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有名な古典の冒頭というのは、たいていの学校で覚えさせられるものである。たとえば、「春は曙」 とくれば 『枕草子』 であるし、「祇園精舎の鐘の声」 とくれば 『平家物語』 である。また 「ゆく川の流れはたえずして」 とくれば 『方丈記』 であるし、「月日は百代の過客にして」 とくれば 『奥の細道』 である。
ちょっと毛色の変わったところで言えば、「一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている」 というのもある。これは言うまでもなく、『共産党宣言』 の冒頭である。
ところで、吉田兼好の 『徒然草』 はこんな文句で始まっている。
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に映りゆくよしなしことを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
「することもなく、ものさびしいので、日がな一日、すずりに向かって、心に浮かんでくるとりとめのないことをあれこれと書き記していると、みょうに気持ちが高ぶってきて狂おしくなってくる」
とでもなるだろうか。
ようするにこの時期、兼好法師はなにもすることがなくて、暇をもてましていたのだろう。そこで、子供の頃の思い出や成人してから見聞きしたこと、その他様々なことを書き連ねたというわけである。もっとも、暇をもてあましていても、これだけのことが書けるのは、むろん兼好さんならではのことであって、われわれ一般人ではそうもいかぬ。
なにしろ、『論語』 と並ぶ中国の古典である 『大学』 には、 「小人閑居して不善をなす」
という言葉もあるくらいで、小人というものは、一人でいて他人の目を気にせずにいられるとか、知らない人らの中に紛れたり、匿名であったりして、自分の正体がばれずにすむとなると、ろくなことをやらないものなのである。
『徒然草』 は、兼好が50歳ごろの頃に書かれたものと推測されている。時代としては、鎌倉幕府が滅亡して室町幕府が成立しながら、まだまだ戦乱が治まらぬ過渡期であり、その点では、平安末期から鎌倉幕府の成立にいたる戦乱の時代に書かれた 『方丈記』 と好一対をなしている。
『徒然草』 の最後の段には、八歳のときに父親に 「仏とはどういうものですか」 と問い、 「仏とは人がなったものだ」 という父の答えに対し、さらに問いを続けて、最後には 「空から降ったのだろうか、土の中からわいたのだろうか」 と言わせて、父親をへこませたという思い出話が書かれている。ただの自慢話のようでもあるが、これを最後にもってきたのには、それなりの理由があったのだろう。
そこに書かれているくらい、幼少から賢く、親の期待も大きかったであろう兼好さんではあるが、結局、時代の動向には逆らえず、有為転変のつねなき世の中で翻弄されるという点では、凡人とさほど変わりはない。ひょっとすると、この話で兼好さんが言いたかったのはそういうことなのかもしれない。
兼好さんが言うように、「書く」 という行為には、どこか人を狂わせるものがある。「書く」 という行為は、書かれたテキストによって指し示される仮構の 「主体」 を立ち上げることでもあるが、それは多かれ少なかれ、現実の主体とは異なるものであり、そこには微妙な位相のずれがある。そこには、自分でも気付かなかった深層の主体が現れることもあれば、意識的無意識的に 「自分はこうありたい」 という願望としての 「主体」 が投影されることもある。
ましてや、それが自分だけのひっそりとした行為ではなく、書いた文章を他人の目にさらすということになれば、書かれたものは自分の手を離れて、独自に存在することになる。そこに賛否両論、いろいろな反応があるのは当然であるが、支持者やファンが増えたりすると、「書き手」 はその期待に応えるべく、ますます仮構された 「自己」 の虚構化に努めることになる。
その結果、「書き手」 と 「読み手」 の意識は向かい合った鏡のように反射しあい、「書き手」 の意識はますますリアルな世界を離れて、暴走を始めることもあるだろう。だから、こういう場合、注意すべきなのは冷静で批判的な意見を寄せてくる者ではなく、 「感動しました」
とか 「あなたのファンになりました」
などといってくる、妙な 「支持者」 や 「賛同者」 たちの方なのである。
兼好法師ですら、 「あやしうこそものぐるほしけれ」
と言っているのだから、それほどのものではない 「一般人」 がネットで文章を公開しているうちに、自己意識が肥大化を始め、その結果、ささいなことをきっかけに、自分がなにかしら不気味な敵に 「批判され」「攻撃され」 ているとか、「誰かに監視されている」 といった妙な妄想にとりつかれるような人がいたとしても、ちっとも不思議ではあるまい。
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