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いかにも用事が立て込んで先週の金デモは参加できなかった。先週は、月曜と火曜を除き、日曜までスケジュールがびっしりだった。何も用事のない月、火の二日間は熱を出して寝込んでいた。 ひと月に数度は風邪ひきで熱を出してばかりいたのだが、どういうわけかこの4~5か月のあいだ、まったく風邪をひくことがなかった。体質が変わって、丈夫になったのではないかと思い、ブログで少し自慢しようかなと考えていた矢先の発熱だった。熱が出てぼーっとしているだけの症状で、風邪かどうかも分からないのだが、二日で熱が下がってしまい、水曜日から続くスケジュールをさぼる口実にできなかったのが残念といえば残念なのだった。 昨日の雨模様から一転、今日はカンカン照りの暑い日となった。室内の温度もあがり始め、義母の部屋の温度が30℃を超えたので、今シーズン初めてクーラーにスイッチが入れられた。 夕方になっても気温はさほど下がらないものの、空には暗い雲が広がりだしたので、折り畳み傘をバッグに突っ込んで家を出た。勾当台公園野音ステージでの集会。(2018/6/29 18:51~19:55) いつものように、だいぶ遅刻して勾当台公園の野外音楽堂に着いた。いつものように参加者はベンチに座って集会が開かれていた。バッグからカメラを取り出そうとしていたとき、急に大粒の雨が降り出した。雨足はかなり激しく、参加者は慌てて屋根のあるステージに避難して、ふたたび集会は続いた。脱原発コールで締める。(2018/6/29 19:01~19:04) 雨が降り出すと同時に遠くから雷鳴が聞こえてきた。集会が終わるというのに雨脚は強くなるばかりで、だいぶ近くで雷が鳴りだし、とうとう主催者は「集会のみで、デモは中止します」とアナウンスした。 集会の途中、スピーチの手が上がらなかった時、「たまには記念写真でも」という提案があって、ステージ上に並んだ集合写真を撮った。やや光量不足の条件で、撮影する私は雨のなかという悪条件だったが、要望に応えてシャッターを切った。 30人の参加者のはずだが、どうも人数が少ない。集合写真を撮り終えたころにステージ上がってくる人たちがいた。突然の雨で、野音の隣の売店の庇の下に急いで避難して、デモの誘導・警護に来ていたお巡りさんたちと一緒に雨宿りしていたという。お巡りさんたちとかなり近しい感じで話をしてきたと笑っていた。 強い雨に気もそぞろですぐにも解散の雰囲気だったが、「コールしましょう」の声ですぐさまコールが始まった。コールの声と近づく雷鳴。雷と競っているわけもないだろうが、しだいにコールの声に力が入っていくのだった。たまには集合写真を。(2018/6/29 19:09~19:14) 激しい雨を横目に脱原発のコールに声を合わせていた私たちの住む国ではいまだに原発にしがみつこうとしているが、お隣の韓国では2022年まで運転可能な原発の早期閉鎖を決定したばかりでなく、政府の脱原発政策により建設推進は不可能だと判断して4基の新設計画を白紙に戻したというニュースがあった(6月16日付け共同通信)。 間違いなく、世界の動向は脱原発、原発廃炉へと進んでいるが、日本の政府は時代をさかさまに歩こうとあがいている。このような日本の原子力政策を批判する社説が「仏アストリッドの計画縮小 「見果てぬ夢」浮き彫りに」と題して6月24日付け毎日新聞に掲載された。さほどの長文でもないので、引用しておく。 原発の使用済み核燃料を全量再処理し、取り出したプルトニウムを高速増殖炉で再び使う。事実上破綻している日本の「核燃料サイクル」政策にさらなるほころびが生じた。 廃炉が決まった高速増殖原型炉「もんじゅ」の後継として日本が協力を表明しているフランスの高速実証炉「アストリッド」計画の大幅な縮小方針だ。 出力は当初予定の3分の1以下で「もんじゅ」より小さい。これで実証炉としての役割を果たせるのか。疑問の声が上がるのは当然だ。 しかも、アストリッドを建設するか否かを決めるのは2024年。次の実用炉を造るかどうかの決定は60年ごろ。ゴーサインが出たとしても実際に造るのは80年ごろという。 ここから浮かぶのは高速炉先進国のフランスでさえ実用化を念頭においていないということだ。アストリッド縮小の背景としても「実用炉には緊急性がない」と認めている。 かつて核燃料サイクルが構想されたのは、ウランが不足し燃料のリサイクルに経済性が生まれると考えられたからだ。しかしウランは十分にあり、一方で、高速炉の実現は難しく、経済的にも見合わないことが明らかになった。米英独など主要国が撤退したのはそのためだ。 原発の先行きが不透明で、財政状況も厳しい日本が、アストリッド計画に費用負担して参加する意味があるとは思えない。参加はやめ、サイクル政策そのものからの撤退へかじを切る好機とした方がいい。 サイクルには別の側面もある。再処理によって生み出されるプルトニウムが核兵器に転用できることだ。 このため日本政府は「利用目的のないプルトニウムは持たない」を原則としてきたが、すでに英仏に37トン、国内に10トン、計47トンものプルトニウムを保有する。青森県の再処理工場が稼働すれば、さらに増える。 本命の高速増殖炉が頓挫した今、プルトニウムを消費できる頼みの綱は普通の原発で燃やす「プルサーマル」だが、これも進むめどはない。 政府の原子力委員会はプルトニウム削減の指針をまとめるというが、サイクル政策を変えずに小手先で対応するのは限界だ。核拡散を懸念する米国や近隣諸国からの批判が強まる前に、路線変更が必要だ。仲の瀬橋の上で。(2018/6/29 19:36) 集会は終わったが、雨は激しく降り続いている。あきらかに夕立なのだが、アメダスの雨雲の動きを見るともう少し雨雲が続いている。 意を決して勾当台公園を後にしたが、交差点を渡ろうとするたびに溜まった雨水に足を突っ込んで、靴のなかはびちゃびちゃである。 雨を避けようと入った一番町のアーケードを通り抜けるころにはほとんど雨が上がった。広瀬川にかかるころには、西の空の雲が切れて、夕焼けの赤みが残る空がのぞいていた。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.06.29
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2週間前の火曜日、恐る恐る小さな山登りを敢行した。4、5年もまともな登山を止めていたし、この年齢の数年の空白は大きいと考えて、山ならぬ森を歩いてきたのである。 山行再開のリハビリのような山歩きだったが、日々のリハビリも大切だろうと思って神社の階段や仙台城址までの上り下りを朝の散歩に加えて、一週間後の山行を計画していたのだが、月曜日に発熱し、計画当日の火曜日を含め二日間寝込んだ。水曜日からは連日の会議と宴会、地域合同避難訓練とその前準備、地域清掃と日曜日まで暇なしだった。 前回は、標高440mの傾城森だったので、今回は少し標高を上げて621.3mの寒成山である。じつは、熱を出して取りやめにした山行は、1200mクラスの山に行こうと思っていた。じわじわ体を慣らしていくというやり方にもう不満が湧いてきて、駄目なら駄目で体力の限界をさっさと知ってしまおうと思ったのだった。短気というか、こらえ性がないのである。 いくら気持ちが急いても、体がついて行ってないのだ。それで熱が出たのだろう。そう思うことにして、候補地を探したら、先日の傾城森の近くに手ごろな高さの山があった。 621.3mの寒成山である。 Photo A 大熊大橋から望む寒成山。 (2018/6/26 14:29) 東北道を白石ICでおり、国道4号を少し南下して国道113号に入るコースは傾城森へ行った時と同じである。小原温泉郷を過ぎ、七ヶ宿湖の手前で飛不動尊への案内看板に従って左折する。 道は、大熊大橋で白石川を渡り旧道に出る。大熊大橋から寒成山を望むことができる。北と南が切り立って、尾根は東西に伸びているのだが、写真はその山容を東から見ている。 この写真は帰り道でもう一度立ち寄って撮ったもので、朝からの晴天がすっかり雲に覆われてしまっている(写真は往復で撮っているが、時系列ではなく、麓から頂上へのコース順に掲載している)。Photo B1 飛不動尊の夫婦杉。 (2018/6/26 9:42)Photo B2 飛不動尊の本堂。 (2018/6/26 9:43) 大熊大橋を渡ってすぐ旧道を右に折れて西進する。この道は、先日立ち寄った材木岩への道でもあるが、材木岩への分岐の手前で、飛不動尊への案内看板があって、狭い林道に左折する。 「もう少しで飛不動」などという看板があるうねうねとした林道を進めば難なく飛不動尊の前に出る。道向かいに広い駐車場があり、木陰になりそうな場所を選んで駐車した。 飛不動に着くと、まず杉の古木が目に入ってくる。享保16(1731)年の大地震のとき材木岩近辺にあった飛不動尊を落石から守った大杉があったという。その3年後に飛不動尊が現在地(旧七ヶ宿街道の江志峠)に遷座した時、集落の若夫婦が加護を願ってそれぞれ杉の苗木を植えたものが、現在の夫婦杉になったのだという。樹齢284年ということになる。 伊達政宗が天正19(1591)年に現在の国道113号に近くに建立した不動堂は、文禄3(1594)年に火災に遭ったが、そのとき本尊自ら岩窟に避難したことから「飛不動」と呼ばれるようになったという。 敷地内には、不動堂のほか六地蔵尊や観音菩薩が祀られているほか、お守り売り場などもあったが、まったくの無人だった。Photo C 登山口へ向かう林道。 (2018/6/26 11:34)Photo D 車止めパイプ脇で咲いていたウツボグサ。(2018/6/26 11:32)Photo E 杉林の中を行く林道。 (2018/6/26 10:21)Photo F ホタルブクロ。(2018/6/26 11:23、10:05) 飛不動尊近辺には寒成山に関する案内はまったくない。飛不動まで車で来た林道を少しばかり引き返して、南に向かう林道に入る。林道を少し入ったところの看板には「一般車通行禁止」として「下戸沢牧野農業協同組合」の看板が立てられているが、ここにも「寒成山」の名前はない。じつは、国土地理院の地図にも「621.3m」の表記はあるが、寒成山という山名は記されていないのである。 林道入り口は舗装されていたが、すぐ車止めがあってその先は舗装されていない。杉林の中をうねって進む林道の陽当たりのよさそうなところに白のホタルブクロが群生していた。 林道の急なカーブを曲がると、上から原付バイクで降りてくる人がいた。挨拶をすると停まってくれたので、寒成山に行きたたいのだ話してみた。「寒成山、奥寒成山、どっち?」というのである。この地元の人は牧野に近い山を寒成山、その背後の山を奥寒成山と呼んでいるらしい。 地図を見せて話をすると、私が目指す寒成山は、その人の言う奥寒成山らしい。そこへ上る登山道が「あったような、なかったような」という感じで話されて、心細いことこの上ない。「道が見つからなかったら、諦めて戻ります」といって別れ、林道を歩き出すと、林道を横切って行くニホンザルの群れに出会った。杉林を行くサルにカメラを向けて数枚撮ったが、どれにも写っていなかった。偶然なのか意図的なのか、シャッターを押す瞬間には幹の陰になってしまっていた。Photo G1 右手に登山口。(2018/6/26 10:13)Photo G2 登山口。(2018/6/26 10:13) 「右に別れる林道には入るな」というバイクの人の注意に従って、二つの分岐を過ぎると、東西に伸びる寒成山の尾根裾を林道が割っているような地形のところに出る(Photo G1)。右手に細い登山道らしい踏み跡がある。1メートルほどの棒に赤い布が巻き付けてあったので、それまでの不安はほぼ解消されて、その踏み跡に入ったのである。Photo H 杉の木のてっぺんで繁茂するハンゲショウ。(2018/6/26 10:44)Photo I 杉林から雑木林に。(2018/6/26 10:19)Photo J 大石があちこちに。(2018/6/26 10:25) 登山道は文字通り東西にのびる尾根筋のその尾根を辿って行く。南面と北面は大きな崖のある急斜面なので登山道の選択肢はほとんどないのだろう。尾根筋とはいえ、けっこうな斜度の道が続く。 杉林の中に陽を浴びて輝いている木がある。一本の杉の木のてっぺん付近に葉を広げたハンゲショウである。杉の木が少し疎らになっていて比較的日が当たる場所と思われるのだが、下部の方にはハンゲショウの葉はほとんど見えない。その杉の木に当たる太陽光を独占するかのように繁茂するハンゲショウなのである。 杉林から雑木林に変わっても斜度は相変わらずである。高度を上げると少しずつ大石が散在するようになった。Photo K 傾斜が緩むあたり石祠が。(2018/6/26 10:56)Photo L また急坂が(ここで道を間違えた)。(2018/6/26 11:09) 一休みしたいと思いはじめたあたりで、傾斜が緩む。ちょっとした棚道なのだが、その道が始まるところに中には何もない小さな石祠があった。 ゆるい傾斜の山道を楽しんで歩いていると、頂上直下の急斜面にぶつかる。大岩が点在する急斜面に、はっきりを確認できる道は見えない。急斜面の手前から南の斜面をトラバースするような踏み跡らしきものが見えたので、そこに入った。 急斜面を行く踏み跡は滑りやすく、握れるほどの木の枝を手繰りながら進むが、しだいに踏み跡らしいものは薄れていく。それに地図によればこの先には断崖があるらしい。 諦めて引き返すことにした。滑る斜面に苦労しながら、それなりに急いで戻り、急斜度が始まる尾根筋を探して何とか登山道を見つけた。一か所だけ大岩が点在するあたりで道がわかりにくくなっていたのだが、とにかく尾根筋から離れてはいけなかったのである。たぶん、急斜面を忌避したい疲れた体と精神が、道を誤らせる原因だったのである。Photo M1 頂上。(2018/6/26 10:59)Photo M1 頂上の標識。(2018/6/26 11:02)Photo M1 七ヶ宿湖と霞む蔵王連山。(2018/6/26 11:00) 短い急斜面を登りきると、細長い頂上尾根の東端である。尾根を西に歩けば、621.3mの狭い頂上の空がぽっかりと口を開けている。 木製の頂上標もあったが、古びた板の文字はほぼ完全に消えていて、左上の隅に小さく「寒成山 621.3m」と彫り付けてあった。この山行で初めて見る「寒成山」の文字である。 尾根の西端にある頂上からは七ヶ宿湖が望める。また、不忘山を南端とする蔵王連山も見えるはずだが、霞んでいてかすかに不忘山らしき影が確認できる程度である。 道を間違えて浪費した時間を差し引けば、ほぼ1時間の登りである。休憩もそこそこに下り始めた。下りはほぼ30分で飛不動尊に着いた。 時間はたっぷりあるので、これからの登山候補の山、蛤山(981m)の登山口の確認に行くことにした。国道113号を西に進み、七ヶ宿湖を過ぎて白石川の支流、横川に架かる橋を渡って右折し、横川集落に向かう。 道脇に蛤山登山道の入り口の案内がすぐに見つかったが、周辺に車を止めるスペースはない。ガイドに青少年旅行村の駐車場を利用するような案内があったが、その通りらしい。 ここまでの道々、案内看板にあった横川渓谷に架かる「やまびこ吊り橋」を見に足を延ばした。強風のときは危険という案内があったが、渡っても少しも揺れないリジッドな吊り橋で、その高みから眺める横川の渓流は釣り好きにはいくぶん刺激的なのだった。 ついでなので長老湖にも行ってみた。不忘山から眺めた湖とは違って、木々や岬に遮られて全部が見えない湖はさほどの感興がなかった。長老湖は、火山活動でできた古「長老沼」を発電所用の貯水池として拡張したものだと、古びて消えかかっている看板に書かれていた。 七ヶ宿街道は、山形県の高畠町に続く「そば街道」という触れ込みなので、113号をさらに奥へ進み、湯原という集落にある蕎麦屋さんで昼食である。ソバのメニューは、「ざるそば」と「大ざるそば」の2品しかないなんとも潔い蕎麦屋さんだった。 国道113号の帰り道、大熊大橋に立ち寄り寒成山を遠望する写真を撮って、本日の山行の行程はすべて終了である。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.06.26
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火曜日に山ならぬ森を1時間歩いてきた。たった1時間ほどの歩きで、疲れが残ることはまったくなかったが、翌日になってから手で探ってみると大腿部にもこむらにも筋肉のしこりがあった。 60歳を過ぎてから犬と一緒にかなり山を登ったが、足の筋肉が痛むようなことはなかった。犬が老いてからは山に行かなくなって、平地の歩きだけになった。なるべく歩くように心がけていたが、平地を歩くだけの筋肉になってしまったようだ。 そこで朝の1時間ほどの散歩のコースを変えることにした。わが家の近く、青葉山丘陵に亀岡神社がある。その340段の石段と仙台城址天守台までの坂道の上り下りをすることを思いついた。1時間20分ほどの散歩コースである。3日続けたが、とくに疲れるということもなさそうなので、しばらくは続けてみることにした。 こうして山歩きのためのリハビリを始めているのだが、さてどれほど山に行けるものか、そちらの方がはなはだ心もとないのである。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2018/6/15 18:48~19:01) 降り続く雨が小やみになるころ家を出た。階段や坂道のぼりの散歩を続けていたので、デモの歩きを心配したが、どうということはない。どちらかといえば快調といっていい。 俳句の季語ではないが、文字通り「梅雨寒」とか「梅雨冷え」という日が続く。とくに今日は一段と冷えていて、納戸の奥に片づけたジャンパーを引っ張り出して着込んできた。厚すぎるかと思ったのだが、今日の気温にぴったりだった。 雨は小降りだが、集会は屋根付きステージで行われていた。参加人数は少なく、25人ほどだ。デモ人は少ないとはいえ、それぞれがかかげる雨傘がデモの列のボリュームを増していて、そう思えば雨も悪くはないのである。一番町(1)。(2018/6/15 19:02~19:07)一番町(2)。(2018/6/15 19:09~19:14) 集会でも二人ほどがスピーチで触れたが、東京電力が楢葉町と富岡町の福島第2原発4基を廃炉にする検討に入るというニュースがあった(6月15日付け毎日新聞電子版)。 もともと福島第2原発は再稼働なんかできないことは分かっていたはずだ。福島第1原発であれだけの事故を起こして、福島県や立地自治体が再稼働を認めるはずがないことは明らかだった。廃炉への決断が遅すぎるという批判が各方面から沸き起こったことはまったく当然のことだ。 原発の廃炉は大いに歓迎だが、東京電力の意図はそんなところにはない。今度の新潟県知事選で、自民・公明が推す候補者が当選したことで原発7基を有する東電・柏崎刈羽原発の再稼働への道が開けたと判断したうえで、地元の反対が強い福島第2原発の4基をようやく諦めたというのが真相だろう。 どこまで行っても、原発にしがみつく電力会社の心根はそんなものなのである。青葉通り。(2018/6/15 19:16~19:20) 先日までの暑さが嘘だったかのような寒さである。最近、わが家では冬でも炬燵をしなくなったが、かつては梅雨が明けるまでは炬燵を片付けることができなかった。やはり、仙台の梅雨は寒いのである。むしろ、先日までの暑さが異常で、今が普通ということなのだろう。 いったん暑さに慣れてしまった身には少し寒すぎると感じるのだが、朝の散歩や金デモでは、歩き続けて火照ってくる体にはそれなりに塩梅がいいのである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.06.15
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私が山らしい山に最後に登ったのは、3年前の2015年5月18日の泉ヶ岳だった。その時のブログの出だしにこう書いていた。 一昨年の8月に仙台神室岳の仙人沢ルートを往復して以来の山歩きだ。神室岳から下山したとき、一緒に登ったイオの後肢が弱っていることに気付いて、本人の承諾を得たわけではないが、登山からは引退させた。13年間ずっと山歩きの相棒だったイオが山に行けなくなると、私もその気が失せてしまって、昨年は一度も登山はしなかった。 つまり、5年前の2013年6月24日の仙台神室岳が「13年間ずっと山歩きの相棒だったイオ」との最後の登山で、それから2年後、このままでは体力が減退するばかりだと思いなおして泉ヶ岳に上ったのだった。 しかし、イオのいない山登りはまったくつまらなかったし、山登りが無理になっても家で普通に暮らしていたイオを置いて私だけが山に行くことが後ろめたくて、ふたたび山に行くことをやめてしまったのである。 そのイオが今年の正月、2018年2月4日に老衰で生を終えた。それから4ヶ月が過ぎたころから、イオと一緒に上った山々の写真を見直し,整理することができるようになった。そして、思ったのだ。もうイオを家に残して山に行くことを気遣う必要はないのだ。私の日々の行動の理由にイオの存在を根拠とすることはもう一切ないのだ、と。 「また、山登りを始めたい」と妻に言うと、「イオ離れだね」という言葉が返ってきた。いくら何でも、そろそろイオの存在、イオの死から自立しなさいよ、という意味らしい。 山登りを再開すると思っても、そう容易には始められない。なによりも体力(足の筋力)が極端に衰えているだろう。それに当分のあいだは、イオの思い出が濃密に残る山は避けたい。 『宮城県の山』(山と渓谷社、2004年)というガイド本で、七ヶ宿町にある傾城森という標高440mの山を見つけた。福島県と山形県の県境に位置する七ヶ宿町そのものに私は足を踏み入れたことがない。そこに一番近い山といったら蔵王連山の最南端の不忘山(1705.3m)にイオと一緒に上ったことがあるだけだ。 七ヶ宿町近辺には、蛤山(1014m)、峠田岳(1081.7m)、龍ガ岳(994.2m)と、以前の私なら手ごろと思える山がいくつかあるのだが、無理をして最初から躓きたくはない。傾城森ならまったく問題ないだろう。往復で2時間ほどの歩きで済む。何よりも、ガイド本に「遊歩道が整備されおり」と書いてある。登山道ではなく、遊歩道なのである。少なくとも登山と呼ぶのが憚られるほどがちょうどよいだろうと考えた。Photo A 山伏森(左)と傾城森(右)。 (2018/6/12 14:04) ヘルパーさんが来る日の日中は、義母の介護の手伝いが免除される。ヘルパーさんが来る火曜日に決行することにした。ずっと雨の天気予報が出ていたが、短い時間なのでレインウエアで強行しようと考えていた。ところが、前日の夕方頃に予報が曇りに変わった。 東北道を白石ICで降り、国道4号を少し南下してから国道113号に入って七ヶ宿に向かう。この道は、小原温泉まで行ったことがあるだけだ。小原温泉入り口をあっという間に過ぎ、そこからの道のりは七ヶ宿町の奥深さを印象づけるに十分だった。 白石川に造られたダム湖、七ヶ宿湖から下は白石市、そこから山形県境までが七ヶ宿町になる。傾城森は七ヶ宿湖の最上流部を過ぎたあたりにある。上の写真は、さらに奥にある七ヶ宿の中心集落である「関」地区で昼食をとった後、集落のはずれで写したものである。 Photo B 逢瀬橋の向こうに山伏森。 (2018/6/12 10:08) 国道113号から傾城森は見えるのだが、遊歩道入り口へ入る道を見過ごして通り過ぎてしまった。白石川の支流に架かる横川橋を渡って100mほどで左に入るように地図には記載されていたが、実際の道はほとんど橋の西詰から始まっていた。 赤い吊り橋(逢瀬橋)が遊歩道の始まりである。橋の向こうに見えるのは山伏森で、傾城森はその陰になっている。逢瀬橋の前に傾城森の由来が書いてあった。そのまま書き写しておく。 横川と白石川の合流するこの地に女性の乳房を思わせる二つの岩山、北峰が「山伏森」(三九〇メートル)南峰を「傾城森」(四四六メートル)といい、総称して傾城森と呼んでいます。この二つの岩山には哀れな物語が伝えられています。「今からおよそ三百年前の話です。 冬のある日の夕暮れ時、修験者と気品のある尾錠がこの辺りにたどり着きました。男は仏道修行中の山伏、女は傾城の誉れ高い京都祇園の名妓。楼主に抱えられて自由のない芸妓と、厳しい掟に縛られた山伏との恋は世間に認められるはずもなく、二人は手を取って京都を逃げだし長旅の末この地にたどり着いたのです。 二人はさっそく草庵を結んで住み、人目を忍びながらも楽しい日々を送りました。 しかし、それもつかの間のこと。女は重い病気にかかってしまいました。修験者は、病気が回復するように一心に祈り、薬を求め一生懸命看病しました。そのかいあってか、女は少しずつ快方に向かいました。 ところが、所持金も乏しくなってきて、生活に困るようになったので、二人は将来を危ぶみ世を儚んで、山下の地獄渕に身を投じて死んでしまったのです。 一方京都からは、かつて名妓に仕えたことのある下女が、この二人を追いかけてきましたが、二人はすでに死んでしまっていたのでした。下女は、たいへん悲しみ、後を追って東方の山下(現在の下女森)で自らの命を絶ってしまったのでした。」 この二つの岩山は、江戸時代から旅の人への観光説明の材料となっていて、富田伊之著の『奥州紀行』安永六年(一七六九)にもこの物語の概要が記されています。 平成二十年十一月 七ヶ宿町教育委員会Photo C 林のなかの遊歩道。 (2018/6/12 10:14)Photo D 山伏森分岐。(2018/6/12 10:16)Photo E 山伏森中腹の鳥居。 (2018/6/12 10:21)Photo F 山伏森頂上から見る七ヶ宿湖。(2018/6/12 10:24)Photo G 山伏森山頂の祠。(2018/6/12 10:25) 歩くと少しばかり揺れる赤い吊り橋を渡ると、初めにコンクリート製の階段があり、その先は石だらけの道と階段道が林のなかに続いている。写真で見るように、低いが急峻な山容を反映して、ほとんどは階段状の勾配のきつい道になっている。 橋から7分ほどで「山伏森」分岐に着く。ガイド本には帰り足で山伏森によるように書かれていたが、先に山伏森に向かう。 階段道が続いて、息が切れることおびただしいが、中腹の鳥居を過ぎるとあっという間に頂上に着く。頂上の木々の間から七ヶ宿湖が望めるが、眺望はそれほどでもない。小さな祠が祀られていて、中に陶製のお稲荷様が納められていた。Photo H 傾城森の分岐。(2018/6/12 10:44)Photo I 傾城森頂上尾根。(2018/6/12 10:52)Photo J 傾城森頂上から見る七ヶ宿湖。(2018/6/12 10:49)Photo K 傾城森頂上から見る七ヶ宿関集落。(2018/6/12 10:49) 山伏森を分岐まで下り、傾城森に向かう。道は傾城森の西斜面を南まで迂回し、遊歩道入り口の反対側から頂上に上がる。傾城森への道が北に向かうあたりにダム公園に向かう分岐標があった。その分岐から5分で頂上に着く。 頂上は南北に伸びる尾根上になっていて南の部分からは東に七ヶ宿湖が望め、北端からは北西に七ヶ宿町の中心部である「関」の集落が一望できる。ここの頂上にも山伏森と同じような小さな祠が祀られていた。 階段道の上りで大いに息が切れたのだが、短時間だったのであっというまに息切れもおさまる。 下りはじめれば、何の造作もなく逢瀬橋に着く。10:05に逢瀬橋を渡り始め、帰りは11:16に逢瀬橋を渡り終えた。時間的には毎日の朝の散歩程度だが、標高差150mほどの階段道はそこそこ足にこたえた。Photo L 滑津大滝。(2018/6/12 12:27) 山歩きの計画は早々に終わってしまったが、昼食にはまだ早いので、国道113号をさらに奥の方へ行ってみることにした。 まず初めに、傾城森への入り口の直ぐ西で横川沿いに北の長老湖や蛤山登山口に向かう道を確認した。そこから関宿の集落を過ぎ、滑津大滝を見る。 滑津大滝からさらに113号を西進して峠田集落で七ヶ宿スキー場への入り口を確認した。七ヶ宿スキー場には、峠田岳への登山口がある。 龍ガ岳へはこの113号から稲子峠の道に入り、国道399号に出なければならない。稲子峠へ行く分岐を確認するために113号をさらに西に向かった。Photo M 山伏森(左)と傾城森(右)。(2018/6/12 14:00) 国道113号から分かれるいくつかの登山口への道を確認して、同じ道を引き返し、関宿の集落のなかの蕎麦屋さんで昼食をとった。いつもできるわけではないが、山登りの後に山麓の蕎麦屋さんで昼食とするのは、わたしのお気に入りのパターンである。 昼食を終えて、関宿を出かかるあたりで傾城森と山伏森がよく見えるところがあった。初めに見つけた場所からは、傾城森と山伏森の高さの関係がよくわかた。もう少し、113号を東に進むと二つの山塊の様子がはっきりと見える場所があった(Photo A)。Photo N 七ヶ宿湖と噴水。(2018/6/12 14:37) 国道113号を戻り、傾城森の横を過ぎ、七ヶ宿湖に沿って下っていくとダム湖のなかで噴水が上がっているのが見えた。ダムサイトに入って写真を撮ったが、これは決められた時間に噴き上がるらしく、偶然のタイミングで通りかかったということらしい。Photo O 材木岩。 (2018/6/12 15:00) 滑津大滝を見、ダム湖の噴水も見た。せっかくなので有名な材木岩を見ておこうとダムの下流で旧道に入った。この旧道からは材木岩に行く道ばかりではなく、寒成山(621.6m)の登山口である飛不動尊への道も分かれているので、その確認も兼ねていた。 材木岩は写真で見るばかりだったが、崩落した岩もまたみごとな角柱が多くて、材木という名称が「まるっきりそのまんま」なのだった。 あっという間に終わった傾城森歩きのおかげで、いくつかの山の登山口への道の確認もでき、いくつかの観光スポットにも立ち寄り、遊びとしては十分と思いなして帰途についた。 問題は、これから継続的に山行ができるかどうかである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.06.12
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昼食を食べていたらレターパックが届いた。中には、『プラチナタウン』と『和僑』と題する二冊の文庫本が入っていた。ともに楡周平さんの小説で、膨大な負債を抱えた宮城県の田舎の町の再建に町長として取り組むという苦難の道を選んだ主人公を描いた連作ということらしい(まだ読んでいない)。 送り主は、宮城県のある田舎町で小学校、中学校を共にした同級生の一人だった。「小説に描かれた宮城県の緑原町という架空の田舎は、私たちの生まれ故郷のあの町に似ているような気がして」という意味のことが書き添えてあった。 関東のある都市の小学校長で職を終えた彼女は、数年前に仙台で開かれた同級会の際に故郷の親戚を訪ねて、町のさびれようにとても驚いたと語っていた。 同級会の宴席で「何とかしなさいよ、小野寺さん」と彼女は私に詰め寄るのだった。冗談だろうが、彼女から見れば仙台で暮らす私は〈ほぼ故郷で〉暮らしていると思えたのだろう。私は私で、とうに仙台で人生を終える覚悟をしているので、返答に困るのだった。 同級会の参加者の3分の1はその故郷で暮らし続けていて、彼らの顔色を窺ってみたがさほどの反応はないのだった。彼らのうち何人かは、平成の大合併で行政の中心がかつての隣町に移ってしまうまでは町会議員だったはずだ。 平成の大合併という行政の合理化は、故郷の町のさびれ方に大いに貢献したらしいのである。そして、私たちの生まれた町は大きな行政都市の小さな一部になり、小説の主人公が取り組む故郷の町とは大きく条件が異なってしまっているのだ。 本を送ってくれた友人の気持ちは痛いほど伝わってきたのだが、生まれ故郷のために何ができるのか全く見当がつかない。もう56年も住んでいる仙台の一角の町で、その町内会長などを引き受けることでこの町のために人生の最後の時間を使おうと思っている身には、生まれ故郷のために割く時間も能力もあるように思えないのがいくぶん寂しい。勾当台公園から一番町へ。(2018/6/8 19:03~19:13) 遅刻をして集会の途中に勾当台公園に着いた。雨を避けてカメラを取り出して準備をしているとき、突然マイクを手渡されて慌ててしまった。何を話していいのか全く思い浮かばないのである。 以前にはスピーチの話題を二つほど必ず準備していて、スピーチする人がいないときに話そうと考えていた時期もあったが、たいていは私まで話す必要がなかったということもあり、最近は集会に遅れて参加するようになったこともあって、もうスピーチの準備はしなくなっていたのだ。 友人が送ってくれた二冊の小説から「さびれていく故郷の町」というイメージにつながり、それから「住民の心が荒廃していく原発立地の町」という先週の金デモ後に書いたブログの内容を思い出し、それを紹介した。一番町で。(2018/6/8 19:14~19:25) いつものことだが、スピーチを終えた後にあれも話せばよかった、これも話せばよかったというのが思い浮かぶのである。話す内容を吟味していないのだからしょうがないのだが、今日のスピーチの後で「避難訓練は、故郷を捨てる訓練だ」というある脱原発集会でのプラカードの言葉を思い出した。 さびれていく故郷、原発をめぐる交付金や税金に頼るしかない故郷などいうどころのレベルではない。原発事故によって故郷を捨てるしかないというとんでもない物語は、実際に福島で起きているのである。現実の悲劇ははるかにフィクションの悲劇をこえてしまっているのだ。デモに出発してから、そのことを話せばよかったと思ったのだが後の祭りである。青葉通り。(2018/6/8 19:30~19:34) 集会のあいだ、雨脚は強くなったり弱くなったりしたが、35人のデモが出発するころにはだいぶ小降りになった。デモが一番町に着く頃にはすっかり降りやんでいた。 一番町のアーケードを出て、青葉通りに出ると路面はそれほど濡れていない。濡れた路面が街灯や車の光を反射する夜の写真が好きで、少しばかり期待していたのだった。デモ人もデモのコースもほとんど毎週同じようだと、写真もまたいつものパターンになってしまうので、そのような変化を期待してしまうのである。 単なる記録だと考えれば何も問題ないのだが、多少は他人の目に触れる写真だと思うとそれなりに欲が出るのである。腕は上達しないのに欲がまだ残っているいうのは不幸なことだ(と思う)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.06.08
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先々週の金デモは、荒天予報のため集会だけでデモは取りやめになった。先週は、個人的なことで金デモを休んだ。 先週の金曜日は、東京で会議があったのだ。午後からの会議で、午前中は東京都美術館で開かれている『プーシキン美術館展』に行った。絵を見て回るだけで疲れるはずなんてないのだが、会議が始まる前に何人かと挨拶をしたとき、声がうまく出なくなっていた。 50代後半からストレスで声が出なくなるということが起きるようになった。精神的なストレスによるものだと思っていたが、肉体的なストレスの方が主要な原因らしいというのを最近知った。パソコンに1時間ほど集中してもそんな症状が出るし、会議などで2時間ほど拘束されても声がかすれるのである。 会議が始まる前に声がかすれていたが、その日は会議が休息になったらしく会議が終わった頃にはすっかり正常になっていた。予想より早く終わったので、急いで新幹線に乗り、いったん自宅に帰り、衣服を会議バージョンからデモバージョンに替えて玄関を出ようとしたところで足が止まった。 疲労感がじわっと全身に湧き出してくる感じがした。なんとなく不安になったので、金デモは休むことにしたのだった。東京への出張帰りに時間が間に合えば金デモに参加していたのだが、いよいよそんなこともできなくなったのかと、いくぶん憂鬱になった。 それからの一週間は、いくつかの会議と書類づくりで過ごした。パソコンに向かって声がかすれるという症状も、パソコンに向かう頻度が多くなると体が慣れてくるらしく、それほどでもなくなった。パソコンに向かうばかりの仕事から退職してパソコン向き仕様の身体から解放されたのだが、たまにパソコンに向かうとそれがストレスになるというのは、開放が過ぎただけということらしい。要するに、すっかりだらけてしまったのである。 そういう結論にがっかりしながらも、今日は元気に肴町公園に向かったのである。肴町公園から一番町へ。(2018/6/1 18:39~19:07) すっかり日が長くなって、集会はかなり明るいうちに始まるようになった。集会が終わることに、ようやく昏さを感じるようになる。デモが一番町に向こう細道で昏さが急に増し始め、昼と夜の境界を過ぎていくような雰囲気になる。 一番町に入れば、店々のイルミネーションや街灯がまだ暮れ残る夕暮れの光を一挙に闇の方に押しやってしまう。一番町では、夕暮れの実感がいっぺんに消えてしまうのだ。 肴町公園からデモが出発するはずの先々週のデモが体リやめになったので、しばらくぶりの一番町北上コースになった。一番町を南下するいつものデモに比べて、通行人の注目度が増しているような気がする。何度かデモを見かけた人も逆コースなのでびっくりしているのかもしれない。 それに、デモ人の方にも、しばらくぶりのコースでいくぶんかリフレッシュ感が生まれてコールの声の張りが微妙に違っているのかもしれない。一番町で。(2018/6/1 19:09~19:17) 福島県大熊町生まれの佐藤禎祐という歌人がいる。2011年の東電1F事故で大熊町からいわき市に避難して、その地で83歳の生涯を閉じた。彼の歌集『青白き光』[1] に次のような三首が収められている。原発依存の町に手力すでになし原子炉増設たはやすく決めむ原発に縋りて無為の二十年ぢり貧の町増設もとむサッカーのトレセン建設を撒餌とし原発二基の増設図る 原発建設を認め、原発をめぐる交付金や税金、原発関連企業の雇用に依存してしまった自治体が、抜き差しならないほどの原発依存性からさらなる原発の増設を自ら求めるようになってしまったことを痛切な思いで詠んでいる。 佐藤禎祐の歌を思い出したのは、5月26日付け朝日新聞デジタルのつぎのようなニュースを読んで、奇妙な感じがしたためだ。 四国電力は伊方原発敷地内に使用済み核燃料を保管する「乾式貯蔵施設」を新設するとして、愛媛県知事や伊方町長に説明した。その際、知事も町長も乾式キャスクでの保管が原子炉建屋内のプールに保管するより安全だと理解を示したが、あくまで一時的な保管施設であることを主張したという。 施設が原発敷地内で恒久的に使用済み核燃料を保管することに懸念をしているのだという。一方で、伊方原発の再稼働を容認している。それは、原発はほぼ恒久的に運転してもよいと認めていることだろう。 かつての大熊町のように、継続的な交付金や税金を目当てに原発増設を望んでいるのかどうかは分からないが、危険な原発の運転を認め、それに比べれば格段に安全な乾式貯蔵施設に否定的であることにとても奇妙な感じを受けるのだ。それはまるで、導火線に火のついたダイナマイトは恐れず、火のついた線香花火を恐れているようにしか思えないのである。 このような自家撞着した思考は、原発による交付金・税金がなければ生きながらえることができなくなった原発立地自治体が抱える大いなる矛盾なのだろう。政治がばらまく金が生み出した悲劇である。 佐藤禎祐には、次のような歌もある。原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し原発に自治体などは眼にあらず国との癒着あからさまにて原発に縋りて生くる町となり燻る声も育つことなし繁栄の後は思はず束の間の富に酔ひ痴るる原発の町定禅寺通りから晩翠通りへ。(2018/6/1 19:29~19:40) デモは、肴町公園から日銀裏通りを一番町に出る。一番町を広瀬通りを越えて定禅寺通りまで歩き、定禅寺通りを西進してから晩翠通りを南下して再び肴町公園まで戻ってくる。 一番町では、30人のデモはところどころで雑踏に紛れるような雰囲気になるが、暗く人通りも少ない定禅寺通りや晩翠通りではかえってよく目立ち、コールの声も鮮明に遠くまで届くようだった。 雑踏の中での脱原発の訴えは効果的だろうし、遠く響くコールもまた気持ちがいいものだ。[1] 佐藤禎祐歌集『青白き光』(いりの舎、平成23年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2018.06.01
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