「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2013.01.19
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大鵬 幸喜
たいほう こうき


1940年5月29日~2013年1月19日(72歳)


北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の

元大相撲力士。


本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、 一時期は母親の再婚によって

住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。


【誕生~入門】

1940年に、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人の

コサック騎兵隊将校の三男として樺太に生まれた

(当時樺太は日本領だったため、外国出身横綱には数えない)が、

その直後に激化した太平洋戦争によって

ソ連軍が樺太へ侵攻してきたのに伴い、

母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。

最初は小樽に向かう予定だったが、

母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。

小笠原丸はその後、

留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から

魚雷攻撃を受けて沈没したが、

大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた。

北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、

母親の再婚によって住吉姓に改姓した。

その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、

しばらくは北海道各地を転々としていた。

あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。

再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。

中学校卒業後は北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、

1956年に二所ノ関一行が訓子府へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。

入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。

【初土俵~三役へ】

1959年に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。

その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、

二所ノ関から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。

「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、

「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという。

そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。

大鵬の意味は、

中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬

(翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。

漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたもので、その点では二所ノ関の期待以上によく育ったと言える。

1960年1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝を含む12勝3敗の好成績を挙げたが、

同年3月場所は7勝8敗に終わり、この場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった

(それ以外は引退まで皆勤した場所はすべて2桁の勝ち星である)。

同年11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、初となる幕内最高優勝を達成し、

場所後に20歳6ヶ月で大関へ昇進した。

小結・関脇では36勝9敗という圧倒的な強さを誇り、合計3場所で通過となった。

また、新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録

(後に佐田の山晋松が3場所目で12勝3敗の成績で初優勝を記録し、

現在も単独で保持しているが、対戦内容から問題になった)だった。

【横綱時代】

新入幕で初めて敗れた柏戸剛と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、

1961年に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。

新横綱の場所である1961年11月場所、1962年1月場所と連続優勝を果たすと、

同年7月場所から1963年5月場所まで最初の6連覇を達成した。

ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、

「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期と一致した。

この連覇直後から神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判されたが、二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。

その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた。

1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。

1964年からは本態性高血圧によって幕内で初の途中休場となる。

さらに1965年には柏戸や北の富士勝昭と共にアメリカ合衆国から拳銃を密輸入していたことが発覚して書類送検されたが、日本相撲協会からは譴責処分に留まった。

この直後の1965年5月場所は左足首関節内骨折で9勝6敗、千秋楽は休場して不戦敗となった。

再起をかけた1966年3月場所からは再び6連覇を達成するが、

1967年には肘を負傷し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年3月場所から3場所連続で全休した。

復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。

横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した。

この連勝記録は、同場所2日目に戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため誤審と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった。

大鵬は同場所5日目から肺炎で途中休場となり、さらに肺炎の影響で肺機能が低下したことですぐ息が上がるようになってしまい、激しい稽古が出来なくなったという。

それでも1969年5月場所には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて1969年9月場所初日には日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。

現役晩年に至っても、北の富士と玉の海正洋の両横綱に対しては最後まで壁として君臨し続けた。

1971年1月場所には32回目の優勝を果たし、同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、

同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、

さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫すると、現役引退を表明した。

引退相撲は1971年10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露された。

玉の海はそれから僅か9日後の同年10月11日に急死したため、大鵬自身も相当な衝撃を受けたという。

【逝去】

2013年1月19日、心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去

72歳没。

死去の数日前までは日刊スポーツの相撲面『土評』の解説コラムを書いたり、

二所ノ関部屋消滅問題では「時代の流れでは致し方無いだろうが、今一度部屋再興を望みたい」と談話を発表したりしていた。

大鵬の訃報を受けて、日本相撲協会は北の湖敏満理事長と九重貢事業部長などが哀悼の意を表す談話を発表した他、

同世代の日本スポーツ界のヒーローであった長嶋茂雄、ファイティング原田、そして大鵬とは大の親友関係だった王貞治が

「同じ時代に世の中に出て、光栄だった」と故人との思い出を語る談話をそれぞれ発表している。
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最終更新日  2013.01.19 21:41:16
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