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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に磐田市見付の見付宿場通りを歩く。見付十七小路『北井上小路』。「旧地名の見付町北井上が小路名称の由来です。現在では小路の面影はなく、中央幹線(県道横川ー磐田線)として東名高速道路へのアクセス道路になっています」『遠州見付宿 本陣跡』旧見付学校を目指して右折。左手前方に美しい姿の旧見付学校が姿を表した。まずは最初に隣りにある『遠江總社 淡海國玉神社(おおみくにたまじんじゃ)』を訪ねた。見付宿の中央に位置することから「中の宮」とも呼ばれていると。鳥居の扁額には『總社大神』と。平安時代、見附に国府があったときの遠江国総社。拝殿と幣殿は文久年間の再建。幣殿は三棟入母屋造りで、本殿は明暦2年(1656)再建で三間社流造。主祭神は大国主命ですが、多くの神々(十五柱)を相殿に祀っています。山門。拝殿。左甚五郎の流れをくむ立川流の建築士「昌敬」の遺作として有名で、特に「子持ち龍」「ふり向き獅子」「十二支」の彫物が見事です。また、遠江国の「総社」として多くの方々が参拝に訪れると。拝殿前の石像が狛犬でなく、主神が大国主命なので兎。見付天神祭では神輿がここに渡御します。境内の桜。『淡海国玉神社』案内板。そして境内を戻り『旧見付学校』を訪ねた。旧東海道とは歴史が異なるが磐田市の観光名所の『旧見付学校』。旧見付学校は明治5年(西暦1872年)の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校したと。『旧見付学校』。「「旧見付学校」は、明治五年(1872)の学制発布後まもない明治8年(1875)8月7日に落成した。現存する日本最古の擬洋風木造小学校の校舎です。当初は4階建てでしたが、就学児童の増加に伴い、明治16年(1883)に3階部分を増築し、今の5階建てとなりました。5階は太鼓楼で、早朝の登校の合図や正午の時報が打ち鳴らされていたといわれています。見付学校は大正11年(1922)3月に閉校し、小学校としての役割を終えましたが、その後は裁縫女学校や教員養成所、病院等、さまざまな施設として利用されました。昭和44年(1969)に、北側にある磐田文庫とともに国指定史跡となり、現在は教育関係の史料等を展示しています。」『入館案内』。入館料は無料であり月曜日が休館日。『史跡旧見付学校』「見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。 基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。 明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。」エントランス。入口が男女別に2つあったのだと。初代浜松県令の林厚徳から贈られた扁額であるとのこと。『木縄受即直金礪就則利』木縄(きなわ)を受くれば則ち直く(なおく)、金礪(きんれい)に就けば(つけば)則ち利し(するどし)。中国の「荀子」(じゅんし)勧学編の文中の一説で、「曲がった木も墨縄を当てて切ればまっすぐに切れ、金物も砥石で磨けば切れるようになる」という意味教育の重要性、方法論を説いているのであろうか。『見付の街をめぐる風物詩』。『見付学校開設当時の状況』。明治時代の職員室であると。校長の姿であろうか。旧見付学校教室内部を再現。教室は文房具も含め再現されています。各自の机に小さな黒板が帳面替わりに?。『いろは図』。『いろは図 基の漢字』。再勉強しました。国内にある、明治の学校建築の紹介。中央に旧見付学校。マスコミにも何回か登場したと。サザエさんにも。旧中学校を描いた水彩画。係の方に最上階・5階から順にと。最上階『5階は太鼓楼です』。太鼓当番の上級生が叩いていたと。4階には伝酒井の太鼓が。開校当時は最上階に「伝酒井の太鼓」が置かれ、時を告げていたのだと。伝酒井の太鼓とは、三方原の合戦の際に浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる太鼓と。先程訪ねた愛宕神社をズームで。先程訪れた『遠江總社 淡海國玉神社』も。2階の展示は、民族資料館という感じ。縄なえ機が展示そして縄の加工具や仕上げ品も。多くの農機具も。台所や囲炉裏の姿も。勉強机は親から子へ、兄弟、姉妹へと受け続かれたものだそうです。机以外に蓄音機、火鉢、草履等の懐かしい品物がたくさん展示されていた。当時の子供達の着物姿も紹介。見付宿の古地図も。 その9 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を見附宿方面に更に進む。日本橋からの距離は243.4km。『三本松御旅所』。「御旅所は神輿巡航の際、神輿が休む場所です。見付天神裸祭や祇園祭の神輿はこの御旅所まで渡御し、御神酒の献上や祝詞の奏上が行われます。また裸祭の道中練りもここで折り返します。 」『三本松橋 別名なみだ橋』かつてこの先の街道筋に遠州鈴ヶ森(三本松)刑場があり、罪人を見送る縁者がここで涙を流し見送ったのであろう。見付東坂上にある大正4年(1915年)建立の『秋葉山 常夜燈』。この灯篭は大正時代に建てられたものだが信仰の厚さが見受けられます。見付東坂を下る。左手に『東海道と愛宕山』の案内板が。「見付宿を一望できる愛宕山には、愛宕神社が鎮座し火防の神として人々の信仰を集めました」とあります。この付近は秋葉神社といい、愛宕神社といい火防に関する神様が信仰を集めるようです。『愛宕神社』への階段を登る。『愛宕神社』社殿。社殿の左側、山の上に石碑が見えたので更に道なき斜面を登る。『阿多古山一里塚跡』の石碑。磐田市指定史跡 『阿多古山一里塚』「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、東海道の整備を進め、慶長9年(1604)には1里塚に距離の目安として小山(塚)を築きました。これが一里塚で、磐田市内には宮之一色と見付にありました。見付の一里塚は、愛宕神社が鎮座する愛宕山にあったことから、愛宕神社の旧名から「阿多古山一里塚」と呼ばれます。一里塚は5間(9m)至宝の土台に高さ2~3mの円形の小山を築き、塚の上には榎や松などを植えました。明治時代に也多くは壊されてしまいましたが、阿多古山一里塚は見付地区の財産として街道の両側に残され、昭和42年11月3日に旧磐田市の史跡に指定されました。阿多古山一里塚は、江戸から62番目にあたり、北の一里塚には、椎、南の一里塚には松が植えられたと言われています。」愛宕神社の境内からは、見付宿の宿場町を眼下に見ることが出来た。愛宕神社をあとにし見附宿中心に向かう。ここには川があったのでしょうか?橋がモニュメントとして架けられていた。道路右手奥に『見付天神社』の石鳥居が正式には矢奈比賣神社で、「裸祭り」が8月の中旬に行われると。この神社は訪ねず、ここからの写真のみ。『祈 幸せをもたらす元号でありますように』と店の窓に早くも『令和』の元号が。現代版道標も。旧東海道『見付宿場通り』を更に進む。『見付宿史跡』案内図。 【http://www.asa1.net/siseki-meguri/mituke/index.html】より。整備された歩道には見付を代表する「見付宿」の当時の姿や磐田市の花、鳥などがタイルに埋め込まれていて見事。かなり道路は広く旧道とは思えないのであった。『見附十七小路』という表示も歩道路面に。寺院・神社・史跡等の位置が記されており、史跡巡りには便利であろう。「小路の奥に明治中頃にできた浜松市始審裁判所見付出張所(後の法務局)があったことから小路の名称となりました。現在は住宅地となり、その面影はありません。」『JA遠州中央 見付支店』が右手に。その前に『東海道・見付宿』の当時の地図が。『東海道分間絵図』道中図(どうちゅうず)は、江戸時代に作成された陸路や海路を記した絵地図で、今日の道路地図と観光案内を組み合わせた要素を持つ。元禄3年(1690)に遠近道印(おちこちどういん)が「見返り美人図」で知られる菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)と共に製作した「東海道分間絵図」は、代表的な道中図のひとつであり、1/12,000の実測図上に河川や橋梁・宿場町・一里塚名所旧跡などが師宣の絵によって詳細に描かれている。江戸時代に描かれた見付宿/東京国立博物館所蔵。『東海道見付宿案内板』こちらは現代の地図のようであった。『天神の木 東坂梅塚』。梅塚というのは、見付天神の祭りの夜、怪物に娘をさしだした家の前にそのしるしとして植えたものだといわれていると。鎌倉時代の話であると。『丸中 大橋商店』屋号丸中は江戸時代に浜松にて中兵衛という米屋を営んでいたことに由来。明治10(1877)年に酒屋を始め、現在四代目。店の裏には今でも当時のトロッコが働くと。『曹洞宗 宣光寺』。地蔵堂内には日本三代地蔵の一つとされる高さ1.4mもある平安時代作の木彫り座像「延命地蔵菩薩」があると。この地蔵は、徳川家康が追っ手から逃れるために見付の街に火を放った時、幼児の姿になって、やけどを負いながらも火を消して回ったという言い伝えがあり、身がわり地蔵さんとも呼ばれていると。そのほか、境内には、徳川家康寄進の梵鐘もあると。『地蔵小路』。「小路の奥手には延命地蔵をご本尊とする宣光寺があります。昔からお地蔵ご開帳の日には大変なにぎわいを見せていたことから地蔵小路とよばれてきました。」今之浦川に架かる橋が前方に。『今之浦川』、火の見櫓であろう。鉄骨造 (アングル),櫓型,4本脚,むくり屋根,銅板葺きの火の見 櫓の頭頂部とユニークな形状。『中川橋』。『大見寺』の案内板と『東海道見付宿』石碑。旧『寺小路』と刻まれた石碑。見事な灯籠。山門。『大見寺の文化財』。「見付端城(みつけはじょう)中世には、境内に今川氏によって築かれた城がありました。江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれています。現在もこの土塁の一部が西と南にわずかに残っています。良純法親王供養塔(墓)法親王は、107代後陽成天皇の第八皇子で、万治2年(1659)頃縁あって見付に滞在しました。弟子だった大見寺第11代住職によって供養塔が建てられた。鳥人・幸吉の墓岡山県出身で江戸時代中頃に、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛びました。晩年、見付で暮らしたといわれている」大見寺の境内の桜も満開。『三界万霊供養塔』。本堂。『日照山 光明院 大見寺』『日照山』と書かれた扁額。『浄土宗歌 月かげの いたらぬ里は なけれども 心にぞすむ』。芍薬の花も終わりか。様々な石碑、石仏が境内に。境内社。境内から山門を見る。見付十七小路 『寺小路』。「大見寺に通じることが小路名称の由来です。また大見寺境内には、三代将軍徳川家光の休憩所「御茶屋御殿」があったことから「御殿小路」ともよばれていました。」 静岡銀行前に『問屋場跡』。残念ながら説明案内板は見当たらなかった。『御証文屋敷、安間平治弥邸跡』「平次弥は本名弥平次。名は禮、字は伯啓、号は九渕と称し、漢字の素質があって詩文もよくした。徳川家康から代官に任命され、甲州武田軍を退去させた功績で家康に平次弥と改名させられ、名字帯刀を許されて、見付に住むように申しつけられた。庭には清水が湧出し年中枯れる事が無く、之を家康に薦めたので「御清水」というようになった。家康の休息場として利用されたといい、今も清水が中川に流れ込んでいる。町名もこれにあやかって、清水町という。安間家には代官からの証文が残され、「御証文屋敷」と呼ばれていた。」更に旧街道を進む。反対車線側にも隠れるように。『遠州見付宿 脇本陣跡』。説明案内板はここにもなし。『酒の無いよな極楽よりも落ちて地獄の鬼とのむ』と。懐かしい手押し井戸ポンプの姿が。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次許禰神社の角にあった『長命寺・笹田源吾供養塔』まで80mと。「戦国時代、袋井市域は徳川家康と武田勝頼の合戦の場となりました。天正6(1578)年頃には徳川方が優勢となり、遠江の武田方の城は大東町の高天神城だけとなりました。武田方は徳川方の情勢を探るため、高天神城にいた笹田源吾(篠田源五)を偵察に出しました。8月10日夜、木原村まで来ているところを徳川方に味方する木原村の住人太郎兵衛らが加わり、これを討ち取りました。徳川家康はこの手柄をたいへん喜びました。その後、平和な時代となりましたが、村には疫病や災害などの悪いことが続き、太郎兵衛にも不幸がありました。これらの災難は笹田源吾や武田と徳川の戦いにより戦没した人々の悪霊の祟りだという噂がおこり、これらの人々の悪霊を鎮めるために、地蔵が建てられました。この地蔵は現在でも丸野家の子孫の方々によって四百年間大切に祭られています。」更に旧東海道を進むと右手の水路の上にあったのが袋井市指定無形民族文化財『木原大念仏』案内板。「「木原大念仏」は 静岡県西部(遠州地方)の各地に残る「遠州大念仏」の一つ。武田信玄と徳川家康が戦った“三方ヶ原の戦い”の犠牲者を供養する目的で始まった念仏踊りで現在は宗教色は薄れて娯楽性の強い行事となっている。現在各地に70ほどの“組”があり、8月のお盆の時期に新盆の家々をめぐり, 横笛や太鼓などに合わせて念仏を唱えながら踊り死者の霊を弔う。」横には夢舞台東海道『木原』道標が。見付宿坂まで一里二町・4.1km。県道413号線合流地点手前まで進む。左手に案内板が姿を現す。『木原』「木原は 元亀三(一五七ニ)年に武田信玄 が徳川家康 を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地としてしられています。また 武田勝頼 軍の斥候(せっこう)笹田源吾 に由来する「木原大念仏」(市指定無形民俗文化財)の発祥の地でもあります。地区内には 原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(武内許禰(こね)神社)長命寺笹田源吾の墓や供養塔 徳川家康腰掛石など多くの歴史遺産が残っています。」県道413号線に戻り進むと狭い水路の上で袋井市から磐田市にはいる。これが灌漑用?水路。この付近は田園地帯が拡がっていた。磐田市中心街に向かって進む。磐田市の汚水マンホールの蓋。デザインは、磐田市岩井にある桶ヶ谷沼に生息するベッコウトンボ。この蓋はここから「磐田駅南」交差点方向に何枚もあったが、羽の黄色のエポキシ?が抜けてしまっているものが多かった。酉島交差点の先、右側にあったのが『曹洞宗 廣福山 全海寺』。『廣福山 全海寺下馬地蔵』。「当山は天文十一年(1542年)家康公の父広忠が曹洞宗天龍院末寺として草創開山する。」『六地蔵尊』。『手水舎』。『本堂』。扁額には『全海禅寺』と。本堂の横の御堂は改修工事中。太田川に向かって進む。そして太田川、橋の名は三ヶ野橋(みかのばし)。右の橋は現国道1号線、太田川橋。国道1号線の横には菜の花畑が拡がっていた。菜の花畑の中で写真を撮るカップルの姿が。訪ねたかったが、時間の関係で諦める。三ヶ野橋を渡り左折し旧東海道を進む。『旧東海道松並木』「東海道 は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化そ、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ケ野地内までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。 おねがい 交通規則を守って、自己防止にご協力下さい。」夢舞台東海道『三ヶ野』道標。その先が『鎌倉時代の古道』。この場所にはいくつもの道筋が穿かれ、磐田(見付)へとつづいていた。その道筋も旧東海道が整備される以前の鎌倉古道を始め、江戸時代の古道、明治の道、大正時代の道、更には「質道」、そして昭和の道、平成の道と全部で7本の道が集中していることから「三ヶ野七つ道(みかのざかななつどう)」と呼ばれているのだと。『明治の道(緑のトンネル)』碑。進んで行くと急な坂が始まった。これが『大日堂・三ヶ野七つ道』の始まり。この三ヶ野一帯は戦国時代の元亀3年(1572)に甲斐の武田信玄の遠州侵攻の戦いの舞台となった場所で家康軍との小競り合いが起こった場所として知られています。この時の武田軍は3万の兵、一方、家康軍はその半分の1万の兵ということで、家康はいちはやく撤退を決意します。しかし武田軍は執拗に家康軍を追撃してきます。家康軍は浜松へ戻るため三方ヶ原を辿るのですが、家康の生涯の中で最悪の敗戦と言われている戦いこそが「三方ヶ原の戦い」。ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康は、この戦で死の恐怖を味わったと言われているのだ。さらに上り坂を登って行った。すると突然坂道の左側にかなりの急勾配の坂道の入口が現れた。ここが江戸古道の入口。坂を登り終えた五差路に『従是鎌田山薬師道碑』が。この角から南に約1.5kmの所に「鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん)醫王寺(いおうじ)」と称される、天平時代に聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が山内の名木で薬師如来の尊像を敬刻され、ご本尊として祀ったのが始まりと伝えらる醫王寺があり、この角はその参道入口だったとのこと。見付宿はここを右折。逆に左に曲がると『江戸の道』であると。『三箇野 車井戸之跡』そして左には『明治の道』。昔、この辺りは水に困っており、その醫王寺によって滑車で汲み上げる井戸が掘られ、車井戸と呼ばれたと。磐田市三ケ野台の住宅街を進む。右手に『三ヶ野立場跡』。峠の茶屋の前の庭、野鳥と思いレンズを向けたが・・・・。旧東海道を左に折れ『二子塚古墳』を訪ねた。5世紀後半に造られた前方後円墳で、三ケ野台地にあり、出土品は馬形埴輪・人物埴輪で埴輪と実物がセットで発見された珍しい例だそうで、銅鏡も見つかっていると。しかし、説明書き等はみつからなかった。左手に進むと『緑ヶ丘霊園』、『善導寺』へ。『従是西見付宿』。説明用の地図も。江戸時代分間絵図に画かれた街道、榜示杭も画かれていた。『榜示杭とは!』。「榜示杭は、街道に沿った村や宿の境を示す標柱です。 ここは見付宿と岩井大久保・西貝塚大久保との境界でした。 文化三年〈千八百六〉に発行された東海道分間延絵図〈おおくぼ〉に【御料榜示杭】の表示があり、その下に境界を表す記号赤丸印があります。」現在の街道の様子。『旧東海道 行人坂』。『「行人坂」のいわれ』行人坂:愛に月待日待の山伏勧進せしゆゑにかくはいへり、・・・意訳しますと『ここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂 と言うようになった。この資料は井原西鶴 が晩年に執筆し、元禄の初めに発行され度々再版された「一目玉鉾」の見付の処に書かれた文です。東京目黒の行人坂は有名ですが、時代的にはここの坂の方が早くから有ったようです。この坂 は急勾配で、江戸時代の見付東坂と同じくらい急でした。」『行人坂』の登り終わると旧東海道は県道413号線に合流した。磐田市富士見町にある歩道橋を渡り道路の反対側に向かう。歩道橋から桜の咲く小さな丘が目の前に。ここが『「鈴ヶ森の刑場跡(三本松刑場跡)』らしいが・・・・。この刑場を有名にしたのは、あの大盗賊である日本左衛門の首がここで晒されたこと。遠州金谷の生れで美濃から相模の八か国で、五十人~六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、といわれる大盗賊でしたが、江戸の火付盗賊改方に捕えられて、江戸で斬首されこの地に運ばれ晒し首になったといいます。遠州の鈴ヶ森という名前がついている刑場跡ですが、江戸の品川宿のはずれにも鈴ヶ森刑場があり以前訪ねた。どちらが先に鈴ヶ森という名前を使ったかというと、江戸の品川の鈴ヶ森と。江戸の鈴ヶ森刑場が設けられたのは、あの慶安の乱(由比正雪の乱)が起こった慶安4年(1651)に共謀者である丸橋忠弥を処刑するために設けられたのが江戸の鈴ヶ森の始まり。ということは日本左衛門が活躍したのが延享の時代ですから、慶安の乱からおよそ100年後のこと。おそらく遠州鈴ヶ森という名は、江戸の刑場を代表する鈴ヶ森の名前を拝借したのではと。しかしこんな立て札が立っていた。「此処は刑場跡ではない。見附形状跡は、昭和三十一年(1956)国道一号線改良工事により道路傍下に埋没された。此処は、見付府内に刑場が在った事を記すため、史跡碑建立の場として所有者玄妙寺が管理しているものである。 見付 本立山妙源寺」。 その7 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東海道袋井の宿『時空を越える道との対話 名所旧跡案内絵図』その先には『どまん中丸凧ギャラリー』が。『代官 林鶴梁と梅屋敷』の文字がガラス戸の向こうに。調べてみると、2016年に袋井宿開設400年記念祭として袋井市観光協会が演じた寸劇の題名であるらしいが・・・・。閉まっていた?が、ガラス戸越しに内部をカメラに。袋井の名物の『袋井丸凧』が壁にズラッと。広重の諸国名所百景にある遠州秋葉遠景袋井凧にも出て来ているのであった。前方に宇刈川に架かる御幸橋が。そして橋の両側に常夜燈が見えた。左手にあったのが『本町宿場公園』。そしてここが袋井宿の西の外れ。本町宿場公園の中に『従是袋井宿』の木柱と『秋葉山常夜燈』が。この公園にも「土塁」「高札場」など「東海道袋井宿」に因んだものが。『秋葉山常夜燈』。「火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道北側にあり、南側約3メートルの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。」『高札場』。「幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。 」『土手(土塁)』。「いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2メートルをこえる土手が写っています。土手の内側には枡形(宿の警護所)がありました。袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両脇に土手を再現しました。」現在地付近の地図。 【https://amayatea.chagasi.com/burari-014.html】より宇刈川に架かる御幸橋(ごこうばし)を渡る。この橋が袋井宿の西の端にあたり、「東天領袋井宿 従是西掛川藩領川井村」と書かれた榜示杭も近くにあったのだ。旧東海道・県道253号線を更に進む。旧東海道脇に『御料牓示杭跡(ごりょうぼうじぐいあと)』従是西掛川藩領川井村、従是東天領袋井宿。万葉歌碑(袋井中学校正門内)と。京都から来ると、この付近から袋井宿が始まっていたようであった。左手にあったのが、故小野千代子様から寄付された用地への感謝の『記念碑』。その向かいにあったのが『法多山道』と刻まれた石碑と『法多山 尊永寺 川井別院』。厄除観音・法多山尊永寺はおよそ1290年ほど昔、神亀2年(725年)聖武天皇の勅により行基上人が開山した高野山真言宗別格本山である法多山は、勅願定額寺の列に偶せられ、朝廷、武将の篤信を授け信仰、文化の殿堂として栄えていると。『法多山 尊永寺(はったさん そんえいじ) 川井別院』。法多山尊永寺は、静岡県袋井市にある高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。遠州三山の1つ。本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)。その横の十字路の先、右手にあったのが『春興五十三駄之内 袋井』と左手が『東海道五十三次之内 袋井之図』。右の絵は「春興五十三駄之内 袋井」葛飾北斎 享和4年(1804)。「葛飾北斎が生涯に描いた11種類の東海道風景画の一つ。画面の上部に3首の狂歌が添えられています。大きな荷物を背負った馬と大黒様を思わせる旅人。お茶を差し出す女将の姿は、どまん中袋井宿の「おもてなしの心」を表しています。」左の絵は、「東海道五十三次之内 袋井之図」香蝶桜国貞 天保14年(1843)。「「保永堂版東海道五十三次之内 袋井」を模した出茶屋を背景に荷を背負い、杖をつき、先を急ぐ女性の旅人を描いています。おそらく伊勢参りに行くのでしょう。当時、女性の旅は伊勢参りがほとんどでした。」更に旧街道を進む。ここも『東海道どまん中西小学校』。その先左手に洋館造りの白一色の瀟洒な2階建ての建物があった。『袋井市指定文化財 旧澤野医院』。「旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行も29間あり、さらに西側に12.5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。」右手にあった『寺沢家長屋門』を振り返って。明治元年(1868)に建てられたと伝えられる東海道沿いには珍しい長屋門である。その先、右手にあったのが『津島神社』。『津島神社のいわれ』。「幕末の混乱期、東海道の松並木で津島牛頭天王社のお札が見つかり、村人がこのお札を津島神社(愛知県津島市)に納め、御祭神を迎えたのがこの社の始まりと云う。現在の建物は、大正期に建てられたものである。」『袋井 川井』道標。見付宿境まで一里十一町・5.15km。川井交差点で県道413号線に合流。右は「狂歌入り東海道 袋井」(初代歌川広重)天保年間。左が「諸国名所百景 遠州秋葉遠景 袋井凧」(二代広重)江戸時代末。コンビニで軽く腹ごしらえして更に右手の旧街道に進む。ここは袋井市川井1103の先。旧東海道入口右手の道標『木原松橋』。更に進むと左手に再び浮世絵が。『蔦屋版東海道』。「松の枝に吊した茶釜で湯を沸かす出茶屋の女主人、キセルをくゆらし、しょざいなく高札を見入る駕籠かき、床几に腰掛け、茶をすする職人風の二人づれ、馬子はいないが、荷物と女性を乗せた馬は軽尻であろうか。街道は遠くの村々へと続き、夕日にはえる山並みとともに、袋井市域のおだやかな夕暮れを思わせます。」袋井市の防火水槽マンホール蓋。『木原一里塚跡』碑が右手に。昔はこの場所に一里塚があったとのこと。『木原一里塚跡』碑から60m先に進むと左手に復元された一里塚が。「木原一里塚は、江戸から数えて61里目の一里塚です。 「東海道宿村大概帳」 (逓信総合博物館蔵) には 「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。木立松。但、左右之塚共木原村地内」 と記され、 「東海道分間延絵図」 (東京国立博物館蔵) や 「東海道分間絵図」 (東京国立博物館蔵) などには 塚の上に松や榎が描かれています。 本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。」そして右側には神社が。『許禰(こね)神社(木原権現社)』。神社入口左にあったのが『古戦場 木原畷』と刻まれた石碑と『徳川家康公腰掛石』。神社附近は木原畷といって元亀三年(1572)に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦が行われた地であると。『徳川家康公腰掛石』。「関ヶ原の戦の勝利祈願のため、当社を訪れた折、腰掛けたと言われています」『神社(木原権現社)』案内板手水舎。『許禰神社(木原権現社)』社殿。更に近づいて。扁額には『許禰神社』と。『八幡宮』。『稲荷大神』。『稲荷神社』。境内末社が並ぶ。『古戦場 木原畷』。「元亀三(1572)年秋、武田信玄 は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城・飯田城・各和城を次々に攻め落としました。信玄は鷲巣の久野城を攻めた後、東海道 を西進してここ木原付近に布陣しました。これに対峙する徳川家康の家臣、内藤信成 は磐田の三箇野台から偵察の兵を出したので、木原の集落付近で戦闘となりました。この戦いが「木原畷の戦い」です。その後、徳川勢は三箇野川、見附宿、一言坂と信玄から追撃を受けましたが、しんがりをつとめた本多忠勝 の奮戦があって浜松城へ撤退できたと伝えられています。」『袋井市木原周辺イラストマップ』。 その6 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次七ッ森神社を後にし、旧東海道を進むと直ぐ左手にあったのが『双筆五十三次 袋井』の浮世絵が。「双筆東海道五十三次 袋井」は、歌川国貞が人物を描き、歌川広重が風景を描くという、当時浮世絵界の大御所と言われた2人の合作の東海道五十三次です。ここ袋井市の道のいたるところに、東海道五十三次のポスターなどが貼られており、街道の風情や佇まいに思いを馳せることが出来るのであった。「初代歌川広重が得意としていた低視線の風景画を背景に、三代歌川豊国が巡礼に向かう母子を描いています。 二人とも抜け参りなのでしょうか、旅の途中、金品を無心する柄杓を持ち、母親は菅笠に 「同行二人」 「繁栄村」 墨書し、 着物の上にうわっぱりを着て 「(西国)三拾三番巡禮」 と記されたおいずいを羽おっています。東海道は、武士や商人、役人、僧侶のほか、伊勢参りをはじめ多くの巡礼者の通る道でもありました。」江戸幕府が整備させたと言われる松並木の一本道は、広大な田園風景とともに当時の面影を残していた。『東海道松並木』。初代歌川広重作山田屋版「行書東海道五十三次之内 袋井」「主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。 「信長公記」 には天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」 と記され、 慶長9年(1604)には徳川秀忠が 「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」 と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが 「徳川実紀」 に記されています。江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、 江戸時代の面影を今に伝えています。また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。 入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。」『山田屋版 行書東海道五十三次之内 袋井』その横に『従是油山道』。文政11年(1828)の油山寺道標。松並木は一旦途切れたが再び前方に。『是より可睡三尺坊道』これは曹洞宗の寺院 「可睡斎」 への道標である。応永年間(1394~1428)道元の法孫・如仲天誾和尚が草庵を結び、後東陽軒と称したのが可睡斎の始まりで、江戸時代、徳川家康の帰依を得て、駿河・遠江・伊豆・三河4ヶ国の僧録司の職を与えられ、寺号を可睡斎と改めた。」『東新屋』道標。新屋交差点手前で旧東海道は県道413号線に合流。道路の中央分離帯にあったのが『西新屋』の道標。新屋の交差点を左折すると直ぐ右手に『旧東海道』の案内板が。この様な案内が旧東海道沿いに充実することを願うのであった。そして丁寧に『新屋 旧東海道マップ』が設置されていた。袋井市の施策に歩き人として評価と感謝をするのであった。案内に沿って進むと右手に立派な祠が現れた。『新屋の秋葉山常夜燈』。「新屋の秋葉山常夜燈火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。」正面から。祠の屋根の下の彫刻も見事。横から。全周に渡り透かし彫りの彫刻が見事に。その奥にも小さな祠が。そして旧東海道は袋井市役所前を通過する道路に合流しここを左折。『市役所南』道標。再び袋井市役所南交差点を右折。広岡排水路沿いの桜も満開となっていた。既に花筏も。『袋井宿と天橋』。「袋井宿 は元和ニ(一六一六)年に設置されました。いわゆる東海道五十三次でいえば品川宿から数えてニ七番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。天保一四(一八四三)年の調査によれば、宿内の街並みは西端の中川まで五町一五間人口は八四三人、家数は本陣三軒・旅籠屋の五〇軒を含め一九五軒でした。」この石碑は、「阿麻はし」??『これより袋井宿』昔の道標のイメージした新しい道標。『東海道どまん中茶屋』。東海道五十三次のどまん中・袋井宿をアピールし、初代広重の描いた「袋井出茶屋之図」をモチーフに建てられ観光案内所。袋井市観光協会が運営する店であろう。正面から。茶屋は小さいが、暖房が効いてとても暖かい、いやこの日には暖かすぎたか?ボランティアのオバチャンがお茶を入れてくれたので、話しながらしばしの休憩。ここには、食事提供の機能はなく、頂いたお茶を楽しみながら、持っていたオニギリと旅友からもらったバナナを楽しんだのであった。茶屋の前の小さな広場。『袋井 出茶屋ノ図』私が映ってしまっていた。こちらが広重の浮世絵。大きな木からヤカンがぶら下がり、お茶屋のオバチャンが、火の面倒を見ている。その横では旅人?がこの地域で盛んだっというタバコ栽培からの刻みタバコを煙管で火を付けようとしている姿であるとボランティアのオバチャンから。『袋井宿』道標。『食処 坂口屋』と書かれた木札が掲げられていたが、店は長い間閉店中であるとこれもオバチャンから。そして再び旧東海道を歩く。右手に『秋葉山 常夜燈』。『白髭神社(しらひげじんじゃ)』社標。白髭神社の鳥居。道路を渡ると白髭神社境内へ。本堂。祭神は猿田毘古神(さるたびこのかみ)。五穀豊穣を祝い、無病息災を願い行われる大祭・袋井祭りでが、白髭神社を始め、十二所神社、七ツ森神社、赤尾渋垂郡辺神社の四社の例祭として行われると。旧東海道まで戻り、次の細道入口に埋め込まれていた『秋葉線軌道跡』。帰宅して調べてみると、静岡鉄道の路面電車跡。袋井駅から北上して遠州森駅まで通っていたのだと。開業は明治35年で、当時はお茶や野菜を袋井まで運ぶ馬車鉄道であったと。その後景気が良くなり電車になり、太平洋戦争の頃は町の人が農家へ買出しに行く電車になって、客が屋根の上にも乗るほど賑わったのだと。しかし車社会になって昭和37年に廃止になってバス路線に代わってしまったのだと。そしてその先にあったのが『袋井宿東本陣(田代壱番御本陣)跡』『本陣跡の門』。正面から。「袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。 1、宿内惣家数 195軒 内 本陣 凡建坪290坪半 門構・玄関附 字新町 1軒 凡建坪219坪 門構・玄関附 字本町 1軒 凡建坪168坪半 門構・玄関附 同 1軒三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋も勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。」『東海道の本陣』⬅リンク が細かく説明されていた。興味のある方はリンクをご参照ください。『袋井宿東本陣 建物の一部』。「この場所は平成3年度に発掘調査が行われ、建物の一部が発見されました。現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井がなかったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました。」『本陣絵図 解説図』。袋井宿には3つの本陣があってそれぞれ、東本陣・中本陣・西本陣と呼ばれていた。東本陣は壱番御本陣とも呼ばれ、代々田代さんが営んでいた。建坪は288坪もあったが、その後、郵便局となり、それも無くなり今は門のみ復元。なるほど『ウナギの寝床』。そして次に直ぐ先、左手にあった『袋井宿場公園』に。公園に隣接する建物の壁にも袋井宿の絵が。『此処はどまん中袋井宿』案内図。「遠州山名郡袋井宿掛川宿へ二里16町(約9.7キロ)見付宿へ1里半(約6キロ)当所うなぎすっぽん名物袋井宿の名は、すでに弘安の頃(1278~88年)に書かれた「遺塵和歌集」の長唄の一節に見ることができます。江戸時代の袋井宿は、徳川家康公により東海道の宿駅制度が定められてから15年後の元和2年(1616年)八月四日に開設されました。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目、東海道五十三次のちょうど「どまん中」の宿です。」『北斎漫画と末広五十三次』。「北斎漫画絵手本としての「北斎漫画 袋井」には、石積みのある土塁の間を進む二人の旅人が描かれています。水害にみまわれることの多かった袋井宿は、こうした土塁(土手)に囲まれていたのでしょう末広五十三次天橋を越え、東へ向かう大名行列の姿を描いています。沿道には松並木、宿内から茅葺き屋根の家並みが続き、天橋は高欄付きの板橋です」公園の裏にあった『旧中村洋装学院』をズームで。原野谷川沿いに南北棟で建つ。木造二階建、切妻造桟瓦葺で、棟端のフィニアルに校章を表す。外壁下見板張で妻にガラリを付け、軒天井を廻す。内部は上下階とも南半を広い一室の教室とし、北半に和室・洋室を配する。戦後復興期の各種学校校舎の特徴を示す。公園の見事な噴水。ノズルの形状、水圧に元技術屋?として興味津々。『歴史の道 東海道 袋井宿』「袋井の宿が初めて歴史史料にあらわれるのは、約七〇〇年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。「・・・なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の・・・」これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六(1601)年に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二(1616)年に開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。」 その5 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東海道の現代風の道標。磐田市境まで6.0km。更に旧東海道(県道253号線)を西に進む。左手奥にあったのが『妙日寺』。参道入口には日蓮聖人の先祖古跡を示す石碑が建っていた。『日蓮聖人父母顕彰の寺』。日蓮の父貫名重忠は、源平の合戦において平氏に味方したため鎌倉幕府から安房国小湊へ流され、その地で貞応元年(1222)に日蓮が生まれ、父重忠は正嘉二年(1258)にそのまま生涯を閉じました。妙日寺入口である『孝養門』。境内東側には日蓮と父母(妙日、妙蓮)の木像が安置されている思親殿が建つ。重忠夫妻の墓は柳生但馬守の建立と伝えられている。扁額『孝養門』。『貫名山 妙日寺(ぬきなさんみょうにちじ)』『孝養門』の先に本堂が。『本堂』。正慶元年(1332年)身延山・久遠寺4世・日善を開山として、貫名次郎重忠の邸宅跡に創建された。山号は「貫名山(ぬきなさん)」。日蓮の父の法名「貫名山」を寺名としているのだと。井伊家5代目当主・盛直の三男・政直が、遠江国山名郡貫名郷に所領を得て、貫名氏初代になったと。本堂隣にある堂は、思親殿。この堂の裏側に日蓮聖人の両親の供養塔が配置されているので、拝殿的な役割か。こちらには日像上人ご親刻の、日蓮聖人と両親のご尊像が安置されているとのこと。扁額には『思親殿』と。『妙日・妙蓮両尊儀五輪塔』伝承によると日蓮宗の開祖日蓮上人の両親の供養塔で、正保3年(1646)に柳生但馬守宗矩(むねのり・大和柳生藩主)が寄進した五輪塔。『市指定文化財 妙日・妙蓮両尊儀五輪塔』日蓮上人の父は貫名重忠(ぬきなしげただ・戒名妙日尊儀)といい、源平の争乱において平家に組していたと伝えられています。平家滅亡後に所領を追われ安房国(千葉県)に移り、日蓮上人はそこで生まれました。供養塔の建つ妙日寺は袋井市内では数少ない日蓮宗の古刹で、歴代の貫名氏の館跡に正慶元年(1332)に久遠寺の日善上人が開きました。重忠夫婦の供養塔の隣には初代貫名正直、二代行直、三代重実(しげよし)の宝篋塔が祀られています。『貫名山稲荷大明神』。『寺務所』。多くの慰霊碑、忠魂碑他の石碑が並んでいた。『平和への道標』。遠州七不思議のひとつ『片葉の葦』案内板には、東国に旅だった重忠(日蓮の父)を惜しむように東側に葉を付け繁っていると説明されていた。『久津部(くつべ)一里塚』が『妙日寺』の直ぐ先の左手に。「徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。」『久津部一里塚』説明板。右手にあるのが、小ぶりな復元一里塚だが、塚上に松を植えてそれらしい佇まい。『東海道久津部一里塚』「一里塚とは、街道両側の一里(約4km)ごとに土を盛り上げて道のりの目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や桧がその上に植えられていました。 久津部一里塚は江戸からちょうど六〇里にあたり、明治時代までは老松が立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。 昭和四七年には袋井東小学校創立百年を記念して一里塚碑が立てられるなどして現在にいたっています。 ここに、歴史を末永く後世に伝えるために新たに塚を設置しました。 」小学校の門には『東海道五十三次 どまん中 東小学校』の大きな木の看板が掲げられていた。正式には、『袋井市立袋井東小学校』という。袋井宿は東海道の日本橋・京都両方から27番目の宿にあるので、『どまん中』と言っているのだ。この辺りには道標が多かた。大抵の道路分岐点に何らかの道標を見ることが出来た。油山寺道標油山寺はここから3.3Kmほど北へ行ったところにある寺で、1300年前に建てられた古刹。『秋葉山常夜燈』。「村中安全」の文字も刻まれていた。『村松・宇刈道標』。大正4年(1915年)建立。道路の向かいには『八幡社入口』の石碑が。『用行義塾跡』。「村松・宇刈道標」の石碑がある所を右折してすぐ右側に。「用行義塾は、 「学制」が発布される一年前、明治五年(1872)に民間の有志が共同出資して設立した、袋井で最初の近代教育を行う郷学校と言われた学校です。袋井東小学校に残る用行義塾版木に刻まれた設立趣意書には、福沢諭吉の「学問ノススメ」に強く影響され、広く世界に目を見開き、教育の重要性を認識していたことが記されてい ます。」『法多山道標』。旧東海道(県道253号線)を更に進む。『油山寺道』久津部に残る明治37年(1904年)の油山寺道標。「あぶら山ミち二十七丁」と刻む。旧東海道(県道253号線)を更に進む。『隷書東海道五十三次 袋井 初代歌川広重 嘉永2年(1849)』松並木が現れた。そして『七ツ森神社』に到着。「七ツ森は 田圃(たんぼ)の真中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩主高力猿猴庵が天明六年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれてい ます。その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしま いました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺には久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。」『七ツ森神社』。「国本字森廻2,586番祭神 久努国造 大己貴命相殿 玉依姫命 別雷命 相殿賀茂神社は延喜15年(915)山城国賀茂大明神を勧請境内社 七ッ森稲荷社 倉稲魂命 明治七年字森廻より遷座 大日神社 天穂日命 明治七年 広岡田所より遷座末社 神明神社 天照大神 白山神社 菊理姫命 天白神社 猿田彦命 夷神社 姪児命 金刀比羅神社 金山彦命 末社五社は明治7年合祀 住吉神社 飯高神社 未社二社は明治7年北原川宇佐八幡社へ遷座由緒創建年代不詳、往古の郡辺神社と云う。大化の改新前久努国あり、印幡足尼を国造となす。国造は世々に久努に住す。為に国造の遺霊を郡辺村に祀り祭神となす。927年完成した延喜式神名帳に「遠江国山名郡式内郡辺神社」と所載す。後世神社は原野谷川の大洪水にて宝物古文書等全てを流失。社は高部村に漂着し村人により厚く祀られ明治34年渋垂神社に合祀さる。流失年代不詳。以来当神社の社名は世々に於いて変り久努神社、賀茂神社に偲ぶ事か出来る。徳川時代は朱印高七石、明治6年村社に列格し昭和20年宗教法人「七ッ森神社」の認証を受け静岡県十三等級社となる。平成5年3月放火により社殿を焼失す。社殿は同年10月再建したるものなり。」社殿に向かう。『七ツ森稲荷大明神』の朱の鳥居が続いていた。横から。拝殿。主祭神は、古墳時代にこの地を治めていたといわれる久努国造(くどのくにのみやつこ)及び大己貴命(おおなむちのみこと)の2柱。神社奥には袋井の名木古木である大きなシイの木が。樹高 15m目通り幹囲 6.7m推定樹齢 200~299年『七ツ森稲荷社殿再建記念碑』。境内に「久野城見ゆ1.1Km」(本殿裏から戦国時代の城跡、久野城がとてもきれいに見えます。)との立て札が立っていたので奥まで行ってみると。望遠で撮影しました。久野城は明応年間(1492~1501)に今川氏が遠江(静岡県西部地方)へ攻め込む拠点として築城されたとして伝えられています。城址は舌状に張り出した丘陵の先端を利用した戦国時代の平山城の様子をとどめています。 その4 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『原川松並木』善光寺、仲道寺を過ぎると袋井宿の新屋までのあいだ、断続的に松林が続いていた。また石碑もたくさん現れて来た。松並木の合間向こうに田園が広がる。『旧東海道松並木 岡津~原川』案内板。「官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。現在では国道一号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。」『原川区自治会』の皆様、ご苦労さまです。『原川松並木』周辺案内図。掛川市領家にある原川薬師こと『金西寺』が左手に。薬師瑠璃光如来を本尊とする。門前には薬師餅を売る茶店や酒屋等が軒を連ね、行き交う旅人で賑わったという。『本堂』『曹洞宗 南泉山 金西寺』。扁額には『瑠璃塙』と書かれていた。『遠州かさやくし如来』「かさやくし様には左のように御立願をいたしましょう。無病長寿、家内安全、家庭に風波の起こらぬ様、病気平癒、災難を除き交通の安全を祈願いたしましょう。良縁を得度い方、優れた子宝にめぐまれたい人々、心願成就我が身のため、子孫の為家内親族社会のため薬師徳相の圓満を願い感応洪大の説得力を仰ぎましょう」と手書きで。境内右手の奥には石仏が祠の中に並んでいた。近づいて。『地蔵菩薩』。その隣の石仏。『金西寺』の手前には『間の宿原川』の解説板が立っていた。「宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。原川は掛川宿まで一里十八町(約6Km)、袋井宿まで三十三町(約3.6Km)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四十六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。」『金西寺』の次の四つ角に「是従 和田岡村・原谷村ヲ経テ森町ニ通ス 天正四年」と刻まれた石碑が。現国道1号線に合流すると、日本橋から234kmとの表示が。『原野谷川』に架かる『同心橋』。『同心橋』銘石。『原野谷川』の上流側。ここが袋井市と掛川市の境。同心橋を渡り振り返ると、『掛川市』と書かれた標識が見えた。更に国道1号線を直進したが、旧東海道はこの場所から分岐し左折しなければならないのであったが、近くに横断歩道は全くなし。手前の横断歩道のある場所まで戻ろうと決断し進むと、幸い近くに原野谷川の堤防に降りられる人道を見つけてそこを下に降りる。そして少し戻ると地下道を発見し、国道1号線を渡ることが出来たのであった。地下道を潜り坂を登ると左手にあったのが『名栗花茣蓙公園(なぐりはなござこうえん)』『ここは名栗花茣蓙公園』江戸時代には茶屋があり旅人が一服したところ。花茣蓙(はなござ)は花筵(はなむしろ)とも呼ばれ、花模様などに織られた茣蓙。東海道を往来する人が珍しがって買って行ったという。ここ名栗と西隣り久津部の名産品なのであったと。「文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し、軒を連ねた通りをすぎ、瀬川を渡れば早名栗、松並木を西に見て立場茶屋に着く。名代の甘酒に舌鼓、ここは布井の宿までの間の宿、旅籠屋のあり、名物の花ござを売る店が軒を連ね、上り下りの旅人が珍しいと買って行く。旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里」『東海道五十三次之内 袋井宿 出茶屋ノ図』「掛川から9.7キロ。この絵は宿外れの一風景で、出茶屋とは街道のよしず張りの簡単な休み所のこと。旅人はこうした茶屋で足を休め、喉の渇きを潤していました。うっそうと茂る大樹の枝からやかんを吊るして火加減を見る茶見世の女、立ちのぼる薪の煙、実にのどかな風景です。左手に絵をよせ、右手は取り入れの済んだ野面と村落、草むらの立札で画面のバランスをとっています。立札にとまっているのは燕。やがて去っていく燕の姿に旅情を深く感じさせます。」『原野谷川やすらぎの小道 同心橋』の現代道標。公園内には可睡三尺坊道標があった。側面に『従是西 東海道 御本躰可睡三尺坊大権現』とそして裏面には『喜捨主 当國消定講中?』の文字が彫ってあった。また、木造祠にはいった秋葉山常夜燈も。この付近の旧東海道沿いの民家の庭の街道側の角には、小さな祠が奉納されていた。名栗京方入口、「名栗の花茣蓙」の駕籠(かご)風看板が迎えてくれた。横の壁面には「袋井丸凧」の絵が描かれていた。再び『名栗の花茣蓙』。実はこの駕籠(かご)の如き小屋は自治会で使用するゴミの保管庫のようであったが。名栗の西側に残る松並木。『あいうえお運転』。『東海道松並木』案内板が左手に。「江戸時代の東海道沿線の村々を記録した「東海道宿村大概帳」には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と「徳川実紀」は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。」『東海名所改正五十三驛 東海名所改正道中記 袋井 見附迄一り二十丁』三代 広重作とのこと。東海道の松並木がいまなお残されていた。こちらにも。『行書東海道五十三次之内 袋井』 初代歌川広重 天保年間(1830~44)童とともに凧あげを見上げる旅人を描いている。四角凧は大人が二人掛りであげている。その隣には袋井丸凧も上げられている。その後、一旦は丸凧の伝承は消えて、凧上げの風習もなくなっていたが、昭和六十二年、市内の、有志の尽力により郷土に伝わる丸凧の文化が再現されたと。更に松並木は続く。『歴史の道 東海道検定』案内。旧東海道はかなり狭いが、1段下がった場所に歩道が出来ていた。枯れたり、安全上伐採した松の下部の横には新しい松の苗木が植えられていた。これぞ次世代への引き継ぎ。両脇の工場群の花壇も手入れが行き届いていた。『東海道五十三次之内 袋井 歌川芳員』歌川派の多くの浮世絵師が東海道五十三次シリーズを描いていますが、芳員が描いたこのシリーズは、各宿場にまつわる伝説や逸話を面白おかしく紹介しています。全般的に横小判の絵の中にはユーモラスな図柄が多いとも言われます。「振り分け荷物と菅笠を放り出し、両手を合わせて命乞い。 農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手は 「案山子(かかし)」、早とちりな旅人に農夫もあきれ顔です。 ユーモラスな場面の背後には松並木が続きます。 東海道袋井宿近くの夕暮れです。」右手に大きな朱の鳥居が立てられていた。扁額には『富士浅間宮』と。鳥居縄手・冨士浅間宮本殿まで800mと。『冨士浅間宮赤鳥居』。「赤鳥居と呼ばれ親しまれているこの鳥居は、東海道分間延絵図にもその姿が描かれ、重要文化財で木花開耶姫命を祀る冨士浅間宮本殿までの参道の入口に建っています。現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、周辺には多くの工場が立ち並んでいるために、鳥居だけが取り残されたように見えますが、江戸時代には東海道から木々の間に社殿を見渡すことが出来たようです。」富士浅間宮本堂方面に向かう道路。 その3 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(上矢山中黒打線・県道253号線)の大池(鳥居町)の家並み。『芭蕉天神』の石碑。細い山道の奥にある社殿をズームで。天竜浜名湖線のガードが前方に。静岡県掛川市の掛川駅から浜松市天竜区の天竜二俣駅を経て、湖西市の新所原駅に至る天竜浜名湖鉄道が運営する鉄道路線。東海道本線から分岐して内陸部に入り、浜名湖の北岸を巡って再び東海道本線に合流しており、掛川 - 豊橋間の北回りバイパス線ともなっている路線。ガードの左にあった西掛川駅を見上げる。単式ホーム1面に待合所を設けるだけの無人駅であるようだ。『白山神社』入口。右に曲がり進むと道路の先に大池(橘町)に鎮座する『白山神社』が。境内参道とその先に『社殿』が。掛川市大池850にある白山神社。大池(橘町)にある宗心寺。こちらが宗心寺『山門』。『本堂』。「五十九代宇多天皇寛平六年(894年)頃の創建と云われている。元は法多山尊永寺の末と伝えられ、現在は日蓮宗だが昔は真言宗であった。創建以後三百八十年経ち、文永年間鎌倉の大光山本圀寺の好堅院日教聖人が当地に布教し、当時宗心寺住職中道院阿闍梨法師と法輪の末阿闍梨法師は日教聖人に折伏され当寺を日蓮宗に改宗した。聖人より大光山の山号を頂き大光山宗心寺と山寺号を改めた。中道院阿闍梨法師は日教聖人の弟子となり中道院日法と改め、日教聖人を当寺の開山とし日法聖人が二世となる。掛川では最も古いお寺のひとつと云われる。」『南無妙法蓮華経』と刻まれていた。『目標を持とう よき未来のために努めよう 現在できることを』と。現在できる日本橋から京都三条大橋まで『旧東海道を歩く』を目標としながら歩く自分がいたのであった。境内にあった神社。この建物は?昔の本堂を移設したものであろうか?蓮祐寺の門前にある『大池一里塚跡』の道標を何とか発見。北塚は大池村内、南塚が長谷村地内に存在した一里塚だが両塚とも現存せず。江戸日本橋から59里目(約232km)、京三条大橋からは59番目で実測約285km地点。(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)。掛川市長谷の旧東海道沿いにある『蓮祐寺』。日蓮宗、釈迦牟尼如来を本尊とする蓮祐寺の『本堂』慶長二十年(1615年)大阪夏の陣落城のおり、服部又一郎が供をつれ京より下り当地に移り住む事と成った。時代は変わり明治の世となり、服部一族は貫名山妙日寺に帰依し、蓮成院日淨上人にお願いをして、当地へ法華経を広める為に布教所を創立したのが当寺の始まりであると伝えられる。『一条山』と書かれた扁額。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑。更に旧東海道を進むと『大池の名残松』が姿を現す。『逆川』が近づく。旧東海道(県道253号線)を進む。ここは掛川市細田地区。正面に現国道1号線・掛川バイパスの高架橋を望む。右手公園の奥には『高松神社』が」あった。現国道1号線・掛川バイパスを潜り、バイパスを左に見ながら進む。旧東海道沿い左手にあったのが『掛川聖書バプテスト教会』。東名高速道路の下を潜り、前方にに見えて来たのが垂木川(たるきがわ)に架かる『善光寺橋』が見えて来た。善光寺橋西詰、垂木川に沿って旧東海道が延びる。垂木川に架かる『善光寺橋』。善光寺橋歩道橋を進む。『垂木川』。延長6.4kmの川で太田川水系の宮川と逆川を繋ぐ川。掛川市岡津地区の民家の庭には早くも鯉のぼりが泳いでいた。旧東海道。右手にあったのが『善光寺』・『仲道寺前』を行く。こちらは『善光寺』の『如来堂(阿弥陀堂)』。信州の名刹善光寺と同名の寺が何故ここにあるのか沿革がはっきりしないが、阿弥陀堂に祀る阿弥陀仏は平安時代の武官、坂上田村麻呂の守り本尊と伝わると。『岡津善光寺由来記』が旧東海道沿いに置かれていた。文章が消えかかっていたのでネットで調べてみると「この地は、佐野郡小松郷岡津村と記され(現在掛川市岡津)松茸が多く取れたといわれている。往古延暦七辰の年(平安時代初期)に伝教大師が叡山建立の願をかけて、自からが阿弥陀仏を三体彫刻してその一体をさずけ、奥州に延暦九年賊徒討伐のため、勅使として坂上田村麻呂と百済王とが東に下った途中、この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することができなくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたといわれ、ここに善光寺堂を建立された。この頃、諸国に難病が流行してその話を聞いて大勢の人たちがこの善光寺にお参りに来たといわれている。右側にあるお寺は曹洞宗仲道寺寺名であり、その昔江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど東海道の真中で仲道寺と寺名がついたと云われている。」そしてその隣には『仲道寺山門』。『仲道寺本堂』現地解説板によれば享保18年(1733年)善光寺境内に堂を建て、正法寺(掛川市高御所)の和尚を招き開かれたのが仲道寺とのこと、つまり先に善光寺がここにあったらしい。見事な屋根そして彫刻。仲道寺本堂の内部。『曹洞宗管長 江川辰三氏の告諭』。善光寺の横を流れる小川は何故か灰色に濁っていた。 その2 にもどる。 ・・・つづく・・・
2019.05.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次松ヶ岡(旧山﨑家住宅)を後にし、旧東海道に戻り進み右手に曲がるとカーブの正面に常夜燈と松の木が。ここは『東光寺』の山門。『十九首塚史跡公園 周辺案内図』。東光寺の奥には天慶3年(西暦940年) 天慶(てんぎょう)の乱で没した平将門をはじめとする19人の首級(しゅきゅう)を祀る首塚があると。『血洗川』平将門らの首級を洗ったとされる小川。開発により今は小さな水路と なっていた。 石碑には『成田山遥拝所』の文字が。東光寺境内の小さな社。『本堂』。「当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました。その後、兵火により焼失いたしておりますが、慶応3年(1867年)玉澗観嶺大和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っております。」境内の石仏。本堂の『扁額』。『東光寺 成田山 不動堂』「東光寺本堂の東側に続いて建てられてある御堂です。将門に関係のある十九首町に於いても当山鎮守として不動尊を祀ろうと明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。大正14年8月、堂を増築して別格大本山成田山新勝寺より遠州唯一の遙拝所として認可され、毎月28日を縁日と定め厄除不動尊として信仰を集めています。不動明王は大日如来の化身にて一切の悪魔を隆伏するために忿怒身を現しています。」途中、道路には掛川市の汚水マンホールの蓋が。掛川城天守と市花キキョウがデザインされていた。公民館の前の桜の先の倉庫のような建物の壁には「丸に十九」のマークが。『十九首(じゅうくしょ)公民館』 平将門とその一門19名の首級を祀る首塚。 平将門を討った藤原秀郷が首級を携え上京。掛川宿で勅使の検視を受検後、「逆臣なりとも滅びた後は屍に鞭打つは非礼」と首を埋葬し懇ろに供養したと伝わっていると。将門の大きな五輪塔を取り囲むようにして18基の首塚が。『十九首塚の由来』「ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚 です。人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に桓武天皇の五代の孫で相馬小太郎将門 という武将がおりました。承平五年(西暦935年)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、平貞盛、藤原秀郷 らにより、将門は天慶三年(西暦940年)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在に移りました。ここ十九首塚 には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。」十九人全ての人物の名前が墓碑に刻まれていた。『旧跡 十九首塚』「長い歴史を持つ十九首塚は、町の守り神として地域や保存会の皆さんにより大切に祀られ、毎年8月15日には供養祭が行われているのだと。 また、井伊谷(浜松市北区引佐町)に伝わる資料等によると、永禄5年(1562年)、時の領主井伊直親(※)が駿府に向かう途中、十九首の地で掛川城主朝比奈泰朝らに討たれたとされます。十九首塚も実は井伊直親とその家臣を祀る塚ではないかという説があり、井伊家ゆかりの方々も参拝に訪れるそうです。※井伊直親は「おんな城主」井伊直虎の許婚とされ、後の徳川四天王のひとり井伊直政の実父」『十九首塚史跡公園』の横には『逆川(さかさがわ)』が流れていた。『将門橋』十九首塚史跡公園 の整備とともに緑の精神回廊として、逆川の両岸を含め 整備新設され名付けられた橋。道標も整備されていた。こちらの橋はかなり古そうで、手摺もメンテナンスが必要であろう。『すいげんばし(水源橋)』。この橋の近くに、十九首水源公園がありここは掛川市水道発祥の地に隣接しているのだと。水源として深さ22~25mの3本の井戸が掘られ、掛川市初の水道が完成したと。逆川を振り返る。逆川の堤防上の桜並木は満開で我々を迎えてくれた。我が県よりは温かいこの地域のはずであるが、今年は何故か1週間遅い開花か?お花見を二人占め。ここは『逆川遊歩道』であるらしい。歩いて来た遊歩道を振り返って。二瀬川の交差点を左折して現県道415線を進む。日本橋から230kmの表示。現県道415号線に国道1号線の距離表示が今も残っていた。古い家並みが所々に。「松江織物」、「茶 後藤商店」の看板が。倉真川(くらみがわ)沿いを進む。そして倉真川に掛かる橋を渡る。橋の名は『大池橋』。『東海道五拾三次の内 掛川 秋葉山遠望 広重画』に描かれている橋はこの『大池橋』であると。そしてこの辺りの倉真川は古く二瀬川と呼ばれていたと。「掛川宿のはずれ二瀬川に架かる大池橋である。遠景に見える山が秋葉山で、火伏の神で知られる秋葉権現が祀られている。上空には丸凧が2つ見えるが、一つは糸が切れて舞い、もう一つは画枠をはみ出して描かれているが、「原」の富士で見せたほどのインパクトはない。橋の向こうから渡ってきた僧侶に、老夫婦が頭を下げている。その後ろの童子は空の凧に夢中になり、おどけている。」大池橋を渡ると五叉路になっていて旧東海道は南に折れるが、北西の道は火防の神として知られた秋葉山へ通じる道。秋葉道入口には明和6年(1769年)建立の常夜灯2基、安永9年(1780年)建立の青銅製鳥居があり、多くの参詣者が往来し賑わった。嘉永7年(1854年)常夜灯と鳥居が大地震により倒壊、後に木製の鳥居に建て替えられ、明治24年(1891年)掛川森往還の開通に伴い移転、昭和8年(1933年)道路拡幅により撤去されたと。現在は入口近くの右側に小さな鳥居が建てられていた。平成21年本宮御鎮座千三百年記念事業として秋葉神社掛川遥斎所の社殿が改築されたと。更に鳥居町という名前が今でも残っているとのこと。ちなみに江戸時代の大池橋は土橋だったのだと。交差点の右奥の駐車場には『秋葉山 本宮』の大きな案内板が2枚。『大池橋』の道標と『大池橋と秋葉街道』案内板。『大池橋』の道標。「←掛川宿宿境まで十三町(1.4km)|袋井宿宿境まで一里三十五町(7.7km)→ 」と。 掛川の宿(城下町)を出てからは単調な道程を歩いて来たのであった。というのも街道の両側は住宅街のような、田園地帯のようなあまり変化のない景色が続いていたのであった。『大池橋と秋葉街道』「大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.8m)余りの土橋と記されています。東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから9里(約35㎞)余りの道のりです。常夜灯は、明和6年(1769)に、鳥居は安永9年(1780)に建てられたものです。この鳥居と常夜灯は、嘉永7年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。東海道は、鳥居の手前で左に折れます。」 その1 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は4月9日(火)、青春18きっぷの使用可能期限4月10日の前日。5回目、最後の切符で6:08発の沼津行きに乗り込みこの日の『旧東海道を歩く(掛川~見附(磐田))』をスタート。途中、この日も車窓から富士山の勇姿を楽しむ。やや手前に雲がかかっていたが。そして富士川鉄橋を渡る。鉄橋からの富士山も。由比駅手前からの薩埵峠のある薩埵山の姿。4月3日(水)に訪ねた清見寺境内への跨線橋そして掛川駅に予定通りに到着。掛川駅から旧東海道に向かう。時間は9:22。そしてこの日の『旧東海道を歩く(掛川~見附)』の行程は赤線。東海道本線に沿って0.5~1.5km北に離れた旧東海道を歩く。前回もアップした『たかい、たかい』の像が商店街の道路脇に。旧東海道に出て右側にあったのが『伊藤菓子舗』。創業明治25年から和菓子づくり一筋の店。なかでもオススメは「本かすてら」と「黒黄金(くろがね)どらやき」であると。『街中美術館街道 ここは中町』掛川宿に残る古き良き町並みをそっくりそのまま美術館にしてしまおうというイベント。中町交差点角にあった『清水銀行掛川支店』建物の外観、どうみても銀行ではなく歴史資料館の如し。外壁にあった、千代と駿馬に乗る山ノ内一豊のレリーフ。「由来 天正十八年 掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。 後日 土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。 」千代の蓄えで名馬購入、内助の功があって一豊出世の由来書。へそくり貯蓄はオススメ!!??2006年?のNHK大河ドラマ『功名が辻』の記憶が蘇えるのであった。中町交差点。中町交差点の反対の角にあったのも老舗。『甲州屋』は明治22年創業の老舗仏壇・仏具屋。さらに旧東海道(掛川浜岡線・県道37号線)を西に進む。仏具店の前にあった観音像。清水銀行から250mほど行った右側に古き門が。『円満寺』の境内に現在も残っている『蕗の門』は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門で、大手門・仁藤門などと二の丸につながる道筋にあったので、小さいが重要な門であったと。廃城後の明治五年(1872)に円満寺が買い受けて移築したのだと。『掛川城 蕗の門』「この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。 廃城後の明治五年(一八七二)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。 その時に、柱の下を二尺五寸(約七十六センチ)切り取って山門にしたといわれている。 」四脚門であることが判る場所から。柱の下部は、昔に切断されており残念。本瓦葺きの軒瓦に浮き上がって見えるのは、「丸に桔梗」紋。つまり掛川城主の太田氏の家紋。そして屋根瓦に大きな亀が乗っていた。反対側から。門の扁額には『冨貴門』の文字が。『円満寺本堂』。掛川城内にあった円満寺は、一豊による掛川城の大改修のために現在位置へ移されたと。現在の本堂は寺とは思えない作りであったが。100mほど先、左手にあったのが『徳雲寺』。『曹洞宗 紅玉山 徳雲寺』。脇門から見た本堂。天正十九年(1591年)時の掛川城主山内一豊の名により城北土田窪(どたんくぼ)より現在地西町に移る。元真言宗であり、草創年代等一切不詳なれど、真如寺二世巨山聚鯨和尚に請じて開山となると伝えられる。曹洞宗になってからの開山を慈門供公和尚。『お掃除小僧』。境内。小さな池の奥に『弁天様』をお祀り。様々な石仏も。『三界萬霊塔』。本堂横奥の墓地には桜が満開。『徳雲寺揚柳観音堂』。『揚柳観音』。この辺に何か遺跡があると私のスマホ地図にはチェックが入っていたが発見できず。次に旧東海道をやや離れて『松ヶ岡(旧山﨑家住宅)』を訪ねた。松ヶ岡は、十王区にある江戸時代末期に建てられた掛川藩の御用商人山﨑家の住宅で、厳選された建築材料と丁寧な加工が施されているのだと。庭園には池(堀)や多くの灯籠、沓脱の鞍馬石のほかに、「松ヶ岡」の名の由来となった多くの赤松が残っていた。『長屋門』。松ヶ岡は江戸末期の豪商の屋敷構をほぼ原型のままに残しており、明治天皇の行在所という歴史上の出来事のあった場でもあることから、大きな建築史的な意義を持っている建物であると。長屋門の右には『明治天皇掛川行在所』と刻まれた石碑が残っており、明治11年(1878年)明治天皇の北陸東海御巡幸時に行在所(宿泊所)として提供された事を伝えていた。ところが、長屋門には一般公開は毎月第4土曜日で次回は4月27日であるとの張り紙が。諦めて帰ろうとすると、突然長屋門の木戸から、この建築物の管理関係者?の男性が2名外に出てこられた。神奈川県から来た旨を説明すると、幸運にも中を急ぎ足で案内してくださったのであった。長屋門の木戸を潜り内部に入ると正面に主屋が。この「松ヶ岡」(旧山﨑家住宅)は、江戸時代後期に掛川藩の御用達を務めた豪商山﨑家が安政3年(1856年)に建築。2019年でちょうど築163年になると。江戸時代の屋敷構えを良く残すと共に、明治以降の増改築による近代和風建築の格式高い空間も併せ持つ文化財的価値が高い建物であった。主屋の裏の庭から。平成24年12月、所有者が松ヶ岡を処分するという意向を示した。しかし、市民から取り壊しを惜しむ声が上がり、市が購入することになり現在に至ると。当時の所有者は現在茅ヶ崎に移住され動物病院を開いていると係の方から。ネットで調べてみると、私の家の近くの大学の卒業生らしいことも解ったのであった。「松ヶ岡に住んでいた山﨑家の人々の活躍は多方面に及びました。例えば、8代目 山﨑千三郎は郷土の発展のため「掛川銀行」の設立や大井川疎水計画、東海道鉄道の誘致などに多くの私財を投じ、インフラを整備しました。初代掛川町長にも就任し、掛川市の基礎を作り上げた人物といえます。また、千三郎の甥・覚次郎は東京帝国大学教授として「金融論」「貨幣論」の先駆的な研究をしました。銀行や貨幣の役割や金融の理論を紹介し、日本の金融論の基礎を築いた研究者となりました。また、皇室において国際金融問題を論じたり、日銀の政策に関わったりするなど、多くの人々に影響を与えました。」奥には逆川から水を導いていたという堀跡も。微妙?な曲線を示している主屋の屋根の瓦。ここ松ヶ岡は約160余年前の建築としては、良好な状態を保っているが、傷みが進んでいる部分も多々あると。このままだと、傷んだ部分から崩壊していく恐れがあると。修復は喫緊の課題だが、文化財建造物の修復には多額の費用が掛かり、市の予算のみでは大変厳しい状況であると。松ヶ岡という素晴らしい財産を後世に残し、伝えていくため、寄附を募っているのだと係の方が説明してくださいました。 ・・・つづく・・・
2019.05.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次ステンドグラス美術館の後は、掛川城 竹の丸(旧松本家住宅)を訪ねた。「天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に郭(くるわ)を付け加え、城を拡張した。この時に竹の丸も造成されたと。竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていた。」と。いつ頃から竹の丸と呼ばれていたのか明らかではないが、18世紀初頭に描かれた「遠州懸河城郭図」には、「竹ノ丸」という表記が見られるのだと。江戸時代より続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が本宅として建築した建物。「葛布」とは、山野に自生する葛の繊維を織り上げた布のこと。掛川の葛布は、なんともいえない優雅さと、絹や麻にないやさしい、落ち着いた渋みのある光沢を兼ね備えているのだと。江戸時代には、公家の直垂、狩衣、武士の陣羽織、裃、火事羽織、道中着などに用いられ、遠州掛川がその特産地として有名であったと。明治維新後は武士や公家による需要が無くなり、代わって輸出用の壁紙を生産するようになった。戦後は外貨獲得の輸出産業として、掛川地区を中心に発展したのだと。主屋は明治36年に建造され、桁行10間、梁間7間半の平屋建寄棟造。離れは大正末期から昭和初期にかけて、平屋建から二階建に増築されたと。昭和11年、邸宅は当時の掛川町に寄贈され、現在も掛川市で管理しているのだと。こちらが『主屋の式台玄関』。こちらが『離れ』。離れの貴賓室のある2階部分のベランダだけ洋風なのが妙にアンバランス?『庭園』。紅葉シーズンも美しそうであった。再び大日本報徳社の敷地に戻り、国指定重要文化財の大講堂前を歩く。二宮金次郎(尊徳)像。この地は、二宮金次郎の報徳思想を普及し困窮する農民を救済するために明治の初めに開設された全国の報徳運動の中心であったと。二宮金次郎(尊徳)像の読む本にはきちんと漢字が刻まれていた。昔、テレビで、「修身・斉家・平天下」を説く『大学』?という書物であると学んだ記憶があるが、ここに書かれた文字もそれか?こちらが大日本報徳社大講堂の正面入口。明治36年(1903) 国指定重要文化財。報徳の教えの大道場で、我が国最初の公会堂 近代和風建築の代表。大講堂の左の建物。こちらも大講堂の一部か?中庭には、こちらも二宮先生像。二宮尊徳が努力した農民を選び表彰し、ほうびのスキを与える像であると。大日本報徳社正門。明治42年(1909) 県指定文化財。道徳と経済が同じ高さで大事だと教えている「道徳経済一円融合」の門。我が国の国会議事堂の入り口にも「道徳と政治が同じ高さで大事」だと教える「道徳政治一円融合」の門を設けてはどうであろうあか?と感じる昨今であるが。『松浦五兵衛之像』。大正時代の衆議院議長の像のようであるが、何故か台座だけ。ネットで調べてみると、銅像はいったんは造られたのであるが第二次大戦中に政府に供出させられてしまったのだと。『大手橋』より掛川城を見る。『大手橋』を振り返る。橋の両側に大手門を形どった親柱が。掛川城大手門の手前右奥にあったのが山内一豊ゆかりの『三光稲荷』。『三光稲荷御由来』「三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸される十二月二十一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、 ぬばたままの くらき闇路に 迷うなり われにかさなん みつのともし火(三の光)と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本願の脇には御製の碑が、吉野山金峰山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内にもお祀りされました。」正面に『大手門』、右に『大手門番所』が向かい合うように。『大手門番所』は掛川市指定文化財。「大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、場内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永七年(1854)の大地震で倒壊後、安政六年(1859)に再建されたのが現在の建物です。明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩主谷庄右衛門が居住用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(1980)市の文化財に指定されました。発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。」大手門は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建。掛川城の表玄関にふさわしい楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくり。白壁で板ひさしが配され、棟の上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構え。実際は現在地より50メートルほど南にあったと。『掛川城大手門礎石根固め石』「掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。これが、平成五年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の基礎が置かれていました。この根固め石は、新しく作られた道路に現在保存できないので、そのままの状態で取り上げました。」『掛川城大手門の復元について』この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。天正十八年(1590)より慶長五年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7m)、奥行は三間(約5.4m)、棟までの高さは三十八尺五寸(約11.6m)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に一間(巾約1.2m、高さ約2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約66cm)に一尺五寸(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十m北側に創建当時の姿に復元しました。この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご観賞ください。」大手門、天守閣を大手門前の交差点より見る。そして交差点を左折し暫く進むと左側に墓碑が並んでいた。『ゲイスヘルト・ヘンミィの墓』。「ゲイスヘルト・ヘンミィの墓」鎖国時の江戸時代では、貿易のための窓口である長崎の出島から江戸城へ、将軍に拝謁して献上品を送り貿易通商の御礼言上をしに 年に1回、時に4年に1回 出向くのが習わしであった。寛政10年(1798年) オランダの使節団の一人 ゲイスベルト・ヘンミィが将軍に謁見し帰路途中、掛川で投宿時に持病が悪化し、亡くなり、ここ天然寺に葬られた。道路沿いのこちらにも多くの墓石が。『記念碑』?墓誌は記念碑に移刻され、下部には翻訳文も。こちらには別の石仏群が。『天然寺』山門。『和蘭使節 ケースヘルトヘムミ先生古墳』史跡表示柱。しかし『古墳』の文字が??天然字『本堂』。『六地蔵』。JR掛川駅に向かう途中、再び大手門を見る。交差点の角には『掛川城大手門跡』の歴史を感じさせる金属プレートが。この場所に大手門があったのだ。「大手門は、城の正門にあたります。平成五年に行われた発掘調査では、大手門の礎石根固め石(12ヶ所)、番所跡、土塀の石垣を確認しました。これらの配置は、正保(しょうほ)年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図の通りであることがわかりました。平成7年、大手門、番所、は周辺の区画整理により50m北に復元されました」JR掛川駅に向かう途中の歩道にあった『たかいたかい』『暁光』。時間は『16:47』ここにも二宮金次郎の像が。『仰』。『JR掛川駅』。2014年に耐震工事が完了したJR掛川駅北口の木造駅舎。耐震工事には、元の駅舎の材料をできるだけ使ったと。JR東海は駅舎を鉄骨構造に建て替える計画だったが、市民らが保存を要望。保存には工事費の増額が必要となったが、同会の募金活動による寄付などを充てたのだと。『スローライフの街 掛川』とのことだが、この日の我々は『ファーストウォークの街 掛川』なのであった。駅前より掛川城天守を見る。掛川駅改札口。ホームへ。そして17:03発の熱海行きに乗車しこの日の帰路へ。この日の、長~~い旧東海道を歩く(金谷~掛川)の1日も漸く完了したのであった。そしてこの日の歩数は35107歩。そして、この日の長~~いブログアップも漸く「完」 その13 に戻る。 ‥‥・完・・・
2019.05.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『バラ窓の形で配された「聖母マリアの生涯」19世紀末頃 フランス』丸い窓から光が差し込んで、美しかった。正面から。「この円形のステンドグラスは、フランスで19世紀後半に制作された連作「聖母マリアの生涯」を9枚使い、バラ窓として配置したもの。中世より大聖堂の西や南北の壁面に作られたバラ窓は、最上部から話が始まり、時計回りに進んで、最後は中心のパネルで完結するように作られている。幼少時のマリアが両親に連れられてユダヤ教の神殿にあがる場面から、成長して結婚し、受胎告知を受けた後イエスを産んで、天に昇るまでの場面が描かれている。通常、作品にサインが無い場合は制作工房が判明することは少ないのですが、この作品の背景に描かれているフランス・ロワール地方の風景や、使われている顔料、技法などから19世紀後半に活躍していたトゥールのロバン工房の作品とわかっていると。『マリアの神詣』。『マリアの教育』。『マリアの結婚』。『受胎告知』。『御訪問』『神殿への奉献』。『博士たちとの問答』。『聖霊降臨』。『聖母マリアの載冠』。『キリストの昇天を見守る弟子達(左)』1865年頃。『キリストの昇天を見守る弟子達(右)』1865年頃。『キリストの昇天を見守る弟子たち』1900年~1910年頃 イギリス。復活後のキリストがオリーブ畑の山頂から天に昇って行ったところを、弟子達が見送っている場面を描いたもの。」作風など イギリスの守護聖人として知られる聖ゲオルギウス、イタリアの聖女である聖ルキアの図像。それぞれを象徴するアトリビュート(持ち物)とともに描かれます。キリスト教国では、その国を守護していると信じられている聖人が居ます。特にイギリスは聖ゲオルギウス、つまりセント・ジョージが最も崇敬される聖人で、十字軍の遠征や疫病が流行った時などには、皆が進んでその聖人の描かれた絵画やステンドグラスを寄進したのです。もう一枚の聖女ルキアはイタリアの有名聖女です。女の子の名に使われる事も多い人気のある聖女で、大変美しい女性だったようです。ルキアは光を意味する名で、手には世を照らすランプを持って描かれています。『聖ゲオルギウス』1880年~1900年頃 イギリス(左)『聖女ルキア』 1880年~1900年頃 イギリス(右)『幼子よ我に来れ』1880年~1900年頃 イギリス(右)花を摘んで持ってきた小さな子を祝福するイエス。グループ9の作品であるがが、説明文がピンボケ。『受胎告知』1900年頃 イギリス。「向かって左には、純潔を象徴する白ユリを手にした大王使聖ガブリエルが、祝福のポーズ出4描かれていて、一方のマリアは手をお腹の前に組み、今まさに聖霊によって自分の身にやどった命を表現している、」ステンドグラスファン必見の『掛川市ステンドグラス美術館』⬅リンク。ここで19世紀のイギリスで実際に教会に嵌っていた、名のある工房の作品の数々を間近で見ることが出来たのであった。もう少しゆっくり見たかったが、旅友が外で私を待っていてくれたので、次の機会にと。そして、現在この掛川市ステンドグラス美術館でも、この後の4月15日に発生したパリのノートルダム大聖堂の大火災によるステンドグラス修復に対して『ノートルダム大聖堂のステンドグラス修復のための募金👈リンク』を開始していますので関心のある方はアクセス願います。 その12 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして、『掛川城ステンドグラス美術館』を一人で訪ねた。平成27年6月、掛川城公園二の丸美術館の隣に、この掛川市ステンドグラス美術館がオープン。当美術館は市内横須賀在住の開業医、鈴木政昭さんから19世紀イギリス、ヴィクトリア時代のステンドグラス約70点やアンティークシャンデリアなどと、建物を美術館として寄贈してもらったのだと。展示されるステンドグラス約70点の多くは、19世紀にイギリスの工房で制作された円熟期の作品であるとのこと。門に掲げれていたステンドグラスのパネルであったが、鏡のごとくに私の姿が。美術館のエントランス正面に展示された『聖女マグダラのマリア』。象徴的な香油壺を手に優しい表情で描かれている。「19世紀後半にイギリスの三大工房として知られたジェームズ・パウエル&サンズ工房で制作されたこのステンドグラスは、1900年頃ヴィクトリア朝の最盛期に作られたものです。聖女の顔や服装だけでなく、背後に描かれるゴシック様式の建築装飾、植物を図案化したボーダー、ダイヤ型に組まれた背景の文字装飾など、全てが最高の技術で制作されています。聖女マグダラのマリアは新約聖書の大切な場面に何度も登場するため、当コレクションの他の作品にもその姿を見る事が出来ます。」『エッサイの樹』より3作品 1900年~1910年頃 イギリス「ダビデ王」「幼子イエスを抱く聖母マリア」手に純潔の象徴である白ユリを持ち、幼子イエスを抱いた、典型的な聖母子像として知られる図像である。「ソロモン王」。『ヤイロの娘を蘇生させる』1880年~1900年頃 イギリス。キリストがユダヤ神殿会堂長ヤイロの娘を蘇生させる軌跡の場面。『ヤイロの娘を蘇生させる』「弟子を伴ってヤイロの家に入ったキリストは、娘の手を取って「娘よ、起きなさい」と言った。すると死んだはずの娘が静かに目を開けて蘇生した。」「受胎告知」「寝室でイザヤ書のページを開いているマリアのもとに、お告げの大天使聖ガブリエルが現れて「おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられる」と言った。精霊によって救世主となるイエスを身ごもった事を知らせる場面である。」「神殿への奉献」「イエスを産んだ後、清めの時期を過ぎたマリアとヨセフは、神殿への捧げものとして鳩のつがいを持って神殿にあがった。ルカによる福音書に書かれている内容に沿って作られている。」『パウロの回心』1890年~1910年頃 イギリス (写真 左)「聖パウロの生涯を描いた図像の中で、最も重要な印象的な場面が「パウロの回心」である。それまでキリスト教徒を迫害する側の兵士であったサウロ(後のパウロ)は、天からの強い光に打たれて盲目となる。その時、神の声を聞いたサウロはパウロと名乗り、キリストの使徒となった。ローマ市民権を持っているパウロは、その後他国に福音を伝えるための旅にであた。『マケドニア人の幻』1890年~1910年頃 イギリス (写真 右)「回心後、布教を始めたパウロのもとに、マケドニア(現在のギリシャ)人の幻想が現れて「わたしたちを助けてください」と言った。これをギリシャに福音を伝える使命だと理解したパウロは、すぐに旅立った。」館内を振り返る。『アテネでの説教』1890年~1910年頃 イギリス (写真 左)『パウロの逮捕』 1890年~1910年頃 イギリス (写真 右)「作風など 6枚並ぶ大きな聖人パネル。イギリスのキリスト教にとって大変重要な役割を果たした6世紀のカンタベリー初代大司教。イギリスの都市、レスターのセント・マシュー教会に設置されていた聖アウグスティヌスのステンドグラス。597年にイギリスへ正式にキリスト教を伝えたとされる聖人で、その手には「世の救済」を意味するキリストの装飾板を持っています。カンタベリー大聖堂の初代大司教となったアウグスティヌスは、その後もイギリスで尊敬を集めていて、16世紀にローマカトリックから決別して英国国教会になった後でも、その図像は作られ続けました。背後に描かれたSAの装飾文字は、SAINT AUGUSTINEの頭文字を図案化したものです。」『カンタベリーの聖アウグスチヌス』1908年頃 イギリス(左)『聖マタイ』1880年~1890年頃 イギリス (中央)『聖フィリボ』1908年 イギリス (右)『聖マタイ』1890年~1910年頃 イギリス ズームで。『洗礼者聖ヨハネ』1880年~1890年頃 イギリス (左)『聖ペトロ』1890年~1910年頃 イギリス (中央)『聖パウロ』1890年~1910年頃 イギリス (右)こちら、いずれもイギリス中部の町レスターのセント・マーシュ教会の窓。床に設置されたステンドグラス。『善き羊飼い』1880年~1900年頃 イギリス。ズームで。『善き羊飼い』1880年~1900年頃 イギリス。ズームで。客の数は少なく、独り占めの「美の空間」。この4枚の作品は、イギリスの町、レスターのセント・マーシュ教会祭壇を飾っていた『イエス・キリストの受難』を描いた連作である。教会に有った時と同じ配置に並べられているが、4点の作品の中央には「礫刑(十字架上でのイエス)」の場面が存在したが、残念ながら今日では失われています。当美術館の所蔵作品の中で、実際にステンドグラスが制作された工房名、正確な年代、おさめられていた教会の名や窓の配置など、詳細な情報が得られたパネルが数枚あります。この「キリストの受難」を表した4点の作品は、セント・マシュー教会の祭壇面の窓に設置されていた事が当時の写真や記録によってわかっています。大変細密な絵付けがなされていますが、この高窓は教会内に設置されていた時には、手前に祭壇があって一般人は近くで見る事の出来ない位置にあります。しかし、美術館では目の前で鑑賞できる位置に設置してあるため、作者の筆使いまで見て取る事が出来ます。『ゲツセマネのそのでの祈り』1870年 イギリス。『十字架を負う』1870年 イギリス。『十字架降下』1870年 イギリス。『復活』1870年 イギリス。再び館内を。『バンドロールを持つ天使』1880年~1900年 イギリス(上)『復活』1890年~1910年 イギリス。(左)『幼子よ我に来れ』1890年~1910年 イギリス。『エジプトへの避難』19世紀末 イギリス。『キリストの洗礼』1890年~1910年『イギリスの町、セントマーシュ教会西壁窓を飾っていた作品。』『善き羊飼い』1901年 イギリス (左)『我は我が羊を知る』1901年 イギリス(中央左)『軍人隊長コルネリウスの洗礼』1888年 イギリス(中央右)『キリストの洗礼』1908年 イギリスいずれもレスターのセント・マシュー教会。『祝福の天使』1880年~1900年頃 イギリス『聖レオ』1900年~1910年頃 イギリス。 その11 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.19
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旧東海道・県道37号線・連雀通り沿いの老舗呉服店「ます忠」前を進む。更に進むと、右手に掛川城・大手門が右手に見えた。そして右手が、『掛川宿沢野本陣跡』。『本陣通り」という名前の屋台村になっているところが、沢野本陣跡であると。さらに70mゆくと連雀西交差点。右折すれば150m先で掛川城の天守閣。反対方向に行けば掛川駅へ。右手にはなまこ壁で仕上げられた店舗が。なまこ壁で仕上げられた店舗が続く。逆川に架かる『緑橋』が前方に。掛川城・天守閣(左)と太鼓櫓(右)。緑橋から逆川を見る。掛川の旧名「懸河(かけがわ)」をケンガと音読みすれば、「勢いよく流れる川」という意味。逆川が城山に当たり崖を成していたこの周辺を、鎌倉時代から懸河と呼ぶようになったそうです。緑橋を渡ると左手交差点角にあったのが『懸河旧阯』。掛川城公園前の休憩所になっているようであった。足元には当時の掛川城の絵図・正保城絵図が。「正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵しました。幕末の同文庫の蔵書目録『増補御書籍目録』には131鋪の所蔵が記録されていますが、現在、国立公文書館では63鋪の正保城絵図を所蔵しています。昭和61年(1986)国の重要文化財に指定されました。」『掛川城 絵図』。 【http://mino-tokai.cocolog-nifty.com/tetudouderyokou/2013/03/2013---7c3c.html】『掛川城 四足門(よつあしもん)』「調査では、門の跡は見つからなかったが、正保城絵図を元に復元された。門の内側には、入城者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門であったと。」ミツバツツジが開花中。入口前の三の丸広場には鯱(しゃちほこ)が置かれていた。四足門から城内に入ると『掛川城主要部模型』が展示されていた。「この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で製作されました。塩櫓・銭櫓のあった腰曲輪や、内堀の松尾池・乾堀は、削りとられたり、埋め立てられたりして現在目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644~1647)頃の最盛期の掛川城の主要部が示されています。模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が用いられています。」『天守閣』を見上げる。『 十露盤(そろばん)堀』「本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。」『三日月堀(みかづきぼり)』「本丸門(ほんまるもん)の前面に配置された三日月状の堀。深さは8m。調査では、堀の南側から石垣が見つかりました。その下からは、柱穴(ちゅうけつ)が並んで見つかりました。」掛川城 『二の丸御殿』を訪ねた。掛川城の二の丸御殿は全国でも珍しい現存城郭御殿で、なかでも二の丸御殿が残っているのは二条城と掛川城のみです。(残りの高知城と川越城は本丸御殿が現存しています)現在の二の丸御殿は、1854年(嘉永7年)に起きた東海大地震によって倒壊したあとに、そのときの藩主であった太田資功が再建したものです。明治に至るまで、掛川藩の政務所として使われました。『二の丸御殿』からの天守閣。『二の丸御殿』内の三の間には『打掛』が展示中。『掛川城御殿』案内板。「御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所(しょやくしょ)と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室(しつ)が連なり、各室は襖(ふすま)によって仕切られています。文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などに転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存修理され、国の重要文化財に指定されました。」『掛川市二の丸美術館』二の丸美術館は、細密工芸品を主とする木下コレクションと、近代日本画を収集した鈴木コレクションを主に収蔵しています。木下コレクションは、江戸から明治にかけてのたばこ道具、印籠、刀装具、書画など約2,300点を数え、なかでもたばこ道具は秀逸な作品が数多く収集されています。地域の芸術文化活動の拠点施設として、細密工芸・近代日本画・郷土で活躍した人々の作品などを年8回程度の企画展を通して公開しています。『二の丸美術館』からの天守閣。この日は『煙草入れ風流物語』が開催されていた。『二の丸茶室』。『掛川城太鼓櫓』。掛川城の太鼓櫓は、城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物。1854年(嘉永7年)の大地震以後に建てられた櫓で、何度かの移転の末、1955年(昭和30年)に三の丸から荒和布(あらめ)櫓のあった現在の位置に改築の上、移築されました。なお、当時使われた大太鼓は二の丸御殿の広間に展示されています。再び天守を桜越しに。『本丸跡』。「城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。調査では、建物跡はわかりませんでしたが、柱穴や礎石が見つかりました。城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。」再び城内に入って『掛川城 太鼓櫓』を。再び『天守閣』を。ここ『掛川城』⬅リンクは以前にも何回か訪ねた城。掛川城の見学の後は、周回道路を利用し、掛川城の裏に向かう。『掛川城周辺案内』。右手に『大日本報徳社』の建物が見えて来た。『大日本報徳社 大講堂』。大日本報徳社は、掛川城すぐ東側、江戸時代までは掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地。経緯と時期は不明だが、廃藩置県後に岡田佐平次の子良一郎が始めた掛川農学社の所有地となり、現在大講堂のある場所には農学社学寮が建てられ、周辺にも無尽蔵舎、土蔵などが建てられた。明治17年(1885年)5月、この農学社が遠江国報徳社の第3館(第1館は浜松、第2館は見付(現在の磐田市中心部))となり、農学社の演説会などが行われた。明治34年(1901年)9月25日、見付の第2館で行われた遠江国報徳社幹事会において、掛川の第3館に公会堂を建築することが議決された。これにより公会堂が建築される。明治44年(1924年)、良一郎は遠江国報徳社を全国的な組織とするため「大日本報徳社」と改称、本社を掛川に移す。大正13年(1924年)には全国約700社の報徳社が大合同した。昭和初期にかけて敷地内に報徳図書館、仰徳館などが建築され、現在に至っている。平成21年に国指定重要文化財に。指定名称:旧遠江国報徳社公会堂(大日本報徳社大講堂)。向かいには『仰徳学寮』が。掛川の大日本報徳社は、二宮尊徳(金次郎)が農村の救済を実践する中で提唱した『報徳の思想』を普及する活動拠点です。その敷地内には、明治17年(1884年)に東京の霞ヶ関に建てられた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)邸の建物の一部である、仰徳(こうとく)記念館と仰徳学寮があります。両建物は、昭和13年(1938年)に宮内庁から下賜(かし:授けられること)され移築したもので、現存する宮家の建築として貴重な建物で、掛川市指定文化財となっています。 その10 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次伊達方一里塚を過ぎて暫く進み、『歌人石川依平翁出生地』の石碑を右に進むと直ぐに再び旧東海道は県道415号線に合流した。その先再び左に旧東海道が分岐する場所の左手にあったのが『諏訪神社』。逆川右岸にある諏訪神社。社伝によれば貞観16年(874年)諏訪大社より祭神を勧請したことに起源があるという。相殿に祀る須佐之男命は牛頭村(現 掛川市逆川)の天王森にあったが、その祠前を通る旅人に不慮の事故が起こることから、元和元年(1615年)ここに合祀されたと伝わる。『社殿』。『社号標』。再び県道415号線に合流する場所に夢舞台東海道『本所』道標。旧東海道の左側を流れる『逆川』。逆川に合流する小川に架かる岩橋を渡る。この日の交通量は比較的少なかった県道415号線。日本橋より225kmポストは掛川市千羽。ここからは国道1号線を25分くらい、「千羽」「薗ヶ谷」「成滝」と「本村橋」まで西に向かって歩く。途中には、「コンビニ」もなく。千羽交差点手前の左手民家に在った立派な門。門の中央に太い柱が。『千羽交差点』。『本村橋』を渡る。そしてその先の本村橋交差点で旧東海道は左折する。逆川に架かる水道橋?か。夢舞台東海道『成滝』道標。旧東海道の両脇には民家が続く。伊達医院手前の右側路傍にある『記念 西山口村』と刻む碑。上部が崩壊しているようで、何を記念したものかが分からない。西山口村は明治22年(1889年)葛川村、成滝村、薗ヶ谷村等が合併して成立、昭和26年(1951年)掛川町に吸収合併されるまで存在した。『大頭龍大権現・福天権大現参道道標』。『大頭龍権現・福天権現参道道標の両参道標について』細かく詳細に??!!「昔は各所に道案内として主な街道には、道標(道しるべ)が建てられてあった。そして其の道を往来する人達の案内役を果たしていたが、最近は時代と共に次第に見受けられなくなってきている。西山口農協支所西角にある道標は、郷土の文化遺産として、昔の時代を知る手掛りとなる貴重な存在である。いつ頃建立したものか年号が刻んでいないので解らないが、東山口地区伊達方にある道標が、当地のものとよく類似している。それには寛保二壬戌年と深く刻んであるので、およそ同年代に程近いものではないかと思われる。いづれにしても二百数十余年の歳月が過ぎていることは確かである。大頭龍権現は菊川町加茂に、福天権現は同町西方龍雲寺境内にあるが、当時は両権現信仰の最も盛んな時代で、信者やそのほかの人にはこの道標から、裏丁通りを経てそれぞれの目的地まで歩いて行った。また川崎街道の分岐点でもあることから、菊川(元、堀之内町)、川崎湊(現、榛原町静波)両方面を往来する人達には、唯一の街道であった。猶、東へ直進すること約百米先に、右折する県道(現、菊川バス路線)がある。この道路は大正四年に建設するが、それまでは全て菊川又は川崎方面に行く人達は、当地を起点として主な役割を果たしていた。次に、古記録には左の様に記してある。「川崎街道は里道にして、木村字成滝より東海道に接続し出て、阿弥陀寺橋を渡り、本村字満水村の大部分を経て、満水坂を越え、隣村西方村に至る。阿弥陀寺橋、従前は掛川城主にて、簡素なる板橋を架し交通の便を図りしも、城主転任と共に村費を以て架橋せしが、少しの出水にても流失し、為に大六山などを越えざるべからざる不便も度々ありたり。故に成滝村満水村合同し、明治四辛未年八月新規架橋す。この諸費金六拾七両二分三朱、残銭一貫四匁、この橋出来後は従前より大いに便利を得たれども、数年ならずして流失するに至れり。是に於いて満水成滝宮脇の三ヶ村協議の上、其の筋に架橋出願許可を得て、明治九年より工を起し八月中竣工す。橋長サ二十一間。幅七尺。この経費金壱百拾参円四拾四銭七厘。翌月即ち自明治九年九月。至明治十三年八月まで、満四ヶ年間橋銭を申し受くることとなれり。この橋は今の所より二十間許り下流に当れり・・・・・」と記してある。この様な郷土の歴史も時代の流れと共に忘れ去られているが、時として様々の移り変わりの足跡を尋ねてみると意外な発見がある。今回前記の通り大頭龍権現と福天権現の参道標も建立して以来、幾星霜の歳月を風雨にさらされて、人々の道案内役を果たしてくれた事を思へば、何か心温る昔の姿が蘇ってくる。幸いにも此の度、熱意ある関係者各位の御協力に依り、大正四年以来七十年振りに、元の古巣に帰ることが出来た。またこの道標も郷土の道しるべとして、過ぎ去った時代を語り続けてくれるであろう・・・・・・」「告この道しるべは大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている。」『秋葉常夜燈』。逆川に架かる馬喰橋(ばくろばし)を渡る。隣の橋は浦川橋。馬喰橋を渡った左側に『葛川一里塚』石碑と『常夜灯』があった。『葛川一里塚』、日本橋から58番目の一里塚。『掛川市内案内図』がようやく現れた。いよいよ掛川宿です。26番目。「東海道53次」の半分に近いてきた。「掛川」という地名は、市の中心部を流れる「太田川」の支流「逆川」が、両岸に懸崖が多いので、古くは「懸河(かけがわ)」と言っていたところから、らしい。『常夜灯』そして『馬喰橋一里塚跡』道標。「もちや」の敷地内にあった「掛川宿名物 振袖餅」の石碑。「もちや」は江戸時代後期創業の老舗和菓子店。名物の振袖餅は、当初の平たい形から着物の振袖に見立ててその名が付いたとされる。残念ながらこの日・水曜日は休業日か?よって現代の振袖餅は買えずに・・・・。掛川市内にむかって進む。この先、左手に曲がると『七曲』のスタート。『東海道七曲』案内板。『七曲』の地図を作ってみました。東海道線に向かって進む。右手に『東方寺』。この先を右折。右折後西に進むが、この辺から『七曲』の表示は一切なし。そして突き当りを左折。正面に『秋葉常夜燈』、これが左折への目安。そして今度はこの突き当りを右折。しばらくは真っ直ぐに。掛川市の汚水マンホール蓋。もちろん掛川城をデザイン。暫く進み突き当りを右折する。『塩の道』碑。静岡県の西部地域は、古来遠州とよばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が、各地にできていた。この中でも、秋葉街道と重なる「塩の道」や太平洋岸の「横須賀街道」は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。「御前崎」方面への道が示されていた。そして「かぎの手(クランク)」に入って行った右手には『掛川宿東番所跡』道標。『七曲り』案内板。「葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲は、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲の終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。新町は、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(1620)町として認められました。」そして「塩沢機械店」の角を左折。そしてこの先の駐車場の角を今度は右折。すると漸く県道37号線に戻って、『七曲』を完歩したのであった。私の名前に似た町名を発見。道の向こうに『桝忠』が。八代目升屋忠次が営んでいる老舗呉服店「ます忠」だが、ここもこの日は休業。 その9 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして旧東海道は県道415号線に合流。『事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)』の表示版。そして合流後直ぐに左手に『事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)』入り口が。『境内案内図』。境内では、結婚式の記念撮影が行われていた。この日は平成31年(2019)4月3日(水)の大安の日。事任八幡宮は、静岡県掛川市八坂にある神社。式内社で、遠江国一宮。旧社格は県社。御神紋は「亀甲に卜象」「左三つ巴」である。主祭神 己等乃麻知媛命 (ことのまちひめのみこと) 興台産霊神の妻神で、天児屋命の母。配神 3柱合わせて八幡大神と総称。 玉依比売命 (たまよりひめのみこと) 誉田別命 (ほんだわけのみこと、応神天皇) 息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと、神功皇后) 一の鳥居のは扁額『事任八幡宮』。境内左手には『金比羅神社』への鳥居。『夫婦杉』。『「夫婦杉」の根株』数百年の昔より境内の真ん中に寄り添うように立っていた一対の杉、その間から「むすぶの神」が遥拝でき、長い間夫婦の杉、当社のシンボルとして親しまれてきました。惜しくも平成三十年の二十四号台風により倒木いたしましたが、境内稲荷神社の鳥居等の建造物を避け、鎮守の杜の未来を託すべき若い木々を守るかのように、2本の木の間に抱きつつ倒れました。それはまさに深い神慮の賜物であり、さらに新たなる導きを願いその根株を残し、ここにおさめられる事になりました。こちらは『稲荷神社』鳥居。更に境内を進むとここにも老大木が。市指定天然記念物『事任八幡宮のクスノキ』。「クスノキ(クスノキ科)は、本州の関東地方以西から九州、沖縄、そして台湾、中国南部、インドシナと広く分布する常緑樹高木です。生長がさかんで、長命で、高さ30m程の大木になるので、古くから神社や寺院に植えられ、巨樹、名木になっています。春に新芽が伸び出すと、間もなく古い葉は落ち、若葉は淡紅色、橙黄色などから淡緑色の美しい色に変わります。花と果実がつきますが、あまり目立ちません。クスノキは、木全体に芳香があって、耐久性が高いことから、内装材、社寺建築、建具、家具、楽器などの用材に使われ、古代には丸木舟にも使われていました。また、クスノキの葉や幹、根などを蒸留して、固形に仕上げた樟脳は、防虫剤として使われています。事任八幡宮のクスノキは、高さ31m、目通り6m、根回り19.3mの大きさで、県内でも大木に含められます。樹勢は良好で、枝は北側をのぞいた三方に大きく広がり、見上げる人を温かく包み込むような、雄大で、とても優しい姿をみることができます。」『手水舎』。『御由緒』「創立年代未詳。大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現在地へ遷座すという。延喜式(927)神名帳に佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とあるとはこの社なり、古代より街道筋に鎮座、近江に座す願いごとのままに叶うありがたき言霊の社として、朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安期の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり。世が貴族社会より武家社会に移るや、八幡信仰が一世を風靡し、康平五年(1062)源頼朝が石清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。江戸期に入りては、徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。明治以降、県社八幡神社と称せしが、第二次大戦以後の社格廃止に伴い、由緒ある名「事任」を復活し、現在は、事任八幡宮と称す。」階段の上に『拝殿』。拝殿内部。奥に『本殿』。拝殿右横に『参籠所』。『拝殿』と『参籠所』の間の奥にも『御神木』。大スギを見上げて。『事任八幡宮の大スギ』「スギ(スギ科)は日本固有の木で、青森県以南の日本各地に分布する常緑針葉樹です。どんな土質でも良く育つ木ですが、一番良く育つ場所は、西日の当たらない谷間や北及び北東に面した山谷、山腹で、土壌がよく肥え、適度の湿気がある所を好みます。スギは生長がとても早く、まっすぐに伸びて巨樹になることや、スギの名の由来が「すぐ木(真っすぐな木)」からきているように、幹は真っすぐで枝振り全体でいうと円錐形状のシルエットとなります。スギ材は、縦に加わる力に対して強く、乾燥が早く、加工がしやすいため、建築用材として柱などに適しています。さらに、水や虫にも比較的強いので外壁や雨戸にも使用されます。こうしたことから、日本人とスギとの関わりは古く、中でも弥生時代の「登呂遺跡」の水田跡では、数多くのスギ材の矢板が使われています。事任八幡宮の大スギは、高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2mの巨樹です。樹勢は良好で、枝振りもよく、たくましさのみなぎる木で、昔から「八幡宮の大杉さん」と親しまれ、また、本殿の東奥にあることから、御神木として「東の宮様」と敬われています。」朱の門は『社家』の入口か?『参籠所』から境内を見る。『参籠所』内に奉納されていた巨大な『大笛』。「昭和29年〔1954年)に竹友会(笛を吹いている人達の会)の会員が全員(20人位)で、2日掛かりで制作に当たったという竹笛は、長さが八尺(2m40cm位)もあります。倉真の杉山勝美さん(現竹友会会長)宅の裏山にある一番太い竹を伐採して作ったもので、口を当てる穴は片方の足がスッポリ入ってしまう程大きい。また、指で押さえる部分も腕がスッポリ入ってしまうそうです。未だかつてこの笛を吹いた人は一人も居ません。そして、この笛はすぐに事任八幡宮に寄贈され、現在も奉納してあります。」御朱印をいただきました。事任八幡宮門前の『言の葉のカフェ』に立ち寄り、腹ごしらえ。山菜そばを楽しみました。『東山口 みどころ たずねところ マップ』。東山口村は静岡県の西部、佐野郡・小笠郡に属していた村である。県道415号線を更に進む。「道の駅掛川 交差点」から左手奥の「仙の坊 掛川道の駅店」を見る。現国道1号線の高架橋の下を潜り更に進む。しばらく行くと旧東海道・県道250号線は、左に分岐。『俳人伊藤嵐牛翁出生地』の石碑が黒塀の手前の右手にあったがピンボケ。江戸時代後期から明治期にかけて活躍した俳人伊藤嵐牛。その先右手にあったのが黒塀に囲まれた『嵐牛蔵美術館』。右側のです。伊藤嵐牛及びその門人等の作品を収録した美術館。美術館は子孫の方が開設運営しているようであった。『東海道・文人・墨客の足跡 嵐牛蔵美術館 ご案内』当美術館は、俳人 伊藤嵐牛・洋々 並びにその門人・友人や、東海道を行き来した文人・墨客の作品を収納・展示している美術館(資料館)です。*テレビでお馴染みの「お宝探偵団」のような書画・骨董を収集した美術館ではありません。当家には昔、東・中・西と3つの蔵がありました。東の蔵は雑庫として、中の蔵は書画・衣類・生活雑器の収納に、西の蔵は米蔵として使われていました。現在西の蔵(米蔵)は無く、東の蔵は平成8年に雑庫として鉄筋コンクリートで建て替え、そして今回中の蔵を改修し「蔵 美術館」としました。俳句を中心とした資料館ですので、江戸時代・明治時代の俳史、和歌・書画・古書などに興味のある方や、現在俳句を詠まれている方、日本画を書いている方などに大変興味深いものと思われます。以上は、当「嵐牛蔵美術館」のご案内ですが、それらの概要はインターネットの「バーチャル嵐牛 蔵美術館👈リンク」をご覧いただき、入場ご希望の場合は、電話なり事前の予約を頂ければご案内いたします。 館長 伊藤鋼一郎 電話 0537-27-0392』事前の予約が必要とのことで、館内は諦める。しばらく行くと県道250号線は、左に曲がります。旧東海道はそのまま真直ぐですが、その分岐点 右側に伊達方一里塚があり、道路を隔てた左側に「福天権現」の道標と「日坂町道」の石碑も。『東海道 伊達方一里塚』碑。「前半略掛川市内には小夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚が設けられていた。ここ伊達方一里塚は、江戸より五十七番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・荻田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年頃取り壊れたという。」『大頭龍大権現(左)・福天大権現参道標(右)』この道しるべは、大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている。扁額には『大頭龍大権現』???一里塚のすぐ先、国道1号線に合流する手前右側に『歌人石川依平翁出生地』の石碑が立っていた。石川依平は江戸後期の国学者で歌人、少年期に冷泉為章の門人となり歌道を学び、22歳の時に同郷の栗田土満(真淵・宣長門下)へ入門し国学に精進する。後に多くの著書を残し多くの門弟を抱え活躍した。「秋葉山常夜燈」石川依平生家の碑脇にある道を隔てた西側に、『慶雲寺道標』があった。碑には「慶雲寺道従是五丁」(※一丁=109m強)と刻まれてあり、ここから現国道1号線を横切って600mほど北進すると、名刹慶雲寺があると。旧東海道は、ここから再び現国道1号線と合流した。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.17
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更に『日坂宿』の散策を続ける。右手に『萬屋』。食事を出さない庶民の旅籠であったと。「江戸時代末期の旅籠。嘉永五年(1852)日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な資料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙辰正月・・・」から考えて安政年間(1854~1859)のしかも早い時期かと思われます。同じ宿内で、筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。一階に裏手に抜ける通り土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子がニ階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的であることなどが、この旅籠の特徴です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和二十年代まで数多く見られました。尚、文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。間口 四間半畳 三拾三畳 旅籠屋板鋪 六畳 嘉 七奥行 七間半惣畳数〆三拾九畳惣坪数〆三拾三坪七分五厘今回の修理では、主に一、二階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしませんでしたが、調査結果は図(省略)の様になり、階段位置が反対であったり、二階が四間あったと思われます。文久二年の記載との違いは、この記載が旅籠の営業部分のみを記載しているためです。記録に見られる建坪と解体調査の結果から考えて、食事を供しない宿であったと思われます。」『川坂屋』。内部は目を見張るほど立派に復元された旅籠屋であると。『旧日坂宿旅籠「川坂屋」』石碑と説明板。「大坂の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七朗源重吉は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789~1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。現在の建物は宿場の殆んどが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられたことは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。その後、平成五年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。敷地は三百坪ありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成七年のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました。文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」について次のように記されています。間口 六間畳 五拾八畳半 旅籠屋板鋪 六畳 次右衛門奥行 拾参間惣畳数 〆六拾四畳半惣坪数 〆七拾八坪」『川坂屋』を振り返る。『川坂屋』の先、右手にあったのが『秋葉常夜燈』。説明文は『東海道日坂宿跡』手前にあったものと同じか?次に訪ねたのが、右手奥に在った『相傅寺』寺号標。境内左側にあったのが遠江観音霊場21番札所「光善寺」観音堂。『観音堂』。左横には『日限延命地蔵尊』と『馬頭観世音菩薩』が。『六地蔵』他。境内入口左の旧街道にそって鎮座していた三十三体の観音石像。『相傅寺 本堂』山 号■宝聚山寺 号■相伝寺内 光善寺住 所■静岡県掛川市日坂928宗 派■浄土宗本 尊■聖観世音菩薩札 所■遠江三十三観音霊場第21番札所札所本尊■聖観世音菩薩御朱印をいただきました。この白き花は?利休梅?『日坂宿の高札場』が、逆川に架かる古宮橋手前右手に復元されていた。「幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、しの掲げられた場所を高札場といいます。高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き換えがありました。ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によりました。高札小史◎正徳元年(1711)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札五枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。◎慶応四年(明治元年・1868)大政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚(五傍の掲示)を掲げた。◎明治六年(1873)高札が法令公布の方式として適さないとの見地から撤去された。」逆川に架かる古宮橋を渡る。『下木戸跡』。「江戸時代、治安維持のため宿場の東西には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では木戸の代わりに川がその役割を果たしていました。古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、橋をはずしたとも伝えられています。また、宿役人の管理下にあった高札場が木戸の機能を果たしておったという説もあります。」『糀屋』。『三河屋』前にあったのが『成瀬大域出生地碑』。『賜硯堂成瀬大域出生の地』書家・成瀬大域(成瀬温)は文政十年(1827)古宮のこの地で生まれました。四十二才の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。明治十二年、王義之の聖教序を臨書し諸葛亮の出師表、真、草、二帖と併せて明治天皇に献上し嘉賞の栄誉を受け楠公手沢の古硯を賜り、これにより自らを「賜硯堂」と号しました。明治三十五年(1902)没。七十六歳でした。なお、川坂屋襖に大域の書、法讃寺境内には大域が筆を執られた暁心翁之碑があります。また、この古硯は平成十四年(2002)遺族の方より、十体の書が書かれた面扇とともに掛川市二の丸美術館に寄贈されました。」花桃であろうか、ピンクが濃く鮮やかに。パン屋さん『岡パン』もこの日は閉まっていた。三叉路を直進。右手に行くと「粟ヶ岳」、「駿遠変電所」方面へ三叉路の右手にあったのが、『秋葉常夜燈』。日坂宿に入って、三基目の『秋葉常夜燈』。『古宮町 洗心館』。事任八幡宮例大祭の屋台の倉庫であろうか?『村境の石碑』『村境の石碑』には、次のように刻まれていました。右上に「日坂村」、左上に「東山口村」、真中に大きく「村境」、右下に「日坂村青年会」、左下に「東山口村青年会」、左横に「大正四年一月建設」。隣には夢舞台・東海道『 掛川市 日坂宿 宿場口』の道標が立っていた。掛川宿(宿境まで一里二十六町) ← 掛川市 日坂宿(宿場口) → これより日坂宿(金谷宿まで一里二十九町)。右手に石鳥居が。本宮(奥社)のある本宮山入口の鳥居。扁額には『事任本宮(ことのままほんぐう)』と。『本宮入口』。「これより271段」とのことで本宮行きは諦めた。奥社へはこの階段を上がって行くようであった。271段の階段を振り返る。 その7 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道が県道415号線に交差する手前に。歩道橋は遠いので、車の来ないタイミングに急いで県道を渡る。ここが『日坂宿(にっさかしゅく、にっさかじゅく) 』東入口。日坂宿は、東海道五十三次の25番目の宿場である。街道沿いの家々には屋号の木札が・『山田屋』。こちらは『宮田屋』。『紀伊国屋』。『八文字屋』そして隣は『近江屋』。日坂の集排用マンホール蓋。駕籠で東海道日坂宿の街道を旅する様子が描かれたカラー版の農業集落排水管(集排)用マンホール蓋。右手にあったのが『秋葉常夜燈』。正面から。「日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉進行が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくりました。 秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などの一目につきやすい場所に建てられました。 日坂宿にはここ本陣入口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基建っておりました。ここの常夜燈は安政三年(一八五六)の建立でしたが、老朽化が進みましたので平成十年(一九九八)に撤去し、改めて復元いたしました。 秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう。」『ここは宿場町「日坂の駅」』。『日坂宿 茶と歴史の里』。「東海道五十三次品川宿から数えて 二十五番目の宿「日坂(にっさか )」 江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所 の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、 入坂、新坂とも書かれていました。 「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年 (1310)の「夫木和歌抄」といわれています。 慶長六年(1601)徳川家康による、東海道 の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の 継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在にな りました。助郷四十三村の協力で、 伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。 天保十四年(1843)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。大井川の川止めや、大名の参勤交代などでは、小さな宿場町ではありましたがかなりの賑わいであったと思われます。 宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700メートル)、町並みの形態は現在もあまり変わっていません。 」『日坂宿本陣跡』道標。『本陣跡』。「江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿のあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地はおよそ三百五十坪、建坪二百二十坪、門構・玄関付きの建物でした。嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。その後の学制領布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。」常夜灯のすぐ先の日坂幼稚園が本陣跡で門だけ復元されていた。公園の隅には石碑が。『平和への道標』。案内板だけの『問屋場(といやば)跡』。「宿駅々伝の継立の事務を取扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。日坂宿の問屋場はかつてこの場所にありました。問屋は宿内で最も大切な役職でした。「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋一人・年寄四人・請払二人・帳附五人・馬指三人・人足割三人・同下役六人で、問屋場へは問屋・年寄の外、宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行の際には全員で業務に携わったとのことです。当時の建物、その他の遺物は現存しません。」『池田屋』。「東海道二十五次目 旅人御宿 日坂宿」の暖簾がかかっている古い宿屋で、現在でも「末広亭」として旅館を営業しているようである。1階も2階も窓や手すりは細かい格子になっており実に雰囲気のある建物であった。『脇本陣「黒田屋」跡』。「日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。黒田屋の構えは文久二年(1862)の宿内軒並取調書上書に間口八間 奥行拾五間畳百壱畳 板鋪拾五畳惣坪数〆百弐拾坪 と記されています。また、明治天皇が街道巡幸の際、明治二年三月二十一日と明治十一年十一月二日の二回にわたりここ脇本陣で小休止されました。」『屋号札』が並んで掲げられていた。この敷地の「JA掛川市日坂」の場所は『本目籐十邸跡地』であると。『日坂銀行跡』株式会社 日坂銀行設立 明治三十一年二月二十四日頭取 本目藤十ねむの木学園理事長・園長・学校長の宮城まり子さんは、本目籐十氏の姪に当るのだと。日坂宿の唯一の?商店・『宮嶋酒店』。『伊藤文七邸』。「藤文・・・日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸商家で屋号は藤文。 伊藤文七(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄役となり、万延元年(1860)から慶應三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。 維新後の明治四年(1871)には、日坂宿他二十七ヶ村の副戸長に任ぜられました。 その間、幕府の長州征討に五十両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として二百両を寄付しております。 明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・藤文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。日本最初の郵便局の一つと言われています。 その孫、伊藤文一郎氏は明治三七年(1904)から三九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。 明治九年(1876)十一月には昭憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿御通過の時、ここで御休憩なされました。 この建物は藤文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。 この土地・家屋は平成十年(1998)に文七翁の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。 文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳では今の伊藤家は藤文・かえで屋に分かれておりました。 藤文 間口五間 畳三十六畳 商家 板補二畳 文七 奥行四間 惣畳数〆三十八畳 惣坪数〆二十坪かえで屋 間口二間半 畳十六畳 商家 奥行四間半 吉右衛門 惣畳数〆十六畳 惣坪数〆十一坪二分五厘」『東海道五十三次 日坂 佐夜ノ中山』伊藤文七邸の奥にあった、なまこ壁の蔵。右手奥に在った『真言宗 大谷派 法讃寺(ほうさんじ)』を訪ねた。正面に『山門』と『本堂』が。『お掃除小僧』。『山門』。扁額には『三悟山』と。『宗祖親鸞聖人像』。『本堂』。寛永三年(1626年)誓玄和尚によって創建される。寛永十年(1641年)五月に本願寺法主より、本尊の阿弥陀如来と寺号を賜る。『太子堂』。安政三丙辰年(1856年)七月に再建されたもので、本尊は聖徳太子木像である。『鐘楼』。『寺務所』。四脚門の『山門』を振り返る。特徴ある鬼瓦。『山門』の横に『千の風になって』の歌詞が刻まれている石碑が。「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」 その6 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次白山神社から300mほど先で道がふたつに別れていた。左が東海道、右の急な坂道は国道一号線へと通じる道で中央に道標が立てられていた。東海道の道先を指す板には、「この先1.5km車両通行不可」と表示されていた。国道一号線に抜ける道は、茶畑が広がる斜面をくねくねと下っていくと、小夜中山隧道の西側と日坂との間あたりに出るのだ。卵形の石碑・『馬頭観音』は、白山神社から200mほど下った左手にあった。「往来歩行人馬 為御祈祷建之」と刻まれていて、旅人の安全を祈願したもの。この馬頭観音は、伝説『邪身鳥物語』に出てくる三位良政卿が、京から下向してきた折に乗ってきた愛馬を葬った所と伝えられているのだと。馬頭観世音菩薩とは六観音のひとつ。本来は3つの顔と8本の腕を持ち宝冠の上に馬頭を載せていて、いっさいの魔性や煩悩(ぼんのう)を打ち払う仏です(ヒンドゥー教に由来)。日本各地に見られる馬頭観音は、馬頭を頂いた観音様の姿から、馬とともに生活する人々の間に馬の無病息災を祈る民間信仰が生まれたともいわれます。力尽きた馬の供養や、道中の安全祈願の意味も込められ、駅路の急な坂道などに建てられました。また、馬頭観音信仰は、武士が天下の政権を握った鎌倉時代に、戦いに馬を使うことの多い武士の間に流行したといわれます。『馬頭観世音』「従来の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身退治の物語が言い伝えられています。この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。」『妊婦の墓(三界萬霊塔)』。こちらも茶畑の一角に墓石があった。「松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生まれた子)を葬った所で、墓碑には 「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」 と刻してあります。」『涼み松広場』碑。夜泣石があった場所の北に大きな松があり延宝4年(1676)芭蕉が伊賀上野に2度目の帰郷をした旅の帰りの夏の日に松の下で詠んだと言います。今は若い松が植えられており休憩できる広場として整備されています。この広場内に芭蕉句碑もあった。『命なりわずかの笠の下涼み 松尾芭蕉』。『涼み松』「小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で 「命なりわずかの笠の下涼み」 と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝4年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作として記されています。」 こちらも、野ざらし紀行の『松尾芭蕉句碑』。『馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 』「早立ちの馬上で馬ともども目覚めが悪く、残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端にかかり、日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。」さらに緩やかに坂は下って行った。『夜泣石跡』死んだ妊婦の魂が移り夜毎に泣いたという石があった場所。明治元年(1868)まで道の中央にあった夜泣石が明治天皇御東幸の際に道脇に寄せられ、後に久延寺の所有となって転転としたというあの変な展開をした石のあったところだと。「妊婦の霊魂が移りないたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。」この付近の桜も今が盛り。『広重版画絵碑』この先に広重の東海道五十三次の日坂宿「小夜之中山峠」の絵碑が。山中を通る坂道の真ん中に丸い大きな夜泣石が描かれていた。「広重は天保3年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保永堂版 東海道五拾三次」はたいへんな好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。その中で特にすぐれていると思われるものは、天保13年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。これらの続き絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が描かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。」前方遠くに『中部電力㈱駿遠変電所』が見えた。駿遠変電所(静岡県掛川市)は、中部電力㈱最大容量の変電所(615万kVA)で、敷地面積は東京ドーム5個分に該当すると。しばらく平坦な道があって茶畑が終り集落を過ぎると、急な下り坂が始まった。『「二の曲り」と「沓掛」』「「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの急カーブを指しています。「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を山の神に手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。」「こわめし坂」に比べると、角度とカーブは急だが、長さが短いのは、救い。この坂は、車が登るのは難しそうであったが。そして急カーブが。『歌碑』と『沓掛の説明板』があった。その5『甲斐が嶺を さやにも見しがけけれなく 横ほり臥せるさやの中山』・読人不知、古今和歌集。「甲斐の白根をはっきり見たいよ、人の気を知らぬげに寝そべっている佐夜の中山よどいてはくれまいか。」 『日乃坂神社』。小さな社殿。更に急な坂を下る。眼下が開け、現国道1号線の橋脚が見えて来て、この急坂も一段落。『現国道1号線』。浮世絵版画『東海道五拾三次 日阪 安藤広重作 狂歌入東海道 』「東海道五拾三次 日阪 浮世絵版画 安藤広重作 狂歌入東海道 倭園琴桜 あたらしく 今朝(けさ)にこにこと わらび餅をかしな春の 立場なるらん江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。この浮世絵は、広重が天保3年(1832)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保13年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である。」屋号の札が掲げられていたが一部は朽ちて落下。そして現国道号線の下を潜る。 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道沿いの歌碑が続く。『橘為仲朝臣(たちばなのためなかあそん)』風雅和歌集の歌碑。『旅寝する さやの中山さよやかに 鹿も鳴くなり妻や恋しき』。「 心細い旅寝のさやの中山で、 ま夜中に牡鹿の鳴き声が聞こえてくるよ、 谷向こうの雌鹿が恋しいのであろうか」『小夜の中山峠周辺案内図』。ズームで。小さな石仏。土地のコミュニティーセンターも『命なりけり学舎』と名づけられているのだと。『掛川・菊川・金谷を結ぶ自然と歴史と伝説のさんぽ道』『扇屋』。江戸時代から続く「扇屋」は、小夜の中山伝説に因んだ「子育て飴」を売る茶店です。かつて寺の周辺には旅人相手の二十余軒の茶屋が立ち並び賑わっていましたが、新道の開通や鉄道によって東海道の人通りが激減したため、峠で商いをする家は次第に減り、今ではこの扇屋一軒のみとなりました。建物は江戸後期のもので、土間のある間取りと品物を並べた縁側に、昔の風情が感じられます。百歳を過ぎた主人の川島ちとせさんが店を切り盛りし、旅人の憩いの場となっていました。 川島さんは、子育て飴について客に聞かれるたびに「私の先祖がここで仙人と暮らしとって、ある天気のいい日に麦の芽が甘かったんで、仙人の教えでその麦を使って飴をつくったんです。」と説明していたそうです。その建物だけでなく、御主人の気質や会話にも往時の佇まいが残る店でしたが、最近はちとせさんのご家族が土日祝日に営業するのみとなっているのだと。『中山公園 西行法師の歌碑』「東のかたへあい知りたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔になりたりける思ひ出でられて」「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山 西行法師」 西行法師が焼失した東大寺再建のためにみちのくへ砂金勧進の旅をし、二度目の峠越えをしたおり、若き日にこの地を越えた事を思い出し詠った西行法師が69歳の時の歌。「この歌碑は 円位という西行の別名を、力強いがまろやかな性格を大木の幹の姿に重ねた年輪を、背割り切り口の鋭さに明晰さを、たて積みの煉瓦に北面の武士の鎧を、時々陽光に輝やく真鍮の文字に歌人の心を、池水に映る影に再び越える気分を池に囲む玉石に数珠をいぶした煉瓦の色は黒染めを、そして笠を外してひと休みする西行を造形したものです。」『小夜の中山公園案内図』『西行歌碑 ― 生涯二度目の難所越えに詠む ― 』 「西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。 「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山」二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌いつづけた西行の、最も円熟味をました晩年六十九歳の作である。この歌は、文治3年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)を越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和55年10月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。」『小夜の中山公園』碑。『小夜の中山公園、火剣山』への道標。中山峠にある『うきよえびじゅつかん 夢灯』。廣重、北斎、その他江戸時代後期の浮世絵の東海道の宿駅の作品を集め古の人々の心、灯火(ともしび)に触れていただけることを願っていると「夢灯」は開館以来13年目を迎えたと。主として廣重や北斎の「東海道シリーズ(多種あり)」金谷~白須賀9宿に関わる作品を3か月毎に入れ替えて展示しているようです下の写真の浮世絵も展示されていると。「東海道五十三次 日坂 広重画」美術館の建っている場所は、広重の浮世絵の構図から見て、「広重はこの位置からこの方向を見て、絵にした」という正にこの場所であると。松並木の向こうに見える粟が岳(別名:無間山)が見える。山肌にはヒノキで「茶」という一字に植えられていて、かなり遠方からでも読み取れるが、これは江戸時代にはなかったのだ。 【http://www.kakegawa-kankou.com/news/2428/】「東海道五拾三次之内 日坂 小夜ノ中山」急勾配な坂の続く街道の中央に置かれた大石は、日坂の夜泣き石として知られています。かつて、臨月の女性がここで山賊に殺され、その時赤子を産み落としました。女性の霊魂は子供を慕い、この石に乗り移って夜毎に泣き声を上げた、という言い伝えが。薄暗い山道を往来する旅人や駕籠かきの様子が巧みに配置されています。道の真ん中に横たわる「夜啼石」。遠州七不思議のひとつに数えられた伝説の石に、旅人たちも思わず足を止めています。 【http://www.kakegawa-kankou.com/news/2428/】遠くに前述の『粟ヶ岳の茶文字』が再び見えて来た。山の形が、広重の浮世絵にそっくり。ズームで。道路脇には美しく仕上がった庭園が。『中山茶業組合』が左手に。第48回農林水産祭天皇杯受賞工場であると。『佐夜鹿一里塚』が前方左手に。一里塚は片側だけであったが松の木が。『佐夜鹿(小夜の中山)一里塚』徳川家康は慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道に宿駅を設置しました。その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里(三十六町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に5間(約九㍍)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里程を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里と言う説があります。また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里に相当すると思われます。東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したと言う記録はありません。いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などによっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。」なぜ「佐夜鹿」??石灯籠。見事な色彩の花桃。更に両側の茶畑を楽しみながら進む。左手に『神明神社』の石鳥居が。佐夜鹿神明神社の『社殿』。末社か?更に旧東海道を進むと『蓮生法師』続後選和歌集の歌碑が。『甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山』「遙か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月(十月)、時雨の中、さやの中山を越えることだ。」一里塚の如き『鎧塚』。国道一号線に行く分岐があって左手の旧東海道のすぐ左にあった。「建武2年 (1335)、北条時行が鎌倉幕府を再建しようと兵を挙げ、京へ向かう北条一族の名越邦時がこの地で足利軍の今川頼国と戦い討死し、頼国は邦時の武勇を称え鎧を埋めてこの塚を作ったと言われる。」『記友則』古今和歌集の歌碑。『東路の さやの中山なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ』「東国へ行く人がきっと通るのが佐夜の中山である。中山のなかといえばなかなかに(なまじっか)どうしてあの人に思いを掛けたのであろう。」街道沿いの民家の前には美しい花が開花中。これぞ正しく『ハナカイドウ(花海棠)』。『ボケ(木瓜)』。『ミツバツツジ(三つ葉躑躅)』。『シャクナゲ(石楠花、石南花)』。そして更に茶畑に囲まれた旧東海道を下る。『藤原家隆朝臣』新古今和歌集の歌碑。『ふるさとに 聞きしあらしの声もにず 忘れね人を さやの中山』「旅に出て耳にするここ佐夜の中山の山風の音は、都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都もとおざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ。」『 松尾芭蕉』野ざらし紀行の句碑。『道のべの 木槿(むくげ)は馬に くはれけり 』 「道端の木槿の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ。」茶畑の景色がいつまでも続く。『白山神社』が右手に。由来や詳細は不明だが、遠州では福田町の白山神社が古くから人々の信仰を集めていたから、ここはその末社ではと。白山は、修験道の三聖地として山伏僧兵が集まるところとなり、霊峰白山を信仰する山岳信仰の代表核として栄えた。日本海を航行する船は現在の石川県の沖合いを通過するとき、帆を下ろして白山を遥拝する習わしになっていたといい、海運によって全国に勢力を広げて行った。特に江戸時代から歯痛止めの神として庶民から信仰された神様でもあるのだと。『壬生忠岑』新古今和歌集の歌碑。 『東路の さやの中山さやかにも 見えぬ雲井に世をや尽くさん』「東国の道中の佐夜の中山よ、はるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか。」 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次高麗橋を渡り暫く歩くと右手にあった小さな堂は『秋葉山常夜燈』。御堂には、青銅製の秋葉山常夜燈が安置されていた。そしてその先直ぐ左手に『菊川の里』道標。日坂宿まで一里・3.9km。次の路地を左に曲がると鳥居と満開の桜が迎えてくれた。『菊川神社』と石鳥居。島田市菊川711にある『菊川神社』社殿。従来、菊川地内に産土神として祀られてあった①菊川 550 番地鎮座、村社宇佐八幡神社②菊川 711 番地鎮座、村社若宮八幡神社③佐夜鹿 217 番地鎮座、駒形神社④菊川 1472 番地鎮座、津島神社の 四社を合併して現在地に菊川神社を創立、昭和三十五年(1960)十一月十五日宗教法人法による神社 を設立登記した。御祭神は応神天皇・ 仁徳天皇・ 須佐之男・ 木俣大神 。境内には『菊川稲荷神社』も。満開の桜が青空に映えて。東海道道標の先に建屋の壁全面に描かれた『昔をしのぶ 間の宿 菊川』案内絵図が。「間の宿(あいのしゅく)は、日本の近世に当る江戸時代の主要街道上で発達した施設の一種。宿泊は禁止されていた。宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設である(一部例外あり)。宿場間の距離が長い、峠越え等の難路である等、旅人に多大な負担を強いる地勢があると、係る地点には需要に応える形で便宜を図る施設が自然発生的に興るものであるが、その様にして宿場と宿場の間に興り、発展した休憩用の施設が「間宿」である。ただし、宿場としては非公認であって、公式には宿ではなく村若しくは町とされ、旅人の宿泊は原則禁じられていたので旅籠(はたご)は存在しないし、駕籠や人足、伝馬を扱う問屋場もなかったがあくまでも名目上・表向きの事であった。間宿として異例であるが、東海道の金谷宿 - 日坂宿間にあるここ菊川宿の様に、徳川幕府による宿駅整備以前から存在していたものが何らかの理由で指定から外され、間宿となった場合がある。この場合もやはり、宿泊だけは許されなかったが、大井川の川留めなど諸事情により旅人の宿泊施設が足りなくなった時等は、宿泊が公認された。 尚、間宿より小規模な施設を立場(たてば)と言い、所謂“峠の茶屋”等がそれである。 間の宿のなかには立場が発展したものもある。」案内絵図の斜向かいに広場が。『間の宿、菊川』。「間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3~4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿 「菊川」 が置かれました。間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の 「菜飯田楽(なめしでんがく)。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったと言われています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。」広場の入口に昔を偲ぶ多くの石碑や案内板が設置されていた。『菊川由来の石』。説明板の足元にある石には、菊の文様らしきものが。「その昔附近から菊花紋の石が数多く出土されました。その石は菊石と呼ばれて、川の名前を菊川と名付け、地名も生まれました。白菊姫の伝説による菊石は北之11km位の処にある佐夜鹿公民館の傍にあります。」『宗行卿詩碑 日野俊基歌碑』「源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久3年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕えられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。「昔は南陽県の菊水 下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊川 西岸に宿りて命を失う」承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次、菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。「いにしえも かゝるためしを 菊川のおなじ流れに 身をやしづめん」間の宿菊川は史跡とロマンの里である。」右の石碑(日野俊基歌)『古も かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん』左の石碑(宗行卿詩)『昔南陽懸菊水 汲下流而延齢 今東街道菊河 宿西岸而失命』(昔南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ今東海道の菊川西岸に宿りて命を失う)奥にあったのが『菊川の里会館』。『金谷宿の昔ばなし』のボードも。・「八挺鉦(やからかね)」(八挺鉦を打ち鳴らして投げ銭を受ける大道芸をする美少年と少女のお話。)・「与茂七越し」(東西の急坂を難なく行き来する与茂七、権七という名コンビの駕籠かき名人のお話)そしてこちらは『名物「飴の餅」のこと』⬅リンク。近くで工事中の473号バイパスの案内板も。斜向かいの民家のシャッターに、矢の根鍛冶が大きく描かれた家が。『矢し根鍛冶 五條才兵衛之図 慶長―元禄』ここは、その昔矢の根鍛冶をしていた才兵衛の家であったとのことです。才兵衛は古くからの矢の根鍛冶でしたが、『掛川誌稿』によると貞享以後断絶したらしく、その後矢の根鍛冶の職は別家の清次郎へと引き継がれたようです。矢の根とは弓矢の根、すなわち矢尻のことで、菊川の里に硬くて鋭利な矢尻をつくる者がいることが、書物などによって知らしめられ当地の名物となっていました。矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名行列に献上しては、その優秀さを誇っていたといいます。その後、泰平の世となって矢の根の需要がなくなり、五條清次郎は土地を離れましたが、代々伝えられたと思われる矢の根鍛冶「秘伝書」は、今も菊川の旧家に大切に所蔵されており、この地には「鍛冶屋敷」という往時を偲ぶ地名が伝えられています。旧東海道を進んでいくと『小夜の中山 登り口』が現れた。四郡の辻から僅かな石畳を登った先に『青木坂』の登り口があった。『四郡の辻道標』佐墅郡、山名郡の文字が。『歴史ろまんコース』、『小夜の中山』、『火剣山』の案内板が青木坂の入り口に。青木坂登り口から先は、これまでの峠でもあまりなかった心臓破りの急坂が続いていた。そして茶畑が広がって来た。坂の左手は、緑一色の茶畑が広がっていた。更に上り坂が続いていた。日坂の宿と菊川の里の境界表示板。すなわち、ここが島田市と掛川市の市境である。ここから先には、「小夜(さよ・さや)中山峠」にちなんだ和歌や俳諧の碑が続いていた。『阿仏尼歌碑』登り坂の途中にある島田市と掛川市の境標を越えると右手の民家前に鎌倉中期の歌人阿仏尼の歌碑があった。 碑には、阿仏尼が記した紀行文 「十六夜(いざよい)日記」 の一節 『雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月』 と刻まれていると。「雲のかかる 小夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。」『衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)歌碑』。更に急坂を登って行くと左手の木の間に鎌倉時代の歌人衣笠内大臣の歌碑があった。 『旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり』。「旅姿に夕霜が身に凍みるここ小夜の中山の峠道は一面の笹原で、笹の葉をならして木枯らしが吹き渡ることだよ。」右手に『久延寺(きゅうえんじ)』の表示があったので訪ねる。立派な山門。境内の老木も街道に張り出して。『山門』を正面から。掛川市指定文化財『久延寺境内』。「久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。本尊は聖観音で、昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の敵を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。慶長5(1600)年、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。右の絵は、天明6年(1786)に尾張藩士 高力種信が東海道の風物を描いたものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、当時の風景を知ることができる。」大学山久延寺『本堂』。天平年間、三位中将良政が勅命によって蛇身鳥を退治して当寺を建立したと伝えられる。開基は行基菩薩と伝えられるが、戦国時代の度重なる兵火により古文書はなく寺暦は定かでない。 宗派:高野山真言宗 所在:静岡県掛川市佐夜鹿291 本尊:聖観世音菩薩『鐘楼』。『手水舎』と『地蔵堂』。『夜泣き石』。『伝説 小夜の中山夜泣石』。「その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刀研師の弟子となった。そこへ轟業右衛門が刀研ぎにきたおり、刃こぼれがあるので訊いたところ、「去る十数年前 小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後、弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。文化元年 滝沢馬琴の「石言遺響」より」『金次郎像』であっただろうか。『芭蕉句碑』。「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」『茶亭跡の碑』。山門をくぐって西側、手水舎の裏手に接待茶亭跡の碑が。これは 松平土佐守が、家康を接待した山内一豊の史実を後世に伝えるために建立したもの。慶長5年(1600)掛川城主 山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に栄転したと。『西行の 命の山ぞ ふきのたう 太田鴻村』久延寺の前の駐車場の奥に在った『接待茶屋跡』。『接待茶屋跡』石碑。鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶などを接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれる。「鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を接待し、旅人の憩いの場となっていたという。芭蕉の「馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれたものといわれています。」『接待茶屋跡』碑の横から見た一面の茶畑。 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.15
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昨夜(5月13日)は我が家の菜園の幸と海の幸を楽しみました。我が家の菜園の幸『ソラマメ(空豆、蚕豆)』。我が家の菜園の幸『イチゴ』。地元産の海の幸『生シラス』。---------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩く(金谷~掛川)その3 です。二の曲輪に続く土橋を渡る。『ニの曲輪』「諏訪原城は、本曲輪を扉の鼎にたとえ、扇状に曲輪が広がっているため、江戸時代には「扇城」と呼ばれることもあった。ニの曲輪は、南北315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪である。平成22年度の調査で、ニの曲輪中馬出との通路が土橋ではなく通路中央が切れ「木橋」となることを確認した。虎口部分では、城門(間口約2.4m奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を、曲輪内の調査では、外堀と平行する土塁の基底部(幅約20m)と土を突き固めた版築が確認されている。ニの曲輪を南北に仕切る土塁は、西側に設けられた土塁との接点で幅約1m弱の大人一人が通れる程度の開口部が検出され、二の曲輪南北間を繋ぐ通路跡と推定される。」左奥が『本曲輪』右手に行くと『ニの曲輪大手馬出』。時間の都合上、『本曲輪』には行かずに『ニの曲輪大手馬出』方向へ。本曲輪に行くには前方の細い土橋を渡るしかないようであった。本曲輪手前の空堀が見えた。ニの曲輪から本曲輪(右)方面を見る。更に進むとこちらからもニの曲輪への通路があったようだ。ニの曲輪に続く空堀。『大手南外堀』。『説明板』。『説明文』。周囲には茶畑が。『国指定史跡 諏訪原城跡』説明板。「諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されています。当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、東海道沿いの牧ノ原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。諏訪原城は、大井川を境として駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担いました。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。」庚申塔であろうか。そして最後に3月23日(土)にオープンしたビジターセンターを訪ねた。木造平屋建て 瓦葺一部鋼板葺で諏訪原城内の杉やヒノキを一部使用していると。建築面積 113.38㎡ / 床面積 100.14㎡ とのこと。展示室内では日本の城について、城の変遷、城郭用語、諏訪原城の歴史や構造、諏訪原城の年表、諏訪原城推定復元図等をパネル展示で紹介 ・発掘調査により出土した陶器や鉄砲玉等の資料を展示ケース内で展示していた。『静岡県内の日本100名城と続日本100名城』説明ボード。続日本100名城に選定された『諏訪原城』が記入されていた。国史跡 諏訪原城跡『祝 続日本100名城に選定』。『諏訪原城 続日本100名城』のスタンプを頂きました。『城の変遷』、『城郭用語』、『諏訪原城の歴史』が説明されていた。『城郭用語』。『諏訪原城の歴史略年表』。『諏訪原城の案内図』をパンフレットから。『諏訪原城』を北側上空から見たイラスト図。広いニの曲輪の周囲には深い外堀や土塁そして土橋があったことがこの図からも確認できた。『武田氏時代の諏訪原城』説明ボード。諏訪原城跡発掘調査出土遺物』。火縄銃の鉄砲玉や陶磁器の破片が展示されていた。『諏訪原城』の後にし、県道234号線に出る。北西を見ると、一面の茶畑の向こうに新東名の栗が岳トンネルの下の、粟が岳の『茶』の字が見えた。 県道234号線沿いの『珈琲と雑貨の店 こもれび』が道路の向こうに。『東海道 菊川坂 下り口』。この先に、再び石畳が始まっていた。『菊川坂と金谷坂』「江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは粘土質の山道であったため大変難儀していました。 このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。 この故事に因んで、菊川坂と金谷坂を平成の今、再び蘇らせました。 菊川坂は、二十一世紀の幕開けの事業として平成十三年一月二十一日静岡県内の東海道二十一宿をはじめ、 周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち五百名を超える皆さんの力で道普請に着手。 平成十二年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約七百メートルの石畳が完成しました。 金谷坂は、町民一人一石運動により集められた山石七万個をもって、平成三年十一月二十四日子供たちからお年寄りまで五百名余の町民の力で道普請に着手、 翌年三月に四百メートル余の石畳が出来上がりました。 江戸時代後期の石畳そして、平成の道普請により出来上がった石畳に、それぞれ、むかしの旅人への、あるいは平成の助郷役の人たちの思いを馳せながらこの石畳を踏みしめてみてください。」 裏側は??そして石畳を再び歩く。 『芳名板 旧東海道菊川坂石畳普請助郷役芳名』「平成十三年一月二一日、「菊坂助郷伝説」として旧東海道二二宿之助郷並びに大勢之助郷を以て平成之道普請を相催し候 依って茲に助郷として出投下され候面々之氏名を刻印し、以て当石畳之復元を後世之伝説と致すべく候、 就いては助郷衆に対し謝意を表すべく此の芳名板を設置致す者也。」『菊川坂石畳』「この菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。 江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣十二か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。 この長さは、三百八十間(約六百九十メートル)あったともいわれています。 しかし、現在では昭和三十年代から四十年代にかけての工事により、一部破損されたところもありますが、 このように長さ百六十一メートル、最大幅四・三メートルを残しております。 かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、 往時をしのぶ文化遺産として大切に後世に伝えていかなければなりません。」急な石畳の坂を上り、近道を。そして再び坂を下る。『舗装路横断』茶畑の中の石畳を下って行くと途中で舗装路を横断する。ここで下から、旧東海道を京都から歩いていて、この日は掛川から歩いて来たという男性の方が上がって来た。日本橋まで行き、帰路は中山道で帰りたいとも。旅友と記念撮影。石畳を踏みながら菊川坂の急な坂道を下ると、谷底に菊川の集落が見えて来た。真っ赤に咲いた花桃。『菊川坂石畳と間の宿菊川』「菊川坂石畳は平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。菊川の里は吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。承久3年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変でとらえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。江戸時代には、西の日坂宿・東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。」花桃を振り返って。左の法面の上が石畳。掛川方面から江戸へ向かう旅人にとっての『東海道菊川坂 上り口』。菊川坂を下りきった高麗橋の手前、法音寺入口の前あたりに、高さ1mほどの石でできた道標が。 『菊川の辻道標』。場所は金谷町菊川字川向。これは遠江三十三ヶ所の二十五番所「松島の岩松寺」への道を示す道標で、菊川橋の手前の三差路を左折(南東)する道が松島方面へと続いていた。岩松寺は「歩き観音」で有名な寺で、この碑は三十三ヶ所巡りが流行した時代を偲ぶ旧跡のひとつであるとのこと。前方に『高麗橋(こうらいはし)』が。高麗橋は昔は「菊川橋」と呼ばれ、間の宿菊川の東の入口で集落の中を流れる菊川を渡る橋。『大概帳』には「長十一間、幅二間半、橋枕三本立て六組の土橋」とあると。後に河川改修によって架け替えられ、高麗橋と名を改めて、現在の橋は二代目のコンクリート橋。現在の橋は長さ14.8m、幅4.6m。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に石畳の上り坂を進む。前方に赤い幟が並んだ場所が現れた。ここが『すべらず地蔵尊』。長寿・『すべらず地蔵尊』「このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたもの。 すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきています。」長寿・すべらず地蔵尊『六角堂・鞘堂』。格子の間にレンズを入れて長寿・すべらず地蔵尊を。双体の地蔵様。「2体が寄り添う地蔵は「1体は旅人、もう1体は家族」を表し、愛・思いやり・信頼のシンボルとして道行くみなさんに可愛がってもらえるようにという想いで作られました。安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように、ということから健康長寿や家内安全、商売繁盛等に参拝される人が多いのだと。多くの「すべらずに合格」祈願の絵馬が。小さなお地蔵様も。すべらない?石畳が更に続く。石畳の脇には『シャガ』の花が。そして石畳の坂を一旦登り終えると、そこには様々な案内板が。これから先には『諏訪原城跡(すわばらじょうあと)』、『小夜の中山(さよのなかやま)』が。『火剣山(ひつるぎさん)』は、静岡県菊川市と島田市との境にある菊川市の最高峰標高282.6mの山である。菊川市火剣山キャンプ場や徳川家康が諏訪原城攻めの際に築いた砦・火剣山砦址があると。山頂の展望台からは、眼下に大茶園、南に遠州灘、西は浜松市街、北は南アルプス支脈粟ヶ岳東に牧之原台地と眺めることができると。こちらは江戸に向かう旅人用の『すべらず地蔵尊 入口』道標。『「東海道」金谷坂の石畳』がこちらにも。「この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道・十曲峠の三個所だけとなりました。」『明治天皇御駐輦阯(ごちゅうれんあと)』明治天皇休憩所跡の碑は今までも何ヶ所もあったが、この「輦(れん)」の字を使っていたのは初めてか?。いやこの「輦(れん)」の字は初めて見ました。「輦」👈リンク とは力者が肩に舁(か)く神輿の様なもの。明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだと。大きな水道水の配水タンクの前には『芭蕉句碑』が。『馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟(けぶり)』(野ざらし紀行より)。これは芭蕉41歳のときの句で「金谷宿を夜明け前に発って 馬上で夢うつつの状態のとき、中山峠にさしかかる辺りから 茶の香りがしてきて ハッ!と目が覚めた」と。松尾芭蕉は江戸時代の人間なので、この金谷坂の石畳は馬に乗って通る事ができた事になる。その先、左手にも小さな祠が。祠から引き返し、『諏訪原城跡(すわばらじょうあと)』方面に向かう。御駐輦阯(ごちゅうれんあと)の碑の先から、牧の原大茶園が始まった。この茶園を明治維新に徳川の旗本や川越人足達が開墾した場所であると。茶葉に霜の被害が及ぶことを防ぐ目的で設置される多くの送風機・防霜ファン(ぼうそうファン)が立ち並んでいた。その外観から、農作物を冷やすために使われると思われがちであるが、冷え込む地表付近に対して上空数mの比較的温かい空気を送り込むことで地表面の温度を上げ、霜の被害を防ぐために使用されるのだと。特に春先、新芽が芽吹く時期の作物は霜の害を受けやすいため、防霜ファンはよく使用されると。コントローラーは、温度センサー、タイマー、強制駆動スイッチの3つを備えているものが多く、気温が設定温度を下回った場合や、あらかじめ指定した時刻になった場合、その他任意のタイミングでファンを駆動させることができるのだと、後に出会った茶園栽培のオバチャンから。『諏訪原城跡 入口』の細い脇道?に入る。民家の間の砂利道。そして正面に深い大掛かりな『空堀』が姿を現した。武田流の「三日月堀」なのであった。『二の曲輪南馬出(うまだし) 50m』の案内板。馬出は、城の出入り口である虎口(こぐち)を守る小さな曲輪を意味し、城兵の出入りを安全に行う施設。 堀で四方を囲み、土塁は敵兵に面する箇所に設置されているのだと。石鳥居が正面に。正面にあるのが『諏訪神社』。『諏訪原城跡』「諏訪原城は天正元年(一五七三)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた規模雄大は山城であり、 当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害であった。 遺構は、本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより配置形態のうえから「扇城」とも呼ばれた。 自然掘と人工の大小掘が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。 武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから、諏訪原城と呼ばれるが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城・金谷城・扇城という呼称が見られる。」『諏訪原城の縄張図』。本丸から同心円状に曲輪と空堀を巡らせているが、この「丸い縄張り」こそが武田流と。 【https://shirobito.jp/article/584】より『諏訪神社』の社殿。「安産祈願 男の子は鎌、女の子は赤い糸」と。空堀の深さ、大きさに驚く。この様な城跡が現存していたとは。空堀が更に続く。順路に従い、『二の曲輪』、『本曲輪』方面に進む。『大手曲輪』。空堀の深さ、大きさが理解できた。『大手北外堀』。この南北外堀の間が大手曲輪。『大手北外堀』。静岡県において現在発掘が進められている、興国寺城とこの諏訪原城は、武田氏(興国寺城の場合は北条氏も含む)が静岡県下で活躍した段階と、徳川氏が活躍した段階とで、大きく城の造りが異なっている(具体的には、堀や土塁の大規模化)ことを私たちに示してくれるのではないかと。真新しい『史跡 諏訪原城跡』石碑。『ニの曲輪北馬出』。『ニの曲輪北馬出』説明文。二の曲輪北馬出には真新しい門があり、「薬医門」と呼ばれていると。薬医門を訪れた際には、扉を閉めてみましょうと。左右の扉を閉めると3cmほどの隙間ができるのだと。この隙間こそ重要で、例えば槍を持った敵兵が扉に迫った時、扉を閉めたくても槍で邪魔をされて、扉を完全に閉められなくなると。しかし、扉の間に槍が入るほどの隙間があれば、槍を向けられても閉扉し、閂を差すことができるのだと。これぞリアルな戦国の知恵!!。断崖上に位置する二の曲輪北馬出からの眺めは、大井川をはじめ、島田市や藤枝市の市街地が広がるのであった。諏訪原城は、大井川と牧ノ原台地の断崖を背にした位置に築かれている。この牧ノ原台地は、幕末に徳川家の旧藩士たちが茶畑を開墾したことにより、お茶の産地に。大井川方面の絶景、この日は富士山の姿の下に新東名高速の高架橋が。ズームして。渡って来た『大井川橋』の姿も。「薬医門」前から見た外堀付近。 その1 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は4月3日(水)、『青春18きっぷ』の4回目の利用で旧東海道を歩く(金谷~掛川)に出かけて来ました。いつもの電車でいつものように。途中の富士山の勇姿もいつものように楽しみながら。富士川を渡る。金谷の街並み。そして定刻に金谷駅に到着。時間は9:02。電車は金谷駅を出て直ぐにトンネルの中に消えて行った。この日の『旧東海道を歩く(金谷~掛川)』のルートを赤い線で。この日のルートは金谷駅から東海道線のルートを大きく北に離れ、今回の中心は、「小夜の中山峠」越え。この峠は、「箱根」「鈴鹿」と共に東海道中の三大難所と言われていたところ。すでに「箱根峠」を越え、「薩埵峠」を越え、「宇津ノ谷峠(蔦の細道)」を越えて来たので、何となく楽な印象を持っていたが・・。更に、『旧東海道を歩く』の東海道線利用での日帰りには、駅を降りて、そして駅から乗ってのいかに東海道線と旧東海道線の歩きを効率よくリンクできるかが大切なのである。金谷駅を降りて『島田市観光協会金谷駅前観光案内所』の前を通り線路沿いをややもどる。左手にあったのが、『巖室神社(いわむろじんじゃ)』の鳥居。地域の人々に「姫宮さん」と呼ばれ親しまれる神社「社伝によれば、正治2(1200)年頃、当時の住家三戸の氏神として、現在地の巌室を開いて三柱である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)の神を勧請奉斎し、巌室神社と称すと記しています。町名金谷のこの金山彦の神名から、由来したとの説もあります。その後、神社名は、「若一王子社」、「姫宮」から「巌室神社」⬅リンク に変更されましたが、氏子たちは今でも「姫宮さん」と親しみをこめて呼んでいます。」更に金谷駅前のJR線沿いの旧東海道を戻る。旧東海道のガード下近くには『金谷一里塚跡』と『金谷宿』道標が。『東海道金谷宿案内絵図』も近くに。そしてガードを潜り、金谷駅の南口に。長光寺の枝垂れ桜は、1週間前の3月27日には満開近くに開花していたがまだ我々を待ってくれていた。。1週間ぶりの再会。そして金谷駅裏の坂道を登って行く。川の手前、左奥には秋葉灯籠が。橋の先、左手には立て札が。『金谷大橋(西入口土橋)跡』。「現在の不動橋は、江戸時代には「西入口土橋」(金谷大橋)と呼ばれ、金谷宿の西入口となっていました。規模は長さ6間(約10m)横幅2間半(約4.5m)橋桁は三本立四組の土橋でした。土橋とは橋桁の上に丸太を組み、上に小枝を敷き、さらに表面に土を搗き固めて造られた橋をいいました。「御普請所」となっていて約3年目毎に代官所の負担で修理や掛け替えが行われました。金谷坂を下ってきた大名行列は橋の北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、宿場に整然と入りました。またここから上りは金谷坂の登り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して上り下りするという東海道の難所の一つでした。大橋の東側袂には「どじょう屋」という一膳飯屋があり、そこが「駕籠仕立て所」となっていて、坂を上下する公認の駕籠かき達の詰め所になっていました。」立て札の奥には小さな寺入口が、長光寺の裏入口であろうか。『大井川鉄道ウォーキング』には多くのコースがあるようだ。これも『秋葉神社』であっただろうか。男根の石碑?が祭られているようでもあったが・・・??上り坂の途中から大代川&大井川方面を振り返る。遠く、新東名高速道路の高架橋も見えた。残念ながらこの時は富士山は雲に隠れていた。『東海道廿四 五十三次之内 金谷(蔦屋版)』。大井川(おおいがわ)の渡(わた)しを鳥瞰的に描いています。大井川は、嶋田宿(駿河国)と金谷宿(遠江国)の間を流れる大河で、「箱根八里(はこねはちり)は馬でも越(こ)すが越すに越されぬ大井川」と歌に詠まれるほどの難所でした。この画では、嶋田宿と金谷宿を一つの画面で描き、大井川の雄大さを表現しています。突き当たった県道473号線横には『旧東海道石畳』の標識が。県道を渡ると白字で『旧東海道石畳入口』と書かれた木札が。そして『すべらす地蔵尊入口』の文字も。更に石畳に向けて舗装された坂を上って行った。『島田市観光案内図』。そしていよいよ前方に『石畳』が見えて来た。『東海道金谷坂 石畳上り口』。石畳は金谷から牧ノ原台地を抜ける場所にあった。急坂で尚且つ粘土質であることから滑りやすく、大名行列や旅人が苦労したため、幕府が石を敷き詰めさせた歴史があります。一旦は舗装されたが、平成3年に町民の手で石畳が復元されたと。『「東海道」金谷坂の石畳』。「この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩き易いように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、僅か30メートルを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元されました。いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなりました。」歌川広重『丸清版・隷書東海道五十三次」より(金谷・金谷坂 かなや駅 大井川)』制作年は1847-51(弘化4-嘉永4)年頃。金谷坂の途中から大井川方面を振り返った姿であろう。そして石畳を登って行くと右手にあったのが『石畳茶屋』。茶屋の庭。地元の素材や今しか採れない旬のものを使ったランチや手作りケーキ、タルトが楽しめる店であると。そして庭からは遠く富士山の姿が。同じく中庭から見ると、茶畑が山の斜面に拡がっていた。『すべらず地蔵尊』の幟が入口にあったので、茶屋の周囲を探したが無く実際は更に坂を登って行った場所にあったのだった。石畳を登って行く。右手奥に地蔵の祠が。『仁誉地蔵尊』。昔、足の病に苦しんでいた仁一という方が、坂の入口にあった地蔵尊を毎日拝んでいたと。ある日、夢枕に地蔵尊が現れてお告げがあり、旅人の足の無事を祈っていたところ、仁一の足の病もよくなっていたと。 『鶏頭塚』。「鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。 「曙も夕ぐれもなし 鶏頭華」 の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(一七四四)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑である。 巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。」『地蔵菩薩』『鶏頭塚(巴静句碑)』六々庵巴静寛保甲子4年(1744)2月19日没。『あけぼのも 夕ぐれもなし 鶏頭華』『庚申堂』庚申堂内は格子戸で仕切られて。『庚申堂の由来』「旧東海道の上り下りの旅人達が、道中の無難息災、家内安全を祈願して街道筋に点在する効験あらたかな庚申堂に立寄り誠意を込め願望の成就することを祈念して 旅立つたもので、堂宇に猿田彦命および、その主従を合詞して歴年四月「カノエ・サル」の日に追善を施行しております。」『庚申塔三猿』。「良き事は大いに広め 悪しきをば 見ざる聞かざる言はざるが良し」。 ・・・つづく・・・
2019.05.13
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我が家の庭の花たちです。ピンクの芍薬が咲きだしました。このピンクの芍薬が、今年の芍薬の花の「トリ」です。ゼニアオイ(銭葵)も花数が増えて来ました。大きな葉に隠れがちですが。そしてアイリスもそろそろエピローグへ。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして延べ13日目の旧東海道を歩く(藤枝~金谷)もエピローグへ。宇布賣(うぶめ)神社を後にして、東海道線に沿って歩き、金谷駅に向かう旧東海道線に突き当たり左折して進む。上り坂になって右側にあったのが『佐塚屋本陣(本町・佐塚佐治右衛門)』「寛永十二年(一六三五)参勤交代 制度とともに、各宿に本陣が開設されましたが、その当初より、佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿 本陣を務めました。建坪二六三坪、門構え、玄関付で、門の屋根には対の鯱が付いていたので「鯱の御門」と呼ばれていました。表の間口は十三間、奥行は三五間半で、現在の佐塚家と東隣の住宅の敷地に当たります。慶応四年(九月八日明治改元、一八六八年)十月五日、明治天皇 御東幸のおり、ここで天皇がお昼休みをとられました。しかし、御食事の支度には本陣の家族は一切手を出さず、婦女子も遠ざけられ、天皇の茶の湯も、中町の塚本市右衛門家の井戸水が使われました。なお当時の「御小休」、「行在所」の関札(宿札)と、神器(八咫鏡)が安置された「内侍所」(山田屋本陣)の関札が、佐塚家に大切に保管されています。明治三年(一八七〇)、本陣は廃止され、普通の旅人や役人の宿泊所(旅籠)となりました。」更に旧東海道をJR金谷駅方面に向かう。同じく右側にて立札が。現在の「JA大井川金谷」の位置。周囲には堀割などつくられていた。金谷宿には、山田屋、佐塚屋、柏屋の三軒の本陣と 脇本陣、問屋場、助郷会所等があったと。 今はその面影も無く、佐塚書店前と地域交流センタ ー前に「本陣跡」の立て札があるのみ。『東海道五拾三次之内 遠州 金谷宿 本陣跡 柏屋』。『柏屋本陣(一番本陣)跡』。「柏屋は代々河村八郎左衛門を名乗り「金谷六人衆」と呼ばれた名家の一つです。代々本陣と名主を務めていました。先祖の河村弥七郎 が徳川家康 に忠節を尽くしたことで信州に知行地を与えられ、金谷宿・島田宿にも屋敷を与えられています(河村家由緒書」)。江戸初期には柏屋と佐塚屋が本陣、山田屋は脇本陣でした。寛政三年(一七九一)の「竹下屋火事」と呼ばれた大火によって本陣二軒・脇本陣一軒・旅籠屋五ニ軒の全ての宿泊施設が焼失してしまいました。天保一四年(一八四三)の幕府記録『東海道宿村大概帳』には、柏屋本陣は「凡建坪弐百六拾四坪 門構・玄関附」とあります。なお、表間口は一九間五尺、奥行三五間半(表は街道に面し、奥は尺川まで)あり、尾張徳川家・紀伊徳川家の定宿となっていました。嘉永七年(一八五四)の「東海大地震」で壊滅し、本陣を廃業。その後は旅籠屋を営みました。*本陣=宿場で大名や幕府役人・公家などが使用した宿泊施設。」天保十四年の金谷宿明細書によると、佐塚屋は「建 坪二百六拾三坪、門構玄関附表間口拾三間、奥行三 拾五間半」とあり、柏屋とならぶ大きな規模であったと。 現在、屋敷は分割されて当時の面影は残っていないと。右手にあったのが『脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡』。『脇本陣(角屋・金原三郎右衛門家)跡』。「脇本陣 とは、参勤交代の大名や、勅使(天皇の使い)、公家(朝廷に直接仕える人)などが休泊する本陣の予備的な宿泊所です。普段は上級武士の休泊所となっていましたが、本陣 が重複したときなど、格式の低いものが格式の高いものに本陣を譲り、脇本陣に移りました。 元禄~正徳(一六八八~一七一五)ころの屋並図によると本陣は柏屋・佐塚屋の二軒で山田屋が脇本陣となっています。寛政三(一七九一)年の大火(竹下屋火事)で本陣・脇本陣を含む金谷宿のほとんどが焼失してしまいました。それから十年後の享和ニ(一八〇ニ)年の記録では、幕府からの拝借金で、玄関・門構などは仮設ながら三つの本陣が復興しています。しかし「脇本陣なし」となっています。天保十四年~安政六(一八四三~一八五九)年の「東海道宿村大概帳」には三本陣とは別に脇本陣が建坪一〇五坪(三四六,五㎡)玄関付(門構えなし)と記録されています。これ以後の金谷宿脇本陣は、本町の角屋・金原三郎右衛門家が勤めました。金原三郎右衛門は享保十九(一七三八)年金谷宿の年寄(門屋職の補佐役)を勤めました。また、文政年間(一八一八~一八三〇)から明治三(一八七〇)年の大井川川越し関係の記録の中では、代々川庄屋(川会所の長)の役職を勤めていました。」左手の「協和水道㈱」前にあったのが『定飛脚問屋(三度屋)跡』。『定飛脚問屋(三度屋)跡』。「田町の南側に「浅倉屋何右衛門」、北側に「黒田屋重兵衛(治助)」という定飛脚の問屋がありました。 定飛脚とは、「三都定飛脚」ともいい、江戸と上方の京・大坂を定期的に往復した民間の飛脚で、月三度(二日・一二日・二二日)出したところから「三度飛脚」、取扱所を「三度屋」とも言いました。またこの飛脚がかぶった笠を「三度笠」と呼びました。 並便は昼間のみの往来でしたが、昼夜兼行の早便(特別急行便)は、江戸・大坂間の到着期限を六日としたことから「定六」ともよばれました。明治四(一八七一)年、郵便の制度が施行されるまで、書類や信書、金銀の郵送もこの定飛脚で取り扱われました。」だんだんとこの日のゴール地点が近づいて来た。『東海道金谷宿案内絵図』。現在いる場所は写真中央の「一里塚」手前。その先、ガード手前の左側にあったのが夢舞台東海道道標『金谷宿』。『一里塚跡 金屋町新町』「延享三年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎木」とある。里程 江戸へ五十三里 嶋田へ一里 日坂へ一里廿四町 金谷宿」。そして左折しガードを潜ると、正面の法面にあった案内板。坂の上の枝垂れ桜が迎えてくれた。満開の枝垂れ桜。そして坂道を上り、『長光寺』を訪ねることとする。『本遠山 長光寺』への階段を登る。『本堂』。天保元(1644)年、慈善院日悦(にちえつ)上人が身延山二十六世智見院日暹(にっせん)上人を開山に開いた日蓮宗 本遠山 長光寺。天保十四年の「宿明細書」によれば、「御除地高二石、凡建坪六拾五坪右は往還より南の方四拾二間程入り、往還差支の節は御休泊相勤め申し候」とあり、金谷宿唯一の日蓮宗寺院。本堂に掛かる長光寺の扁額。『鐘楼』。『松尾芭蕉 句碑』。『道のべの 木槿(むくげ)は馬に 喰はれけり』(野ざらし紀行より)。『松尾芭蕉句碑』。「1644~1694(天保一~元禄七)伊賀国上野に生まれ、俳号桃青ともいう。芭蕉の号は深川の庵の周りに芭蕉が植えてあったのでそれを号とした。 芭蕉俳諧の特色は、日本文学の伝統的要素を新興文学たる俳諧の中に生かしたこと、つまり古い美と新しい美とを融合した点にある。『道のべの 木槿は馬に 喰はれけり』道ばたに咲いていた木槿の花は、私の乗っている馬にパクリと一口食われてしまった。何事が起ったというわけではないが、ついさっきまで咲いていた花はもう影も形も無い。唐突のようでもあり、当然のような気もして、なんだか瞬間に幻を見たような思いである。意識・心情の深さから、平凡な事柄に深遠な悟りにも似た禅機的心象を感じる句である。注「野ざらし紀行」中の一句である。」この御堂は?『七面堂』。七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、その昔は七面天女と呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。七面天女は、当初日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰されやがては日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったのだと。『本教院日貞上人』像。本教院日貞上人とは??『手水場』。『寺務所』長光寺はJR金谷駅の裏にある寺。再びガードを潜り振り返る。JR金谷駅への坂道を登っていくと右手にあったのが『巖室神社(いわむろじんじゃ)』の鳥居。「社伝によれば、正治2(1200)年頃、当時の住家三戸の氏神として、現在地の巌室を開いて三柱である瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)、金山彦命(かなやまひこのみこと)の神を勧請奉斎し、巌室神社と称すと記しています。町名金谷のこの金山彦の神名から、由来したとの説もあります。その後、神社名は、「若一王子社」、「姫宮」から「巌室神社」に変更されましたが、氏子たちは今でも「姫宮さん」と親しみをこめて呼んでいます。」そしてJR金谷駅前のロータリーに到着。ロータリーにあるモニュメントは「ユメオン〜夢音〜」という愛称が公募によってつけられており、未来に向かって大きく躍進し、夢のある町づくりを目指してほしいという願いが込められているのだと。モニュメントは輪が垂直に重なったようなものの中に、鐘がいくつか(カリヨン)設置されていた。これはおそらく時報としての機能なのでしょうが、いろいろな曲が流れるように設定されているようです。バスロータリーの壁面には、長さ25m、高さ2.5mの「金谷茶まつり」の陶板彫刻が一面に刻まれていた。銘茶の産地「金谷」で二年に一度行われる「金谷茶まつり」。新茶の季節の到来を告げる祭り。祭りのメインはやはり茶娘道中。茶摘み衣装をまとった茶娘約1000人が華麗な踊りを披露すると。夕方からは法被姿の若者が威勢良く引き回す屋台道中、力強い川越し太鼓の演奏などが行われると。夜間に行なわれる創作踊りも圧巻とのこと。JR金谷駅正面。JR金谷駅は、隣接する大井川鐵道金谷駅との乗り換えもできる、金谷地域や川根地域、奥大井への玄関口。再び駅舎前からロータリー方面を。こちらは『大井川鉄道金谷駅』。『大井川鉄道』は静岡県中部を流れる大井川に沿って走る金谷―千頭(せんず)間の大井川本線(39・5キロ)と、千頭―井川間の井川線(25・5キロ)を運行する。井川線には、機関車につけた歯車と線路に敷いた歯形レールをかみ合わせて急勾配を上り下りする国内唯一のアプト式区間がある。JR東海道線のホームに降りる。金谷駅の直ぐ手前にはトンネルが。16:51発の熱海駅を利用して帰路に。そして定刻に熱海駅行きの電車が到着し、この日の帰路についたのであった。 その8 に戻る。 ・・・完・・・
2019.05.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次島田市立博物館を後にし、大井川の左岸堤防に上がる。この道は河原大井川港線・県道342号線。階段を下り、堤防を降りる。階段からの大井川下流方面を見る。そして河川敷にある道路を上流に向かって歩く。遠方にこれから渡る大井川橋が見えた。河川敷を通って大井川橋の麓まで行きたかったが道路が駐車場までで終わっていたのでやむなく再び堤防上へ。右手にあった石碑には『永仲景述』と刻まれていた。『永仲景述』とはどのような意味なのであろうか??石碑の前には『島田宿』道標が。そして大井川橋の麓に到着。脇には人道橋が設けられていた。静岡県道381号島田岡部線(旧国道1号)の道路橋梁。全長1,026m(トラスは17連)。対面通行。南側に歩行者・自転車用の橋が並行している。日本百名橋(私選)のひとつ。この大井川橋の歴史は下記のごとし。1870年(明治4年)1月 - 川越人足廃止に伴い、渡船が運行開始。1875年(明治9年) - 木製の仮橋を架設するが、しばしば増水で流された。1883年(明治16年)4月 - 本設の木橋が完成。1895年(明治29年)10月 - 増水で流失し、渡船が復活。1928年(昭和3年)3月 - 鉄橋(トラス橋)が完成。2006年(平成18年)3月 - 橋東側の右折対策として回転道路を設置。人道橋を進む。大井川の上流側を見る。こちらが下流側。遠くに見えるのが東海道線の鉄橋。大井川は『箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川』と言われた難所であった。そしてこの大井川の川越の様子が様々な浮世絵👈リンクに描かれているのだ。まずは再び『東海道五拾三次之内 島田 大井川 駿岸』「五月雨の雲吹きおとせ大井川」と芭蕉も詠っているが、大井川の川越しは東海道最大の難所で、梅雨時には増水し、嶋田宿に足止めされることも多々あったという。広重はその川越しの様子を、実際にはありえないような、かなり高い視点から俯瞰して描いている。大井川駿岸とは駿州、嶋田宿側の岸という意味。大名行列の一行であろうか。大勢の旅人が描かれ、かなり賑やかな光景。上の写真の中央辺りが、大井川の川越しの場所であったのであろう。『東海道五十三次之内(行書東海道)島田 大井川駿岸』この絵では川の中州には小さな木の仮橋がかかりそこを渡っている。ところで、幕府が大井川に橋を架けようとしなかったのは、江戸初期はともかく、幕府権力が確立し平和が続くようになってからは、江戸の安全を守るためではない。地元の島田・金谷両宿の猛反対のせいだった。両宿場で、幕末には1200人以上いた川越し人足の失業を防ぐため、宿場の衰微を防ぐためだった。それが理由なら、旅人も少しでも楽に安く渡ろうと考えるのは当然。それが「廻り越し」。地元の人に浅瀬を教わって対岸の川尻にわたったが、それは貧しい旅人の常識になっていた。それだけではない。天保9年(1838)には、川原の洲と瀬を結ぶ仮橋が河口部と島田の間の20キロメートル足らずの間に6か所も架かっており、24文から40文という安い通行料で旅人を渡していた。こういったことも、江戸の旅ブームを支えていたのだと。 『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿四 五十三次 嶋田 大井川」嘉永四年(1851)。大井川の先に白き富士山の姿が。『広重「東海道五拾参次之内 島田 大井川駿岸」』「大井川 渡りいそげば 宿の名の 妹がしまだの 目にはとまらず 森泉亭広規」『歌川広重 五十三次 嶋田 嘉永五年(1852)閏二月』。『北斎「東海道五十三次絵尽」「島田」』『国貞「大井川歩渡之図」』『島田 東海道 (御上洛東海道・行列)』14代将軍家茂御上洛版画 金谷宿が見える。大井川橋の中央付近まで進むがかなりの強風であった。人道橋の路面には旅人の姿が。そして大井川橋を渡り終わる。所要時間約15分強であった。金谷側の『大井川』モニュメント。こちらは『東海道五拾三次之内 金谷 大井川遠岸』。同じ大井川の川越しを描いた北斎、『冨嶽三十六景』「東海道金谷の不二」と比べると、川の水量の違いはあるにせよ、難所とは思えない、穏やかな広重独特の空気が画面に流れているのも面白い。金谷も嶋田と同じく、川留めになると賑わう町であった。金谷側から見た大井川の川渡りの様子であるが、ここでは河を渡り切ろうとする様子が描かれている。画中右の人足たちは、疲れ果てて横になっている者もいる。河の大きさがわかるとともに、背景の山々を立体感を出して表現し、また背後の黒い平面的な山々は、これからさらに続く旅の厳しさを暗示しているようである。『東海道五拾三次 金谷(狂歌入り東海道)』。「関口俊吉 大井川 渡る金谷に 旅ごろも 雲と水とに 身をまかせけり」大井川の金谷側の渡し場が描かれています。画面右には荷物や人を乗せる平(ひら)輦台(れんだい)が立てかけられています。人足から受け取る荷物から、「島田」の場面と同じく大名行列の川越えであることがわかります。金谷側の『大井川橋概要』銘板。橋長:1026.4m 。この後、左折し川岸の旧東海道が再び始まる場所に合流し右折するのであったが我々は左折せずに直進し次の「金谷東1丁目交差点」先まで進んでしまったのであった。本来の旧東海道沿いには『水神公園』があり、銅像や絵図が展示されていたようであった。-----------------------------------------------------------------------------------------------------そして、5月22日(水)にこの『旧東海道を歩く』の為に浜松へ車で移動した際に前回訪ね損なっていたこの『水神公園』を、この日に訪ねたのでこの内容を追加記入する。『大井川橋』を渡り、直ぐに左折し堤防上を進み更に右折すると正面にあったのが『水神公園』。『水神公園』内には銅像や石碑が。蓮台での金谷宿側からの川越しの絵図。『福寿稲荷大明神』。真っ赤な小さな社殿。『仲田源蔵銅像』向坂弥平次(焼津)と共に大井川木橋の架橋に貢献した人物であると。『義人 仲田源蔵経歴』。「仲田源蔵は天保十二年(一八四一)醤油屋三代目として金谷宿八軒屋に生まれ、二十六歳で家督を継ぐ。 明治三年五月(一八七〇)に新政府から大井川川越制度廃止が発令され、島田、金谷合わせて一二〇〇名の川越人足が失業し困窮を極め、見かねた源蔵は私財を投じて援助しますが限りがありました。 その後、求められて大井川金谷方川越人足総代を引き受け、島田郡政役所等に人足窮状を嘆願するが却下される。この上は政府に訴える他ないと上京し、十一月伊達民部郷に直訴に及ぶ、捕らえられ拷問を受けるが訴状事実が判明し釈放される。 源蔵の熱意が政府を動かし、一戸あたり金拾両と東西萩間村原に三〇〇haの開墾が許可され、明治四年六月金谷方人足百人を率いて入植し、牧之原大茶園の基礎となった。 その後、向坂弥平次(焼津)と大井川木橋の架橋に専念し、明治十六年四月、全長七二〇間(一三〇〇m)幅二間(三・六m)の木橋を開通させた。 明治二十二年二月、享年四十八歳没し、丸尾原霊園に永眠する。」『水神公園』前から「八軒屋橋」方面を見る。『金谷宿川越し場跡』絵図。対岸の「島田宿川越し場」と同じように、「川会所」「札場」人足の詰所「一番宿」から「拾番宿」などの施設が置かれていたとのこと。夢舞台東海道道標「金谷宿」。東関紀行の大井川和歌の石碑。作者は不詳と。「日かずふる 旅のあはれは大井川 わたらぬ水も 深き色かな」和歌は、常葉大学の日比野教授が東関紀行(鎌倉時代 前期の紀行文)から選出されたもので、 石碑の裏にも 紀行文が彫り込んであり、 二軒家あたりから東町の方 向を見て、広大な大井川に感動して詠まれたとされています。道路の先、南側にあった『水神社』をズームで。大井川の水害で亡くなった犠牲者を弔うために建立されたと言われる。 ここには観音堂があり、文政11年(1828)の洪水で八軒屋橋近くに住んでいた修行僧が犠牲となり七番出堤で発見され、近くの住民が水神社脇に観音堂を建てたもので、 「七番の観音さま」 と呼ばれていると。『常夜燈と八軒屋橋』案内板によれば昔は板橋だったようだ。かつて、この橋のたもとに蕪村の句碑が立っていたと。 下を流れる川は「新堀川」。旧東海道を進むと右手に『旧家 加藤家』の案内板。「ここに旧家 加藤家がありました ここに平成十六年まで江戸時代に建てられた加藤家が残っていました。 地元ではしとみ戸などを含め昔の姿の復元をめざしています。 」右手に『秋葉神社』。--------------------------------------------------------------------------------------------------------そしてここからは、再び3月27日の旧東海道を歩く(藤枝~金谷)の内容です。「金谷東1丁目交差点」。交差点角にあった、10年以上道端で交通安全を唱えている「茶子ちゃん」。「金谷東1丁目交差点」を直進しコンビニの手前を左折。大井川線沿いを進む。右手にあったのが『北向地蔵尊』。『宅円庵』。『宅円庵 由来』。「慶安四年の開創 宅円大徳上人の御名を記念せんがため、宅円庵と号す。 後、火災に遭い、記録等、知る由もなく、伝記によれば、上人この附近を巡錫のみぎり、某家の旅宿にて、自身の負わし薬師如来の夢に現れて『大井川は、水難多く、通行の旅人等の悩めるを救わんがために一宇を建立せよ』との霊告あり。附近の庄屋と相はかりて勧化せられしに浄賊集りて堂宇の建立をはたしたり。本尊は薬師瑠璃光如来を奉祀したり。」『六地蔵』。左から檀陀地蔵、宝印地蔵、宝珠地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵。隣にあったのが『日本左衛門首塚』。「日本左衛門 は本名を浜島庄兵衛 といい生まれは定かではないが、遠州浜松在ではないかといわれています。歌舞伎の青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)(白波五人男)日本駄右衛門のモデルにもなりました。義賊といわれ盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。詮議の手が廻り、もはや逃げられないことを知った日本左衛門は京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見付宿(現在の熱田市)でさらし首になりました。辞世 「押取の 人の思い羽 かさなりて 身に青網の かかる悲しさ」と詠んでおります。金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです。」『無縁供養塔』。そして墓地こしに真っ白な蒸気がモウモウと。右手奥の新金谷駅の『大井川鉄道の転車台』にC5644蒸気機関車が当に転車・回転中であった。180度回転し方向を変えたC5644蒸気機関車。「1936(昭和11)年三菱重工業製で、札幌近郊や千歳線等で使用されていましたが、太平洋戦争の開戦と同時にタイ・ビルマ方面の軍隊に供出され、戦時輸送のためタイへ送られました。太平洋戦争激化により大破した車両が多い中、とても運の強いSLといえます。1979(昭和54)年6月、タイから31号機と44号機が日本に帰国。31号機は東京・靖国神社に、44号機は同年6月29日に大井川鉄道 へ入線しました。2007(平成19)年の「日本とタイの修好120周年」を記念して、同年10月7日より“タイ国鉄仕様”の姿(外観・塗装)で運転していましたが、2010(平成22)年9月に“日本国鉄仕様”のカラーリングに戻し、2011(平成23)年1月29日に運転を再開しました。」そして蒸気を吐き出し移動開始。新金谷駅・格納庫脇にはこれも歴史を感じさせてくれる車両が。C56蒸気機関車に別れを告げ、大井川鉄道の跨線橋を渡りながら転車台方面を見ると再び勢いよく白煙が。前方には橋が現れた。大代川に架かる『ふれあい橋』を渡る。大代川の上流方向を見る。大代川はこの先、大井川に合流する川。橋を渡った先の交差点を左折し、東海道本線方面に向かう。突き当りにあったのが、『宇布賣(うぶめ)神社』への階段。石垣の丘の途中に鳥居が。玉石を積んだ参道を更に進む。この小さな社が『宇布賣神社』。「宇布賣神社」は調べてみると、安産と子供の健やかな成長を叶えてくれる神様で、毎年、4月4日の桜の季節にお祭りがあり、これから生まれる家と、無事生まれた家から、それぞれ紅白の餅のお供えがあって、祭典が終ると、町内全家庭にお餅とお札を配るという。 その7 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次復元された『川会所(かわかいしょ)』の入口と建物。『大井川の川越』「江戸時代の初期、慶長六年に幕府は宿場伝馬の制を定めて東海道に五十三次の宿場をおき、江戸城の要害として大井川に渡渉制度をしいた。この渡渉は江戸時代初期においては比較的自由なものであったが、貞享・元禄のころから制度の内容を更にきびしくして、元禄九年には二人の川庄屋をおいた。川会所はその渡渉を管理するための役所であって、大井川畔三軒家(現在の河原町)に建てられ、川庄屋のもとに年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて日々川の深浅による渡渉賃銭の取り決めや、公卿や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの通行人の渡河順序の割振り諸荷物等の渡渉配分などの円滑な運営をはかるとともに、規定の渡渉地点以外から越える廻り越しの監視などを厳重に行った。川越人夫は幕末近くまでは、島田・金谷とも各360人が定められていてそれらは1番から10番までの10班の組に分けられ、日々の交通量に見合して各組の出番を指示した。それら出番組の川越人夫の集合所としての番宿・川越の補助的作業を問う仲間の宿・川越札の現金引換である札場・荷物の繕いを行なった荷縄屋等が設けられていたものである。川越制度は明治維新まで続けられたが、明治三年五月、民部省からの通達により架橋・渡船の禁が解かれこの制度は廃止された。川会所の建物はそののち大井川通船の事務所や学校校舎の一部に利用されその位置も移動されたが昭和三年、国道大井川鉄橋の架設を記念して鉄橋端大井川公園に移されて保存されることになった。そののち久しく等閑に付されていたが、昭和四十一年八月一日、島田宿大井川川越遺跡として文部省から指定を受け、昭和四十五年八月三十一日に旧跡地に隣接して復元完成されたものである。」『歌川広重 東海道五拾三次 嶋田 大井川駿岸』。「駿河側から眺めた景観を描いたこの大井川は、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたように、川幅も広く水量も多い川渡りの最大の難所でした。東海道にはいくつもの川がありましたが、幕府は江戸の治安・防衛のため、あえて橋を作りませんでした。参勤交代の大名は、多くの家来と荷物の移動に難儀しました。」再び『島田宿大井川川越遺跡案内図』。『川会所』は川の深さなどを測って川越しの料金を決めたり、川札(かわふだ=切符)の販売のほか川留めや、川開けなどを取り仕切った川役人がいた。元禄9(1696)年に川越制度が確立されてから、川越業務を行なってきた建物。現存する建物は安政3(1856)年に建てられたもので、明治以降数回の移転を経て、昭和45(1970)年、川会所跡の西側の現在地に復元保存された。川会所の中には、人をのせた連台(れんだい)などが展示してあった。金谷側にも同様の施設があったが、残されていないのだと。前庭には白の大島桜が満開。入ってすぐの庭の左側に『芭蕉句碑』が。「馬方は しらじ 時雨の大井川」。芭蕉は既に川は渡ってここ島田宿側に居る。対岸は金谷宿。この馬方は対岸の馬方のこと。芭蕉を島田で降ろして馬方は金谷に戻っていったから、「川のこっちである島田の時雨は分かるまい」というのであると。元禄4(1691)年、まだ川越制度が確立していない頃に、松尾芭蕉が大井川を渡った時の心境を詠んだのだと。『川会所』の中に入って見学。左に『越立の方法』「普通大井川を渡渉するには、川越人足の肩車で越す場合と、連台で渡渉する場合とがありました。このほかに特別な「棒渡し」や「馬越し」があり、また荷物越しにも規定がありました。肩車越し:人足仲間では「カタクマ」といい、川越人足の肩に跨いで乗る方法で、越し賃がもっとも安く、大衆的な越し方であったため、多くはこの方法で越しました。棒渡し:無賃者を越させる方法。大井川は原則として一般人の無賃越しおよび自由越しは禁止されていました。しかし特に例外として、無賃自由越しを許す場合もありました。それは「報謝越し」ともいい、その対象となった人達は、相撲取り、巡礼、非人、無賃者や猿回し・越後獅子などの下級芸人などでした。この棒渡しというのは、細長い杉丸太へ四、五人くらいをすがりつかせ、その両端を二人の待川越が持って渡すもので、ときには連台の横側にとりついて越させてもらう場合もありました。このすがりついた手が離れ、水の勢いに押されて溺れてしまうケースが多くありました。このようなことから、川会所では、河流の両側に待川越数人を配置し、見張りをさせて人命救助に当たらせていました。無賃者といっても、このような越立の手当ては、川会所より支給されました。」『蓮台越しの手順』。「明六ッ(午前六時頃)~暮六ッ(午後六時頃)旅人は、前夜島田宿の旅籠に泊まり、早起きして早朝出立する。すでに川方では、川庄屋によって「何十何文川」であるか定められ、宿中に触れ歩いてあるので、旅人は出立前に、当日の「何文川」であるかを知ることができました。街道を西に向かい大井川に面した河原町に着くと、そこの川会所前には高札場があり、ここに当時の「何文川」であるということが掲げてありました。旅人は川会所に出向いて、自分の住所・名前・旅の目的などを告げ、川越しを依頼しました。そして「肩車越し」または「連台(平台)」で越したい旨を申しでました。つぎに「川札」、「台札」を求めます。「川札」(油札)は一人乗りの場合は四枚(川越人足四人担ぎ)、二人で乗る場合は六枚(川越人足六人担ぎ)が必要でした。他に連台の使用賃として「台札」一枚も必要でした。「台札」は川札の二枚分だったので、一人乗りの場合、川札六枚の川越賃を支払うことになりました。「川札」一枚の値段は、その日の川の深浅によって異なりました。このような手順も、初めて旅するものにはわかりにくかったので、「立会人」(案内人)と呼ばれる者たちがいて、毎日川会所に詰めていて、旅人たちに川越しの手引きをしました。川札を求めた旅人は、この立会人の案内で、当日出番の川越人足が詰めている「番宿」に案内しました。」大井川は、ひとたび大雨に見まわれ、水深4尺5寸(約1.4m)以上になると「川留め」になる。通常は2日~1週間ですむが、慶応4年(1868)には連続28日の最長記録がある。このため島田宿や周辺の宿場は大賑わいを見せたのだと。右が『中高欄蓮台』、左が『半高欄蓮台』。奥には平連台が立てて展示されていた。これが最高級の『大高欄蓮台』。様々な説明板が置かれていた。『川札』川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたといいます。公文書にも「油札」と記したものが多くあります。川札一枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけました。この川札は、美濃紙を十二行に裁ってつくられています。その上方に、川会所または年行事の黒印が押され、端には「川札」と墨書されていました。全体に油(柿渋)を塗り、その三分の二ほどはこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛んい結ぶのに都合がよかったからでしょう。このような「川札」がいつごろから使われ始めたか不明ですが、元禄四(1691)年、ドイツ人で長崎オランダ商館付き医師ケンペルが江戸参府のため東海道を旅行した旅日記『江戸参府旅行日記』の中に、すでに「油紙」によって川越賃を扱っていることが記されていますので、「川越制度」が確立される元禄九年以前から利用されていたと思われます。台札「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければなりませんでした。価格は、川札の二倍に相当した。これは、中頭紙を横にして、幅七分ほどに裁ち、川札同様に、川会所または年行事の黒印を押し、その端に「台札」と墨書したものです。その起源は、川札同様に、元禄九(1696)年、川庄屋が任命されて「連台」が考案、設置されてから、その使用料、損料として「台札」が利用されるようになったものと思われます。『川越しの時刻』明け六ッ(午前六時頃)から暮六ッ(午後六時頃)までで、季節により多少のずれがありました。しかし公務急務用者に限り、特に川会所の許可を得て、時間外の越立が許されましたが、よほどのことでない限り、暮六ッ以後の川越しは許されませんでした。開始の時刻は、川会所の定めにより、時刻がくれば一斉に開始されました。旅人や川越人足たちは、向島の大善寺の「時の鐘」によって時刻を知りました。鐘撞料は、川会所から、川越賃銭の加刎の内より支払われていました。川越えのできる時間は明け六つ(AM6時頃)から暮れ六つ(PM6時頃)まで。旅人は川会所で「川札」(人足賃用「油札」と蓮台賃用「台札」の二種類)というチケットのようなものを買い、川越人足をあっせんしてもらう。船渡しと違って武士も有料。肩車で渡る「徒歩(かち)渡し」なら人足一人分で川札1枚、「蓮台(れんだい)」という乗り物に乗る「蓮台渡し」なら最低4人必要だから川札4枚となる。大名などの身分の高い武家がもっぱら使用した「大高蘭蓮台」は、駕籠をそのまま乗せ、なんと20~30人がかりで担いだ。ちなみにこの場合、台札だけで32枚、人足用16枚(16人として)、補助人足用4枚(4人として)の合計52枚、並水(「股通」)でも48文×52=2496文、一文20円で計算しても5万円もかかったのだと。『川札のねだん』が絵入りで。 東海道には、大河なのに船がなく、徒歩わたしだけに頼らざるを得ない場所があった。酒匂(さかわ)川、興津(おきつ)川、安倍川、大井川である。当時の河川は旅人が自力で渡ることは許されていない。もし路銀節約のため、人足を使用せず、決められた以外の場所から川を渡ったことが判明すれば、重罰に処せられた。そのため、旅人は川越人足というプロに依頼するためにまず川会所に行く。ここには毎日川名主と川年寄が詰めており、渡河の優先順位から水位の深浅の確認をし、川越えの料金を決定したりした。大井川の場合、水深によって5段階にランク付け。・脇 通 九十四文(2800円)・乳 通 七十八文(2340円)・帯上通 六十八文(2040円)・帯下通 五十二文(1580円)・股 通 四十八文(1440円)川越人足一人分の値段なのであろう。よって人足4人で担いでもらうと4倍の値段。そして、水深が4尺5寸(約140センチ)を超えると川越えを禁じる「川留め」になり、解禁まで2日から1週間程度かかった。逗留の間、暇つぶしに女郎をよんだり賭博に手を出したりして無駄遣いをし、無一文になってしまう愚か者もいたようだ。また、川留め解除になっても、優先順位(最優先は幕府の文書を運ぶ「継[つぎ]飛脚」、続いて幕臣、その次に大名一行)があったので庶民はさらに待たねばならなかった。特に参勤交代の大名行列に遭遇すると大変。大渋滞で、川のすぐ手前の島田宿はもちろん、その手前の藤枝宿も満員。もう一つ手前の岡部宿で泊まることを強いられた。『川庄屋』、『年行事』『川庄屋』という役職の人物であると。日々の川越賃銭や「川留め」「川明け」の決定等「川越制度」の中心的存在だったと。「川庄屋」は「島田宿伝馬人」の中から選ばれ、「島田宿」の「組頭」と兼任していたとか。『年行事』は、川越人足を勤めた者の中から高齢となった長老があてられ、川越賃銭の取立て、帳簿の記載、人足の区分をしていたのだと。横から。女性を二人の川越人足が担いでいる写真。『定』「一、往来の旅人に対し川越之者かさつ成事すへからす、無礼悪口等之事あるへからす、 たとへ軽き旅人たりといふも大切に思ひあやまちなきやうに念を入へき事 一、川越札吟味する所より札取川越すへし、旅人と相対にて賃銭取へからす、並旅人を いいかすめ札銭之外一切取まきし事 一、旅人いかやうに頼といふとも、御法度之脇道江まわるへからさる事 一、川越之事暮六ツ時以後手引ニ而もすへからす・・・・・・」『島田大堤(しもだおおつつみ)』「天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が、慶長の大洪水(1604~1605)で決壊し、建設まもない島田宿の全てが押し流された。その後、大堤完成までの確かな記録は不明だが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃、向谷水門を掘抜き、宿内に三本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化している。恐らくこの頃(正保元年・1644)までには完全な大堤が完成していたことと思われる。これらの治水・灌漑工事により、島田宿の米の生産高は以前の二十倍にも増えている。大堤の規模は、高さ二間(約3.6m)で向谷水門下から道悦島村境までの長さ3150間(5.733m)と記録されている。今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守ってきた大変重要な大堤だったのです。後世に伝えていきましょう。」更に大井川方面へ。『八重枠稲荷神社』が右手に。「昔、ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて、激流から村を守りました。八重枠稲荷の名前はここからきています。 宝暦十(一七六〇)年に川越衆の安全と故事の排除を祈願して建立されたといいます。しかし、ここの神社の祭日は二月の初午の日である事からも建立当時の目的は、川で亡くなった人々の供養が主だったかと想像されます。 社殿は文化九(一八一ニ)年と明治三十四(一九〇一)年に修繕されました。石積みは当時のままで、大井川の石を拾って亀甲型にして、積み上げたものです。 川石は堅くて、手間がかかり、今では市内数ヶ所しかない職人の技法です。」『社殿』。奥には街道の左右に『せぎ跡』が。大井川の氾濫から島田宿を守るための石堤防(氾濫時に締め切ることができるよう角落とし用の溝が付いている)。この「せぎ跡」より西側は河原であったと。『川越遺跡跡』と書かれた木札が。右手に『朝顔の松公園』の『朝顔の松』が。朝顔という盲目の三味線弾きの物語が残っていると。『爪音は 松に聞けとや 春の風』厳谷小波 1870(明治3)〜1933(昭和8) 創作童話の創始者、俳人。【あの瞽女「深雪」の爪弾く三味の調べは、この老松に聞いてくれ、と云うように松は春風に吹かれていることよ。】小さな『御堂』。『朝顔目明観音 川除地蔵』と書かれた扁額も。「昔、ここに一本の大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは宿屋に足止めされました。ここには次のような物語りがあります。安芸の国(広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。しかし、その人こそ駒澤家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主名をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗り合いずに別れてしまいます。あとて阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。その時、初めて目に映ったのが大きな一本の松でした。この物語りを伝えるにふさわしい大木(目通り1メートル56センチ、高さ20メートル)でしたが惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。この物語り「朝顔日記」は、江戸後期(1811)に作られたものですが、浄瑠璃として上演され、大好評となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています。」『いたずらがき 制作 細谷泰茲』。そして『島田市博物館』を最後に訪ねた。市の歴史・文化・芸術を紹介する本館がここ。日本家屋風の瓦屋根を持つ2階建て建造物。1階の常設展示室では江戸時代の資料を中心に島田宿や大井川の川越し、島田の刀鍛冶、島田大祭、島田髷、志戸呂焼などについて紹介し、市の歴史を学習できるようになっている。2階は定期的にあるテーマに基づいた企画展を開催する特別展示室。歴史資料だけでなく、近・現代の絵画・陶芸・工芸品など美術コレクションも収蔵していた。企画展示中の『音にきこゆるvol.3~島田の刀鍛冶と五ヶ伝』のポスター。しかし、この日は既に終了しているはずであったが。内部に入ると様々な展示が。島田はどこかな、島田宿の成り立ち、島田宿のしくみ・・・・・。東海道 宿場人口ランキング。1位:53番目の大津宿(大津市) 14,892人 中山道の宿場を兼ねターミナル宿場2位:19番目の府中宿(静岡市) 14,071 徳川家康隠居の城3位:41番目の宮宿(名古屋市) 10,342 熱田神宮に近い、桑名宿への海路4位:42番目の桑名宿(桑名市) 8,8485位:43番目の四日市宿(四日市市) 7,114島田大祭で活躍巣する『大奴』の像。旅姿の像。『往来手形』。下記のごとく書かれているのだと。『旅の用心集』、『飯盛女』。「旅といえば、昔も今も先立つものはお金。道中では巾着切りや枕さがしといわれる道中師にやられたり、山道では追い剥ぎに出合うかもしれないと・・・・・・・。飯盛女は、旅人の食事の世話や接待をした、享保3年幕府は、旅籠一軒につき飯盛女二人と決めたが、守られなかったと、飯盛女のいる旅籠はとても繁昌した。」芭蕉の像も。『ジオラマビジョン』をしばし楽しむ。『ジオラマビジョン』では、江戸時代後期の島田宿、旅籠屋をや川会所などを舞台に動き回る二人の主人公を通じて、人々がどのように旅をしていたか、また川越制度について紹介していた。『大井川の台札』。「台札」は、連台の損料であって、連台に乗って越すには必ず買わなければならなかった。価格は、川札の二倍に相当したのだと。『大井川の川札』 川札は一般的には「油札」ともいい、人足仲間でも「油札」で通していたと。公文書にも「油札」と記したものが多くあると。川札一枚が、川越人足一人の賃金で、川越人足はこの川札を受け取ると、頭の髪の毛または鉢巻きに結びつけた。全体に油(柿渋)を塗り、その三分の二ほどはこより状に撚ってありました。柿渋を塗るのは、水に濡れても差支えないためであり、こより状にしてあるのは、鉢巻きや髪の毛んい結ぶのに都合がよかったからと。『充実の輦台(れんだい)ラインアップ』樹齢510年のハリモミ(針樅)これで私も記念撮影。屋外には『旗指窯二十五号窯跡』が展示されていた。『大井川の通船で使われた川船』も屋外展示場に。『大井川の通船で使われた川船』説明文。「明治時代に入ると、大井川の川越制度は廃止され、明治4年(1871)には、本格的な船による物資の運搬事業「大井川通船事業」が始まった。船着場は、島田市向谷、家山、川根本町千頭などに設けられ、向谷から家山までは3日終点千頭までは5日間の航路だったようです。この川船はその通船に使われたもの。川をさかのぼる時は、人が押して進んだので、船頭の苦労は大変なものであった。そのため、昭和の初めには高瀬船、飛行艇へと移っていきした。」『大井川の通船』島田市博物館敷地内にあった『松尾芭蕉の句碑』。『ちさはまだ 青ばながらに なすび汁』。元禄7年5月中旬、島田宿で風雨となり3日間川止めとなった時に読んだ句の中の一句。足止めの間、初心者相手の俳句の指導を行ったり、草庵を巡ったり、江戸へ手紙を書いたりして過ごしました。この句は、川止めの間泊まっていた、如舟たちへの誠意に応えた挨拶の句とされています。島田宿・川越遺跡を振り返る。『あさがほ堂』が朝顔の松公園内に。初代の松はこの『あさがほ堂』に木碑となって奉納されているとのこと。 その6 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次島田宿の旧東海道・本通り(県道34号線)を更に西に進む。ここは島田市向島町。右手次の信号右角に大きな山門が見えて来た。『大善寺』。山門前の寺号標。大善寺『山門』。山門から境内に入ると右手にあったのが『梵鐘楼』。『大善寺の梵鐘』。「当山の鐘は、天命四(一七八四)年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘銘)。それ以後、昼夜六時(二時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。 しかし、この鐘は、昭和十九(一九四四)年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和四十八(一九七三)年に新しく造られたもので、毎月一日・十五日と大晦日に撞かれています。 」『本堂』。「ニ尊山成就院大善寺は静岡県島田市向島町に境内を構えている浄土宗の寺院。大善寺の創建は江戸時代初期に青海を名乗る修行僧が当地に草庵を設けたのが始まりと伝えられています。寛永年間(1624~1643年)に西入法師が当寺を訪れると、大井川で犠牲になった人々の供養を行う為、法師自ら釈迦如来像を彫刻し、本尊として阿弥陀如来像を迎え境内を整備しました。その後衰微しましたが、知恩院(京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院)の末寺である大善寺の寺籍を移し、浄土宗の寺院として再興しています。山号:二尊山。院号:成就院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。」本堂前左には『永代供養塔』。『當山歴代上人之墓』。旧東海道に戻ると左手信号角にあったのが『新東海製紙㈱』の入口が。平成19年(2007)、東海パルプ株式会社と特種製紙株式会社が経営統合し、 その後平成28年(2016)、 日本製紙との販売機能の統合により日本東海インダストリアルペーパーサプライ株式会社、特種東海製紙島田工場の分社化により新東海製紙株式会社が誕生したのだ。若い頃、昔の東海パルプ㈱に何度か通ったことを懐かしく想い出したのであった。『新東海製紙㈱』の前を進む。『島田市博物館』、『大井川川越遺跡』は左へとの標識が。左折のT字路手前にあったのが『島田宿』道標。金谷宿境まで六町(0.7km)と。県道34号線を離れて、ここを斜め左手に旧東海道は延びていた。右手に平屋屋根の中心が一段上がった木造の建物が。『上段の間が現存する塚本家』。「「上段の間」とは、奥の一室が一般の座敷より一段(約二十cm)高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことです。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていました。 塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ大名、大村藩(二万七千九百石余)によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行しました。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられています。なお宿泊は、定められた宿場の宿泊施設以外では、原則禁じられていましたので、大名は島田宿内の本陣に泊まりました。建物はその後、修理や改築の手が加わっていますが、基礎や上段の間には当時の様子が残されています。 塚本家歴代の主人の多くは「三太郎」を名乗り、家系の記録では、元禄までさかのぼりますが、川越し場が開設された当時からの旧家と思われます。」『国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並』と刻まれた木標。そしてこの場所の先で発掘調査が行われていたのであった。東海道線 島田駅から 西へおよそ2キロの地点に, 大井川の渡し(川越〔かわごし〕 )の跡「島田宿大井川川越遺跡」。国の史跡に指定され, 当時の街並みが整備・保存されているのだ。「島田宿」の入口に 大きな説明看板があって, 建物の名前などが図示されていた。 これがなかなかよくできていたのであった。『島田宿』を大井川に向かって進む。左手に『口取宿』。川越人足の定年は45歳であったとのこと。陸取り(おかどり=現役を引退した川越人足など)が詰めていた建物で、人足たちに公平に偏りが出ないよう仕事を割り振ったところ。現役の人足へのアドバイスなども行っていたと。右手に『島田市博物館分館』が。「遺跡」と言っても,建物の土台などが残っているわけではなく, 図に描かれているように, 昔の宿場町の「川会所」という役所と, 川越し人足等が使っていた「番宿」など, いくつかの建物が復元された 短い街並みなのであった。これらの建物は 基本的に内部も公開されている?のだが, ところどころに 普通の民家が混じっていて, うっかりすると 間違えて民家に入り込んで しまうのではないかと。『島田市博物館分館』手前にあった『六番宿』。「番宿」は「一番宿」~「十番宿」まであって, 人足の溜まり場。 人足はここで待機し, 休息していたらしい。そしてチケットを購入し、『島田市博物館分館』内部に入る。内部は明治中期建築の日本家屋の様子が懐かしく展示されていた。『土間の台所そして竈』。『お米つき』。一升瓶に玄米を入れ、上から棒で根気よく突っつくと白米になって行くのだと。流石に私はこれをやった経験はないが、旅友は如何に?素朴な和室。庭には水の流れが。『床の間』。こちらにも。『中庭』。正面の建物は海野光弘版画記念館であったが、この日は展示品替え?の為、中に入れなかった。『日本家屋について』。明治33(1900)年に建てられた島田でも有数の地主の住まい。正面の玄関から2階の屋根まで葺き上げた瓦の大屋根が特徴の町家は、旧家の風情が漂っています。1階は伝統的な工法で骨太に仕上げられており、2階は茶室としても利用できるよう、繊細で落ち着きのある京都の数寄屋風の造りになっています。日本情緒溢れるくつろいだ雰囲気の中で、展示作品をごゆっくり鑑賞していただけます。また、屋外にはこの家が建てられた当時の井戸や、その他民俗資料を展示しています。そして奥の『民族資料室』へ。市民の方々から寄贈された貴重な民俗資料約4,000点を展示。昭和を中心に明治、大正時代の昔懐かしい生活用品や木工機具、農機具などを並べてあった。『井戸と釣瓶(つるべ)』様々な種類、大きさの『鋸(のこぎり)』。『斧(おの)』。小型の『手斧(ておの)』『囲炉裏(いろり)と当時の食事』も。『千歯こき』。懐かしき『いも水車』。里芋等を中に入れ、小川等の水の流れで回転させると、綺麗に皮が剥ける優れもの。『ムシロ編み機』。『タイプライター』。『足踏み縄ない機』。『木鍬』『氷かき』、『洗濯機』。懐かしき展示品を大いに楽しんだのであった。そして再び島田宿、旧東海道へ。「酒屋跡」に島田宿大井川川越遺跡の見学案内板が設置されていた。 近寄って。『橋下仲間井戸』が六番宿の奥に。「この井戸は「つるべ井戸」といわれるものです。いつごろ堀られたかはっきりしませんが、明治30年ごろ改修され現在のような形となりました。井桁にはそのころの利用者仲間の人たちの名前が刻まれています。 なお、この井戸は昭和29年に水道が敷かれるまで使われていました。 井戸の直径 1メートル 井戸の深さ 11メートル 水までの深さ 9メートル(冬期)」『三番宿』に飾られていたお雛様。『十番宿』に入る。川越人足の詰所では「六さん」が迎えてくれた。川越人足は一から十までの組に分けられ、各番宿にて待機していたと。川越人足の数は、島田、金谷でそれぞれ350人と幕府より決められていたが、幕末には島田、金谷側共に650人を超えていた。人足たちは裸で、腰に二重廻しと称するもの(浪に千鳥又は雲に竜の模様)を締めてお互いに「川越取」と呼び合い、天下の関取に一脈通じると自負していたのだと。煙管片手に一休み。『二番宿』。内部には見事な『七段飾り』が二式。こちらは『仲間の宿』。「主に年をとった川越し人足たちの集まった宿です。ここは人足達の仕事上の意見交換や各組どうしの親睦の場として使用されたといわれています。」ガラスケースに入った各種人形も。『札場』「一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿(ばんやど=人足の待機場所)で、各組の陸取り(おかとり)などが人足の川札を回収し、札場で現金に替えて人足たちに賃金として分配していました。」街道沿いには地蔵様の姿も。『芭蕉庵』。旧東海道沿いにあり島田宿川越茶屋内のお土産販売店、ここには15代将軍 徳川慶喜も愛した和風のコーヒーを再現したものが楽しめると。その名も「江戸珈琲」。 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・本通りの本町2丁目の交差点を過ぎ、緩やかなカーブを大井川方面に進む。右手には㈱大村屋酒造場。天保3年、初代重兵衛が創業。現在当主は六代目にあたる島田宿の老舗酒屋。最盛期には7軒あった島田の造り酒屋も、昭和45年頃には次々と蔵をたたみ、当蔵も廃業の危機に晒されたのだと。昭和50年、古文書に伝わる酒を「若竹鬼ころし」として復活させた、昭和55年に「おんな泣かせ」を世に出したと。若い頃、この島田に宿泊出張で来た折、飲み屋でこの「おんな泣かせ」を呑んだ記憶が。屋根にのった赤鬼が迎えてくれた。本通一丁目の左手角に『石柱の道標』があった。摩滅していてよく読めないが、「東 六合村境まで十八町十六間・・西 大井川渡船場迄二十四町六間・・ 南 島田駅迄一町・・」と書かれているのか?渡船場や島田駅が出てくるから明治以降のものなのだろうか?本通一丁目の交差点を直進。島田市立博物館、川越(かわごし)遺跡の案内表示。左手奥にある『正覚寺』を訪ねた。正覚寺『山門』。門前には石橋が架かり、山門に黒塀が続く。クスノキの大木は御神木?。正覚寺『本堂』。ご本尊は大曼荼羅。島田市本通にある日蓮宗の寺院。山号は成等山。旧本山は蓮永寺。開山は蓮華阿閣梨日持(立正大師日蓮の弟子で六老僧の一人。)、中興開山は恵雲院日潤(元禄4年(1691年)没)とするが寺歴は不明な点が多い。日殊(16世)の代には近衛殿から御歌1幅を拝領し永代祈願所と定められたという。宝暦6年(1756年)、日達(17世)の代に本堂を再建し、明和2年(1765年)、日情(20世)の代に仏像12体を新造し、天明8年(1788年)、日染(21世)の代に大津通りの七面堂(現在の開運堂)を当寺に移転した。文久2年(1862年)頃、日荅(26世)の代に庫裡から出火して伽藍を全焼したが、元治元年(1864年)までに古家等を移築して再建された。現在の本堂は大正2年(1913年)日堯(30世)の代に再建されたもの。旧七面堂の『開運堂』が本堂横に。扁額には『開運堂』と。『南無日蓮大菩薩』碑。小さな祠の中には『浄行菩薩』が。境内社の『稲荷神社拝殿』。そして次に道路の向かいにある『大井神社』を訪ねた。島田宿の鎮守様として信仰が厚く、ここで行われる「帯祭り」は天下の奇祭としても有名だそうだ。左側に大井神社社標、正面に安政3年(1856)の道中飛脚奉納燈籠が対で。鳥居の扁額には『勅宣正一位 大井神社』と書かれていた。宝永5年(1708年)7月2日に正一位の御位階を賜り、正一位大井大明神と奉称され、さらに嘉永7年(西暦1854年)7月15日御位勅宣の御沙汰を拝し、称号を勅宣正一位大井神社と改めたと。『枡形跡(宿西入口)』。「宿場の出入口には「見付」と呼ばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは五間四方(約80㎡)ほどです。」参道横の石垣は川越人足が毎日の業を終えて帰る際に、河原から石一つ持ち帰り、それを蓄積して築いたものであると。こちらも同様。参道の石垣を見る。『大井神社 配置図』『手水舎』。『神橋』を渡る。正徳3年(1723)の太鼓橋、安政3年(1856)の平橋。本堂にお参りする前に境内を散策。左手に安産祈願『帯塚』。使用した帯に感謝し供養して、この帯塚に納めた大井神社特殊信仰の故事により一家の平安と安産を祈る塚。『先賢碑』「江戸時代島田宿は度々の水害に見舞われていた。寛永年間の代官長谷川藤兵衛長勝・長春父子二代は私戝をなげうって向谷、横井に水門を設け宮川、中溝川、問屋川を掘り水利をはかり大きな水防工事を成し遂げた。又、文化年中桑原藤泰は駿河全域の文化歴史の大要駿河記20巻濱葛籠4巻を執筆完成した。この3人の尊い事績を伝えるため大正13年島田町長置塩藤四郎氏等によって建立された碑文である。」大井神社『最古の奉納灯籠』寛文3年(約三百四十年前)。大井神社の現在地遷座前の燈籠という事になる。お旅所から移したものでろうと。境内社の『大井恵比寿神社』。祭神は、大国主命と事代主命である。出雲大社、西宮神社よりそれぞれ分霊を奉斎したという。家庭に福を授ける家内円満の神様として信仰され、11月20日の恵比寿講には大井恵比寿神社のお札を奉斎して各家庭でも大根やなます、鯛などを献じて一家団欒でお祀りをするという。『福寿の手水鉢』。江戸時代・享保年間(約二九〇年前)武州玉川の崇敬者の奉納した手水鉢である。再建した『常夜燈』。『常夜燈籠再建について』。「江戸時代に建造されましたが、長い歳月を経て風雨による損傷が甚だしく倒壊の恐れもありましたので、平成15年2月に解体。その後、島田の宮大工佐野 覚氏の献身的な精進努力により1年有余ヶ月の時を経て竣工しました。元の常夜燈籠解体にあたり、そのまま利用出来る部材は用いることにしました。多くの氏子崇敬者の浄財の献納と共に、佐野 覚氏の熱心な建築工法研究の結果、平成16年5月15日みごとに竣工いたしました。」境内の『五神池』には朱の太鼓橋が。『帯まつり』の主役となる大名行列の大奴と鹿島踊りの三番叟が姿を現す。『帯まつり』は10月中旬の3日間、3年ごとの寅(とら)、巳(み)、申(さる)、亥(い)の年に行われる。山梨県富士吉田の火祭、愛知県国府宮(こうのみや)の裸祭とともに日本三大奇祭の一つとされている。島田の宿に嫁した女性は、安産祈願のため帯を大井神社にお供えする。神社では最終日に大名行列を行うが、その帯を披露するため、神輿(みこし)に供奉(ぐぶ)する25人の大奴(おおやっこ)の刀の下げ緒に、その帯を使用する。帯を長く垂らしながら、静かに歩むのである。『大奴』ブロンズ像。鹿島踊りの『三番叟』ブロンズ像。『大奴 鹿島踊像建立紀念』。「大井神社は大祭も元禄時代より三百有余年私達の祖先の厚い信仰と尊い努力によって伝統が護持され 今日に至りました。今は日本三奇祭「島田の帯祭」と讃えられ安産祈願と共に全国にその名を知られております。ここにこの尊い大祭行列の代表的な姿である大名行列の大奴と鹿島踊の三番叟2体の勇壮華麗な姿をブロンズ像として建立しその美しさを後世に伝えるものであります。」大井神社『祭儀殿』。『大井大神』の扁額が。境内社の『大井天満宮』。大井天満宮の祭神は菅原道真で、京都北野天満宮より分霊を奉斎したという。学問の神様としてだけでなく、農耕の神様としても信仰されている。『神牛』。前の神牛は自身の体の不調なところと同じ部分を祈念を込めて撫でれば病も全快するといわれ、また、神牛の頭部を撫でさすれば知恵が付くという信仰がある。境内社の『春日神社』。境内社の『静霊神社(しずたまじんじゃ)』。島田市出身の英霊1950余柱を祀っている。『崇敬子来之碑』『平和への道標』。『日清日露戦役紀念之碑』。『絵馬掛』。そして大井神社『拝殿』。祭神は次の3柱。弥都波能売神 (みづはのめのかみ) - 水の神。波邇夜須比売神 (はにやすひめのかみ) - 土の神。天照皇大神 (あまてらすすめおおみかみ) - 日の神。『社務所』。御朱印を頂きに。御朱印をいただきました。 その4 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次島田宿の旧東海道の『本通り(県道34号線)を進み、右手の非常に狭い路地に入り『林入寺』を目指す。『曹洞宗 佛殿山 林入禅師』参道。『山門』には『佛殿山』の扁額が。『本堂』。ある年、島田宿にたちの悪い流行風邪が広がって困っていたところ、和尚の夢枕にご本尊が現れ、境内の梅の花と葉を煎じて飲ませようお告げがあった。村人にこれを飲ませたところ、流行風邪は収まり、以後、境内にあるこの梅を 「薬梅」 と呼ぶようになったという。本堂の扁額は『林入寺』。『延命地蔵尊』。近くにあった『須田神社』を訪ねた。須田神社の『拝殿』。江戸初期、旅の修験者が代官長谷川藤兵衛の知遇を得て7丁目天王小路西角に青面金剛の庚申堂を建てた。その後、この地に牛頭天王を勧請して天王社を創建し、庚申堂も天王社の隣に遷座した。このため彼は 「勧請院」 と呼ばれた。明治42年(1909)に須田神社と改称された。境内には、庚申堂、勧請院堂、御神木のクスノキがある。『勧請院堂』。御神木の『須田神社のクスノキ』。近づいて。樹高:18m 目通り幹囲:5.4m 推定樹齢:300年以上。『大井川の川越し』展のポスター。「江戸時代、島田宿と金谷宿の間を流れる大井川は、「越すに越されぬ」とうたわれた東海道の難所でした。この地には、四季折々の景観や旅人たちの様子を題材とした浮世絵や屏風絵などが数多く残されています。本展示では、館蔵品の中から島田宿・金谷宿や大井川の川越しを描いた作品を展示するとともに、今年90周年を迎える島田信用金庫の所蔵する名品を併せて紹介します。地域の発展に寄与しながら、歴史や文化の伝承にも取り組んでこられた同金庫との共同展を通して、大井川の川越しを生き生きと描いた浮世絵の世界をお楽しみください。」『海野光弘 薫 ~風光る~』展のポスター。須田神社前の道路から境内を再び。旧東海道に戻る途中に、ユニークな狐像を発見。『刀匠島田顕彰碑』『島田刀鍛冶の由来』島田の刀鍛冶は、室町時代より400年続くという歴史を持ち、繁栄時には多くの刀鍛冶が島田に軒を連ね、刀鍛冶集団を作っていたと。「助宗」「義助」「広助」を主流として、代々同名を踏襲してきました。島田の刀鍛冶は地方的なものでしたが、戦国大名の今川氏、武田氏、徳川氏より高い評価を受け、大切にされたといわれています。『旧東海道 島田宿案内図』「島田御陣屋の最初の代官となった地元出身の長谷川藤兵衛長勝は自分の屋敷を代官所とし、その後三代つづきました。孫の長谷川藤兵衛勝峯のとき遠州川井代官所に移動となったため、屋敷と建物は幕府所有となり、その後、代官が次々と赴任してきました。なお現存する「御陣屋稲荷社」は当時は御陣屋の屋敷神として祀られていたものです。本陣跡本陣とは、大名や身分の高い公家、僧侶などが宿泊や休憩をしたところです。宿場の中でも大きな屋敷を持ち、経済的にも裕福な民家が幕府から指定され、主人は「名字帯刀」を許されていました。島田宿の本陣は、上(西)から上本陣の村松九郎次家、中本陣の大久保新右衛門家、下本陣の置塩藤四郎家の三軒がありましたが、脇本陣は置かれませんでした。塚本如舟屋敷跡元禄四年(1691)と元禄七年(1694)の二回、俳諧師松尾芭蕉が旅の途中に客として泊まったことが知られる島田宿組頭の一人、塚本孫兵衛(俳号如舟)の屋敷跡です。芭蕉没後も、その縁を求めて、芭蕉の友人や弟子たちが数多く立ち寄っています。桑原家跡文化・文政期から幕末期にかけて、島田宿随一の素封家(財産家)でした。一丁目で酒造業(稲葉屋)などを営み、間口十三間の屋敷を構えて、持高は島田宿村高の六分の一にも及びました。一方、代々文芸や書画に秀で、風雅を愉しんだ文化人の家系として駿河・遠江に広く知られました。とくに四代目の伊右衛門宣之(金渓・黙齋)は画人でもあり、また隠居後、駿河国内を巡歴して地誌「駿河記」を著したことで知られています。大井神社元禄のはじめ頃(1689頃)、下島(御仮屋)から現在の場所に遷座されて以来、島田宿の総鎮守として祀られています。その時から三年に一度(寅・巳・申・亥)の大祭が行われてきました。この祭りは大名行列・御神輿渡御行列・鹿島踊り・屋台踊りなど華やかで彩り豊かな祭りとして知られていますが、とくに大太刀に丸帯を下げて舞う絢爛豪華な大奴の行列と鹿島踊りは、ともに静岡県指定無形文化財に指定されています。高札場跡幕府は、禁令や法度(法律)を人々に知らせるため板札に書いて宿場の入口など人通りの多いところに掲示しました。その板札を「高札」、立てられた場所を「高札場」といいました。島田宿には宿場の西入口にあたる大井神社南鳥居脇に立てられていました。内容はキリシタン禁制や火事場禁制、毒薬贋金等禁制、伝馬法度、人馬賃銭定などで、いわば公報の掲示板でした。西升形跡(宿西入口)島田宿西の入口に当る大井神社南鳥居向い側に、宮川と正覚寺小路の間を土塁で囲った升形の見付が設けられていました。ここで本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをしました。ここから西は、向島集落まで松並木でした。」先ほど歩いた狭い小路は『林入寺小路』と呼ばれていたようだ。ここに『島田刀鍛冶』、『問屋場』が在った場所のようである。島田市の汚水マンホール蓋。「帯祭」の様子がデザインされた蓋。『からくり時計塔』もあるこの通りが「おび通り」。『からくり時計塔』⬅リンク。この時計塔には、帯まつりに登場する大奴の人形が、音頭にあわせて可愛らしく踊りだす仕掛けがあります。また、おび通りでは毎月1回、「しまだ元気市」が開催され、たくさんの人で賑わいます。『島田宿 本陣跡』碑。「本陣とは幕府の高官や公家・大名・旗本・高僧など支配層の人々が、休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設です。はじめは「大名宿」と呼ばれていた、各宿場の広い家屋敷を持つ富裕な家を、寛永十二(一六三五)年頃、参勤交代が制度化されると、幕府は「本陣」に指名しました。当主には名字帯刀が許され、立派な門・玄関・書院(上段の間)を設けることが特権として認められました。島田宿には、西から上本陣村松九郎治家・中本陣大久保新右衛門家・下本陣置塩藤四郎家の三軒の本陣がありましたが、脇本陣はありませんでした。享和三(一八〇三)年の「島田宿明細書上帳」によると、上本陣は建坪二六二坪、中本陣は建坪二四四坪、下本陣は建坪二七一坪とそれぞれの規模が記されています。諸大名は、各宿場の本陣を指定し、定宿としていました。本陣へは藩主と側近の一部が泊まり、その他の家臣団、女中、中間などは宿内の旅籠や商家、民家、寺院あるいは農家などにも分散して泊まりました。参勤交代の行列は、数百人から千人以上に及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われています。」現在本陣の位置は、おび通りカラクリ時計前に下本陣置塩家跡、天野呉服店角に中本陣村松家跡、割烹旅館三布袋前に上本陣村松家跡の石柱(碑)があります。天野呉服店角に『中本陣村松家跡』碑。割烹旅館三布袋前に『上本陣村松家跡』碑。道路の反対側、静岡銀行前には『塚本如舟邸跡(つかもとじょしゅうやしきあと)』碑が。『俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸跡(如舟と芭蕉と連句碑)』「やはらかにたけよ今年の手作麦 如舟田植とゝもにたひの朝起 はせを元禄七(年)五月雨(さみだれ)に降こめられてあるし(あるじ)のもてなしにこころうこ(動)きて聊(いささか)筆とる事になん」 「塚本家は代々孫兵衛を名乗り、元禄九年(1696)初代の川庄屋を代官から任命されています。その他にも組頭、名主、問屋場の年寄、六代目からは問屋を務めるなど、代々宿役人の要職を務めました。当時の屋敷は間口五間余、奥行四十九間余でした。三代目孫兵衛は、「如舟」と号して俳諧を嗜みましたが、後に子孫が、彼のことを「家業に精を出し、酒造・製茶を営んで江戸に送り、東叡山(上野寛永寺)への献茶の御用を蒙るなど繁昌して富貴となり、宿高の内百五十石を持っていた」と伝えています。塚本家は主に茶商と大地主として財を成したようです。また彼は、島田出身の連歌師宗長を偲んで、長休庵という草庵を南裏に建てましたが、後に宗長庵という寺になっています。元禄四年(1691)、俳諧師芭蕉が江戸に向かう途中、俳人として知られていた如舟宅を訪れました。このとき芭蕉四十八歳、如舟五十一歳でした。また、元禄七年(1694)、芭蕉は、江戸から郷里伊賀上野へ向かう途中、再び如舟宅を訪れ、川留めのため四泊五日滞在しています。このときにも、石碑に記されているような有名な句をいくつか残しています。なお芭蕉は、この年十月に永眠しましたが、芭蕉没後も塚本家には、芭蕉ゆかりの跡を求めて、親友の素堂や高弟の嵐雪(ランセツ)・桃隣(トウリン)・支考(シコウ)・許六(キョロク)・涼菟(オト)らが訪れています。」『聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸址標識について』「塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて 宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川などの句を残したが越えて元禄7年5月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して さみだれの雲吹きおとせ大井川 ちさはまた青葉なからになすび汁など詠じ更に興に乗じて田植の連句 やはらかにたけよことしの手作麦 の如舟の発句に翁は 田植とともにたびの朝起と付句し、且、元禄年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になんと後書まで添えた真跡が260年後の今日までそのまゝ塚本家に伝えられたことは何ともあり難い事である。この標識の碑面は其連句の真跡を写真模刻したものである。願うにわが島田の地に俳聖の佳吟が残され又はやくから蕉風の唱えられたのも如舟交遊の賜であった。誠に郷土として永く伝うべき文化史跡というペきである。」島田宿はモール化が進んでいた。静岡銀行手前の交差点を右折し、石畳の道を進み突き当りを右折。そして再び帯通りに交わりここを右折して旧東海道に向かって戻る。右手に『御陣屋阯』。『島田御陣屋(代官所)跡』。「江戸時代島田宿 には、駿河国志多太郡や遠江国榛原郡などの幕領(天領)を支配する御陣屋(代官所)が設置されていました。島田御陣屋は、駿河国府中城主徳川頼宣 の代官であった長谷川藤兵衛長親 が、元和ニ(1616)年に建てた屋敷がはじまりで、その子藤兵衛長勝が寛永十九(1642)年、幕府の代官職に任命され、その屋敷が御陣屋となりました。以後、島田御陣屋に在勤した代官は次の人々です。長谷川藤兵衛長勝 寛永十九(1642〉年~明暦元(1655)年 長谷川藤兵衛長春 明暦元(1655)年~延宝五(1677)年 長谷川藤兵衛勝峯 延宝六(1678)年~元禄五(1692〉年 野田三郎左衛門秀成 元禄五(1692)年~元禄十一(1698)年 遠江中泉陣屋出張陣屋 元禄十一(1698)年~享保七(1722)年 田中藩預領(陣屋は空家) 享保七(1722〉年~寛保元(1741)年 三河赤坂陣屋出張陣屋寛保ニ(1742)年~明和七(1770〉年 岩松直右衛門純睦 明和七(1770)年~天明ニ(1782)年 岩松主税純春 天明ニ(1782)年~天明八(1788)年 野田松三郎政晨 天明八(1788)年~寛政六(1794)年 府中紺屋町出張陣屋 寛政六(1794)年~明治元(1868)年 静岡藩郡政役所 明治ニ(1869)年~明治四(1871)年 幕府では、はじめ全国に六〇人ほどの代官がそれぞれ五万~一〇万石の幕領を支配し、年貢の徴収、法令の伝達、訴訟の受理と審理、軽犯罪の処分などを行っていました。享保期以降は、勘定所官僚としての性格を強め、数年で任地が替わることが多かったようです。役高は一五〇俵程度で、旗本の役職としては最下位に属しました。実務は手代と手付という下級役人が、地方(民政一般)と公事方(司法)に別れて行いました。次に掲げた「島田陣屋平面図」は江戸後期のものと思われます。なお現在も祀られている「御陣屋稲荷」は、御陣屋の屋敷神として敷地内北西(乾)の堤上に祀られていたもので、年一回の祭礼には宿民に開放され賑わったと伝えられています。」帯通りを更に旧東海道に向かって戻る。左手静岡銀行前を通過。本通り2丁目の交差点、ここから東が今日の東海道だ。角に島田信用金庫があり、その前に『芭蕉の歌碑』があった。するかの国に入てするかちやはなたち花もちやのにほひ はせをこの句も元禄七年、芭蕉の最後の旅のときに詠まれたものです。この他にも、島田市内には「駅前緑地」「博物館」など数カ所に芭蕉の句碑があります。 「宿かりて名を名乗らするしぐれ哉」「馬かたはしらじしぐれの大井川」「たはみては雪まつ竹のけしきかな」「道のべの木槿は馬に喰われけり」「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」『松尾芭蕉 「駿河路や句碑」 』碑面にはするがの国に入て するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ はせを (はせを:芭蕉の俳号)この句は句集芭蕉七部集中の「炭俵」上巻夏の部にあり、「島田よりの便に」という後書がついています。此句の碑は既に静岡には音羽町の清水寺と市の北部足久保との二ヶ所にありますが、当島田には特に縁り深きを思い、このたび同志によりここに建碑することとなったものであります。 当此碑稿は元禄七年(1694)五月芭蕉の西帰の途次、当宿塚本如舟邸を訪れた際書残された翁の筆跡から拡大したものであります。本通り2丁目交差点を通過。左手にJR島田駅が見えた。 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.10
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我が家の門の横のバラ。澄んだピンクの花。大きな葉の奥で咲くゼニアオイ(銭葵)。花色は赤紫色。更に濃い紫の線の入った5弁の花。丸い花が「一文銭」ぐらいの 大きさだったことから「銭」。「葵」は「立葵」の葉っぱに似ているから。 アイリス。花色は紫、青、黄、オレンジ、白、ピンクなど様々。花びらの付け根にある目のような模様が特徴。アイリスは、ギリシア神話の女神イリスにちなんだ名前。イリスが虹を渡って神々のいる天上と地上を行き来する使者だったことから、『メッセージ』『吉報』『良き便り』という花言葉がついたと。-------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩く(藤枝~金谷)その3です。県道381号線を離れて旧東海道を進む。右手に『交通遭難者慰霊塔』が。ここは 静岡県島田市御仮屋町で国道1号御仮屋西交差点の南東側、国1と本通りに挟まれた狭い三角形の土地に。慰霊塔は巨大な墓のような姿をしており、表面に“交通遭難者慰霊塔”と刻まれていた。裏側基部にある銘板によると、慰霊塔は昭和34年(1959年)に島田市稲荷4丁目に建立され、平成18年(2006年)3月に現在地である御仮屋町に移設した模様。島田市本通7丁目 本通りにあった『枡形跡(宿東入口)』「宿場の出入口には「見付」と呼ばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設のことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは五間四方(約80㎡)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。」島田宿の本通りを進むが、時間は11:06であったが、水曜日であったがここも人影は少なく。本通り7丁目の交差点の先の路地を左折し『蓬莱橋(ほうらいばし)』に向かう。JR東海道本線の踏切を渡る。『第一相良街道(さがらかいどう)踏切』。東海道線の起点の東京駅から206K923Mとの表示が。相良街道は東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道。別名、田沼街道(たぬまかいどう)。藤枝宿から西島で大井川を渡り、対岸の高島から吉田・榛原(あいはら)を通り、相良城下までの道筋である。当時、大井川を渡河するには、徳川幕府によって東海道の島田・金谷の渡しのほかは許されておらず、大井川を渡ることができた田沼街道は地元の人々から重宝されていた。よってこの道が相良街道ではなく、相良街道へ向かう道と言うことに。緩やかにカーブし島田駅に向かう東海道線線路。東海道線の踏切を過ぎてほどなく、右手に『高野山 島田教会&高野山 蓮花院 別院』が。『三重塔』。『本堂』。『六角経堂?』。高野山金剛峯寺のものは回転する構造であったが。『馬頭観世音』。『楽寿観音霊場第十番』の木札が。堂内の観音菩薩像。大念珠を引く旅友。この数珠のような輪になった百八の煩悩滅除の珠を「紐を引っ張って、八個だけきちん落とすことで邪念を祓うことが出来る。珠が上から1つずつカチリと落ちると煩悩が取り払われ、厄難が除かれる」 と書かれていた寺があったと記憶しているが、この寺も同じであったのだろうか。大先輩の旅友はこれを理解して??扁額には『遍照殿』と。『空海上人像』更に『蓬莱橋』に向かって進むと左手には、総合スーパー大型店『APITA(アピタ)』が。そして漸く『大井川』堤防に辿り着いた。『ギネスブック認定書』蓬莱橋は明治12年に完成。 全長897mは、木造歩道橋としては世界一の長さで、平成9年にギネスに認定された。『勝海舟之像』。台座の説明文。勝海舟は島田市の牧之原開拓を進めた重要人物であり 牧之原の気候・地質が茶栽培に適しているとして、栽培作物として選定した人物なのです。当時は世界での茶の需要の高まりから、日本も茶の輸出を積極的に図っていた時期であり その後、島田の茶の栽培成果は着実に上がり、現在の茶の名産地へと成長しました。現在の島田、島田茶は勝海舟のおかげであるといっても過言ではないのだと。蓬莱橋 案内板をズームで。『蓬莱橋の歴史』明治2年(1869)7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。当初は大変厳しい環境の中で、筆舌には尽くせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するにしたがって、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなければならず、大変危険なことだった。そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、明治12年(1879)1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので昭和40年(1965)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。現在蓬莱橋は、全長897.422m(1997年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的に有名な観光名所となっている(歩行者と自転車の専用橋)。橋の下流側から。台風24号の大水により、橋脚が損傷したため、現在通行を規制中。左岸側(料金所側)から約50メートル付近までを開放し、渡橋料は無料としていたが、平成30年11月1日(木曜日)、橋中央付近までの往復について可能となった模様。また、それに伴い渡橋料については通常どおりの料金100円になったのだと。橋の上流側から。ギネスに認定された全長約897.4mの橋。橋の長さが「やくなし=厄無し」の語呂合わせで縁起のいい橋とされているのだと。ひたすら真っ直ぐに。しかし手摺の高さは50cm程度。ズームで。大井川の上流側。橋を歩いて行ったが強風で、橋も何か揺れているようだったので「やくなし=厄無し」を願って、早々に引き返したのであった。橋の左側にあるのが『蓬莱橋897.4茶屋(やくなしちゃや)』堤防の階段を降りて『蓬莱橋』👈リンク を見上げる。江戸時代、大井川は東海道最大の難所として知られていたが、幕府がある江戸防衛の目的から架橋や渡船は許されておらず、川を渡るためには川越人足に頼るしかなかった。 その大井川に、旧幕臣が茶畑として開拓した牧之原台地と、東海道の島田宿を結ぶために、1879年(明治12年)に架けられたのがこの『蓬莱橋』である。『蓬莱橋897.4茶屋(やくなしちゃや)』内にあった『頼朝公大井川行列』一英齋芳艶 文久3年(1863)。当時、徳川将軍を対象として直接描くことは禁止されており、浮世絵では出版統制に引っかからないように徳川将軍家茂を源頼朝に仮託して表現した。上記の浮世絵は、武家の頭領らしく勇壮な渡河風景である。上流には流れを緩やかにするため人壁を並べ、下流には流れを緩やかにするため布幕を巡らしている。もちろん、この風景は想像であるが権威を表す勇壮な渡河風景である。茶屋でアイスクリームを楽しむ。我が家の近傍にある『横浜薬科大学』との共同開発の抹茶アイスであると。台風24号の大水により、中央よりやや右岸方向の場所の橋脚が損傷した様子を報道した新聞。大井川沿いの観光案内図。そして『蓬莱橋』を後にし、再び旧東海道に向かって歩く。島田市に汚水マンホールの蓋。「大井川蓮台越」デザイン。江戸時代の東海道の難所であり、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠まれた大井川の川越の様子がデザインされていた。この近くに『島田歴史的長屋群』があるとのネット情報であったが、この写真の建物がそうであったのだろうか?。芝桜に似た花。ペットハウス前にあった『江戸時代の島田宿』説明板。「一、島田宿の成立 慶長六年(一六〇一) 徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。 慶長九年(一六〇四)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、 北の「元島田」で仮に継立てを行なった。 元和元年(一六一五) 元の島田宿に戻り復興した。 一、位置 江戸へ 五二里二町四五間(約二〇四km) 藤枝宿へ 二里八町(約八・七km) 金谷宿ヘ 一里(約三・九km) 一、宿内往還(道悦島村境より大井川堤まで)の長さ三四町五三間(約三・八km) 道幅四間(七m二十四cm 向かいの車道に鋲で表示してあります) 一、宿内家並東西長さ 九町四〇間(約一・一km) 一、宿内入口(天保十四年・一八四三年) 六七二七人 内男 三四〇〇人 女三三二七人(当時の静岡県内では、府中に次いで 人口が多かった) 一、宿内総家数(天保十四年・一八四三年) 一四六一軒 一、宿泊施設 本陣 三軒 上本陣 村松九郎次家(三丁目) 中本陣 大久保新右衛門家 (三丁目) 下本陣 置塩藤四郎家(四丁目) 脇本陣 なし 旅籠屋 四八軒(大六軒・中七軒・小三五軒) 一、問屋場 一ヶ所(五丁目) 宿建て人馬人足一三六人・馬一〇〇疋 一、高札場 一ヶ所(西入口北側・大井神社南鳥居横) 一、郷倉 一ヶ所(五丁目南裏) 『東海道宿村大概帳』より 」更に旧東海道・県道34号線を進む。『東海道島田宿一里塚阯』碑。『島田宿 一里塚』「慶長9年(1604年)徳川家康は東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。塚は五間四方(直径約9m)上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。島田宿一里塚は天和年間(1681~1684年)に描かれた最古の東海道絵図の中で江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅五間二尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています」その先左側、本通りの「佐の幸茶」という店ににあったのが『甘露の井戸水』。「昭和の初め頃に甘露亭という料亭があり。 ここの掘り抜きの井戸の水は美味で料理・洗い水・風呂、全般に使っていた。 水源は南アルプスの雪解け水が地下へ浸み込み約百年をかけて湧き出る大井川の伏流水。 永年枯れることがなく、現在はお茶の冷蔵庫の冷却水として使用している。 一部をツクバイへ流して東海道の旅人に提供。 佐の幸茶店」『佐の幸茶店』店の横にあった『金運上昇』像。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.10
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我が庭の花々です。白と紫のアイリス。ズームで。スズラン。鈴のような可愛らしい花姿で、ひっそりと咲くスズラン。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次『東海道藤枝宿』。「藤枝宿は、東海道五十三次の22番目の宿場。現在の静岡県藤枝市の山沿い、本町および大手にかけての一帯。歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として、また塩の産地であった相良に至る田沼街道への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた。 明治に入り東海道本線が建設される際、当初は宇津ノ谷峠 - 藤枝宿 - 島田宿というルートとなる予定であったが、地形が険しい上に遠回りになることから大崩海岸 - 藤枝宿 - 島田宿へと変更され、最終的には大崩 - 焼津 - 島田宿がルートとして選ばれることになった。このため、1889年に開業した藤枝駅は宿場町から3キロほど離れた位置に設けられたのだ」と。芝桜も美しく。『育生舎跡(いくせいしゃあと)』。明治7年4月14日、上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門請新田村の五ヶ村が聠合し、上青島村一番地(庄屋小沢家の所有地)に公立小学校を創設、育生舎と名づけ開校。『明治初年の学校 育生舎 』「明治五年八月二日 学制発布 同七・四・十四 上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門 請新田村の五ヶ村が聠合し、上青島村一番地(庄屋小沢家の所有地) に公立小学校を創設、育生舎と名づけ開校 同十四年・四・二十二 上青島村字松原一四一番地に校舎を新築移転 同十九・三・一 尋常小学、青島学校と改称 同二十三・五・二 村制施行により、下青島字広島に創立された青島尋常小学校に 合併移行す。青島地区には前島(現小石川町)に博習舎、 志太に為善館がありました」JR東海道線に近い旧東海道・青島焼津街道を進む。ここは静岡県藤枝市上青島149−14手前。『田中藩領牓示石碑』「江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたため、藩境に境界を示す牓示石を立てた。田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向鉄太郎の所領となっている。この牓示石は一丈余(約三M)の石柱で、「従是(これより)東田中領」と書いてあった。これと対になるのは田中藩領細島村の西端と考えられる。市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった」道路脇には、ピンクのレンゲの花も。松並木の名残が旧東海道両脇に。白い壁には『喜久醉(きくよい)』の文字が。青島商店の壁にも。藤枝市の人気の日本酒とのこと。青島酒造の工場が右手に。創業 明治元年(1868年)の老舗の酒屋。喜久醉の樽が積まれていた。更に進むと前方に橋が。旧東海道・県道222号線の『東光寺谷川』に架かる『瀬戸橋』を渡る。川を渡ると右手の開花を始めた桜の木の下に祠が。『鞘堂』。その横に『御小休所阯』と刻まれた石碑が。石碑の裏には『明治天皇、昭和九年四月 青島町長 青島鋼太郎』の文字が。更に松並木の残る旧東海道を進む。『静岡金型前(一里山)』のバス停。左手に道標が。夢舞台東海道道標『上青島の一里塚跡』。島田宿境まで29町、3.2kmと。『東海道(上青島)一里塚阯』。日本橋から51番目。この付近には松並木が保存されて。『旧東海道の松並木と上青島一里塚』「昭和32年当時の松並木現在も残る松並木ですが、昭和30年代には江戸時代の街道を偲ばせる風景がよく残されていました。当時は、道路沿いの両側に松並木があり、土手の上に生えていました。発掘された一里塚昭和57年に発掘調査され、塚のかたちを表す円形の石積みがみつかりました。上青島の一里塚は江戸から51里(約200㎞)の地点にありました。市内にはほかに岡部(川原町)、鬼島、志太に一里塚がありました。」少しばかり土盛りされた(削られてしまった?)土手に生えている松並木。そして藤枝市から別れて島田市に入ります。日本橋から205.7km、以前はこの道路が国道1号線であったようだ。現在は藤枝バイパスが国道1号線。この道路は県道381号線。『平成31年2月17日 スーパーボランティア 尾畠氏通過』とその時の写真も添えて紹介されていた。この後、東京から自宅のある大分まで約1100キロを徒歩で帰宅中だったが2月23日に浜松市内で断念し、大分の自宅に帰宅していたことを26日、フジテレビ系「プライムニュース イブニング」が報じたのであった。道悦島東(どうえつじまひがし)交差点を進む。島田市道悦5丁目1−14にある『島田警察署 六合交番』前を通過。『JR六合駅』手前の『島田市道悦交差点』を通過。左手に『JR 六合駅』が見えた。1986年(昭和61年)4月26日 - 国鉄東海道本線の藤枝 - 島田間に新設開業した駅。1960年11月21日、当駅付近で当時の狭軌世界最高速度である175km/hを記録した事を記念したクモヤ93最高速記念碑が駅構内にあった。(5月22日に再度立ち寄り撮影)前方を左側に分岐するのが旧東海道であると。右側の狭い緑地帯にあったのが、『道悦島』道標。右手には大きな竹林の山が拡がっていた。後1ヶ月も経たないうちに旬のタケノコが・・・と思ったのであった。珍しい?『昭和天皇御巡察之處』の石碑を発見。今回の「旧東海道を歩く」で明治天皇は数あれど昭和天皇は初めて見た?のでは。そして『大津谷川(おおつやがわ)』に架かる『栃山橋』を渡る。『大津谷川』。 島田市と隣接する藤枝市との市境付近で大井川の流れに合流している大津谷川。左手に見えたのが東海道線の鉄橋。『栃山土橋』と書かれた真新しい案内板。「大津谷川と伊太谷川が、この橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。 享和(きょうわ)三年(一八〇三年)に書かれた「島田宿書上控(しまだじゅくかきあげひかえ)」によると、江戸時代の「栃山橋」は土橋で、長さ一七間(三六・六米)、横幅三間(五・四米)、橋杭は三本立て七組で支えていました。土橋とは、板橋の上に柴(木の枝)を敷き、その上に土を貼ったものでした。この橋の東端が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていました。 」歩道橋の下に小さな水路が。『監物川と監物橋』の真新しい案内板。「寛永十二(一六三五)年、島田宿は田中藩の預所(あずかりしょ)となり、田中城主であった水野監物忠善(みずのけんもつただよし)の支配下に入りました。志太郡一帯を支配することになった監物は、水不足に悩む栃山川以東の村々のために、灌漑用の水路を作ることを計画しました。そして島田宿の南(横井)に水門を設けて大井川の水を取り込み、そこから栃山川まで水路を開削して大井川の水を引き入れました。感謝した農民たちは、その名前を後世に残そうと、この水路を「監物川」と呼び、東海道に架けた幅三間、長さ二間の短い土橋を「監物橋」と呼んだものと思われます。」『御仮屋交差点』で旧東海道は県道381号線を離れて左に分岐。県道381号線沿いには『島田 蓬莱座』の看板が。2013年3月にオープンした大衆演劇専門の劇場とのこと。静岡県下初の大衆演劇専用劇場として開業した『島田蓬莱座』の2号店。1ヶ月ごとに劇団が入れ替わり昼夜2公演無休にて営業しており、日々の演目内容も日替わりとなっていると。3月公演では、劇団松丸家による涙と笑いの芝居「豪華絢爛歌舞ショー」が開演されているようであった。 その1 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.09
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我が家の庭の花も次々に変わって来ています。黄色のシャクヤク(芍薬)。澄んだ黄色が美しく。そして赤のシャクヤク(芍薬)。これぞ真紅。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は3月27日(水)、この日は『青春18きっぷ』の3回目の利用で旧東海道を歩く(藤枝~金谷)に行って来ました。地元の私鉄駅をいつもの5:48発に乗りこの日のスタート。藤沢、三島、静岡で乗り換えてJR藤枝駅に向かう。途中、静岡県内に入り車窓から好天の富士山を楽しみながら進む。定刻の時間にJR藤枝駅に到着し、北口からこの日の旧東海道歩きのスタート。時間は8:53前。北口広場には『青地雄太郎像』が。藤枝駅開設はもちろん、飯山線前身の飯山鉄道敷設にも貢献した人物であると。JR藤枝駅を振り返る。この日のコースを赤の線で。大井川近くまではひたすら東海道線に沿って歩いたのであった。そして、最初に藤枝名物の『瀬戸の染飯』を買いにJR藤枝駅に近い旧東海道に向かう途中にある『喜久屋』を訪ねる。旅友からこの日の昼食用に買って行こうと。『瀬戸の染飯』とは、この藤枝地域で、昔から糯米を蒸した強飯(こわいい)を梔子(くちなし)の実で黄色く染めた染飯でおにぎりのようにしたもの。しかしこの日は水曜日で残念ながら休店していたのであった。『喜久屋』から50m程の左側にあったのが『駅前神社』。『駅前神社』とは名前が安易であるが、どのような由来の神社なのであろうか?商店街の組合が造った神社なのかも。そして民家の庭の桜も開花。旧東海道に合流する細い道沿いに在った『秋葉神社』。静岡県内にはこのクラスの小さな『秋葉神社』が多数あったのだ。旧東海道に入り西に進む。前方には松並木も。左手にあったのが『六地蔵堂』。鐘ヶ池に棲んで旅人を悩ませていた龍を、鬼岩寺二世静照上人が修法により退治した。その際に鏡池堂が建てられ、智証大師作の六地蔵を祀ったといわれている。現在の堂は、昭和33年に昔の形を残して改築したもの。『六地蔵堂の由来』が小さな字で詳細に。自分の事はさて置き、もう少し簡潔に纏めてほしいのであったが・・・・。「この六地蔵尊は歴史的にも古く、東海道筋の霊験あらたかな由緒ある霊場としてよく知られており、人々の帰依も篤く尊ばれており、駿河国二十四番札所第九番の霊地に指定されております。 六地蔵尊は、このお堂の近くに神龍が棲んでいたと伝えられる鏡ヶ池から出現し、庶民の安穏祈願のため、玄昌行者の手によって今から八百年余りも前の承安三年(西暦1171年)に玄昌庵と称する祠で、鏡ヶ池の畔に祀られたといわれております。 それから五百年もの時が過ぎ、この地を治めていた大草太郎左衛門夫婦に世継ぎの子がなく、六地蔵尊に祈願を重ねたところ念願がかない、男子が授かったので大変喜んで、正徳三年(1713年)この地に茅葺の堂宇を建築し寄付したといいます。鏡ヶ池の縁故もあるので、このお堂を「鏡池堂六地蔵尊」と名づけて、池の端の玄昌庵から六地蔵尊をこのお堂に移して泰安しました。駿河風土記によると、本尊は知証大師の作で、木仏地蔵の丈は六寸(18cm)の金色に彩色したものと記されております。 六地蔵尊のご利益は、「災難消除」「延命長寿」「家内安全」交通安全」等で、近郷近在からの参拝者は絶えることがなく、東海道に面していることから、著名な旅人が数多く祈願されたとも伝えられております。お堂の額の「鏡池堂」の文字は、儒学の大家渡辺崋山がこの地を行脚したときに揮毫したものです。 現在のお堂は、昔の形を遺しながら、昭和三十三年に全面改築したものです。 六地蔵尊の縁日は、毎年八月二十三、四日に行われており、夜店が並び、余興もあって、楽しく賑やかな場となっております。 本尊は、お開帳の時以外は厨子を一切開扉しないこととされており、お開帳は何年に一度という明確な定めが見当たらないので、昭和五十八年の由緒書きに記されている「三十三年毎」に行うことを次回に申し継いで行きます。 これらの由来を今の時代の人たちにもよく知ってもらい、永く保存顕彰し、後世に伝え遺して頂くことを願っております。 」その先の合流地点にも石仏碑が。六地蔵?が刻まれた交通安全碑であるようだ。こちらの石碑には『川中島 八兵衛之碑』と刻まれていた。この地域では、」八兵衛さんは疫病や水害を除けてくれる存在と信じられているのだと。村とか町内会程度のご近所同士の集団で祀っている場合が多く、祀る方法としては八兵衛碑と呼ばれる石碑をそれぞれの地元に建てるのが一般的なやり方なのだと。その先、右手にあったのが『古東海道蹟』。「昭和三十年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾(すそ)に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年源頼朝上洛(じょうらく)の帰路(きろ)が初めてであるといわれる。 」更に50m程の左手には『東海道追分』が。「こゝには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。 瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。 当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太(りゅうたい)寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分れる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。」更に旧東海道(県道222号線)を進む。前方両側に、短いが松並木が。これらの松の樹齢は?民間の会社が『松枯れ防止剤の樹幹注入』をした後の管理用Tagのようであった。この後に訪ねた『千貫堤・瀬戸染飯伝承館』の真っ赤な案内ボードが。右手の一段高い場所にあった『延命地蔵堂』。瀬戸山が東名高速道路建設のために削られ、南側中腹にあった地蔵堂がこの場所に移築されたのだと。祠の中の可愛らしい地蔵様。祠の隣には『瀬戸古墳群供養塔』の文字が。奥には庚申塔や墓石群も。『市指定文化財 瀬戸の染飯版木』と書かれた石柱が左手に。『版木』とは何を意味するのか、上の写真を撮った時から不明であったが、ネットで調べてみると、藤枝宿の西、瀬戸町(現在の藤枝市瀬戸、上青島付近)の立場(旅人の休憩場所)の茶店の名物であった『瀬戸の染飯』を現代風にアレンジし、復活させたのが、先程訪ねたJR東海 藤枝駅前の「喜久屋」さん。竹の皮で包んだパッケージは下記の写真の左。包み紙には「名物 瀬戸御染飯」の文字。そして、現在もその版木が残り、市有形文化財になっているのだと。 【https://ippin.gnavi.co.jp/article-10198/】こちらは『千貫堤』の碑。「慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。寛永十二(一六三五)年田中城主となった水野監物忠善(けんもつただよし)は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約三百六十米のわたり、高さ三・六米、巾二十九米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。昭和四十年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取りのぞかれ、現在は石野家の南側に約四十Mの堤がそんままの姿で残っている。」千貫堤の絵地図もこの案内板には。『千貫堤・瀬戸染飯伝承館』に到着。時間は9:32であった。実は開館はこの時期は10時からであったが、たまたま係のボランティアの方が出て来られ、鍵を開けて案内して下さったのであった。伝承館の暖簾は何故か藍染。ボランティアの方に、クチナシで染めた暖簾が良いのではと余計なお世話を。館内の様子。これが食べたかった『瀬戸の染飯』。『染飯を入れた包紙』。乾燥したクチナシの実は漢方薬として知られていて、消炎・解熱・鎮痛・利尿などの様々な薬効があり、旅人にとって足腰の疲れをとる食べ物として評判が広がり、東海道中を行きかう人々にはなくてはならない名物になったとのこと。そして『市指定文化財 史跡「千貫堤」』。千貫堤は、①瀬戸山~八幡山を結ぶ全長270m、②藤五郎山と本宮山を結ぶ全長150m、③本宮山と八幡山を結ぶ全長110mで構成されていましたが、明治以降、東海道線の敷設や田畑開墾、戦後の宅地化で大部分が消滅し、伝承館が立つ約65m幅30mの部分のみ残っています。瀬戸山と藤五郎山はすっぽり削られ、東名高速道路の建設現場で主にのり面に使われたそうです。昭和四十年代の土地開発によって壊される前の千貫堤の写真が展示されていた。昭和35(1960)年11月21日、東海道本線の島田~藤枝間の上り線で、狭軌の線路としては当時の世界最高時速175キロを達成したのだと。その事に関連して様々な規格のレール等の展示もされていた。昔の千貫堤の姿。瀬戸山~八幡山~本宮山を繋ぐ『千貫堤』。伝承館の裏には残されている『千貫堤』の姿が。『千貫堤・瀬戸染飯伝承館』は『千貫堤』の上に建っているのであった。『街道名物 瀬戸の染飯』の幟。こちらは「クチナシ」で染めたものであろうか? ・・・つづく・・・
2019.05.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大慶寺から300m先、右手奥に『正定寺』山門が。藤枝市指定天然記念物『本願のマツ』があると。「昭和61年10月6日指定 所在地 藤枝市藤枝2丁目699 所有者(管理者) 正定寺 正定寺境内の本堂前にあるクロマツで、傘形に枝張りした美しい姿に整えられています。この場所は江戸時代の東海道「藤枝宿」の宿場町の西木戸口(にしきどぐち)近くにあたり、古図などに描かれています。マツは享保15年(1730年)に田中藩主であった土岐丹後守頼稔(ときたんごのかみよりとし)が大阪城代となった時に寄進されてものであるという由来が伝わっています。 根廻 約3m 目通 約3m 樹高 6.3m 枝張 東西11.5m 南北 14m (データは指定時の数値)」『山門』。境内の『弁天わらべ地蔵』。ズームで。動物のように見えるが『わらべ』。正定寺の『本願の松』、別名『延命の松』。『本願の松』。「藤枝市指定天然記念物 江戸時代の享保十五年(1730)に田中城主土岐丹後守頼稔が大阪城代に登用されたとき(1730年・享保15)、報恩感謝に植えたと伝えられている。丹後守は境内の弁天堂に祭られている弁財天の信仰が篤く、大阪城代に登用されるに当り報恩謝徳のために植えたといわれ、別名を延命の松という。弁天堂は老朽のため明治四十五年に解体され、昭和四十七年に再建された。目 通 3m樹 高 6.3m枝張東西 11.5m 南北 14m」傘形に枝張りした美しい姿。この辺りが西木戸跡であると。見事な枝振りそして手入れ。『本堂』。浄土宗 鎮西派 智恩院末 本尊は阿弥陀如来大徳山 称名院 正定寺(だいとくざん しょうみょういん しょうじょうじ)浄土宗正志寺は寛正3年(1462)、鎌倉光明寺の僧であった信蓮社貞誉によって開創された。法然上人によって広まった弥陀信仰の拠点としてこの地域の人々が集まり、往時は専修院、正明院という塔頭寺院を有していたという。天正年間(1573~1591)火災に遭ったが、10世生誉によって再建された。『六道能化(ろくどうのうけ)の地蔵尊(じぞうそん)』。衆生が生まれながらに備わった生活活動によって生死を繰り返す、迷いや苦しみの世界を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)というが、それぞれの道に在って難儀する者を教化し救済する意で、「六地蔵尊」と呼ばれ、六対並んで建立されるのも常である。左から『地獄能化』、『餓鬼能化』。『弁天堂』そして瀬戸川に架かる勝草橋(かちくさばし)を渡る。瀬戸川は静岡県焼津市・藤枝市を流れる本流の二級河川。2003年に一里塚と勝草橋公園の整備とともに架け替えが行われたと。瀬戸川の上流側。「竪絵東海道」と「行書東海道」「隷書東海道」には、この瀬戸川が描かれているのだ。藤枝宿は葉梨川を渡った東木戸口から始まり、約2キロメートルに渡る細長い宿場町で、瀬戸川は西端にあたる西木戸口に位置していたことになる。 『歌川広重 五十三次名所図会(竪絵東海道)』の『瀬戸川 かち渡り』島田へ二里九丁。かち渡り【徒渡り】とは歩いて川を渡ること。『行書東海道 歌川広重 = 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 = 《 藤枝 》』「口なしの 色をばよそに かしましく あきなふ妹いもが 瀬戸の染飯 清室真寿実」・「瀬戸の染飯そめいい」は、藤枝の名物で、「梔子くちなし」の実で 山吹色に染めた強飯こわめし。・「口なし」は、物静かという意味と、染飯に使う「梔子」に掛け、物静かどころか 染飯の商いの声がかしましいと詠う。『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 廿三 五十三次 藤枝」「思い思いの方法で雨をしのぐ人々の姿が印象的で、”雨の画家”広重の力量に感心させられる作品」と。隣の橋は『ふれあい大橋』。橋を渡り終わると『国指定史跡 志太郡衛跡(しだぐんがあと)』と書かれた案内板が。奈良・平安時代の駿河国志太郡の郡衙跡で、古代官衙の姿を鮮明に残した貴重な国指定史跡。この日は『国指定史跡 志太郡衛跡👈リンク』を訪ねることが出来なかったが、後日訪ねブログアップしていますのでリンクにアクセス下さい。旧東海道『志太一里塚』。「奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。 主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。 徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。 志太一里塚は江戸から約二〇〇KMで五〇里目に当り、瀬戸川堤から西へ約五〇M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の西側にあった。 藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。」隣には秋葉神社の常夜燈も。『為善館跡』と刻まれた石碑。「明治5年(1872年)、日本で最初の近代的な教育法令である学制が公布されました。これを受けて、志太地区では明治6年から小学校が各地に創設され始めました。その多くは地元有力者など地域の有志によって設けられたもので、授業は有料でした。こうした最初期の小学校を、為善館跡の説明看板では「寺子屋の学校化したようなもの」と表現しています。為善館は、このような最初期の小学校の内の一つです。明治6年(1873年)5月、志太村・南新屋村・瀬古村・水上村と稲川村の一部が連合し、志太郡志太村家地太(かじた)に創設。この時すでに廃寺となっていた攝取院の堂宇を校舎として利用しました。現在碑の北側にある八百屋・本陣の裏あたりが校地だったとされています。学区は創設に関わった5ヶ村で、明治7年(1874年)の生徒数は男子100名・女子27名、教員3名、授業料は1月につき6銭2厘でした。」更に旧東海道をJR藤枝駅に向けて進む。『志太郡衛跡(しだぐんがあと)』の案内板。しかし、この日はパス。前方に松並木の1本が斜めに張り出し道路に飛び出して。旅友は頭に当たらぬようにと道路側に。注意喚起の黒?と黄色の麻布製のストライプが施されていた。瀬戸川に流れ込む青木川に架かる橋を渡る。橋の名は『稲川橋』。『岡野繁蔵出生地』碑。「岡野繁蔵(一八九四~一九七五) 裸一貫から南洋のデパート王」となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれました。 青島小学校、育英学校に学び、21才でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨貿易商とし成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが太平洋戦争でやむなく日本に引きあげました。 戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土の為に貢献されたが、昭和50年、81才の生涯を閉じました。石標に刻まれた「希望に起き、感謝に眠れ」こそ繁蔵の尊い信条でした。」青木川に合流する川を渡る。こちらの橋の名は「青木橋」。青木交差点の4差路は、ライトの点灯したトラックが来る正面真ん中が旧東海道。しかし我々は左側のJR藤枝駅方面の道に進む。ホテルルートイン藤枝駅北が前方右側に現れる。藤枝MYFC(ふじえだマイエフシー、Fujieda MYFC)のプレートが歩道上に。そして正面にJR藤枝駅が。ズームで。JR藤枝駅構内には『サッカーと時刻を刻む。蹴球都市』の『タグライン』が。『タグライン』とは団体や企業などが持つ強い思いを、分かりやすく伝えるキャッチコピーのことであると。「藤枝市に生まれ、育ち、さまざまなことを身に付けていく暮らしの中には、いつもサッカーがそばにあった。サッカーの事始めから約90年、市民の生活にはサッカーが染み込み、今では市民の価値観の根幹をなしている。藤枝市は、過去から現在に至るまで、サッカーとともに時間(とき)を刻み、今後も未来に向けてサッカーとともに時間(とき)を刻み続けていく。」と。JR線改札口。17:29の熱海行きで帰路へ。この日の歩数は39,138歩。この日も二人共頑張りました。 その9 に戻る。 ・・・完・・・
2019.05.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次右手に夢舞台東海道道標『藤枝宿』、そしてその横が『蓮正寺(れんしょうじ)』入口。『蓮正寺』は真宗大谷派の寺院。山号は熊谷山。本尊は阿弥陀如来。この寺は、1195年(建久6年)蓮正(=熊谷直実、1141年~1208年)が開山となって創建されたと伝えられる。1730年(享保15年)駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となっている。夢舞台東海道道標『藤枝宿 長楽寺町』。『熊谷山 蓮生寺』の『山門』。山門は文化8年(1811)に当時の田中藩5代藩主本多正意が造営したもので切妻、本瓦葺、正面軒唐破風、一間一戸、四脚門。市指定文化財 天然記念物 『蓮生寺のイブキ』の木が境内にあると。「蓮生寺のイブキ」は推定樹齢700年、明治36年(1902)の火災で一部焼失したがその後は回復、樹高6.8m、幹周1.55m、枝張東西7m、南北7m、昭和32年(1957)に藤枝市指定天然記念物に指定。『本堂』。熊谷山蓮生寺の創建は建久6年(1195)、蓮生房(熊谷直実:熊谷直貞の次男)が開山したのが始まりと伝えられています。熊谷直実は平家追討で多くの武功を挙げ源頼朝から日本一の強者と賞賛された人物でしたが、文治3年(1187)の鎌倉鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の的立の役で直実が拒否した事で減封となり、さらに領地争いで叔父に敗れた事で出家、後年法然上人の弟子となり蓮正と名を改めています。貞永2年(1233)、親鸞上人(浄土真宗開祖)が京都に戻る際、蓮生寺に立ち寄り、当時の住職蓮因が感化され弟子になると「十字尊号黒谷秘伝抄」を賜り浄土真宗に改宗しました。さらに第9世生岸は蓮如上人から親鸞聖人の木像を拝領しています。享保15年(1730)、本多家が沼田藩から田中藩4万石で入封すると享保16年(1731)に初代藩主となった本多正矩が菩提寺と定め、以来歴代藩主(正矩・正珍・正供・正温・正意・正寛・正訥)から庇護され寺運も隆盛しました。『親鸞聖人像』。本堂前の桜も咲きだして。『鐘楼』。『本堂鬼瓦』「蓮生寺本堂は明治37年の藤枝大火により焼失後、大正2年に再建され、平成15年に屋根瓦と白壁が全面改修されました。この鬼瓦は本堂屋根に飾られていたものです。」これが『蓮生寺のイブキ』。イブキ(伊吹)は、ヒノキ科ビャクシン属の常緑高木。 別名ビャクシン(柏槇)。ウィキペディアによると「果物のナシ(梨)に発生する病害、赤星病の病原菌の宿主になり、イブキの木が1.5km以内にある梨園ではほぼ必ず被害が発生する。このため梨生産者が周辺住民に対し、庭木として植えられているイブキを消毒させてもらえるよう依頼して回ることもある。また、条例でイブキの植栽を規制する自治体もある」のだと。根廻:1.65m 樹高:6.8m 樹齢:約700年。そして次に近くにある『蓮華寺池公園』を訪ねた。蓮華寺池は公園の中心にある、公園のランドマーク。元は1613年(慶長18年)に作られた灌漑用のため池であった。コイ、ヘラブナ、ブルーギル、ライギョ、ミドリガメなどが生息。この池に沿ってオレンジ色の散策路が一周しているのであった。公園北部の山肌にある、ローラー式の滑り台。3本の滑り台が設置されていて、赤い滑り台がおよそ30m、青がおよそ50mで、もっとも長い黄色い滑り台は80mに達する。青がいちばん急である。子供たちに大人気で、休日には子供の行列ができることもあると。しばしベンチに座り蓮華寺池を眺めながら、旅友から頂いたバナナを楽しむ。そして裏道を旧東海道の千歳交差点に向かうと、右手にあったのが『旧藤枝製茶貿易会社の社屋』。地域の方々は「とんがり屋根」と呼ばれているのだと。明治34年に建てられた木造3階建て約5.45m×9.09m(間口3間×奥行き5間)。現在は使われていないのだと。当時はお茶業の事務所として使われていたのだと。歩道には『大慶寺(だいけいじ)』の『本堂』と『久遠の松』が描かれたプレートが埋め込まれていた。『大慶寺』境内への道。大慶寺の境内には巨大な松の樹・『久遠の松』が。手前の大宝塔の中には開基檀越の道円・妙円墓碑(准宗宝)が安置されていると。近づいて。それにしても巨大そして美しい姿の老松。「日本の名松100選」に選ばれている。静岡県からは大慶寺の久遠の松、三保の松原、沼津の千本松原が選ばれているが、1本の松だけで選ばれたのは久遠の松だけであるとのこと。『久遠のマツ』「昭和30年2月25日指定 所在地 静岡県藤枝市藤枝4丁目2番7号 所有者 大 慶 寺 管理者 同 上 説 明 クロマツの大樹で、県下でも有数の樹勢を誇る美しい 姿で、古くから 「久遠のマツ」と呼ばれています。 樹高 25.0m 根廻 7.0m 目通 4.5m 枝張 東西 28.0m 南北 28.4m 推定樹齢 約700年 由 来 寺の縁起によると、鎌倉時代、日蓮聖人は京都比叡山 に学びに出掛けるとき この地に立ち寄り、12年後に帰郷 する際に再び訪れました。 法華経に教化された老夫婦が 別れを惜しんで願い出たところ、日蓮聖人が 1本のマツ を植えていったと伝えています。「久遠」とは法華経の経 文のなかに みえる言葉です。」 仏教が遠い昔から受け継がれ、また未来永劫に栄えることを言い、 このクロマツの大樹が象徴しているのだと。見事な『鐘楼』も。一階がスカートの裾を広げたような板張りの形『袴腰(はかまごし)』になっていた。袴腰鐘楼は二層吹放し鐘楼の一層目を末広がりとして、腰板を横に張り桟をつけた形が袴に似ていることから袴腰と称した。二層目には床板を張り梵鐘の真下の床には音響効果を高めるために床を四角に切り取り、その上に格子をはめ込む場合もある。『円妙山 大慶寺の由来』■日蓮聖人京都遊学往復お立寄りの霊跡 今を去る七百余年前、鎌倉時代建長五年(1253)初春、日蓮聖人が京都比叡山へ遊学の折、 往復お立ち寄りになって、道園・妙園の両夫婦を説法教化され、題目の本尊と毘沙門天王を 授興され、記念に一本の松をお手植えされました。この松は「久遠の松」と命名されました。 道園・妙園の名は、聖人より授けられた法号で、後年、両夫妻は自宅に法華堂を建立して、 当山の基を開きました。両夫婦の墓碑は鎌倉時代の作で、大宝塔の下部に安置されています。 圓妙山の山号は、道園・妙園両夫婦の法号よりとり、大慶寺は、法華経流布の大慶にちなんで 寺号としました。 当山は、東海道有数の日蓮上人直接お立寄りの霊跡であります。現在の本堂は、間口、 奥行十間(18m)四面で昭和二年完成したものです。 当山は徳川期より明治前迄は、「さむらい寺」と称せられ、田中城主(四万石)姫君病気平癒の 功により祈願寺とされました。境内には田中城主 大田摂津守、田中藩姫君、同藩漢学者 石井縄斎先生(日知館創立者)、国学者 熊沢惟興先生を初め、家老高瀬重富氏等の墓石並に 大塚亀石・荷渓・翠崖等地方文化人の墓石があります。」『本堂』「大慶寺は、静岡県藤枝市藤枝四丁目にある日蓮宗の寺院。山号は円妙山。旧本山は静岡感応寺、脱師法縁。日蓮御手植と伝わる久遠の松(静岡県指定天然記念物)や、太田資直(田中城の城主)、本多正供の姫、本多正珍の側室、石井縄斎(漢学者)、熊沢惟与(国学者)等の墓がある。扁額は山号の『圓妙山』。建長5年(1253年)、是聖房蓮長(後の日蓮)が比叡山延暦寺への遊学に際して藤枝の地を訪れた際、茶屋を営んでいた道円・妙円夫妻は蓮長の説法に教化され、後に自宅裏に持仏堂として建立した法華堂が起源という。天文5年(1536年)、大円院日遵がこの法華堂で布教して伽藍を建立し中興した。その後田中城の祈願所となり栄えた。天和3年(1683年)と宝永5年(1708年)にそれぞれ火災の類焼により焼失した。天明6年(1786年)、相良藩の藩主で江戸幕府の老中だった田沼意次が失脚すると相良城が廃城になり、天明8年(1788年)に相良城の御殿を購入・移築し庫裏とした。文久年間(1861年 - 1864年)、江戸幕府第14代将軍の徳川家茂が上洛に際して訪れ、病気平癒の祈願を行なった」 と。本堂内の燈明も美しかった。田中城主他田中藩士の墓碑。田中城祈願寺であり城主をつとめた太田摂津守資直公逝去の折、当寺へ納牌、菩提寺と定め、田中城最後の城主本多氏の頃には家老の大半が檀家で「さむらい寺」と呼ばれたと。中央の宝塔を中心にコの字型に田中藩ゆかりの人々の墓石が並んでいた。『久遠の松』を再び。寺務所。若い住職から御朱印を頂きました。そして住職としばしの歓談。我が実家の檀家寺の若き新住職をご存知である様子。同じ日蓮宗の寺であり、身延山久遠寺の研修会?で話をしたことがあると。三光天子(日天子、月天子、明星天子)を祀る三光堂への山門が出口に向かって左手に。『三光堂』。再び藤枝宿の旧東海道に戻る。『東海道藤枝宿』、この場所は藤枝市藤枝3丁目2−25。『藤枝宿絵図』がここにも。店は開いているが、お客が通らない!!。夢舞台東海道道標『藤枝宿 上伝馬町』。右手にあったのが『神明神社』。『今拝稲荷大神』と書かれた赤い幟が参道両側に。紅い鳥居の脇に『 仕掛人 藤枝梅安(しかけにん ふじえだばいあん) 生誕地 』 という 立て札が 。池波正太郎の娯楽時代小説シリーズ『仕掛人・藤枝梅安』の主人公。再び旧東海道に戻りすすむと、歩道に埋め込まれていた『下本陣跡』タイル。『上本陣跡』。店のシャッターには『東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立 / 歌川 広重』。藤枝宿にある問屋場での役人や人夫の様子が描かれている。駅伝の荷駄の引き継ぎをするところで、荷物を計算し、運送の斡旋をしている。働く人々の活気が伝わってくる。『問屋場跡』。 その8 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『水守』交差点を左折し、県道381号線を進む。200m程進んで県道381号線を右折し直ぐに左折し旧東海道を更に進む。天理教会の先右側の歩道に『東海道藤枝宿東木戸跡』の木柱があり、側面には「領主番所跡」と書かれていた。しかし「東海道藤枝宿東木戸跡」文字は道路側に。「東木戸跡」のすぐ先、300m程進むと右手にあったのが『藤枝成田山新護寺』。本町4丁目にあり、県下唯一の成田山。入口を境内に入ると左右に大きな金剛力士像が迎えてれた。向かって右側に阿形像。左側に吽形像。本堂。住 所:静岡県藤枝市本町4丁目5-24名 称:藤枝成田山宗 派:真言宗本 尊:大日大聖不動明王特 記:大本山成田山新勝寺(千葉県)の直末寺院千葉県の成田山新勝寺で修行された法憧が不動明王を本尊として「成田山新護寺」を開山。『開山 法憧法師像』。『開山 法憧法師像』略傅。全て漢字で理解できません。『おたすけ観音』。『ボケ除の像』お二人の頭とカボチャを『必死!!』にシツコイくらいに撫でて来ました。『水かけ不動尊』。『日限地蔵尊』。『南無釈迦如来像』。『南無水子地蔵尊』。『十二支守本尊』⬅リンク。生まれ年の干支によって定められているお守りご本尊。 私は寅年、虚空蔵菩薩。角度を変えて。『布袋尊』。いつもお会いしお腹を見る度に、他人とは思えない布袋様。『弘法大師修行像』。『南無大聖不動明王』。こちらにも『布袋和尚』。『布袋和尚』説明板。太鼓腹をさらして呵々大笑。見ているこちらも太平楽な心地になる。それが「布袋和尚」だ。9~10世紀、中国・唐の時代の明州(浙江省寧波市付近)に実在したといわれ、釈契此という名前も残っているが、トレードマークの大きな布袋をいつも背負っていたことから「布袋」と通称されている。島田信用金庫藤枝東支店。その支店敷地の道路側隅にあったのが『従是西下伝馬 従是東左車』道標。藤枝市の花:ふじ 藤枝市の鳥:うぐいす 藤枝市の木:まつのプレートが歩道に埋め込まれていた。右手に『下伝馬会館』の広場の入口。『東海道藤枝宿』。常夜燈。台座には「町内安全」と。『東海道 藤枝宿 左車町 下伝馬町 白子町』の『藤枝宿 絵図』。旧東海道沿線の史跡や神社等が載っていた。 下伝馬会館の右横奥にあったのが『恵比寿大神、大黒天』。現在の場所は藤枝市本町3-2‐23。「旧東海道から左手1kmほどの場所には『旧田中城跡』があった。(黄色の◯の中)。田中城は、今から500年ほど前、この地の豪族・一色氏が今川氏の命を受けて、その屋敷を拡大して城としたのがその始まりだといわれています。その後、武田氏の手に落ち、さらに江戸時代になってから四之掘が増設されて、直径およそ600mの全国的にも珍しい同心円形をした城ができあがりました。現在、市立西益津小学校が建っている場所がかつての本丸で、江戸時代には4万石程度の譜代大名が城主となって、志太平野の村々を治めていました。しかし、明治維新によって、田中城は廃城となり、城跡も民間に払い下げられました。」この日は『旧田中城跡👈リンク』を訪ねることは出来なかったが、後日訪ねブログアップしたたのでリンクにアクセス下さい。藤枝市の商店街を歩くが人の姿はほとんど無し。この日は3月20日(水)、時間は15:30前であったが。店のウィンドウ内には『真田信繁(幸村)』の甲冑が。路地の右奥には大きな白い蔵が。『白子由来の碑』が道路左手に。ここは藤枝市本町2丁目6−1。藤枝市の街道沿いの繁華街に白子町と呼ばれる一角がある。ここは三重県鈴鹿市白子に因んで町名が付けられたという。この由来は、天正10年(1582)織田信長が殺された「本能寺の変」に端を発する。当時わずかな供連れで堺見物をしていた徳川家康は身の危険を感じ急遽帰国の途につき、堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に出た。ここで小川孫三が家康一行を舟に乗せ対岸の知多半島まで運んだという。家康はこの恩に報いるため、孫三に藤枝宿の一角を与え諸役御免(伝馬役など宿場の業務を免ずる)とした。孫三は、ここに居住し町名を故郷の白子町とした。現在の住居表示は本町となっているが、子孫の小川家の前に町名由来記の石碑がある。『白子由来記』碑。本能寺の変の折、家康の危機を救った伊勢国白子の小川孫三が、天正14年この地を賜り白子町と称したと。『西暦1586年(天正14年)白子町誕生 白子由来の碑』と書かれた立て看板。『小川孫三(おがわまごぞう)』。天正10年(1582年)、本能寺の変があったとき、徳川家康は和泉国堺にいました。身の危険を感じた家康は、伊賀から伊勢へと逃げましたが、伊勢の白子(しろこ)というあたりで敵に捕まりそうになりました。その時、畑で麦を刈っていた小川孫三というお百姓さんが、その麦の中に家康を隠して、敵の目をあざむきました。お陰で家康は命拾いしたのですが、一方の孫三は家康をかくまった罪で白子にいられなくなってしまいました。これを聞いた家康は、孫三をあわれに思い、藤枝に呼び寄せて新白子という町をつくる許可を与えました。これが現在の白子町で、小川家には家康の朱印状が残されています。小川医院前の町名由来碑・『白子由来碑』。「凡今より390年前本能寺の事変の折、伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い、覚えとして天正14年8月14日御朱印を賜る。是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す」更に藤枝の商店街を進む。旧東海道の左手奥にある『長楽寺』のプレートが。案内に従い『長楽寺』を訪ねた。山門。境内参道。中央に『六地蔵』。朱の太鼓橋とその先に『弁天堂』。『慈母観世音菩薩像』。『本堂』。長楽寺の創建は諸説ありますが伝承によると、平安時代末期の仁安年間(1166~1168年)当地の有力者、粉川長者が善政を敷いた為、成仏できなかった青龍が屋敷に住み着き、成仏出来るように長者に頼みました。そこで長者は御堂を建立し境内に「真薦が池」を設けて青龍の住みかにしたと伝えられています。その後、蘭渓道隆大覚禅師を招き臨済宗の寺院として開山し境内には七堂伽藍が建立され寺運も隆盛したそうです。鎌倉時代末期の正中年間(1324~1326年)、芝巌徳香を招き中興開山、中世は今川家の庇護から寺領を広げ、豊臣家政権下では450石を有していました。江戸時代には寺領が減少しますが、朝鮮通信使の宿泊所や田中藩(藩庁:田中城)の藩主土屋家の香花所などの格式を得ています。山号:青龍山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釋迦牟尼如来。扁額は『長楽寺』。長楽寺通りを進み『蓮生寺』入口前まで来ると塔のある建物が右手に。本格イタリアン料理の人気の店『リストランテ・ダルピーノ(Dalpino)』。夢舞台東海道道標『藤枝宿』。 江戸から 50里1丁(196.5Km)、京へ75里19丁 人口約 4430人。 『安藤広重 東海道五拾三次之内・藤枝『人馬継立』』。「この宿場の図は、副題の「人馬継立」とあるように、宿場の問屋場の様子である。朝早く荷物や駕籠の手配をしているところだろう。問屋場では宿役人が下役に指示を出している。羽織袴の武士と帳付役が打ち合わせをし、手前には荷の引き継ぎを待つ人足たちがいる。」 その7 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.07
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我が家の近くのクリムソンクローバー畑の昨日(5月6日)の姿です。クリムゾンクローバーは他にストロベリーキャンドル、ストロベリークローバー、ベニバナツメクサなど色々な名前で呼ばれているようです。イチゴを思わせる赤い花穂が面白いのです。このクリムゾンクローバーは上質の蜂蜜がとれ、花はサラダ、お茶にでき、葉っぱはよく茹でれば栄養価の高い野菜として食用にできるとのことです。またマメ科の植物の特徴で「窒素固定」作用で根に根粒ができ、緑肥(休閑期に栽培し、腐熟させずに生のまま土にすき込んだ肥料)にできるとのこと。それにシロツメクサのように雑草化はしないという記事も見たことがあります。近所の農家はこの緑肥が目的で栽培されているのす。大分、花の赤い部分が上になって来ました。農家の方に、我がミツバチの為にギリギリまで漉き込まないで欲しいと冗談交じりにお願いしています。そして我がミツバチ?が訪花していました。そして我が家の横の畑のミカンにも多くの白い花の蕾が。今年は、ビックリするほど多くの蕾が付いています。摘果の悩みも出てきそうなほど多いのです。開花した花には既に我がミツバチがここにも。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)その7 です。腹ごしらえをした後は、再び旧東海道・県道81号線を藤枝方面に更に歩を進める。㈱本郷の前には『東海道 岡部宿の松並木』と書かれた標柱が。この近くは、道路右側にのみ松並木が続いていた。街道松(往還松)の名残ですが、「岡部松原」と呼ばれているようであった。左手には静岡市駿河区と静岡県焼津市にまたがる山々の姿が。藤枝バイパスをくぐる手前の内谷新田交差点には、茸型の常夜灯と『これより東海道 岡部宿』の道標が置かれていた。ここが岡部宿京側の入口。藤枝バイパスをくぐったらすぐ斜め右へ国道1号線から離れて進むと「うなぎや」さんのすぐ右手に二方が竹造りの塀に囲われて太い木柱の「傍示杭」があった。『岩村藩領傍示杭 』「従是西巖村領 横内」(是より西、岩村領横内)『松平能登守 岩村藩領傍示杭跡』この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。」『油街途(あぶらがいと)』右手に現れたのが慶長4年(1599)に開基した『曹洞宗慈眼寺』。『曹洞宗 西了山 慈眼寺』。「宗派 曹洞宗 開祖 道元禪師 本山 永平寺(福井県・総持寺(横浜市) 御本尊 阿彌陀如来(平安時代) 開創 慶長四年(一五九九) 開基の龍谷秀泉和尚が横内村の人々の協力を得て伽藍を建立し 藤枝市高田常楽院六世学翁宗参大和尚を御開山に拝請して開創された。(以下略)」本堂。地蔵尊と墓石。『永代供養塔』。更に現国道1号線から分岐した旧東海道を進む。とつか酒店の隣の路地の奥に白い柱が。『西村小路 代官屋敷』。この付近に岩村藩の横内陣屋(代官所)があったと。この辺りの集落(横内地区)は町おこしの一環として、丸子宿と同じように民家の前に当時の屋号を書いた「木札」が掛けられていた。旧街道はわずかながら緩やかな傾斜となり、朝比奈川に架かる横内橋の袂へとつづいていた。橋の右袂に横内地区の案内板があり、「横内あげんだい」と表示された「かがり火入れ」のようなものが置かれていた。『あげんだい』長さ5メートルくらいの孟宗竹の上部を割って逆三角形の籠を作ります。その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたものです。人々は籠に松明を投げ入れ早く火がつくのを競います。一言でいえば「あげんだい」は、松明による玉入れのようなもの。この「あげんだい」の行事は一時期廃れてしまったのですが、平成11年(1999)の横内400年祭を記念して復活したと。その後、「あげんだい」と「燈籠流し」は横内地区の精霊送りの行事として毎年8月16日の精霊送りの日に横内朝比奈川で行われているのだと。『横内歴史案内版』。ここ藤枝市横内地区は江戸時代は美濃国岩村藩領地の横内村であったと。享保20年(1735)、岩村藩の松平能登守乗賢が、幕府の老中に出世したため、「足高の制」により1万石が加増され、そのうちの五千石の領地を駿河国内に受け、駿河領十五ヶ村を治める役所として設けたもの。135年間、14人の代官が支配したが、年貢率が他藩より低く温情ある治世を行ったとのこと。朝比奈川に架かる横内橋を渡る。上流側。下流側。この場所で流れは大きくカーブしていた。交差点の部分だけ路面の仕上げを変えていた。交差点の隅にあった石碑は?『仮宿區入口 岡部町 朝比奈宿 葉梨村』か?我々が辿って(たどって)いる県道81号線はこの先で381号と再び合流。仮宿交差点で再び国道1号線に合流する手前に『従是東巖村領横内』と書かれた傍示杭が再び立っていた。ここまでが岩村藩で850mしかなかったのだと。仮宿交差点で歩道橋を渡る。写真左側は旧東海道で正面が県道381号線。左側の道がこれから歩く旧東海道。横断歩道橋を渡り、旧街道筋を進むとすぐ左側に大きな石柱と文字が刻まれた石碑が置かれていた。これが田中領の傍示杭。『従是西田中領』と刻まれていて、ここが岩村藩領との境目。このあたりは「広幡」という所で「八幡」「仮宿」「横内」「下当間(しもどうま)」「鬼島(おにじま)」という地名が複雑に入り組んでいて境がよくわからないだが、藤枝と合併する前は広幡村と呼ばれていたのだと。この石碑は復元されたもので、本物は藤枝宿の「西益頭中学校(にしましづ)」の正門脇に置かれていると。 駿河田中藩は藤枝宿東方の田中城を居城にしていましたが、代々の藩主は譜代大名で幕閣に登用されることが多く、江戸幕府の前半は藩主が大坂城代、駿府城代などを務めたため、その交代の度に藩主が頻繁に替わりました。藩主が落ち着くのは享保15年(1730)に上野国沼田から入った本多正矩(まさのり)が藩主になってからで、その後、6代つづき本多家のまま明治維新を迎えている。「法の川」に架かる「法の橋」を渡ると「八幡」という地域へと入り、葉梨川(はなしがわ)沿いを進む。再び県道381号線に合流。日本橋から197km。ここは藤枝市八幡地区。そして再び左手の旧東海道へ。歩いていると気付かずに通り過ぎてしまいそうな一里塚跡で『史跡 鬼島一里塚跡』と書かれた木柱が民家の壁に寄り添うように置かれていた。反対側から。木柱の側面に「江戸日本橋より49番里。百九十六km」と書いてあった。『廣畑尋常小学校跡』が左手に。街道の左側に沿って流れている「葉梨川」に架かる「八幡橋」へ「葉梨川」の下流側を望む。旧街道は橋を渡って右手へとつづいてたが、まっすぐ直進する道筋は「田中城」へと続く。この田中城は家康が狩りの途中で立ち寄り、ここで食べた「鯛のてんぷら」がもとで亡くなったと伝えられている城。旧東海道を進むと、半鐘、常夜燈と共に民家の庭先に『旧東海道 鬼島の建場』と刻まれた石碑が置かれていた。「旧東海道 鬼島の建場 街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。 大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛 喜多八の二人も。そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア お休みなさいマシ」と進め られるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ ブツ ブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる「処もとは鞍の鐙ヶ淵なれど、踏んまたが りて通られみせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」藤枝市のマンホール蓋。市の花『藤』と市の鳥『ウグイス』、市の木『松』そして、静岡ならではの富士山をデザインしたマンホール。「わがまち藤枝」という文字が入っているのは珍しいのではと。右手にあったのが、『青山八幡宮 里宮』への鳥居。そしてこれを通り過ぎると右手前方に見事な枝振りに葉をいっぱいに付けた大きな木が見えて来た。ここが『須賀神社』。この大木は1本の楠(くすのき)。右側の道を進むと『本行寺』へ。『須賀神社』の石鳥居。牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。社名は須佐之男命が八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するもの。 須賀神社の多くは明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していたのだと。この楠は樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、県の天然記念物に指定され、併せて御神木として大切にされてきた大木。樹高23.7m 根廻15.2m 目通10.9m 枝張 東西21.2m 南北27.9m。境内側から。それにしても見事な楠なのであった。忠魂碑も。須賀神社に隣接して堂宇を構えるのが『池巌山全居寺(ちげんざんぜんきょじ)』。開基は江戸時代の元和3年(1617)でご本尊は釈迦無二如来。『そうじ小僧』。旧東海道は右に曲がり県道381号線に向かう。右手にあるのが水守中央公園。右手に土地区画整理組合の『希望』と刻まれた完成記念碑が立っていた。後ろの山は『八幡山砦跡』で『青山八幡宮』が鎮座していると。完成記念碑の前の道路の反対側のT字路の赤い消火栓標識の下にあった小さな道標。望遠で確認すると「是ヨリ橋ヲ渡リ 右川ニ沿ヒ八幡橋ニ通 左山ニ沿ヒ???」と。今、気が付いたのであるが、水守の交差点まで行かずにこのT字路を左折して県道381号線を斜めに横断するように旧東海道があったようだがその道は現在では途中までで終わっているようであった。------が旧東海道、------が我々が歩いた道。 その6 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次岡部宿公園を後にし、古い町並みに入り進むと、民家の庭の前にあったのが『問屋場跡(といやばあと) 』。「幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。 右側にあったこの施設は?閉鎖している模様。この大きな右手の建物は『丸亀酒販』。『初亀』が人気の酒。『初亀醸造株式会社』。「初亀醸造」は、寛永12年(1636年)、現在の静岡市で創業。明治元年に現在の岡部町へと移ったのだと。 『岡部宿』道標。県道208号線を左手に入ると石畳の街並みが。50m程行くと小さな水の流れが前方に。ここが『小野小町の姿見の橋』。「小野小町(おののこまち)は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国(あずまのくに)へ下る途中この岡部宿に泊ったという。 小町(こまち)はこの橋の上に立ちどまって、夕日に映える西山(にしのやま)の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだと言う。 こんな事があって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町(おののこまち)の姿見(すがたみ)の橋(はし)」と名づけたという。」街並みの軒先にはカラフルな大小のサッカーボールを模った手まりががぶら下がっていた。そして右手に『弘法大師堂』と『高札場跡』が現れた。『弘法大師堂』。『高札場跡』「高札場 は、宿場内の目立つ所や、人々の多く集まる所に設置され、法度(はっと)や掟(おきて)(法律や条例)、犯罪人の手配などを木札に書き高々と掲げて、社会の人々に知らせたところです。高札が、四ツ辻(交差点)などに建てられると、そこを「札の辻」と呼んでいました。」右手にある『日蓮宗 正應院』を訪ねた。総欅の唐様造りの山門(昭和57年建立)。境内。階段の上に本堂が。『本堂』。 山号:見珠山 寺号:正應院 宗派:日蓮宗(本山:総本山 身延山 久遠寺) 開基:大正7年(1918)、佐藤政十氏が曹洞宗から日蓮宗に 改宗し法華の見珠道場を開設 特記:昭和15年(1940)、開山正応院日龍が伊豆韮山の本立寺の 塔頭で、永正3年(1506)に江川英盛が建立した正應院を 岡部に移転。山号を見珠山とし寺号をそのまま継承。静岡県の名工・松浦茂治氏の手で造られた和様素木造りの多寶塔(昭和54年建立)。山門を境内側から。寺務所。御朱印をいただきました。日日が書かれていませんでしたので、私がこの後記入しました。旧東海道の石畳の路には『松の姿と東海道岡部宿』のプレートが。「弘法大師堂」を出てすぐ「県道」に合流するようになっていたが、旧道はまだそのまま続くので左斜めへと進むとアスファルトの路面に変わった。『藤枝てまりの館』には『サッカーロード おかべ』の木札が。サッカーボールを模った(かたどった)手まりがぶら下がっていた。サッカー開催予定日のポスターには長谷部誠選手の姿が。ここ藤枝市出身のプロサッカー選手。2018年6月、ロシアワールドカップのメンバーに選出され、W杯3大会連続出場を果たす。ダブルボランチの一角としてグループリーグ3試合に出場し、キャプテンとしてGL突破に貢献。しかし、チームは決勝トーナメント1回戦で敗れてベスト16止まりに終わり、自身のインスタグラムにてこの大会限りでの代表引退を表明した。3大会でW杯11試合出場は、川島永嗣、長友佑都と並び日本人最多出場となった。内部には多くのサッカーボール手まりが色彩豊かにぶら下がっていた。左手に行くと『曹洞宗 光泰寺』。住所:静岡県藤枝市岡部町内谷424 山号:瑠璃山 寺号:光泰寺 宗派:曹洞宗 本尊:地蔵菩薩 開基:不詳 特記:前身は真言宗十楽寺で高草山山上の修験道場、 しかし十楽院は天正年間(1573頃)に荒廃 文禄年間(1592頃)になり、十楽院が復興され、 宗旨を曹洞宗、寺名を光泰寺と改めた。 江戸時代に入り岡部の宿が賑わってくると、東海道に近い 現在の岡部町内谷に移転この日は時間がなく訪ねることは出来なかった。『木喰仏 聖徳太子像』があると。『好光(よしみつ)人形店』創業120年を数える“駿河ひな人形”の老舗「好光人形店」。「大旅籠柏屋(歴史資料館)」でもこの店で造られた多くの“駿河ひな人形”が飾られていた。更に「高草街道」に向けて歩を進める。高草街道に突き当たり右折すると県道208号線・藤枝静岡線の岡部支所前交差点。県道208号線・藤枝静岡線を進む。右手にあった『岡部総合案内所(五智如来公園)』に立ち寄る。ここ総合案内所には阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生如来の「五智如来」が置かれています。宝永2年(1705)、陸奥棚倉城主から駿河田中城主に国替された内藤豊前守弌信の家老・脇田次郎左衛門正明が寄進したもの。 『総合案内所』でパンフレットを頂く。奥に『五智如来』が置かれていた。左から宝生如来、阿閦(あしゅく)如来、大日如来。左から(大日如来)、釈迦如来、阿弥陀如来。『五智如来像』案内板。「五智如来像(ごちにょらいぞう) 市指定文化財 昭和四十八年四月一日指定 誓願寺(せいがんじ)の境内で街道に面して安置されていましたが、寺が移転したため現在の場所に移されました。 地元産の三輪石で作られ、石造の五智如来像としては大きなもので、二組あります。一組は宝永二年(一七〇五)に陸奥棚倉(むつたなくら)城から駿河田中城に移られた内藤豊前守弌信(ぶぜんのかみかずのぶ)の家老脇田次郎左衛門正明 が同年に寄進したもの。もう一組は、明治の中頃、鬼島の森川重蔵 と静岡市寺町の藤田権三郎 が作ったものです。宝永二年に田中城主となった内藤豊前守弌信には、上手く話のできないお姫様がいました。殿様と奥方にとっては、このことが大きな悩みになっておりある日、静岡の宝台院(ほうだいいん)で徳川家の奥方にこのことを話すと奥方は「岡部宿にある誓願寺の本尊である阿弥陀さまにお願いすると良い」と教えてくれました。 そこで早速、奥方は家老を連れてこの寺に参り願をかけました。お参りを続けた満願の日、お姫様は自由に口がきけるようになり、数年後には立派な大名の許へ嫁ぎました。殿様はこのことにいたく感激し、誓願寺へ田畑を、家老の脇田次郎左衛門正明は五智如来像を寄進しました。 向かって右から 阿弥陀(あみだ)如来 、釈迦(しゃか)如来、大日(だいにち)如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来 」。旧東海道・県道208号線を更に進む。そして『池めん』でこの日の昼食を。私は『台湾まぜそば』を注文。台湾ミンチ(鷹の爪とニンニクを効かせた醤油味のひき肉)を極太麺に乗せた、汁無し麺の一種である。具材は台湾ミンチ、生の刻んだニラ・ネギ、魚粉、卵黄、おろしニンニクなどであり、それらをよくかき混ぜて食べた。また、「追い飯(おいめし)」と呼ばれる、麺を食べきった後に丼に残る台湾ミンチやタレに白めしを投入するサービスもあった。台湾ミンチ(鷹の爪とニンニクを効かせた醤油味のひき肉)が美味かった。良く混ぜて。そして完食後に、「追い飯(おいめし)」を楽しんだのであった。 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次現国道1号線・岡部バイパスを歩き廻沢口(まわりさわぐち)交差点に向かう。廻沢口交差点にある歩道橋を渡り反対側の旧東海道へ。歩いて来た宇津ノ谷方面を見る。この後に訪ねた『大旅籠柏屋 歴史資料館』の案内。旧街道の右手にあった工場は『日本気圧バルク工業㈱』。低酸素ルームや高地トレーニングに適した酸素カプセルなどの研究・製造を手掛けている会社。また、自律神経や血液循環に効果がある高気圧酸素カプセルの販売も行っているようだ。商品にはトレーニング可能な大型タイプの酸素ルームもあり、プロのスポーツ選手等が利用するものと。『岡部宿のあらまし』「旧東海道(県道208号線)と岡部川が近づいた場所にあったのが『東海道岡部宿案内板』。岡部宿は東に宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました。岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5年(1872)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一首「豆腐なるおかべの宿につきてげり足にできたる豆をつぶして」と交通の難所であった様子が描かれています。」『当時の宿場の様子』「天保14年(1843)の調べによると、約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入り口を示す桝形が設けられ常夜灯が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の継立などを行う問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇稼、荷物の運搬役を行う人馬役の家、農家などがありました。町並みは街道沿いに広がり、裏には神社がありました。」さすがに茶の産地なので、あちこちで「茶」の看板や製茶工場が見られるようになって来た。そして時々お茶の良い香りも。街道右側の階段の上にあったのが『十石坂(じっこくざか)観音堂』。『観音堂』。非常に細かく施された梁の彫物が素晴らしかったのであった。「入母屋(いりもや)造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、下陣の境の格子(こうし)は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代の末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子(ずし)が安置されていた。 厨子一 中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木(たるき)、妻入(つまいり)である。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。 厨子ニ 観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗(くろうるしぬ)りで簡素ではあるが品格の高いものである。江戸も中期以降の作と思われる。」境内の石碑。観音堂の右側には沢山の石版・石仏が 整然と並んでいた。『河野孫園碑文』「河野孫園は、駿府町奉行服部久工門貞勝が駿府地誌の編さんを山梨稲川(江戸時代の漢学者としてその名を知られた)に依頼したときに、 岡部の属する益頭郡を担当した人である。 岡部本町に住し(屋号・河野屋)、文化十二年正月十八日四十六歳で没した。 孫園の墓碑は、稲川の撰文と書が刻まれたものである。 その撰文の要旨は、孫園の資性と業績が立派であったことを顕彰したものである。 建碑については、孫園の友人で岡部宿駅の漢学者・杉山佐十、本間春策等の 友情によって立石されたものである。 」観音堂を後にして進むと左手にあったのが『枡形』。右手には『桝形跡』の説明板が。「曲尺手ともいいます。 本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入り口に設けたもので、 ここは道が直角に折れ曲がっています。 また、ここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明六ツに開け、暮六ツに閉じました。」更に旧東海道を岡部宿中心部に向かう。道路脇右手にあった小さな祠と石灯籠。岡部川手前で旧東海道は右手の細い道に。左前方に『東海道 岡部宿 立光山不動尊』と書かれた案内柱が。山の斜面に立つ本堂をズームで。『笠懸松(かさかけのまつ)と西住墓(ざいじゅうのはか)』「「・・・やがて西行は駿河国岡部の宿にさしかかった。 荒れはてた小さな堂に立ち寄って、一休みしているときなにげなく後を振り返って見ると、戸に古い檜笠が懸かっていた。 胸騒ぎがして、よくよく見ると、過ぎた春、都で共に修行した僧の笠だった。(中略) 笠はありその身はいかになりぬらむ あわれはかなき天の下かな ・・・・・」(西行物語より) ここは歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をした時に起きた悲しい物語の舞台である。 「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松喰虫の被害を受けて枯れてしまった。 その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。」『笠懸松』までは時間不足で諦めた。そして次に訪ねたのが『専称寺(せんしょうじ)』。眼の前に山門が。『西行坐像 不動尊立像』「西行座像(さいぎょうざぞう) 市指定文化財彫刻 昭和四十七年七月一日指定 像高五〇cm西行法師の旅姿をした座像で白木彫りの作りである。 像底裏に「亨保十一年(一七二六)江戸の湯島天神の西にいた柑子本南浦(こうしもとなんぽ)が西林寺(川原町、文化五年焼失)に奉納」の意味の銘がある。江戸時代後期の作とおもわれる。 岡部十石坂観音堂不動尊立像(ふどうそんりつぞう) 市指定文化財彫刻 昭和四十八年四月一日指定 像高五四cm一木彫り立像で忿怒の形相が力強く表現されている。鎌倉前期のものといわれている。 岡部立光山不動院 二体とも当山専称寺にて保管されている」『本堂』。専称寺は、徳川家の菩提寺増上寺の浄土宗寺院として、東海道岡部宿の中心に文禄四年(1595)開山。その後、江戸時代の学僧幡随院上人から伝授された灸療法を、代々の住職が受け継ぎ、現在に至るまで「一ト火(ひとひ)灸」の名称で施療していると。江戸時代には、東海道を旅する旅人の旅の疲れを癒し、近年は住職が正式に東洋医学を学び、国家資格を有し治療に従事し現在に至っていると。扁額には『功徳山』の文字が。本堂内部。そして旧東海道に戻ると、左手にあったのが『岡部宿 大旅籠柏屋(おおはたご かしばや)』大旅籠柏屋は江戸時代の天保7年に建てられた旅籠で、国の登録有形文化財。帳場や台所、客間などが当時の雰囲気のままに再現されており、旅道具や生活用品などの展示品の見学の他、旅装束などの着付け体験も出来るのであった。江戸時代の雰囲気を多いに楽しんだのであった。館内に入る。『入館券販売所 案内所』。『岡部宿~横内 お立ち寄り処』。江戸時代の旅姿の紹介コーナー。『登録有形文化財』。全国的にも珍しい『等身大の雛人形』15体が目の前に現れ圧倒された。この「等身大の雛人形」は、「駿河雛人形」の老舗の2代目で、この岡部出身の「好光(よしみつ)」こと、「薮崎好光(好太郎)」氏が制作したもの。」弥次さん達も到着し一休み。江戸時代の大ヒット作、「東海道中膝栗毛」の弥次喜多コンビも大井川の川止めで、岡部宿の旅籠(はたご)に宿泊しているのだ。「旅籠」とは、庶民や武士が利用した食事付きの宿のこと。岡部宿の本町には、2軒の本陣(大名や幕府役人の宿)を中心に、脇本陣(本陣の予備宿)2軒・旅籠27軒があったと。当時、旅籠は大・中・小に分類され、「柏屋(かしばや)」は格上の"大旅籠"。延べ床面積約331平方メートルと、脇本陣に匹敵する規模をもち、身分の高い武士も宿泊した。現在の建物は、天保7年(1836年)に建造。国の登録有形文化財に認定。山内家から旧 岡部町(現 藤枝市)が買い受け、修復後、歴史資料館として一般公開されるようになったと。柏屋の内部は、当時の旅籠を再現、まるで、江戸時代にタイムスリップしたような感覚に。ここは帳場。係の女性から障子戸の説明を受ける。柏屋の上下2枚に分かれた「蔀戸(しとみど)」と。上だけ障子戸に替えて光を入れたり、両方とも取り外し、オープンな店構えにすることも可能。上下とも板戸に替え、昼間は天井に釣り上げてある「大戸」を降ろせば、"戸締り"することが出来たのだと。柏屋は2階建ての旅籠。1階には、みせの間(玄関ロビー)・帳場(受付)・みせおく(家族の生活スペース)・台所・身分が高い武士が宿泊した客間があった。「一の間」では、弥次さん喜多さんは足を洗い、風呂に入ってさっぱりしてご機嫌な様子で女将さんのお酌を受けていた。食事のメニューも展示されていた。『駄賃高札』 駄賃とは駄馬で荷を運ぶ運賃のこと。「定 岡部宿当子三月より来丑二月まで中壱ヶ年之間 駄賃井人足賃銭有来壱倍増し処 当十月より来丑二月迄拾五割増 都合壱倍五割増之 丸子江 荷物壱駄 三百六拾弐文 乗掛荷人共 同断 軽尻馬壱疋 弐百三拾六文 人足壱人 百七拾九文 藤枝江 荷物壱駄 弐百六文 乗掛荷人共 同断 軽尻馬壱疋 百三拾壱文 人足壱人 百弐文右之通可取之 若於相背は可為曲事ことの也 元治元子年 十月 奉行」『14代将軍 徳川家茂 御上洛東海道 文久3年(1863)』「『東海道名所風景』は、三代将軍家光公以来229年ぶりの徳川将軍上洛という歴史的な出来事を題材に描かれ、ほとんどの作品に武装行列が描かれることから通称『御上洛東海道』と呼ばれます。二十以上の江戸の版元による共同刊行で、梅素亭玄魚の意匠による目録も含め全百六十三枚にものぼる大揃物です。東海道とその周辺の名所だけでなく、京都市中、大坂や畿内の諸国なども取り上げているためこのような膨大な枚数になりました。美人画や役者絵で名を馳せた重鎮・三代豊国を筆頭に、二代広重、月岡芳年など、幕末浮世絵界の最大派閥・歌川派の絵師に加え、河鍋暁斎など十六名が筆をとりました。」『貞秀 東海道名所之内 宇津谷峠』歌川貞秀は、文化4年から明治12年(1807年から1879年)国貞門下でも才能があり、横浜絵の第一人者と言われる。慶応三年のパリ博には浮世絵師の総代となっており、人気のあった浮世絵師である。横浜絵と共に俯瞰した精密な風景画や合戦の絵巻を得意とした。『広重画 東海道 鞠子』。『御上洛東海道 あべ川 歌川芳虎』。『御上洛東海道 府中 歌川芳盛』。『御上洛東海道 岡部 歌川芳盛』。『東海道五十三對・岡部 歌川国芳 弘化二年(1845)』。『岡部宿の変遷』。近世の岡部宿に関する最古の史料は、慶長7(1602)年6月「徳川家康奉行衆連署伝馬定書」でありこの時期に東海道宿駅制度により、岡部宿が成立して宿駅の業務が行われた。県内22宿の中でも規模の小さい宿場であったが、小さいながらも年々栄えていった。だが反面、東海道の往来が激しくなるにつれて幕府の命令で公用荷物や人を運ぶ人足や馬を多く出さなければならず、人口の少ない岡部宿は大変だった。宿駅になった当初は36人、36疋の人馬の用意が義務づけられていたが、参勤交代が定着しはじめた寛永15(1638)年には、100人、100疋の人馬の用意を強いられた。人馬調達のために隣村の内谷村を加宿に定め、分担するようになった。当時の岡部宿を上空から。宿場の賑わい。『柏屋(かしばや)のはじまり』「柏屋が、いつから旅籠宿を営んできたのかは明らかではありませんが、柏屋の山内家が本陣の内野家から別家した頃から営業していたと考えられています。柏屋の現在の建物は、天保5年(1834)の「類焼見舞覚」や「諸入用之覚」から天保6年(1835)10月19日に「棟上」をし、天保7年(1836)4月11日頃に完成したと考えられます。」『宿場の役割』。「問屋場」問屋場は宿場でもっとも重要な施設です。問屋場には大きく2つの仕事がありました。一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというもので>す。もう一つが幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚(つぎびきゃく)といいます。これらの業務を円滑に運営するために、問屋場には宿場の最高責任者である問屋(といや)、問屋の補佐役である年寄(としより)、事務担当の帳付(ちょうづけ)が詰めていました。またその下に、人馬指(じんばさし)とか馬指(うまさし)といった、人足や馬を指図する役職を置いていた宿場もありました。この他にも、参勤交代の大名行列などを宿場の出入り口で出迎えるための迎役(むかえやく)といった役職を設けていた宿場もあります。問屋場は一つの宿場に一カ所だけとは限らず、一つの宿場に複数の問屋場があった宿場もあります。このような宿場では、交替で業務を担当していました。「旅籠屋」江戸時代の宿駅などで武家や一般庶民を宿泊させた食事付きの宿屋。元来旅籠とは馬料入れの丈の低い竹籠を指したとされる。宿屋としての旅籠は江戸時代初期に成立し,従来の木賃形式の宿屋にとって代わっていったが,その特徴は宿屋が食事を調理し,客に提供する点にあった。江戸時代中期以降,旅客を宿泊させるだけの平旅籠と,飯盛(めしもり)女などを置いた飯盛旅籠とに分化した。旅籠屋の建物は本陣などの上段の間,門構え,玄関などを取り除き,若干縮小した形態で,規模は大中小に分類された。旅籠では領主・役人への旅宿提供が優先されていたが,庶民通行の増加により一般旅行者にも比重が置かれるようになっていった。また旅籠の数が増え,浪花(なにわ)講など旅館組合の先駆ともいうべき講が各地に結成された。1階の「本座敷」には、身分が高い武士が宿泊したと。天井が高く、書院造りの床の間がある上等な部屋で、美しい和風庭園を眺めることも。『内野本陣史蹟広場』案内図。広場を囲んでレストランやギャラリー、研修棟、多目的棟などがあった。「ギャラリー なまこ壁」と「和食処 一祥庵」は、柏屋の土蔵を利用。「和食処 一祥庵」も右手に。『内野本陣』。『天神様』。岡部町は、雛人形で有名なのだが、ちょうど、この日は3月20日でまだ雛人形を飾る季節に当たっていたようで、収蔵庫の中の、珍しい雛人形を見る事が出来た。『可睡斎ひなまつり』が開催中と。柏屋の南隣には、『内野本陣史跡広場』が。「本陣」とは、大名や幕府役人が休憩・宿泊した施設。街道に面して表御門と塀が再現され、当時の街道のたたずまいを感じさせてくれたのであった。広々とした広場には、本陣の間取りを平面表示してあった。かつてあった建物を想像しながら、芝生の上に座ったり寝転んだりして、のんびり時間を過ごすのも良かったがこの日は藤枝まで辿り着かなければならなかったのであった。『大旅籠柏屋』の南側にあったのが、『岡部宿内野本陣跡』門だけが立派に復元されていた。大きな石灯籠も。 その4 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東海道宇津ノ谷峠道入口まで戻り峠越えのスタート。『東海道宇津の谷峠越え』『旧東海道のぼり口』と書かれた木製の案内板が。上り始めると正面にあったのが『馬頭観音』。生花が手向けられ、宇津ノ谷集落の住民の思いを感じ取れたのであった。竹林と杉林に囲まれた峠道を登っていく。極小さな広場。「宇津ノ谷は丸子、岡部両宿の間に位置する間宿です。行交う旅人が、宇津ノ谷名物「十団子」を求めたり、無事に峠を越えてほっと息をついたところです。ここからの眺めは昔も今も変わらず、山間の集落の景観は、当時を彷彿とさせてくれます。」宇津ノ谷集落集落の景観。もう少し背が高ければ・・・と。更に急な坂道を峠に向けて。木製丸太で作り上げた階段も前方に。『雁山(がんざん)の墓 』「俳人(はいじん)雁山は、山口素堂 に俳諧(はいかい)を学び、甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めました。享保十二(一七ニ七)年頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられています。しかし、雁山はその後『有渡日記(うどにっき)』や『駿河百韻(するがひゃくいん)』等を著し、明和四(一七六七)年、八十二才で甲府に没しました。もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていましたが、山崩れで流れ、この位置に移されました。」「この辺りは、明治43年8月に起きた集中豪雨による山崩れのため、地形が大きく変わってしまったところです。階段は整備に伴い便宜的に設けたもので、江戸時代には今よりも山側の情報を、幅2間(約3.6m)の道が通っていました。」その階段を登っていく。『峠の地蔵堂跡の石垣』「この石垣は、江戸時代中ごろ、宇津ノ谷峠の傾斜地に地蔵堂を構える際、平らな土地を確保するために積まれたものです。石垣は二段構えで総高約7メートル、最大幅約12メートル。石材は、全ての箇所で横幅が縦幅より長い『平置き』の積み方を施していて、根石はやや大きく、天端石はやや小さい石材を用いています。地蔵堂跡の上部の石垣は、下で膨らみ上で反る形状となっていて、勾配が一定でないばかりか、表面的に凹凸をもつ形状となっています。この積み方は、中世以前の城郭の高石垣に見られるような積み方とは異なりますが、石材一つ一つの加工度の高いこと、石組みが丁寧な技法によって行われていることが、石垣の安定をもたらしているといえます。」「東海道分間延絵図」が。「江戸時代後期1805年に築かれた峠の地蔵堂。周囲の石済みなども細かに描かれています」そして石垣の立面図、断面図も示されていた。更に登っていくと右側奥に『地蔵堂跡』が。「この奥の空き地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を忍ばせている。江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」という芝居がある。盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上がる。文弥は、道中、護摩の灰、提婆の仁三に目を付けられながら丸子宿にたどり着く。一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文弥の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。文弥の百両ほしさに十兵衛が宇津ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場、『文弥殺し』の舞台がここ延命地蔵堂前である。この延命地蔵尊は、現在慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年八月二十三・二十四日である。」『東海道宇津ノ谷峠道の御案内』奥が実際の地蔵堂があった場所。『宇津ノ谷峠の地蔵堂』。宇津ノ谷峠の地蔵堂跡には江戸時代、明治時代に描かれた絵が掲示されてあり、発掘中の写真が記録として掲示されていた。地蔵堂跡の裏の山の斜面下には『供養塔』が。そして漸く宇津ノ谷峠頂上に到着。登り始めてから16分ほど。もっと長いと思っていたが・・・。台風等の強風で倒木したものであろうか伐採されて仮置きされていた。そしてここからは一気に下り。『東海道宇津ノ谷峠道の御案内』が適所に設置されていたので、現在地を確認できたのであった。既に峠を越え、静岡市から藤枝市に入っていたのであった。分岐の場所には排気口の案内も。国道1号のトンネルの排気口なのであろうか?。トンネルがたくさんあるので、どのトンネルの排気口か明示してほしいのであった。『排気口』は訪ねなかったが下の写真の様な姿であると。 【https://yamap.com/activities/1571215】より「この付近は宇津ノ谷トンネルの管理道路ができたことにより、道の様子が大きく変わっています。旧道の写真(赤色)に示す形状になっていました。」写真が光ってしまいました。再び分岐点にあった『東海道宇津ノ谷峠道の御案内』。急な下り坂を進む。明治トンネルの岡部側の入口案内。前方左に石碑が。『髭題目碑(ひげだいもくひ)』は難しい名前。「碑の書面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれていた。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。裏面には建立年月の「天保六年霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田辺りまでの建立者達の名前が刻まれている。このような髭題目は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである。」髭のようにはねて書く書体で「南無妙法蓮華経」の題目が。次に現れたのが『蘿径記碑跡』。「蘿径記碑は文政十三(一八三○)年、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、 蔦の細道の細道の消滅をおそれ、末長く残すために建立した石碑です。 「蘿」は蔦を、「径」は小径を意味します。 今は坂下地蔵堂の裏にあります。」そして『つたの細道』に合流し最後の坂を下る。『岡部宿 東海道 参勤交代の道』道標。岡部宿境まで十八町、2km。『旧東海道(別名 大名街道)』「この道は、駿河国の安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津の谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津の谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。ここで鬼退治にからむ十団子の伝説が生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正十八年(1590)七月、小田原城を落し、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。慶長六年(1601)徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、二十万石以上の大名は武将が二十騎、足軽が百二十人から三百人もあり、一万石の大名でも五、六十人の共揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。この道も明治九年トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。」下って来た旧東海道(写真左)を振り返る。つたの細道を下っていくと、右側にあったのが『延命地蔵尊 坂下堂』。本堂。こちらが坂下堂の正門のようであった。「建立年代、建立者は不明ですが、元禄十三年(1700)に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人が発願して地蔵堂を再建し、堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立しました。霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験のあらたかさを示す二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されています。堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒しました。今でも八月二十三、四日の大縁日には、串に刺した十団子をお供えして供養します。また、新盆供養のために遠方からも参拝者が訪れます。」『つたの細道 西口』碑。碑の手前、国道1号線への合流地点手前の道路擁壁にあった『東海自然歩道バイパスコース』案内図。 その3 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.05
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昨日5月4日、我が家には、14時を過ぎると空が真っ暗になり、突然の雹(ひょう)が降って来ました。我が家で前回雹を見たのは何時だったでしょうか?5分程度で雹は止み、その後は雨が強く降って来たのでした。拾って掌に載せてみると1cm以上の大きさ。「雹(ひょう)とは、積乱雲から降る直径5mm以上の氷塊のことを指すのだと。一方、霰(あられ)は雲から落下する白色不透明・半透明または透明な氷の粒で、直径が5mm未満のものだと。」そして雷も激しく。その時のスマホからのレーダー情報です。そして我が地域は一時的な停電、そして14:52大雨・洪水警報も。------------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次長源寺を後にし、更に現国道1号線沿いの旧東海道をじわじわと上っていく。ファミリーマートが左手に。そして国道1号線に架かる歩道橋を渡り、反対側の旧東海道に進む。歩道橋上から静岡方面を見る。国道沿いに「名残の松」が。赤い貨物車の後ろの松が「名残の松」。「丸子赤目ヶ谷」の歩道橋を歩き国道1号線を渡ると、「丸玄工芸」の黄金の観音像が建っていた。そして再び1号線沿いを進む。『東海道ルネッサンス』と書かれたプレートが道路の縁石に埋め込まれていた。1国の逆川交差点で再び旧東海道は1国を横断。竹林の前に大きな石碑が。この交通安全の石碑がある場所が『宇津ノ谷一里塚』丸子川の橋を渡り進むと前方に『道の駅 宇津ノ谷峠』が。『道の駅 宇津ノ谷峠』。『静岡県へようこそ』が6ヵ国語で書かれていた。道の駅でトイレ休憩。『丸子路 広域マップ』。安倍川から宇津の谷峠までの丸子路の広域マップ。これから向かう『宇津ノ谷峠 周辺ガイド』。この後に訪ねる『つたの細道』や『明治時代のトンネル』の案内も。『東海道の難所 宇津の谷峠 国史蹟指定』「 蔦の細道(平安の道) 峠越えの古い東海道 一つの峠に4本のトンネル ・明治のトンネル 標高115m 長さ203m ・大正のトンネル 標高107m 長さ227m ・昭和のトンネル 標高 70m 長さ844m ・平成のトンネル 標高 70m 長さ844m 」宇津ノ谷峠には、明治時代のトンネル、昭和初期のトンネル、国道1号線 上りの昭和中期のトンネル、1号線下りの平成七年完成の新トンネルの計4本のトンネルがあり、一つの峠に4本も掘られているのは世界でも珍しいとのこと。左の坂を登る道が『蔦(つた)の細道』。蔦の細道は、宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏征伐のために旧東海道をひらくまでの、重要な道路であった。そして在原業平の「伊勢物語」にも登場する古道であると。「駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 逢わぬなりけり」再び現1国の橋を渡る。下に見えたのが平成のトンネル『新宇津之谷隧道 下り線』。奥が昭和中期のトンネル『新宇津之谷隧道 上り線』。そして丸子川に架かる大黒橋(だいこくはし)を渡る。旧東海道は左側。この先が宇津ノ谷の集落の入口『ようこそ、宇津ノ谷へ』案内板。宇津ノ谷峠へ向かう分岐。旧東海道は左の、小川沿いの道を進みます。夢舞台東海道道標『宇津ノ谷』。『安藤広重の東海道五拾三次之内・岡部「宇津之山」』「難所といわれる宇津谷峠を越えると岡部宿である。薪を運ぶ木こり、菅笠をかぶる旅人。奥に見える町へ出入りする様子である。昼なお暗い山合いの川は段差で表現されるような急流で、左右の山の勾配も急である」旧東海道、お羽織屋、明治のトンネルは左方向にと。『交通の難所 宇津の谷峠』「○蔦の細道 平安の道 駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 会わぬなりけり 在原業平○山越えの旧東海道 江戸時代には参勤交代の諸大名も往来した重要な交通路で、明治維新には明治天皇も馬で越えられたという。この峠には「地蔵堂」「馬頭観音」雁山碑」「ひげ題目碑」が残されています。 ○明治のトンネル(明治九年開通) 長さ六十八丈二尺(ニ三〇米) 公費三萬五千円 人夫二十一万人(延べ) ○慶竜寺 賽の河原の延命地蔵 十団子の伝説 峠では旅人を捕まえて食べる鬼を小粒にして食べてしまった僧が現れたという 句碑「十団子も小粒になりぬ 秋の空」許六 ○御羽織屋 天正十八年(一、五九〇)豊臣秀吉が小田原征伐のため東上する途中休憩した時に主人忠衛門が秀吉から紙子の陣羽織を賜ったという。 」『宇津ノ谷集落』⬅リンク を上る。『車屋』各家に屋号が掛けられていて、古い風情を残していた。『伊勢屋』。『寿ゞ家』。右上には『明治天皇御小休所跡』碑。ここが『お羽織屋(おはおりや)』。『秀吉公のお羽織の由来』。「天正十八年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津谷に休息した。その際、当家の祖先が馬の沓を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話しをしたので、帰りに立ち寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙、裏はカイキ、後に家康もこの羽織を見て記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。東海道宇津谷 石川家 」しかしながら『拝観中止』の張り紙が。更に旧東海道を上っていく。左に折れ『明治宇津ノ谷隧道(明治のトンネル)』に向かう。すると一人で歩いているオバチャンが降りてきて私達に『明治のトンネルに行きますか?』と。これから行くと返事をすると、一緒に連れて行ってくださいと。直前にすれ違った人から猪が出るから注意せよと言われたとのことであった。途中、ここにも常夜燈が。5分ほど歩くと広場があり、東屋とトイレがあった。駐車場もあるので車で来ることもできるのだろう。たぶん宇津ノ谷集落入口を右に行けば(慶龍寺のあるほう)、ここまであがって来れるようであった。『宇津ノ谷地区カントリートレイル案内図』。『土木学会選奨土木遺産 2018 宇津ノ谷隧道群』のプレート。そして『明治時代のトンネル』前に。明治・大正時代(1876年~1930年)の東海道。今見られる「レンガのトンネル」は、明治二十九年に照明用カンテラの失火によって新たに造りかえたもので現在は、国の登録文化財に認定されていると。最初のトンネルは日本ではじめて通行料を取ったので「銭取りトンネル」と言われていたと。赤レンガに苔が生え、いかにも明治という感じだ。照明が付いているので怖くない。最初のトンネルは明治9年に作られた有料トンネルだったが、カンテラ火災で焼失。現在のトンネルは明治37年に作り替えられたものであると。トンネル入口からズームで。出口側の風景が解るのであった。『登録有形文化財』のプレート。中に入ってみると、白色系電球?の灯りがいい雰囲気。話し声も反射してエコーがかかり。『明治のトンネルの由来』我々二人はこの明治時代のトンネルは途中で戻り、峠越えをするために来た道を戻る。宇津ノ谷峠の全体を表す巨大な模型が展示されていた。『明治のトンネル』⬅リンク の詳細情報はリンクを参照下さい。真っ赤な桜が開花。寒緋桜でしょうか。宇津ノ谷集落を見下ろす。『宇津ノ谷』道標。岡部宿境まで二十六町(2.9km)。そして『東海道宇津の谷峠越え』の木札を発見。その奥には『旧東海道のぼり口』の案内板が。『東海道宇津ノ谷峠道の御案内』明治時代のトンネルの上部の山道をひたすら登る旧東海道山道。山道入口の下には『水道造築記念碑』が。 その2 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次丁子屋の前から丸子川に架かる丸子橋を見る。橋への入口の右にも石碑が。『細川幽斎(ほそかわゆうさい)公歌碑』『細川幽斎公歌碑』。細川幽斎(藤孝)は、戦国時代の武将で、肥後細川藩の始祖、細川忠興の父であるが、古今伝授を授けられた有名な歌人でもあった。 天正十八年(1590)三月八日、豊臣秀吉の小田原攻略の先陣として、うつの山路を越えて、ここに差し掛かった時、地元の人が「 まりこ川 」 というのを聞いて、詠んだ歌といわれる。『人数には たれをするかの 丸子川 けわたす波は 音はかりして』再び丸子橋から『丁子屋』を振り返る。丸子橋を渡る。橋を渡り終えると、右手に『丸子元宿高札緑地』と書かれた石柱が。『高札場』説明書き。高札場とは、江戸時代に法度や掟、犯罪人の手配などを書いた木の板(高札)を掲示した施設で、多くの人の目を触れるように、集落の中心や人通りの多い街道沿いなどに設けられていた。丸子では、昭和56年頃に津島神社で高札が発見され、それに基づいた複製品がここに掲げられていた。復元された『天和の高札』。『定 忠孝奨励諸法度』。「一、忠孝をはげまし、夫婦・兄弟・諸親類尓むつましく、召使のものに至るまで憐愍をくはふる べし、若不忠・不孝之者あらは可為重罪事一、萬事おこりいたすべからす、屋作・衣服・飲食等に及迄倹約を可相守事一、以悪心、或いつはり或無理を申懸或利欲をかまえて、人の害をなすべからす、惣て家業を 徒とむへき事一、盗賊并悪党もの有えば訴人尓出すべし、急度御褒美可被下事 附 博奕竪令制禁事、一、喧嘩・口論令停止之、自然有之時、其場へ猥尓不可出向、又手負たる者をかくし置く べからず事一、被行死罪の族有之刻、被仰付輩之外、不可駆集事一、人売買竪令禁止之、并年季尓召仕下人男女ともに拾ヶ年を限べし、其定数を過は可為罪科事 附、譜代之家人、又は其所尓住来の輩、他所へ相越在付、妻子をも令所持、其上科なき ものを不可呼返事、右條々可相守之、於有違犯之輩は可被処厳可旨所被仰出也、仍下知件如 天和二年五月 日 奉行」『定 宿駅諸法度』。「一 御朱印伝馬人足之数御書付之外おほく不可出事 一 御伝馬并駄賃之荷物は壱駄四十貫目人足之荷物は壱人に付而五貫目に限るべき事 一 丸子宿から府中迄駄賃銭一駄に付而四十七文、乗懸荷は人共に同前荷物なくして のらば三十壱文、人足賃は壱人弐十四文、岡部へ七十九文、荷なしに合乗は、 五十壱文、人足賃は四十文但夜通しいそき相通る輩は荷なしに乗というとも 夜の分は壱駄荷の積に駄賃銭可取事 附 五貫目迄之乗懸荷物は荷なしに乗る駄賃銭同前たるべし、それよりおもき荷物は 本駄賃銭可取事 一 人馬之賃御定之外増銭を取者在ては、可令籠舎并其町之問屋年寄は過料鳥目五貫文に宛 人馬役之者は家一軒は百文宛可出事 一 御伝馬駄賃之荷物は其町之馬不残可出、若駄賃馬おほく入時ハ在々所々へやとい 荷物遅々無之様に風雨之節も可出之往還之輩無子細而理不尽之儀於中懸は可為越度 又往還之者に対し非分なる儀有えは可為曲事 一 道中次人足次馬之員数たとえ國持大名足りと言うとも家中共に東海道は一日に五十人 五十足に過べからず此他之伝馬道は弐拾五人弐拾五足に限るべし 但 江戸京大坂は格別たるべし勿論道中にて人馬共に追返すべからざる事 【以下 略】 天和ニ年五月 日 奉行」『條々 毒薬にせ金等禁制』。 「一、毒薬并にせ薬種売買之儀弥堅制禁之、若於商売仕者可被行罪科、たとひ同類たりと いふとも、訴人に出る輩ハ急度御褒美可被下事一、にせ金銀売買一切停止たるべし、自然持来にをひてハ、両替屋にてうちつぶし其主に可返之 并はつしの金銀、にせ金銀は金座・銀座へつ可はし可相改事 附、にせ物すべからざる事一、寛永之新銭、金子壱両に四貫文、勿論壱分には壱貫文たるべし、御料・私領共に年貢収納等 にも御定之員数たるべき事、一、新銭之儀、いづれの所にても御免なくして一圓不可鋳出之、若違犯之輩有之は可為罪科事 附、悪銭・似銭・古銭此外撰べからざる事一、新作の慥ならさる書物商売すべからざる事一、諸色の商売、或一所に買置志めう里或申合、高直にいたすべ可らず事一、諸職人申合、作料・手間賃等高直にすべからず、惣て誓約をなし、結徒党儀可為曲事たる事右條々可相守、此旨若違犯之於有之ハ可被処厳科者也、仍下知件如 天和二年五月 日 奉行」『カフェ&ギャラリー 喫茶去 夢想庵(きっさこ むそうあん)』。丸子川沿いを進む。国道1号線への合流手前の右側、二軒屋公民館横にあった『御堂』。『歴史の道 東海道のご案内』。「この道筋(みちすじ)は江戸時代の東海道 です。国道1号の拡幅によって、かっての面影は全く残っていませんが、西へ向かえば東海道の難所宇津野谷峠(うつのたにとうげ)、東へ向かえば丸子宿です。赤目ヶ谷(あかめがや)の起木神社(おききじんじゃ)には、源頼朝上洛の折の梅ノ木にまつわる伝承があり、神社の山手には、幕臣の近代茶業の振興に貢献した多田元吉の墓所もあります。また長源寺には国学者野沢昌樹の墓所もあります。」現国道1号線合流手前まで進む。『ようこそ丸子路へ』。現国道1号線脇の旧東海道左手にあった『丸子紅茶』、そして水車。丸子は明治初期日本で初めて紅茶の木の栽培を始めた「日本紅茶の発祥地」。旧東海道・静岡市駿河区丸子地区を更に進む。左手にあったのが『臨済宗 長源寺』。『超樹(おきぎ)天満宮』入口の石鳥居。起木天神社とも、起樹天満宮ともいう。祭神:菅原道真公。場所:静岡市駿河区丸子6625。国道1号線「赤目ヶ谷」交差点から北側の側道に入り、約500m。臨済宗妙心寺派「長源寺」の奥にある。駐車スペースあり。建久6年(1195年)、上洛のため源頼朝が当神社の前を通るというとき、紅梅の大樹が道の中央に倒れていた。頼朝は、通行の妨げとして伐採を命じた。ところが、倒れていた梅の木は、その夜のうちに元通り起き上がった。以来、当神社を「起木天神社」あるいは「起樹天満宮」と称した、という。残念ながら、その「起き木」は枯れてしまったが、その一枝は今も当神社に納められているそうである。なお、菅原道真公が紅梅を愛したことから、かつては当神社の境内には百本以上の紅梅が植えられていたといい、そもそも「赤目ヶ谷」という地名は、元々「赤梅ケ谷」と称していたのが訛ったものという。庚申堂とその手前左に天保15年(1844)の庚申塔が。多田元吉が寄進したと伝わる『起木天神碑』。『丸子 赤目ヶ谷 起木天神碑文』。「 風は松声をとどめて静かに、山は跿馬を含みて淵し」 『日本近代茶業之先駆者 多田元吉翁碑』日本で初めて紅茶の生産に取り組み、近代日本茶業の貢献に尽力した多田元吉翁の功績を称える碑。多田元吉の名前は初めて目にしたが「幕臣だった多田元吉は、明治維新後この地を開墾して茶を植え、更に茶の研究のため中国やインドに渡り紅茶の製造技術を習得し、その時、インドから紅茶用の茶の木を持ち帰ったのが日本の紅茶の始まり」と。杉山彦三郎らに茶の栽培・製造を指導するなど、多くの茶業人に大きな影響を与えたのだと。赤目ヶ谷の京方入口、長源寺の境内に鎮座する『起樹天満宮』。明治初期にインドから紅茶製造の技術を持ち帰り、丸子に茶園を開いた多田元吉に由来があるらしい。長源寺境内には多田元吉の墓をはじめ、元吉が寄進したと伝わる起木天神碑や、インドより持ち帰った紅茶原木がある。奥にも末社が。『絵馬』名馬:生唼(いけずき) 名馬:麿墨(するすみ)生唼は宇治川の先陣争いの際,佐々木四郎高綱の乗った馬。もと源頼朝の愛馬。麿墨は梶原景季の愛馬として知られた名馬の名前。隣りにあった『霊泉山 長源寺』を訪ねる。山門を潜って境内へ。境内に入ると羅漢さんがずらーっと墓地への道沿いに並んで出迎えてくれた。ユーモラスな顔と仕草は疲れを忘れさせてくれるのであった。今にも声を出しそうに。美しい境内。『早百合水子観音菩薩』。小さな観音像が並んでいた。朱の欄干の橋(かない橋)の向こうにも。『丸子弁財天』。子育観音菩薩尊(右)と耳地蔵尊(左)。本堂。扁額『霊泉山』。『六地蔵』。多くの色彩豊かな風車が。風車が回る姿は仏教の教えの1つ、「輪廻転生(りんねてんしょう)」を表しているのだと。『丸子路観光案内図 長源寺・起木神社』。「長源寺は宝台院 の末寺として、寛保元年(1741)慈悲と心の安らぎの観音様を祭ったお寺です。山門左側正面に、平成元年に建立された高さ3mの座像で、観音菩薩が三人の子供を抱きよせた石仏の「早百合水子観音菩薩」の供養塔がある。境内には、幕末の国学者野沢昌樹 の墓がある。昌樹翁は甲斐の人で、明和事件(1767)で尊皇の志士で有名な弟の山県大弐が処刑されたので、駿府丸子長源寺に移り住んだ。時に府中に寓居し、国学、医学の道を教えた人だった。木枯の森の本居宣長撰文の碑も建立された。寛政12年(1800)79歳で没し、縁り深い長源寺に葬られた。辞世の歌に 心引く ほたしなき身は 梓ゆみ かへらぬ旅の 道にまよわず 昌樹 鳥居の奥に、源頼朝公縁りの起木神社が祭られている。平安中期に学問の神として知られる菅原道真公を御祭神として鎮祭された。当社は古来神域に紅梅が多く「赤梅ヶ谷」と言われ、何時しか「赤目ヶ谷」となった。春秋二度の例祭日には「合格祈願」「雷除けの神」として信仰篤く、遠近より参詣者で賑わっている。」墓地の中央にも大きな水子供養の観音像が。 その1 に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.04
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今日から次の『旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)』のブログアップを始めますが今回はチョット長くなりますが、日常生活への寄り道を。昨日早朝に、趣味の養蜂の巣箱の内検を行いました。暖かさが増し、菜の花から桜そしてクリムソンクローバーと花は変わって来ている中で日に日に群勢を大きくしています。現在はこの巣箱も2階建て、2階の巣箱を外すと全面にミツバチが。新たな巣(新居)も盛り上げています。そして巣枠の上部には、蜜を為、真っ白な蜜蓋を被せ蜂蜜が濃縮・完成した場所も拡がって来ています。そして光っている部分は、採って来た蜜を為め、羽を震わせ風を送り蜜を濃縮しているのです。そして濃縮が終わると、白い蜜蓋を。。ご近所の農家の畑は一面のクリムソンクローバーが開花中。このクリムソンクローバーなどマメ科の植物は、土壌を肥沃に、マリーゴールドなどキク科の植物は、病害虫対策に特に効果的といったように、それぞれ目的にあった植物が緑肥作物として植えられているのです。そして我がミツバチはこのクリムソンクローバーが大好物なのです。そして食べきれずに残った冬キャベツにも花が咲いています。そしてこのキャベツの花にも我がミツバチが訪花していました。------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は3月20日(水)、『旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)』に向かいました。いつもの電車で向かい、この日も快晴、富士山の姿を車窓から楽しみながら。安倍川駅に定刻に到着し旧東海道歩きのスタート。時間は8:38過ぎ。この日の旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)のコースを赤線で。東海道線は、安倍川駅手前で旧東海道と離れ、再び藤枝駅近くで近づくのである。安倍川駅から旧東海道に向かい、旧東海道の分かれる「佐渡」交差点を進むと右手にあったのが『子授地蔵尊』。子供に恵まれない夫婦がここの地蔵を借り受けて信仰すれば子供が授かったと。旧東海道(県道208号線)を進む。丸子宿の後ろの山々が見えて来た。地蔵堂を過ぎてしばらく歩くと旧東海道の松に出会った。『ようこそ丸子宿 旧東海道松並木』「江戸幕府は街道を整備するにあたり、道の両側に松の木を植えました。夏の日除けか、冬の西風よけのためか?この松は、東海道の名残の松です。手越から丸子宿入口まで松並木が続いていました。この所は「大曲」と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、土手には笹が生えていました。戦後までは人家も明かりもなく、夜になると「オバケ」「オイハギ」が出没すると噂されほど淋しい場所でした。」『丸子宿』道標、岡部宿境まで二里(7.5km)。旧東海道が左手に分岐する交差点。左側に行くと旧東海道へ。『ようこそ 丸子宿へ』と書かれた木板が。『この先丸子宿』、『丸子名物とろろ汁・丸子紅茶』の文字。丸子は日本の紅茶発祥の地。そして『国指定名勝史蹟庭園 吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)』の文字も。この寺は今川氏に仕えた連歌師宗長ゆかりの寺。天柱山や丸子富士を巧みに取り入れた借景式の庭園は、国の名勝・史跡に指定され、京の東山を模した竹林から登る月の風景も優れた寺として知られていると。『東海道 丸子宿』道標がここにも。東木戸まで230mと。日本橋から46番目(約181km)の丸子一里塚跡の『一りつかあと』石柱。京三条大橋からは69番目で実測約333km地点(七里の渡しを27.5km、天竜川池田の渡し迂回分を+2kmとして測定)にあたる。歩道上にあり、左右にポールが立てられていた。気がつかないことがないようになのか?通行人がぶつからないようになのか?『大正十四年七月 静岡市』と。更に丸子宿への緩やかな坂を上って行った。『丸子宿 江戸方 見附跡』。この場所から道が急に狭くなっていたが枡形の名残りであろう。ここからが丸子宿。そして入口の枡形。『ここは海抜10.2米』の木札も。道路の反対側には『丸子宿 これから丸子宿 此処が江戸方見付跡』。 「東海道五十三次のうち丸子宿は日本橋から四十六里数えて二十番目の宿でした。宿場は街道に沿って三百五十間、規模は小さいが正式な宿場でした。 宿場の入口(江戸方)出口(京方)に見付という場所があり、街道の見張場の役目をしていました。 ○本陣:建坪二百八十坪門構、玄関付の大きな公認の宿泊所でした。 参勤交代の殿様や幕府の役人勅使等が利用する宿でした。 ○脇本陣(二軒):本陣に準ずる宿でした。 ○問屋場:宿場から宿場へ荷物を継ぎ送る伝馬業務を担当していた。 丸子宿は小さい宿場でしたが常に百人の人足と百疋の馬を備えた。 ○七里役所:徳川家紀伊殿様の直属の宿泊連絡所 ○旅籠屋:大二軒 中十六軒 小六軒 ○茶屋:めし・茶・酒・団子等と共に近在からの産物を販売していた。 この中に丸子の山から掘出した山芋が「とろろ汁」として名物となった。 左手に老木が旧東海道を覗き込むように。階段の上には朱の鳥居が。『東海道 丸子下宿』、「ここは海抜17.1米」と。「歴史の道 東海道のご案内この道筋は、江戸時代の東海道です。ここ丸子宿は文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家を設けたのが起源といわれています。今の元宿といわれる辺りです。戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長も「丸子という里、家五,六十軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と記しています。江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。これを助郷制度といいます。ここは東の見付を通り丸子宿に入ってきた所です。見付は、宿場の出入口にあり、往来を監視する機能をもっていました。現在、宿通りと呼ばれるこの通りに、往時を偲ばせるような建物は残っていませんが、本陣跡、脇本陣跡の碑や格子戸の残る家、間口が狭く奥行きの深い家並みなどから、丸子宿のようすを思い起こすことができます。天保4(1843)年の『東海道宿村大概帳』では、宿内町並み東西7町、惣家数211軒、そのうち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠24軒、人口895人、と記録されています。丸子宿には、お七里屋と呼ばれる紀州藩御用を務める機関もありました。」丸子川畔に祀られる『水神社』。丸子川を鎮め宿場を水害から守って来たのであろうか。しかし水神社が鎮める丸子川に、この日は水は全く無かったのであった。「御詠歌 駒繁く身は清浄の事ならず、諌の参らす」と書かれた祠。民家の如き建物せあったが?しかしその壁には。『丸子宿年表』が掲げられていた。『江戸時代の丸子宿』も枯木を割って。「東海道宿村大概帳(天保十四年)抜粋 東海道「丸子宿」駿府町奉行所支配所一、位置 江戸より四十六町六里四十五間(約百八十四粁) 府中宿へ一里十六町 岡部へ二里 一、宿内家並 東西三百五十間(約六百三十米) 一、宿内人別 七九五人 男三六六人 女四二九人 一、宿内家数 二百十二軒 一、本陣 建坪二百八十坪 門楼玄関付 一、脇本陣建坪百七十五坪門楼玄関付 一、脇本陣建坪五十六坪 門 玄関なし 一、旅籠屋二十四軒 大二軒 中十六軒 小六軒 一、問屋場一ヶ所人足百人 約百疋 問屋(責任者)一人 年寄(補助者)五人 張付(記録者)八人 人足指(人足指図)五人馬指(馬指図)六人 一、高札場一ヶ所 宿西入口 建 一、見付 東見付(江戸方)西見付(京方) 徳川家康は江戸を本拠地として京、大阪との重要な交通手段として東海道の整備を進めた。御用箱御用物の輸送手段として東海道沿線に宿場を設けた。 旅行く人の利便を図ると共に宿場から宿場(継送する伝馬事業を開設した。また参勤交代の大名殿様が利用する本陣、脇本陣を設置させた。 一里塚 江戸日本橋から四十六里(二十一番目) 」創業110余年の『しらい酒店』「三州屋」の屋号で、先祖が三河より移住してきた三州瓦の職人であったと言い伝えられている所以であると。『丸子宿 問屋場跡』『史蹟 丸子宿本陣跡』。丸子宿が、東海道伝馬制度によって宿場町と定められたのは、関ケ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)です。江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場数は200余り。宿場町は、本陣・脇本陣等が設けられており、本陣は参勤交代の諸大名、幕府の役人、勅役や公家等の宿泊所で、大名宿とも言われたと。さらに狭い旧東海道を進む。歌川広重「隷書東海道・鞠子」雪の鞠子宿ですが、こんなに直角に左に曲がる場所は何処だったのでしょうか?。『明治天皇御小休所跡』と『丸子宿脇本陣阯』。この近くに『鞠児学校跡』があるはずであったが、発見できず。『お七里役所跡』江戸時代の初期、寛政年間、紀州徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では、《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配置したと。更にカーブに沿って旧東海道を進む。古い佇まいを見せる「丁子屋」の姿は安藤広重が描いた丸子宿の様子とほぼ同じで、街道の茶屋然とした藁葺屋根が印象的。眼の前に丸子宿の名物とろろ汁の『丁子屋(ちょうじや) 定休日』の文字が。慶長元年(1596年)。時は猛々しい戦国時代。駿府の町が目の前で焼き払われ、豊臣秀吉は小田原城征伐のため兵を挙げ宇津谷峠を通過。そのような中、初代・平吉はのれんを掲げ、ここに丁子屋が創業した。今でこそ「とろろ汁の丁子屋」として親しまれているが、当時はお茶屋として開業したと。その後、富士山の大噴火、大政奉還、世界大戦など時代の転換期にも直面。初代がどのような“想いや希望”を抱いて創業したのかを知る由もないが、丁子屋は現在まで場所を変えること無く、ここ東海道の丸子宿で400余年を過ごして来たのだと。この日は水曜日なのであったが・・・月末の水曜日?。店内はこの様になっていると。現在の店主。そして、これを楽しみたかったのであったが・・・。現在でも丸子の山から掘出した天然の『自然薯』を使っているのだと。自然薯の皮ごととろろにしていると。そして香り高い焼津産の鰹節を使用し、しっかりと旨味の効いた味噌汁を作ります。味噌と鰹、大地の恵みと海の恵みを合わたこの味噌汁を混ぜ、味わい深いとろろ汁が出来上がるのだと。仕上げに卵を加えているのだとも。『千寿の前』案内板。丁子屋の周囲にはたくさんの歌詞の碑が並んでいた。これは芭蕉句碑。大津の荷物問屋で門人の乙州(おとくに)が江戸へ下るときに餞別として贈った句。『梅若菜 丸子の宿の とろろ汁 芭蕉翁』この石碑は?丁子屋は茅葺屋根だけの小さな家だと思っていたが、この部分も丁子屋の一部の勝手口であろうか。「丁子屋」の前に、「辰石」(たついし)と呼ばれるくさびの痕が残る石が置かれていた。「徳川家康は駿府城築城にあたりその石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、三百七十余年目前の旧東海道の下で眠っていたものを丙辰(1976年)正月、電話ケーブル埋設事業の際掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に昇った。丸子の縁起ものとして辰石と名づけました。」『十返舎一九 東海道中膝栗毛の碑』。東海道中膝栗毛の中で、茶店の夫婦が喧嘩を始め、女房が亭主にとろろの入ったすり鉢を投げつけてとろろまみれになって滑って転ぶ大騒ぎになり、結局弥次さん喜多さんはとろろ汁を食べそこなったという話を記したもの。『けんくはする 夫婦は口をとがらせて 鳶とろろに すべりこそすれ』と詠んだのだと。『岡本かの子の碑』。「午前の陽は流石に眩まぶしく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んで来た。別に変った作り方でもなかったが、炊たき立の麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のような匂いのする自然薯は落ち付いたおいしさがあった。私は香りを消さぬように薬味の青海苔のりを撒ふらずに椀わんを重ねた。 岡本かの子「東海道五十三次」より」丁子屋には歌川広重の東海道53次の丸子宿の絵が掲示されていた『東海道五拾三次の内 丸子 名物茶屋 広重画』。「芭蕉の句「梅 若菜 丸子の宿のとろろ汁」と詠われた丸子宿の情景。横田山を背景に大きく詳細に描かれた茶店には「名ぶつ とろろ汁」と書かれた看板が立てかけられている。床机に腰掛けた旅人が大きな口を開けて、名物のとろろ汁を美味そうに食べている。」当時、丁子屋では早春にのみ『とろろ汁』を出していたのだと。よって『名ぶつ とろろ汁』の看板は取外し可能になっているのだと。そしてとろろ汁が無い時には、看板のごとく茶屋として「お茶漬け」「酒さかな」を提供したのだと。店の中には、巻き藁に刺さった魚も吊るされている。干し柿も見える。歌川広重の保栄堂版「東海道五十三次」の初版では「丸子」、しかし後刷りになると「鞠子」と表記されていると。「丸子」は「まるこ」と読み間違えてしまいそうなので、誰もが読める「鞠子」を当てたのではないかと。しかし広重以前の葛飾北斎は、すでに「鞠子」と表記しているので、事実は??であると。この人が自然薯堀りの男で、丁子屋に自然薯を収め、一杯やった後に帰路につく姿を描いているのだと。掘り上げた自然薯を折らない様にこの棒に括り付けて養生して運んできていたのだと。腰に下げた巾着には、この日の稼ぎが入っているのだと。なるほど巾着の重みが感じられるのであった。『東海道五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道 鞠子』「松園庵芝守 通りぬけ するかごもあり とまつたり 神楽のきよくの まりこ宿とて」「鞠子宿は東海道中で最も小さな宿場でした。店先では旅人が腰掛けて、とろろ汁をすすっています。とろろ汁は松尾芭蕉の俳句や、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の中にも登場し、鞠子名物として知られていました。店内の壁には白粉の広告や錦絵が貼られています。よく見ると広重の名作絵と見られる作品もあるようです。図に添えられた狂歌の中には「神楽のきよく(曲)のまりこ(鞠子)宿」とありますが、この地域一帯は現在に至るまで神楽が盛んで、それらは「駿河神楽」と総称されています。」広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)鞠子』。この地の名物の梅の姿が前後に描かれている。『江戸時代の丸子宿』がここにも。「一 丸子宿の成立 慶長6年(1601)徳川家康により東海道の伝馬駅として指定される一 位置 江戸へ46里4町10間(約180粁) 府中へ1里16町 岡部へ2里一 宿内人口 総数795人 内 男366人 女429人一 宿内家数 211軒一 宿泊施設 本陣1軒 建坪280坪 脇本陣2軒 旅籠屋 大2軒 中16軒 小6軒一 問屋場 一ヶ所 人足100人 馬100疋一 高札場 一ヶ所 宿場入口に立つ」『丸子宿』道標。岡部宿境まで一里二十七町と。『旧東海道案内』丸子宿から岡部宿までの行程と名所、旧跡が示されていた。『はるこがねばな(春黄金花)』であると木札がぶらさがっていた。 ・・・つづく・・・
2019.05.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『弥勒歩みの跡(案内図)』。近くにある石塔、石碑等が示されていた。「江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗(げんぞく)して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を“安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の由来となった」と記されています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり』と著され“弥勒茶屋”と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。弥勒町は、駿府の城下町の西の見付けの前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けていました。近代の安倍川は、徒歩(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年の渡し船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行(とくこう)を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。」『駿府キリシタン殉教之碑』が本通り(県道208号線)の右側に。「 慶長17年(1612)年3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアら直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時2つあった駿府の協会を破壊した。禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、8名が逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。しかし、あらゆる責め苦を耐え忍び、いかなる甘言をも退けたそのうちの6名は、同年11月1日、額に灼熱の鉄で十字架の焼印を押され、市中引き廻しの後、正念寺(当時は安倍川原千日堂)に着いた。両手の指、足の腱を切られた彼らは、そこにそのまま放置された。このうちジョアン道寿は同夜、ペドロ角助は翌朝早く息絶え、駿府キリシタン殉教者の先達となった。」石碑の両脇には、白きユリの花が手向けられていた。そして三角形の弥勒緑地には『安倍川の義父の碑』が。「この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文三年(一七三八)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和四年(一九二九)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川の近くのこの地に碑が建てられたのである。 碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず。 財に臨まずんば義士の心を知らず。 」『由井正雪公之墓址』「軍学者として名高かった由井正雪は、1651(慶安4)年7月26日、市内梅ヶ崎の旅籠で捕り方に包囲され自刃した。江戸幕府の武断政治による浪人の増加をうれい、江戸・駿府・大坂で幕府転覆のため蜂起する計画であったという。この慶安事件は、その背後関係も含めて不明な点も多く、さまざまな憶測をよんでいる。正雪は駿府宮ヶ崎の出身(由比説もあり)といわれ、この時宮ヶ崎に住んでいた両親や親戚も捕らえられた。河原では、正雪の親類ほか43人も処刑されたという。河原にさらされた正雪の首を埋めた塚は、はじめ正念寺にあったとも伝えられる。」安倍川餅の老舗『石部屋(せきべや)』⬅リンク を訪ねたが既に?この日は閉まっていた。時間は16:36。石部屋の創業は文化元年(1804年)。「安倍川もち」の誕生は慶長年間(1596-1615)だという。安倍川上流では、金の採掘が盛んであり、検分に訪れた徳川家康にきな粉をまぶした餅を「金粉餅(きんこもち)」と称して献上したところ、いたく気に入り「安倍川餅」と命名したのが始まりという。元々の「安倍川もち」は餅に、きな粉をまぶしたもの。のちに餡をまとった餅が作られるようになる。「安倍川もち」の名を世間に知らしめたのは、砂糖がまだ貴重品であった頃に、駿河特産の白砂糖を上に乗せたことで評判になったそうだ。本来ならば・・・。 【https://www.travel.co.jp/guide/photo/10024/3/】歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』。左手には「石部屋」の中で餅をつく姿が描かれているのだ。杵でついているのは、女性のようだ。旅人はリラックスして大きな口を開けて、そして後ろにぶら下がっている扇子?は蝿避けであろうか?石部屋のこだわりは、絵にもあるように、毎朝ついた餅を注文を受けてから仕上げるという、作り立ての味!もち米100%のつきたての餅に、こしあんを絡めたものときな粉をまぶし上から白砂糖をかけたもの、2種類の味を楽しむことができるのだと。しっかりとした米の旨味のある餅に、滑らかでほど良い甘さのこしあんときな粉の香りが広がる、とても上品な味であると。この味を楽しみたかったのであったが・・・・・。きな粉の上に砂糖を乗せて。現在の15代目店主。そして安倍川に架かる安倍川橋(あべかわばし、別名弥勒橋)を渡る。安倍川橋は、安倍川に架かる静岡県道208号藤枝静岡線の橋。『安倍川橋の歴史』。1871年(明治4年)6月 - 安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する ことになったが、秋冬期(10月〜2月)は川の流量が少ないため、 この期間に使用するための木製の仮橋を架設した。1874年(明治7年)3月24日 - 本設の木橋が完成し、「安水橋」と命名。全長509m。 総工費は当時の金額で7,000円。渡り賃は一人金4厘。 これが県内で最初の橋。 その後、大井川、天竜川、興津川、富士川と橋が架けられる ようになった。1896年(明治29年)10月 - 県に移管され、通行料が無料となる。1903年(明治36年)4月 - 架け替え(木橋)。総工費は当時の金額で14,900円。1923年(大正12年)7月23日 - 鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称。 総工費は当時の金額で594,000円。1968年(昭和43年)4月 - 歩道を新たに設置。1990年(平成2年)3月 - 右岸側一部(2径間分)架け替え。1923年(大正12年)の安倍川橋の工事風景の写真が示されていた。1968年(昭和43年)4月 - 歩道を新たに設置したと。現在の年齢は96歳であると。1968年(昭和43年)4月に完成した歩道橋を歩く。下を流れる川は『一級河川 あべ川』。安倍川は静岡県と山梨県の境にある、大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する川。清流としても有名で、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川であると。橋の入口の道路の反対側の奥にあった『関東大震災供養塔』を訪ねたかったが、交通量が多く道路を渡れなかった為諦めたが、振り返ってカメラの望遠で何とか確認できたのであった。写真中央の2本の石碑が供養塔。更に安倍川橋を進む。下流側。流れが全く確認できず。上流側も同様に。上流左に見える山。この裏を流れているのが藁科川で安倍川に流れ込んでいるのである。『東海道五十三次之内 府中 安部川 / 歌川 広重』。「駿河の国府の府中は現在の静岡市であり、安倍川の川辺にある。山を背景に川を広く描き、川渡りの様子がよくわかるように描かれている。輦台渡しや駕籠に乗った女性、肩車で渡る姉さんかぶりの女性、荷をつけた馬を引く人足(にんそく)などを丹念に描き分けています。女性の旅人の緊張感も表現されている。」山の姿が、上の写真にそっくり!!広重もこの方向からの安倍川の川渡りを描いたのであろう。輦台に乗せた駕籠に乗る女性が人夫を振り返り「大丈夫?チャント渡してよ!!」と。この女性は人夫にオンブされて。この日の安倍川はひたすら砂利の世界。実は今年の1月下旬?のニュースで、安倍川では雨の少ない状況が続いたため、水の流れが途切れる「瀬切れ」⬅リンク が発生しているとの報道があったことを想いだしたのであった。砂利の採石場にもなっているのであろうか?そして下流側には新幹線の姿が。そして安倍川橋を渡り終わる直前で、川の流れを発見したのであった。これも春になり雪解けが進んだためなのであろうか。安倍川を渡り終わり振り返る。『千手(せんじゅ)の里 手越(てごし)』案内ボード。『千手』とは千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年(1188年))で平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。源頼朝の妻北条政子に侍する。寿永三年(1184)捕らえられ鎌倉に送られた平重衡は身柄を狩野宗茂に預けられたが、身の回りの世話をしたのが千手前であったと。ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれていると。手越地区の『史蹟案内』。現国道1号線の手越原東交差点を通過。道路脇の表示。R1は国道1号線、数字184.258は日本橋からの距離であろうか?旧東海道を離れ、JR安倍川駅に向かう。東海道新幹線のガードを潜る。JR東海道線沿いに安倍川駅に向かう。そしてエスカレーターで改札口に。橋上駅から藤枝方面を。そして安倍川駅から帰路に。JR東海の『休日乗り放題きっぷ』。熱海~豊橋間で利用可能と。我々が使うコストメリットはあるや?安倍川は『あべかわ』であり『あべがわ』ではなかった。そして17:29発の電車で熱海駅に向かったのであった。この日の自宅からの『歩数』です。40,000歩超え、頑張りました。 その11 に戻る。 ・・・完・・・
2019.05.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に駿府・府中宿の散策を続ける。『静岡の由来』。「明治二年(一八六九)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決 同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた。以来百有余年富士を仰ぐふるさとの静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った。ここに市制施行九十年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす」。『駿府町奉行所址』。『駿府町奉行』。「駿府町奉行は、老中直属の組織で、町政全般の掌握から訴えなどの裁き、城下の警備や府中宿の管理などまで、駿府の町民生活に直接関わる広範な業務を担っていました。寛永9年(一六三二)に大手組町奉行として駿府城大手御門前のこの地に設置され、明治元年(一八六八)までに旗本を主に六十三人が町奉行に任命されました。町奉行の配下には、与力八人と同心六十人がいてその職務にあたっていました。」『里程元標阯』。「道路の始まりと終わりを、「起点」「終点」と呼び、その路線を示すものとなっています。起終点とは、起点と終点をまとめた呼び方です。 道路元標(げんぴょう)とは、道路の路線の起点や終点や経過地を表示するための標識のことで、大正9年に設置されました。明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれています。 また、起終点標とは、道路の起点や終点を表すための石標やモニュメントのことです。都市の中心地には、道路元標や、里程元標や、起終点標などがあります。」『札之辻址』。「江戸時代から昭和二十年まで呉服町と七間町の交差点付近には「札ノ辻町」がありました。東海道の道筋にもあたり、立ち並ぶ商家を訪れる人達などで賑わっていました。四ツ辻の中には幕府の政策や法令をかかげた高札場が駿府町奉行所により設けられ「札之辻」名の由来となっています。」『札之辻町』町名碑。「札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来します。 「元禄五年駿府町数井家数人数覚帳」によると、札之辻町の家数は十一軒、人数百三十二人でした。 高札とは、幕府の法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていました。札之辻界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。 また、近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。 昭和二十年、札之辻町は呉服町・両替町・七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。」七間町(ひちけんちょう)通りを更に進む。町名の由来には諸説あり、絹・米・油・魚・木綿等の座(同業者組合)が7軒あったとする説、道路の幅が七間(約13メートル)だったとする説、秤屋が7軒あったとする説などがある。七間町を貫通する七間町通りは、東海道府中宿と鞠子宿の間の経路となっていた。江戸時代には駿府の宿場としては伝馬町が栄えたが、1889年(明治22年)に鉄道の東海道線が開通するまで静岡でもっとも栄えた繁華街は七間町だったと。左手には大理石の球体のモニュメントが。「四十億年の眠りからさめて、石の沈黙がいまあなたをに語りかけます」と。静岡県と浙江省は1982年4月の友好提携以来、40年近くにわたり経済、文化、環境など幅広い分野における交流を積極的に促進し、相互理解と友情を深めて来ているとのこと。その関係のモニュメントなのであろう。そして確か浙江省の大理石は埋蔵量国内1位。平成3年(1991年)の文字があるから友好提携9年目のものか。両替町通りを進む右手に『駿府銀座発祥の地』の碑が。両替町の歴史は、慶長11年(1606年)、徳川家康によって駿府城の蓄財としての銀貨鋳造所(銀座)が旧二丁目付近に設置されたことに始まる。町名の「両替」は、銀座の業務として灰吹銀を買い入れ公鋳の丁銀と引き換えることである。また、この銀貨鋳造所の周辺には両替商が集積した。家康が隠居した後の慶長十七年1612年になると、銀貨鋳造所は駿府から江戸に移転した。この江戸に移転した銀貨鋳造所が置かれた土地が、東京都の銀座である。東京都の銀座は、江戸時代(特に慶長から寛永にかけて)には「新両替町」と呼ばれていた。江戸移転前のかつての駿府銀座の所在地である現在の静岡市の両替町(特に静岡駅に近い二丁目付近)は、静岡県最大の歓楽街となっている。また、江戸時代の銀座の中心的存在であった京都銀座は、現在では両替町通として名を残す。よって、今日の東京銀座のルーツはここ静岡にあると。更に右手に寺の如き山門が。静岡市葵区両替町一丁目に位置する『不去来庵(ふきょらいあん)』。「仙洞御所伝来の阿弥陀如来坐像を本尊とする、通称「伊伝」の名で知られた渡邉家の持仏堂。第二次世界大戦において焼失の激しかった静岡市中心部にありながら戦火を逃れ、明治・大正の粋を究める建造物として、国の登録文化財の指定を受けた。本堂には数々の意匠が施され、特に正面の左右扉にある漆喰鏝絵の金剛力士像は、静岡を代表する左官職人の森田鶴(かく)堂(どう)の手によるものです。」『不去来庵』と刻まれた石碑。『遍界山 不去来庵』。「伊伝」の通称で知られる渡邉家の持仏堂。光格天皇の御念持仏・阿弥陀如来像をまつるため1897年から18年かけて完成した。奥行き約9メートル間口約6メートル。明治・大正時代の技術の粋を集め、2000年に登録有形文化財に指定された。そしてその前には『東海道中膝栗毛 十返舎一九生家跡地』。駿府城の西、両替町通り沿いの住宅街のド真ん中に。「『膝栗毛』で名高い江戸の戯作者、十返舎一九は、駿府町奉行同心重田與八郎鞭助(べんすけ)・妻りへの長男として、明和二年(一七六五)両替町一丁目のこの地で生れた。幼名市九、通称七郎、名は貞一(さだかず)という。享和二年(一八〇二)三十八歳で『東海道中膝栗毛』を刊行し、一九の文名は大いに揚がり、以来文筆一本で生計を立てた我が国最初の職業作家と称された。若くして俳諧を始め、大阪では浄瑠璃作者としても活躍したが、後に江戸に出て自作自画の黄表紙を始め、洒落本・滑稽本・合巻・読本・人情本・咄本等に筆をとり、また、狂歌集・往来物等も多数出版した。生来まことに多芸多才の人で、武芸・香道・書法等にも通じており、絵師としても高い才能を認められている。一九は、継ぐべき重田家第九代を弟義十郎に譲って江戸へ出たが、義十郎に子がなかったため、一九の長男定吉が重田家第十代を継いだという。天保二年(一八三一)八月七日歿。六十七歳。浅草東陽院(現在は中央区勝どきに移転)に葬られた。戒名は、「心月院一九日光信士」とある。伝えられる辞世歌は、『十返舎一九研究』よりこの世をばどりゃおいとまと線香の煙と共にハイ(灰)さようなら」旧東海道に戻る途中、葵区梅屋町にあった『津島神社』。新通り角にあった『秋葉神社』。旧東海道とは異なる本通り(県道208号線)に一里塚があるようなので行ってみた。ネット情報の通りに『府中の一厘塚址』の石碑を発見。「一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、一里(約四キロ)ごとに直径七~八メートルの土饅頭を盛り、榎などの木を植えて旅人の目印にしたものである。 慶長九年(一六〇四)江戸(東京)の日本橋を基点として、東海道、東山道(中部や関東の地方)、北陸道(中部日本)の三街道に一里塚を設けた。しかし、現在では、交通機関の発達や道路拡張などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。 一里塚は市内長沼、本通八丁目、丸子、宇津ノ谷の四ヶ所に設置されていたが、いずれも原形をとどめていない。ここ本通の一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。 現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から二十八里の地点に築かれたもので、大正十一年、国の史跡に指定されているほどである。」旧東海道と言われている道とは異なる場所に設置されている。あえて人目に付きやすいように、現在の幹線道路に設置したのか、当時から設置場所が異なっていたのか不明??旧東海道に戻るべく本通り(県道208号線)を歩く。この先を左手に曲がり進むと静岡市葵区駒形通五丁目。現在は静岡県地震防災センターがある付近が駿府に在った二丁町遊郭の場所であると。大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。後にその一部は江戸に移され、吉原遊廓になった。蓬莱楼など代表的な遊郭は明治時代以降も続いたが、第二次世界大戦の静岡大空襲で焼失したと。『歌川広重・東海道五十三次 佐野喜版・狂歌入東海道 府中/二丁町廓之図皎月楼演子 たび人も こひをするがの 二丁まち おもひはふじの 雪とつむらじ』「するが」は、「駿河」と「旅をする」の駄洒落なのであろう。『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 二十 五十三次 府中」。「家康が将軍職を退いた後に住んだ駿府城。その城下町には宿場とともに昔から遊女街があり、多くの人で賑わいました。」新通りに戻り県道354号線が前方に。静岡環状線(県道354号線)の横断歩道を渡る。静岡中央警察署 弥勒交番の傍らに立られていたのが「安倍川の川会所(かわかいしょ)跡」の説明板。「江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。川越人夫 による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川 などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが川会所であった。安倍川にも両岸に川会所 があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃金の取り扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。この川会所は間口六間、奥行き四間半であり、五人位の裃を着た役人が務めていたといわれている。ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人六十四文、へそ上は五十五文、へそまでは四十八文、へそ下は四十六文、股までは二十八文、股下は十八文、ひざ下は十六文であったといわれている。」弥勒交番の後ろの三角形の緑地帯・弥勒緑地にあった大きな石碑。『安倍川架橋の碑』「この石碑は、宮崎総五郎氏が社会事業のためにと、明治七年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治四十一年に建てられたものです。」夢舞台・東海道『弥勒』の道標。同様なものが何故か本通り(県道208号線)側にも。 途中、こんなマンホール蓋も見つけた。右下に「2015」と書かれた消火栓カラー蓋。富士山、駿河湾、美保が描かれている。手前には家康が祀られている久能山東照宮。その右側には「大御所家康公 顕彰四百年」の文字。新しいうちは白文字だったそうだが、文字部分が凸部だったため色が取れてしまったらしい、とのネット情報あり。静岡市街には、カラフルな色彩、そして様々なデザインのマンホール蓋が私を楽しませてくれたのであった。 その10に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次伝馬通りの横田町西の大きな交差点を通過し、進むと右手にあったのが『東海道府中宿』の道標。「府中宿府中宿 は江戸から約44里(約176km)、品川宿から19番目の宿場です。東見付は横田町、西見付は川越町にあり、天保14年(1843年)には、本陣2軒、脇本陣が2軒、旅籠は43軒、家数は3673軒、人口は1万4071人の東海道 最大規模の宿場 でした。伝馬町には馬の手配や荷物の受け継ぎなど宿場の重要な業務を行う問屋場、大名や公家など身分の高い人が泊まる本陣・脇本陣、東海道には3か所しか設置されていなかった公用荷物の運賃を定める貫目改所などがあり、大変な賑わいでした。また、参勤交代の大名たちは、家康公の祖母の菩提寺である華陽院のお参りしました。家康公の墓所がある東照宮に向かう久能街道は、駿府の町に物資を運ぶ重要な道でした。」当時の地図をズームアップ。『府中宿 現在地図』『府中宿 東見附~上伝馬町・本陣』『府中宿 上伝馬町・本陣~梅屋町』『府中宿 梅屋町~安倍川』『久能山 東照宮道』碑。「東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通ずる久能街道はここから始まります。目の下に青い駿河湾、遠くに伊豆半島をみることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには300年にわたる平和な江戸時代を築いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。昭和20年代まで、この場所には、「久能山 東照宮道」と記した石碑がたっていました。もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた、静岡で最も古い街道の一つで、駿府の町に北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は、南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と、東西から人や情報が流れ込んだ東海道とが交差するところに発展したことになります。久能街道は古くから、駿府を支えてきた大切な道でした。」説明書きが車道側に向いていたが、読む人は・・・??と。『花応院(けよういん)門前町』「此町は元横田の内にて寺門前なるによって然唱へ(しかりとなえ)、寺につく地なり」と江戸時代の地誌「駿河志料」に記されています。町は伝馬町と鋳物師町(いもじちょう)に挟まれ東海道に面し府中宿の一画を構成しています。(中略)町名の由来となった玉桂山華陽院は元来智源院と呼ばれ、松平竹千代後の徳川家康公が今川氏の人質時代に養育にあたった外祖母源応尼(げんおうに・家康公の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に改めました。華陽院には源応尼の墓と並んで家康公の五女市姫の墓があります。」『ここは東海道府中宿』伝馬町東の横断歩道を渡る。『本陣 脇本陣跡』。『府中宿(伝馬町)界隈』「伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社があります。また、古くから久能や高松など駿河湾沿岸の集落との交易の道であって、江戸時代徳川家康公が亡くなり久能山に葬られてからは、参勤交代で往き来する西国の大名が必ず東照宮参詣の為に通った「久能街道」が華陽院門前近くの東海道から始まっています。」伝馬町交差点を直進。緩やかな右カーブの始まりの場所に石碑が2つ。『駿府 貫目改所跡』。「大名や寺院が委託する公用荷物の重さを量り、運賃 を定める検問所のことであり、制限以上のものには割 増金が課せられました。荷物を運ぶ伝馬役に負担がかからないようにする制度のひとつで、東海道では品川 宿、府中宿、草津宿の3箇所に設けられていました。」『上伝馬本陣 脇本陣跡』『東海道府中宿』「府中宿」は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の宿場の役割を担っていたのが、「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに四十三軒の旅籠が建ち並び、賑わいを見せていました。徳川幕府による参勤交代の制度が確立されるに伴い、勅使や大名達の宿泊場として各宿場に「本陣」「脇本陣」が設けられました。府中宿には、上伝馬町と下伝馬町に本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ設けられていました。下伝馬町の本陣は、下本陣と呼ばれた小倉家、脇本陣は平尾家でした。」幕末頃の駿府伝馬町『鳥瞰図』。更にカーブは続く。『府中宿 伝馬町』道標。『伝馬町の由来』 伝馬町の歴史は慶長十四年(1609)に家康公が駿府を町割して、東海道五十三次の宿(しゅく)と定めたことに始まる。宿には本陣、脇本陣、問屋などが置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑いを呈した。明治以後も静岡宿といったが、明治二十二年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった。以来、況不況の波を克服し、或は静岡大火、空襲の災禍にもめげず、人々は手を携えて住みよい街づくりに努力、県部の玄関口、商店街として今日の繁栄を見るに至った。ここに近代的な市街地再開発事業の竣工に当り先人苦心の跡を偲び、併せて未来への発展と、ゆかりの人々の多幸を念願して記念のしるしとする。」『伝馬町の由来』碑の左に在ったこの人形は?『伝馬町の由来』碑よりも先にこの人形像があったのであろう。別の場所にも同様な像を見かけたので。『上下伝馬町』。「東海道府中宿の一画に位置し、町名は伝馬の機能が設けられていたことに由来します。二軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所の宿場の機能が設けられ、数十軒の旅籠屋などが連ねていました。町内には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際に、従者の休憩所にあてられた法伝寺や新光明寺があります。また、東征軍参謀の西郷隆盛や山岡鉄太郎(鉄舟)とが江戸城の無血開城を決めた会見の地が静岡市の史跡に指定されています。明治二年静岡宿と改められましたが、大正四年には再び伝馬町になりました。」現在地。伝馬町西の交差点を越えて、ペガサート(商業ビル)前に『西郷・山岡会見之史跡』。ここは松崎屋源兵衛宅跡で、徳川慶喜(15代将軍)追討の為に江戸に進軍していた西郷と官軍に恭順を決した慶喜から全権を託された勝海舟の手紙を持った山岡が会見(1868年)した場所とのこと。西郷隆盛、山岡鉄舟の顔も。「西郷・山岡会見之史跡ここは慶應4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無 血開城されたので、明治維新史上最も重要な史跡であります。明治百年を記念して昭和43年3月9日建立」。『西郷・山岡会見の地』「京王4年(1868)江戸に向けて駿府に進軍した有栖川宮熾仁(たるひと)親王を総督府とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日にここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた。この会見において15代将軍徳川慶喜の処遇をはじめ、江戸城の明け渡し徳川幕府の軍艦・武器の引き渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定された。江戸城の無血開城が実現した。明治維新史の中でも特筆すべき会談として位置づけられるものである。」『山岡鉄舟』幕末の幕臣,剣客。通称鉄太郎。一刀正伝無刀流剣術の開祖。父は旗本小野朝右衛門。槍術の師山岡静山の家名を継ぐ。儒学,書,剣を学び,のち幕府講武所で剣術を指南。1863年清川八郎らと浪士組(新撰組の前身)を率いて上洛,1868年戊辰戦争の際には勝海舟に協力,駿府に西郷隆盛をたずね,江戸開城のための勝・西郷会談への道を開いた。維新後,明治天皇の侍従。勝,高橋泥舟とともに幕末の三舟と称される。『西郷隆盛 山岡鉄舟 会見の地』を漫画で案内。『新谷町(しんがいちょう)』。「駿府九十六ヶ町のうち 新谷町(しんがいちょう) 町名の由来については、江戸時代の地誌『 駿河記』に「新谷氏の居宅ありしゆえに名づく」と記されています。新谷町には江戸時代の一時期、小梳(おぐし)神社がありました。 現在、紺屋町に鎮座する小梳神社は、もともとっ駿府城三ノ丸内に祀られていましたが、寛永八年(一六三一)に新谷町へ移されます。 延宝三年(一六七五)には、新谷町から紺屋町へ移転しますが、その後も小梳神社の祭礼には、新谷町の神社跡地へ、神輿の巡幸がありました。 元禄五年(一六九二)の「駿府町数家数・人数覚帳」によると当時の新谷町の家数は八軒、人数は七十五人でした、 昭和二十年、伝馬町と御幸町へ改編され、新谷町の町名はなくなりました。」江川町交差点には『駿府城石垣の刻印入りの石』が。★大御所家康が天下普請で築かせた駿府城。 家康が将軍職を引退して駿府城へ移り住むことになり、全国の大名に普請(土木 工事)を命令する『天下普請』によるものであった。★駿府城の石垣に使われた石 石垣普請に参加した大名が、藁科川沿いの富厚里周辺や長尾川沿いの地域(いず れも静岡市葵区)や、大崩海岸(静岡市駿河区石部から焼津市浜当目)などから運 ばせた。★石に刻まれた印 石垣に使われた石の中には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が彫られ ているものがある。刻印は、石垣普請を命じられた大名、工事責任者、石の所 有権などを示す目印などの諸説があり、その役割は今も研究されていると。天下普請で築かれた城ということもあり、駿府城で使われている石材にはさまざまな刻印が残されているのだと。300を超える刻印⬅リンク が見つかっており、刻印の模様は150種類にもなると。この「鼓」(蝶にも見えるが)は加賀前田筑前守利常か?『江川町(えがわちょう)』。「「江川町」は、江戸時代から昭和二〇年までの町名で、伊豆国韮山の代官を勤めた江川家の先祖が、天正年間にこの地に住まいしたことに由来する、といわれています。駿府城の南東隅近くに位置し、街の中を東海道が通っています。城に面した町の一隅には、駿府用水に架けられていた石橋「鵰(くまたか)橋」の碑が建っています。この町には駿府の有力商人が多く住み、江戸時代の文化~天保年間に地誌「駿河国新風土記」を著した町人学舎新庄道雄が、江川町の郷宿三階屋に生まれています。「江川町」の名は、交差点や通りの呼称として今に伝えられています。」『御幸通り』交差点の先は東海道右側は御幸町、左側は江川町。江川町の町名の由来は、韮山代官、江川太郎左衛門の駿府屋敷があったためについた町名。江川太郎左衛門とは代々、江川家の当主が継いだ名前で、江川家は代々、韮山代官を世襲した家。韮山代官所とは言っても、担当範囲は駿河国、伊豆国をはじめ、武蔵、相模、甲斐国の天領で、かなり広い範囲。この広い範囲の民政を担当したのが韮山代官所であると。ただ、駿府は駿府藩が立藩されている時代がありますから、この時代は外れます。また、江川太郎左衛門の江戸屋敷は三田の慶応義塾大学の近くにあり、明治になり、福沢諭吉に売却されたため、一時、慶応義塾の外塾とされました。江川町、御幸町ともに府中宿には含まれない町であるのだと。(御幸町は駿府城代が住む町であったため)。『静岡県庁東館』は改修工事中。『静岡市役所(葵区役所)』の北側で『静岡御用邸跡』と記された石碑、案内説明板を発見。案内説明板はかなり新しい?「当地には明治三十三年から昭和五年まで、皇室の御宿泊所である静岡御用邸が置かれていました。明治天皇は西上の帰途などに度々、静岡御用邸に御宿泊され、御二階から富士山を眺めたと伝えられています。昭和天皇は昭和五年の行幸の際に御一泊され、浅間神社など市内各所を巡幸されました」御用邸は和風木造2階建ての重厚な建物とされ、市に払い下げられた後、永久保存対象だったが、昭和20年6月の静岡大空襲で焼失した。現在、往時の面影はなく、市庁舎新館のバス停前の目立たない場所に御用邸跡の石碑と明治天皇の歌碑があった。「はるかなる ものと思いし 不二の根を のきはにあふく 静岡の里」『静岡御用邸跡』石柱。『静岡市役所』前のモニュメント。『静岡市役所静岡庁舎本館』昭和9年に建築され、国の有形文化財とされている静岡市役所の旧館。駿府城側には静岡県庁が。県庁前交差点には『ガス燈』が。「ガス燈静岡でガス事業が開始されたのは明治43です。静岡駅前や七間町など市内6ヶ所にガス燈が点され、文明開化を告げる光として市民に親しまれました。この3基のガス燈は、静岡市制施行100周年と市庁舎本館改修工場落成を祝して静岡ガスが寄贈したものです。」静岡市役所御幸通り側静岡中央警察署側には『御用水』と『町方用水』説明ボードが。徳川家康公による駿府の町づくり、安倍川の治水とまちの用水を整備したことが書かれていた。市役所前の用水路(御用水)は駿府城お濠に現在も流れているのであった。今回は、時間の関係上、『駿府城(その1~3)』⬅リンクの城内には入らなかったが2017年にゆっくり訪ね、ブロスアップしていますので、リンクから訪ねて見て下さい。 その9 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次昼食後も「静岡鉄道」沿いの旧東海道を西に進む。「静岡鉄道」は静岡市中心部と清水区(旧・清水市)を結ぶこの路線と、静岡市清水区と駿河区に跨る丘陵「日本平」山頂の「日本平ロープウェイ」を保有している会社。かつては静岡市街地・清水市街地を走る路面電車、岡部町・藤枝市・吉田町・榛原町・相良町・浜岡町・大東町・大須賀町・袋井市・森町(すべて廃線当時の自治体名)を結ぶ鉄道路線や、観光用のリフトを保有していたが、いずれも昭和50年代初頭までにモータリゼーションなどの事由で廃止、バス転換などしている。現国道1号線に合流する手前で、旧東海道を離れ踏切を渡ると右手に大きな東鳥居が現れた。右手の社標には『静岡懸護國神社』と。大きな東鳥居を潜り進む。『平和の道標』「ここは平和の杜です。このお社は護国神社といいます。日本の平和と美しい山河や家族を護るために戦争で亡くなられた静岡県出身の約七万六千人の方々を神様としてお祀りしてあります。私達が豊かな生活ができるのは護国神社の神様のおかげです。神様は仲良しの子供が大好きです。「ありがとうございます」と感謝の心をもってお参りしましょう。」『見取り図』。そして拝殿前のニの鳥居。『拝殿』。靜岡縣護國神社の歴史は戦争と切り離せないもの。日清・日露戦争、満州事変、大東亜戦争などにおける静岡県出身者やゆかりのある人の戦没者を弔うため、明治32年、「共祭招魂社」として静岡市北番町に創建されました。その後、昭和14年に「靜岡縣護國神社」と改称し、同17年に現在の柚木に移転。終戦後は進駐軍の監視が厳しく(軍国主義的思想を排するため、)、一時「静霊(シズタマ)神社」と改称する時代もあるなど、その歴史は多難に満ちたものであったと。ズームで。神紋は「丸に桜」である。明治維新から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る静岡県出身の戦没者・殉死者7万6千余柱を祀る。『拓魂碑』。満洲国の崩壊により難民と化し、非命に斃れた(たおれた)人々を偲ふ(しのふ)。『あゝ拓魂』「民族の悲劇に散った満洲開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ。五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは、国家と運命を共にし国策に殉じたのである。かつて日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕日の満洲に眠る君たちを憶うとき、雄図空しく歴史の断層に斃れた非命に痛恨の涙はつきない。 日本人としてこの前にぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にすることなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである。開拓精神は創造発展の真髄、真理探究の道である。君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る。」従軍看護婦慰霊碑・『愛の灯』。手前左には詩碑が「捧従軍看護婦戦没者霊 大野恵造 朔北僻南砲煙間 看護傷兵自亦散 殉国婦是万輪花 気魄凛凛似白梅」詩意:従軍看護婦は北方へ南方へと派遣され、大砲の弾幕の中で、傷ついた兵隊さんの救護にかいがいしくあたった。しかし、その中で万輪の花が散るように、お国の為に多くの看護婦がむなしく散っていった。その気力はりりしく強く、寒風に芽を吹き美しく花を咲かせる白梅のようであった。」『比島派遣 鎮魂』。比島派遣 獨立歩兵第164大隊 元獨立守備歩兵第32大隊の英霊を偲ぶ・『ノモンハン事件慰霊碑』モンハン事件に従事した慰霊のために建立された。「此の碑はノモンハン事件に従軍して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。ノモンハン事件は昭和十四年五月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南ぷノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第二十三師団隷下の将兵であった。この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。特にノロ高地における凄惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであた。同年九月十六日停戦協定が成立したが、この間実に一万一千百二十四名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極まりないものがある。ここに幾度かの死線を乗り越えてきた静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈願としたい。幾久しい悲願実りてこの聖地 今ここに立つノモンハンの碑」『鎮の碑:満州第574部隊』。満州第574部隊 昭和19年グアム島に転進、玉砕した英霊を偲ぶ。「大東亜戦争熾烈なる昭和十九年二月十九日元満州遼陽に駐屯せる我が満州第五七四部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島の大宮島(グアム等)に転進しましたが、同年七月二十一日連隊長末永大佐以下で最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多の戦友の霊、永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立し、此の貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。」『内匠部隊之碑』内匠部隊長以下738名及び中部第36部隊英霊千数百名を偲ぶ。「昭和十七年三月二十日内匠部隊長以下七百三十八名中部第三十六部隊にて編成、三月二十日宇品港出港、バターン半島に直行攻撃参加、四月二十一日ミンダナオ島に転進、八月よりコタバト州警備戡定作戦参加、十二月二十日第三より充足更に一八、一九年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力千八百名となる。十九年九月部隊は米機約七十機によりコタバト地区で爆撃さる。敵機を撃墜し師団長より感状を受く。以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進、二十年四月一七日、米八軍コタバト地区に上陸、部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す。英霊千数百名ここに祀る。*由来終戦三十年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可を得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ。月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す」帰路は表参道を進む。『手水舎』。再び拝殿を振り返る。日本国旗がはためいていた。太鼓橋を渡り振り返る。石灯籠が並ぶ。『工學士 市川紀元二銅像』。明治期の陸軍中尉 日露戦争で戦死した最初の学徒出身兵。東京大学の校内にも抜刀姿の銅像が建てられたが、第二次世界大戦後、静岡護国神社境内に移されたのだと。『西村直己先生顕彰像』1949年の衆議院議員選挙に静岡1区(中選挙区)から出馬し初当選。連続10回当選。1960年第2次池田内閣の防衛庁長官として初入閣。一の鳥居。静岡鉄道の踏切を渡り柚木交差点へ向かう。現国道1号線・柚木交差点。東海道新幹線、JR東海道線の地下通路を進む。右手に折れ再び旧東海道を進む。『曲金(まがりかね)』道標。左手奥に『法蔵寺』が。山門、本堂をズームで。池田街道を進むと前方に高架のJR東海道線、新幹線が前方に。線路のガード下をくぐる。春日一丁目の交差点で現国道1号線と合流し、更に直進し伝馬町通りを目指す。歩道橋の反対側の階段下には『府中宿 東見附』の道標があった。写真の端に西見附まで3600mとの案内が見える。『府中宿』「横田町は駿府でも古い地名のひとつで、横田の名は平安中期の書物にも登場しています。江戸時代、府中宿は、上伝馬町、下伝馬町にそれぞれ本陣、脇本陣が設けられ、問屋場、旅籠が四十三軒もある東海道最大規模の宿場でした。伝馬町から呉服町、札場のある札の辻の七間町、新通り川越町の西見附まで二十七の町で構成されており、ここ横田町には、駿府城町に入るための東の入口である 『 東見附 』 が置かれていました。徳川家康公は、1607年に大御所として駿府 ( 府中 ) に入られ、天下泰平の基礎を、亡くなるまでの九年間、この地で固めたのです。」府中宿に入ると徳川家康が整備したといわれる、駿府九十六ヶ町⬅リンク の町名の由来を記した町名碑が旧街道脇に続いていた。『下横田町』(上の地図で1の場所)「駿府九十六ヶ町のうち 下横田町(しもよこたまち) 平安時代に編まれた『延喜式(えんぎしき)』には東海道の駅の一つに「横田」の名が記されています。古代の「横田」の位置に関してはいくつかの説がありますが、この記録から横田周辺が古来より東西を結ぶ要衝であったことがわかります。また、同じく平安時代に編まれた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』には安倍郡の八郷の中に「横太」と記載されています。 江戸時代に入ると駿府九十六ケ町の一つに数えられます。上・下横田町のうち下横田町は府中宿の東の入口にあたり、東境には「見付(みつけ)」がありました。『駿国雑誌(すんこくざっし)』によれば横田見付は、元禄五年(一六九二)に設置され、道をはさんで両側に桝形の石垣が築かれていました。また、元禄五年の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の下横田町の家数は四十七軒、人数は二百十四人でした。 昭和二十年に上横田町、院内町(いんないちょう)、下横田町(猿屋町(さるやちょう)は大正四年に下横田町へ編入)がそれぞれ横田町一、二、三丁目となり、その後住居表示の実施により横田町となって現在に至ります。」民家の部屋の一部?に『延命地蔵尊』が。伝馬通りに面する酒屋『静浜屋』。店の上には大きな生ビールジョッキーを持つお兄さんの姿が。人の数の少ない伝馬町通りを進む。『西宮神社』が右手奥に。奥にあった社殿。更に伝馬通りを進む。正面にY字路が。所々に設置してある旧町名表示。2・『鋳物師町』というモニュメントが。道の向こう側には久能山東照宮道という標識も。「鋳物師町東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代のはじめに鋳物師が住んでいたことに由来します。「鋳物師町(いもじちょう、いものしちょう)の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目日出町に分かれています。」この途中で、カラフルなマンホール蓋を発見。静岡市の花「タチアオイ」を描いたカラーマンホール蓋。デザインは旧市のものと同じで、中央の市章を新市章に変えたものであると。漫画家の故さくらももこ氏が寄贈した「ちびまる子」デザインのカラーマンホール蓋。富士山と駿河湾と魚を背景に、ピンク色でコーディネートしたよそ行き風の「ちびまる子」が微笑んでいる。空には「静岡市」の文字も。 その8に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道はこの先で県道407号線に合流した。合流地点右側・一里山交差点の角に東海道夢街道碑『有度』が。府中宿境まで一里二十六町、江尻宿境まで二十四町。一里山交差点を渡ると住所は草薙一里山になります。江戸時代は一里山新田といった地区。ここからは旧草薙村になります。草薙村は草薙村、小田村や一里山新田などが合併した村で1869(明治2)年に誕生した。その後、有度郡有度村、安部郡有度村となり清水市に合併されたのだと。巨大な信楽焼?のたぬきが、一里塚跡の横に。『狸八相縁起 』災難から身を守る笠や信用を意味する通い帳など八つの意味があり、これを、「八相縁起」と言うと。また、たぬきは「他を抜く」とも言われ、商売繁盛の縁起物として知られています。さらに、「たぬき」は、他を抜くと読んで、他人より抜きん出ると解釈しての縁起物であるのだと。笠…思はざる悪事災難避けるため用心、常に身を守る笠。 目…何事も前後左右に気を配り正しい判断をする。 顔…世間は広く互いに愛想よく暮し真を以って努め励む事。 徳利…恵まれた飲食だけで満足し人徳を身につけよ。 通…世渡りは、先づは信用が第一だ、活動常に跳躍前身する事。 腹…物事は、常に落ちつきながら決断 力の大胆をもて。 金袋…金銭の宝は自由自在になる運用をしろ。 尾…何事も終り大きくしっかりと身を立てる事こを真の幸福なり。身丈 10尺(3.3メートル) 重量 500キログラムそして『東海道 草薙 一里塚』碑が清水銀行草薙支店の敷地内に。日本橋から43里目の一里塚。「一里塚の由来一里塚は徳川幕府より慶長九年(一六○四年)大久保長安を一里塚奉行に命じ一里(三九二○米)を三十六町と定め東海道・中山道に一里塚を築いた 東海道は江戸(今の東京)日本橋を起点に京都までの一二○里(約四七○キロ米)の道の両側に松並木を植え一里毎に塚を築き此処に榎を植え目印とした。草薙一里塚は江戸より四十三里(一七○キロ米)の処で四十三番目の塚です。道を挟んで南塚が在り一対となって居た。塚は五間(九米)四方高さ一間(一.八米)と大きなもので塚の脇には高札所があり、榎の大木の枝が繁り街道往来の大名の参勤・飛脚・人の道しるべ・休息所等と成って居た。榎の木蔭で旅の疲れを癒した旅人達が「府中(駿府、今の静岡市)二里半あと一息だ頑張ろう」と道中合羽に三度笠、振り分け荷物を肩に、旅立つ姿が偲ばれます。 因みに一里山の起原は此の地に一里塚が築かれており一里山と呼ばれる様になった。」更に旧東海道を進むと左手前方に大きな石鳥居が見えて来た。『草薙神社』の石鳥居。この石鳥居は1975(昭和50)年に南幹線の整備に合わせて建て替えられたもの。石鳥居の左の柱の下には「従是草薙大明神参道」と刻まれた道標があることをカメラのズームで確認。石鳥居の反対側の柱の横には『式内 懸社 草薙神社』と刻まれた石碑も。『東海自然歩道』、『JR草薙駅』の木柱。この先が『JR草薙駅』高層マンション『グラソード草薙』と駅の北側には『静岡銀行 本部タワービル』が。草薙駅前交差点を左折し、南幹線(静岡草薙清水線・県道407号線)より1本入った道を右に進んだ。住宅街の左手角、東方寺入口にあったのが大きな『達磨大師像』。『葦葉達磨大師像について』こんな問答が書いてあった。達磨「あなたは私に一体何を求めているのですか。」慧可「私の心の不安を取り除いてください。」達磨「分かりました。ではその不安な心を持ってきなさい。 そうしたら心を安らかにしてあげます。」慧可「どうにかして心を持ってこようとしましたができません!」達磨「これであなたの心を安らかにすることができました。」『東光寺山門』をズームで。東名高速道路の下を通過。振り返る。消火栓のマンホール蓋。静岡市の市鳥・カワセミ消防士が、消火ホース、AED、救助ネットを持って急いでいる姿が描かれたユニークなデザイン。信号を越えると右手の民家の大谷石塀の中に護られた『秋葉山 常夜燈』が。さらに県道407号線の1本南の住宅街の旧東海道を進む。突き当りを右折し県道407号線を渡り、静岡清水線の手前を左折し更に進む。『県総合運動場駅』が右手に。静岡県草薙総合運動場は、静岡県を代表するスポーツ施設及び公園。野球場や陸上競技場をはじめ県内トップレベルの運動施設があり、県中部のスポーツの拠点。敷地内には、野球場(硬式、軟式)、陸上競技場、体育館、屋内運動場、庭球場、水泳場、球技場があるのだ。硬式野球場の沢村栄治像とベーブ・ルース像を見たかったが時間不足・・・・。女性像『はばたき』が左手奥に。JR東海道線に突き当たると『旧東海道記念碑』があった。「旧東海道記念碑 由来東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。 これは古来より主要街道の一つであり、府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛の中で、弥次郎兵衛喜多八が滑稽な旅をしたことでも知られております。 国道一号線(静清国道)が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和三十七年、国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、 更に静清土地区画整理事業による新しいまちづくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。 その昔を偲び、なおかつ旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。 尚、この記念碑のみかげ石は静岡市追手町にありました静岡御用邸に使われていた由緒あるもので、昭和初年の御用邸改修の折、栗原町内会が払下げを受けたものであります。 」地下道を通り東海道線を渡る。東海道を渡り、地上に出ると路面に埋め込まれていた「東海道」のマーク。線路沿いを東静岡駅方面に進む。後久川に架かる後久橋を渡る。古庄交差点で現国道1号線に合流。『駿河三大名物「兎餅」跡地』。この看板があったのは、古庄交差点(静岡市葵区)。ここは旧東海道。府中(静岡)生まれの十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんでも有名。江戸時代に駿河には三大名物があったと。「安倍川餅」「追分羊かん」、そしてこの「うさぎ餅」。名前の由来は、店先にうさぎが飼われていたからとのこと。江戸幕府の役人でありながら狂歌師や戯作者、学者として大活躍した、蜀山人(しょくさんじん)の名前でも知られる大田南畝(おおたなんぽ)がこんな歌を詠んでいるのだと。「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物」(餅の“つき”が良いから召し上がれ、という意。)現国道1号線を進む。長沼交差点で右手に折れ直ぐ左に入る旧東海道。しばらく行くと右手にあったのが『久應院』。『山門』。『庚申塔』と石仏。扁額『長沼山』。久應院『本堂』。『地蔵菩薩のいわれ』。地蔵菩薩はインドの古典言語(サンスクリット語)でクシティ・ガルバといいます。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」を意味し、意訳すると「地蔵」となります。全ての命を育み、恵みを与えてくれる大地の母の様な大慈悲で人々を救済する仏様なのだと。地蔵菩薩は、六道と呼ばれる6つの世界(地獄界、飢餓界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)を自ら渡り歩き、人々の苦難を身代わりとなり救ったと言われています。地蔵菩薩以外の仏も衆生の救済をされますが、苦難の身代わりをする救済方法は、地蔵菩薩だけだと伝えられています。六体の地蔵菩薩が祀られ「六地蔵」と呼ばれることがありますが、それは六道それぞれの世界を地蔵菩薩が1体ずつ担当して見守っていることを表しています。そのため、地獄に堕ちてしまった人をも救済することがあると言われています。十種のご利益は(1)土地が豊かで作物に恵まれる(2)家内安全(3)亡くなっても天国に生まれる(4)現世でとても長生きができる(5)願いごとがかなう(6)水、火などの災難がない(7)身体が虚弱になることを除く(8)悪い夢を見ない(9)旅に出ても無事である(10)多くの仏にめぐり会うことができる『六地蔵尊』。写真は向かって右から・・・法性地蔵、陀羅尼地蔵、宝陵地蔵、寶印地蔵、鶏兜地蔵、地持地蔵・法性地蔵・・・右手に錫杖、左手に如意珠を持つ。・陀羅尼地蔵・・・右手は施無畏(むいせ)印、左手に如意珠を持つ。・宝陵地蔵・・両手で幢幡(とうばん)を持つ。・宝印地蔵・・・・合掌する。・鶏兜地蔵・・・両手で数珠を持つ。・地持地蔵・・・両手で香炉を持つ。*無畏施(むいせ)=仏・菩薩が衆生のおそれを除き、救うこと。*幢幡(とうばん)=飾りのある竿柱に長方形の美しい布をたらした旗。子育地蔵尊。長沼駅の手前左側の塀の影に『長沼一里塚跡』の石碑が立っていた。静岡鉄道線に沿った旧東海道を進む。静鉄長沼駅の斜向かいにあった『魚進』でこの日の昼食。店に入るとショーケースがあって、刺し身、魚の切り身や惣菜、煮付けなども並んでいた。フライ定食を注文。ビールも欲しかったが・・・・。 その7に戻る ・・・つづく・・・
2019.05.01
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令和元年5月1日、今日から『令和』が始まりました。そして私は『令和』の年をいつまで元気にクリアー出来るのでしょうか。先月後半の無残に多くの人々の命が車やテロで奪われていく様は、悲しいことでしたが、災害や事故に襲われなくても、人は必ず死んでいかなければならないのです。この目出度き日に不謹慎な表現かもしれませんが、必ず死んでいくものが、今生きていることの不思議に思いをいたし、生きている今、何に出遇い、何を聞き、何をするべきか、1日1日を大事にしながら、充実した毎日を過ごすことが大切だと、最近ますます感じるようになって来ているのです。これも『旧東海道を歩く』で多くの神社仏閣を巡っている事が影響しているのかも。時代や社会がどのように変わったとしても、仏に成っていくような尊い『歩み』を、死すべき時まで大切にして行きたい、いや生きたいのです。そして、昭和と平成と令和---全ての世代が「絆」を大切にし、日本だけでなく世界の『平和』な社会が実現し、青い地球を永遠にと。ということで、今日も『旧東海道を歩く』の『歩み』の『備忘録』の続きのアップです。--------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次『江尻宿案内板』東海道の18番目の宿場であり、天保14年(1843年)には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋50軒、宿内家数は1340軒、人口は6498人でした。「江尻」とは巴川の尻(下流)を示し、巴川が作る砂洲上にできた宿であります。甲州武田氏が築かせた「江尻城」「浜清水城」があり、城下町も作られ、鍛治町、鋳物師町、紺屋町などが配置され繁栄していました。巴川河口を利用した清水港には、駿府町奉行支配のお蔵が18棟もあり、江戸へ物資を運ぶ重要な港として活気に満ちていました。しかし、本陣、脇本陣、旅籠など戦火で消失し残っていません。現在地は⑥の先。江尻宿の浮世絵のいくつかを紹介します。『東海道十九 五十三次 江尻』(隷書東海道)三保の松原越しの駿河湾、そして富士山の姿。駿河湾には多くの帆掛け舟が。歌川広重『冨士三十六景 駿河 三保之松原』空撮かドローンを使って描いたかのような構図。薩埵峠と富士山、そして愛鷹山(あしたかやま)が遠近法を使って描かれています。『東海道五拾三次之内 19 江尻《三保遠望》』画中に広がる海は駿河湾、前景の港は清水港である。江に突き出る三保の松原や湾内の帆船で風情をもたせ、遠景は愛鷹山らしい山並みの遠望から霞を隔てた海上に数多くの帆影で賑やかさを見せています。白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景も描いている。 『東海道五十三次(狂歌入東海道)江尻』 「花垣家寿子花の旅 駕をつらせて ゆたゆたと うばか江尻に みゆる児ばし・「うば」は、江尻の宿近くの「姥ヶ池」からの連想。「児ばし」は、江尻宿を出て巴川を 渡る橋の「稚児橋」。・「姥が江尻」で「目尻」に掛け、「児ばし」で、乳母と幼児に見立てる。」入江3丁目の交差点を通過し更に進む。左手に『追分羊かん 本店』があり、その手前に石碑が。『追分羊かん 本店』前に『是より志ミづ道』と刻まれた石柱道標が。『追分羊かん 本店』に立ち寄る。創業元禄八年 駿河国追分 東海道三百年の味 追分羊かん。「追分羊羹の由来」追分羊かんは、東海道五十三次の道中名物として300年余の歴史を誇る竹の皮包みの素朴な包装と竹の香りが深く染み込んだ風味。清水の伝統和菓子で有名であると。二女のご主人でドイツ人の工場長のレネさん。324年の伝統の味は来日9年目のドイツ人が支えているのだと。追分羊かんはちびまる子ちゃんとコラボもしており、ちびまる子ちゃんランド限定のコラボパッケージで羊かんを販売していた。追分羊かんは、素朴な竹包みの蒸し羊かん。小豆と竹の香りの風味が甘さに溶けてあっさりとした舌触りが人気であると。羊羹以外にも様々なお菓子が販売されていた。最中を一個購入し、店内で食べながら、美味しいお茶を頂いたのであった。多くの芸能人も訪ねているようであった。「追分羊羹」の本店を出て暫く行くと『遠州都田の吉兵衛の供養塔(清水の次郎長 都鳥)』が左手に。「春まだ浅き文久元年(一八六一)正月十五日、清水の次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、遠州都田の吉兵衛の(通称都鳥)をここ追分で討った。その是非は論ずべくも無いが吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み里人が供養塔を最期の地に建立して侠客の霊を慰さむ。 此處を訪れる諸士は彼のために一掬の涙をそそぎ香華を供養されるならば、黄泉の都鳥もその温情に感泣するであろう。 」『元追分』道標。江尻宿境まで七町(0.8km)、府中宿境まで二里七町(8.8km)。金谷橋(かなやばし)手前にあったのが『大澤川改修の碑』『金谷橋』。「追分と金谷橋の今昔昔からこのあたりは、東海道と清水湊への道『志ミづ道』の分岐点であることから『追分』と呼ばれていた。周囲には数軒の家が並び、街道の両際は松並木が続き、その外側には田んぼが広がり遠くには富士山が望めた。往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが重い荷物を運搬する牛馬は橋横の土手を下り渡川して土手に上り街道に合流した。古来、牛道と言われた名残を今にとどめている東海道の史跡である。」『大澤川』の上流側。『追分』道標。JR東海道線と静岡鉄道の『追分踏切』を渡る。上下4本あるせいか、両線ともけっこう通過電車が多い。緩やかに上りながら道は右に曲がり、左からの道と合流する。そこにあるのが『久能寺観音道』道標。右に曲がった正面にある説明板。「久能寺観音道この道標は安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。久能寺は、もと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国の攻略の根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移されたものである。明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、鉄舟寺と改め現在に至っている。」現在いる場所、青い「上原堤」の上の合流地点。『東海道』の案内板。 「東海道という言葉は崇神天皇十年九月、四道将軍として武淳川別(たけぬなかわわけ)東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語りを残し、古代大和朝廷確立と律令国家のための重要路として、防人(さきもり)達が遠く九州に下り、調(ちょう)を積んだ荷駄が大和に向けて通ったことであろう。中世には「いざ鎌倉」のために整備され徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。慶長十二年(1607年)徳川家康公の命により、当時の東海道は今の北街道を通っていたものを七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)を架け追分上原を通り駿府横田迄駅路(正規の道)となった。善男善女が旅を急ぎ、大名行列が通り村人は助郷の課役に難渋し、幾多の物語を残した東海道も国の発展と共に昔日の面影は消えてしまったがここに日本の歴史と共に歩いて来た古道が有ったことを末永く記憶の中に留めておきたい。」『上原堤(うわはらづつみ)「宋丹池(そうたんいけ)」』。「江戸時代に農業用水のため池として造られた人工池。永い間近隣の田んぼを潤して来た。戦国大名の嚆矢、北条早雲が今川氏に仕えていた時に作った農業用のため池だったそうで、早雲の名前から宗丹池と呼ばれたとのこと。つまりこちらも500年以上の歴史があるスポット。昭和2年に開園した狐ヶ崎遊園地のボート池として利用され平成5年に遊園地が閉園してからは釣や散歩を楽しみ人々の憩いの場となっている。」『上原子安地蔵堂』入口。「上原延命子安地蔵尊由来略記上原延命子安地蔵尊は、古来世の人々の、長寿、安産、子育、安全の守護として、近隣の人々の信仰を集めてきた。創建時代は明らかではないが、焼失した木像の御本尊は、行基菩薩作との伝説があった。之に従えば奈良時代となる。然し庶民一般に地蔵信仰が普及し、各地に地蔵堂が建立されるようになったのは、鎌倉時代とされている。上原の古地名は地蔵原ともいわれていたが、室町時代後期には既に正式に上原の地名が用いられている。これ等のことを思い合わせれば、創建は鎌倉時代戌はそれ以前と考えられる。永禄十一年十二月(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の部将、山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする、上原の地に宿営布陣した記録がある。次いで天正十年二月(1582)徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、武田の宿将江尻の城主穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡の切掛となった。元和元年大坂夏の陣の直後秋十月(1615)吉川福聚院の住職明眼和尚の尽力と、付近住民の協力により、荒廃していた地蔵堂も立派な堂宇として再建された。然しこの堂も明治二十四年九月(1891)、何者かの失火により、御本尊と共に焼失した。以来地蔵堂は間口一.二米、奥行一.八米程の仮堂で、四十一年間を過ごすことになっなのである。昭和七年四月(1932)上原区民の、長い間の悲願であった地蔵堂も、区民四十余年に亘り積み立てた浄財により立派に再建され、今日に至っている。昭和五十七年四月(1982)昭和再建五十周年を記念し、御本尊を開帳し、盛大な大祭が執行された。平成三年一月(1991)境内入口にあった消防器具置場も撤去され、周辺の整備が行われ、石の道標が建立された。毎年八月十五日の祭礼の夜は、地蔵堂裏の広場で、大勢の人が集まり。盆踊りなどが盛大に行われる。」『上原子安地蔵堂』。『上原子安地蔵尊 保存樹木(まき)』。樹齢:約230年、樹高:10m70cm。「宋丹池(そうたんいけ)」を廻り込むように旧東海道を進む。『上原鎮守十七夜宮』入口が左手に。旧東海道より約100m入った十七夜山千手寺本堂の南にあると。『上原鎮守十七夜宮伝説の碑』石段の両脇に石塔が埋もれてました。右に「十七夜山」、左に「千手禅寺」と。千手寺は珍しい黄檗宗の禅寺。『上原鎮守十七夜宮伝説』「昔上原に大変信仰心のあつい人がいた。 ある日、夢の中にお不動様のお姿が現れ「わたしは浅畑(現在の静岡市葵区麻機)の滝の不動尊である。 お前の信仰心のあついのに感心した。 お前のような者の住む上原はさぞよい所であろう。 是非、上原に参って大勢の人々の難儀を救ってやりたいと思う。 早く浅畑へ来てわたしを上原へつれて来るように」とのお告げがあった。 不思議な夢を見るものだと思っていたが、それから毎晩のように同じ夢を見るのであった。彼は「これはまさしく浅畑の不動様のお告げに違いない。 浅畑の人達には申し訳ないが、不動様を上原へお連れ申し上げる亊にしよう」と決心した。 そこで彼は、わざわざ浅畑まで出掛け、滝の不動尊の扉を押開き、御神体を取り出して持ち帰ろうとした。 浅畑の人達は、これを見つけて追いかけて来て取り戻そうとした。 彼は「私は不動様のお告げで上原へお連れ申すのだが、皆さんがいけないと言われるならばお返しする」といって浅畑の人達に渡して帰り出した。 浅畑の人達は御神体を受け取ったが、急に岩のように重くなり動かすことも持ち上げることも出来ない。 浅畑の人達は驚き恐れて、急いで彼を呼び戻し、仕方なく御神体を彼に渡した。 彼は喜んで御神体を受け取った。彼が持つと途端に毛のように軽くなった。 浅畑の人達は御神体を持ち捧げて、上原へ帰ってゆく彼の後ろ姿を、いつまでも合掌して見送ったのである。 彼は上原に不動様をお迎えすると、庄屋さんとも相談して、十七夜山千手寺の裏手のお堂に、上原村の鎮守としてお祀りした。 これが現在の上原鎮守十七夜宮である。この御神体というのは45㎝ほどの漆黒の古い木であるという。」 境内の参道を上っていった。階段の先に『山門』が。『句碑の案内』。「柚子湯出て慈母観音のごとく立つ 五千石」ここに「上田五千石」の句碑がある理由は?先手寺の『山門』を再び。右手に『六地蔵』。『庚申塔』。『千手寺』。ご本尊は千手観音。黄檗宗の伝来は江戸時代の1654(承応3)年。改宗がないのならば、開山はそれ以降となりますが、裏手にある十七夜宮は古い記録には1651(慶安4)年に登場するそうです。この十七夜宮は上原の鎮守。シンプルな屋根に、朱色に塗られた窓格子、丸窓、アーチ状の出入り口などエキゾチックな雰囲気が。千手寺の裏手にあるのが、『十七夜宮』。何故か露出不足。境内の北原白秋『狐音頭(きつねおんど)』歌碑。御堂の右手には「白秋庵」という茶室があり、昭和2年北原白秋が「ちゃっきり節」を作詞した折、この寺に立ち寄り「狐音頭」という歌を作詞したのだと。「狐十七 千手の寺に こよい願あけ もちの月」。 その6 に戻る ・・・つづく・・・そしてテレビでは「明治」の「R-1」のコマーシャルが「我が意を得たり」と。
2019.05.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道は清水区銀座を右折。『江尻宿』道標。江尻は巴川の尻、すなわち海にそそぐ所の意味。巴川を旧東海道がわたる稚児橋を中心に宿場町が つづいていた。こんにち、江尻町となっている中町、下町、魚町に本陣、脇本陣があつた。しかし、 当時の宿場町を偲ぶものは、全く残ってなく、賑やかな?商店街となっている。 石畳に旧東海道を進む。モニュメント『蒼空へ 松永 勉作』『橋本本陣跡』。鯨の石像モニュメントが目印。『江尻宿寺尾本陣跡』。『明治天皇御東行御遺跡』。そして旧東海道正面右に石鳥居が姿を表した。『魚町稲荷神社』。武田家家臣で江尻城代の穴山信君(梅雪)が社殿を造営したと伝わると。朱の鳥居の先に社殿、右側には『明治天皇御東行御遺跡』碑。「魚町稲荷神社永禄十一年(1568)十二月駿河に攻め入った武田信玄は翌年現在の江尻小学校の敷地に、江尻城を築き、その後天正六年(1578)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城とした。梅雪は一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうかと言って、この地に社殿を造営したといわれている。(江尻町誌による)近くには江尻宿の問屋場・高札場本陣等があって東海道を往来する旅人でこの地魚町(上町)は賑わった。祭神:宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと) 御祭:8月3日」『魚町稲荷神社』には、サッカーボールをかたどった御影石のモニュメント『日本少年サッカー発祥の碑』が建てられていた。「日本少年サッカー発祥の碑 昭和三十年代、日本のサッカーは、いわゆる御三家と呼ばれた広島 藤枝・浦和を中心に展開していました。その頃清水は、どこにでも見 られるごく平凡な地域のひとつにすぎませんでした。 昭和三十一年、ここ魚町稲荷神社に隣接する江尻小学校にサッカー 好きの新任教師(堀田剛)が赴任しました。その日から先生は子供 達と毎日運動場でボールをけりました。ところが、当時江尻小学校には「ボールを、足で蹴ってはいけない」という校則がありました。 しかしサッカーの魅力にとりつかれた子供達の様子を見て、校長先生 も許可をしたのです。 「これが、『日本で初めての少年サッカーチーム』を生むきっかけに なりました。 文部省小学校学習指導要領第三次改訂(一九六八年)体育科のボー ル運動に「サッカー」が登場する十二年も前のことです。 江尻小を皮切りにその後、清水市内に小学生チームが次々と誕生し、昭和四十二年には、『国内初の小学生リーグ』がスタート、指導者育 成のためコーチングスクールも開校されました。 この年、東海四県サッカー大会が開催され、日本一のチームをつく る一貫として、清水市内の江尻小・入江小・庵原小の子供を集め選抜 チームを結成し、優勝をかざりました。これが清水FCの前身です。 清水からは数多くのJリーガー・日本代表選手が生まれ活躍してい ます。それは当時の指導者達が長期的な視野にたち、世界に通用する 日本一の少年団チームを育成強化したからです。その後もサッカーに 関わる多くの方の献身的な活動・努力によりサッカーのまち清水ができあがりました。 現在では「ゆりかごから息続くまで」を合い言葉に、三歳のチャイ ルドサッカーから、年配の方のOBリーグまで、あらゆる年代の人達 がいつでも、どこでも、誰とでも、清水市のどこかでサッカーを楽 しんでいます。 この碑は当地が清水のサッカーを発展させた原点の一つであり、日 本の少年サッカーチーム発祥の地であるゆを記念して創られました。 」『魚町稲荷神社』の脇を進むと左手に江尻小学校があり、『江尻城跡』の案内板が建っていた。永禄12年(1569)武田信玄の命により築城された。武田信光、山県昌影のあと、穴山梅雪が城主となった。天正10年徳川家康に降伏した。本能寺の変が起きたとき、梅雪は家康の供で堺に滞在していたが、帰国の途中地侍たちに殺されてしまった。その子勝千代は幼くして死に、穴山家は絶えた。家康が江戸に移ると中村一氏の家臣が城主となるが、関ケ原の戦い後廃城になる。『江尻城跡』⬅リンク案内板。『OFFICIAL MATCH BALL OF THE FIFA WORLD CUP 1998』と刻まれたサッカーボールのモニュメントが道路脇に。そして旧東海道に戻る為に巴川岸に出る。「河口拠り2.66km」の表示が。巴川に架かる稚児橋。東海道五十三次が整備された江戸時代初期には、街道筋の巴川に橋が架けられ江尻橋と名付けられたと。『稚児橋』と河童の像。『稚児橋の由来』「慶長12年(西暦1807年)徳川家康 の命により、東海道五十三次 沿いの巴川に橋が架けられ、江尻の宿にちなんで江尻橋と命名されることとなり、渡り初めの日となった。さて儀式に先がけて、かねて選ばれていた老夫婦がまさに橋に足をかけようとした瞬間、川の中から一人の童子が現れたとみるや、するすると橋脚を昇り忽然と入江方面へ消えさった。渡り初めに集まっていた人たちは、あまりに突然のこととてあっけにとられたが、このことから橋名を江尻橋から童子変じて稚児橋と名付けたといわれている。なおその不思議な童子は巴川に住む河童だったとも語り継がれている。清水の名物、いちろんさんのでっころぼう人形の中に河童 がいるのは、この伝説による。」『稚児橋』から巴川の下流方面。上流方面。橋の欄干にも河童の親子の姿が。西側、進行方向右側の男の子の河童。進行方向左側の女の子の河童入江2丁目交差点を右斜めの旧東海道に進む。左手に『浄土宗 法岸寺』入口。『本堂』をズームで。市内でも数少ない浄土宗の寺で、創立は延徳2年(1490)静岡市上土に創建された。駿遠の国主、今川氏の帰依厚く、母君追善供養の為に建立されたと。本堂左手奥に朝顔の墓と伝えられいる古い墓石があると。浄瑠璃「朝顔日記」盲目のヒロイン深雪の墓(寛永18年(1642年)没)であると言われていると。残念ながら、時間がなく訪ねる事は出来なかった。旧東海道の入江2丁目を歩く。『くりた瓦せんべい老舗』。『煎餅」』の大きな木製看板が。西木戸跡北側にある『樹林山 慈雲禅寺』。『山門』。『樹林山 慈雲禅寺の由来』と『史跡』碑。碑には長泉智牛和尚之墓所、入江小学校発祥之地、八ッ石の文字が。八ッ石とは何であろうか、ネットで調べると「江戸時代初期、江戸幕府は大名たちに駿府城の建設を命じた。そのとき、石垣に使う石は各地で切り出されて運ばれたのだが、江尻を流れる巴川の上流でも石が切り出され、筏に乗せられて運ばれていった。ところが、中には筏が途中でバラけてしまい、巴川に沈んでしまった石もある。それらの石は、徳川将軍家のものだということで、江戸時代は勝手に引き上げることはできず、そのまま放置されていた。ところが明治時代になると、これらの石を引き上げることが自由になり、地元の有力者たちの中には、川から石を引き上げた人たちがいた。慈雲寺の檀家の中にも巴川から石を引き上げた人がおり、引き上げられた8つの石を慈雲寺に寄贈したのだという。ところが寺の方では、そのころは食うや食わずの状態で、引き上げられた石に構っている余裕はなく、しばらく境内に放置された後、庭の整備をしたときに庭石として使ってしまった。それが現在慈雲寺の中庭にある八ツ石である。」と。八ッ石の1つは門前にある寺の名「慈雲寺」と白く書かれた石であるらしい。『樹林山 慈雲禅寺の由来』「慈雲禅寺は今からおよそ四百数十年前(十六世紀末) 一安禅師によって、聖観世音菩薩を本尊として開創 された臨済宗妙心寺派の禅寺である。 臨済宗は、お釈迦さまの正法を受けつぎ、初祖達磨大師、宗祖臨済禅師、白隠禅師に及ぶ禅宗で自心佛で あることを信じて坐禅に励み、本当の自分にめざめ 脚下照顧めて生きることを信条にしている。 慈雲禅寺の開創後百年の記録は、宝永四年(一七〇七)の 震災でことごとく焼失して定ではないが宝暦年間 (十八世紀中頃)に至り、長泉智牛和尚によって再興された。 長泉智牛和尚は、豊後国(大分県)に生まれ、白隠禅師に 師事した高僧で、常に農業の振興につとめ、当時やせ地に悩む三保の農民を救う為、遠く九州からサツマイモの 苗を取り寄せ、農民にすすめた。サツマイモは砂地でも 良く育ち、たちまち三保全土に広がった。そして、慈雲寺の 芋和尚と親しまれ、長い間初穂七俵を贈る船が出さ れたという。 しかし安政元年(一八五四)の大地震により、諸堂は 全壊、続いて明治維新で寺領の概略没収された。 明治五年(一八七三)学制発布に基づき、翌 六年 本堂 に入江小学校の前身である入江学舎が創立されたが、その運営は困難をきわめた。その中で、時の住職 瑞道和尚は、読み書きを学ばせ、体操のかわりに縄を なわせ、女子には子守をさせながら、畑の業をつませて 養蚕をおこない、機織り返し、その利益で筆や紙を 買い学校を続けたという。 昭和に入り、第二次世界大戦の空襲によって、諸堂全て焼失、戦後焼け野原から、正道和尚光堂和尚により庫裡、本堂、山門等再建し現在に至る。 尚小芝城か、駿府城築城の折巴川に沈んだ八つ石が山内に残っている。 」扁額『樹林山』。『不失童心』と書かれた扁額のある御堂。中には地蔵尊と六地蔵が。『本堂』。『納骨堂』。『倶会一處(くえいっしょ)』「この納骨堂は宗派の別なく観音様にご縁のあるすべての人を受け入れます。遠慮なくご相談下さい。」倶会一処とは、浄土教の往生の利益の一つ。 阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味であると。 『摩尼車(まにぐるま)』「一回一誦」と言ってこの車を一回回す事によって、般若心経を唱えることになり、仏様の徳に近づく事ができ、悪を払い濁った水を清め、災難を避け幸福な生活を送ることが出来るのだと。「摩尼車(マニグルマ)摩尼(マニ)とは、インドの古い言葉で、無垢(むく)・離苦(りく)・如意(にょい)を意味し、宝珠(ほうじゅ)の総称です。宝珠には、不幸・災難を除き、濁水を清水にする不思議な力があるとされています。心静かに、念じながら。回して下さい。」私も一回回しましたが、果たして「心静かに」?。堂前の仁王像(阿形像)本堂前の仁王像(吽形像)。墓石群。右には先程遺跡碑にあった『長泉智牛禅師(ちょうせんちぎょうぜんじ)の墓』が。長泉智牛和尚は痩せ地に悩む三保の農民にサツマイモの栽培を奨励、砂地でもよく育ったことから三保全土に広がり、農民たちから慈雲寺の「芋和尚」と呼ばれ親しまれたと。本堂を斜めから。『江尻宿木戸跡』碑。江尻宿京方出入口だった西木戸跡。『祝 静岡市民栄誉賞 さくらももこさん』さくらももこさんは代表作「ちびまる子ちゃん」で、市の観光地や地元グルメを取り上げるなど同市の魅力を発信し、PRに貢献。主人公の「まる子」を描いたマンホールのふたを市に寄贈したり、22種類のオリジナルイラストを提供したりした。”ちびまる子ちゃん”の家はここ入江町にある設定であると。『平成』が終わって行く。一抹の寂しさを感じますが、一つの時代の変わり目に出会わせていただくというのも、ありがたいことのように思っているのです。昨日は『昭和の日』、平成が終わるとそれと連動して「昭和の日」が無くなるのでしょうか?しかし明治天皇の誕生日が実は「文化の日」として現存するように、他の名称に代わる事もあるかもしれません。平成の天皇陛下の誕生日はご存じのとおり12月23日。「もう年末で今年も終わりかぁ…」と感じさせる祝日でもありました。そして現皇太子様の誕生日は2月23日で既に過ぎているので、2019年の祝日とはならず、今年の12月23日は私の部屋のカレンダーでは「平成の天皇誕生日」と記載された平日となっています。新元号が決まった途端に平成がもう過去のような印象を持ってしまっている方も多いのでは。時の流れを本当に早く感じているのです。昭和25年生まれの私には、『平成』の終わりは、今日まで残り香を醸し続け、そしてそれを懐かしんで来た『昭和』が、本当の意味で過去の歴史となるような感じがしているのです。いわば今日は、「平成との離別』ではなく「昭和との離別」になる日ではないかとも。 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.04.30
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