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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『小田原城』の道路標識も見えて来た。右手に『東海道 小田原宿』の標柱。東海道小田原宿は江戸見附近くの山王神社からスタートする。そして『小田原城址江戸口見付跡』。この江戸口見付は江戸からの東海道の外郭入口として位置しており、現在は史跡標柱と小さな公園だけとなっていた。当時は土塁と矢来によってで喰違が形成され江戸から入る場合、まず右手に折れ曲がり木戸をくぐって左に折れ曲ると右手には番所が置かれていたのだと。江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場がここ小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていたと。『江戸口見付跡』「小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。」公園内には老松が存在感を。『江戸口見付跡』。江戸時代末期の小田原城の地図。現在地と小田原城の総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁の様子が理解できるのであった。浜町歩道橋上より旧東海道国府津方面を振り返る。浜町歩道橋上より旧東海道小田原方面を見る。そして歩道橋の反対側には『江戸口見付並びに一里塚』。「見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を 通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに 塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とする とともに、夏季における木陰の休息場所とした。天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹あり しが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双コウとなりしに、今隻コウとなれり。けだし街道の革(あらた)まりし頃、一コウは海中に入しならん。これより東は小八幡村、西は風祭 村の里コウに続けり」とされている。」『江戸口見付並一里塚址』。『善照寺』を訪ねる。大きな松の向うに本堂の屋根が見えた。『本堂』。真宗大谷派の寺。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。そして更に奥の『蓮上院土塁』を訪ねる。説明板には『天正18(1590)年秀吉の小田原攻めの際に築かれた総構の一部、この土塁に対峙したのは徳川家康・・・。』と書かれていた。『蓮上院土塁』の間にあった窪地。『太平洋戦争の爆弾着弾跡』。太平洋戦争中の空襲による爆弾の着弾跡が残っているのだと。旧東海道・国道1号線に戻る途中の交差点は『七枚橋(しちまいばし)』。この地名は、「文化十四丑年類焼録」(1817年)に初めて見られると。橋は、抹香町から大新馬場に通づる道路と護摩堂川(ごまどうがわ:小田原城三の丸の水を排水するために設けられた水路で、現在ではみられない)とが交差するところに、7枚の切石を並べてかけられていたそうです。この橋の名が、後にはこの付近の地名になったのだと。『十王町・抹香町』十王町は、小田原城絵図の一つである「万治図」(1660年)に初めて地名が見られると。この地名の由来は、この地が教徳寺の門前で同寺に十王像(死者のさまよい行く世界でその者の生前の罪を裁く10人の王をいい、その像)が安置されていたからと。 また、この付近の武家地を含んで「抹香町」ともいったと。この地名は、小田原城絵図に表示がなく、明治以後の記録にはじめて見られると。 この地名の由来は、近くに十王堂(閻魔堂(えんまどう))や寺が多く、線香のけむりが絶えなかったことによると。旧東海道の名所案内表示板。『鍋町』。鍋町は、その範囲がはっきりしていませんが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町です。小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))から、町には鋳物師が数多く住んでいたと。そのため、鍋町と呼ばれるようになったと。旧東海道・国道1号線の新宿(しんしく)交差点を横切り直進すると旧東海道は右に曲がっていた。新宿町は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。『小田原 かまぼこ通り』に入る。海からの恵みと箱根丹沢水系の良質な水が、小田原名物のかまぼこを生みました。船方村と呼ばれた旧街道筋には、かまぼこの本店が軒をかまえ「小田原かまぼこ通り」と呼ばれています。通りには、かまぼこだけでなく干物屋や鰹節屋、料亭、飲食店など、約30店舗が軒を連ねています。多くの蒲鉾屋が並ぶ。『万町(よろっちょう)』。町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継所(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。右手に『小田原おでん本店』。茶室を備える上品な店内で、小田原の食材を使用した各種のおでんを提供している。おでん会席やランチメニューもあるとのこと。再び小田原名所の案内板。青物町に向かって旧東海道を進む。『下の問屋場跡』。この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)の問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたご)が十一軒ほどあった。『高梨町』この歴史がありそうな食堂で昼食。レバニラ炒め定食を注文。『小田原宿 脇本陣古清水旅館』小田原宿の清水本陣では、代々弟が脇本陣を経営していた。明治維新後も旅館業を経営し、近年まで古清水旅館を営んでいたが、宿泊者数の減少から店をしまい、現在は高齢者住宅を経営している。その高齢者住宅「プラージュ古清水」の2階には、「古清水旅館資料館」がある。古清水旅館は第二次大戦の小田原空襲により焼けてしまったと。「8月15日の小田原空襲1945(昭和20)年8月15日、まさに敗戦当日、深夜1時か2時頃、小田原市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29一機による焼夷弾空襲を受けました。小田原空襲の直前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市が空襲を受けており、その二都市を攻撃した編隊の内の一機が、マリアナ諸島の米軍基地へ帰還する途中に小田原を空襲したものと考えられます。アメリカ軍のその日の作戦任務報告書には、小田原空襲の記載は一切なく、計画されたものではありませんでした。しかしながら、アメリカ軍の日本都市空襲の候補地が記された「180都市の表」の96番目に小田原が挙げられており、本格的な小田原市街地への焼夷弾空襲がなされ、壊滅的な被害を受けた可能性がありました。8月15日の小田原空襲で被災し炎上した地区は、現在の浜町一・三丁目、本町ニ・三丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側にあたります。焼失した家屋は約400軒、死者は本会の調査によれば12名です。被災した古清水旅館には、小田原空襲を伝える写真が保存されています。建物がすっかり焼け落ちた古清水旅館の後方に焼き尽くされた小田原の町並みが映っています。当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものです。今から62年前にあった小田原空襲の記した説明板を、被災した古清水旅館の敷地に設置することで、戦争の愚かさや悲惨さ、平和の尊さを少しでも語りつぐことができればと思います。 2007 (平成19) 年8月15日 戦時下の小田原地方を記録する会 古清水旅館 館主 清水伊十良」『宮前町(みやのまえちょう』。小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口と高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。『小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡』清水金左衛門本陣は、江戸時代は大名の宿泊所として役目を果たし、明治になっても明治天皇が5回も泊まられたと。「小田原宿 清水金左ヱ門本陣跡小田原宿は、東海道五十三次のうち江戸から20里(約80km)の距離にある、品川宿から数えて9番目の宿です。箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大きく、本陣、脇本陣、高札場、問屋場など、宿としての機能が整えられていました。天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠があった。このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっています。清水金左ヱ門本陣は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家など、西国の有力な大名が定宿としていました。また、明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回にわたり宿泊しています。清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。 平成29年3月 小田原市教育委員会 」『明治天皇宮ノ前行在所跡』明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、この事蹟を記念し、本陣跡の土地365.92m2を整備した上、石碑が建てられた。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑は小松自然石で、明治天皇が宿泊した由来が刻まれ、事業碑は本小松石で明治天皇聖跡小田原保存会の事業が刻んであります。「小田原市指定史跡 (昭和32年3月30日指定)明治天皇宮ノ前行在所跡 (旧清水金左衛門本陣跡) (所在地) 小田原市本町3-5-25明治天皇宮ノ前行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所です。正碑は高さ2.73mの小松石の総磨で、碑面に「明治天皇小田原行在所址」と刻んであります。副碑には由来が刻まれています。清水金左衛門本陣は、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行っていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名、宮家などの宿泊にあてられました。明治天皇が宿泊したのは、明治元年(1868)十月八日の御東行を際を初めとして五回を数えます。明治天皇聖跡小田原町保存会は、この土地を買収して、昭和十五年二月に整備工事を着手し、昭和十五年十月に落成しました。 小田原市教育委員会」 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・国道1号線を小田原城に向かってすすむ。小田原市東町1丁目の右奥にある『心光寺』を訪ねる。『山門』。間口の広いすっきりとした意匠の山門。本柱が棟木に達し、腕木が軒桁を支える高麗門形式。通常、無骨な内法貫が本柱を貫通しているが、ここでは装飾的な虹梁+禅宗様木鼻の組み合わせ。『浄土宗 月密山 護年院 心光寺(しんこうじ)』 『本堂』コンクリート造の本堂。寄棟造り屋根妻入り、流れ向拝。コンクリート造の特性を生かし、薄い屋根が深々と持ち出され、さらに、先端で反り上っていた。中央両脇の、大きなスチールサッシが寺院の本堂にしては珍しかった。。『鐘楼』。『水子供養像』。多くの鯉が泳ぐ池の先にあったのが『薬師堂』。『無縁仏塚』。『六地蔵』。本堂を横から。そして再び国道1号線を歩く。右手に『浄土宗 道場院』。『本堂』寛正元年(1460)転蓮社乗譽道場弘尊の建立と伝えられのみで、開基並びにその背景については記録を欠き詳らかでない。当所新宿町建立されたが、寛永10年(1634)新馬場に移され、正保元年(1644)更に山王原に転じたと。松原山宗福寺と号す。浄土宗の寺で江戸芝増上寺末。本尊は阿弥陀如来。 足柄観音十八番札所。『阿弥陀如来像』。『松原山』と書かれた扁額なのですが・・・。吉川弘二 の詩 『心』「幾歳世末の末まで忘れめや 尊き父母の 愛の広さを春夏秋冬 善樂あり 老境思えば 夢のまた夢我事を成し得て 祖先にまみえん此の身は土に 換えるとも」『観世音 お慈悲を 松に母を 見ん』か?そして山王橋交差点へ。流れる川は山王川。山王橋を渡って右側にあったのが『山王神社』。小田原城の山王曲輪(くるわ)であった場所。境内の『忠魂碑』。『旧山王原村の図』山王原村(東町1丁目)は1830~44年(天保年間)で31戸、1887年頃は50戸。『新編相模國風土記稿』では「長吏、道場院の北、見捨地七段十四歩に住す。家数三十一、長を太郎左衛門と稱す。外に非人一軒あり。白山社、長吏の持なり」と記載があると。山王原村太郎左衛門は、後北条氏の支配圏内における長吏の触頭であったが、同氏の滅亡と江戸幕府~弾左衛門体制の確立に伴う下古沢太郎右衛門の台頭により、支配域を酒匂川以西の地に限定されていった。明治中期には横浜に200軒の借家を所有していたとのこと。1910~40年頃まで存在した麻撚り工場(小西家)は元小頭一族の家。『星月夜の社 山王神社』。神社の由緒は明応4年(1495年)、北条早雲が当時の小田原城主の大森藤頼を破り、城を手中に納めた頃はこの神社は海辺にあったのだと。高波で崩壊したため、慶長18年(1613年)に、ここに移されたと。神社が海辺にあったときに星月夜ノ井戸があり「星月夜の社」と呼ばれていたと。ちなみに井戸もここに移されたと。小田原のお祭、例大祭は毎年5月3日から5日にここ山王神社でも行われるのだと。『拝殿』。御祭神は大山咋命 ( おおやまくいのみこと ) 大山祇命 ( おおやまつみのみこと ) 少彦名命 ( すくなひこなのみこと ) 。そして山王神社の隣にあったのが『宋福寺』。『本堂』。『犬渕山宗福寺』と書かれた扁額。門を入って右側に寛文7年(1667年)、正徳6年(1716年)などの庚申塔3基や石塔が並ぶ。何基かの海難漁師の供養塔も建てられていた。『山王大権現』。山王大権現は宗福寺の鎮守だったのだと。『水子地蔵尊』歴史を感じさせてくれた宝塔。そして、日本橋まで(から)83Km。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日蓮宗の『法船寺』に向かう。この酒匂地区には法船寺の外に法秀寺、法善寺、本典寺、妙蓮寺などの多くの日蓮宗寺院があった。『済度山 法船寺 山門』。寺であったが山門には注連縄を張ってあった。そして本堂にも。境内にあった『常守稲荷』『六地蔵』。『日蓮聖人像』。日蓮上人と地蔵堂。『日蓮聖人御開眼 御手引地蔵尊天』と書かれた札が。「文永十一年五月十二日、日蓮大聖人は、鎌倉より身延山御入山の途中、酒匂川増水の為、渡る事不得口却せられる時この境内の大きな松の木に龍燈の霊光あり不思議に思ってお入りになるとその折、一老翁出現、宗祖と御弟子一行に御一泊乞う。当時お地蔵尊お守りせしお堂にお泊めいたし、お出迎の老翁は、お地蔵尊化身である事を知り堂守飯山入道夫婦日蓮大聖人に深く教化せられ改宗して済度法船居士蓮慶妙船大姉の法名を頂く。翌朝十三日船を出し御一行無事にお渡し致し後、法孫朗慶上人一寺を創立、済度山法船寺と号す。龍燈の松の枝にて、宗祖の御尊像を刻み本堂に安置す。この地は龍燈の松の木の旧地なりこのお地蔵様は、日蓮大聖人お手引きして無事向岸へお渡しせし不思議なお地蔵様ですお手引き地蔵として参詣の人たちがたえません。毎年五月十二日(母の日)小田原寺院総出仕稚児行列にて交通安全、家内安全大祈祷会大祭が行われております。日蓮大聖人、自ら足をお運びになった霊跡なり。」『水子地蔵尊』。『鐘楼』。『法泉寺 五重塔』1994年には立教開宗750年の記念事業として五重塔のミニチュアを完工。総高6.8m、総檜本瓦葺きの本格建築で、横浜日吉天野工務店施工。総工費約7500万円、とのこと。木造で瓦も本物!全部に紋が入っていた。1300人からの浄財で建てられたと。そして旧東海道を更に進み連歌橋交差点前まで来た。更に進むと酒匂橋東側交差点が目の前に。酒匂川(さかわがわ)に架かる『酒匂橋』を渡る。酒匂川の土手には記念の石碑として広重の絵がはめ込まれていたのでズームで。『東海道五拾三次 小田原 酒匂川』小田原は9番目の宿で、日本橋より二十里半(約82キロ)・徒歩二十時間である。小田原宿は江戸を出て初めての城下町である。また東海道最大の難所、箱根峠越えを前にして、多くの旅人が江戸を出て二日目に宿泊する場所でもあり、宿泊客が多く、東海道有数の大きな宿場として栄えた。広重は、小田原の手前の酒匂川から箱根の峯々を望み、その手前に小田原城と小田原の宿を描いている。酒匂川では蓮台渡し、水切り人足に先導された十数人で担ぐ大名駕籠をのせた大高欄蓮台、槍持ちの肩車などの川越の様子を描いている。江戸時代には江戸防衛政策の一環から大井川をはじめ橋が作られなかった川の一つが酒匂川。増水すると川止めになったようです現在の国道一号線の橋の少し上流側を渡ったようですが、雨が続き増水すると江戸時代の旅人は、足止めを食っていたのでしょう。左手に西湘バイパス、そして酒匂海岸と相模湾。酒匂橋から富士山の白き頂上下が僅かに見えた。正面に箱根~湯河原方面の山々の姿が。白鷺の姿も。酒匂川、相模湾の水面が輝く。渡って来た酒匂橋を振り返る。酒匂橋を渡り終わり暫くしてから左折し『新田義貞の首塚』を探す。ようやく見つけたがここの立て札のみしか見つけることが出来なかった。「建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。そして住宅街の狭い道を戻り再び国道1号線に戻る。そして『常顕寺(じょうけんじ)』を訪ねる。『本堂』。そして次に訪ねたのが『呑海寺』。住宅街の狭い参道を進む。『本堂』。臨済宗大徳寺派の寺。寄棟造り屋根、平入り、流れ向拝。祠の中の石仏。御本尊の『南無釈迦如来』。『六地蔵』。『南無妙法蓮華経』と刻まれた石碑の先にも寺が。太い石柱の山門の先に境内、奥に本堂。境内社。『本堂』。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。向拝の軒樋の雨水が大きな水甕に排水されていた。本堂のガラス戸のお印は黄金色。この辺りは寺町であったのだろうか?次に訪ねたのが『昌福禅院』。風情ある白壁の参道。参道の白壁沿いの『六地蔵』。『山門』『本堂』。『無縁仏塚』白壁の前には様々な石碑が立っていた。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次三寶寺を後にし進むと日本橋まで(から)80Kmと標柱が。松並木が再び始まり、前方に「酒匂歩道橋」が。『道祖神』。右手に『長楽寺』。国道1号線、酒匂県営住宅交差点から東約30m、北約100mに御影石の門が。勧学山修行院と号し、開山は応永十五年(1408)、浄土宗の寺。奥に『本堂』。門を入ると正面、ツツジの参道の先にマキの木を配した入母屋造の本堂が。棟に二つの浄土宗の宗紋・月影杏葉が輝き、向拝は欅の柱、梁、虹梁、海老虹梁で構成。虹梁は唐草のレリーフが彫られ、欄間には大胆な彫りの飛竜がしつらえられていた。また、海老虹梁にも唐草のレリーフが彫られ、両側を獅子鼻が支えていた。『上輩寺』上輩寺は品山浄土院と号し、開山は他阿真教、開基は酒勾右馬頭、永仁五年(1294)起立。法然上人像か?『本堂』。境内横に銀杏の巨木は。『小田原市指定天然記念物 上輩寺の乳イチョウ』。垂れ下がったものは乳柱と呼ばれているらしい。イチョウは乳柱が多く独特な樹形で飯泉の勝福寺、城山の光円寺と並ぶ小田原三大イチョウの一つでもある。高さ 15m 胸高周囲 5m、樹齢約600年、室町時代の生まれと。『かながわの名木100選』プレート。このイチョウの傍(写真右)に三基の五輪塔が並んでいた。地元の豪族、酒勾一族の墓と伝わると。コンビニの店頭にはサンタと雪だるまが。次に浄土宗光明院『大見寺』を訪ねる。新編相模風土記によると大見寺は「光明山無量院と号す、天文三年(1534)僧退堂、小菴の古跡に就て起立す、境内に小島氏の墳三あり、各五輪なり」という。『山門』背の高い石仏像。『六地蔵』生前の行為の善悪のいかんによって,人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道の境涯を輪廻,転生するといわれるが,そのそれぞれに,衆生救済のために配されていると。写真右から檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,日光の6地蔵をいうと。『本堂』境内の植木の手入れ中であった。大見寺境内の本堂前には川辺氏代々の墓が並び、おくに円柱の上に仏様が蓮華座の上に腰掛けたような石柱が。これは川辺家当主川辺清兵衛家次墓で当時の繁栄ぶりが残されていた。『小島家の宝経印塔・五輪塔』中央の白い塔の左が宝経印塔のようだ。『小島家の宝経印塔・五輪塔』説明板。「小嶋家は酒匂の旧家で、江戸時代は名主や組頭もつとめた家柄。右側の宝篋(ほうきょう)印塔は、徳治三年(1308年)銘の墓石で、小嶋家の祖先である左衛門入道の墓。なんと今から700年前、鎌倉時代初期の墓だという。左の宝篋印塔は、天文二十一年(1552年)銘の墓石。小嶋家の中興の祖である小嶋行西(ゆきにし)の墓。戦国時代の墓ということになる。向かって左の墓地の五輪塔は、天正二年(1574年)銘の墓石で、小嶋行西の子、左衛門太郎正吉の墓と考えられるもの。後北条氏治下の時代になる。」『五輪塔』。横から。『小嶋家由来』本陣を営んでいた『川邉家』と刻まれた石碑も。「ゆりかご園」と表札のかかった古い長屋門。川辺家の門。児童養護施設「ゆりかご園」の敷地になっていた。『酒匂不動尊』。不動堂の右側には『酒匂不動延命水』があった。「ここは明治二十一年行者海老原師により酒匂水行堂水修行道場として開かれました。この延命水は地下より湧き純粋清冽にして霊験有。どなた様も自由にお使い下さいませ。」そして日本橋まで(から)81Km。次に右側奥に日蓮宗 神力山『法善寺』。日蓮宗の寺であるが、元は真言宗の寺であったと。『本堂』。寺縁起に永享十一年(1439)、法善入道と云われる中野禅門がここに真言の庵を結び、十九年後、伯父にあたる本法院日敬聖人の教えにより号を神力山として日蓮宗に改宗したと。『浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)さま』。水をかけて「南無妙法蓮華経」と唱えると、ケガレを除き病を治してくださると。見事な『宝経印塔』?と『神力山法善寺縁起』。『扁額』の文字は?日本橋から81Km。左手に日蓮宗『妙蓮寺』。本堂は明治43年に火災により焼失。縁のあった善行寺(横浜市)が本堂建替えを行うとのことで、旧本堂を譲り受け移築した。大正12年の関東大震災で倒壊したが、昭和2年に再建された。そして一昨年10月、本堂新築落慶法要が執り行われた。「高祖日蓮大聖人降誕八百年」「妙善寺開創四百五十年」という節目を迎える大事業にて新築されたと。左手にあったのが『栄柳山 本典寺』。享禄年間(1528年‐1531年)より 法燈継承する歴史ある寺。境内の墓地。樹齢500年を超える大きな御神木(タブの木)。『南無妙法蓮華経』と刻まれた2つの石碑。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次昨年12月4日に旧東海道の国府津から箱根旧街道の始点の『三枚橋』まで旅友のSさんと二人で歩いて来ました。この日の旧東海道のルートです。JR国府津駅から海沿いを歩き、酒匂川を渡り」小田原城近くの小田原宿を通過し、小田急線に沿って箱根湯本駅手前の三枚橋までのルート。JR国府津駅を9時にスタート。旧東海道の国道1号線には『国府津・曽我の里散策コース』と書かれた支柱が。国府津駅から曽我丘陵を尾根づたいに「曽我の里」へ。菅原道真. 公を祀った「菅原神社」や「中河原梅林」の中にある曽我兄弟ゆ. かりの「瑞雲寺」などを通ります。天気の良い日は、富士山や足柄. 平野が一望でき、爽快な気分を味わえるコースであると。『国府津駅前』交差点を右折して小田原方面に。左側に相模湾が姿を現す。左手に『御勧堂(おすすめどう)』南側は全部太平洋。ここは親鸞聖人草庵の旧跡で聖人が7年間、民衆を教化されその後 弟子の顕智坊に譲り上洛されたのだ。石碑の裏側。親鸞聖人が、布教のために、ここ国府津にとどまっていた時に、民衆を教化した庵室跡親鸞聖人御草庵之旧跡『親鸞聖人7ヵ年御旧跡真宗大谷派真楽寺』の石碑。もともとは天台宗のお寺でしたが、親鸞聖人の教えにより真宗に改修しました。「真楽寺」という名前も親鸞聖人がつけました。切支丹禁制下に、観音像だと偽っていたマリア像がある。『帰命堂』。中には親鸞が指で字をなぞった帰命石があるそうです。『本堂』。『鐘楼』。細い木の奥にあるのが『真樂寺のボダイジュ』。新編相模国風土記稿(1830~1841年編纂)にも当時の菩提樹の記述があり《親鸞手植のものと云、囲7尺》とあり、当時は幹回り2.1mの大樹で、単幹であった事が分かるが、幕末の頃、真楽寺で火災があり損傷しその後、蘖(ひこばえ)が生え、成長したものが現在の菩提樹だとのこと。この木が親鸞上人の植えたものかどうかはっきりしないが、樹齢370年位と推定されており、植え継がれたものと考えられる。次に釼持山(けんじさん)『法秀寺(ほうしゅうじ)』を訪ねる。小田原市国府津2-9-4にある日蓮宗の寺。境内にある神社。『本堂』。開創は永禄7年(1564)。開基壇徒釼持佐右門の父大蔵(法号法秀)が深く法華経を信仰し、別邸を挙げて寺を建立しようとし、永昌院日運上人に願い開山したと。本尊は一塔両尊四士。『水子供養』『永昌院日運上人像』。洞に安置された石仏。日蓮宗の寺ですが火灯窓・花頭窓(かとうまど)が。『森戸川』に架かる『親木橋』『森戸川』と奥に『西湘バイパス』が。曽我梅林方面への道には東海道本線が。西湘バイパス『国府津IC』。そしてその奥に相模湾が拡がる。日本橋から79Km。左手に『山近記念総合病院』。「一里塚」というバス停。続いて「ガスト」を過ぎた所に、民家の塀前に説明板のみ立っている『東海道小八幡の一里塚』このあたりは、旧東海道に設置された江戸から19番目の一里塚があった場所です。慶長9年・・・小八幡の一里塚について、天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とあると。『八幡神社』入口。次の「宮の前バス停」の傍に三寶寺があった。街道際に『弘法大師筆跡 利劔名号 安置』と刻まれた大きな石碑が建っていた。八幡山神明院『三寶寺』境内の銀杏の大木は全て葉を落としていた。三寶寺『本堂』。三つの寶とは、一つは「佛」、一つは「法」、一つは「僧」の「ぶつぽうそう」のこと。佛教の信仰の基本はこの三つの寶に帰依することから始まると。「佛とは明るく・法とは正しく・僧とは仲良く」みんなで明るく、正しく、仲良く日々を生きていこうという教えの寺なのだと。見事な彫刻。破風の彫刻も見事。『茶枳尼天(だきにてん)』吒枳尼信仰は、空海によって、日本に持ち込まれたと。日本においては、吒枳尼天(だきにてん)と呼ばれ、密教の教主である大日如来 (だいにちにょら い)の化身とまで呼ばれるまで崇(あが)めら、白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、稲荷神(御饌津神 (みけつかみ))と同一視されていると。『六地蔵』。手水舎。蓮の花の中に水場が。『鐘楼』。『三寶寺梵鐘 黄鐘』。平成の本堂大改築への礎となった建造物(棟梁、内田定春氏)。昭和六十二年春落慶、鐘の音調は129ヘルツの黄鐘調、重量:二百貫、外口:二尺八寸、鋳造:昭和六十二年二月二十日京都唐渡町鋳匠岩澤宗徹師、形態は井上三綱画伯の作品「黄鐘調」のレリーフが鋳込まれた美術梵鐘。徒然草に「およそ鐘の音は黄鐘の調べなるべし、其の無常の調子祇園舎の無常院の声なり」とあると。母親が低い声で子守歌を唱いながら赤ん坊を寝かしつけるあの音程を黄鐘調といい、元々東洋の雅楽の音程で「すべての生きとし生けるものが平和に幸せになりますように」との願いを込め銘文「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」が鋳込まれ制作されたものであると。『南無阿弥陀仏』と刻まれた石碑。『小田原邪宗門』道路脇の看板にあった、「てらカフェ」、11時からOPENと。銀杏の大木の乳根も見事な大きさ。 ・・・旧東海道を歩く(大磯~国府津)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次二宮町から小田原市に入る。小田原市の市章(シンボルマーク)は、梅の花と、海の波形をうまくデザインしたもので、これは70年前の市制施行に際し、広く公募した中から選ばれたものであると。押切橋交差点の先から押切坂を振り返る。押切橋を超えて進むと右手にあったのが『三宝神社』。比較的小さな社殿。そして進むと『再び二宮町の道標』が目の前に。先ほど小田原市に入ったが再び小田原市を出て二宮町に入るのであった。帰宅して調べてみると、この辺りは市境が入り組んでいる事を下記ブログから理解したのです。「小田原市-二宮町/市町村境界の謎 」(☚リンク)この市境の経緯についても書かれていますので興味のある方はアクセスしてみてください。すなわち坂を上ると塔台橋でまた二宮町に戻り、その後道路の中央が市境となっており、中央の分離線の右側は小田原市、左側は二宮町になるのです。そして坂を上り切った橘インター入口でその先は道路の両側が再び小田原市に入るのです。この付近かなり複雑に境界が入り組んでいたのであった。『塔台橋』。下を流れる塔台川。マンホールも「小田原」から「二宮町」にしっかり戻るので、下も向いて歩くと面白いのであった。再び二宮町の汚水マンホール蓋。MY TOWN NINOMIYA の文字と、中央に町の木・椿の花のデザイン。カラーマンホールであれば椿の花は真っ赤なのであろう。そして再び小田原市へ。西湘バイパス・橘IC入口が左手に。日本橋から76Km。浅間神社信号があり右手にあったのが『(前川)浅間神社(まえかわあさまじんじゃ)』。(前川)浅間神社の『石鳥居』。『拝殿』。御祭神は木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )。拝殿脇の土盛りの場所にあった石碑には何と書いてあるのだろうか?富士塚に立つ『富士講?大神』であろうか。こちらは『震災復興紀念碑』。『境内社』そして更に進んでいくと相模湾が前方に見えて来た。『光る海』。真鶴半島そしてその先に三ツ石が見えた。『史跡 車坂』東前川あたりの右手にある碑で、太田道灌、源実朝詠歌の記念碑。太田道灌が車坂で夕立に出合ったとき詠んだものであると。源実朝は洪水で渡河できないときに詠んだ歌。阿仏尼の歌もある。『鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空』 太田道灌戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にてゆう立しきりに降りそいえば」とあり、この時に詠んだものです。『浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも』 源実朝「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、日暮れまで待つ間に詠んだものです。『浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月』 北林禅尼(阿仏尼)「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊り、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。そして100m程の右手に『従是大山道』と刻まれた石碑が。奥に秋葉常夜灯と小さな石の祠が並んでいた。羽根尾、井ノ口、秦野と山の中をぬって蓑毛へと向かう大山詣の西からの参道口らしい。不動明王が乗っているのでよく目立つ道標。顔が何となく可愛らしいのであった。少し先の信号の所に、双体道祖神と坂下(文字)道祖神(下・左)が並んでいた。坂下道祖神碑は最近のものの様であるが、双体道祖神は風化の具合から考えて、かなり年代を経ているのではと。右手に『近戸神社(ちかとじんじゃ)』と書かれた石碑があったが、調べてみると線路の向こう側の神社であったので今回は訪ねなかった。道路脇のミカン売り場。日本橋まで(から)77Km。坂を上り切った右手、中宿公民館前にも双体道祖神(下・中)?があったがこれも風化が激しく年代不詳。そして予定になかった右手『清正公堂』。石材店の裏にある戦国武将の加藤清正を祀るお堂。「加藤清正」は何故か見過ごせなかったので立ち寄って見た。建物・堂?もあったが中には入らず。『日蓮上人像』。『法徳地神』何となくあやしい場所なのであったが・・・・。そして再び海岸線に。右手に『カトリック国府津教会』の看板があった。『國府津カトリック教會』。『カトリック国府津教会(教会堂名:七つの悲しみの聖母)』創立は1951年 で住所は「神奈川県小田原市国府津4-5-57」国府津教会はアイルランドの聖コロンバン会によって創立されたのだと。敷地は松の古木で囲まれていた。カトリック国府津教会の聖母像。聖母像の光背には、“Je suis l'Immaculee Conception (私は無原罪の御宿りです)”の文字が並んでいる。なかなか凝った意匠なのだと。 無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり)とは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れと咎(とが)を存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義であるのだと。教会からの相模湾の眺め。電線が多すぎて・・・・。『のんき停』。昭和15年創業の人気の和食堂。海のそばで分かりやすい場所にありうなぎ・地アジ・とん汁・・・が好評。私も何回か利用した店。日本橋まで(から)78Km。そして右に曲がると直ぐ正面にJR国府津駅が。『国府津駅開業100周年記念碑』「国府津駅は1887年7月東海道線が横浜から国府津まで延長されたのに伴い、開業した。 1889年には東海道線が現在の御殿場線経由で静岡まで延長され、1920年には国府津-小田原間が開業した。1925年には横浜から国府津まで電化され、国府津駅はELからSLへの交換基地となった。 1934年には丹那トンネルが開通して、沼津まで電化されると、国府津駅は御殿場線への乗り換え駅となった。 1987年4月国鉄の民営分割化により御殿場線はJR東海の所属となり、国府津駅はJR東日本とJR東海の境界駅となった。」と。東海道線で活躍していたD5270 蒸気機関車のレリーフ、そしてレリーフには♫国府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原とをからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より ♫ -鉄道唱歌より-~ と彫られていた。『国府津周辺案内図』。そしてこの日の『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』の単独歩行を完了し帰路に就いたのであった。 ・・・その6・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(大磯~国府津) 完・・・
2019.02.05
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そして今日、2月4日(月)は『立春(りっしゅん)』。立春は寒さが1番ピークの時期で、 立春を超えると寒さが段々和らいで来るのです。日照時間が1番短く、 南中高度(1日で太陽が最も高い位置にある時の地平線からの角度)が最も低いのは、 冬至(12月22日頃)。しかし、太陽からの光で地球が温まるのには約1ヶ月程の時差があるのだと。そのため、一年で一番寒くなるのは冬至(昨年12月22日)の約1か月後の、 大寒(1月20日)~立春(2月4日)なのです。昨年の熱海・糸川桜に戯れていたメジロの写真に『立春』と入れてみました。毎年だいたい2月4日頃が立春となります。頃というのは2月4日に固定されているわけではなく、2月3日や2月5日の時もあります。立春というのは、二十四節気の一つ。二十四節気というのは、1年(約365日)を24等分にして、季節の名称が付けられたもの。24個あるうちの一番目で、冬至と春分のちょうど中間が「立春」と定められています。立春は、その日一日だけが立春と呼ばれることもありますが、2月4日頃次の二十四節気の「雨水」(2月18日頃)の前日までの期間を立春と呼ぶこともあります。また、八十八夜、二百十日、二百二十日と聞いたことがあると思いますが、これらの日にちは起算日の第一日目として立春から数えての日数となっています。立春の文字を見ると、春が始まるようなイメージですが、立春から立夏(5月5日頃)の前日までが、春となります。立春を過ぎると暦の上では春。少し日が長くなり、季節が動いていることを感じますが、寒さはもうしばらく続くのです。今年はインフルエンザが猛威を振るっています。1月31日~2月1日は、南岸低気圧の影響で関東地方などでも雨や雪となりました。ただ、お湿りは限定的で、昨日正午の東京都心の湿度は38%。関東甲信地方を中心に空気のカラカラが復活しているのだと。この先も関東甲信地方を中心に晴れる日が多く、空気の乾燥が続きそうです。手洗いや人混みでのマスクの着用、十分な睡眠をとるなど、インフルエンザ対策が欠かせません。そしてバランスのよい 食事を心がけ寒さを乗り切りましょう。 【http://chugokugo-script.net/koyomi/risshun.html】より『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。二宮町・吾妻山を右手に見ながら国府津方面に向かって進む。陽射しも強く12月とは思えない天気の中を歩く。日本橋まで(から)74Km。吾妻山入口交差点から吾妻山を見る。旧東海道はこの先右手を。『旧東海道の名残り』、『約100m先左折 梅沢海岸』と書かれた標柱。ここが吾妻山山頂近くにある「吾妻神社」の参道。この「吾妻神社」の創建年代等については不詳であるが、言い伝えでは日本武尊が東征の折り浦賀水道で暴風にあいそれをおさめるためその妃である弟橘姫命が入水し、その後弟橘姫命の櫛が流れ着き、それを祀ったのがこの神社とされていると。奥には一の石鳥居が。宮戸醤油漬物醸造と書かれた銘板のある入口門の前には大きな釜が。ここ二宮町山西のヤマニ醤油は、この町に1軒だけあった醤油醸造所。天保13年(1842年)に二宮で創業し残念ながら2005年に閉じてしまったとのことだが、町内には峯尾醤油という老舗蔵も存在していたと。江戸時代以降の二宮は、ちょっとした"醤油どころ"だったようだ。坂を上って行く。『真言宗 梅沢山 藤巻寺 等覺院』が右手に。旧東海道、梅澤川に架かっていた梅澤橋跡の袂から見上げる坂を登ったところに梅沢山等覚院、別名藤巻寺という古義真言宗の寺が。本尊は不動明王および両脇侍像で、その他にも多数の仏像が置かれていた。『本堂』。宗派は古義真言宗。小田原市国府津町宝金剛寺の末寺。本尊、不動明王および両脇侍像。『六地蔵』。『水子地蔵尊』。『鐘楼』は二宮町重要文化財。寛永八年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の鐘楼であると。『正徳地蔵尊』。『無縁墓地』。『観音堂』推定樹齢約400年を超えるといわれる『白藤』。元和九年(1623)、徳川3代将軍家光が上洛した際、駕籠を止めて白藤を見物したとの言い伝えが残ると。また、寺の名前に関しては、寛文(1661~72)の頃、仁和寺の宮が、関東下向の時、藤の木の根元を見て、『藤巻寺』の別号を与えたと伝えられていると。南無薬師如来の赤い幟。『相模新西国三十三ヶ所観音霊場 第壱番藤巻寺』国道1号線と交差する近くに道祖神の古い石碑があった。『越地の辻の地神塔』。1802(享和2)年の物と。「金目の煮付」の赤い旗も存在感を。旧東海道と国道1号線の合流点を振り返る。この後にふれるオジサンが、ここでも旧東海道ではなく現国道1号線を歩いているのが写真に写っていたのであった。暫くすると、白装束、杖、編笠を被り足早に抜いて行く旧東海道巡りのオジサンの姿が。リュックには『東海道五十三次 徒歩の旅 江戸(日本橋)⇒京都(三条大橋)』と書かれたプレートを取り付け、気合が入っているのであった。日本橋まで(から)75Km。遥か前方に、先程の白装束の男性の姿が。『押切坂上』のバス停。川匂神社交差点に架かる歩道橋が前方に。川匂神社交差点を右折したところにあったのが『茶屋薬師堂』。かつては川勾神社の本地仏であったが、明治時代の神が仏分離令により別管理となったと。木造の『薬師如来坐像 (もくぞうやくしにょらいざぞう)』が安置されていると。像高は261.5センチとかなり大きく、寄木造り・彫眼・漆箔で、江戸時代の作で二宮町指定 重要有形文化財。毎月1日と12日にはお年寄りたちが薬師堂に集まり、念仏を唱えていると。『三界萬霊塔』。三界とは我々が生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すと。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指すのだと。よって、三界萬霊塔とは、この世のあらゆる生命あるものの霊を宿らせ、供養することが目的に建立され、我が家の先祖だけでなく、すべての精霊に供養することの大切さを教えるものだと。多くの石仏も。そして歩道橋から前方の押切坂を見ると先ほどの白装束のオジサンの姿が。実はこの歩道橋の袂から旧東海道は脇道となっているのだが、そのままここでも現在の国道1号線を歩いていたのであった。装束こそは素晴らしいが、甚だ予習不足のオジサンなのであった。リュックの「東海道五十三次 徒歩の旅」のプレートは「現東海道1号線 徒歩の旅」に変更した方が良さそうなのであったが・・・・。『史跡 東海道一里塚の跡 江戸より十八里』。「ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ約3.6m、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は高さ約3.3m、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。」私はしっかりと旧東海道を押切坂に向かって歩く。『松屋本陣の跡』。『松屋本陣の跡』は完全に一般住居の庭に立っていたのであった。「江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、 間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。 「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。」そして旧東海道『押切坂』の下りが始まる。今は住宅街の中の旧東海道。旧押切坂の途中の右手には可愛らしい道祖神が祀られていた。そして旧&新押切坂の合流点に。合流場所から振り返る。右側が旧東海道。中村川(なかむらがわ)に架かる押切橋が前方に。押切橋は幾度となく架け直された過去があると。流失と架け替えが繰り返された理由として、押切の名が示す通りこの地域は大水(洪水)の常襲地帯で、堤を押し破ることからこの名がつけられたのだとも。『押切橋』と書かれた銘板が欄干手摺に。中村川は、神奈川県足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれていると。左手には西湘バイパスとその先に相模湾が。川には多くの鯉が大きな口を開けて。そして小田原市に入る。小田原市のマンホール蓋。【http://sky.geocities.jp/usagigasi1j/kanagawa/odawara/odawara.html】には「歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたマンホール蓋です。 江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は、旅人にとって大変な難所でした。 右下のふんどし姿の人影は、当時、旅人や荷物を担いで渡った「人足」と呼ばれる労働者たち。 また、背景にあるのは、酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そしてその奥にそびえる「霊峰富士」です。 小田原市は昭和34年に下水道整備に着手し、現在は酒匂川流域の市町と連携して流域下水道事業を進めています。 「酒匂川から見た雄大な風景を歴史とともに後世に残したい」。 そんな想いが詰まったデザイン蓋です」と。 ・・・その5・・・に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.02.04
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今日は2月3日(日)、そして2019年の『節分』。本来、節分とは季節の節目である「立春、立夏、立秋、立冬の前日」のことをいい、年に4回あります。ところが、旧暦では春から新しい年が始まったため、立春の前日の節分(2月3日頃)は、大晦日に相当する大事な日でした。そこで、立春の前日の節分が重要視され、節分といえばこの日をさすようになったのだと。鬼は邪気や厄の象徴とされ、形の見えない災害、病、飢饉など、人間の想像力を越えた恐ろしい出来事は鬼の仕業と考えられて来たのだと。鬼を追い払う豆は、五穀の中でも穀霊が宿るといわれる大豆。豆が「魔滅」、豆を煎ることで「魔の目を射る」ことに通じるため、煎った大豆を使い、これを「福豆」といいうのだと。炒った豆を枡に入れ、神棚にお供えする。神棚がない場合は南の方角に置くのだと。夜になってから、戸口や窓、ベランダなどで豆まき開始。大きな声で「鬼は外!福は内!」と。豆をまくのは、家長の役目とされ、その年の干支の年男、年女も吉とされています。家中の戸を開け放して「鬼は外!福は内!」と大きな声で唱えながら家の外と内に豆をまく。豆をまいたら、鬼が入ってこないようすぐに戸を閉めます。そのあと1年間無病息災で過ごせるよう、年の数だけ福豆を食べる風習があります。食べる豆の数は、新しい年の厄祓いなので満年齢よりも1つ多く食べる、いわゆる 数え年として1つ多く食べる、もともとが数え年と考え新年の分を加えて2つ多く食べる、満年齢のまま食べるなど、地方によって様々ですが、全部食べきれないという方は、梅干し、塩昆布、豆3粒を入れた「福茶」を飲む方法など、いろいろあるようです。今年も妻がスーパーから購入して来ました。我が家も今晩、私が大きな声で「鬼は外!福は内!」と。そして数え年分食べるのは無理ですので、「還暦でリセット」し9個としたいと思っていますが・・・・・。そしてテレビのニュースでは、節分には「福豆」に並んで「恵方巻」を食べる習慣が定着し、あちこちで巻き寿司が売られるようになっている。それだけに大量に売れ残り、破棄されることが社会問題になっているのだと。しかし、我が実家そして我が家では「恵方巻」を食べる習慣は全く無く、「恵方巻」の存在を知ったのは10年程前なのです。因みに今年の「恵方」は「東北東」とのこと。2月の消費を盛り上げるために導入されたバレンタインデーのチョコレートやこの節分の恵方巻は商業目的で導入され定着していった代表的なイベントなのです。『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。県立大磯城山公園を後にし、国道1号線に戻り、『旧吉田茂邸』に向かう。『県立大磯城山公園 旧吉田茂邸地区』この場所も昨年の一月に訪ねブログアップ(☚リンク)しましたので、そちらもご笑覧ください。『バラ園』。色とりどりのバラが競うように花を咲かせていた。吉田茂はバラの愛好家として知られ、存命時に植えられていた品種が今でも同邸内のバラ園で栽培されている。皇后美智子様ゆかりの「プリンセスミチコ」を始め、17品種約280本のバラが来場者を出迎えるように甘い香りを放っているのだ。バラ園内を散策。様々な種類の秋バラが香りを放っていた。旧吉田邸内に入る『内門(兜門)』。この日は12月1日でここ旧吉田茂邸も休館日であったが、庭園には入れたのであった。『日本庭園』『管理休憩棟』も人の数は少なく。再びバラ園へ。様々なポスターが。前回訪ねた『明治記念 大磯庭園』のポスターも。『旧吉田茂邸 駐車場』には休館にもかかわらず大型観光バスが2台も。駐車場隅にも美しいバラが。そして再び国道1号線を超え旧東海道に戻り進む。ユニークな欄干の『本郷橋』を渡る。昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚。橋長16.8m、幅員6.8mのこの小橋は、建設後、既に60年以上も経ているはずだが、 よく維持管理されていた。不動川(ふどうがわ)に架かるかながわの橋100選の『本郷橋』。昭和2年に建設されたアーチ状の道路橋。構造は、鉄筋コンクリート変断面ラーメン橋で、高欄、親柱、橋側面のデザインが重厚である。橋長16.8m、幅員6.8mのこの小橋は、建設後、既に60年以上も経ているが、 よく維持管理されているのであった。そして、この橋の親柱は常夜灯になっているようであった。そして暫く歩くとカーブの左側にあったのが『宝前院』。『本堂』。「国府山 宝前院」は真言宗の寺。更に旧東海道を進む。この土盛りと並木のある直線の道路の雰囲気がかつての東海道だったという雰囲気を残していたのであった。そして進むと左手の樹木の下に柱と説明板が。『国府本郷の一里塚』。1604(慶長9)年に徳川家康の命で築かれた東海道の17番目の一里塚。現在説明板のあるものは2002年に復原された一里塚で、実際は江戸方向に200mの位置にあったとのこと。『江戸から十七里』。更に松並木を楽しみながら歩く。国道1号線に合流すると、『六所神社』の案内柱が。『六所神社』の大鳥居。東海道線のガードを潜り本堂に向かう。『本堂』。718年に現鎮座地に遷座。 櫛稲田姫命が祖神。その時より一之宮寒川神社 ( 寒川 ) 、二之宮川勾神社 ( 二宮 ) 、三之宮比々多神社 ( 伊勢原 ) 、四之宮前鳥神社 ( 平塚 ) 、平塚八幡宮 ( 平塚 ) の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになった。毎年、5月5日には「相模国府祭」が行われる。湯津爪櫛御守り(ゆつつまぐしおまもり)は、男性から女性に贈ると「かけがえのない女性の証」。縁結びスポットとしても有名。この神社には、昨年の一月末にも訪ねているので、そのブログ(☚リンク)も参照ください。二宮に近づいていくと右手に『蓮花院』入口の案内が。蓮花院は、1192年(建久3年)、源頼朝が妻北条政子の御産加持を命じたという祈願所の一つ。日吉山王大権現(日吉山王社)の別当寺として祭祀を司って来たと。『本堂』創建は詳ではないが、慶長年中尊慶の中興されたと伝えられていると。「木造聖観世音菩薩及び二天立像」が安置され、町の文化財に指定。相模新西国三十三観音めぐり第五番霊場。そして大磯町から二宮町に入る。二宮町の汚水マンホール蓋。MY TOWN NINOMIYA の文字と、中央に町の木・椿の花のデザイン。「おすい」の文字入り。 この後国道一号線沿いに歩いていたら、何度も何度も遭遇。カラーマンホールの椿の花は真っ赤な色であると。葛川(くずかわ)に架かる塩海橋が前方に。道路脇の建物の壁一面に紅葉した蔦?の葉が。『塩見の名残り』と書かれた標柱を見つける。この付近で明治初期頃まで海で塩を作っていたのだと。新編武蔵風土記稿にも塩海(しぼみ)について書いてあり、古くからこの海岸で塩を作っていたと。近世になってからも揚浜法を用いて川匂・山西の3箇所で塩を作って年貢も塩であったと。現在の葛川では、その名残は全く見られなかった。「二宮」交差点に架かる歩道橋の中央付近から、海岸にある西湘バイパス「西湘二宮IC」に続く道路を見る。二宮交差点の右前方に早咲きの名の花が咲く人気のスポット「吾妻山」が見えた。更に進むと右手にあったのが『守宮神社』。小さな社殿。明治二十二年十月、神社を再建。「大地主命」(おおとこぬしのみこと)を祀っていると。そしてJR二宮駅南口に到着。カラーマンホールを発見。南口ロータリーには少女の像が。防空頭巾を纏ってウサギを抱きながら遠くを見つめる少女像。『ガラスのうさぎ』像であると。「太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。」『ガラスのうさぎ』の裏には『伊達時彰徳碑 (だてときしょうとくのひ)』が建っていた。伊達時は二宮駅の開設や秦野―二宮間の交通網の整備、郷土の子どもたちの教育に尽くした。この碑は昭和26年に伊達の功績を永く後世に伝えるため、町民有志により建てられたと。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に二宮方面に向かって歩く。滄浪閣(そうろうかく)前交差点。右手には東海道線跨線橋が見えた。日本橋から69Km。『滄浪閣』入口。滄浪閣は、1890年(明治23年)に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市)に建てられた、政治家・伊藤博文の別邸。1897年(明治30年)に中郡大磯町に同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となったと。『滄浪閣』の名の由来は、楚辞の漁父第七「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水清まば、もってわが纓を濯うべく、滄浪の水濁らば、もってわが足を濯うべし)と。「滄浪」は「あおあおとした波」又は「漢水」の意味で、滄浪の水の流れが綺麗なときは冠の紐を洗い、濁っているときは足を洗う、という意味から、何事も自然の成り行きにまかせて身を処する意味を表しているのだと。1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めたと。1954年から大磯プリンスホテルの別館として営業していたが、2007年頃に経営不振により閉業。その後は使用されていないが、歴史的価値のある建築であり、管理されている。『伊藤公滄浪閣之舊(旧)蹟』電器屋さんの店頭には早くもサンタクロースが。この日は12月1日(土)。前方に白岩大門交差点が。右手に折れ、東海道線ガードをくぐり『白岩神社』へ。階段を上る。神社の後ろの山が、海の方から眺めると白く光って見え、白岩山と呼んでいたので白岩神社と称えたとの事。『本堂』。毎年3月上旬の日曜日に、豊作や豊漁を祈願して行われます。流鏑馬(やぶさめ)とは異なり、社人が歩いて的をを射るという大変に珍しい神事。白岩神社の境内には、大磯に居を構えた伊藤博文公小祠、曽我物語の曽我五郎足跡石なども。そして東海道に戻り更に進む。『大磯松韻』と刻まれた石碑。大磯松韻住宅街は2003年1月に三菱商事と 清水建設が「歴史ある大磯らしい住環境を将来にわたって 維持したい」という開発プロジェクトの構想で開発されたと。こゆるぎの浜は古代から「よろぎ(ゆるぎ、こゆるぎ、こよろぎ)の磯」と呼ばれ、万葉・古今・新古今などの歌にも多く詠まれている。明治期以降は政財界の重鎮や文豪たちがこの浜沿いに別荘を構えたほどのやすらぎの浜になっている。北浜海岸とは対照的に静かで素朴な風景が広がっている。 さざれ石の産地としても有名。『八坂神社』。日本橋から70Km。手前に大磯町西小磯を流れる血洗川に架かる切通橋『切通橋』が見えて来た。『血洗川(ちあらいがわ)』血洗川の近く、切通しの岩窟中に行基作と伝えられる地蔵があった(現在は大磯町国府本郷の西長院にあり「身代わり地蔵」と呼ばれている)。縁起によれば、源頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した際、狼藉をはたらいた者がおり、梶原景時の子悪太郎景義が疑いをかけられた。この地蔵に帰依していた悪太郎はお参りに来た際に畠山重忠によって討たれた。だが、悪太郎の身体には傷はなく、代わりにこの地蔵が血を流し、その腕も刀傷を受けたかのようであった。その時に地蔵が流した血を洗ったことにより、この名がついたと言われている。血洗川は、現在は住宅地の間に。切通橋袂にあった『道祖神(右)と水神さま(左)』。「大磯町西小磯を流れる血洗川に架かる切通橋の袂には道祖神がある。ここの小字は西町というようで、西町の道祖神と呼ばれているようだ。ここの石塔にも「道祖神」と彫られており、屋根が付いている。まるで石廟のようだ。この道祖神の石塔の側面には世話人の名と建立年(明治16年(1883年))の銘がある。明治期の道祖神であり、この頃には石塔に屋根を上げたのであろうか?また、五輪塔も安置されている。傍らの石碑は「水神」(大正11年(1922年)銘)であり、関東大震災(大正12年(1923年))の前年に建てられ、水神さまを祀っている。この血洗川に由来するものであろう。」『関東ふれあい道』。ここからは「大磯高麗山の道」があると。切通が見えて来た。そして手前に「県立大磯城山公園」と書かれた道路標識が。『神揃山(かみそろいやま)』は右手にと。神揃山は相模国総社(六所神社)及び五社の神体石が 鎮まる場所、神の力が導く場所であったと。毎年5月5日の相模 国府祭 ( こうのまち ) の際には一之宮から総社六所神社が一同に集まる、平安時代後期に相模国の国府が置かれたといわれる場所。国府祭は国家安泰・五 穀豊穣・民業繁栄を祈る相模国最大の祭典で、一千年以上の伝統と歴史を持つ、別名「天下祭」とも言われていると。一之宮~総社六所神社の6つの神体石が厳かに鎮座していると。一之宮…寒川神社 ( 寒川町 )二之宮…川勾神社 ( 二宮町 )三之宮…比々多神社 ( 伊勢原市 )四之宮…前鳥神社 ( 平塚市 )平塚八幡宮 ( 平塚市 )総社六所神社 ( 大磯町 )現在位置は国道1号線から旧東海道が分岐する場所。旧東海道を進むと正面に『県立大磯城山公園』と刻まれた石碑が。県立大磯城山公園の入口。『県立大磯城山公園』案内図。県立大磯城山公園は、湘南地域の西、大磯町の海辺に位置する公園で、旧三井財閥本家の別荘地跡を利用した「旧三井別邸地区」と、宰相・吉田茂が暮らした邸宅を活用した「旧吉田茂邸地区」の二つの地区がある。ここ旧三井別邸地区には、三井財閥別荘跡地の宅地開発計画が契機となり1980年代に公園とすることが決まり、三井家の茶室として置かれていた国宝「如庵」にちなんで建てられた茶室「城山庵」、大磯町郷土資料館や横穴式古墳群などがある。かつて小磯城と呼ばれる山城が築かれていた場所で、園内には掘割の跡や鎌倉古道などが残されている。また、ゆるやかな丘陵につくられた展望台に登れば、相模湾をはじめ遠く富士、箱根、伊豆半島の山々などの雄大な自然が一望できると。坂を上っていくと大磯城山公園の南門が現われた。『中門(海會門(かいえざん))』「薬師寺(奈良)、菅原寺(奈良)、浅草寺(東京)などの古材を用いて作られています。柱は薬師寺の鐘楼の柱を使い門扉は当麻寺(大和)の講堂扉、鬼瓦および棟瓦は菅原寺金堂瓦、肘木は浅草寺肘木を使用するなど、多数の寺の古材を用いて建立されました。場所は現在の南門にあたります。」更に坂を上っていくと右に折れる階段が現われた。『流雲橋と仙遊門』。[37min階段の上にかけられていました。橋げたの礎石の一部が現在でも残っています。階段の昇り口には仙遊門が設置されていました。場所は現在の横穴古墳群への道になります。」更に坂を上っていく。左側にあったのが『亀蔵門』。現在の展望台。展望台の八角東屋の屋根には鶴が。『城山荘本館車寄』「中門から北に向かって坂を登ってゆくと本館が姿を現します。玄関前で大きく曲がり車寄として三井家の方々が車の乗り降りをされました。場所は現在の南門から展望台へ登ったところです。」展望台からのこの日の眺望。右手に富士山の雄姿も。『展望台からの眺望』。この展望台は「関東の富士見百景」に指定されていた。船のオブジェ。『城山荘本館』「建築家久米権九郎設計の木造建築物で、昭和9年暮れに完成しました。 本館中央には「養老閣」と呼ばれる四層の塔屋があり、最上階は展望室となっており、屋根には鶴の飾りが取り付けられていました。 この建物は全国の寺社の古材を使用して建設され歴史的にも非常に価値の高い建物でしたが、昭和45年に名古屋鉄道株式会社の所有となり、解体され京都に運ばれました。場所は現在の展望台あたりです。」高台にあったのが『北蔵ギャラリー』。昭和16年頃に建てられたという蔵。当時がしのばれる数少ない建物。東蔵も同時代に建てられたと。『北蔵ギャラリー』『SHODOH(書道)展』が行われていた。『通雲門』。通雲門の脇の「こうの橋」の案内標識もあった。見事な紅葉。細い坂道を下る。『大磯町郷土資料館』『外国人遊歩規定測量の測点』明治の初期に、居留外国人の移動範囲を横浜から測量した測点に置かれた標石は、神奈川県内に約60ヶ所あると。大磯町黒岩の第36号測点標石は2017年(平成29)に大磯町郷土資料館に再移設された。資料館本館の前庭にある郵便ポスト前に展示されていた。 懐かしいポストも。『1号丸型ポスト 昭和25~60年(1950~85)年』「大磯町内で使用されていたポスト。近年、郵便物が大畑化することにより、差し入れ口や容量が大きい角形ポストに替えられるようになった」。※このポストは使用できません。郵便物などはいれないようにしてください。『大磯町郷土資料館』はこの日は12月1日であったために月に1度の休館日であった。この資料館は大磯周辺地域の歴史、風土、民俗を紹介しているのであった。『大磯町郷土資料館』前の芝生広場。広場の紅葉を楽しみながら散策を続ける。『大磯町郷土資料館』が眼下に。竹林も美しかった。『横穴古墳群』。水たまりができた遊歩道をしばらく進むと木柵に囲まれた場所があった。古墳時代後期の横穴古墳群です。横穴が3つ確認できたのであった。横穴墓郡の前に『城山荘温故の碑』園内には32箇所 この一角には12箇所の横穴が。防空壕のような横穴が。急な傾斜地に木道が設置されていた。そして更に進み駐車場まで下り、次の目的地・「旧吉田茂邸」に向かったのであった。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.02
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年が明けてあっという間に時は流れ…もう2月になってしまいました。こうやって歳をとっていくのですね。私と同様に多くの方が今現在よりも、若い頃の方が時間が経つのがゆっくりだったと感じているのではと。以前にも書いた記憶がありますが、実はこの現象についてフランスの哲学者・ポール・ジャネ(1823年~1899年)が発案した「ジャネーの法則」というものがあるのです。Wikipediaによると『ジャネーの法則(ジャネーのほうそく)は、19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネの著書において紹介された法則。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明した。簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)。 【https://ameblo.jp/psymiki1109/entry-12173738670.html】より例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。 』と。よって、年齢を重ねるに従い1年の長さの比率が小さくなっていくことで、時間がより早く感じるようになるのだと。よって、日々多くの事を経験して充実した日常を送れるのであれば、密度が高い時間を過ごすことになり、人生における時間の経過を引き延ばす事になるのではと。時間を無駄にせず人生を充実させ為に、毎日をしっかりと生きて、充実感や満足感をしっかりと実感できる、そんな生活を毎日送ることが出来るように「今、この瞬間を生きる」を意識して日々、生活したいと思っているのですが。元旦に片瀬海岸で迎えた初日の出の写真に、文字を入れてみました。『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして今日も『旧東海道を歩く(大磯~国府津)』のブログアップを続けます。国道1号線(旧東海道)を平塚方面に戻り「大隈邸」、「陸奥邸」入口から入園する。中に入って進むと「大隈邸」の姿が見えて来た。庭園内には松や紅葉樹、竹林が。旧大隈重信邸(きゅうおおくましげのぶてい)玄関。残念ながら、この日は予約しておらず見学は外部からのみ。『旧大隈重信別邸』「大隈重信は、明治 15 年(1882)に立憲改進党を結成すると共に、東京専門学校(現在の早稲田大学) を創設しました。明治 31 年(1898)、自由党の板垣退助と日本で最初の政党内閣を組織し、総理大臣 に就任しました。その前年に、大磯の地に別荘を構えました。 現在は、東に隣接する旧陸奥宗光邸と合わせて庭園を含めた敷地面積は約 8,000 坪、家屋は一部増改 築がなされていますが、庭に面する居室部分はほぼ往時のままで保存されています。 社交家の大隈重信は、2 間の和室、計 26 帖の大広間「富士の間」でよく宴会を開いていました。書院 風の部屋で、1 間の床の間と付書院があり、床柱は面取のサルスベリが用いられています。 建物東側の宝形屋根の棟は、大隈が書斎として使っていた部屋で、「神代杉(じんだいすぎ)」をふんだんに使った「神代の間」と呼ばれており、床の間には欅の一枚板や竹の床柱が用いられています。」 『富士の間 』外観。『五右衛門風呂』。大隈重信は風呂が好きだったと。この釜に入っていたと。杉戸絵(左)をガラス越しに。杉戸絵「静香御前の舞」。杉戸絵(右)。太田道灌。天皇から送られた物だとか。屋外から撮ったためガラスの反射で光ってしまいました。『旧大隈庭園』大隈邸前の丘陵はなだらかに下り、海岸につながっていました。明治30年の創建当時は樹木も低く、海との間に道もないため邸の前庭から海を眺めることができました。大隈公は大磯邸で暮らした4年ほどの間に、防風・砂防のための松を植えたと伝えられています。『旧大隈重信別邸』説明パネル。『富士の間 』外観を振り返る。26帖の二間続きの大広間は書院風。「富士の間」と呼ばれ、大隈はここでよく宴会を開いていたという。神大の間 外観。神代の間の和室は、神代杉(※千年以上もの長い間地中(火山灰)や湖底に埋もれていた杉を神代杉と呼ぶ)をふんだんに使用し、床の間には欅の一枚板と竹の床柱がある。神代の間のガラスは、明治の頃、板ガラスは西欧で行われていた大型手吹き円筒法という製造方法が用いられていた。平らな板ガラスに歪みができ、内外の景色がゆがんで見えると。屋根には避雷針が。前庭も見事に手入れがされていた。そしてバラ園。『バラ園』説明パネル。バラ園の様々な色のバラを楽しむ。可憐な黄色。赤も輝いて。『果樹園』説明パネル。「宇賀大神」と刻まれた『宇賀大神の碑』。『宇賀大神の碑』説明パネル。古河財閥の時代に建碑されたと。宇賀神は白蛇を祀る信仰の神。水神信仰と結びつくことから七福神の弁財天とも同一視され、商売繁盛の福の神として祀られている。ちなみに鎌倉・銭洗弁天の祭神も宇賀福神。そして旧陸奥宗光別邸(きゅうむつむねみつべってい)。『旧陸奥宗光別邸』説明パネル。右側は母屋(応接室兼主人室) 外観。陸奥宗光は天保15年(1844)、紀州藩藩士の六男に生まれる。15歳のとき江戸に出て学ぶ。坂本龍馬とは神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と行動を共にした。明治維新後は外国専務局御用掛や兵庫・神奈川県知掌、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任した。『旧陸奥邸庭園』説明パネル。『母屋(応接室兼主人室)』 外観。ここにも『旧陸奥宗光別邸』パネル。『玄関』玄関に掛けられている額の文字は?『聴漁荘』。「漁の声を聴く荘」の意味であると。邸内にあった『龍頭の大島桜』。左の枝が頭でやや下がった枝が前足?庭の中には小さな神社も。今回は外部からの見学であったが、内部の様子は『まちへ、森へ。』のブログに詳細に説明されているのでリンクを貼らせていただきましたので、ご参照ください。そして見学を終わり東海道に向かい入口を振り返る。そして再び二宮方面に歩を進める。受付場所には多くの人の姿が。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.02.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次上方見附の先の横断歩道橋の右手の道を入って進んでいく。前方に高麗山とその頂上にある湘南平展望レストラン・Flat(ふらっと)の建物の一部とその右に平塚テレビ中継局の紅白の鉄塔が見えた。カラフルな『大磯 おすいマンホール蓋」をカメラに。美しい大磯の海岸風景に、町の花サザンカと町の木クロマツ、町の鳥カモメのカラーデザイン。 「大磯」と「おすい」の文字も。『大磯町全図』「鴫立庵」、「旧島崎藤村邸」が紹介されていた。『島崎藤村邸』を目指して線路沿いの小道を大磯駅方面に案内に従って進む。そしてこの不動産屋の角で右折。正面に「藤村邸」の看板が。手前には公園らしき姿が。東屋風の建物の下にはベンチも。『旧島崎藤村住宅 静の草屋』大磯町指定有形文化財。島崎藤村が満71歳で亡くなった家。昭和18年8月静子夫人が 「東方の門」 を朗読中に倒れ、翌日 「涼しい風だね」 という言葉を残して永眠したと。三間の平屋 建ての民家で外壁には杉の皮、簡素ではあるものの凝った造りの建物。小さい素朴な冠木門と割竹垣に囲まれた小庭。『島崎藤村邸』説明板。落ち着いた和室。引き戸には現在は希少な大正ガラスが使われていると。四畳半、左手に床の間もある小部屋。様々な展示品も。塗り残しの窓(下地窓)から書斎を覗く。そして藤村邸を慌ただしく後にし、線路沿い間で戻り右折し大磯駅方面に再び進む。正面に小さな橋が。『ふじみはし(富士見橋)』旧東海道に戻ると神奈中『統監道(とうかんみち)』と書かれたバス停が。調べてみると、東海道大磯駅から滄浪閣へ向かう途中の道が「統監道」であると。そしてこの道は伊藤博文ゆかりの道であると。明治38年に締結された第二次日韓協約に基づき、日本は韓国の外交権を掌握、韓国は日本の保護国となり、漢城(現・ソウル)に統監府が設置され、伊藤博文は初代『統監』に就任した。伊藤が大磯駅と滄浪閣の往来にこの道を通ったことから「統監道」と呼ばれるようになったのだと。つまり、旧島崎藤村邸まで往復した道が「統監道」であったのだ。この付近は杉並木の大きな小高い中央分離帯が続いていた。歩道橋まで戻り道路の反対側を進むと左手にあったのが『大隈邸・陸奥邸』の入口。入場には入園券が必要であるとのことで、更に進む。四石垣沿いの歩道を進む。この道は『関東ふれあいの道』。更に滄浪閣前交差点まで進み、道を横断。そこにあったのが『宇賀神社』。旧東海道沿いにあった石灯籠の扁額は石製で「宇賀」の文字が。その先に比較的小さい朱そして素地の鳥居が並ぶ。沢山の奉納鳥居を潜って行くと『宇賀神社拝殿』があり、手前に狛狐、石灯籠などがあった。創建は養老元年(717)以前と言われる古い神社で祭神は大食津姫命。相模国府祭にやってくる神輿は宇賀神社の前を遠ざけて通ったという記録があると。この日は「明治記念大磯邸園 ・明治150年記念公開」で「庭園観覧」は屋外の公開エリアにつき会期中は自由に観覧可能とのことで無料入園券を頂いたのであった。受付場所に行ってみると、そこは旧伊藤博文邸の「滄浪閣」と呼ばれている敷地内の入口付近で行われており、この受付にて旧邸園内の見学には2種類あることを知ったのであった。その1つは事前予約している場合で、この場合は旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸の建物内と庭園、そして旧伊藤博文邸(滄浪閣)の外観をガイドツアー付きで見学できるケース。もう1つは今回の私のような当日受付の場合で、このような人の場合は旧大隈重信邸と旧陸奥宗光邸の外観と庭園のみのフリー見学であった。そこで、事前予約の状況を聞いてみると、もうすでに公開期間中の予約は満杯になっており、現在はキャンセル待ちでの予約のみを受け付けているとのことであった。当日受付の無料入園券をいただき散策開始。正面に陸奥宗光、伊藤博文、大隈重信邸、西園寺公房の写真パネルが並んでいた。仮設ハウスでできた展示上に入る。会場内には、馴染みの偉人達の活躍内容が細かく紹介されていた。・明治政界の奥座敷 大磯「大磯町は明治時代から避暑地・避寒地として知られ、8人の首相が邸宅や別荘を構えた。伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂。伊藤邸(滄浪閣)、大隈邸、西園寺邸などは現存しているが、一般には公開されていない。そのほか政財界の大物が次々と邸宅を構え、大磯は「明治政界の奥座敷」とも呼ばれた。」・明治政財界の要人集う「初代・陸軍軍医総監の松本順により、明治18(1885)年に海水浴場が開設され、2年後には、東海道線が開通、大磯駅が開業しました。東京方面から多くの名士が訪れ、旅館も多くでき、また別荘や邸宅を構える人も多く、避暑地として大いに賑わいました。湘南発祥の地「大磯」は、明治期の避暑地として栄えた別荘文化の佇まいが残る、まさに『湘南の奥座敷』です。初代・内閣総理大臣である伊藤博文をはじめ、歴代総理大臣8人(伊藤博文、大隈重信、加藤高明、西園寺公望、寺内正毅、原敬、山縣有朋、吉田茂)をはじめ、が邸宅を構えるなど、多くの政財界の重鎮がこぞって居を構えました。吉田茂は、養父・吉田健三が購入した邸宅で幼少期より過ごし、首相在任中には週末を、退任後には隠棲しました。退任後も政治への影響力は絶大で、多くの政治家が吉田のもとに通い、「大磯詣」と称されたほどです。」・明治三十一年 滄浪閣前庭にて1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めた。別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけた。1897年(明治30年)10月1日、伊藤は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤の別荘ではなく本邸となった。・伊藤博文・大隈重信・大磯に集った政界人・財界人 明治時代の奥座敷・大磯町人物相関図。・立憲政治の確立。・明治22年(1889) 明治憲法 制定。会場のプレゼン内容は、大変よくわかりやすくまとめられていたのであったが時間がなくて残念であった。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日(2018年12月1日)は旧東海道の大磯~国府津駅の旧東海道を歩く。この日の旧東海道(下図赤線)は、ひたすら相模湾に沿った約12Kmの道。 この区間はいつもの旅友は既に完歩とのことで、この日は一人での旧東海道歩き。大磯駅に9時過ぎに到着し歩きを開始。この日も好天。前回訪ねた大磯迎賓館。前回と同様にいつも車が一台のみ駐車中。何か意味があるのか?そして前回中途半端に訪ねた『地福寺』を再訪。大磯駅から10分程のところにある寺。『山門』。『真言宗 地福寺』。地福寺は、船着山地福寺と称し東寺真言宗の古刹(意~古い寺~読みはこさつ)。承和3年(837)空海の弟子、果燐の創建と。町指定・有形文化財の木造弘法大師坐像が本尊で胎内に墨書銘が有り、天文11年(1542)佛師但馬作とあります。右手に五鈷杵、左手に念仏を執って坐す通形の弘法大師像。寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げの小ぶりな像。作者・造立年のわかる室町時代の弘法大師像として貴重な作例であると。他に永禄2年(1589)と天正17年(1542)の文書2通があり、小田原北条氏から特別な保護を受けた資料で、共に大磯町指定の文化財。山門を入ると参道の両脇には多くの梅の古木が。御本尊の木造弘法大師坐像。樹齢100年~200年の梅の古木約20本に囲まれて地福寺は建てられていた。毎年2月上旬頃より梅の花が境内一面咲き誇り、大磯町内一の観梅の名所であると。そしてその奥には文豪島崎藤村夫妻が眠っているのであった。藤村の読経・埋葬式は昭和 18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られた。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げたと。棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した刷り上りの雑誌が投げ入れられたと当時の神奈川新聞は伝えたと。『島崎藤村墓』と刻まれた墓碑。墓標の裏面には次のように記載されていた。「明治五年二月十七日木曽馬籠ニ生レ 昭和十八年八月二十二日大磯ニ歿ス」と。そして亡くなられた当時は、土葬であり、7回忌に現在のお墓に改葬された。設計は、谷口吉郎(東宮御所・明治村・東京国立博物館等)で、3大墓所の一つで、山口県の森鴎外・鎌倉の吉江信子と、こちらのお墓とのこと。そして詩集『若菜集』や小説『破戒』などの名作を残した近代文学を代表する作家で、晩年を大磯町で暮らした島崎藤村を偲ぶ「藤村忌」が、毎年命日の8月22日にこの地福寺で行われるのだと。島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか(☚リンク)について、調べてみたらこんなページがあったので紹介します。隣にあるのは奥様・島崎静子の墓。裏には「明治二十九年十一月八日生レ 昭和四十八年四月二十九日没」と。梅の古木に囲まれた島崎藤村夫妻の墓が仲良く並ぶ。梅の咲いている時期に再び訪ねたいと。そして山門近くには小島家(大磯宿本陣)の墓が。三界萬霊にお地蔵さま慶長6年(1601年)になって東海道五十三次の宿場として大磯宿が3つの本陣がある宿場町となるが、江戸時代に亘ってあった小島本陣と尾上本陣の間に地福寺参道が位置している。そして小島本陣を営んでいた小島家の墓がここ地福寺境内の山門裏手に。満開の梅の姿を想いうかべながら本堂を振り返る。本堂の屋根の下には小鐘が二つ。右側の鐘は仏堂や仏塔の軒の四隅などにつるす青銅製の鐘形の鈴。宝鐸と呼ぶとも。強い風が吹くとカランカランと鈍い音がすると。昔、強い風は流行病や悪い神をも運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味でつけられており、この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないのだと。本堂の脇は石垣で囲まれていた。蔵。寺務所。そして地福寺を後にし、旧東海道に向かうと地福寺の案内柱が。そして旧東海道に面する中南信用金庫の入口シャッターには「東海道五拾三次之内 大磯」が描かれていた。前回も撮影した?「日本橋まで68Km」。いや、前回は道路の反対側の「日本橋から68Km」。同じく左手に「新島譲終焉の地」が。これも前回訪ねた「鴫立庵」の前を通過し、街道右手にある『大乗山 妙昌寺』に立ち寄る。『山門』。『鬼子母尊堂』前の石仏。『鬼子母尊堂』。「南無日蓮大菩薩」「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑群が。『山崎浩道上人荒行成満記念』碑。『本堂』。文安元年(1444年)大乗院日征を開山に創建。 以降、応仁2年(1468年)、天明2年(1782年)明治31年(1898年)と3度にわたり火災で焼失。明治38年(1905年)中郡成瀬村高森(現在の伊勢原市)の寺から本堂を購入、明治41年(1908年)移築が完了した。現在の本堂は昭和54年(1979年)山門とともに再建しされたものである。妙昌寺は室町時代の後花園天皇・文安元年(1444)に大乗院日征上人が創立した古刹で、山号を大乗山という。本堂前の『慈圓観音』像。墓地。「大乗山」の文字が。境内社の『富士見稲荷』。旧東海道に戻って進むと「太平洋岸自転車道」と書かれた標識が。太平洋岸自転車道は、太平洋沿岸に整備されている自転車道群である。千葉県銚子市から和歌山県加太海岸まで、全長1200キロメートルにもおよぶ太平洋岸沿いの大規模なサイクリングロードであるが、まだ完成するまでには至っていないと。道路横の小さな丘に出会う。ここが『大磯宿 上方見付』。大磯中学校前交差点の手前左手に上方見附跡があった。「見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6米程でその上に竹矢来が組まれていた。宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。そのには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。」そして旧東海道松並木は始まる。『島崎藤村邸』案内柱を見つけ旧東海道を離れ、上方見附の先の横断歩道橋の右手の道を入って、東海道線路方面に向かう。 ・・・旧東海道を歩く(藤沢~大磯)・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大磯駅への帰路の途中にある『地福寺』は次回の最初に訪ねる事とし、近くにある『大運寺』を訪ねる。大運寺は、浄土宗の寺で衆議院議長を務めた中島信行、その妻俊子、および安田靫彦画伯の眠る寺であるとのこと。また、本尊の木造阿弥陀如来坐像は町指定文化財。『本堂』。増上寺の末寺で秀誉上人が元和年間(1615-1624)に開山。本尊阿弥陀如来坐像は首が近江国の良弁、胴体が下野国の恵心によって平安末期に作られ元禄2年(1689)に合わされたもの。扁額には群生山大運寺の「群生山」と書かれていた。『法然上人御尊像』。本尊の木造阿弥陀如来坐像。大運寺からの大磯迎賓館のレストラン。境内に置かれている瓦は かつての本堂に使われていたものか?『十三重石塔』。『大磯町立大磯図書館』そして坂を上っていくと『大磯迎賓館』の姿が。『Oiso Beach 日本最初の大磯海水浴場へまたどうぞ』の看板が。『旧木下家別邸』は現在は『大磯迎賓館』となりレストランになっていると。「旧木下家別邸」は住民から「三角屋敷」と呼ばれ親しまれてきた、大正モダンの建物。当時流行していた、ツーバイフォー工法で、輸入材ではなく国産材でつくられた住宅としては、国内最古のものと考えられています。この洋館の建物の特徴として、屋根は切妻造ストレート葺で、左右の屋根上に大きなドーマー窓を開けたシンメトリックな形状と、外壁は南京下見板張、各部屋には採光性に優れたベイウウィンド(出窓)を設置し、正面中央の玄関ポーチの上に2階バルコニーを乗せたデザインの外観が、往年の別荘時代を彷彿とさせます。こうした、歴史的・景観上重要な資産を後世に継承すべく、平成24年に「国登録有形文化財」に登録され、景観法による「景観重要建造物」にしていされました。車がチョット邪魔。1912年(大正元年)、貿易商の別荘として建築されたこの建物は、久しく「三角屋敷」と呼ばれ親しまれてきました。その美しさはさることながら、日本の木材で建てられた「国内最古のツーバイフォー住宅」として歴史的価値が高く、平成24年2月23日には国登録有形文化財に登録。ニコライ堂をはじめ当時のヨーロッパ建築に見られるスタイル。The 1st 2✖4(ツーバイフォー)house in Japan の文字が切り抜かれていた。レストラン案内。そして次に『澤田美喜記念館』を訪ねる。菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として生まれ、令嬢として育った澤田美喜は、熱心なクリスチャンで、外交官夫人としての体験なども手伝い、戦後の混乱の中でアメリカ占領軍兵士との間に生まれた混血児の救済と養育のためにエリザベスサンダースホームを設立した。澤田美喜記念館はそんな澤田美喜の生前の遺志を引継ぎ建設された。建物はノアの方舟をイメージした長六角形の船型で、2階は聖ステパノ礼拝堂、1階はコレクション展示室となっています。澤田美喜が戦前戦後四十年にわたって収集した、江戸時代の隠れキリシタンの遺品や関連する品々851点が展示されていた。記念館に向かって細い坂を上る。入館は15:30までとのこと。澤田美喜さんのレリーフ。入口に至るアプローチにある鐘、その先に澤田美喜記念館。木彫り能勢妙見大士像。石のマリヤ地蔵。そして大磯駅前に。大磯駅前の土産物屋。大磯駅前のロータリー内にある『友好の樹』と『海内第一避暑地』と刻まれた石碑。湘南発祥の地 大磯『著盡湘南 清絶地』。駅前の町制施行100周年を記念して建てられたモニュメント「大樹」。線路の向こうの山の斜面の立派な建物。駅前の土産物屋を覗く。再び大磯駅。2015年(平成27年)7月1日 に 直営駅から平塚駅管理の業務委託駅となっていると。株式会社JR東日本ステーションサービスが駅業務を請け負っているようである。駅構内には『東海道五拾三次之内 大磯』。酒匂川東岸から小田原の街を眺めた構図となっていると。大磯駅ホーム。時間は15:55.そしてJR、小田急線を乗り継いで地元駅に到着。駅からの夕焼けを楽しむ。そして鮮やかな夕日が。時間は16:30。そしてこの夜は大磯の老舗・井上蒲鉾店で購入して来た「さつまあげ」を楽しむ。グチとタラの身を石臼で練り人参を加え植物油で揚げて柔らかい食感に仕上げていると。とても甘味があるのに上品な味わい。昔からの職人の手作業を創業時のまま継承し、極上の歯ざわりを楽しみながらビールが進むのであった。 ・・・その9・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(藤沢~大磯) 完・・・ ・・・つづく 旧東海道を歩く(大磯~国府津)・・・
2019.01.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次大磯・鴫立沢の交差点手前にあった『鴫立庵(しぎたつあん)』を訪ねる。鴫立庵は、寛文4(1664)年、崇雪という人物が西行をしのび草庵を結んだのが始まりとされる。その約30年後、俳諧人・大淀三千風が庵を再興。庵主としてこの地に住み、それから300年以上に渡り、代々の庵主がこの庵を守ってきた。現在の建物は昭和61年に町が再建したもの。三世庵主 白井鳥酔追善句碑。『旧跡 鴫立澤』。ここ『鴫立庵』は西行法師の歌【心なき 身にもあはれは しられけり しぎたつ沢の 秋の夕暮】で名高い「鴫立沢」に立つ俳諧道場で、日本三大俳諧道場の一つ。『石橋』を渡る。『鴫立沢』鴫立沢の中流は国道1号線(写真後方)の下を流れて、さらに鴫立庵入口の橋の下を流れ下って、相模湾へそそぐのだ。鴫立庵入口門。300円のチケットを購入して庵の内部に。西行法師生誕900年記念特別展「西 行 ―紀州に生まれ、紀州をめぐる―」が和歌山県立博物館で行われていると。 鴫立庵の『庵室(東住舎)』の前を入口門から。現在では、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれている。『庵室(東住舎)』正門を入って右側にあるのが鴫立庵室(東往舎)で、大淀三千風が入庵した時の庵を伝えるものである。隣の少し高い場所の増築した部分は、大淀三千風の入庵70年後に三世・鳥酔が建てたと。その十畳間には、東流書の扁額「俳諧道場」がかかり、鴫立庵の正庵であることを示している。『鴫立庵』は大磯町指定有形文化財。『鴫立沢』は大磯町指定史跡名称天然記念物。「現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があります。庵室については、大淀三千風(1700~1750)が建てたもの、俳諧道場については三世庵主鳥酔が明和2年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられます。鴫立沢には西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりありました。寛文四年(1664)、 崇雪がこの地に草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建て、その標石に『著盡湘南清絶地』と刻んだことから、『湘南』の名称発祥の地として注目されています。」正面に見えたのが『円位堂』。敷地内には、86基にも及ぶ句碑・可碑・墓碑等が点在していると。『法虎堂』。円位堂の向かって左に、鴫立沢を背にして法虎堂が建っていた。堂の内には有髪僧体の、虎御前が十七歳の時の姿を写した木像が安置されていえ¥ると。三千風在庵の頃に、堂も木像も江戸新吉原から寄進せられたと伝えられています。元禄時代のそのままの遺物です。堂内の木像は虎御前、十七歳の姿と。『鴫立澤碑(西行五百年記念碑)』『西行上人歌碑』(左)。「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」『西行銀猫(ぎんみょう)碑』 正面上部に竜、下部に亀が浮き彫りにされている碑。造立年は元禄十三年(1700)だと。円位堂の左側にある円筒形の句碑で、芭蕉の四時遺章が残されている。“みのむしの音を聞に来よ草の庵” “日のみちや葵かたふく皐月雨”“はこねこす 人もあるらしけさの雪” “春たってまた九日の野山哉”下段には芭蕉の弟子やゆかりの人の26句が刻まれている。『円位堂(西行堂)』を近くから再び。屋根は厚く茅葺で覆われていた。三千風の建てた元禄時代の風格を残す建物で、堂内には等身大の西行法師の坐像が安置されている。痩身、眼光爛々として歌道に精進した姿を写し出している。文覚上人鉈作りの西行51歳の像で、三千風が京都から背負ってきたと伝えられている。西行法師の等身大座像。『清虚洞一絃琴碑(せいきょどういちげんきん)』。一枚の桐の板にたった一本の絹の糸。一絃琴はその名の通り、一本絃の琴です。平安時代 日本後期巻八に崑崙人が三河の国に漂着し、一絃琴を携えていたと。『天條とし子歌碑』。『第二十一世庵主 草間時彦句碑』。「大磯に 一庵のあり 西行忌 」『第五世庵主 加舎白雄句碑』。『吹つくし 後は草根に 秋のかぜ』在庵8年。『小野隋鷗顕彰碑』『第二十世庵主 村山故郷句碑』。「花の下は 花の風吹き 西行忌」『佐々木信綱歌碑』。「こゝろ今もいこひいまさむ波のおと松風きよきこの海そひに」信綱は大磯に在住し、大磯百首を詠んでいる。昭和37年、鴫立庵第十八世庵主鈴木芳女の退隠記念に多数の有志により、この歌碑が建てられた。 『第四世庵主 杉坂百明句碑』。『経塚供養塔』。ここにも『第四世庵主 杉坂百明句碑』。「西東 鳴へき夜也 ほととぎす」『第三世庵首 白井鳥醉句碑』「鴫立澤一世 鳥醉翁」「大嶌や 波によせたる 雪の船」『第十世庵主 島田立宇 句碑』『第一世庵主 大淀三千風墓碑』崇雪が最初に草庵を結んで30年程後、元禄8年(1695)に紀行家、俳諧師の大淀三千風が庵を再興した。三千風は伊勢の三井家の出で、寛永16年(1639)に生まれている。伊賀上野の松尾芭蕉とは生家も近く年齢も同年代(三千風は5歳年長)で同じ俳諧師である。元禄10年(1697)には謡曲『鴫立沢』や『虎御前縁起』などを発表して鴫立庵を俳諧道場として広く世に紹介した第一世庵主である。その後俳諧道場は、三世:鳥酔(ちょうすい)、五世:白雄(しらお)、八世:葛三(かつさん)など有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日二十二世庵主として鍵和田釉子氏が平成14年に就任されていると。『佳梅尼墓碑』。『辛巳生老人碑』。『松本順墓碑』。茶室前にある。松本順は初代陸軍軍医総監で日本最初の海水浴場を大磯に開いた人である。順は先に亡くなった長男、夫人、次男の三人の冥福を祈るため球形の墓碑を建てた。墓碑表面には「守」の字が刻まれている。これは三人をしっかりと守るとの意味から、家族合葬の碑であるという。その後順もここに葬られたが、全員の遺骨は昭和27年妙大寺に改葬された。 『第八世庵主 倉田葛三墓碑』、『第九世庵主 遠藤雉啄墓碑』『第七世庵主 三浦柴居墓碑』、『第六世庵主 西奴墓碑』。釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝勝(宝生)の五仏からなる『五智如来像』小田原の祟雪と云う人が五智如来をここに運び、西行寺を建てるのが目的だったと。『第十四世庵主 二宮松汀墓碑』(右)、『第十五世庵主 原昔人墓碑』(左)左から『第十三世庵主 間宮宇山墓碑』、『宇山碑』、『間宮宇山句碑』、『第十二世庵主 菅喜田松頂墓碑』。 『第十八世庵主 鈴木芳如句碑』。多くの石塔が所狭しと。藁ぶき屋根の『俳諧道場』縁側には記帳用ノートが。床の間。そして再び『庵室(東住舎)』の部屋。受付の部屋の展示物。中庭に展示されていたのは第十五世庵主 原昔人の作のオブジェ『蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の蛙』。再び鴫立庵の前庭を。 ・・・その8・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次化粧坂(けわいざか)はちょうど真ん中辺りで東海道本線にその道を分断されて道路幅が狭くなり半分は地下通路に利用されていた。ここで上ってきた化粧坂の交通量が少ない理由を理解したのであった。「化粧」を「けしょう」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉でお化粧」の意味であるが、古くは「けわい」とも読み、その場合は「身だしなみを整える」と言う意味に使われたのだと。その意味からは「都市」=「はれの場」に入る境で「身だしなみを整える」と言う意味で「けわい(化粧)坂」、つまりは「大磯」への境界入口である坂との意味と考えるのが自然であると。東海道線の地下通路を潜り海側に向かう。そして海側の旧東海道を大磯駅方面に向かう。地下通路を抜けると景色はガラッと変わった。ものすごく大きな松の木が倒れ掛かるようにして道の上を覆っていた。その松の木の根元に有ったのは、大磯宿の江戸見附跡。『此の辺 大磯宿の史跡 江戸見附』と書かれていた。「宿場の出入り口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。また、宿場の範囲を示しており、 宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを上方見附と呼んでいた。なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。」江戸時代の大磯宿はここから始まったのだ。国道1号線に合流。これよりしばし旧東海道の国道1号線を歩く。三沢川に架かる三沢橋の交差点を渡る。左手に『神明神社』。『神明神社 御由緒』大磯町大磯に鎮座する神明神社は「法光院(廃寺)持ちで、古来紅葉山の神明台(現在の北の方)に祀られていたが、江戸時代中期享保年間(1711年〜1736年)に神明台から神明森(ふれあい会館付近)に一時遷座され、更に現在地に遷座された。神明町の地名発祥となり、神明町の氏神として信仰が厚い。」と縁起にあるが、創建年は記載されてはいない。御祭神は天照大神である。更に進むと『秋葉神社』が。大磯町に鎮座する秋葉神社は火伏せの神を祭る神社である。縁起では、宝暦12年(1762年)1月19日に大磯宿に大火があり宿場の殆どを焼失したため町役が願主となり遠州秋葉山より秋葉大権現を勧請し、同年大運寺境内に秋葉社を建立し、宿場の安全を祈願したとされる。大磯宿の中心部に鎮座してはいるが小さな神社である。国道1号線(旧東海道)に面しているのに国道1号線の信号には「秋葉神社入口」と表記されており、しかも旧字(「穐葉」)表示であった。旧東海道に面した秋葉神社の脇の路地を左に入ると正面に『延台寺』が。『虎御石(とらごいし)』説明板。「曽我十郎の剣難を救った身代り石。また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにはあがらずという色好みの石なり・・・」とある。この場所におかれていた。」山門を潜る。『歌碑』。『虎御石(とらごいし)』石碑。「安元元年(1175年)大磯の山下長者に一人の娘が生まれた。長者は四十才を過ぎても子宝に恵まれず、虎池弁財天に願をかけて授かったので、虎と名づけた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名づけて大切におまつりしていた。不思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られる程に成長し、いつしか曽我兄弟の兄の十郎と恋仲となった。十郎が虎女の家で敵方の刺客におそわれた時、この石のおかげで命が助かったので、一名身替りの石ともいう。兄弟は富士の裾野で父の仇、工藤祐経を討ち本懐をとげて死んだ。虎女は兄弟の最後の地をたずね「露とのみ消えにしあとを来て見れば尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで庵をむすんで兄弟の菩提をとむらったのが当山である。」虎御石を見学するには予約が必要とのことであった・・・。虎御石が安置されている法虎庵曽我堂。これが『虎御石』。周囲86センチメートル、重さ130キログラム。虎御石まつりに毎年ご開帳、大願成就等ご利益があると。十郎を守った虎女の愛の証、矢きずが確認できると。 【http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/jisya/endaiji.html】より『本堂』『延臺寺』と書かれた扁額。『延台寺・開基 川崎次郎右衛門の墓』『虎女供養塔』。『虎池弁財天御神石』。『大磯宿遊女の墓』☚リンク。日蓮宗『妙輪寺』。そば処「古伊勢屋」。『大磯宿本陣跡』の説明板が立っていた。『大磯宿 小島本陣旧跡』大磯宿の代表的本陣で、明治元年の明治天皇の東幸にあたり御宿泊所になった。『小島本陣と大磯宿』の説明看板。宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる 大旅館を本陣という。本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて 此の名称が用いられた。享和3年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、その建坪は 夫々246,238,235坪であった。本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる 床の間との違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前には庭園がある。大名と側近は 本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。大行列の場合は隣の宿まで使用しなければ ならなかった。尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの 現在の大内館(旅館)の場所にあった。これ等の本陣は天保7年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。 後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の 並々ならぬ努力が偲ばれる。」『大磯宿 尾上本陣跡』、『大磯小学校発祥之地』。現在の大磯小学校は別の場所にありますが、もとは尾上本陣に開いた私塾が、明治時代に小学校となったと。振り返って。和菓子店「杵新」。大磯名物の西行饅頭と虎子饅頭を売っていました。日本橋から68Kmは我が年齢と同じ。はるばると来たものであったがこれから先は??『大磯照ヶ崎海水浴場』入口碑。大磯に別荘を構えた海軍・陸軍軍人、政治家である 樺山資紀氏の筆によります。『海水浴場発祥の地』「海水浴は医療として始まりました。海水浴の効用を蘭書で知った元軍医総監松本順が大磯に宿泊した折に大磯海岸を訪れ、海水浴場の条件に合致することを確認しました。漁の邪魔になるという漁師を説得し、 1885年(明治18年)に大磯海水浴場は誕生しました。1886年東海道線の横浜-国府津間の延長が決まってから、松本は伊藤博文に海水浴と国民の健康を力し、大磯に停車場を設置するよう働きかけ、また旅館と病院を兼ね備えて「祷龍館」を建設し、建設資金の不足は会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの東京・横浜の名士が名を連ねました。京浜からの名士の来訪により海水浴場は繁栄し、医療行為から娯楽へ転じますます発展していきました」茶屋町の「新島襄終焉の地記念碑」脇に、案内版が立っていたのが。 『此辺大磯宿の史跡 南組問屋場』「南組問屋場は幕府からの書状の継ぎ立てや、参勤交代の大名行列の際には周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る場所であり、宿場にとってたいへん重要な施設であった。磯宿には南組と北組の二箇所に問屋場がおかれていた」『新島譲終焉の地碑』と刻まれた石碑。昔はこの石碑のみであったのだろうか?『新島襄終焉の地記念碑』。『新島襄先生終焉之地』石碑。「明治の先覚的教育者新島襄は、一八四三年二月一二日(天保一四年一月一四日)江戸神田の安中藩邸内 で、藩士新島民治の長男として生まれた。その当時は、近代日本の黎明期に当たり、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて一八六四年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学一〇年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて一八七四年(明治七年)帰国、多くの困難を克服して、 一八七五年(明治八年)十一月二九日京都に同志社英学校を設立した。その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走中病にかかり、一八九〇年(明治二三年) 一月二三日療養先のここ大磯の地 百足家旅館で志半ばにして四七歳の生涯を閉じた。」 さざれ石交差点。左に『大磯 井上蒲鉾店』。明治11年(1878年)創業の老舗蒲鉾店。「かまぼこ、はんぺん、さつまあげ」と書かれた大きなのれんの通り、商品は3種類のみ。お土産にさつま揚げを購入。更に進むと左側には『湘南発祥の地 大磯』と刻まれた石碑が。現在でもインターネット上で激論?が交わされていますが「湘南」地区は何処?なんと、神奈川県が取り組んでいる「かながわシープロジェクト・Feel SHONAN」にて湘南がどこからどこまでかがはっきりと決まったのです。「湘南は湯河原から三浦までの相模湾沿岸のことを湘南と呼びます」と発表されたのです。要は相模湾に接する市町村+寒川町を『湘南』と呼ぶと。私の『湘南』の感覚は、相模川以東、葉山町までの相模湾に接する市町なのであるが。そして相模川以西の相模湾沿いは『西湘』、横須賀、三浦は『三浦』なのであるが、皆さんは如何に?? 【https://j-town.net/kanagawa/column/gotochicolumn/193011.html?p=all】より石碑の近くにある鴫立庵(しぎたつあん)の庭園の奥まったあたりに、「鴫立沢」と彫られた石碑があり、その裏面に「著盡湘南清絶地(あきらかにしょうなんはせいぜつをつくすのち)」と記されており、寛文年間には既にこの辺りを「湘南」と呼んでいたことが確認できるのだと。出家した俳人・祟雪にとって、大磯の「鴫立沢」一帯の景色が、中国湘江の南方一帯の『湘南』の美しい景色に似ていたことに因んでいると。 ・・・その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『平塚宿・京方見付』を後にし大磯町に入る。右手前方に『高麗山』の雄姿が。そして高麗山の山頂にあるのが「湘南平」。湘南平は、神奈川県の平塚市と大磯町の境にある標高181mの丘陵で、高麗山と泡垂山の山頂一帯を指す。都市計画公園としての名称は、高麗山公園。地元ではかつて千畳敷と呼ばれていたが、公園として整備するにあたり湘南平と呼ばれるようになった。高い山ではないが相模湾を一望できる眺望は素晴らしく、桜の木も多く花見の季節は家族連れで賑わう。平らな山頂に現在はレストハウスとテレビ塔(平塚テレビ中継局)がある。「関東の富士見百景」、「かながわの景勝50選」、「かながわの花の名所100選」、「かながわ未来遺産100」、「かながわの公園50選」、「夜景100選」及び「平塚八景」に選ばれている。「平塚の一里塚」ではなく『平成の一里塚』。「江戸時代、旅人たちの道しるべとなった「一里塚」。街道に一里(3.9Km)ごとに築かれた塚には、大木が植えられ、その木陰は、旅人たちの格好の休憩場所になっていました。そんな「一里塚」を現代に蘇らせようとつくられたのが「平成の一里塚」です。東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました。広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川。「平成の一里塚」で、東海道の歴史・文化に思いをはせてみてください。」と。『歌川広重 東海道五十三次 平塚 縄手道』を再び。この絵は平塚市と大磯町、江戸時代で言えば平塚宿と高麗村(高麗寺村)との境界線が描かれています。絵に描かれた杭型の看板(榜示杭)がその境界線。そのちょっと奥には松の木があり、さらに石でできた道路標識があり、さらに道路が描かれている。道路標識があるくらいだから、この道は何か重要な道であることはたしか。明治19年の地図ではその道路は描かれていないがどうもこの道が江戸時代後期の中原街道ではないかと。紅葉が始まった高麗山。そして『花水川』に。『花水橋』を渡る。『花水橋』から花水川と大山を見る。大磯町の汚水マンホール蓋。美しい大磯の海岸風景に、町の花サザンカと町の木クロマツ、町の鳥カモメのカラーデザイン。 「大磯」と「おすい」の文字が。日本橋まで(から)66Km。『高来神社(たかく じんじゃ)』「高来神社入口信号」を右に入った所が高来神社で、後の高麗山が御神体である。高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。一の鳥居の前に建つ社標石の文字は、紀州徳川家第八代藩主だった徳川頼倫の麗筆という。 頼倫の実弟徳川茂承が高麗に土地を購入して別荘を建てたため、高麗山の麓の住人はその別荘を「紀州さん」と呼んでいたという。 鳥居の神額は、明治の軍人政治家で第二次山縣内閣では文部大臣も務めたことのある樺山資紀の筆によるものとのことだ。 高麗山に向かって参道を歩く。高麗山は古代から神宿る山として信仰を集めていたという。 神功皇后の三韓征伐の後、武内宿禰が奏上して、東夷静謐の為に神皇産霊神・高麗大神和光(高麗権現)を高麗山上に遷して祀った。 それがこの神社の始まりだとされている。江戸時代以前には高麗権現を祀る高麗寺という神仏習合の寺院があったが、明治になり神仏分離令で寺は廃され、高麗神社と改称された。その後、明治三十年になりさらに「高来神社」に改称されたのだと。『関東ふれあいの道』案内道標。関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は、関東地方、一都六県(東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県、千葉県、神奈川県)をぐるりと一周する長距離自然歩道。高麗山に向かって高来神社の参道を歩く。手水舎。『本殿』。現在の本殿はかって高麗寺の本尊だった千手観音菩薩を安置して祀っていた下宮である。かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称したと。現在は、山頂に「高來神社上宮造營所跡」として礎石と小さな石の祠があると。『神輿社』。高来神社の春季大祭と言われる山神輿(やまみこし)のお祭り用の神輿を安置。高来神社から高麗山頂に御神輿が渡御し(登り)、高麗山頂から高来神社に御神輿が還御(下り)するお祭り。神武天皇の時代の創建とする記録があるという。かつては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。高句麗が新羅・唐連合軍に滅ばされた時に、その王族・若光を中心に高麗人が相模国大磯に渡来しその後若光一族を含めた各地の高麗人は武蔵国高麗郡(こまぐん)に集められ、高麗神社も設立したという。高来神社の例大祭「御船祭」の木遣歌「権現丸」に、「高麗国守護」が渡来して「大磯浦の守護」となったとある。『高麗寺領境内見取り図』天保3年(案内板)。『平嘉久社(ひらかくしゃ)』。平嘉久社と称える祠には、山の神、農業の神、航海の神、が祀られていると。平嘉久社の手前には高麗山頂への男坂、女坂と書かれた道標が。『高麗山県民の森案内図』JR大磯駅の直ぐ北側に大磯丘陵が東西に延び、一帯は神奈川県の天然記念物に指定され、県民の森にもなっている。東端の高麗山(こまやま)は標高わずか150m、西の浅間山(せんげんやま)は181m程度ですが、眼下に相模湾が広がり、西には富士山、北側に大山や丹沢山系などの眺望を楽しむことができるのだと。 『豊受姫大神』。天然記念物に指定されている高麗神社のシイニッケイに囲まれた『靖国之塔』と『忠魂碑』。高麗神社のシイニッケイはスダジイとヤブニッケイの2種が一体化した樹木であると。そして高来神社の参道途中の右にあったのが『慶覚院(けいがくいん)』。高来神社に隣接する慶覚院は、1613年(慶長18年)創建の寺院。 高麗寺の末寺だった。明治の神仏分離によって高麗寺が廃されると、千手観音他の仏像がこの寺に移されている。 かつては、北下町にあったが、明治23年8月に南下町で起こった大火で焼失したため、檀家が多い高麗地域の村持地蔵堂に移された(現在地)。 『慶覚院 仁王門』。『本堂』。本尊は、大磯唐浜の沖より漁民が網で引き上げたものと伝わる千手観音立像(秘仏)。『鐘楼』。『雞足寺(けいそくじ)』と書かれた扁額。高麗寺慶覚院は天台宗の寺で雞足山雲上院別当高麗寺慶覚院という。雞は鶏の旧字。見事な彫刻。そして高来神社・慶覚院を後にし旧東海道を更に進むと直ぐ右手にあったのが『虚空蔵尊』の小さな祠。『虚空蔵尊』と刻まれた石柱と案内板。当時、虚空蔵と熊野権現を祀った堂があり(現存)、ここに下馬標が立っており、大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通ったそうだ。『化粧坂(けわいざか)公園』。さらに歩を進める。暫く行くと「化粧坂入口」交差点に到着。ここから旧東海道は右手へ別れ、多少昔の面影が残る田舎道になった。『化粧井戸(けわいいど)』。『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女。虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。 当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らしていたのだと。その虎女が化粧をする際に使用した井戸、それが化粧坂の東海道松並木にあるこの化粧井戸。更に旧東海道の面影が残る化粧坂を上る。化粧坂は、松と雑木の並木道になっていた。『大磯宿 化粧坂の一里塚』。鎌倉時代の大磯宿は,化粧坂のこの付近だったという。江戸日本橋より16里。説明によると『高さ約三米程の上に海側は榎を山側はせんだんを植え』てあったと。釜口古墳の案内も。人の姿も少なく。『歌川広重 東海道五十三次 大磯 虎ヶ雨』の浮世絵が大きく掲示されていた。画面右側のこんもりとした山は、先の平塚・縄手道の図にも描かれていた高麗山ですが、この山には『曽我物語』に出てくる曽我十郎の愛人である遊女虎御前が、十郎の冥福を祈るために出家して結んだ庵があったと伝えられていると。「虎ヶ雨」とは、陰暦5月28日に降る雨をいいます。この日は曽我十朗が討ち死にした日で、虎御前の涙が雨になって降るとされていました。大礒と言えば虎御前、虎御前と言えば虎ヶ雨。大磯が雨の図になるのは、広重にとって必然だったのではないでしょうか。「本図は、初代歌川広重が天保4年(1833)頃に制作した浮世絵『東海道五拾三次之内大磯虎ケ雨』です。空は鼠色に曇って秋雨が降る中、大磯宿境の傍示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬で行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れてなにか寂しげです。画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸と磯の松、その向こうに広がる相模灘。水平線近くの沖合が白く明るく見えるのも、海岸で良く見る風景です。大磯の海岸は、万葉集に詠われた「よろぎの浜」、古今集でも「こゆるぎの磯」とも呼ばれる歌枕の景勝地です。また、この辺りは鴫立澤とも呼ばれ、西行法師の歌『心無き身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮』は「三夕の和歌」の一つとして有名です。また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曽我十郎と大磯の郭の遊女・虎(虎御膳)が仇討のため二人が別れ、仇討ちの果てに陰暦五月二十八日、曽我十郎が命を落とした悲恋物語の曽我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったという故事から梅雨時のしとしと降る雨を「虎ケ雨」とも呼ばれます。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由縁する伝説の情趣でしょう。画題横に「虎ケ雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています」『大磯八景碑 化粧坂の夜雨』『大磯八景の一 化粧坂乃夜雨雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松乃雫の音ばかりして 敬之』大磯八景は、明治40年頃、大磯町五代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりと。その後、大正12年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立したのだと。現在は、小淘綾の晴嵐を除く高麗寺の晩鐘、花水橋の夕照、唐ケ原の落雁、照ヶ崎の帰帆、化粧の坂夜雨、鴫立沢の秋月、富士山の暮雪の7カ所が残っていると。大磯八景(☚リンク)参照願います。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に花水川に向かって旧東海道を進む。平塚・本宿歩道橋手横の「平塚警察署西仲町交番」の右の道が旧東海道。『東海道 平塚宿 問屋場跡』次の交差点を渡り、その先の道が二股になる右側の「平塚市消防団第一分団」の右角に平塚宿問屋場跡の石柱と説明板が立っていた。石柱には『東海道 平塚宿西組問屋場の蹟』と刻まれ、建物のシャッターには安藤広重の浮世絵が描かれていた。ズームで。更に石柱をズームで。「慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には、 問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が一〇余人以上勤務していた。平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した。伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て、慶安四年(1651)その目的を達した。八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交替で執務したという。」更に道が分かれた旧東海道を進み右に折れる。突き当たった場所が『平塚の塚緑地』。『平塚の塚緑地』石柱。『平塚の碑』右側の囲い部分の中央が元平塚市町戸川貞雄長揮毫の由来碑(眞砂子と表記)左側が平塚碑(政子と表記)。右奥に松の木を囲んだ石柵があり、中央に「平塚の碑」の石碑が立っていた。東国に下向していた桓武天皇3代の孫、高見王の娘政子が天安元年(857年)にこの地で没し、そのひつぎを埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから「平塚」の地名が起こったとする伝承があり、天保11年(1840年)に江戸幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」にも記載されていると。『平塚碑』(大正8年(1919年)銘)。「江戸時代の天保十一年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。」『由来の石碑』(昭和36年(1961年)銘)。平塚の塚緑地の隣にあったのが『要法寺』の『山門』。「松雲山要法寺」といい日蓮宗の寺院。鎌倉幕府の執権北条泰時の次男泰知は、平塚に住んで平塚左衛門尉泰知(ひらつかさえもんのじょうやすとも)と言った。弘安5年(1282)、病身を武州の池上邸で養うために身延山を出発した日蓮聖人は9月18日に平塚に到着し泰知邸に一泊された。この宗祖の霊跡に建立されたのがこの『要法寺』。境内には、宗派の鎮守神を祀る七面社や、日蓮に帰依し『要法寺』の開基となった泰知入道松雲院日慈上人の供養塔などがあった。そして次に訪ねたのが『春日神社』。春日神社は、平塚宿の鎮守。創祀年代等不明。社伝に、もと平塚山黒部宮と称し建久2年(1191年)に源頼朝が馬入川(相模川)の橋供養の祈願所と定め、翌3年8月9日に御台所(政子)の安産祈願に神馬を奉納したという。明治6年(1873年)7月30日、村社に列し、同41年4月30日、神饌幣帛料供進神社に指定された。祭神は天児屋根命( あめのこやねのみこと )、武甕槌命 ( たけみかずちのみこと )、経津主命 ( ふつぬしのみこと )、比売神(ひめのかみ)の春日四神を祀る。本堂の見事な彫刻。鐘楼。『春日稲荷』。『春日龍宮社』(右)と『春日龍王神社』(左)。『春日龍宮社(厳島神社)由緒』。『春日龍宮社 拝殿』。『春日龍王神社』『春日龍王神社 由緒』。『春日天満宮』。『春日天満宮 由緒』。『毘沙門堂』。『毘沙門堂 由緒』。『毘沙門尊天像』。『攝末社(せつまっしゃ)の由来』『妙義神社、疱瘡神社、山王神社』。そして国道1号線を歩き旧東海道との合流地点まで来る。そこにあったのが『平塚宿京方見附』。「東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったと思われます。初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま)の姿に往時の風情が偲ばれます。建設省等による東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。」『歌川広重 東海道五拾三次 平塚 縄手道(ひらつか なわてどう)』日本橋から7つ目の宿場が、平塚宿で手前の藤沢宿からは3里半、江戸時代の地名では相模国大住郡。平塚宿京方見附之跡付近の高麗山(こまやま)と富士山の姿が描かれている。浮世絵はかなり汚れていて、歌川広重も泣いていてメンテナンスが必要を実感したのであったが。大磯側から見て、石垣で囲われた塚の上に『従是東 東海道平塚宿』の石碑が置かれ、塚の傍らには『東海道五十三次 平塚宿京方見附之跡』と書かれた標柱が立っていた。『従是東 東海道平塚宿』。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次藤沢本町駅を8:30にスタートし馬入橋にようやく到着。時間は12:15過ぎ。相模川の手前に『馬入橋』『相模川』の標識が。相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていたと。鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなったと。一つの説では橋供養の帰途、稲村ケ崎に近づくに連れ、義経や義仲、平家一門、安徳天皇などの怨霊(おんりょう)が海中から浮かんで出ては頼朝を悩ます。そのために落馬したとも。旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいるのだと。江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていたと。馬入橋からの大山の姿そして手前に多目的に利用できる屋内競技場『ひらつかサン・ライフアリーナ』の屋根が見えた。海側には東海道本線が。橋の真中に、日本橋から62Kmのキロポストが。相模川河口と奥には国道134号線に架かる『トラスコ湘南大橋』が、更にその先に相模湾が広がる。相模川は上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)、河口近くの下流では、馬入川(ばにゅうがわ)と呼ばれている。古くは、鮎川(あゆかわ)と呼ばれたと。馬入川の名は、鎌倉時代に相模川を渡る東海道に初めて相模川橋と呼ばれる橋が架けられたときに、落成供養に臨んだ源頼朝が乗った馬が暴れて落ちたという伝説にちなむと再び。上流には『湘南銀河大橋』。本橋開通前は、国道1号の馬入橋とその上流の神川橋の間は約2.8km開いており、どちらも片側1車線であるため慢性的な渋滞が生じていた。両橋のほぼ中間の位置に3径間連続鋼斜張橋構造で建設され、1998年に片側1車線で暫定開通。橋の名称は公募され、2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定したと。2007年7月までに片側2車線で本供用し、国道129号とも接続したと。茅ケ崎市と平塚市の市境は、現在では馬入川のずっと手前の新田入口の交差点付近。昔は、馬入川の流れがもっと茅ケ崎寄りにあった事は、『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』の位置からも想像できるのであった。馬入川の河口付近で、平塚市、茅ケ崎市、寒川町の境界が複雑に出入りしていることを知ったのであった。そして相模川の馬入橋の平塚側たもと南側にひっそりと建っていた『陸軍架橋記念碑』を訪ねた。右側に『陸軍架橋記念碑』と刻まれた石碑。江戸時代は主要河川に橋を架けることが禁止され、東海道の馬入川も船渡しであった。明治になって、木桁橋が架設されたのが馬入橋のはじまり。関東大震災の前年から架け替え工事が行われており、橋台や橋脚などの基礎工事中に関東地震に遭遇した。『陸軍架橋記念碑』は相模川右岸、馬入橋の下り車線側道(歩道)にあり、由来や碑文は併設されている説明板に記されていた。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災により馬入橋が倒壊した。地元の 人々により即日渡舟が運行されたが、数日後の豪雨で流失。9月17日、陸軍の豊橋 工兵大隊と京都工兵大隊が急きょ派遣され架橋工事が開始され、汗血の労を費やし、 10月3日に長さ450メートルが完成したと。 橋の全長450メートルのうち、馬入側の300メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当したと。この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事績をたたえるものであると。陸軍架橋記念碑の説明板に掲載されている当時の架橋作業の写真を転載 させていただく。関東大震災では死者14万人もでたが、多くの人々による復興工事 の熱意を感じさせるのであった。 【http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/tabi/tabi102.html】少し進んだ「馬入交差点」で国道1号線は右の方へそれて行き、旧東海道は真直ぐ進む。旧道に入った直ぐ左側の歩道上に東海道馬入一里塚跡の石碑が説明板と共に建っていた。石碑の真中に『東海道馬入一里塚跡』、右側に『江戸十五里』、左側に『京百十一里・大阪百二十二里』と刻まれていた。ここが江戸日本橋から数えて15番目の一里塚。「慶長九年(一六〇四年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。 馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。元禄三年(一六九〇年)に出版された「東海道分間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。」『馬入一里塚』前から旧東海道の分岐する馬入交差点を振り返る。『馬入の大銀杏と神明さん』次の交差点を渡った場所に『馬入の大銀杏と神明さん』と題する説明板が立っていた。「馬入村の鎮守であった神明社は、以前東海道に面したこの地にありました。 この境内から道路に面して、幹周り五抱え(直径3m)もの大銀杏がありました。江戸時代からこの地域を見守ってきたこの巨樹は、沖から須賀の浜に帰る船の目印ともなっていました。昭和二十年七月十六日の平塚空襲で、黒焦げになりながらも、幹周りから枝を伸ばし生き残っていましたが、戦災復興に伴う国道一号線の拡幅工事のために、切り倒されてしまいました。この写真右手の狛犬と御影石の鳥居は当時の神明社のもので、現在は中堂の緑道外に移され、神明神社となっています。大樹の下には消防小屋があり、今その跡に消防団第五分団の庁舎が建っています。」そして左手奥にJR平塚駅が見えた。旧東海道の『湘南ひらつか七夕祭り メイン会場』を進む。平塚市のマンホール蓋。平塚の夏の風物詩「七夕まつり」と「湘南の海」を描いたデザイン蓋。中央に平塚市の市章、その真ん中に下水の「下」、町名は「明石町」。 下部に「合流」の文字、合流管マンホールの蓋 。合流は雨水と汚水を集めて一緒に流す下水道のこと。「平塚 七夕祭り」 歩道プレート『番長皿屋敷お菊塚』。「平塚駅前交差点」を渡って三本目の道を左折、二本目を右折、一本目を左折すると「紅谷町公園」があり、その中に番町皿屋敷のお菊塚があった。『お菊塚』。「伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。」再び旧東海道に戻る。『平塚宿(旧東海道)史跡絵地図』。『平塚宿の江戸見附』「市民プラザ前交差点」を渡った次の信号右角(市民センター手前)に平塚江戸見附跡があり、石垣と竹矢来が復元されていた。また、ここには上記の『平塚宿(旧東海道)史跡絵地図』も立っていた。「平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約一・五キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。」『平塚宿の江戸見附』を横から。上記説明文の如く、「一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。」とあるように一部復元されていた。『平塚の里 歌碑』平塚江戸見附跡の西隣にある「市民センター」入口横を通り、中庭に出ると『平塚の里 歌碑』が。石と隣の井戸は江戸城のものとのこと。文明十二年(1480)六月、「平安紀行」の作者は、東海道を京都に上る道すがら、平塚の地で、この地に隠遁していて没した三浦遠江入道定可を思い起し、里人にその遺跡、墓所などを尋ねたところ、誰ひとり知る者がなかったので、「哀れてふたが世のしるし朽ちはててかたみもみえぬ平塚の里」と詠じた。昭和三十二年、市制施行二十五周年にあたり、江戸城の石垣と井戸枠を東京都からもらい受け、見附台体育館入口の東側に据えたが、昭和三十七年、平塚市民センターが建設された際、現在地に移設された。「平塚にてあはれてふ たが世のしるし 朽ちはてて かたみもみえぬ 平塚の里この ひらつかのかたへにて そのかみ 三浦遠に入道定可 世を遁れてみまかりし と いひつたふばかりにて しれるもの なかりけり 太田道灌の作と言われる平安紀行の一節である。戦乱うちつづいた當時の平塚の里のあったさまがしのばれるとともに 今日の平塚市の繁栄を目の前にして まことに感慨の深いものがある。昭和三十二年四月 市制施工二十五周年記念として建つ、石と井戸枠とは江戸城のもの このたび 特に東京より贈らる。石川真雄」と。東京都からもらい受けた井戸枠。『文学散歩の方へ』。『平塚市立崇善公民館』を訪ねる。正面の古い建物は昭和25年(1950)建築の旧平塚市議事堂で現在は崇善公民館になっている。よって私と同級生の建物。戦前は日本一のマンモス校と言われた平塚小学校があった所であると。『松風庵観音堂之故地』崇善公民館の北隣に「見附台公園」がある。その公園前を左折し十字路を一本越えた次の広い道の手前右側の「小澤畳店」入口に松風庵観音堂之故地と刻まれた石柱が建っていた。他に上部に『相模拾四番』 左側に『遷座之事 昭和五十四年○○己未 薬師院内』の文字も刻まれていた。道中行き倒れになった人を埋葬した場所がここ松風庵観音堂で、戦後、「薬師院」に観音堂を遷座したとのこと。旧東海道に戻り進むと正面に『高麗山』が姿を現す。その先にあったのが『平塚宿脇本陣跡』。石柱をズームで。「江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801~03)頃の宿場の様子を画いた「東海道文間延絵図」には、西組問屋場より西に画かれていますが、天保年間(1830~44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。」更に100mほど進むと『平塚宿高札場』の跡が。「高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約五メートル)、横一間(約一・八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。」『平塚宿東組問屋場跡』高札場跡の向かいにある「魚喜代」前の歩行上に平塚宿東組問屋場跡の石柱と説明板が立っていた。「平塚宿は、東海道五十三次の一つの宿場として慶長六年(1601)に成立しました。宿場は、旅人が休憩するための茶屋や宿泊するための旅籠といった施設が整っているばかりではなく、諸荷物の継立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。こうした人馬の継立や御用旅館の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいました。平塚宿では、問屋場が二か所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。」再び右側に渡って、直ぐ先の「神奈川銀行平塚支店」前に『平塚宿本陣旧跡』が。平塚宿は東海道五十三次の一つの宿場として慶長六年(1601)に成立しました。幕府公用人や諸大名が宿泊する宿を本陣といい、平塚宿の本陣は、東仲町北側のこの地にありました。 『平塚宿本陣旧蹟碑』「海道宿駅の高級旅館で、徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といいこれに次ぐものを脇本陣と呼んだ。東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し 現在の平塚ニ一〇四番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた 総槻造 間口約三十米 奥行約六十八米 東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍・大名などの御座所は上段の間であったという。記録によると 徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩しているまた明治元年十月と同二年三月の両度 明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休されたこのたび 平塚支店改築にあたり旧跡碑を建てて永く記念とする。神奈川相互銀行取締役社長 半田剛撰」次の信号を左折し、『福生山宝善院』を訪ねる。入口山門の周りには、なまこ壁の築地塀が。宝善院は東寺真言宗のお寺で福生山能満寺宝善院。建久年間(1190年〜1199年)に、鎌倉八幡宮寺に下向した京都・東寺の学問僧により開山された。「新編相模国風土記稿」(天保12年(1842年)刊)には、中興開山は貞享(1684年〜1688年)の頃住持であった聖全(卒年詳ならず)と云われている。本尊は不動明王(京都・大通寺からの請来)、寺宝に玉一顆あって明星玉と称すが、伝来は分からない。天王社、稲荷社、天神社、虚空蔵堂がある。『ぼたもち地蔵さま』。『斎藤麗山(さいとうれいざん) 句碑』。斎藤麗山は当院檀家・斎藤家の出身で江戸末期に優れた文人書家として平塚宿で活躍した。この碑は後年、麗山の弟子たちが師匠の遺徳をしのんで墓地がある当院境内に建立。碑には次のような意味深い歌が刻まれています。 「すそはまだ くらきにあけて ゆきのみね」『水子地蔵』。境内には、多くの説明ボードが丁寧に。『福生山 宝善院の歴史』説明板。『鬼門よけの呪法(猿すべりのまじない)』屋敷の東北を鬼門と呼び、当院東北の角に樹齢数百年と思われる2本の「さるすべり」が植えられていた。『本堂』『日本最初の鉄道レール』。「これは正真正銘、日本最初の鉄道レールです。 明治5年10月14日、新橋・横浜間でわが国最初の鉄道が開業、これはその時のレールです。 製造はイギリス・ダーリントンのアイアン社1873年製造です。 この線路の上を間違いなく日本最初の蒸気機関車弁慶号が走りました。 昭和43年、赤坂離宮(東宮御所)改修工事中、壁の中から発見されました。 明治42年の離宮新築工事にあたり、補強材として使われたようです。」『宮本武蔵 ゆかりの瓦』。京都『一乗寺下がり松』での吉岡一門との決闘に勝利はしましたが、京に逃れる所も無くなった武蔵は東寺・観智院に身を隠しました。今も武蔵直筆の国宝・襖絵が残っています。この瓦は観智院本堂に用いられていた桃山時代の瓦です。この瓦の下に、確かに武蔵は、一年半生活していました。『ふたたび大師』。「今を去る千数百年の昔の事です。弘法大師は遣唐使船で唐の都長安に渡られました 余り昔の事ですから長安に渡られる以前のお大師様がいずこにおられたのか誰も知る者がありません。突然降ってわいたように、遣唐使船という日本国の公式派遣船の記録にお名前が浮かんでこられます。このためお大師様の入唐以前のご業績について多くの議論があり、いわばこの期間は弘法大師伝の空白期・謎の期間とされています宝善院隆洪和尚はある夜、霊告により、この謎の期間、既にお大師様は密かに中国に渡られ修行を重ねられていたというお告げを受けました。そこで『弘法大師二度渡航説』の論を発表し、霊夢に基づき、中国密教の聖地「五台山」頂上よりわが国を望見する大師像を製作しました。千数百年の昔、万里の波頭を越え、二度にわたり中国大陸に渡られたお大師様の霊跡をたたえ、これを『ふたたび大師』と名付けました。なにごとによらず、「ふたたび」を祈願するに、ふしぎな霊験があります。」『宝善院本堂唐向拝の朱雀の彫刻。』。『宝善院本堂の唐向背(からこうはい)』説明板。『本堂正面の扉』。『宝善院本堂唐向拝の天上絵』。『インドネシア・バリ島の道祖神』。『ネパール仏像・文殊菩薩像』境内にあった『須賀神社』。『武田信玄の小田原攻め戦死者供養塔』戦国時代当院は小田原北条氏の信仰する寺院で、北条家臣団が当院を支えていました。永禄十二年(1569年)武田信玄が小田原城を攻めたとき、この地方も戦場となりました。この塔は宝篋印陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)と呼ばれ、塔の下に宝篋印陀羅尼経を埋葬して塔を建てることからこの名が生まれました(丸い生垣の後ろの石柱)。戦死者の霊魂はこの塔に風とともに運ばれ、塔に当たることで供養されるという信仰から、古来、戦場の跡地にはよく建てられました。『光悦垣』。割り竹を粗い目の菱形(ひしがた)に組み、割り竹の束をのせたもの。近世初期の芸術家、本阿弥(ほんあみ)光悦が好んだことに由来。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を茅ケ崎・南湖入口の交差点を左折して暫く進むと右手にあるのが高野山・真言宗の古刹『金剛院』。江戸初期より南湖の閻魔寺として親しまれている古刹で、明治41(1908)年、茅ヶ崎町(茅ヶ崎村、鶴嶺村、松林村が合併)が結成された時、1908年から1911年まで茅ヶ崎町役場も置かれていたと。金剛院は相模国準四国八十八ヶ所第49番の霊場でもあると。『本堂』法林山長生殿金剛院(南湖の閻魔寺)。『大師堂』大師石像は大師堂に安置されているが、風化が激しいためか、そして石像前に大師を線刻した新しい石板が置かれているために、見えないようであった。『長生殿』『慈悲観音』『四国八十八所霊場供養塔』の先の石仏の台座には「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせすん」と刻まれていた。平安時代末期に流行した『涅槃経(ねはんきょう)』の「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を下記の如く表すと言われると。色は匂へど 散りぬるを香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。諸行無常(しょぎょうむじょう)我が世誰そ 常ならむこの世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。是生滅法(ぜしょうめっぽう)有為の奥山 今日越えてこの無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて生滅滅己(しょうめつめつい)浅き夢見じ 酔ひもせず悟りの世界に至れば、もはや儚い(はかない)夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。寂滅為楽(じゃくめついらく)若松幹男先生のお墓というのがあった。若松先生は茅ケ崎小学校の前身である琢章学舎の先生。碑文には在職中に、生徒13人が期末試験で落第したことに責任を感じて割腹自殺をしたのだと。『文覚上人像』の祠。『文覚上人』平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれると。内部には文覚上人を線刻した新しい石板が。松尾芭蕉の句碑。『父母の志きり尓古ひし雉子能聲(父母のしきりにこひし雉子(きじ)の聲 )』。この句の出典は、芭蕉の俳諧紀行文『笈(おい)の小文(こぶみ)』高野の山道を夕暮れの中を歩いていると、姿は見えないが、どこかでケーン、と雉が鳴いた。旅という漂泊のわが身に、にわかに父母のことが思い出されたのだと。そして再び旧東海道に戻り平塚に向かって歩く。小出川とこの後に合流する千の川に架かる鳥居土橋(とりいどばし)に到着。『関東の富士見100景』の銘板。千の川に架かる石原橋も見えた。『東海道南湖左富士之碑』京都に向かう東海道中で、富士山が向かって左手に見える珍しいスポット。しかしこの日は富士山の姿は残念ながら・・・。『南湖の左富士之碑』と刻まれていた。浮世絵師安藤広重が天保3年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道53次の風景版画を発表した。その中の一枚にここ南湖の松原左富士がある。左富士が見えるのは、ここと静岡県の吉原の二か所が有名。歌川広重 『五十三次名所圖會 七 藤澤南期の松原左不二』『鶴嶺八幡宮大鳥居』街道沿いの大鳥居から北へは松並木の参道が続いていた。松並木の境内参道を足早に歩き振り返る。鶴嶺八幡宮は、1030年(長元3年)、源頼義が平忠常の乱を鎮圧する際、懐島郷矢畑に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建したことに始まるのだと伝えられている。 前九年の役(1055年(天喜3年))の際にも戦勝祈願が行われ、1063年(康平6年)に反乱を鎮圧すると、鎌倉の由比郷に懐島八幡宮を勧請したといわれる。 頼義の子義家は、後三年の役の際に祈願し、勝利したことから、1089年(寛治3年)、隣郷の浜之郷に社領を寄進して現在の鶴嶺八幡宮を創建した。 1191年(建久2年)には、源頼朝の命により大庭景義が社殿を修復して再興。境内には、根回り8.5㍍、高さ29㍍の大イチョウも。前九年の役(1051~1062)の戦勝祈願に源義家が自ら手植えしたと伝えられていると。『厄割石』。そして再び旧東海道に戻る。昔、若い頃仕事でお世話になった明治乳業(株)茅ケ崎工場の社名は写真の如くに変わっていた。下町屋の交差点の先の左手には『神明神社』が。「往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大葉 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安倍晴明(921〜1005)が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大場平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。大神宮は寛正年間(1460〜1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。」『拝殿』御祭神は天照大神(あまてらすおおかみ)、そして大山咋命(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)。そして前方に新湘南バイパスの高架が見えて来た。茅ケ崎西インター交差点手前を左折すると右手にあったのが『耕地整理記念碑』。小出川と千ノ川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑。事業は湘東耕地整理組合が組織され、大正十四年(1925)から開始され昭和十五年(1940)に竣工したと記されていた。現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものであると。そしてその奥には『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』が。茅ヶ崎市下町屋1丁目にある中世の遺跡。国の史跡および天然記念物に指定されている。以下ウィキペディアによると「関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7本の木柱が出現した。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見された。当時、沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、中世橋梁遺構として高く評価されている。沼田はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定したと。」「3回の内容確認調査によって、新発見の橋杭1本を含めヒノキ製の橋杭が計10本確認された。その配置は、2メートル間隔の3本1列の橋脚が10メートル間隔で4列に並んだものと推定される。橋脚は断面が丸く径は、最小で48cm、最大で69cm、長さは確認できたもので3m65cm。この中には、上部が、ほぞ穴状に加工されているものもあり、この部分に梁などが組まれていたことが窺がえると。橋杭となった木柱は、年輪年代測定によれば西暦1126年~1260年の一時点に伐採されたヒノキ材と同定されたと。」『旧相模川橋脚』説明ボード。『指定と保存整備』。鎌倉の源頼朝も渡り初めしたという橋は、現在の相模川の東、約1.5キロメートル の茅ヶ崎市下町屋、小出川のすぐ東岸にあった。現在の相模川は平塚市と茅ヶ崎市の 間にあり、拡幅されて南北に流れ、国道1号線の馬入橋は長さ560メートルもあるが、 昔はだいぶん違っていたのだと。1923年の関東大地震によって発生した液状化現象で突然出現した800年前の橋脚は、 1926(大正15)年に国の指定史跡となっている。『発掘調査の成果』(右)。橋脚の樹種はヒノキ、断面は最小49cm、最大69cm、長さは369cmである。 橋脚の並びから橋の幅は9メートル、長さは40メートル以上と推定されている。 橋はおおよそ南北方向に架けられ、川の流れは東西に近い流れであったようだと。『発掘調査の成果』(左)。沼田頼輔氏の『湘南古橋行』の石碑。『長留天地間』と刻まれた漢詩が。奥に廻り『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』全体像を。関東大震災前の相模川河口の絵図であると。「詳細」👈 はリンクを参照願います。小出川に架かる「下町屋橋」を渡り、新湘南バイパスの高架をくぐって、先に進む。新湘南バイパスと小出川。今宿(下水)ポンプ場。旧東海道右側に日蓮宗『上国寺』。山号は妙厳山、院号を大乗院という。南北朝時代までに日祐(中山法華経寺三世、応安7年(1374年)没)を開山に創建された。この寺にある日蓮聖人像は、三月日永正十一年(1514年)作之の銘がある。寄木造、玉眼嵌入、前後矧ぎ、肩膝前は別木を用いる。およその寸法は像高32.0センチメートル、袖張42.5センチメートル、膝張26.0センチメートル。市内最古の日蓮聖人像として茅ヶ崎市の重要文化財に平成8年(1996年)11月1日に指定されたと。日本橋から61Km。『妙厳山 信隆寺』が右手に。見事な山門。こちらも日蓮宗の寺であった。寛永元年(1624年)源義光(新羅三郎義光)の後裔勝沼信就(武田信就)が剃髪し信隆院日閑となり開基し創建された。開山は中山法華経寺の善立院日意。昭和20年(1945年)7月15日の茅ヶ崎空襲で本堂をはじめとする堂宇を全焼した。平成8年(1996年)日蓮聖人像が茅ヶ崎市の重要文化財に指定されている。現在の本堂は平成10年(1998年)に再建されたものであると。永禄7年(1564)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方に属し、市内の仏像彫刻のなかでは貴重な像であると。像高42.0センチ。袖張65.6センチ。膝張35.5センチ。寄木造り。玉眼嵌入。彩色(後補)。頭体は1材を頸部で割りはなち、耳後ろで前後に矧ぎます。体部は6材を割り矧ぎ。胎内背面に、向かって右から「八月十三日/法主日□坊/南無妙法蓮華経/願主仏国寺善行坊/日受/敬白/于時永禄七年甲子」と墨書銘があると。そしてこちらは境内にあった『日蓮大聖人像』。『宗旨』「信隆寺」と書かれた扁額。見事な龍の彫り物。境内社。産業道路の交差点から海岸方面を見る。中島交差点の細い道を左手に線路方面に向かうと右手にあったのが稲荷社・『正一位稲荷大明神』。そして馬入橋に向かって更に進む。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次海前寺の近くにある『八王子神社』を訪ねる。創立年代は不明ですが、源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は武運長久を祈って多くの武士が訪れたといわれます。特に元弘3(1333)年、鎌倉幕府打倒に立ち上がった新田義貞が当社に立ち寄って祈りを捧げたとされ、見事に北条氏を滅ぼした義貞は建武2(1335)年、上洛する途中に当社を訪れ、社殿を改修したと伝わっています。また、江戸時代後期の村々を記録した『新編相模国風土記稿』には茅ヶ崎村について「鎮守、八王子神社」と記されているように、古くからこの場所が地域の中心だったことを示しています。慶安2(1649)年、徳川将軍家から社領の寄進があり、延享3(1764)年12月には社殿の再興も行われたほか、天保12(1840)年8月、拝殿・幣殿が再興されたことが伝わっています。明治維新にあたり八王子権現から八王子神社と改称し、明治40(1907)年4月、指定村社に列せられました。現在の社殿は関東大震災後、氏子の浄財によって昭和2(1927)年4月に再建されたものです。右手の社号標石には「鎮守 八王子神社」と。昭和2年(1927)造立の正面の石鳥居には、草木・三つ巴紋等が刻まれた石扁額が。『拝殿』。御祭神は、五男三女命と、宇迦之御魂命・大山咋命・品陀分命。五男三女神は、天忍穂命・天穂日命・天津日子根命・活津彦根命・熊野久須毘命と、多岐理比売命・市杵島比売命・湍津比女命の宗像三女神。創建年代や由緒、御祭神は不詳。正覚院という寺院敷地、墓道の横に鎮座している。現在は、社碑や神輿殿、質素な社殿などで構成されている。八王子神社は、毎年7月の海の日に神奈川県茅ヶ崎市4西浜海岸で行なわれる浜降祭(はまおりさい)に参加する一社である。しかも、夜中に堤八坂の公民館を御立ちし、茅ヶ崎海岸で禊をするが、この神社神輿は特に沖まで深く入り込むことで知られている。40基近くの神輿が参加する浜降祭ではあるが、ほとんどの神輿は波打ち際で帰ってしまう。そんな中、八王子神社神輿は担ぎ手の首が海に浸かるほど、沖に進んでいくのだと。拝殿の見事な彫刻。拝殿唐破風の懸魚には鶴に乗った老人像が。向拝に男女像や龍などの彫刻が施されていた。なぜか『鐘楼』が。隣にある『本村八坂神社』。古くから境内に祀られている本村八坂神社は、祭神「素佐之男命」を安置。 創建年代は不詳ですが、社殿は文化10年(1811)再建という古社。 かっては祇園さま・氷川さま・熊野さま・天王さまと呼ばれたと。『本村天満宮 由緒』。『正一位稲荷大明神』。稲荷大明神は、宇迦之御魂神(倉稲魂神)を安置。 創建年代は不詳でしたが、社殿修復(平成2年)の折に稲荷講中18名と弘化5年(1848)の木板が発見されたことから、150年余りを経ている古社と判明。 五穀豊穣・招福の神として信仰されていると。大正12年9月1日関東大震災で倒壊した大鳥居が置かれていた。境内の工作物もすべて崩壊したが、幸いに一人の犠牲者も出なかったと。八王子神社 社務所。旧東海道近くにある旅友Sさんの農園を暫し訪ねる。旧東海道の下を走る単線のJR相模線。イオン前を茅ケ崎駅方面に進む。日本橋まで(から)58Km。イオン茅ケ崎中央店。入口のモニュメントは太陽の塔の如し。『茅ケ崎一里塚』交差点手前に。『茅ケ崎一里塚』。一六〇四年(慶長九)徳川家康が秀忠に命じて東海道、東山道、北陸道に整備させたもので、江戸日本橋を起点に沿道一里毎に設けられた。大きさは五間(九メートル)四方、高さ一丈(三メートル)で、街道の両側に相対して築かれ、塚上には多く榎を植え旅人の利便をはかった。 この茅ヶ崎一里塚も以前は両側にあったが道路拡張等のため片方は取り除かれてしまった。江戸から十四番目のものといわれる。かっては旧東海道の両側にあったが残っているのは海側のみ。『史跡 一里塚』と刻まれた」石碑。茅ケ崎駅前交差点の茅ケ崎市役所側の角にあった『旧寛永寺石灯籠 四基』右から1番目と3、4番目は十代将軍徳川家治の供養のために1786年に寄進され2番目は、四代将軍徳川家綱の供養のために1681年に寄進されたものと。徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていた。それが市内に6基移されている。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものであると。ここから大磯までは旅友のSさんは既に完歩されているとのことで、ここで旅友と分かれ、それぞれ別行動で目的地へ向かう。私はそのまま歩いて大磯宿へ、旅友は茅ヶ崎駅から電車に乗り大磯駅へ向かう。道路脇には古木のクロマツの切り株が。茅ヶ崎市勤労市民会館前国道一号線東横インホテル前歩道に東海道松並木の一本のクロマツが、2009年腐朽のため代採する。樹齢200年以上、高さ約20メートル、幹回り2.5メートル徳川家康公が植樹させたと云われ市民のたくさんの要望に答え、このたび、直径80cmの切り株レリーフを景観資源として記念碑設置したと。『高野山 真言宗 円蔵寺』。真言宗の寺。本尊は薬師如来と厄除秘鍵大師で茅ヶ崎厄除け大師とも呼ばれている。『本堂』寺は文安2年(1445)に没した善誉が中興の祖であると伝えられている。もとは本村5丁目にあったが大正12年(1923)の関東大地震で倒壊し、昭和4年に現在地に移設したと。『護摩堂』『五重石塔』旧本堂の『礎石』。こちらは203高地「血染めの岩片」だと。護国忠魂碑と脇に立つ乃木希助大将像。円蔵寺には日露戦争に関連した遺物が集められている一画がある。 乃木大将の揮毫による忠魂碑と乃木大将の石像を中心に、周囲には水師営の会見碑、水師営のなつめの木、203高地の血染めの岩、元招魂社の鳥居片が置かれ、日露戦争の慰霊の地となっている。この忠魂碑は、御影石製、茅ヶ崎村兵事会が明治38年10月16日に建立したもので、日清・日露及び日支事変における戦没者13柱(日清役2柱、台湾土匪征役2柱、日露役8柱、日支事変1柱)が合祀されている。 当初、茅ヶ崎小学校に建立されたが、戦後同寺へ移設された。忠魂碑の隣には、昭和10年に建立された乃木将軍石造がある。いずれも御影石製である。碑高370㎝、幅93㎝、厚さ47㎝、台石50㎝、基壇110㎝。碑正面:「護國忠魂碑 希典書」右面:「明治三十八年十月十六日 茅ヶ崎村兵事會建之」左面:「明治二十七八年戰役陣亡軍人 二十八年三月二十九日於臺灣澎湖島病死 陸軍歩兵一等卒 米山新蔵 同 二十八年六月二十六日於廣島病院病死 陸軍砲兵一等卒 越地三吉明治三十一年臺灣匪徒征役陣亡軍人 三十一年十二月十一日於臺灣北山地方戰死 陸軍歩兵二等卒 鈴木米吉 同 三十一年九月十九日於臺灣基隆病死 陸軍歩兵二等卒 池田竹次郎」碑裏面:「明治三十七八年戰役陣亡軍人三十七年十一月三十日於清國盛京省赤坂山戰死 陸軍歩兵軍曹勲七等功七級 松坂松五郎三十八年九月三日於清國盛京省病死 陸軍歩兵伍長勲八等功七級 米山鐵五郎三十八年三月九日於清国盛京省田義屯戰死 陸軍歩兵上等兵勲七等功七級 澁谷牛次郎三十七年十二月一日於清國盛京省二〇三髙地戰死 陸軍歩兵一等卒勲八等功七級 米山又治郎三十七年十一月二十八日於清國盛京省寺兒溝戰死 陸軍歩兵二等卒勲八等功七級 三橋太郎吉三十七年十一月十二日於清國盛京省山澗堡戰死 陸軍歩兵二等卒勲八等功七級 河内駒吉三十八年九月十八日於清國盛京省病死 陸軍歩兵一等卒勲八等 三橋力松三十八年五月十八日於清國盛京省梁家窩柵戰死 陸軍輜重輸卒勲八等 三橋定吉日支事變昭和七年十月十日於満州國遼寧省轉通北側戰死 陸軍騎兵伍長 杉田匠」そして右に乃木希助大将像。乃木将軍の没後24年にあたり、忠烈、護国の軍神である乃木精神を鼓吹するために、広く寄附を募って建立された。新聞記事によると、発起人は、駿河銀行支店長、円蔵寺住職、円蔵寺檀徒など30余名。昭和10年10月13日に円蔵寺前で除幕式が予定されていた。製作者は相田清志氏。像は七尺、台座は五尺とある。現在は、円蔵寺境内に移設された忠魂碑と同じ台座上に移設されている。小笠原長生子による題字が刻まれていた台石も今は無い。像高約189㎝、台石50㎝。御影石製。『山門』。円蔵寺の案内板。茅ヶ崎山 円蔵寺御本尊 薬師如来 厄除秘鍵大師(やくよけひけんだいし)宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(807)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(774)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(835)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは 大日如来のいのちの顕われであり このいのちの世界をあらわして いるのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは いのちの平等と尊厳をさとり 大日如来の智慧をこの世に実現する ために 生かせいのちを実践し共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は 弘法大師の共利衆生の精神に立って すべてがいのちを共にして いる社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され高野山奥之院に入定留身されて います。同行二人の信仰のもと 大師の御教えをこの世に生かし実現することが 私たちの 務めであり喜びです。旧東海道 十間坂交差点。日本橋から(まで)59km。十間坂二丁目交差点を過ぎて右手にあった『第六天神社』。『第六天神社御由緒』御祭神 淤母陀琉命(オモダルノミコト) 妹阿夜訶志古泥命(イモアヤカシコネノミコト) ご祭神は、神仏混淆時代の仏教で信奉する欲界天の第六、欲界天の最高所に客殿を構える 天魔、他外自在天に由来し、明治維新後政府の神仏分離の布告により、ご神徳に因み、国 生み神話天神七代の神々の内の、第六代の男女二柱の天津神様であります。 分布の傾向に特徴があり、西日本は皆無に近く、東京都と千葉県境に多く所在し神奈川県 では宗教法人格を持つのは二神社、全国で「祠」ようの社も含め三百有余社が数えられます。 神々の中では、初めて人間のような容姿と賢い知恵を持ち合わせた大神様です。御神徳御由緒 身の丈は二里(八キロ・昔は大きいということは健康であることの象徴でした)寿命は人間 の千六百歳を一年として、一万六千歳の長寿であられ、それに因み、身体壮健、不老長寿、 社前の東海道を上下する覊旅の人々の道中安全の守護神として又、世の楽しみを自在に自 己の楽しみに替える霊力に因み、満願成就への導きの神として信仰されております。 古くは、第六天神社は多く祀られており、織田信長の信奉は特に篤く、後の豊臣秀吉は信 長が天下を執るほどの強大な力を持ったことは、第六天の強靭な神威を戴いたことによる ものと、恐れて廃寺を行ったと伝承されております。 その中で郷民により神社名を変更したり、合祀、相殿、末社として秘かに守り信仰されて きた第六天神社です。 「第六天様という強靭なご利益を持たれる神様を氏神様としている氏子さんは幸せですね」 と参拝に訪れる方もおり、天魔とも恐れられる強い力を戴きたいと、近県よりも参拝祈祷 を受けにこられる方もおられます。 創立年代、創立者等不詳。文献では、江戸幕府編集の新編相模風土記(十二代将軍家慶の時 代・天保十二年)に初見されます。御 末 社 八坂神社御 案 内 初宮詣 七五三詣 厄祓い 交通安全 渡航安全 家内安全 事業安全 商売繁昌等の御 祈祷 地鎮祭 竣工祭 新築家祓等の出張諸祭のご奉仕も承ります。鎮 座 地 神奈川県茅ケ崎市十間坂三丁目十七番十八号 電話番号 〇四六七ー八二ーニ三八四日本橋から十五里二町六間であると。『拝殿』現在は、淤母陀琉神、妹阿夜訶志古泥神の二神を祀る第六天神社ですが、もともと第六天とは仏教で「欲界第六の天なり、略して他化天と云う。下天の化作せし他の楽事をとり来りて自在に受楽するが故に、他化自在と名く。正法を妨害する天魔なり、釈尊成道の時これを降伏す。密教にては胎蔵曼荼羅の一尊となす」などと記されている天魔で、身丈は二里、寿命は人間の千六百歳を一日として一万六千歳とされ、強力な魔力をもった魔王として描かれていると。拝殿に近寄って。見事な彫刻。唐破風の下の懸魚の鳥は烏(カラス)であると。神武天皇が高倉山から右手を上げて遥か遠くを見ている姿と。手水舎も巨大。拝殿の前には『八坂神社』が鎮座。御祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。 口碑によれば、第六天神社社殿西面に祀られて いたという八坂神社は、平成四年第六天神社本殿 幣殿のご造営に際して、相殿として祀られている ことが明らかとなりました。 明治中期の茅ヶ崎大火により罹災後の再建難しく、止むなく相殿としてお祀りしたことと思われます。 この度のご造営を機会に、御神霊の蘇りとご神威の発揚を願い、この地に奉遷されました。 欅造りの社殿は、第六天様の神殿でしたが、修復し覆殿を掛け八坂神社社殿としたものです。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次東小和田の交差点を過ぎて暫く進むと右手奥にあったのが『上正寺(じょうしょうじ)』。浄土真宗の寺で、鎌倉時代の創建とのこと。山門前の『親鸞聖人像』が迎えてくれた。『鐘楼』『上正寺の聖徳太子像』と『上正寺の旧寛永寺石灯籠』上正寺には、茅ヶ崎市指定重要文化財の聖徳太子像と石灯籠がある。この像は、聖徳太子が2歳の時に、東を向いて「南無仏」と唱えると、手の中から舎利(釈迦の遺骨)がこぼれたという話をモデルにしたもので「南無仏太子」とよばれると。室町時代後期から、江戸時代初期頃の作と考えられていると。寄木造り、玉眼嵌入。上半身は肌部は素木に古色仕上げし、袴は朱彩が施されている。太子が自ら彫刻したという言い伝えもあると。『本堂』。『正覚廟』は、個人(家ごと)の墓地ではなく、上正寺有縁の方々の合葬の廟所(墓地)。正覚廟の名称は、当上正寺が平安時代、下寺尾(市内)海円院に始まり、鎌倉初期、当地へ移り(龍沢山龍徳院)無上正覚寺と改められた歴史に則ると。現在の寺名は、本願寺第三代覚如上人下向の折 改められたものであると。石灯籠は幕府の要職を務めた安藤重博が、第4代将軍徳川家綱の墓所(寛永寺厳有院)に奉献したもので、のちに此処に移されたのだと。さすが将軍の墓所に建てられただけあり、立派な石灯籠。厳有院は東京大空襲で焼失したが、この石灯籠はここ上正寺に移されたことで難を逃れたのだと。上正寺本堂ではジャズコンサートも行われるようであった。『地蔵堂』旧東海道に戻って、少し進んだ左側の店舗つきマンションの所を左に入った突き当たりに地蔵堂が大小二つ建っていた。大きな地蔵堂の中には『奉納 南無地蔵大菩薩』、『念佛講中供養塔』、『百万遍供養塔』と刻まれた石碑も入っていた。また、地蔵堂の対面や後ろには石仏・石塔群があった。いずれも説明等は無かった。旧東海道に戻り左手にあったのが『高野山 真言宗 千手院』。天王山神保寺と号していたようだが、現在は天応山と表記。高野山真言宗の藤沢市感応院の末寺で、開山は元栄和尚。元和8(1622)年6月11日ご入定をされたが、建立は永宝8(1680)年に堅岸和尚によるものとなっていると。『本堂』。大正12年の関東大震災で伽藍は全壊し、平成21年までは仮本堂のまま過ごしたが、再建計画が軌道に乗り、平成23年には、現在の本堂が落慶。ご本尊は、千手観世音菩薩坐像。元和元(1622)年の頃より開山して以来、約400年の法燈を受け継いでいると。 千手院境内の稲荷明神(左)と閻魔十王堂(右)。大山詣での登山安全を祈願するために、街道沿いまで出開帳していた歴史の有る、閻魔十王(立象10体と脱衣婆)像を安置。厄難消除のご利益の有る稲荷明神さま。小田原城主の眼病治癒で知られる、木食観正さまの石碑も建立されていると。『稲荷堂』見事な石灯籠。境内の石仏群。そして旧東海道の反対側には『高野山 真言宗 山王山 観音院 廣徳寺』。本山は和歌山県の高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)。山号の「山王山」は以前本堂裏に山王山(さんのうやま)という山があった事から、院号は御本尊の千手観音からこの名が付いたと。脇門から境内に。『六地蔵』。『本堂』はRC製。創建は諸説あるが初代慶海が元和5年(1619)に現在の地、茅ヶ崎市小和田に開いたと。御本尊は「千手千眼観世音菩薩」。木造『山門』。『四国八十八ヶ所お砂踏み』。四国八十八ヶ所各霊場寺院の御本尊をお祀りし、各寺院より頂戴した境内の砂をそれぞれの正面に敷き、それらを踏みながら礼拝していくことにより、四国八十八ヶ所霊場を巡拝されると同じような功徳を積んでいただけるもの。四国お遍路の要所札所の砂が四ヶ所埋め込まれたミニお遍路ができるモニュメント的なものがあった。我々二人は四国八十八か所巡りは既に昨年四月に結願済み。『弘法大師修行像』。『南無大師遍照金剛』と書かれた幟も。『山王山 観音院 廣徳寺』石碑。見事な屋根の鬼瓦?山門を皇帝ダリア越しに。再び旧東海道に。日本橋まで(から)56Km。暫く歩き菱沼歩道橋の手前右側には『牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡碑』が。「徳川家康 は、慶長六年(1601)、東海道 に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。藤沢宿 と平塚宿 の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。 立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれていました。 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。」『東海道分間絵図』。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれている。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。『東海道分間絵図の現代語訳』。小和田村から浜之郷村の間の地図。曲がりの頂点近くに「ぼたもちちゃ屋」の文字が。日本橋まで(から)57Km。『東海道の松並木』。「茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より1.2メートルの高さで測定)2.2メートル(推定樹齢400年)の大きな松が育っております。遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれています。長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう」と。『五十三次名所図会 七 藤澤 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)』「東海道の南湖(茅ヶ崎市)の松並木の風景を描いています。南湖は藤沢宿と平塚宿の間の立場(宿と宿の間の休憩場所)のあったところで、京都に向かっていく中で富士山が左に見える「左富士」の名所の一つでもありました。現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。」と。茅ヶ崎市立病院の交差点を右折すると左手に『正覚廟』山門が。「曹洞宗東松山海前寺」。藤沢市内にある宗賢院の史料によると1591(天正19)年の創建、茅ヶ崎村領主で旗本の丸毛権之蒸の菩提寺。広く塀を廻らし山門が建っていた。山門前に石造仁王像が立つ。阿形像。吽形像。『六地蔵』。山門右側の塀沿いに立つ石碑。本村・海前時にある純水館の『震災追善碑』の碑。石碑には「震災追善碑」と。石碑には、「天木栄一郎氏者岐阜縣古川町之人也當工場在勤中大正十二年九月一日際振古未曾有之大震災工場全壊罹殃死之難也當時三百八十有余名之在勤者中不幸而獨為犠牲富春秋以前余有望之身斃於是天災可惜行年廿有三 大正十四年三月廿一日純水館茅ヶ崎製糸所建之」と。『岐阜県古川町出身の天木栄一郎氏が、当工場在勤中、大正12年9月1日の未曽有の大地震による工場が全壊によりお亡くなりになった。当時380名余りの在勤者の中で不幸にして一方のみ犠牲になられた。(市史では3名となっている ) 前途有望な青年の天災による死は誠に残念なことである。行年23歳。 大正14年3月21日 純水館茅ヶ崎製糸所建立。』『本堂』前に『石灯篭』が二つ並ぶ。右側の石灯籠。左手の石灯籠。二代秀忠の菩提のため1651年に筑後久留米城主の寄進と、九代家重の菩提のため1761年に播磨国安志城主の寄進によるもの。『鐘楼』。境内の五輪塔と石仏。『道元禅師像』観世音菩薩像の右前に『摩尼車』が。摩尼車とは、主にチベット仏教で用いられる仏具の事。円筒形の部分を回転させると、内部に納められた経文やマントラを唱えるのと同じ功徳が積めるとされている。山門横に立つ大きな石灯籠。この石灯籠は、台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提のため慶安4年(1651)に筑後久留米城主が奉献したものと。「海前寺」の前の道を西に進むと、右手の社の中に並ぶ石像・地蔵尊。近づいて。ここにも石仏が並ぶ。「佐々木卯之助 供養碑」。「佐々木卯之助 供養碑享保十三年徳川幕府は、柳島相模川河口より藤沢片瀬川に至る海岸一帯に相州砲術調練場を開設した。長さ百三十町、巾は海岸線より八町~十町の帯状の地域であった。佐々木卯之助は大筒役と言って鉄砲方役人であり鉄砲場の管理責任者であった。附近の住民は田畑は少なく貧困であった。立入禁止の砲術場内の荒地を開墾耕作し食料の自給を計っていたが、佐々木氏はそれを黙認していたが、代官の検地によりこのことが発覚、天保六年、八丈島遠島の刑に処せられ青ヶ島へ送られた。明治元年十二月赦免となったが病気を理由に在島、明治九年十二月同島において死去、行年八十二才と云う。村民はこの恩義を後世に伝えるため追悼記念碑を鉄砲場縁りの地に建てている。この碑は青ヶ島墓地にあったものを佐々木家の御厚意によりここに移し供養碑として祀る。 昭和五十六年五月五日 茅ヶ崎郷土会」そして「海前寺」の北側のY地路の場所にあった神社。その横には大木も鎮座。茅ヶ崎市本村5丁目11。朱の鳥居が。正面から。社を見る。朱の鳥居には「正一位」と。稲荷社であろうが名前は??そして『本村のタブノキ』。タブノキは枝葉には粘液が多く、乾かして粉にするとタブ粉が得られる。タブ粉は線香や香取線香の材料の1つ(粘結材)として用いる。樹皮や葉は染料にいられる。材は、建築、家具などに使われるのだと。市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。小高い丘に位置し、地域の鎮守の目印となっていると。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次11月20日(火)に藤沢宿にある前回訪ねた『京方見付跡』近くの眞源寺から大磯宿まで旧東海道・約16.7kmを歩いて来ました。旅友と8:30に小田急線の藤沢本町駅で待ち合わせし、この日の弥次喜多道中のスタート。旧東海道への坂道から小田急線、そして旧東海道の伊勢山橋。伊勢山橋を渡った左手にある階段を上ると『風早山 眞源寺』へ。眞源寺 本堂。眞源寺の正式名称は、風早山高松院眞源寺、浄土宗・常光寺の末寺で、元禄十年(1697)に願誉秀故法師によって開山された。ご本尊阿弥陀如来立像を安置。文政三年(1806)二月八日、風の強い日に出火して全て焼失した。慶応元年(1865)にも火災に遭遇したと。そして茅ケ崎に向かって歩き、湘南高校入口の交差点を過ぎ、引地川手前で旧東海道は右側に分岐していた。たこ焼き「風天」の右側が短い旧東海道部分。引地川に突き当り左折すると県道43号線の右側にあるのが引地川に架かる引地橋。県道43号線は藤沢本町・白旗交差点から厚木市妻田東・妻田西 妻田向市場交差点まで20.4kmの主要地方道。藤沢バイパス開通に伴い、国道1号であったここ旧東海道部分(白旗交差点 - 羽鳥交差点間)が、神奈川県道43号藤沢厚木線に降格となったのであった。引地橋を渡った先の右側にあるのが『養命寺』。創建は天正年間(1573年 - 1592年)頃に暁堂が開山した。延文年間(1356年 - 1361年)頃の創建であるとする説もある。延享年間(1744年 - 1748年)に大拙が中興したと。『曹洞宗 引地山 養命寺』。境内左手の『永代供養墓』本堂。御本尊は木造薬師如来坐像 。建久8年(1197年)の銘があると。「藤沢七福神」の布袋様の寺でもある。『木造薬師如来坐像 』昭和2年(1927)4月25日指定/像高90.5cm、檜材寄木造、漆箔、玉眼/養命寺の本尊。男性的な面貌、堂々とした体躯、切れのよい衣文彫出など、鎌倉初期関東彫刻に深く根ざした運慶様を受容したきわめて貴重な像。玉眼の使用も東国では早期の作例の一つ。胎内に建久8年(1197)の墨書銘があり、造立ないし供養の年と考えられている。養命寺は16世紀の創建と伝え、14世紀の大庭に薬師堂のあったことが知られているので、元はその本尊であった可能性が高い。大正の関東大震災で罹災し、昭和3年に修復され、また平成28年度に再度修復が行われた。12年に一度、寅年の開帳で、次回は平成34年(2022)であると。境内の石塔。境内の石仏は寝かされて。お顔のない石仏も。養命寺の前の旧東海道の反対側にあるのが『おしゃれ地蔵』。お顔は白く口紅も赤くひかれお茶やお菓子?そしてお花と銀杏の葉が手向けられていた。このお地蔵さんは巣鴨のどげぬき地蔵に行かなくとも、すべての願を叶えてくれる身近な地蔵であると。『「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼する」と伝えられており、今でもお顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい』とある。 右手にメルシャン(株)藤沢工場。旧東海道の羽鳥地区を進む。前方右手に石鳥居が見えて来た。不動堂を挟んで左・東海道、右・大山道。鳥居は大山道の一の鳥居。この鳥居は、万治4年に木製の鳥居として建立され、その後幾度となく修復され、最近では昭和35年に復興整備され、その際、鳥居正面に天狗面が取り付けられたとのこと。右手に折れるこの場所が東海道と大山道との分岐点。大山詣りへ向かう人たちが辿る(たどる)"田村通大山道"。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。経路はここ東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川) - 横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山に至る道である。東海道を行き交うのは、何も京都を目指す旅人ばかりではなかったのです。旧東海道から見た石鳥居をズームで。鳥居には大山信仰のシンボルの一つであるカラス天狗の顔が。残念ながら鼻がなくなっているのです。不動明王を頭上にいただく道標は、1670年代後半に建てられたと。堂外にはさらに古い1661年に建てられた道標があったそうですが痛みが激しかったようで、最近、新しいものに建て替えられたのだと。尚、その道標は2012年に、何と遠く伊勢原市の大山新道沿いに修復・移設されたとのこと。迫力満点の不動明王。大山道の行きつく先、伊勢原の大山寺の本尊が不動明王なのである。不動明王の後背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれるもので、不動明王が火焔の中に身を置き、自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くすという凄まじい姿勢を示しているのだと。道標には「是よ里右大山みち」と刻まれていた。『四谷不動(大山道標)』解説文。『東海道七 五十三次之内 藤沢 四ツ谷の立場(蔦屋版)』当時の浮世絵に見る四ツ谷辻。「追分 大山みち」そして不動堂もちゃんと左端に描かれているのです。このあたりの地名「四ツ谷」は、家が4軒あったことから、かつては「四ツ家」とよばれ、それが「四ツ谷」に転じたとも。しかし、茶屋が立ち並び賑わっていたと言われているのに、家が4軒とは少々寂しい。広重の下の浮世絵を見ても、多くの店や家が描かれており繁華街の感があるが、家が4軒というのは、さらにもっと前の時代のことか?さらに進むと『日本橋まで(から)54km』。『一里塚跡』。遊行寺坂上から下る遊行寺坂の途中に12番目の一里塚跡があったがここは13番目の辻堂一里塚跡。しかしあるのはこの道標のみ。松並木が始る。辻堂・四ツ谷一里塚を過ぎると、『二ツ家稲荷神社』が右手に。『庚申塚』も。「藤沢市指定重要文化財寛文十年(1670)庚申供養塔庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。二ツ家稲荷神社境内の寛文十年庚申供養塔は、総高百五cm、蓮辧型で、造り出しの基礎部の上に別に台座を作り、その上部箇所に正面向きの三猿像を載せる手法をとっている。」と。昭和52年(1977)4月13日指定/舟型光背型、総高125㎝、火成岩(安山岩)製/寛文10年(1670)の紀年銘があり、基礎造り出し部分前面に「相州土戸村道行」(辻堂か)として石井権左衛門以下、造立した庚申講中8名の名が刻まれています。下方の基礎造り出し部分は浅く、別の台座を造り出して正面向きの三猿像をのせ、全体が下太りのため安定感が保たれています。塔身前面の枠作りは全形に応じた工夫と見られ、額部の突起がやさしい感じを与えています。『二ッ家稲荷』。「稲荷大明神」と書かれた扁額のある石鳥居の先に社殿が。『二ツ家稲荷神社歴表』。「当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願 ヒ奉候也明治三十九年氏子一同協議之上新築明治四十三年其ノ筋ニ依リ無格社ハ可拂ヒノ命令ニ依リ一時川澄忠右エ門氏ノ宅地内ニ五ヶ年程置ク大正四年二月川澄藤之助氏功志ヲ以テ神台四二六番地ニ新築セリ昭和十八年太平洋戦争ニ依リ当時ノ海軍省ノ命令ニ依リ稲荷社ノ敷地(参百坪余)ヲ買収サレ物資不足ノ折リ下内地城南一丁目三番地ニ新築ス昭和六十一年屋根ノ損傷ヒドク瓦ヲ葺替同時ニ外装ヲモ一新ス昭和六十二年氏子有志ニ依リ玉垣ヲ奉献ス 平成八年十一月吉日新築ス 二ツ家稲荷神社氏子中」と。『大山街道入口』交差点。ここから右斜めの道も大山道。右角の松の木の下に石碑が建っていた。碑の正面には『奉巡禮西国坂東秩父』、右側面には読みにくい崩し字で『あふり山わけ入る道にしおり置くつゆの言の葉しるべともなれ』と刻まれているのだと。かつてはこの歌の案内柱が傍に立っていたが今は何処に?。『県道 おすいマンホール蓋』松がデザインされていた。そして「大山街道入口信号」の先の松並木の中の藤沢市と茅ケ崎市と市境を通過。茅ケ崎市の市章は「チガサキ」の「チ」を図案化した円形で、市の融和と団結をあらわし、翼状平行線は市勢の飛躍、発展を象徴しているのだと。茅ケ崎にお住いの我が旅友のSさん、しっかり覚えて下さいね!!我が藤沢市も「フジ」を図案化した市章なのです。そして茅ケ崎市の『おすいマンホール蓋』。姥島(烏帽子岩)と日の出、カモメ、一艘の舟が描かれ、「ちがさき おすい」とひらがなで書かれた汚水のマンホールの蓋。『明治天皇御小休所阯』。道の両側に続く松並木の木陰が嬉しい街道を暫く進み、「赤松歩道橋」を過ぎた右側の民家と駐車場の前に明治天皇御小休所阯の丸い石柱が建っていたが説明文等は無かった。石柱には「明治元年十月十日 十二月九日」と刻まれていた。明治天皇が京都から東京への行幸のため利用されたのであろう。東小和田バス停の前が『日本橋まで(から)55Km』。 ・・・旧東海道を歩く(保土ヶ谷~藤沢)その7・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次遊行寺を後にし、いろは坂を下り惣門から西日の輝く遊行寺橋に向かう。小さな橋ですが、赤くて印象的。時間は16:09。『遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡』江戸から東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。高札場は屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。国道1号線の藤沢橋を振り返る。『東海道五十三次 藤澤宿』。藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであった。下の浮世絵は藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、賑わいが感じられるのだ。『桔梗屋』は国登録有形文化財。宿場的雰囲気がある店蔵(桔梗屋)は、明治44年の建築で国登録有形文化財になっている。本社は横浜に移転したという桔梗屋は、藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家で、この時間、店は閉まっていた?が、現在も藤沢支店として使用されているとのこと。『稲元屋本店跡 明治天皇行在所記念碑』「弘化2年(1844)、初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものであると、側面に平成14年6月、5代目当主と刻まれていた。裏山の竹林に「明治天皇行在所」の石碑があるとのこと。呉服屋稲元屋本店(寺田家)は藤沢宿で一番の大店(おおだな)であった。寺田家には現在二棟の土蔵が残っているが、かつては五棟の蔵があった。藤沢駅の開業は明治二十年(1887)、四年後の明治二十四年(1891)に御在所となった。隣はさんこうどう、創業百二十八年の老舗です。明治十四年築の大規模な店蔵と洋館は藤沢市が解体、保存されています。寺田家の竹林を抜けた場所には古典地誌「我棲里」などの多くの著作を残し、藤沢の発展に尽力された医師・小川泰堂の笑宿庵跡があったが、史跡を見つけることはできないと。藤沢宿で一番その当時の雰囲気を残している建物の1つは内田商店本店。旧東海道に面して重厚な造りの母屋の店舗が建ち、その裏手にはくの字に曲がった石蔵と母屋の店舗横にも土蔵があるようだ。 『東海道藤沢宿復元図』『問屋場跡』。宿場において人馬の継ぎ立てを行う場所を問屋場と呼び、藤沢宿では、大久保町と坂戸町に一ヵ所ずつありました。問屋場では 問屋(責任者)や年寄(補佐役)の指示のもとに、人馬と荷物の割り振りや賃銭の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚 (公用書状の逓送)などが行われました。また、近隣の村へ助郷役や街道掃除役の割り当ても行いました。この場所は坂戸町問屋 の敷地跡で、のちに藤沢警察署となり、現在は消防署出張所になっています。『藤沢御殿跡』は現藤沢公民館場所。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。藤沢御殿は藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596年)頃に築かれたと推定される。徳川家康は天正18年(1590年)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として御殿やお茶屋を設置した。記録としては『慶長記』に徳川家康が慶長5年(1600年)に鎌倉遊覧のため訪れた記述があるのが最初で、秀忠、家光と寛永11年(1634年)まで28回利用されていると。資料によると四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、深さ2間半、南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、内土塁の中は東西86間、南北36間の広さがあった。表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は東側にあった。表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいた。総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかであると。『蒔田本陣跡(まいたほんじんあと)』藤沢宿の本陣は江戸時代中期から蒔田源右衛門が勤めました。本陣は大名や公家などの専用宿泊で、江戸時代に来日した朝鮮通信使も利用しました。「相中留恩記略」に見る蒔田本陣 墨絵図。藤沢宿の本陣は大久保町名主・問屋を勤めた堀内家(元玉縄城北条氏家老の家柄)であったが、延享2年(1745)に火災のため本陣職を坂戸町の蒔田(まいた)家に譲った。蒔田本陣の規模は間口13間、奥行19間、建坪210坪、玄関・門構えのある建物で明治3年まで約120年間続いたとのこと。そして『常光寺』を訪ねる。旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺(浄土宗)がある。創立は元亀三年(1572)、墓所を包むようにひろがる約7900㎡の静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けている。境内の六地蔵。子育観音像。本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。本堂。『常光寺の樹林』。常光寺の境内の樹林は、藤沢市の天然記念物に指定されているようで、境内には大きな木がほかにもあります。幹周り4.1mのタブノキ、幹周り2.9mのイチョウそして本堂裏も樹林が。『かながわの名木100選 常光寺のカヤ』ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられています。『野口米次郎辞世碑』明治八年愛知県に生まれ、二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、 三七年日露戦争の報道のため帰国、兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に住した。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらに日本での最初の英文案内書『Kamakura』を出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、“ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。昭和 二二年疎開先の茨城県で没した。墓碑には野口米次郎の臨終の時の詩が刻まれています。「鐘が鳴る かねがなる これは即ち 警鐘と言うのですこれが鳴ると皆ねます さぁ みんな眠りましょう」と刻まれていた。この誌の意味は?余裕を失った我々現代人への警鐘?それとも・・・・・?一段上にも多くの無縫塔(むほうとう)墓碑が。 常光寺の歴代僧侶の墓塔であろうか?塔身が卵形という特徴があり、「卵塔」とも呼ばれる形。常光寺の西側に八王子社跡があり、そこに『弁慶塚』があるとのことで訪ねる。石段を上ると旧字で書かれた「辨慶塚」の看板があり、多くの木々が。奥にはさらに石段があり、もう1段高い場所に庚申塔などが並んでいた。この石段の上にも石段の石を飲み込むようにタブノキの古木が立っていた。八王子社跡。「庚申尊」碑と弁慶塚、庚申塔がずらりと並ぶ庚申塚。「白幡神社誌」によれば、奥州平泉から自害した源義経の首と一緒に武蔵坊弁慶の首も鎌倉の在の腰越に送られ、首実検がなされ、夜の間に2つの首は寒川神社に飛んで来たという。このことを鎌倉殿(頼朝)に伝えると、白幡神社としてこの神社に祀るようにと下知され、義経を御祭神として白幡神社となった。弁慶の首は八王子社として祀られたのだと。弁慶塚の堂の中に「弁慶塚」と刻まれた石碑が。そして旧東海道沿いの『済美館』。街道に戻って直ぐ先の「藤沢公民館分館」は、済美館として生まれ変わった建物である。この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和二十六年(1951)まで市役所が置かれ、本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。済美館は、昭和十七年(1942)一月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、藤沢市に寄贈されました。この「済美館」の名称は明治三年(1870)十月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏により、土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり命名されたものです。その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和六十二年(1987)まで主に市民の武道練成の場として利用されてきました。当館は、建築後五十年近くを経、この度、地域住民の熱望により、地域の活性化と、住民の交流を図るための機能を加え、新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、ここに完成をみました。これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、当館が生涯学習の拠点として、これを利用する人々の創意と工夫により、将来に向けて、今後ますます発展していくことを祈り、この碑を建てます。『妙善寺』入口。日蓮宗の寺院。山号は、長藤山。旧本山は、比企谷妙本寺。池上法縁。永正元年(1504年)に日純により創立した。前身とされる密教寺院が建立された延暦15年(796年)が創立で、弘安3年(1280年)日聞が日蓮宗に改宗したという説もある。 天明年間(1781年-1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年(1842年)に日扇が再建したと。そしてこの寺は我が実家の菩提寺。山門。本堂。『正宗稲荷大明神』鐘は鐘楼の完成を待っていた。本堂と周囲の墓地。そして東海道に戻り『伝源義経首洗井戸』を訪ねる。平泉で討れた義経の首は首実験後片瀬の浜に捨てられ、境川を逆り白旗に漂着したものを里人がこの井戸で洗い清めたと。井戸は公園右手の竹塀の前にあり、格子蓋が被せてある。中を覗くとやや深い円筒形で、涸れ井戸だった。井戸の手前右には説明板、左には『武蔵坊辨慶公之靈 九郎判官 源義経公之首塚 亀井坊 片岡坊 伊勢坊 駿河坊 各靈』と刻まれた石碑と、『源義経史蹟 藤沢市』と刻まれた石柱が建っていた。「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。格子蓋が被せてある井戸。『本町白旗商店街マップ』東海道藤沢宿の西部にあたる商店街。前身は本町のれん会という名称でしたが、源義経を祀る白旗神社にちなんで、本町白旗商店街と名前を変え昭和63年に発足したと。『藤沢宿絵図』。白旗神社は訪ねなかったが、以前に訪ねてブログアップ(☚リンク)している。そして夕日が沈みつつあるなか、伊勢山橋に着く。下は小田急江ノ島線の線路そして藤沢本町駅が。高校時代はこの駅を利用して登校していた懐かしい駅。橋の上から丘の上にある『眞源寺』が見えた』。そしてこの日の最後の訪問場所は『藤沢宿 京見付』。小田急江ノ島線に架かる伊勢山橋を過ぎると藤沢宿京方見附跡がある。台町と呼ばれており、バス停にその名を留めている。台町バス停は小田急藤沢本町駅の最寄のバス停である。尚、「藤沢地区郷土づくり推進会議」では、電柱の地中化に伴い設置されたトランスボソクスに、街の変遷してきた姿や浮世絵などをラッピングしているのであった。「トランスボックス」は通りの両側に数十メートルの間隔で設置されており、車道側・歩道側両面にラッピングしていた。以前この「トランスボックス」(☚リンク)を巡りブログアップしているのでここにリンクします。そしてこの日の反省会は旧東海道を白旗交差点まで戻り、白旗神社方面に左折し直ぐ左側の店・万作で旅友とモツ鍋を楽しむ。そしてサンマ焼きも。更にいろいろと・・・。 ・・・その6・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢) 完・・・ ・・・旧東海道を歩く(藤沢~大磯)につづく・・・
2019.01.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして藤沢バイパス出口と国道1号線に架かる東俣野歩道橋を渡る。下には藤沢バイパスが。藤沢バイパスがここから国道1号線。旧東海道はここから「神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線」と呼ばれているのである。起点はここ横浜市戸塚区影取町・東俣野町 藤沢バイパス出口交差点(国道1号・藤沢バイパス) 終点は茅ヶ崎市汐見台・緑が浜・浜須賀 浜須賀交差点(国道134号)の延べ7.5kmである。そして、この県道30号線の全区間が箱根駅伝のコースになっているのである(往路3区、復路8区)。俣野別邸庭園出口の一方通行の道。『俣野別邸庭園』と刻まれた石碑。旧住友家俣野別邸(以下俣野別邸)は、1939(昭和14)年に住友財閥の第16代住友吉左衛門友成の別邸として戸塚区東俣野町に建設された。国内の建築作品に与えられる大きな賞の一つ、BCS(Building Contractors Society)賞を受賞した日光プリンスホテル(栃木県日光市)や、長野県山ノ内町指定有形文化財である山荘、志賀アルペンローゼ(長野県下高井郡)の設計をした佐藤秀三の設計による「和洋折衷建築」が俣野別邸の大きな特長。梁(はり)や柱、筋交いを外に見せてモルタルや瓦で埋めるハーフティンバースタイルを基調とし、昭和前期のモダニズムの雰囲気を伝える洗練された建物だったという。当時の郊外邸宅の有り様を物語る歴史的価値の高さから、2004(平成16)年に国の重要文化財に指定されたと。昨年11月末には妻が孫を連れて訪ねたのであった。そして我が住む町・藤沢市に入る。「核兵器廃絶平和宣言都市」の看板が。旧東海道を離れ『旧モーガン邸』を訪ねる。旧モーガン邸は、1931年、藤沢市に建てられた建築家J.H.モーガンの旧邸。スパニッシュスタイルの要素を取り入れた外観に和洋折衷の室内を持つこの家は、モーガンの自邸としてだけなく、湘南地域に分布する昭和初期の邸宅として住宅史的にも文化史的にも価値のある建物であった。 モーガン亡き後何人かの手に渡り、債権処理の対象になっていたところ、1999年に地元の建築家と緑を守る取り組みをしてきた有志で「特定非営利活動法人旧モーガン邸を守る会」を結成し、旧モーガン邸の保存活動を開始した。そして2005年、藤沢市と公益財団法人日本ナショナルトラスト(JNT)が土地および建物を取得した。ところが2007年、2008年と二度の火災に遭い、かなりの被害を受けてしまった。現状としては、主屋部分は玄関や暖炉、床、地下室などが残っている状況であると。旧モーガン邸はこちらと。しかしこの日は休館日?であった。東海道に戻り遊行寺坂を下る。この辺りからは地元でもあり何度も訪ねた場所。坂の途中に神奈川県が設置した「遊行寺坂」の標識が。遊行寺の前にある東海道の坂を「遊行寺坂」といい、馬の背のような急坂でした。この坂を上るときには、乗り物に乗っている人には降りて歩いてもらったり、「立ちんぼう」と呼ばれる駄賃かせぎの人たちに荷車などを押してもらいました。いまの「遊行寺坂」は、二度掘り下げているのでゆるやかになっていますが、道の両側が崖になっており、その上に家が建っているので、かつての道の高さがしのばれます。(「藤沢の地名」より) 遊行寺は、“藤沢道場”ともいったので「遊行寺坂」を「道場坂」とも呼んでいると。旧東海道の遊行寺坂上から下る遊行寺坂の途中に一里塚跡があったのだと。この一里塚跡も手前の原宿一里塚跡と同様に具体的なものは何も残ってはいない。12番目の一里塚であったことから、日本橋から12里(48Km)の場所であることを示しているに過ぎない。遊行寺や諏訪神社が近いことから、東海道を行き来する旅人もここ遊行寺坂一里塚の松の下で休憩することはあまりなかったのでは。なお、遊行寺坂の途中、諏訪神社と遊行寺の間に江戸見附跡の標柱が立てられており、ここ遊行寺坂一里塚跡は藤沢宿の出入口を示す一里塚であったのだろう。『一里塚跡 (いちりづかあと)』「かつて、このあたりの道路の両側に一里塚があった。一里塚は、主要な街道の一里(約四キロメートル)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目安として利用されていた。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にあったが、今は何も残っていない。左図は往時の面影を伝える史料の一つ。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺(ゆぎょうじ)が描かれている。その右手に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写がある。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように盛土されて榎(えのき)が植えられていた様子がうかがえる。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんで来るようです。」そして、この先直ぐが私が毎年箱根駅伝の復路の応援をして来た場所なのであった。そして遊行寺坂を下っていくと左手にあるのが『諏訪神社』。建武2年(1335年)、清浄光寺(遊行寺)を開いた遊行上人第四代呑海が同寺院の鎮守として、信州の諏訪から勧請したことにより創建された。慶安年間(1648年 - 1651年)には鳥居の前での落馬事故が相次いだことにより風早之谷(諏訪ヶ谷戸、藤沢本町駅付近)へ転座され、さらに元禄12年(1699年)に現在地へ移転した。以来、藤沢宿東方面の大鋸町や大久保町などにおける総鎮守となっている。明治維新後の神仏分離によって清浄光寺から独立したが、現在でも祭事などでの関わりは続いている。諏訪神社の階段を上る。石鳥居。この地域における旧家である森家は棟梁として職人衆「藤沢大鋸引(ふじさわおがびき)」を構えていたが、清浄光寺の門前が彼らの居住地となっていた。大鋸の地名はこれに由来していると。『手水舎』。『拝殿』。祭神は・建御名方富命(たけみなかたとみのみこと・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。多くの境内社が拝殿の向かって左側に。『太子堂』。『道祖神』。『大黒天社』(藤沢七福神に指定されている)『祖霊神』実物は傾いていませんので。『社務所』。そして諏訪神社の前にあるのが『時宗総本山遊行寺』の脇門。東海道を直進すると藤沢橋に向かうが、藤沢橋は江戸時代にはなく、江戸時代の東海道は手前を右折して。やや上流に架かる遊行寺橋を渡ってから右折し、茅ヶ崎・平塚宿方面に向かっていたのである。なお左折して行くと大鋸町のうち舟久保、江ノ島へ抜ける江の島道であった。遊行寺へは藤沢橋の上流に架かる朱塗りの遊行寺橋を渡って黒門から入るのが参道だ。旧東海道はこの突き当りから右手が遊行寺の参道であり左手に向かうと境側に架かる『遊行寺橋』がある。角にあるのが『ふじさわ宿 交流館』。旧東海道藤沢宿の歴史、文化に親しむ機会を提供するとともに、地域住民や来訪客の交流の場として、2016年4月29日に開館。館内には『東海道五十三次の藤沢宿の様子』がジオラマで展示中。真ん中にあるのが『遊行寺橋』で奥が『遊行寺』。別の角度から。下が旧東海道で右折して突き当り左折すると『遊行寺橋』藤沢宿の古地図。藤沢宿の街並みと家屋の名前が詳細に記載されていた。昔の郵便屋さん「飛脚」はこんな様子だったと。『藤沢広小路』。広小路(ひろこうじ)とは、江戸時代以降に火災の広がりを食い止めるために設置が推進された火除地のこと。最も有名な広小路としては「上野広小路」が思い浮かぶが、この上野広小路、そして名古屋の広小路と並ぶ三大広小路の一つと言われた広小路が、時宗総本山遊行寺の前に置かれていたという。「右折→左折→右折」の部分、これが「藤沢広小路」。右折→左折→右折」、つまりクランクの形状をした広小路は当時珍しく、三曲がりとして有名だったと。壁には、東海道五十三次の浮世絵が展示されていた。この『旧東海道を歩く』で全ての宿を制覇出来るのであろうか?初代歌川広重「東海道五十三次之内 藤沢(保栄堂版)」江の島一ノ鳥居付近。背景の小山が遊行寺。初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」初代歌川広重「東海道五十三次 藤沢(隷書東海道)」夜の藤沢宿、遊行寺橋界隈のにぎわい。初代歌川広重「東海道五十三次之内 藤沢(蔦屋版)」東海道が大山道に分岐する四ツ谷(立場)のにぎわい。初代歌川広重「五十三次名所図会 藤沢 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)」南湖(茅ヶ崎市)は藤沢宿と平塚宿の間の立場で、左富士の名所の一つ。遊行寺『惣門』。遊行寺境内配置図。惣門前の車庫のシャッターに描かれていた初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」。 「うちかすむ 色のゆかりの ふち沢や 雲居をさして 登る春かな」。青銅製灯篭(右)。青銅製灯篭(左)。惣門には『時宗総本山 清浄光寺(しょうじょうこうじ)』と。惣門の冠木門で、日本三大黒門のひとつと。そしてその先にあるのが48段あることから『いろは坂』。『板割浅太郎の墓』。板割浅太郎は、国定忠治の子分。赤城の子守唄でよく知られている人物。赤城山で親分の忠治と別れた浅太郎は、長野県佐久の金台寺で仏門に入ったのちに遊行寺に入り、自分が殺した叔父親子の菩提を弔ったという。その心が認められ、遊行寺にあった貞松院の住職となり、遊行寺が炎上したときは、勧進僧となって全国を巡って、遊行寺復興に尽力したといわれている。時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)の惣門に向かって、藤嶺学園藤沢中学校・高等学校の生徒たちは下校。登下校時には本堂に向かって一礼することが習慣となっているようであった。『眞徳寺』の赤門。時宗『眞浄院』入口門。大銀杏(市指定天然記念物)。樹齢700年(一説に500年)といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されている。昭和57年8月2日の台風により、約3分の1が折れてしまったが、現在は見事に復活。大銀杏の見事な乳根(にゅうこん)。『朱雀門』(右)と『黒門』(左)。内部には寺務所、信徒会館等が。そして『本堂』。遊行寺は1325年(正中2年)に創建された時宗の総本山。開山は遊行第四代上の呑海。開基は呑海の兄・俣野五郎景平。正式名称は、「藤澤山無量光院清浄光寺」。「遊行上人のおわす寺」ということから「遊行寺」の名で親しまれてきた。本堂は、関東大震災で崩壊した後、1937年(昭和12年)に落成した東海道随一といわれる木造建築物。遊行寺は昨年の正月にも訪ね詳しくブログアップしていますのでアクセス願います。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に「大坂」を上り終えた先が現東海道の国道1号線の合流点。『大坂松並木』「大坂」では天気の良い日に松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となった。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂に。現在の「大坂」になるまでは数回の改修がおこなわれたと。江戸時代の3代将軍徳川家光のとき、日照りが続いたので歩行者のために街道筋に松を植えさせたと。その当時の名残が道路の中央部に今も残っているのだと。「旧東海道 大坂松並木」の標柱にあった案内の浮世絵。江戸時代のこの辺りは松の間に富士山が見える松並木だったと。坂の下には戸塚宿と思われる家並みが見える。大坂の上から江戸に向かいながら戸塚宿を見下ろしている様子を描いたものと。よって、この浮世絵に富士山の姿はなし。『東海道 六 五十三次 戸塚』本図は、戸塚の宿を過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。そしてこの絵の左側には急な『大坂松並木』を上る旅人の姿、そして右側には丹沢山塊とその奥に白き富士山の雄姿が。『汲沢(ぐみざわ)町第二歩道橋』の文字が。昔は松並木であったが現在は広葉樹の並木が続いていた。この辺りは戸塚山と呼ばれた丘の上。下に戸塚の街並みが見えた。この辺が前述の浮世絵に描かれた場所か。道路脇に区画された石碑が。『東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の有名な場面「戸塚山中道行の場」はここ・・・。勘平のモデルは浅野内匠頭の刃傷事件を赤穂に伝えた使者の一人菅野三平。しかし、お軽と勘平は実在の人物ではないのだと。『お軽勘平の碑建設実行委員会』と刻まれた石碑横には「落人を見るかや野辺に若草の‥」の碑があり、この「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」を解説したもののようだ。「落人」はWikipediaには「合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、およびその末裔を指す言葉」しか記載がない。しかし、goo国語辞書には「歌舞伎舞踊「道行旅路の花聟(はなむこ)」(↼リンク)の通称」との記載もある。「落人」解説碑からはこの「お軽勘平(↼リンク)戸塚山中道行の場の碑」を知ることは直ぐに諦めたが、帰ってからWebで調べると、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名な「戸塚山中道行の場」の場面の舞台なのだという。『日本橋から46Km』と。湘南江の島を描いた大型トラックが我々横を通過。『原宿一里塚跡』。原宿一里塚は11番目の一里塚であるが、国道1号線では日本橋から46Km余りの地点になる。手前の10番目の一里塚跡は戸塚宿元町にあり、次の12番目の一里塚跡は遊行寺坂にある。『浅間神社入口』の標柱。浅間神社は永禄年間(1558年〜1570年)に創建されたといわれている。その頃、富士信仰が盛んであり、それで村内の安全を祈願して勧請されたとされる。東海道に沿って小道と参道が続いているが、参道の両側には常緑高木でブナ科のスダジイの大木が連なる。驚くほど太い木もあり、樹齢600年を越えていると言われているのが納得できる。原宿一里塚はちょうど浅間神社の横の東海道にある。旅人は一里塚ではなく、ここの神社に立ち寄って庚申塔を拝み、休んだのかも知れない。『庚申塔』。境内には巨木が。『スダジイ』であると。普通、シイ(椎)という場合にはこの『スダジイ』であると。公園樹、街路樹、庭木などとして植栽される。果実はアク抜き不要で食用となるのだと。木材は木炭やシイタケ栽培のホダ木になる。また、タンニンに富む樹皮を黄八丈の黒色部の染料に用いられていると。拝殿。朱色の鳥居と石祠。階段横には老木が続く。『大運寺』相模風土記によれば、1596年の創建。 山号は唐澤山、芝増上寺の末寺で浄土宗の寺。六地蔵。将棋を指す僧侶の姿か?宗祖の法然像。『月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ』と法然上人の歌。「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」と。月の光は阿弥陀仏の救いのことで、それが届かない里はない。すべての里に届く。したがって、阿弥陀様の救いは万人を対象としている。ただし、目で見て認識しない限り月はないも同然である。見ることによってこそ月は存在するのである。見れば必ず見る人の心にまで届くものです。見さえすればよいのです。すなわち、念仏さえすればよいのです」と。『手水舎』。『本堂』。ご本尊は木造阿弥陀如来立像で、両脇侍には、木造勢至菩薩立像と木造観音菩薩坐像。阿弥陀如来立像は、作風、構造から南北朝時代の作とされ、宋元風の影響が認められる。像高は146.0センチ、光背高が196.0センチ、台座高が63.0センチ。寄木造、玉眼、肉身部は漆箔、着衣部の彩色は剥落している。上品下生の来迎印を結ぶと。『法然上人御幼名 せいし丸さま』『二宮金次郎之像』。更に原宿方面に歩を進める。日本橋まで(から)48Km。藤沢市との境界にある影取町を通過。『道祖神』。台座には「仲町」と刻まれていた。日本橋まで(から)49Km。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次今日から『旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)』のブログアップを再開します。★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★戸塚宿の散策を続ける。真宗本願寺派『 善了寺』を旧東海道から。『産婦人科 内科 伊東医院』この建物は、2003年横浜市より「横浜市認定歴史的建造物」に指定されている。創業は江戸時代末期。創業時は漢方医で吉田大橋際で開業、婦人の血の道の治療で名が通っていました。明治17年祖父の代に現在地に移り関東大震災後の大正14年に現在の建物になったと。現在の副院長・伊東均先生で五代目の医療継承となっていると。JR戸塚駅近くのビルの壁にはユニークな絵が。旧東海道に面した大パネルはスポーツと浮世絵のコラージュ。これは、広重の東海道五十三次 袋井宿。ここ袋井宿は江戸からも京からも27番目にあたる、東海道の中間の宿場。街道のところどころにある休憩所の様子が描かれている。掛川宿。画面左側から来る僧侶(絵には入っていない)に敬意を払い、頭を下げて挨拶をしている人々の様子。この辺りは凧あげが盛んで、空には凧があがっている。箱根宿。東海道五十三次の中で、最も標高が高いところに置かれた宿場。その様子が絵にも表れている。険しい山々は東海道で一、二を争う難所。『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図の藤沢宿側』が左側に。そして右側には『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図の保土ヶ谷宿側』のそれぞれの説明ボードが。『思い出の戸塚大踏切』踏切はJR東海道線、横須賀線など1日計約800本の列車が通過。ピークの午前7時台には1時間のうち遮断機が下りているのは57分間に及んでいたと。地元住民は50年ほど前から改善を求めて来ていたのだと。左上から右に。★昭和14年「大踏切が開くのを待つ箱根駅伝走者」★昭和26年「西口から見た大踏切」★昭和28年「大踏切周辺」★昭和30年代「戸塚駅東口」★昭和36年「大踏切東側」★昭和45年「戸塚駅東口」★平成15年「東口から見た大踏切」★平成27年「大踏切閉鎖の瞬間」:戸塚アンダーパス完成、戸塚大踏切閉鎖平成26年1月竣工した戸塚駅東口歩道橋を渡る。“開かずの踏切”として知られるJR戸塚駅(横浜市戸塚区)北側の踏切に2014年に完成した歩道橋「戸塚大踏切デッキ」。デッキは、幅約8メートル、長さ約80メートルで、同踏切の真上に整備された。東口歩道橋より戸塚駅ホームを見る。そして戸塚駅の西口に出る。『内田本陣跡』本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設。この辺りに、戸塚宿 に2つあった本陣のうちの1つ内田本陣があった。内田本陣は間口18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で、 畳数は152畳あったと。本陣を営んだのは郷の有力者であり、近隣の牛頭天王社(八坂神社)を勧請した内田家。明治の郵便事業創設の際、全国の有力者の家を郵便局にしたが、戸塚郵便局はかつて内田家の郵便局に始まるとされその権勢を知ることが出来るのだと。『脇本陣跡』脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用された。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に 供することができた。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもある。 戸塚宿には3軒の脇本陣があったのだと。『戸塚宿 澤邊本陣跡』。澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ。本陣創設時の当主、「澤邊宗三」は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者であると。『明治天皇戸塚行在所址』の碑も立っていた。『羽黒神社』羽黒神社の石鳥居には「大正三年」銘があり、関東大震災(大正12年(1923年))の10年前に建てられている。関東大震災で倒壊しなかった石鳥居であると。『羽黒神社社殿』戸塚に鎮座する羽黒神社は八坂神社とともに戸塚宿の鎮守。澤邊河内守信友が、 弘治2年(1556年)に澤邊家の故郷である出羽国の羽黒大権現を勧請し祀ったのが始まりと。その後、澤邊家は戸塚本陣となっており、戸塚宿澤邊本陣跡奥に鎮座している。羽黒神社は6本の銀杏の木に囲まれた神社であり、稲荷社があり、2基の庚申塔が建てられていた。戸塚消防署交差点の先右手にあったのが『海蔵院』。鎌倉円覚寺の末寺で、南北朝期の創建。現本堂は昭和61年に再建され、本尊釈迦牟尼如来を中心に、十一面観音像、正観音像、開山方外宏遠像、もちあがり地蔵を安置。他に山門(木造)鐘楼堂(昭和37年に再鋳)がある。旧東海道(旧国道1号線)沿で、戸塚消防所脇の坂を上がった左手の少し高台にあった。道路から上がってくると、自然で緑も残り、落ち着いた雰囲気のする場所にあるお寺。山門の横に遍照金剛と刻まれた木食観正碑(文政4年、1821年)がある。山門の上部には左甚五郎作と言い伝えられている竜の彫刻がある。墓地には、俳人志行の墓(寛政5年、1793年)、旅の途中戸塚宿で没した藩士の墓などがある。臨済宗圓覚寺派。その先右手には『八坂神社』。戸塚八坂神社は、戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年(1572)創建。その後元禄3年(1688)に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めたと。『お札まき』解説板。お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。この踊りあ、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる御符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です と。明治元年の明治天皇還幸にあたっては、当社境内に内侍所が奉安されたと。『八坂神社の由来』元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものであるがいつしか社殿敗壊と真躰の神器は草もうの中に散在し止むなく地中深く埋め祭祀を歟くこと弐百年に及んだ。内田氏の末葉内田佐衛門尉源政利これを憂い元禄元年矢部村庄司河原氏の霊夢により土壊を起し神躰を得てその一再興をはかり祭祀を行った。明治初年、八坂社を改め更に昭和七年九月十九日八坂神社と改称した。祭典は七月七日拾四日まで行事は七月十四日無病息災を祈願して行われる。お札まきは町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち、原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く。拝殿。神楽殿か?道路わきの食堂で昼食。時間は12:40。カツカレーを楽しむ。『冨塚八幡宮』。石鳥居を潜る。源頼義・義家父子が前九年の役平定のため奥州下向の折りにこの地に露営した際、夢の中で応神天皇(誉田別命)及び富属彦命の神託を授かり、その加護によって戦功を収めたため、延久4年(1072年)富塚山中腹に社殿を造り、両祭神を勧請したもの。明治6年(1873年)に郷社に列した。境内裏山(富塚八幡緑地)に富属彦命の墓と伝えられる古墳があり、これを「富塚」(富塚古墳も参照)と呼んだことが「戸塚」の由来とされている。また、全国の戸塚姓・富塚姓の祖先とされる戸塚(富塚)一族が平安時代にこの地に住んでいたことから、当社を全国の戸塚姓・富塚姓の祖霊神としている。氏子地域は戸塚区・泉区・栄区・瀬谷区の4区(昭和44年(1969年)までの戸塚区域)。拝殿への長い階段には神主の姿が。神輿庫には宮神輿が納められていた。この宮神輿は1843年に造られたもの。『拝殿』。現在の本殿は1843年、拝殿は1934年に造営されたと。『稲荷大明神』。『上方見付跡』江戸方見附から、約2.2km距離にある戸塚宿京方の出入り口。現在は道の両側に1.5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。五十三次 戸塚の浮世絵は色あせて。『大六天神社』。戸塚宿の上方見付を過ぎたところに第六天神社があった。第六天神社とは元々は第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが明治になって神仏分離の際に、多くの第六天神社ではその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)の夫婦神に祭神が変更されたと。『扁額』。上方見付を出た大坂下には庚申塚があり、多くの庚申塔が並んでいた。日光東照宮でおなじみの見猿聞か猿言わ猿の「三猿」が彫られています。かつて、この辺りには、坂を上れず立ち往生した車の後押しする仕事があったとか。大坂台交差点。『おおさか(大坂)』石碑。坂の途中にあった横浜市が設置した石の標識。「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」という江戸川柳にも引き合いに出されたほど東海道でもよく知られた場所である。昔は一番坂、二番坂の二つの急な坂が並んだ道であったが、昭和の初めに改修され、なだらかな一つの坂になったと。 ・・・その3 ・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の面影を色濃く残す一里塚が『品濃一里塚』。境木地蔵から焼餅坂を降りた界隈になる。東海道には江戸初期、日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに、道の両側に土を高く盛った標識「塚」が築かれた。江戸から9番目の品濃一里塚は、保存状態が良く県の史跡に指定されている。保土谷宿と戸塚宿の間に位置。旧東海道を挟んで東西に2つの塚が残っていた。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内にあり、地元では一里山と呼ばれていたとか。品濃一里塚の案内板の向かい側(旧東海道から平戸側)の様子。保存状態が極めてよい。戸塚宿近辺の一里塚には、江戸から数えて9番目の品濃、10番目の吉田、11番目の原宿と三つあったが神奈川県ではほぼ完全な状態で残る唯一の遺跡で、かなり貴重なものであるらしい。現在でも道の両側に塚があるのは品濃だけ。昭和40年7月19日に県指定の史跡として認定されたと。『品濃一里塚』案内板。道を挟んで反対側にも歴史を感じさせる案内板が。江戸日本橋から9番目、旧東海道の付属施設としてかつては人々の往来が盛んだったのであろう。ここは4㎞×9番目=出発点から約36kmということになる。『福壽観音』。『福壽観音縁起』と『東戸塚駅沿革概略記』JR東戸塚駅から環状2号線に架かる福寿歩道橋の旧東海道がある横浜市戸塚区品濃町外れの山側に福壽観音堂が建っていた。建立した願主は福原政二郎氏。福原政二郎氏は東戸塚の新駅誘致を行い土地造成を担当した新一開発の社長である。昭和38年(1963年)以来、その開発の旗振りをやってきた人であり、信心深く、観音信仰に篤かったので福壽観音堂を建立したのだと。観音堂参道に建つ「福壽観音縁起」には建立年の正確な記載はないが、Webに因ると昭和57年(1982年)10月に建立されたと。『福壽観音堂』とその手前に石灯籠が両脇に。『地蔵堂』と『子育地蔵』。『品濃坂上』。品濃坂は、朝早く江戸を発ち日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には宿場町までもう一歩の所。一方、江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な登り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息。海も見えてきて、江戸へ想いを馳せていたかもしれない。写真は明治初期の品濃坂であると。大山方面の山々が見えた。残念ながら富士山の白き山頂が僅かに。品濃坂に続く旧東海道は現在は途中でバイパスが横切るように通っており、その上の歩道橋を渡って行かなければならなかった。階段国道というのもあるが、品濃坂は「階段旧東海道」というところ。歩道橋からの東戸塚駅前の町並み。下の道路は横浜市の環状2号線で、右へ行くと新横浜駅前を通過して末吉橋へ、左へ進むと磯子駅前で海に。陸橋を渡ると、やや緩やかになった『品濃坂』。品濃坂を下り「川上川」に沿って進むと、東戸塚駅入口交差点の『海道橋』の架かる地点で国道1号線と交差するが、ここでは国道1号線を横切りすぐにまた旧道へと入る。程なくして、右手の川上川が曲がり旧道から離れて行くと同時に、今度は左手から「平戸永谷川」が現れ旧道と並行する。しばし歩くと国道1号線に一瞬合流するも、橋上でY字に分岐するユニークな形態の『赤関橋』で国道1号と分かれ、旧道の続く裏道を再び進んでゆく。橋上でY字に分岐するユニークな形態の『赤関橋』。左手が旧東海道、神奈中バスの見える右手が現国道1号線。平戸永谷川に架かる赤関橋を渡り左手の旧東海道へ進む。大山前不動方面に進む。この後に旧東海道を離れて『王子神社』を訪ねる。横浜市戸塚区柏尾町に鎮座する王子神社は後醍醐天皇の第一皇子護良親王(もりながしんのう)を祭神としている。王子神社境内参道。手水舎は檜皮葺きの屋根。王子神社拝殿。王子神社祭礼は9月13日に行われるのだと。侍者が、護良親王の御首を奉じて当地四抗の勤皇の郷土斉藤氏を頼り、密かに現本殿の位置に埋葬したと伝える。四抗とは、御首を洗う為の四本杭の簀の子の意、或いは鎌倉街道上で鎌倉から山を四つ越えた(よつごえ)の転訛ともいう。また、首を一時隠し奉った所を「御墓」といい、老松があった。他に、近くに親王の御首を洗い清めた井戸とされる「首洗(くびあらい)井戸」があると。「御墓」という老松か?境内には巨石も。そして再び旧東海道に戻ると右手に『大山道入口』が。『柏尾の大山道入口』。大山詣での起点となる大山道。大山道の大部分は県道401号 瀬谷柏尾線となっていて神奈川県の幹線道路。『益田家のモチノキ』。「モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常三〜八メートルに達し、四月頃に黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟する。この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから人々によく親しまれている木である。指定された「益田家のモチノキ」は国道一号の旧東海道に面し、樹高18メートル、目通り2.4メートル、根回り3.1メートルの雌株と、これより0.75メートルほど離れて並ぶ、樹高19メートル、目通り3.2メートル、根回り4.9メートルの雌株の二本である。これほどまで生長した大木は他にはほとんど類を見ないばかりか、共に美しい樹冠で接しているのも珍しい。「相模モチ」の愛称で郷土の人たちから愛され、なじまれてきたこのモチノキ二本は、稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、旧東海道に面してきたという歴史的背景もあるので、将来にわたり永く保護することが望ましく、神奈川県指定天然記念物に指定するものである。」樹勢の回復と倒木回避の為に樹齢約250年を誇る県指定天然記念物『益田家のモチノキ』は近くのこの場所に移植されたと。全身包帯だらけの満身創痍、早期全快を祈るのみ。不動坂交差点の手前で再び旧東海道は分岐。そのままスルーしてしまいそうになったが、旧東海道は左方向、黒い車が進入している小道。旧東海道は静かな住宅街を通っていると、「史跡への小径」なる碑を発見。史跡への小径の碑の裏側には「歴史は古く、永く、そして悠久に継承される」と。旧東海道を進むとレンガ造りの倉庫らしき建物が前方に。ここは日本人によるハム作りの発祥の地とされ、この建物はハムの製造及び冷蔵に使われていたものだと。今でも鎌倉ハムの貯蔵庫として使用されているのだと。舞岡川にかかる『元舞橋』。舞岡川にかかる『五太夫橋』。小田原北条氏の家臣であった石巻五太夫が、小田原落城ののち、江戸に帰る徳川家康をこのあたりで出迎えたことから、この橋の名前になったと。『五太夫橋』を渡る。下を流れる舞岡川。左手に『寶蔵院』。横浜市戸塚区吉田町にある宝蔵院は真言宗大覚寺派のお寺で東峰山宝蔵院という。通称「連ぎょう寺」、「戸塚不動尊」とも呼ばれている。本尊は不動明王である。『招福観音』。宝蔵院本堂。本堂は昭和50年(1975年)に落慶。本堂に掛かる「東峰山」の扁額も確認できた。何故か境内に『TUKTUK』が。そして『戸塚宿 江戸方見付跡』。江戸から見て戸塚宿の入口であることを示す標識「見付」があった場所。ここから先、約3.5キロメートルの町並みが東海道の宿場町として整備されていた。戸塚宿の江戸側の入口を江戸方見付といい、京都側の入り口を上方見付と言ったのだ。更に戸塚宿を進む。戸塚宿は東海道五十三次の宿場町。日本橋から品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷と数えて5番目の宿場。朝、江戸・日本橋を発ってほぼ十里半(約42km)。昔の旅人にとって戸塚宿は1泊目の宿泊地となり、賑っわたのだと。戸塚宿の成立は、1604年(慶長9年)で、隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿成立の3年後であったが、鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿としても栄えたと。横浜旧東海道のマンホール。マンホールのモチーフとなっているのは、『東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道』。天保4年(1833)頃、初代歌川広重が描いた浮世絵。箱根駅伝では1区(大手町〜鶴見中継所/21.3km)、2区(鶴見中継所〜戸塚中継所/23.1km)で大手町から戸塚中継所は、44.4km。トップチームは大手町から戸塚まで2時間10分前後で駆け抜けているから、時速に換算すると20km/hという俊足ぶりがわかる。しかも2区は平地区間では最長距離ということもあって「花の2区」と呼ばれるエース区間。道路脇に小さな祠が。『金剛流 寶蔵院 御詠歌講』の文字が。御詠歌とは、いわゆる和歌や韻文に日本古来の音楽の節を付けてお唱えする曲のこと。『吉田一里塚跡』。吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったと。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約40㎞。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所。「旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。」吉田大橋手前にあった『木之間稲荷社』そして柏尾川に架かる吉田大橋が前方に。柏尾川にはアオサギがのんびりと。柏尾川。柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11kmの河川。橋の欄干にはめ込まれた浮世絵『歌川広重 東海道五拾三次 戸塚 元町別道』。早朝に日本橋をたった健脚が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれています。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で有名な店でした。軒下には伊勢参りをする一団(講)の名前を記した木札が掛けられています。図の中央に描かれている灯篭脇の石柱には「左りかまくら道」と彫られ、鎌倉へ行く分かれ道を示しています。それぞれの場面をズームで。『東海道 六 五十三次 戸塚』『戸塚宿』👈リンクを過ぎて汲沢村の辺りの山道を描くが、宿外れの坊示杭が右手に見え、手前に松の大木がある。遠景の富士山に連なる丹沢山塊が、画面に奥行きを見せる。広重の代表的な東海道シリーズの一つ。揃物名が隷書体で書かれているので、俗に「隷書東海道」という。「保永堂版」東海道に次いでよく知られた揃物。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線の『岩崎ガード』。『ガード』とあるが『Iwasaki Overpass』と表示されており要は歩道橋。この先旧東海道は右手に折れていくので、『岩崎ガード』を渡りながら横浜方面を見る。旧東海道の分れ道を右側の旧東海道に進む。『東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業』。「保土ヶ谷宿の松並木 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模取り組まれるようになったのは江戸時代にはいってからです。慶長9年(1604年)幕府は諸国の街を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されました。 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。 保土ヶ谷宿の一里塚 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。 保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。 」と。日蓮宗 『樹源寺』を訪ねる。かって境内に大ケヤキがあったことから「樹を源とするお寺」として命名されたと。薬師如来が安置されている講堂。鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期(1628年)に苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山した。庭園が美しい。池には見事な鯉が。本堂。寛永年間( 1624-44 )になり、保土ヶ谷宿本陣刈部吉重の室(奥方)が日蓮聖人の御教に深く帰依され妙秀尼(みょうしゅうに)と号し、焼け残った薬師堂の大欅(おおけやき)の傍らに庵を結ばれ、師の善通院日了上人を招いて日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺として開山。『旧元町橋跡』保土ヶ谷区郷土史(昭和一三年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はここで街道を横切っていました。橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれている。またかっての字名は、ここから東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向」となっていました。保土ヶ谷宿の道路標識。堅牢地神塔(右)青面金剛庚申塔(左)横浜市保土ケ谷区権太坂1-2-4の道祖神。『権太坂』へ。ここを右折して権太坂へ。権太坂は、横浜市保土ケ谷区にある旧東海道の坂。権太坂を上る途中左に小さな稲荷神社があり境内に旧東海道権太坂道路改修碑が。旧東海道権太坂「改修記念碑」 急な権太坂。横浜横須賀道路の上に架かる権太坂陸橋。横浜横須賀道路。保土ヶ谷バイパスを権太坂陸橋で渡ると神奈川県立光陵高等学校の場所に『権太坂』石碑が。この辺りまでが一番坂、境木までが二番坂と呼ばれたと。この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい上り坂であった。日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿までは、ほぼ江戸内湾沿いの平坦地であったが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。1828(文政11)年に成立した地誌「新編武藏風土記稿」には、もともとは「一番坂」・「二番坂」と呼ばれていた坂であったが、ある旅人が「一番坂」を上りきったところで、「急勾配で長い坂道ですね。この坂は何という名前なのですか」と、そばにいた農夫に尋ねたところ、その者の耳が遠く、自分の名前を尋ねられたものと勘違いして「(私の名前は)権太です」と答えたがために、「権太坂」と伝えられるようになったようだ・・・と。『東海道名所之内 権太坂』。「権太坂は正月恒例の箱根駅伝の通過地点として知られていますが、『新編武蔵風土記』には「其地形十丈あまりも高く屈曲して長き坂なり、街道往還の人夫、此所を難所とす」とあるように急峻な坂になっていました。江戸を立って初めての難所といわれ、近くには行き倒れの人を葬った投げ込み塚がありました。江戸方面からは長い上り坂になり、上りきった所に名物牡丹餅の茶店がありました。この絵は「上洛東海道」とも呼ばれる文久3年(1863)の14代将軍家茂上洛の図ですが、侍たちがヤレヤレといった表情で茶店の女たちに牡丹餅やお茶を振舞われている様子が描かれています。保土ヶ谷宿は、この坂以外にも焼餅坂、品野坂、不動坂といった坂があり、『東海道宿村大概帳』にも「此宿内山坂多し」と記されています」と。右手に神奈川県立光陵高等学校正門。更に権太坂(二番坂)は続く。横浜ランドマークタワーが左手遠くに。『歴史の道 権太坂』再び、権太坂の名前の由来に2つの説があるとの表示板が。その1ー「老人の返事」説旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前をたずねたところ、自分の名前を聞かれたと思いこみ「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったと。その2-「本当は権左坂」説昔、権左衛門という人が代官の指示によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったと。『富嶽三十六景東海道保土ヶ谷』。権太坂は、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開設により旧道は、通行量も減って道幅も狭くなった。権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していた。坂の上から見る神奈川の海は美しく、浮世絵などにも描かれたと。現在は海は見えずに高層ビル群が。旧東海道を離れ左手に折れて投込塚の碑を訪ねることに。旧東海道からそれて『投込塚之跡』へ。「投込塚之跡」碑の右に無縁・馬頭観世音と左に宝永7年(1710年)銘と天保2年(1831年)銘の庚申塔も。『投込塚之跡』。「この地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって往時旅人の行倒れせし者多く之を埋葬せる処也。偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之ヶ菩提を弔い在者也 昭和三十九年四月建之」と。投込塚は、江戸時代に病や疲労のために行倒れた旅人や牛馬の骨を多数埋めた場所。昭和36年(1961)の宅地開発時に発見され、この地に移動して供養塔が建てられた。宿場の外れにはこのような無縁仏を葬る投込塚があった。斜め左側の道が旧東海道、左にバスターミナルが。再び旧東海道に戻り歩を進める。権太坂二番坂を上り、境木中学校前のT字路突当りで右折すると右手に若林家が。大名なども立ち寄ったとされる若林家(現在は民家)。武蔵国と相模国の国境。境木立場跡『歴史の道 境木立場跡』宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。 「江戸名所図絵」の「境木」を着色模写した「横浜往古絵巻」。画像中央下部、ケヤキの高木の傍らに境木が描かれている。街道歩きされる方ならご存知の藩境などに立てられた榜示杭、これと同じような国境を示す棒杭が境木地蔵近くに立てられていたのだ。地名はこの国境に立つ木杭ということから付けられたようで、江戸時代は木杭の北側が武蔵国橘樹郡保土ヶ谷宿のうち保土ヶ谷町、南側が相模国鎌倉郡平戸村であったのだ。この境木付近の尾根筋は頂上部が平坦であったからか、立場や茶屋が立ち並んで旅人の休憩の場となっていた。現在はレプリカの境木が境木地蔵近くに立っていると。『東海道五拾三次 保土ヶ谷 初代広重(狂歌入り)』武蔵と相模の国境の境木の立場で、急な権田坂を登り、休憩のための茶店の賑わいを描いている。狂歌は遊鶴亭千代子「諺のまはるもはやき双六やいそげばいそぐ程かやのえき」とある。『横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図』戸塚宿の成立は、慶長9年(1604)で隣宿である藤沢、保土ヶ谷の宿が成立した慶長6年(1601)に遅れること3年であった。日本橋から数えて5番目の宿場町で、起点の日本橋から10里半(約42km)の距離にあり朝、江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せた。戸塚宿は江戸寄りに権太坂、京寄りに大坂という難所にはさまれていたため、朝、江戸を発った当時の旅人にとって、初めて宿泊する場所として最適であり、鎌倉への遊山の道、大山参詣の分岐点の宿としても大変にぎわっていました。天保14(1843)年の東海道宿村大概帳(しゅくそんたいがいちょう)によると、宿内の人口は2900人余り、家数は613、本陣は2、脇本陣は3、旅籠は75と東海道五十三次の中では10番目に宿泊施設の多い宿場でした。品濃一里塚は江戸から数えて九番目の一里塚で、保土ケ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。 神奈川県内では、ほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定史跡となっています。現在は、塚とその周辺が公園として整備されています。『境木立場跡』『立場茶屋』宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所であった。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物であった。こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと。国境を示すモニュメント(平成17年に設置)。『境木の由来』ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)、あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられたことから、地名が境木になったと伝えられている。道路を整備して新しく建った道標。「右 環状二号線」、「左 東海道」とある。『境木地蔵堂』『境木地蔵の由来』この地蔵は、鎌倉腰越の海岸に漂着したもので、引き上げた漁師の夢枕で、「この私(地蔵)を江戸に運んでくれたら、この海を守る」と告げられ、漁師たちは、江戸へ運ぼうとしたが、この境木で動けなくなり、地蔵を安置したところ、村が繁盛したと。境木地蔵堂 本堂。素朴な地蔵様。水場の可愛らしい地蔵。『阿頼耶識(あらやしき)』と白く刻まれた石碑。「阿頼耶識」は仏教用語。仏教の中でも「唯識派」という思想の中で説かれるもので、心を表層から深層まで八つに分けたときの、一番深いところにある「根本の心」を「阿頼耶識」といい、ここが、心の動きや感情、表情、生きる力など、人生のすべてのよりどころとなるのだと。『東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』境木地蔵尊から、保土ヶ谷宿への案内。旧東海道」の説明板。境木地蔵~信濃一里塚~白幡神社が紹介されていた。旧東海道の『焼餅坂』へ。旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれていると。武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所。このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと。焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160メートル)の坂道。坂の傍らの茶店で、焼餅を商っていたので、焼餅坂と名づけられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちざか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場します。旧東海道を 保土ヶ谷から戸塚方面に抜ける途中に,権太坂・焼餅坂・品濃坂 と、坂が続く。境木本町の“境木地蔵”の前から 南西に入るとすぐに 下り坂となる。これが 焼餅坂。坂の両側は 鬱蒼とした林になっていて いい雰囲気だが、途中から 西側一帯が宅地に造成され坂に面して 新しい住宅団地が建設されていたのであった。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前回11/5(月)に川崎宿から保土ヶ谷宿まで歩いていたので、今回11/14(水)に旅友と東海道53次の保土ヶ谷宿から戸塚宿そして藤沢宿へ向かった。保土ヶ谷宿から藤沢宿までは約16.7Kmの距離。保土ヶ谷駅中央改札出口で旅友と9:00に待ち合わせ。そして保土ヶ谷駅西口からこの日の旧東海道を歩き始める。『歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』。旧東海道に入る。まだ人通りは少なかった。『助郷会所跡』。宿場で賄い(まかない)きれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷を云い、指定された村を助郷村と云うと。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀半ばころに次第に制度化されて来た。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村はおよそ40か村で現在の保土ヶ谷区内のみならず、旭、西、中、南、港南、磯子、戸塚の各地域に及んだ。こうした助郷村は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所と云う事務所を設けていたのだと。『歴史の道 問屋場跡』。問屋場宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場、宿場の中でも最も重要な施設のひとつ。助 郷宿場で賭いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定さた村を助郷村という。高札場 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設である。初代広重作の、庄野「人馬宿継之図」。問屋場は、江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や、参勤交代の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切る場所であり、街道に面した宿場の中心に設置されている場合が多かったようである。商店のシャッターに描かれた東海道53次「程か谷 新町入口」。『高札場跡』宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約4.5m)、高さ一丈(約3m)の規模であった。一般の法令以外にも、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲示されたと。『金沢横丁』。左手に行くと、かなさわ・かまくら道であると。東海道と金沢八景・浦賀へ通じる金沢道とが分岐する四つ角に石碑が4基。金沢道は梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉、江の島弁天参詣などに行くために多くの人々が訪れた道であり、幕末にはペリー来航で幕府役人が、浦賀へ通った道でもあったと。『金沢横町道標4基』「この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。 金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、 道標として四基が建立され、現在残っています。 四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。1. 円海山之道〔天明三年(一七八三)建立〕左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。 円海山は「峯のお灸」で有名でした。 2 かなさわ、かまくら道〔天和二年(一六八二)建立〕 左面に「ぐめうし道」と刻されています。 3 杉田道〔文化十一年(一八一四)建立〕 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。 句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。4 富岡山芋大明神社の道〔弘化二年(一八四五)建立〕建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。 芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。 」と。JR東海道線&横須賀線の踏切を渡る。藤沢方面。右手に曲がり国道1号線に入ると『歴史の道 旧東海道』の標柱が。『歴史の道 本陣跡』。公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣・脇本陣である。その格式と引き換えに制約や出費も多く経営は必ずしも楽ではなかった。また、休息のみに利用された茶屋本陣もあった。本陣は、代々苅部家がつとめた。現在は当時を偲ばせる門や土蔵が残っている。1870(明治3)年に軽部に改姓し、現在も在住。『歴史の道 本陣跡』。「慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。」と。『脇本陣(大金子屋)跡』天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模建坪79坪(約261㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 室数13。『 脇本陣(藤屋)跡』。天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模建坪119坪(約293㎡) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m)室数14 玄関付 。『 脇本陣(水屋)跡』。天保年間の水屋(与右衛門)の規模建坪128坪(約423㎡) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 室数14 玄関門構付。『歴史の道 保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設』。本陣・脇本陣公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。 茶屋本陣正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。 旅籠屋はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。 茶屋往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。『早朝出発する大名行列の様子』武家の行列が保土ヶ谷宿を通行する状況を描いている。篝火(かがりび)や「保土ヶ谷宿」と記された提灯が各家の軒先に多数配置されており、手前の門(本陣か)から行列が薄明の内から出発する様子であろうか。旧東海道を進む。『旅籠屋(本金子屋)跡』天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模建坪79坪(約261m)間口7間(約12.7m)奥行11間半(約20.9m)室数13。格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあったと。『まちかど博物館』保土ケ谷区では、H19年3月に策定した「歴史まちなみ基本構想」に掲げている方針の一つ「地域住民間、地域住民と来街者間の交流機能を育て、巡り歩いて楽しめるまちを創る」を実現するために、保土ケ谷の歴史、文化及び技術・技能を広く区民や来街者に周知し、交流の活性化及び産業の振興を図ることを目的として、「まちかど博物館」を旧東海道沿いにモデル的に7館設置していると。『茶屋本陣跡』。国道1号線沿いの今井川。今井川に架かる茶屋町橋(ちゃやまちはし)。『歴史の道 一里塚跡、上方見附跡』。一里塚跡街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。 上方見附跡保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。『東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業』。「保土ヶ谷宿の松並木 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模取り組まれるようになったのは江戸時代にはいってからです。慶長9年(1604年)幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されました。 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。 この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に松などの木々数十本を植えました。 保土ヶ谷宿の一里塚 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。 保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。 この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。」と。外川神社(とがわじんじゃ)へ渡る仙人橋(せんにんはし)。江戸時代の出羽三山講に由来を持つ神社で、羽黒山から勧請されたと。はじめ外川仙人大権現と称したが、明治二年の神仏分離令により、日本武尊を祭神と定め、社名を外川神社と改めた。その神験は著しく、ことに小児の虫封じや航海の安全に御利益があったとして、遠近から参詣する者が絶えなかったと。一里塚跡、上方見附跡。江戸幕府は、諸国の街道に松並を植えるよう命じた。以来、夏は木陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、旅人の休息の場となったと。外川神社を今井川越しに見る。立派な松並木に成長するのはいつであろうか?江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講があった。幕末の頃、その講元で先達でもあった淸宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)に奉ったと。背の高い石碑が湯殿山供養塔。今井川で羽を休めていたのはマガモの雌であろうか。 ・・・旧東海道を歩く(川崎~保土ケ谷)その7 ・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日の予定ではここで横浜駅へ向かう予定であったが、時間が早いのでJR横須賀線の保土ヶ谷駅まで更に歩くことに急遽変更。浅間神社参道入口。「ここから境内に入れます。急階段のため手すりにつかまりゆっくり上がって下さい。」と『浅間神社(せんげんじんじゃ)』拝殿。浅間神社は神奈川県横浜市西区にある神社。旧・芝生村(しぼうむら、現在の浅間町)の鎮守であった。横穴古墳が密集する袖すり山と呼ばれる丘の上に立地している。承暦4年(1080年)、源頼朝が浅間神社を勧請して造営されたと伝えられる。 当地は袖ヶ浦(入江)に面した帷子川の河口港として栄え、江戸時代は東海道五十三次の神奈川宿と程ヶ谷宿の間の宿であった。幕末の横浜開港の際には、当社門前より横浜(現・関内)に到る「横浜道」が整備された。関東大震災や太平洋戦争で社殿は焼失し、現在の社殿は昭和戦後になって再興されたものである。「芝生(しぼう)」は縁起が悪いため、この神社にちなんで浅間町と改名されたと。祭神に木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)、相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る。『浅間神社由緒沿革』。『浅間神社境内横穴古墳群』。『稲荷社』。『招魂社』。『浅間神社と富士の人穴』境内西側にあった横穴古墳のひとつで、富士山につながると伝えられていた。江戸時代は名所となっていたが、周辺の開発によって取り壊されたと。洪福寺松原商店街を進む。横浜市西区と保土ヶ谷区にまたがる市場みたいな商店街。『東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』神奈川宿からの旧東海道は追分で八王子道が分岐し、国道16号線と交わるところから初期の東海道となり、帷子川には古町橋が架かっている。旧東海道・程ヶ谷宿の街道が追分から真直ぐに付替えられた際に、帷子川に架けられたのが帷子橋である。古町橋に対して新町橋とも呼ばれ、あるいは大橋とも呼ばれていた。しかし、昭和39年に帷子川の流れが相鉄線天王町駅南側から現在のような北側に付替えられた。旧東海道の松原商店街をさらに保土ヶ谷駅方面へ。『江戸方見附跡』「「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ケ谷宿の江戸方見附がありました。 保土ケ谷区郷土史では、天王町391・393番地先(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(この ため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時に また宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ケ谷宿 では外川神社付近の上方見附まで19町(約キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。」と。天王町の商店街をさらに進む。『橘樹神社(たちばな じんじゃ)』。祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社と変遷し、大正10年(1921年)に橘樹神社となった。 当地名の天王町は、旧社名に由来する。創建は文治2年(1186年) 、京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請奉祀したと伝えられる。手水舎。橘樹神社(牛頭天王社)拝殿。素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。『明治天皇東幸遺蹟碑』 帷子(カタビラ)川の下流側。保土ケ谷区を南東に流れ、横浜駅東口を取りかこむように流れ、西区のみなとみらい地区と神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ川。 帷子(カタビラ)川の上流側。『歴史の道 旧東海道』道標看板。『旧帷子橋跡』江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていたと。帷子橋は「江戸名所図会」にも挿絵が掲載されている本格的な板橋であるが、迅速原図では帷子橋が帷子川の川筋に直交して架けられていることにより、東海道の道筋は約45度折曲がり、橋を渡った位置から再び元の道筋と並行する線形になっている。帷子川は戦後の河川改修により現在の位置に川筋が移動し、相模鉄道天王町駅の南側にある「天王町公園」に帷子橋跡のモニュメントが設置されている。高野山真言宗 普賢山 『香象院』天正11年(1583年)に忠秀法印が開山となり創建したといわれている。東国八十八ヵ所霊場26番札所である。江戸時代には、香象院には保土ヶ谷宿で最大の寺小屋があり、明治5年(1872年)に学制が公布され、明治6年(1873年)には保土ヶ谷小学校の分校となったと。門前の門石柱の後ろに2つの釜が置かれているが狛犬代わりの狛釜のようだ。この鉄釜は、再建前に本堂の前に置かれた「天水鉢」を移したもので、危険防止の為に大きな蓋を付けたのだと。『つづける ”本物はつづく つづけると本物になる” 』と。このブログもできる限り続けて行きたいと。『旧中橋跡』「今井川の改修 かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。 その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官へ陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。保土ヶ谷宿と品川台場建設今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申し出、3000立坪(約18,000立方m)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています 」と。遍照寺入口。寺務所?の壁には仁王像が山門の如くに。 歌川広重「東海道五十三次」の「戸塚宿」と 「箱根駅伝」のデザインの合流管マンホール蓋 。そしてJR東海道線 保土ヶ谷駅前 ロータリーに到着。保土ヶ谷駅 西口。保土ヶ谷駅 構内通路には『東海道五十三次之内 保土ケ谷』が。初代広重が手がけた最初の東海道物で、版元が保永堂であることから、一般に保永堂版と呼ばれるシリーズの内、保土ヶ谷宿を描いたもの。帷子川をまたぐ新町橋を、旅人や駕籠が往来する情景が描かれている。 ・・・その6・・・に戻る 旧東海道を歩く(川崎~保土ケ谷) 完 ・・・旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)につづく・・・
2019.01.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次青木橋を渡ると右側高台にあったのが曹洞宗青木山『本覚寺(ほんがくじ)』。階段途中からの国道1号線(第2京浜)と東海道線。本覚寺がある丘陵は、戦国期には砦があったと。現在は、丘陵を分断して鉄道が走っており、対岸には戦国期の城跡(権現山城跡)が。おそらく、この丘陵は続いていて、岬のような立地だったと。「本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532年)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことのできる本覚寺を領事館に決めたという。領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。」『史跡 アメリカ領事館跡』江戸時代の末、日米修好通商条約が結ばれるにあたり、この本覚寺にアメリカ領事館が置かれたと。三年ほど、この地に領事館がおかれた。初代は有名なタウンゼント・ハリス。また、生麦事件の時には2名が騎馬で本覚寺に逃げ込み、ヘボン博士(ヘボン式ローマ字で有名)の手当を受けたとのこと。この石柱は開港100年の記念に立てられたと。山門の右脇に、レリーフ像をはめこんだ石碑が建っていた。この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の顕彰碑。横浜郷土研究会有志により、横浜開港の恩人への感謝の碑として、昭和57年に建立。 岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の中心的存在として活躍をした人物。日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震。その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのだと。山門前の戒壇石に「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)が。葷酒とは仏教の戒律で禁じられた臭気の強い葱ねぎ、韮にら、蒜にんにく、薤らっきょう、興渠はじかみという五辛および酒のこと。臭の強いものや、酒を持ち込む事は禅宗の修 行に差し障りがあるのでこれを許さないと。山門。当時の領事館員達は、当時日本には存在していなかった西洋塗装法(ペンキ)で、建物の彫刻等を塗装して行ったと。今でも唐獅子や蛙股などにペンキ塗装の跡を残っていると。『青木山』と書かれた扁額。正面に本堂。『全国塗装業者合同慰霊碑』。安政三年(1856)アメリカ総領事ハリスは、神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗らせた。これが元で、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立されたと。『地蔵堂』。本尊・地蔵願王菩薩坐像を安置する。俗に子育地蔵と呼ばれ、子供の成長祈願、病気平癒、安産供養の信仰があると。地蔵菩薩立像が地蔵堂の前に。『鐘楼』。『寺務所』。本堂を再び。『水子子育地蔵』。水汲み場には懐かしい手押し井戸ポンプが。境内を散策すると本堂左隣にお釈迦様の涅槃像が。ズームで。本覚寺を後にし、山門前の階段からの横浜駅方面。『東横フラワー緑道』「東横フラワー緑道」は、平成16年(2004)2月の「みなとみらい線」の開通に伴い、「東急東横線」が地下化されたことから、その上部を緑道として整備したもの。当時の写真を掲示していた。『大綱金刀比羅神社』。この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯網社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となったと。かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当たり、土盛りの上に樹が植えられた大きなものだったと。『神奈川宿 袖ケ浦』十返舎一九『東海中膝栗毛』よりの文章が掲載。『歴史の街 神奈川宿』。田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として広く知られていた。この神奈川は、江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えていた。その頃の神奈川宿の様子は「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれているが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々でたいへんなにぎわいだったと。幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていた。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客に評判だったと。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったと。坂道を登っていくと旧東海道脇に老舗料亭『田中家』が左手に。田中家の前身は、歌川広重の浮世絵にも描かれていた。『田中家』のパンフレットより。今でこそ埋め立てが進み、国道1号と横浜駅を越えて海に出るまで1キロほどあるが、昔は探訪絶景で欄干から釣り糸を垂らせたという。伊藤博文ら明治の元勲や夏目漱石ら文豪も投宿。日本囲碁界の第一人者、呉清源の対局戦も行われるなど数々の著名人に愛されたと。『神奈川の台と茶屋』。「ここ台町辺りは、かって神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見おろす景勝の地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも「ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とある。二人は立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。」「茶屋 うどんそば切有」「そば切ちゃ屋」の文字が見える。更に旧東海道を進む。「神奈川台関門跡」「袖ヶ浦見晴所」と刻まれた石碑。『神奈川台の関門跡』「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。」と。「思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは」正二位権大納言鳥丸光広(江戸前期の歌人・能書家)の歌。『ブローテ横浜高島台』が右手高台に。横浜駅そばの高台にそびえたつブローテ高島台は、バルコニーの青いガラスが目を引く大型賃貸マンション。2015年度グッドデザイン賞。『上台橋』を渡る。かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったと。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれていると。この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのだと。上台橋の上から横浜駅西口方面を見る。首都高速神奈川2号三ツ沢線が高架で。『神奈川宿歴史の道←リンク』はほぼこの図の範囲を対象とし、上台橋から神奈川通東公園に至るおよそ4kmの道のりである。旧東海道の標識。これは横浜市西区歴史街道シンボルマークらしい。「区内には、三つの古道、旧東海道、横浜道、保土ケ谷道が三角形をかたどるように通っている」のでこのデザインになったのだと。この辺りの歩道面には、約100mごとにこのマークが。『勧行寺(かんぎょうじ)』。法華宗学陽山勧行寺。越後本成寺末で三ツ沢豊顕寺三世日養をもって開山とする。ご本尊は大曼茶羅、一塔両尊だが境内にも面白いものがある。まず天然理心流の流祖近藤内蔵之助長裕(こんどうくらのすけながひろ)の墓。新撰組局長近藤勇は四代目にあたる。もう一つは水車舟制作の道周翁の墓。水車舟とは外輪船のことだろう。その功績をたたえた水戸藩主の和歌一首が彫られている。他に作家の北林透馬夫妻もこの墓地で眠る。浅間下歩道橋上より。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に横浜に向かって歩く。滝の川に架かる『土橋』。京浜急行のガードと国道15号のちょうど真ん中辺りにこの土橋がかかっていた。昭和4年(1929年)竣工の文字が。江戸時代には滝の川を挟んで江戸側の神奈川町に石井本陣が、京側の青木町に鈴木本陣が置かれ、神奈川宿の中心地として賑わったと。滝の川に浮かぶ水鳥。手前はキンクロハジロ:カモ目カモ科ハジロ属頭は黒色で、紫色光沢がある。目が黄色、背が黒、腹やわきが白ということで、キンクロハジロ。メスは褐色がかっていた。正面から見るとけっこう怖い顔。『滝ノ橋と本陣跡』説明板の上の図は「金川砂子(かながわすなご)」に描かれた、江戸後期の神奈川宿の風景である。本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿。「金川砂子」は、江戸時代の神奈川宿の様子を書いたもので、神奈川宿の住人「煙管亭(きせるてい)喜荘(きそう)」により、文政七年(1824)に作られたと。絵図(金川砂子)は、滝の橋を挟んだ神奈川宿と、権現山。街道右手の、小高くそびえる権現山が幕末の神奈川台場築造のために削られ、時を経て現在の幸ヶ谷公園が設けられた。権現山のふもとには宗興寺がみえると。15号線(第1京浜)にかけられた『滝の橋』。神奈川宿の、青木町と神奈川町を隔てる滝の川に架けられた橋。水道水の水質チェックか?残留塩素濃度測定?『神奈川の大井戸』。「江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、 当時は宗興寺のことを「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。 江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に使われたと伝えられ、また、開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用していると。また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることができるといわれ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた」と。『宋興寺』は曹洞宗開塔山宋興寺。 『宋興寺とヘボン博士』「曹洞宗宋興寺は、上の「神奈川駅中図会」では権現山の麓に描かれている。海港当時、米国人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する碑が境内にある。このヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に明治学院を創設」。『ヘボン博士の石碑』。「1859(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教医DBシモンズが来日、当宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜市立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと1861(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。ヘボンのレリーフは幸ヶ谷在住の齋藤由蔵氏の善意で作られたものである。昭和五十一年十二月 ヘボン博士顕彰会」境内の『子育て観音』と『六地蔵』。第一京浜国道(国道15号線)を横切り台場公園内にある『神奈川台場跡』へ。『地下に眠る神奈川台場』。『地図と絵に見る神奈川台場の歴史』「横浜の開港により、開港場の付属施設として神奈川台場が築造されました。安政6(1859)年5月、幕府が伊予松山藩に砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元(1860)年6月に竣工した当時の台場は、総面積2万6千?(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。明治32(1899)年2月に廃止されるまで礼砲や祝砲を発射する施設として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、いま地上部には石垣の一部だけが残っています。」上の左から『増補再刻 御開港横浜之全図』その下に『亜米利加人上陸之図』、『黒船来航画巻』『黒船来航図絵巻』、『横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図』。『神奈川台場図』絵図下の家並みは神奈川宿、台場には大砲や番所の位置が示されていた。右の上の左から『御開港横浜正景』、『改正 銅板横浜地図』、『明治30年代の神奈川台場』『最新 横浜市全図』、『神奈川地図』。『神奈川台場図』。番所や砲台の跡など主要場部分はJR貨物の東高島駅となっているため、立ち入れません。もっとも、現在は跡形もなくなっているでしょうが・・・。1899年(明治32年)2月に廃止され、現在では周囲が埋め立てられて港湾施設の一部と化していると。明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみ。台場の石垣が残されていた。石垣も、いわゆる戦国期のものと様相は違い、切石の同じ大きさのものが並び石垣の面白さがあまり感じられないものであったが、しかしこれだけの大きさの石が並ぶのは、やはりなかなかの工事ではと。第1京浜から旧東海道の宮前商店街に入る。『洲崎大神(すさきおおかみ)』京急・神奈川駅の東150mほどの青木町に鎮座。境内入り口は南向き、道路に面して白い神明鳥居が立っていた。鳥居の右手に「洲崎大神」と刻まれた社号標が立っていた。洲崎大神社殿。横浜市神奈川区青木町にある神社。洲崎大神は源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられます。明治16年郷社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。祭神:天太玉命、天比理刀売命相殿:素盞男命、大山咋命境内には多くの老木が茂る。『境内社 御嶽荷社』『境内者 稲荷社』。次に旧東海道からそれて、急な坂を登り「幸ケ谷公園」へ登る。何本かの石碑が立っていた。それぞれの戦争の表忠碑日清戦争 :明治27、28年 3名日露戦争 :明治37、38年 21名支那事変 : 120名第二次世界: 1,357名昭和41年4月3日に合同慰霊祭を執行し其の御霊は洲崎神社に奉安してあると。『権現山合戦の跡』「永正7年(1570)北条早雲が当時の関東の支配者上杉氏の家臣上田蔵人を味方にしてここにとりでを築かせた。上杉朝良ら二方の大軍がとりでを囲み合戦が十日間も行われた。その結果上田勢は敗れた古戦場跡である。また安政年間のお台場づくりなどの埋め立て用土に山が削られて低くなった」と。公園内には桜の古木がたくさんあったが、無くなっている場所も。害虫で伐採された桜の老木の切り株。真言宗智山派 『普門寺』。洲崎山と号す。鎮海権僧都(文治3年1187年寂)が開山となり創建。開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられたと。東国八十八ヵ所霊場21番。『六地蔵』。普門寺に隣接する『甚行寺』。「甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦2年(1656)第一世意圓上人が本山専修寺の第十四世堯秀上人を招いてこの寺を草創した。開港当時、本堂が土蔵造りであったが、改造をくわえてこの寺もフランス公使館に充てられたと」。『史跡 フランス公使館跡』。『本堂』。境内の池には金色の鯉が。『京急 神奈川駅』。『神奈川宿歴史の道』 時間は14:50.案内板の上の図は、江戸幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」。図の中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がった辺りが台町である。ここ神奈川宿が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられたのだと。江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが描かれている。また、一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれていて、急な曲がり道は、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がり道にし、そのわきに追記して本来の曲がり具合を示していると。第二京浜(国道1号線)の『青木橋』からJR東海道線を見る。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次京急線の向こう側にある『遍照院』。横浜市神奈川区にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は密厳山、寺号を不動寺と称する境内を京急本線が走り山門前には踏切があるため、「踏切寺」とも呼ばれていると。『西洋野菜栽培とトマトケチャップふるさと』と書かれたプレートが歩道の脇に。案内板の説明によると、横浜開港をきっかけとして国内に入ってきたセロリやトマトは、東京と横浜という二大消費地に挟まれた子安で、盛んに栽培されていたようだ。やがて1894(明治27)年、日本で最初のトマトケチャップの製造が地元の清水屋で始まったと。『トマトケチャップ発祥の地』石碑。1903(明治36年)年に横浜の清水與助(よすけ)氏が製造販売を開始したのが、国産ケチャップのはじまりであると。ウィキペディアによると「1908年(明治41年)には明治屋がトマトケチャップとマッシュルームケチャップの輸入販売を開始する。同年にはまた、蟹江一太郎(カゴメの創業者)がトマトケチャップの製造販売を開始している。 当時の日本ではまだほとんど未知の食材であり、色も輸入品より悪かったため、同時に発売したウスターソースが好調な売れ行きだったのに対し、当初の売り上げは芳しくなかった。その後トマトケチャップを用いる料理の普及拡大、殺菌方法を変え仕上がりを改善したこと、積極的な宣伝などが奏功して急速に売り上げを伸ばした。容器の変遷も消費拡大に大きな役割を果たした。発売当初はビール瓶に詰められていたため取り出しにくかったが、1957年に(他社に追随し)カゴメが広口瓶を採用し、スプーンで必要なだけ取り出せるようになったことで4年後には売り上げが2倍近くに増えたと。さらにその後ポリエチレンをブロー成形したチューブ入りのものが発売され、使い勝手の良さから日本における主流となった。」と。日本橋から26kmと。足洗川の河口には釣り船が。浦島町交差点を通過。国道15号線出田町入口交差点にある歩道橋を渡る。下の道路は旧東海道(第1京浜)。右手に『良泉寺』 山門。神奈川宿歴史の道『良泉寺』。「神奈川区新町にある良泉寺は浄土真宗大谷派のお寺で海岸山良泉寺という。本願寺第八世蓮如上人(応永22年(1415年)〜明応8年(1499年))に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創し、慶安元年(1648年)に入寂したこの寺の第四世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられている。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。」本堂。京急線の線路のガードを潜り『笠䅣稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)』へ。『笠䅣稲荷神社』笠䅣稲荷神社は、社伝によると天慶年間(九三八〜九四七)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(一六八九)山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治二年に現在地に遷座された。また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢(ひとぎ)団子を供えるという。」社殿。神奈川区東神奈川2に鎮座する笠䅣稲荷神社は天慶年間(938年〜947年)に稲荷山の中腹に創祀された。元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されたという古社である。元禄2年(1689年)山麓に遷座した。霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と呼ばれたと伝えられる。明治2年(1869年)に当地へ遷座し、明治17年(1884年)村社に列格した。「新編武蔵風土記稿」によれば、笠脱稲荷社は9尺四方の社殿であったと記されている。すなわち、「新編武蔵風土記稿」が編まれた文化・文政期(1804年〜1829年)には神明宮の社殿と同じ大きさの社殿が建っていたことになる。現在では神明宮は3尺四方と小さくなり、一方、笠のぎ稲荷神社は鉄筋コンクリート造にするほどの大きな社殿になっている。宇迦之魂命、明治天皇、日本武尊を祭神とする。境内摂社の古峯神社と祖霊社。『板碑』。上部には阿弥陀種子・梵字(キリーク)を刻む。下部には中央に梵字で「南無阿弥陀仏」の文字。「通称「稲荷山」と称した、山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の形態は頭部を三角形とし、その下部には二条の深い切り込みが施され、身部(みぶ)は枠線によって長方形に区画されています。 身部上位には阿弥陀如来をあらわす種子(しゅじ)「キリーク」を、中位にはには天蓋を配し、その下位 中央には六字名号(ろくじみょうごう)「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研(やげん)彫りで力強く刻まれています。 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を配した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて特異な少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です」と。そして次に『能満寺』を訪ねる。寺の前の道は「神奈川歴史の道」として整備されていた。「能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられている。かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。」『芭蕉句碑』ばせを翁 「父母の しきりにこひし 雉子の聲」。「ばせを翁」とは「芭蕉翁」のことである。貞亨5年(1688年)春、芭蕉が尾張国の俳人・坪井杜国(つぼいとこく)と高野山を訪れて詠んだ句。意味は、静かな杉木立の中、お互いに呼び合う雌雄の雉の声を聞いた芭蕉は父母の姿をしのんだと。『能満寺』本殿。「海運山」と書かれた扁額。山門を正面から再び。能満寺の隣の『神明宮』。東神奈川神明宮は、能満寺が創建された正安元年(1299)に創建。明治18年に村社に列格。拝殿。交通量の多い国道沿いだが、この一角は小公園もあり、寺院もあり、静かな佇まいがあって心落ち着くスポット。神奈川小学校敷地の角に神奈川宿の「東海道分間延絵図」の神奈川宿部分のタイル絵が。「東海道分間延絵図」とは、江戸幕府が東海道の状況を把握するために文化3(1806)年に作成した詳細な絵地図。沿道にある主な問屋・本陣・脇本陣・寺社などが丹念に描かれ、一里塚・道標・橋・高札なども描かれている。東海道の他にも、中山道・甲州道・奥州道・日光道の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成され、「五街道分間延絵図」絵図篇が作成された。今は姿を消した、上無川(かみなしがわ)。「「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、その由来にはさまざまな言い伝えがある。その一つとして「江戸名所図会」の上無川の項には「神奈川本宿の中の町と西の町の間を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。上無川は現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画により埋め立てられ、今では川の姿を見ることはできない」と。壁画の前には雑草が葉を伸ばしていたが・・・・。軽井沢から台町(だいまち)へ。軽井沢坂の文字が読み取れる。右に台町の茶屋街。台町から青木町、滝の橋へ。 台町茶屋街が続く。神奈川台の下、水際の神奈川浜(神奈川浦)にも集落が見える。左手の小高い山の上に飯綱社(現大綱金刀比羅神社)。尾根を右に伝って中腹にはアメリカ領事館の置かれた本覚寺。中世には青木城の一角を占めた。街道沿いの青木町字(あざ)元町に洲崎明神。渡船場が現れるのは幕末の開港期か。いちばん右は滝の川を渡る滝の橋。橋のすぐそば、権現山(現幸ヶ谷小学校、幸ヶ谷公園)から尾根が本覚寺、飯綱山(現高島山)まで延びている。滝の橋から神奈川町へ。滝の橋周辺が神奈川宿の中心地。神奈川宿仲之町のやや内陸に、御門石を経て御殿跡が見える。神奈川町新町(しんまち)、並木町。 新町は宿入口。オランダ領事館の置かれた長延寺が見える。『絵図併に大概書』。「五街道分間延絵図」絵図篇の巻頭に載せられている「絵図并大概書」という文と柳瀬喜代志氏の訳文もかかれていた。「寛政(一七八九~一八○一)中、あらたに命を承けて五街道及びそれに附属する道路の若干の絵図を編修した。縮尺は一里を曲尺七尺二寸とし、道路の迂回曲折は方位に従って真直に伸して衝図としたから、国や郡の境界、宿や村の区分、河川の源や未派、及び寺院や宮祠の区域、それ以外のことなどは、一層明らかとなったが、これらには悉く図の傍に註記し、集落の両境を道路に接するものは朱の丸印で区分した。また、見聞できる範囲の山川、城市、寺観、霊廟、古跡、古墳などで道路の傍にあるものについては、遠近にしたがって具に載せた。かの三山五湖(この場合は富士山、箱根、木曽などの山々や、琵琶湖、浜名湖などの湖をさす)を塊視し、杯看するが如きはそうである。また、大概書というのは、瑣末の事を述べて煩縟な諸書、錯綜せる駅路、庶事は、その要事をとり、深くしらべてただし、総目に具にのせた。こうして、文化三年(一八○六)の冬にことごとく献上し、幕府の書庫に蔵めた。そしてこれらの完成を報告したところ、また命を受けたから、手写して藁本を作り幕府に永蔵して後人の参考に備えるのである。その図は、文飾をはぶき、事実をくわしく記した。それ故、必ずしも名文をこととはしていない。また、この絵図の意図は、これを見る人に、居ながらにして歩きなれた路を歩いているかのようにすることにある。庶幾、遺脱なかれと思うのみ。 文化丁卯春正月謹識」と。そして蕎麦屋で昼食。蕎麦とカツ丼のセットを楽しむ。昼食後は再び旧東海道を下る。『東光寺』。真言宗智山派寺院の東光寺は、平尾山と号す。東光寺は、太田道灌(1432-1486)が小机城を攻略後、平尾内膳が太田道灌より与えられた守護仏を元に当寺を創建したと。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場11番、東国八十八ヵ所霊場19番。門が閉まっていて境内には入れなかったので塀越しに。次に『熊野神社』を訪ねる。鳥居と社殿が正面に。手水舎。そして『金蔵院』山門。『神鏡山』と書かれた扁額。真言宗智山派寺院の金蔵院は、神鏡山東曼陀羅寺と号す。金蔵院は、京都醍醐三宝院の始祖勝覚僧正が開基となり寛治元年(1087)に創建。慶長4年(1599)に徳川家康より寺領10石を拝領、多くの末寺を擁する中本寺格の寺院。玉川八十八ヶ所霊場3番、東国八十八ヵ所霊場20番。「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。この寺も境内には入れず。旧東海道の松並木を歩く。左右には住宅街が押し迫り。 『神奈川宿 高札場跡』その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行1.5mと大きかった。この高札場は資料をもとに復元したもの。高札場は幕府の法や規則を掲示する場所で、いわゆる政府の広報の場。高札場は神奈川県警察署西側付近にあったが、神奈川地区センター前に復元したもの。左手には浄土宗正覚山法雨院『成仏寺(じょうぶつじ)』。成仏寺は永仁年間(1290年代)の創建。当初は四宗兼学(真言・仏心・律・浄土)であったが江戸時代初期に浄土宗一宗となった。徳川が神奈川御殿を造るにあたり成仏寺のかつての境内を敷地に定め、その代替地として下されたのが現在地。その当時は塔頭(たっちゅう)六坊を持つ大寺であった。開港期は初めオランダ領事館、オランダ領事館が長延寺に移転した後はアメリカ人宣教師の宿舎にあてられた。ヘボン博士も来日当初はここを宿舎としたと。『史跡 外国宣教師宿舎跡』と刻まれた石柱。安政6年(1859年)の横浜開港当初、アメリカ人宣教師の宿舎として使用された。ヘボン式ローマ字や日本最初の和英辞典「和英語林集成」の編纂で知られるジェームス・カーティス・ヘボン、日本滞在日記を残したフランシス・ホール、聖書の和訳や英語教育を行った宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンなどが滞在した。文久2年(1862年)には、のちに駐日公使となるイギリスの外交官アーネスト・サトウが成仏寺を訪れ、ブラウンに日本語を学んでいるのだと。成仏寺 本堂。成仏寺 境内。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次橋上駅の『JR国道(こくどう)駅』。魚河岸通りに入ると、JR鶴見線の国道駅の前に出る。鶴見線は、全長わずか9.7kmの都会の中のローカル線と言った感じである。第一京浜国道と旧東海道の間に、そのものずばりの駅名である国道(こくどう)駅が出来ている。鶴見線は鶴見駅と埋立地の臨海工業地帯を結ぶ線で、大正13年貨物専用として開業(1924年)。その後、昭和5年(1930年)に旅客輸送も開始し現在に到っている線である。JR国道(こくどう)駅舎の下には多くの自転車が。浄土宗 慶岸寺(けいがんじ)。入倉山 究竟院 慶岸寺と号す。本堂。開山「慶岸上人」は天正9年(本能寺の変の前年)示寂。示寂とは菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死。堂内には阿弥陀三尊、善導・法然両大師、開山像等が祀られている。昭和20年4月空襲で堂宇悉く灰燼に帰し、昭和35~40年本堂庫裏を再建した。山門脇の「子育地蔵尊」(宝永6年安置)は往時より安産と赤子・幼児の息災を念じ香煙が絶えないと。六地蔵と鐘。永代供養墓「蓮の臺(うてな)」。臺とは土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台のこと。『子育地蔵尊』。「子育地蔵尊」と書かれた扁額。『冬木森稲荷神社(ふゆきもりいなりじんじゃ)』。引き潮になると船が出せなくなるため漁師たちがこの神社の境内で潮を待ったことから、塩待稲荷の別名があると。総本社は、京都の「伏見稲荷大社」で御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。鳥居に掲げられた扁額。正泉寺の短い参道に鶴見区で一番古いと言われる「地蔵尊」があった。南西向きに安置されている地蔵は、慶安5年(1652)に供養造立したとある。この地蔵は違うお寺に祀られるため運ばれている途中、こちらの参道で休息のため一時置かれたが、再び動かそうとしたところ、持ち上げることが出来なかったと言う伝承が残されているという。『正泉寺(しょうせんじ)』の山門。南海山 瑠璃光院 正泉寺と号す。神奈川金蔵院の末寺で、玉川八十八ヶ所霊場の第八番札所。明治五年に学制が布かれると、翌六年には正泉寺に生麦学舎が始まったと。参道右手に祠があった。一番左手に「亀の供養塔」。この亀の由来は、明治四十五年(1912)の夏のある日、いつものように生麦では地曳網を引き上げていると、網の中は魚が一杯入っていて大漁だった。そして、魚の中に一匹の大海亀が入っていたと。漁師たちは、亀は龍宮のお使いだといって、亀に酒を飲ませ、甲羅には親方の名前と富士山(富士講)を書いて、海に放そうとしたら、その時が亀の寿命の万年目に当ったのか、あっけなく死んでしまった。漁師たちは、ねんごろに正泉寺の墓地に葬り、亀の墓を建て手厚く供養した。その後、江ヶ崎屋の人は漁が少なくなると、亀の墓にお参りして漁を授けてくれるようにお願いをすると、その願いがかなえられるのか大漁が続いたと。その隣右側に「お心中様」。明治十五年六月、南浜の舟着場に心中死体が流れ着いた。浜の人達はこれをあわれみ、正泉寺に埋葬しねんごろに供養した。寺の過去帳には、天明四年(1784)三月八日に男女の漂着死体を葬ったとあり、長い間には、何度かこの様なことがあったと思われる。心中供養碑はその後、火災や震災などにより、寺の片隅にかたづけられていたと。右手には「真韻(まいん)」と刻まれた石碑が。真韻とは”真の追求、韻を踏むように真実を伝え仲間を増やす”ことであると。桜さくら はかなく散り 姿にも おもひかはせし 色はみえけり 鶴 園こころだに こふる涙の 海よりや おもいしつめる 身とはなりけむ 直幸更に右手には無縁供養之碑。 「お心中様」と向かい合うように右手には祠が。真中に地蔵菩薩立像、右手には僧衣の坐像石仏、左手には観音菩薩立像が並んでいた。本堂。第108代・後水尾天皇の御代、寛永元年(1624)全浄法印による開創。本尊は海中より出現したといわれる薬師如来座像で御身8寸、春日仏師毘首羯磨の作と伝えられている。そして魚河岸通りの中央右手にあるのがこの『道念稲荷神社(どうねんいなりじんじゃ)』である。朱の鳥居が並ぶ神社。道念稲荷社に数百年前から伝わる「蛇も蚊も」祭りは、横浜市の無形民俗文化財に指定。生麦が農漁村であったころの雨乞い祈願の行事で、悪疫を追い出し豊漁も祈ったものだ。蔦で作った20mもの大蛇を担ぎ、「蛇も蚊も出たけ 日和(ひより)の雨け 出たけ 出たけ」と大声に唱えながら、町内を練り歩くとか。毎年6月第1日曜日に行われていると。『生麦水神社 (なまむぎすいじんしゃ)』。石鳥居と奥に社殿が。社殿。生麦水神社の創建年代は不詳だが、新編武蔵風土記稿に記載のあることから江戸時代末期には創建されていたと。もとは、正泉寺の寺内にあり、昭和三年に現在の地へ移った。昔から北の八幡様、本宮の道念様、原の神明様というように、南の水神様として地区の人々の信仰を集めていた。特に南浜を中心として北や本宮の漁師達は、「板子一枚下は地獄」の海の仕事に危険はつきもので、安全を願い、大漁を祈願する神として、水神宮への信仰は大変厚いものであったと。狛犬が個性的なお顔。サッカーボールを持っているがごときで。富士浅間大神と刻まれた石碑。そして『生麦事件発生現場』。生麦事件は、文久2(1862)年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列と遭遇した騎乗のイギリス人4名を、供回りの藩士が殺傷した事件。(1名殺害、2名深手)生麦事件の発生現場に、民家の塀に説明板が立っていた。「文久二年八月二十一日辛未晴天島津三郎様御上リ異人四人内女壱人 横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処 追被欠壱人松原ニ而即死 外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当村役員一同 桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候」島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た。どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去ったと。生麦事件現場の裏にあった『御社母子稲荷神社』。咳を治癒する神として『新編武蔵風土記』などにも記載されている古社。『御社母子稲荷神社』と書かれた扁額。首都高速神奈川7号横浜北線が前方に姿を現す。更に進み、右手に折れると正面にあったのが『神明社』。原の神明社と本宮の道念稲荷社の2か所に数百年前から伝わる「蛇も蚊も」祭りは、横浜市指定無形民俗文化財。生麦が農漁村であったころの雨乞い祈願の行事で、悪疫を追い出し豊漁も祈ったと。神明社 社殿。旧東海道に戻ると左手にキリンビール横浜工場第2物流センターが。路面の横浜旧東海道の表示板ここの宿「鶴見」は赤色で、次からの宿、方位も表示されていた。横浜北線及び岸谷生麦線の高架下緑地に沿って歩く。そして右手に折れ第1京浜を渡り『生麦事件参考館』を訪ねる。一般住宅の建物。幕末に東海道生麦村(現在の横浜市鶴見区)で薩摩藩士が英国人を殺傷した「生麦事件」の歴史的意義を伝えようと、地元住民が自宅敷地内に作った私設資料館「生麦事件参考館」。帰宅して調べてみると開館20年の節目となる5月3日に閉館したようであった。ただし閉館後も参考館はそのまま残すと。地元の歴史愛好家らに管理・運営をお願いすることも検討しており、資料は今後も活用していく方針だと。参考館を見学するには事前予約が必要。入館無料。そして旧東海道に戻ると左手に『生麦事件碑』が高速道路の橋梁下に建っていた。実はこの石碑は、もともと200mほど西側にあったが、横浜環状北線という道路工事のため、現在地に仮移設されているのだと。『生麦事件碑』と『生麦事件参考館 案内図』文久2年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光の行列が生麦村を通行中、4人の外国人が馬に乗ったまま行列を横切ろうとし、警護の薩摩藩士に殺傷された事件である。その内の一人、英国商人リチャードソンはまもなく絶命した。この事件に対し、イギリスは幕府に10万ポンド、薩摩藩に2万5千ポンドと犯人逮捕を要求したが、薩摩藩は応ぜず、薩英戦争に発展した。明治16年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、事件の風化を防ぐために私費を投じ、生麦事件碑を建立。地元顕彰会が毎年8月21日に記念祭を行っている。横浜市登録文化財。そして『キリン横浜 ファクトリーショップ』が奥に。右手の煉瓦造りの建物が『スプリングバレー ブルワリー横浜』つくり手たちの個性とこだわりが感じられる、多彩な6種類のビールや限定ビール、ビールにホップやフルーツなどの自然素材を組み合わせて作るインフューズドビールを楽しめるのだと。しかしこの日はグッ!!と我慢し歩を進めるつもりであったが幸い??この日は月曜日で休館であったのであった。『東子安一里塚』。神奈川県内に20ヶ所ある東海道一里塚で唯一、この6里目の東子安一里塚にはその目印が無い為、文化3年(1806)完成の東海道分間延絵図に基づき、西側の遍照院と東側の村境(現・鶴見区・神奈川区境)からの比率で場所を特定したのだと。北側の塚には榎、南側の塚は松が植えられていたと。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次横浜市鶴見区内の旧東海道を更に下る。『市場の一里塚』慶長9年(1604)、徳川家康は街道を整備し、一里ごとに5間四方の塚を築いた。塚には榎などの樹木を植え、旅人の里程の目安とした。ここは江戸より五里目の塚に当たり、横浜市内で最初の一里塚。明治9年(1877)地租改正にあたり払い下げられ、左側の塚が現存していると。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していたと。『市場の一里塚』説明板。「慶長 9年(1604)徳川幕府 は、江戸 から京都 までの街道 を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。里程の目標と人馬の休息のための目安として、江戸日本橋から一里(約4km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を 築造し、塚の上には榎(えのき)を植えました。ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治 9年(1877)地租改正 にあたり払い下げられ、左側 の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。」稲荷社。斜めから。『市場村一里塚由来記』「昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相対して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に当る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。」そして旧東海道を左手に折れ、第1京浜に向かう。この場所は箱根駅伝の1区から2区への鶴見中継点。大手町読売新聞東京本社前~鶴見までの第1区(21.4㎞)のゴールで有り鶴見~戸塚間の第2区(23.2㎞)へのスタート点。鶴見中継所にある 「明日へ走る」 のブロンズ像。 来年の正月2日には何処の大学がこの場所で首位で襷を引き継ぐのであろうか?結果は「東洋大学」であった。横浜市のマンホール。舵輪の中に横浜の象徴の一つであるベイブリッジが描かれていた。文字がないので雨水用のものか?旧東海道に戻ると鶴見区市場下町9に庚申地蔵尊が。宝暦4年(1754)造立、願主は鈴木二右衛門とのこと。一里塚から200m程の右側には下町稲荷。「鶴見川」の手前にある小さなお稲荷様。前方に鶴見川に架かる鶴見橋の姿が。右手に折れ金剛寺に立ち寄る。真言宗智山派寺院の金剛寺は、光明山遍照院と号す。脇門から境内へ。金剛寺の創建年代等は不詳ながら、嵯峨天皇(809-823)の代に尊慶法印が草創、熊野神社の別当を勤めてきたともいい、かつては市場村内の金剛寺畑と称される場所にあったと。寛永年間(1624-1645)に秀尊(明暦2年寂)が中興、金剛寺と称していたが、江戸時代末期に院号遍照院を通称としていたと。玉川八十八ヶ所霊場11番、東海三十三観音霊場9番、東国八十八ヵ所霊場10番。子育て地蔵尊。真言宗と中興の祖・興教大師(こうぎょうだいし)像。弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、この興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)。穏やかな祈りの姿。そして鶴見川・鶴見川橋を市場下町公園から見る。江戸時代より橋の名は「鶴見橋」と呼ばれきたが、大正15年(1926)に京浜第一国道(国道15号)が開通すると、国道に架けられた橋に「鶴見橋」の名称を譲り「鶴見川橋」と改称された。現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられたバスケットハンドル型ニールセンローゼ橋と呼ばれる構造のアーチ橋。2本のアーチが内側に傾斜し最高点で間隔が狭くなるカゴの取っ手のようなデザインが特徴的。鶴見川橋から東海道本線の鉄橋を見る。鶴見駅側の橋のたもとに残る『鶴見橋関門旧跡(つるみばしかんもんきゅうせき)』。柱には「旧東海道鶴見橋 旧名称武州橘樹群鶴見村三家」と書かれていた。文久2年(1862)の生麦事件後、幕府は攘夷派浪士の取り締まりのため、川崎−保土ケ谷間に番所を設置。鶴見橋(現鶴見川橋)には5番番所が設けられた。『鶴見橋関門旧跡』説明板。「安政6年(1859)6月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まりました。鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7メートル)を除き左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。文久2年(1862)8月、生麦事件 の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土谷宿の間に、20か所の見張番所が設けられました。鶴見村には、第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、第六番の番所が今の京浜急行鶴見駅前に設けられました。明治時代に入り世情もようやく安定してきましたので、明治4年(1877)11月、各関門は廃止されました。なお第五番・第六番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています。」『寺尾稲荷道』石碑。さらに道の反対側の鶴見図書館の前には、寺尾、小杉分岐点道標と馬上安全寺尾稲荷道道標が。是より25丁と記されていた。横浜市鶴見図書館前には旧東海道の説明板が置かれていた。海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿(あいのしゅく)」としてにぎわい、名物「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したと。英文でも説明されていた。図書館前のユニークな形状のモニュメント?二口金一作 「旅立ち」。1993(平成5)年に鶴見区で開催された彫刻の展示会「横浜ビエンナーレ」に出展され奨励賞を受賞した彫刻作品とのこと。鶴見駅の近くには『鶴見神社』が。この神社の左前に梅干で有名であった「しがらき茶屋跡」がある。鶴見神社はもとの杉山大明神で、1400年前の推古天皇の時の創建という。六国史の一つ、続日本後紀(承和7年、833年)には、武蔵国都築(つづき)郡杉山の社として記されているから古い。横浜・川崎の間では最古の社とのこと。大正9年に鶴見神社と改称されている。旧東海道は、鶴見駅前を通り、再び第一京浜国道と交わるが、そのまま横断し、生麦の魚河岸通りに入る。鶴見神社 境内。手水場。岩の上の狛犬。拝殿。『鶴見神社境内貝塚』説明板。「横浜市指定史跡時代は弥生時代末期から古墳時代前期。平成20年2月の発掘調査で本殿前の東西5-8m、南北約10mの範囲に厚さ70-80cmの貝層が良好な状態で遺存することが確認された。この貝層を構成する貝種は2枚貝ではカガミガイ、ハマグリ、巻貝ではイボキサゴが主体であり、8種以上の鹹水産貝種からなっている。この時代のの貝塚が良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です」『神輿の伝説』寛文年代(1661~)、鶴見川から天王河岸に流れ着いた神輿を、村人が引き揚げて当社に納めたと伝わる。 又、上流の川崎市小倉にも同じ言い伝えが残されていて、旧小倉村鎮守・天王社の祭礼の折、村人が鶴見川で神輿を洗っていて流れ出し、鶴見村方向へ流れ去ったと伝わっている。以来、小倉では鶴見神社祭礼時、かげ祭りを行うと言い伝えが残っていると。『境内末社』。大鳥神社、正一位上町稲荷大明神、秋葉神社、関神社、祖霊社…と続き、最後には寿老人が祀ってあり、本殿の後ろには富士塚が鎮座していた。祖霊社と寿老人の間に、同じような摂社がある。『境内奥の富士塚』。境内の奥、本殿裏に現存する富士塚の頂に富士浅間社 が鎮座する。富士塚の下には様々な石碑が。『寺尾稲荷道道標 』。「寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和三十年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」右側面には「是より廿五丁」左側面には「宝永二乙酉二月初午 寛永三庚午十月再建 文政十一戊子四月再建之」とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。」『清明宮』。清明宮の祭神はノーベル賞候補とも言われた作家・三島由紀夫と、楯の会メンバーで三島と共に自決した森田必勝。このように社祠の形で三島由紀夫を祀っているお宮は日本でもここだけではなかろうか。40回目の命日にあたる2010年11月25日に建立されたとのこと。1970年11月25日、三島氏と楯の会メンバーは自衛隊市ヶ谷駐屯地に総監を人質にとり、バルコニーから演説。自衛隊の決起・憲法改正を訴えた後に割腹自決した。享年45。続いて楯の会学生長だった森田必勝も自決。享年25。なぜ鶴見神社に三島由紀夫氏なのか?ネットで調べてみると、こんな記載を発見。鶴見に、三島氏が作家デビューしたての頃、毎夜のように通っていた「仔馬」というBARがあったと。三島氏が創設した「楯の会」のメンバーが、彼を祀る神社がないことから、その縁を受けてこの鶴見神社内に「清明宮」を遷座させたのだと。社の横には、三島由紀夫氏の筆跡からおこした石柱が建っていた。『鶴見の田祭り』説明板。鶴見の田祭りは、今から約700年前の鎌倉時代からこの鶴見の地に受け継がれてきた伝統ある行事が明治維新後の1875年(明治5年)に中断されてしまったが昭和62年に奇跡的に復活をとげた芸能であると。そして『清月』に立ち寄る。鶴見名物「よねまんじゅう」は、かながわ名産100選にも選定。店内。『お江戸日本橋』の歌の2番の歌詞の中で「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう」と唄われているのだ。私も土産に「よねまんじゅう」を購入した。そして京急鶴見駅近くの旧街道を進む。右手にホテルテトラ鶴見が。そして入口に歓迎の人形が。胸には『ハゲ割』・・・・・・・の書き込みがぶら下がっていた。同行の旅友Sさんが記念撮影。二人もこのホテルに宿泊すれば500円割引間違いなしなのであった。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2019.01.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次正月三が日は駅伝三昧でしたが、今日からは昨年来の『旧東海道を歩く』の続きを暫くUPさせていただきます。昨年の2月に日本橋から品川(☚リンク)まで歩き、一時中断していましたが10/26月に(金)に旅友Sさんと旧東海道53次歩きを再開し、、品川から川崎まで(☚リンク)31,000歩の弥次喜多道中を完了。引き続き11/5(月)に前回と同じ時間に自宅を出発して川崎駅へ。そして川崎から保土ヶ谷までの旧東海道を歩いたのです。川崎宿から神奈川宿を経由して保土ヶ谷宿までの赤線が今回歩いた旧東海道です。川崎駅でSさんと合流し、まずは神奈川宿を目指す。時間は8:45。川崎駅を出てR川崎駅前バスターミナルを歩き旧東海道のこの日のスタート地点に向かう。この日のスタート地点は、ここ 小土呂橋(こどろばし)。旧東海道が新川掘という排水路を横断するところにかかっていた橋で、昭和6~8(1931~1933)年に埋め立てられた。この時、埋められずに撤去され付近の民家に引き取られたのが花崗岩製、高さ130cmのこの立派な親柱(擬宝珠)であった。そして数十年を経て、その存在に注目が集まり一時的に教安寺に移された後の昭和59年(1984)、市政60周年記念にと小川町町内会によって元の場所、小土呂橋交差点脇の歩道に復活を果たしたと。約280年前、ベトナムからきたゾウが、この橋を渡って江戸に向かったのだと。小土呂橋 説明板。「この通りに幅五メートルほどの流れがありました。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水でした。この川が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが 「小土呂橋」です。小土呂は、砂子、新宿、久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた四町の一つで、古くからの地名です。橋の名残は今、バス停や信号の名に見られるばかりですが、この先にあったいくつかの橋のうち、この流れに沿って 「新川橋」、「さつき橋」は今もその名をとどめています。この写真にある橋の親柱が残されていたのをここに移設し、当時をしのぶよすがとしました。」と書かれていた。ひらがなで『こどろばし』と刻まれているのであろう。かに道楽 川崎店。本堂が修理中の『一乗山 教安寺』。『良いお参りを』と。浄土宗寺院の教安寺は、一乗山究竟院と号す。天文22年(1553)の起立で開山は乗誉教安。江戸後期には増上寺末の触頭ふれがしら寺院。安永2年(1773)3月、火災により本堂・庫裡が焼失したが、同6年12月、14世艶誉弁相によって再建された。また戦災によって被害を受けたが、昭和35年(1960)に再建。境内には徳本の六字名号碑があり、本堂には永井白鷗が浄土の荘厳を描いた「無量寿経」と題する襖絵があると。鐘楼。屋上に十字架のある建物が。『日本キリスト教団 川崎教会』そして『史跡東海道川崎宿 川崎宿京入口』。「宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出ると謂ゆる八丁畷の一本道、土居内は八三二間、このなかに小土呂、砂子、新宿、久根崎の宿を構成する四つの町があった。 江戸時代後期における人口は七七〇戸、三,一〇〇人余りであり、伝馬役を負担する農民のほか、旅籠、大工、傘職、仏師、左官、桶職、経師、指物師などさまざまの商人や職人が住んでいた。文久二年(一八六二)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外人警護のため第一関門が設けられ、以下保土ヶ谷宿まで十九ヶ所に設けられた関門番所には、宿役人二名、道案内三名などが詰めて警戒にあたり、非常の際には半鐘を鳴らし、隣りの番所と連絡をとったのである。 」と。『関札(せきふだ)』「棒鼻の石垣の上にはその日その宿場にお泊りになる大名の関札が掲げられていました。本陣の前にも掲げられたこの関札には立派な檜の板が使われ、毛筆で堂々とした書体で記され、非常に大切にされました。これを粗末に扱ったために事件や紛争になって処罰された者が出た事件もあったほどです。左は川崎市市民ミュージアムに保存されている実際の関札を複製した物です。「加藤遠江守宿(かとうとおとうみのかみやど)」と書かれています。」と。『東海道川崎宿史跡めぐり』案内板。川崎区小川町の恒春園の入り口、旧東海道ぞいに石碑『ここに幸あり』の石碑が。同施設の開設10年を記念して1989年に建てられたものであると。NTTドコモ川崎ビル。「川崎警察署東側入口交差点」を渡り先へ進んで行く。少し雰囲気が変わった感じが。『日進町町内会館「麦の郷」の由来』。「京急八丁畷駅前に松尾芭蕉の句碑があります。元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵をあとに故郷伊賀上野へ向かいました。芭蕉を見送りに来た弟子たちは、名残を惜しんで六郷川(多摩川)を渡って川崎宿に入り、このあたりまで来ました。そして別れを惜しんで弟子たちと句を詠みあいます。弟子たちに対して、芭蕉が詠んだ句が 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」です。芭蕉はこの年の10月大阪で不帰の客となりました。享年51才。弟子たちにとって、この場所での別れが、本当の別れになりました。弟子たちが詠んだ句は、旧東海道沿い川崎警察署のすぐ近く、ビバース日進町1階「芭蕉ポケツトパーク」で見ることができます。平成16年(2004年)、日進町町内会館は新しく建て替えられ、その機に、松尾芭蕉の句碑にちなみ会館名を「麦の郷」と名付けました。」と。そして右手に『芭蕉の句碑と川崎宿絵図 江戸時代後期』「川崎宿は全長約1。5Kmのほぼ中央に宿駅業務をとりしきる問屋場と高札場があり、その上手に佐藤、下手に田中の二つの本陣がありました。旅籠には奈良茶めしで有名であった「万年屋」など72軒がありました。そのほかに、教安寺、一行寺、宗三寺などの寺院、川崎宿の鎮守である山王社(現在の稲毛神社)があり、これらの寺社は現在も同じ位置にありますので、往時の宿場の様子を推察する手がかりとなりましょう。この芭蕉の句碑は上手の棒鼻(宿場入口)付近に文政13年(183O)俳人一種によって建立されたもので、そののち現在の位置に移されました。この棒鼻を出るといわゆる八丁畷の並木道になります。旅人は、富士の雄姿をながめながら次の宿へ足をはやめたことでしょう。」と。旧東海道 川崎宿日進町町内会館『麦の郷』。『俳人 松尾芭蕉の句碑』が右手に。川崎宿 『芭蕉の句碑』。 元禄七年一六九四年五月十一日(現在の六月下旬)に俳人芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国柘植庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べながら休憩した。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送って」と題して各人が俳句を読みあった。弟子たちの句にたいし芭蕉は【麦の穂を たよりにつかむ 別れかな】と返歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しましたと。『麦の穂を たよりにつかむ 別れかな』小さな祠には地蔵尊が。八丁畷(はっちょうなわて)駅手前の京急の踏切を渡り左手に。京急八丁畷駅の上にはJR南武線の八丁畷駅が。江戸時代、東海道を京都に向かう際、川崎宿を抜けると、隣の市場村(現鶴見区市場上町)まで田んぼの中の真っ直ぐな道(畷)が八丁(約870m)続いていたことが八丁畷の由来であると。街道の 両側には松、杉、榎が植えられ当時は「八丁縄手並木」と呼ばれていたと。そしてこの日の旧東海道の両側にはカリン並木が。現在の「かりん並木」は地元、下並木町内会の要望を受けて川崎市が植樹したもの。春に白い花が咲 き、秋にはたくさんの実をつける。毎年11月の原則第2日曜日には町内会でかりんの実を収穫するかりん祭りが開催され、来場者にはかりんの実が配られ、かりん酒づくりの体験もできると。町内会でつくっ たかりん酒が実費で販売される他、4~5店の模擬店が並び、にぎわいをみせているのだと。旧東海道と書かれた石碑。「無縁塚」の隣には大きなタイル画が掲げられていた。川崎中学校美術部の製作で歌川広重の「六郷渡舟」を模したものとのこと。こちらが歌川広重の東海道五拾三次 川崎。踏切を渡ってすぐの場所に「無縁塚」があった。『八丁畷の由来と無縁塚』の説明板。「東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。このあたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることが分かりました。江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としてます。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬してのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。」と。『慰霊塔』。『八丁畷駅』。江戸時代、東海道を京都に向かう際、川崎宿を抜けると、隣の市場村(現鶴見区市場上町)まで田ん ぼの中の真っ直ぐな道(畷)が八丁(約870m)続いていたことが八丁畷の由来であるという。街道の 両側には松、杉、榎が植えられ当時は「八丁縄手並木」と呼ばれていたと。川崎市の雨水管マンホールの蓋中央にある市の花「ツツジ」を、市章と七個の市の木「ツバキ」が囲んでいるマンホール。 ツバキの数は、七つの区を表していると。 川崎宿と別れ、東海道をさらに進むとやがて旧市場(いちば)村へ入る。右手に『熊野神社』が。『熊野神社 略記』。9世紀はじめの弘仁年間に、紀州熊野本宮の御分霊を勧請し創建されたと伝わる「熊野神社」。かつては鶴見川の西岸にあったと。その後江戸期・明治期の2度の遷座を経て、もともと八幡社があった現在地へ鎮座。明治期には市場村の村社に列せられたと。現在の御祭神は、国常立尊・伊邪奈岐命・伊邪奈美命。また「鶴見七福神」のひとつとして「福禄寿」も祀っているとのこと。境内に江戸時代の俳人が鶴見橋を詠んだ句碑が残っていた。旧東海道・鶴見橋を唄った「朝夕や 鶴の餌まきか 橋の霜」(加舎白雄)「五月雨や 鶴脛ひたす はし柱」(大島蓼太)の二首が刻まれていると。どちらも江戸時代の俳人だと。熊野神社 拝殿。『熊野神社』と書かれた扁額。石灯籠は金属製アングルで補強されていた。 ・・・つづく・・・
2019.01.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして次に訪ねたのが『内侍所奉安所跡』の由緒書き。「明治元年(1868)10月12日、明治天皇は京都から東京に行幸の際、田中本陣で昼食後、休息され、高齢者や善行者に褒美を賜りました。この時の一行は、総勢7,800人の大行列で、この際、「内侍所」は田中本陣の隣、紀伊国屋平兵衛宅裏(現在碑が立っている辺り)に設けられました。」と。『田中本陣(下の本陣)と田中休愚』。「川崎宿 に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(1628)に設置されている。田中本陣はその場所がもっとも東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家にはゆるされなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、川崎では十一月から十二月にかけて六回、田中本陣で行う旨の布達がだされている。宝永元年(1704)、四十二歳で、田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、傳馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」(みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍宗吉にも認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。川崎宿起立四百年(2023)にむけて、その文化と歴史をまちづくりに活かそう東海道川崎宿2023」と。『旧東海道 鍋屋横丁』。「旧東海道」と彫られたものや町名の彫られた石柱が立てられていた。町名は鍋屋横丁や稲荷横丁などがあった。『東海道かわさき宿交流館』を訪ねる。「東海道かわさき宿交流館」は2013年10月に開設された。江戸時代に東海道五十三次の一つとして栄えた川崎宿にまつわる資料を集め、最新のデジタル映像や模型も使って紹介していた。入場は無料。『飛脚の六助、通称六さん』エントランス右手のモニターで「東海道かわさき交流館」の公認キャラクター・六さんが、江戸時代の川崎宿の様子や明治以降の川崎の発展についてわかりやすく解説してくれていた。エントランスには、川崎宿に実際にあったお茶屋さん「万年屋」を模したお休み処が。『東海道中膝栗毛』の弥次さん・喜多さんも物語の中で、この「万年屋」に立ち寄るなど、当時、川崎宿でもいちばんの人気店だったと。階段にも東海道五拾三次が。3Fには『川崎ゆかりの人物』が紹介されていた。川崎宿から始まり南部地域を中心として発展した川崎の歴史の中でゆかりのある人物を紹介する展示。東海道にゆかりの人物を紹介するパネル・用水の神様と呼ばれた「小泉次太夫」・川崎の礎を築いた優れた民政家「田中休愚」・川崎宿を偲ばせる芭蕉の句碑「松尾芭蕉」・海を陸地に変える殖産興業の先駆者「池上幸豊」・工場誘致に尽力した初代川崎市長「石井泰助」・京浜工場地帯の生みの親「浅野総一郎」・川崎が生んだ詩人「佐藤惣之助」・川崎が生んだ世界的スター「坂本九」。「坂本九」は川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説があると。川崎が生んだ詩人「佐藤惣之助」。川崎宿を偲ばせる芭蕉の句碑「松尾芭蕉」。昔の多摩川河口の様子。博物館明治村に移設された『六郷川鉄橋 』。明治5年、日本に初めて鉄道が開業された時、新橋横浜間に造られた大小22の橋は全て木橋であったと。よって本初の鉄道路線である新橋駅 - 横浜駅(現桜木町駅)間が、明治5年9月12日の正式開業を迎えた時の多摩川に架かる六郷橋は木造であったことが解ったのであった。イギリスから鉄材を輸入して組み立てていたのでは、間に合わないという理由からと。開通の後、複線化の計画と共に鉄橋への架け替えが進められ、明治10年11月、日本最初の複線用鉄橋として、この橋が完成した。開通式は、時の工部卿伊藤博文も出席して、盛大に行われたと。橋の全長は約500mで、本橋と避溢橋からなり、本橋部に長さ100feet(約30m)の錬鉄製トラス桁(ポニー・ワーレン型)六連が使われていた。当時のお雇い外人、土木技師ボイル(英人)の設計したもので、明治8年(1875)英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作され、輸入されたと。記念撮影写真ポイント。 背景は「六郷の渡し」を船で渡る様子が再現されていた。まるで本当に江戸時代にタイムスリップした如し。奥には、子供用から女性・男性用までカツラや着物が置かれていた。これらの衣装を着て記念撮影できる写真スポット。川崎宿の見どころが「ものがたりBOX」という映像装置でわかりやすく解説されるなど、見ていて飽きない工夫が満載。また、川崎宿の再現模型は横から覗くと、まるで昔ながらの街並みの中に入り込んだような錯覚が。右に多摩川の流れが。現在の東海道かわさき宿交流館~神奈川方面周辺。新川に架かる小土呂橋周辺。『江戸時代の旅姿』。江戸時代も文化・文政期(1804~1830)ごろになると、伊勢参宮を中心とした庶民の旅が盛んになった。そのころに出された『旅行用心集』という本では、旅に出るときは持ち物をできるだけ少なくすることとしたうえで、「道中所持すべき品の事」として、次のような物をあげていると。矢立、扇子、糸針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油(びんつけあぶら)、ちょうちん、ロウソク、火打道具、懐中付木、麻綱、印板、鉤(かぎ)。『江戸時代の旗本と道具』。「旗本」は江戸時代には将軍家直属の家臣のなかで1万石以下,御目見 (おめみえ) 以上の者をいい,将軍から土地あるいは蔵米を給与された。諸藩の家臣と違って,実際に土地を与えられることが多く,3000石以上の者は知行所に陣屋を設置して支配にあたっていた。 3000石以下の者は支配権を幕府の代官にゆだね,年貢だけを収納したと。『江戸時代の旅』。宿場と宿場との距離は様々で、歩いて半日程掛かる16㎞以上離れている場所もあれば、2㎞弱ほどの走って数分の場所もあったと。江戸時代の旅人は1日約30~40㎞も歩いたと。『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八の二人が江戸を出て最初に泊まったのは戸塚宿、2日目は戸塚から小田原まで約40km、3日目は小田原から箱根まで約30km強を歩いていると。壁一面に歌川広重の東海道五十三次の浮世絵が貼られていた。日本橋から始まって京都の三条大橋まで。『日本橋』『品川』。ちなみに川崎宿は六郷の渡しが書かれていた。そして我が『藤沢宿』。川崎宿 解説。川崎宿と、現在の川崎の比較図が。そしてJR川崎駅前を通り『宗三寺』へ。本堂。曹洞宗寺院の宗三寺は、瑞龍山と号す。宗三寺の創建年代は不詳だが、鎌倉時代にあった禅宗勝福寺を起源とするものと伝えられています。勝福寺は、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となり泰綱の代には檀越となるなど頗る繁栄したといいますが、その後衰退、戦国時代に小田原北条氏の家人間宮豊前守信盛(法名瑞龍院雲谷宗三)が開基となり中興、末吉村寶泉寺第四世僧自山を招いて中興開山し、瑞龍山宗三寺と号したと。准秩父三十四札所観音霊場20番。『川崎宿の由来』右から品川宿、川崎宿、神奈川宿の図。そしてJR川崎駅近くで、この日の反省会を行い帰宅したのであった。尚、その後に今回は訪ねなかった第一京浜(国道15号線)周りの名所を訪ね『ブログアップ』👈リンク していますので、ご笑覧ください。 ・・・その7・・・に戻る ・・・旧東海道を歩く(品川~川崎)END・・・ ・・・旧東海道を歩く(川崎~保土ヶ谷)つづく・・・
2018.11.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次六郷橋北詰の交差点を過ぎると、前方に第1京浜・六郷橋への導入路が見えて来た。『六郷の渡し跡』の説明板。慶長5年徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けられ、以来修復やかけ直しが行われた。元禄元年7月の大洪水で六郷大橋は流され、幕府は架橋をやめ、明治に至るまで船渡しとなった。当初渡船は、江戸の町人が請け負っていたが、宝永6年3月川崎宿が請け負うことになり、それによる渡船収入が宿の財政を大きく支えた。現在では、川崎側に渡船跡の碑と、明治天皇六郷渡御碑が建ち、欄干に渡船のモニュメントが。『止め天神』を訪ねる。北野神社(きたのじんじゃ、正式社号は北野天神(きたのてんじん))は、東京都大田区仲六郷にある神社(天満宮)である。「落馬止め天神」「止め天神」と称されるほか、地名から仲六郷北野神社とも呼ばれる。2017年時点では六郷神社の兼務社。境内には本殿、神楽殿が各一棟。1945年4月15日の空襲により社殿が焼失し、1684年(貞享元年)の寄進による手水石が往時を伝える。1983年(昭和58年)再興。『落馬止め天神』と刻まれた石碑。江戸幕府第 8 代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたことから、東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称されるに至り、この加護にあやかり将軍指南役の柳生家留守居役が近くに屋敷を構えた。農民や町民は「止め天神」とのみ呼んだという。天満宮本来の学問のみならず、災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願する者の参拝を受ける。毎月 25 日を縁日とし、この日には、木馬にまたがり祈願する江戸時代から伝わる神事が執り行われているとのこと。狛犬。右が子抱きで阿形。狛犬。左が鞠を抱え吽形。本堂。『鶴亀の石』。左は「亀は万年」、右は「鶴は千年」である。 もとは力自慢の持ち上げる「力石」で、多くの神社にある。江戸期の行楽が賑わうと共に参拝を楽しませる目的で、縁起のいい石として追加され、安置されたと。六郷橋を都内側の六郷土手から。東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町との境の多摩川に架かる、長さ443.7m、幅34.4mの、国道15号(第一京浜国道)が通る橋。六郷橋は、千住大橋、両国橋とともに、江戸の三大橋。多摩川の川崎側にある、左から興和川崎西口ビル、川崎テックセンター、川崎東芝ビル。六郷橋を渡る。比較的交通量は少なかった。河川敷の多摩川六郷橋緑地野球場。その先には産業道路に架かる大師橋の姿が。箱根駅伝の1区の17.6km地点。近年、各選手が牽制しあいスローペースの展開になることが多く、六郷橋までは集団走が続く。 六郷橋の下りからラスト3キロのスプリントレースになるのだ。そして六郷橋を渡ると神奈川県川崎市に入る。県境は多摩川をクネクネと。脇道が旧東海道。欄干に渡船のモニュメントが。六郷橋の厄除け『厄除川崎大師』。六郷橋を川崎側から振り返る。渡詰の袂に『明治天皇六郷渡御碑』。明治以降も街道の要所として利用され明治元(1868)年、明治天皇が東下の際に、船橋を渡ったことを記念する碑が立っていた。明治天皇が御幸された際にまだ多摩川に架橋されておらず、川の中に23艘もの舟を並べて橋のように渡してその上を渡った時の模様が描かれていた。裏側には説明文が。六郷橋の川崎側たもと。『史跡 東海道川崎宿・六郷の渡し』の歴史が書かれていた。道路下を潜り進んで行くと右手に『万年屋跡(まんねんやあと)』が。万年屋は、江戸時代、東海道川崎宿にあった掛茶屋。旅人のほかに、厄年の男女が川崎大師参詣の途中に多数、立ち寄ったので、とくに繁昌した。『江戸名所図会』には、挿図のみが掲載され、記事がないが、当時は説明を要しないほど知名度の高い旅館兼茶屋であった。奈良茶飯が名物であったとのこと。『六郷の渡しと旅籠街』。「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠町。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。 」と。『川崎宿の家並 』「旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒、 文久三年の宿図から 」と旧東海道の石柱を発見。『川崎稲荷社』を訪ねる。戦災により創建は不明だが、徳川吉宗が江戸城入りの際、社地で休息したと言われている。現在のものは昭和26年(1951)に再建。川崎新宿の「馬の水飲み場」から稲荷前を通る道は稲荷横丁と呼ばれ、大師用水の先で府中道に合流する。東に向かうと東海道を越えて真福寺の参道に至り、更に大師道に続いていた。『真福寺』。瑠璃光山金剛院と号す。真福寺の創建年代等は不詳ながら、当寺の薬師如来は、聖武天皇孝謙天皇二代の守護佛として崇敬を受けたものでその後ほどなく一寺となったと。法印覚眼が至徳元年(1384)に再興、栄誉(元禄12年1699寂)が中興したといいます。東海三十三観音霊場34番、玉川八十八ヶ所霊場13番、東国八十八ヵ所霊場2番。庚申塔(附 石造鉢形香炉)が右手に、左手に弘法大師修業像。左手に本堂。そして『稲毛神社』へ。脇の入口から境内に。樹齢1千年以上と言われている大銀杏は、江戸時代には東海道を旅する者たちに「山王様の大銀杏」として知られ、安藤広重の『武相名所旅絵日記』などにも描かれているとのこと。大銀杏の周囲には、十二支のブロンズ像が配されていた。自分の干支の柱から順に回って行くのが、「十二支めぐり」として知られる。『十二支巡りの碑』。私は『虎年』生まれ。『第六天大明神』。『堀田稲荷神社』と『第六天神社』説明板。境内には明治の初めに神仏分離された時に寄せ集められた末社が多数存在。石の鳥居と拝殿。子(ねの)神社(左))と大鷲(おおとり)神社。こちらが正式な入口。神社境内では『第66回 川崎菊花大会』が開催されていた。懸崖の開花はこれから。福助作り。三本仕立て。『旧六郷橋親柱』。慶長5(1600)年に徳川家康により、六郷(大田区)~川崎間に六郷大橋が架けられてから、洪水の度に修復や架け直しが繰り返されたが、貞享5(1688)年の大洪水による橋の流失を機に江戸幕府は橋を架けることを断念し、明治に入るまで渡し船による渡河が続いた。明治7(1874)年に左内橋、明治16(1883)年に六郷橋が架けられたが、いずれも大洪水で流失。その後、近代化が進む時代に即応した陸上輸送の強化を目的に、大正14(1925)年、タイドアーチ型(アーチの両端を真っ直ぐな部材〔タイ〕でつないだもの)の「旧六郷橋」が架けられ、昭和59(1984)年に現在の橋に架け替えられるまでの約60年間、「陸路の帝都の門」、国道15号のランドマークとして活躍し、川崎の発展を支えた。この親柱は、同橋の川崎側に置かれ道行く人に親しまれてきたもので、平成14(2002)年11月に川崎商工会議所・国・市・地域住民の協力の下、川崎区の稲毛公園内に移設され公開されていた。更に京急川崎駅方面に進む。『東海道五拾三次 川崎』。『佐藤本陣跡・佐藤惣之助生誕の地』。佐藤本陣跡(交差点北西角)・本陣跡碑(交差点北東角)。川崎宿にあった三つの本陣(大名や公家専用の大旅館)の一つ。別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物だった。幕末には14代将軍徳川家茂が、京に上る際に宿泊したことでも知られる。平成19(2007)年に佐藤本陣跡の解説板が設置された。大正時代に活躍した詩人で歌謡曲の作詞家としても有名な佐藤惣之助は、代々本陣職を務めてきた佐藤家の生まれ。本陣跡の向かい側、川崎信用金庫本店前には昭和54年(1979)に生誕の地記念碑が建てられ、円鍔勝三氏による彫像と嗣子・佐藤沙羅夫氏による揮毫の『青い背広で』の詩が刻まれる。川崎市の下水道マンホール。商店街アーケード・銀柳街(ぎんりゅうがい)。この商店街は、失業者の再雇用を目的に「古川」という川を埋め立てて作られた商店街で、当時は名前は存在しなかった。1945年の米軍による空襲で、川崎市街地は大打撃を受けた。戦後間もない1946年(1947年とする説もある)、地元の人たちによって荒廃したこの場所に柳が数本植えられた。それを見た商店街の人々は、空襲の苦しみに耐えながらも生活をしている自分達と、大雪にも負けない柳とを重ねた。その柳に、深く美しい光を意味する銀を合わせ、この商店街を「銀柳街」と名付けたと。駅前納骨堂 眞應殿前には可愛らしい地蔵様の姿も。 ・・・その6・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次環七美原通り交差点を渡り大森海岸方面に進む。寛文9(1669)年創業の海苔問屋・「海苔の松屋」が交差点の角に。 小売りも可能なこちらは、江戸時代初期創業の大森最古の店。佐賀県有明産のみを扱っていると。『旧東海道 大田区内の旧東海道のうち南・中・北原をまとめ三原通りと呼ぶ。』と書かれた石柱。『中原と南原の境』の立て札。ここからが中原(仲町商店街)になるようです。仲町商店街を進む。『徳浄寺』。浄土真宗本願寺派の寺。本尊は阿弥陀如来。『旧東海道(美原通り)』。かつて海苔の生産地として栄え、現在も多くの海苔問屋があり、街の至る所に昔の面影を残している約450mに渡る「美原通り(みはらどおり)」。美原通りは、江戸時代に徳川家康が人馬と情報の往来幹線として整備された旧東海道の一部で、当時の道幅が残る区内で唯一の場所であると。商店街には、2つの商店会がある。平和島駅側から商店街に入ると「美原通り 仲町商店会」と書かれている提燈風の照明が(写真左)。商店街の真ん中辺りから平和の森公園側の交番辺りまで「大森本町 ミハラ通り北商店会」と書かかれた提燈風の照明(写真右)。『内川案内板』東邦医大通りが架かる富士見橋の先には、内川を紹介する案内板が設置されており、内川の流れや、そこに棲む鳥や魚類などが記載されていた。『馬込や山王の木原山にみなもとを持つ内川は、大森町の山谷通りと、東邦医大通りの交差する大森西四丁目のバス停近くでいっしょになっていました。このあたりの内川は水の量が多く、流れが速かったので「ドンドン川」とか「ドンドン引き」と言われていました。今の大森四丁目のバス停あたりにとよをかけ、諏訪神社や浅間神社のある大森西二丁目側に水を送ったのでかけどよのあったこのあたりをとよ口と呼んでいました。現在の大森西四丁目10-11-12番の交差点付近には”せき”が作られていました。”せき”と言っても、高さ3メートル、はば30センチくらいの石の水門が取りつけられただけのものです。内川は米作りにはむかない水でしたから、この”せき”には、呑川から六郷用水が引いてきてありました。”せき”の水門はふだんは開けてあり。用水が川底の低い内川にどんどん流れ落ちるようになっていました。内川には二つせきがあったので、六郷用水の入ってくる「とよ口」の”せき”を「入り」と言いました。”せき”と”かけどよ”の間には水車小屋があり、昼も夜も大切な水がむだに使われないように見守ったり、水門を開けたり閉めたりして、水の調節をしていました。そして米作りのために、水が必要な5月から9月まで水門は閉められます。内川に流れ落ちなくなった用水は、この”かけどよ”を通って。大森のあちらこちらの田んぼにゆきわたるようにしてありました。この”せき”は、東京湾からの海水があげ潮になったときに、「とよ口」に流れこまないようにつくられたものです。水門を閉めると、川の落差が3メートルにもなり、はめ板の上から水が滝のように流れ落ちていました。大正7年大森海岸に水道会社ができましたが、水道が大森の家庭に広くゆきわたったのは、大正12年ころです。それまで私たちの町では、水屋さんから買ったり、自分たちで汲んだりして、内川の水を飲み水として利用していました。9月半ばになって水門が開かれると、子どもたちはいっせいに川に飛びこみ、コイやフナ、ナマズなどを手づかみでバケツいっぱいに取りました。水泳もこのせきで覚えた人が多く、この”せき”は当時、大森町周辺の少年たちにとって楽しい遊び場でした。』と。内川橋から内川を見る。羽田道(するがや通り)の碑石。内川が旧東海道・美原通りと交差するところに「するがや橋」(内川橋)はある。記念の銘板には、『羽田道(するがや通り)、羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれ「駿河屋」という旅宿があったので、現在の「するがや通り」という名が残されている。』と記載されていた。橋を渡り左側に入る道が「羽田道(するがや通り)」である。この道は平間寺(川崎大師)に参拝するため、羽田や大師の渡しに向かう道である。「するがや橋」(内川橋)を振り返る。『貴菅神社』。創建の年代は不詳。江戸時代、大森村のうち本宿の鎮守であった。1909(明治42)年7月、東海道をはさんで真向かいに祀られていた菅原神社を合祀している。大正時代、1號國道(現・国道15号、第一京浜)の交通量増大に伴う改修が行われた影響で、東海道沿いから遷座した。当社の正式な社号は「貴舩神社」だが、昭和に入り「貴菅神社」「貴菅さん」と俗称されるようになったという。1945(昭和20)年4月の空襲により社殿・末社・社務所などが灰燼に帰してしまう。終戦後、1952(昭和27)年に社殿が再建、1965(昭和40)年には末社も復興を果たした。第一京浜の拡幅予定に伴い、2014(平成25)年に社地が西側の京急線寄りに遷され、社殿も修築されている。梅屋敷入口。そして『聖蹟蒲田梅屋敷公園』入口。大田区蒲田にある和風庭園である。その名の通り多くの梅が植えられている。『梅屋敷の由来』江戸時代に薬屋を営んでいた山本久三郎が、文政年間に梅を始めとする多くの木を植え、茶屋を開いたことが起源とされる。『忠魂碑』。文字は「元帥伯爵 東郷平八郎」が書いたものであると。『戦没記念』碑。『相撲土俵』『狂歌堂真顔(きょうかどうまがお)の歌碑(復元)』昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石があったと。「旅人の 神に手向の 幣代や 白絹咲し 庭中の梅」『梅路、梅志の句碑』。「しら梅の梢や月の高みくら 七十五歳梅路」「松竹は表にうらハ梅の春 六十五歳梅志」「弘化三年のとしきく月 梅家女誌」とある。梅志とは久蔵の妻のことであろう。二人の墓は蒲田の妙典寺にあるという。『山本久蔵の句碑』天保五年(1834年)の建立で「神酒ささぐ間に鶯の初音かな 麦住亭梅久」と刻まれていた。奥には『あやめ園』が。『明治天皇と梅屋敷』説明板。梅屋敷の花は明治天皇も愛でられ、1868年から1897年にかけて9回もここを訪問されたと。1873年3月6日の観梅の際、小梅一株を自らお手植えになりこの梅は「仙粧梅」と称されたとか。とくに明治6年3月6日の観梅のおりには自ら梅の木をお手植えされたとのこと。この梅は後に「仙粧梅」と呼ばれて、庶民にも親しまれたらしい。そんな由緒もあり、梅屋敷は昭和8年に史蹟に指定され、昭和28年、大田区に譲与された。ゆえに、正式には「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」という。『里程標(復元)』「距日本橋三里十八丁」「蒲田村山本屋」と刻まれていたとのこと。伊藤博文や木戸孝允が梅屋敷で新年の宴会を開いた時、二人が合作した絵の中にも、その里程標は描かれていたという。残念ながら、里程標は戦後失われてしまったと。園内にはかつて多数のこうした石碑があったらしいが、戦後の混乱期にほとんどが失われてしまった。今はそれらしく整備がなされてはいるものの、当時の風景とはまるで違うのだろう。梅屋敷を後にし更に進む。『日本橋から15km』。右手に京急蒲田駅が見えて来た。呑川にかかる夫婦橋を渡る。呑川(のみかわ、のみがわ)。『京急蒲田駅』。高架になった京急線。ここにかつて存在した踏切があったのだ。この第一京浜という交通量の多い道路をぶった切る踏切。その踏切は、毎年行われる箱根駅伝の際には、出場選手が通過するために遮断時間を短縮するという、ことまで行われていたほどかなりネックとなっていた踏切だったのだ。高速のジャンクションの如し。ネットで検索したら、この光景を「蒲田ジャンクション」と命名している人もいたのだ。『日本バイから15km』。『寳珠院』山門が右手奥に。寳珠院本堂。真言宗智山派寺院の宝珠院は、御幡山建長寺と号す。創建年代は不詳だが、戦国時代には既に創建されていたと伝えられる。もと宝幢院末で、六郷神社の別当寺を務めていた。玉川八十八ヶ所霊場85番、東海三十三観音霊場27番。 ・・・その5・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に川崎に向かって歩く。南大井周辺の地図。そして『鈴ヶ森刑場跡』に到着。南大井にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた刑場であったと。元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったと。1651年(慶安4年)開設される。1695年(元禄8年)測量された検地では、間口40間(74メートル)、奥行9間(16.2メートル)、であったと。1871年(明治4年)閉鎖される。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔による処刑も行われたとの記録も残されている。当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、特に浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと。『しながわ百景:鈴ヶ森刑場跡と大経寺』。『礫台(はりつけだい)』。最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変で由井正雪とともに幕府転覆を狙った首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされていると。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされたと。真ん中の穴に柱が立てられその上部に縛り付けられて刺殺されたのだと。『火炎台』。丸い穴に柱を立て生きたまま縛り付けて焼き殺したと。ここで刑死した代表格が、八百屋お七。礫台そしてこの火炎台には同じ生花が手向けられていた。『鯉塚』近くに「鯉塚の句碑」という物があると。『鯉塚の句碑: 擬宝珠型 総高189cm。森ヶ崎の海岸近く、現在の大森第一中学校あたりに、大きな養殖場が経営されていた。この鯉塚の句碑は大正七年(1918)八月に、この養魚場の池畔に鯉供養をかねて建てられたものである。句は、おそらく森ヶ崎鉱泉宿に遊んだ俳人が、養魚場の池の鯉の飛び跳ねる雄大な姿を句に詠んだものであろう。』と。歌舞伎の舞台、『(鈴ケ森)』で有名な供養塔。高さ3m余りの石塔に極太のひげ文字で「南無妙法蓮華経」と書かれ、裏面には「元禄11年(1698)の年号とこの供養塔を建立した「法春比丘尼」「谷口氏」の名が刻まれていた。宝暦年間(1751~64)に書かれた随筆『江戸真砂六十帖』によると、法春は本郷の商人だった谷口与右衛門の母。「生類憐れみの令」のしかれていたころ、与右衛門が酒に酔って犬を切り、小塚原の刑場で処刑されたことを悲しんで、小塚原と鈴ケ森の刑場にこの供養塔を建てたと。『みんなのお墓 埋葬之聖霊』『首洗の井』斬首した首を晒す前にここで血を洗ったのだと。今は金網で蓋されていた。多くの石碑が。『六十六部供養塔』。六十六部は、一国一カ所の霊場に法華経を納めていく山伏と良く似た宗教者を指すのだと。鈴ヶ森交差点。上部を走るのが首都高速1号羽田線の鈴ヶ森出口。暫く進むと左手には『しながわ水族館』が。地上一階地下二階建て。一階の「海面フロア」では東京湾の魚や生物などを展示、スタジアムではイルカ・アシカのショーが開催される。地下の「海底フロア」では巨大なトンネル水槽を通ることができるのだと。また、水族館の外部にはレストラン「ドルフィン」とマリンショップ「シーガル」がある。1991年10月に開館。5年ごとに記念リニューアルを行い、1996年8月にはペンギンランド、2001年にサメ展示水槽、2006年にはアザラシ館を新設していると。『日本橋から12km』大森海岸駅前陸橋を渡り右手に歩を進める。『磐井神社』に立ち寄る。磐井神社は、東京都大田区大森北にある神社である。社格は旧郷社。「武蔵国八幡総社」とされる。なお、この神社には「東海七福神」のうちの弁財天が祀られている。この神社の創建年代等については不詳であるが、敏達天皇の代に創建されたと伝えられる。『日本三代実録』によれば貞観元年(859年)に「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、武蔵国の八幡宮の総社(総社八幡宮)に定めたといわれ、平安時代には『延喜式』にも記載されている。江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡(宮)」とも称された。なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされると。鳥居と拝殿。拝殿。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・姫大神・大己貴命。昭和九年(1934)、郷社に昇格。昭和二十年(1945)、東京大空襲によって社殿が焼失。昭和二十九年(1954)、再建された。『磐井神社』と書かれた扁額。「武蔵國八幡總社」の文字も記されていた。磐井神社の狛犬は大変な子沢山である、写真左の狛犬は「子取り阿像」と思うが三匹の子供を背中と足下に連れていた。右の「子取りの阿像」も獅子型の狛犬で同じく三匹の子供を連れていた。寄進は明治14年(1881)、石工は高橋安五郎と言われているのだと。磐井神社の狛犬は子沢山なことで知られ、この狛犬一家にあやかって安産祈願などに訪れる参拝客の方もいるとか。『磐井神社狛犬(こまちゃん)』案内板。いつの間にやらマスコットキャラクターなった「こまちゃん」。 境内の左手に笠島弁天社が鎮座。池では亀がのんびりと日向ぼっこか?境内には立派な銀杏の木が。『江戸名所図会』にも同じ位置に御神木が描かれているとのことだが、それがこうして成長したものであろうか。正史や延喜式に記されているように、古代より「磐井神社」と呼ばれていた神社。磐井の由来となったのは「磐井の井戸」と呼ばれた井戸。現在も神社の前、第一京浜沿いに置かれている井戸がそれになると。御朱印を頂きました。更に第1京浜に別れて旧東海道を進む。『旧東海道 三原通り』美原通りを進む。太平洋戦争前の美原通りは、方々から人の集まる盛り場であったと。 大森日活(映画館・旧豊年館)、大森劇場(芝居小屋)、福寿亭(寄席)などがあり、 夜店も立ち並び活気にあふれていたと。 美原は往時、魚市場通りと呼ばれ、大森の海で獲れた魚を商う店があり、評判であったと。『美原不動尊』。真言宗の小さな寺。左右と背後をビルに囲まれた狭い区画に今なお残っている、といった感じの寺。境内には生長地蔵が安置されている。本尊は、不動明王。 境内の神社。『旧東海道(美原通り)』案内板。程なく旧街道は内川という川を渡るが、その左手に美原通りについての解説版が立っていた。文面にもあるように、土地の字名(南原・中原・北原)から三原と名乗っていたのを美原と変えたようである。『平和の森公園』が描かれたタイル絵が路面に。この絵は「大森 和中散」で、滋賀県石部宿・草津宿の中間にあった「和中散本舗」の出店が、当時、大森から蒲田にかけて三軒あったのだと。「和中散」とはめまいや風邪などに効能があるとされるという粉薬であると。麦わら細工もも有名だったのだと。1783年(天明3年)大森の麦わら細工職人は、第10代徳川家冶将軍の前で麦わら細工の製作を御覧に入れたと。その後麦わら細工は、東海道土産として盛んに作られ、旅人の土産として大変好評。最盛期は明治時代から昭和時代の前期の頃であったが、しかし、大森では戦後作る人が全く姿を消してしまったのだと。 旧東海道沿いの「川良(かわりょう)海苔店」。販売されていた各種海苔。海苔干しの姿も。川良海苔店の屋外シャッターには歌川広重の浮世絵が描かれているのだと。大黒屋やその他の店舗のシャッターにも旧東海道に関連する絵が描かれいるのも見どころのひとつ。大黒屋の近くにあったシャッター。 ・・・その4・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次「旧東海道」を立会川方面に向かって進む。途中右手の路地に入ると、すぐ左手に、大きな石碑が2つ並んでいた。左側の石碑は「贈太政大臣岩倉公御墓参拝道」を刻まれていた。右側の石碑には「鮫洲正観世音菩薩道場」とあって、天保2年(1831)の銘が。二つの石碑の前の道の先には、「海晏寺(かいあんじ)」というお寺があるので、その参道ということを表す石碑なのであろう。「海晏寺」のご本尊は聖観音菩薩、岩倉具視のお墓があると。商店街の入り口両側に『東海道龍馬がゆく』というプレートの付いた柱が。近くにあった浜川砲台というところの警備に坂本龍馬が付いていた時期があったのだ。『十五番 鮫洲 右 青物横丁 品川宿』石柱。子供達によるハロウィンパーティーの広報活動であろうか?『鮫洲八幡神社』。旧御林町(のち大井鮫洲町、現在は東大井一丁目、同二丁目の一部、同四丁目)の総鎮守。創立の年代はさだかではないが、寛文の頃(1661~1672)には、すでにあったと。境内には漁師町の鎮守らしく漁業関係者が寄進した灯籠や狛犬が。祭神には、誉田別尊、気長足姫尊、並びに昭和四年ハ月十四日に合祀された白山神社の伊弉諾尊、伊弉冉尊が祀られていると。また、境内には稲荷神社(通称 出世稲荷社 御祭神 宇迦之御魂命)、厳島神社(通称 弁天社 御祭神 市杵島姫命 鮫祠)、漁呉玉神社(通称 水神社 御祭神 綿津見神)の末社も鎮座。境内の老木の枝下ろし中。『平林九兵衛翁遺徳碑』地元の発展に尽力したという、衆議院議員の記念碑。狭いながらも境内には富士塚や、出世稲荷神社、漁呉玉神社、鮫祠神社と、摂社・末社が立ち並び、こんな立派な池のある厳島神社までも。『しながわ百景:八幡神社』。境内には『出世稲荷』も。「新編武蔵風土記稿」では「八幡社」の境内社として簡単に『稲荷社 本社の北にあり』と記されていると。「出世稲荷」の大元は、豊臣秀吉は稲荷神信仰をしていた(秀吉は農民で当然の話)ので、聚楽第を作った時に邸内に稲荷神社を設けており、其の神社を外部に移したとき、秀吉にあやかる意味で「出世稲荷」と呼んだのが元になっていると。『しながわ百景:立会川の坂本龍馬像』立会川駅近く、品川区立北浜川児童遊園に建つ坂本龍馬のブロンズ像。2010年に京浜ロータリークラブより寄贈されたもので、龍馬が立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現。かつてこの辺りには土佐藩の鮫洲抱屋敷があった。この屋敷内には浜川砲台が築かれ、若き坂本龍馬もこの地で守備についたと。龍馬にとって浜川砲台は、人生のターニングポイントとなる大切な場所であったと。立会川駅が右手前方上に。立会川駅商店街。『立会川 二十歳の龍馬像』「嘉永6(1853)年、黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬は藩からの許可を得て立会川河口付近にあった下屋敷で剣術始業中。立会川は後に海運貿易の亀山社中の設立、薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地といえます。北浜川児童遊園には地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿のプラスチック製の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、平成22(2010)年11月15日、東京京浜ロータリークラブが関係者と共にブロンズ像の二十歳の龍馬像として建立されました。なお、この像には平成11(1999)年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。龍馬像の履物はブーツではなく草履で、土佐藩の下屋敷にいた頃の龍馬を表しています。」と。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。浦賀沖に投錨した艦隊は下の写真の如く、旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマウス」(同)の4隻からなっていたと。『龍馬が世界と出会ったまち品川』。「ペリー が初めて来航した嘉永六年(一八五三)、一九歳の坂本龍馬 は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。土佐藩 は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため、江戸詰の節を動員し龍馬もその中に加わりました、同年九月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り・・」と、父親に手紙を書いています。品川での黒船警護 から、龍馬の幕末は出発したのです」と。『こころざしの馬』。多摩美術大学の上林剛典さんの作品であると。全国の坂本龍馬像の場所についての説明板。『フジテレビ ラッキーセブン ロケ地』。『ラッキーセブン』は、2012年1月16日から3月19日まで、フジテレビ系列の月曜21時枠ドラマ(月9)枠で放送されていた松本潤主演のテレビドラマ。そのドラマで北品川ラッキー探偵社として使われていたのがこちらなのだと。歩いていると浜川橋の袂に「浜川砲台跡」の案内板があったので従って進む。浜川橋は別名を 「涙橋」 と言われたと。江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場であり、磔火焙り獄門が行われ牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。小塚原は山谷地区の北端にあり、地区のはずれに泪橋がかかっていた。刑場にいくにはこの橋をわたった。一方、鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置された。鈴ヶ森刑場の周辺は、かつて海岸沿いのさびれた地であった。鈴ヶ森の刑場に向かうには、近くの立会川にかかる泪橋をわたった。これら泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられたと。立会川の水は緑に。河口堰に黒船と龍馬が書かれていた。平成19年度に実施した実験の成果を踏まえ、平成20年度に高濃度酸素溶解水発生装置をこの建物内部で本格稼動。平成21年度には、より効率的に浄化が進むように、潮の干満にあわせて高濃度酸素溶解水の吐出口を切り換える装置を設置し、立会川の水質改善に取り組んでいるのだと。更に歩を進めると、新浜川公園内に『浜川砲台』が。「嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して 開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。嘉永7年(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。6貫目ホーイッスル砲 1門(復元)1貫目ホーイッスル砲 2門鉄製5貫目砲 5門計8門を配備した砲台だった。ここに復元したのは6貫目ホーイッスル砲である。実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような 狂歌も作られている。品川の固めの出しのよくきくは 下地もうまく なれし土佐武士[品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ]これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節) だからだという意味である。この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。」と。復元された6貫目ホーイッスル砲。 浜川橋から立会川を見る。この緑色が何故か長年の仕事から大いに気になるのであった。以前は太い鋳鉄管が橋の脇に配管されていたようだ。『天祖諏訪神社』。昭和40年(1965年)に旧東海道沿いに立会川を挟んで並んで鎮座していた天祖神社(南浜川鎮守)と諏訪神社(北浜川鎮守)が合祀してできたもの。『二十三番 競馬場通り 左 立会川駅』と書かれた石柱。競馬場とは大井競馬場。 ・・・その3・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次南品川宿を青物横丁方面に向かって歩く。しながわ百景:『天妙国寺(てんみょうこくじ)の山門と無縁仏 天妙国寺の墓地』参道を進むと、正面に朱の四脚門形式の天妙国寺山門が。山号の『鳳凰山』が扁額に。現在は、顕本法華宗の別格山。境内には、品川の象徴として愛着を受けた五重塔があった。慶長19(1614)年8月28日、台風のため倒壊。哀惜する郷民の意をくみ、寛永11(1634)年、三代将軍家光により再建されたが、元禄15(1702)年2月の大火により類焼し、現在に至っていると。広々とした境内の正面に建つ本堂が。寄棟造り屋根、唐破風付流れ向拝。創建時、「妙法蓮華経」により「国家安穏」を祈る精舎として、「妙国寺」と名づけたと。徳川将軍家との繋がりが深い寺院であると。弘安8年(1285年)、日蓮の直弟子の天目上人の創建と伝えられる古刹。徳川歴代将軍が宿舎にしたことで徳川家とのゆかりが深い。本堂は18世紀中ごろに再建されたもので、堂々たるたたずまいを見せていた。歌舞伎「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」の墓があることで知られる。ほかにも桃中軒雲右衛門、お祭り佐七、伊藤一刀斎などの墓があるとのこと。中央は龍と、琴を奏でる婦人の透かし彫り像が。鐘楼。そして徳光和夫らが青物横丁をぶらり散策していた『松岡畳店』。建物は1915(大正4)に建てられた、二階が低い中二階の形式。江戸時代には道を挟んだ向こう側は海だったと。「畳松岡」は右から左に書く看板が歴史を感じさせてくれたのであった。品川区南品川で安永8年(1779年)から営業して、仙台藩下屋敷のお抱え職人から今七代目の畳屋であると。『居酒屋 えいちゃん』旧東海道沿いにある人気の酒場のようだ。大正時代創業の鮮魚店「魚長」を改装。原点は魚屋さんとあって、魚介のつまみは安くて旨いものばかりだと。夜であれば暖簾をくぐって・・・・。マンションの入口部分に、「不老門」と刻まれた石碑が。「不老門」の石碑を両手で丁寧に撫でては来たが、効果は如何に?右手に「諏方神社(すわじんじゃ)」と刻まれた石柱が。その奥に諏方神社の鳥居、社殿が見えた。『関宿の街道松』。「街道松をつなぐ」事業として、旧東海道周辺に街道を往来する旅人のための道標であった「街道松」を植えて歴史を感じるまちなみを整備し、また、各宿場まちとの交流を深めることを目的とし、平成5年から旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会が行っていると。これまでにも11カ所の宿場(浜松宿、三島宿、土山宿、保土ヶ谷宿、袋井宿、大磯宿、御油宿、枚方宿、坂之下宿、関宿、亀山宿)から街道松を譲り受け、植樹したと。左手に『江戸幕府御用宿 釜屋跡』。「南品川 には旅人 が休息をする「建場茶屋 」が、数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤 で江戸 に入る大名が、旅装束 から江戸屋敷 に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。中でも品川寺 門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。慶応三年(一八六七)には「幕府御用宿 」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用しております。同年十月二十一日、新選組副長・土方歳三 と副長助勤・井上源三郎 が、新入隊士や故郷の支援者達、計三十一名で休息した記録が残されております。また、慶応 四年正月十二日~二十三日、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組 の「品川屯所 」となっておりました。この品川の地で、幕末 の風を感じて下されば幸いです。」と書かれていた。釜屋跡の碑の右手、マンション(ガーデンホーム南品川)の南側に「保土ヶ谷の松」が。この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として東海道が取り持つ縁で四番目の宿場があった神奈川県保土ヶ谷宿から寄贈されたもの。そして右手に『品川寺(ほんせんじ)』。「しながわでら」ではなく「ほんせんじ」。江戸三十三箇所観音霊場の第31番が品川寺。寺伝では大同年間(806年〜810年)に空海(弘法大師)開山??という古刹。しかし空海(弘法大師)は江戸のこの地まで来たのであろうか?長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌が伽藍を建立。銅造地蔵菩薩坐像は、江戸六地蔵の第一番。しながわ百景:『品川寺 品川寺の江戸六地蔵 品川寺の梵鐘』。山門脇には江戸六地蔵に数えられる大きな『地蔵尊(江戸時代の六地蔵の1つ)』が鎮座。この地蔵菩薩座像は、今から約300年前の宝永五年(1708年)江戸深川の僧、地蔵坊正元の発願によって浄財が集められ、神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され寄進されたもの。青銅作りでその座高は2m75cmもあると。この地蔵菩薩座像は、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置され、「江戸六地蔵」と呼ばれた。品川寺にはその第一番、東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄、衆人快楽」の祈願のもと奉安されていた。また菩薩像の全身と台座には、造立のために喜捨した人々の名前が刻まれていると。なお、江戸六地蔵の所在地と街道は以下の如くと。第一番 品川寺(品川) 東海道 日本橋~京都・三条大橋第二番 東禅寺(浅草) 奥州街道 日本橋~福島・白河市第三番 太宗寺(新宿) 甲州街道 日本橋~長野県・下諏訪第四番 真性寺(巣鴨) 中仙道 日本橋~滋賀県・草津市第五番 霊巌寺(深川) 水戸街道 足立区・千住~水戸市第六番 永代寺(深川) 千葉街道 船橋市~千葉市東海七福神の毘沙門天の寺でもある。品川の沿道には由緒ある社寺が多く古くから七福神が祀られ「七難即滅 七福即生」の故事により参詣も多く,昭和7年に品川が大東京に編入された記念として東海七福新詣を定められたと。山門。前回訪ねた時は、葬儀が行われていたため、境内には入らなかったのであった。この日は本堂は改修工事中。太田道灌の創建時には大円寺(金華山普門院大円寺)と称してたが、承応元年(1652年)に弘尊上人が再興して品川寺(金華山普門院品川寺)となったと。本尊は二体あり、厨子(ずし)の中に安置されている水月観世音菩薩(聖観世音菩薩:秘仏)は弘法大師作とされ、品川の地をおさめていた太田道灌(おおたどうかん)の念持仏。本尊の両脇には、弘法大師坐像、不動明王像。そのほかには、薬師如来像、日光月光菩薩像、十二神将、大黒天・白菊観音像、東海七福神の毘沙門天も安置。『品川寺のイチョウ』。樹齢600年のイチョウの大木は品川区の天然記念物に指定。幹回り5.35m、樹高25m。神変大菩薩像(しんぺんだいぼさつぞう)役行者(えんのぎょうじゃ)。飛鳥時代から奈良時代の呪術者(じゅじゅつしゃ)で、本名は役小角(えんのおづぬ)。日本の山岳宗教である修験道(しゅげんどう)の開祖とされる。山野を駆け巡って御修行されたことに由来し、足腰の弱い方を救って下さると。弘法大師像。弁天堂(べんてんどう)。弁財天像を安置。金生七福神(かのうしちふくじん)。右に弁財天、左に毘沙門天。稲荷堂のすぐ横にある梵鐘。この梵鐘は明暦3年(1657年)9月18日の銘がある梵鐘(国の重要美術品)で、4代将軍・徳川家綱の寄進とされ、パリ万博に出品する名目でヨーロッパに渡った1867年以降一度行方不明となり、それがなんとジュネーブにあるアリアナ美術館に所蔵されていたと。徳川3代の将軍、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の供養のために、弘尊上人の発願で京・三条の鋳物師(いものし)・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)が鋳造したもの。品川寺の隣にしながわ百景:『海雲寺(かいうんじ)と千躰荒神(せんたいこうじん)。』右手に『海雲寺』山門。山門前には「開運 千躰荒神王霊場」と刻まれた石碑が。山門の屋根の上で、獅子が逆立ちしていた。『平蔵地蔵』平蔵は鈴ヶ森刑場の番人で、2人の仲間と交代で乞食をしていたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てたものである。当初青物横丁にあったが、1900年(明治33年)10月京急本線建設に伴い当寺に移された。そしてその後ろには『荒神像(こうじんぞう)』が。電燈講が昭和二年(1927)に建立。鐘楼。『烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)』。「烏枢沙摩明王」とは、大乗仏教、金剛乗仏教(密教)における尊格「明王」の一人。人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられると。『力石』。「いつの頃からか、この力石は海雲寺の境内にあり、若者達の力競べ(ちからくらべ)に大正の中頃まで、使われていた。当時門前には大勢の漁師や親船から積み荷を小舟に写し取る瀬取(せどり)(沖仲仕)がいて、この石をを何個持ち上げられるか、もと本堂の間を何回持って歩けるかと競ったものである。力つきて放り出した大地に落ちるときのドスンという鈍い音は、騒音のなかった当時、静けさを破る心地よい響きであった。」と。「この石はその当時からこの場所にあり、元気な若者の汗が染み込んだものです。石にふれてお元気を出してください。文字は寄せ文字家元・立花右近師匠の奉納揮毫です。」とも。千躰荒神堂。海雲寺は、頂いた略縁起によると、建長3年(1251)僧不山によって開基。当初は臨済宗で庵瑞林(あんずいりん)といい、海晏寺境内にあった。慶長元年(1596)海晏寺五世の分外祖耕大和尚を開山として曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)に寺号を改め「海雲寺」となった。…とある。鎮守として千躰三宝大荒神王を祀っており、こちらの方が有名で、春秋の大祭時には露店が軒を連ね大いに賑わうのだそうだ。千躰荒神堂の天井の纏の羽目板。海雲寺は「火除け」の祈願寺。堂の天井の纏の羽目板とか随所に火除けに関するものが。千躰三宝大荒神王。『荒神王』と書かれた扁額。『えんの行者』像。近くのパン屋で買ったカレーパンを千躰荒神堂の前にあった木造ベンチで楽しむ。荒神王は台所やかまどの神様。本質的には火の神で火災除けの神。『筆塚 』。橘右近揮毫のもの。『十四番 千躰荒神 南そして右 青物横丁 ジュネーヴ平和通り』石柱。『ジュネーヴ平和通り』は品川寺の梵鐘(ぼんしょう)を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーヴ市(スイス)から、"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られた。この通りは都道だが、同市と交流のある地元の方々の要望により名付けられたと。 ・・・その2・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『法禅寺』を訪ねる。浄土宗寺院の法禅寺は、臨海山遍照院と号す。法禅寺は、明徳元年(1390)に言譽定賢が創建したと。東海三十三観音霊場31番札所。『五番 虚空蔵横丁 本宿』の石柱。「東海道から養願寺へ入る横町をいいます。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、 現在は虚空蔵菩薩で品川の虚空蔵さまとして親しまれています。江戸時代には、毎月十三日にお参りしていました。今は毎年四月七日と十一月七日の大祭に開帳され七の付く日が縁日で新馬場北口の通りには露天が出店しています。」と。虚空蔵横丁を進むと正面に『養願寺』が。養願寺御本尊虚空藏菩薩は木像で空海作と傅えられる。十三詣りでも知られ、福徳智恵を授かるといわれている。また丑年寅年生れの一代守本尊でもあると。他に銅像阿弥陀如来立像が安置されているが、鎌倉時代制作と云われる善光寺式阿弥陀三尊で区文化財指定。また木造不動三尊像三躯が安置され制叱迦童子立像の面部のはぎめの墨書の名及び玉眼のあて木にはさまれていた文書から此の三尊の由緒が知られたとのこと。仏師春達により万治元年(1685)に制作されたと記され区文化財指定を受けていると。養願寺 本堂内部。品川宿の中央に位置している「品川宿本陣跡」。東海道を通る参勤交代の大名や、公家・門跡・幕府役人などの宿泊休息施設として賑わったと。入口には冠木門があり、一番奥には上段の間があったと。旅籠は2階建てですが、本陣は平屋建てで、一般の旅人は利用出来なかったと。明治元年(1868)に明治天皇の京都から東京への東幸の際に行在所となったことからこの地は聖跡公園と呼ばれているのだと。『土山町から寄贈された松』この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、四十九番目の宿場があった滋賀県甲賀郡土山町より品川区に寄贈されたもの。『八番 品川宿 本陣跡』石柱の正面には「品川宿本陣跡」、側面には「右後 北馬場を経て新馬場駅北口」と刻まれていた。江戸時代、品川宿は日本橋を起点とする東海道最初の宿場町として栄えていた。大名や勅使が休息・宿泊する旅宿は本陣といわれ、江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣があったが、中期以降は北品川宿1つだけになった。現在の本陣跡は1771年に定着し、品川三宿のほぼ中央に位置。公園の奥に入っていくと様々な石碑が。当時の東京市長の撰文になる「聖蹟公園由来の碑」、「聖徳の碑」、「御聖蹟の碑」、「石井鉄太郎胸像」などの記念碑が。『聖徳の碑』東京市品川聖蹟公園が開園するまでの、明治天皇品川聖蹟保存会の活動が記録された碑。『御聖蹟の碑』。明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和13年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。劣化により、銘文が読めない状態になって来ていた。『石井鉄太郎胸像』。常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽し、昭和50年に社会福祉功労を顕彰し名誉区民となった。碑文によれば、全国社会福祉協議会副会長など歴任。東京産業信用金庫(現・さわやか信用金庫)の理事長・会長として、中小企業の振興育成に当たり、その功績が認められて、藍綬褒章を始めとする数々の勲章を受けたのだと。『夜明けの像(新聞少年の像)』。山田太郎の歌「新聞少年」を想い出したのであった。♫僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎と云うんだぜ♫『東海道品川宿本陣跡』「品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治5年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。」と書かれていた。『品川宿交流館(本宿お休み処)』東海道品川宿まち歩きマップが販売されていた。『稼穡稲荷社(かしょくいなりしゃ)』。品川図書館(旧日向佐土原藩島津家抱屋敷跡)の裏手にある神社。かつてこのあたりは上記の抱屋敷で、その屋敷内に祀られていたもの。御祭神は宇迦之売命(うかのみたまのかみ)。稼穡稲荷社 説明板。日向国佐土原藩の藩主島津淡路守は石高2万7千石の外様大名。佐土原藩の成立は豊臣秀吉が天正15年(1587)に島津氏15代にあたる島津貴久の子家久にこの地を与えた時、この抱屋敷は元々島津家本家の鹿児島藩(薩摩藩)藩主島津家が所有していましたが、安永9年(1780)に分家である佐土原藩8代藩主島津淡路守久柄に譲渡されたのだと。その後、屋敷は嘉永6年(1853)に佐土原藩から豊後国森藩藩主久留嶋家の家臣で医者の有冨玄説の所有となり、安政2年(1855)に南品川宿に売却したと。『稼穡稲荷のイチョウ』。「イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄それぞれ別の木となる。本樹は雄樹で、幹の囲りは4.1m、高さは23mあり、推定の樹齢は500年から600年である。木の勢いも盛んで、姿も整っており、本区内のイチョウの中でも屈指の巨木である。本樹は、長い間稼穡稲荷神社の神木として保護されてきた古木で、遠くからの景観も大変美しい木である。」と。そして目黒川に出る。朱の橋は『鎮守橋』。そして『荏原神社』の大鳥居。品川神社が東海道品川宿の北品川の鎮守であるのに対し、荏原神社は品川宿のうち南品川の鎮守であると。鳥居の先には恵比須像が置かれていた。現在は東海七福神巡りの恵比寿神を祀っている。手水舎。拝殿。荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709年)9月に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月に神明宮、宝治元年(1247年)6月に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っている。明治元年には、准勅祭社として定められた。神祗院からは府社の由来ありとされたと。現在の社殿は弘化元年(1844年)のもので、平成30年で174年を迎えたと。「荏原神社」と書かれた扁額。拝殿の見事な彫刻。拝殿欄間の彫刻。舞殿。『品川拍子(しながわびょうし)』。品川拍子は祭礼時に神輿が渡御するときの囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる桶胴の締め太鼓を竹で作った撥でたたき、俗称トンビと呼ばれる篠笛によって演奏されると。社号碑には郷社の文字が。荏原神社は毎年6月初旬に行われる、海に入って神輿をかつぐ海中渡御が有名。毎年六月七日に行われる祭禮の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚貝類の豊漁を祈願したことに始まる。現在は、海岸が埋め立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬のきれいなところで、海中渡御を行っていると。御朱印を頂きました。そして目黒川に架かる鎮守橋。社前の目黒川に架かる鎮守橋は昭和60年の架橋。大正期から昭和初期にかけて河川改修で流れが変更されるまで、目黒川は荏原神社の北側を流れておりそれが北品川と南品川の境界(つまり品川神社と荏原神社の氏子域の境界)であったと。現在は目黒川の北岸にある荏原神社ですが、大正の終わりに河川改修工事が行われて目黒川の蛇行部が直線になるまでは、下図の如く南岸にあったのだと。この地図に「天王社」と描かれているところが荏原神社なのだと。 【http://arukitabiouen.seesaa.net/article/420361164.html】より品川橋から旧東海道を振り返る。『品川宿の今昔』。「この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。「品川橋」がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。」と。旧東海道・品川橋 全景。。品川宿は、この橋を境に北品川宿と南品川宿に分かれていたのだ。東海道五十三次では、日本橋の次の本格的な橋が品川橋。八ツ山橋は明治以降、鉄道建設のため架けられたものであると。品川橋から上流を見る。朱の鎮守橋、そして渡り終えたその先に荏原神社。『東海道 品川宿 これより南 南品川宿』。品川橋を渡ると南品川の商店街に入って行くが、商店街入口左側に建つ「城南信用金庫」の角に是より南品川宿の説明板が立っていた。「日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。この高札の場所は、脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。品川宿を南北にわけていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。」と。南品川宿の現在の地図。南品川宿を進む。こちらは未だモール化されていない。『街道松の広場』。商店街を3分程進んだ右側に街道松の広場という公園があり、入口に浜松宿から寄贈された松が植えられていた。『品川宿の松』。「この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として、東海道が取り持つ縁で、二十九番目の宿場があった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢約ハ十年の黒松です。斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶりです。松の名称は、寄贈された有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。また、約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈された「街道松」があります。」と。『三岳』。右側「南品川一郵便局」を過ぎ、信号を渡って少し進んだ右側の「東洋鍼灸院」の壁に三岳の説明板が掲げられていた。「現在、南品川二丁目の通称「三岳」と呼ばれているところは江戸時代には二日五日市村の集落のあった処で、三岳神社の近くであったことから、そのように呼ばれるようになったとされています。」と。児童遊園入り口にあったトイレを利用する。 ・・・その1・・・に戻る ・・・つづく・・・
2018.11.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩くことを決意し、今年の早春の2/15(木)に旅友のSさんを誘い日本橋~品川駅までを歩き我がブログにアップしたが、その後海外旅行、四国八十八箇所巡り等でその先を歩く事が出来なかったが、10月26日(金)に、Sさんと一緒に品川~川崎間を歩いて来た。東海道線を利用して品川駅で下車。そして品川駅の高輪口で待ち合わせ。JR品川駅には港南口(東口)とここ高輪口(西口)の2つの入り口がある。港南口への連絡通路の名前が「レインボーロード」という名前であり、高輪口にあるこのステンドグラスにも名前がある。ステンドグラス「光の情景」は、原画・監修として、造形美術家の麻生秀穂さんが1998年11月に完成させたもの。JR品川駅高輪口のタクシー乗り場近くでSさんと合流、弥次喜多道中の開始。時間は丁度9:00。まずは八ツ山橋に向かって品川駅前を歩く。八ツ山橋交差点手前。左が旧東海道、右が第1京浜国道。八ツ山橋を渡る。八ツ山橋の欄干には「旧東海道」の文字が。橋の袂の碑・「しながわ百景」 :八ツ山橋、新八ツ山橋から品川教会方向を望む。「しながわ百景」は昭和62年に品川区が区政40周年・区民憲章制定5周年を記念して設定したもの。旧東海道と品川宿 説明板。品川宿は江戸時代の東海道の第1宿。品川宿は当初、目黒川を挟んで北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、1722(享保7)年、歩行新宿(かちしんしゅく)が宿場として認められ、それ以降3宿で構成されたと。説明板の下には広重の「東海道五拾参次 品川」が。 【https://blog.goo.ne.jp/tetthan/e/99cb910237428896784e4e941ccd761e】より八ツ山橋の旧親柱。錆が目立っていて少し残念であったが、美しい装飾が施された存在感ある大きな親柱。東海道品川宿 まち歩きマップ。品川宿詳細図 (品川宿入口~品川橋)。「一番 東海道八ッ山口、右 品川宿 左 品川駅」と刻まれた石柱。品川宿に入る。品川宿内の東海道の距離は一般的には八ッ山から大井村境(現在の北品川一丁目から南品川三丁目)までの約2km(19町)余をいう。 宿機能の中心である本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあったのだと。東海道名所風景 歌川国貞(初代)作「東海道名所之内 品川八ツ山下」「問答河岸跡」の石碑。由緒書き。文字が薄くなってしまっていて、よく読めなかった。問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前。三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されていると。家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと。現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりであると。脇道に古い造りのお店を発見。看板に『居残り連』とあった。あの落語の「居残り佐平次」の舞台になった店の跡だとか。モール化された旧東海道・品川宿。宿内の家々は1600軒、住む人7000という活気ある地であったと。 また、北の吉原に対して南の品川といわれ遊興の場所としても有名であったと。北品川駅前から京急線に沿って南北に延びるこの「北品川本通り商店会」は、品川宿のメイン通り。道幅は約7メートル。これは江戸時代、参勤交代の行列がすれ違える幅として整備されたのだと。「土蔵相模跡」旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていた。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催したのだと。建物は昭和初期まであったが、現在では一階にコンビニエンスストアが入ったマンションとなっていた。旧東海道を左手に折れ手進むと、屋形船や釣り船が浮かぶ「品川浦舟だまり」に出た。しながわ百景:「品川浦と船だまり」。かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていた。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしあったが、東京港建設のため昭和37年(1962)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じた。現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べている。早朝や夕暮れ時は独特の風情があり、撮影や写生、吟行にもおすすめ。水辺と背景の品川の古い家並み、その向こうの品川駅周辺の再開発のビル群との対比は東京を象徴する風景です。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のもの。品川浦公園の鯨の頭部のモニュメントが。品川史跡 「鯨塚」と書かれた案内板。鯨塚は、神社の境内ではなく、社殿西側の敷地内に祀られていた。品川の漁師たちが捕獲したクジラを弔った鯨塚。『この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一九七八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。』と説明板に。寛政の鯨事件として品川宿を大いに賑やわせた有名な鯨。 寛政10年(1798)5月1日、品川沖に迷い込んだ鯨を漁師たちが 天王洲の浅瀬に追い込み、捕らえて浜離宮まで曳航し第11代将軍 家斎も上覧された由。鯨はシロナガスクジラ(?)といわれ体長16.5m、高さ2.04mだったと。このクジラの骨を埋めて、その上に建て られたのがこの鯨塚。この鯨は見世物となり多くの人が集まったと。狂歌 「うちよする 浪は御浜の おにはぞと くじらは潮を ふくはうち海」鬼は外、福は内 と楽しそう。品川沖で見せ物になった鯨に見物人が騒々しく集まる様子が目にとるようです。この裏に鎮座する利田神社と新地の歴史も書かれていた。宝永3年(1626)目黒川川尻に弁天社(利田神社)創建される…他説に、『寛政3年(1791)に東海寺沢庵和尚がこれを祀った』とも。そして『利田神社(かがたじんじゃ)』。利田神社は、寛永3(1626)年に近くの東海寺の沢庵(たくあん)が弁財天を勧請(かんじょう)したのが始まり。当地一帯を安永3(1774)年~天保5(1834)年に南品川宿の名主、利田吉左衛門が開発したことから利田神社と称されていると。しながわ百景:『利田神社と鯨塚』。拝殿。御祭神は市杆島姫命。宝永3年(1626)創建。昔は目黒川河口の突端で、洲崎弁天といい、歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれていると。そして更に奥に進むと、台場小学校の前には『御殿山下 砲台(台場)跡』が。御殿山下砲台は、江戸防衛のため幕末に築かれた「品川台場」のひとつ。1853年6月、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画。工事は勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、資金不足により完成したのは御殿山下砲台を含めて6基。海上に設置された他の台場と異なり、御殿山下砲台は品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。現在は区立台場小学校の敷地となっており、校庭入口には台場の石垣として使われた真鶴石と第2台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが置かれていた。『台場横町』説明板に気がつく。幕府は、浦賀にペリー艦隊来航を機に、江戸を守るため、江川太郎左衛門の指揮のもと、品川沖に品川台場を築造したが、その際に、陸続きの御殿山台場も完成させた。(現在の品川台場小学校)この台場へ行く横町が「台場横町」とのこと。そして旧東海道に戻り、『善福寺』を訪ねる。山門。藤沢の遊行寺を総本山とする時宗の寺で、永仁2年(1294 鎌倉時代後期)に、遊行二祖、他阿真教によって開かれた。伊豆の長八の龍のこて絵が残っていた。左手に『品海公園』が。『品川宿の松』品川宿で5本目の「街道松」として、寄付されたもの、と。地域の活動が盛んな地区。『東海道品川宿の石垣石』の説明板。この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていた物であると。石材は房総の鋸山産の凝灰岩(房州石)とのこと。日本橋から二里の距離にあることを示す道標が立っ。『階段石垣の名残』。江戸時代の東海道は、品川宿に入ると海にちかくなり、宿場通りから海岸の方へ行く横町は全て坂になっていた。昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていた。江戸時代には、ときどき波浪によってこの石垣が壊され、宿場にとって修理は大変な負担となったと。品海公園に沿って左の道を下るとすぐ左側に海岸石垣の名残が見られた。民家の土台になっている石垣で、海側は波で浸食された跡が見受けられる。東海道五十三次の48番目の宿場の『坂下宿の街道松』。更に旧東海道品川宿を進む。『溜屋横町』。浄土宗法禅寺前には品川小学校発祥の地の石碑がある。その法禅寺の前から海岸に通じる横町を「溜屋横町」と呼び、現在の品海橋に通じている。さらに、歩くと「竹屋横町」、東海道から目黒川本流(現なぎさ通り)に至る横町。そして「青物横丁」にたどり着くのだと。北品川二丁目の『尾張屋呉服店』のショーウィンドウには神輿が。そして『一心寺』が左手に。成田山品川一心寺講事務所の表札が掛る山門を入るとすぐ本堂という小さな寺で、江戸三十三観音札所、また、寿老人を祀る東海七福神の一つでもある。『一心寺之由緒』「安政二年(西暦1854年)日本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて、鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし、延命、商売の護りとして今日に続いております。昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られております。」と書かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.11.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次泉岳寺での赤穂義士の墓への参拝を終え、第1京浜の泉岳寺交差点に向けて歩を進める。この交差点を右に曲がると、直ぐ右に「稲荷神社」と刻まれた石碑が。ここが神社入り口なのであった。境内はこの真上。石碑の右の階段をぐるぐるっと回って上がっていくと境内となるようです。建物の左の壁には石灯籠や石碑が並んでいた。ここも境内の一部。離れた場所からはこの様に稲荷神社が屋上にあることが解るのでした。 【https://4travel.jp/travelogue/11244434】より。更に品川方面に進むと、同じく右手に「高輪神社」が。高輪一帯の総鎮守。創建時は稲荷信仰の神社であり「稲荷社」と称された。境内社には聖徳太子を祀る「太子堂」が鎮座。大永四年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の両軍が当地で衝突した結果、氏綱が江戸城を勝ち取り城主となる。これが「高縄原の戦い」として当時の軍記物語に伝わる戦い。この高縄原が転じて高輪原となり、現在の「高輪(たかなわ)」の由来となる。高縄原とは高縄手道(高台のまっすぐな道の意)の略とされる。 御朱印を頂きました。 高輪海岸の石垣石。「ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成7年(1995)、高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。」と。桂坂(かつらざか)。桂坂は、東京都港区高輪二丁目12番と三丁目19番の境界に存在する坂。由来は、かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘(かずら)をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれると。AP品川アネックスの角を右折し坂道を上ったところにあるのが「旧竹田宮邸洋館」 1911年(明治44年)完成。 旧竹田宮邸。 煉瓦造2階建て。近代日本の黎明期に宮廷建築家として活躍した、片山東熊により設計された。室内は17〜18世紀初頭の様式で装飾され、 細部にわたって優雅な意匠が散りばめられた格式のある建築。現在は「貴賓館」という名称でグランドプリンスホテル高輪の結婚式場などに利用されていると。品川駅に向かって歩くと右手に美しい夕日&夕焼けが。「カトリック東京大司教区高輪教会」が右手に。一般的な教会のイメージと異なる明るい感じの建物。教会入口前に江戸の「大殉教顕彰碑」が立っていた。三代将軍徳川家光によるキリシタン迫害政策で処刑された人々は江戸全体で2000人であった。三田の刑場跡地に1956年立てられた顕彰碑はその後現地に移されたと。キリスト像。「柘榴坂(ざくろざか)」を下る。TKPガーデンシティ品川の庭の植栽のイルミネーションも始まっていた。大きな白い雪の結晶が輝き始めていた。そして品川駅前から、品川駅を見る。品川駅港南口の高層ビル群も。第1京浜横浜方面。この日の仕事を終えた多くの帰宅者が横断歩道を渡っていた。第1京浜東京方面。車の数も増えてきた。最後に品川神社まで行きたかったが、時間切れ。次回のスタート地点とすることに。そして18時から現役時代お世話になった方々、旅友と品川駅前で宴を楽しむ。そして20:30過ぎにJR東海道線で帰途についたのであった。帰宅してこの日の散策ルートを地図に。歩いた歩数を我がIPHONESのソフト表示は約23000歩⇒約17km程になるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次義士墓入口の門。この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したもの。赤穂義士墓地へのお参りのために100円を奉納し、お線香を頂きました。赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されたとのこと。 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の墓。浅野内匠頭夫人(阿久里(落飾後瑤泉院))の墓。大石内蔵助の墓大石主税の墓。左が主税の墓で右の大きいのは十三回忌碑。 浅野長友・大学の墓。浅野内匠頭と瑤泉院のお墓の間に、内匠頭の父の浅野長友のお墓と弟浅野大学長広のお墓が。浅野長友は初代藩主・浅野長直の長男として生まれ、寛文11年(1671)、父の隠居により跡を継ぎましたが、延宝3年(1675)、33歳で亡くなりました。(左が浅野長友の墓)浅野大学は、刃傷事件のため、3000石の所領も召し上げられ、広島浅野宗家にお預けとなった。 そして、宝永6年(1709)将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710)安房国に知行500石を持つ旗本に戻り御家再興を果たした。 享保19年(1734)に65歳で死去し、泉岳寺に埋葬された。戒名は亮監院殿月清涼山大居士。(右が浅野大学の墓)なお、泉岳寺には、浅野大学家の泉岳寺には、浅野大学家の昭和まで累代の当主の墓もあるが、浅野大学家は昭和61年に断絶したのだと。墓地配置図。【水野家お預け浪士の墓】 水野家お預け浪士は9名。右から次の通り。 神崎与五郎 則休 三村次郎左衛門包常 横川勘平宗利 茅野和助 常成 間瀬孫九郎正辰 村松三太夫高直 矢頭右衛門七教兼 奥田貞右衛門行高 間十次郎光興 そして左奥が寺坂吉右衛門大石良雄以下、46名には法名の最上部に「刃」の一字が入っているのは切腹を表していると。 ただ一人、寺坂吉右衛門は、討入の後、大石の命を受け瑶泉院(長矩公夫人)及び一党の遺族等復讐の顛末を報告して廻り、後江戸に帰って自首したが、時効を以って赦され、83才の天寿を全うしたので、「刃」の文字が入っていないのだと。墓石の色も赤く他の義士のものとは違っていた。 そして「寺坂吉右衛門」 の名の位置も左に。 【毛利家お預け浪士の墓(1)】 毛利家お預け浪士は10名。そのうち5名の墓。左から次の通り。 間新六光風 倉橋伝助武幸 武林唯七隆重 吉田沢右衛門兼貞 岡島八十右衛門 その後ろの列に【毛利家お預け浪士の墓(2)】 毛利家お預け浪士10名のうちの5名の墓。左から次の通り。 小野寺幸右衛門秀富 前原伊助宗房 勝田新左衛門武堯 杉野十平次次房 村松喜兵衛 秀直【細川家お預け浪士の墓(1)】 細川家お預けの浪士は17名。そのうち9名の墓。右から次の通り。 吉田忠左衛門兼亮 原惣右衛門元辰 片岡源五右衛門高房 間瀬久太夫 正明 小野寺十内秀和 間喜兵衛光延 磯貝十郎左衛門正久 堀部弥兵衛金丸 【細川家お預け浪士の墓(2)】 細川家お預けの浪士は17名。そのうち6名の墓。右から次の通り。 大石瀬左衛門 信清 矢田五郎右衛門 助武 奥田孫太夫 重盛 赤埴源蔵 重賢 早水藤左衛門 満堯 潮田又之丞 高教3回忌地蔵尊。【松平家お預け浪士の墓】 松平家お預け浪士は10名。そのうちの大石主税を除いた9名の墓。右から次の通り。 堀部安兵衛武傭 中村勘助正辰 菅谷半之丞 政利 不破数右衛門正種 木村岡右衛門貞行 千馬三郎兵衛光忠 岡野金右衛門包秀 貝賀弥左衛門友信 大高源五忠雄 そして左奥が萱野三平の墓 墓所の近くに、赤穂浪士のほかに、赤穂浪士関係者のお墓もあった。「妙海尼の墓」赤穂浪士の墓所に手前にあるのは、堀部安兵衛の妻を自称した妙海尼のお墓。妙海尼は、堀部安兵衛の妻を自称し、1774年(安永3)、高輪泉岳寺に清浄庵を結んで赤穂浪士の菩提を弔うと共に浪士の昔語りを始めたと。泉岳寺内で94歳の高齢で死去したと。赤穂分家(若狭野領主)浅野長恒・赤穂分家(家原領主)浅野左兵衛長武(旗本)生母永壽院の墓か?「永壽院殿月岑貞松大姉」と刻まれていた。浅野家一族の墓。右に浅野長年・夫人の墓。隣に浅野長邦の墓・・・・・。墓半分を?再び。表忠碑。戊辰戦争で泉岳寺に来た広島藩士らが、朽ちた赤穂義士の墓碑を見て、可哀そうだからと言い、この表忠碑を建てたと。赤穂義士墓所入口の建物に線香の受け皿を返却。泉岳寺に関する写真等が販売されていた。「講堂」。講堂(2階は義士木像館)は赤穂義士記念館ができるまでは、義士館として使用。関東大震災後の大正14年(1925年)に建てられたものを平成16年に改装。現在一階は講堂として使用しており、毎週土曜日に学寮講座開講中。2階は義士木像館として赤穂義士記念館と併せて公開されている。講堂の左前にある主税梅の枝が写真に。大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅。「赤穂義士記念館」。討ち入り300年に当たり次の時代引き継ぐべく、新たに建てられた義士に関する資料館。中には義士の貴重な遺品などが、忠臣蔵についてのビデオも上映している。内容は松之廊下3分、泉岳寺と赤穂義士5分、いざ討ち入り7分、義士祭6分計21分間。 「澤木興道老師像」。仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人。三重県津市に生まれ、1897年に永平寺に入り、1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争で負傷する。退役後、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。1935年に總持寺後堂職となり、駒澤大学特任教授も兼任して、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。その思想指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある曹洞禅センターにも受け継がれていると。鐘楼堂大正2年・41世普天霊明和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞かれている。江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館が所蔵。何故ウィーンに?寺務所。御朱印受所。墓所お参り後受処にてお願いしていた御朱印を頂きました。 御朱印受所から山門を見る。再び本堂を。門前の土産物屋の屋根には陣太鼓が。土産物屋には赤穂義士や忠臣蔵にちなんだグッズや和菓子など様々な土産が置かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次札の辻交差点を右折し、三田3丁目交差点まで行き、ここを左折。「聖坂」を上る。「聖坂」の名は古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためと。竹芝の坂と呼んだとする説もあると。「亀塚稲荷神社」。聖坂の途中西側にある小さな神社。祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのかみ)。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神であると。 亀の形をした石を神体としている。伝承によると、太田道灌が当地に物見台を造った際に建立したと。亀塚公園のベンチで一休み。江戸時代は、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となったというところだけあって、閑静な高台にある公園。公園では多くの子供達が遊んでいた。「亀山碑」。亀塚公園内、都指定史跡「亀塚」の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈によって寛延3年(1750)に建てられたもの。土岐家は明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領した。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の地であることや塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと。大名屋敷に建立された石碑としても貴重なものと。荘厳寺の鐘楼。真宗大谷派寺院の荘厳寺は、由良山と号す。本堂。荘厳寺は、由良播磨守が開基となり、由良播磨守の弟祐傳を開山として寛永14年(1637)創建。鯉の滝登り。見事な作品。三田の「幽霊坂(ゆうれいざか)」。幽霊坂の由来は坂の周辺地域には、寛永12年(1635年)の江戸城拡張に伴って、八丁堀より移転されてきた寺院群が、道の両脇に建ち並び、昼でも幽霊が出そうなほど暗い場所であったことから、あるいは、それほどに寂しい場所であったからと。幽霊坂は都内に7ヶ所もあると。幽霊坂を下る。坂の中腹にある黒沢邸(玉鳳寺の坂上側) のところに初代文部大臣の森有礼の居宅があったことから「有礼坂」が名の由来との説もあると。 玉鳳寺(ぎょくほうじ)三門。山門寄進は、檀信徒総代 高橋是清 翁とのこと。 明治39年7月10日建立と。こちらは向かいの仙翁寺 山門。そして、地元の女性に聞きながら漸く正覚院境内に「福島正則の墓」を発見。柵に囲まれていて中に入ることは出来なかった。墓には特に案内はなく、お線香を立てる石にうっすら福島と彫られていた。 福島正利の墓(左)と福島正則の墓(供養塔)(右)。左右のの五輪塔は「宝珠・半月型・三角・丸・四角」の5つのパーツから構成されており「空風火水地(くうふうかすいち)」と刻まれていた。福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍。秀吉最晩年には清洲24万石の大名となった。文治派の石田三成とは反りが合わず、関ケ原の戦いではいち早く徳川家康に味方し、戦後、広島藩49万石の大大名となったのだ。 それにしても、チョット寂しい歴史上有名な武将の墓(供養塔)なのであった。 三田台公園に立ち寄る。三田の地名の由来は、朝廷に献上する米を作る屯田(みた)があったからという説があり、また伊勢神宮や御田八幡神社の神田(みた)があったからという説もあるとのこと。白の垂れ梅。紅梅も青空に映えて。「旧華頂宮邸跡 井戸」。現在は非常用水源になっている模様。「高輪皇族邸」正門。高松宮邸は始め、東京市麹町区三年町(現在の東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を引き継いだが、昭和に入って同建物が外務大臣官邸に転用されることに伴い、港区高輪一丁目にあった高輪御殿に移転。同地は江戸時代、大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であり、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともあると。 高松宮宣仁親王の妃・喜久子様が薨去するまで使用されたと。 そして「大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)」に到着。港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩細川家江戸下屋敷がここにあった。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺(曹洞宗)に葬られている。内部にはいくつかの大石?が枯山水の庭園の如くに。ここで自刃した十七名の義士名が、石に刻まれ残されていた。17歳から69歳の義士達。 高輪の高層アパートの奥まった一画にあったが、こちらが正式な入口の様であった。「大石良雄等自決ノ跡」と刻まれていた。廣岳院の正面。常陸国(現・茨城県)の永厳寺の末寺。信濃国飯山藩主となった佐久間氏ゆかりの寺で。寺号は飯山藩佐久間氏初代藩主安政の嫡男・勝宗の法名・広岳院殿より名付けられたと。 正面向側横にあった丸山神社。「興意親王墓(こういしんのうのはか)」。織豊-江戸時代前期,誠仁(さねひと)親王の第5王子(1576-1620)。安土桃山時代の皇族。正親町天皇の嫡男でありながら皇位につくことなく早世したが、遺児である和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、天皇の実父として太上天皇の尊号を追贈された。上皇としての諡(追号)は陽光院。慶長15年近江(おうみ)(滋賀県)園城寺(おんじょうじ)長吏となる。19年豊臣氏が建てた方広寺大仏殿の棟札に前例にない銘文をかき,また徳川氏調伏の嫌疑で蟄居(ちっきょ)する。のち疑いがとけ,幕府の寄進で照高院を白川に再建した。元和(げんな)6年10月7日死去。45歳。名は邦慶。寛永寺宮以外の皇族墓は江戸では珍しい例とのこと。そして道を間違えやや遠回りしたが、「泉岳寺」の「中門」に漸く到着。泉岳寺は慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。 元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)があったが、現在は中門と山門のみが残っているのだと。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されていると。山号の「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書と。「山門」。この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたもの。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれていると。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書と。「大石内蔵助吉雄銅像」この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したもの。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したもの。泉岳寺の境内。「本堂」。旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められていると。「史跡 赤穂義士墓所」と刻まれた石碑。石碑の脇には「水琴窟」が。水琴窟の上には小さな赤穂浪士の像が建っていた。柄杓で水を汲んで注ぐと、綺麗な音色が聞こえて来たのであった。「瑤池梅」と刻まれた石碑。義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと。「血染の石・血染の松」。血染の石・血染の松は、浅野内匠頭が自刃した田村右京太夫建顕(1656~1708)の屋敷にあったものとのこと。 「首洗い井戸」。赤穂義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている。本所松坂町の吉良邸跡にもやはり首洗い井戸があるのだが、首を2回洗ったということか??「川上音二郎建立」と刻まれた石碑が井戸の前(写真右)に。川上音二郎の墓はもともと泉岳寺にあった(現在は谷中霊園)とのことでで、泉岳寺と関係が深いらしい。赤穂義士記念館入口には「巨人軍 長嶋茂雄」と刻まれた石柱が。「義商 天野屋利兵衛浮図」碑。天野屋利兵衛(1661~1733)は大阪の商人で、赤穂浪士に武器を用立てしたとされる。講談では、幕府側の追求に対して「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割らなかった人物だが実際には、赤穂浪士とは関係がなかった人物とのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次芝公園内の記念碑見学の後は、芝増上寺に向かう。「三門」 。三つの煩【貪、むさぼり 瞋、いかり 痴、おろか】を解脱する門。禅宗様式の和洋折衷の美しさを持ち、慶長16年(1611)、徳川家康公の助成により、幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立された。都下最大の木造建築物で、組み物は唐様を中心として、勾欄などに和様、天竺様が加味され、桃山時代の雄大な気宇を伝えている。増上寺は浄土宗の大本山で、江戸時代は徳川家の菩提寺となったために幕府の庇護を受け、寺運は隆盛を極めた。おしくも、空襲により多くの文化財を失い、三解脱門、黒門、経蔵以外は焼失したと。高さ21m、間口19.5m、奥行き9m東日本最大の門です。三門にぶら下がる対の燭台?ぶら下げるタイプの火袋?「水盤舎」。手水舎は様々な名称で呼ばれますが、増上寺では「水盤舎」と呼ばれているようです。 「大殿」。間口約48m、奥行き45m、高さ焼約23m 。首都圏では最大級の御堂。三門をくぐり、目の前に立つ大殿は壮大そのもの。石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室。増上寺は度重なる火事に見舞われ、第二次世界大戦でも伽藍、御霊屋のほとんどを消失。現在の大殿は1974年に再建されたもの。三門を入ると、すぐ左側に「聖観世音菩薩」。「鐘楼堂」。東日本では最大級であり、江戸三大名鐘の一つ。鐘楼堂建立は1633年だが、第二次世界大戦の東京空襲で焼失し、今の鐘楼堂は戦後再建。高さ3.3m、直径1.8mで、重さ約15tもある大きな鐘で見ごたえ十分。鐘音は朝夕2回聞けるとのこと。鐘楼堂前の白梅も満開。再び青空の下、大殿と東京タワーを。「旧方丈門(黒門)」。一間一戸の切妻造本瓦葺、高さ8mの四脚門。もと増上寺方丈の表門であったが、昭和55年(1980)、善導大師1300年遠忌を期に、表側の飛檐垂木〈ひえんだるき〉の大部分と、東側の破風板〈はふいた〉、瓦の一部を補修し、三解脱門南隣りの現位置に移築。よく旧規を保ち、木割りが雄大で重厚な姿を持つ。門扉は破損が著しいため取り除かれた。全体が黒漆塗であったため「黒門」とも呼ばれている。以前訪ねた熱田神宮の「信長塀」に良く似た土塀。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ね、上部を桟瓦で葺いた築地塀。「慈雲閣(じうんかく)」。浄土宗大本山「増上寺」の敷地内にある式場の一つ。「旧台徳院霊廟惣門(きゅうだいとくいんれいびょうそうもん)」。江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟建築で、増上寺に造営された。壮大な規模を持ち、江戸時代初期を代表する建造物群。霊廟は1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。太平洋戦争末期の1945年5月、東京大空襲で大部分の建物を焼失。秀忠の墓所は1958年に発掘調査が行われた後改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。惣門に安置された仁王像の阿形像。仁王は、正式には金剛力士、仏法の守護神。 吽行像。屋根は入母屋で、前後の唐破風に美しい装飾が。芝公園芝生広場内からの東京タワー。菜の花と河津桜も開花を始めていた。「芝東照宮」。芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源であると。境内の参道。境内では紅梅、白梅の共演。本殿 祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。歌碑。★人にまだ触れざる風や朝桜 ★長編の虚子の一書を読始 ★法師蝉鳴いてゐる木とすぐわかる星野高士(1952-) の句。境内には 大イチョウがスックと立っていた。周り7.6m、目通り幹周り6.45m、樹高25.5mで、1639年の東照宮再建に際して3代将軍家光が植えたと伝えられるので、樹齢は380年近くとなる。幹周りもさることながら、枝の太さが印象的である。ずっと高いところに 巨大な3本の枝が伸びている様は見事である。都の天然記念物。 芝公園内の「梅屋敷銀世界」。芝東照宮の横に約70本の紅梅・白梅の梅林があり、「銀世界の梅」と呼ばれている。東京タワーを望みながら梅の観賞ができる場所で、今年も翌日の16,17日に「芝公園梅まつり」が行われるとのこと。 見事な紅梅。 「芝丸山古墳(しばまるやまこふん)」を訪ねる。「大野伴睦句碑」。下高輪町に在住し、自由民主党副総裁も勤めた政治家。丸山西頂部にある句碑は昭和38年6月調理師法施工5周年にあたって、伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものである。 碑には「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」と刻まれている。「伊能忠敬測地遺功表」。伊能忠敬の測量の起点となったのが、この芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てた。明治22年(1889)に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されたが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されたと。『伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて 後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる 測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年 (文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって 続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。 その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の 高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實に この伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に 贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。 扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。』と記載されていた。古墳の丘の上から増上寺と187mの高さの愛宕グリーンヒルズ。「東京都指定史跡 芝丸山古墳」。前方後円墳で、東京都指定史跡。全長110m、後円部径約64m、くびれ部分の幅22mという都内では最大級の規模。芝公園自体が標高16mの台地上にあり、古墳はさらに高く土が盛られているので、頂上からの眺望は一段と広くなっているのであった。「丸山随身稲荷大明神」。円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあった。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名より迎えた御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神 と。芝公園を後にし更に品川に向かって進む。首都高速下の「芝園橋(しばぞのばし)」を渡る。昭和59年3月架け替え、長さ19m、幅26m。大正15年1月に古川にかけられ、芝公園の橋というと。 古川の上に高速道路が続く。日本電気本社ビル。1990年に完成し高さ180メートルの高層ビル。愛称「ウインドアベニュー」と呼ばれる巨大な開口部があるのが特徴。現役時代に何度か訪ねた事があるこのビル。今は売却し、日本電気は建物全体を賃借しているのだと聞いたことがあるが・・・。三菱自動車工業(株) 本社前に「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」碑が。新政府軍の江戸城総攻撃は、1868(慶応4)年3月15日に予定されていた。その前日3月14日、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談が、田町の薩摩藩邸(蔵屋敷)が行なわれた。薩摩藩蔵屋敷跡は、三菱自動車工業(第一田町ビル)となっていたが碑が立てられていた。 そして、田町駅前の蕎麦屋で遅い昼食を。 ・・・もどる・・・ ・・・ つづく・・・
2018.02.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次銀座和光のディスプレイウインドウ。『TOKYO 2018』の文字が。「ただの数字じゃない。 THIS IS WHAT I AM.」と書いてあるが、その意味するものは・・・?東京マラソンのオフィシャルタイマーであるセイコーのタイマーが、和光本館のショーウインドウにディスプレイされていた。タイマーが表示するランダムなタイムは、東京マラソン2018のランナー一人ひとりの走っている時間を表現するのだと。2月25日(日)の大会当日はスタートまでのカウントダウンを、また、9時10分のスタート後は実際のレースタイムを表示し、大会コースのハーフポイントに近い銀座4丁目のショーウインドウで「東京マラソン2018」を盛り上げると。 銀座和光ビル。入口のタイマーには「WR 2:02:57」の表示が。2014年に、ベルリンマラソンで世界記録を更新したデニス・キプルト・キメット(ケニア)の2時間2分57秒の記録。銀座4丁目交差点の一角に立つ和光のこの建物は、昭和初頭から今日に至るまで、銀座のシンボルとして、銀座通りのイメージを象徴して来た。現在では高級百貨店となっているが、もともと服部時計店の社屋として建てられたもの。長らく服部の時計塔として親しまれ、銀座を舞台とした映画には必ず背景として映されていたと。戦後の荒廃した銀座通りにあっても、この建物はけなげに立ち続け、人々に勇気を与えたのだと。服部時計店が銀座に進出したのは明治28年、初代の建物も時計塔を乗せていた。現在の時計塔は東西南北の4面すべてに文字盤は配されているのだ。時計台の頂上には国旗掲揚塔も確認出来た。 「銀座プレイス 」。銀座四丁目交差点にある、展示場、物販店舗、飲食店舗、駐車場からなる再開発の複合商業施設。日本の伝統工芸の「FRETWORK(透かし彫り)」の技法をイメージしているのだと。 私には、「フルーツキャップ(緩衝材)」に大切に包まれたビルではないか、と知識がない自分が。そして「銀座 5丁目」。「銀座 6丁目」「銀座 7丁目」。「日本橋まで2km」。ヤマハ 銀座店。日本の伝統美と現代の先端的なデザインを大胆に組み合わせた外観デザインであると。ビルの表層は、ランダムな濃淡をつけた金箔を合わせガラスに挟み込んであるのだと。「SWAROVSKI」銀座店。1895年にオーストリアのチロル州で創業したクリスタル・ガラス製造会社。ファサードを構成するのは数にして幾千本と言う六角のステンレス製異形パイプの束。圧倒的量感。無数の鏡面が銀座通りの風景をモザイク状に映し出していた。「銀座 8丁目」。「銀座八丁目交差点」。上部に首都高速が。「新橋の親柱」。銀座中央通り沿いの銀座ナイン2の向かい、首都高速下にポツンと親柱が。かつては汐留川がありそこに架けられた橋で当時の史跡として、この親柱が残されていると。「芝口御門跡」。宝永7年(1710年)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示(けんじ)するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称された。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形(ますがた)とし、橋のたもとの冠木門(かぶきもん)から枡形(ますがた)に入って右に曲ると、渡櫓(わたりやぐら)があって堅固な門扉が設けられていた。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復したと。木の陰で解りにくいので調べていると、こんな画像が。下の写真の芝口御門入り口の汐留川に架かる橋が「新橋」そして現在の銀座中央通りであると。 【https://wako226.exblog.jp/page/5/】 より 芝口御門 説明パネル。「銀座柳の碑」が二代目の柳の木の下に。 西条八十作詞、中山晋平作曲「銀座の柳」⇐リンク の歌碑。「♪♪ 植えてうれしい 銀座の柳 江戸の名残りの うすみどり 吹けよ春風 紅傘日傘 今日もくるくる 人通り ♪♪」明治二十年頃街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となった。その柳を歌ったこの歌は全国を風靡した。これを記念して昭和29年4月1日、銀座通聯合会がこの碑を建立したと。東新橋1丁目交差点角にある「日比谷神社」 。豊受大神(稲荷神)・祓戸四柱大神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)を祀る。旧称 日比谷稲荷明神。更に品川方面に向かって進む。石球回転噴水。⇐リンク水圧によって石の球が回る仕掛け。浜松町1丁目を右に折れ、御成門交差点に向かう。芝公園入口。「お台場の石垣石」お台場(内海苔台場)は、嘉永6年(1853)黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台。未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた、第3と第6の2基を残して、その他は解体、埋め立てられた。この石は、その時、第5台場(現・港南5丁目)から移されたと。伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡をとどめていると。「御成門」。芝増上寺(しば・ぞうじょうじ)の北方馬場にあった裏門の別称。増上寺は徳川家の菩提寺(ぼだいじ)の一つで、将軍が参詣(さんけい)する際にこの裏門がもっぱら用いられたので、御成門と呼ばれるようになった。もともと御成門交差点にあったが、1892(明治25)東京市区改正計画で道路(日比谷(ひびや)通り)が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移転して現存しているのだと。御成門の柱の下部の保護板は酷く腐食され、早急の補修が必要。「有章院霊廟 (ゆうしょういんれいびょう)二天門」は工事中。江戸幕府七代将軍徳川家継(いえつぐ)(1709~1716)の霊廟建築。芝増上寺に造営された。豪華な彫刻で飾られていたが、戦災で焼失した。有章院は江戸幕府の第7代将軍、徳川家継の院号。工事着工前の写真が2枚掲載されていた。右が北方を守る多聞天(たもんてん)、左が西方を守る広目天(こうもくてん)。有章院霊廟は第7代将軍、徳川吉宗(よしむね)が1717(享保 2)建立したもので、日光の東照宮(とうしょうぐう)に劣らぬといわれるほどの豪華なものであった。しかし、1945. 5.(昭和20)空襲によりこの二天門(にてんもん)を残して焼失した。土葬されていた遺体は1958(昭和33)発掘し荼毘(だび)にふして徳川将軍墓所に改葬されたと。東京プリンスホテルの後ろに東京タワーが見えた。「御成門」を内側から。芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原 と呼ばれていた。 それは、寛永17年(1640年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植えつけたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられている。 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変った。 都は園地改修にあたり原形を残すとともにペルリ提督像と遣米使節団記念碑を配置し直し、新たにモニュメントを設置したと。 芝公園 百本松原の復元のモニュメント。 現在の港区役所。港区役所入口には「平和の女神」が、1968年 北村西望作。「浅岡飯たきの井」。江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩伊達家の支度所として、藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治3年(1660)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺の危険から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したといい伝えられると。昭和62年(1978年)新庁舎開庁にあたり、旧庁舎中庭にあったものを、ここに移設して保存したのだと。 港区役所前のモニュメント。「落語 首提灯」⇐リンク の江戸風の立て札。『酩酊(めいてい)した町人が武士に道を聞かれるが、酔っぱらいは相手を田舎(いなか)侍とみてさんざん侮辱する。侍は刀の柄(つか)に手をかけると居合腰で酔っぱらいの首を切った。その切り方があまりにもみごとであったので、酔っぱらいは首を切られたことに気がつかない。歩いて行くと首が自然に左へ回ってしまう。元へ戻してもすぐ左へ回る。そのうちにつまずいて首が前に落ちそうになり、初めて切られたことに気づく。そのとき半鐘が鳴りだして火事騒ぎとなる。人ごみのなかで首が落ちそうになるので自分の首を提灯に見立て両手で差し上げながら、「はいごめんよ、はいごめんよ」』 このあたりが落語「首提灯」の舞台になったと記されていた。 「ペルリ提督の像」。嘉永6年(1853年)と嘉永7年(1854年)の2回、米国使節として艦隊を率いて日本へ来航し、開国を迫った東インド艦隊司令長官ペリー(ペルリはオランダ語読み)の像。昭和28年(1953年)、東京都が日本開国百年記念祭を開催した際、ペリー提督の出身地であるロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として贈られたと。「万延元年 遣米使節記念碑」。1960年6月、日本の外交使節団が初めて太平洋を渡って以来100年になるのを記念して、日米修好通商百年記念行事運営会によって立てられたのだと。「常夜灯」。大門を抜けて、三門へいく通常の道路沿いにあった。増上寺への参道として昔から常夜灯があったのだと。 ・・・ つづく・・・
2018.02.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次日本橋をスタートし旧東海道歩きを始める。最初に訪ねたのは「名水白木屋の井戸」。東海道、日本橋の傍、COREDO日本橋の裏手に「名水白木屋の井戸」の碑が移築再現されていた。 日本橋の南側にあった白木屋は近江商人大村彦太郎の創業で、日本橋北側の越後屋と並ぶ呉服の大店であった。2代目彦太郎は正徳元年(1711)、日本橋周辺の水の悩みを解消するため店内に井戸を掘る。難工事の中、1体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと。以来、周辺住民のみならず広く「白木名水」とうたわれた。越前松平家では、この水で当主の病が治ったとして、明治維新まで毎朝汲み取りに行ったのだと。そして隣の植え込みの中に自然石風な石碑・「漱石名作の舞台」が。漱石の多くの作品に、日本橋が登場し、「吾輩は猫である」の先生が白木屋のご贔屓(ひいき)だったとか、小説「三四郎」や「こころ」にはこの路地の寄席や料理屋が描かれているのだと。高島屋 日本橋店の前を通る。10:30の開店を待つ多くの人々が入口付近に。「日本橋 3丁目」。日本橋3丁目の交差点の角には巨大な高さ6.25mキリンの銅像が。冠をかぶっていて、優雅な雰囲気の麒麟。作者は多摩美の客員教授で、彫刻家の安藤泉氏。2006年までは漢方薬のツムラの本社で、ビル名は「中将湯ビル」だったと。ツムラと巨大なこの麒麟像の関係は?「平和の鐘」。中央区は昭和63年(1988年)に世界の恒久平和と人類の永遠の繁栄を祈念し『平和都市宣言』をした。交差点の中央分離帯にある段上の三角形のアーチは この宣言を記念するモニュメントとして設置したものと。『中央区平和都市宣言』 いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめよう ささやかな幸せも こよなき繁栄も 平和の光が消えたなら すべてが失われる 私たちの手にある この輝きを 明日の世代に 伝えよう 一九八八年 三月一五日 この日 私たちは 永遠の平和を願いを 中央区が平和都市で あることを宣言する 』 この「平和の鐘」⇐リンク は、オランダ製で26個のベルによって四季おりおりのメロディを奏でると。交差点の中央分離帯の平和の鐘の横にはヤン・ヨーステンの碑が。ヤン・ヨーステンは1600年(慶長5年)、帆船リーフデ号で日本に漂着。日本に留まって徳川家康の通訳となり、屋敷を与えられた。彼の「耶楊子(やようす)」という日本名から、屋敷周辺は「八代洲(やよす)河岸」という地名になり、やがて「八重洲」と呼ばれるように。住所として登場するのは1872年(明治5年)のことで、1954年(昭和29年)には東京駅の東側一帯が「中央区八重洲」となったのだと。写真左手の凛々しい人が、ヤン・ヨーステン。右手の船は彼を乗せてきたリーフデ号。この記念碑は、1989年に日蘭修好380周年記念として建てられ、日本とオランダの架け橋となった彼の功績を称えていると。横断歩道の真ん中の中央分離帯まで急いで行き、立ち止まり慌ててシャッターを。そして青信号を確認し引き返す。 「歌川広重住居跡」を訪ねるがその付近は工事中の白きフェンスに囲まれていた。 工事用フェンスにパネルが貼り付けられていた。「浮世絵師安藤(歌川)広重(1797~1858)が、嘉永2年(1849)から死去までのおよそ10年間を過ごした住居跡とのこと。八重洲河岸(千代田区丸の内2丁目)に生まれ、家職のかたわらで歌川豊広の門人となった。「東海道五拾三次」以来、風景画家として著名になり、江戸についても、「東都名所」、「江戸近郊八景之図」、「名所江戸百景」等を遺す。特に、「名所江戸百景」はこの地での代表作であると。住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野屋敷の裏門外にあり、2階建ての独立家屋であった」と説明板に。「京橋 1丁目」。 「京橋 2丁目」「日本橋から1km」の道標。 「京橋 3丁目」 。昔、アサヒビール(株)の本社がこの交差点の角にあったのだ。「江戸歌舞伎発祥之地」の碑「寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。写真は、これを記念して昭和32年(1957)に建立された碑で、銀座と京橋を分かつ高速道路のすぐ脇に。当時、この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋でした。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのです。」と。すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑も。1664年(寛文4年)に京橋川の水運を利用して、京橋の北詰西側に野菜の売り場が設けられた。この青物市場には大根の入荷が多かったため、「京橋大根河岸市場」と呼ばれ、明治になってからは「京橋青物食物河岸」と呼ばれた。明治の終わりには現在の京橋3丁目と八重洲2丁目の南部、対岸の銀座1丁目の西部にまで規模が広がり、青物・菓物のほか、魚類・乾物も扱うようになったと。 「京橋の親柱」⇐リンク。「きゃうはし」と刻まれていた。四角く大きなこの石柱は、大正時代に道路の拡幅工事で橋を立て替えた時のものと。丸い親柱と共に中央区の区民文化財。 「煉瓦銀座の碑」。明治時代実際に使われていた煉瓦を当時と同じ「フランス積み」に敷き詰め、煉瓦の町を照らしたガス灯の灯火も復元していると。 この「京橋 親柱」も明治時代のもの。擬宝珠(ぎぼし)の意匠に江戸の伝統を継承していると。そして、「警察博物館」に立ち寄る。警視庁の歴史と活動に関する資料を展示している博物館。警視庁内での正式名称は「警視庁広報センター」。 2017年4月29日:1年間の改装工事を経てリニューアルオープン。入場料は無料。警察官の制服や記章の実物が展示されており、複製されるのを防ぐため1,2F以外の写真撮影は禁止されていた。 入口にはRX-8パトカーが展示されていた。 ヘリコプター「はるかぜ1号」。赤バイ。1918年の大正7年に警視庁が導入したのが「バイク」だが、今のような白色の白バイではなく、赤色の「赤バイ」であったと。ヘリコプターから降下する警察隊員。 そして「銀座 1丁目」 。花屋には不思議な色のバラが。海外のどこかでも撮影した記憶が。「銀座発祥の地」 。碑には「銀座発祥の地 銀座役所跡」と刻まれており、江戸時代にこの地に銀座があったことを記念して、昭和30年(1955年)に建てられたとある。銀座役所がこの地にあったのだそうだ。銀座という地名も江戸時代に貨幣の鋳造所としてこの地に建てられたことから。役所は1800年に日本橋の蛎殻町(かきがらちょう)に移転したが、銀座は地名として残ることになったと。 「銀座 2丁目」 。ティファニー(Tiffany & Co.)銀座本店のショッピングウインドウ。ティファニーは、世界的に有名な宝飾品および銀製品のブランド。 「銀座の柳の碑 」。「銀座の柳由来 銀座の柳は明治20年ごろ銀座通りに植えられて以来大正九年撤去昭和6年復活の変転を 経ながら数多くの詩歌にうたわれ人々に親しまれてきた銀座のシンボルとなった柳も樹勢の 衰えもあって昭和43年歩道の大改修に当たり移植の止むなきに至った いまふたたびこの通り一帯に柳を迎えて「銀座柳通り」と名づけるに際し永く 銀座の柳の由来を伝えるため碑を建立する」 と。カルティエ(Cartier SA) 銀座 ブティックの入口の柱のレリーフ。カルティエは、フランスのジュエリー・高級時計ブランド。 このレリーフは、御用達のお墨付きをいただいている各国王室の紋章らしい。10数カ国の王室御用達らしいが、さすがに「王の宝石商」だけのことはある。「東京銀座通電気燈建設之図」 。この街灯は、それまで行燈(あんどん)や提灯(ちょうちん)しか夜の照明がなかった日本で、はじめて灯された電気灯。明るさは、ローソク4000本分と。おかげで銀座の町は、連日、見物客で大にぎわいになったと。この電気街灯は、翌年には京都の祇園に、翌々年には大阪の道頓堀にも設置された。もっともこの電気灯は、送電線で電力が供給されるタイプではなくて、その場に据え付けたバッテリーから電力を供給していた。バッテリーではなく、電力会社から電力の供給が始まったのは、明治19(1886)年とのこと。銀座・マロニエ通り。「銀座 3丁目」 。「銀座 4丁目」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.02.21
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