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2016年08月07日
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カテゴリ: 遠州の報徳運動
小野江善六翁小伝 山田霞洲(「大日本報徳学友会報」第五十四号)
▲遠江国報徳社
 副社長小野江善六、諱(いみな)は豊長、遠江国周智郡森町山中豊平氏の六男、幼名を六郎と呼びき。七歳にして慈母を亡くし、十一歳にして厳父を喪し、不幸孤児となり、つぶさに艱難を極めらる。十三歳出でて同国浜名郡浜松駅小野江善六氏に仕え、商業に従事すること十五年、才敏にして商事に熟達し、主命を重んじ、主家に尽くすこと己れがためにするがごとくなりしかば、主人の鍾愛極めて深く、妻すに一女を以てし、家督を譲らんとせらる。君深くその厚意を謝し敢てうけがわず。主人遂にその実家に懇請して止まず。家兄これを許さんと欲す。君去就に惑い、決するあたわず。一日、報徳先生安居院義道氏を親戚某に訪い教えを乞う。先生曰く、昔し舜は堯帝の譲りを受けて天下をたもてり。然して与(あずか)らずと言えり。いわゆる与らずとはその位にありと雖も、その位を我が物となさず、驕慢の所為無く、一点私心をはさまざるの義なり。かつ賢を貴べば惑わずとの金言あり。これを遵守せば主家の養子となり、その譲りを受くるとも何の難き事かこれあらん、と教諭懇切を極む。君教えを聞き、疑惑とみに消し、意を決して主家の望みに応じたりき。後、家名を襲用し、百事先生の教訓に従い、養父母に孝事し、義弟を慈しみ、家道を正し、宿老を任用したれば、商業日に栄え、富、市中に冠たるに至り、舅氏の鑑識果たして違わざるを見る。

▲君、爾来安居院先生を以て師父と仰ぎ、常にその門に侯し、先生また翁の家を訪い、常に報徳談をなす。君教えを聞くごとに、信念ますます堅く、造次転沛(ぞうじてんぱい)その教えに違わざらん事を勤め、先生歿するの日に至るまで奉養怠らざりき。然して歿後追慕の情は更に切なるものあり。去歳先生頌徳碑落成式の時のごときは、病を押して碑前に立ち、滔々数千言盛んに先生の徳を頌し、来会者皆その病中なるを知らざりきという。以て翁が先生に対するの至誠を看取するに足らん。然してこの大演説こそ翁が最後の講演となりしぞ哀しけれ。

▲文久2年領主命あり。田町町年寄に推挙せらる。君、報徳法により、負債償還の法を設け、私金百両を差し出して無利息金となし七ヶ年にして功を奏しき。この年たまたま夫人元子病にかかり名医の治療も家人の懇篤なる看護もその寿を延ることあたわず。遂に黄泉(よみ)の客となりき。翁悲傷すること限りなく、 その冥福のために私財を投じて道路修繕工事を起こし車馬行通の便をはかりたりき。 この年たまたま二宮先生七周年に該当するを以て、その追善のためにとて同駅田町南裏の濠筋に石橋を架し「二宮先生追善小野江善六寄付」と刻し不朽に伝えたりき。
▲ついで浜松伝馬所副問屋を命ぜられたる事ありしが、劇務にたえずとて固辞して受けざりければ、領主は更に勝手方用達を命ぜられき。この時領主の財政すこぶる豊かならざりしかば、まず積穀の方法を設け、武備及び藩士の手あてその他荒地開墾費等調達の法を建言し、勝手向再興の方策を策し、自費を投じて倉庫を作り、官米数千俵を備え、大いに金融の便を与えたりき。これより勝手向漸次回復の端を開き、功を以て苗字帯刀を許され、大いに面目を施したり。後、維新の際、商兵隊を組織するや、その隊長を命ぜられしかば、町内守備をなし、玄忠寺に鉄砲的場及び撃剣道場を設け、師を聘(へい)し、壮者を集め、或いは暁天、或いは夜更、商業の暇あるごとに武技を練磨せしめ、鉄砲五十、竹槍百を置き、不時の用に備えき。一日領主当国敷知郡三ヶ日村警備として出陣の事あり。勝手方用達一同小荷駄方を命ぜらる。衆、逡巡あえて応ずる者なし。君、慨然として曰く、我が曹、平日帯刀を許され、俸禄を給わり、領主の優遇をこうむる。而して領主出陣の日に当たり逡巡命を拒まば、何の面目ありし。主君にまみえ、また世人に対するを得んと独り命に応ず。僚友大庭源助、感激行いを共にし、領主に随従す。功を以て手鉾一筋を賞賜せられたりき。後、領主より勤王説諭係を命ぜられ、奔走最もつとめ、幸いに不軌の徒なからしむるを得たり。維新に及び、静岡県知事より用金改め方を命ぜられ、功を以てまた苗字帯刀を許されたりき。
▲君、常に思えらく、時勢の変遷は家政上においてもまた旧態を保持するを許さず。すべからく大改革を断行せざるべからずと。業を義弟吉次郎に譲り、脱然としてその開墾地に隠棲し、別に一家を創立し、後夫人と共に専ら農業を営み、かたわら報徳伝道につとめられき。而してその農事を営ずるや、先生の遺法に則り、田区秩然畦畔正整、茶園のごときは肥培周到一望緑をみなぎらし、製出するところ宇治の芳茗に劣らず、その園、当時国中右に出るものなかりしとう。これより先き嘉永初年の頃、翁は同士を誘導し浜松町に報徳社を結び、専ら同士と共に勤行怠りなかりしかば、後ち当国報徳社重世話人の班に列する事となりぬ。然して明治八年我が遠江国報徳社結社の許可を得るに及び、選ばれて幹事となり、大いに社務に参画する処ありき。明治十六年君等主唱して報徳館建築の提議をなし、議容れらるるに及び、建築係に推薦せられ、第一館の工事を督し功を奏したり。越えて十八年、社員の請により居を新築会館に移し、家事の係累を絶ち、専ら斯道(しどう)に従事することとなり、本社の柱石を以て目せらるるに至る。居ること十余年亡弟伊藤七郎平氏に代わり、本社副社長に累進し、死に至るまでその任に尽くされき。君や八十の高齢に達するも、しかもよく杖をひいて徒歩するを厭わず、西、濃三二州より東、駿州に及び、各社を巡回し、社員の教導ほとんど虚日なし。所説言々肺腑より出で、至誠聴く者を感動せしめ、社員の信頼その倫をともにするものなかりき。さきに遠江国報徳社社は君の熱誠を感謝し、感謝状に三つ組銀杯を贈呈し、眉寿万年を祈りしが、天寿かぎりあり。今ここに六月十八日八十一歳を以てにわかに逝去せらる。越えて七月三日社葬を以て玄忠寺畔、安居院先生の墓側に葬る。ああ君の如きは、至誠一貫道のために尽したるの士と謂うべし。
 われと云う こころを捨てゝ 老ぬまで 勤め励まん 道のまことを






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最終更新日  2016年08月07日 05時38分15秒


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