「きらりの旅日記」

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

2011.01.10
XML
カテゴリ: クロアチア
クロアチアの歴史をさら~っと さらって見ると・・・・・・・

クロアチア共和国(Republika Hrvatska)

クロアチア  首都=ザグレブ

東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家

西にスロベニア

北にハンガリー

東にボスニア・ヘルツェゴビナ

セルビアと国境を接している

南はアドリア海に面し



1991年 ユーゴスラビアから独立

・・・・・・・・・歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【クロアチア統一】

9世紀、北方・西方からフランク王国

南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まる。

カール大帝治世に、フランク王国に含まれ、カトリックを受容

両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、

879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。

その後、トミスラヴ1世のもとで発展をとげるが、

彼の死後しばらくして後継者争いから内乱へ突入した。

【同君連合】



次のハンガリー王カールマーン1世が、

1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。

これによって、クロアチアとスラヴォニアは

ハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれ

ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認めた。



15世紀にはオスマン帝国に征服されその領域に組み込まれる

18世紀末までに、

オーストリア、ハンガリーによって回復されてる。

これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり

1848年の三月革命の際には

クロアチア人の軍人イェラチッチが

ハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。

1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立

実態的には「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」

アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。

ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。

複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、

海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。

1815年のウィーン会議において

オーストリア帝国直轄領になるまでヴェネツィアの支配が続く。

【ユーゴスラビア】

1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。

離脱したクロアチアは、セルブ=クロアート=スロヴェーン

(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。

1929年 国名をユーゴスラビアに改名

しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定したが不完全な対応であった。

クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パベリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。

1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。

セルビア人勢力のチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。

1945年に戦闘が終結するまでの4年の間

セルビア人が強制収容所などで70万人が虐殺されたとセルビアは主張している。

クロアチアはその数はおおげさだとしており、

ほぼ同数のクロアチア人がセルビア人によって虐殺されたと主張している。

この論争は後のクロアチア紛争の火種となり、

クロアチア紛争でも同じような論争が繰り返されることになった。

ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力開放されることによって収束された。

戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビアは維持されたが、

1980年にチトーが死去するとそれまで押さえ込まれていた各民族の不満が噴出しはじめた。

クロアチアでは歴史的な経緯も含めてセルビアに対する反発が強く、

特に1980年代半ばからセルビア民族主義を掲げるスロボダン・ミロシェヴィッチが登場するとその不満はピークに達した。


【独立】

東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると

ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施

クロアチアではユーゴスラビアからの分離独立を掲げるスティエパン・メシッチが政権を掌握

以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。

1991年3月2日には、西スラヴォニアの帰属をめぐって

ユーゴスラビア連邦軍とクロアチア警察の間で睨み合う事態となり
CIMG3932.jpg
3月31日にはプリトビツァで両者が衝突、死者を出す事態となった。

クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており

6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、

78パーセントの賛成。これを受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。

一方で、ユーゴスラビア連邦軍は、クロアチア領内でもセルビア人が多く

クロアチアの独立に反対していたクライナ・セルビア人自治区のセルビア人保護を目的にクロアチアに侵入

クロアチア軍は9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突となりクロアチア紛争の激化に繋がった

1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者と難民を生み出した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキペディアさま参照




落ち込がっかりモードのランキングにポチっとなう。→ にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.01.10 16:30:29
コメント(6) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: