「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2017.09.12
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カテゴリ: 美術館・博物館
グエルチーノ Guercino(グエルキーノ)『我アルカディアにあり』我アルカディアにもあり (Et in Arcadia ego) 1621-23年頃

ローマ・バルベリーニ宮『国立古典絵画館』

2階(Primo Piano)第19室(Sala19)風景と人物画(Paesaggio e Figura)

 『我アルカディアにあり』1621-23年頃



グエルチーノ Guercino

1591-1666   イタリア  バロック・ボローニャ派

17世紀ボローニャ派の代表的な画家

本名は、Giovanni Francesco Barbieri

強い明暗法による激しい運動性と感情性に洗練された

古典主義的手法を均衡させ独自の様式を確立。

フェラーラ近郊の小都市チェントに生まれ、

ドッソ・ドッシなどフェラーラ派の絵画を独学で修行した後、



1621年から1623年のローマ滞在でドメニキーノら古典主義的絵画に強い感銘を受け、

その画風を大きく変貌させる。

1623年から故郷チェントに帰郷し活動をおこなうが1643年、

グイド・レーニの死をきっかけにボローニャへ移り、

以後ボローニャ画壇におけるアカデミズムの指導者として活躍した。



我アルカディアにもあり (Et in Arcadia ego) 1621-23年頃

78×89cm   油彩・画布  ローマ国立美術館

17世紀ボローニャ派を代表する画家グエルチーノの

最も良く知られる傑作『我アルカディアにもあり』

題名ともなっている本作の主題『我アルカディアにもあり』は、

17世紀のイタリアで作られたラテン語の成句で、

理想郷アルカディアにも死(本作では髑髏)は存在することを意味している。



それまでに類のない感銘性を持ち合わせている。

また本作は、17世紀以降、頻繁に描かれた『我アルカディアにもあり』を

主題とした最初の絵画としても知られている。


グエルチーノ Guercino ・・・とは?


グエルチーノ 

Guercino 


ジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ

  Giovanni  Francesco  Barbieri



バロック期のイタリアの画家

エミリアの出身で、ローマ、ボローニャで活動した。

グエルチーノという言葉は「やぶにらみ」という意味で、

彼が斜視だったことからつけられたあだ名である。

グエルチーノは、とくにその超一流のスケッチで注目に値する。


【生涯】

グエルチーノは、

ボローニャとフェラーラの間に位置するチェントという村で生まれた。

17歳になった時には、ボローニャ派の画家

ベネデット・ジェンナーリ(Benedetto Gennari)と仲間になっていた。

1615年にはボローニャに住んでいて、

そこでグエルチーノの絵は、

年上のルドヴィコ・カラッチの賞賛を得ていた。

グエルチーノは2つの巨大な絵をカンヴァスに描いた。

『ペリシテ人たちに連行されるサムソン』(1619年)と、

『カラスに食事を奪われるエリヤ』(1620年)である。

その絵の中には自然主義画家カラヴァッジオ風のスタイルが見られる

(もっともグエルチーノがローマにあるカラヴァッジオ自筆の絵を見ることができた可能性は低い)

なお、この2点はフェラーラに来ていた教皇特使セッラ枢機卿のために描かれたものである。

『われアルカディアにもありき』は1618年、

ピッティ宮殿にある『アポロに皮をはがれるマルシュアス』と同時期に描かれた。

彼自身がよく言っていたことだが、

グエルチーノの初期のスタイルは

チェントのアンニーバレ・カラッチの影響を受けている。

それが後期の作品となると、

彼と同時代の巨匠グイド・レーニの作風に接近し、

より明るく明瞭な絵を描くようになってゆく。

ちなみに、生前グエルチーノは大変高い評価を受けていた。 

『バビロンの反乱の知らせを聞くセミラミス女王』(1624年)

カラヴァッジオの影響が明らかである。ボストン美術館所蔵

それからグエルチーノは、

エンツォ・ベンティヴォーリョ侯爵によって、

ボローニャのルドヴィシオ家出身のローマ教皇グレゴリウス15世の元に推薦された。

ローマで過ごした1621年から1623年の間、

グエルチーノはたくさんの絵を描いた。

カシーノ・デ・ヴィラ・ボンコンパーニ・ルドヴィージのフレスコ画『アウロラ』(1621年)、

サン・クリソゴーノ教会の天井画『栄光の聖クリュソゴヌス』(1622年)、

『グレゴリウス15世の肖像画』(現在J・ポール・ゲティ美術館にある)、

そしてグエルチーノの傑作と言われている、

バチカンのために描かれた『聖ペトロニラの埋葬(聖ペトロニラの祭壇画)』

(現在カピトリーノ美術館にある)、などなど。

グレゴリウス15世が没すると、グエルチーノはチェントへ帰郷した。

1626年にはピアチェンツァ大聖堂にも複数のフレスコ画を描きはじめた。

1642年のグイド・レーニの死後、グエルチーノは

工房をボローニャに移し、街の主要な画家となった。

レッジョのフランシスコ修道会は、

1655年、グエルチーノの祭壇画『聖母子の絵を見せる聖ルカ』に300ダカット金貨を支払った

(現在この絵はミズーリ州カンザスシティのネルソン・アトキンス美術館にある)。

コルシーニ家も1657年に『キリストの鞭打ち』の代金として、

グエルーノに300ダカット金貨を支払った。

グエルチーノは絵を仕上げるのが異常なくらい早かった。

教会のために描いた巨大な祭壇画の数も106点はあり、

それ以外の絵の合計もおよそ144点あった。

彼はまた優れたデッサンを数多く描いた。

彼の作品には多くの素描

(普通はインク、薄めたインク、紅殻チョークによる)が含まれている。

グエルチーノは1666年に亡くなるまで、絵を描き、教え続け、相当な財を成した。



【主な作品】

スザンナと長老たち(1617年)



放蕩息子の帰還(1619年)



アウロラ(1621年)



ヴァイオリンを奏でる天使と聖フランチェスコ



十字架にかけられたキリストとその足下の聖母マリア、マグダラのマリア、聖ヨハネ、聖プロスペロ

(1624年 - 1625年)


隠者聖パウロ



バビロンの反乱の知らせを聞くセミラミス女王(1645年)



ヨセフとポティファルの妻(1649年)ナショナル・ギャラリー (ワシントン)



ゴリテアの首を持つダビデ 東京、国立西洋美術館所蔵



聖母子の絵を見せる聖ルカ(1652年 - 1653年)



占星術の象徴 テキサス州、ブラントン美術館




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最終更新日  2017.09.12 00:00:24
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