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『旧東海道を歩く』ブログ 目次興津坐漁荘を後にして旧東海道を西に進むと「清見潟(きよみがた)」のバス停が。「静岡県中部,静岡市清水の興津,清見寺門前の海岸。前面には三保半島が清水港を」いだいて突出し、北東には富士山,南東には駿河湾をへだてて伊豆の天城連山を望み、古くから東海道の景勝地として有名。気候温暖で西園寺公望の別邸坐漁荘はこの海岸にあった。第2次世界大戦後、清水港の拡充整備に伴い海岸の埋立てが進められ、臨海工業地に変わっている。」と。その先にはユニークな名前の「東海道薬局」が。坐漁荘から西に二百メートルほどの清水清見潟公園の一角に『井上馨の像』が。井上馨も興津を愛した一人。晩年には療養のために「長者荘」と呼ばれる別荘で過ごすことが多かったのだと。「長者荘」はこの先、静清バイパスのガードをくぐり、広い三差路の右に「静岡市埋蔵文化財センター」の正門があり、そこが井上馨別荘長者荘本館跡地であると。17万m2に及ぶ広大な敷地に「長者荘」は、残念ながら第二次大戦の空襲によって失われた。また高さ5mに及ぶ井上らしいフロックコート姿の巨大な銅像も建てられていたが戦時中に銅像供出で撤去されてしまったと。跡地には石碑が二つ残されて長い間放置されてきたが、地域の発展に尽くした井上を慕う地元の方たちによって、現在は緑地として整備され、かつての銅像の作者によって新たにこの場所(場所は跡地とは異なる清見潟公園の一角)に座像が作られているのだと。井上馨は、 幼名は勇吉、通称は聞多(ぶんた)と呼ばれ、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に共鳴したり、伊藤博文とともにイギリスに密航したこともあるそうです。元治元年(1864年)9月25日、長州藩での御前会議を終えた井上聞多が、反対派に襲撃され重傷を負いました。この時、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせたというエピソードがあります。このエピソードが国定国語教科書に『母の力』と題して紹介されたそうです。『井上馨候之像』昔は、ここが海岸線だったそうです。井上馨の銅像も戦前、高さ4.85m、重さ6.75tでしたが、昭和17年(1942)供出により取り壊されたとズームで。杉孫七郎が井上馨を讃えた文章が刻まれた碑文。「井上馨別荘(長者荘)跡 -- 明治四十三年十一月二十八日 井上侯壽像成欣躍之餘賦一絶聊表祝頌之意 儼然巨像立崇邱影暎滄瞑萬里流不 算南山松柏壽雙眸睥睨幾千秋 子爵杉孫七郎拝算明治四十三年十一月二十八日 井上侯壽像(じゅぞう)成ル 欣躍(きんやく)之餘(よ)一絶(いちぜつ)ヲ賦(ふ)シ 聊(いささか) 祝頌(しゅくしょう)之意を表ス 儼然(げんぜんたる) 巨像崇邱(すうきゅう)ニ立ツ影ハ暎(えい)ズ 滄瞑萬里(そうめいばんり)ノ流算(かぞ)エズ 南山松柏(なんざんしょうはく)壽像雙眸睥睨(そうぼうへいげい)ス 幾千秋(せんじゅう) 子爵 杉 孫七郎 拝草」「杉孫七郎は1835(天保6)年、萩藩士・植木家の次男として御堀村(現 山口市)で生まれ、萩藩士・杉家の養子となりました。文武に優れ、藩主の側近である小姓役となり、藩主の信任を得ます。1861(文久元)年、幕府が使節を欧州へ送ることになった際、孫七郎は4萩藩から選らばれ、その一行に従って渡欧します。一行はフランス、イギリス、オランダなどを訪問。孫七郎は産業革命が進む西欧諸国に衝撃を受け、1862(文久2)年12月に帰国するとすぐに藩の重臣・周布政之助らに報告。話を聞いた周布は翌年、井上馨ら5人の藩士をイギリスへ密航留学させることに力を尽くします。1864(元治元)年、英仏蘭米四国連合艦隊が下関に来襲した際には、藩の副使として講和会議に臨み、講和を成功させます。」この碑は「男爵渋沢栄一撰弁書」。全て漢字でひたすら書かれていたが。「井上侯壽像碑 是為井上侯壽像侯今年七十六氣力旺盛髭髪尚黒無毫老憊態吾儕當辱侯知遇致有今日因胥謀請建像壽之侯不聴衆請弗已始見許乃相侯之興津別墅為置像之所命工閲二百餘日而成歳之十一月廿八日値侯之誕辰招衆賓落之以余与侯四十餘年親交衆属余記之侯経濟功績赫著史乗喧傳世上而吐握下士之勞實致此王臣為国家蹇蹇宜如此也夫興津之地衿富岳帯大洋遠控三保近接清見洲渚點綴烟波渺茫稱為東海絶勝侯夙置別墅于此設園池築亭榭鑿山引泉水懸髙厓而下珠噴雪望之如匹練聴之如琴筑侯時来遊嘯詠自適以娯老豈古詩所謂英雄四首即神仙者欤且侯昔日翻攘夷倡通好遭反黨要撃被重創而不死如有神助近歳罹病於此別墅九死得一生非天眷而何天眷神助是不獨侯之幸亦邦家之慶也然則吾儕建像之挙不啻報知遇亦表邦家之慶也乃誌建像之顛末以諗後之遊此者明治庚戌十一月廿八日 男爵澁澤榮一撰并書」「是ニ井上侯壽像ヲ為(つく)ル 今年七十六 氣力旺盛 髭髪(しゅはつ)尚黒ク 毫(ごう)モ老憊(ろうはい)ノ態無シ 吾ガ儕(せい) 嘗テ侯ノ知遇ヲ辱(かたじけ)ナウシ今日有ルヲ致ス因リテ胥謀(あいはかり)テ像ヲ建テテ之ヲ壽セント請フ 侯聴(ゆる)サズ衆請テ已マズ 已ニシテ始メテ許サル 乃チ侯之興津別墅(べっしょ)ヲ相シ 像ヲ置ク之所ト為ス 工ニ命ジテ 二百餘日ヲ閲(けみ)シテ成ル歳ノ十一月廿八日侯之誕辰ヲ値(あ)ウ衆賓ヲ招キテ之ヲ落ス 余ノ侯ト四十餘年ノ親交アルヲ以テ 衆余ニ属シテ之ヲ記サシム侯経済ノ功績四乗ニ赫著(かくちょ)ニシテ世上ニ喧傳ス 而シテ吐握下士之労実ニ此ヲ致ス 王臣ノ国家ノ為メニ蹇々(けんけん)タル宜シク此ノ如クナルベシ 夫レ興津之地富岳ヲ衿(きん)トシ 大洋ヲ帯トシ 遠ク三保ヲ控エ近ク清見ニ接シ 洲渚點綴烟波渺茫(しゅうしゅてんけいえんはひようぼう)稱シテ東海ノ絶勝ト為ス。侯夙(つと)ニ別墅ヲ此ニ置キ園地ヲ設ケ亭榭(ていしゃ)ヲ築キ山ヲ鑿(うが)キテ泉水ヲ引キ髙厓(こうがい)ニ懸ツテ下ル珠ヲ跳ラセ雪ヲ噴キテ之ヲ望メバ匹練(ひつれん)ノ如ク之ヲ聴ケバ琴筑ノ如シ侯時ニ来遊シ嘯詠自適(しゅくえいじてき)以テ老ヲ娯(たの)シム 豈古詩ニ所謂英雄首(こうべ)ヲ□(めぐ)ラセバ即チ神仙ナル者歟 且ツ侯昔日攘夷ヲ翻シテ通好ヲ倡(とな)エ反黨(はんとう)ノ要撃ニ遭イ重創ヲ被リ而モ死セズ 神助有ルガ如シ 近歳病ニ 此ノ別墅ニ罹リ九死ニ一生ヲ得タリ 天眷(てんけん)神助ハ是レ獨リ侯ノ幸ノミナラズ亦邦家之慶也リ 然レバ即チ吾ガ儕建像之挙モ啻(ただ)知遇ニ報ズルノミナラズ亦邦家之慶ヲ表スル也 乃チ建像之顛末ヲ誌シ 以テ後之此ニ遊ブ者ニ誌(つ)グ明治庚戌(かのえいぬ)十一月廿八日 男爵 澁澤 栄一 撰併(あわせ)書」バイパスの下で左に波多打川、右に東海道線と平行に。波多打川の手前は清見潟公園ですから、もともとここは海岸線国道1号線バイパスの下を潜って直ぐに左折し旧東海道を進む。黄色い花がついた木が。トサミズキであろうか。前方に踏切が。東海道本線・『横砂(よこすな)踏切』を渡る。少し歩くと再び国道1号線に合流しその横に『横砂 延命地蔵尊』があった。正面から。『秋葉山常夜燈(左)』と『延命地蔵堂』が。ここはこの先にある東光寺の飛び地で、中に奉られる延命地蔵尊石像は東光寺が創建された頃のものと。東光寺は戦国時代はじめ頃の創建。他にも弘法大師石像、弥勒菩薩石像など、計7体の石像が奉られているとのこと。『横砂・延命地蔵尊』とは『病は治せるが寿命は延ばせない』との無理な願いを叶えてくれるのが、横砂の延命地蔵尊さんです。その昔は獅子舞の縁起もあって、地域・家庭の安全・健康と五穀豊穣を祈ったと伝えられています。」更に500mほど歩くと右手にあったのが『医王山 東光寺』の山門そして本堂。横砂東にあった延命地蔵尊を管理する寺。この山門は、昔、朝廷からの勅使が、興津川の氾濫により、東光寺に泊まることになり、急遽、この門を造った、と伝わるものであると。勅使が泊まる宿舎は、格式上、門構えでなければならなかった為であろう。『東光寺』標柱。その横に東光寺の由来が刻まれていた。境内に入ると左手に、『青面金剛童子塔』と『六地蔵尊』。『水子地蔵尊 子育地蔵尊』。『本堂』。臨済宗妙心寺派の寺、医王山 東光寺。この東光寺は戦国時代のはじめ、天文年間(1532~1555)にここより北側の場所で開山された。しかし、寺はすぐに廃れてしまった。恐らく、この頃からこのあたりは甲斐武田氏との戦闘が激しくなった地域でしたから、戦火に巻き込まれたのでしょう。その後、この地で再建されたのが慶長年間。しかし、再び寂れます。次に再建されたのはもう幕末の宝暦年間であったと。寺佛の薬師如来(秘仏)は行基の作と伝えられていると。 「醫王山」と書かれた扁額。小さな鐘も本堂脇に。本堂を斜めから。『不動尊』横砂交差点を直進し更に進む。このあたりは旧清水市の住宅地のようで、ほとんどが比較的新しい家が多かった。庵原川に架かる庵原橋を渡ると横砂西町。川に流れ込む水路には小豆色の排水が大量に。ここは日本なのであろうか?遠くに東海道新幹線の線路も見えた。しかし、すぐに袖師町に入った。明治維新後の町村合併で、旧横砂村、旧嶺村、旧西久保村が合併し、袖師村になり、その後、袖師町になったが、昭和の大合併で清水市に併合された。 さらに、今回の静岡市との合併で、旧横砂村は、清水区横砂○○町に、旧西久保村は、清水区西久保に変り、旧嶺村だけが、清水区袖師町になったのだが、別の意味では、江戸時代の区分けに戻ったとも言えるようだ。 民家の角にあった『延命地蔵、そして小さな御堂』。『袖師ふるさとの路 10 延命地蔵』と書かれた案内板。ふるさとの路の記述によるとこの地蔵さんは庵原川が氾濫した時に、国道1号線をはさんでの向かいにある沢野氏宅の竹やぶへ流れてついたもので、長い間沢野氏宅で祀られていたものが、現在の場所に移されたとのこと。地蔵は高さ80cmくらいの延命地蔵でいぼとり地蔵といわれていると。いぼとり地蔵さんは赤い屋根の小ぎれいな地蔵堂の中に祀られていた。願いがかなってイボが取れた時には、赤青白などの七色菓子を供えるとのこと。毎年7月16日(私の誕生日)には施餓鬼が行われ、この近くの方々により大切に護られているようで、この時にも新しい花が奉納されていた。袖師交差点にある歩道橋を渡る。この道が北街道。北街道は中世の東海道。今川氏が滅ぶと駿河国に入ったのは武田氏。武田氏は江尻に江尻城(小芝城)を建設した。その当時までの江尻宿は秋葉山の近くにあった。ところがこの旧江尻宿が火災を起きたのであった。それ以来、江尻宿は江尻城の南側、海岸に近い場所に移された。それに伴い、旧東海道も変更されたのだと。歩道橋を渡り終わると直ぐ右の民家の前にあった小さな『馬頭観音菩薩』。『袖師ふるさとの路 1 馬頭観音』と。「袖師ふるさとの路」は1997年(平成9年)に、袖師地区まちづくり推進事業として、地元の史跡41ヶ所を冊子で紹介したもの。ここが「1 馬頭観音」で史跡巡りのスタート地点でありようだ。清水区袖師町の歩道橋の下を通過。袖師生涯学習交流館。夢舞台東海道「袖師ヶ浦」道標が立っていた。西久保原交差点南西側にある『松原観音堂(中央) 津嶋神社(右)』。奥の松原観音堂を正面から。西久保原交差点を直進する。かつては街道筋に松原が広がっていたはず。そして道が2つに分かれる。右側が旧東海道。その分岐点に松と石碑が見えた。『細井野松原』道標と『ほそいの松原』の案内板。『ほそいの松原(細井の松原)』「慶長六年(1601年)徳川家康 は東海道五十三次 の宿場を制定し江尻宿 場が設置された、同九年(1604年)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門 を工事奉行に任命して街道の両側に松の木をうえさせ同十七年(1612年)完成したと伝えられている。元禄十六年(1703年)駿府代官守屋助四郎 の検地によると辻村戸数一一〇戸松原の全長一九九間二尺(約三六〇米)松の本数ニ〇六本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は、夏にはこの松蔭で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。 いまの松は平成四年二月、社団法人清水青年会議所 から寄贈され植樹されたものである。」『無縁さんの碑』。「細井の松原無縁さんの碑 江村の東辺りから西久係にかけて 細井の松原と呼ばれた松並木が続い ていた。この並木は昭和十九年、松根 油採取のため伐採されたが、この折多 量の人骨が出土した。東海道で倒れた 旅人を埋葬したものと推察されたが、 町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に 記念碑を建て霊を慰めた。 平成十三年、東海道四百周年を記念 しこの石碑を建立した。 」私に下半身が映り込んでしまいました。『ほそいの松 江尻宿』道標。現国道1号線を離れて、静岡市清水区の旧東海道を進む。本郷町の古い造りの民家が左手に。『旧東海道 江尻宿』。JR清水駅西口が左手に。『町名の由来 鍛治町』。「永禄十二年(1569)武田信玄 が江尻城 を築き江尻は城下町として発展した。その後天正十九年(1591)城下町から出火して周囲の民家を焼き尽くし、この火事が原因で鍛冶職とか鋳物職のような火を扱う家屋を海岸近くの現在の地に移したといわれている。江尻宿には二十七戸の鍛冶職があり、その大部分が鍛冶町にあったといわれる。初めは江尻城の御用鍛冶として刀剣類を作り、その後刃物鍛冶から鍬や鎌を作る農鍛冶となった。このように鍛冶職人が多く住んだので鍛冶町と名づけられた。城や宿場のあった町に数多く鍛冶町の名が残されている」『浄土宗 市中山 江浄寺』入口。山門、本堂の屋根をズームで。徳川家康の長男、徳川信康の菩提所 市中山江浄寺。『東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望 広重画』。江尻は現在の清水港である。江尻宿から家康の霊を祀った久能山へ通じる道の途中、日本平東麓にその名も観富山竜華寺がある。小高い境内から手前に江尻の宿場が見え、港をはさんで右手から三保の松原が延び、その向こうに愛鷹山、伊豆半島が見える。富士山が左端に見えるのだが、広重はわざと描かなかったようである。港の繁忙ぶりとうららかな春の風景である。江戸より約41里の地点であり、全体のほぼ三分の一経過した。」『富嶽三十六景 駿府 江尻 葛飾北斎』「江尻は、現在の静岡県清水市にあります。風という目に見えないものを大変リアルに描くという北斎の才能が発揮された作品です。無限、不動を感じさせる富士と、その前で一陣の風にさえ右往左往する人間の存在の小ささを対照的に表現しようとしたのでしょうか?イギリスの写真家ジェフウォールが影響をうけたことで海外の方々には有名な作品となっています。線だけで描かれたとてもシンプルな富士山。人が風に吹かれ、紙が舞い上がる様子が臨場感たっぷりに描かれています。」 その4 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道に戻ると、直ぐ右にあったのが『高山樗牛假寓之處(たかやまちょぎゅう かぐうのしょ)』。「假寓」の意味は一時的に住むこと・仮住まい 。清見寺で、高山樗牛の文学碑を見たが、樗牛は、病気療養のためこの近くの門前の旅館三清館に滞在していたことがあるのだと。そして「清見寺の鐘声(せいけんじのしょうせい)」を書き上げたと。石柱の横には「樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し、明治三十三年秋当處の三清館に假寓して清見寺の鐘声を聞いた」と、また反対側には、「三清館の所在は茲より南方二十米附近に在った昭和四十四年十月 旧三清館經営者嗣子 山梨陽建之」と。『魚格 出口魚店』、歴史を感じさせる魚屋さん。そして50mほど進むと左側にあったのが『興津 坐漁荘(ざぎょそう)』。この「坐漁荘」は西園寺公望が政治の第一線から退いた後、大正9年(1920)に駿河湾奥、清水港近くの興津の海岸に建てたこの別邸。「静岡市坐漁荘記念館 西園寺公望公別邸興津坐漁荘西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生れ、明治大正昭和三代を自由主義坐漁荘の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。坐漁荘は西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。坐漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されています。そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の坐漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力とご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。」興津坐漁荘 入口部。『興津 坐漁荘 配置案内図』。間取り図が描かれているようであったが。この日(金)の見学時間は10時からであったが、この時の時間は9:35。ところが、中から準備中の係員の方が出てきて、ほぼ準備は完了したので見学しても良いとの言葉を。御礼の言葉を伝えて内部に入らせて頂きました。庭の水撒きの途中だったのでしょうか。綺麗な庭が整備されていた。『坐漁荘阯』と刻まれた石碑。『坐漁荘阯 碑文』「坐魚荘は、公爵西園寺公望の旧居、大正八年一二月に建築された。その敷地は一二五五・九六平方メートル前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。建物総面積は四六〇・二七平方メートル、二階建、瀟洒雅到ただよう和風建築であり、洋間一室とテラスが附属していた。坐魚荘の名称は子爵渡辺千秋の撰にかかる。周の文王が渭陽で呂尚(太公望)の坐魚するに会い、礼を厚くして迎えて軍師とした。渡辺は中国のこの故事に因み、太公望を西園寺公望の名に通わせ、坐魚を前庭に海迫るこの地に結びつけ、さらに元老として天皇補佐の重責を荷う西園寺公の地位を軍師呂尚のそれに対照させ、坐魚荘を命名した。公はかねて国際間の平和とわが国憲政の発達を念願してやまなかった。しかし満州事変以後のわが国政治の動向は公の所期と全く相反するものがあり公は破局的事態の到来をふかく危惧しこれを阻止せんがため元老として実に焦心苦慮を重ねた。公が国の行末に限りなき憂いを抱きつつ細雨に煙るこの坐魚荘に九二年の生涯を閉じたのは昭和一五年一一月二四日、太平洋戦争開幕に先立つこと約一年であった。近年坐魚荘周辺の景観は一変し且つ建物も損壊の惧れを生じたので、住友銀行頭取堀田庄三の発議により住友連係各社の後援の下、財団法人明治村並びに清水市地元の協力を得て、昭和四六年三月坐魚荘の主要部分を愛知県犬山市所在の明治村に移築し、この歴史的建物は永く同地に保存されるのことになった。」正面玄関から別荘内部に入る。入口上の『坐漁荘 扁額』頂いたパンフレット-1。頂いたパンフレット-2。『坐漁荘 間取り図』をパンフレットから。玄関を入ると四畳半の部屋が。そしてそ奥が畳廊下。『坐漁荘 切り絵』。竹の幹にはお雛様が。いや、小さな「かぐや姫」であろうか。植物の葉や樹の皮を漉き込んだ、味わいのある襖。こちらにもお雛様が。居間(8畳、左)、次の間(8畳、右)そしてその先に広縁(5畳)。そして広縁のガラス戸の先には庭園が。在りし日の西園寺公の写真。昔の坐漁荘そして清見潟の風景。居間の床の間。床の間には二幅の書の掛け軸が。右:西園寺と親交のあった清見寺住職・古川大航の書「真心是道場(じきしんこれどうじょう)」 唯摩居士(ゆいまこじ)と光厳童子(こうごんどうじ)とのやりとりの言葉だそうであるが 「直心」すなわち素直な心をもって精進修行すれば天地到るところが道場であり修行の 場所ならざるはないという唯摩居士の教えであると。左:富岡鉄斎の書「丈夫心事二行書」 丈夫の心事 まさに青天白日のごとく、人をして得て之を見しむべし。 一人前の男子たる者は、青天白日が万人に明らかであるように、その心を 明々白々にして、しかも隠し事などすべきではないと。応接室とテラス。テラスと外庭。使用している窓ガラスは『バイタ・ガラス』と言って、西園寺公の健康に留意して真っ先に取り入れたそうだが、このガラス、紫外線をよく通すもので、当時は紫外線は健康に良い物とされていたと。現代はUVカットが主流。どうやらこの100年近い間に紫外線は敵になってしまったのだ。洋間兼応接室昭和3年(1928)増築。執務机の後ろの扉を出ると廊下。この廊下からは洗面所、2階への階段、使用人の部屋、そして畳廊下へと行けるのであった。右のガラスのケースの中には坐漁荘で愛用していた竹製の杖と木刀が展示されていた。化粧室そして洗面流し台。当時の日本家屋に洗面流し台設備は珍しい存在。渡仏滞在が長かった西園寺公の好みが如実に表れているのだと。上湯殿 内部。天井はサワラ材と筍の皮の網代。浴室の床は伊豆石、壁材は高野槇であると。風呂、洋間、トイレなど防犯ブザーが至る所にあり、廊下は侵入者に気づきやすい『うぐいす張り』。竹の格子の中には、実は鉄筋が入っていたり風呂から脱出して、コンクリート造りの書庫兼シェルターに避難できたり…と実はすごい厳戒態勢なのであるとの説明が。朝鮮通信使行列韓紙人形「小童」。台所。2階の鶯張板張廊下(うぐいす いたばり ろうか)。鶯張りといえば、京都にある竜安寺や二条城に使われていることで有名な床。歩くたびにウグイスの鳴き声のような音が響くことからこう呼ばれている。鴬張りの床は音が優美で、自然を感じさせる趣きがあり、防犯上の目的で城や寺にも設置されているのだ。もちろん坐漁荘も例外ではなかった。階段から客間へと行くためにはこの床を歩く必要があるから、寝込みを襲うのは至難のわざというわけだったのだと。細心の注意を払って歩いても軋み音が鳴る仕掛け。外部侵入者防備の為の特異建築。2階の階段前の廊下には西園寺、坐漁荘関連の記事の切り抜きなどが展示されていた。2階にも床の間を設ける純和風な居間、次の間が。2階 居間 8畳。2階 床の間。西園寺家は宮中の琵琶奏者の家系なので床の間に琵琶台が。立派なくろ松の一枚板使用。2階 居間 8畳から庭を見る。埋立以前は清見潟が拡がる光景が楽しめたのだと。清見潟の古写真。こんな海岸が坐漁荘裏に広がっていたのだと。2階 広縁。興津周辺の昔の写真や絵画が。「東海道薩埵峠」「東海道五拾三次之内 江尻」私塾立命館(しじゅくりつめいかん)は、西園寺公望が明治2年(1869年)に京都御所内の私邸に開設した家塾。1階の内玄関の奥に台所が。内玄関はいわゆる勝手口なのですが、勝手口というより、普通の玄関。女中室。右の写真の女性は女中頭 漆葉綾子さんです(通称 お綾さん)。お綾さんは西園寺の最期を看取った方。昭和5年に女中頭に就任して、西園寺について興津に移ってきた使用人の一人。興津に来てからは、西園寺の外出の時には、いつも後ろにお綾さんが付いて来たと。また、坐漁荘の家事を住み込みで仕切ったのもお綾さん。買い出し、小間使いなどで興津の町中を頻繁に往き来していたので、興津の町でも有名な方であったと。椿の花が美しく。女中頭 漆葉綾子さんは椿の花が好きだったのであろうか。使用人の部屋は3間。 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『大玄関』。本堂への入口門。文政8年(1825年)の改築で、禅寺ならではのシンプルで美しい建物。『咸臨丸殉難碑』、「食人之食者死人之事:榎本武揚」。幕末の激動期に 幕府軍と新政府軍の争いの際、幕府軍の戦没者を祀るため清水の次郎長、榎本武揚らが建立した「咸臨丸碑」。ちなみに明治元年、幕府の軍艦咸臨丸が清水港で官軍の攻撃をうけた際、港内に漂う戦死した乗組員を次郎長が手厚く弔った「壮士の墓」は巴川の河口近くにあるのだと。榎本武揚の筆による『史記』の「准陰候列伝」から「食人之食者死人之事」と刻まれていると。 「人の食を食む者は、人の事に死す」と云う文意は「禄をいただいた主君のために人は殉じる」と云う意味だと。左に『本堂(大方丈)』。文政年間(1818~1829)に改築。正面に琉球王子筆の「永世孝享」の額が掲げられ、両脇の壁面には朝鮮通信使の詩文が飾られているとの事。『家康公御手植 臥龍梅』徳川家康公曽って来遊の砌り清見関所の庭の梅枝を取らして接木したと云う。徳川家康没して400余年、梅はなお清見寺の庭に生き続けていた。数輪の花も。『龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり』とは、歌人与謝野晶子女史がこの梅を題して詠じたもの。正面に『庫裡』と左手に『東玄関』。『鐘堂』も立派な造り。「正和三年(1314)鋳造されたもので、謡曲「三井寺」に出づ、又天正十八年(1590)豊臣秀吉、韮山城攻伐の際、陣鐘に用いた。総高140.2cm・鐘身高113cm・口径80.7cm。」別の角度から。鐘楼の「瓊瑶(けいよう)世界」の扁額は1643年の朝鮮通信使・朴安期の揮毫。瓊瑶世界とは美しい玉のような世界を意味すると。庫裡の東玄関。庫裡の内部。本堂や書院内部を見学出来るようであったが、時間がなく・・・。天井、床、柱も黒光りして歴史を感じさせてくれるのであった。「御朱印を希望の方、声をかけてください」と。御朱印を頂きました。現在は海から離れているが、かつては境内のすぐそばまで海岸線があり眼下に駿河湾や清見潟、その向こうに三保の松原も見渡せたと。そして東海道線には貨物電車が。本堂の屋根、切り妻。『大野伴睦句碑』。「秋晴や 三保の松原 一文字」。作者は<万木>。政治家<大野伴睦>の俳号だと。大野伴睦といえば自身の地元の東海道新幹線岐阜羽島駅の誘致に政治的関与をしたとも。そんな油ギッシュな人の作品とは思えない、見事な情景描写。「一文字」とは青い海・駿河湾に延びている三保の松原のこと。高山樗牛(ちょぎゅう)の清見寺鐘声文の碑。『高山樗牛「清見寺鐘声」碑文』「鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ.うるわしきかな、山や水や、偽りなく、そねみなく、憎みなく争ひなし。人は生死のちまたに迷い、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かはるところなきなり、おもへば恥かしきわが身かなに恨みある身の病を養へばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児、数ならぬ身の世にながらへてまた何の為すところぞ。さるに、をしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂泊の日暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。鐘の音はまたいくたびかひびきわたりぬ、わがおもいいよいよ。」『永代接待茶碑』。誰が誰に対して茶を接待したのか知りたかったが、ネット検索してもヒットしなかった。山下清がこの清見寺を訪れたとき、なかなかに興味深い一文を残しているのだと。塀際にその説明用立て札が。『山下清 「清見寺スケッチの思い出より」』「清見寺という名だな このお寺は古っぽしいけど上等に見えるなお寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかなお寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたなお寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないなお寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」五重石塔と仏殿。石塔は『山梨治重 顕徳塔』。『収蔵庫』か。仏殿の前から境内の庫裡の方向を。清見寺を後にする途中山門を潜って。再びJR跨線橋が見えた。後方には清水港のクレーン、更にその先には日本平が。清見寺の隣りにある『瑞雲院』も訪ねた。『山門』。「厳腰山」の扁額も。瑞雲院 『本堂』。駿河一国観音霊場 第二十三番札所 臨済宗妙心寺派延文元年(1356年)に足利尊氏(あしかが たかうじ)に依り開基。創建当時は瑞雲庵と称した。慶長11年(1606年)に僧東谷が中興した際に現行名に変更された。幕末たる嘉永2年(1849年)に山頂から山麓たる現在地に移転。山 号■厳腰山 寺 名■瑞雲院住 所■静岡県静岡市清水区興津清見寺町420 宗 派■臨済宗妙心寺派霊 場■駿河三十三観音霊場第23番札所霊場本尊■如意輪観世音菩薩。手水場。『性海庵(しょうかいや)の湧水』。この湧水は清見寺の浦山から引かれた湧水で、昔は旅人が利用したと。『観音堂』。富安風生の『歌碑』「おのづから 法にかなひて しだれ梅」『薄寒桜』。「薄寒桜は明治45年、アメリカワシントンのポトマック河畔に寄贈された3000の桜と兄弟にあたる薄寒桜で、そのころ静岡市清水区果樹試験場興津にも植えられました。その中の一本がこの瑞雲院にも植えられたそうです。現在の薄寒桜はその子供に当たると。」再び跨線橋を渡る。昔は山と海がせまり線路を通すところがなかったのだと。跨線橋を渡り終わり、清見寺を振り返る。東海道線が境内を貫いた事により、山門から下ってきた石段が半ばで消失している事がはっきりと理解できたのであった。やむなく右に曲がり跨線橋を渡り総門へと。総門を境内側から。右下に『大正天皇在東宮海水浴御成道』が再び見えた。 その2 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次暫く進むと、右手の高台に『清見寺』が姿を現した。『東海道 興津宿』のモニュメント。『興津の歴史』、『東海道について』、『興津宿の規模』、『興津宿の旅館分布図』『興津宿の名所案内』について説明されていた。「興津の歴史興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち十七番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。 鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。 慶長六年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。 江戸時代中~後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。 東海道五十三次について慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いで天下の覇者になった徳川家康は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など街道の整備を行いました。 なかでも特に東海道は、朝廷のある京都と政治の拠点である江戸を結ぶ重要な幹線道で、家康は、ここに宿駅をもうけ、東海道伝馬制度を実施しました。宿駅の数は次第に増え、寛永元年(1624年)に五三を数えるようになりました。東海道五十三次の誕生です。 以来、東海道五十三次は、参勤交代制度の大名行列や庶民の旅、商人の通行などによって飛躍的な発展を遂げました。興津宿の規模東海道一七番目の宿場ですが、東の由比宿には二里十二町(9.2km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿に至ります。 また、西の江尻宿には一里ニ町(4.2km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。 興津宿の宿内、町並みは東西に十町五十五間(1.2km)人馬継門屋場一ヶ所、問屋二軒、年寄四人、帳附四人、馬指五人、人足差三人、宿立人馬百人百匹 天保十四年(1843)宿内家数三百十六軒、うち本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠三十四軒、人数千六百六十八人(男八百九人女八百五十九人)でした。」『興津宿の名所案内』。興津の地図。『清見ヶ関跡』。白鳳時代、東北の蝦夷襲撃防備の為に、大和國、山背國と共に、駿河國清見崎に設置された関所跡。関所鎮護として開寺されたものが清見寺であると。「跡碑のある清見寺の寺伝によると、天武天皇在任中(673年 - 686年)に設置されたとある。その地は清見潟へ山が突き出た所とあり、海岸に山が迫っているため、東国の敵から駿河の国や京都方面を守るうえで格好の場所であったと考えられる。清見寺の創立は、その関舎を守るため近くに小堂宇を建て仏像を安置したのが始まりといわれている。1020年、上総国から京への旅の途中この地を通った菅原孝標女が後に記した更級日記には、「関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり(番屋が多数あって、海にも柵が設けてあった)」と書かれ、当時は海中にも柵を設置した堅固な関所だったことが伺える。その後、清見関に関する記述は吾妻鏡や平家物語の中に散見し、当地付近で合戦もおきたが、鎌倉時代になると、律令制が崩壊し経済基盤を失ったことや、東国の統治が進み軍事目的としての意味が低下したため、関所としての機能は廃れていった。設置されたころから、景勝地である清見潟を表す枕詞・代名詞の名称として利用されてきたため、廃れた後もこの地を表す地名として使用された。」とウィキペデイアより。関所の建物の柱の礎石。「往古、この付近に関所あり。白鳳年間の(680)設置と言ふ。警護の兵駐屯し、往来を監視し、治安の維持に努めた。永禄年間、其の必要をなくし、撤廃せられた。」説明が書かれている支柱は朽ちて。ネットで調べてみると「徳川時代、興津代官領と、清見寺領の境に、又、濁沢秋山領と、清見寺との境に榜示杭があった。この礎石は、興津代官領との境のものなり。」と。こちらが東側の入口、裏門(手前清見ヶ関跡)。こちらの門の先には、JR東海道線の歩行者専用の踏切があった。裏門右側には「河村孫太郎墳 元和三年」と。この人物は誰?ネットで調べてみたが辿り着かず。元和元年には大坂夏の陣、元和二年には徳川家康死去そしてその翌年であるが。『大正天皇在東宮海水浴御成道』明治22年に東海道線が開通してから、大正天皇が嘉仁皇太子殿下時代に電車で来られ清見寺に滞在され清見潟で海水浴を楽しまれたと。この事から、興津清見潟は海水浴場として全国に知れ渡るようになったと。左から本堂と鐘堂、庫裡がが見えた。清見寺は、静岡市清水区興津の山の中腹に位置。境内からは清見潟の海が少し見えたが、かって前面には「袖師海水浴場」の広い砂浜があり、JR東海道本線の「袖師駅(そでしえき)」(廃駅)は多くの海水浴客が利用したのだと。「白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに法堂が建立されたのが創建と伝えられ、東海道屈指の名刹です。徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。清見寺には家康が愛した清見寺庭園(江戸時代初期の作)や家康手植えの臥龍梅、宗版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財もあります。その他五百羅漢像はそれぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実が熟する時」の一節にも登場します。琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係の史跡に指定されるなど、歴史の宝庫となっています。」『清見寺 見学の案内』。『清見寺 案内図』。階段上に清見寺『総門』が。「総門は、広大な寺院の敷地への入口に当たる門で、旧東海道から階段で導かれています。前面に袖壁が張り出しているのは、地形的にみると門の高さで左右に塀が伸びていたのではないかと考えられます。鉄道が通るために、進入路を跨線橋で山門に導くため、擁壁により道が急勾配でかさ上げされ、門の裏側を通ります。このため、当時の伽藍配置に想像を働かす必要があります。全体の姿は、石垣の上に忽然と現れた感じに見え、非常に違和感を覚えます」と。総門の扁額には「東海名區(とうかいめいく)錦谷居士(朝鮮通信使随行員)筆」と。『清見寺跨線橋』清見寺の境内を東海道線の線路が横切っていた。明治22年(1889年)2月1日に鉄道開通の際に古刹たる清見寺境内を通過。時の住職は政府から見舞金を払下げられるも国益の為と政府に寄付したと。JR跨線橋への坂の途中から清見寺を見る。東海道線の興津駅方面。東海道線の建設により境内が分断されたことが理解できたのであった。昔の『清見寺の鐘樓 汽車』の写真。蒸気機関車が白煙をモウモウと上げて。 跨線橋を渡り右折して進むと左手正面に清見寺『山門』が。慶安4年(1651年)竣工。虹梁上に見事な彫刻が。山門は釘を一本も使っていないのが特徴だと。山号は、巨鼇山(こごうさん)清見興国禅寺 。徳川家康は、幼い頃に今川家の人質として駿府に居住して、当寺の住職・「太原雪斎」に師事し勉学に励んだため、後に清見寺は徳川幕府から特に庇護されたのだと。中央にある彫刻は左甚五郎の弟子の作と伝えられていると。山門前には供養塔:石造二層塔とその背後に六地蔵が。『六道地蔵尊』。石造二層塔の供養塔。供養塔は『田中清左衛門 逆修塔』。『逆修』とは生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。そのために建てる石塔婆を逆修塔というのだと。父親は田中傳左衛門尉長名。田中吉政の家臣で、関ヶ原の合戦で石田三成を捕縛する大功をあげたと。『仏殿』。白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに法堂が建立されたのが創建と伝えられ、東海道屈指の名刹です。徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。清見寺には家康が愛した清見寺庭園(江戸時代初期の作)や家康手植えの臥龍梅、宗版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財もあります。その他五百羅漢像はそれぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実が熟する時」の一節にも登場します。琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係の史跡に指定されるなど、歴史の宝庫となっています。天保年間(1830~1843)に改築され。正面に釈尊、迦葉、阿難の三尊を奉安し、背後に三開山の木像と足利尊氏の木像が安置されいます。清見寺『由緒』「当山は禅臨済宗て、古来より景色の美しさで名高かった。寺の始めは古く奈良朝時代此地に関所が設けられ其の守護として傍に仏堂が建立せられたのが始めと伝えられる。而し寺として基礎の固ったのは鎌倉時代(一二六四)後足利尊氏此の寺を再興(一三四二)徳川時代を経て今日に至った。その間、幾度か戦渦を受けたるも再建復興してきた。境内概観山 門 慶安四年(一六五一)建立仏 殿 天保一三年(一八四四)建立大玄関 元和ニ年(一六一六)建立大方丈 文政十一年(一八二八)建立鐘 楼 文久三年(一八六二)建立五百羅漢 天明八年(一七八八)彫造観音胴像 昭和十三年(一九三八)彫造臥龍梅 徳川家康手接名勝庭園 江戸初期作庭」寺宝 は宋版石林先生尚書伝(重要文化財)、朝鮮通信使遺跡清見寺境内(国の史跡)庭園(国の名勝)『室町時代の清見寺』「室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め、天下大平を祈りました。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、日本を代表する寺ということで「全国十刹」の中に置き保護しました。室町時代に駿河を領せし今川氏は、足利氏と祖を同じくする関係により、常に清見寺を外護しました。六代将軍足利義教、駿河富士遊覧に下伺せし時には、今川範政これを迎えて清見寺に来り和歌などを詠じて清遊しました。この時代、画僧雪舟も清見寺に来り、後年富士・三保・清見寺の景色を画いています。」海が山門の手前まで迫っていた事が理解できる。 『五重石塔』。山門左側にあるのは白隠禅師撰文の五重塔。白隠禅師が撰文したという庵原平四郎物語(庵原平四郎(山梨了徹居士)の得道の因縁の物語)の一部が記されていると。白隠禅師は「駿河には過ぎたるものが2つある。富士の高嶺に原の白隠」と詠われた。『国指定史跡 朝鮮通信使遺跡』。これも日本語、英語、ハングル語で併記されていた。清見寺は慶長12年(1607年)から朝鮮通信使の宿泊場所や接待場所になって来たと。「江戸時代における平和的な日朝交流の象徴であった朝鮮通信使は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するために徳川幕府側が提案した外交政策のひとつです。清見寺は、徳川将軍の代替わりのたびに派遣された使節(朝鮮通信使)の休憩場所として何度も利用され、慶長12年(1607)に派遣された江戸時代最初の朝鮮通信使(当時の名称は回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし))は、江戸からの帰路に清見寺で宿泊しました。書画や漢詩に優れた朝鮮通信使と地域の人々との文化交流の場となった清見寺には、朝鮮通信使が書いた漢詩や、それを木に彫り写した扁額が多数残されています。清見寺は、当時の遺構が良好に残っていることから、鞆福(ともふく)禅寺境内(広島県福山市)、牛窓本蓮寺(うしまどほんれんじ)境内(岡山県瀬戸市)とともに平成6年10月11日に,国の史跡に指定されました。」『海會塔』。「大正4年、東京の実業家町田徳之助氏により建立された。18世宗詮和尚の遺骨が初祖として納められ、川の水が全て海に集まるごとく、死ねば皆同じところで会うのだという意味をこめて、納骨堂は『海會塔』と名付けられた。」再び近づいて『仏殿』を。正式には「巨鼇山 清見興国禅寺」と称し、仏殿に「興国」の文字が見えた。仏殿の扁額「興国」は1655年の朝鮮通信使・趙翠屏の揮毫。趙翠屏は詩文も残していると。仏殿の真正面に『興國(こうこく)』と書かれた扁額が。仏殿内部。床の四半瓦敷が特徴であると。仏殿正面には木坐像が祀られていた。『聖観世音菩薩銅像』。江戸時代中期の天明年間(1781 - 1788年)の彫造で作者は不詳。与謝野晶子はこの尊像を拝して 「清見寺 海を仰ぎて うろくづも 救はれぬべき 身と思ふらん」と御慈徳を讃して詠じたと。多くの五百羅漢石像が境内の小山の斜面に並んでいた。五百羅漢の石像は、江戸時代の中期・天明年間(1780年代)に制作されたものと。「五百羅漢石像釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。江戸時代中期(天明年間)の彫像にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっています。一体一体ユニークな顔立ちの五百羅漢石像。苔むした石像に長い歳月を感じるのであった。知人の顔に似ている石像はいないかと。卒業した会社の同僚に似ているような・・・。後生車(輪廻車、手車石、禊石)と「島崎藤村著「桜の実の熟する時」の小説の一節」の説明板が五百羅漢石像と向かい合うように。この羅漢尊者の群像は、島崎藤村の小説・「桜の実の熟する時」の最後の場面に登場すると。「島崎藤村著「桜の実の熟する時」の小説の一節。興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、誠之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。磯子、涼子それから勝子の面影をすら見つけた。」『向井氏 供養塔』向井氏墓塔3基(向井正重・政勝・政綱)が五百羅漢に包まれるような形で通路沿いに並んでいた。 その1に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩く(富士~興津)間を完歩してから1週間後の3月15日(金)に次の興津~安倍川間を歩いて来ました。いつもの6:08発の沼津行に乗車し、JR興津駅に向かって進む。そして前日に『青春18きっぷ』を購入。「青春18きっぷ」は、日本全国のJR線の普通・快速列車の普通車自由席及びBRT(バス高速輸送システム)、ならびにJR西日本宮島フェリーに自由に乗り降りできる切符。年齢にかかわらず、利用出来るのです。一人での5日間の旅行や5人グループでの日帰り旅行などの「鉄道ぶらり旅」に、格安で利用出来るのです。春、夏、冬に期間限定で発売され、春季用の利用期間:2019年3月1日(金)~2019年4月10日(水)なのです。1枚のきっぷを1人で5回までご利用でき、1日間自由に途中下車も出来5回分で11,850円,寄って2,370円/回で1日自由に利用できるのです。駅の改札口で、1回目の日付入りの押印をもらい入場し出発。この日も快晴で、雪の積もった富士山の姿を楽しみながら進む。電線が邪魔なのであったが。そして定刻通りJR興津駅に到着し、興津宿の散策スタート。時間は8:15。興津駅舎は東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時に開業。但し、開業当時は新橋方に160m東に存在したが、明治35年(1902年)11月1日に現在地に移転。現駅本屋は昭和56年(1981年)10月26日竣工。駅前には興津宿を描いた看板が。この後に訪ねた『清見寺』が描かれていた。そして『東海自然歩道バイパスコース』の案内ボードが。興津駅から旧東海道のある興津駅前交差点に向かう。交差点を右折し旧東海道へ。旧東海道沿いには由緒ある店舗が点在していた。米屋 高山仙吉商店が左手に。店先では今でも豆を計り売りし、米は産地銘柄に拘り奥の工場で玄米から自家精米しているとのこと。昔からの道具や日用品が展示されており、米と暮らしの小さな博物館となっていると。右手奥にあったのが『日蓮宗 理源寺』。境内裏から西側にかけて沢端川が流れる。慶長年間(1596年~1615年)沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、日蓮宗総本山の身延山久遠寺がある地形に合わせて創建したと。『山門』。山門入り口右にお題目塔、左に東海道行路病死無縁各霊供養塔。『本堂』。開山は身延26世知見院日暹。日像の説法弘通の霊地を追慕して慶長年間に草創された。安政の地震で厄を被り、20世日修が堂宇の建立を果たした。昭和10(1935)年にそれまでの堂宇に代わり、本堂・位牌堂が、戦後に七面堂・庫裡等が新築され、山門も修復された。さらに同60年には現本堂はじめ境内地の改修が行われた。『稲荷堂』と『日蓮上人像』。『七面堂』。「日蓮上人像の近くに目の神様「意眼さん」を祀った祠があった。法号「覚智院意眼日明尊位」は、若狭の国宮津城主の子で盲人。身延山日朝上人の許に参詣の折にこの地にて死す。29歳、短い一生であったが、目の不自由な人々のために尽くす。「日朝さん」 「意眼さん」として尊敬される。」 と。寒緋桜(かんひざくら)が咲く境内。七面堂を背景に。下向きに花が咲くのが寒緋桜の特徴。『永代供養墓』であろうか。墓地の後ろを東海道線が走る。入口には『鉄は打たれて名刀に変わる、試練をばねに人は大きく飛躍する』と。江戸時代末期には旅籠であった『旅館岡屋』が左手に。清見潟に残る唯一の旅館。庭には大島桜の白い花が。旧東海道の右手にあったのが『興津宿公園』。案内板にはここが伝馬所(街道の宿駅で人馬の継ぎ立てを行う所)があった場所と記されていた。興津宿 『由来』。「東海道五十三次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。地名のいわれは、「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。」公園内の東屋の前には、案内ボードが。平成21年5月7日、全米さくらの女王が興津を親善訪問して薄寒桜(うすかんざくら)を記念植樹したと。旧東海道には関係ない?が『興津町役場跡』の碑。興津は静岡市清水区に編入され、興津町役場は取り壊されたと。『興津宿由来』の案内板。英語と共にハングル文字が併記されていた。「慶長六年(1601年)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて十七番目の宿である。 参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も二十四軒と言う賑やかな宿場となる。 ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩埵峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。 この付近一帯が興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神(興津島姫命)がここに住居を定めたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が住居していたのでその名を地名としたとの説もある。 古代から呼び名は、奥津・沖津ともいわれていた。」我が住む市内にある江島神社はちなみに奥津宮 ( おくつみや ) 。興津宿公園には興津宿の案内板あり当時の一軒一軒の旅籠名が図示されていた。『興津宿』道標。清水警察署 興津交番横の道の奥には『日蓮宗 耀海寺』が。そして『興津宿東本陣阯』の石碑が。当時の当主は市川氏と言い、宿の役人を兼ね、苗字帯刀を許されていて、明治三年に廃止されるまで235年間続いていたと。『脇本陣、水口屋跡』左側にある。明治になり制度が変わると、一般客相手の高級旅館一碧楼水口屋として営業を始めた。しかし、昭和60年に400年続いた旅館を廃業し、水口屋ギャラリーになっているようだ。入口には『興津宿 脇本陣水口屋跡』、『一碧楼水口屋跡』の碑が。東海道線が静岡まで開通し興津駅ができると、風光明媚な海岸を愛でた海水浴客で賑わい避暑地の名声を得ることになった。一方、水口屋にしばしば逗留した政治家後藤象二郎をきつかけに、元勲たちが相次いで避暑地、避寒地として訪れ、別荘を建てたりした。明治29年、元老井上馨は、長者荘を建てた。その井上訪問のため伊藤博文、山県有朋らが水口屋に宿泊した。また文豪夏目漱石、正宗白鳥、高山樗牛らも訪れ興津を題材にした作品を残している。また志賀直哉も「興津」を発表した。スポーツ用具店のシャッターには、3月21日に現役を引退した「イチロー」の姿が。平成プロ野球の扉を開いた男が、平成の終わりとともにユニフォームを脱いだのであった。ひとつの「平成」時代の終わり……いや、正確に言うとイチローは平成時代そのものだった。そういうプロ野球選手は、長い球史において、「昭和の長嶋茂雄」と「平成のイチロー」だけだと個人的には思うのだが。右手に『興津宿西本陣址』。更に旧東海道・興津本町を西に進む。清水区興津清見寺町の道標には日本橋から166kmの表示が。 旧東海道を歩く(富士~興津) その10 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『東海道難所 薩埵峠之絵図』。東海道、興津川の『川越遺跡』。「ここは東海道興津川「川越し」の跡です。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、蓮台または人足の肩ぐるまで川を越した。越し札はその日の水深によって上表のごとく値が違い、蓮台越しの場合は札四枚を要した。深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」となった。但し冬期(11月下旬~3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。川越人足は興津側で36人が常備されて居り、大通行があると250人以上が動員された。」太股川(42cm) 12文 はさみ川(70cm)15文横帯川(106cm) 24文 若骨川(120cm) 32文脇水川(150cm) 42文備考:天保の頃 そば1杯が16文。『東海道五拾三次之内 興津 広重画』奥津(興津)は興津川沿いの宿場であり、川は浅く架橋はなく徒歩渡りで、河口での力士の川渡りの様子が描かれている。一人は馬、一人は駕籠であり、人夫との対比も面白い。遠くには、三保の松原、駿河湾が描かれている。二人はともに、柄袋をかぶせた刀を腰に差しているので、大名抱えの関取と思われる。『歌川広重 東海道五十三次 狂歌入東海道《 興津/興津川 》』。『風吹けば 沖つ白波たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ 年垣真春』。人足の肩ぐるまで興津川を越して行く旅人の姿が。「東海道五十三次興津」歌川廣重(安藤廣重)寛政9年(1797年)~安政5年(1858年)興津宿の沖の駿河湾からの、真っ白に雪に覆われた富士山の姿が描かれている。『東海道十八 五十三次之内 興津(蔦屋版)』「画面左にある小高い山が薩埵峠です。薩埵峠を西側(江尻宿側)からみている景色です。画面奥には駿河湾が広がります。薩埵峠の手前に軒を連ねているところが興津宿です。画中に「清見がせき(清見ヶ関(きよみがせき))」とありますが、興津宿は平安時代に設置された清見ヶ関の鎮護のために建てられた清見寺(せいけんじ)の門前の町としても栄えました。」『慰霊塔建立之碑』明治、大正、昭和三代に渡り、祖国の国難に殉じた六十有余の地元の方々に対する忠霊碑。興津川に架かる東海道線のガード下を潜る。JR興津駅まで1.6km、30分と。興津川に架かる興津川橋を渡る。左側は現国道1号線・富士由比バイパス、その奥にクア・アンド・ホテル 駿河健康ランドが。右側には東海道本線。東海道線の線路のあたりが渡し場の西岸であると。県営住宅 興津団地入口のモニュメント。興津中町東交差点を直進する。『興津宗像神社』の石鳥居が右手に。宗像神社の森は,女体の森といわれ、漁師が海上からの目印にしたと。創建は平安時代中期といわれ、祭神はスサノウノミコトの子の3人の女神(宗像三女神)で航海安全の神。女神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われている。江戸時代に木、豊穣、音楽、知恵、水の神として信仰する弁天信仰と同化され、境内の森を「女体の森」、池を「弁天池」と名づけている。地元の漁師は、神社の森やクロマツを灯台代わり目印にしていたのだと。そして興津中町西交差点の角にあったのが『身延道起点の道標』。ヒゲが跳ねたような文字で「南無妙法蓮華経」とかかれており「髭題目」と呼ばれている。碑文から承応3年(1654)の建立であることがわかる。並んでいる「身延山道」は元禄6年(1693)の道標。江戸時代の身延道追分の碑。現在の身延街道は、興津郵便局の前が起点となっていると。「身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、 鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。また江戸時代初期には身延山参詣の道として使われるようになった。」『一里塚跡』の碑を発見。『興津一里塚』江戸日本橋より41里。江戸日本橋から165.090kmなのであろうか。そしてJR興津駅に到着。時間は17:26。次回訪ねる予定の『清見寺』が描かれた大きな興津宿の絵が駅前広場に。富士山の頂上が山の合間から。再び『東海自然歩道バイパスコース』。そして17:39発の熱海行きに乗車。料金表に我が駅は既に掲載されていなかった。『興津駅』。この日は茅ヶ崎駅で下車し、旅友の行きつけの店で反省会。そして帰路に。時間は21:35。 その9 に戻る。 ・・・完・・・
2019.04.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次倉沢地区の分岐路には道標そして『西倉沢の一里塚』の石碑が。「江戸から数えて四〇番目の一里塚である。だから江戸から凡そ160キロの距離にある。ちなみに由比駅~東京駅間は158.4キロである。この一里塚はさった峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。」薩埵峠まで残り1.3kmの地点を通過。『ふるさとを見なおそう!』「戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦セ氏古戦場として知られ、また東海道随一の難所「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている。峠は磐城山((いわきやま)・岫崎(くまざき)ともいい、『磐城山ただただ越えきませ磯崎の こぬみの浜にわれ立ちまたむ』と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五十三次のうち、ここ薩埵峠より見た富士山と駿河湾の景観を画いたものはあまりに有名です。 『山の神 薩埵峠の風景は 三下り半に かきもつくせ』 魯山人 」急な坂道が続く。『倉沢』道標。富士山が見えて来たが、前には雲が出てきていた。駿河湾には貨物船が。『由比地すべり対策事業』説明ボード。清水区由比西倉沢において、年超過確率1/100規模の豪雨や地震に伴い発生する地すべりから、住民の生命や財産、及び日本の 大動脈である国道1号・東名高速道路・JR東海道本線の重要交通網の被害を防止するのが目的であると。遠く駿河湾の向こうに伊豆半島の姿。『東海道薩埵峠周辺案内図』。由比宿から興津宿の間は、大井川などと並び東海道の難所と言われたところで、波間を縫いながら岩伝いに浅瀬や岩の合間を通る「下道」を通わなければならず「親知らず・子知らずの難所」とも呼ばれたまさに旅人泣かせの場所であった。その後、薩埵峠を越える「中道」が切り開かれたが、数キロに渡って険しい山道が続く難所には変わりなかった。何を建設中なのであろうか?手前の枇杷の木には早くも実を袋で保護。海沿いを走る、上側が東名高速道路そしてその下を潜っているのが富士由比バイパスとJR東海道線。その先、駿河湾の先には三保の松原方面が。そして漸く『薩埵峠』に到着。時間は15:23。左手に「薩埵峠山之神遺跡」の石碑して幸田露伴の次女である幸田文(こうだあや)・文学碑が右手に。「由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。 草木のあるなんでもない山なのだ。 だが、そこを見ていると、なにかは知らず、土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた」と刻まれていた。『夢舞台東海道標柱』「さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。」『風光明媚な絶景の地』「その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。『田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり』 また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌がさった峠の名を有名にしました。『山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ』 」。そして富士山の姿。残念ながら雲は頑固に動かないまま。暫く待つが。自然はままならず。逆に富士の姿がじわじわと小さく。駿河湾の先に富士市内の紙パルプ工場群そしてその奥の愛鷹山は雲もなく絶景であったが。『東海自然歩道バイパスコース』。興津駅~見晴観音までのコースが説明されていた。奥にあるもう一つの展望台に向かう。途中更新された展望台があったが、未だ使用再開されていなかった。薩埵峠は「東海道五十三次」の中で、当時と同じ景色がのぞめる唯一の場所と言われている。当時と違うのは、崖下に道路や鉄道が通る陸地が存在しているところ。江戸末期(1854年)安政の大地震が起こるまで崖下は海であったが、地震により地面が隆起して陸地が出来たと。近くにはネットで富士山の姿が確認できるライブカメラが稼働していた。しかしここからも・・・・・。下道だった海岸には国道1号富士由比バイパスや東海道本線が通っている。今となっては「親知らず子知らず」の面影は無く、舗装されて安全な道を多くの車が忙しく往来していた。カメラを片手に暫く待つが、状況は変わらず諦めて下山開始。しかしまた振り返りながら・・・。この姿に拘って。『東海道五拾三次之内 由井 広重画』当然ながら、高速道路や国道、JRなどは描かれていない(笑)。因みにこの辺りは、古代~江戸時代初期までは、下の海岸が東海道だったそうで、ひとたび海が荒れると、大波から逃げるのが遅い老人や子供が、大波にさらわれてしまったことから、別名を「親不知(おやしらず)」「子不知(こしらず)」とも呼ばれていたのだと。『五十三次名所図会 十七 由井 薩多嶺親しらす(竪絵東海道)』。「由井宿から興津宿へ向かう途中のさった峠から見る富士山は絶景です。しかしさった峠の道は断崖絶壁の下に荒波が打ち付け、危険なことで有名でした。無事帰れるかわからないことから、「親知らず」と表現されていると思われます。」『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十七 五十三次 由井」この絵が「親知らず・子知らずの難所」の「下道」の絵なのであろう。そして下の写真は1月下旬にこの地を訪れた、我が高校時代の同級生の「マドンナ」から送られてきた写真。この頃は富士山に雪は少なかったが、富士山を隠す雲は全くなかったのであったが。しかしこれでもかとシツコク待つが・・・・。山頂だけは隠れることなく。見納めの一枚。西からの『薩埵峠』道標が。『薩埵峠』と刻まれた石碑。『薩埵峠歴史』(右)「鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられたさった地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後さった山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)ここに道が開かれたのは1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。」そして左には『薩埵山の合戦』。「薩埵山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。 降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が三ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。」急な階段を下る。西から薩埵峠を目指す方がハードか?下っていくと広い共同墓地?が。JR興津駅まで3.3km、60分と。『ふるさとの路 薩埵峠の案内』。『薩埵峠ハイキングコース』案内板。「薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と呼びかえられたと伝えられています。薩埵越えは、ひg氏の箱根峠越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。薩埵峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)朝鮮通信使のために山腹を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。」『往還坂』と刻まれた石碑。かつての東海道は往還坂南東側(写真左手)の山裾を通っていたが消失して、この往還坂が迂回ルートとなっているようであった。薩埵峠旧道(中道)沿いに鎮座する『白髭神社』を訪ねた。階段の上には白髭神社の『社殿』が鎮座。静岡県ににはこの白髭神社が多いのでその理由をネットで調べてみると、白髭神社の建立については、朝鮮半島からの渡来人との関係性を指摘する説もあるが、民俗学者の柳田国男は白髭信仰を「主として水辺の神」としており、「水害から人命や田畑を守ってくれる神として、安倍川流域で白髭神社の勧請が積極的に進められた」と。水害の多発した江戸中期から末期にかけて、半数以上の白髭神社が再建され、安倍川水系の藁(わら)科(しな)川沿いでは、白髭神社の社殿や鳥居が川の方角に向かって建立されているのだと。白髭神社境内の木々の隙間から駿河湾を望む。薩埵峠越えの下道は眼下の海岸、中道はこの真下を通る急傾斜の坂道で通じていたのだ。収穫の終わったみかん畑の中の旧東海道を下っていく。この日の夕日が山の端に近づいて来ていた。更に下って行くと「おきつがわ通り」に合流。合流地点にあった「土地改良之碑」。ここから薩埵峠までは2.3km、65分との道標表示。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『「由比宿(ゆいしゅく、ゆいじゅく)」案内板』。由比宿は、東海道五十三次の16番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する。ズームで。本陣跡が整備され、由比本陣公園となっている。東海道名主の館(小池家住宅)が、1998年(平成10年)10月9日に、国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けた。「慶長六年(1601)、江戸幕府は東海道に宿駅伝馬制を設け、由比宿はこの年に宿場として指定されました。東海道五十三次が確定したのは三代将軍家光のころで、由比宿は江戸から十六番目の宿駅でした。宿内には大名や高貴な人が宿泊する本陣、彼らの道中での馬や人足を調達する問屋場、一般旅客の宿泊・休憩する旅籠・茶屋などがありました。由比の本陣職、問屋職を勤めた岩辺家は、鎌倉時代より続く由比氏の系統で、江戸時代は代々「岩辺郷右衛門」を名乗りました。 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、由比宿の町並みは東西五町半(約六〇〇メートル)、宿高は、三四〇石、人口は七〇七人、戸数は一六〇軒あり、このうち本陣一、脇本陣一、旅籠三二となっています。このように由比宿は小規模であったため、義務であった百人・百匹の常備の人馬をおくことができず、近隣の村を加宿とし応援をしてもらいました。 宿場の西端にある由比川は仮板橋で、大水が出るときは取り外すので川留め(通行止め)となりました。また、宿場の東西の入口には万一の攻撃に備えて街道をカギの手に曲げた桝形があり、今でもその面影を残しています。 由比宿の中心であった由比本陣は、石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館、土蔵、離れ座敷がありました。惜しくもその多くは失われてしまいましたが、一三〇〇坪(約四三〇〇平方メートル)の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣などが当時の姿を留めています。」『由比宿 西木戸』「天保12年(1841)に江戸幕府が編纂した東海道宿村大概帳によると、由比宿の街並みは東西5町半(約600m)とあります。その宿場の西の木戸がこの先の桝形の所あたりだったと思われます。旧東海道は、その桝形を左折して坂道を下って由比川の河原へでると仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すとこの仮橋は取り外されました。このように由比川は徒歩で渡りましたので歩行渡りといっています。歌川広重の版の行者版東海道「由井」にはこの情景がよく活写されています。狂歌入り東海道には、結城亭雛機(すうき)という人が『ふみ込めば 草臥(くたびれ)足 直るかや 三里たけなる 由井川の水』という狂歌を残しています。」現代の由比川に架かる橋・由比川橋。この由比川橋を渡ると大名、旅人はこの先にある薩た峠の山越えに挑むのです。そして我々二人もこの日に。海側には東海道本線が。橋の欄干には由比正雪の絵が。由比川橋に飾られている広重の浮世絵「東海道五十三次之内由井 かち渡りゆひ川の図」(行書東海道)。こちらが本物の浮世絵。かち渡り【徒渡り】とは歩いて川を渡ること。この由比川には木橋が架かっており、そこをかち渡り【徒渡り】している絵。由比宿の後ろの山々。山の中腹には本光寺の姿が。以前訪れた時には、この店・『玉鉾』で食事をし、店のご主人が車で由比駅まで送って下さった事を想い出したのであった。軒先に多くのアルミ缶風車をぶら下げている民家が。風車の形もいろいろあるようであった。このアルミ缶風車は旅友Sさんが大のお気に入り。更に由比駅方面に向かって進む。桜えびの店『牧野商店』。体長3~4cmほどの薄ピンク色の輝きが全身に詰まった「桜えび」は、明治27年(1894年)に由比の漁師が鯵の漁をしている時に網がいつもよりも深く潜ってしまい引き上げてみたら見たこともないピンク色のエビがかかっていた、というどちらかと言えば事故とも言える様な偶然によって獲られる様になった深海に棲息するエビ。国内の水揚げのほぼ100%を駿河湾産が占める。その駿河湾で獲れる桜海老の中でも由比で水揚げされる桜海老は質・量共に有名で、漁の解禁時期にあたる4月と11月には多くの食道楽・グルマン達がその味を求めてやってくると。『せがい造りの家』が左側に。『せがい造りと下り懸魚』「せがい造り軒先を長く出した屋根を支えるために、平軒桁へ腕木を付け足して出桁(だしげた)とし、棰(たるき)を置いたものです。民家建築の美観を添えたもので、由比の街並みに特に多く見られます。下り懸魚(げぎょ)平軒桁(ひらのきげた)の両端が風雨による腐食を防ぐための装置で、雲版型の板に若葉、花鳥などを掘り込み装飾も兼ねているます。稲葉家はこの下り懸魚が施された建物です。」『下り懸魚(げぎょ)』。『豊積神社』の鳥居が小路の奥に見えた。ズームで鳥居と社殿を。『今宿』道標。歩いて来た通りの名は『桜えび通り』。巨大な桜えびが水引を咥えて鎮座。由比駅側から振り返って。『東海自然歩道(バイパスコース)案内図』。そして左側にあった由比駅でトイレ休憩。そして薩埵峠に向けて坂道を上る。『薩埵峠入口』。案内板に従って進む。『由比観光案内板』。『宗像神社』社標が右手に。宗像神社は、宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)を祭神としており、航海の安全を祈願する神である。『中の沢2号橋』を渡る。「ここ寺尾には昔、南方寺という真言宗の寺があり地名の起源となったと伝えられている。昔の家並みは海ぞいにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和二年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。」左には青く染まった駿河湾が拡がっていた。『日蓮宗 讃徳寺』。「九思一言」とあったが、私は未だ「一思九言」の体たらくであることをこの場で反省。低い軒の瓦葺きの外観を持つ明治期に建てられた民家。『小池邸』。『国登録有形文化財 小池邸 』「小池家は江戸時代、代々小池文左衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。 この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました。」小池邸はす向かいにあったのが『由比宿東海道あかりの博物館』。『由比宿東海道あかりの博物館の定』「たき火からかがり火へ。ローソクから電灯へ。"あかり"はさまざまに姿を変えながら、いつの時代も変わることなく暮らしを支えてきました。「由比宿 東海道 あかりの博物館」には、わが国の古今のあかりに関する物品、文献がいっぱい。その歴史をたどれば、"あかり"をとおして、その時代の暮らしが見えてくるはず」と。江戸・明治・大正時代までの灯具や資料などが展示されているのであった。更に坂道を登っていく。『薩埵峠』道標。薩埵峠まで2.3km、55分と。こから街道は更に急な登り坂になっていったのであった。由比東倉澤地区の『八阪神社』入口の鳥居。『中峯神社』参道入口の社標。『鞍佐里神社』参道入口。『曹洞宗 倉澤山 宝積寺』の本堂が見えた。『間の宿本陣跡』。「ここ西倉沢は、さった峠の東坂登り口に当たる間の宿で十軒ばかりの休み茶屋があって、旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を愛で旅立っていった。ここ川島家は、江戸時代慶長から天保の間凡そ二百三十年間、代々川島助兵衛を名のり、間の宿の間目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村名主もつとめた旧家である。」『明治天皇御小休所跡 間の宿 脇本陣 柏屋 』。「江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。明治十五、六年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところから、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。」 その7 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東名高速道路下を潜り、清水区由比を更に西に進む。由比宿すぐそこ0.6Kmの案内標識。JR蒲原駅から1km、JR由比駅まで2.8km。由比駅よりも蒲原駅の方が由比宿に近いのです。そして『静岡県清水市 由比』道標。右手に『はちみつ ヤマヒデ養蜂場』が。『神沢川(かんざわがわ)酒造場』。「正雪」という名の酒が有名であるようだ。一年を通して温暖な気候の静岡にも三十数件の酒蔵があるのだと。そして静岡は地酒ファン必涎の蔵が多い事でも知られていると。そんな静岡のほぼ中央、東海道の十七番目の宿場町今なお古い町並みを残す由比町に「正雪」の蔵元、神沢川酒造場が。民家の横に、江戸から39番目の『由比一里塚跡』。「一里塚は慶長九年(1604)江戸幕府により、行旅の便をはかるため、東海道・東山道・北陸道に設けられ、一里が三十六町、一町が六十間と定められ、塚には榎や松の木が植えられた。由比の新町の一里塚は江戸から三十九番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661~73)山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されています。」小さな祠に2体の石仏が。『桝形跡』手前右の古き木造の建物・旧商家「志田邸」。『桝形跡』。この場所は、なるほどと納得がいく枡形(鍵型)構造であった。ここから由比宿の街並みが始まるのだ。『由比宿東枡形跡』「宿場の出入り口は桝型(かぎの手)に折れ曲がり、木戸が作られ、万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに、宿の出入り口の道標にもなっていました。ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていました。由比宿も東西の出入り口は桝型に折れており、現在も面影が残されています」。『昔の商家(志田氏宅)』「江戸から京へ上る旅人が、蒲原から由比へ入る時、ここは当初の由比宿の東木戸で、桝型道路の形態をとどめている。志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、家のたたずまいも昔の商家の面影を残している。入口(どまぐち)を入ると帳場、箱階段等を見ることができる。枡形道の先の塀にはめ込まれた碑は『御七里役所の趾』。「江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。同家では江戸・和歌山間(584キロ)に約七里(28キロ)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を来て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは由比駅における紀州家お七里役所のことである。この裏手に大正末年までお七里衆の長屋があった。」そして『由比本陣公園』に到着。東海道由比宿交流館、御幸亭、東海道広重美術館が内部に在る公園。『表門』が中央に。『明治天皇由比御小休所』と『天皇陛下 皇后陛下 行幸啓記念碑』。『案内図』。東海道広重美術館では『江戸のそら 広重の浮世絵に見る機構表現』が開催されていた。『東海道由比宿交流館』、『観光案内所』。カルチャー、観光、レストの3つのエリアから成り立っており、由比の歴史に触れたり、観光情報の発信、地域のふれあいの場として多目的に利用できる施設。『由比本陣』の立札。『東海道広重美術館』。ズームで。この美術館は2017年6月にも訪ねブログアップ⬅リンク していますので、アクセスしてみて下さい。『物見塔』。『東海道由比宿交流館』、『観光案内所』に入る。扁額ではないが。内部には、なぜか山口の瑠璃光寺五重塔の模型が。由比との関係は?『名所江戸百景浮き絵展』。何故か「浮世絵」ではなく「浮き絵」と。あまり見学者がいない?東海道スタート地点の日本橋の絵も。法被を着て記念撮影が出来るようであったが・・・・。交流館内には由比宿街並み模型が展示されており由比宿が再現されていた。由比宿全体。『東海道由比宿交流館』前にあった井戸。「この井戸は、江戸時代に本陣で使われていた井戸です。深さは約三間(5.5m位)で、周りの井筒は切り岩が積み上げられています。 現在の水量はあまり多くありませんが、物見塔に引き込まれ壁泉から徒渉池の流れの水となっています。芝生広場。この場所には母屋があったそうだが、明治初年に解体されたと。由比本陣公園前の水路は馬のための水飲み場であったと。『馬の水呑場』「この横の長い水路状の濠(幅1m、東西20m)は馬の水呑場といって、大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりした所です。したがって水深も元は60cmもありました。屋敷の南の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいものです。」今では亀が甲羅干ししていました。『正雪紺屋(しょうせつこうや)』「この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍甕等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので昔の紺屋の様子を偲ぶことができます。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから正雪紺屋の屋号がつけられています。」『明治の郵便局舎(平野氏宅)』 「江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。明治四年三月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱所となり、さらに明治八年一月由比郵便局と改称された。明治三十九年五月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治四十一年一月より郵便局を移転した。この局舎は昭和二年七月まで使用され、現在は平野氏私宅となっている 。『脇本陣饂飩屋(わきほんじんうどんや)』。「由比宿には脇本陣をつとめた家が三軒ありました。そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまでつとめたのが、この饂飩屋です。東海道宿村大概帳(天保十二年、1841、幕府編集)に、脇本陣壱軒、凡そ建坪九十坪、門構え、玄関付と記載があります。」『日蓮宗 光栄山 正法寺』。「源頼朝から由比郷の地頭に任ぜられた由比大五郎光高の曾孫五郎光時(後に入道して浄円)を開基檀越とする。その屋敷を割いて法華の道場とし、同族の縁につながる六老僧日興を仰いで開山とした。一子正法院日守を2世としたのが文保元(1317)年のことであったが、由比氏は天正7(1579)年に如何なる理由か浄土宗の一寺を建立し、法華信仰を捨てた。身延山33世遠沾院日亨の代に身延直末となる。」『加宿問屋場跡』「ここは江戸時代に加宿十一カ村(北田、町屋原、今宿など)が共同で問屋場を設営したところです。問屋場とは、幕府の命令で街道通行者のために人足と駄馬(百人・百匹)を用意した役所で、由比宿の場合は本宿と加宿が一カ月交代でこの負担を努めました。 」『脇本陣羽根ノ屋跡』。この辺りが正に宿場の中心地。由比駅方面に向かうと左手にあったのが『東海道由比宿 おもしろ宿場館』。由比出身の画家・松永宝蔵氏がデザインした人形によって、旅籠や桶屋、寺子屋など、旅人でにぎわった江戸時代の宿場町をユーモラスに再現した展示館。江戸時代の由比宿にタイムスリップした気分で楽しめる空間。2017年6月に、この『東海道由比宿 おもしろ宿場館』も訪ね、ブログアップ⬅リンク していますのでアクセスしてみてください。おもしろ宿場館から30mほど先の右手には3軒目の『脇本陣徳田屋』が。現在は文房具屋になっている様です。この学校の如き建物は?『清水銀行由比支店本町出張所』国の登録有形文化財に指定されています。この建物は、1900(明治33)年に完成し、今でも現役。奥にあったのが『浄土宗 松石山 延命寺』。『山門』。『本堂』。「鎌倉幕府の御家人高橋光延は、奥州攻略の恩賞として、源頼朝から由比の地を与えられた。その子光高が由比姓を名乗ったが、由比氏の始まりである。戦国時代、由比家は今川家の家臣となり、由比宿北の山に由比城を構えていたが、桶狭間合戦において当主の正信が戦死し、その子正純は今川氏真の籠もる掛川城を徳川家康が攻めたときに戦死してしまった。主のいなくなった由比は、分家して志太に居を構えていた由比光教の子岩辺郷右衛門寧広が治めることとなった。彼が江戸時代になり由比が宿場に指定されたときに、本陣を営むこととなり、子孫代々本陣は岩辺家が務めていた。この岩辺寧広が開基となった寺がこの延命寺。」本尊の地蔵菩薩像は、室町時代末期に造られた高さ2m20㎝の大きなもので、静岡市の文化財に指定されている。 その6 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道の蒲原宿の街並みの中を進む。『「蒲原宿」案内板 ようこそ蒲原へ!』⬅リンク。蒲原宿の名所・旧跡が一つ一つ詳しく説明されていた。江戸方面からの入口にも欲しい案内板。うなぎ、桜えびの文字に誘われて、昼食の店に向かうこととした。時間は12:12。旧東海道を左折し東海道線方面に向かう。山の頂上には蒲原城跡があるとの道標。そして『蒲原の味処 よし川』に入る。店の暖簾にはうなぎの『う』の字が。「黄金丼」を注文。サクサクの桜エビの天ぷらがたまりません。これぞ絶品のランチ。昼食に満足し、再び蒲原宿の街並みに戻る。『高札場跡』蒲原郵便局の先の柵区防災倉庫の前に高札場跡の立て札のみがあった。「高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれました。宿場や村には必ず高札場が設けけられ、民衆に法令や定を周知させていました。正徳元年(1711)に出された五高札が有名で ①伝馬(てんま)に関する定 ②忠孝を奨励する定 ③毒薬や贋金銀(にせきんぎん)売買禁止の定④切支丹宗門禁制(きりしたんしゅうもんきんせい)の定 ⑤火付(放火)重罪の定 が墨書(ぼくしょ)されて掲(かか)げられていました。また貨客(かきゃく)運搬の駅場や人足の賃金も改定のたびに掲(かか)げられました。 」『御殿道跡』。「かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と呼んでいます。ちなみに、寛永十一年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました」。更に蒲原宿を進む。『旧五十嵐歯科医院』。御殿道跡の斜向かいに国登録有形文化財の旧五十嵐歯科医院があった。この建物は、町家を洋風に増改築した擬洋館風建築と呼ばれるもので、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物。水道が無かった時代、井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っているのだと。旧五十嵐歯科医院の先は昔の面影を残す宿並みが続いていた。『国登録有形文化財 志田家住宅主屋』。「蔀戸(しとみど)のある家 国登録文化財「志田家住宅主屋」志田家は𠆢六(二文字を縦に続けて)「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は、「通り土間1列型」と呼ばれる町屋形式の典型です。蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは下のものは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました」『東海道町民生活歴史館・東海道57次 中山道67次交流館』にもなっていた。「東海道は江戸と京都を結ぶ主要ルートとして徳川家康が慶長6(1601)年に定めた。途中には公用の人や物資、通信物などを次の宿まで運ぶ「宿駅」を置き、当初は四十数駅があったとされる。その後、大坂城の再建を始めた2代将軍・徳川秀忠が、豊臣秀吉の制定した京街道(京都~大坂)を加え、新たに4つの宿駅を置いた。歌川広重が江戸時代後期に手がけた浮世絵「東海道五十三次」は江戸~京都間だったが、実際は江戸~大坂間を結ぶ「五十七次」の街道だったと考えられる。江戸時代の「宿駅制定証文」では、元和2(1616)年に守口宿が制定されたことが記されている。」『美しい格子戸の家(増田家)』。「格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つです。細い角木(かくぎ)を縦横に間をすかして組み、窓または出入口に取り付けますが、組子の組み方にも幾種類かあり、また、組子だけで吹通しのものや、面に板を張るものなど、気候風土に合わせた工夫がなされています。 かっては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨(みが)き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景でした。」 『妙降寺』の本堂が右手奥に見えた。格子戸の美しい増田家を過ぎて、街道が左に折れる角地に長栄寺の自然石の寺標『長榮寺石碑』が建っていた。寺標を右に入って行くと浄土真宗本願寺派の法流山長栄寺があった。長榮寺『山門』。『本堂』。『親鸞聖人像』。『鐘楼』。昔の水場?本堂屋根の鬼瓦。『蒲原宿 西木戸』。『西木戸・茄子屋(なすや)の辻』 「蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。 もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、元禄十二年(一六九九)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。 この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋(なすや))があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこりました。 承応(しょうおう)二年(一六五三)、高松藩の槍の名人大久保甚太夫(じんだゆう)らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、七十人近くを倒しました。しかし、最後に追っ手に見つかり殺されてしまいました。 当時の龍雲寺(りゅううんじ)住職が墓地に葬り、供養しました。甚太夫の槍の穂先は、現在寺宝(じほう)として、保存されています。」『蒲原宿 西木戸』を入口側から。『和歌宮神社』石鳥居。西木戸跡の直ぐ先右手に和歌宮神社の鳥居があり、130mほど先に和歌宮神社社殿があった。社殿をズームで。永禄12年(1569)蒲原城主・北條新三郎綱重が甲斐国武田信玄との戦いに敗れ滅亡したときに社殿や山部赤人の御神像は焼失したが、寛永11年(1634)に再建された。ご神体は山部赤人・木花咲耶姫命であり、境内には金比羅神社・貞享3年(1686)の庚申塔・忠魂碑などがあると。蒲原宿を多いに楽しみ、更に旧東海道(県道396号線)を西に進む。左側に朱色が鮮やかな『一乗院』。本尊は大聖不動明王・三寶大荒神・如意輪観音を祭祀。右手の山の上に『大山祇神社』、『霊光院』が見えた。桜えびと書かれた大きな暖簾を店頭に掲げた店。蒲原駅の手前。そして上を走るのが東名高速道路。 その5 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日軽蒲原第二発電所を見ながら、更に旧東海道を進むと左手には『蒲原の名所、旧跡』が写真で説明されていた。訪ね損なった『源義経硯水(よしつねすずりみず)』の案内を写真撮影。「1174年(承安4年)に源義経が東に下る時に菩提所の涌き水を使って蒲原神社へ奉納する文と愛知県矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃姫に文を書きました。送られた文を読んだ浄瑠璃姫は源義経を慕い矢矧から奥州に下る途中に病で倒れこの地で亡くなりました。その時以来涌き水が義経硯水と言われるようになりました。1654年(承応3年)に供養塔が建てられました。その後1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「いぼ神様」として尊ばれ参詣者が絶えなかったとのことですが旅人が持ち去ってしまいました。現在の地蔵尊はのちに再建されたものです。」『歴史国道』説明。歴史国道とは、歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を有する道路として国土交通省(建設省)が選定した道路のこと。この時に歩いている道、東海道 岩渕間宿〜蒲原宿〜由比宿(静岡県富士市 - 静岡市清水区)も歴史国道の一つであると。清水区蒲原二丁目の住宅街を歩く。すると左手奥にあったのが『渡邉家土蔵(三階文庫)わたなべけどぞう(さんかいぶんこ)』「木屋(きや)の土蔵市指定文化財(「渡邊家土蔵(わたなべけどぞう)(三階文庫)(さんかいぶんこ)」 渡邊家は、江戸時代末期に問屋職を代々務めた旧家です。また、材木を商っていたことから、「木屋」という屋号で呼ばれていました。 「渡邊家土蔵(三階文庫)」は、四隅の柱が上にいくにつれて少しずつ狭まる「四方具(しほうよろび)」(四方転(しほうころび))という耐震性に優れた技法で建築されています。三階建ての土蔵はあまり例がなく、棟札(むなふだ)から天保9年(1838)2月21日に上棟したことがわかり、市内最古の土蔵であると考えられます。この土蔵の中には、江戸時代の貴重な資料が多く保管されています。 」入口右手にあったのが『木屋稲荷』。木屋稲荷は渡邊金璙(かねよし)が天保9年(1838)に家神社として石祠を造ったと。現在は木屋江戸資料館として公開。運良くこの渡邊家の奥様(館長)が出て来て下さり、正面の入口の南京錠を解いて「木屋の土蔵」内部を案内して下さいました。「中の構造は、二重の梁や隠し階段等の工夫が凝らしてあり建築物としても大変貴重な資料として関係者の熱い視線を浴びているものです。合計23本の通し柱で各階で一寸(3cm)ずつ内側に傾いています。」写真は頂いたパンフレットより転載させていただきました。「この蔵は安政の大地震(1854年)にも耐え貴重な当時の所蔵品や資料を現在に残しています。」『渡邉家の歴代当主』の説明。蔵1回は『木屋江戸資料館』として公開中。資料館内に展示されていた長久保赤水の制作した日本地図。「伊能忠敬の「伊能図」がつくられる四十二年前に緯度と日本版の経線(京都を標準にした等間隔の南北線)を記したかなり精巧な日本地図があった。それが『日本輿地路程全図』(にほんよちろていぜんず)、世に云われた「赤水図」である。この「赤水図」は大阪の出版社によって世に流布され、当時のベストセラーとなり旅人に愛用された。これより四十二年の後、黒船が来航する江戸時代末期に幕命でつくらせた「伊能図」は国家機密とされ、江戸時代には一般人は見ることが叶わなかった。ゆえに、江戸時代中期から明治時代まで広く世に使われたのは「赤水図」だった。幕末の志士吉田松陰も「赤水図」を携えて仙台まで旅し、長州(山口県)への岐路、茨城県高萩市赤浜にある長久保赤水の墓に参詣している。また、かの医学者シーボルトもヨーロッパに持ち出し紹介しており、現在もイギリスのケンブリッジ大学やドイツの博物館など数か所に収められていることを東京大学大学院教授馬場章氏が近年発見している。」と。江戸時代後期に蒲原宿で問屋職を務めた渡辺金璙は、膨大な数の日記や記録を残しており、それがために当時の蒲原宿の様子が現在に伝わっているという貴重な文書を所蔵していると。奥様・館長の渡辺和子さんは説明がわかりやすくて話が面白く、大変勉強になった。地図を広げて『東海道の移り変わり』⬅リンクを熱く説明してくださった。最近では、テレビで活躍中の磯田 道史氏がこの蔵を訪ねて来たと。そして更に旧街道を進む。『一国之十六番 岩戸山』と刻まれた石碑。『龍雲寺』。街道がやや左に折れるところに岩戸山の石柱があり、その脇を入って行くと臨済宗妙心寺派の岩戸山龍雲寺があった。『六地蔵』。『本堂』。承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が蒲原宿西木戸辺りの茄子屋の辻で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで乱闘となった。この事件で殺された甚太夫の槍の穂先が残っていると。本堂に掛かる『岩戸山』の扁額。永代供養墓の『涅槃佛』。『聖観音菩薩』。蒲原宿 道標。懐かしい風景。いつの日かモール化を。『馬頭観音』。『「馬頭観音」供養石塔の由来』「かって馬が、貨客の運搬、農作業など、生活の重要な役割を担っていた時代、「馬頭観音」は馬の守り神として、人々の信仰を集めていました。また、路傍に立てられたその石像や供養塔は往還(街道)の道しるべとしても親しまれていました。 江戸時代、このあたりから蒲原宿東木戸にかけての間は伝馬や宿役に使われた馬を飼う家が並んでいますた。 この付近にも昭和の初め頃まで馬小屋があり、馬頭観音が祀られていたとつたえられていましたが、昨年11月、通りの北側の駐車場整備の際、半分土に埋もれた、この馬頭観音供養石塔が発見されました。 そこで、往時の人々の馬に寄せるあたたかい心を偲びその場所に新たに安置して、お祀りすることにいたしました。」『日蓮宗 佛護山 東漸寺』入口。旧八幡町と旧天王町の境目あたりには佛護山東漸寺が。『山門』。明治14年(1881)の題目碑があるので日蓮宗系の寺。元弘元年(1331年)開祖の日蓮宗の古刹。元は西より御殿屋敷付近にあったが、家光上洛時増改築のため現在地に移転した。本陣に近いことから混雑時は臨時の宿舎となったと。『本堂』。「東漸寺は、日蓮上人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創と言われ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)に創建された。はじめはもっと西の御殿跡辺りにありましたが、3代将軍家光の上洛の際に、御殿屋敷を建て替えるために現在地に移転した。境内には推定樹齢400年のイヌマキ、木屋の渡邊利左衛門の起立した文政11年(1828)の法界塔がある。」『手水舎』。桜の樹の後ろに立派な鐘楼が。寺の建造物は安政の大地震(1855年)で悉く倒壊したので、すべてそれ以降のものであると。また、数度火災に見舞われているとも。鐘楼の前には木屋の渡辺利左衛門の起立した法界塔が。『渡邉利左衛門起立の法界塔』説明板。利左衛門周玞(かねのり)が法華経一部、6万9,384文字を一石に一字づつ書写し、それを礎石として利左衛門金璙(かねよし)が文政11年(1828)に起立したと。南妙法蓮華経と刻まれた日目上人 慰霊碑。日蓮大聖人の仏法は、二祖日興上人・三祖日目上人と相伝されたのだと。『なまこ壁と「塗り家造り」の家(佐藤家)』なまこ壁に近寄って。「当家は、元「佐野屋」という商家でした。壁は塗壁で、町家に多く見られる造りですが、このような町家を「塗り家造り」といいます。 「塗り家造り」は「土蔵造り」に比べて壁の厚みは少ないが、防火効果が大きく、昔から贅沢普請(ぜいたくふしん)ともいわれています。もともとは城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられております。 なまこ壁の白と黒のコントラストが装飾的で、黒塗りの壁と街道筋には珍しい寄棟(よせむね)の屋根とが相俟(あいま)って、重厚感(じゅうこうかん)があふれています。 」『八坂神社』入口。『商家の面影を残す「塗り家造り」(吉田家)』。「当家は、昭和まで続いた「果堂」という屋号で和菓子を作る商家でした。玄関は、なまこ壁の「塗り家造り」で、中にはいると柱がなく広々した「床の間」づくりになっていて、商家らしい雰囲気が残っています。土間には、当時の看板が掲げられており、「中の間」には、らせん城の階段があって、二階に通じています。」「店の間」。『問屋場跡』「問屋場は、幕府の荷物の取り継ぎ、大名の参勤交代の折りの馬や人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の運搬の手配をしたところで、宿のほぼ中央にあたる場所に設置されていた。ここに問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、人足方、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が毎月15日交代で詰めて宿の経営にあたっていた。」『椙守稲荷神社(すぎもりいなりじんじゃ)』。この神社は御殿山南麓に鎮座。参道脇には御殿山への遊歩道案内があり、ここから約10分位で「狼煙場」と呼ばれる頂上に到着出来るようです。入口や参道途中の鳥居には「椙守神社」と書かれていましたが、社殿には「椙守稲荷神社」と書いてあることがカメラズームで確認できましたので、明らかに稲荷神社と思われます。車が停まってないともっと良かったが・・・。問屋場跡の前の小川を左に沿って行くと『蒲原夜之雪』記念碑が建っていた。夜之雪記念碑には碑と共に広重の絵と案内板が掲示されていた。「夜之雪記念碑」と「蒲原夜之雪」「蒲原夜之雪」の絵は、歌川(安藤)広重が、天保三年(一八三ニ)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれています。 昭和三十五年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になりました。これを記念して広重がこの絵を描いたと思われる場所にほど近いこの地に記念碑が建てられました。」 広重の「蒲原夜之雪」「歌川(安藤)広重は、天保元年(1829)幕府の内命を受けて、「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次 の旅を体験した。実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から朝廷へ御料馬(ごりょうば)二頭を献上する年中行事の一つであった。 その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図の錦絵に制作したものが保永堂版「東海道五十三次」のシリーズである。この五十五図のうち、特に「蒲原夜之雪」は「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに”役物(やくもの)”と称され、中でも最高傑作といわれている。 錦絵に使用する越前奉書紙の地色を巧みに生かした夜之雪、二人の駕籠屋(かごや)と一人の按摩(あんま)を配した里の情景など、抒情(じょじょう)豊かに構成された名作との評価が高い。 」『東海道五十三次夜之雪(蒲原) 安藤広重』雪道の坂を下る人は番傘を半開きにして杖を突き、足には雪下駄で、慎重な足取り。背を丸めて坂を上る人々の先頭の菅笠に合羽の男は、小田原提灯で足元を照らしている。完成度の高い構図、ふっくらとした新雪の柔らかさも感じるねずみ色の濃淡で表した雪の量感人間と自然との調和した描写は、地名を超越した普遍的な風景画として強い印象を。旧街道の建物を楽しみながら更に進む。『旅籠 和泉屋(鈴木家)』。自販機は片付けたいと我儘にも。「当家は、江戸時代「和泉屋(いずみや)」という上旅籠(じょうはたご)でした。天保年間(一八三〇~四四)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れました。 今に残る二階の櫛形(くしがた)の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができます。 弘化二年(一八四五)の「蒲原宿商売調帳(かんばらじゅくしょうばいしらべちょう)に、「和泉屋間口間数(いずみやまぐちけんすう)六・一」とあり、現在は鈴木家四・一間、お休み処ニ間のニ軒に仕切られています。 」蒲原宿『本陣跡』「本陣は、大名宿・本亭ともいわれ、江戸時代に街道の宿場に置かれた勅使大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠です。主に大名の参勤交代の往復に使用されました。原則として門、玄関、上段の間(ま)がある点が一般の旅籠と異なりました。ここは当宿の西本陣(平岡本陣)の跡で、かってはここより百m程東に東本陣(多芸本陣(たきほんじん))もありました。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀(みょうじたいとう)をゆるされていました。 」 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次岩渕の一里塚を後にし、旧東海道(県道188号線)を蒲原に向かって進む。左手には秋葉山と刻まれた石灯籠が。砂利の敷かれた駐車場の隅には小さな石の祠が。富士川郵便局手前の交差点を右折。民家の庭にはミモザの花が満開。ズームで。以前テレビでフランス・ニースの西の海沿いに位置している、モンドリューラナープル?で毎年2月に行われるミモザ祭りを放映していたことを思い出したのであった。 吉原商店街の『南岳堂』は創業江戸時代の嘉永年間、約160年間続く老舗菓子店であると。東名高速道路に向かって延びる旧東海道の左手には『富士川 中之郷』の道標が。『野田山健康緑地公園案内図』東名高速道路下を潜る。東名高速道路を潜ると正面にあった石碑。野田山実相寺寺標石碑には『野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師』と刻まれていた。傍らには、薬師如来と刻まれた石碑も。金鶴神社登り口。『宇多利神社』社標。次に東海道新幹線を潜る。潜るとその先にあった石碑には『飛耀岳聳』と。富士川町長中川国兵の揮毫による碑であるようであった。秋葉山常夜燈がその脇に。『明治天皇御駐輦之跡』。秋葉山常夜燈の先で、街道が緩やかに右にカーブするところに明治天皇御駐輦之跡碑が建っていた。この場所で休憩され富士山を眺めたと。更に住宅街を進む。富士山と前方下には東名高速道路が。富士山をズームで。東名高速道路の跨道橋(こどうきょう)を渡る。受枠にTの字模様のある静岡県清水区の角型消火栓蓋。黄色地に纏2本のデザイン。町章と「消火栓」の文字入り。綺麗な塀の『浄土宗 佛身山 海前院 光蓮寺』を訪ねる。山門。扁額には『 佛身山』と書かれていた。見事な本堂の屋根。「元和6年(1620年)古来戦死の万霊を弔うため建立。地震や津波の災害を免れて旧観を留めていたが、昭和10年国道敷設のため、現新蒲原駅付近より現在地に移転。昭和29年本陣道の南側にあった松風山不動院海前寺(開山霊巌上人)と合併、院号を海前院とする。明和5年(1768年)流行病で多くの幼児が亡くなったため、十世宣誉上人は厄除延命地蔵尊を祀り、十八世天誉上人は夢告を感得して、地蔵堂を建てる。光蓮寺には伝説浄瑠璃姫物語があり浄瑠璃姫を供養するお寺であると。伝説は平安時代末期、三河国(愛知県)で源義経と恋に落ちた姫が、奥州に向かった義経を追う途中、蒲原の地で命を落とすという物語であると。枯山水の境内には様々な花が。そして様々な色のクリスマスローズが咲き誇っていた。ストレリチア(極楽鳥花)の花も。境内に所狭しと。これぞ花の寺。住職の奥様が手入れをされているのであろうか?境内にある浄瑠璃姫の壁画。寺務所であろうか。光蓮寺を後にし進むと『北条新三郎の墓 蒲原宿東木戸』の案内表示が。実は光蓮寺の先でT字路に突当ると旧東海道は右に進むが、左に折れて県道396号線を150mほど進むと左手に源義経硯水碑があったのであったが見落としてしまった。ここの湧き水で蒲原神社へ奉納 する文と浄瑠璃姫に文を書いたといわれるのだと。そして左手に蒲原の一里塚跡があった。一里塚碑の隣にある解説には、「東海道一里塚跡 一里塚は慶長九年(一六〇四)徳川幕府が江戸日本橋を起点として、一里(約四km)ごとに築いた塚です。蒲原宿の一里塚は江戸日本橋から数えて、三十八番目のものです。 一里塚は、道路をはさんで両側に約二mほど高く土を盛り、榎か松を植えて、旅人に見やすいように築きました。最初の一里塚は、元禄十二年(一六九九)の大津波で流失して、宿の移転にともなってここに移されたものですが、当時の面影はありません。」一里塚跡の直ぐ先右手に北条新三郎の墓標柱が建っていた。北条新三郎の墓入口。しばし階段を登って行くと左手に北条新三郎の碑が。北条新三郎の碑、墓は竹林に囲まれた中にあった。「北條新三郎の碑 永禄十二年(一五六九)十二月六日、蒲原城は武田軍の攻撃に遭い、落城しました。 城主北條新三郎は、城から抜け出し常楽寺まで逃れましたが、寺に火を付け自害したと伝えられています。その後供養のために、ここに碑をつくりました。碑には「常楽寺殿衝天良月大居士(じょうらくじでんしょうてんりょうげつだいこじ)」の戒名が記されています。常楽寺につきましては、現在裏付ける資料は残っていませんが、「奥の院ここより五丁」という道標や常楽寺の奥の院と考えられる観音穴があることから、この近くに常楽寺があったことが推察されます。」北条新三郎の墓(右)と墓標柱(左)。「常楽寺殿衝天良月大居士」と刻まれていた。次に諏訪神社を訪ねた。鳥居の先に急な石段が続いていた。『諏訪神社由緒』保元年間(1156−1159年)の創建の由緒ある神社。御神木のシイの木。諏訪神社『拝殿』。『地蔵菩薩』。そして『蒲原宿東木戸跡』。ここから蒲原宿へ入ります。文政13年(1831)の常夜燈。「東木戸・常夜燈 江戸時代の宿場の入り口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入り口には木戸が設置されており、東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。なお木戸と木戸との間のことを「木戸内(きどうち)」といいます。東木戸は、わずかではありますが桝型(ますがた)になっています。 また東木戸には「常夜燈」が残されています。常夜灯とは、今でいう街灯にあたるもので、各所に設置し、暗い夜道を明るく照らし続けていました。東木戸にある常夜燈には「宿内安全」という文字が刻まれており、宿の入り口を照らしていました。文政十三年(一八三一)ものと考えられています。 」『蒲原宿 案内板』蒲原宿に入るとマズ出迎えてくれたのが巨大な四本の送水管。日本軽金属の電力を水力発電で賄っているのだと。諏訪橋で送水管を跨いだのであった。日本軽金属(株)蒲原製造所には富士川水系に水力発電所が6カ所あるのだと。そのうちのJR東海新蒲原駅近くの富士川第2発電所の導水管がこれ。山梨県富沢にある日軽富士川第1発電所の放流水が流れて来るようです。昭和18年(1943年)運用開始 71年前から発電していると。取水は第一発電所放流水 放流は駿河湾へ。左手には日軽富士川第2発電所が見えた。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次富士川橋交差点を右折し、川沿い側を富士川の上流方面に進むと右手にあったのが『富士川 間宿 岩渕 渡船場跡』の道標。そしてこの場所からの富士山。暫く進むと『角倉了以翁の紀功碑』と『富士川渡船場跡』の石碑が。『角倉了以翁の紀功碑』。石碑の道路側面には『昭和十二年春日 富士川町』と。「角倉了以翁の紀功碑京都の豪商、角倉了以(1554~1614)・素庵(1571~1632)の父子は、慶長12年(1607)同19年(1614)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩渕河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里(71km)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治44年中央線が開通するまでの約300年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩渕河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。町では、了以の偉業を顕彰し、後代まで伝えようと、昭和12年、田中光顕伯爵の助言を受けて、富士川橋の脇にこの紀功碑を建立しました。その後、一時町立第一中学校校庭に移転し、平成2年4月に現在地に再移転したものです。渡船「上り場」常夜燈慶長7年(1602)6月、東海道往還の富士川渡船が開始され、同19年には甲州三河岸(鰍沢・黒沢・青柳)との通船が行われました。東海道を上下する旅行者や通船関係者は、この「上り場」を通って船に乗り、また街道にでました。「上り場」常夜燈は、富士川渡船と甲州通船の交通安全を祈って、文政13年(1830)正月、甲州三河岸・岩渕河岸商人・富士川渡船関係者らが再建したものです。」渡船「上り場」常夜灯。『船形の植樹桝』。「この「船型」の植樹桝群は、平成元年度県道富士川・身延線の修景工事として完成したものです。 江戸時代、ここに富士川渡船や甲州との水運の基地としての岩渕河岸がありました。渡船には、定渡船(長さ10.3メートル、幅1.57メートル)六艘、高瀬船(長さ13.2メートル、幅1.8メートル)十八艘があり、一方甲州三河岸との通船には高瀬船(笹船または小廻船とも呼ばれた)三〇〇艘(明治時代には八〇〇艘)があり、これら多数の船が出入していました。富士川は街道一番の急流である。東海道では平常は船渡しで、船賃は一人16文(352円)。岸から離れた船は相当下流に流されたようだ。非常に危険な船渡しであった。満水時には船を止めるが、乾季には徒歩渡り(かちわたり)もできたとのこと。この「船型」は、定渡船の規模を再現し、それにシラカシの木を帆に身立て、舳先を上流に向けて富士川を溯った高瀬船をもイメージしています。」そして道路の反対側にあったのが一里塚の案内柱。ここから0.97km、徒歩にて17分と。一里塚の案内柱の先を左折し坂を登って行く。旧東海道・岩渕宿の街並みが続く。富士川橋から遠望した『光栄寺』入口。左に「南無妙法蓮華経」の題目塔が。『本堂』。本尊:一塔両尊四士。富士川橋西方の丘陵にある日蓮宗寺院。天正10年(1582)等覚寺を退隠した日正が、岩渕大畠に建立した法華堂が前身。万治元年(1658)、門弟日浄が豪商・大村氏の助力によって現在地に移し、山・寺号をつけた。本堂に掛かる『岩正山』の扁額。ここにも常夜灯が。境内から望む富士川橋。境内から望む富士山。一里塚まで0.63km、11分との表示。生け垣のある旧東海道を更に進む。歴史を感じさせる棟門(むねもん)。2本の門柱(本柱)に切妻屋根を設けている門。ここにも常夜灯が。宿場内には、道路両脇の側溝の蓋に『東海道ルネッサンス』のプレートが。「東海道は、西暦1601年、徳川家康によって宿駅・伝馬制度が定められて以来、日本の大動脈として文化交流のうえからも、産業経済発展のうえからも欠くことのできない主要な交通路となりました。そして安藤広重の「東海道五十三次」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に見られるように、街道と人々の関わりや、多くの歴史的遺産が現在に継承されています。その後、東海道は、今日に至るまで我が国の最も重要な交通路として、形を変えルートを変え整備が進められてきました。「東海道ルネッサンス」は、現代の道、そのルーツともいうべき東海道が地域の発展に寄与した歴史をたどり、各種の歴史的遺産を保存、活用して、歴史・文化を活かした道づくりを提案していきます。」静岡県内の東海道22宿(宿名は広重版画保永堂版による)。東海道53次のほぼ40%の宿場が静岡県内にあるのだ。『清源院』への階段。清源院境内からの富士山の勇姿。清源院境内からの富士川JR跨線橋とその先には現国道1号線の新富士川橋。その奥には駿河湾そして伊豆半島が。清源院境内からの富士山の右側に見える山々。愛鷹山は静岡県の東部にある山。富士山の南隣に位置する火山である。最高峰は標高1504.2mの越前岳。狭義には南方にある1,187.5mの愛鷹山峰を指す。愛鷹山塊や愛鷹連峰とも呼ばれることがある。日本二百名山の1つ。写真の一番左が越前岳(1504m)、中央が位牌岳(1457m)、一番左が愛鷹山(1188m)。清源院 本堂。本堂には『清源院』と書かれた扁額も。鐘楼。更に境内奥の上の林の中にも神社が。天満天神宮。歌碑。「森こゆる鵜の群れは富士川の冬の出水うへにみたれつ」。『水子・子育観世音菩薩像』『南無阿弥陀仏碑・庚申塔・観世音菩薩碑』『六地蔵尊』。『富士山と歩く 歴史街道「逢の宿岩淵」散策マップ』。岩渕宿は、吉原と蒲原の間宿で、旅人の宿泊は許可されていなかったので、船を待つ人が休む小休本陣と脇本陣があった。ここは小休本陣だった常盤家住宅主屋で、今でも黒塀で立派な門構えの家。『小休本陣常盤邸正門』脇から。残念ながら内部の見学は土、日のみとのこと。『歴史街道「間宿岩淵」案内』。『曹洞宗 光福山 新豊院』。山門への参道。本尊は釈迦牟尼佛。毎年3月中旬に開催される大観音大祭で知られる曹洞禅刹。前方、右に急カーブの場所の小高い盛り土の上に大きな樹が。ここが『岩渕の一里塚』当時のまま左右二箇所に。この一里塚は江戸から37番目で、岩渕村と中之郷村の村境に立っていたと。当時この付近には名産の栗ノ粉餅を売る茶店が立ち並んで賑やかであったと。大きな西側の一里塚に生える榎は江戸時代のものだ、東側の榎は昭和42年に枯れたので、二代目であると。こちらは1代目の榎。枝の先端が大きく伐採されていたが。こちらが2代目の榎。『史跡 岩渕の一里塚』碑。「県指定文化財第539号史跡 岩渕の一里塚江戸時代の築造された東海道の里塚である。慶長9年(1604)2月、幕府は東海道の一里毎に、五間(約9m)四方の塚を築いて榎を植え「一里塚」と呼び大名の参勤交代や旅人の道程の便を図った。この一里塚は、起点である江戸日本橋から37里目にあたる。この地は、岩渕村と中之郷村の村境で、付近には岩渕名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が立ち並んでいた。また、東側の塚の榎は虫害のため昭和42年枯死してしまった。そこで、昭和45年3月、二代目を植えたものである。」『富士川 間宿 岩渕 一里塚跡』道標。ほぼ直角にカーブする場所。少し離れた場所から、道路の両側に在る一里塚の榎を。ここもモール化して欲しいのであったが・・・。1代目の樹齢は約400年?『東海自然歩道バイパスコース(富士川コース)』案内板。既存の東海自然歩道ルートは、緑に囲まれた山間部を通過するコースが多くなっているため、場所によっては坂道が続く、健脚向きのコースや交通アクセスの余り良くない地域がある。 このため、静岡県では、新たにアプローチの良い、比較的平坦なバイパスルートを設定したのだと。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を北に離れて『護所神社』を訪ねた。富士川の氾濫から田畑を守るために、古郡氏が堤防の築造に着手してから50年が経ち、孫の代になっても未だ完成せず、人柱を立てることになった。富士川の渡しを西から東へ渡る千人目の者が人柱になることになったのだと。千人目を名乗り出た者が、雁が連なり飛ぶ先頭の人柱となり、ついに雁堤が完成したのだ。なぜV字の堤防になったのか、それは激流をせき止めるのではなく、受け止める遊水池を造ったからであると。堤の斜面に鎮座する『護所神社』階段を上がると護所神社の石鳥居が。その奥にあったのが護所神社社殿。護所神社前からの富士山。江戸時代の初め、新田開発と富士川治水のために築かれた雁堤は、50年余りかかる難工事で、人柱伝説も生まれた。人柱の供養塔と記念碑が建立されていた。『雁堤人柱之碑』。昭和9年に建立され、千人目の僧侶が人柱になったことが刻まれているのであった。『人柱供養塔』。「17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいた。夫婦が松岡の代官屋敷の前を通ると、役人に行く手をさえぎられた。役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだと言う。これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3ヶ月後に戻って来た。夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められたと。夫は、自分が生きている間は地中から鉦(かね)を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは死んでいるだろうと言い残したが、21日間地中から鉦の音が響いていたと。」「護所神社古郡孫太夫重政公父子の偉業雁堤の築造は、繰り返す富士川の洪水で、しばしば決壊流失の惨害を蒙るため、衆人は人柱の説をとり千人目の旅人を生きながら護岸の人柱とすることにきめた。千人目に当たった旅僧はこれを快諾し、従容として人柱と化した。以来三百余年の今日まで遂に堤防の決壊を見ず、住民はその徳を慕い「護所神社」としてその霊を祭っている」『人の世に命をささげし人柱 今に佇えて富士のカリかね』作者の文字は理解できなかった。護所神社の屋根越しに見事な富士山を見る。古郡氏三代の偉業を称える石碑。「中里村の古郡孫太夫重高は籠下村(松岡)の開拓のため堤防工事に着手し、元和7年(1621)岩本上に一番出し、二番出しといわれる突堤を築き、その子重政は、引き続きこの地の新田開発のため、加島代官に任じられ、新田開発のため手腕を発揮しました。さらに重政の死後、その子文衛門重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める広大な遊水池を準備することを着想し、逆L字型の堤防を築造しました。こうして雁堤は、古郡重高—重政—重年の三代にわたる50年余の歳月と莫大な経費、そして治水の工夫を結集して完成し、以後富士川の氾濫から守られた加島平野は、「加島五千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わったのでした。」雁堤築造と加嶋新田開発に尽くした古郡文右衛門重年公の没後300年を記念して建立したと。『松崎鉄之介句碑 秋富士へ 雁堤 つばさ張る』。松崎鉄之助 略歴。【Google Earth】で見て、堤防部分に赤線を引いてみると「く」の字を連ねたような堤防の跡が雁の姿のごとく見えて来たのであった。東名高速道路方面の北西に向かう雁堤を望む。富士川に向かって全長2.7kmにおよぶL字型の長堤。『雁堤(かりがねづつみ)』説明板。東名高速・富士川SA(上りにある大観覧車( Fuji Sky View)が見えた。富士山と手前に東名高速道路。「絶景かな!絶景かな!!」。雁堤を後にし、旧東海道に向かって歩を進める。富士市の「竹取物語」のかぐや姫と富士山を描いた消火栓のマンホール蓋。なぜかぐや姫なのか。竹取物語のエンディングに、「そのよしうけたまはりて、士 《つはもの》どもあまた具《ぐ》して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。」とあることから、物語の舞台が富士市の竹林であるという説があるそうだ。松岡の住宅街を進む。旧東海道左側にあった『明治天皇御小休所阯』碑。そして前方に富士川に架かる緑の『富士川橋』が姿を表した。その手前右側の『水神社』を訪ねた。『東海遺「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場』⬅リンク。阿&吽形の狛犬の先に水神社拝殿を階段下からズームで。富士川渡船場跡碑と宝暦8年(1758)の富士山道道標。江戸時代まで富士川に橋を架けることは許されず、渡船による往来のみであった。徳川家康の遺言との説もあるようだが、橋を架けても川の流れが速く、維持するのが困難だったのであろう。富士川に橋が架けられたのは明治に入ってからの事と。石碑の横側には「慶長六年(一六〇一)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められまもなく日本橋を起点とする五十三次が誕生しましたまたこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した船場詰所が存在したといわれる。これらのことを後代に伝えるため東海道の百年祭記念事業の一つとしてこの碑を建立する。」と刻まれていた。水神社案内図。ズームで。正面に水神社拝殿。拝殿の両脇に八幡宮(左)と天満宮(右)が。水神社拝殿を近くから。水神社略記⬅リンク。手水舎。拝殿の彫刻。水神社本殿。拝殿内部。明治9年から夏は渡船、冬は有料木橋での通行となったと。その後大正11年に鉄橋の架け替え工事が行われ、大正13年(1924)6連トラス橋として完成。今の国道1号線は新富士川橋といって海の近くを渡っていた。このほかにも富士川橋は沢山あって、東名高速・第2東名・東海道線・東海道新幹線、みんな富士川を渡る橋は「富士川橋」であるとのこと。軽トラックの後ろに『富士川橋 旧親柱(左)』そして新親柱(右)が見えた。そして旧国道1号、現県道396号に架かる富士川橋を渡る。富士川橋は、日本三大急流河川(富士川(長野、山梨、静岡)、須磨川(熊本)、最上川(山形))の富士川に架かるトラス橋。昭和六十三年三月竣工の銘板も。右手が歩道橋。歩道橋を進む。朱桁の橋は東名高速道路 富士川橋。下流側には東海道本線富士川橋梁。富士川橋の手前には橋脚を保護する堰がそして階段式の魚道が。富士川橋から富士山。ズームで。人の姿はほとんど無く、富士川橋歩道橋を二人占め。再び、いつまでも眺めていたい絶景。この後に訪ねた『光栄寺』が見えた。富士山をズームで。頂上付近は強風か?雪が舞い上げられているのが確認できた。そして橋長399mの富士川橋を渡り終わり対岸の富士川橋西交差点から振り返る。 その1 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『旧東海道を歩く』のJR富士駅からJR興津までを歩いたのは3月8日(金)。いつもの電車で旅友のSさんと向かう。途中、平塚駅を過ぎると、前日の雪で頂上が一面白くなっている大山の姿が。そして早川駅手前の東善院(とうぜんいん)の魚籃観音(ぎょらんかんのん)の姿が車窓から。すっくと立って小田原の海を見つめています。鉄筋コンクリート製で高さ13メートル。建立は昭和五十七年十一月とのこと。魚籃観音は魚を売り歩く美しい女に化身して現れたという伝説があることから、手に提げているかごには魚が入っているのです。近くに行くと魚の尾びれがちらっとかごからのぞいているのが分かるのです。そして沼津駅手前の清水町付近からの富士山。手前には愛鷹山が。広義には黒岳、越前岳、位牌岳などの総称としても愛鷹山と呼ぶようです。一時、愛鷹山の後ろに姿を隠した富士山が再び現れたのはJR片浜駅手前。そしてJR原駅付近に来ると、左右対称に見える富士山の姿が。そしてJR吉原駅手前の富士山の勇姿。この日は7合目近くまで雪に覆われていた。そして定刻通りJR富士駅に到着して、この日の旧東海道歩きをスタート。富士駅北口ペデストリアンデッキにあるブロンズ像「飛躍」「黎明」に久しぶりに再会。富士駅の北口側のペデストリアンデッキからの富士山の姿。ペデストリアンデッキの階段を下り富士駅正面に繋がる通りを歩き旧東海道に向かう。商店街には富士山れんげまつりのポスターが。今年は4月28日(日)に開催されると。そしてこの日の「旧東海道を歩く」のJR富士駅からJR興津駅までのルート図。商店街からの富士山の姿を再び。富士本町通りを進む旧東海道を左折して進む。信号交差点右角に日蓮宗の『妙雲山栄立寺』があった。小さな山門をくぐると境内は狭く、本堂は塀を隔てて富士大通りと接し、石塔石仏・灯籠・鐘楼が無く寺という感じがあまりしない感じ。『本堂』。實相寺の寺院御改書帳によれば天正年間(1573年-1591年)以来の創建という。開山は妙雲院日賢(総本山身延山久遠寺18世)。山号の妙雲山は日賢の院号による。栄立寺と富士大通りを隔てた向かい側に曹洞宗の『不二山金正寺』があった。金正寺は、戦国期に僧玉隠が真言宗金正院として開き、宝暦13年(1763)成安寺15本戒世が曹洞宗金正寺として再興したという。東向きの『山門』。不許葷酒入山門、諸人守り本尊霊場と刻まれた石柱。山門に掛かる『金正禅寺』の扁額。『無縁塔』。『金正寺 本堂』『鐘楼』。鐘楼堂下に『六地蔵』。『厄除け観音』。『十三重石塔』。築山に『十二支守り本尊』。境内のネコ。むかし金正寺で飼っていた三毛猫が、中島のカヤツンバ(茅積場)に近在の猫たちを集めて夜な夜なダンスパーティーを開いた、という民話⬅リンクがあるのだと。『旧松永邸跡』。金正寺の直ぐ先にあるフジホワイトホテルが、この地の大地主松永邸跡であり、壁面に旧松永邸跡の解説があった。「当館フジホワイトホテルは、明治期、静岡県でも有数の大地主松永家の邸宅跡に建設されました。松永家は、甲斐国(現在の山梨県)より駿河国富士郡平垣村に移住してきた、一世五左衛門を祖とし、六世好時(宝暦一〇〈一七六〇〉~文政八年〈一八ニ五〉)のころより土地集積を進め、財力を蓄えたと伝えられています。その財力を背景に、江戸末期には富士郡下の平垣村村他六ケ村を領地とする旗本日向小伝太が領地の取締役を命じられ、邸内にその陣屋を構え、領主に代わって年貢のとりまとめを行う業務を担っていました。明治元年には明治天皇の御東行の際に、屋敷の一室が小休所として使われています。平垣村村は、東海道の吉原宿と蒲原宿の中間に位置し、松永家も東海道に面していました。安政四年(一八五七)に邸宅が新築された記録があり、武家風様式をのこす貴重な建物です。その豪壮な屋敷と庭園が明治二十五年の『静岡県明治銅版画風景集』に紹介されてます。 当館内にこの資料が展示されています。昭和五十四年に富士市に寄贈し、現在は、富士市指定有形文化財として、富士市博物館西側の「ふるさと村」内にその一部が移築保存されています。」前回の旧東海道歩きから富士山の白さは大幅に増えていたのであった。『札の辻跡』。フジホワイトホテルの先の小川を越えた左角に札の辻跡があった。『札の辻跡碑』。ここには大正5年(1916)に建てられた札の辻跡碑があり、台座に 「札の辻のいわれ」 と題された高札場跡とは関係の無い実相寺の解説が刻まれている。横には『猿田彦大神碑』が。「実相寺は約八百余年の昔、久安元年鳥羽法皇勅願の寺で西に比叡山東に実相寺とまでうたわれた関東の名刹である、四十九院五百の僧坊が甍を並べて常に数百の学僧が寮生活をして 教学に精進した霊場である、昔の岩本山実相寺は方一里と称せられ南は今の平垣札之辻まで及んでいたという 」旧東海道は、柚木駅手前で県道396号に合流する。合流点には間宿本市場の道標が立っている。間宿本市場の道標『稲荷神社』。札の辻跡の先で小川を越えると左手に稲荷神社がある。『秋葉山常夜燈』。旧東海道右手の消防倉庫と思われる建物の前に秋葉山常夜燈が建っていた。民家の庭にはミモザと白モクレンが開花。加島の旧東海道コース。旧東海道は、柚木駅手前で県道396号に合流する。合流点にも『間宿本市場』の道標が立っていた。『天白神社』。水路に沿った街道を進んで東海道道標の建つところで県道396号線に合流すると右手に天白神社がある。境内にある由緒碑には、天正13年(1585)本社次兵衛造営とある。正面に拝殿。「天白神社由緒碑位置境内 柚木字本田ニ〇六番地ニニ八坪 明治八年二月十八日付ヲ以テ村社 由緒 楝札ノ寫 奉修覆天白翁宮五穀豊饒 天正十三年本社 次兵衛 造営 慶長十八年 寛永十九年 寛文十年 修覆ス興総兵衛次兵衛 小兵衛氏子太古柚木村草深キ所ニテ長サ一寸八分ノ米三粒降り来ルヨッテ其ノ地ニ一社ヲ祀リ天白ト名付ケテ其ノ田ヲ初穂田ト云フ 今尚存在シテ毎年其ノ田ノ米ヲ以テ神前ニ供フ 郷土外木又兵衛古書類ヲ携へ下総ノ國銚子辺ニ移転ス年代詳ナラス 但シ近年ニ至リテモ外水又兵衛ノ末孫毎年当村ニ来リ初穂田ノ所有人久保弥平宅ヘ立寄り天白社ヲ祭ルヲ例トセリ本社前ニ三大余ノ古井戸アリ初祭リ年村民地ヲ掘ルコト数十尺然ル処水湧出ス故ニ氏神ノ井戸ヲ嫌フト云フ 他村内ニ井戸ナカリシカ自今悪疫流行予防ノ爲各戸井戸ヲ掘リテ旧慣ヲ破レリト云フ 所有耕地反別 四反六畝十七歩ナリ 」『天白神社 本殿』。身延線を潜る。富士山の白き勇姿。旧東海道(県道396号線)を西に進む。橋下交差点の次の信号を右に進むのが旧東海道。道標と常夜灯が入口左手に。水路沿いを進む。 ・・・つづく・・・
2019.04.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を潤井川に向かって進む。潤井川に架かる「富安橋」を渡る。古くは三度橋という橋が架けられていた。江戸時代に江戸と上方を月に3往復する”三度飛脚”を生業とする”三度屋”という問屋があり、青島・高島・蓼原村の3ヶ村の要請で建設費用に42両もの大金を出したことから、三度橋と名付けられたという。潤井川の上流側を見る。旧東海道の左手にある石柱。刻まれた内容は判読不能。『袂の塞神(たもとのさいのかみ)』。大きな顔の石仏で笏を持って頭巾でも被ってこの塞の神のお祭りも道祖神と同じで、1月14日に正月のお飾りなどを燃やすドンドン焼きもあるようだ。笏(しゃく)を持つ像だが年号などの刻銘はなく、江戸後期のものと思われる。近くにあった立て札。『蓼原(たではら)の単体道祖神』と。ここが川原宿と塔の木の境目。塔の木も川原宿と同じ旧蓼原村。富士見大通りの塔の木交差点を渡る。右手に富士山の姿も。静岡県総合庁舎の敷地内にあった『間の宿 本市場』。「この地は吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿として東の柏原と共に多くの茶屋が建ち並び旅人たちで賑わった。霊峰富士を讃えた鶴芝の碑が近くに建てられています。本市場村の名物として、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどで知られ。広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。」『東海道五拾三次之内 吉原』民家の一角に『鶴芝の碑』が。ここから眺める雪の富士山は美しく、山腹の雪の形が一羽の鶴が舞っているように見えたことから、鶴芝と呼ばれていたと。鶴の絵と詩文の刻まれた碑が。画家『盧洲(ろしゅう)』の描いた絵に、江戸時代の学者『亀田鵬斉(かめだ ほうさい)』が詩文を添え、文政3年(1820)、鶴の茶屋に碑が建てられたと。このあたりは、旅人の休憩所(立場)で『中の茶屋』『鶴の茶屋』などと呼ぶ茶屋が並んでいたと。『間宿 本市場』周辺地図。『旧東海道順路』の地図が丁寧に。何故かピンク色に映っていましたが。旧東海道を右手に外れて『浄土宗 米宮山 大久院 法源寺』を訪ねた。山門。『本堂』。伝承によると、鎌倉光明寺第8世祐崇が開創。年月は資料によって差異があり、応永元年(1394)、明応元年(1492)などさまざま。その後、無住時代を経て天正年間(1573~91)、当地に移住した武田勝頼家臣の高田長門守2代目・高田六兵衛(糸屋七郎右衛門詮利)が檀縁をむすび、現在地に移転再建。さらに同じく有力檀徒だった小楠氏が、僧澄誉をまねいて寺観を整えた。江戸期は除地3石7斗7升を有し、江戸後期の地誌『駿河記』『駿河国新風土記』には「米宮山 覚寿院 法源寺」と載り、『駿河志料』には堂宇に弁天堂・観音堂、塔頭に最勝院・壽光院がみえる。文政3年(1820)1月8日に火災、嘉永元年(1848)4月30日には落雷で焼失したが、そのつど再建され、現在の本堂は明治37年、位牌堂は昭和2年に建造した。本尊は阿弥陀如来。六地蔵尊(左)とピラミッド状に積まれた無縁供養塔?『和順観音菩薩像』。『法源寺 墓地地図』。『歴代上人墓地』。枯山水の庭とその奥に庫裡が。次に訪ねたのが『日蓮宗 蓮寿山 常諦寺(じょうたいじ)』。山門。常諦寺は、弘安4年(1281)日蓮の大檀那・高橋六郎入道が日蓮の還暦祝いに自邸を寺に改めたのが始まりと伝わっている。『本堂』。開山は1281(弘安4)年、日興上人の弟子、日弁上人を開山の師として迎えた。ご本尊は一塔両尊四士です。江戸期までは本行院、全了坊の塔頭2寺、末寺6寺という大きなお寺であったが、現在の末寺は1寺のみに。『昭和11年 旧本堂西側鬼瓦屋根』と。境内には眼病に霊験があるという『日朝堂』が。旧東海道に戻り、更に進む。『間宿 本市場』。『旧東海道本市場一里塚』日本橋から35番目、花壇の奥に「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑があった。水路沿いを歩いて行くと『富士市立富士第一小学校』が右手に。富士本町通りまで辿り着き、左折しJR富士駅に向かう。このJR富士駅前の商店街も閑散としていた。時間は15:20。そしてJR富士駅北口に到着。富士駅北口ペデストリアンデッキにあるブロンズ像「飛躍」「黎明」。そして熱海行き(15:59)の電車に乗り帰路についたのであった。 ・・・完・・・
2019.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次富士市吉原一丁目にある『吉原本町駅』。1949年(昭和24年)11月18日 - 岳南鉄道の駅として開業。 2013年(平成25年)4月1日 - 経営移管に伴い、岳南電車の駅となる。単線のホーム。駅には日中のみ駅員が配置されているようであった。吉原本通りの商店街を歩いて行ったが、人の数はほとんど無くこれぞ「シャッター通り」。時間は14時前であったが。右手に『天神社参道』、奥に石鳥居が見えた。日本国旗が掲げられた石鳥居。東海道の宿場町、吉原。その鬼門を護る天神社は、宿が鈴川にあって「見付」と呼ばれたころからの産土神だ。社記は、建久4年(1193)源頼朝が富士の巻狩のおりに、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの途路に参拝したと伝え、明治19年の『神社明細書』は『駿河国神名帳』に列する「正五位下 富士河天神」にあてていると。『天満宮』と書かれた扁額。「当社は往昔吉原宿見附産土神総社にして天の香久山(香久山浅間宮)の高処(み)に在りましたが度度砂を押し上げられ、所を迫られ鎮座なり難く元吉原今井・鈴川の地に引き移りました。しかし延宝八(1680)年八月の台風津波にてまたも鎮座成り難く、天和ニ(1682)年現在の地に引き移りました。宝永五(1708)年回祿の災で宮殿灰燼となり、現今のご本殿は寛政元(1789)年のご造営であります。 御祭神は元来右記の二神が奉祀されており寛永四(1627)年現在の菅原道真公の神霊が相殿に合祀されたもので、計三神であられます。 社名に関わる御祭神の菅公につきましては平安前期の公卿、学者、三書聖の一人で世に学問文道の神として知られ、入学進学等の御祈願参拝者数多く、通称 天神様 と呼ばれ尊崇されております。 」『吉原祇園祭 天神社』。「毎年六月第二週頃の二日間、吉原の六つの神社の氏子町内が合同で行う祭りである。「吉原のお天王さん(おてんのさん)」と呼んで、夏の邪鬼祓いをしている。各神社の天王神輿は二日間に担ぎ出され、山車は二日間曳き回され、お囃子が演奏される。山車同士のすれ違いでは競り合いとなり、お囃子の腕比べが祭を盛り上げる。吉原祇園祭の六社は①天神社 ②木之元神社 ③山神社 ④八坂神社 ⑤八幡宮 ⑥和田八幡宮」であると。主な会場となる吉原商店街には、約1kmにわたって200軒を越す露店が立ち並び、人出は二日間で20万人を超えるのだと。天満宮の牛さん。興味の在る方は天満宮と牛の関係⬅リンクを参照下さい。手水舎。ここにもウッシーが。『拝殿』。昔はかなり大きな神社だったようで、源頼朝が富士の巻狩のおりに、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの途路に参拝したと。境内に咲く紅梅であろうか?『菅原道真公の石像』。色彩も豊かな見事な拝殿の彫刻。拝殿を正面から。そして天満宮を後にすると、富士市の汚水マンホールの蓋がこれも色彩豊かに。富士山と白波のデザイン。「ふじし」「うすい」の文字。「蓋に描かれいる富士山の「山頂方向」に水が流れる設計になっているのだと。富士山に使われている赤色から、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の朝焼けに染まる富士山を描いた 「凱風快晴」から?。『旅籠 鯛屋』創業1682(天和2)年、吉原で唯一江戸時代から経営を続けている旅館。幕末には清水次郎長や山岡鉄舟が常宿としたと。江戸から14番目も宿場『吉原宿』。原から吉原まで東西13km、南北2kmの広大な沼地があったので「葦の茂った原」から吉原と名付けたと伝わる。吉原宿は開設から約80年の間に、度重なる津波や高潮の被害に遭い、二度所替えをした。そのため東海道は大きく北へ迂回することになり、右手に見えていた富士山が、左手に見えるようになり「左富士」と呼ばれる景勝地となった。移転後の吉原宿の町並み長さは東西1町10間(約1.3km)。吉原の町並みは近代化され昔の面影は残っていないのであった。『東海道 吉原宿』。蒲原宿(三里:12km)、京都(九十里:354km)であると。『長さん小路』と書かれたプレートが柱に。ザ・ドリフターズのリーダーとして活躍し、「踊る大捜査線 THE MOVIE」など映画やドラマで存在感のある俳優として活躍されたいかりや長介(本名・碇矢長一)は、1931年東京都墨田区に生まれ、1944年小学校卒業と同時に富士市に疎開し、青春時代の16年間を富士市で過ごし、富士市にゆかりのある人物であると。勤務先の製紙工場の仲間とバンド活動を始め、吉原のダンスホールなどでの演奏を経て1959年に28歳で上京し、ミュージシャンからザ・ドリフターズのリーダーとして活躍の場を広げ、テレビ「8時だヨ!全員集合」は最高50.5%の視聴率を記録するなど国民的人気を集めたのであった。しかし14時過ぎであったが、この路にも人影は少なく。旧東海道を中央駅交差点で左折して進むと交差点の角に『かりん糖 和田屋』が。2012年開店。旭製菓の「隠れ河原のかりん糖」専門店。ここを右折して進む。そして更に旧東海道(県道22号線・三島富士線)を進んでいくと、左手に曲がった場所にあった『曹洞宗 芙蓉山 立安寺(りゅうあんじ)』を訪ねた。境内左手に『六地蔵』。美しい仏像の姿が刻まれた石碑。「福聚海無量、是故應頂禮」の文字も。『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五よりの言葉であり福の聚(あつま)れる海は無量なり この故に応(まさ)に頂礼すべし と。『本堂』「当寺の由緒書きによりますと、保泉寺の第二世護峰吟守和尚は、寛永の頃、ささやかな隠居所を作って住んでいました。たまたま江戸深川の材木商 高須屋善助(兄)と伊藤善二郎(弟)という兄弟が、伊勢参宮の帰り道に寺のある吉原宿に泊まったところ、夜中に夢の中で悪龍に悩まされましたので、その龍霊を供養しようと考え、近くの庵居に住んでいた吟守和尚と協力し、一寺を建立して、山寺号を芙蓉山龍安寺としたのが、立安寺の始まりです。創建当時のこの辺りは、まだ富士川の川原に広がる葦原でした。以前、この寺の境内には、太子堂と観音堂とがありましたが、今では古くなった為取り払われ、そこにお祀りしてあった聖徳太子像と石造の聖観音像は、現在本堂に移されて安置されています。」本堂前の白き仏像。次に『浄土宗 称念寺』を訪ねた。富士市中央町、旧東海道吉原宿の西外れにある浄土宗鎮西派の寺。捨世派の祖称念によって建立された「宝樹院」が前身とされ、「前富山宝樹院称念寺」と号する。本尊は阿弥陀如来。境内に入ると、まず山門が目に入った。鉄筋コンクリート製の2層建築で、下層は仁王門、上層は法隆寺夢殿風の八角円堂となり、「庚申山門」の扁額を掛けていた。界隈に類例のない奇抜なレイアウトで、漬物石をのせた樽のように重々しく、頑丈な造り。上層に祀る青面金剛(廃寺となった末寺・庚申院の本尊)が名称由来らしい。『本堂』。山門を抜けると、和順霊堂が南向き、本堂が北向きで正対するように建っていた。現本堂は昭和8年再建されたと。本堂蟇股の透かし彫りが見事であった。和順霊堂の内部であっただろうか?『六地蔵』。円空仏風の木彫り仏像。稱念寺の前を流れる小潤井川に架かる錦橋から。青葉通りを錦町交差点に向かって歩く。正面に見えた富士山の山頂は完全に雲に隠れてしまった。錦町交差点を横切ると、『(新)吉原宿・西木戸跡』。本来の西木戸跡はもう少し北側にある。青葉通りのここを左折して旧東海道を更に進む。 ここは市役所南東。この付近にはQRコード付きの案内図が。『青嶋八幡宮神社』の駐車場にあった漫画絵。青嶋八幡宮の由緒書は漫画で描かれていた。これらの絵は、八幡宮神社中興に際し、富士市吉原出身のマンガ家、望月あきらさんから寄進いただいた絵馬及び紙芝居の原画から写したのだと。石鳥居と社殿。『青嶋八幡宮神社中興の碑』。徳川綱吉の時代に、高潮などの被害で苦しめられているにもかかわらず検知の労役が村人に課せられ、これに異を唱えた名主・川口市郎兵衛は、処刑されてしまいました。村人は市郎兵衛に感謝し、密かにこの青嶋八幡宮に祀ったと。境内の川口市郎兵衛の碑や石碑群。『道祖神』。 ・・・つづく・・・
2019.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして『左富士神社』に到着。旧東海道駿河路は概ね海沿いを通っており、富士市鈴川本町から元吉原宿があって更には原宿から沼津宿にかけての街道は、海浜砂丘を防波堤代わりに利用した後背地の海抜2~3m辺にほぼ直線的に作られている。ところが街道は、元吉原を過ぎると山側へ大きく弧を描くように湾曲しながら吉原宿に達し、その先にある間宿・本市場で再び富士川へ向かってほぼ直線路に復するのだ。何故街道が大きく湾曲したのか?初期の東海道を調べてみると、街道は元吉原を過ぎた辺りで吉原湊があった旧富士川河口を迂回したのち、本市場方向へ直線的に道筋がついていたようだ。にも拘らず、その後いかなる理由で今日残るような海沿いを避ける道筋に変更されたのか。それは江戸期に起きた2度の津波が原因だと指摘されている。東海道が整備された初期の吉原宿は、現在の田子の浦港に近い海岸沿いにあった。今でも地名として元吉原が使われているが、寛永16年(1639年)に津波により壊滅し、和田川を遡った依田原辺りに宿場(中吉原)を移したのだと。『左富士神社』と書かれた扁額。溶岩岩にのる狛犬。社殿。和田川の東岸、南北に通じる東海道に東面して鎮座し、ふるくから依田橋の氏神として祀られてきた社。約150m北方の名勝・左富士にちなんで左富士神社と号するが、明治41年までは悪王子神社と称し、社叢は「悪王子の森」と呼ばれていたと。延宝8年高潮に関する宝暦5年銘の記念石碑・『義隄記』碑。『義隄記』。左富士神社境内に設ける「依田橋村一里塚」碑と一里塚のモニュメント。吉原宿の2度の移転に伴い一里塚も移され、延宝8年(1680年)中吉原から新吉原へ宿場が移ったときに、ここ左富士神社の北側に新たな一里塚が築かれた。「依田橋村の一里塚慶長七年(1602)、徳川家康は東海道(五街道)に一里毎に塚を築き榎や松を植え、旅人の憩の場所としました。『田子の古道』によると、元吉原宿時代には、田嶋村付近(現港湾付近)に一里山を築いたとあります。その後、寛永十六年(1639)、元吉原宿(現鈴川)から中吉原宿(現荒田嶋付近)に移転、その時、一里塚は『日本分国絵図』によると、津田村西側付近に描かれています。延宝八年(1680)、水害により中吉原宿は新吉原宿(現吉原商店街)に移りました。その時、一里塚は依田橋村の左富士神社の北側に描かれています(東海道分間絵図)。江戸から三十四番目の一里塚です。また、依田橋村の一里塚について、『駿河新風土記』は、『左右一つズツあり、駿河より右の方の塚は、潮除堤の上に、左の方の塚は依田橋田の内にあり、壱畝歩ばかり』とあります。現在、民有地になっているため、左富士神社の境内に、一里塚跡の石碑を建立しました。吉原宿と共に、この一里塚は三度所替えした事になります。」東海道分間延絵図 文化3年(1806)の依田橋村。境内には様々な写真が展示されていた。四季折々の姿が。富士山頂をズームで。境内にあった道祖神。『左富士神社』を後にし北に進むとあったこの石碑は?旧東海道の交差点からの富士山はまだ正面に。『東海道 名勝 左富士』「東海道を東から西に行くとき、富士山は右手に美しい姿を見せますが、この辺りは松並木の間から左手に見えることから”左富士”と呼ばれて、街道の名勝となりました。この現象は、江戸時代に、災害を逃れるため吉原宿が二度の移転をしたことに由来します。東から西に真っ直ぐ延びていた東海道が急に北方へまわり込み、道筋が一時的に北東を向くとこの辺りで、左手に富士山を望む形となります。江戸時代の著名な浮世絵師・歌川広重が描いた『東海道五十三次内吉原』は左富士の名画として大変よく知られます。今日、周辺には工場、住宅が立ち並び、かっての風情はありませんが、わずかに残る一本の老松は往時の左富士をしのばせてくれます。」『名勝 左富士右方に見える黒い山は愛广山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)、その上にふとんを敷いて旅人を乗せている。この方法はのりじりといい賃銭がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付け、それに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。」絵にも描かれていた松の木も。静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標・吉原宿 左富士。『名勝 東海道左富士』と書かれた道標が。そして漸く『左富士』が姿を現す地点に。『安藤広重 東海道五拾三次 吉原 左富士』この辺りから描いた作品であろう。 【https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/hiroshige53tsugi.html】より富士依田橋郵便局脇の『馬頭観音菩薩』の石碑。その隣りにあった祠。前方に見えて来たのが『平家越え橋』。橋の入口には『平家越え』と。『平家越の碑』「平家越治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西に逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、『平家越』と呼ばれています。対岸は平家軍」絵の右上角には「駿州富治川ニ於源氏勢揃ス水鳥数多立チ平軍羽音ニ驚ク」とある。『平家越』の石碑。和田川の上流部。和田川と富士山。富士山頂の上空には傘雲が姿を現す。『依田原山神社』表参道の鳥居は昭和11年奉献され扁額には「山神社」と。『手水舎』。『拝殿』。旧東海道の南側に、大山祇命をまつる山神社が鎮座。この界隈は吉原宿の「東木戸」があったところで、これより以西が東海道の宿駅・吉原宿だった。山神社は火災で古記録を失い、創祀は判然としないが、社伝によると古くから依田原の氏神として祀られてきたという。中吉原宿を所替えに追い込んだ延宝8年(1680)の高潮をはじめ、万延元年(1860)大火、明治16年暴風、昭和49年台風26号など災害で大きな被害を受けたが、そのつど再建されたのだと。拝殿正面。神社裏の道路の角にあった『依田原山神社』の灯籠。前方に岳南電車岳南線の踏切が現れた。岳南線(がくなんせん)は、静岡県富士市内のJR吉原駅にある吉原駅と岳南江尾駅とを結ぶ岳南電車の鉄道路線である。『東海道 吉原宿 東入口 岳南商店街』案内板。踏切手前を左に入り、『青陽山 陽徳寺』を訪ねた。右手に鐘楼が。多くの地蔵様が。眼病・無病息災などで信仰を集めており本尊の地蔵菩薩が「身代わり地蔵尊」として近郷近在に知られ、地元では「身代わり地蔵さん」と親しく呼ばれているのだと。『身代わり地蔵さん』と。俗称「身代わり地蔵尊」については、次のように伝えられていると。そのむかし現在の吉原一丁目付近は寺町と呼ばれその界隈で眼病が大流行したことがありました。町の人々は困り果て、このお地蔵さんに願掛けをしたところ、病状はたちどころに快方へむかい、その代わり地蔵の目は目ヤニでいっぱいになっていたのだと。『本堂』。毎年7月23,24日にはこのお地蔵さんの縁日が盛大に行われ多くの人が訪れます。本尊のほか、閻魔王や奪衣婆、地獄・極楽を描いた大絵曼荼羅が開帳され、本堂では新盆の方のご供養が行われると。『鐘楼』。『積善供養塔』。一般的に、「積善」は善行を積むことをいい、「供養」は仏などに供物をささげること。『南無阿弥陀佛』と刻まれた石も。 ・・・つづく・・・
2019.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の左手にあった『海老坂薬師』。この鳥居には大正十年と彫られていた。こじんまりした神社。そして次に訪れたのが東海道線が前を通る『木之本神社』。本堂は修復工事中のようでテントの中に。田子の浦港の東岸・鈴川は、吉原宿の前身「見付」があった場所。中世まで田子の浦港の対岸まで渡船が営まれ、商人や富士道者の休憩・宿泊所、倉庫基地として栄えた交通の要衝だ。そんな鈴川の産土神が、字砂山鎮座の木之元神社であると。祭神は木元神。木之元神社の『ムクロジ』は市天然記念物の御神木。木之元神社のムクロジは、高さ11.6メートル、太さ1.8メートルあり、樹勢はよく珍木として市内では貴重な存在であると。昔はこのムクロジの黒い種を使って羽子板の羽根の黒い玉を作っていたのだと。子供の頃の正月の遊びであったことを懐かしく想い出したのであった。赤い鳥居は、木之元神社の境内にあった『伏見稲荷大明神』。そして木之元神社の裏から『富士と港の見える公園』に向かって坂を登る。振り返ると富士山の勇姿が、電線も映らずに。大きな墓地越しに富士山が。『日蓮宗 大乗教会』。そしてここにも『妙法寺』が。こちらは日本山妙法寺。本堂。本堂前の芝生は、芝焼きが行われていた。この地には鎌倉時代のはじめのころに「見付」が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていたという。その後、徳川家康によって、東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されたという。その案内板と石碑が立っていた。『見附と(元)吉原宿』説明ボード。「鎌倉時代のはじめころ、このあたりに見付が構えられ、東海道を往来する旅人を改め、吉原湊から対岸の前田まで舟渡しをしていました。その後、南北朝から戦国時代になると、吉原湊が、軍事的、商業的に重要視され、この見付には、道者商人問屋も置かれ、宿場、港町としての機能を合わせ持つようになった。しかし、この地は湊からの高浪や、砂丘からの漂砂の害がひどく、天文年間(1532~1554)に、今の鈴川、今井地区へ所替えし、まもなく吉原と改名され、東西への旅人で繁栄しました。慶長6年(1606)に至り、徳川家康によって東海道駅伝制が敷かれ、吉原宿として指定されました。しかし、この地も寛永16年(1639)に度重なる漂砂や高波の被害で、依田橋村西方に所替えしました」奥にあったのが『阿字神社奥宮』。奥宮は社というよりも、祠というほどのもの。こちらは『大隅稲荷大神』。『田子浦仏舎利塔』がデーーンと。舎利塔には、東、南、西、北にお釈迦様の姿が。下の写真の東は坐像、南は立像、西は涅槃像、北は坐像。螺旋階段の展望台。展望台の上から田子の浦越しの富士山の勇姿を楽しむ。ズームで。繰り返しになるがそれにしてもこの時期としては雪の少ない異様な姿。「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」は何処に??左手には若い頃仕事で通った紙パの工場の煙突が。対岸の左に見えたのが「ふじのくに田子の浦みなと公園」。田子の浦港に停泊する小型タンカーの姿も。昭和三十年代から四十年代にかけて、ヘドロ公害で有名になってしまったが、現在港の環境は改善されているのであった。再び『田子浦仏舎利塔』を西側から。『石水門の石碑』。ズームで。石碑の表面に「石水門」の絵が。石碑の裏面に「石水門」の説明が書かれていた。「この河口は、吉原湊(小須湊)といって鎌倉時代から交通に、或いは商港として大いに利用されてきた。しかし、江戸時代の中頃になると湊は次第に浅くなり高浪が押しよせると湊口は惣ち土砂で閉塞され、海水はその土砂を乗り越えて耕地内に逆流し、関係34ヵ村、2千余町歩におよぶ田畑に毎年大損害を与えた。慶応2年野村一郎らは、湊口に堅牢な防潮堤を築いたが、明治2年の大暴風雨で破壊され、続いて明治3年渡辺佐一郎らが、第一次石水門の築造を始めたが、工事半ばで流出してしまった。その後、明治16年伊達文三らによって第二次石水門の築造が計画され、内務省雇蘭人モルテルの助言や、石工小島佐左エ門父子の優れた技術などによって明治18年見事に竣工した。昭和42年、近代的な田子の浦港築造に伴って撤去されるまで、実に80余年の間使命を果たしてきた沼川石水門を、永久に記念してここに建碑したものである」ここは『富士と港の見える公園』。『阿字神社 里宮』。正面から。三股淵(現田子の浦港)の毒蛇に人身御供として身を捧げ、人々の難儀を救おうとした少女阿字と、善竜と化した八大竜王をこの地を守る水徳の神として祀った神社であると。三股淵というのは、沼川、和田川、潤井川が流れ込んでいたことからそう呼ばれていたと。このあと、田子の浦の護岸沿いを歩いて、富士山を眺めながらJR吉原駅方面へ向かう再び。そして吉原駅手前のJR線路の上の南北自由通路を渡る。自由通路から富士駅方面を見る。吉原駅の北口に出て、庚申塔であろうか?沼川(ぬまがわ)に架かる河合橋を渡る。沼川は、静岡県沼津市および富士市を流れる富士川水系の一級河川。流路延長は14.1km。県道171号線からの富士山。『江戸方面 河合橋・(元)吉原宿跡』。「ここは河合橋西江戸時代、この辺り一帯は立派な松並木が整備されていた。現在はここを含め、数本の松がかってを偲ばせている。また、ここから江戸方面へ150mほど行くと、沼川に河合橋が架けられている。かっては高欄付きの板橋で、河合橋からの富士山の景色が明治期の古写真に数多く残されています」河合橋付近からの富士山の景色。富士山に向かって歩く。ここでは富士山はまだ道路の右側に。 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道(県道380号線)を進むと前方に河川が。広沼橋を渡る。『一級河川 昭和放水路』と書かれた表示版が。昭和放水路は、富士市東部で駿河湾に注ぐように造成された水路で、湛水被害の防除と優良農地造成を目的として、昭和18年(1943)県営沼川沿岸排水幹線改良事業により整備された、延長1,080m(開渠部898m、暗渠部182m)の施設。この水路の上流にある富士市東部の浮島沼一帯は、愛鷹山麓の川からの水が流れ込み、沼川を通って吉原湊(現在の田子の浦港)に流れ出ますが、標高差がないため、排水が悪く、たびたび湛水被害が起きていました。この状態を改善するため、原(現沼津市)の増田平四郎(1807~1892)は、浮島沼の大規模な干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に水干(すいほし)といわれる放水路(全長505m、幅7m)を完成させました。しかし、放水路は高波によって破壊されてしまい、その後、昭和18年(1943)に同じ場所に造られたのが現在の昭和放水路です。この放水路により浮島沼の湛水被害の防除や農地造成等の役割を果たしています。広沼橋からの富士山。『増田平四郎の像・一里塚跡』と書かれた碑。しかし、沼津新田一里塚跡の石碑は見つけることが出来なかった。「浮島沼の干拓に生涯を捧げ「スイホシ」と呼ばれる排水路の大工事を行った人。現在はその跡に「昭和放水路」ができている。又、この付近に江戸から33里(129.69km)の、一里塚があったという」『増田平四郎の像、記念碑』「増田平四郎(ますだへいしろう)とスイホシ 天保七年(一八三六)の大飢饉(ききん)や度び重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎(一八〇七~一八九ニ)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治二年(一八六九)の春で、人びとは「スイホシ」と呼んだ。 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること十二回、勘定奉行へ籠訴(かごそ)すること六度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(一八六七)に着工の運びとなった。それは計画の発案から二十七年目のことであった。 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長五〇五メートル、幅七メートルの大規模な堀割を建設したが、思いがけなくもその年の八月の高波で跡片もなく壊された。平四郎の大計画は頓挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。」近くに電線の写り込まない富士山の姿を捉える。沼田新田の一里塚跡の先には『春耕道しるべ第一号石碑』が。ここから北に一本の道があります。1906(明治39)年、吉永村(現在の富士市比奈あたり)の仁藤春耕が、十里木(裾野市)、印野、須走(ともに御殿場市)を通る山中湖までの道に、5年の歳月をかけ、120基の道しるべを建てた。この道は富士山と愛鷹山の間を抜けていく道。田中町公会堂のとなりには田中新田の鎮守『米之宮神社(よねのみやじんじゃ)』が。社殿。田中新田は1678(延宝6)年、武蔵国鳴子の田中権左衛門が開拓した土地とあります。この先の桧新田は船津新田を開発した三井氏の分家が移住してきたのだと。朱の鳥居は隣りにある『淡嶋神社』。『愛鷹神社』。社殿。『庚申魂』と刻まれた石碑。再び富士山を。繰り返しになるが雪が極めて少ないこの日の富士山。山頂の上には傘雲が生まれそうであった。山頂付近をズームで。宝永火口跡。『旧東海道順路』と書かれた道標。檜交差点で旧東海道は県道380号線から分かれ田子の浦大野線(県道170号線)に。『間宿 柏原』『庚申堂』。『高橋勇吉と天文堀』碑。「高橋勇吉(たかはしゆうきち)と天文堀(てんもんぼり) 三新田(大野・桧・田中)の八十ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉(一八〇六~一八六六)が天保七年(一八三六)から嘉永三年(一八五〇)の十四年間の歳月を費やして、完成した排水用の堀割である。 勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で彼が三新田の干拓を考えたのは天保七年の大飢饉(ききん)による村民の困窮に心を痛めたからで、排水計画の研究の傍(かたわ)ら、多くの反対や苦難を乗り越え、ようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て、立派な排水堀を完成させたのであった。 また勇吉は自分の田畑や財産などを売り払って工事費にあてたといわれ、勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことからこの堀割のことを人々は「天文堀」と呼んだ。いま、三新田の耕地は土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀は、その跡を見ることは出来ない。」旧東海道の南側に小高い丘の上にあった『稲荷神社』に立ち寄る。社殿。『三位稲荷神社』と刻まれた扁額。社殿の前から製紙会社と富士山を見る。この製紙工場には若き頃何回となく通ったのであった。富士山と製紙会社の煙突。富士山頂を更にズームで。富士山の頂上にある山小屋「頂上富士館」の姿もかろうじて。東名高速道路の高架橋と静岡県と山梨県の境にある山々の姿。更に旧東海道を西に進み『香久山 妙法寺(毘沙門天)』石鳥居の扁額。めずらしく鳥居の扁額にお題目が書かれていた。階段の上に本堂が。毘沙門天全景。水場。『お身拭い 毘沙門天』。「あなたの身体の痛むところと、この像と同じところ(例えば腰・足・ひざなど)を御布でよくさすって下さい。毘沙門天王が代わって、その痛みをとり去って下さいます」『毘沙門天』。色々な場所を触ってしまいました。『香炉』そして中国様式の『龍神香炉堂』。なんともエキゾチックムードあふれる作り。屋根には龍が踊る。電信柱が邪魔!!香炉を覆う龍神香炉堂の4本の柱にも見事な彫り物が。竜は近くで見ると大迫力!ひげは金色に光っていた。屋根の内側に陶器(タイル)が貼られていたのであった。『本殿(毘沙門堂)』とその右横にあるのは客殿であろうか。インド風(?)の建物・練成道場も隣接。開創は寛永4年(1627)の日蓮宗のお寺。延宝8年(1680)の台風の高潮で宿場とともに流されたが、元禄10年(1697)この地に再建された。家康側室・お玉の方(水戸藩祖頼房の母)や紀州藩祖の頼宜も信仰したという。江戸時代中期から始まったとされる旧暦正月7~9日に行われる毘沙門天大祭の「だるま市」は、高崎、深大寺とともに日本三大だるま市として知られる。インド窟院にならって建立されたという『洞窟七福神堂』。ネパール・カトマンズを訪ねた時に見た「スワヤンブナート(目玉寺)」のストゥーパ(仏塔)の知恵の目(ブッダアイ)に似ているのであった。この巨石はこれは沓石(くついし)。靴のような形をしてることからこう名付けられたと。昆沙門天がインドで悪魔をけり上げたとき、沓(くつ)が脱げて、日本に飛んできて石になったと言い伝えられているのだと。足が悪い人が祈りながらこの石を撫でると足がよくなると。本堂前の狛犬(左)。かなり精巧に彫られた狛犬で力強さが。本殿前の狛犬(右)。台座にも様々な彫刻が。旧暦正月7~9日(2019.2.11~13)に行われる今年の毘沙門天大祭のポスター。『富士毘沙門天』の絵馬。今年の干支のうりぼう(猪の子供)が沢山いる絵馬。『銭洗いの池』。和風、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にある変わった寺、それが毘沙門天妙法寺。寺務所のお札、お守り売り場。御朱印を頂きました。御朱印帳に書いていただいた言葉は『福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)』。「福聚海無量とは観音経の言葉ですが『海のようにたくさんの福が押し寄せてきますように』との願いを込められているとのことです。境内を振り返る。2週間前だが、既に毘沙門天大祭の準備が行われていた。毘沙門堂の西側に隣接する、妙法寺本堂への階段。「南無妙法蓮華経」と刻まれた石柱。正面には本堂そしてその後ろに練成道場と鐘つき堂(左)。蝋梅の花が迎えてくれた。そして妙本寺を後にし、県道170号線(田子の浦港大野線)を西へ。銅板敷きの屋根の古民家? その2 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東海道線の線路の南にあったのが『桃里の桜地蔵尊』。桃梨の桜地蔵尊に行くには70m程引き返し、JR東海道線の踏切を渡って行かなければならない事が判明し、諦めたのであった。旧東海道(県道163号線)の植田踏切を渡る。静岡方面。踏切を渡りながら振り返ると富士山の姿が。踏切を渡り150mほどの場所、左手にあったのが『八幡神社(はちまんじんじゃ)』。コンクリートの社殿。素朴な手水舎。社殿を正面から。八幡神社 本殿を横から。境内末社。そして旧東海道に戻ると直ぐに富士市に入る。富士市からのの富士山。東柏原の交差点の手前の道を右折し柏原踏切を渡る前の場所からの富士山。再び柏原踏切を渡り右側の線路沿いにあったのが『山の神古墳』。墳丘の祠の前にはコンクリ柱の屋根が。祠の覆屋も立派。全長41.5 mの前方後円墳。1979 年に墳丘の北隣と東隣が発掘調査されて幅 7m・深さ1m程の周溝と円筒埴輪や人物埴輪の破片が発見されたと。埴輪の形態から築造時期は6 世紀前半と考えられ、伊勢塚古墳、長塚古墳などとともに駿河で初めて埴輪を受容した重要な首長墳として位置づけられるとのこと。山の神に参拝。「市指定史跡 山の神古墳前方後円墳市指定年月日 昭和51年7月23日本墳は庚申塚古墳の東方150m、標高5m程の砂丘に位置し、6世紀末~7世紀初頭に造られたもので、当時のスルガのクニの王墓と考えられます。前方部は古くから畑となり、墳丘南側は鉄道線路のため3分の1が削り取られています。墳丘全面に浜石による葺石が施され、昭和54年の調査では周溝が確認され、埴輪も出土しました。本墳は当時のこの地方の繁栄のありさまを知る貴重な文化財です。」そしてその先150m程の場所にあったのが『庚申塚古墳(こうしんづかこふん)』。JR東海道線沿いにあります。双方中方墳とされており、全国的にも非常に珍しい古墳。しかし、電車の線路によって墳丘の南側は削り取られてしまっていると。時期ははっきりとしていませんが、すぐ近くの山の神古墳と同時期の5世紀から6世紀のものではないかと推定されています。墳丘部には庚申塚があり、青面金剛と言う字が彫られています。この地域を当時支配していた豪族のお墓ではないと推定されています。再びJR東海道線の地下道を潜り旧東海道に戻る。富士市の汚水マンホール蓋。富士山と白波のデザイン。「ふじし」「うすい」の文字。同じく富士市の丸型消火栓蓋 。富士市に伝わる「かぐや姫」伝説よりのデザイン。 上部に富士市の市章入り。 一般的なかぐや姫は「天」に帰るが富士市の「かぐや姫」は富士山に帰るらしい。 市内には「竹取公園」が整備され 姫が生まれたとされる「竹」が残されていると。 旧東海道(県道380号線)に戻ると、東田子の浦駅前の交差点が前方に。その手前の右側にあったのが六王子神社(ろくおうじじんじゃ)の鳥居。「祭神 六王子神社伝説「三股の伝説」 昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいました。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがあった。 今から四百年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまいました。仲間の六人は国元へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。 おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。 」手水舎。真っ赤な屋根の社殿。龍の彫り物。六王子神社の向かい奥にあったのが『延命地蔵尊』境内の石仏。更に旧東海道を進むと直ぐの右手に『大六天神社』。大六天王と刻まれた鳥居の扁額が。この神社の北側に、「六人の神子が身を隠し死する」と伝わる「浮島の湖(沼)」は広がっていたのであろう。『間宿 柏原・本陣跡』「間宿」は、幕府公認の宿と宿の間に設けられた休憩のための宿場で、非公認であるために宿泊は禁じられていた。このため、近世「柏原宿」は飯屋が多く、鰻の蒲焼が名物だったという(十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、金がない弥次さん喜多さんは、蒲焼の匂いだけで我慢した、という滑稽な情景が描かれている。)。「柏原宿」は、江戸時代には「間宿」とされたが、宿としての起源は平安時代後期にまで遡るともされていると。間宿 柏原の店屋の配置図。そして右手前方に大きな山門の在る寺が。右手には富士山が。『日蓮宗 正法山 立圓寺(りゅうえんじ)』山門。『望嶽の碑(ぼうがくのひ)』。「文化5年(1808)尾張藩の藩医柴田景浩が、西柏原・立圓寺境内に建立したもの。ここから眺める富士山のすばらしさを称賛している」宗祖700遠忌報恩事業として総欅造りの本堂を完成、楼上に鐘楼をそなえた仁王門を併せて建立、台座とも九尺五寸の釈尊座像(ブロンズ製総金箔押)を奉納したと。山門の仁王像(阿形像)。山門の仁王像(吽形像)。本堂を斜めから。『ゲラテック号遭難の碑と船の錨』。「清水港より救援米を運ぶ途中、昭和54年(1979)10月19日、台風20号に遭遇し、強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に直立のまま打ち上げられました。救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。当時、新聞・テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、5万人の見物人がこの地を訪れ、売店十数軒が出店するなど、近郊はもちろんのこと、東京・愛知・山梨より見物人が押しかけました。船体は六ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り、碑を建てました。」遭難の事実を後世に伝える貴重なものと。『慰霊の碑』ゲラテック号遭難で二人の人命が失われ、その慰霊の碑。「望嶽碑」と刻まれたこの碑は、文化5年(1808)5月、尾張藩の典医であった柴田景浩(1745~1812)という人物が建立したもの。医学のみならず、墨竹画にも優れていた景浩は、この地から望む富士山の美しさに感銘を受け、この碑を建立したと。「私は生まれつき山が大好きで、また山を絵に描くことが好きである。山といえば富士より すぐれた山はなく、富士の眺めといえばここから望むのが一番である。私は、富士を見る 前から絵を見て想像をめぐらしていたが、富士を見てからは自分の見たままを絵に描いた。 参勤交代のために何度もここを通ったが、輿が休憩するたびに佇んでは富士を望み、ぼん やりと我を失って行きつ戻りつし、時間が来ても出発できなかった。願わくはおまえ(富 士)のふもとで死にたいと思うが、なかなか思うに任せない。昔の人も言ったではないか、 「誰か将来ここを訪れる人があったなら、きっとこの心境を理解してくれるに違いない」 (中唐の詩人・柳宋元〔773-819〕の「南礀中に題す」末尾の詩句)と。そこで、髪の毛を 切ってこの地に埋めることで気持ちをここに表わし、百年後の私の魂のためにも戻ってく るべき場所をつくっておきたいと考えたのである。私の姓名は柴田景浩、あざなは子博と いい、龍溪と称する。尾張藩の侍医である。」『日蓮聖人像』。立圓寺(りゅうえんじ)本堂。万治3年(1660)に京都立本寺20世霊鷲院日審によって開創された。明治初期および昭和7年(1932)11月14日 大火で類焼し、堂宇、古文書など焼失した。日審は「法を演ること 一万余座、席上の法譚又一万余座、曼荼羅を書すること十万余幅、受法の者九万余人」『草山集』といわれるように全国布教遊化のとき、麗峰富士の眺望が東海道でもっとも素晴らし いといわれる当地(境内現存の望嶽の碑)に一宇を建立した。宗祖700遠忌報恩事業として総欅造りの本堂を完成、楼上に鐘楼をそなえた仁王門を建立、台座とも九尺五寸の釈尊座像(ブロンズ製総金箔押)を奉安した。また身延山大本堂の仮本尊であった大曼荼羅(身延88世竹下日康法主筆)を遷座するなど寺観を一新したと。『立圓寺』と書かれた扁額。本堂の唐破風部の見事な彫刻。『鎮魂の碑』地元の戦死者に対する鎮魂の碑であろうか。境内社。 その1 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.19
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「旧東海道を歩く」の旅行記を備忘録としてアップしていますが、ポルトガル旅行のブログが1ヶ月以上続いた為に、この「旧東海道を歩く」のブログアップがかなり遅れていて旧東海道からの風景等の情報がかなり古くなってしまっています。これを回復するために、暫くは書き留めておいた予約ブログを2回/日のアップで新鮮な?旅行記(備忘録)に近づけたいと考えました。取り敢えず、1ヶ月以内のブログアップになるまで続けたいと思っています。今日から暫くは2回/日の旅行記(備忘録)アップをして行きますので、引き続きご笑覧ください。🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃🏃1月28日(月)は好天とのことで東海道53次の「原宿~吉原宿~JR冨士駅」を目指して旅友のSさんと共に歩いた。この日のルートは駿河湾沿いそして何故か吉原駅付近から山側に逸れる青の線の旧東海道。時刻は8:22、JR原駅からこの日の「旧東海道を歩く」をスタート。「なまこ壁」が歴史を感じさせる造りになっているJR原駅。「なまこ壁」とは外壁仕上げの一種。主として正方形の瓦を張りつけ,目地を埋める漆喰を盛り上げているものをいう。この目地漆喰の断面は半円形で,なまこ形に似ているのでこの称があるのだ。瓦張りの形式としては本来のものであるが,これを上手に仕上げるには相当の技術を要するのだと。なお,なまこ目地には,水平に通る一文字目地と冨士駅のごとく斜めに通る筋違目地の2種類があるのだと。駅前にあった『原宿と浮島マップ』。JR原駅の北側、写真の左上が浮島地区。東海道が足柄越えをしていた中世の頃、愛鷹山のふもとを伸びる根方街道が東海道であったと。東海道の本道が箱根を通るようになったのは元和2年(1616)からで、その後原宿においても浮島沼の南側にメインルートが移ったと。現在、千本松原沿いに伸びる旧国道一号線は、かつて駿河に進出した武田信玄が駿河湾で作った塩を運ばせた時に自然発生的に出来た塩道で、甲州街道と呼ばれていたのだ。その甲州街道が一時東海道になっていた時もあったと。原宿は北側に浮島沼が広がっており、南側は駿河湾に挟まれた細長い州にあり、美しい松原と、どこからも見える富士の眺めに恵まれた気候温暖で風光明媚な土地柄。元禄時代、原宿は家の数200軒足らずで、旅籠の数も20軒しかない53次中最も小さな宿場の一つであった。原宿は江戸から13番目の宿。『東海道五拾三次之内 原 朝之富士』。「原の宿を出てまもなく、湿地帯のような浮島ヶ原が広がります。ここから見る富士は、巨大で均整のとれた優美な姿をしています。山頂は画面からはみ出し、その高さを強調しています。旅人が足を止め、振り返って眺めたほどの去りがたい風景です。鍋鶴が田圃におりて、餌を求めているあたりは、昔の東海道ののどかさがうかがえます。」JR富士駅から富士山頂付近をズームで。雪の少ない富士山そして登山道のジグザグが白くはっきり見えたのであった。旧東海道の左手にあったのが老舗の『高島酒造㈱』。静岡県で初めて開発された酒米「誉富士」を使った特別純米酒「白隠正宗」が人気と。この日の最初に訪ねたのが『秋葉神社』。『秋葉山大権現由来』。「秋葉山(あきはさん)は、静岡県浜松市天竜区春野町領家に位置し赤石山脈の南端を占める標高866mの山。山頂近くには、火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現の後身秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称ともなっている。明治以前は秋葉大権現として秋葉社と秋葉寺の両方が存在する両部神道であった。しかし、明治初めの神仏分離・廃仏毀釈によって、秋葉山は神社と寺院とに分離されることとなった。現在は、秋葉神社上社は秋葉山の山頂にあり、曹洞宗の秋葉寺は秋葉山の中腹の杉平にある。江戸末期には全国に二万五千余の秋葉大権現を祀る社があったと」。拝殿の見事な龍の彫刻。再び沼津市の下水マンホール蓋。市の花「はまゆう」、木「まつ」を手前に配し、その奥に沼津の海岸線から望む「駿河湾」、「愛鷹山」、「富士山」をデザインしたもの。次に旧東海道(県道163号線)から海側にあり、裏側にJR東海道が走る『浅間神社』を訪ねる。浅間神社 第一鳥居。『第一鳥居 由来記』。『浅間神社 由緒記』二ノ鳥居、三ノ鳥居その奥に社殿が。手水舎。社殿。浅間神社は、三つの祭神を祀ることから三社宮と呼ばれてきたが、創建は慶安3年(1650年)と古く、鳥居前の石灯籠には文化十一申戌の銘があると。向拝には龍の彫刻。末社の一つであろう。天王社。東海道線上りの三島行き電車が神社の裏を通過。沼津市立原中学校裏からの富士山の勇姿。旧東海道には戻らず、更に南下し駿河湾の護岸堤防まで足を延ばす。駿河湾の光る海とその先に伊豆半島。遠くこれから行く田子の浦、富士方面を見る。津波&飛砂対策の護岸擁壁はかなりの高さ。そして松原の松の隙間から再び富士山を。千本街道沿いの松原の中にあった『いぼ神様』。千本松原の松の巨木の入り組んだ根の窪みに溜まった水をつけるとイボが取れたと。松の巨木のあったところにそのいわれを書いた石碑と小さな祠が祭られていた。現在もいぼ取りを祈願に訪れる方がいるそうで、地区の有志の方々が維持管理をしていると。そして再び旧東海道に戻る。『原宿 一里塚跡』。「一里塚は江戸日本橋を起点とし、一里毎に塚を築いて、その上に榎や松を植えたもので、旅人に行程を知らせたり、人馬賃銭算定の基準となっていた。 ここでは街道をはさんで両側にあったと思われるが、現在は宅地化されてその面影はない。」『一本松史跡 町あるきマップ』。再び富士山を。頂上にも積雪のない場所が確認できた。『村社三社宮』と刻まれた石碑が右手に。創建当時、浅間神社は三社宮とも呼ばれていたと。ここ一本松にも『浅間(せんげん)神社』が。「慶安3年(1650)創建、明治8年2月村社に列せられる。境内西側の末社には、三扉の神があり、櫛摩知命、大己貴命、少名彦名命が祭られている。又、境内入り口東側には天王社(素戔鳴男命)が祭られている」扁額には『三社宮』と。そいて鳥居の先に富士山が。拝殿そしてその奥に本殿が。神社からの富士山。神社の屋根のカーブと重なって。そして更に進むと左手に『曹洞宗 海岸山 大通寺(かいがんざん だいつうじ)』が。山門。境内にはスルガ銀行初代頭取、岡野喜太郎の碑。「岡野喜太郎少時、本寺に止宿して、初学舎に学ぶ」と。隣には「二度とない人生だから、一輪の花に無限の愛をそそいでいこう。一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう」と坂村真民の詩が刻まれた石碑が。手前に『慈母観音像』。六地蔵、観音像も。鐘楼。手前におそうじ小僧も。道元禅師?それとも釈迦如来?三体の菩薩像。再び坂村真民の詩が刻まれた石碑が。「念ずれば花ひらく苦しいとき母がいつも口にしていたこのことばをわたしもいつのころからかとなえるようになったそうしてそのたびわたしの花がふしぎとひとつひとつひらいていった」そして境内の『五百羅漢像』。囲碁を楽しんでいる姿。何かを覗いている姿であろうか?頭を抱えて。。。私の現役時代の職場の姿か。富士山の姿をカメラで追い続ける。旧東海道の右手に『浅間愛鷹神社』が。ここにも『浅間神社』と刻まれた扁額が。『浅間愛鷹神社(せんげんあしたかじんじゃ)』。「鎮座地 沼津市桃里五〇八 御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 愛鷹大神(あしたかおおかみ) 例祭日 一月一日(元旦祭) 三月三日(祈念祭) 十月十七日(御例祭) 由緒 延享三年(一七四五年)の創建で、元和元年(一六一五年)に鈴木助兵衛父子により 当地の開拓が始まってから、百三十年後である。 神社の建造物は、何回も改築されている。今のは昭和四十四年に建てられたものである。 境内社としては、山神社と天王社とがある。 当地区内には、別に、桜地蔵尊と稲荷神社とがある。」赤い屋根&扉の社殿。狛犬(左)も赤を交えて。狛犬(右)。神社境内の石灯籠、石碑、石祠。 ・・・つづく・・・
2019.04.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の左手奥にある『日蓮宗 龍守山 昌原寺(りゅうしゅざん しょうげんじ)』を訪ねる。昌原寺『本堂』徳川家康公の側室養珠院お万の方(紀伊黄門頼宣(よりのぶ)、水戸相公頼房(そうこうよりふさ両郷の母堂)の開基であり、宗祖日蓮大聖人の第1の弟子日昭上人(本山、三島玉沢妙法華寺開山)の法孫である日達上人のお弟子となった大仙院日燿上人の開山。元和元年(1615)春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえてきた。ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、この地に一山を構えるように要請した。そして元和8年(1623)に念願が成就し、寺院を建立して現在に至っていると。『永代供養塔』。七面大明神を祀る『七面堂』。扁額『七面山』。『七面大明神の由来』。七面大明神は七面天女ともいい、法華経の護法神、法華経を信仰する人々の守護神として全国各地で信仰されていると。その姿は、右に施無畏の鍵を、左には如意珠の玉を持ち、日蓮宗総本山、身延山久遠寺の裏鬼門にあたる七面山山頂に祀られているのだと。『歴代上人墓所』。旧東海道に戻り『東海道原宿 問屋場跡』。「各宿場には問屋があり、宿役人がいて宿駅の業務を行った。宿役人には問屋、年寄、問屋代、帳付、馬指などの役人がいた。そして、道中奉行の監督の下で人馬輸送の業務に携った。原宿には問屋のあった場所が西町東町に各一箇所づつあって、交代で勤めたと思われる」東海道原宿 案内板。この日の最終目的地のJR原駅まで0.6kmと。JR原駅に向かってラストスパート。渡辺本陣跡を探すがわからず、iPhoneではこの正面の場所に石碑があるのだが・・・。ネットの写真からは、渡辺本陣跡の碑がここにあったようだが、何故かないのであった。地面はなんとなく撤去した跡の如くに。何故撤去したのであろうか?何かが打つかって破損?それともこの場所ではなく新たな場所が見つかった?しかしこの場所の近辺には渡辺本陣跡を示す石碑はなかったのであった。『臨済宗 妙心寺派 安泰山 徳源禅寺』。『山門』。枯山水の庭。境内と後ろ右手に『地蔵堂』。『子安地蔵尊』。地蔵堂の前には摩尼車が。「一転一誦」の文字が。一回まわすと般若心経を一回読んだのと同じ功徳が頂けますと。『本堂』。「建久4年(1193)源頼朝公が行った富士の巻狩りの際、陣屋が置かれたことから始まりました。境内地は、現在「御殿場」という地名として残っております。その後「今津寺」という律宗の寺院を経て、鎌倉円覚寺開祖仏光国師(無学祖元禅師)の弟子帰化僧賢宗が、北条時宗の帰依を受けて弘安元年(1278)に徳源寺として創建しました。賢宗は、円覚寺建立に尽くされ、その功績により後光厳天皇から圓満護国禅師の諡号(しごう)と紫衣(しえ)を賜っております。」本尊は釈迦牟尼如来像。『交通殉難者諸慰霊 救苦観世音菩薩』と刻まれた石碑。釈迦牟尼如来像であろうか。無縁塚?『酬恩殿』。摩尼車を回す旅友。何を祈ったのであろうか?16時を回り『明徳稲荷』に。「時は戦国時代の安土桃山時代、本能寺の変の翌年天正11年(1583)この地に柳池神の社(稲荷大明神)を建立する。その後1798年に京都伏見稲荷より、明徳の名を授かり原宿の鎮守・明徳稲荷となったと。」拝殿の向こうには富士山を見ることができるとのことであったが・・・・。駅前公園。『原尋常高等小学校跡 碑』が建っていた。そして前方にJ『JR原駅』が姿を現す。駅前には人はほとんどいなく。JR原駅入口。都合よく16:12の熱海行きに乗れたのであった。藤沢駅まで1,490円。駅構内のステンドドグラス。夏の富士山の姿であろうか?そして熱海行きの各駅停車に乗る。そして熱海駅でJR上野東京ラインに乗り換え18時過ぎには帰宅したのであった。 ・・・完・・・
2019.04.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次長興寺から白隠のみちを進むと松蔭寺の山門前に出た。山門の前の道路に飛び出している松が『すり鉢の松』。白隠が岡山城主池田侯から贈られた備前焼のすり鉢を、台風によって裂けた松の枝の雨避けにかぶせたというすり鉢の松。山門前の『白隠の里案内図』。白隠生誕地として、白隠に由来する寺が旧東海道に沿って建ち並び街中が整備されていた。松蔭寺の『山門』。2016年(平成28年)8月1日指定の有形文化財(建造物)。石瓦葺が特徴の木造、切妻造りの平屋建ての門。石瓦は幅約30センチ、長さ約1メートルのものを1面3段18列計54枚、裏表合わせて煩悩の数を表す108枚で葺かれている。寺伝では、白隠禅師の考案とされていたが、後の調査で江戸文政期の時代に作られたものと分かった。この地方では類を見ないものである。右手の『寺務所』。『本堂』。「1279年(弘安2年)鎌倉円覚寺無学祖元の流れを汲む天祥西堂が開山したと言われている。その後荒廃したが、1615年(元和元年)徳川家康の天下統一後寺院の統制が図られ、この地域は禅宗の妙心寺により系列化された。1624年(寛永元年)沼津大聖寺の大瑞宗育が京都妙心寺を本山、興津清見寺を中本山とする本末関係を結び、再興した。1649年(慶安2年)10月17日徳川家光から高十四石六斗五升の朱印状を下賜され、原宿 (東海道)の禅宗寺院として公許された。」と。扁額『大信根』。白隠禅師は、「大信根、大疑団、大憤志(⬅リンク)を持って修行の三要件とし、見性成仏させる宗風を復活させた、臨済禅中興の祖である。」と。『本堂』内部。『六角堂』。『鐘楼』。良寛遺墨碑『白隠語句』・柳田聖山歌碑。歌碑 説明板⬅リンク碑面 君看雙眼色 不語似無憂 降る雪の 降る雪の 雪の花を我が後の世の家づとにせん 家づとにせん口語訳 妾の二つの眼の色をよくよく看て下さい、何も言ってくれないと憂い(その気)が ないように見えますよ 降りに降る雪の花を 来世の私のために その家のおみやげにしたいものだぜひとも おみやげにしたいものだ『慰霊碑』。北朝鮮地域在住同胞殉難者を慰霊する石碑。『三界萬霊等』。多くの石仏が。本堂裏の白隠禅師の墓に向かう。『白隠禅師墓』説明板。「白隠禅師(1685年~1768年)『駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠』東海道原宿に生まれ、各地を行脚した後に故郷に戻り、50年近くにわたって松蔭寺の住職を務めました。 また、50代以降には、請われて各地で講義を行うとともに、膨大な著作や書画を残しており、終生にわたり、様々な方法を駆使して法を説きました。人の往来が激しい東海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧として知られています。松蔭寺には遷化の翌年に完成した白隠禅師坐像があり、虎視牛行(こしぎゅうこう)と言われる鋭さと厳しさを感じることができます。」『白隠禅師塔所』。白隠禅師の遺体は死後分骨され、原の松蔭寺、三島の龍澤寺、富士比奈の無量寺に埋葬され塔所が建てられたのだと。最初はこれが白隠禅師の墓と思いましたが・・・・。やっと『白隠禅師の墓』に到着。三基の無縫塔のうち一番手前の墓が隠元禅師の墓とのことでしたが、間違って中央の墓石をズームして撮影して帰ってしまいました。調べてみると中央は松蔭寺を復興した大瑞宗育の墓。右が白隠の弟子で、白隠の亡き後に松蔭寺住職を継いだ遂翁元盧の墓 であると。墓地の奥から本堂方面を見る。次に隣りにある原の天神さん・『西念寺』を訪ねる。珍しく時宗の寺、宗祖:証誠大師(一遍上人)、本尊:阿弥陀仏。『本堂』。『西念寺天満宮』。山門を入って左手に学問の神様菅原道真公がお祀りされている天満宮の堂。西念寺門前に生家のあった白隠禅師は幼少の頃、母から自宅に隣接するこの天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝した。後年にも「南無天満自在天神」の文字絵や、お多福などの人物の衣に梅鉢紋を描いていることなどから、天神に対する特別な思いがあったようだと。広場にあった『白隠禅師の石碑』。白隠禅師の『産湯の井戸』であると。石碑『産湯井』。『無量堂』。臨済宗中興の祖とされる江戸時代の僧侶、白隠禅師(1685~1768年)の沼津市原の生誕地に白隠を顕彰する『無量堂』。2017年に白隠禅師が逝去されて250年目の節目にあたり、250年遠忌事業の一環として、今なお産湯の井戸が残る沼津市原の旧東海道沿いにある白隠禅師の生誕地に堂、『無量庵』を建てたのだと。『東海道原宿 白隠禅師誕生地』。「”駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は、西暦1685年12月25日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として生まれる。 15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。19才から32才まで修行行脚で全国を巡り33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。 現地は母妙遵(みょうじゅん)の生家屋号味噌屋 (みそや)の地でのち父宗彛(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。」旧東海道の原交番東を直進する。右手に『浅間神社』が。『浅間神社御由緒』。「甲斐武田氏に仕えし植松平次右衛門出雲守源季重なる者天正10年(1582)3月武田勝頼陣没するや去って原町に至り住居す。李重敬神の念篤く慶長十四年(1609)八月当浅間神社を創建氏神として崇敬し李重の子孫は連綿として当宮の前に居住する植松本家なり明治八年村社に列せられる明治四十年神饌幣帛共進指定社に列せらる昭和二十八年十月十六日宗教法人となる例祭 十月十七日」『拝殿』。原宿 『高札場跡』。幕府・大名が法令、禁令を札板に掲示したもので浅間神社に設置されてあった。「江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を、板札に墨書した高札を掲示した所を、高札場という。規模は、高さ一丈、巾一間、長さ二間五尺あったと言われている」お馴染みの静岡県が設置した夢舞台東海道『原宿』。吉原宿:宿境まで二里三十二町、沼津宿:宿境まで一里十二町 と。『帯笑園』。帯笑園は、原の素封家植松家が江戸時代後期から昭和初期まで代々伝えた庭園である。帯笑園という名前は、寛政3年(1791年)海保青陵(儒学者 1755年~1817年)によってつけられ、高島秋帆(高島流砲術の創始者 1798年~1866年)筆の木額が残っている。帯笑園は、一般的な庭園とは違い、珍しい植物のコレクションを陳列し、当時には珍しい温室を備えるなどして、その時期に一番良い状態の植物を鑑賞できる植物園のような性格を持つ庭園だったと。平成24年9月、国の登録文化財になっている。しかしこの日は園内工事中で入れなかった。『東海道原宿 本陣跡』「原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋・年寄、名主等を勤めていた。明治維新後、明治元年(1868)10月7日明治天皇東幸の時、本陣渡邉左衛門家で『御小休』をされ、その後も巡幸され「御昼」をされた記録もある。昭和20年の敗戦前まで『明治天皇行在所』と記された標柱が現在地に整備され立っていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であった。」 その9 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の右手奥にあったのが『片浜駅』。沼津市郊外の片浜地区にある駅。国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月に開業した、国鉄最後の旅客駅の一つであると。片浜駅前の交差点を直進し更に旧東海道を進む。旧東海道沿いの民家の庭の木には『霜月桜(しもつきざくら)』と書かれた文字板が。春と冬に咲く、霜月桜。この日も僅かに開花していたが、これは春の花であろう。右手にあったのが『臨済宗 妙心寺派 蓬莱山 祥雲寺(しょううんじ)』。山門の奥に大きな松の幹の姿が。山門を別の角度から。『祥雲寺』と書かれた扁額。本堂前の大きな松。枝垂れ桜であろうか。『薬師堂』。境内の庭も見事。『清浄光』と刻まれた永代供養堂であろうか。陸軍軍人に対する『忠霊塔』。『本堂』。「永禄元年(1558)正親町(おおぎまち)天皇の御代、久松和泉守が、鎌倉建長寺より秀江禅師を迎え、今沢の地に菩提寺として祥雲寺を建立されました。近隣の信仰を集めておりました慈覚大師作の今沢薬師如来を本尊とする薬師堂を移し以来篤い信仰を集めております。また、久松和泉守は菅公(菅原道真公)ゆかりの大名で、境内には天神様をお祀りしております。」と。本尊は、釈迦牟尼如来。境内から山門、松の樹を見る。『六地蔵』。多くの墓石が。再び境内を。境内のおそうじ小僧と一緒に男の子がお母さんのカメラにポーズを。祥雲寺の隣にあった『三島神社』。『社殿』。三島神社は永禄2年(1559)の創建で、御祭神は事代主命である。俗に恵比寿様とも称され、魚漁航海の神、また商売繁盛の神と言われている。推定樹齢450年のマキの御神木。幹回り4mの緑マキの御神木。15時前にJR東海道線『原踏切』が前方に見えて来た。『原踏切』を渡る。原駅方面。旧東街道を進んで東海道本線の踏切を越えると交差点右手には『神明宮』が。鳥居前右手に置かれているのは、塞神(さえのかみ)。塞神は宿の入り口に安置され、悪霊にの侵入を見張っています。『社殿』。神明宮前の信号の角にあった『東海道原宿 東木戸(見附)跡』。「原宿は現在の西町、東町、大塚本田の三町で形成され、西と東の境に木戸を設けて、宿場の入口とした。 東木戸の位置は、この辺ではなかったかと推定される。 東木戸から西木戸まで、すなわち原宿の東西の距離は660間(2.2km)あった。」 と。そして『秋葉神社』。真っ赤に塗られた小さな祠。秋葉神社 『社殿』。旧東海道を左手に折れ、住宅街を進む。その先にあったのが『臨済宗 妙心寺派 得万山 清梵寺(とくまんざん せいぼんじ)』。「原のお地蔵様」と呼ばれていると。平安時代の初め頃、安房の国の得萬長者が、京都からの帰路、原宿で長旅の疲れから病気で亡くなったため、従者が長者の遺言に従って大きな塚を築いて手厚く葬ったという。その後、長者の妻が出家して梵貞尼と称して堂を建て、地蔵菩薩を安置したのが始まりという。『萬霊供養塔』の観音様。『願王閣』と書かれた扁額。この扁額は、白隠慧鶴(はくげん えかく)の筆であると。そして次に訪ねたのが清梵寺の隣にあった『臨済宗 妙心寺派 海上山 長興寺』。本堂。長興寺は白隠禅師のお寺である松蔭寺の近くにあり、白隠禅師の道友・大義和尚によって再建され、全国各地から集まって来た修行者たちの宿坊として使われていたと。ご本尊は虚空蔵菩薩で、境内には鎮守神の金毘羅権現がある。近年では五月の第五日曜日、あるいは六月の第一日曜日に開催される「こんぴら祭り・奉納泣き相撲大会」が初夏の風物詩として全国的に有名になっているのだと。『海上山 』と書かれた扁額。『金毘羅堂』。『金毘羅堂』と書かれた扁額。『禪 いまを生きる』、左が白隠禅師、右が臨済禅師。堂内。長興寺から松蔭寺へ続く道。白隠禅師の時代には松蔭寺での修行僧が宿坊として使い、松蔭寺から長興寺まで通った道が今も残っており『白隠みち』と称されている。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の沼津片浜を歩く。右手に『諏訪神社(諏訪宮)』の鳥居が。更に200mほど進むと左手にあったのが『臨済宗 普門山 正覚寺(しょうかくじ)』。正面が本堂。どこか日本のお寺ではないような屋根が変わっていた。正覚寺は今から約300年前、原の徳源寺第9世方室玄策(ほうしつげんさく)禅師を開山に迎え、小諏訪の旧東海道ぞいに徳源寺の末寺「自覚庵(じかくあん)」として創建された。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。境内の『水子地蔵』。『水子地蔵御和歌』。『白衣観世音』。『忠霊塔』。和菓子屋・『甘陽堂』。老舗の菓子店。洋菓子、和菓子の製造販売。餅・羊かんなどの和菓子が特に人気。静岡県産の卵をふんだんに使っているカステラはしっとりして人気の菓子であると。左手に少し折れて『高野山 真言宗 浮島山 清玄寺』を訪ねる。清玄寺の庭と本堂は一般家庭の中にあるような感じであった。境内で持参のリンゴを食べながらしばしの休息。境内の『観世音菩薩像』。地蔵様が3体。本堂内部。正面に『青面金剛像』、右手に『宝珠禅地蔵』。ズームで。そして旧街道沿い右手に『八幡宮』の参道が。次に訪れたのが『日蓮宗 妙秀山 栄昌寺』。山門。本堂。栄昌寺は、慶長5年(1600年)珠光院日宝(松野永精寺19世)を開山に創建された草庵が起源。享保2年(1717年)客殿が建立された。明和3年(1766年)仏像が奉安され、享和3年(1803年)庫裏が建立された。明治9年(1876年)境内に有斐館(沼津市立片浜小学校の前身)が置かれた。現在の本堂は明治39年(1906年)に建立されたもの。境内には、七面堂があり七面大明神、鬼子母尊神、清正公大神祇が安置されている。また本堂前には推定樹齢350年の巨大なソテツがあった。扁額には『妙秀山』と。『七面堂』。七面堂には七面大明神、鬼子母神、清正公(加藤清正)大神祇が奉られていると。南無妙法蓮華経と刻まれた石碑。『若有聞法者無一不成仏』とも刻まれていた。「法華経を聞く人は一人として成仏しない者はない」と。更に旧東海道(県道163号線)を進む。更に進むと大諏訪に在る『吉祥院・天満宮』が右手に。右側が『大諏訪天満宮』、左側が『承光山吉祥院』。『大諏訪天満宮』。神社幕には星梅鉢の紋が。鐘楼。『水子供養像』。左側が『承光山吉祥院』。「寛文5年正月(1665年)に沼津市岡宮の大本山光長寺の末寺として本山第25世日淳聖人が創建された。元和(1615年)の頃、片浜大諏訪の海岸で漁業の網の中に天神様の御木像(約30㎝)が入り、そのお姿の神々しさに網元の浅沼家で大切に祭られておりましたが、寛文5年光長寺25世貫首日淳聖人が師範として仰ぐ日簉上人の隠居寺を創建するに当たり、天神堂を建立し吉祥院と称し、以後御神体を大事にお祭りしてきました。明治初年の廃仏毀釈の神仏分離令が出されましたが、その難を免れ神仏習合のまま現在に至っております。御神体には宝徳元年5月(1449年)の年号が記されております。御開帳は50年に1回とされ、平成14年に1千百年祭があり、記念事業として本殿を建立し御開帳いたしました。学問の神様として、又地域の守り神様として篤い信仰を集めております。」と。『吉祥院』と書かれた扁額。吉祥天は天神様こと菅原道真の菅原家が信仰していた仏教の神様。『筆塚』。『願満具足天一千年祭』と刻まれた石碑。民家と民家の間にあったのが『松長一里塚跡碑』。日本橋から数えて31番目の一里塚。旧大諏訪村と旧松長村の境目は一里塚です。現在は跡形もなく一里塚碑だけが。境目にあるので松長の一里塚、大諏訪の一里塚とも呼ばれたと。しかし、碑の横面に刻まれた説明書きには「江戸より30里の地」と刻まれていた記憶があるのだが・・・・????。一里塚跡から暫く進むと街道左手に『日蓮宗 光法山 蓮窓寺』が。この蓮窓寺の山門は以前は松長陣屋の裏門(四脚門)を移築したものだったと。しかし老朽化が著しかったので、現在は新しい山門に建て替えられた。創建は江戸時代前期で松長陣屋代官三好義観の寄進に依ると。本堂。『蓮窓寺』は、寛文2年(1622)沼津市下河原の妙海寺20世修善院日根上人による開創で、境内には七面堂がある。本堂には元禄2年(1689)の釈尊涅槃図があると。扁額には『蓮窓寺』と。旧東海道を隔てて蓮窓寺の北側にある『神明塚古墳』へ。住宅街の細い道を抜けた先に南面して墳丘への石段があり、墳丘の上には『神明宮』が。その左(西側)方向。社が建つのが後円部で、西側に前方部がついている。『神明宮』説明板。創紀は元和2年(1616)3月と伝えられ、3~4世紀に築造された古墳の頂きにある。以来380年鎮守社として氏子、地域住民の崇敬を集めてきた。その間幾多の風雪にあうも区民一帯で保存に努めてきた。明和9年(1772)老朽化により再建、大正8年1月隣境失火により類焼、灰燼となり直ちに再建に着手、同10月現在の社屋が落成した。以来、維持補修に努力し今日に至っていると。墳丘の上の『神明宮』。『神明塚』と刻まれた石碑。『神明塚古墳』。「この古墳の発見は戦後まもなくのことで、昭和23年には前方後円墳であることが確認されました。その際、後円部頂に神明社が鎮座することから、神明塚古墳と呼ばれるようになりました。昭和56年、地元自治会から保存整備の要望書が提出されたことで、保存整備に向けた測量調査及び発掘調査が実施されました。また、平成15年には、沼津市史編纂に伴う再発掘調査も行われています。その結果、この古墳の全長は約53m、後円部径約37mであることが判明し、また後円部と比べて前方部が短い形をした、古墳時代の中でも比較的古いと考えられる墳丘形態をもつことがわかりました。埋葬施設としては後円部頂で粘土槨の一部が確認されており、箱形木棺の使用が想定されています。神明塚古墳は、出土した土器の年代から古墳時代前期(3世紀~4世紀)に築造されたと考えられます。沼津市には3基の前方後円墳が残されていますが、この年代はそれらの中でもとりわけ古い年代であるといえます。」 その7 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・静岡県沼津市の浅間寺交差点を左折する。50m程進むと左手のあったのが『臨済宗 醫王山 東方寺(とうぼうじ)』。山門。山号は「醫王山」とあるが、 本尊が薬師如来である為か、400年前より「清明丹東方寺目薬」と称する漢方薬が伝えられ、切疵、胃潰瘍、云々塗ってよし、飲んでよしの萬病に効能ある薬が製造された。寺の運営もこの「目薬」の売り上げにての時代あり。このことにより幕府より「薬師田」の賞典を受けたと。昭和50年頃をもって新薬の多出、薬事法の改正、(現行法は昭和35年制定)又、処方の薬物高騰により、流れに添いて製造を休止せりと。本堂。創建は不詳だが、明暦元年(1655)天岫雲(てんしゅううん)和尚再興、依って天岫雲和尚を開山第1世とすと。本尊に東方薬師瑠璃光如来〔伝、天竺毘首竭摩天(てんじくびしゅかつまてん)作〕を祀る事により創建時は真言宗と思われる。後、鎌倉圓覚寺派となり、更に興津清見寺末となり、妙心寺派に帰属すと。『二?花庵雪翁居士之墓』。境内には天福壇/庫裡があったが狛獅子の替わりに沖縄の「シーサー」が。沖縄戦没者舎利塔があり、沖縄戦争の際に沖縄で亡くなった方をお祀りしていることから「シーサー」が鎮座しているようです。『三界萬霊碑』。そして東方寺の前の千本浜道の対面にあったのが『乗運寺(じょううんじ)』。山門。美しい境内の奥にあるのが本堂。沼津の松原を愛し移住した歌人・若山牧水の菩提寺としても知られていると。『鐘楼』。境内の石仏、石碑。『若山牧水(妻・喜志子、長男・旅人)の墓』。墓前の歌碑は、喜志子十三回忌の法要の際に、長男旅人によって建立されたものと。左手に牧水、右手に妻・喜志子の作の短歌が詠まれています。「聞きゐつつたのしくもあるか松風の今は夢ともうつつともきこゆ 牧水」「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ 喜志子」「牧水略譜明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷村字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じくマキの長男として生まれ繁と命名さる 長じて十八歳のとき文学を志望して牧水と号す 故郷の母マキ並に庭前の坪谷川への追憶に由來せるものなり明治四十五年二十七歳に到り太田喜志子と結婚以后九年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二女を挙げ東京に於てその短歌の作風に一家を成せしも大正九年に到り年來の希望たりし田家の生活を志して沼津在楊原村上香貫に居を撰み次で大正十三年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して終生こゝを離れず昭和三年に到る その年七月よりにはかに健康すぐれず九月上旬より臥床仝月十七日永眠す 時に年四十三歳なりき その一生は芳醇純乎としてたゞ自然の憧憬と讃美に終始し 生を享けて四十年余その途をあやまたざりしもの 此処にその三十三年忌を迎えて之を誌す」と。本堂。創建は天文6年(1537年)、浄土宗京都知恩院の末寺。北条と武田との争いで千本松原が切り払われ潮風の害に苦しんでいる土地の人々を見て、増誉(ぞうよ)上人がお経を唱えながら植林をして松原を復旧したと伝わる。『増誉(ぞうよ)上人像』。永代橋通りを進むと左手の果物屋には三角スイカそして四角スイカが。右手にあったのが幸町にある『大聖寺』。付近には真楽寺や永明寺、乗運寺、東方寺があり、古くは正見寺や本光寺もあって寺町を形成していたのだと。東柏原沼津線(県道163号線)を進むと左手にあったのが『是より南一町半六代松』の石碑。住宅街を進み突き当りを右に折れると左手に平家物語ゆかりの地「六代松碑」が。この六大松の碑は、公園とも墓地ともつかない場所に建てられていたが、実はここはこの後訪ねた妙傳寺の墓域であるのだと。六代とは、平清盛の孫である三位中将・平維盛の遺児である平家六代目を継ぐ御曹司のこと。源頼朝の家来・北条時政により捕らえられ、千本松原で処刑される際、これを知った源頼朝の政治顧問であった文覚上人の命乞いにより赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり処刑された。この処刑で平家の血筋は途絶えたのであった。従者が六代の首を千本松原の松の根元に埋め、弔ったと伝えられると。石碑と説明板。「六代の松碑(平家物語ゆかりの地) 六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、謀せられ、その首を共の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭(としやす)らが文化三年(1806)に完成した『東海道分間延絵図』にも、千本松原の中にある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政九年(1797)に板行し好評を博した『東海道名所絵図』には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保十二年(1842)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。」と。『献木 六代松』と刻まれた石柱。右手には忠魂塔も。次に『法華宗 妙傳寺』を訪ねた。山門。「妙傳寺」と書かれた扁額。本堂。法華宗で、大本山光長寺の末寺である。慶長9年(1604年)の創建で、開基は日典という。日典は俗名を市川七郎左衛門家吉といった。 当時の三枚橋城主大久保治右衛門忠佐はあつく法華宗に帰依し、自ら当寺を大久保家の菩提寺と定め、慶長9年12月19日、寺領として田畑2反5畝18歩を寄進した。慶長10年には本堂・庫裡が建造された。境内に忠佐の墓碑が存すると。見事な本堂の彫刻。法華宗 光栄山 妙傳寺(こうえいざん みょうでんじ)本堂の扁額。『大久保忠佐墓』。天文6年(1537年)、大久保忠員の次男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。父や兄・忠世と共に松平広忠、家康に仕えた。武勇に優れ、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務めている。天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げた。天正18年(1590年)に家康が関東に移ると、上総国茂原において5,000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従ったが、真田昌幸・信繁親子に足止めされている。慶長6年(1601年)、家康から駿河沼津2万石を与えられて大名となった。居城は沼津城(三枚橋城)。嫡男・忠兼は早世していたため、当時幕府旗本であった八弟の忠教を養子にして家を相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功ではない」として固辞した。慶長18年(1613年)9月27日に忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となったと。そして新中川に架かる『間門橋(まかど橋)』を渡る。新中川。新中川は愛鷹山(標高1,187m)にその源を発し、松沢川、谷戸川、中沢川、西久保川、西川の支川と合流して駿河湾に注いでいる。昭和10年代より沼津市が農業排水路として整備を始め、昭和25年に完成した。昭和46年沼津市から県に移管されて、二級河川新中川となったと。蘭漢堂は鍼灸院。「和漢法 排泄の醫術」と。お世話にならないようにと。「間 門昔、この地南の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、首の後ろに「天竺摩伽陀国」と彫られていた。村人は、堂を建て胴体手足を造り像にして安置し、お祀りしたとの言い伝えから地名が付けられたといわれる。また、アイヌ語では「マカ」とは開く「ト」とは湖水を意味するが、間門(マカド)の地名は、往古の地形なり、土地の役割に由来しているのではないかという説もある。」と。西間門交差点で旧国一通り(県道380号)に合流。更に進むと右手に下半分が無くなっている『沼津藩領境榜示』が。「安永六年(1777)水野出羽守忠友 は、二万石の大名として十代将軍徳川家治 から沼津に城地を賜り、築城を命ぜられました。翌安永七年、韮山代官江川太郎左衛門 から城地を引きつぎ、沼津藩創立と共にこの榜示杭を設置しました。牓示 とは江戸時代、天領や私領の入り組んでいるところでは、人々に領域の所在をはっきり知らせる必要があり、そのため街道の傍らに立てたものです。この榜示杭は当時沼津藩の西境に立てられたものですが、明治末期頃に折られて、下半分が失われています。下石田には「従是西沼津領」と刻まれた高さ二、一二メートルの榜示杭が完全な形で現存していますので、「従是東沼受領」と判断できます。石質、字体、寸法等すべて同一ですので、同時に立てられたものであると考えられます。」と。その先にあったのが『間門八幡宮』。この八幡神社だが、ごく平凡な神社のように見えた。がここの由来書きがすごいもので3mくらいあるもので気合いが入っているが、神社自体は小さく質素。手水舎。拝殿。この八幡様は武田氏が沼津を支配した時代に甲斐国から移住してきた人たちが連れてきた八幡様であると。ご祭神は八幡様ですから誉田別命(ほむたわけのみこと)。明治に金山神社、神明神社が合祀されたと。旧東海道・間門八幡前を原宿を目指して歩き続ける。夢舞台東海道道標『沼津藩領境』。 その6 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧国一通り(県道380号線)更に進むと前方に三園橋の歩道橋が。この歩道橋を渡り反対側へ向かう。歩道橋から歩いて来た道を見る。こちらは、これから向かう沼津城址方面。旧東海道は三枚橋を過ぎると左手のやや細い道に入る。沼津市内で唯一江戸時代と同じ道幅で残っているのがこの『川廓通り』であると。旧東海道 川廓通り と書かれた石碑が。通りの出入り口には碑が設置してあり石畳風に舗装されていた。「川廓(かわぐるわ)の由来川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外廓(ガイカク)に接した狭い町であった。「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城廓に由来して名付けられたものと考えられると。」この辺りは、かつては三枚橋城の中で、『水神社』は曲輪の守護神であり、狩野川洪水の守り神であったそうだ。『川廓通り』「城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画をなす「くるわ(曲輪・郭・廓)」が由来となった「川廓通り」は、その名のとおり東側は狩野川に面し、背後は沼津城(元三枚橋城)の外廓にあたる東海道として形成されてきた。川廓通りは、狩野川に舟運が開かれていた頃の舟着き場に隣接するなど、物資や人々の交流が盛んであり、江戸時代の宿場町、城下町であった沼津の中心的な地域に位置していました。現在の川廓通りは当時の東海道沼津宿の面影を残そうと昭和30年代まであったとされる石垣をイメージしれ整備されました。」『末廣五十三次 一雄斎國輝画 沼津』富士山を背景に、中央に沼津城の三重櫓、二重櫓、塀を手前に宿場の家並みに沿って、長州征伐のため上洛する幕府軍の姿が描かれている。行進しているのは、現在の川廓通りと思われます。『東海道分間延絵図』沼津城と沼津宿の家並みが描かれている。『静岡藩時代沼津略図』。『旧川廊町』。『旧川廓町昭和初期の路面(チンチン)電車の写真が。この地の北側、旧国道1号に路面電車が通っていた。この写真は大手町交差点付近であると。道なりに進むとさんさん通りに出る。明るくにぎやかになった通りを右折すると旧東海道・上土町。三枚橋城の石垣跡。アゴラ沼津(静岡銀行沼津支店)の地下から発見された石垣が復元されモニュメントとして使われているのだと。『三枚橋城石垣』。アゴラ沼津(静岡銀行沼津支店)の地下から発見された石垣が写真で紹介されていた。そして川口佛具店の観音像?。そして大手町交差点を右折すると右手にあったのが沼津城(三枚橋城)跡。中央公園になっており奥には狩野川に架かる「あゆみ橋」が。『沼津城本丸址』。周囲の石は、付近で工事の際に発見された、三枚橋城の石垣に使われていたもの。「沼津城本丸跡この中央公園は、三枚橋城 と沼津城 の本丸跡に位置しています。三枚橋城は、天正七年(一五七九)、武田信玄 の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ケ原合戦後の慶長六年(一六〇一)には大久保治右衛門忠佐 が城主になりました。しかし、同十八年(一六一三)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌十九年、三枚橋城は廃城となりました。以後一六〇余年の間当地に城はありませんでしたが、安永六年(一七七七)、後に老中となる水野忠友 が沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。この沼津城は三枚橋城と比べ小さなものでした。慶応四年(一八六八)水野氏の菊間(現 千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われましたが、明治四年(一八七一)の兵学校廃止後払い下げられ、姿を消しました。この石碑の周囲の石は、昭和四十八年に上土町の静岡相互銀行(現 静岡中央銀行)新築工事の際に地中から発掘されたもので、三枚橋城当時の石垣に使われていたものです。」『狩野川周辺案内図』河口付近が大きく蛇行しているのであった。狩野川は伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注ぐ。静岡県内の大河川で北流するものは本川だけであると。狩野川が伊豆半島の天城山から北に流れて、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注いでいる事を、今更ながら今回初めて知ったのであった。「あゆみ橋」の上から、狩野川の下流を見る。沼津城址を後にし再び大手町交差点まで戻り左折し南へ下ると、沼津リバーサイドホテルの駐車場前に、またもや三枚橋城外堀石垣の復元を発見。縄張図を見ると、このあたりは外堀の外側あたり。説明板の左側の石には「三枚橋城 外堀跡」と刻まれていた。そして中央には説明プレートが。しかし寝転んで読めと言うのか??武田勝頼が築いたという沼津の三枚橋城外濠石垣。三枚橋城は狩野川下流にあった。江戸時代に三枚橋城を利用して築いたという沼津城よりも大規模だったと。さんさん通りを更に南下する。さんさん通り沿いには、様々な彫刻が点在して展示されていた。「仲間」というM.ISHIKAWA氏の1997年の作品と。きつねの像。狩野川沿いには稲荷神社があり、武田勝頼が三枚橋城を築城した折に稲荷天神を祀ったと。「燦々(さんさん)」(1997)。太陽の光を浴びて活動する人を表現しているのだと。「燦々」は沼津市のキャッチフレーズになっているのだと。「通横町」のプレート。「この地は、江戸時代、沼津宿の問屋場が置かれ、人馬継立てでにぎわった所である。問屋場の裏には白壁瓦ぶきの大きな土蔵が建っていたという。南北に走る上土町の通りと本町の通りとを、東西に横に通している町の意から付けられた町名といわれている。」写真は大正時代の通横町であると。「沼津宿」の夢舞台東海道道標。「高田本陣跡」。「中村脇本陣跡」「清水本陣跡」この先には「間宮本陣跡」の石柱もあったが、この後に右折する為に手前で道路渡ってしまった。この後交差点を右折し永代橋通りへ。右手にあったのが「丸子神社 浅間神社」。鳥居扁額や拝殿扁額には、左に浅間神社、右に丸子神社の名が記されており、賽銭箱にも、左に桜紋、右に稲紋が付けられていたので、多分、左が浅間神社、右が丸子神社なのであろう。「丸子神社 浅間神社」の拝殿が正面に。大きな燈籠、まだ新しいこま犬1対。大正期と大戦時の2度社殿は焼失していて現社殿は昭和24年に再建された1年先輩の鳥居とのこと。重厚な屋根の手水舎。拝殿前の提灯には左側が浅間神社、右側が丸子神社。拝殿一扉二社の中に、丸子神社の御祭神・金山彦尊、浅間神社の御祭神・木花開耶姫命が祀られているとのこと。拝殿の屋根の模様は神社の屋根の如くであるが・・・この後ろの本殿をイメージ??扁額も共有。拝殿・浅間神社の左側の祭儀殿。昭和天皇御在位50年の記念事業として建立したと。「浅間神社は第五十代桓武天皇の御代延暦二十年坂上田村麻呂が東征凱旋のおり、狩野川の右岸(現 沼津市宮町)に始めて奉斎したといわれており、その後第八十三代土御門天皇建仁三年に現在地浅間町に御遷座いたされました。当神社は参勤交代の折、諸大名の多くが参拝して幣帛を献じ武運長久・道中安全を祈願された御由緒があり、また古くから縁結び・安産の神として地域から厚く信仰されております。御例祭は毎年九月十五日に行なわれ、遠近にも浅間祭として有名であります。」拝殿・丸子神社の右側の神輿殿。神社の昇格を記念されての建立らしい。「丸子神社は沼津市内では由緒ある古い神社であります。当神社は第六十代醍醐天皇の延喜式神名帳に所載する『式内神社』であり第十代崇神天皇の御代に創建されたといわれております。旧社地は駿河国沼津堂敷免(現 沼津市丸子町)に始めて奉斎鎮座されましたが、明治十年十二月に現在の浅間神社に御遷座いたされ一扉二社となったのであります。当神社は第六十二代村上天皇の天暦年間には天下太平御祈願所、第九十六代御醍醐天皇の建武二年には武運長久永代祈祷所を仰付けられ、くだって明治元年十月七日には明治天皇が当地を御通輦のみぎり官幣使を御差遣になされたご由緒があります。」 その5 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次黄瀬川を渡り沼津市に入り旧東海道から左手の路地を入り、『八幡(はちまん)神社』を訪ねる。拝殿。末社であろうか。再び旧東海道に戻り、歩いて来た方向を振り返る。次に右手にあったのが『潮音寺(ちょうおんじ)』。門前の石碑には『亀鶴観世音菩薩』と。寺標には『臨済宗 妙心寺派 潮音禅寺』と。『潮音寺』。「弘仁年中、弘法大師伊豆修善寺に御修行の砌、この地を通りたもう処感応ありて聖観音菩薩を刻み、一宇を建立安置したもう。祈願するもの利益をこうむる事恰も響き音に応ずるが如く、有験の霊像なり。黄瀬川村に小野善司左エ門正氏なる長者あり、一子なきを悲しみ祈願、満願一子を授く、亀鶴姫と名付く。7歳の春両親に死別、18歳の時源頼朝公富士の牧狩の宴に再度召されたが応ぜず、この世を憂きことと思い、黄瀬川の水上、百澤の瀧のほとりに立ち、『み佛の深きめぐみぞ頼みたる 身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも』と一首の歌を残して飛和泉に身を沈む。この時建久4年5月27日なり。姫は駿河の三美女と云われ賢女にして亀鶴草紙などを残す。小野氏の遺財で碑を建て亀鶴観音堂を建立、明治12年廃寺、当山に移転安置、その霊を弔う。」と。『亀鶴姫之碑』。ここには遊女「亀鶴」の伝説が残っていて、「亀鶴観音」の名で知られている。亀鶴はの長者の子として生まれて、不幸にも父母と早く死に別れ、頼朝が富士の巻狩りの際、その美貌を認めて招こうとしたが、一生独身を貫き通すという誓いを立てていたため、滝に身を投じて死んでしでしまったと伝わっていると。境内には多くの石碑、石仏が。『高王白衣観音経』と刻まれた石碑。乳飲み子を抱く顔はマリア観音?聖母子?の如くに。潮音寺 『本堂』。『東海山』と書かれた扁額。『観音堂』。観音堂は昭和20年の戦災で消失、平成3年800年忌に再建。『六地蔵』。亀鶴姫之碑後ろ側、屋根の下にたくさんの菩薩様が並んでいた。『傍示石(ほうじせき)とは 杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。「従是西 沼津領」と。潮音寺のすぐ先の駐車場に、従是西沼津領と書かれた傍示石が建っていた。ここは現在、沼津市大岡字下石田と字木瀬川の境界だが、江戸時代には水野出羽守忠友が城主であった頃の沼津領東端を示している。水野出羽守は安永6年(1777)に沼津藩主になっている。この時代、伊豆は天領で、韮山に代官屋敷跡である江川邸が残っている。この江川代官が治める天領と沼津領の境界だったそうだ(水野出羽守忠友は、10代将軍徳川家治の命により、代官江川太郎左衛門英征支配の天領の一部を引き継いでいる)。広重の浮世絵にもあるように、この傍示石も初めは木製の傍示杭だったそうで、幕末になって作り変えられたという。江戸時代の古地図にも石柱として描かれている。傍示石は3面に同じ文字が刻まれており、沼津領に入ってくる人が見えるように建っていたそうだ。つまり、文字のない面を西側の領内に向けていたのだ。元文5年(1740)の「村明細帳」では、当院所在の久保には29軒の農家があったという。当院はまさに沼津領の端っこだったのである。「大久保忠佐の死後、1614年に三枚城は廃城になった。その後沼津は天領となり、韮山の代官・江川太郎左衛門の支配下にあった。初代沼津潘主・水野出羽守忠友は1777年、将軍家治の御側用人になり加増されて2万石の大名になった。この時忠友は沼津の地に所領(1万2千石)を与えられ、将軍から築城を命ぜられている。翌1778年2月8日に「従是西 沼津領」の杭が韮山代官所から運ばれ、東海道沿いの黄瀬川村と下石田村の境界に建てられ沼津藩領が確定した」と。赤の部分が、天明5年(1785年)の沼津藩領であると。更に狩野川の右の旧東海道・沼津市大岡地区を進む。沼津市の汚水マンホールの蓋。富士山・愛鷹山の風景と市の木クロマツと、市の花ハマユウをデザイン。 下部に「ぬまづ」「げすい」の文字。カラーのマンホール蓋を探したが発見できず。歴史マップ 沼津市大岡(江戸時代:下石田村)。このあたりは富士隠れ坂という長い下り坂で, 掘り割りになっていたため富士山が見えなくなってしまうことからついたという。歴史マップの横には『東海道 駿府へ十五里』の碑が。県道380号線から旧東海道への分岐点にあったのは、赤い屋根の小さな社と大きな石。しかし案内板等はなし。狩野川のコンクリート製の巨大堤防の下を進む。左手の狩野川のコンクリート製の堤防の下、黒瀬橋の袂にあったのが『平蔵地蔵尊』。歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」の中に、平作・呉服屋十兵衛・お米の織りなす悲劇の場面がある。「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つであると。『平作地蔵尊(へいさくじぞうそん)』。「日本三大仇討の一日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。 〈沼津千本の場面〉平作決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。」説明板の絵画。平作地蔵尊の横の石仏・石碑。ここには静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標があった。『沼津一里塚跡』。まだ新しそうな一里塚。「この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺および宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内に作るものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これらも現存していません。ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに植えられています。」奉納 山王前自治会と刻まれた小さな石の社が。『玉砥石(たまといし)』。古墳時代のものであると。静岡県指定考古資料。高さ−大砥石189cm・小砥石112cm。「玉砥石は、今から千二、三百年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられています。柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。承平年間(931〜938)に書かれた和名類聚抄という書物には、駿河国駿河郡(現在の駿東郡)に玉造郷の名が見えます。この玉造郷は、一説では香貫地区一帯であったとされています。この説を支える根拠としては、狩野川対岸にある玉造神社、玉砥石が使われていたと考えられる時代の大集落である御幸町遺跡や藤井原遺跡があります。また、この付近には古墳が多く、各種の玉類を数多く出土しています。しかし、香貫地区一帯が玉造郷であるという確かな証拠は、今のところ得られていません。この玉砥石がいつから東海道の日枝神社参道脇のこの地にあるかは明らかでありませんが、天明6年(1786年)尾張藩士高力猿猴庵による見聞図集にはそれらしい大石が描かれています。玉砥石は静岡県下では他に発見されておらず、貴重なものであることは確かであり、静岡県指定の考古資料となっています。」そして『沼津日枝神社(山王宮)』を訪ねた。山王通りの先に大きな表参道大鳥居が。配置案内図。境内に入ると石造りの二ノ鳥居が。『松尾芭蕉の句碑』。『都出て 神も旅寝の 日数哉(かな)』。この句は元禄4年(1691)の10月に沼津宿で詠まれたものであると。手水舎。拝殿。「平安の昔、嘉保2年に美濃守「源氏綱」と延暦寺の衆徒並びに山王の神主との間に、葛藤を起こした時、関白の二条師通に訴えしが、之を拒絶したことにより、山王の神威が現れ関白は病気を患いて亡くなってしまう。母である北政所は恐れをなして領地であった大岡庄に日吉山王の御神霊を分祀して八町八反の田をも寄進して供料に充て謝罪の礼を効されたのが起源であり、これを記した「山王霊験記」は昭和2年国宝に指定されたのち昭和25年重要文化財として現在に至る」 と。『日枝神社』と書かれた扁額。平安時代からの神社で山王社とも称され、人々には山王さんとして親しまれてきたと。『高尾山穂見神社』。『日枝天満宮』。天満宮の例の牛が。『社務所』。『御神木 しいの木』。この辺りは古くから「しいの杜」「くすのきの杜」と言われ、中でもこの「しいの木」は樹齢450年と推定され、氏子を見守り続けているのだと。 その4 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を黄瀬川に向かって進むと、前方右に『対面石 頼朝 八幡神社』の文字が見えて来た。右手に『郷社 八幡神社』入口の石の正面大鳥居が。一段高い参道を進む。桜のシーズンに歩きたい参道であった。八幡神社 中鳥居。その先に石の太鼓橋が。八幡神社境内案内図。左手に白旗社の朱の鳥居が。『手水舎』。手水舎横の境内社。拝殿。1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定、10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃ち敗走させた。翌日には、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしている。その時、頼朝によって勧請されたのが、この八幡神社だともいわれているが、創建年は定かではない。祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。拝殿横にある『対面石』。「治承四年(一一八〇年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、 鎌倉にあった源頼朝 はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義經と対面し、 源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。 この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石 を対面石 という。 またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじって かたわらに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は 幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。」と。左の大きい方が頼朝、小さい方が義経の座った石といわれているのだと。前述の『ねじり柿 』。拝殿内。『御末社』。社務所に立ち寄る。御朱印を頂きました。境内の古木、ブナ科の『すだ椎(すだじい)』。関東地方より西に生えて暖地の森を代表する常緑高木。花は5~6月に咲き、ドングリは翌年の晩秋。別名「イタジイ」。長沢中交差点を横切り旧東海道(県道145号線)を更に進む。前方に『長沢松並木』が。松並木は江戸時代、五街道をはじめとして主要な街道の両側に植えられた。慶長9年(1604)、江戸幕府二代将軍の徳川秀忠が諸国の街道の大改修を行った際、両側に松や杉を植えさせたと伝えられている。この長沢の松並木も当時のもの。街道に風情を添え、夏は緑陰をつくって旅人を護り、冬は積雪を防ぐことができたと。街道沿の松が当時の東海道を偲ぶことのできる数少ない史跡。静岡県の道票 夢舞台東海道道標清水町 長沢 松並木三島宿まで17町、沼津宿まで21町。そして黄瀬川の手前の右側にあったのが『智方(ちかた)神社』。「智方神社の由来建武二(1335)年七月二十三日護良親王弑せられし時、御側に侍し宮入南の方(藤原保藤の女)宮の御首を櫃に収め、御他界の情況を中央(南朝)に報ぜんがため、従者を伴い足柄街道を追手の目を避けて此の地(*駿東郡清水町長沢、当時は伊豆の国)黄瀬川の辺まで到着せり。時に八月一日(八朔)黄瀬川の水漲り渡渉すること困難なりしかは、暫時河岸に休息なされ御櫃を見るに、長の道中を運び奉る事の困難なる状を拝し、止むなく河岸近く古びたる小祠の辺に地を求め、宮の御首級を葬り、楠の一樹を植え以て墓印をなす。(写真:「後醍醐天皇皇子大塔宮護良親王御陵」)時に北条時行は家令畠山国清の手兵を併せ五千の兵を挙げ南朝に属せし延元二(1337:南朝の元号、北朝では、建武4)年まで伊豆の藩主たりし間に御首級頃を石祠となし、更に神社となし現在に至る。当時、足利氏の詮索を避けんがため、わざと御祭神の名を秘し神前下馬の礼を諷示するため、白馬の伝説を後世に伝へしものなり。白馬の伝説を考察するに、白馬即ち白騎なり。白旗は源氏なり。足利氏は源氏なり。親王の霊廟を建立せる北条時行は平氏なり。御祭神大塔の宮と共に白旗を忌むは当然の事なり。邑人、子々孫々世の率遷にも絶つことなく、密に此の口伝を固く守り続け、御祭神の文献存せざるも追求する事なく(追求しても足利・徳川と源氏の世続く)木彫御首級の御神体と白馬像、御首級墳を大切に保存し今日に至り、御祭神漸く明確となり承認を得たるは御神威の程愈々広大なりと言うべきなり。慈に六百二十五年の星霜を経貴重なる史実を得たるは真に喜ばしき限なり」と。境内の左側にあったのが『川施餓鬼地蔵尊像』。境内入口西側の石仏群。左から、蛇塚、石仏像、観音像、正観世音菩薩塔、馬頭観音(3)、馬頭観音(2)、庚申塔、馬頭観音。一番左にあったのが『蛇塚』。以前は、これらの石碑等は黄瀬川の橋の袂にあったが、黄瀬川の改修工事の際に川辺から智方神社に移されたのだと氏子のオジサンから。拝殿。祭神は、主神は大塔宮護良親王、副神が菊理媛命、予母都道守神、藤原千方。創建年代は不明ですが、明暦3丁酉年(1657)11月、火災のため旧記録焼失。貞享元年(1684)に造営したが、その後大破したため、寛延3年(1750)3月に本社を普請したと記録があると。正面からズームで。そして、本殿横で10数人の人だかりがあり呼び止められる。山之神の祭り準備で氏子のオジサン達が集まり、おしるこ、御神酒を飲んで打ち上げ中でその宴席に招かれ、約15分程度談笑しながら御馳走になったのであった。穂見神社境内にある清水町指定文化財『大楠』。境内社のひとつである穂見神社の御神木となっているクスノキは、町内最古(推定樹齢700年)で最大のクスノキであり、町指定文化財(天然記念物)となっている。「清水町で最も大きい樹木です。目通り7m、樹高28m、根周り18.8mある。足利方に敗れた後醍醐天皇の皇子護良親王は、建武2年(1335)鎌倉の土牢に幽閉されて殺された。お側に仕えていた南の方は、密かにその御首を持ちかえる途中黄瀬川の洪水に遭いやむなくこの地に葬った。その目印にクスノキを植え、白馬伝説をつけたと伝えられている。また、有名な小説家井上靖は、沼津中学校への通学時に、この樹の下で休息したといわれています。」と。境内の『穂見神社』。『後醍醐天皇皇子大塔宮護良親王御陵』。ズームで。末社。左から、熊野社、北斗社、稲荷社、厳島社、神明社、天神社、金山社、辨天社、床浦社。氏子たちの集まりはこの『山之神神社』の供養のためか。様々な御供物が。最後に再び智方神社の標柱とその後ろの由来書きを。そして黄瀬川に架かる『黄瀬川橋』を渡る。黄瀬川の上流側を見る。残念がら富士山の頂きは雲の隠れていた。ここから6~700mで狩野川に合流する黄瀬川。黄瀬川は御殿場市に源を発し、川底には溶岩の流れた跡が確認できる河川であると。川面に映る我が影を自撮り。 その3 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(145号線)を更に進むと前方に小さな橋・境川橋が。そして橋を渡り、右手奥にあったのが『千貫樋 (せんがんどい)』。境川橋の欄干には、清水町によって千貫樋に関する説明が書かれた掲示板が設置されていた。判りにくいが、枇杷の木の後ろにあったのが『千貫樋 』。『千貫樋 』は、清水町と三島市との境に位置し、楽寿園小浜池の湧水を、清水町にかんがい用水として送水するために、境川に架設されている掛樋。境川の上に架かっている高架橋のようなものなのであった。判りにくいので横に廻る。現在の『千貫樋 』は鉄筋コンクリート製だが、樋が、大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊する以前は、木造で、全長45.0m、深さ0.45m、幅1.8m、高さ4.5mであったと。なお、再建された現在の樋は、全長42.7m、深さ0.45m、幅1.9m、高さ4.2mで、従来のものと、ほぼ同規模であると。私の上記写真だけでは判りにくいので、【静岡県のHP】⬅リンク を紹介します。「 伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。創設については諸説があるが、天文二十四年(1555年)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。千貫樋の樋名については1.架設が巧みなため銭千貫に価する。2.この用水が高千貫の田地を潤している。3.建設費が銭千貫を費した。等が、命名の由来と伝えられている。 」『千貫樋 』の交差点を更に進む。右手の清水町新宿児童公園の道路沿いにあったのが『常夜灯』。下の裾の部分には「常夜燈」、「富士浅間宮」の文字が。「建立は弘化3年(1846)で両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれています。いずれも日を鎮める神様せす。名主はじめ村人が防災の願いをこめて造ったものです。防災、村内安全とともに東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたことでしょう。」ここには静岡ではお馴染みの夢舞台東海道道標「清水町 新宿」も。沼津宿まで1里、三島宿まで2町の文字が消えかかっていたが。この看板は??昔の案内板なのであろうか?駿東郡清水町の汚水マンホールの蓋 。柿田川、旧柿田橋(めがね橋)、富士山をデザインし下部に「しみずちょうおすい」の文字が。 更に500m近く進むと左手にあったのが『玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚』。「江戸から二十九里(一一三・九km)を示す道標です。 一里塚は、慶長九年(一六〇四)江戸幕府によって五街道(東海・中仙・日光・甲州・奥州)に作られました。 それは、一里(三九二七m)ごと、道の両側に五間(約九m)四方に十尺(三・〇三m)の盛土をし「えのき」あるいは「松」を植え、旅人に里程を知らせる他便宜を計りました。 宝池寺一里塚も同時に作られましたが、昭和六十年(一九八五)に改修されています。 この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しています。 付記 塚原一里塚は二十八里 山王さんのものは三十里を示す。」宝池寺一里塚と対になっていた。この玉井寺一里塚は、昔の姿をそのまま残しているのだと。旧東海道の反対側には『三界萬霊等』と刻まれた石柱が。“三界”とは、欲界・色界・無色界、即ち、仏の世界(浄土)の下に有る全ての世界の事。これは、臨済宗中興の祖と呼ばれる江戸時代の僧・白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の書だと。白隠の遺墨「白隠慧鶴(1685~1768)は、江戸時代中期に「駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」といわれ、解りやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧です。玉井寺に残された白隠の遺墨は、三界萬霊等二点と山号「金龍山」及び寺号「玉井寺」等であり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で、大変貴重なものなのです。」金龍山 玉井禅師。玉井寺は昭和50年代まで荒廃に任せるままであったという。昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されていると。百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。 元亀2年(1571年)創建という古寺。正面は「あかずの門」。「金龍山」と書かれた扁額。玉井寺 『本堂。』1569年(永禄12年)心寂祖印西堂禅師で、元伏見の金山に創建したが、円覚寺派であった。1602年(慶長7年)現在地に移動し、1657年(明暦3年)瑞英現祥和尚が妙心寺派(興津清見寺末)に変更し、1713年(享保2年)殿堂を再建した。開基は、七軒百姓、本尊は釈迦如来。前述のごとく白隠の書、「金龍山」「三界萬霊搭」があり、さらに、山岡鉄舟の書が飾られていると。『観音堂』があり、秘仏が安置されていると。観音堂の「観世音」と書かれた扁額。「南無観世音菩薩」と刻まれた石碑西国三十三所観世音菩薩の石碑。歴史を感じさせる石灯籠や石祠も。境内には、金山権現、秋葉明神、天満宮が安置されていた。脇門向かい側にあったのが臨済宗 妙心寺派 宝池寺。『宝池寺一里塚』。向かい側の玉井寺(ぎょくせんじ)一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれる。江戸から29里目になる。長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたため、昭和60年多くの篤志により原寸どおり復元されたと。「一六〇四年(慶長九)江戸時代、一里を三十六町(三九二七m)と定め、江戸日本橋を 起点とし、一里ごとに道の両側に塚を築かせ道標としました。 向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に「伏見一里塚」といわれ、江戸日本橋から 二十九番目にあたります。 長い年月、風雨にさらされ原型が損なわれたので、昭和六十年多くの篤志により原寸どおり 復元されました。 また、宝池寺側には立場があり、人夫が駕籠などを停めて休憩できる場であったと 伝えられています。」山門。六地蔵と後ろに延命地蔵。本堂。百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。元亀二年(1571)の創建。『聯芳塔』。『瑠璃殿』。境内の大きなテーダマツ。テーダマツ「北アメリカ東南部の低地に生える常緑高木。3葉松の長さは25㎝、球果は長さ15㎝になる。生長が早く潮風に強い。」宝池寺前から玉井寺を見る。山門の横にあり、旧東海道を見ている仏像。更に西に進み八幡の交差点を直進する。次に訪ねたのは臨済宗妙心寺派の『法泉寺(ほうせんじ)』。山門。境内の苔庭も美しかった。草創は建長の頃、鎌倉建長寺末、永禄年間(1558~1569年)戦の災いに巻き込まれ、旧記等残らず焼失し、開祖年暦不詳。明暦年中(1655~1657年)鉄州首座堂宇を回復して妙心寺末となる。その後、天和年間(1681~1683年)下野国宇都宮城主、戸田山城守の女之を再興し同所英岩寺の住職 生鉄大和尚を請じて中興開祖となす。扁額には「佛慈山」と。「うらみ つらみ ねたみ そねみ いやみ ひがみ そして やっかみ 人を翻弄する七つの性はいずれも自他の比較に由来する。 他人と較べる中でしか事故を見ることの出来ない人の宿痾であり業である」と。旧街道に戻り更に西に進む。次に『曹洞宗 秀源寺(しゅうげんんじ)』を訪ねる。山門。本堂。境内の石仏。扁額「長?深山」。そして『臨済宗 東光寺』へ。山門。本堂。臨済宗建長寺派。境内の六地蔵。 その2 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『時の鐘』。三石神社の境内にある鐘は、『時の鐘』と言われ、江戸時代から旅人や三島の人に親しまれて来た。最初は寛永年間(1624~1643)に鋳造(ちゅうぞう)され、その後何回か改鋳された。特に大きな鐘が宝暦11年(1761)に川原ヶ谷の鋳物師(いものし)沼上忠左衛門祐重(すけしげ)によって造られ、三石神社境内に設置され三島八景の1つにも数えられていたと。本陣跡を過ぎて源兵衛橋を渡ると左手の源兵衛川沿いにあったのが『三石神社』。豊受姫大神(とようけひめのおおみかみ)が祀られていて、大中島町の氏神(うじがみ)。昔、源兵衛川の川沿いに三石(みついし)という巨石があり、その上に社殿を建て稲荷社を祀り、三石神社となった。古記によれば天明年間(1781~1789)に、隣村の新宿(しんしゅく)の出火で大中島町(現、本町)や三島宿の大半が類焼したときに、火防(ひぶせ)の神も併せ祀ったと。その後文久年間(1861~1864)に焼失したが、三嶋大社の日記によると文久3年(1863)8月29日に、「三石稲荷大明神普請(ふしん)につき社家(しゃけ)鳥居左次馬(とりいさじま)をして遷宮祭を奉仕せしめた」と書かれている。慶応元年(1865)7月、再び京都の伏見稲荷大社より分霊を受け、祀られたと。平成3年(1991)に少し南に移り、現在の地に建て直された。毎年5月の例祭初日には、三嶋大社の神主による神事が行われ、境内には露店が並び、舞台も作られ、しゃぎり、カラオケ、ビンゴゲーム大会などが町内会、商店会の協力のもとに賑やかに催されると。三石神社は元御殿川の川辺に三ツ石と称する巨石があり、その上に社殿を建て稲荷の神を祀ったと。かつて、ここには宝暦11年(1761)に造られた大鐘があったが、太平洋戦争の際に供出されたと。三石神社 絵馬。伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅の手前右手の狭い路地の先に山門が。そして手前左には聖徳太子堂建設碑が。『浄土宗 君澤山 蓮馨寺(れんけいじ)』。山門。この山門の手前の石碑には天下和順 日月清明と刻まれたいたが中央にはなんと書かれているのであろうか?水子地蔵尊の赤い幟の先にあるのが本堂。この寺の宗派は浄土宗で、昔、寺の裏に蓮沼池(はすぬまいけ)という大きな池があり、蓮の花の香りのする寺という意味から蓮馨寺と名付けられた。しかし現在この池はない。『日限地蔵尊堂(ひぎりじぞうどう)』。蓮馨寺本堂の本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)の左に聖徳太子作と伝えられ、古くから庶民の信仰を集めていた日限地蔵尊が安置されている。昔は60年ごとにご開帳されていたが、そのたびに三島宿が火事に見舞われたため、現在は開帳されていない秘仏(ひぶつ)だと。日を限って願いごとをすると願いごとがかなうといういわれから、日限地蔵尊と。また、この地蔵さんの縁日が8月23日で翌24日がすぐ近くの本覚寺(ほんがくじ)日朝(にっちょう)さんの縁日(えんにち)であることから、地蔵さんの縁日に会った男女がデートの約束をし、次の日の日朝さんの縁日に会ったのだと。そこで別名を約束地蔵と言われていると。『聖観音菩薩像』であろうか。小高い所にコンクリート造りの本堂。1289年に、浄土宗の僧である星誉によって開創された由緒ある寺院。 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐の際の三島焼き払いで焼失した他、類焼や震災、明治期の大火による火災を重ね、沿革は不明となっている。『聖徳太子尊』。三島の職人組合の人々によって大正11年(1922)に建てられた。聖徳太子は仏教を広め、各種技術を伝えた人たちを育てた人として知られ、職人たちの守り本尊としての信仰も集めていると。堂の内部。『聖徳太子像』。「和以貴」の文字が刻まれていた。様々な石仏も。『芭蕉老翁の墓』。お墓の形で「芭蕉老翁墓」と刻まれているが供養塔で、本当の墓は滋賀県の義仲寺にあると。安永7年(1778)建立の古いもので、左側面に「いさともに 穂麦喰はん 草枕」の句が刻まれているのだと。そして蓮馨寺を後にし、伊豆箱根鉄道駿豆線の踏切を渡る。修善寺行きの電車が通過。『三島広小路駅』。三島広小路駅 改札口。次に『伊豆国分寺』を訪ねた。伊豆国分寺は、日蓮宗の寺院。旧称は蓮行寺。『聖武天皇詔建之霊域』と刻まれた石碑も。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、伊豆国国分寺の後継寺院にあたると。伊豆国分寺に比定される以前、当寺は古くは「蓮行寺」という名の真言宗の寺院であった。時期は不明ながら、慈眼(慶長14年(1609年没)が日蓮宗に改宗したと。のち当地が伊豆国分寺跡に比定されたことから、昭和38年(1963年)に現在の「伊豆国分寺」と改称したのだと。「伊豆国分寺塔跡」案内板。「国分寺は奈良時代に聖武天皇(在位724~749年)の命により、国ごとに建てれらた国立寺院である。僧寺と尼寺の二院制をとっており、天平13年(741年)ごろから徐々につくられたといわれている。伊豆の国分寺は、泉町、広小路北方の一帯に建てられていたと推定されるが、現在、国分寺の本堂裏にある塔跡だけが残っており、国史跡として指定されている。塔跡は高さ約60cmの土壇の上にあるが、すでに南半分は失われている。現在、8個の礎石が2列に置かれているが、西側の2個は移動したものである。残された礎石から、塔は七重の塔で、高さは約60mにも及ぶものであったことが推定される。昭和31年の日本大学教授軽部博士の調査で寺域は東西80間、南北100間の長方形で、建物配置も東大寺式伽藍配置であったことがわかっている」と。伊豆国分寺 山門。本堂。山号は最勝山。本尊は釈迦如来。扁額は「寶樹山」となっていた。当寺の山号は「最勝山」である。「寶樹山」と「最勝山」、何故、ふたつの山号があるのか。ネットで調べてみると、その理由は分かった。当寺は古くは「蓮行寺」という名の真言宗、のちに日蓮宗の寺院で、山号は「寶樹山」。当地が伊豆国分寺跡に比定されたことから、「伊豆国分寺」と改称し、山号も「最勝山」と称するようになったのだと。『観音堂』。往古の伊豆国分寺伽藍図。741年の聖武天皇の勅命により創建された2町(約214m)四方を寺域とする大伽藍の遺構。現存する8個の石は七重の塔の礎石の一部で、塔の高さは約60mほどあったといわれている。『七重の塔』の説明板。塔跡は高さ約60㎝の土壇の上にあるが、すでに南半分は失われている。現在八個の礎石が二列に置かれているが、西側の二個は移動したものである。残された礎石から塔は七重の塔で、高さは約60mにも及ぶものであったことが推定されると。七重の塔の断面図・立面図。七重の塔の組物の名称の説明も。国指定史跡である本堂裏の塔跡そして塔の礎石を正面から。伊豆国分寺跡に残る礎石8個が遺構として保存されていた。『伊豆国分寺塔址』。『日蓮聖人像』。庫裡、寺務所であろうか。門前の石造物の中にあった伊豆型道祖神。伊豆の道祖神(賽の神)は、独尊のころんとした丸彫り坐像であるのが特徴。さらに地域差があり、三島周辺のものは小さな光背状のものが付属。この両脇の像は典型的な作例であると。次に訪れたのが、伊豆箱根鉄道の踏切を渡って進んで行くと右手の『浄土宗 林光寺』。参道を進む。山門。やんもんの扁額には「攝取山 」の文字が。山門前には「槌と鑿(のみ)でつくるのは形なきものの形 言葉と息で作るのは形なきものの始まりの形」と刻まれた石碑が。『水子地蔵尊』。『法然上人像』。『西国33箇所観音像』。左手に墓石が2塔。『吉原守拙(よしはら せっしゅ)、吉原呼我(よしはら こが)の墓』。吉原呼我は、日本の教育者。中権精舎(ちゅうけんしょうしゃ)創始者。三島、伊豆地方に近代中等教育の種をまき、文化的発展に大きく貢献。三島で近代初等教育の礎を築いた守拙は呼我の養父。吉原守拙は漢学と兵学を修めて江戸で塾を開き、多くの門人をかかえていたというのだが、その顔ぶれが凄い。山岡鉄舟、高橋泥舟、大山格之介などが門人の中にはいるのだと。『鐘楼』。そして『本堂』。林光寺は、東海88箇所の第70番の観音霊場札所。『十三重塔』。『開山堂』。歴代上人の墓。本堂を別角度から再び。見事な石灯籠とその先に鐘楼が。『浄土真宗 本願寺派 善教寺』にも立ち寄る。現代風な本堂。善教寺の境内には幼稚園が。旧東海道に戻ると小さな『八坂神社』。そして『秋葉神社』と書かれた石の扁額と石鳥居。その奥に社殿が。階段を上る。推定樹齢300年のムクノキ。 その1に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次新年の1月4日に箱根関所~三島大社を歩きましたが、引き続き1月16日(水)に旅友のSさんと三島駅から原宿に向かって歩きました。この日の三島~原への旧東海道ルートマップ。JR東海道線に乗って8:01に三島駅に到着し南口を出る。駅前広場の水飲み機能を一体化した『水琴窟』。水琴窟は窟内に水滴を落としたとき発生する反響音を楽しむもの。少し金属的な音で、琴の音に似ていることから水琴窟と呼ばれています。三島市内にはこのように水を用いた仕掛けが点在しているとのこと。そして散策開始。駅前から旧東海道に向かって歩く。左手の分離帯の中には『愛染院(あいぜんいん)跡の溶岩塚』が。この溶岩塚は今から一万年ほど前、富士火山の爆発により噴出した溶岩が、約40㎞流下し凝固したものであると。溶岩は表面が冷却し凝固しても、内部から突きやぶり小丘となる場合があり、本溶岩塚もその活動がうかがえる貴重な例であると。そしてその近くにあったのが、『交通安全祈願の母子像』。「交通の災禍を絶とう愛の手で」。道路右側には『三島市 市民文化会館 ゆうゆうホール』が。そして赤い板状のモニュメントは「『からくり時計』⬅リンク。毎時0分になるとホイッスル調のオープニングメロディーが流れ、それと共にミラーボールの様な丸い扉が回転し、3体の人形が出て来るのだと。そして『寿楽園』入口。ここ以降しばらくは、前回に訪ねブログにアップ⬅リンク していますが、旅友が未だであるとのことでしばし案内しました。『浅間神社』入口。『源兵衛川(げんぺいがわ)』入口。静岡県都市景観賞 優秀賞の石碑。富士山の伏流水が湧く楽寿園内小浜池を水源とする清流。「オランダカイウ」であろうか、この日も白きカラーの花に似ていた。シロサギであろうか、2羽が仲良く。『旧中央水道水源』。旧中央水道の水源は富士山からの湧水を、この界隈の飲み水として使用してきたが、平成15年度に三島市の水道への切り替えに伴い廃止されたもので、普段は自噴していたが、水位が下がった時はポンプアップしていたと。『鎌倉古道』。「鎌倉古道は、伊豆国分寺前から赤橋・祓所神社まで通じる道で、平安時代から戦国時代頃まで伊豆の主要道として用いられた。その沿道には、多くの寺院などが立ち並び、江戸時代初めに近世東海道が整備されるまで、大変な賑わいを見せていました。」と。『伊豆国庁址碑』。iPhoneで『国庁址(こくちょうあと)』を探すが、民家のオバチャンに聞いてもわからない中、ブロック塀と一体化された碑を見つける。掘立柱建築跡や布目瓦を出土したことから、軽部慈恩氏が国庁跡と推定し、碑を建立したとのこと。そして『廣澄山 圓明寺(えんみょうじ)』へ。円明寺『表門』(伝旧樋口本陣表門)。円明寺 『本堂』。そしてこれからは新たな散策道。赤い欄干の橋が眼前に。三嶋大社の西側にある『祓所神社』から西へのびる道(桜小路)を横切る御殿川にかかっている橋がこの『赤橋』です。この橋の欄干が赤く塗られていることから赤橋と呼ばれており、江戸時代には駿豆五色橋の1つに数えられていたと。 三島市ではレンタサイクルも行われている模様。『問屋小路(とんやこうじ)』。三島宿でみんなに親しまれ、その名が知れていた八つの小路や七つの石、七つの木。江戸時代、箱根の関所を通るのに、これらをスラスラ言うことができれば三島人の証明となり通行手形を持たなくても通行することができたと。問屋小路は三島田町駅を起点として北へ向かい、UFJ銀行を通過し、市役所中央町別館横を通り過ぎて赤橋の通りまでをいうと。江戸時代には現在の市役所別館の所に問屋場があったと。三島中央郵便局のところにあったのが『問屋場跡の碑』。三島の宿は、慶長6年(1601)徳川幕府の交通政策として宿駅に定められ、東海道有数の大宿として認められたが、この宿場の施設として同年この場所に問屋場(現・市役所中央町別館)が設置されたと。そして旧東海道に出る。せせらぎルート 『全体案内図』と『静岡県景観賞の記念碑』。『御殿川』。御殿川は白滝公園付近の水門で桜川から分流するが、この水門は水量が多く、川の落差を利用して激しく流れ落ちることから「どんどん(どんど)」と呼ばれていると。三島駅方面に曲がる交差点を直進する。『世古本陣址』。三島の宿には世古本陣と、道を挟んで樋口本陣があった。本陣の建物は書院造りで、門構え、玄関、上段の間、控え の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものだった。郷土館には宿泊した大名 の関札があり、樋口家にある『樋口本陣文書』と『織部灯籠』は、市の文化財 に指定されている。なお、三嶋大社には茶室『不二亭』も移築されていると。道路の反対側にも『樋口本陣』の石碑が。江戸時代格式の高い樋口本陣は、現在の山田園のあたりにあり、その門は今は先ほど訪ねた芝本町の円明寺山門になっていると。『東海道三島宿・樋口本陣跡』案内板。「本陣について本陣とは江戸時代五街道などの宿場 に設けられ、大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で、大名宿とも言った。三島の宿にはここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣があった。本陣の建物は書院造で、門構え、玄関、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なもの。三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定文化財)と宿泊した大名の関札があると。なお三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されているのだと。三島宿について三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。慶長6年(1601)徳川家康 は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿 は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。三島宿は初代安藤広重 の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています」と。『中央水道跡公園』『四ノ宮川』四ノ宮川は、広瀬橋下で源兵衛川から分流する小さな川だが、近年は湧水の枯渇や街中での占用が多く忘れ去られた存在であった。周辺の開発に伴い、街中の貴重なせせらぎとして修景整備をした。廃止された近くの簡易水道「中央水道」の水源井戸の清流を利用し、四ノ宮川の水源地のように表現してある。周辺には中央水道のノスタルジックな建物も残っていると。『曹洞宗 向富山 常林寺』。『山門』。『法堂』。天正元年(1573)開創の曹洞宗の寺で、開山は麒庵東麟大和尚(きあんとうりんだいおしょう)。本山は永平寺、總持寺。法堂(はっとう)には本尊として聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が祀られている。現法堂は、昭和5年(1930)の北伊豆地震の直後に再建立され、三門・庫裡とともに木造の伝統的な建築物。「 向富山 」と書かれた『扁額』。境内の『慈母観音』。『西国観音礼場巡拝記念供養塔』。多くの石仏が並んでいた。一体一体異なる『観音像』。『庫裡』。質素な石仏も。そして三島大通りに架かる『原兵衛橋』。源兵衛川にかかる源兵衛橋は『源兵衛白旗橋』とも呼ばれて江戸時代に駿豆五色橋の1つに数えられていた橋で、三島市には他に青木橋・赤橋があり、沼津市には黒瀬橋・黄瀬川橋があるのだと。 ・・・つづく・・・
2019.04.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次三島 水辺の文学碑を後にして、水滝公園に立ち寄る。『白瀧観音堂』。「このお堂は平安時代末からここ水上の地に在って観世音菩薩がお祀りされている 。当時は現在地より北に位置し堂のかたわらに白いしぶきを上げる瀧が落ちていたところからと白瀧観音と尊称され白瀧寺という尼寺の本尊であったと伝えられる 江戸時代にはこの地に移り清水寺と称したと言われ明治初期に一時荒廃したが市内本町にある常林寺十七世達玄大和尚これを見いだき寺内に拝し奉祀された これを機に当地でも有志がお堂を再建し分祀する様になり現在この縁をもとに毎月十八日 常林寺住職が出向し例祭を催している 」『富士の白雪の碑』。あの有名なノーエ節です。「富士の白雪 朝日に溶て、三島女臈衆の化粧水」と書かれていた。ノーエ節というのは正しくは農兵節だと。幕末期に韮山代官・江川英敏が農兵に西洋式訓練を行った時に行進曲として歌ったという説、また横浜の野毛山節が三島に伝わってノーエ節となったという説があるのだと。『めぐみの子』。からくり人形の「めぐみの子」が水を汲んで観光客をおもてなしすると。この日は正月休暇中か?『円明寺』に向かう。入口から山門を見る。この寺の宗派は日蓮宗で、康永3年(1344)将軍足利尊氏の叔父にあたる日静上人が法華堂として建立し、文明11年(1479)日澄上人によって開山された。幕末の頃、寺に住む母犬が病気になると子犬たちが懸命に看病したが、母子とも死んでしまうという悲しい物語が伝えられていると。『円明寺』山門。この寺は明治10年(1878)3月、柿田屋火事で類焼したため同年、三島にあった樋口本陣の正門を山門として移築したと。『鐘楼』。『本堂』。江戸時代に諸大名が三島宿宿泊する際に、泊まるよう指定されていた宿であると。参道入り口にあった『孝行犬の墓』解説文。「昔、円明寺の本堂の床下に、お母さん犬と5匹の子犬がなかよく住んでいました。お寺のお上人は、犬たちをたいそうかわいがり、それぞれに名前をつけてあげました。お母さん犬はタマ、子犬たちは、トク、ツル、マツ、サト、フジという名前でした。6匹は番犬として、お寺の門を忠実に守り、お上人を喜ばせました。ところが、ある寒い冬の日、子犬のフジが死んでしまい、それがもとで、お母さん犬までが病気になってしまったのです。子犬たちは、お母さんの病気を治そうといっしょうけんめいでした。 ツルとサトは、お母さんのそばを片時も離れず看病をしていました。一方、トクとマツは、雪の町へ出かけて行き、ある家の窓の下でしきりにほえました。それは何かをうったえるような悲しんでいるような声でしたので、その家の人が食べ物を上げると、食べようともしないで口にくわえて走り去ります。2匹は、お母さんに食べさせるエサをもらいに行ったのです。しかし、子犬たちの看病もむなしく、お母さん犬は半年後の暑い夏の日にとうとう死んでしまいました。このようすをやさしく見守っていたお上人は、子犬たちの孝行ぶりにひどく感心しました。その後、残った4匹もお母さんの後を追うように相次いで死んでしまうと、6匹のためにお墓をたてました。墓石には犬の名前をきざみ、ていねいにお経をあげたということです。今、円明寺にある「孝行犬の墓」はこのときのものです。毎年、4月18日には供養祭を開き、犬たちのめい福を祈っています。」境内にあった『孝行犬の墓』。『山門』を横から。中心がずれているのであった。門を境内側から内側に開いたときに雨に濡れないようにする工夫であると。旧東海道に戻る細い道の出口・現在の市役所中央町別館のところにあった『問屋場』。「江戸時代、三島宿の中心的な施設であった問屋場。江戸時代の東海道には五十三の宿場があり、三島宿もその内のひとつとして賑わった。江戸時代には庶民の旅も盛んであったが、公的な人・モノの輸送手段と宿泊場所の提供が宿場の第一の役割であった。宿泊機能は公家、大名などが泊まった本陣や旅籠が担い、輸送のための人や馬を周辺の村々の住人が提供しました。この人馬が集まったのが問屋場で、隣の宿場から送られてきた荷物などを受取り、次の宿場まで運びました。」三島宿は、箱根・小田原宿より交通量が多いのに問屋場はここ一箇所だったため常に人手不足に悩まされていたと。再び旧道に戻り右手に折れ更に進む。県道51号線を進むと三島駅方面に続くのであったが直進する。三島駅の入口の交差点を過ぎるとすぐに『世古本陣跡』の碑が。三島の宿には世古本陣と、道を挟んで樋口本陣があった。本陣の建物は書院造りで、門構え、玄関、上段の間、控え の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものだった。郷土館には宿泊した大名 の関札があり、樋口家にある『樋口本陣文書』と『織部灯籠』は、市の文化財 に指定されている。なお、三嶋大社には茶室『不二亭』も移築されていると。道路の反対側にも『樋口本陣』の石碑が。江戸時代格式の高い樋口本陣は、現在の山田園のあたりにあり、その門は今は先ほど訪ねた芝本町の円明寺山門になっていると。『樋口本陣跡』の石碑。「本陣について本陣とは江戸時代五街道などの宿場 に設けられ、大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で、大名宿とも言った。三島の宿にはここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣があった。本陣の建物は書院造で、門構え、玄関、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なもの。三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定文化財)と宿泊した大名の関札があると。なお三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されているのだと。三島宿について三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。慶長6年(1601)徳川家康 は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿 は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。三島宿は初代安藤広重 の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています」そして旧街道を右折して石畳の細い道を三島駅方面に進むと『源平衛川』の流れに出会う。富士山の伏流水が湧き出る楽寿園内小浜池を水源とする源兵衛川は、三島駅から徒歩5分にありながら、初夏の夜にはホタルが舞う美しい流れであると。川の中には、飛び石などが配置され、湧水を全身で感じながら、箱根関所からここまでの疲れを癒してくれる「せせらぎ散歩」を楽しむことが出来たのであった。全長1.5Kmの清流が流れる川『源兵衛川』。こんな清流が駅の近くを流れている三島市は「水の都」と呼ばれているのも納得。町の喧騒を忘れてしまう空間。飛び石やウッドデッキの散策路が整備されていた。川に沿って飛び石の散策路が延びる。流れに沿って、そして橋の如くに。すれ違う際には注意が必要だがこの日は・・・。「オランダカイウ」であろうか白きカラーの花に似ていた。土木学会デザイン賞2004の最優秀賞を受賞したプロジェクト。そしてここから上流は「樂寿館」の庭園の中に。『小浜(こはま)のみち』。「楽寿園一帯は富士山からの溶岩台地で古くから小浜(こはま・おばま)と呼ばれた山林原野だった。かっては三嶋大社の神宮が例祭の前には浜下りして身を清めたが大祭は沼津千本松で、子祭は小浜池で「みそぎ」をしたのでこの名がついたという。街中がせせらぎ事業ではこの道を「小浜のみち」と愛称をつけました。」『小浜のみち』を進む。『木食観正之碑』。楽寿園の南出口を出て、左へ、駅前通りのほうに「小浜のみち」を歩いて行くと左側に。ひっそりと、いう感じであるこの碑は木の実や野草だけを食べて仏の道を説いたという僧を祀った碑であると。『式内二宮浅間神社』と刻まれた石碑。『浅間神社』「昔から二宮として人々の崇敬厚く 古くは三島大社の別宮であり、木 花開耶姫命、波布比売命の二柱を 主神として、外に瓊々杵命、火明命、 火蘭降命・彦火々出見命の四 柱を相殿の神として祀ってあり、 三島大社につぐ名社であった。嘗ては富士登山をするもの必ずこ の神社に詣でるを常とした。この境内周辺より湧き出づる水は 下流町村の灌漑用水となっている」『石鳥居』。『社殿』。案内には、二宮とあるが、これは従来の二宮である若宮八幡が、三島大社境内に移されたため、三宮であった当社が、二宮扱いになったものだそうだ。御祭神は 木花開耶姫(このはなさくやひめ)、波布比売命(はぶひめのみこと)他と。境内には、左右に2つの社殿。右が本社で、左は境内社の『芝岡神社』。そして奥に社殿が。『柴岡神社』「元本陣世古六太夫家の邸内に祀っ てあったが明治四年芝町の氏神と して祭ることとなり、村社であっ た明治十年三月の三島宿の大化に 類焼し同十二年に復興した。本殿の下に大きな円形の石があり 霊石と称し昔から子供の守神とし て知られている。昭和二十七年七 月に浅間神社へ合祀して社殿と共 に移転した。祭神は高産霊神を祀る。」そしてその先にあったのが『樂樹館』正門が。【楽寿園案内図】。現在の楽寿園のある場所は古くは小浜山と呼ばれ、愛染院(廃寺)、浅間神社、広瀬神社の社寺域であった。1890年(明治23年)、小松宮彰仁親王の別邸として造営され、彰仁の没後、1911年(明治44年)に韓国王世子李垠の別邸となり、昌徳宮と呼ばれた。1927年(昭和2年)、伊豆出身の資産家・緒明圭造へ売却。1952年(昭和27年)には三島市が購入し、同年7月15日から市立公園として一般公開した。1954年(昭和29年)には小浜池(こはまがいけ)と周囲の自然林・植生を含む庭園が国の天然記念物および名勝に指定された。2012年(平成24年)9月24日、 伊豆半島ジオパークのジオサイトとして指定された。楽寿園の地形をつくる「三島溶岩」は、下層部が約1万7千年前、上層部が約1万500年前の富士山の噴火で流出したもの。この三島溶岩流は露頭している。この地形を生かした日本庭園と共に小規模の遊園地と動物園も併設されている。かつてはゾウやキリンなどの大型動物やも飼育されていたこともあったと。『日本の歴史公園百選』になっていると。入口。駅前のグリーンベルトにあった母子像。『愛染院跡の熔岩塚』「三島溶岩 は粘性の小さい玄武岩 (げんぶがん)の熔岩で、富士山 から焼く40km流下してきたものである。溶岩塚 とは、溶岩流 の表面の部分が固まっても、中はパイプ状になっており、末端付近の表面が押し上げられる作用により小丘となったものをいう。ここ愛染院 跡(あいぜんいんあと)にはこの繰り返しによって、熔岩の堆積(たいせき)がいっそう高まり、このように小高い熔岩塚 が形成された。この溶岩塚は三島溶岩流 の末端であること、また岩石や火山活動の研究に貴重であることから指定して保存を図ることになった。愛染院は、室町時代に三島神社 別当職を勤めたことがあるともいわれている旧市内随一の大寺院であると推定され、当時はその愛染院の庭園の一部ではないかといわれているが、確証はない。」そして三島駅に到着。駅前には青竹の灯篭が。あかりの回廊(みしま竹あかり)あかりのプロムナードとも呼ばれ年末年始、三島駅がやさしい竹あかりに包まれると。三島駅南口の中央池には、竹を使った大きなモニュメントを設置。地元の小学生が作ったオリジナルの竹灯篭をメインに飾られていると。オブジェは花や植物、水などの自然のものをイメージして作られている。一般的なイルミネーションとは違った、和のイルミネーションを楽しめるのだと。そして在来線で熱海乗り換えで帰路に。JR三島駅でSUICAカードで入ったが、地元の藤沢駅ではSUICAカードで出れなかったのであった。JR三島駅はJR東海、藤沢駅はJR東日本の駅の為自動改札を通過できず、更に小田急線への乗り換え改札では清算が出来ない為中央改札へ行けと駅員から。ICカードは各社が自社の管内での利用を想定して作っているもので、清算のシステムなども各社ごとに異なっているのが理由であるようだ。カード導入前から相互利用できるようにシステムを組んでおくべきだったのではないか、と考えるのであったが・・・・。 ・・・その11・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(箱根~三島) 完・・・
2019.04.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前方に『三嶋大社』の標識が見えて来た。この日は2019年1月4日(金)、正月三が日は過ぎていたが、道路に面する大鳥居の周りは初詣客でにぎわっていた。伊豆国一宮 『三嶋大社』「三嶋大社の創建時期は不明ですが、古くよりこの地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残っているそうです。中世になると武士、特に伊豆に配流された源頼朝は深く崇敬し源氏再興を祈願、神助を得て成功すると神領を寄せ、社殿を造営し、神宝を奉じました。それ以後は、東海道の拠点として、伊豆地方の入り口の下田街道の起点に位置し、伊豆国一宮として境内約50,000m2の大神宮となりました。創建の時期は不明だが、古くからこの地に鎮座し、社名の「三嶋」は地名にもなっています。」『東海道五拾三次 三島 朝霧』。朝霧の中に三嶋大社の鳥居が見える。影絵のように平板に描かれた街道。背景は幻想的である。そして中央の旅人達だけが色彩鮮やかで立体感を持ち、動作がよく表現されている。霧の中に消える巡礼の姿。前進する駕籠と馬上の旅人は眠そうである。夜はまだ完全には明けていないようだ。『末広五十三次 三島/二代歌川広重』画面右隅に三嶋大社の鳥居があり、中央に銃を持った兵隊の列、その後ろに騎乗した武士がついています。大社の鳥居の向きから、この軍列が東から西へ移動していることがわかります。 この『末広五十三次』は幕末の元治元年(一八六四)、幕府による長州征伐の際の行軍を描いたものであると。『たたり石』は出店のシートに半分覆われて。「この石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。たたり(絡垜)は本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である後に往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われ、絡垜(たたり)が崇りに置き換えられる様になっと言われている大正三年内務省の道路工事によって掘出され神社に於て此処に据えられました。今日では、交通安全の霊石としての信仰がある。」『三嶋大社』境内案内図。『神池』(左)。前方に厳島神社への朱の橋が。西暦827年に神池が枯渇した。神社の訴えにより、朝廷は「澪祭=雨乞い」を実施。それが功を奏して 6月11日から5日間、雨が降り続いたと。参道の石橋は左右の神池をつなぐ水路に架かっていた。「神池に浮かぶ厳島神社は、北条政子が勧請したと伝えられ、家門繁栄、商売繁盛、安産、裁縫等の守護神として信仰されている。」御祭神は市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)。『厳島神社』。社殿前に置かれているのは、『蘭渓燈籠』と呼ばれるもの。蘭渓灯篭は、しっかりとした台座に弓なり曲がった竿が伸びて六角雪見形の上部が据えてあった。 『総門』。「総門 外構えの門建築中伊豆震災にあったが昭和六年三月竣功。初めて台湾檜が使用された。昭和の神社建築の代表的建物の一つに数えられ格調の高さは有名である。当時の内務省神社局技師角南隆氏の設計監督である(総工費当時約七万円)。旧総門は一部改修して芸能殿として保存。初めて台湾檜が使用された昭和の代表的な神社建築の一つ。総門を潜り更に参道を進む。参道には枝垂桜が植わっていた。この桜はピンク色が濃く非常に美しい桜。左手に『授与所』。三嶋大社 神紋「折敷に三の字」が白幕の中心に。『矢田部式部盛治(やたべしきぶもりはる)大人銅像』。「嘉永7年(1854)11月の東海大地震で倒壊した社殿を10年の歳月と16677両という巨費を投じて見事に復興し明治維新は大総督宮の先導警護及び明治天皇の御通行警護を奉仕し祇園山腹にトンネルを掘り上流から水を引いて祇園原の荒地15町歩余りを美田と化し佳民の感謝敬慕の念により昭和29年建立された」そして前方に見えて来たのが『神門』神社では、こちらから先を第一清浄区域 と呼んでいるのです。手水舎が神門の前に設置されていたのは、「総門はフツーにくぐっても、神門をくぐるには、心身を清浄にしてほしい」と、言う事。『手水舎』。見事な『神門』。『舞殿(まいどの)』神門と拝殿の間に建てられていた。その立地から、拝殿のブラインドとしての役割も担っていると。「古くは祓殿と呼ばれ神楽祈祷を行ったが後には主として舞を奉納したので舞殿と呼ばれるようになった。現在は舞のほか、田打ち神事(県無形文化財)、豆撒き神事、鳴弦式神事などの神事の他、祈祷等も行う。慶応二年十二月十八日の再建で昭和五年の伊豆震災の復旧工事まで一部改修を行ったものである」そして『本殿』。三嶋大社の建造物の中でも、平成12年に重要文化財指定を受けた本殿(ほんでん)・幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)。他に、舞殿(ぶでん)・神門(しんもん)等に、欅(けやき)材を用いた装飾用の優れた彫刻が施されていた。御祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)。二柱の神を総称して「三嶋大神」または「三嶋大明神」。三嶋大社の主祭神は、当初、大山祇神だけであった。ところが、明治6年(1873年)に積羽八重事代主神に変更された。のちに、大山祇神・積羽八重事代主神の二神同座に再変更されたのだと。結果、「山の神」と「海の神」を祀る神社となったと。しかし、初詣客が多く拝殿近くに行きつくには時間がかかりそうでしたので、遠くから賽銭を投げ込みお参りをしたのであった。『若宮神社』。「古くは八幡宮・若宮八幡宮又は若宮社等と呼ばれた御祭神は物忌奈乃命(三嶋大神の御子神)・誉田別命(応神天皇)・神功皇后・妃大神を祀る社である。例祭は8月15日で御本社大祭の前日に行われる。慶応4年8月20日再建」『末社』境内左手に鎮座し、次の5社が祀られています。(ご祭神はいずれも不詳。)右から大楠社、天神社、聖神社、第三社、幸神社。『摂社 見目神社(みるめじんじゃ)』御祭神は波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命「若宮神社と同じく御本社と最も関係の深い社で摂社と言う。御祭神は三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」ともいわれると。」拝殿、本殿を左斜めから。御朱印を頂きました。非常にシンプル。再び拝殿を。きちんと並ぶ【日本人】。平成最後の初詣。おみくじ売り場も大混雑。神門の横に出口が。破魔矢やお札売り場。『神馬舎』。『御神馬』。「安置されている御神馬は慶応4年(1868年)に造られたもの。 古来より、三嶋大社の神馬は、毎朝神様を乗せて箱根山に登ると言う伝説が古くから言い伝えられていると。」おみくじの仮設?売り場も。『宝物館』。三嶋大社には、狛犬がいないと感じていたが、宝物館の入り口に新しい狛犬が1対。三嶋大社で所蔵する文化財を展示している。国宝や重要文化財など、多数の品を納めている。宝物館には《国宝》が1点所蔵されています。北条政子が奉納した、黄金色に輝く「梅蒔絵手箱」。また、貸し出しギャラリーもあり、絵画や彫刻、工芸品などの作品展示なども行っている様であった。『旧総門(芸能殿)』「安政の東海大地震の復旧工事で時の神主矢田部式部盛治により慶応四年二月十一日に完成した旧総門で昭和五年の伊豆大地震後現在の総門が落成したため一時他に移したが戦後再建し一部改造の上芸能殿として保存している」『三島水辺の文学碑』は白滝公園南側通り(水上(みずかみ)通り)桜川に沿って点在する文学碑。桜川沿いに水上通りを三島駅方面に向かう。川沿いの歩道は「水辺の文学碑」の石碑が続く。大岡 信地表の七割は水 人体の七割も水われわれの最も深い感情も思想も水が感じ 水が考へてゐるにちがひない宗祇すむ水の 清きをうつす 我が心正岡子規三島の町に入れば 小川に菜を洗ふ女のさまも やや なまめきて見ゆ面白や どの橋からも 秋の不二十返舎一九日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたるに故にやあらん。・・・・・松尾芭蕉関こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き若山牧水宿はづれを清らかな川が流れ、其処の橋から富士がよく見えた。沼津の自分の家からだとその前山の愛鷹山が富士の半ばを隠しているが・・・司馬遼太郎この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある。むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった。その後・・・・・窪田空穂水底にしづく圓葉の青き藻を差し射る光のさやかに照らす太宰治町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛の巣のやうに縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり、清冽の流水の底には水藻が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、三島の人は台所に座ったままで清潔なお洗濯が出来るのでした。小出正義楽隊の音がきこえてきた。ジンタッ、ジンタッ、ジンタッタッ・・・ジンタの楽隊がやってきたのだ!子どもたちは、小鹿のようにかけだした。ジンタの行進は、となりの町の沼津から三島の町へのりこんできた。穂積 忠町なかに 富士の地下水 湧きわきて 冬あたたかに こむる水靄 ・・・その10・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次「日の出町バス停」の先、左側に大きな『御法燈』が建っていた。この奥にある『妙行寺(みょうぎょうじ)』を訪ねる。山門の前の左側に広い空き地が。『立正大師銅像建立地』と。『妙行寺山門』山門は、明治期の小松宮家別邸の門を移築した由緒あるものとの事。対の寺名石柱が立ち、奥に高麗門形式の山門。『山門』。『常轉法輪』と書かれた扁額。大きな本柱が立ち、内法貫と、反対側に禅宗様木鼻。挿し肘木が添えられた小さな腕木が軒桁を支えます。『供養塔』。群生供養の文字も。群生とはすべての生物。転じて、多くの人民。多くの衆生。迷いの状態にある生き物をさす。特に人間をさしていう場合が多い。『本堂』。日蓮宗の寺。銅板本瓦葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。驚くほど大きな中国獅子型の狛犬が、本堂前に鎮座しています。総理大臣石橋湛山の縁で中国から贈られたものと。中国獅子の特徴は、「阿吽」ではなく「阿阿」で、両方とも口を開いていること。子付き・玉持も特徴の一つであると。正面右側の中国獅子。正面左側の中国獅子。境内の石仏。こちらにも。向拝を見上げて。龍の欄間彫刻。手水舎。観音像。『南無妙法蓮華経 日鴻』と刻まれた石碑。妙行寺を後にし次の寺に向かう。三島市の汚水マンホールの蓋。市の花三島桜のデザイン 。下部に「みしま おすい」の文字。 最初は花びらがカラー装飾であったのであろうか?住宅街の個人住宅の前にあった供養碑。平成7年1月17日の阪神大震災で亡くなった方々の供養塔を個人で造り奉納したようであった。次に訪ねたのが『成真寺(じょうしんじ)』。浄土真宗大谷派の寺、成真寺では毎日正午に、この山門鐘楼から 和風カリヨン「和鐘」によって宗歌「恩徳讃」が自動演奏される。 朝と夕方にも季節の童謡が奏でられると。おそらくカリヨンの鳴るお寺は 全国にもここだけではないかとのこと。当寺は北条時政の部下であった平成真(たいらのしげさね)が、時政の死を悲しみ22歳で出家し、高野山に登って真言宗を修め、安貞(あんてい)元年(1227)に富士郡桶野口村に寺を構えたのが初めということである。その後、箱根権現を参詣のとき、親鸞聖人(しんらんしょうにん)に会い、浄土真宗に改め、現在地には江戸時代初期に移って来ていると。境内の石碑には何と書かれていたのであろうか?この様な文字がスラッと読めたら世界が更に拡がるのであろうが。『本堂』開基は北条時政幕下藤原成真といい、24歳の時二君に仕えずと出家得度、高野山に上り11年の修業の後、生国甲斐の国に一宇を建立し真言宗の成真寺を名告る。文暦元年(1234年)成真法印が信奉している箱根権現に参詣の折、関東常陸の国より京都にもどられる親鸞聖人が、折しも箱根権現に逗留され、偶然にも邂逅の縁に接し、他力念仏の教えを聞き開かれる。発明解了の速やかなる上人は、たちどころにこれまでの修業を捨て、浄土真宗の成真寺となる。ご本尊阿弥陀如来は行基菩薩の作と伝えられる。これまでの本尊としていた薬師如来は、箱根権現に安置されていた阿弥陀如来とこの時交換されていると。本堂内部。『寺務所』。『終戦五十回忌 全戦没者追悼碑』『開山堂』。扁額。開山堂内部。そして成真寺の向かいにあった『日隅神社(ひすみじんじゃ)』に立ち寄る。推定樹齢550年の欅(けやき)。社殿。「伊豆国神階帳(しんかいちょう)に正五位上角(じょうずみ)の明神といわれる。 神話に稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)を助け、また天神(あまのかみ)に国土を献上された。 三嶋大社の御祭神事代主命(ことしろぬしのみこと)の父神にあたる。古来三嶋大社の摂社で大社八社別宮の一つ、また五の宮ともいわれ維新後明治10年には大社の末社に指定され崇敬された。終戦後市内区画の変革はあったが、旧宮倉の氏神である。 安永7年(1778)外棟札(ほかむなふだ)4枚を蔵している。」次に訪ねたのが斜め向かいにあった『本妙寺』。二本の石柱が立ち奥に山門が見えた。『山門』。薬医門形式の山門。『鐘楼』には鐘がなかった。『本堂』は寄棟造り屋根平入り。唐破風軒流れ向拝。寄棟屋根に唐破風向拝の組み合わせには、古風な風格が漂う。見事な彫刻。松と梅をバックに寛ぐ、鶴と二人の仙人の欄間彫刻。懸魚彫刻は、雲間を飛ぶ龍に乗って琴を弾く天女。『寺務所そして客殿』 ・・・その9・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次愛宕坂という坂を下りると東海道線の旧東海道踏切が前方に。折しも、東海道線の上り熱海行の電車が通過。『川原ヶ谷(かわはらがや)』坂を下る途中に東海道本線の「旧東海道踏切」を渡るが、その手前右手に「箱根旧街道図」と『夢舞台・東海道』の標柱が立っていた。標柱には『三島宿(宿境まで四町) ← 三島市 川原ヶ谷(箱根旧街道入口) → 函南町(宿境までニ里八町)』と書かれていた。踏切後ろ側には『箱根旧街道入口 箱根旧街道図』の大きな古い看板が立っていた。「箱根旧街道図」には三島から箱根峠までの多くの坂が記されているが「今井坂」は三島側の箱根旧街道の最初の坂となっている。逆に今井坂を下りると三島宿への入口となる。東海道線の三島駅方向。『今井坂』を下る。『真立寺』への階段を上がる。『本堂』。真立寺は、はじめ真言宗の寺であったが、1508(永正5)年、日蓮宗に改宗。『 高現山 』と書かれた扁額。『無縁仏塚』か?箱根西坂の最後の坂もここで終わり。坂が終わると愛宕橋(旧今井坂下橋)で山田川を渡る。山田川を渡ると川原ヶ谷の中心エリアに入るのだ。『山田川』の流れ。愛宕橋の上から、東海道線を振り返る。富士山ももう一息だったが・・・。県道と旧街道が合流する角に『林光庵庚申堂』が。ここはかつては林光寺という寺であったが、廃寺になり堂だけが残ったと。江戸時代にはこの場所は高札場であった。三島宿でもないのになぜ高札場があったかというと、この川原ヶ谷村は荻野山中藩の飛地だったからだと。荻野山中藩は小田原藩から分かれた藩で神奈川の厚木あたりにあった藩であると。また、川原ヶ谷は源頼朝が三嶋大社に寄進した土地であった。そのことが書かれた古文書「源頼朝下文」が三嶋大社宝物館に残っているのだと。川原ヶ谷は三嶋大社の社領であったために三嶋大社に代々仕える人たちが住んだ場所であったと。『川原ヶ谷』の街並み。前方に更に進むと『鞍掛け石』手前の右側には『荻野山中藩陣屋跡』があった。伊豆国は基本的には徳川幕府の直轄地であった。しかし、新町橋の手前の川原ヶ谷だけは荻野山中藩(神奈川の厚木あたりにあった藩)の飛び地であったと。よって、ここに陣屋が置かれていたのだと。『鞍掛け石(くらかけいし)』バス停を過ぎると左角に鞍掛け石があった。かつては右側にもあった様だが、現在は民家が新築された時に撤去されたとものと思われ、左側しか残っていなかった。昔は馬乗り石といい、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで下馬し鞍(くら)を置いたと伝えられると。『鞍掛け石』を左に曲がると正面に『宝鏡院』の山門が見えた。『山門』『宝鏡院(ほうきょういん)・史跡』 『清和源氏足利尊氏』の三男、『足利二代征夷大将軍義詮(幼名-千寿丸)』宝鏡院を建立す。(建長元年己酉年歳)『建長寺開山勅詔大覚禅師』法の弟子『建長寺第四世勅詔普覚禅師宝鏡院開祖』となる。当時山門は、建長寺裏門を移した名工『甚五郎の作』と言い伝えらる。『足利義詮』(貞治六年十一月七日)三十八歳にて没す。法名『宝鏡院殿従一位左大臣道灌瑞山大居士』『足利尊氏公』第八代の『武将義政公』の弟『政知』は『田方郡北条館』にて『茶々丸』に殺さる。(延徳三年四月三日)五十七歳にて没す。法名『勝憧殿従三位左武衛九山大居士』、宝鏡院墓地に埋葬す。『本尊薬師如来』仏工師運慶の作と言ふ。此の地三島神霊来る。一、鞍掛けの石 東海道入口両側にあり、将軍が参拝の折に下馬し、鞍を置いたる石と言ふ。一、笠置きの石三島七ツ石 源頼朝公』参拝の折り笠を置いたる石と言ふ。山門のすぐ後ろに笠置きの石が安置され、『笠置き石・三島七石の一』と書かれていた。この祠は?檀家が最近奉納したもののようであった。『本堂』開基は室町幕府2代将軍の足利義詮。開山は鎌倉の建長寺4世の普覚禅師。ご本尊は薬師如来像で運慶作と伝わります。寺宝の茶釜は足利家から奉納されたものと。足利2代将軍義詮公と韮山の堀越公方足利政知公の分骨がされた。『水月堂』。永代供養塔であろうか。本堂の左手から墓地に入り、突当りを右に進むと正面に『足利義詮・政知の墓所』があった。室町幕府2代将軍の足利義詮と堀越公方の足利正友の墓。境内にはきれいな沢水が流れていた。そして『新町橋』を渡る。大場川(通称:神川)に架かる橋で、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた。江戸時代には三島宿の出入り口として多くの旅人が渡っていた。この橋を渡ったところが三島宿江戸見附、宿場の東側入口となる橋は長さ15間(約34m)、幅3間(5.4m)の欄干を持つ板橋。『三島市眺望地点 新町橋』「新町橋は、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた大場川(通称:神川)に架かる橋で、江戸時代には東海道五十三次の三嶋宿の出入口として、多くの旅人がこの橋を渡っていました。快晴の日には、ここからすばらしい富士山の姿が見えることで知られていて、浮世絵師の安藤広重もこの辺りからみた雪景色の富士山を「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に描いています。また、この橋の西側約600m先には、鎌倉幕府を開いた源頼朝が祈願したことなどで有名な「三嶋大社」があるほか、その三嶋大社東側には、旧暦を代表する暦として市の指定文化財にもなっている「三嶋暦」を製造販売していた河合家があります。この河合家の旧家は「三嶋暦師の館」として一般開放されていて、三嶋暦に関する資料がご覧になれます。」眺望地点とは、富士山その他の三島特有の景観を眺望できる地点を三島市が指定したものだと。 確かに良い眺めだが、電信柱と電線が邪魔をするのであった。残念ながらこの時は雲が富士山頂を隠していた。浮世絵師の安藤広重もここから見た雪景色の富士山を「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に描いている。 旧東海道から50mほど南の大場川沿いにあった『無縁法界地蔵尊(むえんほうかいじぞうそん)』。「江戸時代、重罪を犯し斬罪となった者の首は、東海道を往来する人々の見せしめとされました。宿はずれの新町橋際(しんまちぎわ)にあった獄門台(ごくもんだい)にのせられ、罪状を書いた捨て札を立て、番小屋には番人を置き、数日間晒したといいます。これらの晒し首で引き取り手のないものを憐れんで、霊を慰めるためいつの頃か地蔵尊が安置され供養されるようになりました。」旧街道に戻り右手に『守綱八幡神社』。創建は不明であるが寛永年間頃とされている。北面武士盛綱の霊を祀ると伝わり境内には常夜燈などがある。明治16年の千葉屋火事で古い記録等を焼失したと。北面武士とは、上皇に仕え身辺の警衛などを勤めた武士。 ・・・その8・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線に向かって急カーブの旧東海道を進む。国道1号線に合流する手前まで来る。合流ポイント左手に『萬霊等』が。漸く三島塚原I.C」信号手前で国道1号線に合流する。その合流した左側に西坂側箱根路の大きな自然石に刻まれた碑が置かれていた。碑の右側面には『箱根路の碑 昭和四十三年八月』と刻まれていた。さすがにきつかった箱根路もここで終わり。京側から見ればここが箱根西坂の入口になる。東坂入口の碑は丸かったが、西坂は四角だった。三島塚原IC交差点から富士山を見る。橋の下を走る伊豆縦貫自動車道は渋滞中。そして三島市谷田の国道1号線の松並木が始る。この松並木は『初音ケ原松並木』と呼ばれていると。初音ヶ原の地名は源頼朝が箱根権現に詣でた際に、ここで鶯の初音を聞いたことに由来しているのだと。実は松並木の右側には旧東海道の石畳が敷設されていたのであったが、しかしこれは作られた初音ケ原石畳遊歩道であって、本来の旧道は国道1号線であるとのことであったので敢えて反対側に渡らず進んだのであった。富士山の姿を追いかける。松の樹には菰が巻かれていたが枯れてしまっている松も。『富士見ヶ丘』バス停前を通過。松並木の間から富士山を。久しぶりの、日本橋から116.6Km。そして前方に小高い丘そして大きな樹木が見えて来た。『錦田一里塚』。国道下り線側の東塚。道路の向こう側には西塚(初音ヶ原石畳側)『錦田一里塚 国指定史跡』 「江戸幕府は慶長九年(1604)、東海道をはじめ主要街道に並木を植えるなどして街道を整備した。その一環として一里(約四km)ごとに街道の両側に直径約10mの円形の塚を築き、その上に風雨に強いエノキや松を植え、これを一里塚と称した。一里塚は大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠の賃金の目安、旅人の憩いの場等、多方面に活用されていた。錦田一里塚は江戸日本橋より始まる東海道の二十八里(約112km)の地点にあり、松並木の間に道路をはさんで向かい合って一対残っており、旧態を保っていて貴重であるので国指定史跡となっている。」『国指定史跡 東海道一里塚』『史跡 錦田一里塚』錦田一里塚は、街道の基点となっていた江戸から数えて28番目の一里塚。一対で残っているものは貴重で、大正11年(1922)に国指定史跡になった。榎が植えられたのには逸話が残されていると。徳川家康が「ええ木を植えよ」と言ったのを、家臣の大久保 長安(ながやす)が「榎を植えよ」と聞き間違えたというもの。真偽のほどは明らかではありませんが、理由のひとつとして、榎は根が深く張るため、塚が崩れにくいからだと考えられていると。国道下り線側の東塚である『錦田一里塚』を振り返る。松の間から再び。『一里塚歩道橋』を渡る。そして旧東海道を左折して『田福寺』を訪ねる。東向山天徳院田福寺は、箱根旧街道(国道一号線三谷バイパス)の入り口から東へ約五百メートル、川原ケ谷の信号を右に曲がり、創価学会三島平和会館の横道を進むと、突き当たりの左側にあった。同寺は応長元年(一三一一)、遊行二祖陀阿真教上人の弟子、覚阿栄証によって開創された。往時は三島大社から南へ約三百メートル、下田街道に面して東向きに建っていたため、「東向山」という山号がつけられたという。安政の大地震(一八五四)で火災に遭い、古記録等の多くを失ったため、それ以前の歴史は定かでない。明治三六年、同寺の南側に道路が開かれた際に、寺院を南向きに改めた。さらに、昭和五九年、同寺の西側を通る県道二一号線の拡張に伴い、墓地の大半が道路用地と重なったため、全山を現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来の坐像。行基作と伝えられてきたが、胎内に墨書があり、底部に「一六世其阿」との記載のあることから、室町時代の作と推測されている。また、本堂内には室町時代に作られた遊行二祖陀阿上人の立像も祀られていると。入口には時宗総本山遊行寺の惣門にそっくりの黒の冠木門が。『冠木門』。「二本の柱の上部に冠木を貫き渡し、上に屋根をかけた門のことであるが屋根のないものが多い。鎌倉時代に武家の館に用いられ、室町時代以降は将軍御所や諸大名の邸の外門に多く見られる。江戸時代の大名表門によく使われ、各宗の寺でも用いたが、今日では時宗総本山遊行寺の門が有名である。時宗で七ヶ寺目のもの、昭和五十九年三月の建設である。」田福寺は、1311年、現在の大社町に開山。1984年西側道路の拡張工事の為、現在地に移転をした。同年4月29日のお施餓鬼のときに、本尊 阿弥陀如来坐像を開帳したと。総本山は、藤沢の清浄光寺。『本堂』境内には遊行上人の御親教の碑が。『信不信をえらばず、浄不浄をきらわず』。一遍は、信心をもっていてもいなくても、どんな人も阿弥陀仏によって往生するのであるから、素直な心で仏を求めて念仏を唱えるだけでよいのだと。『東向山』と書かれた扁額。『南無 やけどよけ地蔵尊』1棟に二つの堂が。左が『地蔵堂』。右に『不動堂』。不動堂の横には『不動尊』石碑。そして再び旧東海道に戻り富士山の姿を。日本橋から117.1Km。松並木もこれで終わりか。『愛宕町』バス停。五本松交差点の角には『歌碑』が。『箱根八里の 馬子吹消えて 今は大根を 造る歌 源水』。『愛宕坂』 「五本松交差点」を渡った正面の塚状に箱根旧街道の案内板が立っていたので、それに従って塚を右に廻りこむと、石畳(復元)の下り坂に。ここは三島市街地に入る最後の急坂となる愛宕坂で、少し下った左側に説明板が立っていた。「前略江戸時代には、現在の東海病院の敷地には愛宕社ほかの社寺がありましたが、現在は「愛宕山」と刻んだ碑だけが頭上のこんもりした小山に残っています」愛宕坂からの富士山。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.03
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昨日4月1日(月)の11:40頃、菅義偉官房長官は首相官邸で記者会見し、新しい元号を発表したのであった。(新元号に関する以下の写真は、テレビ画面を撮影し、転載させていただいています。)『大化』から248番目の新しい元号は『令和(れいわ)』。『令』の文字の元号使用は初めて、そして『和』は「昭和」に続いて20回目と。そして昭和➡平成➡令和と、日本人の『平和』への願い・誓いが綿々と繋がっているのです。奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集『万葉集』の巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文(「梅花の歌三十二首并せて序」)を典拠とすると。大伴旅人を中心とするグループが詠んだとされると。『出展は万葉集”序文” 込められた意味は』「春の初めの良き月に、さわやかな風が・・・・」そして、安倍晋三総理大臣は、菅官房長官の発表に続き、記者会見で談話を発表した。「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました。」と。民法のニュースでは今回の元号の『令』の意味をしっかり説明すべきであると。命令する意味の『令』ではなく、『令』には「令嬢」「令息」といった言葉に使われるように『良い、立派な、清らかで美しい』の意味があることを。日本経済新聞にも『新元号「令和」を読み解く 二文字が持つ意味は?』⬅リンク の記事も。更に今後使用する『令』の書体についてもNHKニュースではそして既にウィキペディアには『令和』⬅リンク の項目が出来ているのです。今年2019年は、4月30日までが平成31年、5月1日0時からが令和元年になる予定で、2つの元号に跨る年となるのです。残された約1ヶ月の『平成』を元気にそしてアクティブに、充実した日々を過ごし、新たな元号『令和』を5月1日に迎えたいと考えているのです。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次三ツ谷新田に入り、朝鮮通信使や徳川家茂や慶喜の寺本陣になった『松雲寺』を訪ねる松雲寺は、尾張・紀伊両大納言をはじめ、東海道を往還する参勤交代の大名たちの休息所となり、朝鮮通信使や徳川14代家茂公・15代慶喜公などの「寺本陣」ともなった。明治天皇は、「三ツ谷新田御小休所」として、度々御成りになられた。また、坂小学校の前身である「三ツ谷学校」は(明治6年から同43年まで)松雲寺が寺子屋教師として用いられた。『明治天皇史跡』碑。明治十一年(一八七八)八月、明治天皇は一府十二県を巡る北陸・東海両道の行幸を催した。馬車中心の移動であり、馬車が通れない場合は肩輿〈けんよ(肩に担ぐ輿)を用いた。右大臣岩倉具視(いわくらともみ)や参議兼大蔵卿(おおくらきょう)大隈重信(おおくましげのぶ)らが供奉(ぐぶ)員として従った。京都から東京への復路で東海道各所を巡り、十一月七日に箱根越えをされたと。そのとき、小憩所として用いられたのが松雲寺の「三谷学舎」。『本堂』。覚源山松雲寺の本尊は蓮大聖人の図顕された大曼荼羅松雲寺は、三ツ谷新田内を縦断する東海道沿いに位置。正保元年(一六四四)松雲院日明が構えた庵( いおり)を前身とし、明暦二年(一六五六)に創建されたという日蓮宗寺院。江戸時代、東海道を通行する尾張徳川家や紀伊徳川家が休息所として用い「寺本陣(てらほんじん)」と呼ばれていた。『覚源山』と書かれた扁額。『浄行菩薩』。『普照観世音菩薩』『忠魂碑』『明治天皇 御腰掛石』 陛下は、この石に御庫仕掛け腰掛けになられ、冨士の霊峰を眺められたと伝えられている。「小車の をすきまをあけて みつるかな 朝日輝く ふしの白雪(御製)」 樹齢400年の『ヤブイツバキ』。『参杉明神』「昭和33年9月26日狩野川台風のため、境内の樹齢約400年の大杉3本が折損す。永年の恩に報ゆるの意を以て、神号を捧げてこれを祀る。」松雲寺からの富士山と遠くに冨士市が。ズームで。『塵を払い垢を除かん』。松雲寺を出て進み、再び右手の富士山と愛鷹山と周辺の山々。「三ツ谷下バス停」を過ぎ、旧国道が左カーブして行く所で右へ下りてゆく細道があるので、そちらに進む。この旧道は「あじさいロード」と称されている。下った直ぐ右側の草地に『史跡 法善寺旧址』と刻まれた大きな石碑が建っていた。「去る 三百有余年前 元禄十七年(徳川綱吉の時代)久遠実成本師釈迦牟尼仏を本尊とし 高祖日蓮大菩薩を大導師に仰ぎ開山 境妙院日宗聖人(玉沢本山妙法華時 京都大本山妙顕寺兼帯)に依り創建される。現 坂小学校の校庭と坂公民館が其の跡地なり 幾多歴史の変遷の中現在の市山新田ニ〇六番地に移転した。当山第三十二代真光日宗」。更に、旧道は直ぐ先の「坂幼稚園」の手前を右に下りて行く。下り口に道標が立ち、来た方向に『箱根峠』、下りて行く方向に『題目坂・三島宿』と示されていた。『七面堂旧址』石碑の正面には『征夷大将軍足利尊氏公建立 七面堂旧址』、左面には、東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛の狂歌『あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いうべかりける 小林一九著書』と刻まれている。七面堂とは、日蓮宗の護神七面大明神を安置する御堂のことである。『箱根旧街道 題目坂(だいもくざか)』「(前略)ここ題目坂は、玉沢妙法華寺への道程を示す題目石から名付けられたと言われている。題目石は、現在法善寺に移されている。」この先の題目坂は細い急階段になっていた。そして国道1号線に合流。『題目坂』の階段を振り返る。合流した先の右手にあったのが『山神社』『御神木指定証』山神社『社殿』。「山をおさめ司る神と仰がれ、山林・農耕・殖産の徳を持つ五穀豊穣の神様です。本殿は精巧で彫刻にも彩色を施され、享保14年(1729)9月の棟札があります。豊臣秀吉の小田原攻め(1590)の時、北條氏の出城であった山中城攻めの正面攻撃路に当たります。昭和57年8月1日の台風で社殿が大破しましたので氏子一同協力して、翌年4月25日木造銅板葺で新改築を完成しました。」『末社』。次に山神社の隣にあった『法善寺』を訪ねる。境妙山 法善寺。大時雨坂の手前から移ってきた寺。法善寺は三島市玉沢の妙法蓮華寺の日宗上人が1683(貞亨3)年、寺への道案内の題目碑を建てたことに始まると。妙法蓮華寺は鎌倉から移転してきた日蓮宗の寺で(鎌倉の跡地は実相寺になっている)、徳川家康の側室お万の方(養珠院)や紀伊徳川家に庇護されたと。『境妙山』と書かれた扁額。『三界萬霊塔』『六地蔵』山神社、法善寺の門前を過ぎた先の右側に赤い屋根の地蔵堂があり、左隣に前後二組の六地蔵と萬霊塔が祀られていた。地蔵堂のお地蔵様は、火事が出ないように村人に代って毎晩見回りをしてくれるため、この辺りでは殆ど火事がなかったと伝えられている。六地蔵は、死後に必ず行かなければならない六つの世界「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」を表すと云われている。『臼転坂(うすころげざか)』地蔵堂の直ぐ先に、地図には載っていない上る旧道があった。ここは臼転坂の入口で、箱根西坂で最後の石畳道であった。右に上ったすぐの所に道標と箱根旧街道 臼転坂の説明板が立っていた。道標には、右『臼転坂・三島宿』と示されていた。『箱根旧街道 臼転坂』「(前略)ここ臼転坂は牛がこの道で転がったとか、臼を転がしたため、この名がついたと言われている。」臼転坂は別名、恋し坂とも言われると。臼転坂を上る。久しぶりの山道の感あり。『馬頭観音』 臼転坂の途中に馬頭觀世音と書かれた大きな石碑と小さな石仏が3基並んでいた。前方が三島宿、後ろが臼転坂・箱根峠と書かれた道標。そして県道に合流し暫く歩くと左手に新築の『普門庵』が。この普門院の本尊は聖観音菩薩像。この観音様は1701(元禄14)年、鉄牛という僧が背負って来たが、ここに来ると突然重くなり動けなくなり、そのためここに安置したと。『普門庵』と書かれた扁額。『普門庵』の横には馬頭観音や観音坐像等の多数の石造仏、石塔が。そして次に『宋福寺』を訪ねる。1590年に豊臣秀吉が小田原を攻めた際、出城となった山中城で出た戦没者を追悼するために創建された寺院。『山門』。『萬霊塔』。地蔵様が2体。『六地蔵』。『西国三十二所供養塔』。地元の陸軍兵士の供養碑か?『本堂』泉龍山(せんりゅうさん)宗福寺(そうふくじ)は曹洞宗の寺。本尊は阿弥陀如来。伊豆八十八ヶ所霊場22番の寺。『本堂内』。『謹賀新年 平成31年』『座禅会 だまって座ればぴたりと当たる 一切の苦厄を度し給ふ』と。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.02
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『旧東海道を歩く』 目次延べ 区間👈リンク ブログ 年月日 移動年月日👈リンク 日数 通過宿----------------------------------------------------------------------------------------------1. 日本橋➡品川宿 その1~その7 2018.02.15 日本橋 品川宿 品川宿(周辺散策) その1~その8 2019.01.092. 品川宿➡川崎宿 その1~その8 2018.10.26 品川宿 川崎宿3. 川崎宿➡保土ヶ谷宿 その1~その8 2018.11.05 川崎宿 神奈川宿 保土ヶ谷宿4. 保土ヶ谷宿➡藤沢宿 その1~その7 2018.11.14 保土ヶ谷宿 戸塚宿 藤沢宿5. 藤沢宿➡大磯宿 その1~その10 2018.11.20 藤沢宿 平塚宿 大磯宿6. 大磯宿➡国府津 その1~その8 2018.12.01 大磯宿7. 国府津➡小田原 その1~その9 2018.12.04 小田原宿8. 小田原宿➡箱根宿 その1~その5 2016.05.07 小田原宿 箱根宿9. 箱根宿➡三島宿 その1~その12 2019.01.04 箱根宿 三島宿10. 三島宿➡原宿 その1~その11 2019.01.16 三島宿 沼津宿 原宿11. 原宿➡富士 その1~その7 2019.01.28 原宿 吉原宿12. 富士➡興津宿 その1~その9 2019.03.08 蒲原宿 由比宿 興津宿13. 興津宿➡安倍川 その1~その12 2019.03.15 興津宿 江尻宿 府中宿14. 安倍川➡藤枝宿 その1~その10 2019.03.20 鞠子宿 岡部宿 藤枝宿15. 藤枝宿➡金谷宿 その1~その9 2019.03.27 藤枝宿 嶋田宿 金谷宿16. 金谷宿➡掛川宿 その1~その14 2019.04.03 金谷宿 日坂宿 掛川宿17. 掛川宿➡見付宿 その1~その12 2019.04.09 掛川宿 袋井宿 見付宿18. 見付宿➡浜松宿 その1~その13 2019.05.23 見付宿 浜松宿19. 浜松宿➡新居宿 その1~その6 2019.05.24 浜松宿 舞阪宿 新居宿20. 新居宿➡二川宿 その1~その13 2019.09.25 2019.09.24 新居宿 白須賀宿 二川宿21. 二川宿➡御油宿 その1~その9 2019.09.26 吉田宿 御油宿 22. 御油宿➡岡崎宿 その1~その10 2019.10.15 2019.10.14 御油宿 赤坂宿 藤川宿 岡崎宿23. 岡崎宿➡豊明 その1~その21 2019.10.16 岡崎宿 池鯉鮒宿24 豊明~桑名宿 その1~その14 2019.11.23 2019.11.22 鳴海宿 宮宿 桑名宿25. 桑名宿➡四日市宿 その1~その12 2019.11.24 桑名宿 四日市宿26. 四日市宿➡加佐登 その1~その12 2020.01.20 2020.01.19 四日市宿 石薬師宿27. 加佐登➡関宿 その1~その15 2020.01.21 庄野宿 亀山宿 関宿28. 関宿➡土山宿 その1~その17 2020.02.21 2020.02.20 関宿 坂下宿 土山宿29. 土山宿➡水口宿 その1~その13 2020.02.22 土山宿 水口宿30. 水口宿➡手原 その1~その19 2020.03.21 2020.03.20 石部宿 31. 手原➡大津宿 その1~その19 2020.03.22 草津宿 大津宿32. 大津宿➡京都三条 その1~その11 2020.03.23 大津宿 京都三条大橋
2019.04.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次一旦国道に合流して、「山中城口」信号を渡ると旧道が真直ぐ続くのだが、今回、この先の箱根旧街道2箇所が工事中のため通行止めになっていた。この工事は長く続いているようであった仕方がないので、大きく左回りの国道1号線を歩く。右手に『菊池千本槍の碑』が建っていた。建武2年(1335年)11月、この箱根・竹ノ下の戦いにおいて、足利尊氏の弟として知られる足利直義の率いる兵3,000名と戦った菊池勢1,000名は足利勢に圧され、弓、薙刀の大半を失い敗走寸前の状況に陥ったようです。しかしこの時、菊池勢を率いる菊池武重が、竹藪から各自、手頃な竹を切らせ、それに各自が腰に差している短刀を結わえて作らせた即席の槍を発案し、これを用いて菊池勢は反撃に討って出て、これまで見た事のない武器を用いた相手に足利勢は大いに苦戦し大逆転したと。当時の武器は太刀や薙刀で、槍のように突く武器がなく、この戦いから槍が全国に広がったのだと。国道1号線の大きなカーブを下って行く。駿河湾が見えて来た。そして富士山の雄姿も。ズームで。宝永噴火口もはっきりと。国道から見ると右から左へと通行止めの旧道が縦断しているのであった。「富士見平ドライブイン」がある広場に出る。ここにも『山中新田』の道標が。旧東海道の通行止めはここまでの様であった。この広場の右側に大きな芭蕉句碑が建っていた。「霧しぐれ 冨士を見ぬ日そ 面白き 芭蕉」貞享元年(1684)旧暦8月、『野ざらし紀行』で箱根越えをした時に詠んだ句。芭蕉が歩いた時は、私と異なり霧時雨で富士山が見えなかったようだ。そして国道を横断し、更に旧街道の坂道を下りながら富士山の雄姿を楽しむ。同時に反対側には駿河湾の雄姿も。前方に三島スカイウォークが見えて来た。再び富士山の絶景。旧街道の『上長坂』の石畳道を振り返る。『笹原新田』の『夢舞台・東海道』標柱 標柱には『函南町(宿境まで二十一町) ← 三島市 笹原新田(笹原地区石田) → 三島宿(宿境まで一里二十三町)』と書かれていた。そして国道1号線に合流し、『日本一の大吊橋』・『三島スカイウォーク』を右手に見ながら進む。静岡県三島市にある、歩行者専用としては日本一長い全長400mの大吊り橋。三角形のコラボの絶景。この日に中に入るとこの様な絶景が見られたこと間違いなし。 【https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_1782/】よりここから、左方向の旧道(石畳)に入って行く。下の写真で、右側が国道、真直ぐ進むと駐車場、その手前の石畳を左に入って行くのが旧街道。写真を写している右手に三島スカイウォークが。『馬頭観音』旧街道の石畳道に入って直ぐ右側に馬頭観音等が4基祀られている祠が建っていた。暫く歩くと左手に一里塚前の道標が。『笹原一里塚』笹原新田の集落に入り、国道を横切る少し手前に笹原一里塚が石垣の上に。 一段上った所に昔ながらの一里塚が残っていて、傍らには『箱根旧街道笹原一里塚 三島市』と刻まれた標柱が立っていた。江戸の日本橋から27番目なので、江戸から約108km。塚の傍には、箱根八里記念碑(大岡信)も建っていた。「森の谺(こだま)を背に 此の径(みち)をゆく 次なる道に 出会うため」歩いて来た石畳の坂道を振り返る。国道1号線に合流。少し国道1号線の坂を上り戻ると右手にあったのが『山神社』。そして再び国道1号線を戻り横断歩道を渡る場所にあった『笹原新田』の『夢舞台・東海道』標柱。『箱根旧街道』の表示板。この様な表示板は旧東海道を歩く人間には極めて優しいのであった。『箱根旧街道 下長坂(こわめし坂)』説明ボード。「慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都を・大坂を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三ニkm)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。現在、この区間の車道の最大勾配(傾斜)は一二%だが、この道は平均ニ〇%、最大四〇%なので大変な急坂であったことがわかる。ローム層の土で大変滑りやすい道なので、延宝八年(1680)頃には、宿内を除くほぼ全線が幅二間(約三・六m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や道のりを正確にするための一里塚がつくられた。参勤交代や伊勢参りなど、旅が恒常化するとともに賑わった旧街道も、明治二二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)、国道一号線の敷設によって衰退した。ここ下長坂は別名「こわめし坂」ともいう。急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸されてついに強飯(こわめし)のようになるからだという。」その入口右側に道標が立ち、左『こわめし坂・三島宿』、左『笹原一里塚・箱根峠」と示されていた。旧道に入ってすぐ右側に道祖神と馬頭観音を祀る祠が建っていた。この先、箱根西坂で一番の難所と言われたアスファルトの急坂、『こわめし坂』が待ち受けているのであった。『こわめし坂』を下る手前途中右手にあったのが『一柳院』。『一柳院』と書かれた扁額。秀吉の山中城攻めで討ち死にした家臣の一柳直末の胴体を葬ったという。天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。3月29日、伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した。享年45。山中城三の丸跡の宗閑寺に墓が現存していると宗閑寺にお墓があったのにここにも。そして『こわめし坂』を下る。ここ下長坂は別名「こわめし坂』。急勾配で、背に負った米も人の汗や蒸気で蒸されて、ついに強飯(こわめし)のようになるからだという。「この坂は箱根旧街道西坂第一の難所でこわめし坂と言い、昔この辺りの斜面の一角に、「念仏石」と呼ばれる横九〇cm、縦一二〇cmほどの大石があったということです。この石は昭和二十年代頃の大雨のとき、斜面が崩れ埋められてしまったと言われています。平成八年二月に発掘を行いましたが、この発掘では念仏石らしきものは発見されませんでした。」そして『こわめし坂』もこの先まで。そして国道1号線と合流した場所の左にあったのが『天神社』。ここから三ツ谷新田の集落に入って行く。『天神社』。「創建は明和3年(1766)と伝えられる。東海道、三島宿から箱根に至る山街道の中間地点に鎮座し、単に三ツ谷新田の氏神というよりはこの地方の総氏神としての性格を持った神社である。この神社は時々土砂崩の為に流されたところから、「流れの天神」とも称される。明治43年4月に同村内の山神社を合併した。」手水舎。社殿への急な階段を上る。『社殿』。地蔵尊。国道1号線には『三ツ谷の夢小路』遊歩道入口の案内図が。 ・・・その5に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線に出ると歩道橋の先に山中城本丸そして駒形神社入口が見えて来た。『山中新田』の標柱。『史跡 山中城阯』と駒形・諏訪神社の石鳥居。『史跡 山中城跡(☚リンク)』石鳥居には『駒形 諏訪神社』と刻まれた石の扁額が。入口左には石灯籠や石塔、地蔵様が置かれていた。そして参道を進んで行くと神社の屋根が無残にも破壊されていたのであった。神社の正面の屋根が折れ曲がって。『諏訪・駒形神社』の説明ボードも倒れて。 『史跡山中城の本丸に守護神として祀られた。建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国譲りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。後、転じて日本第一武神と仰がれる。日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や東国を征した。弟橘姫(おとたちばなひめ)の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(1590)後、人々移住し箱根山の往還の宿場として栄えた。」『天然記念物 駒形諏訪神社の大カシ』と刻まれた石柱と説明ボードが。「県指定天然記念物ここ駒形諏訪神社は、山中城跡本丸曲輪内にある。大カシ(アカガシ)は樹齢約五〇〇~六〇〇年と推定され、本丸への入口部分にそびえており、約四〇〇年前、天正十八年(1590)の山中城合戦時には、既に生育していたものと考えられる。根廻り九・六m、高さニ五m、幹は地上四mのところで七本の主枝に分かれている。空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内一・ニの大木である。」『空洞や損傷もなく樹勢は良好であり、県内一・ニの大木である』と書かれていたが目の前には・・!!。ネット(☚リンク)で調べてみると、昨年の台風21号の強風で倒木し駒形諏訪神社も一部損壊したのだと。駒形諏訪神社の横には山中城の『兵糧庫跡(ひょうろうこあと)』が。「ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅五〇cm、深さニ〇cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画に分けていた。西側の区画からは南面する三間(六・七m)、四間(八・七m)の建物の柱穴が確認された。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏(つき)・甲冑片・陶器などが出土している。」兵糧庫跡には多くの小さな穴が。『兵糧庫跡の柱穴と大きな穴』。兵糧庫跡の柱穴は東西南北に整列した20個、付近から基礎と思われる平らな石が出土したことから建物跡と推定されています。4個並んだ『大きな穴』の規模は直径1.5メートル、深さが2.5メートル、用途不明と記されていた。復元された『兵糧庫』。この後、久しぶりに山中城跡内部を更に散策したかったが、時間の余裕がないためやむなくこの場を後にしたのであった。この山中城跡は『日本百名城スタンプラリー(☚リンク)』の折に詳しく散策していたのであった。そして旧東海道に戻ると『山中』バス停が。右手に『山中公民館』が。右手の『宗閑寺』入口に『山中城趾記念之碑』が建っていた。「山中城係北條氏康創築葢為西方防禦也天正十七年氏政修築之與韮山城兵為小田原城前衛東西約三町北方之森為本丸西方之小丘為二之丸現宗閑寺境内及附近為三之丸城主松田直長與援将北條氏勝以四千餘人守之又南方隔四丁構岱崎出丸間宮康俊以手兵百餘人守之翌年即距今三百四十年三月二十九日豊臣秀吉攻之右翼堀秀政等将二萬人中軍豊臣秀以二萬人左翼徳川家康三萬人而一柳伊豆守直末為中軍先鋒肉薄不避矢砲不孝中流丸而斃弟監物直盛代之奮戦遂略取之城主及武将等悉自刃遁去城址所在属静岡県田方郡錦田村山中新田為史蹟保存建此碑以傳於後世云爾」とネットから。宗閑寺『本堂』。本堂の左手には、北条軍と豊臣軍の武将の墓が並んでいた。左側奥に北条軍の墓碑、右側奥に豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑。階段を上ると左側に三つの墓碑が並んでいた。左:上州箕輪城主 多米出羽守平長定墓 天正十八庚寅年三月廿九日 於山中城戦死中:長谷川志摩守平近秀墓右:追沼帯刀先生氏雅墓『宗閑寺と武将の墓』東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は静岡市の華陽院の末寺。開山は了的上人、開基は間宮豊前守の女、お久の方と伝えられている。ここには山中城落城の際、北条軍、豊臣軍の武将たちの石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊(普光院殿武月宗閑潔公大居士)兄弟とその一族、城主松田右兵衛太夫(山中院松屋玄竹大居士)、群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓と共に、豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末(大通院殿叟長運大禅定門)の墓碑がうらみを忘れたように並んでいる。」境内は、山中城三の丸跡であると。本堂の左手には、北条軍と豊臣軍の武将の墓が並んでいた。左側が城主松田右兵衛の墓、右側が一柳伊豆守直末の墓。一柳伊豆守直末の墓碑には「大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門」と刻まれていた。城主松田右兵衛の墓石の最上部には✖の印が確認できた。隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではないとのことであるが、クルス紋ではないかと。様々な石碑や石柱、墓石が。 そして更に100m足らずの右側・石段の上ににあったのが『芝切地蔵』。『柴切地蔵尊』。『芝切地蔵』「その昔、山中新田の旅籠に巡礼姿の旅人が泊った折、急に腹痛におそわれ世を去った。この旅人が死ぬ間際に「私を地蔵尊として祭ってください。そして芝塚を積んで、私の故郷の常陸が見えるようにして下さい。そうすれば村人の健康を守ってあげますと言い残したという。 村人は旅人の言ったとおり地蔵尊を祭り、毎年七月十九日を縁日として供養するようになった。それにあわせて「小麦まんじゅう」をつくり、参拝に来た親戚の者を接待したが、その味が大そうよかったので有名になり、一般の参拝社に売られるようになった。この祭りには江戸時代、沼津方面からも大勢の参拝者が集まり、さい銭とよく売れた「小麦まんじゅう」の利益とで、一年間の山中部落の費用がまかなえたといわれている。 」地蔵尊の見事な彫刻。本堂前の石碑。そして歩を進めていくと再び国道1号線に出た。ここが『山中城跡入口』。『国指定史跡・日本百名城 山中城跡』。この場所は『箱根西麓ハイキングコース』の一部。『国指定史跡 山中城跡案内図』。階段下の標柱には『三島宿(宿境まで一里三十五町) ← 三島市 山中新田(山中城跡)→ 函南町(宿境まで九町)』と書かれていた。標柱の所から左に上る階段があり、この上も山中城の曲輪が幾つかあるが、こちらも今回は行かなかった。そして箱根旧街道を進む。山中城の岱崎出丸入口の表示が。山中城岱崎出丸址は山中城の最前線基地である岱崎城(出丸)跡。天正十七年北条氏康が豊臣秀吉の来攻に備えて急いで築城した山城。天正十八年豊臣軍の総攻撃によりわずか半日で落城。城跡は昭和9年(1934年)国の史跡として指定。『箱根八里記念碑』石畳を少し下って、右下へ階段がある右角に箱根八里記念碑(司馬遼太郎)が建っていた。「幾奥の足音が 坂に積もり 吐く息が 谷を埋める わが箱根にこそ」 司馬遼太郎更に杉並木、石畳の坂を下る。そして再び国道1号線に合流。突き当りが国道1号線。富士山の白き山頂が雲の合間から美しく。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.03.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『明治天皇御小休址』を見学後は来た道を分岐場所まで引き返し分岐を右に行き『施行平(せぎょうだいら)』の展望台を訪ねる。石積みの上には大きな石碑が。『箱根八里記念碑 東山魁夷』。「青山 緑水」と刻まれていた。施行平から大きな石碑方面を見る。見事な富士山の雄姿。ズームで。三島市街と伊豆半島と駿河湾。淡島の姿も。再び富士山を。この石碑は?石畳と左手には篠竹の石原坂を下る。静岡県に入ると『この先 記念碑有り』が様々な場所に立っていた。『念仏石』石原坂を進むと右手に大きな岩がある。念仏石の手前に南無阿弥陀仏・宗閑寺と刻まれ碑があるが、旅の行き倒れを宗閑寺が供養して碑を建てたものである。何故かこんな場所に〒マークが。旧東海道脇には仮設トイレも。山中城跡まで1.3Kmの表示が。旧東海道の案内図が所々に。大枯木坂・山中城跡方面に進む。石畳の大枯木坂を下る。『東海道400年祭 箱根西坂森づくり広葉樹植林地』植林された広葉樹は葉を全て落としていた。三島市の山々が下方に見えて来た。大枯木坂を下ると農家の庭先に出て、突当りを左折する。国道1号線に合流する。横断歩道を渡り更に坂道を下る。国道1号線に合流して間もなく左側に箱根旧街道の道標があり、急な階段を下る。小枯木坂の石畳が始まる。『箱根旧街道 願合寺地区の石畳復元・整備(☚リンク)』説明パネル。『山中新田』石畳道に入って間もなく山中新田の標柱が建っていた。山中新田は東海道の制定に伴い立場として新設された村で元の場所は元山中の地名で今も残っている。この近くの石畳道には、発掘調査により石橋が発見されたため、その場所に整備・復元している。『箱根旧街道 埋もれていた一本杉石畳(☚リンク)』説明パネル。更に石畳の坂道が続く。そして舗装されたカーブの場所も。旧街道の道の下には墓石?がポツンと。再び石畳の道になりしばらく歩くと右手に『雲助徳利の墓』の墓が。国道1号線に合流する手前に雲助徳利の墓があり、墓石には徳利と盃が陽刻されている。松谷久四郎という西国大名の剣道指南役が大酒のみのために事件を起こして、国外追放となり、箱根で雲助の仲間となって世話をしているうちに親分以上に慕われるようになった。これは生前世話になった雲助が相談して恩返しのために建てた墓であると。ユニークな模様の墓石。墓石には徳利と盃が陽刻されていた。雲助の墓は、もと接待茶屋付近にあったが、現在は山中新田東端の老杉の下にあった。この墓の主は、久助という人で、なかなか立派な家の出であったといいます。一説には武家の生まれともいわれ、なかなかの器量人であった様です。しかし、どのような理由からか一生を人の卑しむ雲助で終わりました。日頃、頭役となって仲間の取り締まりをしていましたが、困窮の者や若者のめんどうを、身銭を切ってもしてやりました。これは、雲助だけのことではなく、街道筋の百姓にも同じでした。ことに、往来の悪者に難くせをつけられて、弱りきっている者を身をもってかばってくれたと。したがって、仲間の者からも、また、街道沿いの百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は、終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったといわれています。その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助の墓」といわれるこの墓なのです。石碑の前面に、大きく杯と徳利を浮彫にして、全体にしゃれた趣を漂わせたこの墓は、彼の人柄をよく表現しています。往年は、香華の煙の絶えることがなかったといわれています。 そして再び国道1号線に合流した。 『品濃坂』旧道は横断歩道橋のところで国道1号線に合流した。ここには史跡箱根旧街道の標柱。南無阿弥陀仏碑、三界萬霊塔が建っていた。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.03.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次長い丸石が敷き詰められた旧東海道の急坂を上りつめ、国道1号線に出る。右側の道を箱根峠に向かって歩く。前方の「箱根くらかけゴルフ場」への道が旧東海道。そして再び二股に分かれる場所が前方に。Iphonesで確認し、右手の道を進む。三島方面に歩を進める。県道20号線・湯河原パークウェイ方面に入ってすぐ左側・箱根峠のバス停の横にあったのが『箱根の親不知(脚気地蔵)』実の親とも知らずに殺して金品を奪ってしまった不運な親子の供養塔だと。息子を探して旅に出た父親がここで持病の脚気で倒れて、通りかかった男が介抱を装って短刀で刺し殺し財布を奪おうとしたら、見覚えがある財布で、親だとわかり泣き伏した・・・自害を企てたが死にきれずに苦しみ続け山中の宿までたどりつき相はてたと。斜面をかき分けて上っていくと直ぐに供養塔を発見。そして国道1号線に戻り進むと右の斜面に現代の一里塚ともいうべき新しいモアイ像のような石像群が並んでいた。2003年に建てられた『新箱根八里記念碑(峠の地蔵)』であると。地蔵八体にそれぞれ、おしん辛抱(橋田寿賀子)、花見る人は皆きれい(黒柳徹子)、夢に向かってもう一歩(向井千秋)、花は色なり人は心なり勇気なり(桜井よしこ)、細心大胆(橋本聖子)、あと杉本苑子・穐吉敏子・宮城まり子と8人の女性著名人が名を連ねていた。箱根旧街道を散策する人々にとって旅のひとときの憩いになればと、8人の現代一流文化人が街道に寄せる熱いメッセージを埋め込んだ石碑であると。そして箱根峠を通過し静岡県に入る。『箱根旧街道入口』方面に右折する。左手奥に『峠茶屋』が。左手に箱根旧街道西坂入口があった。入口には道標 「是より江戸二十五里 是より京都百里」 があり、踏み込むと正面に東屋、八ツ手観音、井上靖の箱根八里記念碑などがあった。当時の道しるべの石碑があり、江戸まで25里(約100km)、京都まで100里(約400km)と。『箱根旧街道 茨ヶ平(ばらがだいら)』「慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を越える箱根八里(約32km)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。ローム層の土で大変滑りやすい道なので、最初は箱根竹の束を敷いたが延宝八年(1680)に、幅二間(約3.6m)の石畳に改修された。その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを一里ごとに示す一里塚がつくられた。参勤交代や伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)国道一号線の敷設によって衰退した。このあたりは、い茨(いばら)が生い茂っているので付近の草原を茨ヶ平(ばらがたいら)という。」兜石の道標と案内板があった。東屋があるのでひと休み。『兜石の標柱』静岡県に入ったここから設置されている『夢舞台・東海道』と題する標柱(道標)で、この先何回も県内の要所で出会う。旧東海道を歩くハイカーには大変ありがたい道標である。標柱の真中には名所銘が、左右に付いている板は矢印付の道標で前後の宿境までの里程が表示されている。ここの標柱には『箱根関所(箱根関所まで二十七町) ← 函南町 兜石 → 三島宿(宿境まで二里二十七町)』と記されていた。『兜石』案内板。奥の石碑に向かう。箱根峠に近い茨ヶ平に設置された作家井上靖氏の石碑のメッセージは『北斗闌干(ほくとらんかん)』「北斗闌干」は北極星が夜空に、さんぜんと輝くさまのことであると。『八ッ手観音像』東屋のある広場を出てすぐ背が高い『笹のトンネル』を進む。笹のトンネルを通り抜けた後も長い下り坂が続く。笹というよりは竹のように長く、両側から先端が覆いかぶさってトンネル状になっていた。ここまですれ違う人もいなければ、追い越す人もいないのであった。ややぬかるんでいる所もあったが、歩いていて楽しいところではあったが・・・。笹竹のトンネルを抜けて、右が少し広くなった場所の左側に『兜石跡』の碑が建っていた。碑には『函南町 町指定史跡兜石跡 祝明治百年 昭和四十三年十月二十三日建之』と刻まれていた。元々はここに「兜石」があったようですが、昭和初期の国道工事の際に上部を切り取って、現在の場所へ移したのだと。霜柱が顔を覗かせていた。再び国道1号線に出る。『山中城跡・三島宿 箱根旧街道迂回路』の道標。国道に出ずに旧街道があるようだが、草や木が生い茂り通行不可のようであった。1国を下って行く。『接待茶屋(せったいじゃや)』のバス停の先を右に入る。この道が旧東海道。『史跡 箱根旧東海道』の石碑。「箱根山中における接待の歴史は古いが、創始は江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった。やがて明治十二年(0879)、八石性理教会(ハチコクセイリキョウカイ)によって接待茶屋は再スタートしたが、教会の衰退とともに鈴木家に引き継がれ利喜三郎・とめ、力之助、万太郎・ときらの三代により接待が続けられた。鈴木家は昭和四十五年(1970)に茶釜を降ろし、接待茶屋の歴史に終止符を打つまでの約九十年間、箱根を往来する人馬の救済にあたったのである。箱根の接待茶屋については、「山中接待所」や「茶屋」などさまざまな呼称がある。「廣為道友鋳此器永充施行平憩之用」の銘がある著名な茶釜や、「せったい處」「せったい茶屋」の看板とともに、施業奉仕の跡をしのぶ遺跡として本遺跡は貴重である。」『せったい茶屋』と書かれた石碑。小さな祠の下には、『親子像(鈴木とめ・鈴木力之助)』があった。関心のある方は三島市『接待茶屋⬅リンク』を参照下さい。『接待茶屋一里塚』ここは江戸から26番目の一里塚。江戸の日本橋から約104km。実は25番目の一里塚はないのだと。はっきりとしないのですが、どうやら当時、道がつけ変えられたことから、このような24番目の一里塚の次は26番目の一里塚という事態となっているのだと。『徳川有徳公遺蹟碑』徳川有徳とは徳川吉宗(徳公とは謚名の有徳院から)のことで、紀州公から将軍になるために江戸へ向かう途中、石割坂(いしわりざか)にあった茶店で休憩をとりました。その間に、店の主人が馬の世話をよくしたところ、吉宗はその心遣いに 大層喜び、自ら永楽銭(えいらくせん)を与えたといいます。それからというもの、代々の紀州公は、参勤交代の際にはこの茶店で休み、永楽銭で支払うようになったと伝えられています。またその頃から、この茶店を 「永楽茶屋」と呼ぶようになりました。これを記念して、この地の観光開発に尽くし富士屋ホテルのコック長を務めた鈴木源内が昭和10年に建てたのがこの「徳川有徳公遺蹟碑」 であると。そして『兜石』。「この石は兜を伏せたような形をしていることからかぶと石といわれている。また別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉が小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。この石は兜石坂にあったものを昭和初め国道一号線の拡幅工事のときこの地に移したものである。」『兜石』と刻まれた大きな古い碑石には、カタカナの一部に不鮮明な所があり正確ではないかもしれないが、次の様に刻まれているとネット情報から。「兜石傳ヘ云フ天正ノ昔豊太閤小田原征伐ノ途次路傍ノ小石ニ腰掛ケ兜ヲ脱テ大石ノ上ニ置キ暫ク憩ヒシコトアリト後人因テ之ヲ兜石ト名ツタ此石即チ是ナリ石ハ奮ト接待茶屋ノ上方奮街道ノ側ニアリ大正十二年新道通スルニ及ヒ空シク荊刺中ニ埋レ復ク英雄ノ遺蹟ヲ省ルモノナシ是ニ於テ今茲昭和六年秋新ニ此處ノ移セリ因テ其由ヲ敘ヘ石ニ刻ス 鈴木源力読」と。そして前方で二つの道に分岐。Iphonesで調べてみると、二つの道は先で合流しているので、まずは左の道を進む。左斜め前に石碑を見つける。『明治天皇御小休址』と刻まれた石碑。明治天皇が初めて箱根路をお通りになって、江戸(東京)に下られたのが明治元年10月と。天皇が京都から江戸へ移るということは、当時の人々にとって考えられないこと。三島を計4回お通りになったことや、所々で休憩を取られたため、御巡幸記念碑は、箱根西坂の随所に見受けられるのだと。明治天皇が、明治元年(1868)に上京なさった時、休憩をおとりになった場所で、当時は「ビンカの茶屋」と呼ばれた甘酒茶屋があったと。 ビンカとは、イヌツゲのこの地方の呼び名で、茶屋の脇に植えてあったのだと。『箱根山組合創設百年記念植林地?』と刻まれた石碑。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.03.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩いていくと、駒形神社、毘沙門天の案内看板が見えて来た。旧東海道は右側の道。150m程進むと日だろに駒形神社、毘沙門天の入口が。駒形神社の朱の鳥居。階段を上り進んで行く。正面に駒形神社の拝殿が見えて来た。『蓑笠明神社(みのかさみょうじんしゃ)』。「商売繁盛の福徳をもたらす神、芦ノ湖の豊漁を司る神として信仰される蓑笠明神は、毎月十三日 箱根権現にお参りされた。その時 蓑笠をつけられたところからこう呼ばれている。この蓑笠明神社は、箱根権現社外の末社で箱根宿の東、明神川の流れ込む芦ノ湖のほとりに鎮斎された。創建は江戸時代の初めで、三島から移住した里人の勧請によるものである。明治以降、神衹制度の変革により昭和三年駒形神社に合祀奉遷されたが、平成の大御代を寿ぎ奉る、御大典記念奉賛事業として神社殿を造営、平成四年夏鎮斎された。」『犬塚明神』。入口右には『犬塚明神』と書かれた銘板が。「元和4年(1618)箱根宿が創設された時、付近には狼がたくさんいて、建設中の宿の人々を悩ませました。そこで、唐犬2匹を手に入れて、狼を退治させ、やっと宿場が完成しました。しかし、2匹の唐犬も傷付いて死んでしまいました。人々は宿場を完成させてくれた2匹の唐犬をここに埋め、「犬塚明神」と崇め祀りました。」駒形神社『拝殿』。駒ヶ岳を仰ぎ見る芦ノ湖南岸に鎮座する駒形神社は、駒ヶ岳の地主神 駒形大神を祀る古社。古くは「駒形権現(こまがたごんげん)」「荒湯駒形権現(あらゆこまがたごんげん)」と呼ばれ、その淵源は遙か悠久の昔、駒ヶ岳の山岳信仰に遡ると云われ、関東総鎮守として武門の崇敬を集めた箱根神社の社外の末社として尊崇されてきた町内の鎮守様。地元の住民には、古くから「駒形さん」と親しまれています。境内には駒形神社のほか、「箱根七福神 毘沙門天社」「蓑笠明神社」「犬塚明神社」が鎮座。御祭神の駒形大神とは 天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ) 素戔鳴尊(すさのおのみこと) 、大山衹神(おおやまづみのかみ) の三柱を総して駒形大神と称されると。『箱根七福神 毘沙門天』。七福神(しちふくじん)は、あらゆるものに福をもたらすとして日本で信仰されてきた。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天(弁財天)、福禄寿、寿老人、布袋の七柱の神。七福神は、室町時代ごろから幸運、福運、とくに金運をさずけてくださる七神として信仰されるようになった。毘沙門天は、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、七福神の中で、唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。七福神では、融通招福の神として信仰されている。『庚申供養塔』。そして駒形神社を後にし、旧東海道に戻ると直ぐに分岐地点に出た。真っすぐが旧東海道であると道標から。『芦ノ湖西岸歩道』の案内板。芦ノ湖西岸歩道は、芦ノ湖の西岸を半周するルートで、延長約11キロの平坦で非常に静かな歩きやすいハイキングコース。山道へと進む舗装道路を進んで行くと左右に多くの石仏が並んでいた。もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したと。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがあった。石仏・石搭の大半は巡礼塔で、箱根宿の宿民が巡礼成就の記念や供養として建立したものもあるとのこと。『国指定史跡「箱根旧街道」向坂地区杉並木・石畳』旧箱根宿 の西側にあたる芦川の町並みを過ぎると、旧東海道 は、箱根峠 までの約四百メートルにわたって、急坂が続きます。この坂は順に「向坂」「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」と呼ばれています。江戸時代前期、街道整備の一環として、この急坂の両側には杉が植えられ、道路には石畳 が敷設されました。これらは今日まで残されており、当時の街道の面影を今に伝えていることから、昭和三十五年に国史跡に指定されました。『芦川の石仏群 』「この箱根旧街道向坂地区の入口付近には、「芦川の石仏群」と呼ばれる、数多くの石仏・石塔があります。 もとは芦川集落内の駒形神社境内にあったものを移したといわれています。ここには、箱根で最も古い万治元年(一六五八)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがあります。これらの石仏・石塔には、当時造立にかかわった地元の方々の名前が見られ、地域の信仰の様子を知る上でも貴重なものとなっています。」石仏群の先に再び山にさしかかる向坂(むこうさか)の石畳があり、左手に向坂碑が建っていた。「芦ノ湖湖畔の箱根宿を過ぎますと再び山にさしかかります。この坂が向坂です。坂の入り口に石仏群があり、往時の杉並木も石畳も残っていて味わい深い坂です。」この先は大きな玉石が一面に敷かれていた。現国道1号線の下を潜り更に進む。『赤石坂(あかいしざか)』国道1号線をくぐるとその先に赤石坂があり、両側は熊笹に覆われ、自然の杉並木が続いていた。「国道一号を挟んで両側に石畳と杉並木が残っています。道を下れば旧箱根宿の一つであった芦川の集落に, 道を上れば相模の国と伊豆の国を分ける箱根峠に達します。」左手には多くの杉並木が。更に石畳を進むと『釜石坂(かまいしさか)』。続いて釜石坂で、「この坂道に残る杉並木は芦ノ湖畔のドンキン地区、吾妻獄地区、箱根関所付近の新谷町地区と並んで、箱根旧街道に現存する江戸時代の杉並木です。四つの地区合わせて、約四二〇本の老杉が残っています。」再び杉並木を。さらに坂道は続く。『風越坂(かざこしさか)』。釜石坂の先は風越台への風越坂である。この石畳の坂を登り、その先の急な階段を登ると、東海道名所図絵にもある風越台となる。「江戸時代の延宝八(1680)年」、箱根旧街道に石畳が敷かれました。当時」、石畳が敷かれた場所は坂道だけで、集落の中や平坦な所には、石畳は敷かれませんでした。」そして次に現われたのが木製の階段。『挾石坂(はさみいしさか)』。「箱根峠にかかる坂です。峠は、当時の浮世絵をみますと伊豆の国を分ける標柱と、ゴロゴロした石、一面のカヤしか描かれていません。まことに荒涼とした峠でした。三島宿までは、ここからさらに四里(十六キロ)近く、こわめし坂、自転坂などの難所がつづきます。」『国指定史跡 箱根旧街道』。箱根へ向かう人用の表示板も。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.03.28
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ポルトガル旅行や河津桜の旅行記(備忘録)を優先したため、「旧東海道を歩く」のブログアップが後回しになりましたが、今日から再開です。既にこの「旧東海道を歩く」のきっかけとなった箱根旧街道(石畳)コース(⬅リンク)のアップは終了していますので、ここからは箱根関所以降のブログアップになります。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次正月の三が日も明け、1月4日に昨年やり残した箱根関所跡から三島までの箱根越えを歩いて来ました。いつもの旅友は既に年末に完歩済みでしたので単独での山下りとなりました。自宅を5:35に出発し、小田急線、JR東海道線を乗り継いで小田原駅へ。小田原駅から6:50発の箱根町行きのバスに乗り箱根関所前を目指す。途中、国道1号線沿いにある『ういろう』店がバスの車窓右に。『箱根湯本駅』。1月2日に行われた箱根駅伝の往路5区と全く同じ道をバスは進む。箱根登山鉄道の大平台駅を過ぎてカーブを曲がっていくと右手に林泉寺が。ここは、大逆事件(たいぎゃくじけん、だいぎゃくじけん)に連座して処刑された内山愚童が住職をつとめていた寺。宮ノ下温泉の煙がモクモクと。小涌谷(こあくだに)駅前の踏切を渡る。箱根小涌園ユネッサン前を大きく左にカーブ。ユネッサンは「湯+ルネッサンス(エーゲ海・古代ローマなどをイメージした内装)」からと。そして芦ノ湖遊覧船乗り場前に。海賊船『バーサ』が停泊中。箱根神社 第一鳥居を潜る。元箱根の入口に建つ第一鳥居は、皇太子殿下の御成婚を奉祝して、平成5年(1993年)12月に建替えられた。国道1号線をまたぐ鳥居では、日本一の大きさを誇ると。そして『箱根関所跡』バス停で下車し、この日の『旧東海道を歩く』のスタート。三島方面からの箱根関所への入り口。時間は7:46。『箱根関所』。元和5年(1619)に設けられた箱根関所は、明治になり廃されたが、平成19年(2007)に江戸時代の大工・石工技術、資材を踏襲して完全復元され、往時の詳細な姿を見ることが出来るのだ。京口御門をズームで。箱根関所 案内図。箱根関所(⬅リンク)は既に何回か訪ねてブログアップしていますのでリンクを参照願います。そしてこの日のルートは下記の赤い太線の約14.8kmの旧東海道の下り。箱根駅伝の往路の最後の直線を歩く。24時間前のこの場所は人の波であったが、人の姿は殆どなし。道路脇の植込みの木々は霜で真っ白に変身。『箱根駅伝ミュージアム』前。『箱根関所南』交差点の角には『駅伝広場石碑』が。『箱根駅伝』テレビ中継で、国道1号の箱根神社鳥居を抜けて最後のコーナーを回ると、ゴールテープの張られた芦ノ湖の湖畔(駅伝碑)。その最後のコーナー部分に設けられた広場が駅伝広場。駅伝広場の中央には、平成15年5月に設置された「襷-TASUKI-」のモニュメントも。5区の往路でゴールするランナーをイメージした石碑の裏側には、駅伝の由来や箱根区間のコースが記されていた。石碑を囲む板塀には箱根山中を走る選手の写真が。『復路のスタート風景』。『往路ゴール風景』。『箱根山中を走る選手』。『塔ノ沢出山の鉄橋付近を走る選手』『湯本旭橋を走る選手』。そして交差点を右折すると、往路のゴール地点が見えた。そして未だ、『東京箱根間往復大学駅伝競争大会』と書かれた紅白幕の柱が残されていた。その横には『東京箱根間往復大学駅伝競争往路ゴール』と刻まれた石柱が。その裏には『東京箱根間往復大学駅伝競争復路スタート』と刻まれていた。箱根駅伝 往路のゴール・復路のスタートである芦ノ湖畔には 箱根駅伝に関連した3つの記念碑があった。一つ は昭和 36(1961)年に建てられた「東京箱根間大学 駅伝競走記念碑」、二つ目は昭和 59(1984)年の第 60 回大会を記念して建てられた「駅伝を讃えて」の 詩碑、三つ目は平成 6(1994)年の第 70 回大会を記 念して建てられた下の写真の「箱根駅伝栄光の碑・若き力を讃 えて」の碑(ブロンズ像)。「駅伝を讃えて」の 詩碑。「若い豹は春の象徴 君たちが走ると 東海に春がよみがえる 富士はおおらかに微笑み 相模の海は夢多い調べをおくる 君たちは意志と力の群像 君たちは青春の花々 赤や海老茶や紫が入り乱れて 春のさきがけの テープを織りなす 君たちは光のようにはつらつと走り 町々を 並木を 野を 山を 呼びさます はるのつばさ 東京箱根間大学駅伝 二日間のレースは 二つないスポーツの交響楽 自然の美と スポーツの美の 明るく展ける新春のフイルム よろこびと涙を わかち合う220キロ 若い日の楽しい感激よ」と。そして暫くすると雲の合間に富士山が姿を現す。そして完全に白き頂を見せてくれた。東海道五十三次之内 箱根 湖水図 / 歌川 広重。左手には美しい芦ノ湖があり、山並の向こうにさらに富士山が見えるのです。箱根海賊船には「歓迎 箱根駅伝」の横断幕が。左が海賊船『ビクトリー』、右が海賊船『ロワイヤルⅡ』。そして『東京箱根間往復大学駅伝競争往復路ゴール&スタート』地点を後にし旧東海道を箱根駒形神社方面に歩を進める。 ・・・つづく・・・
2019.03.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更にこの日の最終目的地である三枚橋に向かって歩く。旧東海道の右手に『寶泉寺』の山門が現われた。「永禄山宝泉寺は、永禄元年(1558)北条時長(宝泉寺大年用公)によって創建された臨済宗大徳寺派の古刹である。寺は創建間もない、天正八年(1590)豊臣秀吉による小田原合戦の兵火に罹って堂宇は焼失し、その際数多くの寺宝が焼失してしまった。その後三世の僧菊経によって再建されたが、のちに衰微し、十二世僧仁渓によって、安政元年(1854)再建された。兵火の難を逃れて現在寺に残されている文書が二点ある。一つは、小田原北条氏が宝泉寺に与えた禁制状で、寺の取締りについて保証したもの。他は宝泉寺の寺領の範囲を示したもので、元亀3年(1572)卯(4)月12日に北条幻庵が裏書をしたもので、いずれも小田原市の重要文化財に指定されている。また本堂屋根瓦の三つ鱗紋や、寺の文書に見られるようにこの寺は北条氏との深いつながりをもつものと思われる。従来から開基北条時長については出生不明とされ、小田原北条氏の系譜にも見ることは出来ないが、おそらく小田原北条氏の一門と考えられている。」寶泉寺『本堂』。寳泉寺の永代供養墓『風里廟』。次に訪れたのは『長興山 紹太寺』参道。右手にあったのが『長興山紹太寺総門(大門)跡』。「紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。元禄四年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。「入生田村は、小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には、見事な噴水があり、もう一方の側には、金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている。」この長興山の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。」『黄檗宗 長興山 紹太寺』案内図。長興山 紹太寺『山門』が前方に。『子院・清雲院(現・長興山紹太寺)』「清雲院は、長興山紹太寺の参道沿いにある子院の一つです。紹太寺の七堂伽藍は、弘化四年(一八四七)安政年間(一八五四〜五九)、さらに明治の火災で焼失しましたが、この清雲院は難を逃れ、本寺である紹太寺の法灯を守り現在に至っています。山門前にある「松樹王」の刻銘石は、東海道の風祭と入生田の境にあった境界石です。この刻銘石の左側面を見ると「長興山境」と刻まれていることからも分かります。紹太寺の広大な寺領には、7箇所あったと伝えられ「長興山の七つ石」(五基確認)といわれています。山門を入って本堂正面に掲げられている「長興山」の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師が書き下ろしたもので、紹太寺の総門(大門)にあったものです。」『長興山「母の里石段公苑」』「三代将軍徳川家光の母春日局と小田原藩主(城主)稲葉一族が眠る幽邃の地、母の里石段公苑。三百六十段の石段を登るとそこには奥津城が静かに佇み遥か相模灘を望み古の歴史が彷彿として蘇ってまいります。<神奈川県名木百選、小田原市指定天然記念物「しだれ桜」そして県下でも数少ない樹叢の中に黄檗宗の高僧「鉄牛禅師」の寿塔があります。この由緒ある石段公園にご先祖さまの化身として、釈迦如来・観音菩薩・地蔵菩薩・七福神等の石仏を石段左右に建立し崇拝する人、知人友人の霊を追善供養、商売繁盛祈願、家内安全祈願等を念じれば心の安らぎが得られるものと存じます。」『山門』。『本堂』。『長奥山』と書かれた扁額。黄檗宗の開祖・隠元法師の書き下ろしであると。紹太寺は、江戸時代の初期(寛永9年1632〜貞享2年1585)小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669年)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹太寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。往時は寺域方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。元禄4年(1691年)この地を通過したオランダ商館医師ドイツ人ケンベルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。現在の紹太寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。境内には開花した桜の花が。『長興山の枝垂桜』「シダレザクラは、本州中部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝が垂れ下がる点が特徴です。また、サクラの種類のうちでも寿命が長く、大木になり、特異な樹形となることから、神社や寺院の境内によく植えられ、市内でも早川の真福寺、下大井の保安寺、城内の二宮神社などに見られます。この木は、枝を八方へ平均に広げ、シダレザクラの基本的な形を整えています。3月下旬から4月上旬にかけて濃い緑の樹叢を背景に開花する姿はまことに美しく、県下にも比類のない名木です。このサクラは、稲葉氏が紹太寺を建立した頃、その境内に植えられたもので樹齢三三〇年以上と推察されます。」4月になるとこの様にと。 【https://blogs.yahoo.co.jp/ryoma_with_t/32294990.html】 長興山紹太寺の外壁も美しく。そして再び旧東海道に戻る。沢水の流れも激しく。民家の壁も美しく。『山神神社』への階段が右手に。民家の庭先の『しだれもみじ』も美しく紅葉。そして再び箱根登山鉄道の入生田駅の先の踏切を渡る。『日本初の有料道路』碑。小田原の外れから、箱根湯本までの4.1キロの東海道を、幅員5メートルに広げ、勾配を緩くして、人力車が通れるようにし、人力車1銭 大八車7厘 小車3厘の通行料(道銭)を、5年間徴収した。明治8年(1875年)9月のことだと。『駒ノ爪橋跡』「天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑強な脚にあやかりたい」と道中足が痛まないよう祈願したということです。後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです」現国道1号線と合流し振り返る。国道1号線の法面には達磨大師像の『交通安全の碑』が。日本橋から88.5km。箱根町の『交通安全』モニュメント。小田原市と箱根町の境界のようで交通安全箱根町の三日月型のモニュメントがあった。右側に箱根登山鉄道の下をくぐる道が現れてきます。そこをくぐり、山を登るとそこが『牛頭天王神社(ごずてんのうじんじゃ)』。「古来部落の境には天王神社が祀られる事が多い。祭神は午頭天皇(スサノオ)を祭神とする祇園信仰の神社であり、京都八坂神社の祭礼が全国に広まった一ツである。牛頭天王はインドでは武塔大師と呼ばれ、祇園精舎の守護神とされている。名前の由来は諸説あり古くはヘブライ語の「ゴゼー」がなまって「牛頭」になったという説もあるようだ。典型的な神仏合祀の一例である。スサノウノミコトは大変、力の強い暴れん坊の神様だったので、霊力が強く、これを祀れば疫病神を除いてくれる、という信仰から多くの村境に祀られたと思われる。山崎も入生田(小田原市)と、湯本村(箱根町)との村境にあり、湯本村の人達が村に疫病神が入ってこないようにと祀ったものである。旧湯本村の氏神だった頃、明治二十六年に神社の石段を作った時の記録によると世話人は湯本の湯場・神明町・仲宿・三枚橋・山崎の代表が名を連ね、全村七十五人が工事費を寄付している。石段の数は百十八段あり、神社境内にある碑には世話人、発起人の名前が刻まれている。天王社の紋章は五ッ木瓜(イツツモツコウ)で、キュウリを輪切りにすると、同じような紋様になる為は、祭礼には必ずキュウリを上げる。山崎では、昔は初物のキュウリを天王さんに上げてからでなければ、食べなかった。また、キュウリを切る時は輪切りにしないで、必ず斜めに切る、という風習があったようだ。」『山崎の古戦場』江戸時代末期、勤皇派と佐幕派が戦った場所。小田原藩の度重なる寝がえりの末、最終的にここが激戦地になりました。結局、小田原藩と官軍が勝って、遊撃隊は敗走しています。小雨が降りだしていたが、目的地もだんだんと近づいて来た。小田原箱根道路との合流点。『山崎ノ古戦場』碑。山崎は、箱根戊辰の役の戦場だった場所。「山崎ノ古戦場 明治維新ノ際官軍東上ノ途此地ニ於テ伊庭八郎等ノ殉幕浪士ト遭遇激戦ノ後是ヲ撃破セリ」佐幕派から勤皇派に立場を変えた小田原藩軍と、旧幕府遊撃隊とが、湯本の山崎に於いて激しい戦いを行った。伊庭八郎は重傷を負い、数で圧倒する小田原藩と新政府軍とが勝ち、遊撃軍は敗走したのだと。国道1号線と西湘バイパス・小田原厚木道路の分岐場所を振り返る。『湯本歩道橋』下を通過。そして左側に見えて来たのがこの日の最終目的地『三枚橋』。『三枚橋』木橋の頃より両岸の幅が狭まり、橋はやや湯本寄りに架かっている。早川に架かる三枚橋は江戸時代の東海道と湯本路との分岐点にあたり、橋を渡らず温泉場へ向かう道は「湯場道(ゆばみち)」と呼ばれた。小田原北条氏時代は川幅が広く、中州が2つあり地獄橋・極楽橋・三昧(さんまい)橋の3枚の橋が架かっていて、橋を渡り切ると北条氏の菩提寺・早雲寺の総門だった。早雲寺に駆けこめば犯罪人も罪を免れて極楽橋まで逃げると助かったので、次の橋を「これからは仏三昧に生きよ」という意味で「三昧橋」と名付け、その名が今は「三枚橋」として残ったという。早川の流れ。そしてこの日の旧東海道歩きは完了し、箱根湯本駅に向かいながら三枚橋を振り返る。早川の向こう側にが『湯本富士屋ホテル』と赤い欄干の橋・『あじさい橋』。この後の『天下の難所 箱根八里 箱根旧街道 石畳』(☚リンク)は既に以前に完歩済みであるので、次回は箱根関所からの山下りなのであった。よって次回の箱根関所方面へのバスの時刻表を念のためカメラに収める。小田急線『箱根湯本駅』。駅構内。クリスマスツリーが。そして小田原駅でJRに乗り換え。駅構内にあった巨大な『小田原ちょうちん』。小田原駅のJR東日本改札口の上には、直径2.5m、全長5mにも及ぶ巨大な小田原ちょうちんが旅人を出迎えていた。そして駅構内の壁には『東海道五拾三次 小田原』が。酒匂川は、富士山の東側から小田原を経て相模湾に注ぎます。春から夏にかけて増水する酒匂川には、客や荷物を担いで渡る人足(にんそく)がいました。対岸には北条氏の居城であった三層四階の小田原城が見え、遠くには箱根連山が描かれています。川を渡る旅人の苦労も大自然のなかに埋没してしまうほど雄大な風景が広がっています。『東海道五拾三次 小田原』の絵のそれぞれの部分の説明。そしてJR東海道線にてこの日は反省会なしで帰宅したのであった。 ・・・その8・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(国府津~小田原) 完・・・
2019.02.16
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更に歩を進めると右手にあったのが『板橋地蔵堂』。『板橋 延命子育 地蔵尊』と刻まれた石柱。『板橋の地蔵尊』1月と8月の板橋地蔵尊の大祭には、旧東海道の町並みの両側に多数の露店が軒を連ね、善男善女のお参りで賑わうのだと。また、この日に詣でると、亡くなった身内の人と瓜二つの顔の人に会えるのだと。境内の本堂前の大銀杏の木の黄葉はこれから。『明治維新官軍慰霊碑』境内入口左にあるのは中井範五郎始め、13名の墓碑であると。中井範五郎は1840-1868 幕末の武士。 天保(てんぽう)11年生まれ。因幡(いなば)鳥取藩士。文久3年兄永見明久らとともに藩重臣の暗殺(本圀(ほんこく)寺事件)にくわわる。戊辰(ぼしん)戦争では大総督府監軍となる。慶応4年5月20日小田原藩兵に箱根で殺されたのだと。『伊藤一刀斎末裔の墓』寛政7年(1795)に建てられた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名坂四郎治政宣の供養碑。『本堂』板橋地蔵堂は、曹洞宗に属し正しくは金竜山宗福院と称し、本寺南谷山香林寺が主管していると。ご本尊は弘法大師の御作「延命子育地蔵大菩薩」で、身丈8尺の大坐像の腹中に鎮座。ゆえに、〝腹籠(はらごもり)のお地蔵さま″(胎内仏)とも呼ばれていると。創建は1598年、現地蔵堂は1715年建築の、城山にある慈眼寺の本堂を明治初期に移築。敷地内に1868(明治元)年建立の、戊辰戦争官軍戦没者慰霊塔があると。『六地蔵』。『地蔵菩薩像』。『福興大黒尊天』。福興大黒尊天は、「関東大震災」の翌年、樹齢1,500年の大楠の生木に、「関東大震災」からの復興と信徒の福徳招来を祈念して彫られたと。境内より隣にある『常光寺』を見る。常光寺は1648年創建。本尊は阿弥陀如来、足柄第二十七番観音霊場。境内の至るところに住職のお言葉が散りばめられているのだと。墓地の中にある常光寺の鐘楼。板橋地蔵堂の本堂内部。延命子育地蔵大菩薩(本尊)。本堂の天井。本堂前から境内を振り返る。『神奈川県指定重要文化財 宋福院地蔵堂』格子窓の奥にも多くの地蔵様が鎮座。円光の向背そして先に輪のついた錫杖を持つ地蔵菩薩像。『忠魂碑』。小田原市大窪地区出身戦没者慰霊碑。「忠魂碑」の字は山縣有朋 書。そして板橋地蔵尊を後にし進むと箱根登山鉄道のガードを潜る。左手、旧東海道の反対側に見えた石碑。石碑は『頌徳碑』と題され明治期の板橋地区、大窪村の村長市川文二郎を讃えるもの。市川文次郎が村長の時、明治21(1888)年の小田原町との分水事件、明治29(1896)年の静岡県の深良用水との芦ノ湖の水利権を争った逆川事件、これら2つの事件の解決に尽力した功績が認められたと。『小田原用水取入口』。『小田原用水(早川上水)取入口』。小田原用水は戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に施設した日本最古の上水道と言われます。記録として最古のものは天文14(1545)年連歌師谷宋牧の東国紀行に、『水上は箱根の水海よりなどきき侍りて驚ばかりなり』とあり、北条氏康・幻庵の誘いで屋敷に招かれた際に、池の水が箱根芦ノ湖を水源とした早川より引いたと聞いて驚いたと。左手に『アネスト岩田ターンパーク箱根』が見えた。2018年3月1日よりネーミングライツ(命名権)を取得し、アネスト岩田ターンパーク箱根と命名。 神奈川県小田原市から足柄下郡箱根町を経由し、同県足柄下郡湯河原町に至る、15.782Kmの観光有料道路。西湘バイパスと小田原厚木道路が交わる小田原西ICが左斜め前方に。久しぶりに、日本橋から86.7Kmの表示が。箱根登山鉄道の踏切を再び渡る。小田原厚木道路のコンクリート橋脚には蔦の葉が赤く染まっていた。『象ヶ鼻』入口。「小田原厚木道路」の高架下から、「旧東海道」は、国道1号線から右手に分かれて、「箱根登山鉄道」の踏切を渡ります。踏切を渡ってすぐに右へ線路に沿って登る小道がありそこを上っていく。『日蓮上人霊跡』。「文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月13日、当所を通り巨石象ヶ鼻(石の形が象の鼻に似ている処からそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れ難く、遙かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼陀羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て、首題釋迦牟尼佛多宝如来四菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。その後この地をお塔のふた親さんと呼ばれ里人信仰をあつめた。永仁元年(1293)僧朗慶日蓮の弟子がこの地に来て師の旧跡であるこの地に寺を建て象鼻山妙福寺と命名、下総国葛飾郡中山村大本山法華経寺(末寺)同宗の人々はもとより一般里人から礼拝されていた。おしくも大正二年廃寺となり同村蓮正寺に合併され、現在は同市板橋に移り御塔山生福寺となっております。」奥には古びた門が。行ける場所まで行ったが石碑等見つけられなかったので、引き返す。脇道があったのでそちらを再び上っていくと石碑が。南無妙法蓮華経と刻まれていた。もう一つの石碑も同様に。帰路の坂の途中からの端や川の流れ。その先に西湘バイパス。坂の脇にあった鬼瓦?。そして更に旧東海道を進むと右手に『妙覚寺』山門が見えた。日蓮宗寺院の妙覚寺は、玉山と号す。妙覚寺の創建年代は不詳だが、当所真言宗寺院として創建、日蓮上人の弟子日辨上人が当寺へ寄宿した際に、当寺住職林覚が宗法に感服して日意と改め、日蓮宗に改めたと。当初日辨上人を開祖としたものの、その後日忍上人(文永5年1268年卒)を開山としたと。2016年4月6日に現本堂落慶式が執り行われたと。左手に箱根登山鉄道の『風祭駅(かざまつりえき)』。箱根駅伝開催時には、山越えに挑む直前である小田原中継所の最寄り駅になる。この中継所、いわゆる「見どころ」のひとつなもので、当然当日は見物客でごった返すのだ。今年もさぞ混んだのであろう。風祭の地名は鎌倉時代のこの地の地頭・風祭氏に由来するとされると。右手の高台に『国立病院機構 箱根病院』。独立行政法人国立病院機構が運営する病院である。旧国立療養所箱根病院。政策医療分野における神経・筋疾患の専門医療施設である。戦前は、日中戦争により負傷した戦傷脊損患者を収容した歴史をもち、戦傷脊損療養所としては全国唯一の施設だった。旧箱根療養所時代の歴史資料については、日本傷痍軍人会が運営する「しょうけい館」(戦傷病者史料館)」(東京都千代田区)に展示されている。敷地内には社会福祉法人風祭の森太陽の門福祉医療センターおよび、学校法人湘南ライナス学園がある他、現在使用されていない施設も複数ある。風祭の集落に入ると,急に静かな町並みになる。風祭の集落のはずれに『小田原の道祖神』があった。道祖神は石祠の稲荷型(70cm)と、赤い涎掛けと帽子の合掌座像の伊豆型(58cm)の2つで、小田原の道祖神の一つとして市指定文化財になっている。『東海道風祭の一里塚』「ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に「東海道側に双塚あり、高各一丈、塚上に榎樹あり。囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里塚に続けり」とある。」 ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『対潮閣(山下亀三郎別邸)跡《秋山真之終焉の地》』。明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。写真右に『瓜生外吉(うりうそときち)海軍大将之像』瓜生外吉は加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として安政4(1857)年に生まれ、明治8(1875)年から14年まで米国アナポリス海軍兵学校に留学します。海軍提督として日露戦争に参加、仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らし戦功により海軍大将、男爵までのぼりつめます。南町歩道橋の階段下には石柱が。『人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡』。東海道本線が走る前まで小田原ー熱海間を走っていた鉄道です。人車鉄道は豆相人車鉄道。人車鉄道(人車軌道)とは、明治中期から大正期にかけて存在した人が客車や貨車を押す鉄道。軽便鉄道は熱海鉄道。軽便鉄道(けいべんてつどう)というのは規格の低い鉄道のことで「軽便鉄道法」による森林鉄道や鉱山軌道などをいいます。東海道線は国府津駅から静岡が1889年に延伸しました。ただし沼津までは御殿場線が使われていました。熱海の住民運動から1888年国府津から小田原まで小田原馬車鉄道(現在の箱根登山鉄道)に鉄道を繋ごうとしましたが資金が集まらず、甲州財閥の雨宮敬次郎の案で人車軌道に変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年~1900年に漸次開通させました。1907年に社名を熱海鉄道と改めて蒸気機関車が引くタイプの軽便鉄道に切り替えました。この切り替え工事からヒントを得たのが芥川龍之介の「トロツコ」です。小田原市消防本部 小田原消防署南町分署前の石碑『都市計画道路 小田原-早川線の完成によせて』。早川口 交差点。前方に東海道本線&箱根登山鉄道のガードが。ガードを潜ると左手にあった『大久寺』を訪ねる。天正十九年(1591年)、徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立した寺。忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、秀吉の小田原征伐の後に家康が関東を任されるにあたり、遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣時代に帰依していた僧の自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原城を改易されると、小田原大久寺の法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けています。寺務所か?大久寺『本堂』。道路の反対側には『居神神社』が。旧小田原宿 板橋口(上方口)近くに鎮座する三浦荒次郎義意公を主祭神に祀る神社。そしてその隣にあった『光圓寺』。浄土真宗本願寺派寺院の光円寺は、釋浄山と号す。光円寺は、覚圓が実相寺と号して慶安4年(1651)創建、明暦元年(1655)現寺号に改めたと。『本堂』。『板橋(上方)口』「戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所。江戸時代においても、この口から内側は 城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都に通じたので、板橋口または上方口と呼ばれ、東に設けられた山王(江戸)口と並ぶ 最も主要な出入り口として、厳重な構造をもっていました。現在の国道1号線はそのまま直進していますが、かつての東海道は板橋口をでると一度北に折れて、再び西に曲がっており、 その地形は旧道としてよく残されています。」『板橋見付』交差点。右手に折れた道が旧東海道。新幹線下を潜り旧東海道を進む。右手奥にあったのが『本応寺』。法華宗陣門流寺院の本応寺は、法雨山と号す。本応寺は、稲葉美濃守正則の家臣だった羽原新右衛門忠次夫婦(忠次の法名法雨院道樹日行、妻の法名本成院妙感日壽)が開基となり、是真院日雄(寛文11年卒)が法雨山本乗寺と号して開山、本寺本成寺と読みが同じことから本応寺と改号したと。旧東海道『層雲台(そううんだい)入口跡』三井物産の初代社長益田孝の別荘掃雲台入口跡。鈍翁は明治39年この地に別荘を造り始め、約2万5千坪の敷地に屋敷、流水庭園、茶室、蔵、農園迄造ったと。現在は宅地化され、昔を偲ぶものは何も残っていないと。更に旧東海道を箱根方面に進む。右手に朝倉邸。コリント式柱頭飾り、アールデコ風。下田豆腐店。創業明治39年。現在は4代目の息子さんが豆腐造りをされていると。豆腐作りには丹沢水系の深い井戸水が使われていのだと。旧道を右手に折れるとあったのが『栄善寺』。対の石柱の山門の奥の境内。本堂が間近に見えます。『六地蔵』。小田原板橋・内野邸・武功庵。明治36年(1903)に建築された板橋・内野家(元醤油醸造業経営)の住宅は、当時流行していた土蔵造り風の町屋で、「なまこ壁」や「石造アーチ」など、和洋折衷の特徴ある意匠が取り入れられた貴重な歴史的建造物。現在、施設の有料公開や各種イベントの開催など、市や地元板橋の地域住民組織による活用等が進められていると。先日のBS朝日のテレビの『百年名家』で紹介されていた。再び旧東海道を右に折れ赤い幟のある参道を進む。『量覚院』の山門。秋葉山量覚院は小田原藩主大久保忠世が遠州秋葉大権現を勧進したもの。『秋葉山』と書かれた扁額。境内の紅葉を楽しむ。紅葉の木の下方ズームで。境内は清掃中で落ち葉が焼かれていた。『秋葉山神社』社殿への参道石段下に立つ神明鳥居。左に石造の九重層塔が立つ。石鳥居横の真っ赤な紅葉。階段を上ると右手に手水舎が。秋葉山量覚院は本山修験宗の末寺(総本山は京都聖護院)で修験道(山伏)の寺院。安土桃山時代の天正18年(1590)、徳川家康が小田原城主大久保忠世に管理を命じ、一月坊法印によって遠州の秋葉山大権現を新しい所領の小田原に奉遷して創建されたので、秋葉山神社は同時代の建立だろう。 秋葉山量覚院の本尊である「秋葉山大権現」の本地仏は観音菩薩で、神仏習合の神として祀られている。現代的で簡素な向拝..梁上に龍の彫刻の大きな蟇股がある。「秋葉山」ではなく「大徳山」の額が掲げられていた。黄葉も真っ盛り。階段上から。落ち葉もほぼ燃え尽くし。サツマイモが欲しいのであった。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次明治天皇宮ノ前行在所跡の先を右に入り、『松原神社』を訪ねる。小田原宿総鎮守。一の鳥居(伊勢鳥居型)とその先に二の鳥居が。ガラス窓を設置した『御神庫』。松原神社例大祭は、漁師の祭を起源とする「小田原担ぎ」という独特の神輿の担ぎかたが特徴で、漁場での作業を陸地で再現した形になっています。神輿を船に見立て、まず神輿を静止した状態で、木遣り(きやり)を唄います。木遣りとは、漁師が船を砂地に陸揚げする時や、漁網を一気に揚げる時など、集中して力仕事を行う時に、船頭が音頭を取って、息を合わせながら作業をするために唄う浜唄で、正式には「浜木遣り」といいます。小田原流の特徴として、平担ぎの時左右にゆっくりと練る動作は、船が沖合で波に揺られゆっくりと左右に動くそれを模しており、見ているものを幻想的な雰囲気にさせるのも他に見ない特徴といえる。全国的にも珍しい点は、民家・商店・祭礼事務所・山車・神社などに木遣り唄の一種である「浜木遣り」と共に神輿を担いだまま走って突っ込む(跳ぶ|突っ駆ける)事である。この「浜木遣り」は漁師の掛け声が元であり、鳶などの木遣師のそれとは異なる。祭礼においてはどっこい担ぎで言えば甚句に相当する。 なお、全国的に“走る神輿”は瀬戸内海の真鍋島や、千葉県の大原はだか祭りなどがあるなど少数ながら存在するが、神輿の合体は全国でも他所では見られないと。二の鳥居(明神鳥居型)その先に拝殿が。記録として残るのは新編相模風土記にある天保年間の記述が最も古いと思われ、主に漁師の祭りとして千度小路、古新宿(こしんしゅく)の漁師を中心に行われてきた歴史を持つ。今では漁業関係者は激減したが、神輿は小田原担ぎ(小田原流)と呼ばれる漁船に見立てた独特な担ぎ方で渡御されるなど、現在でも漁師の祭りとしての名残を見ることができると。『吉兆の大亀』。「天文十四年(一五四五年)三月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文十五年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。この石亀像はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、百円納めると百日、千円納めると千日寿命が伸びると言われております。」『境内社』。境内に古くは十二社があったが、現在は住吉神社、鹿島神社、手置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社の五社が祀られている。左から置神社、叶稲荷神社、佐々木八幡神社。鹿島神社。『小田原宿』と『周辺案内図』交流館の前に掲げられた、旧東海道小田原宿の案内板。 拡大版 案内板に採用されている道中図は「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)」。小田原の町人の町は、主として東海道に沿って宿場町を形成する(通り町)。西から順に山角町(やまがくちょう)、筋違橋町(すじかいばしちょう)、欄干橋町(らんかんばしちょう)、中宿町(なかじゅくちょう)、本町(ほんちょう)、宮ノ前町(みやのまえちょう)、高梨町(たかなしちょう)、万町(よろつちょう)、新宿町(しんしゅくちょう)の九町という、かなり細かい町割りから成った。小田原宿は上方からは箱根を越えてきた旅人の、江戸からは箱根越えを控えた旅人の宿泊地として大いに賑わった。本陣(計4軒)、脇本陣(計4軒)は東海道の宿場町の中ではきわめて多く、宿場の中心である欄干橋町から宮ノ前町までの四町に集中した。町人の町はこれに加えて高梨町からの甲州道(こうしゅうみち)に沿った町(脇町)がある。分岐から順に青物町(あおものちょう)、壱丁田町(いっちょうだちょう)、台宿町(だいじゅくちょう)、大工町(だいくちょう)、須藤町(すどうちょう)、竹の花町(たけのはなちょう)の六町が続く。さらに、通り町に平行する形で茶畑町(ちゃばたけちょう)、代官町(だいかんちょう)、千度小路(せんどこうじ)、古新宿町(こしんしゅくちょう)の四町があった。『江戸時代の小田原の城下町の構成』。ここは東海道沿いの通町で、江戸時代は本町と共に宿場町の中心で、本陣一、脇本陣二、旅籠が二十二あったという。元治慶應年間の宿割帖によると、御本陣一軒、相本陣三軒(清水屋彦十郎・久保田甚四郎・片岡永左衛門)、脇本陣四軒(とらや三四郎・福住や吉助・小清水屋伊兵衛・嶋や太郎三郎)、旅籠宿屋は百余軒あった。小田原なりあい交流館前からの旧東海道。『小田原なりあい交流館』。この施設は、1932(昭和7)年に建設された旧網問屋を再整備し、市民や観光客の皆様の「憩いの場」として2001(平成13)年に開館。ここの建物は、関東大震災(大正十二年)により被害を受けた建物を、再建したもので、小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられていると。また、2階正面は出格子窓になっていて昔の旅籠の雰囲気を醸し出していた。『本町』。本町は後北条時代には通小路とよばれていました。江戸時代になると、小田原城のちょうど南側にあたり、小田原の街の中心として、街割りもここを基点に割り振られていました。東海道の小田原宿としても本陣が2、脇本陣が2、幕末には旅籠が26軒ほどあったそうです。『久保田本陣跡』。小田原宿に4軒あった本陣の一つ「久保田本陣跡」の碑『御幸の浜』交差点。正面を進んでいくと小田原城の堀に。『薬博物館((株)済生堂薬局小西本店)』。寛永10年(1633年)創業、400年近い歴史を誇る老舗の薬局が所蔵品を公開するミニ博物館。年期の入った百味たんす、薬剤をすりつぶす乳鉢や秤など、薬関係の貴重な骨董品が展示されています。明治時代のかわらぶきの建物(大正時代に復元)が、小田原の歴史を物語ります 。『中宿町』。この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。「新編相模国風土記稿」(1841年)には、この町に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))、この町は、「上の問屋場」が置かれ、高梨町の「下の問屋場」と10日交代で勤めたとあります。 町内には、御用商人の「小西家」があり、嘉永年間(1848~53年)には、脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館)1軒、旅篭が11軒ほどありました。 なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は30軒でした。『清水彦十郎本陣跡』「小田原宿には4軒の本陣があり、清 水彦十郎本陣もその一つです。出雲 (島根県)松江の松平家や美濃(岐阜 県)大垣の戸田家などの大名家が定宿としていました。 」。ここは薬と和菓子の『ういろう』。当主は1500年代の初頭、北条早雲に招かれて京から小田原に移り住んだ外郎(ういろう)家。以来、伝統を絶やすことなく小田原の地で生業が続けられてきた。店舗にはういろう博物館も併設されている。『欄干橋町』。北は三の丸の掘、南は茶畑町、西は筋違橋町、東は中宿町・東海道沿いの町人町]この町は、「北条家朱印状」(1572年)に初めて町名が見られます。町名の由来は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれています。町内には小田原北条氏時代からの旧家「外郎家」があり、江戸時代末期には本陣1、旅籠が10軒ほどありました。天保初期(1830年代)、町内の戸数は39軒でした。外郎家は、永正元年(1504)、北条早雲の招きに応じて京都から小田原に移り住み祖先伝来の秘薬「透項香(とうちんこう)」を製造販売しました。江戸時代には町の名誉職である宿老の地位にありました。また、同家の八棟造は有名で、浮世絵などにも描かれてしますが、大正12年の関東大震災により崩壊してしまいました。『箱根口』交差点。歩いて来た旧東海道を振り返る。箱根口を右折し小田原城の堀を目指す。『 小田原城 箱根口門跡 』江戸時代の櫓門の石垣の一部と土塁が残されていた。戦国時代から江戸時代初期まで大手門として使われたと。『小田原市立三の丸小学校』。小田原城址公園に隣接して建つ三の丸小学校は、幾層も重ねた屋根と白くて広い壁が城の如し。その名の通り城内三の丸にあり、「箱根口門跡」に置かれた校門には立派な屋根も付いている。ここは文成5年(1822)に建てられた藩校・集成館の跡地で、明治5年(1872)の学制発布に伴って小学校「日新館」となったあと尋常小学校などを経て城内小学校となり、平成4年(1992)本町小学校と統合して三の丸小学校となったという歴史のある小学校。ここでは銀杏の古木が黄色の葉を増やしていた。ぐるりを囲む武家屋敷風の塀に沿ってせせらぎが流れ、周囲の景観にも工夫がある。設計は松田平田設計。「三の丸小学校周辺地区」として、平成9年度都市景観大賞を受賞している。小田原市立三の丸小学校の見事な正門。『国指定史跡 小田原城址』神奈川県小田原市小田原町にある平城。その草創は詳細に知られていないが,鎌倉時代に土肥一族の小早川氏が築いたものと伝えられている。応永 23 (1416) 年上杉禅秀の乱が起り,土肥氏もこれに加担し敗れ,戦功により上杉憲方の家臣大森頼明が,足利氏からこの地を賜わった。そののち,明応4 (95) 年藤頼のとき,北条早雲に取られ,以後北条氏5代相継ぎ,この城を本拠にして関東に威をふるった。北条氏は大規模な拡張工事を行い,その結果,防備のすぐれた城として,小田原城の名が知られるようになった。天正 18 (1590) 年,豊臣秀吉のために滅ぼされ,続いて関八州を領有した徳川家康が,譜代の臣大久保忠世を小田原城に封じたが,大久保家は次の代に失脚し,以後,城は江戸幕府の直轄地となり城番がおかれた。そののち,元和5 (1619) 年阿部氏,寛永9 (32) 年に稲葉氏が,貞享3 (86) 年には再び大久保氏が城主に封じられ,10代 182年間続いて明治維新にいたった。現在,城跡には復興天守閣があり,公園となっている。しかしこの場所から天守の姿は見えなかった。二宮尊徳を祀る神社『報徳二宮神社』入口が前方に。二宮尊徳は報徳社を設立して農村の救済・教化運動を行っていたが、尊徳が安政3年(1856年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行っていた。明治24年(1891年)に尊徳に従四位が贈られると、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年(1894年)4月15日、尊徳の生地である小田原の小田原城址内に鎮座した。更に進むと『報徳博物館』が左手に。幕末の疲弊した社会の再建人・尊徳二宮金次郎(1787〜1856)の、「報徳」と呼ばれる人づくり、国づくりの思想とその業績を伝える博物館。『二宮尊徳就学の地』。「二宮尊徳(金次郎)は、若いころ小田原藩家老の服部家(ここから200mほど上った所)に若党(中間(ちゅうげん))奉公をしていました。そして漢学塾へ通う同家の若様のお供をして、小峰坂と呼ぶこの前の道をいつも通っていました。また、この博物館のある場所は、当時、近藤某という書物好きな藩士の屋敷があり尊徳は、時々ここに寄って書物を借りて読んだということです。こうして、尊徳は学問の幅を広げていきましたが、報徳博物館はこうした縁の場所に建っております。」『二宮尊徳像』。坂を上っていくと杉の木の間から小田原城の天守閣の姿が。その先に『清閑邸(せいかんてい)』が。『清閑邸(黒田長成別邸)』。清閑亭は明治39(1906)年黒田長成侯爵の別邸として造られた。黒田長成は豊臣秀吉に仕えた軍師、黒田官兵衛の子孫にあたり、慶応3(1867)年、福岡藩主黒田長知の長男として福岡に生まれ。明治21(1888)年に英国ケンブリッジ大学に留学、帰国して明治26(1893)年から30年間貴族院副議長を務めた。漢詩集『桜谷集』の遺した他、菅原道真や豊臣秀吉の旧跡を保存する、菅公会、豊国会の活動にも尽力した。前方、高台にあるのが『カフェ清閑亭』。ここまで坂を上ると天守閣が良く見えた。『清閑邸周辺の縄文時代の遺跡』。『天神山(てんじんやま)』。坂のピークを越え、民家の中を抜けて下りに差し掛かると、遺跡の跡が。このあたりの丘陵は天神山と呼ばれている。『山角天神社』。地元の人から「天神さん」と呼ばれ、親しまれている山角天神社は、「菅原道真」を祭神とする神社で、創建年代は古く 不明であるが、小田原北条氏時代と伝える城下町図には、すでに当天神社が記されている。 この天神社には、別当威光山長教院三光寺(古義真言宗、蓮上院末、永禄4年中興)があったが、明治初年廃寺となった。 天神社のご神体は木像で、高さ32センチ、台座6センチ。裏に「永禄4年極月吉日」とある。 『山角天神社の菅原道真画像』。この天神社には別当三光寺の什宝「菅原道真画像」がある。この画像は俗にいう「いかり天神」といわれる姿で、北条氏康 から奉納されたという優秀な作品であり、小田原市の重要文化財に指定されている。 また、境内には「紀軽人(きのかるんど)狂歌碑」や「芭蕉句碑」がある。すべて漢字で書かれているが、芭蕉が元禄7年(1694)に詠んだ「梅が香に のつと日の出る 山路かな」である。江戸時代の小田原の人たちも「天神様といえば梅」というわけで、文政3年(1820)に建てられた句碑である。紀軽人(きのかるんど)の狂歌碑もある。「月はさす 花はいたたく 酒宴を 雪より外に つもり人はなし」こちらが山角天神社の参道の階段。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.13
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