「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

2012.11.15
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森  光 子



本名  村上 美津 (むらかみ みつ)


1920年(大正9年)5月9日 -~2012年(平成24年)11月10日


日本の女優、歌手。京都府京都市出身。血液型B型


京都府立第一高等女学校(現京都府立鴨沂高等学校)中退

日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長

フジテレビジョン番組審議委員

国民栄誉賞受賞



俳優の嵐寛寿郎の従妹である。

長らく嵐寛寿郎の姪で1923年生まれだとしていた。

芸名は寛寿郎の母(伯母)から、

女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、

本名の美津より「光子」となった。


・・・・・森さんの歴史【女優デビュー、ジャズ歌手、結核との闘病】 ・・・・・・

実家は

京都・木屋町二条下ルで割烹旅館『国の家』を経営していたが後に倒産した。

戦前より従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属したが、

嵐本人が日活に移り寛プロが閉鎖すると、

新興キネマ(後の大映)に所属し、



多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする

喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり、

溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画を、と夢見ていた森は失望する。

映画監督森一生にプロポーズされ、婚約したがその後解消した。

悪評が立ち、居づらくなったため映画女優を引退する。



戦時中は日本軍慰問団の一員として中国戦線を巡回していたこともある。

終戦後は役者活動に留まらず、

進駐軍でジャズなどのアメリカン歌謡を歌うなどの活動も行っていた。

24歳の時、そこで森を見初めた日系アメリカ人2世の米軍属から

プロポーズを受け、婚約する。

だが芸能界に未練があった森は決まっていた渡米を拒否し、日本に留まった。

軍属は結局婚姻関係を結んでから1週間後にハワイに帰り、

短い結婚生活は終わった。

その後もミスワカナ・玉松一郎の慰問団に参加するなど芸能活動を行っていたが、

1949年の秋に肺結核と診断され、約3年間芸能活動を休止、

京都山科において闘病生活を余儀なくされる(これ以前の1944年戦地慰問先の南京において、肺浸潤を患っている)。

この頃、「森光子は死んだ」という噂がまことしやかに流れ、

復帰作となった『エンタツちょびひげ漫遊記』で共演した赤木春恵らもそう信じていたらしい。

当時すでに結核の特効薬であるストレプトマイシンは発見されていたが、非常に高価であり、病気のため無収入の森には治療を受けることは難しいと思われたが、

療養先が知人の縁者であったこともあり、担当医師が闇で仕入れたストレプトマイシンを『モルモット』として森に投与したことで一命を取り留める。

その後、ラジオドラマの仕事をしながら、知人の裏千家千宗室(14代淡々斎)夫人の秘書として勤務する。

・・・・・【放浪記との出会い、テレビ出演へ】 ・・・・・・・・

1956年には朝日放送と専属契約を結び、ラジオでは『東西お笑い他流試合』の大阪方の司会を務めて人気を得た。

さらに黎明期のテレビ番組にも出演するようになり、関東地方にもネットされた中田ダイマル・ラケット主演のコメディ『ダイラケのびっくり捕物帖』で武術に長けた与力の娘役を演じ、関東にもその顔と名を知られるようになった。

なお、幼少から若手女優の頃は「黒みっちゃん」と呼ばれるほど肌が黒かったが、年齢を重ねるにつれ白くなっていった(これはマイケル・ジャクソンと同じ尋常性白斑という皮膚病のせいである)。

1958年に梅田コマ劇場の舞台「あまから人生」での森の演技を見た菊田一夫に誘われて芸術座の舞台を踏んだのがきっかけで、翌1959年には東京に活動拠点を移す。

同年ラジオ東京のプロデューサーで演出家の岡本愛彦と結婚(のちに離婚)。結婚当時、相手が5歳下だったこともあり、森本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていた。作家の水上勉とも噂があった。

1961年、恩師である菊田に見込まれ、菊田自身の脚本による芸術座公演『放浪記』にて主役の林芙美子役を演じ、以後、生涯通算で2017回を数える森の主演代表作となると共に、それまで脇役であった森が主演女優への階段を上るきっかけとなった。

また、この舞台で森がよくやっていた、でんぐり返しは、名物と言われている。また、森は、林芙美子役について 「舞台で死んでも、この役を渡したくない」と、並々ならぬ思い入れを語っていた。

『東芝日曜劇場・天国の父ちゃんこんにちは』(TBS、1966年 - 1974年)、『時間ですよ』(TBS、1970年 - 1973年、以後シリーズ化)、『土曜グランド劇場・2丁目3番地』(日本テレビ、1971年)、『銀座わが町』(NHK、1973)、『かくれんぼ』(日本テレビ、1981年)等数多くのテレビドラマにも出演。

山岡久乃、京塚昌子等とともに日本を代表する「お母さん」女優としてその人気を不動のものとし、「日本のお母さん」の異名を取っている。特に、時間ですよシリーズでは下町の銭湯のおかみさん役が当たり役として話題になった。1974年 - 1988年までの14年間にわたり、フジテレビの看板ワイドショー番組『3時のあなた』のメイン司会も担当し、これもまた森の代表的な仕事の一つに数えられている。さらには大阪でのコメディ経験を生かし、ザ・ドリフターズとのコント番組にも長年出演する等芸域の広さを見せた。

『花吹雪はしご一家』(TBS、1975年 - 1976年)で母子役として共演した西城秀樹から「東京のお母さん」と呼ばれて親しまれ、西城のコンサートにはよくゲスト出演していた。またジャニーズ事務所所属のアイドルの大ファンであり、特に東山紀之ととても仲が良く、森の右手を握れる男性は東山だけであった。また、東山と木村佳乃の間に、子供が出来た時には祝福のコメントを出してもいる。「絶叫コースターに挑戦したい」と言い、テレビ番組の企画で実際にコースターに乗ったこともある。当時80歳、同乗相手は長瀬智也。

大橋巨泉司会の人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ!!』にも、度々ゲスト解答者として出場していた。『クイズダービー』に、森が出場者側(ギャンブラー席)として出演した時(第684回、1989年4月8日放送分)のエピソードである。CM明けの6問目、初代2枠レギュラー解答者だった五月みどりの曲「恋する蝶ちょ」の歌詞問題で、正解が「男にとまれ」(解答者5人は全員不正解)と司会の巨泉が発表した。森は「私は…もしかしたらあの、『ホテルにとまれ』かと思った」とドッキリ発言をしている。この森の発言には解答者全員のみならず、出場者として出演していたタレントらも大爆笑、巨泉からも「それは過激すぎますよ!」と笑われた。

・・・・・・【栄典と晩年の状況】・・・・・・・・

1984年11月、紫綬褒章を授与される。この時、3歳の年齢サバ読みがはからずも発覚するが、当時のマスコミの論調は好意的だった。

1992年11月、勲三等瑞宝章を授与される。この頃から体力の衰えを実感し、当時野茂英雄が通っていたジムへ行きトレーナーへ指示を仰ぎ肉体改造に着手。毎日欠かさず150回(朝75回、夜75回)のスクワット(実際には、スクワットというよりも軽めの屈伸運動に近いものである)を行いエアロバイクを漕ぐなど筋力強化に励んだ。こうして、80代に入ってもなお、若々しい容貌と機知に富んだコメントで、幅広い世代に親しまれ続けた。

2005年11月、文化勲章を授与される。女優からの勲章受章者は山田五十鈴以来2人目(杉村春子は辞退)。森はこれ以前の数年は、もしやの親授式に備えて文化の日には予定を入れなかったという。

2008年、『放浪記』の舞台でそれまで行なっていたでんぐり返しをとりやめ、万歳三唱にした。でんぐり返しの封印と言われている。この年に唯一存命の肉親であり、長年マネージャーを務めた実妹が死去。そのショックは大きく、本人は喪に服し(発覚したのは翌年の放浪記公演前だった)、気丈に振舞うもあきらかに衰弱した姿が見られるようになり、多数の週刊誌に「森光子の老い」と記事にされるなど、翌2009年の放浪記の公演はおろか森の生命すら危ぶまれる状態にあった。親交が深い和田アキ子は森に「森っち、もうええやん。これまでずっと頑張ったやん」と降板するように進言したという。しかし、森は「お客様が待ってる」「私の生きがいだから」とそれを拒絶した。

2009年1月、初の著書『女優森光子 大正・昭和・平成 -八十八年激動の軌跡-』を出版。懸念された健康状態も年明け頃から徐々に立ち直り、無事公演は行われ、5月9日の誕生日には『放浪記』上演2000回を迎えた。また、5月11日には河村建夫内閣官房長官より森に国民栄誉賞を授与する方針が表明され、5月29日に正式決定し、7月1日に授与された。これは俳優では初の生前授与である。11月にはマキノノゾミ演出の舞台『晩秋』に出演、振袖姿で歌を披露するシーンもこなした。

引き続き2010年1 - 2月にかけて舞台『新春 人生革命』に出演、滝沢秀明との共演が話題となったが、2月26日には体力を不安視する主治医の勧めもあり、同年5月から6月に東京で行われる予定だった『放浪記』の中止が発表された。

以後は各種のイベントや芸能関係者の訃報・慶事に対し本人名義のコメントを寄せているが(2012年上演の舞台女たちの忠臣蔵ではナレーターとして名を連ねているが、過去上演の際に録音されたもの)、女優としての活動は『人生革命』が最後であり、2010年8月放送(収録は7月)のNHKドキュメンタリー「“わらわし隊”の戦争」以降は表舞台に姿を見せていなかった。

・・・・・【逝去と闘病生活】・・・・・・・

2012年11月10日18時37分、肺炎による心不全のため東京都内の病院で死去。

生前からの本人の希望で親族だけの密葬を済ませた後、逝去から3日後の11月14日の夜に、親族からの連絡で東宝から正式に発表された。92歳没。

尚、発表される3日前(11月11日)、実際には、既に死去していたにも関わらず、“復帰間近”という報道が流れた他、事実発表寸前まで、復帰を願う声が数多くあった。

森光子の逝去を受け、親交の深かった王貞治、米倉斉加年、浜木綿子、篠山紀信が哀悼コメントを発表した。とくに、篠山は「その生き方は全女優がそうありたいと思う鏡だったのではないか」などと発言している。

表舞台から姿を消した2010年秋以降は前年より入退院を繰り返し、2012年2月には肺炎を発症。同年4月には胃ろう手術を受けていた。そして、同年9月より入院していた。それらの事実は、死後明らかにされた。


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最終更新日  2012.11.15 13:18:35
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