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薩摩義士・宝暦治水については、当ブログ2011年12月16日と19日にそれを題材にして杉本苑子氏が書いた「孤愁の岸」〈上・下)の読後文という形で書いた。尚この小説はその後、直木賞も受賞した。彼女にとって、まさに出世作となったのだ。 その後、鹿児島にある「薩摩義士」の3つの大きな史跡を訪ねてみた。その一つは、幕府から揖斐三川治水工事の“御普請御手伝い”の命が薩摩藩にあったとき、国老で勝手方家老だった平田靭負が総奉行に任ぜられるのだが、現在その屋敷跡が「平田公園」になり、そこに上の銅像が建てられている。私がそこを訪れた日も親子連れや沢山の子供たちで賑わっていた。この近くには他にも甲突川にかかる「平田橋」もある。 その二つ目は「薩摩義士碑」である。ここは平田公園から歩いて30分近くかかり、鶴丸城のすぐ隣にある。鹿児島では「薩摩義士」を記憶に留める一番の史跡であろう。 ここの案内版には次のように書いてある。 神になった薩摩義士 -80余名の犠牲の上に、沈黙した暴れ川ー 岐阜県に木曽川治水工事の犠牲者をまつる神社があります。治水神社といい、今も1755年(宝暦5)の薩摩藩による工事に感謝する人々の参拝がたえません。愛知・岐阜・三重の三県にまたがる濃尾平野はいまこそ豊かな土地に生まれ変わりましたが、昔は川床の高さが異なる木曾・長良・揖斐の三河川が合流し、たびたび大洪水を引き起こしていました。1753年(宝暦3)幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩はさっそく家老の平田靭負を総奉行に任じ、約1000名を派遣しました。平田は大阪の商人から22万両を借り工事にとりかかりましたが、梅雨の増水でせっかく築いた堤が切れ、工事は困難を極めました。さらに監督する幕府役人の横暴や疫病の発生により自刃、病死する者が続出。完成までの1年3ヶ月の間に犠牲者は84名を越え、工費も40万両に達していたのです。平田総奉行はその責めを一身に負い自刃。藩政時代は幕府への遠慮から、彼らの偉業は公表されず、1920年(大正9)ようやく慰霊碑が建ち、義士として讃えられました。 最後三つ目は「薩摩義士墓地」である。ここは私も初めて訪れたのだが、西田橋から街に向かって行くと200mくらい進んだ右側にある。霧島温泉の手前になる。 大中寺という曹洞宗のお寺の中にあった。案内版によると、昭和34年の風水害によって岐阜県養老町の天照寺の墓が洗われ、その分骨を鹿児島にお連れしたことに始まる。遺骨はここ大中寺に安置し供養を続けていたが、義士の二百四十年祭を機にそれを供養するため、ここに墓地の建立がなされたとある。鹿児島県薩摩義士顕彰会の名前があり、平成6年9月15日入魂式があったそうで、墓の建立は思っていたよりも最近のことである。いずれにしても、あれだけの工事で犠牲になった人々を手厚く供養することに共感を覚えた。
2012.03.30
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昨日散歩に出かけて桜島の噴火に出会った。鹿児島の人間にとっては、迷惑極まりないものだが、上の写真みたいなシャッターチャンスに恵まれるとつい パチリ とやりたくなってしまう。新幹線開通からちょうど一年、観光客が物凄く増えている。そういう鹿児島を訪れたお客さんには最高の贈り物だろう。 昨日はたまたま、当ブログに書いた“島津どんの墓”の跡近くを通りかかった時に墳煙に気づき、高いところに急ぎ、写したのがこの写真である。場所は鹿児島中央駅西口から山側に向かったところである。つまり山に背を向けて写した。観覧車があるところが、鹿児島中央駅である。 そこで鹿児島地方気象台発表の2008年からの爆発回数を見てみよう。 2008年 80回 2009年 755回 2010年 1026回 2011年 1355回 2012年 407回(但し、3月26日まで) この勢いを維持すれば今年は1600回くらいとなり、新記録になりそうだ。 桜島の墳煙は冬は西風に乗って大隅半島へ、夏は東風に乗り薩摩半島(鹿児島市方面)に降ってくるというのが、定説であり、また実際そのようになっている。その苦しみは鹿児島に住んだ者にしか分からないと思うのだが、お客さんにとっては一過性のものであり、もし墳煙を見られたら、千歳一遇のチャンスと思い楽しんでもらいたい。でもこれだけの噴火があれば、もう在鹿中に相当な確立で写真のような墳煙を見ることが出来るのではないかと思う今日この頃である。皆さん、新幹線に乗って鹿児島いおじゃったもんせ!
2012.03.27
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寒がりの私の気持ちを裏切るようにこの2,3日寒が戻ってきた。それでも、季節は確実に春に近づいていて、朝6時頃目覚めたら、ひところと違ってだいぶ明るくなってきていた。それもそのはず、春のお彼岸の中日も過ぎて、夏至の6月21日までは後3ヶ月をきった今日この頃である。 久しく手入れもしていない狭い我が家の雑草園を見ると、そこには、春が訪れていた。上の写真はユリ科ムスカリ属の「ムスカリ」である。これは球根なので放ったらかしでも、このように春を告げてくれる嬉しい花だ。花言葉は「寛大な愛」「明るい未来」「通じあう心」と「失望」「失意」という相反する言葉だそうだ。(ウィキペディアによる)まるで私の日ごろの心境を写しているようだ。 次の花はユリ科スズラン属のスズランである。ただ北海道を代表する自生のスズランとは違い園芸用のドイツスズランのようだ。これは数年前、北九州からもらってきたが、これも毎年春を教えてくれる貴重な花である。花言葉は「君影草」「谷間の姫百合」となんともロマンチックである。「意識しない美しさ」「純粋」ともいうそうだ。(ウィキペディアによる)寿命の長い「万両」も一緒に写って文字通り花を添えてくれた。 最後はここに自宅を建てた30年前に、甲突川沿いの春の木市で買った「玄海つつじ」である。気持ちとしては“いわつつじ”を植えたつもりであるが、その両方の違いは未だに分からない。 このように忘れかけていた“花”が咲くのだけが楽しみな現状だが、次々に咲いたらいいなと思う今日この頃である。
2012.03.26
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昨日(21日)は春が一気に来たような好天であった。水曜日なので、午前中はTさんと2人でグラウンドゴルフ8ゲームを楽しむ。成績は似たようなもので終わる。成績は2の次、歩くのが主目的なので、気にしない。 歩くということからすれば、グラウンドゴルフで十分なのだが、この日の好天に誘われたのもあり、従兄弟から借りていた「常盤町名 誕生100周年記念誌」を返すことを兼ねて、水上坂を歩いて下ることにする。従兄弟の家は西田町にあるが、ちょうど常盤町の入り口に位置するので、我が家からは歩いて40分くらいかかる。 この道は2月27日の当ブログに書いた「薩摩街道 出水筋」であり、薩摩藩の参勤交代に使われた主要な街道であった。また毎年秋に行われる島津義弘公に因む妙円寺詣りの難所でもある。現在はこの上に私たちの住む大きな団地が出来たため谷を削り、車も通れるようになっているが、私が子供の頃は、鬱蒼とした森の間を登って行くような狭隘な道だった。 この橋が狭い出水筋をさらに狭くしている。昔はこの橋の幅が道路幅そのものだったのだろうが、現在ではこの道で唯一車の離合が出来ない場所になっている。かなり古い橋なのでそのまま残したのだろう。 この溝については前記「常盤町名 100周年記念誌」に次のような記述がある。「私の家の前に幅広の溝がある。一見普通の生活廃水用の溝に見えるが、実は島津時代に甲突川の上流から引き込んで作られた石井手用水と言われる水路なのだ。伊敷の奥にある源流を訪ね調査に行ったことがある。我が家の溝は古い石積で、藩政時代の趣を残している。また「武郷土誌」には次のようなことが書いてある。この溝には西田橋のような太鼓橋の小さいのがかけられていた。この用水路は文化7年(1810)に着工し文化9年(1812)に完成した。この用水路の長さは9・5あった。この新田用水で120ヘクタールを灌漑したという。下流にいくと西田本通りにさしかかる。ここで水上坂より流れてくる小川といっしょになる。そのところの橋を「すすけ橋」という。現在の西田町と常盤町の境である。この橋の名は「筋違いの橋」がなまって「すすけ橋」というようになった。今は暗渠になっていて流れをみることは出来ない。常盤町の史跡については、これまで数回にわたり書いてきたが、他にも「西田寺跡」「金胎山了性寺跡」「医王山薬王寺跡」「雄風亭碑」などまだ沢山の史跡がある。しかし何等の跡形もないものもあるので、少しづつ調べてみたい。
2012.03.22
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16日(金)19時前出発で小倉に向かった。我が家3人と娘一家4人の車での移動である。ただ今回も婿殿が運転は全て引き受けてくれるので、私はのんびりムードである。17日の小倉での法事に行き、18日には鹿児島に帰る慌しいものだが、小4の孫に言わせれば、2泊3日ではなくて小倉に夜遅く着くので2泊2日と言うのだそうだ。 高速道路を小倉南で下りて、15分くらいでかみさんの妹宅に到着。途中SAでゆっくり食事などしたので、23時を過ぎていた。17日は法事のある従兄弟宅に向けて10時30分出発。ここまでは10分もかからない。総勢26名で叔父の17回忌のお坊さんの読経をきく。そのあと近所のすし屋に案内されて食事となった。そのあと再び従兄弟宅に行き、お茶会。ほんとに皆よく食べる。 翌日は小雨の中、妹家族4人と一緒に総勢11人、「門司港レトロ地区」に出かけた。私も数年ぶりだったが、今回はラーメンフェステバルも開催中で駐車場を探すのに苦労した。昼食は海峡プラザに支店のある「元祖 瓦そば たかせ」で食べる。門司港レトロ展望室。黒川紀章氏設計の高層マンション。船の向こうに見えるグレーの建物は「旧門司三井倶楽部」大正10年(1921年)三井物産の社交倶楽部として建てられた。林芙美子の資料室や「レストラン三井倶楽部」などがある。国際友好記念図書館。現在は中華料理屋として営業していた。「旧大阪商船三井」大正6年(1917年)に建つ。一階 海峡ロマンホール。二階 わたせせいぞうと海のギャラリー。 これ等の写真は「海峡プラザ」を散策しながら写したが、雨こそ降らないものの、暗い一日だった。そのことが写真に如実に表れている。ここで妹一家と別れて、門司インターチェンジから高速道路に乗り、18時45分無事帰着した。団体行動?のため自分の思うとおりの行動は出来なかったが、叔父の法要と皆に会えて嬉しい旅になった。引き合わせてくれた叔父に感謝。
2012.03.19
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10年近く借りていた都市農業センターの畑をしばらく休むことにした。3年毎の抽選で幸い連続して抽選に当たり楽しく農作業の真似事をしてきた貴重な畑だったが、更新まで1年を残して昨日整理を終わり返納した。 あと1年間の権利を残しながら返納したのは、今年は夫婦ともそれぞれコーラスの定期演奏会を控えていたり、様々な理由はあるが、一番の理由は私たちも楽しさの反面いささか疲れが出てきたというということだ。 ところが当然のことながら、返納するといっても借りたときの状態に戻して、指導員の先生からOKをもらわなければならない。 そこで、10日(土)昼過ぎに二人で現地に赴き、しばらく行っていない畑の草取りから始めた。冬の草は表面はあまり大きくなくても、根は表面の数倍張っている。幸いこの日は陽射しはあったが、吹く風は冷たく、4時半まで草取りに専念しバケツで10杯以上草をとったが1/5くらい残ってしまった。この時間になると、南国鹿児島といえども、陽射しも弱くなる。寒い。明日に持ち越すことにする。この日は鍬や鋤など使い一輪車で草置き場まで運搬をするなど、日ごろ使わない筋肉もフル操業? させたため、あちらこちら痛く、疲れもピークに達し夜9時には休んだ。 そして11日(日)最後の力を振り絞って今日も二人で午前9時作業開始。先ず草取り、この日も5杯くらいの草をとる。そのあと区画部分の畝上げ、整理。11時半頃に目途がつき、通りがかった先生に見てもらう。1回でOKをもらう。ほっ!最後に自分でしばらくほったらかしにしたとは言え、これほど苦労するとは思いもしなかった。自業自得と納得しなくてはなるまい! まあ しかし楽しい10年間だった。自分たちが手入れした以上に“土の力”とお日さまと水に助けられて色々なことを学び知り、その上収穫も出来た。植えて収穫できなかった野菜も中にはあったが、延べでは数十種類の野菜をつくり収穫出来た。いずれ、また元気であれば挑戦したい。(写真は都市農業センターの菜の花)
2012.03.12
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3日、泊まりに来た中学一年(男の子)が晩御飯を食べながらいきなり言う。「ジージ、幕府は策略で藩の力を弱めようとしたのだよね」 ジージ「ん?」一瞬戸惑いながらも「お主、やるうなあ!」と思いつつもこれは口に出さず。この孫は時々突飛な話題を振ってくるので、今日はこれかと思いつつ ジージ「それじゃ 『宝暦治水』とか『さつま義士』の話を知っているか?」と問う。孫「本で読んだことがあるよ。最後は何とかいう家老が切腹した話でしょう」ジージ「それは平田靭負という人だ。この話も幕府が薩摩の力を弱めようとする幕府の薩摩藩に対する策略から起こった話だ・・・」そこから色々話を広げていくと、こちらが思ったより知識も豊富である。そこで気を良くしたジージ「明日 鹿児島中央駅辺りの史跡めぐりをしてみようか」ということで、4日ジージと孫の珍道中が実現した。 まだ一人でバスに乗ったこともないという孫のためにその要領を教えようと思いバスで行くことにする。鹿児島中央駅で降りて、先ずは「若き薩摩の群像」の銅像へ行く。 この銅像は後にイギリス人から「薩摩スチューデント」と呼ばれ、帰国後には、日本の、あるいは世界で活躍し、各分野に輝かしい業績を残した薩摩藩士を世に紹介したものである。 次に中央駅から天文館の方向に歩いて5分、高見橋を渡って「大久保利通」像に行く。 この説明文は一見汚れて見難いが、昨夜からの桜島の降灰のせいである。この日は、どの案内板も雨がらみの降灰によりこのような状態だった。この大久保利通は西郷隆盛とともに明治維新の立役者の一人であったが、後に「西南戦争」で西郷率いる薩摩の軍隊と政府側として戦ったことから、鹿児島では評価が低かった。しかしNHKテレビの大河ドラマ「翔ぶが如く」などにより、偉大さが見直されてきたようだ。正しい評価がなされるようになって喜ばしいことだ。 この大久保利通像の前にある電車道を挟んで向こう側に「歴史ロード“維新ふるさとの道」がある。明治維新の原動力になった薩摩の下級武士、西郷隆盛・大久保利通など多くの志士が生まれ育った加治屋町である。 ここには竹田神社にもあった島津忠良公(日新公)の「いろは歌」の歌碑もあり、西郷や大久保の誕生地の記念碑もある(ただ大久保はここから数分の別な場所で生まれたが育ったのはこの加治屋町である)。 ここには何回も来た事はあったが、孫を連れてきたので、初めて「維新ふるさと館」に入った。大人300円、子供150円の入館料が必要だ。一階は「篤姫コーナー」「幕末探訪問・郷中教育」「世界を見ていた薩摩」「薩摩エピソード」「維新学習ゾーン」「薩摩観光情報ゾーン」の六つのコーナーがある。地下には「維新の道」というコーナーがあり、“維新体感ホール”で二つのドラマが上映される。一つは「維新への道」というもので、幕末から明治にかけての主に薩摩での出来事が、日本全体にどのような影響を及ぼしていったかを、西郷の入水事件、桜田門外の変、寺田屋事件、西郷の徳之島・沖永良部への遠島、坂本竜馬の仲介による薩長同盟などを取上げながら紹介している。それも音や光、ロボットなどを使いながら多彩な演出でよくまとめてある。もう一つは駅前の銅像で見た「若き薩摩の群像」を描いた「薩摩スチューデント 西へ」である。英国の貿易商グラバー商会の蒸気船に乗せて薩摩の藩士17名を含む19名を明治維新(1868年)の3年前の1865年鎖国の禁を犯し、西欧文明を学ばせるため英国に派遣した事実を描いている。現在の貨幣価値で一人当たり2700万円かかったとのこと。これらの人材が、帰国後いろいろな分野で活躍したことも伝えている。 後で感想を聞くと孫も興味深くこれ等を見たようだ。中学一年の社会科でどこまで歴史を習ったのか自分は忘れてしまったが、私が思っていた以上にいろいろなことを知っているようだ(ジジ馬鹿) 腹を空かした二人連れは孫のリクエストにより、中央駅のアミュプラザの“ざぼんラーメン”でラーメンとチャーシュウ丼(チャイシュウをのせたご飯)を食べた。ジージに似て孫も大食いである。久しぶりだったので、おいしかった。いや いつもおいしいのだが・・・。帰りもバスで帰ったが、約4時間の珍道中は楽しいものだった。歴史ロード“維新ふるさとの道”の横を流れる甲突川の川沿いの道。遠景に桜島が見えるが、この日は曇りで今一つという感じの桜島だった。
2012.03.05
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