鈴木藤三郎君立志画談 山田露洲生
(大日本報徳学友会報第三一、三三、三四、三八、四〇回(一九〇四年十二月~〇五年九月)収録)
一 第一期の一 生年より明治九年に至るまで
▲諸言 鈴木君は日本の実業家、殊に糖業界の偉人とし衆議院議員として最も有名な方で、報徳界のためには始終尽力され、昨年遠江国報徳社で特別精業善行者の賞与式を行ったときには特別賞を贈られた方である。この画談に用いる材料は君が自筆の歴史画で自ら半生の経歴を描かれたもので、他に得べからざるの好材料である。殊に君は深く二宮先生を尊信し、報徳の訓言を服膺して成功され、常に「余の今日ある、報徳の教えを守り、実業に応用したことによる」と公言され、また将来の日本はおおいに実業的大和魂を養成しなければならない、実業的大和魂とは、報徳心をもって実業に応用するにほかならないのであると言われている。その言や服膺するべく、その行いや模範とするに適する、しかもその材料はただ一つの経歴画である。
▲日本一の砂糖製造場 東京の小名木川に雲をつくばかりの煙突そびえ黒煙渦をなして天につきあたるを見る。これぞ本邦唯一の砂糖製造場で輸入糖と対抗しつつある、日本精製糖会社の煙突である。この大製造場こそ、鈴木君が苦心惨憺たる丹精によって生み出されたので、君は現に会社の専務取締役としてすべての責任を帯びて経営されつつある。
▲鈴木君はいずれの人か 君はこの会社を経営されるために東京小名木川治兵衛新田に家をかまえておられるが、元は東海道鉄道袋井停車場より三里ばかり北へ入りこみたる、森町といえる小さな町の、とある菓子屋の養子であるが、実は同町太田平助といえるものの二男である。太田氏には二人の子どもがあったが、鈴木氏には一人の子どももなかったから、極めて幼年のときに貰われ、鈴木氏の家で生長したのである。実家も豊かな家ではないが、養家もまた細い資本で営業する菓子屋のことであるから、君は少年の折より菓子製造に販売にできる限りの働きをなして養父母を助けられ、父の没後にはその業をついで営業されたのである。君は養父母によく孝養を尽されたと聞いているが、これは君の天性にも出たるものであるが、また生母の賢たる感化にもよるだろうと信ずる。これは君の成功談には直接関係はないようであるが、母の感化が少年子弟には偉大の関係がある故に、ちょっと話しておこうと思う。君が鈴木氏に養われてのち、実家は不幸が打続き、父も病没し、兄もまた早世され、老いた母はひとりわびしく暮らすこととなった、人々その不幸を憐れみ、殊に旦那(だんな)寺の和尚(おしょう)来たり、君を貰い返してはいかんとすすめるも母は義を守りて許さないだけでなく、ある日、君を膝下に招き、事の始終を語り、かつ父在世の日、汝をば鈴木家の養子として遣わし、汝は養父母の丹精によりかく生長したものなれば、その恩義は生みの父母に異ならない、ひたすら心を尽くし養父母に孝養せよと深く諭されました。君はその教えを聞き、母の意中を察し、これより一層孝養を尽されたと聞いております。実に母の高義は感ずるに余りある次第で、この母にしてこの子ありと言わなければならない。
遠州の国には嘉永の初年、相模(さがみ)の人、安居院(あぐい)義道先生が始めて報徳の教えを伝えられ、それ以来各地に行われ、この森の地も早くより信ずるものの多い所で、報徳の参会なども古くより行われておったから、君もいつとはなしにその教えの感化を受け、報徳の談話をも聞き、報徳書をも読まれるようになった。君一日報徳四要の文といって、故富田高慶翁のものとされる、以誠心為本。以勤労為主。以立分度為体。以推譲為用。(誠心をもって本と為す、勤労をもって主となす、分度を立てるをもって体となす、推譲をもって用となす)のいう語を見て、非常に深く感じられ、昼は家業に従事し、夜は孤灯の下に報徳書をひもとき、もって精神の修養につとめられた。これ実に明治初年の頃の事で、君が今日あるその原因は全くこの時代の精神修養にあったので、恐らくは君は成功の秘訣はこの以誠心為本。以勤労為主。の二句にありと、感じ、この語を実際に活用し、現実になしたならば天下何事か成らざらんと大決心をされたのであろう。
報徳の四要を誦する人は多いけれども、君のごとく実際に活用する人の少なきは歎ずべきの至りであると言わなければならない。君の言われるとおり将来の日本は実業的大和魂の振起を要する場合であるから、諸子もまた君のごとく、現実にこの語を活用されることを二宮先生在天の霊はご希望をされているであろうと思う。
子供の時から報徳という語は聞いていましたが、私はただ身代を殖やした人たちが、破れわらじを履き、けちな事をして金をためるのを報徳というのだとばかり思っていました。
報徳に入るの発端
私は養子でありますが、一九歳の年になるまでは、いわゆる生活の問題については何という考えもなく、無事に働いて日を暮らせば、それで善いくらいに思っておりましたが、ふとこれではならぬという気になって、何でも一つ金を儲けることだと思って、親の家は以前から菓子製造業であったけれども、自分はその頃流行の製茶の商売に手を出しまして、その年から二三になる頃(明治八年)まで働いておりました。然るに二三歳の正月でありますが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に「二宮先生何々」という本がありました。これを観て「にぐう」とは何の事かと義兄に聞きますと、「にぐう」ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、そこで始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思って、いろいろ質問をしたことでありました。
天命十箇条
この時、実家から借りて帰った本はかの「天命十箇条」でありました。これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになったのであります。このごろ郷里森町の報徳社の社長は、安居院翁の門人で新村豊助という人でありました。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席しておりましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものは、かつて想像しておったものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め説を聴いてあるきました。
岡田佐平治翁と報徳の伝播
その頃、倉真村の岡田さんは、今の良一郎君の父君、岡田佐平治翁の盛んに道を説いておられる頃でありましたが、そのお話が聴きたいにも、何分私などにはよいツテがないために、お目にかかることができなかったのですが、明治一〇年かと思います。浜松の玄忠寺に報徳の会が毎月一度ずつ開かれまして、これへ岡田翁が出られますので、幸いのことと存じ、森町から浜松までは七里ありますが、会日には必ずこれへ出席しておりました。
徹夜の研究
しかし月に僅か一回くらいの事では修行が進まぬと思っておりましたところ、その後見付町の金剛寺で、今の岡田良一郎さんが、青年を集めて報徳研究会というのを催されたので、喜んでこれへも出席しました。ごく熱心になる者ばかり一〇名ほどの会でありましたが、毎に徹夜をして議論をしたものであります。見付へは森町から3里ありますが、毎月二〇日の会日には、特に朝起をしまして、およそ午後の四時頃までに一日の用を果し、それからテクテクと出かけるのです。夜どおし難問の研究をしまして夜が明けると、金剛寺の和尚が看経を読むその声を聞いてからいつも家路につくのであります。それから引佐郡井平村の松島授三郎氏、この人も有名なる報徳の先生でありますが、ここへも何遍か行っては話を承りました。
論客とあだ名せらるる所以
元来私は物に熱しやすき性質でありますから、報徳の道を学びましても、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、何度でもうるさく尋ねます。時には議論をふっかけます。目上の人であろうが、座上に障りがあろうが、一向頓着なく食ってかかるという風でありますから、人によるといやがります。熱心なのは良いがああ無作法でも困るという人もあれば、彼のは理屈ばかりである。議論や穿鑿(せんさく)に過ぎると、悪く言う人も有りました。当時私は論客というあだ名をもらっておったのであります。
腑に落ちざる投機につきての説諭
かつて相州から渡邊央という人が、福住正兄翁の託を受けて遠江へ往来していたことがありました。この人は小田原辺りの神官で、国学者で、福住翁の友人でありました。この人が来れば新村豊助氏の宅に泊まっていて報徳の会を開くのであります。ある時二日ばかりの大会をした後、なお4,5日新村氏に逗留しておられる間の事であります。森町の報徳社員のうち某々の二名が、報徳では厳禁なる投機に手を出して、正に破産しかかっておるので、この者の処分を決するということで、両人を渡邊氏の面前に招きました。渡邊氏の訓戒は極めて親切なものでありましたが、そのお話のなかに、投機などに手を出して身代を起こし得る訳が無い。いったんはよくても、つまりは産を破るのは当然であるといって、たくさんの事例を挙げられました。両人の者はもちろん一言もなく引き下がりました。他の列席者も追々に帰りましたが、私は一人跡へ残りまして新村父子と共に席におりますと、新村氏はなぜ帰らぬかといわれます。「いや私は少し伺いたい事があるのです。今の渡邊先生のご訓戒で、本人の二人は心服したようでありますが、私はありていにいえばあれだけのご教訓では、まだ投機をやる気を心から改めることができません。だから猶一応お説が承りたいのであります。」
渡邊先生曰く、「それは一体どういう不審であるか」私が申すには、「先生のご教訓は永いけれども、要するに投機は儲かるもので無いからやめろでありましょう、然らばあるいはこれに反抗する者があって、一つ儲けて反対の証拠を見せようとする者があったらどうしますか、私が本人なら、決して彼らのようには承服しません」と言いますと、「それではお前の考えが有るだろう、言ってみよ」とのことであります。
投機業は商道にあらず
私は「儲かると否とは問うところにあらず。元来投機などというものは人間のなすべき事でない。天下の人がことごとくこれに従事したならば、世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも道を聴いた者の為すべき事でないのは明らかであります、もし私が言えばかくのごとく申します」と答えましたら、「これはなるほど、もっともだ」と賞賛されました。
困った求道者
渡邊先生の説は今考えて見れば、固より相手を見ての方便説であったのでしょう。私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。かくのごとくしなしばこんな議論を先輩に対して致しましたために、水谷英穂という教授などは、どうも鈴木の無遠慮にはこまる、人がいても何でも構わずに反抗すると申されますし、水谷東運という僧も檀家の者がたくさんいる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので、体裁が悪くていかぬなどと言われました。かくのごとく一時は研究の余り、少々狂熱に馳せた姿でありました。
難解の疑問
その頃、私にはなお一つ深き疑いを抱いておる問題がありました。それは二宮先生の置書の文の上に、「知足」と大きく書きまして、その下へ「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草(たばこ)の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」とあります。この幅は私も一つ持っておりますが、この文章の意味が不明なため、私はほとんど3か年の間この問題を諸方へかつぎあるきました。先輩の説も多くは承服することができず、二宮先生の教えの中にも、これを解くたよりを見出すことが出来なかったのであります。然るにある時、前に申した井平村の松島氏の宅に、遠譲社の大会がありました。福山翁のまだ生存中のことであります。私もかねてこの目的がありますので、新村氏の供をしてそれへ参りました。この道の羅漢たちが集まられて4,5日の間続けて報徳の道を講説研究するのであります。私は折を見てこの問題を出しますと、各先生それぞれお説がありましたが、どうも服し難い、多数の説はこれは身代の分度を指したものである、他を顧みるな、人を羨むなという意味だというような説であります。それでは人間というものは実につまらぬものだといわなければなりませぬ。この時の座長は、平岩佐兵衛氏でありましたが、最後にこの人に尋ねますと、平岩氏曰く「これはそんな形のものでは無い、つまり人の才智に各々分が有ることを意味するのである」この説は初耳でありましたけれども、私はそれでもやはり心服することが出来なかったのであります。
積極分度
平岩氏は私がこの問題を解くがために既に三年かかっていると聞いて、「そんならお前の説があるだろう、それをここで言って見てはどうか」と申しますと、外の人もともにこれを勧めます。自分も説が無いではないが同じくは先輩の説と一致していることを知りたかったのであります。「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際におりながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」と申しますと、その座におる人たち皆手を打って「負うた子に浅瀬を教えられた」とはこの事であると、たちまち私の説を允可(いんか)せられたのであります。このとおり私は理論は盛んに求めておりましたが、いまだ実行には着手してはおりませぬ。もっとも製茶の職業だけは怠らずかせいでおりましたが。元来この商売は報徳とは縁の遠い楽な仕事でありまして一季出盛りの時の外は随分朝寝も致します。養父は報徳の教えは聴いた人ではないが、菓子製造の職業には、なかなか熱心勤勉な方で朝早く一仕事してからまだ私が寝ておりますと、枕元へ参られまして「何だ朝寝の報徳というがあるか」と怒鳴ります。私も理論に馳せるくらいですから、なかなか口は達者なもので、即座にこう答えるのです。「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがある、諺にも寝勘弁というではありませんか。まず一通り将来の計画を立てて、段々に実行に着手するのです。今は年の半ばですから、明年の1年1日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは、容赦しておいて下さい。その代りに来年からは、あまり働き過ぎるなどと、ご心配をなさらぬようにして下さい」と申しました。こう申しましたのが明治九年の八月頃であります。一夜明けた初春からは今までの茶業もやめよう、あくまでかの菜の葉主義をもって学び得た理論を実施に施すには、やはり家の世業によるに限ると思いまして、明治一〇年の一月から向う五ヶ年を一期とし、かの「荒地の力を以て荒地を開く」という理を自分の考え通りに解釈して、これを自分の事業に用いんものと、いよいよ躬行の計画を立てたのであります。
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