浜松中納言物語 0
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「南京事件15(完)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。写真の「300000」の数字は今後も変わらないだろうしもちろん中国側からは変えようともしないだろう。河村名古屋市長の南京事件はなかったのでは?との発言に対し、名古屋市との交流を一時凍結すると日本のマスコミが騒いだようであるが、こちらのメディアでは大きくは取り上げられてはいない。また河村市長は昨年、南京市へ書面にて南京事件の事柄を送っており、今回の交流一時凍結も南京側の面子もあるが、交流団の中止は安全面を考慮して全て中止としたが中国にいる日系企業はたまらない。私は右翼主義者でも左翼主義者でもない。中国での日本人に対する言動についても出張ベースで中国へ来られる人には南京事件の事については何も言わない。また片言しか中国語を話せない人にも南京の虐殺については言わない。上の写真は旧館の日本が造った記念館の遺骨だが日本人の心を持っているならば、このようなこれ見よがしの並べ方はしないであろう。私のように中国の片田舎で20年近く中国の人達の中で知人も増え交流が多くなる中で日本人の残忍さを言われ続けた者にしかブログに書いた辛さは分からないだろう。上の写真は強制労働させられ病気で体が弱ると日本人による残虐な殺人が行われた炭鉱労働者の事柄を歴史教科書に載せて中学生に教育する。犠牲者は10万人ほどと中国側では発表しているがその満州吉林「万人坑」で掘り起こされた遺骨が南京の大虐殺記念館に展示し青少年教育している。日本人の残虐性の教育ばかり受けた若者たちが日本人を憎むようになるのは当然の摂理であろう。1992年以降の反日教育は共産党の思惑通りになった。下の写真の花は「紫金草」や「二月蘭」と呼ばれる。別名「諸葛菜」と呼び、孔明が占領陣地に食料として栽培したということで諸葛菜とも呼ばれるようだ。南京陥落から南京の紫金山麓で無邪気な少女が日本兵へ手渡したとされる花であるが、南京では有名な話である。紫金山の麓で少女から手渡された紫金草の花の種を採集して日本へ持ち帰り紫金草花の普及に努めたのが今から70年以上前のことになる。紫金草の花は「平和の花」として日本でも多く咲いているので見た人もいることだろう。2007年南京記念館の拡張工事で当時83歳の故・山口誠太郎さんの息子さんが日本各地で1000万円の募金を集め南京に寄付した。南京市は記念館に紫金草花園を造園し紫金花少女の像も建て日中両国人民が共に平和を祈念するシンボルとして多くの人が少女を訪れる。紫金花少女が左手に持つのが紫金草の花である。反日デモも南京だけは一度も起こってはいない。まだ南京大虐殺の写真は有ったが「大虐殺」の活字は目にしたくないと言う少数ブロガーの意見を尊重し、今回で終了と致しました。私は一時帰国のための準備に入りブログの更新は帰国してより、その時まで・・・。次回は日本からの更新になりそうです。
2012.03.28
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「南京事件14」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。旧日本海軍は朝鮮半島、現在の韓国済州島や東支那海の空母から爆撃機で中国沿岸部を爆撃し中華民国の首都南京へ兵を進め、南京を攻略した。下の画像は中国の軍旅詩人「王久辛」が書いた「狂雪」詩集で、王久辛は1956年生まれる。「狂雪」は1990年に発表、1995年記念館へ。大虐殺の事柄は1991年中国高校歴史教科書に載る。翌年の1992年には中学の歴史教科書にも載った。1991年当時、17歳として37歳ほどになっており、中学で教育を受けた人でも34歳ほどである。最近起こっている反日デモに参加している人々は若い人や大学生が多く反日教育の副作用である。 1937年11月、旧日本軍は上海を占領し上海から南京まで移動する中、蘇州、無錫、揚州などで潜む中国国民党革命軍に神経を集中させながら南京へと向かい南京を包囲した。蒋介石は南京を易々と日本軍には渡さない6ヶ月間守りぬくと述べたが、6日間で陥落してしまった。そして蒋介石は最後まで戦わず重慶へと逃げ去った。取り残された国民党軍5万の将兵と25万の南京人民が日本皇軍兵から大虐殺を受けたと主張するのが所謂、南京事件であり南京大虐殺と呼ばれている。下の画像の足型は、78歳から89歳の人達が多い。南京事件の証言者の足跡の形をとったものである。
2012.03.27
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「南京事件13」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。上の写真は南京大虐殺を描写した油絵であるがリアルさを超えて実に奇妙な油絵である。旧日本皇軍の二人の将校が腕組みをして仁王立ちしている姿を描いたのは旧日本軍の兵士が如何に残忍だったと印象付けたいからだ。多くの中国人は、この油絵を見て日本人の残虐さを確信しただろうし、日本鬼子と呼ぶに相応しい絵に仕上げられているが、もし私がその場に居たのなら、直視は出来ないと思う。南京大虐殺は中国共産党により捏造された。中国国民党の調査で大虐殺前の南京の人口は20万人であったと報告されている。だが、南京大虐殺での犠牲者数は30万人とされまた同じく南京安全区国際委員会の事務局長の報告では旧日本軍の南京陥落の3ヶ月後の人口が25万人であったとされ、旧日本軍が南京へ入り物資を配る噂で人口が増えたとしている。万が一にも中国共産党の主張する南京大虐殺が本当に有ったとするならば、南京の人々は我先に逃げ出しているのではないだろうか?
2012.03.26
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「南京事件12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。 「通州事件」の事も手伝い旧日本皇軍が南京占領時に復讐心で南京事件が勃発した。孫文と結婚した宋慶齢の妹の宋美齢は蒋介石と結婚したが、南京事件の事をアメリカにおいて反日運動の目的で世論に訴えたが反応なしだった。宋美齢は南京事件の犠牲者の数を大幅に改ざんし中国兵が犯した「通州事件」の残虐な写真をレイプ・オブ・南京として日本兵の仕業だと発表。中国側が行った満州馬賊の惨たらしい公開処刑写真も日本軍の残酷な仕業の証拠写真として発表した。レディー・ファーストの国アメリカは人道主義に敏感でレイプ・オブ・南京のテーマで反感ムードが一気に高まり、ここでも宋美齢の策略の罠に落ちた。アメリカ大衆は南京での日本軍の野蛮行為に憤り悪い日米関係に火を注ぎ反日の感情は高まった。このアメリカ世論の意識を行動へ誘導した中国側のプロパガンダ作戦は成功し更に中国側に武器を提供アメリカの武器により旧日本軍兵士の多くが死亡した。(画報は大阪毎日と東京日日の特派員の写真を掲載)
2012.03.25
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「南京事件11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。初め難色を顕にした中国共産党幹部に日本社会党が資金を提供してまで推し進めた大虐殺記念館とは何か。それまで日本が大好きと言っていた中国の青少年までがアンチ日本となり反日デモの先陣を切っている。反日デモをする彼らに、大虐殺記念館を建てたのは日本だと話した所で信じないだろうし逆効果でしかない。1937年7月7日盧溝橋付近に駐屯する旧日本軍に中国共産党革命軍は中国国民党と日本軍の緊張状態の中ゲリラ軍の共産軍が発砲し両軍の戦闘を招いた。旧日本軍は中国国民党革命軍と思い込み発砲したが問題が大きくなると判断し発砲を中止した。これを中国共産革命軍は日本が弱腰になったとさらに発砲を続け盧溝橋事件勃発へとつながった。旧日本軍は完全に共産革命軍の罠にはまった。ゲリラである共産革命軍はその場を逃げ去った。盧溝橋事件が勃発したが、停戦協定がなされ落ち着いたものの今度は中国国民党が協定を破り攻撃を仕掛けてきた。更には通州事件へと発展する。中国支那保安隊による虐殺は日本本土へ知らされ日本国民の世論も手伝い軍部を激怒させた。日本では直ぐに派兵をするべきか意見が分かれた。中国側は戦争を継続させる為、停戦協定も何度となく破られ、遂に日本は派兵を採決し支那事変となる。中国国民党に対し米英は、武器と資金を支援し日本に対しては経済制裁を行なうなどの行動をとった。日本海軍は空母から爆撃機で中国沿岸部を爆撃し中華民国の首都南京へ兵を進め、南京を攻略した。
2012.03.24
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「南京事件10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。上の絵の写真は虐殺を始めたところの1シーンだが日本皇軍で使用されていた機関銃は九九式軽機関銃。1分間に550発を発射させる事ができるが装弾可能は30発なので何度も装弾しなければならない。1ヶ月余りの期間、南京市内を巡回して残党兵を射殺するだけでも大変な精神的苦痛を受けるだろう。その前に残党兵は戦意を喪失して士気が下がり白旗を掲げて投降して来たのではないだろうか。中国の映画やテレビでは、投降した便衣兵を集め虐殺に及ぶシーンを延々と映し出しているが当時の日本皇軍の機関銃では延々と射撃できない。中国側が問題にしているのは日本の残虐行為だけで南京攻略までに至った前後関係には口を閉ざしている。日本人が忘れ去ろうとしている。または全く知らない中国軍による日本人居留民の虐殺「通州事件」の事を。中国の居留区に暮らす大勢の日本人を虐殺した。「通州事件」日本の世論を奮い立たせ日本皇軍を動かし南京攻略に踏み切り命を下したが上海で戦死者が続出した。下の写真は「支那事変」で皇軍連戦勝利の「画報」である。
2012.03.23
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「南京事件9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。東京裁判で日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るか競ったとされる将校が死刑になった。将校が腰に掛ける軍刀は指揮を高めるためのもので武士の魂の日本刀ではない。日本刀であっても一度に人を3人斬れば刃こぼれがしてしまうであろう。座頭市のように一度に何十人も斬れるような映画の世界ではない。人を斬れば血糊が付着し切れ味が悪くなってしまう。骨まで斬れば刀は曲がりくねる。それとも将校は30本以上の軍刀を事前に用意して100人斬りを行ったのだろうか。不思議である。上の写真は5連発発射できる小銃だが、例えば日本皇軍兵士3千人で1人が100人虐殺すれば中国共産党の主張する「300000」の数字には到達できる。戦後66年過ぎた今でも、多くの中国人の恨みを残す「南京事件」が今でも日本との政治の駆け引きに必ずと言ってよいほど使われてしまう。「南京事件」はあったのは事実であり認めてもいる。中国の各工場を訪問した折、初めはピリピリしていた中国の若い人達も、私に慣れて来ると南京事件の問題を必ず言い出すが、どこの工場の作業員も同じである。私が黙っていると、黙っているのは認めているからと薄笑い顔で言い出すので、何とも辛い思いをしていた。(館内は全面撮影禁止であるので注意)
2012.03.22
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「南京事件8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。写真は「平和の鐘」の書かれた中国文をアップで撮ってみたが上手に撮影できていない。内容は1937年12月13日に日本侵略軍は南京を占拠し6週間の長きに渡り残忍な暴行大虐殺を行ったと書かれ、レイプの事も書かれている。平和の鐘は2006年9月24日に寄贈されたが寄贈したのは日本2団体中国5団体を含む10団体。2011年12月13日の南京大虐殺74周年記念の追悼集会に平和の鐘が撞かれ鐘の音が響き渡る。中国の報道では、日本は南京事件を避けているがそれでは双方の国民感情のわだかまりは解けない。何故日本は南京事件に向き合って話が出来ないのか日本の首相が南京を訪問し犠牲者に献花し謝罪すれば必ず分かり合う事が出来る筈だと報道した。2012年の12月13日には75周年儀式を挙行しその儀式に日本の首相が参加し犠牲者に献花する事が一番望ましく日本人に対するイメージも大きく変わる。中国人の日本人に対するイメージは74年経った今でも何も変わってはいないし、テレビや映画で描かれる抗日戦争の日本人は極悪卑怯で小心者として描かれる。中国国民の日本人に対するイメージは毎年ダウンし現在の多くの若者は極悪日本人と記憶されている。だが、そのようなイメージ作りを誰がして来たのか日本ではなく中国共産党の政治戦略の中で中国国民が騙されていた事実を知ったならば、どうなるのだろう?
2012.03.21
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「南京事件7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。(写真は日本軍の大虐殺が行われたとされる1937.12.13-1938.1までの刻印である)「南京大虐殺」いわゆる「南京事件」は捏造や虐殺人数を改ざんし、いつの間にか変化していった。一人歩きしたと評論家は言うが、私はそうは思わない。毛沢東は日中国交回復の時点で周恩来総理に中国共産党が勝利を収めたのは日本が蒋介石軍と戦い打撃を与えた為、共産党は国家を樹立出来たと言った。南京大虐殺記念館は大日本帝国皇軍と中華民国国民党の蒋介石政権との間で行った日中戦争で中国抗日戦争にまつわる記念館として中国最大規模の記念館である。然るに一人歩きではなく、中国共産党が故意に捏造し代々の首脳陣に受け継がれたがゆえに、今回の河村市長の南京事件はあれほど酷くは無かったのではの発言にまるで反抗期の子供のように友好凍結などと言い出したと思う。抗日戦争で死亡した中国軍は380万人余りで中国人民の死亡者数は1000万人と発表していたが1985年の抗日戦争勝利40周年記念の折に2000万人と2倍の死亡者数にすると、改ざん数を発表した。大日本帝国の犠牲者は軍人230万人余りで一般市民は広島長崎の原爆犠牲者も含めても80万人余りである。この死亡者数から推測しても南京での虐殺が30万人とは、誰が考えても不思議この上ないと思う。南京大虐殺記念館は抗日戦争の代表格として中国共産党の愛国主義教育基地に指定されており、この記念館を事もあろうかユネスコ世界文化遺産に立候補している。(写真の平和の鐘を支える柱は1本で10万人を意味する)
2012.03.20
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「南京事件6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。私が初め記念館に行った翌年に小泉政権が誕生した。だが靖国神社参拝問題が浮上すると、中国人の心を逆なでする発言で、中国に居る日本人は中国人の標的の的となり私の見解まで聞いてくる始末だった。酒場などでは、私のお客様とは関係ない中国人があまりにも不愉快な態度に「私は日本を代表して中国に居るのではない」と開き直った事もあった。中国人がこれ程日本人を威嚇するようになったのかは南京大虐殺記念館を日本が建てたからで社会党の思惑は完全に的を外れ反日感情へ拍車を掛けた。旧大虐殺記念館には社会党議員や社会党団体による中国人への謝罪文が相次いで提出され張り出された。修学旅行で訪れる日本の生徒たちには千羽鶴を折らせ日本は2度と過ちを犯しませんなどと謝罪文を書かせていたが、何処に証拠があって高校生の心に圧力を掛けているのだと思うと、教師さえも憎かった。時には中国の新聞やテレビでも紹介され中国人はやはり南京での大虐殺は真実だったと確信を持った。2002年5月民主党の菅直人幹事長夫妻一行6名が南京大虐殺記念館を訪れ花輪を捧げ詫びを伝えた。何故、そんな余計な事をするのだと言いたかった。「南京への道」で南京事件を書いた本多勝一氏は中国に大虐殺を教えた事で2006年に表彰状が送られた。
2012.03.19
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「南京事件4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。画像は新しく建てられた南京大虐殺記念館の入口までの通路脇に作られたモニュメントである。どのモニュメントを見てもリアルな表現で作られているが、作った人達は戦争を知らない若い芸術家達なので想像でしかない。話ではモニュメントの製作に入る前、中国で製作された旧日本軍による虐殺の映画を見せイメージ作りに拍車を掛けたとの事である。私も中国語の南京大虐殺の映画をDVDで見たことがあるが、日本兵が妊婦の腹を銃剣で突き刺し、腹を割き、銃剣の先に突き刺した未熟児を空高くかざし、日本兵は笑っていた。いくら時代が違うとしても日本兵が、そんな事を本当にしたのだろうかと疑問の思いで見ていたのに対し中国人の若手芸術家は憎しみを込めた思いで見ていたに違いないとモニュメントを見て確信する。
2012.03.17
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「南京事件3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館は旧日本軍の非道行為を内外にアピールする為に建てられたのが南京大虐殺記念館だが実際とは異なる。 中国国民すら知らなかった南京事件は1971年日中国交樹立前に朝日新聞紙上に掲載された本多勝一の「中国の旅」という連載記事から始まる。私が中国へ居住した1993年当時は南京事件で気が重く中国人から攻め立てられる度に謝罪ばかりしていた。それは大虐殺は本当にあったと信じていたからだった。今回で3回目となる南京への旅だが初めて来た時の事を記念館を歩きながらも思い出していた。2000年11月雨の降りしきる南京空港へ降り迎えの車で南京大虐殺記念館へと走らせたがまだ地理に疎い私は南京大虐殺記念館の距離が結構遠かったように記憶している。12年前は南京大虐殺記念館へ入った時に入口の「300000」の数字に驚きながらも説明を受けながら、中へ中へと進んでいった。
2012.03.16
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「南京事件2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。私が初めて南京大虐殺記念館を訪れたのは12年前の雨が降りしきる日だった。その頃の記念館は現在とは違い大分小さかった。写真の記念館に入っていくスペースに置かれたモニュメントなどは無かった。初め訪れた時の私には大虐殺の知識が乏しく彼ら中国人の話すことを信じざるを得なかった。南京攻城戦で大虐殺があったと主張しているのは1937年12月13日から6週間行われた事を指す。1937年12月日本軍は南京を攻略、南京陥落前に南京から逃げ出した蒋介石は重慶に逃げ込んで国民党政府は重慶に首都を移していた。国民党の兵士達も重慶へ移動し南京には5万ほどの兵士しか残ってはいなかったが、日本軍は南京で残虐な大虐殺を行い30余万人を殺害したとされた。
2012.03.15
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「南京事件1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。河村名古屋市長の発言に対して南京市から河村市長が発言の過ちを認め謝罪しなければ双方の友好関係は凍結すると発言した。政治上の問題なのかも知れないが中国にいる日本人にとっては迷惑な話である。ところで、松井石根さんって名前を知る人は最近では少なくなってしまったようだ。中国人に言わすと「さん(先生)と呼ぶのは止めてほしい」と言われたことがある。 中国人から見れば中国へ上陸をし大虐殺をしたA級戦犯なのだから仕方が無いが、太平洋戦争でA級戦犯になり絞首刑で散った人は7人いる。その中で陸軍大将の松井石根さんは中支那方面軍の司令官であり上海派遣軍司令官でもあった。南京大虐殺いわゆる南京事件は中国の捏造と心の中では思っているが、多くの中国人の前では大きな顔をして、南京大虐殺は無かったと言えない。
2012.03.14
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「無錫旅情66(完)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖の仙島波止場から無錫元頭島波止場へ向う最終船が出港するまでにあと3分と迫っていた。船のエンジンが駆けられ波止場に繋いだロープが外されようとしていたので大きな声を出した。こんな島に取り残されたらと心細く思いながら駆けて来たが、船長の手招きの姿を見て安心した。船に乗り込むと同時に船は大きなエンジン音と共に動き出したので座席に座りホッとしていた。隣に座っていた中国人が「危なかったですね」と私に声を掛けて来た。「我々は20分ほど前に船に乗り込み早く船を出そうとお願いした」という。だが船長は「時間通りに出発するから」と待っていた。結局、20分の間に来たのは3人だけで、慌てて来たのは私一人だけだったと言うような話しをしていた。リーダー格のような中国人は「日本の新幹線に乗った事があるが時間通りに動いていて驚いた」とも話していた。中国では遅れる事はあっても早く来る事はまずないが、置いていかれる事は稀にある。無錫駅から列車に乗り南京駅に着いたホームの画像。「中国の旅」
2012.02.17
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江蘇省---無錫旅情65 「無錫旅情65」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。道教が日本渡来したのは仏教や儒教とほぼ同じ頃とされており陰陽師が道術を取り入れ日本独自の陰陽道が生まれた。道教が日本人に受け入れられなかった原因は道教の仙人思想が日本文化の天皇制の破壊に繋がるとされ中国のようには広まらなかった。それでも道教は日本文化の至る所へ影響を及ぼし我々が日常生活で気付いていないだけである。仏教寺院が多く立つ山岳地帯には道教の山岳信仰が密接に関わり道教の陰陽道の要素も入っている。我々日本人に身近なのは、風水であろう。 風水は道教の陰陽五行説の応用であり開運を願い神社などでも本が売られ誰でも一度は見ている。街頭で見掛ける易者の占術は道教が起源である。昔の人は玄関やキッチンそれにトイレは綺麗にと口やかましく言っていたが、これも神が存在し綺麗にすれば幸運が舞い込む道教の思想である。船の出港の時間が迫り写真を撮るのをあきらめ小走りにアップダウンの石段を駆けた。「中国の旅」
2012.02.16
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「無錫旅情64」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖仙島の大覚湾から仙人洞を抜け石段を上がった所に建てられていた道教寺院で思いがけず時間を使ってしまった。ここは小さな仙島で波止場から40分ほど掛け渡し船で元頭渚の波止場まで行く予定だった。最終の船が出港するまでに20分程の時間しかなくかなり慌ただしく仙人洞まで降りて行った。仙佑と彫られた岩が目に入ると急いでいる事を忘れてしまいシャッターを押していた。「仙佑」という単語は中国語にも無く漢字から推測すると、この仙人洞に安置された仙人の加護や天の助けと言う意味と理解すればよい。私は更に仙人洞の石仏に後ろ髪を引かれる思いで急ぎ連写シャッターに切り替え撮影していた。「中国の旅」
2012.02.15
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「無錫旅情63」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。玉皇上帝は道教で崇拜する最高の神である。また中国民間で一番崇拜している神でもある。中国では玉皇上帝の部下は仏教や道教といわれまた其々伝説の中の神すべてを包含している。玉皇上帝が祀ってある天開宮の中に入りレンズを玉皇上帝を撮影しようとしたところシャッターを押す前に大きな声で制止された。玉皇上帝殿の中には5人の道士がいたが私に撮影はしてはいけないと中国共通語で説得していたが、道士の中で一番年長の人と直談判をし撮影許可が出るまでに15分程費やした。天開宮の入口に2人の道士を立たせ撮影する間観光客が入って来ないように配慮していた。だが私が最後の観光客で他の人は最終の船に乗る為急ぎ下りていたので誰も入っては来なかった。その意味では貴重な写真になるのかも知れない。「中国の旅」
2012.02.14
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「無錫旅情62」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。道教の教えの中で、身分や地位が頂点に達すると身分が低い人に変り、身分の低い人が極点に達すると高貴な人に変ると説いて信仰心を仰いだ。道教の「道」とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指しており修行する人々が不老不死の長寿霊薬の丸薬を錬り仙人に成る事が理想である。神仙となって長きに渡り命を維持する事は「道」を会得するチャンスが広がる事で奨励され信じた。中国の裕福な家庭に行くと道教の大きな祭壇が置かれ真理を追求するサークル活動もしており多くは華僑や華人の間で根強く信仰されている。写真は伝説上の動物で竜が生んだ九人の子の中の七番目のヤーズで悪霊を避ける獣で中国の架空の動物であるが、獅子像とはまた違う。「中国の旅」
2012.02.13
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「無錫旅情61」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。13億人以上の人口数の中国には55の少数民族と漢民族の56民族である。道教は13億人以上の92%が漢民族で約12億の人が伝統的な宗教である道教を信じて来たが、現在では形骸化しつつある。だが、中国の人々は明日の幸せの為に太い線香を買い祈りをささげている。中国では儒教や仏教と道教の三教が互いに補い合い共存しているのが道教の思想である。実際の生活でもイスラム教のように豚肉を不浄のものとして禁ずる律はなく、何でも食べる事が許され、長寿の人も沢山いる。道教の一部分かり易い教えは、人間には富貴と貧賤の二道があり金持が頂点に達すると貧乏人に変り、また貧乏が頂点に達すると金持に変る。一般庶民はこの所を信じ祈っているのかも知れない。「中国の旅」
2012.02.12
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「無錫旅情60」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。道教は古代の自然崇拝や先霊魂崇拝のような原始宗教のなごりがあり、天を敬い祖先を崇めた礼教もあり国家により軟禁された著名人も長きに渡り祭祀されて来ている。中国は農業大国で神霊体系は天神崇拝が根本になっており天災におびえ悪鬼が自分を脅かしていると感じ多くの守護神を作り出した。自分に災いが起こるかも知れない恐怖から色々な神を作り、その神霊に祈った。中国の皇帝も天神の守護が無くなる事を恐れて昊天上帝を祭祀した。道教は中華民族の伝統的な天神崇拝を道教の信仰の下に広めさせた。「中国の旅」
2012.02.11
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「無錫旅情59」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。仙人洞から石段を上がって行く脇にも道教にまつわる石像のコピーが置かれ仙島が仏教由来の島ではないと分かる。仙島は道教主体の島として、島の至る所に道教の神仙信仰と関わりあることが分かる。道教は中華民族の形成や国情または民情など色々な秘密が隠されており、また道教にはおよそ何百種という神がいる事でも知られる。三国志の関羽も神に祀り上げられている。関羽とは劉備と張飛の三人が三顧の礼で諸葛孔明に会いにいった行った一人である。「中国の旅」
2012.02.10
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「無錫旅情58」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖の元頭渚から船で仙島まで来る間太湖の湖面を眺めていたが単調な景色に太湖の広さを感じていたが、話す相手もおらずただ無言で仙島へ船が着くのを待つだけだった。写真は道教や仏教に関係する石窟であるがそれぞれの石窟の石像がリアルに作られており暫くの間、仙人洞の菩薩や観音石像を眺めていた。中国各地の有名な石仏のコピーが観光客のため設置されていた。明日の更新写真は、左手の山に建てられた道教の寺の画像をアップしたい。 「中国の旅」
2012.02.09
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「無錫旅情57」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。私は太湖の元頭渚の波止場から船で35分ほど来た所の仙島へ来ている。仙島波止場へ着き徒歩で20分ほどで大覚湾の仏像群が設置してある所で撮影を続けていた。小高い山へ向かう所には小さい洞窟がありその洞窟の暗がりの中へと入って撮影した。歩く度に私の靴音が岩盤に反響するのか誰かが後から迫って来る錯覚まで起こした。仏像と岩肌に目を凝らし比較してみたところ以前来た時より4年ほどの歳月で繋ぎ目が如実に現れているのが分かった。「中国の旅」
2012.02.08
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「無錫旅情56」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。 ?の文字が刻まれ朱色で塗られているが?の漢字は日本でも中国でも殆ど使われず仙人の仙の字をよく使うが、仙の繁体字にも?ではなく「僊」の文字を使う。 仙島の大覚湾には中国各地の石仏のコピーが置かれて観光客達を驚愕させた。私も驚かされた一人ではあるが前回訪れた折には3人だったので今回ほどの驚きは感じ得なかった。下の写真は河南省洛陽にある龍門石窟の盧舎那大仏であるが旅した折に撮影した。顔の表情など上手にコピーしてあると思う。実際の盧舎那大仏は17mほどの大きさだが仙島の石像は4mほどくらいである。「中国の旅」
2012.02.07
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「無錫旅情55」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。仙島の大覚湾の平地の岩肌に河南省の洛陽にある龍門石窟の盧舎那大仏と同じ石仏が置かれていたので驚きと共に巧みな技量に驚く。盧舎那とは智慧と光明が行き渡ったという意味で洛陽にある石仏は唐代(670年頃)に彫られている。高さが17メートル以上あり、文化大革命時代に腕は破壊されているが慈悲深いその顔は破壊から免れており、腕の破壊までコピーされていた。天王像や金剛力士像の石仏も同じように彫られ記憶だけではこれほど巧妙には出来ない筈でコンピューター技術で作られたものだろうと思った。ちなみに一枚目の石仏は奈良の大仏のモデルとされ当時は日本との交流が盛んで遣唐使が力を発揮した。「中国の旅」
2012.02.06
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「無錫旅情54」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。仙島の大覚湾から少し行くと周り一面に石仏が所狭しと彫られていた。私はその中央に立ち撮影を続けたが人の声すら聞こえない中で何度も後を振り返っては不気味さを確認していた。それぞれの石仏や観音像などに近づき目を凝らしてみると巧みにセメントで石を彫ったかのように作られていた。全てがセメントではないが、この場で何年も掛けて彫り続けられたものではなく各地で製作依頼をして集められたように思った。「中国の旅」
2012.02.05
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「無錫旅情53」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。小さな仙島であるがオフシーズンなので観光客も少なく、私一人の度も手伝い前を向いても後ろを振り向いても人気がなかった。特に私の場合、撮影が目的なので少ない観光客にも置いていかれる格好で一瞬何とも心細い気持ちさえなった。坂を下って摩雲亭を通り過ぎるころに大覚湾が見えて来るが、そこには道教や仏教にまつわる石窟などがある。敦煌や洛陽の龍門石窟や山西の雲崗石窟など釈迦の涅槃像や見世物的な展示物だが中国の三大石窟の石仏のコピーが仙島にあった。「中国の旅」
2012.02.04
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「無錫旅情52」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。仙島自体小さな島である。その面積は2平方キロである。「三山映碧」でも分かるように緑濃い島で島全体が太湖に浮ぶ姿が亀に似ているところから亀島と呼ばれる。元頭渚の波止場から船で島に着くとシーズンオフの為もあり人が少ない。「太湖仙島」と大理石の牌坊が見え三門五楼式で幅が6mほどと大きい。「中国の旅」
2012.02.03
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「無錫旅情51」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖元頭渚公園にある太湖遊覧船着場から仙島へ向け進んだが30分ほどの時間で着いた。仙島へ向う船の中からの太湖の眺めはお世辞にも素晴らしいとは言えない程だった。太湖は琵琶湖の3倍半ほどの広さなので水平線が見え、時折小さな島が見える程度だ。仙島は元頭渚から2.5キロほどの太湖湖中にある。仙島は三つの小さな山からなり三山とも呼ばれる。無錫旅情の歌詞に「昔ながらのジャンクが走るはるか小島は三山か」はこの仙島を指す。「中国の旅」
2012.02.02
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「無錫旅情50」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。波止場には多くの船が横付けされていた。無錫太湖沿岸の遊覧は45分ほどだが私の目的地は仙島へ行く事だった。元頭渚から3キロほど離れた湖の中に見えて来る島が目的地の仙島である。島の姿が亀のようにも見え亀の山とも言われる。船の中に入ると壁に中国結び吊るし飾りが掛けてあり、ひも結びで作る装飾品である。 ひも結びの歴史は旧石器時代から始まり古代人は、ひも結びで物事を記憶し感情と情報を伝えていたと言われている。「中国の旅」
2012.02.01
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「無錫旅情49」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖の島の中で最も有名な島へ行く為太湖遊覧波止場へ行った。前回来た時は真冬の中で波止場の船着場も足場が悪く凍りつき滑って転ぶ人もあった。また前回は事務所の二人の女性と来た事も思い出されたが、結婚してしまい今回は私一人で手探りの中国人現地ツアーだった。そんな前回訪れたときの事柄を思い出しながら波止場に泊められた船の中に乗り込んだ。私の目的地は太湖仙島であるが太湖の中では人気のスポットであり再度訪れようと思った。「中国の旅」
2012.01.31
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「無錫旅情48」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。太湖波止場から太湖仙島へ向け船が出発する20分ほどの時間で撮影した。湖のほとりでは水の流れが緩やかで濁った水にプランクトンが繁殖し入り江付近の水面は緑色に染まっていた。元頭島はスッポンの頭のような地形で中国語の漢字で「元の下に亀」と書かれている。島自体をすべて見ようと思えば1日でも見ることは出来ないが、波止場付近ならそれほどの時間も掛からず探索する事ができた。「中国の旅」
2012.01.30
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「無錫旅情47」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。この湖の水は、いつもこんなに濁っているの?とのコメントがあったが、全くその通りで中国の工業地帯や中国の人々の意識の薄さから汚れて緑色になってしまっている。太湖の元頭渚公園には中山大三郎作詞作曲の「無錫旅情」の碑があるが26年前当時はきっと太湖の畔の水も綺麗だっただろう。太湖に突き出した半島一帯が公園であり青々と水をたたえた太湖に浮かぶ島々と向こう広がる山々を楽しむことができる。日本人観光客も多いと聞いたが、私は中国人達と一緒のツアーバスで行ったのでオフでもあり日本人に会う事はなかった。「中国の旅」
2012.01.29
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「無錫旅情46」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。元頭渚公園の特色は湖の美しさにある。さらには庭園の細かな造りや岸辺に並ぶ太湖石という名の奇石のほか長春橋また飛雲閣、光福寺などの見所がある。入園料は105元で開放時間は8時~17時まで船で元頭渚まで行くのに40分ほど掛かかり18時20分には閉園になってしまうのでのんびりと探索していると船も無くなってしまう。春には花見大会があり中秋節には花火大会がある。「中国の旅」
2012.01.28
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「無錫旅情45」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。 無錫の名前の由来は、その昔運河が回りに巡らされている水の都で、この地方では錫石(赤銅)が大量に採れた。だが、漢の時代に採り尽くされ錫が無くなりこの太湖のほとりを無錫と呼ぶようになった。太湖は無錫の桃原郷として知られていたが1916年頃より庭園として整備され始めた。今は無錫の中でも広大な敷地を有し無錫一の景勝地となっている。無錫を訪れたなら太湖を観光するように太湖を観光するなら元頭渚公園を観光しよう。「中国の旅」
2012.01.27
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「無錫旅情44」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。最初に太湖の元頭渚公園に来たのは女性スタッフから一泊で旅行がしたいと打診があり、何処が良いかな~とつぶやくともう行き先もホテルも決めてありチケットも取ったからねとニッコリ笑うだけだった。だが、ホテル名を見ると太湖の五つ星ホテルで結構な宿泊料である。その時点で太湖へは行った事がないので行く事にした。女性スタッフは2人なので女性と私で2部屋確保したが、今回は私一人の旅であった。「中国の旅」
2012.01.26
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「無錫旅情43」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。江蘇省無錫市は上海より130キロの所にあり上海から高速に乗って3時間程度で着く。蘇州からならば車で40分ほどで着いてしまう。無錫の南側に太湖という中国で4番目に大きい淡水湖があり琵琶湖の約3倍ほどの面積である。無錫の映画村から太湖の元頭渚公園まで行った。元頭渚公園は二度目の訪問だが、前回は真冬で元頭渚は雪化粧の中で神秘的な様相だった。元頭渚の元は楽天では使えない中国文字で意味はスッポンという事で、島自体がスッポンの頭に似ているところから「元に亀」と書く漢字を使う。「中国の旅」
2012.01.25
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「無錫旅情42」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。曹操が220年に病死した後、曹丕は献帝より禅譲を受けて皇帝となり、魏を建国した。劉備は221年に皇帝に即位し蜀の国を建てた。 だが劉備は関羽と荊州を失った怒りは収まらず反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。呉の陸遜の策にはまり、大敗ののち劉備は退却し白帝城で病死しが劉禅と諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を引き受ける事になる。諸葛孔明は魏に対する北伐作戦を最終目標とし南征を行い蜀漢に反逆した高定の反乱を鎮圧した。2年後に諸葛孔明は出師の表を奉り北伐を決行した。戦いは7年・5度に及び、孔明は魏の武将らと戦い討ち取ったものの234年の最後の北伐の最中陣中で諸葛孔明は病に倒れ没した。三国統一は魏・呉・蜀でもなく西晋の司馬炎だった。「中国の旅」
2012.01.24
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「無錫旅情41」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。三国志演義の物語は、劉備が母のために貴重なお茶を求めて船を待っている所から始まる。劉備はお茶を手に入れたが黄巾の乱に巻き込まれ張飛が賊から劉備を助け運命の出会いを果たす。黄巾の乱とは農民が頭に黄色の布を巻いて反乱を起こした為に黄巾の乱と名前が付いた。劉備は義勇軍を結成し反乱軍と戦うが桃園で身を隠していた時に劉備と張飛と関羽が運命の出会いを果たし意気投合した三人は国を統一するために義兄弟の契りを交わす。その後、諸葛孔明の知恵が劉備を助けるが関羽が半ば処刑された事を聞いた劉備は激怒し盟を破って呉に攻め入るが大敗する。「中国の旅」
2012.01.23
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「無錫旅情40」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。2度目に諸葛孔明を訪ねて行ったが孔明は留守で自分の思いを書い手紙を弟に預けて帰った。孔明より知らせが入り三度孔明を訪ねるが孔明は昼寝中で起きて来るのをひたすら待った。張飛と関羽を連れて孔明の元を訪ねていたが血の気の多い張飛は三度も訪ねて来ているのに何と無礼な孔明と劉備に帰るように促した。だが劉備は起こそうとせずに只待っていた。ようやく孔明が起きて来て劉備と対面した。劉備は天下万民のために立ち上がって下さいと頼んだ所、孔明は天下三分の計を劉備に話す。劉備は孔明に私の力になってほしいと頼むが諸葛亮は1回は断るが劉備の国を思う姿と三顧の礼に協力することを決めた。このとき孔明は二十七歳であった。「中国の旅」
2012.01.22
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「無錫旅情39」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。巨大な勢力の魏の曹操を討つのは不可能。また三代に渡り発展してきた呉を奪うこともまた可能ではない。荊州と益州の蜀に力を注ぎ国を三つに分け、その後曹操の野心を砕く。これが諸葛孔明の天下三分の計だった。207年当時、劉備に徐庶は孔明を訪ねろと託す。劉備は 隆中にいる諸葛孔明を訪ねたが孔明は出掛けていて草廬にはいなかった。その後、諸葛孔明より知らせを受けた劉備は吹雪が吹き荒れる日、孔明を訪ねるが孔明は草廬にいず弟の均がいるだけだった。 「中国の旅」
2012.01.21
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「無錫旅情38」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。『三国志』が日本へ伝来した時期は正確には分からないようである。 だが760年の天平年間の『藤氏家伝』には淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている。769年称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』や『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜しこれらの史書が日本国内に普及している。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録である『日本国見在書目録』には当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』や『後漢書』『三国志』『後漢紀』を挙げる。「中国の旅」
2012.01.20
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「無錫旅情37」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。河北を平定した曹操軍は、208年7月に劉表を攻めるため荊州へ南下を始めたが1ヵ月後劉表が死亡し次男は9月曹操に降伏した。 孤立した劉備は長江を南下し1万人余りの軍勢を率いる劉表の長男と合流し夏口へ到達した。曹操は劉表が作りあげた荊州水軍を手に入れそのまま南下して兵を長江沿いに布陣させた。赤壁の戦いは後漢末期の208年のとき長江(揚子江)の赤壁において起こり曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いを言う。曹操軍の兵士20万に対して劉備連合軍は7万人という兵力で比較すると曹操軍が兵力の上では圧倒的に多かった。だが14万の兵を失う損害に遭い退散した。「中国の旅」
2012.01.19
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「無錫旅情36」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。三国志と聞いて知らない人はいないと思う。だが三国志の中で戦った国が何処にあるかと問うてみると、よくは知られていない。三国志は中国の西晋時代に書かれた歴史書で三国時代を扱う歴史書として唯一無二である。中国の二十四史の6番目に数えられている。二十四史は中国の清の皇帝が定めた正史である。正史とは国家によって編集された王朝の歴史書のことであり三国志は65巻から成り三国志の中では魏を正統な王朝としている。「中国の旅」
2012.01.18
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「無錫旅情35」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。今中国では関羽が商売の神様になり広東省では各店で祀られている。三国志の蜀の国では劉備、関羽、張飛と諸葛孔明が世に知られている。魏・呉・蜀の三国で争われたが、それぞれの国の武将がその各々の国では人気がある。軍師諸葛孔明を擁する劉備の蜀と孫権の呉曹操の魏の三国が勝ち残った物語である。 「中国の旅」
2012.01.17
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「無錫旅情34」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。日本において『通俗三国志』の刊行以後大衆文化にも三国志が普及し出した。歌舞伎においては早くも三国志の武将の「関羽」という台詞が出始めている。歌舞伎作品に「関羽」という題名もある。近年では市川猿之助の歌舞伎『新・三国志』がブームになり日本国内での祭りにも影響を与えた。 洒落本では劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込んだ所へ仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される。このような三国志のパロディが江戸時代の文化に溶け込み読者層にも三国志の物語が広まって行った。「中国の旅」
2012.01.16
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「無錫旅情33」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「無錫」の写真を公開しています。『三国志』の日本語訳本が討ち入りの9年ほど前の元禄5年に『通俗三国志』が刊行され元禄時代の武士の間で広まった。江戸時代に外国の小説が日本語訳されたのは初めてのことでもあり興味深深で読んだ。日本語訳『三国志演義』は以後、何度も再刊がなされ葛飾北斎の弟子の葛飾戴斗の『絵本通俗三国志』が人気を博した。明治に入ってからは『新訂通俗三国志』など諸種の訳が現れ明治期以降更に人気になった。「中国の旅」
2012.01.15
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「フリーページ」今まで「フリーページ」の整理をしていたが、かなり疲れる。フリーページは3年半以上前から作り出していたのですが、更新してある程度時間の過ぎたページをアップ。あまりにも雑然としていたので、毎日仕事から、帰ってよりの2時間ほど整理していた。如何に整理するかで、かなり時間を掛けてしまう。更新してより、ある程度日数が経った日記ページを、フリーページへ保存して行ったので、内容があまり無く、かなり項目段数のみ長くなってしまっていた。現在「雲南」から「シーサバンナ」までの、140項目あったページを60ページまでにまとめ整理した。ページの設定→フリーページ→以前の日記をコピーペースト300ページ作れるようになっており、日記をまとめた方がよい。整理し終わった1ページへは日記14ページ以上を一纏めにした。
2012.01.14
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「再度画像と文字テスト」 画像のテストは「以前より良好」だったようである。 試行錯誤と書けば、何度も大変な事をしているようだ。しかし、楽天ブログの操作が暫くぶりの私にとって、やはり大変なようであり、睡眠不足が続いている。 代わり映えのしない画像で再度画像と文字に挑戦である。 GREEの更新も止まってしまったし、 カニチィは相当前から更新が止まったままだ。 もう、若い時のように「只がむしゃら」の更新も、体が追い付いて来なくなってしまっている。
2012.01.14
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