「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2018.04.28
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テーマ: Paris/パリ(887)
カテゴリ: フランス
​​フランスへ何度も行っておりますが「バスティーユ広場」Place de la Bastilleには行って無い!?

ミュージカル『レ・ミゼラブル』で広場に集った力強いシーンを思い出すのです






バスティーユ広場
Place de la Bastille
(ウィキペディアさまより)


フランスの首都パリにある広場

4区、11区、12区の3つの区に跨っており

広場の周辺地域は・・・

単に「バスティーユ」と呼ばれている。


もともとは、バスティーユ牢獄があった場所であるが

1789年7月14日にフランス革命の発端ともいえる



解体されたため牢獄の痕跡は残っていない。


現在は、

広場中央に1830年に起こった

フランス7月革命を記念するオブジェが建てられ

近くには、地下鉄のバスティーユ駅

同広場南側には、アルスナル港

同港からサン・マルタン運河が地下化し

レピュブリック広場の北側10区に入った所で顔を出す。



またかつては、国鉄のバスティーユ駅もあったが

現在は取り壊されて跡地には歌劇場オペラ・バスティーユが建設された。

広場の北東部ロケット地区界隈は



一方で近年では、

2006年に起こった初期雇用契約を巡るデモのように

政治的なデモンストレーションの舞台ともなっている。



【歴史】

・・・フランス革命以前・・・



1370年から1383年にかけて建設され、

当初は、パリ防衛のための要塞であった。

それが17世紀になると

ルイ13世の宰相リシュリューにより

国事犯の収容所に改造されたことで

政治犯のほか宗教犯や民衆を扇動した作家、

また若い放蕩者が家族の要請で一時的に収容されるなどし、

国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」により

逮捕された人間が収監されるようになると

次第に評判を落とし悪政の象徴となっていった。

18世紀後半の時点で、

バスティーユ牢獄は

中庭と武器庫を取り囲むように建つ

高さ24mの8つの塔と

防壁によって形成されていた。

囚人は、主にこの塔の5階~7階に収容され、

直径4.6mの部屋に家具を備えた部屋が与えられた。

この牢獄の管理者は、

囚人一人あたりの手当てを貰っていたが、

囚人の身分によって額が異なり、

学者であれば19リーブルだったが、

一般人では3リーブルであった。

現代のイメージとは異なり、

極悪非道な看守、出血、虫のわく地下牢といったものと

バスティーユ牢獄は無縁であり、

パリには、ビセートル刑務所のように

バスティーユよりも環境の悪い牢獄が多くあった。

しかしながら、

文学などにおいては、バスティーユ牢獄は恐怖と圧政、

そして独裁の象徴として扱われている。


・・・バスティーユ襲撃事件・・・


18世紀後半、

アンシャン・レジームに対する民衆の怒りが頂点を極め、

1789年7月14日、パリ市民は

圧政や国王の権力の象徴であったバスティーユ牢獄を襲撃した。

この際収容されていたのは7人に過ぎず

牢獄はほとんど空の状態であり、

この7人も偽造犯が4人、

精神障害者が2人、

そして父の怒りをかった若い貴族が1人と

政治犯は含まれていない。

襲撃当時、

バスティーユ牢獄には

管理者であった80人の廃兵(戦場で戦うことが出来なくなった兵隊)が

守備兵として配置されていたが、

すぐにスイス人傭兵によって構成された32人の擲弾兵が加わり、補強された。

朝方、バスティーユ牢獄を取り囲んだ8000人の群集は

牢獄側に対して投降を呼びかけ、

牢獄の武装解除や武器庫に保管されている武器や弾薬の開放を求めた。

これに対して牢獄側は

代表者2名を招き入れて交渉を行ったが、

交渉は思うようにまとまらず昼過ぎには

一部の群集が中庭に繋がる跳ね橋を落とし、中庭に侵入。

これに対して守備兵が発砲して応戦したため銃撃戦となった。

そこへさらに一部のフランス軍が群集側に加勢しバスティーユ牢獄は降伏、

午後5時30分ころに牢獄は陥落し囚人たちは解放された。


・・・襲撃後のバスティーユ・・・

1792年、バスティーユ牢獄は撤去されて、

新しく自由を記念するオブジェが作られることとなった。

1808年、パリの都市化を推し進めていたナポレオン・ボナパルトは、

当初ここに象の形をした記念碑を建設することを計画した。

この象はスペイン軍から奪った大砲から取られた銅が使われる予定で

高さは24m、象の足のうちの一本の内部に作られた階段によって

像の上までいけるように設計されていたが、

石膏のモデルまでは作られ広場に置かれたものの(「バスティーユの象」)、

最終的に広場に銅像が建つことはなかった。

1833年に現在の7月革命記念碑 (fr:Colonne de Juillet) の建設を決定したのは、

ルイ・フィリップである。

後に「バスティーユの象」は

『レ・ミゼラブル』(1862年)の登場人物

ガヴローシュらの住処として有名になるが、

1846年、土台の一部を残し7月革命記念碑に置き換わり、撤去された。

1855年に、牢獄の跡地にバスティーユ駅が建設された。

その後1969年に廃止され、

路線は地下化されて現在のRER A線となった。

駅舎は解体され、

そこから延びる線路は芸術の高架橋と呼ばれる緑道となった。

駅舎跡地には

オペラ・バスティーユが建設され、

革命200周年記念の1989年7月14日に落成された。


・・・今日のバスティーユ広場・・・

バスティーユ牢獄があった場所が

現在の「Place de la Bastille(バスティーユ広場)」にあたり、

オペラ・バスティーユが

広場を代表する建物といえる。

またもともと牢獄の堀であった部分は

サン・マルタン運河と接続されて遊覧船の発着ポイント(アルスナル港)となった。

火曜日と日曜日には

バスティーユ広場に併設されている公園を中心に

大規模な青空市場が開かれ、

衣類のほかにも果物や魚、肉、チーズ、パンなど

さまざまなものを手に入れることができる。

現在広場周辺はカフェやオフィスなどが立ち並ぶ商業地域になっており、

サンタントワーヌ通りが広場を突き抜けるように走っている。

なお、地下鉄の敷設工事の際に発見されたバスティーユ牢獄の塔の残骸の一部は

数百メートル離れた公園へ移設された後にそこで展示されている。

・・・・なるほど・・・・


パリわがまま旅を計画しております

初日にジヴェルニー「モネの庭」への旅

2日目は、美味しいパン屋さんに朝から並び

映画アメリのロケ地「サンマルタン運河」を散歩して

フランス革命の地「バスティーユ広場」から・・・

美味しいチョコレート屋さんと

オシャレなカフェでランチ

原作者「ヴィクトル・ユーゴ記念館」に寄り

「ピカソ美術館」へ

最後に「ポンピドウ・センター」で近代美術を鑑賞する


どうでしょうね~うまくゆきますようにウィンク

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最終更新日  2018.04.28 12:00:19
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