『まつり』としてしまったところが面白くてたのしい。三味線、笛、太鼓のお囃子をのせた山車を従えて、武士や歌舞伎役者に扮する地元おまつり青年、町娘たちが練り歩く。しかもゆったりと。のどかな風情がただよう、真夏赤坂宿のまつりです。」『尾崎屋』。曲げわっぱ(木で出来た弁当箱)などの木工品や民芸品を製造・販売している店であったと。二階の連子格子に軒行灯がかかり、「東海道五十三次 赤坂宿 曲物民芸品製造卸問屋」と書かれていた。こちらは『旧旅籠大橋屋』大火後の1733年(享保18)には、家数400軒のうち83軒が旅籠であった。大橋屋は大旅籠に属する部類。間口23間、奥行き9間の大橋屋は旧屋号を鯉屋といい、1716年(正徳6)の建築とされている。赤坂宿の旅籠の中では大旅籠に属し、入口の見世間、階段、2階の部屋は往時の様子を留め、広重赤坂のモデルの旅籠とも言われ、中庭や灯籠も残っているのだと。「大橋屋」は、平成27年に営業終了、保存され内部見学が可能。しかし、この日は残念ながら、時間がまだ早いため、入口の扉は閉ざされていたのであった。広重の『東海道五拾三次』に描かれた旅籠『大橋屋』『豊川市指定文化財 大橋屋(旧旅籠鯉屋』と書かれた石碑。「大橋屋(旧旅籠鯉屋)の間取り大橋屋建物は、文化6年(1809)の赤坂宿大火以降に建てられたと考えられている。その後何度も改修され、間口6間1尺(約11.2m)、奥行7間(約12.7m)の主屋だけが現存する。大橋屋が所有していた間取り図によると、かつては間口8間7尺(約16.6m)奥行23間3尺(約42.7m)の敷地に主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が建っていた。以下略・・・・・・」『旧旅籠大橋屋』の西隣にある『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』。『大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣(輪違屋』案内板。「大橋屋の江戸時代の屋号は「鯉屋」といい、一般の旅人が宿泊する旅籠屋を営んでいた。現存する主屋は、文化6年(1809)の赤坂宿の大火以降に建てられたと考えられている。大橋屋に残されていた間取り図によると、間口が狭く奥行の長い宿場町特有の敷地に、主屋、継ぎの間、奥座敷、土蔵が並んで建っていた。明治11年(1878)の東海北陸巡幸のときには、明治天皇の行在所にもなった。鯉屋の西隣には脇本陣「輪違屋」があった。脇本陣は、大名や公家などの宿泊施設である本陣での宿泊が重なったときなどに利用された。以下略・・・・・・・・・・・・・・・・・・」歌川広重『東海道五十三次 隷書東海道 赤坂』『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』。脇本陣跡に建つ『東海道 赤坂宿・御油宿』案内図。『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』発掘調査跡?は赤煉瓦が敷き詰められていた。一番奥にも立て札が立っていた。『赤坂代官所(陣屋)跡』。「天和3年(1683)代官国領半兵衛重次のとき、赤坂の大藪地内(よらまい館東)に代官所が設置され、三河国内の幕府領の大半を赤坂代官が支配するようになった。元禄2年(1689)、正法寺と浄泉寺の間(現赤坂保育園)に移され、寛政12年(1800)からは代官所の統合により、遠江国中泉(静岡県磐田市)代官所配下の赤坂出張陣屋となった。東海道から代官所への出入りは、元禄2年の陣屋之図によると西側に門があるので当初は正法寺参道を利用していたと思われる。」『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』を奥から見る。『赤坂宿脇本陣(輪違屋)跡』、『旧旅籠大橋屋』を振り返る。そして「正法寺」に入る左側への路地の角、郵便ポストの後ろに石柱が。『見真大師・聖徳太子 御奮跡』と刻まれた石柱。見真大師は浄土真宗開祖親鸞(1173~1262)の諡号。「正法寺」は推古天皇の時代に聖徳太子を祀ったのが起源とのこと。舊跡とは?歴史上の事件や建築物などがあったあと。旧址(きゆうし)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(長沢国府線)・県道374号線を進むと前方に『御油の松並木』が姿を現した。御油の松並木は、愛知県豊川市御油町の東海道御油宿と同県同市赤坂町の赤坂宿の間にある松並木。松並木はかつて五街道の各所に存在したが、様々な理由で伐採されたりして現存している松並木は少ない。御油の松並木は、現存している数少ない松並木の一つである。御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって271本(2003年の調査による)の松の木が立ち並んでいるとのこと。松並木が始まる手前、写真中央に関札『松平丹波守宿』、左手に『御油宿と御油の松並木周辺』説明板が。「御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。ここから東の、かつての上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。 昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」 にも選ばれています。」『御関札立掛場跡』案内板。「御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、宿泊先(御休先)となる宿場の本陣や問屋(町役人)に事前に申し伝え、宿泊当日の三日前迄に本陣、町役人は宿場の出入り口に縦3尺半(約1m)、横1尺半(約45㎝)の板に 宿泊年月日・藩主名・出向く先を記入し、長さ3間半(約6m)の太い竹竿に取り付け立掛けられた看板を言います。御関札は、大名の権威を誇示するばかりではなく、本陣前を往来する人々に無礼のない様、通行するように注意を促す目的を持って 立掛けられた看板と云われています。此の御関札案内板は、当時御油宿・問屋役人井上興左衛門の 「御定宿之控」 の記録より作成したものです。」御油宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠62、家数316軒、人口1298人であった。京から江戸に向う旅人は、赤坂宿で宿泊し、逆に江戸から京に向かう人は、ここ御油宿で宿泊したのだと。『天然記念物 御油ノ松並木』と刻まれた石柱と説明用石碑が。「天然記念物「御油ノ松並木」この松並木は、慶長9年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く、旅人の旅情をなぐさめてきました。当初、600本以上あった松は、長い歳月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは、昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となりました。」道路の反対側にあったのが『十王堂』。「十王堂十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のことです。仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて次に生まれてくる所が定まるとされている。この考えは平安後期に日本に伝わり、鎌倉時代に全国に広まりました。この十王とは、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔大王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王のことで、十王が冠をつけ、道服を着て笏を持ち、忿怒の姿を示すのは道教の影響が強いことを表しています。この建物は明治の中頃に火災にあい再建されたもので、十王堂の創立年は定かではないが、江戸時代に描かれた絵図に印されていることから、古くからこの地にあったことは確かです。」扁額『十王堂』。『十王堂』前の石仏。『御油の松並木』の下を赤坂宿に向かって進む。御油宿から赤坂宿までは、1.7km。この御油の松並木は、江戸時代の初め東海道の並木として御油~赤坂間で整備され幕府によって管理されていた。明治に入り、宿場制度が解体され管理の所在がはっきりしなくなったが、地元御油町で管理を続けた。その後、太平洋戦争の為、多くの松が燃料として切り倒されていることを憂慮し、御油町の人達が存続させるため天然記念物指定を受ける働きかけを行い、その結果、「東海道の松並木として代表的なもの」という理由により、昭和19年11月、国の指定天然記念物に指定された。現在では、町全体で保存活動をが行われており、松の補植も行われているのであった。御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600mにわたって271本(2003年の調査による)の松の木が立ち並ぶ。夏は日差しを避け、冬は防風・防雪の役目を果たしていた。また江戸時代の滑稽本『東海道中膝栗毛』のなかで、弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに化かされた話が描かれていると。枯れて伐採された松の古株、樹齢何年の松であったのだろうか?そして隣には既に新しく植樹された若木が。現在では生活道路が通り、松並木をひっきりなしに車が通るようになったため、松並木を歩く際には注意が必要であったが、2009年に車道部分を狭くして歩道が整備されたため、以前より安全に歩行者が通行できるようになったのだと。左側の公園入口にあった御油松並木愛護会による『弥次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木』についての案内板をズームで。「この御油の松並木は江戸時代後期の十返舎一九の著作「東海道中膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛、喜多八も歩いた街道です。お伊勢参りに行く途中、このあたりで弥次郎兵衛は失態を演じました。陽も落ちかけた頃、弥次郎兵衛は御油の茶店の婆さんが、悪い狐が出て旅人を化かすので「此の宿に泊まらしゃりませ」と言うのも聞かず、先に行った喜多八を追いかける。松の鬱蒼と繁ったこのあたりで本物の喜多八に追いつく。茶店の婆さんが言った狐の話をすっかり信じて、喜多八を狐と思い、突き倒し縛り上げてしまう。そして追ったてながら赤坂の宿に向かう。・・・」こんな滑稽なことが生まれたところなのであった。明治のはじめ頃までの御油の松並木の両側は竹藪が延々と続く昼なお暗い所であった。この付近の山々には狐狸が棲息し、夜な夜な餌を求めて、田畑や街道へ出没し、作物を荒らしたりして人々わ驚かせました。日没とともにまっ暗な闇が街道を包み、薄気味悪い松並木を通るには、とても度胸がいったとのこと。家康の命を受けた奉行・大久保長安により、亀の甲のような樹皮が特徴の三河黒松が植樹されたと。この時は比較的交通量は少なかった。『御油松並木公園案内図』。天然記念物「御油の松並木」の保護と、観 光、地域交流の拠点となることを目的とし、松並木に調和した景観となる公園として整備された。 昭和47年には、御油松並木愛護会が発足し、昭和50 年に大規模な松の補植が行なわれた。また、定期的 な見回り、清掃や下草刈など継続的な保護活動によって、 御油の松並木は江戸時代の並木景観を現在もなお留めているのだと。公園内には竹林も。公園内の遊歩道を歩く。『御油の松並木』の終わりの赤坂宿側の松は背が高く、青空に突き刺さっていた。音羽川に注ぎ込む天王川に架かる石橋の場所まで辿り着く。赤坂宿側の『天然記念物 御油ノ松並木』と書かれた木製の碑。『天王川』は小さな川いや水路の如し。橋の名は『一ノ橋』。『一ノ橋』を渡り進むと、すぐ右側のT字路の角にあったのが『見附跡』案内板があった。ここが赤坂宿の東入口となり、赤坂宿中心へと入っていくのだ。「見附跡見附〔見つけ〕とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道 を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にあった。「赤坂旧事記」によれば、寛政八年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。明治七年(1874)に、取り壊された。」『歌川広重 東海道 五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 《 赤坂 》』「鳴門静丸 双六と ともにふり出す髭奴 名を赤坂の 宿にとゞめて」更に赤坂宿を進む。道路脇の民家にはコロガキ?がたわわに。数分歩くと天を圧する巨大な老木が左前方に姿を現した。『関川神社』。石鳥居と社殿。長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。当初は弁財天と称していたが、明治時代初期に神仏分離の影響を受けて関川神社と改称した。昭和28年(1953年)6月5日、宗教法人として登録を受けた。氏子はおらず、神社の運営は関川区域の住民によって行われている。祭礼は旧暦1月15日・16日であり、福引が行われていたが、現在は太陽暦の1月15日・16日に改められ、余興は行われていない。同じく赤坂町に位置する宮道天神社で例祭が行われる際には、渡御する神輿の休憩所として境内が使用されてきた。確認できる最古の棟札は文政12年(1829年)のものであり、「再建之辨天拝殿一宇」の文字が見える。他には、明治20年(1887年)のものがある。境内には、大正7年(1918年)2月に建てられた常夜灯がある。脇社。『関川神社の楠』を見上げる。「関川神社の楠由来及び沿革については不明であるが古老の説によると、木の根元からえぐられている部分は慶長十四年(1696年)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約30戸が焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m、高さ25.7mあり推定樹齢は約800年であるといわれています。」社殿を斜めから。芭蕉の有名な「夏の月 句碑」。「夏の月 御油より出でて 赤坂や 芭蕉翁」この句は、松尾芭蕉が夏の夜の短さと、わずか16町(両宿問屋間)と近接する赤坂と御油間の距離の短さを詠んだもの。音羽町のマンホール蓋。歌川広重「東海道五十三次・赤坂」の一部が描かれていた。こちらが原画の『東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図 / 歌川 広重』。更に進むと左手700mに『豊川市音羽福祉保健センター』。右手に『音羽郵便局』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前夜(10月14日)はホテルへチェックイン後、10月24日から出発するブルガリア、ルーマニア旅行をご一緒する旅友の女性と旅友Sさんそして私の3人で旅行前の親睦をはかる。そして翌朝・10月15日のホテルの我が部屋からの朝焼けの光景。ホテルのフロント横の壁に掲げられていた『東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋 / 歌川 広重 』の一部を取り出し、アレンジして織り上げた絨毯が。図の橋の名は矢矧之橋といって、東海道中で一番長い橋で、208間(378m)ある。こちらが、『東海道五十三次 岡崎 矢矧之橋 / 歌川 広重 』。カーブを用いて長さを強調した。川の中は白砂で、水深は浅い。大名行列が橋を渡っているところであり、向こう側には岡崎城の櫓が描かれている。家康誕生の城を当時の人は特別の思いでみたであろう。豊臣秀吉が蜂須賀小六と出会ったのはこの橋である。ホテルで6時半から朝食を取り早々に出発し、乙川に架かる明代橋を渡る。この日の「旧東海道を歩く」は御油宿から豊明駅辺りまでを予定。明代橋から下流を望む、ビルと林の間に岡崎城が小さく見えた。岡崎城天守をズームで。名鉄・東岡崎駅前にあった『ようこそ、岡崎へ』の大きな看板。「岡崎新時代ナビゲーター 竹っちょ」だと。徳川家康の幼名竹千代(松平、徳川の幼名)からとったもの。名鉄名古屋本線の豊橋・豊川稲荷方面の「普通 伊奈」6:53に乗る。定刻に伊奈行きに乗り、御油駅を目指す。御油駅に到着し、改札口を出ると『御油宿・赤坂宿観光案内』が。『御油駅』御油の町は東海道五十三次の御油宿として発展。過去には御油城もあった。しかし、東海道本線は御油宿を経由せず、1888年から1948年の間は、現在の愛知御津駅が、御油駅を名乗っていた。この理由について、勾配を避けるために蒲郡経由で敷設されたのだと。国道1号線を渡る地下道を通る。地下道の壁には子供たちの絵が展示されていた。「この絵は御油小学校の六年生が卒業記念に描いたものだと聞いて、私たちボランティア委員会は地下道のそうじをしました。みんなの地下道をこれからもきれいに使いましょう」と。県道374号線の御油橋東交差点に向かって進む。県道374号線の音羽川に架かる新御油橋を渡る。右手左側に『御油の松並木資料館』、その先に『音戸橋』が見えた。『音羽川』と『狂歌入東海道 御油』の銅板の浮世絵。狂歌は「此ゆふべ櫛やけづらむ妹が髪あけ油てふ宿につく夜は」。反対側には『東海道五十三次之内 御油 旅人留女 / 歌川 広重』。旅人を襲い拉致するかの凄まじい留女が描かれている。なお「御油」の由来は〝日本書記の持統天皇〟が近くに来た際に油を献上したという伝説からとか。『新御油橋』。『行書版 東海道 五十三次之内、御油 / 広重画』。河原には大きな老木が2本。そして左手には旧東海道の『御油橋』が。川沿いを進み旧東海道に突き当たりここを右折して進む。歴史を感じさせる民家には一面の格子戸が。旧東海道・県道374号線を再び進むと、左手にあったのが『御油宿』説明板。ここは『御油宿 鈴木本陣跡(鈴木半左衛門家跡地)』。隣には判読できない石碑も。「御油宿御油宿は、江戸時代に徳川家康によって整備された江戸日本橋から京都三条大橋を結ぶ東海道の35番目の宿場です。次の赤坂宿とは御油のマツ並木(国指定天然記念物)を挟んで、わずか十六町(約1.7km)と東海道の宿場間では最も短い距離です。当初、両宿で一宿分の役割を果たしていた時期もあったようです。天保14年(1843)頃の御油宿の家数は316軒で、本陣が2軒(元は4軒あったが、うち2軒は天保4年の火事で焼失)、脇本陣はなく、旅籠屋は62軒でした。この場所は、本陣鈴木半左衛門家跡地です。本陣とは、参勤交代の諸大名をはじめ、宮家・公家・幕府役人などが宿泊する施設であり、原則として門・玄関及び上段の間を備えるなど、庶民が利用する旅籠とは 異なっていました。」その先にあったのが『イチビキ株式会社』。『イチビキ株式会社 第一工場』。愛知県名古屋市熱田区新尾頭一丁目11番6号に本社を置く調味料メーカーである。ブランドステートメントは「おいしさスマイル」。「イチビキ」の商標は、明治末期から大正にかけて行われた北海道での大豆の買い付けが由来とされる。当時、大豆の品質を調べる際、「サシ」と呼ばれる鉄の半円筒を俵に刺し、中の大豆を取り出して良品のみに荷印を打って粗悪品と区別していた。大津屋(おおつや。現在のイチビキ)の荷印は「スッキリ引いた一本棒」で、これを「一引き」(いちびき)と呼ばれるようになり、商標および社名の基となったのだと。イチビキ第1工場の『味噌の館』。案内板。『味噌の館』入口。昔は味噌蔵だったのであろうか。御油宿で味噌・醤油の醸造を行っているイチビキの工場(蔵)。明治44年に御油工場に完成したと。桶底の直径が1丈3尺(約3.9m)高さ1丈3尺(約3.9m)容量約50tという日本最大級の味噌仕込桶が自慢のようである。一度実物を見てみたいものだ。旧東海道を左に折れ進むと正面にあったのが『東林寺』山門。山門前の大きな石柱には、ごゆ(御油)観音と書かれていた。手水舎。真新しい『本堂』。『普益殿』と書かれた扁額。この鬼瓦には卍と巴紋に似た紋が。「東林寺東林寺は、室町時代の中頃の永享年間(1429~1441)に龍月日蔵和尚によって創建され、当初「洞元庵」と呼ばれていました。本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されています。言い伝えによれば、この如来像は奥州に下る牛若丸(義経)と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏で、龍月日蔵和尚が当寺に移し、本尊として祀ったとされています。この寺には、徳川家康が二度も立寄っています。また、芝増上寺の管長祐天大僧正がたびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。」見事な先代の鬼瓦も展示されていた。本堂の鬼瓦を見上げる。半菊に一の字の寺紋。東林寺の『飯盛女の墓』。境内の墓地には、江戸時代から昭和時代にかけての町の名家や有力者が多く葬られており、東林寺が御油の中心寺院であったことがうかがえます。この墓地の中央、土塀寄りのところに、飯盛女の墓が5つ並んでいた。飯盛女とは宿場にいた遊女のことで、その多くは、生計が苦しい家や年貢を納めることが困難な農家が、金を借りるために年季奉公に出した娘たちであった。御油宿は遊興の宿場として知られ、多くの飯盛女がいたが、彼女らは非常に不遇な立場に置かれていた。これらの墓石は、旅籠屋の抱え主が飯盛女の菩提を弔うために建てたもので、あまり知られていない宿場町の歴史の一つを今に伝えていると。東林寺の白塀。そして隣りにあった『清海寺』にも立ち寄る。西国三十三所観音、九番札所 千手観音の文字が。三河三十三札所順礼御詠歌「此のたびは 花のうでなに よももれじ 千すぢの御手の 糸にひかれて」『本堂』。境内にあった『三界万霊塔』。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。『清海寺』を後にし、旧東海道(県道374号線)に戻り更に進む。連子格子の古民家が右手に見ながら『御油の松並木』に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次気賀関所の案内所の女性から、実際の『気賀関跡』を紹介され、そこに向かう。途中右手に『気賀駅(きがえき)』が。気賀駅は、静岡県浜松市北区細江町気賀にある天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線の駅。駅舎には飲食店「中華屋 貴長」が入居していた。右手にあったのが『郷社 細江神社』。この神社は、天竜浜名湖鉄道・気賀駅の北北東300m程の辺り、気賀小学校の西側に鎮座。由緒書によれば、嘗て浜名湖は淡水だったと。御祭神:素盞嗚尊・奇稲田姫尊明応七年の大地震によって浜名湖は外海とつながり、その時の大海嘯により新居の角避比古神社は流没。しかし、御神爾は奇跡的にこの気賀の地に着御された。里人は牛頭天王社として気賀の総氏神として祀る。以来気賀のお天王さまと尊称し、七月の祇園祭りの船渡御は全国的にめずらしい勇壮な祭りとなっていると。そして『気賀関所跡』に到着。姫街道の歴史は古く、縄文時代にまで遡ることができますが、いわゆる「姫街道」と現代でも称される街道は、天正15年(1587)6月に、本多作左衛門が要所に新宿を設けたことから始まりました。その後、道路も次第に整備され、人馬の継所として発展してゆきました。慶長6年(1601)には東海道宿駅の制が幕府によって定められ、この街道も「東海道本坂越」と名づけられました。この街道は東海道の脇街道、脇往還で、見付から東海道と別れて市野に入り、気賀を通って三ケ日に出て、本坂峠を越えて嵩山(すせ)を通り、豊川を渡って御油(ごゆ)で最終的に東海道と合流する15里14町(約60キロメートル)の道程でした。街道の主な目的としては、浜名湖入口の渡しを避けることにありました。当時、浜名湖を渡ることは大変危険であったためです。宝永4年(1707)10月4日における大地震では、壊滅的な打撃を受けた浜名湖南部を迂回するため、被害の少なかった姫街道はそれまで以上の賑わいとなりました。あまりの混雑ぶりに、宝永7年(1710)3月には幕府により大名の本坂越通行が禁止されましたが、交通量は減ることはありませんでした。その後も幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻しましたが、公家や武家の奥方、姫君女中衆はこの街道を使用し続けました。これにより本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれるようになりました。気賀の関所は、この本坂道を監視するために慶長6年(1601)に徳川幕府によって設けられ、箱根、今切(新居)の関所とともに江戸に対する重要拠点となりました。慶長10年(1605)には気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失しましたが、関所は被災を免れました。このような状況から、関所では何度も茅葺の屋根を瓦葺に改装する願いを出しましたが、「権現様(家康)のとき茅葺であった」という理由で却下され続けました。その後実に100年以上経ってから瓦葺となり、幾つかの大災害をくぐり抜けて、規模と構造はほぼそのままに明治時代まで残りました。明治2年(1869)の関所廃止令により、気賀の関所もその長い歴史の幕を閉じました。本番所は全国で最古の関所建物として昭和35年(1960)まではほぼ完全な形で現存していましたが、ほとんどが解体され、現在ではその一部が民家の屋根として残されているのみとなってしまいました。『史跡 気賀関跡』碑。現在は細江町の街中の一角に石碑だけあり往時を偲ぶよすがもない。『気賀関所 本番所』「気賀は、天正15年(1587)本多作左衛門によって街道の宿と定められました。山手に土塁、南は堀川、東に関所と萱垣、西に石垣と矢来と枡形があり、その中に本陣、問屋場、旅籠をはじめ民家約百軒が町並みをつくっていました。 気賀関所は気賀宿の東の入り口にあり慶長6年(1601)徳川家康により東海道本坂道の往来の取り締まりのために創建されたといわれます。 関所の本番所は、はじめ茅葺でしたが、寛政元年(1789)に杮葺・切妻破風造り、狐格子・瓦棟に改築されました。嘉永7年(1854)に大地震で壊れたため葺きかえられ、 昭和35年まで残されていました。現在の建物は関屋の正面に向って左の部分三分の一で下の間・勝手の間の部分です。屋根の切妻破風造り、狐格子が残されています。 本番所の正面、街道をはさんで向番所と二層の望楼があり、周囲には堀と石垣、矢来が設けられていました。」『堀川城跡 古戦場』『堀川城跡・古戦場』の石碑。『伝 堀川城跡』遠江を手中にしていた今川義元と、今川氏への忠信が強かった気賀の村人たちにより、永禄10年(1567年)に築かれました。場所は、その80年前に起きた明応地震によって、浜名湖が海と繋がってできた三角州の湿地帯。一見無防備に見えますが、湖を背にして、前面に都田川の水を引き、満潮時には湖水がまわって島のようになり、船を使わないと城には入れないようになっていたといわれています。しかし、徳川家康の猛攻の前にはこの細工もむなしく、ひとたまりもなく陥落しました。この戦は、悲惨きわまりないものでした。永禄11年(1568年)三河の岡崎城から遠江に侵攻した家康は、井伊谷城、刑部城を落とし、引馬城からも今川勢を追い出して掛川城に迫りました。そこで一度三河に戻り、再び出陣して翌年の3月、干潮を見計らい3千の軍勢で、堀川城に攻めかかりました。堀川城の城兵2千人の大半は、老若男女が入り交じった武装した農民でした。抵抗しましたが、戦慣れした徳川軍にかなうはずもなく、1日で落城。さらに後日、家康は籠城抗戦を主導した者たちを惨殺し、都田川の土手に首を並べたと伝えられています。家康の若き日の汚点となる、残虐な行いだったとされています。現在、堀川城があった地は、田園の中に、ぽっかり浮かぶ緑の島のように見えます。城跡には、『堀川城跡・古戦場』の石碑と、小さな首塚が一基あり、その所在を知らせています。また、城址の北600mほどのところに、『堀川城将士最期の地』があります。多くの村人がここで処刑されたことからこの地は獄門畷と呼ばれています。小さな首塚が一基。そして天竜浜名湖線にそって浜名湖の北の湖岸の風景を楽しみながら進む。静かな湖面の浜名湖。国道362号線を進む。豊川を渡り国道362号線を左折し、豊川市小坂井地区の国道151号線を進むと右手に『宮下東』交差点に巨大な朱の鳥居が。『白狐ヶ丘』と書かれた扁額。この大鳥居は『白狐ヶ丘五社稲荷社』の鳥居。この地は、白狐ヶ丘といわれ、弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており、明暦年間(1656年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り、五穀豊穣を祈るため「保食神(うけもちのかみ)」を斎祀したのが始まりと伝えられています。文政13(1830)年に京都伏見稲荷大社より、五神を勧請し五社稲荷社となり、延享4(1747)年に社殿が改築された記録があり、実際の創立年代はそれ以前にさかのぼるとのことですが、詳細は不明です。五穀豊穣、商売繁盛、福徳円満の神として崇敬され、毎月1日、15日の月次祭(つきなみさい)には、多くの参拝者があるとのことです。この後、先日の『旧東海道を歩く』で旅友Sさんが訪ねそこなった『兎足神社』👈リンクを再び訪ねた。そして旧東海道の県道496号線・白鳥豊橋線を進み飯田線の踏切を渡る。そしてこの後、国道1号線をひたすら走り、何とかこの日の東岡崎駅近くのホテルに到着。そしてチェックイン後、岡崎市内にお住まいの旅友の待つ『世界の山ちゃん』へ。『名古屋名物 幻の手羽先』が人気の『世界の山ちゃん 東岡崎駅前店』。もちろん『名古屋名物 幻の手羽先』を注文。『土手煮』も注文。久しぶりの再会で、そして10月24日出発のブルガリア・ルーマニア旅行もご一緒するので大いに語り合ったのであった。ホテルへ戻る途中の『乙川』に架かる『名代橋』からライトアップされた岡崎城を見る。岡崎城をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次県道362号線を都田川にそって進むと、『気賀御関所』の案内板があったので急遽立ち寄ることに。文化センター駐車場脇に建つ関所案内板。気賀関所(きがせきしょ)は、17世紀初めに江戸幕府が本坂通の気賀に設置した関所である。東海道の新居関所の裏番所として本坂通(姫街道)の往来を監視した。旗本の気賀近藤氏が関所を監理し、関所手形により「入鉄砲に出女」を取締り、周辺の要害村や新居関所、金指の番所と共同で浜名湖上の通行や「横越し」を監視した。気賀関所は、全国53箇所に設置された関所のうちで、東海道の新居(今切)の関所と同じく重要な関所と位置付けられ、近世関所は、「入鉄砲に出女」を改めるために設置され、「入り鉄炮」の通関には老中証文が必要であり、気賀関所の監視は、東海道の本道の新居関所と同様に厳格だったとされ、領主でも通過する際には手形を必要とした。『ようこそ浜名湖へ』案内板。浜松市 細江図書館の駐車場に車を駐め『気賀関所』の散策開始。北区役所方面からの関所東側石畳と松並木の前方に『冠木門』が。当時の資料を元に、江戸時代の建物が忠実に復元されているのだと。『冠木門(かぶきもん)』。『冠木門(かぶきもん)』。「この門は、東御門又は大門と呼ばれ関所の出入り口にあったもので、毎日明け六ツ(午前六時)に開門し暮れ六ツ(午後六時)に閉門した。」『気賀関所』。「江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいた。気賀関所は慶長6年(1601)に徳川家康によって創設されたといわれている。敷地は547坪(約1805㎡)で裏に竹藪117坪(約386㎡)、東に冠木門(かぶきもん)(高麗門)、この門を入り正面となる北側に旅人を調べる本番所、南側に相対して牢屋が設けられていた向番所、さらにその南に遠見に使用された遠見番所、西側には町木戸門で気賀宿と接していた。江戸時代の関所は、幕府の所在する江戸防備を目的として設置された。一般に「入り鉄砲に出女」といわれるように、鉄砲が江戸に持ち込まれることや、人質として住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐため関所で取り締まった。気賀関所は、箱根関所・今切(新居)関所とともに東海道の三関所といわれた。気賀関所の関守は、元和5年(1619)から明治2年の関所廃止まで旗本近藤家が代々拝命した。番頭2名、平番4~5名が主に取り調べにあたった。」『気賀関所 施設紹介』。案內所で入場料150円を支払い中に入る(70才以上は無料とのことで旅友Sさんはニッコリ)『冠木門』から入ると右側に『本番書』が。その手前に罪人を捕えるために用いられた三つ道具『刺股(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)』が展示さているようであったが、この日は無かったが。最近の世情から安全上の配慮なのであろうか?『本番所』「この建物は本御番所又は面御番所とも呼ばれ通行の旅人や荷物などを取り調べたところである。」『本番所』のいち番手前の部屋。中央の部屋では、等身大の関守等の人形が置かれており、往時の様子を再現。中央に『番頭』、両脇に『平番』が。本番所西側、一番奥の部屋は『家老の間』。『家老』。後ろの床の間には徳川家康公遺訓の掛け軸が。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」『本番所』の真向かいにあった『向番所で行われていた『女改め』。関所の主要任務の一つ、『女改め』。『女改め』とは女性を調べることで、改め姥(大抵は関所の役人の妻)が、女手形に記されていること(本人の年齢、姿形など)が一致してるかを入念に改めた。大名の妻子が国元へ逃げ帰ることを防ぐのも目的のその一つであると。 『天水桶』。防火用に雨水を貯めておく桶。気賀の町が大火に見舞われたことで火災の用心をしていたのであると。『制札』。『気賀関所 制札』。「関所取締りの原則を揚げたものであり以下のようなことが書かれていた。定 一 通行人は関所の前で笠 頭巾をぬぐべきこと 一 乗り物に乗ったまま通るものは乗り物の戸を開くこと ただし女の乗り物は 関所役人の指図に従って改め女に見てもらい通りこと 公家門跡その他の諸大名が 通るときには前もって連絡があるから改めなくてよい ただし疑わしいことが あれば改めること 一 鉄砲は定められた証文と照らし合わせて通すこと 右の定めは必ず守すべきこと 幕府からの命令はこのようである 安政五年(一六五二) 六月十二日 奉行」」『姫様館』を訪ねた。建物の前には、NHKで放送されているた、大河ドラマ「おんな城主 直虎」に関連した次郎法師(井伊直虎)・南渓和尚・虎松の顔抜きパネルが設置されていた。入口には、気賀関所を預かっていた旗本近藤家の家紋である「丸之内抱鹿角」が飾られていた。姫様館には気賀関所の貴重な資料を展示していた。江戸時代に僧侶が使っており、且つ第一回から姫様道中でもつかっていた駕籠なども展示されていた。近寄って。「この乗り物(駕籠)は江戸期のもので、僧侶が使用したものです。細江町では、第1回目の姫様道中の駕籠として使用していましたが、底が抜けて使用できなくなりました。」また、浄円院(八大将軍吉宗の母)が宿泊された時に、付き添いの人に出された料理を再現したものも展示。こちらにも駕籠が。「この乗り物(駕籠)は江戸期のもので、御典医(御殿医者)が使用した駕籠。御典医→江戸時代、将軍や大名のお抱えの医者」『古地図』。『徳川家康の花押』。『中村本陣 関所関係古文書展』。『往来手形』。尾張中納言は御休憩、松平伊賀守はお泊りになったのであろうか?外に出て『町木戸門』へ。この門は気賀関所西側にあって『町木戸門』と呼ばれ、これより西側に気賀宿の町家が広がっていたと。町木戸門右手前側に建つ『気賀関所』跡石碑。気賀宿の町家が広がっていたと言う場所には、土産物屋や休憩所が並ぶ『田園空間博物館』が。奥浜名湖田園空間博物館総合案内所もここにあると。町木戸の隣には『要害堀』があった。関所警備のために作られた堀で、舟で行き来する人も関所に入ることが出来るように、木戸が設けられています。現在では、関所の南側に堀の一部が再現されています。右に『大番所』、左に『姫様館』。次に訪ねたのが『遠見番所』。内部には『関所配置図』が。『諸国関所一覧』。『姫街道と姫様道中』。姫街道の由来 姫街道は、見付宿から御油宿まで、浜名湖の北岸を迂 回する東海道の脇往還です。現在は「姫街道」という名 前で親しまれていますが、この名前で呼び始めたのは、 幕末ごろからといわれています。 江戸時代には、正式には「本坂通」と呼ばれていまし た。当時は安間新田村(東区安新町)あるいは浜松宿(中 区連尺交差点)で東海道と分岐し、浜名湖北岸を通って 本坂峠を越え、御油宿あるいは吉田宿(豊橋)で東海道 と合流していました。本坂通には、市野宿、気賀宿、三 ヶ日宿、嵩山宿が置かれました。沿道には一里塚が配さ れ、市野宿の西や三方原台地上には松並木が続いていました。気賀宿の東端には気賀関所が置かれ、新居関所と 同じく、「入り鉄砲と出女」の取り締まりが厳しく行われ ました。 『山駕籠(やまかご)』。「江戸時代、道中、山路などで使う簡単な駕籠。基本型は、竹で底を円形に編み、網代の屋根が付いていた。」こちらは『虎丸籠(とうまるかご)』。「江戸時代、農民や町人の重罪人を護送した竹製の籠。」『加賀関守 旗本 近藤家』慶長6年(1601)に創設された気賀関は箱根、新居と並んで東海道三関所の1つ。関守は元和5年(1619)から明治2年の関所廃止に至るまで旗本の気賀近藤家が12代にわたり代々拝命した。気賀関所の見どころといえば『向番所』にあった『牢屋』。見張り台からの『町木戸門』側の景色。『遠見番所釣鐘』。『遠見番所』。「この建物は遠くを見張るために使ったもので、上階には釣鐘がかけてあり下の部屋には大砲が入れてあった。」『下雪隠』。雪隠とはトイレのこと。本番所にある雪隠は身分の高い人用で、こちらは一般の人用です。こちらがあるのは遠見番所の前、向番所の裏になります。本番所の雪隠は建物の裏にあると。こちらのトイレのところには陶器製の手水鉢が。内部。再び『本番所』と『冠木門』を見る。南側の道路から『遠見番所』の見張り台を見る。「おんさいね! 気賀関所へ」と幟に。【おんさい】というのはこの地方の方言で 【おいでなさい】や【いらっしゃい】という意味。こちらにも『気賀関所』案内板が。「江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいた。姫街道の要衡地であった気賀上村に、徳川家康は早くから関所を設けて「入り鉄砲に出女」の監視を中心に、通行する人々や荷物の取り調べを行った。その後、箱根にも関所が造られ気賀関所は、 箱根関所・今切(新居)関所とともに、東海道の三関所と言われ明治2年まで続いた。平成元年度ふるさと創生事業として、現存する史料を調査して、寛政元年(1789)初めて瓦葺に改築された気賀関所を冠木門、本番所、向番所、遠見番所、制札場、雪隠、三ツ道具立、槍立、矢来などで再建し、等身大の人形を配置して当時を再現した。」再び案内所内部にあった『気賀関所』の絵画と記念撮影用の鬘や貸衣装等が。貸衣装は忍者、若殿、町娘、直虎、子供姫、子供赤備え甲冑、音羽ちゃんなど大人用、子ども用ともに種類が豊富で迷ってしまうほど。衣装で施設内をめぐることができると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に『秋葉山 上社』境内を進む。右手に『手水舎』。『手水舎』の裏に『天狗の皿投げ』の投射所が。秋葉神社には、『天狗の皿投げ』というちょっと変わった願掛けがあるのだと。素焼きのお皿に願い事を書き、丸い的に向かって投げる。みごと的を通過すれば願い事が成就されるとのこと。残念ながら、的の輪は写真を撮り漏らしてしまったのであった。この写真の下側にあったのだろう。『天狗の皿投げ』。「秋葉山にはむかしむかし天狗が住んでいて、皿を投げては願力を競っていたと言われます。あなたの願いを皿に書き幸運を開きましょう。」<天狗の皿投げ> お皿三枚、おみくじ、お守りもついて500円。更に階段を登る。社務所前を通り過ぎると黄金色の大鳥居が迎えてくれた。『幸福の鳥居』と言われているとのこと。黄金に輝く鳥居。「混迷の世に、人々の幸福を望み、昔に傚い黄金の鳥居を建てたのである」とのこと。『幸福の鳥居』。「昔、秋葉山に正一位の勅額を掲げた金銅の鳥居が建っていた。秋葉大神は火難を始め諸厄諸病の難を免れて幸福を恵む厄除け開運の神徳がある。神徳は神意に沿った行為に依って授かると信ぜられた。幸福を象徴する黄金で造った鳥居を奉納して神にあやかり人々に幸福が与えられるよう冀ったのである。混迷の世に、人々の幸福を望み昔に倣い黄金の幸福の鳥居を建てたのである。」本殿の下方、向かって右に建つ素木の社殿は平成4年に竣工された『神楽殿』。『秋葉の火まつり』で知られる12月16日夜の防火祭で古式豊かに執り行われる三舞の神事の舞台となるのがここであると。置かれている巨大な「絵馬」は、Jリーグ「ジュビロ磐田」の祈願絵馬。毎年、チームの関係者全員で、必勝祈願の参拝に訪れると。『御札所』。そして『本殿』への最後の階段。現在の『本殿』は、1986年(昭和61年)の再建。流れ造りの『本殿』と入母屋造りの『拝殿』を幣殿で繋ぐ権現造りで、建坪130坪、総檜造り。拝殿正面には唐破風の向拝が続く。秋葉神社 『本殿』。『拝殿』内部では、神官による祈願式が行われていた。拝殿正面の唐破風の向拝とその下には見事な数々の彫刻が。右から。干支の動物が刻まれていたのだろうか。「社殿」左前の一段上の砂利の敷かれている場所の先端は展望台になっていた。天候に恵まれれば、「遠州灘」「浜名湖」「天竜川」等が見えるという。拝殿に上る階段左手にある。小さな祠ですが末社である三宮が。正面左から『祓戸』、『内宮』、右が『外宮』。『神恵碞』。詳細は分からないが、「碞」は「がん」とか「いわ」と読み、「岩」とか「大きな石」のことを言ううようだ。『授与所・御札所』を正面から。『社務所』。『社務所』の天井には『神紋』が描かれた巨大な凧が。神紋と社紋を分けており、神紋は「七葉もみじ」(しちようもみじ)、社紋は剣花菱である。剣花菱は武田信玄の寄進と社伝にあると。12月15、16日に行われる『秋葉の火まつり』のポスター。御朱印を頂きました。帰路の階段から見えた袋井市にある『エコパスタジアム』をズームで。ラグビーワールドカップ2019で9月28日(土)に日本がアイルランドに勝利した場所。本殿側から見た『神門』。鬱蒼とした『秋葉杉』を見ながら下山したのであった。そして天竜川に沿って国道152号線に沿って南下する。天竜川にかかる『横山橋』を渡る。昭和50年(1975)に完成したワーレントラス橋。そして右手に見えて来たのが『船明ダム湖』。右手に見えたこの橋は?水道橋か?『船明ダム』を渡る。天竜川上流にある発電及び農業用水用のダム。1門の大きさが高さ15.3m、幅20mの世界最大級の出水ゲートが9門もある大規模なもの。車を止めて、放流の姿を。ズームで。「天竜川源(すわ湖)よりここまで185kmです。」県道297号線の『潮見渡橋』。国道152号線の架かる『鹿島橋』を左手に見る。前方に『天竜浜名湖鉄道』の天竜川にかかる『天竜川橋梁』が。国道362号線を進む。左手にあったのが『常葉大学』。『井伊谷川』を渡り豊川方面にむけてこの先を左折。右手に進むと井伊直虎ゆかりの臨済宗妙心寺派の寺院『龍潭寺』へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次秋葉神社の御社頭は、山頂の上社と山麓の下社とある。上社は、天竜川畔雲名・秋葉ダム(国道152号線)から夫々登山自動車道に沿って約20分で山頂駐車場に達する。神域には老杉がうっ蒼と繁り、御本殿は昭和61年10月に遷座され、建坪130坪、総桧の入母屋流れ造りであるとのこと。再び車で上社を目指す。気田川(けたがわ(に沿って県道286号線を走る。気田川が天竜川に合流する手前の285号線(大輪天竜線)に架かる赤い橋は『気田川橋』。我々は更に286号線を進み、天竜川沿いの坂道を登って行く。狭いトンネル・「扇岩隧道」の中に入る。そして下社から20分ほどで上社の駐車場に到着。正面に上社本殿に向かう大鳥居が迎えてくれた。駐車場入口部には案内板が。『秋葉山本宮秋葉神社』案内図。『森と水の郷ようこそ北遠』狛犬と大鳥居上社の狛犬はオオカミで、秋葉山にはオオカミ信仰もあるのだと。吽像。阿像。大鳥居の大きな扁額(神額)には『正一位秋葉神社』の文字が。『本殿』への階段を登って行く。鳥居をくぐると本殿まで延々と階段が続いた。数段上ると平らな参道が少しあり、数段上ってまた少し平らな参道が・・の繰り返しであったが、長いのでちょっと大変。階段の両側には秋葉山常夜灯が並ぶ。『秋葉山境内でみられる山野草』平らな参道部。『秋葉山本宮』秋葉山は赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で、天竜川上流に位置し、山頂は標高866m。はじめて社殿が建ったのは和銅二年(709年)と伝えられ、秋葉山は御神体山として崇敬されてきたそうです。また、秋葉神社は昔、「岐陛保神ノ社(キヘノホノカミノヤシロ)」と称したそうですが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と改称し、明治に入り秋葉神社となり、全国の秋葉神社の総本宮であることから昭和27年に「秋葉山本宮秋葉神社」と改称したと。『秋葉山境内でみられる野鳥』再び別の『秋葉山境内でみられる山野草』。更に階段は続く。『秋葉杉』。「遠江(とおつおうみ)を見霽(はる)かす秋葉山(海抜866m)は、千古の杉・桧がうっ蒼と生い寵リ、上古より俗塵を離れ、神の鎮ります霊山と崇められてきました。この神域の大杉は、天然林を始め、古くは文明年間(1469~1487年)より植林により育てられたものであり、秋葉杉と呼ばれています。」『秋葉杉』の大輪。参道沿いの斜面にはモミジの苗木が奉納されていた。更に常夜灯のある参道を進む。石段を10分ほどかけて登ると平成17年に竣功した『西ノ閽の神門(にしのかどもりのしんもん)』が姿を現した。樹齢650年の秋葉杉の切り株が左手に。かなり大きな切り株で、参道の横に。神門を造った木の切り株だと。「私たちは、古来より自然の恵みのなかで生活を行ってきました。あらゆる自然の営みのなかに神威を感じとり、自然への感謝を抱き、その自然との共生を願ってきました。森や山を神々の鎮まる神聖な場所と崇め、樹木は神々の依代ともされてきました。そして、木々は枯れ、伐採されたとしてもその神聖な生命は、切り株や切り出された木材に籠(こ)もり、継承されるものと信仰されてきました。ここ秋葉山では文明年間(1467~1487)より育林事業が行われ、この神門は古くから当地方で植林された杉だけを用いて造営されたものであり、古儀(こぎ)に倣(なら)い木の根と梢を大神に献(たてまつ)り、御神恩(ごしんおん)に感謝申し上げ、更なる御神威(ごしんい)の発揚を冀(こいねが)い、茲(ここ)に西の閽の神門を建立するものであります。」西ノ閽(かどもり)の神門・随身門。御鎮座1,300年記念事業の一環で、スーパー林道沿い参道に造営、材料は、地元天竜杉を使用。この門の両側には想像上の動物の神(四神)が取り付けられていた。玄武・白虎・朱雀・青竜の四神。正面左側に『玄武』。右側に『白虎』。裏側左側には『朱雀』。右側に『青龍』。随身・『右大臣』。随身・『左大臣』。階段の先に建物の姿が見えて来た。こちらは金属製の常夜灯。最後の参道階段を登る。『休憩所』、真ん中に『秋葉茶屋』。『休憩所』入口。さらに階段を上って手水舎と社務所がある南側に辿り着いた。この階段の上に社殿があります。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.12.19
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『秋彩ルーマニア・ブルガリア8日間の旅』のブログアップが1ヶ月以上続き、その後も小原四季咲き桜、香嵐渓の紅葉の絶景をブログアップして来ましたが、再び『旧東海道を歩く』のブログアップの再開です。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次去る10月14日から2泊3日で旧東海道を歩く(御油宿~池鯉鮒宿)に行ってきました。前回と同様に7時に茅ヶ崎の旅友の家を出発し、この日は、台風19号の影響で西湘バイパスが通行止めになっていたため、国道1号線を渡る。一時は洪水の可能性があった相模川を渡る。この朝は既に水位はかなり下がっていた。国道1号線沿いにある創業明治十一年 大磯 井上蒲鉾店前を通過。大磯・滄浪閣前を通過。酒匂川を渡る。小田原の町を通過し、板橋見附交差点先で新幹線を潜る。箱根新道への分岐に向かって進む。箱根新道に入ると大粒の雨が降り出して来た。ここ箱根町では10月12日夜までの24時間降水量が942.5mmを記録し、全国の最多記録を大幅に更新したのであった気象庁が1976年から残している全国統計で、最多の24時間降水量を記録した箱根町。10月の平均雨量は334.3mmで、この約3倍もの雨が、わずか24時間で降っていた計算になる。外の温度は11℃の表示が。箱根峠を超え山中城裏の山中城1号トンネルを通過。山中城2号トンネル前からは駿河湾、伊豆半島が見えた。前方に三島スカイウォークが垣間見えた。国道1号線の交通量も増えて来た。前方に薩埵峠が姿を表す。富士由比バイパスを走り、東名高速道路下を通過。丸子蓼科トンネルを通過。大井川を渡る。大井川の水量は少なかった。島田金谷バイパスから粟ヶ岳山頂近くに『茶』の文字が。小夜の中山トンネルを通過。県道40号線の太田川を渡る。県道58号線三倉川に架かる元開橋を渡り左折する。県道38号線をひたすら走り三倉トンネルを通過。道の駅『春野いきいき天狗村』でトイレ休憩。『春野いきいき天狗村』。春野は、鮎の生息地としても有名な気田川が流れ、豊かな自然に囲まれた山あいの里。2002年4月、塩の道とよばれる春野袋井線沿いに地場産品直販施設がオープンした。町内の生産者などが特産品のお茶やしめじ、しいたけ他、取れたての野菜や林産加工品を店に出していた。また、併設する食堂では、ヤマメの塩焼きや五平餅、自然薯のとろろそば、季節の野菜天ぷら入りそばなどが楽しめるようであった。魔除け『秋葉の天狗』。『抹茶入り 生どら焼き』を購入し楽しみました。そして更に県道58号線の山道を登って行く。『秋葉山本宮』の案内板が姿を表す。県道286号線気田川に橋を渡り左折。『気田川』の流れ。この日は東岡崎のホテルに向かう移動日であったが、途中、最初に秋葉神社下社を訪ねた。山道を進み秋葉神社下社のある秋葉山山麓の駐車場に到着。秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)<通称>秋葉山(あきはさん)【鎮座地】〒437-0626 静岡県浜松市天竜区春野町領家328-1 旧遠江国 周智郡門前通り。祭日であったが、紅葉シーズンはこれからの為か閑散としていた。『東海自然歩道(とうかいしぜんほどう)』案内図。東海自然歩道は、東京都八王子市高尾の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面市箕面の「明治の森箕面国定公園」までの11都府県約90市町村にまたがる長さ1697+kmの長距離自然歩道である。『秋葉山本宮秋葉神社 参拝案内図』。「下社まで遠州鉄道・天竜浜名湖鉄道 西鹿島駅より遠鉄バス「秋葉神社経由春野車庫」行きに乗り、秋葉神社下車。所要時間40分で料金は690円。但し1日5本しかない為、交通機関によるアクセスは決してよくないが、代わりに道路が整備されており、自家用車での参拝は増加している。下社周辺の川原はキャンプ地として夏場には多くの利用客がある。上社まで車・観光バスだと上社駐車場までスーパー林道を通り直接行くことができる。新東名浜松浜北ICより約30分。第一駐車場から本殿までは階段で少し距離があるが、脇道があり、社務所へ連絡すればそこを通って本殿近くまで寄せることができる(地形上、本殿近くに大型駐車スペースを確保できず、高齢者や身体上の理由のある参拝者を優先するためこのような措置が取られている)。しかし第一駐車場から本殿までの道は左右に紅葉の植樹がされ、杉の木立や遠州平野の眺望、山鳥のさえずりが楽しめるため歩く人も多い。第一駐車場の他、第二、第三駐車場もある。10月から翌年1月にかけての参拝の多い時期限定であるが、遠州鉄道西鹿島駅から直通の路線バスが運行される。運行日時は主に土日祝日であるが、毎年バス会社が決定する。冬の積雪について昼間から積る程の豪雪地域ではない。夜間の積雪に対する除雪作業体制も整っているため、午前10時頃には第一駐車場までノーマルタイヤで登れる状態になる。徒歩だと下社から東海自然歩道を登り、片道約1時間30分。ブームもあって下社駐車場を利用して登山を楽しむ参拝客も多い。」と ウィキペディアより。門前通りの横にある秋葉神社の由緒と行事を示す看板。【御祭神】火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ) 伊弉諾、伊弉冉二柱の神の御子で火の主宰神である。 上古より火の神の鎮まります御神体山と崇敬され、社殿の建ったのは和銅二年(709)。 元明天皇の御製と伝わるとのこと。【創建】 秋葉山は、赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川の上流に位置し、 山頂に秋葉山本宮秋葉神社を祀る。 上古より神様の鎮ります御神体山として崇敬され、初めて御社殿が建ったのは 和銅二年(西暦七〇九年)元明天皇の御製によるものと伝えられる。【御社号】上古は「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」(岐陛は秋葉の古語)と 申し上げたが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と称し、 明治初年教部省の達で権現の号を改め「秋葉神社」となったが、昭和二十七年 全国の秋葉神社の総本宮であるところから「秋葉山本宮秋葉神社」と改称した。【御神徳】火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、 火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁昌・工業発展の御霊験あらたかなる ものとして、全国津々浦々から信仰されている。 御霊験は奈良朝以来、屡々顕れ、御神威は海内に行きわたり、朝廷の御信仰篤く 正一位の宣旨を賜って、正一位秋葉神社と申し上げる。『秋葉山 本宮 秋葉神社下社』と刻まれた社碑。ちなみに『秋葉』は「あきば」ではなくて「あきは」と読むのだと。門前の旅館、土産物屋の間を進む入口の朱の欄干が前方に。鬱蒼とした杉などの樹木の茂る中に綺麗に石を積んだ階段の参道参道は玉砂利の敷かれた比較的ゆるやかな階段。下社の参道は上社と比べると格段に短かかったのであった。道の階段を上ると社殿のある境内。左に『授与所』から『社務所』、右に『手水舎』から『休息所』、正面に『社殿』です。『手水舎』手水は自然石を積み重ねた素朴な造り。『社殿』秋葉山の南東麓の当社(下社)と山頂の上社をあわせて「秋葉山本宮秋葉神社」と呼ばれ、東京秋葉原の地名にもなった全国の秋葉神社の総本宮です。公式サイトによると正式名称「遥斎殿(ようさいでん)」で、山上の本殿を遥拝するための建物。御祭神は古事記の伊邪那岐・伊邪那美二神の神生みの最後の場面に登場する火の神・火之迦具土大神、自身の誕生が母伊邪那美の死の原因となり、父伊邪那岐に切り殺されてしまいます。神紋は広島名物のもみじ饅頭そっくりの「七葉紅葉」。通常、下社(里宮)が豪華で、上社(上宮)は簡素であるが、ここ秋葉神社は珍しく反対。『社殿』内部。大きな手筒花火が『社殿』内部の右側に。『社殿』左に巨大な「十能」(右)と「火箸」(左)が。火防(ひぶせ)の神、火を使う道具の象徴として奉納されたもの。昭和29年9月静岡県島田市の鉄工所より寄贈されたものであると。『授与所』『社務所・祈願受付』御朱印を頂きました。御朱印によると、世に名高い秋葉の火まつりは、十二月十五日・十六日両日執り行われるようであった。特に十二月十六日夜半の防火祭(ひぶせのまつり)には、秘伝の弓・剣・火の三舞の神事が古式豊かに壮厳華麗に繰り広げられる。四月二十一日春祭鳴弦式(めいげんしき)、十二月十五日御阿礼祭(みあれさい)等古社にふさわしい特殊神事が執り行われるのだと。 ・・・つづく・・・
2019.12.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『大社神社』から100mほどの蒲郡信金先国府支店の先にあったのが『御油一里塚』。江戸日本橋より76里。本陣が2軒あったとされ、姫街道への追分けの宿であることから、旅籠の数も多かった御油宿。旧東海道を更に進む。旧東海道と姫街道が交わる交差点。国府町行力にあったのが『姫街道追分』追分には 「秋葉常夜灯・秋葉三尺坊道標・砥鹿神社鳳来寺道標」が。「秋葉山三尺坊大権現道」の石柱と常夜灯、「三州御油宿→これより姫街道 遠州見付宿」の木の案内板が置いてあった。『三州御油宿→これより姫街道 遠州見付宿まで』の木の案内板。旧東海道の反対側には『御油の追分』碑も立っていた。微妙な表記の揺れ。本坂通と姫街道。もちろん、同じ道。京から江戸に向かって左に分岐する道が「本坂道」、浜名湖北岸を迂回する脇往還で通称『姫街道(ひめかいどう)』である。姫街道は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道である。道程約60キロメートル。古くは東海道の本道で、二見の道(ふたみのみち)と呼ばれていた。中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになると長距離を移動する利用者は減り、地震などで浜名湖南岸が通行不能になった後に迂回路としてよく利用された。本坂峠を経由したことから本坂越(ほんざかごえ)、本坂通(ほんざかどおし/ほんざかどおり)、本坂道(ほんざかみち)、本坂街道(ほんざかかいどう)などと呼ばれた。戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされ、宿が置かれた。幕末頃から姫街道の呼称が定着し、明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで通過するようになり、峠越えの道は廃道となっている。 【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%A1%97%E9%81%93】よりなぜ姫街道なのか?このロマンチックな響きの名前の道、「姫街道」というのは、どうしてなのか。ネットで調べてみると姫街道の名称由来にはいくつも説があると。①女性が新居の関所の厳しい取り調べを避けた。②新居・舞坂の危険な渡船を女性が避けた。③新居関所を別名今切関所といい、今切が不吉な言葉なので女性が避けた。④「ひなびた」「ひねた」街道⑤東海道を男性に、脇街道を女性に見立てて、「姫」とした。などと。今は「姫街道」という呼称が定着し、国道257号や362号の通称も姫街道になっているのだと。更に住宅街の旧東海道をこの日の目的地に向かって進む。そして前方に『音羽川』に架かる橋が見えて来た。橋の手前、道路の右角にあったのが『従是楠社道』碑楠正行が祭神らしい、八面神社への道。『御油橋』『ごゆばし』と。下を流れる『音羽川』。水源は豊川市長沢町にあり、市内長沢町 - 国府町間では国道1号に沿うように流れ、市内国府町から南へ三河湾に注ぐ。『御油橋』を渡った直後、左にあったのが『若宮八幡社』。小さな社殿と小さな狛犬。旧東海道沿いの連子格子窓の民家。路地脇にあった『花・ベルツゆかりの地』。「花・ベルツ(一八六四~一九三七)は、明治政府がドイツから招いた医師ベルツの妻となった女性です。日本での近代医学の普及に尽力したベルツを支え、明治三八年(一九○五)に任期を終えたベルツとともにドイツに渡りました。国際結婚の先駆けとして、ベルツ死後もドイツに残りましたが、第一次世界大戦の勃発などがあり、大正十一年(一九二二)に帰国しました。当地は、花の父親熊吉の生家で、江戸時代に旅籠屋を営んでいた戸田屋のあった場所です。戸田家の菩提寺である西明寺(八幡町)には、花が建てたベルツの供養塔があります。」。『高札場跡』が右手の桜の木の下に。江戸時代に代官所が町民や旅人に諸規則を知らせるため、宿場の中でも人通りの多い場所に立てた告知板を高札という。御油宿でこの場所に高札が立てられていたということは、ここが当時のメインストリートだったのであろうが・・・・。『高札場跡』。「高札場とは、江戸時代に代官所が町民や旅人に、諸規則を知らせるために設置した掲示板を高札という。御油宿ではこの場所に高札が立てられていた。」『三十五番宿 御油の松並木』案内板。『歌川広重 東海道五拾三次内 御油 旅人留女』の浮世絵とその先に問屋場跡が。正面から。御油は、浜名湖の北岸を迂回する姫街道の分岐点にも当たる交通の要地でした。強引に腕や荷物をつかみ旅人を奪い合う宿の女たちをユーモラスに描いた動きのある情景は、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多をそのまま描いているようです。旅舎の軒に懸かる木札には、絵師名やシリーズ名、版元名とともに、彫工・摺工の名が記されています。『問屋場跡』。「問屋場には、馬や人足が常備され、旅行者や荷物などを、次の宿場に継ぎ送る業務が行われていました。御油宿の問屋場はこの場所にありました。」上記の写真の浮世絵は『歌川廣重 狂歌入東海道五拾三次 石薬師 問屋場ノ図』狂歌は「石薬師瓦と黄金まく人は瑠璃の玉とも光る旅宿」。そしてこの日の最後に『御油の松並木資料館』を訪ねた。国の天然記念物に指定されている「御油のマツ並木」と東海道五十三次35番目の宿場として栄えた「御油宿」に関する資料が展示されていた。入口横には樹齢ほぼ380年の松の根っこと幹が展示されていた。『御油の松並木資料館』入口。国の天然記念物に指定されている御油の松並木と東海道五十三次35番目の宿場として栄えた御油宿に関する資料が展示されていた。江戸時代の御油宿の街並みの復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や、旅装束などの資料約130点等々。『東海道御油宿と松並木』。「御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。ここから東の、かつて上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通り沿いには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、「日本の名松百選」にも選ばれています。」様々な浮世絵が。天保年間の旅装束、その横に同じく天保年間の助郷の旗であると。御油・赤坂・国府地区の街並みの復元ジオラマ(仏:diorama)。音羽川沿いにも松並木が。左に『御油の松並木』。『御油の松並木』の写真。御油宿高札(左)と手筒花火(右)。『弘化年間の御油地図』。天井には駕籠が。文政年間の医者の往診用駕籠であると。『御油の松並木資料館』を後にし、音羽川沿いを歩き『青戸橋』を渡る。『音戸橋』から『御油橋』を見る。土手には彼岸花が開花を始めていた。御油駅前交差点の地下道を渡る。そして名鉄・御油駅に到着。踏切を渡り豊橋方面の電車に乗る。そして2連泊した豊橋のホテルに戻り、旅友の愛車での帰路に。国道1号線『潮見バイパス』を進む。国道42号線下を潜る。国道1号線『道の駅 潮見坂』手前。目の前に太平洋が姿を表した。湖西市の浜名湖カントリークラブゴルフ場の風力発電装置。浜名バイパスの『浜名橋』手前より浜名湖を見る。南浜名湖に浮かぶ弁天島のシンボルタワー、赤の大鳥居。浜名橋を渡り終わると、前方に『舞阪灯台』が。この灯台は岬にあるわけではなく遠州灘の浜名湖入り口付近に。海からも距離があり回りは松林に囲まれていた。塔高:28m、灯高:37m、初点灯:昭和39年3月とのこと。そして西の空には夕焼け雲が。この後は、運転を旅友に全て!!任せウトウトと。そして茅ヶ崎の旅友邸に22時前に到着し、自宅に22:30前に帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2019.11.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『伊奈一里塚跡』から100mほどの場所右手にあったのが『速須佐之男神社(すさのおじんじゃ)』参道入口左にあったのが『秋葉山常夜灯』。石鳥居とその先に参道が。扁額にも『速須佐之男神社』と。『拝殿』。明和7年(1770年)10月9日創建という。速須佐之男命を祭神とし、例祭日は旧6月15日。境内には何故か?二宮尊徳像が。豊川市桜町1丁目、右手広場奥にあったのが『冷泉為村卿御歌碑』。案内板。『若宮白鳥神社遥拝所』と刻まれた石柱の横に歌碑が。藤原定家 を祖にもつ江戸中期の歌人・冷泉為村(れいぜい・ためむら、1712~74年)が、延享3年(1746)に徳川第9代家重 が将軍継承の際、為村一行が朝廷の使いとして江戸に下る途中、当時、桜の名所であったという桜町で詠んだ歌碑が旧東海道沿いにあった。この碑は、2007年3月18日に建てられたもの。「 散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 」そして豊川市の汚水マンホール蓋。市内を流れる豊川と奥の山は本宮山。市の木「クロマツ」と市の花「サツキ」、それに豊川稲荷を連想させる「キツネ」も描かれている。そして民家の庭に色彩豊かな鶏が数匹放し飼いにされていた。名古屋コーチンではなさそうだが、昔、熊本で見た「天草大王」か?『西古瀬川』を渡る。大型草刈り機で堤防の雑草を一気に除去していた。川沿いには(株)白鳥生コンが。更に旧東海道を進む。可愛らしい『道祖神』、『豊川警察署』の文字も。この後、東三河環状線の下を潜れないため、右折して国道1号線に合流し京次西交差点を渡り進む。名鉄名古屋本線・白鳥路線橋を進む。名鉄名古屋本線。周囲の田園風景を楽しみながら。国道1号線・白鳥交差点を過ぎる。日本橋から305.5kmと300km超えを再確認。国府町薮下交差点から旧東海道は左に分岐して県道374号線に。読みは国府町(こうちょう)と。名鉄駅・国府は「こう」であった記憶があるが。旧東海道に入る。小さな祠が二つ仲良く並んでいた。『半僧坊大権現』と。こちらは『国府天神』。右手に『秋葉山常夜燈』。『秋葉山 常夜燈』「型式は御中堅?高さ205cm、造上寛政12庚申(1800)村中安全。秋葉山秋葉三尺坊大権現はその昔、越後国蔵山より白狐に乗って遠州の秋葉山に飛来したいといわれ火防の霊験あらたかと信ぜられ、江戸時代朝庭(廷)、大名、庶民に至るまで奥深い信仰をあつめられ、国府村民等も村民を火難より守るため秋葉山常夜燈を造りました。」次に右手には『薬師堂瑠璃殿』。熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は二人の姉妹が住む家に投宿した。姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、姉妹はこれを安置した寺を建立したという。瑠璃殿の扁額は文政四年(1828年)八幡山巌禅翁の書。『三河国府中二子寺 薬師如来塁畧縁記』。『薬師如来像』であろうか?『薬師如来』の幟が並んでいた。再び豊川市マンホール蓋。市の木「クロマツ」の間にキツネが鎮座。旧東海道と平行に建っていたのが『大社神社』。愛知県豊川市国府町流霞5に鎮座する神社。明治5年(1872年)には、大社神社は国府村の総氏神となる。ご祭神は大国主命。『御神木』。境内には他に秋葉神社も。御祭神は火之迦具土(ひのかぐつち)大神(秋葉三尺坊)『拝殿』。天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとあります。こちらは大社神社忌避期間遙拝所。『戦死者 玉島好彦のために』碑。「子を思う 親の心の悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次豊川放水路を渡った先には、善光寺川に架かる『万石橋』が。万石橋の下には、昭和28年改築の旧万石橋が残っていた。昭和40年(1965年)豊川放水路の通水に伴い現『万石橋』を架橋し不要となった旧橋そのまま残っているのは珍しい。さらにその先『豊川放水路』から300m近く歩くと右手にあったのが『子だが橋』の碑。「子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ一千年前莬足神社には、人見御供があり春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た、見ればわが子である、「ああいかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だか橋と呼ぶようになったということである。現在、莬足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。」そして『才丿木』交差点の先の右手にあったのが『社式内 莬足神社』。『社式内 莬足神社(うたりじんじゃ)』と刻まれた社標。『莬足神社の史跡と伝説』「①石の鳥居 第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。 高さ四・五m 明神形 銘は次のとおり。 右側 奉献石鳥居 三州宝飯郡小坂井村八幡宮前 左側 元禄辛未九月吉旦 吉田城主従四位下侍従兼佐渡守小笠原長重 肅具 額の文字は、東征大総督 有栖川熾仁親王の御染筆。 ②宿中島太神楽奉納 石灯籠ニ基 小坂井町宿字中島は三河万歳で有名で、また伊勢神楽、獅子神楽の流れをくむ太神楽でも 知られていた。太神楽は江戸時代末期に大流行し、近郷近在の秋祭りはもちろん、遠州方面への 出稼ぎも盛んに行われていた。鳥居両脇の石灯籠は、中島の太神楽惣連中が文化元年 (一八〇四)に奉納したもので、当時の太神楽の隆盛を偲ばせる。灯籠に十九名の 太神楽連中の名が刻まれている。③弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」 弁慶が東行のおり、大雨で対岸へ渡れず渡津に逗留した時に植えた松と伝えられてきた。 奈良時代から平安時代の十世紀頃まで菟足神社前は、大小の洲がある広大な入江であり、 対岸の飽海、坂津方面へは船で渡っていた。枕草子にも書かれた「しかすがの渡し」が どこにあったのかは特定できないが、ある時期にはこの近辺にあったと思われる。 紀行文「いほぬし」 増基法師(天暦十年頃 九五六)の歌 しかすがの渡りにて渡し守のいみじうぬれたるに 旅人のとしも見えねどしかすがにみなれてみゆる渡守哉 現在の松は、平成十八年に植え替えられた。」石の第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。高さ4.5m。扁額には『内式 莬足神社』と。拝殿前の二の鳥居。『式内 莬足神社』御祭神 菟上足尼命創立 白鳳13年(686)穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に御遷座になった。当社の大般若経55巻は国の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書(1176-1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下のおり、洪水のため渡航できず、滞在7日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた)なお応安3年(1370)の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水社の位置に鐘楼があったことが天保時代の三河国名所図絵に出ている。当時のお田祭りの行事は県の文化財に指定(昭和39年)されている。風祭り(平成27年市無形文化財指定)として知られている例祭は4月第2土・日曜日(本来は4月10,11日)に行われ、打上花火、建物花火、手筒花火は特に名高い。 また、祭礼の古面(5面)は昭和40年に県の文化財に指定されている。『莬足神社 案内図』。『莬足神社 拝殿』。『神楽殿』。神輿庫であろうか?『万福招来生木』。『大切な場所』をズームで。『別宮 八幡社』『境内社』は山住神社、金刀比羅宮、津島神社。『菟足神社貝塚』。『菟足神社貝塚』「この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。故川出直吉氏は明治三十年代から貝塚を発掘し、遺物の採集に努めていた。このため平井稲荷山貝塚とともに早くから学界の注目を集め、大正十一年には京郁帝国大学の故清野謙次博士が発掘調査をされた。また、最近では平成二年に町教育委員会が調査を行っている。出土遺物はほとんとが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の押型文土器と呼ばれる土器の破片である。この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は乎井稲荷山貝塚のように大量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。貝殻を形成している貝塚は、ほとんどがハマグリとシジミガイであり、場所によっては厚さ一メートル近くも推積している所もあり、町内の貝塚の中で最も保存状況が良い。当時は目の前を流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採集していたのであろうか。また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては絶好の場所である。川出氏の収集品は町郷土資料館で見ることができる。」『菟足神社と徐福伝説』今から二千百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に運薬など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、運薬の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。「ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような英足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。- 熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来だ」との言い伝えがある。・ 牛窪記(元禄十年(一八九七)頃成立)には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之漠ヨリ徐氏古座侍郎乏府(北国渡六本松ト云浜二来ル。 中略 徐福ガ孫古座侍郎三州二移リ来ル故二本宮山下秦氏者多シ……」とある。| 英足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菊上足形命は中 昭 雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して流ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御館のまにまに楽石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり………」と記されている。II 英足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。古来困足神社の察事には、活の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。『奉納 三尺玉』碑。『収蔵庫』。国指定重要文化財『大般若経』を収容すると。 『大般若経』は585巻 で1961年(昭和36年)6月30日指定されたと。『忠魂碑』。御朱印を頂きました。旧東海道・県道496号線を進むとJR飯田線の小坂井踏切が。そしてその先のカーブの場所の山彦精肉店前にあった小坂井町の『秋葉神社』。秋葉神社境内の『常夜灯』は文化5年(1808)建立と。先行した旅友が待っていてくれた。旅友と合流して更に旧東海道を進む。『明光寺』山門前の堂も立派な『常夜灯』。『明光寺山門』。『明光寺 本堂』浄土宗の寺院で、山号は諏訪山、本尊は阿弥陀如来。 『諏訪山』と書かれた扁額。法然上人であろうか。『本堂』脇の石仏群。『地境争いと五輪塔』境内の一角に、上部の欠けた五輪塔があり、こんな言い伝えが残っていると。「今から三百年ほど前の古い絵図をみると、現在の豊川市蔵子町と小坂井町宿とが、野川の川筋のことについて、地境の争いがたびたびあったことがわかります。 当時、その地境に五輪塔があり、両方でうばいあったと言われています。この五輪塔は誰が建てたのか、誰を祀ったものかはっきりわかりません。 現在、塔の上の部分は、豊川市蔵子町の共同墓地にあり、下部は小坂井町宿の明光寺の境内にあります。」『畜魂碑』旧東海道・白鳥豊橋線に戻り進む。左手にあったのが『伊那村立場茶屋 加藤家跡』碑。『伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)』一 茶屋の地名 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。ニ 加藤家と良香散 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、 この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M) 一つ残すのみとなった。三 明治天皇御旧跡 東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、 牧野真一氏宅に保存されている。四 俳人烏巣 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。五 芭蕉句碑 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」六 烏巣句碑 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」その先には『迦貝土神社(かぐつちじんじゃ)』が。石鳥居の『扁額』。『本堂』。延宝8年(1680年)11月17日創建という。 迦具土神を祭神とし、例祭日は 10月12日。街中にあり、鬱蒼とした木々に囲まれていないのと、社殿も新しいので、境内が明るく広々と感じる。そして『伊奈 一里塚跡』碑。豊川を渡り、旧東海道を北西に道なりに進むと、山本太鼓店の正面に江戸から数えて七十五番目の一里塚となる伊奈(伊ノ奈)一里塚の碑があった。 伊奈(伊ノ奈)一里塚は碑が立っているのみで当時の面影は残っていない。『江戸日本橋から七五里』。そして慶応年間創業の『山本太鼓店』に立ち寄る。店内には様々な太鼓が陳列されていた。江戸時代、幕府の政策により、東海道の街道筋の約十里毎に太鼓店が配置されたという。東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのこと。この小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治年代に始めたもので、現在でも6代目の正孝氏が昔どおり、すべて手作業で製作していたのであった。暖簾には『鼓』と。店主が太鼓について説明してくださいました。巨大な太鼓の皮。どこの神社の太鼓の皮なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次愛知県道496号白鳥豊橋線の豊川に架かる『豊橋』を渡る。もともと東海道は現在と違うところで豊川を渡っていたが、江戸時代に東海道が豊橋(吉田大橋)を渡るルートに定められ、江戸幕府がこの大橋を管理下に置いて天下橋となった。これが船町(下流)側のこの大橋・『豊橋』のルーツである。これが昭和時代になり、国道1号の整備と共にこの大橋・『豊橋』の東の酒井忠次が架けたとされる辺りにもう1つの大橋(吉田大橋)を架けた。これが八町(上流)側の大橋・『豊橋』である。この時点で正式に、この東の八町の橋が吉田大橋(国道1号)、西の下流側の船町の橋が『豊橋』(愛知県道496号白鳥豊橋線)という名になった。『豊橋』から『吉田城』の『鉄櫓』が見えた。手前に見える橋が『吉田大橋』。『豊橋』を渡り終えて、直ぐに左折し豊川に沿って進む。右手にあったのが『豊川稲荷遥拝所碑』。『維持安政二龍次乙卯正月』と刻まれた石灯籠。その後ろに、『豊川稲荷遥拝所』碑。『豊川稲荷遥拝所と大鳥居について』豊川稲荷はここから北方へ直線で5.5km程の所にある。豊川稲荷遥拝所から100mほど先・右手に『真宗 高田派 朝晃山 真光寺』があった。真光寺の創建年代等は不詳であるが、山門脇に豊橋市指定有形文化財の『木造阿弥陀如来立像』の解説があった。『本堂』。『真光寺の皆様へ』、と高田本山へのバス旅行の案内。そして次に訪ねたのが『聖眼寺しょうげんじ』。真光寺の一区画隣にあったのが真宗高田派の『聖霊山聖眼寺』聖眼寺は鎌倉時代に下地に移転したと言われ、永禄7年(1564)徳川家康が、今川勢が支配する対岸の吉田城を攻撃した際、ここに本陣を構えたという。家康は境内にある太子堂で必勝を祈願し、ここで金扇をもらい、それを用いて采配を振るったと伝えられている。山門前には『芭蕉句碑標石』が。この標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」と。そしてその後ろには『松葉塚』の解説板が。『松葉塚』聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。「松葉(ご)を焚いて手拭あふる寒さ哉」 古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。『芭蕉句碑』。古碑松葉塚には松尾芭蕉が愛弟子社国に詠んだ「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」という句が刻まれていて、「松葉塚」名称の由来を示している。「ご」は三河方言で、枯れた松葉のこと。焚き付けとして最良の燃料であったと。この境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑が立っていたのであった。古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれていたのであった。一見したとき、なぜ「手」をあぶらずに「手拭」なのかと?。調べたところ、この手拭は湿ったものが道中の寒さで凍ったものだという。それをあぶることで手をあぶるより寒さを余計に表現できるのだろうと。この記念碑は?『本堂』。近くの幼稚園では幼児たちが楽しく遊んでいた。蚊取り装置『モスキートマグネット』。ネットで調べて見ると蚊を磁石のように引き寄せて吸い取る装置であると。どんな仕組みで蚊を駆除するかというと、プロパンガスの燃焼によって発生した二酸化炭素を、特殊スクリーンを通し蚊の嫌う成分を取り除き、地表に向けて放出します。空気より重い二酸化炭素は広範囲に拡散して、蚊をおびき寄せます。そして、バイオ技術で生成した動物のエキス:誘引剤(オクテノール)によって、装置を動物と錯覚させて吸引口へ引き寄せ、内蔵しているファンのバキュームにより本体内部の捕獲ネットに閉じ込め、乾燥させてしまいます。殺虫剤を使用しないため、他の益虫や昆虫にはまったく影響がなく、環境に優しい製品であると。園児が蚊に刺されないように設置されているのであろう。街道の左側は豊川の土手が続く。土手の内側には石垣が数段、積まれている。いつ時代のものであろうか。『下地堤防改修記念碑』が左手に。5分ほど歩いた歩道の街路樹の元に、『下地一里塚跡』の石標を見つけた。『江戸日本橋より七四里』とあった。『下地一里塚跡』の石標を振り返る。(株)ヤマサンは大豆 食用油 米穀 豆腐関連資材 和・洋・中華食材 冷凍食品などを製造。県道387号線・清須下地線を更に進む。『マンデビラ ピンクパフェ』であろうか?県道496号線の右に小さく、『爪郷遺跡(うりごういせき)』の案内板が。ここを右折して進む。『史跡 瓜郷遺跡』石柱。『瓜郷遺跡』「この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期(2000年前~1700年前)にかけての集落>の跡です。昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。ここでは農耕(主に稲作)のほかに、漁撈や狩猟などが行われていたことがわかりました。瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なものです。なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されています。」『瓜郷遺跡』正面。「弥生時代の竪穴住居(復元)この復元家屋は。昭和22年~27年の発掘調査で見つかった竪穴住居の遺構をもとに、故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。時代はおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります。」竪穴住居の内部。中には二本の主柱と真ん中に炉が。見事な藁葺き屋根、大きさは東西5.8m、南北3.5m。『鹿菅橋』。下は豊川放水路の分岐水路。更に県道496号線の田園地帯を飯田線・小坂井駅方面意向って進む。『豊川放水路』を渡る。橋の名は『高橋』。左手に名鉄名古屋本線と東海道本線。『豊川放水路』。東三河の清流、豊川は、かつてたびたび洪水をおこし、水害で流域に住む人々を苦しめてきた。 その理由としては、川の長さが約77㎞と短いうえに2/3は山地で降水量が多く、上流の降水が3~4時間で平地に達してしまうこと、下流域で川が蛇行し、U型部分が狭く最大流量の半分も疎水力がないことが考えられる。 洪水対策として江戸時代には霞堤(鎧堤)がつくられたが,昭和になってからも10年、12年、19年と大洪水を記録しており、放水路建設が急務となった。工事は、昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず、戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった放水路(豊川市行明町・柑子町から 豊橋市前芝町へ通じる全長6.6㎞)が完成した。洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は、永年の水害の苦しみから解放されることとなった。ここを渡った先で豊橋市から豊川市へ入る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次西八町を左折し、国道259号線を南下して札木交差点を右折すると『吉田宿本陣跡』が。ここには江戸時代、清須屋、東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ街道を往来する大名、幕府役人、宮家、公卿など身分の高かった人々、が宿泊したところ。享和2年の書上によると東海道吉田宿には本陣2軒脇本陣1軒、旅籠65軒がありましたが、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。旅友のアドバイスで引き返して路面電車が行き交う大通り『札木交差点』に戻る。交差点を渡った角にあったのが「吉田宿問屋場跡」碑。一人だったら見逃していたのであったが。「宿駅には、必ず道中奉行所支配の問屋場が設けられ、ここで人馬継立ての業務が行われた。吉田宿の問屋場は、札木町のこの地に置かれ、人足百人、馬百疋が貨客のために用意され、問屋を筆頭に、年寄、帳付などの問屋場役人によって支配された。」再び戻り『札木交差点』を渡る。通りを渡った先にある鰻屋「丸よ」。その店先にも少し大きな『吉田宿本陣跡』の碑。つまり大小の『吉田宿本陣跡』碑が少し離れて2箇所に。「ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本陣がありました。本陣とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和2年(1802年)の書上によると、東海道吉田宿には、本陣二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。」店先にはもう一つの興味深い説明書き。『べっぴん語源発祥の店 丸よ』。「明治初期に田原藩家老渡辺崋山の息子、渡辺小華の発案により「すこぶる別品」の看板を売り出した所、大好評を得、その言葉が全国に広がってゆき極上品はすべて「べっぴん」と呼ぶようになって、そのあとの明治中期には美しい女性(美人)にも使われるようになりました。丸よはその伝統の「べっぴん」の鰻を今も焼き続けております。」その前にあったのが『吉田宿脇本陣跡』。歩道橋から。次に『手筒花火発祥の地』であるとの『吉田神社』を訪ねた。石鳥居の扁額には『正一位吉田神社』と。ここにも『廣重 東海道五十三次 吉田 豊川橋』が。『影降石(ようごうせき)(天降石)』。社史に「延宝元年(1673)6月9日吉田城主小笠原長矩(ながのり)鳥居を建つ 寛永十七年(1640)水野忠清が建つる所のもの 風災に罹(かか)りたるを以てなり 今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御鬮(みくじ)による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後、影向石(ようごうせき)として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)。延宝七年(1679)6月8日城主小笠原長祐(ながすけ)は影向石の竹柵を修め、又 貞享四年(1687)6月6日には竹柵を改修して石垣を造ると伝わります。また天降石(てんごうせき)との呼び名もあったようです。それより百五十年以上を経て、吉田上伝馬(かみでんま)の金物商夏目可敬(なつめかけい)が編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり 実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降しかば影降石と号す」と記されています。『伝承三河伝統 手筒花火発祥之地』記念碑。平成5年に手筒花火とその歴史を後世に伝える為に、氏子や手筒花火を愛する方々の協力により標示塔と共に建立されたとのこと。『祇園祭』案内板。豊橋祇園祭は、7月第3週の金曜日、大筒の練り込みと吉田神社での 手筒花火の奉納、"神前放揚(しんぜんほうよう)" に始まります。手筒花火とは、節を抜いた孟宗竹(もうそうちく)の中に火薬を詰めたもので、噴出する花火を脇や腹に抱えて打上げます。東三河の手筒花火の奉納は、現在の花火大会の原型ともいえる歴史ある神事で、手筒の材料となる竹の確保から打ち手たち自らで行うのがならわしです。大筒とは、手筒花火と同じ形状をした大型の花火で、台の上に固定したまま揚げます。18世紀には既に祇園祭に登場していました。各町内で用意された大筒は、氏子衆に担がれ、関屋町交差点で一斉にスタートします。大筒はそれぞれの町で、全ての家の前を通って吉田神社まで担ぎ出されます。吉田天王社祭礼の図。『社務所』。『拝殿』。『吉田神社』案内板。『金柑丸稲荷社』「永正2年(1505)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ、 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)といいます。社伝によると金柑丸稲荷社は、今橋城築城の際に創建されたとされ、正徳4年(1714)吉田城主松平信高は社殿を修補し、この時正一位の神階を賜ります。ちなみに吉田天王社が正一位の神階を賜ったのは天保6年(1835)です。明治11年大河内信古は吉田城内五ヶ所の稲荷社を金柑丸に合祀し、吉田神社境内に移しました。明治39年には日露戦役記念として社殿が造立され、明治42年には正徳3年松平信高が城内三之丸に勧請したとされる城守護稲荷社(しろもりごいなりしゃ)が合祀されました。歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から出世開運の稲荷神として、又、旧城内御丸鬼門守護の神社であることから方除けの神として広く信仰される。」『吉田藩主屋敷図』。蔵であろうか?御朱印を頂きました。そして次に訪ねたのが『西惣門』の復元模型。角度を変えて。自転車が邪魔!!吉田宿西惣門は、江戸時代東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄の空き地十七坪がありました。この門は、湖西市の本興寺の惣門を参考にしてつくられたもので、その惣門は吉田城大手門を移築1674年に移築した、とのこと。『西惣門』のある交差点。『豊橋 湊神明社』。白鳳元年(672年)創建と伝えられる伝統のある神社で、元和年間(1615~24)に始まり、かっては吉田城下最大の祭りと云われた伊勢神宮に御衣(絹)を献上する「御衣祭」が現在も行われている。 祭神は天照皇大神、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)。山田宗徧が造ったという弁天池の築島に立つ湊築島弁天社は、平成20年(2008)7月8日に国の登録文化財に。 神社の入口にあったのが『原田圭岳筆『老松図』屏風』。縦226cm、横522cm、紙本墨画、六曲屏風この作品は、慶応元年(1865)圭岳64歳の時、一本の老松の大樹を六曲大屏風の画面いっぱいに描いた大作で、非凡な才能がうかがえる作品です。この屏風は当神明社の祭礼の際、神楽殿の背景として使用したものと言われています。原田圭岳(1803-1885)は、享和3年に三河国西尾(現西尾市)に生まれ、長じて京都で四条派の 岡本豊彦に学び、天保7・8年頃から江戸で画家として活躍しました。その後安政2年(1855)圭岳54歳のときから吉田(現豊橋市)に永住し、吉田の画家として活躍し、明治18年84歳で没しました。『老松図』は、圭岳の作品の中でも稀にみる大作で、圭岳を研究する上でも基準作として貴重なものです。『松尾芭蕉吉田の宿旅籠の記』芭蕉が貞享4年(1678)11月10日 保美(現渥美町)の杜国を訪れる際に、吉田に泊った時に詠んだ芭蕉句碑(旅寝塚) 。「寒けれど 二人旅寝ぞ たのもしき」『船町』交差点。『船町と高札場』。「その昔、この辺りは四ツ家(四ツ屋)と称され、数件の家屋がまばらにある河原同然の土地であったようです。この地に最初に村を築いたのは浅井与次右衛門(浅井長政の重臣)とその一門80名程の人々と言われています。その後、天正18年(1590)に吉田城主・池田照政(輝政)より定住を許され庄屋役を命ぜられ、以後船町と改めて町の開発を行なったようです。近世初頭に開かれた吉田湊は豊川舟運の終点として、」また伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時三河における最大の湊でした。船町はこの湊での船役を命じられ、地子(じし:賦課された地代)免除の特典が与えられなど吉田24町の中で独自の立場があったようです。高札場寛永13年(1633)幕府の命により橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより70m下流)に高札場が設けられました。この高札場には河の取り締まり、橋の保護など極めて重要な取り決めが板に書かれて掲げられていました。」そして豊川に架かる『吉田大橋』に到着。橋には『とよはし』と刻まれていた。豊川沿いを下流に向かって進む。吉田大橋跡南詰にある旧豊橋の親柱。明治12年(1879年)吉田大橋に代わり架橋された旧豊橋の親柱で、大正5年(1916年)鋼製トラス橋に架け替えられた際、この親柱だけはそのまま流用されたという。昭和61年(1986年)現在の『豊橋』が竣工、役目を終えたこの親柱と共に鋼製トラス橋の一部が往時を偲びここに残る。鋼製トラス橋の一部が保存されていた。近くに寄って。近くにあった藤波 孝生(ふじなみ たかお)句碑。『初風や 伊勢より船町へ 旅役者』植栽に埋もれながらもあったのが、古市 木朶(ふるいちもくだく)句碑。『豊橋や 城にのこれる 夕かすみ』豊川護岸に石畳を敷き往時を偲ぶ『吉田湊跡』(左)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次豊橋市内の豊橋公園の最奥まで歩き豊川下流を見る。吉田城の豊川沿いに石垣の下を歩く。『北御多門跡』。北御多門は本丸の裏手側に設けられていた門。そばには鉄三重櫓が建っていた。鉄櫓の石垣は、池田輝政が築いたといわれる吉田城最古の石垣。そして隅櫓に向かって階段を上る。櫓とは思えない復興三重『鉄櫓(くろがねやぐら)』。本丸跡の一角に三層の『鉄櫓』・入道櫓が昭和29年に再建され、櫓脇の『武具所跡』から眺める豊川の流れが美しかったのであった。吉田城の城主は牧野古白に始まり、徳川家康の三河統一により酒井忠次の配置、家康の関東移封による池田輝政の入城と続き、江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が支配し中期以降は松平(大河内)氏が城主となった。時間は9:52、鉄櫓の開場は10時からと。続日本100名城スタンプを頂くために暫し待つ。『武具所跡』から豊川の流れを楽しむ。鉄櫓と北御多門の間にあった建物。豊川は、愛知県設楽郡設楽町の段戸山・鷹ノ巣山の麓を水源とする、延長77Kmと、そう長くはない川だが、この河口にそして吉田城に近いエリアは、雄大に大きく湾曲して緩やかに流れていた。右奥の方から流れてきた豊川が、大きく左側に湾曲し、写真には写っていませんが、右の方から朝倉川が合流する地点。豊川の下流側。左手に、この後に渡った『吉田大橋』が見えた。豊川では白鷺が羽を休めていた。『鉄櫓』を『武具所跡』から見上げる。そして10時になり『鉄櫓』が開門。正面に『ようこそ吉田城へ』の文字の下に『廣重 東海道五十三次「吉田 豊川橋」』。画面の左側に大きく描かれている吉田大橋は、豊川に架かっている橋で、江戸から京都までの間にある四橋の1つ。豊川から伊勢へ行く早船が出ており、陸路を行くよりも三日も早く着くと、いつも満船だったといわれています。戦国時代に、この地に今橋城が築城されて城下町になり、後に譜代大名の努力もあって栄えました。櫓の改装中の吉田城。足場が組まれ、職人たちが壁を塗っています。入場料無料で資料館を見学できます。スタンプは入り口に置いてありました。続日本100名城のスタンプを頂きました。本丸跡は広場となっており、北西隅に『鉄櫓』が再建されていた。吉田城『本丸御殿』碑。築城当初のこの城の命名について、「牛窪記」には吉田城とあり、後の成立である「牛窪密談記」・「宮嶋伝記」には今橋城となっており、また「今橋物語」には峯野城や歯雑城(おかさわじょう)と古名を紹介していて、今橋城の城名には諸説がある。大永2年(1522年)、城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められたというが、『宗長手記』では、大永4年(1524年)に「十日に今橋牧野田三一宿」、大永6年(1526年)、「三河国今橋牧野田三」とある。また、明治42年(1909年)発行の『豊橋志要』(豊橋市参事会)には、天文年中に、今川義元が、今橋から吉田に改称したとしている。『吉田城復元模型』。手前右側の鉄櫓だけ再建されているのだ。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%B8%89%E6%B2%B3%E5%9B%BD)】より『豊橋公園のイスノキ』。暖地に自生するマンサク科の常緑高木。別名、ユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。樹高 16m目通り幹囲 3.6m推定樹齢 300年以上樹形が美しく、樹勢も良いのも大したものだが、何と言っても、大きく力強い根張りが素晴らしい。根元回りの姿には、目を釘付けにする魅力があるように思われる。本丸跡広場より『鉄櫓』を再び。『吉田城』案内板。『吉田城略史』吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれるものである。『石垣と刻印』大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数カ所だけで他は土塁であった。本丸石垣の壁面は、内側・外側合わせると約50面になる。野面積み(自然石を砕いて、そのまま積んでいく)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない池田輝政時代の石垣だといわれている。さらに、石垣の石のうち花崗岩に色々な印が彫られてるが、これがいわゆる「石垣刻印」と呼ばれているものである。刻印は、大阪城や名古屋城などにもみられ、築城工事を分担した大名と家臣などの印であるといわれ、現在まで50以上確認されている。因みに、吉田城の石垣に使われている花崗岩は名古屋城創設用の石材を使用したものである。『吉田城跡』石碑。『南御多門跡』碑。この先で枡形構造になっていたので、おそらく一の門が冠木門、本丸側の二の門がこの『南御多門』だったのであろう。吉田城は大規模な城郭ではありますが大半は土塁で、石垣が築かれているのは本丸周辺のみとなっているのだと。『城の石垣刻印とは』。『石垣刻印』-1『石垣刻印』-2『空堀』。『冠木門跡』。吉田城を後にして『豊橋市役所』を見る。『カトリック豊橋教会』。そして訪ね忘れていた『豊橋ハリストス正教会』に戻る。戦災で市街の中心が焼けた豊橋において、豊橋市公会堂と共に残る数少ない近代建築である。葱坊主にも玉葱にも例えられる、ロシア正教特有のドーム飾り。『豊橋ハリスト正教会聖使福音者馬太聖堂』豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、大正2年12月に竣工した。平面は、西から東へ、玄関、啓蒙所、聖所、至聖所を一直線に並べる、ハリストス正教会聖堂に共通する形式である。豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂は、ハリストス正教会聖堂の定型的な平面構成をもつとともに、我が国における木造ハリストス正教会聖堂の完成型の建築構成と細部意匠をもつことで、高い歴史的価値がある。また本聖堂が、我が国ハリストス正教会の司祭建築家河村伊蔵の設計と推測できる点においても重要である。木造、建築面積182.03m2、一階建、正面八角鐘楼付、銅板葺、聖障付。正面。函館は煉瓦造だが、豊橋は木造である。設計は日本ハリストス正教会の聖職者で建築家の河村伊蔵(1866~1940)。そして豊橋市公会堂前の歩道橋を上って行く。国道1号線に架かる歩道橋。歩道橋より愛知県 豊橋警察署方面を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次豊橋市の別の絵柄のマンホールを発見。『市電マンホール』公会堂と市電の日常的風景と市花(つつじ)をデザインした下水道マンホール蓋。本屋のガラスには花園幼稚園児の『孫の日』に因んだジジ、ババの顔の絵が所狭しと。孫の日(まごのひ)は、10月第3日曜日の記念日である。1999年に記念日に制定された。よって今年は10月20日。『吉田城 大手門跡』碑。「吉田城の大手門は、はじめ東側の飽海口にあったが、天正18年(1590)池田輝政が吉田城を拡張したとき、この地に移したといわれる。江戸時代には、重層で鯱を備えた堂々たる楼門があったが、明治初年い取り壊されてしまった。」国道1号線の向こう側正面に『豊橋市公会堂』が。豊橋市公会堂は、ロマネスク様式で正面両側のドーム頂上までの高さは、16mもあり市内の鉄筋コンクリート造りの近代的建築物の発祥ともいわれています。また、風格のある雄姿、意匠など建築界においても高く評価されていると。国道1号線を東に戻って行くと左手に『豊橋警察署』。国道1号線を渡り、『豊橋 神明社』を訪ねた。『豊橋神明社の鬼祭り』。豊橋神明社の鬼祭は、八町通の安久美神戸(あくみかんべ)神社で行われる。祭日は旧正月13・14日であったが、後に新暦の2月14・15日となり、現在では2月10・11日に行われている。この祭りには東三河平野部で唯一、田楽が奉納されている。主要な神事は本祭当日の午後から行われる。「五十鈴神楽」、「御的の神事」、「赤鬼と天狗のからかい」、「天狗切祓」「司天師(してんじ)田楽」「ボンテンザラ」「司天師神楽」、「神幸神楽」、「御玉引年占」「御神幸」と続き、すべての行事が終わるのは午後11時頃である。ことに、2時頃から行われる「赤鬼と天狗のからかい」が最も盛り上がり、戦いに負けた赤鬼が境内を出て、町内を駆け回り、袋から米の粉に混ざったタンキリ飴をつかみ出し、観衆に向かってまき散らす。この粉に混じった飴は厄除けになるといわれ、観衆も頭から粉を被り、あたり一面が真っ白になる。赤鬼像。二の鳥居。正式名称は安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)。『由緒』。『拝殿』。天慶2年(939年)11月、関東において平将門が乱を起こした。京の朝廷は、参議の大伴保平を勅使として東海の伊勢神宮へ派遣し、関東平定を祈願した。この霊験のおかげか、翌年2月関東の承平天慶の乱は直ちに平定することができた。天慶3年(940年)、関東鎮圧を喜んだ時の帝の朱雀天皇は三河国渥美郡北端である豊川左岸の安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ寄進した。そのため、この地は安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地(神戸)となる。その時に伊勢神宮祭主大中臣頼基の庶流・大中臣基守が磯部氏、川野氏、清水氏らを率いて伊勢国より来たり、この新神戸(しんかんべ)の屋代(やしろ)として創建されたのが当社である。『拝殿』内部。安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)豊橋市八町通3-17(市電豊橋公園前から徒歩2分)祭神:天照皇大神(あまてらすおおみかみ)神徳:無病息災、豊作由緒によれば、第61代朱雀天皇(在位930〜946)が平将門の乱の鎮定の報賽(ほうさい)として伊勢神宮に寄進された神領地に創立された古社で安久美神戸の総社です。こちらにも赤鬼像が。『豊橋鬼祭の由来』「このお祭りは日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除けの祭として約千年前から毎年行われた尊い神事であります。暴ぶる神の赤鬼が悪戯(いたずら)をするので武神天狗が懲らしめようと神の前で秘術を尽くし戦い最後に和解して赤鬼が罪の償いに厄除けのタンキリ飴を撒きながら嵐のごとく境外へ飛び去ります。この飴を食べると厄除けとなり健康になると古来伝えられます。そこで国内が平和に治まったことを喜んで武神をはじめ神々が種々の神楽を舞う古式の田楽をそのまま伝承すしております。」秋祭限定の『八幡神社』ご朱印が10月14日に頂けると。『猿田彦社』祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。左手の境内社。『外宮社、伊雑社、高宮社』三社合祀。それぞれの祭神は外宮社 – 豊受比売神(とようけひめのかみ)高宮社 – 伊吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)伊雑社 – 玉柱屋比売命(たまばしらやひめのかみ)、 伊佐波止美命(いざはとみのみこと)右手の境内社の『護国神社』。国家・公共に尽くしたる人々の神霊例祭日は毎年4月29日。こちらも右手の境内社。『三峯社、稲荷社』二社合祀。それぞれの祭神は三峯社 – 伊佐那岐命(いざなぎのみこと)、伊佐那美命(いざなみのみこと) 稲荷社 – 宇迦御霊命 二柱(うがのみたまのみこと)鬼祭りの顔ハメ看板。『安久美神戸神明社本殿始め5棟』以下の5棟が国の登録有形文化財に登録されている。本殿幣殿及び拝殿神楽殿神庫手水舎『東照宮(家康公)御腰掛松』。徳川家康公は天文23(1554)年、十三歳の時に当社に参詣され、社頭の松の根元に腰を掛けて鬼祭をご覧になったという記録が残っております。慶長8(1603)年、征夷大将軍に任ぜられたのちには、京都伏見城に宮司を呼んで鬼祭の思い出をお話しになり、神領・太刀・盃をご寄進されました。こうした由縁から、家康公が腰を掛けて鬼祭を御覧になった松を「東照宮御腰掛松」と呼称し、江戸時代より丁重に扱ってまいりました。『祭具庫』。秋祭のポスター。『社務所』。御朱印を頂きました。安久美神戸神明社を後にし、『豊橋市公会堂』横を通る。二羽の鷲(わし)の像。建設当時からあった像。そして『豊橋公園』に入る。『豊橋公園案内図』。『吉田城案内図』近づいて。『江戸時代の吉田城と城下町』。 吉田城の歴史は、永正2年(1505)、牧野古白により今橋城が築かれたことに始まります。 戦国時代、東三河の要であった今橋城は、激しい攻防が繰り返されるなか、名称も吉田城と改められました。永禄7年(1564)には松平(徳川)家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置きました。 天正18年(1590)、家康の関東移封によって池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張や城下町の整備を行いましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後姫路に所替えになりました。 江戸時代には東海道の要衝として譜代大名が在城しましたが、財政的要因のため完全に整備されないまま明治を迎えました。明治初年の本丸付近の写真。『歩兵第十八聯隊』。「歩兵第十八聯隊は、明治17年(1884)6月に名古屋で新設され、吉田城址に兵舎の建設がすすめられ、明治18年(1885)4月には大半が出来上がり、20年までには移転が完了しました。現在の豊橋公園、豊城中学校、豊橋市役所(吉田城址)あたりがその場所になります。戦後施設の多くは取り壊されましたが、戦後には残った兵舎を使い豊橋市役所が開設されました。現在でも豊橋公園の中には、門や哨舎、弾薬庫、灰捨場、碑などが残され、往時を偲ぶことができます。」『此処に歩兵百十八聯隊ありき』。歩兵第118聯隊は出征して不在となった歩兵第18聯隊営舎に編成された部隊です。昭和16年に編成され昭和19年にサイパンへ守備のため派遣されました。その際輸送船が撃沈されて主力を失い、残った将兵は歩兵第135聯隊、第136聯隊とともに突撃し玉砕されています。『中村道太翁碑』。説明碑。中村道太(1836年 - 1921年)は、三河吉田藩出身の財界人。上京して福澤諭吉の弟子となり、のちに第八国立銀行や横浜正金銀行、明治生命保険を創業した。明治11年(1878年)に初代の渥美郡長になる。裏側。『冨田良穂歌碑』。富田良穂(1848年 - 1925年)は、三河吉田藩出身の歌人、弥彦神社(新潟県)神官、愛知県会議員、豊橋町助役、豊橋市収入役。歌碑には、「三河なる二葉の松の生立てる今はときはの色にいづらむ」を刻む。この碑は?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次岩屋観音堂を後にして、国道1号線を豊橋に向かって北上する。道路脇には青のアメリカアサガオとピンクの芙蓉の共演が。岩屋病院前を通過し国道1号線から分岐した旧東海道に入り進む。旧街道に架かる『殿田橋(とのだはし)』を渡る。流れる川は『柳生川』。『飯村一里塚跡(いいむらいちりづかあと)』現在の東海道とクロスする殿田橋の交差点にたどり着く。 マクドナルドを右手に歩道はないが、道沿いを歩くと、旧東海道と国道1号線の三角地帯の先端に『飯村一里塚跡』の碑があった。 江戸日本橋から数えて73番目の一里塚となる。漸く東海道の一里塚123ヶ所の6割まで到達。『飯村一里塚跡』の碑のあった旧東海道と国道1号線の三角地帯を振り返ると、旅友の姿が。国道1号線に合流し更に進む。暫く歩くと右手にあったのが『壽泉寺(臨済宗妙心寺派)』綺麗なアーチ状で竜宮城のような楼門・『山門』。『鶴松山壽泉禅師』。『本堂』年代は不明だが、桂昌寺の松山和尚が同村の長松山太平寺(現:老津町東高縄204)の末寺として 開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し元禄6年(1693)寿千寺となり正徳5年(1715)瓦町の火災で類焼したのを機に壽泉寺と改めた。扁額には『鶴松山』と書かれていた。本堂と正対して『三重塔』が建っていた。三重塔のたもとには、こんな立看が。境内の石仏群。再びひたすら歩くと前方に『豊橋市瓦町通り1丁目』歩道橋が。『不動院』『瓦町不動院由来記』「本尊不動明王 真言宗中興の祖 覚鎫上人 作宗派 高野山真言宗江戸時代に入り、時の吉田藩主小笠原候 が仁連木村 に菩提寺臨済寺を建立することとなり、境内を確保するため二十軒の農民が移転することとなり、吉田宿 の東の隣接する瓦町に新しい村づくりが始まりました。寛文四年(1664)のことであります。新しい村づくりの中心に、心の拠り所として不動院が安置され、不動院は仁連木村(豊橋市御園町)から瓦町へ移ることとなりました。瓦町不動院は小笠原候をはじめ歴代吉田藩主の尊崇を集め、藩の重要な祈祷を担当する祈願所としてゆるぎない存在を示しておりました。元禄十二年(1699)、時の吉田藩主久世重之侯 から山号、寺号の免許を受け、聖休山任養寺不動院 と名乗ることとなりました。元禄十五年(1702)不動院が新築、この時の鬼瓦は瓦町村で焼成されたもので、寺宝として大切に保存いたしております。」こちらは不動尊幼稚園。そして『願成寺』。『本堂』。大永2年(1522年)創建と。切絵仏であろうか?そして『東八町交差点』の歩道橋を歩く。歩道橋下には、『豊鉄市内線』が。東田本線(あずまだほんせん)は、愛知県豊橋市の駅前停留場から赤岩口停留場までと、井原停留場から分岐し運動公園前停留場までを結ぶ豊橋鉄道の軌道路線である。豊橋鉄道では「豊鉄市内線」と案内している。『豊鉄市内線』の車両。『秋葉常夜灯/東新町交差点』この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたもの。以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれて来たが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。この状況を憂た常夜灯保存委員会により昭和五十五年豊橋公園内に復元されていたが、平成十三年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。コの字型の大型歩道橋から東方面を見る。歩道橋で国道1号を渡り、さらに右に曲がって階段を降りた豊橋市八町通5丁には『吉田城東惣門跡(ミニ復元)』が。「東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに建てられていました。門の傍らには12畳の上番所、8畳の下番所、勝手があり門外から西側に駒寄せ場11間がありました。惣門は朝六ッ(午前6時)から夜四ッ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。」東八町交差点で左折し国道1号線から離れ旧東海道に入る。東惣門の先が少し複雑であった。惣門を右に見て50mほど歩いたら右に曲がり、最初の四つ辻を左に曲がり、突き当たったら右へ。この先は真っ直ぐな道を「バス停・曲尺手(かねんで)」等を見ながら5~6分歩くと植え込みの有る広い道にぶつかった。右手、道路の中央の植え込みに『曲尺手門跡碑』が。「曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。旧吉田城の巽の方位にあり城門の跡にして曲尺手町発展の礎である。」豊橋市 マンホール蓋。豊橋公園内の吉田城と羽田八幡宮の祭りで行われる「手筒花火」を描いたもの。反対側、左側の植え込みの中に『吉田宿』、『江戸 七十四里』と記された石碑が。この地の住所は『 愛知県豊橋市曲尺手町(かねんてちょう)』。曲尺手町76にある交差点を左折して進む。『龍拈寺(りゅうねんじ)』に立ち寄る。曹洞宗の仏教寺院。山号は吉田山(きちでんさん)。本尊は十一面観音。一色時家の被官で牛窪一色城(同県豊川市牛久保町)主および今橋城(同県豊橋市今橋町)の初代城主であった牧野古白入道(牧野成時)の追善供養のため、子の信成が創建した寺である。神宮寺、悟真寺とともに吉田三ヶ寺の一つとされ、曹洞宗の東三河における中核寺院である。1945年の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、唯一残った山門が豊橋市の有形文化財に指定されている。『龍拈寺』の指定文化財華陽夫人画像牧野古白母堂画像龍拈寺山門 - 空襲で炎上しなかった唯一の建造物。年元禄年間建立。『龍拈寺観音堂』。『龍拈寺観音堂』には真赤な『聖観世音菩薩』の幟が。『箸塚碑』。様々な石仏、石碑が境内に。『観音像』豊橋工場の女学徒の方々の殉難碑であると。 ここには、「学徒動員令に応じて豊橋市立高等女学 校及愛知實修高等女学校三年生学徒は中島飛行機半 田製作所に挺身報国の至誠を盡す偶此の震禍に遭い 二十六柱の英霊遂に護国の礎石となる」と書いてあった。『山門』『龍拈寺山門』「龍拈寺は吉田山(きちでんさん)と号し、大永年間(1521-27)ごろ休屋宗官和尚の代に吉田城主牧野信成が亡父古白追善のため創立したと伝えられ、吉田三ヶ寺に列せられる当地方屈指の大寺院として栄えました。江戸時代の伽藍は、本堂・御影堂・大庫裏・小庫裏・鐘楼・山門等の堂宇の地に多くの塔頭を擁していました。これらの諸堂宇は宝永4年(1707)の大地震で倒壊したのち再建・修復されましたが、第2次大戦中の空襲で山門だけを残して全焼しました。山門は、元禄6年(1693)住持となった法運義官和尚の代に建立され、その後、宝永の大地震により傾いていたものを修復したと伝え(吉田山龍拈寺記)、昭和の戦火にも類焼を免れた当寺院唯一の江戸時代の遺構です。この山門は、単層・切妻造・桟瓦葺の四脚門で、軸組に欅材を用いた唐様(禅宗様)を主に、随所に配した絵様、軒形の一部には天竺様(大仏様)の手法も折衷されており構造や意匠の奇抜きに特色が見られる市内でも数少ない江戸時代の建造物として貴重なものです。現在、正面虹梁上に月舟宋胡(1618-96)筆の「吉田山」の額が掛けられていますが、この背後の虹梁上の羽目板にも「吉田山」の刻字があり、月舟筆の額は他の宇堂もしくは前身山門に掛けられていたものを後世になって現山門に取り付けたものと解するのが妥当のようです。」『長養院』。『長養院』入口。『悟慶院』。『吉屋山 悟慶院』と刻まれた石塔。扁額には『悟慶院』と。『曹洞禅』と書かれた『豊橋閣日進禅寺(ほうきょうかくにっしんぜんじ)』。豊橋閣日進禅寺は、愛知県豊橋市新吉町9番地にある禅宗系の寺院。通称は「日進禅寺」「日進院」とも呼ばれている。 1945年(昭和20年)6月19日夜半の豊橋空襲で、本尊の勢至菩薩像と本堂を消失しており、現在の伽藍は戦後に再興したもので、本尊仏は釈迦三尊像を祀っていると。『満願石仏(百拝百体)』入口付近には、百体の石仏に百拝すること(百拝×百体=万拝=お参りにすることで願いが叶う=満願)で全ての願いが叶う『満願石仏』が。交差点角にあったのが『金刀比羅神社』。愛知県豊橋市大手町34にあり、祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。『拝殿』。文正元年(1466年)3月、四国象頭山、金刀比羅大権現より勧請とのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.10.25
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