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2016年07月19日
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カテゴリ: 遠州の報徳運動

◎福山瀧助翁伝 (「報徳」第15号明26年5月20日P27-28)
翁姓は福山、名は瀧助、諱は元知(ぐわんち)また倹翁と称す。先考名は久蔵里見氏を姓とす。文化十四年四月廿八日を以て翁を相模国小田原駅古新宿に生む。翁は其の次子なり。身幹魁偉一見自から凡骨と儔を殊(こと)にす。性温厚勤勉、他を率ゆ。家世々菓子業を営む。翁も亦其の業を承く。 のち いで て福山氏を継ぐに及び尚ほ此業をとる。 かつ て小田原藩陪臣高木治右工門〔治左衛門〕 ぼ報徳の大意に通ず。告るに此事を以てす。翁慨然として道に従い深く之を信ず。

 たまたま、隣家の旅宿浜田屋から出て、藩の重臣山本源太兵衛の用人となっていた高木治左衛門という人があり、時々実家に帰ってくる。

多喜蔵はある日、これを待ち受けて「報徳の仕法」のことを尋ねた。治左衛門は、尊徳の経歴や桜町・小田原の仕法につて懇切に説明したのち、

 そなたはまだ大変若いから、もしこの教えに従って勤めて怠らなければ、一代のうちには土蔵4棟ぐらいは建てられるだろう。けれどもそれを全部土蔵にはしないで、その半分で土蔵2棟を作り、あと半分は身代の外として推し譲るがよい。これが、いわゆる虚空蔵というもので、そなたの家の『越中控え』となるのだ。この控えがあるかぎり、そなたの家は子々孫々、万代不朽に続くだろう。

と教えた。

多喜蔵はすっかり感心して、これでやろうと決心した。

時に天保十三年なり。十四年四月小嶋忠次郎、竹本幸右衛門、原七郎等相図り二宮先生に請ふて小田原町民の救護を求む。先生貸する百六十金を以てし且民業恢復の術を授く。忠次郎等拳々之れを服し社団を設け名けて報徳社と云ふ。

☆竹本幸右衛門は、もと甲州の博徒乱気正助の子分であった。博徒の喧嘩で相手をなぐって殺してしまい、相模国足柄上郡の身をひそめた。後に竹松村のある者の婿となって、博打を業としていた。天保10年尊徳先生が小田原藩主大久保公に命ぜられて曽比村竹松村の復興にあたられた時、その教訓を聞いて感動し、前非を嘆いて改心した。しかし幼少より農業などを学んでいなかったため、生業の道がなく、小田原で飯屋遊女屋を営んでいた。ある日先生に嘆願して15両を借りて、親の墓参に生国におもむいた。名主のもとに挨拶にいって、村の衰頽を嘆いて、尊徳先生の仕法の大略を述べたところ名主が感動し、村人を集合させ、幸右衛門に講話させた。

村民一同感動し、その翌日は隣村の者まで集り、200名を超すまでになった。

そこで村民は幸右衛門を先生といって即日、耕作出精者を表彰し、日掛縄ない法を2,3年実践した。

幸右衛門はその調書をもって尊徳先生のもとに報告にいった。先生は黙って聞いておられたが、「お前の過ちは甚だしい」とお叱りになった。

「自分の家道が立たないのに、聞きかじった方法を知ったかぶりに説いて難村復興しよう大言壮語する」

「かりそめにも200名を集め、貸し付けた金は15両とは失策である。一人500文にも満たない。それで大勢の尊敬を受けたのはお前の誤りである」

「しかし、今となっても致し方ない。今日から改めて、お前の身代はつぶしても立てた仕法は崩してはならない。誠心を振起して年々5両づつ10ヶ年土台金として贈ってお前の誠心を顕すがよい。私の道は至誠に感じて動く方法である。お前はそれを口先で動かした。これを、今度は誠実をもってその誠を失わないようにする以外に方法はない。もしお前がこれを実践しなければ、ヤマシと呼ばれることは眼前である。勤めて怠ってはならない。私の方法は実行にあるのだ。」

幸右衛門はすっかり萎縮して退いた。

ある人がわきでそれを聞いていて尊徳先生に言った。

「幸右衛門は元は悪人です。改心したといっても、なお遊女屋を営んでいます。彼のような人間は遠ざけたほうがよくはありませんか。あのように教諭されても無益ではありますまいか」

「そうではない。私の道は禍を転じて福とし、悪を化して善とし、貧を富に変え、荒蕪を熟田とし、不浄を清浄にする道である。渋柿が甘くなるのは、愚かな者のも児童も知っているではないか。幸右衛門が元々悪人だったことはいうまでもない。しかし私の教訓で改心したことは事実で疑いようがない。大悪人が改心したときには、また大きな善をなすものだ。その時には柔善の者の比ではない。

私が丁寧に説諭したのは、彼が開いた甲州の仕法が破れることを恐れたからで、この興廃は彼の一心にあるからだ。古歌に「渋柿を見よ甘きになる」とある。私の教戒を忘れず生涯よく守るならば大成するであろう」と言われた。弘化3年のことである。

まことに幸右衛門は先生に教諭を受けたことを実践し、そして小田原報徳社の柱石となったのである。

 後嘉永元年に至り社運衰頽恩借の金も亦滅せんとし あま す所僅かに八銭四厘 ここ に於て翁 蹶起 けつき 之れが挽回を図り かつ て艱苦を辞せず以て く其効を就す。 けだし 小田原報徳社の今日ある、翁の力大なりと謂うべし。

 是より先、安居院氏遠州に在り。斯道の木鐸となり各地を巡り教を布く。不幸にして没し其後を継ぐ者なし。有志之れを福住正兄等に議り有徳の人を得んと請ふ。即ち推すに翁を以てす。翁辞すること再三、然れ共其切なるを以て遂に此を諾して途に上り、乃ち遠州に入り岡田氏に抵る。故あり(1)転じて周智郡森町山中氏に行き初めて行李を解く。山中氏は即ち今、新村氏の旧姓なり。時に慶応元年卯月なり。

(1)「 「〔福山〕先生遠江に至り、まず岡田佐平治氏を訪れたが、一夕の会話は早くも所見の相違を示した。佐平治氏は掛川侯の大庄屋を勤め、その理想とする所は領主の命によって行う難村復旧の仕法にあった。しかし先生が年来小田原町で行ったのは同士が集って行う永安仕法にあった。佐平治氏の望む所は干渉助長の仕法にあり、先生の応じる所は自治共済の仕法にあった。その相異である。前者はたとえば病気に対する処方のように、後者はまさに健康のためにする養生のようである。だから等しく報徳と称しても、その主義方法は全然相反し到底融和するべきものではなかった。先生は佐平治と会話した結果、このようであればと、その翌朝すぐに辞して秋葉山へ向った佐平治氏はさすがに遠路訪れた志を諒とし、途中森町を過ぎるからと、同地の報徳者山中里助氏を訪れたらと紹介書を渡した。

福山先生は森町に着て、山中氏(新村里助)を訪れ、佐平治氏の紹介書を出して、事の次第を告げた。山中氏は喜び迎えて先生を自分の家に泊めて、先ずその行おうとする仕法がどのようなものかを示すよう求めた。先生はここに7日間滞在し、無利息貸付の雛形60ヶ年分を作成し、山中氏に示したところ、山中氏は大変感動し、すぐにこの仕法を森町報徳社に授ける事を願った。しかし、先生はこのたびは秋葉山に参詣する事が主な目的だからと、他日を約して秋葉山に向かったので、山中氏もまた送って秋葉山に至った。

 こうして先生は秋葉山に参詣し、程なく小田原へ帰ったが、この月のある日、山中氏との約束を思って再び森町に来て、森町報徳社のために無利息貸付の仕法を組んで授けた。この時、森町報徳社の同志は新旧合せて8名で、社員の日課縄索は1ヶ月分3銭5厘だったという。」

此れより 鞠躬 きくきう 道を施し教を講じ勧化誘導力を尽すこと頗ぶる多し。明治六年に至り其徒と相謀り一社を創立す。是れ即ち報徳遠譲社なり。(1)蓋し社法小田原報徳社の為す所と相同じく恰も小田原を以て遠州に譲るが如し。故に号とすと云ふ。

(1) 初め安居院先生が遠江に来たときには、ひたすらその道を伝え専ら教義を説くことを主とした。仕法を組立て一定の、目的を定めて行う事は稀であった。だから安居院先生がいらした時、教えを受けたのは54か町村に及んだが、福山先生が遠江を一巡した時、社として存在したのは、僅かに森町、天神町、浜松町、気賀町、都田村の5か社に過ぎなかった。それさえ社員は極めて少数で、森町は8名、天神町は7名だった。当時の遠江における仕法のありさまを知ることができる。

 だからこの頃、先生が各社を巡回するときは、懇切周到を極め、あるいは一社の仕法に数十日を要し、あるいは一人の家政に数日を費やした事は珍しくなかった。しかし先生は少しも倦怠の色をあらわさず、一生懸命に勤められ、機運は漸く回復に向かい、新たに仕法を願い出るものを生じた。その中にも明治2年引佐郡刑部(おさかべ)社の創立と明治5年豊田郡山田社の創設は東西におけるふたつの大社であって、遠江の報徳運動に生色を加えた。

 先生が慶応3年に始めて遠江に来てから早くも5年を過ぎ、明治4年となったが、先生が日夜丹誠を尽くした効果があらわれて社数は増加して9か社となった。ここにおいて、この年8月各社を総括する本社を設けようと初めて本社秋期の会を気賀町鈴木徳右衛門氏方に開いた。本社が成立した上は、社名も設けるべきだと、遂に遠譲社と称し、本社に世話人重世話人を置いて、その参会を毎年春秋2期に定めた。一説には遠譲社と命名したは、始め小田原社で善種金を貸与した時、社長大南氏が、「これを遠く譲るなる」と、その包紙に「遠譲」の2字を書いたことによってこのように名づけたともいう。

 初め翁の遠州に入るや金二百円を懐にす。故に其の出て四方を巡るや路纒悉とく自ら弁じ かつ て人に求めず。社員皆な厚く其労に酬ひんとす。翁固辞して受けずして曰く、余が説く所にして人聞て以て理とせば之を行ひ余が行ふ所にして道に合ふとせば之を守らば余が望足る。望む所は報酬に在らず。報酬を受け教を拡むるは我道にもとると。聞く者以て徳言とし尊重益々加ふ。(1)

(1)「滝助の組織づくりには、大きな特徴があった。自分はもとより、各社の役員についても、旅費から筆紙墨まで一切の経費を自弁とし、社の金を使わせなかったのである。遠譲本社そのものさえ、社屋も造らず事務員も置かず、春秋2回、各社持ち回りで参会(総会)を開いて、万事をそこで処理するという、簡素きわまる『移動本山』であった。その代り、帳簿の作成を厳しく指導し、だれにも読めるよう楷書で書かせて、責任者から責任者へ、確実に継承させた。あるとき、滝助からこの自費自弁主義を聞いた富田高慶は 「それだ!遠州に御仕法が盛んに行われるわけが、これでわかった」 と激賞したという。

この自費自弁主義は、実は尊徳じきじきの訓戒から出ている。小田原報徳社草創のころ、世話人の竹本屋幸右衛門が、滝助を連れ、帳簿を持って、尊徳の指導を受けに行った。じっと目を通していた尊徳は、「金弐分入用」と記した箇所へ来ると、「これは何の入用か」と聞いた。「世話人の入用です。」と幸右衛門が答えたとたん、落雷のような叱責がくだった。「これは恐れ多くも彰道院様(小田原先君)の仰せ出された御仕法なのだぞ。お前たちの身分でその世話を勤める。もったいないことではないか。そのために、お前たちの家の5軒や10軒、つぶれたところで構わんではないか。」

幸右衛門は返す言葉もなく黙っていたというが、この痛烈な教訓が若い滝助の中に根をおろして、遠州三河の地に花開いたのであった。」

年已に古稀を超ると雖ども居に 蓐籍 じよくせき 〔席?ふとん〕に らず出に馬車を借らず粗衣粗食自から書籍簿冊を にな ひ(1)、以て一百有余の分社を巡り一巡終れば た巡ぐり殆んど くわん の端なきが如し。其の間小田原報徳社を視る。必ず春秋二回を期しまた毎年必ず野州に赴き先師の墓を払ふこと かつ て怠りなし。其の素行往々人をして欽羨措かざらしむること斯の如し。此れより先、品川 農商務大輔たる時、殊に翁を東京に招き道を聞く。諄々として応答し益する所 すくな からず。明治十八年の こう 初めて病を得、 爾来 じらい 発すること数次、全身不随 起居 おきゐ ずる事能はず。然れども支社の巡察敢て止まず。一の 寝轎 しうけう を作り之に乗じて行く。病益々重を加へ帰つて之れを故山に養ふ。後移つてまた遠州に入り廿五年十一月転じて又三河に入り八名郡山吉田村に居る。社員の奉養 つぶ さに至る。然れども終に天命完く 今茲 こんじ 廿六年四月十六日を以て同村字吉田青龍山満光寺に卒す。享年七十有七、遠近訃を聞き痛悼せざるはなし。超て其十九日同地の社員同寺に於て 荼毘 だび し同二十八日各地の社員相会し本葬式を遠江国引佐郡奥山村深奥山方広寺に挙ぐ。 して譲徳院倹翁元知居士と云ふ。

(1) 「先生は自分で用いるものには極めて薄くされた。食は粗末な食事に甘んじ、衣は粗服をまとい、寒中に足袋をはかず、厳暑もただゴザを用いられた。その質素倹約は想像以上であり、ある社員が以前その母が丹精こめた衣服を差し上げたところ、先生は立派に過ぎるといわれて用いられなかった。またある社員がわざわざ先生の紋を付けた綿入をすすめたが、先生はまた立派に過ぎると言われて用いられなかった。逝去された後、社員が先生の遺物を点検したところ書物の外は小田原町海蔵寺の血脈と臍の緒と衣服数点だけであった。しかも衣服には一つのあわせ物もなくみな単衣(ひとえ)だった。これによってその平素の様がどうであったかを想像できる。」







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最終更新日  2016年07月19日 05時02分40秒


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