「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2011.02.09
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カテゴリ: クロアチア
ダルマチア地方には、石造建築が多いのであります。何故かと言うと世界屈指の石の産地があったからであります「ブラチ島」島の名前が、やっと思い出せました!今更なのですが「ブラチ島」について調べてみました。ここは、飛ばして下さい・・・ただの参考です。

『クロアチア旅日記』・・・ブラチ参考資料

           ダルマチア地方の世界遺産と遺跡に道まで


           ニューヨーク の ホワイトハウス


           イスタンブール の アヤソフィア


           ギリシャ の パルテノン神殿?


           これ等は、みんな「ブラチ島」の石で建造したのだそうです。


びっくりってむっちゃ~古いけど


           気になるその辺りが、



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ウィキュペディアさまを調べてみると・・・・



『ブラチ島』

~ふらちとう

クロアチア

スプリト = ダルマチア郡の島

面積は、ダルマチア諸島中 第3位となる396平方Km



これはアドリア海の諸島中の最高地点でもある

島全体でおよそ13000人の住民が

最大の町である人口3500人のスペタルから

わずか12人しかいないノヴォ・セロ村まで

小規模な町で暮らしている



島にあった人の定住地の発見された考古学的な日付は

旧石器時代に遡る

それにもかかわらず

新石器時代以降の人類の痕跡は全くない

青銅器時代と鉄器時代に、イリュリア人が島内陸部で暮らしていた

数多くの村があったが、そのどれも現存していない

紀元前4世紀

ギリシャ人による植民地化が

多くのアドリア海諸島へ本土沿岸ともども広がったが

彼らはブラチへは定住しなかった

ギリシャ人は島を訪れ

イリュリア人と交易をしていた

ギリシャの遺物は

ロジシュツァ近郊のヴィツャで発見された

ブラチ島はサロナからの交易路の交差する位置にあった

(現在のソリンからヴィス島とポー川へ至る行路)

9世紀

長く続いた土着民族との戦いの末

ローマ帝国がとうとうダルマチアを征服した

サロナは新たな県の首都となった

ブラチは

サロナに近接していたせいで、大きな村も町も作られなかった

ローマ人住民の痕跡が島中で見つかっているが

彼らは常に独立した別荘で生活した

特に初期の採石場のあったシュクリプとスプリツカの間にある

スプリツカは

サロナやダルマチア全体へ石を運ぶ最重要港となっていった

スプリトのディオクレティアヌス宮殿は

ブラチから運ばれた石灰岩で大部分が建てられた

そして

ワインやオリーブ栽培中心の農業も、同時代に始まった



スペタル港アヴァール人とスラヴ人によるサロナ破壊後

ブラチは沿岸部から逃亡してきた人々の最初の避難場所となった

シュクリプは

避難してきたサロナ住民によって建てられたと代々言われてきたが

町そのものは実際はそれ以前からある

1268年から1357年

島はヴェネツィア共和国を宗主国とし

後にハンガリー王国の一部となった

1390年夏

この一帯全体と一緒に

島々はボスニア王トヴルトコ・コトロマニッチ(en)の支配を受けたが

彼は翌年に死去した

彼の死のすぐ後

ハンガリーが再び島を領有した

この時代を通じて

島の基本的な自治権と古い構造は維持され続けた

ハンガリー人が島の直接支配を望むほど島は豊かでもなく

また戦略的な重要性もなかった

地元貴族たちが行政を行い

ブラチを治め

議会は島中心部のネレジシュツァで開催された

首領は貴族の家系から選ばれた

1420年にヴェネツィア共和国が再び島の領有を求め

島を治める者を送り込んできた。

ヴェネツィアはさらに4世紀もの間

1797年まで島を治めた

その後

フランス第一帝政との取引で

旧ヴェネツィア領土の多くがハプスブルク君主国へ併合された

公用語はラテン語であった

この時代

ボスニアの宗主権はオスマン帝国が持っており

多くのボスニア難民が島へ避難していった

多くの町がこの時代に作られ

人口が島の内陸部から沿岸部へと移動を始めた

ナポレオン戦争の間

ブラチ島は1806年に短期間だけナポレオンに征服された

1807、主教公であるモンテネグロのペータル1世・ペトロヴィチ・ニェゴシュが

ロシア帝国海軍の支援を受けブラチを獲得した

しかし、1815年のウィーン会議で島はオーストリア帝国へ戻された

ブラチは、オーストリアの王領へ併合された

1867年以降は、

オーストリア=ハンガリー帝国のトランスレイタニアの一部として併合された

1918年の帝国崩壊後、

ブラチはセルブ・クロアート・スロヴェーン王国の一部となり、

1929年以降ユーゴスラビアに属した。

島の人口は20世紀初頭には猛烈に減少した。

ラテンアメリカ(特にアルゼンチンとチリ)、ニュージーランド、オーストラリアへの大規模移住のためであった

20世紀の間出移民の波は続き、

最近の世代だけがヨーロッパ諸国、特にドイツを移住先として好むようになっている。

イタリア王国軍が島を占領した。

島の山地では、地元の反徒らがゲリラ戦を効果的に戦ったが、

やがて占領者によって逮捕され処刑された。

1943年にイタリアが無条件降伏した後、

ドイツ軍が1944年1月12日から13日にかけて島を占領した。

しかし7月にドイツ軍は敗退し、島は解放された。

ブラチは

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する国家の一つである

クロアチア社会主義共和国に1991年まで属し、

クロアチアの独立でクロアチア領となった。

クロアチア紛争での戦いはわずかに島で起きたにすぎなかったが(ミルナが爆撃された)、

戦争の余波で特に観光業が打撃を受け、島は悲惨な状況となった。

ブラチ島は、10年に渡る長い不況から再生しつつある。

経済

ブラチ島の経済はほとんど観光業を基盤としている。

しかし、漁業と農業も非常に重要である(ワインとオリーブの生産)。

そして貴重な石灰岩の採石も行われている。

伝統的に、ブラチ島はヤギで有名であった。

プリニウスですら、

ブラッティア島(ブラチのラテン語名)は

優れたチーズとワイン、オリーブ油を生産すると言及している。

ブラチ島一つで、

ダルマチア諸島全体の約半分のオリーブ油を生産している。


・・・・・・・・・・・・・・・以上ウィキュペディアさま参照・・・・・・・・・・・・



ギリシャの植民地だったとは、驚きです~大収穫



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最終更新日  2011.02.10 11:19:42
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