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霧島錦江湾国立公園の表示看板がある鹿児島県姶良市の重富公園に30年ぶりくらいにに行った。家族全部で徳山を引き揚げて鹿児島に帰ってきたのが昭和56年(1981年)のことだったが、その後すぐ今は亡き叔父など親戚10数人で重富海岸に行って以来である。ここの風景は変わることはなく、松林もそのままでほっとさせられる。鹿児島市からいつも眺めている桜島を、横から眺めてなにか桜島も新鮮に見える。連休で気候もいいので、釣りを楽しむ家族連れも多く出店も出て賑わっていた。 昼は蒲生に足を伸ばし、健康の駅「ファンタナの丘かもう」に行く。温泉・宿泊・物産館・レストランを備えた新しい施設で駐車場も広い。ここの写真は撮りそこなった。食べることに一生懸命だった?せいか。反省! 昼食のあと、午後4時からのおじさんコーラスの練習のため、3時までには一回自宅に帰らなければならないので、もうその時点で1時間くらいの余裕しかない。そこで、帰り道にある“重富麓”だけに寄ることにして、ファンタナの丘かもうをあとにする。重富麓については後日の記事にしたい。 帰りに国道10号線を走っていると突然(といっても今年はもう400数十回の爆発をしている)桜島が爆発した。デジカメを助手席に渡して写してもらった。 しばらく走って竜ヶ水あたりに差しかかると、このように流れて錦江湾上に流れてきた。この日は最終的に鹿児島市の吉野台地方面に流れた(降灰がある)のかな。 桜島を久しぶりにいつもと違う角度から眺めて、しかも噴火まで見るという一日になってしまったが、時間制限で行動が制約されたのが、悔やまれる。しかし、あれもこれも全てパーフェクトの楽しみたいとするのが無理な話だろう。
2012.04.30
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初夏のような好天に恵まれた今日、鹿児島市の清水城跡に行った。先日の南日本新聞に掲載された募集記事“「鹿児島清水城山城部跡」調査整備保存活用事業発足準備の集い”で参加者募集を見たのがきっかけだった。同じ南日本新聞の2012年2月15日の記事「かごしま昔と今 見つめる」に取上げられた草木に覆われた荒れ放題となっていた山城跡「清水城跡」の整備に一人で挑んでいるという肥後吉郎さんその人が連絡先になっていたので、すぐ参加を申し込んだ。 「清水城屋形(平城)」は現在、私の母校でもある清水中学校になっているのだが、「山城部」は中学校の裏部分に広がる山になっていて、荒れ放題だったのだ。それを近くに住む肥後さんが、「清水城を残さずに何を残すのか」との思いでノコギリやナタを手に行く手を阻む竹や木を地道に切り払ってこられたそうだ。実際行ってみると、切り開かれた道は本丸まで達していた。 今日の参加者は15人くらいだったが、案内を引き受けてくだっさたのが、現在は東京在住の三木靖先生だった。なんという幸運。先生は鹿児島国際大学短期大学部名誉教授であり、専門は中世城郭史。中世城郭史と薩摩島津氏の研究においては第一人者といわれている方である。 では清水城とはどんなお城だったのか。島津家6代当主島津氏久が嘉慶元年(1387年)やや内陸に居城を建てた。これが清水城である。清水城は平地にある居館と裏山に築かれた「後詰めの城」の二重構造になっており、その後の島津氏の基本形になった。その後、14代当主・島津勝久まで当主はこの清水城を本拠地にしていたが、天文19年(1550年)15代当主・島津貴久は更に海に近い内城に居館を移し、清水城の居館跡には大乗院が築かれ清水城の館部は廃城となった。(フリー百科事典・ウィキペディアに拠る)三木先生も強調されていたが、この城は約160年間島津本家が居城としていたので、整備して残すべき遺産であるとのことだった。私も同感である。尚、三木先生のブログ「山城散歩」の2011年11月編によると、昨年鹿児島史談会も「鹿児島清水城」を取上げたとのことで、その貴重な資料を今日いただいた。過去には、鹿児島県と鹿児島市の教育委員会が考古学的な発掘も行っており、私が思っていたよりも研究はなされているようだ。残された課題はいかに整備するかということだろう。 今日登る清水城跡を稲荷町公民館から見た風景である。山上の右に見える送電線鉄塔まで行ければというのが目標みたいだ。 登り口には、清水城の跡にあったという大乗院の磨涯仏が残されていた。 肥後さん手作りの竹の杖を持って急坂を登ったが、途中滑りやすい場所もあり、気を抜けない。しばらく行くと数箇所に石垣を見ることが出来た。長い石と短い石が交互に組まれており、テレビで見た滋賀の穴生衆の石垣の組み方だ。因みに熊本城もこの組み方だとテレビで放映されていた。 そこからしばらく歩くと空堀(からぼり)が続く。私はこれまで山城は3ヶ所しか行ったことはないので、詳しいことは分からないのだが、ここの空堀は三木先生の解説によっても、相当なもののようだ。 いよいよ「主となる曲輪(くるわ)の下に到着。この右上に城があったとのこと。 そこから右下に下って行くと、最初の写真にあった送電線鉄塔の下に到着。前の多賀山・東福寺城跡の向こうに錦江湾を挟んで、桜島の展望が開けた。鹿児島人にとって桜島は切っても切れない山だが、ここからの眺めも素晴らしかった。 そこから引き返すこと30分で集合場所だった稲荷町公民館に到着。公民館に上がって肥後さんを中心に三木先生の話を聞く。その後、今後の取り組みを皆で話し合う。とりあえず5月12日有志で、木を切ったり草刈をやって整備していくことにする。
2012.04.27
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今日は昼間我が雑草園にクレマチスが咲いていたので写真を写した。「野の花に親しむ」(5)の図鑑で見るとこれは「華燭の舞」か。 他にも雑草園の花を2,3種類写したので明日にでも一緒にアップしようかと思っていた。ところが今日休みだった次男が、谷山港に釣りに出かけていたのだが、夕方電話をかけてきて「凄いものが釣れた」「今は言えないが帰ってからのお楽しみ」と言う。待つこと暫し・・・20時30分頃帰ってきた。なんと錦江湾の“真鯛”である。体調60cm、重さ3kgある。しかも谷山港のヘリポート近くの海岸からの鯵釣りの遠投で釣ったという。本人のこれまでの記録、昨秋の“ちぬ”(黒鯛)の55cmより大きい。 そこで私も予定変更で今日アップしたようなわけだ。
2012.04.26
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好天に恵まれた今日、町内の高齢者親睦団体・どんぐりの会で鹿児島県肝属町の内之浦まで出かけた。その大きな目的は「内之浦春のえっがね(伊勢海老)丼祭り」に行ってえっがね丼を食べることだ。ただ内之浦に行くには私たちの住む薩摩半島から錦江湾をフェリーで渡り桜島のある大隅半島に行かなければならない。自宅のある団地からは車でも片道2時間30分かかる。つまり往復で5時間、行って帰ってくるだけでも5時間かかるのだ。鹿児島市の“高齢者福祉バス”を利用すれば一日7時間ドライバーつきで無料使用が出来る。今回それを利用することにした。しかし7時間で行って食べて帰ってくるには、もうほとんど観光などは出来ない。それを覚悟で総員12名で出発した。会員は20数名いるが、都合の悪い人も多く、約半数での内之浦行きとなった。 内之浦は日本的に有名な「内之浦宇宙空間観測所」のあるところとしても有名だが、今日はそこにも寄ることは叶わなかった。私個人としては2回見学をしたこともあるが、種子島とはスケールは違うものの素晴らしいところだった。その他にもこの周辺には国指定文化財「二階堂住宅」「塚崎古墳群」「高山城跡」や県指定、町指定の文化財がたくさんあるのだが、次回を期したい。 さて本題のえっがね丼だが、内之浦の12の飲食店が協賛し、店ごとに特徴は出していても単価は2500円に統一してある。期間は4月14日から5月6日までである。その中で、私達は“ときわ荘”を選んだが、そこは大当たり~だった。 帰りは高山の“やぶさめ館”に寄って思い思いにお土産を買って帰った。春というより、初夏の陽気の一日を仲間たちと楽しく過ごして定刻10分まえの4時20分に帰り着くことが出来た。
2012.04.23
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今日はうす曇の一日だ。妻にに誘われるままに散歩に出かけた。歩いていると、団地の一角にまだ家の建っていなくて、草茫々の場所の前にさしかかった。「ここで、前に“のびる”を採ったけど・・・」と言う。二人で目をこらしてみると、草の間に今年も小さなのびるを見ることができた。ささやかな量だが、料理をすれば、私の分だけはあるという。酢味噌で食べよう。 それで思い出したのが、前に書いたエッセイである。帰って見てみると、2,008年4月に書いていた。4年前のそれをここに書いてみる。 ーのびる(野蒜)- “のびる”を見かけて郷愁にかられ、手にとったのは数年前のことである。それは田んぼのあぜ道でもなく、野原でもなかった。郡山のドライブイン「八重の里」の売棚だった。朝採れの野菜のなかにそれをみつけた。4月初旬のことである。それは旬の筍などと一緒に並べられており、あの特徴のある白い根の少し大きめの球ですぐわかった。 妻に、籠に入れてくれるように頼み買って帰った。疎開先の母のの郷里・東郷で食べて以来のことで、おそらく50数年ぶりのことである。子供時代のことでその味も記憶にはなかったが、なぜか食べたくなったのである。酢味噌で食べたことも思い出して、その夜のおかずの一品になった。一口食べたときのあのツーンとする香りとヌルッとした食感は一気に東郷の春をよみがえらせた。お酒を飲めない私にも逸品である。 あのころの食料不足もあったせいか、大人たちに連れられてよく野草などを採りに行ったものだ。わらびや三葉せり、のびるなど大人たちにとっては食料不足解消もはかれる戦中戦後の心なごむ楽しいひと時だったのかなと思いたい。 しかし、思い出すのは、のびる採りに行って田んぼのあぜ道で聞いた空襲警報のサイレンの音である。私は敗戦の翌年の昭和21年の小学校入学だから、それをそこで姉や従姉妹たちと聞いたのはおそらく5歳のときのことだ。のんびりと春の日差しを浴びて採っていると突然のサイレンの音だった。逃げ惑うように皆で家に帰り、家の前の畑に従兄弟が掘ってくれた“たこつぼ”といっていた一人用の防空壕に入った記憶がある。戦争も終わりに近づくころになると家の20~30m先にある孟宗竹の林が爆風で揺れるくらいの勢いで飛行機が飛んでいた。そんな時は、たこつぼに入る間もなく皆で家の座敷に這いつくばっていた。それからしばらくして東郷の中心である舟倉の街も空襲を受けるのである。そんなことを思い出させる“のびる”との出会いであった。 再びのびるに出会ってそれを食べたことで、その味が忘れられず、春になると毎年「八重の里」に通おうようになった。それでもうっかり時を過ごしてしまうと、もう季節が終わっていたりする。今年の春は妻のコーラス仲間二人を誘って4人で蘭牟田池に花見にでかけ、途中「八重の里」で買うことができた。その夜さっそく酢味噌で食べて春の息吹を感ずることができた。ただただ感謝あるのみ。この平和に感謝し、のびるよ永遠なれ!という気持ちである。
2012.04.20
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当ブログ3月30日付けで“「薩摩義士」の史跡をめぐる”を書いたところ、やまももさんからコメントをいただいた。「前に木曽三川治水に果たしたオランダ人技師ヨハネス・デレ-ケのことを紹介したことがありますが、その人物に関して片岡吾庵堂『横目で見た郷土史』に『薩摩義士美談を、も一度検証する』という文章が載っていましたので紹介します」ということで、「同書は木曾三川治水にデレーケの名前が消えていった理由として・・・一つに明治のナショナリズムの台頭がある。外国人の手を借りて日本の河川を改修したというよりも、日本の川は日本人の手でというようなことから、デレーケの名が世に出なかったのでは・・・」と見解を紹介し「『案外真相で裏書きしているように思えてならない』とされている」としているとのご教示をいただた。 やまももさんの今回のオランダ人技師デレーケに関してのご教示は当ブログ2011年12月16日と12月19日に書いた“「孤愁の岸」(上・下)(杉本苑子著)を読む”を書いたときにコメントとしていただいていた。私もそれを頭には入れていたが、3月30日に“「薩摩義士」の史跡をめぐる”で再び薩摩義士を取上げたところ今回改めて上記のご教示をいただいた。感謝の他ない。そして多くの知識と教訓を得る機会となった。 それがきっかけで、私も、もう少し宝暦治水・薩摩義士について調べてみることにし、フリー百科事典・ウィキペディアで「宝暦治水事件」「ヨハネス・デ・レーケ」と「木曾三川分流工事」を見てみた。幕府が「御普請御手伝い」の名のもとに、木曾三川の治水工事を薩摩藩に命じ、工事が行われたのが、1754年~1755年である。実質的に工事が行われたのはちょうど一年といわれている。そして「砂防の父」とよばれたデレーケの来日は1873年であり、宝暦治水工事からは実に118年後のことである。木曾三川分流工事は1877年(明治20年)~1912年(明治45年)の26年にわたり、デレーケが作成した計画に基づいて施工された。つまり、薩摩藩がほとんど人力のみで一年間かけた工事を明治政府はある程度の機械力も使い26年かけて工事をしたことになる。どちらが実効のある仕事をしたかは、言わずもがなである。 そのような事情もあってか、宝暦治水の後も、木曾三川は洪水によって分流・合流を繰り返していた。その間も輪中地帯の洪水は放置されたままであり、その意味では薩摩藩が取り組んだ宝暦治水も実効をあげられなかったことになる。ただ薩摩藩が多大な借財を抱えたなかで、さらに40万両の費用をかけて、人的被害も大きかったのもまた事実である。だから薩摩藩の工事そのものが否定されるものではないと思うが、過大評価もすべきではない。 そのあたりの歴史的評価をどう見るかということだと思うが、私も先日、片岡吾庵堂「横目で見た郷土史」(言いたい放題でごめんなせ)を読んでみた。先ず “序文にかえて「天声人語」朝日新聞 1989(平成元年)12月23日”は次のような書き出しで始まっている。「英雄豪傑の典型といわれる西郷さん。その人について『西郷という人は大度量のある人物ではない。豪傑肌であるけれども度量が大きいとはいえずいわば偏狭』などという評を紹介したのだから、鹿児島の人は驚いたにちがいない」「薩摩藩の伝統的な教育では直線的な考え方が好まれ、思慮深い大久保利通型の曲線的思考は人気がないという」「例えば『絶対服従』『負けるな』は正しいか。笑いこそ健康な批判精神ではないか」「砂糖を耕作していた奄美大島での資料から島津氏の『圧政』にに触れ『バカの一つ覚えで名君ぞろいと言うのか』」「美談ばかりでなく、凡人と同様西郷さんも過ち多い人生を送ったと説明すべきだ、と片岡さんは考える『人々がいつまでも錦の御旗にしばられていては、発展はないと思います。何もない他県の方こそ自由な発想がある』筆をおいての弁だ」 これを読んで私は頭を一発ガツンとやられた思いがした。いろいろ考えながら歴史をみたり、考えたりしてきた私自身の中にもこのような考えが、なかったとは言いきれないないからだ。私自身にも偏狭な郷土愛? があったことに警鐘を鳴らされた、そこからきたものだったかもしれない。 そして“巻頭提言 郷土誌の「侯国史観」(こうこくしかん)は改まらぬか”に続く。「万世一系と称する天皇家中心の国歌主義的歴史観のいわゆる『皇国史観』、島津藩七百年の歴代の藩主の君侯たち(こんなに続いた大名家はほかにない)を島津に暗君なし名君揃いと賞賛する歴史観が一部を除いて罷り通っているように見える。これぞ皇国史観に代わる昔の君侯を崇め奉る「侯国史観」とも呼ぶべき歴史観ではなかろうか」とある。これこそがこの本の書いた著者の言いたいことなのだと思った。もって瞑すべしである。 いよいよ本題“「薩摩義士」を考える(一) 自決の理由は何だったのか”に入る「薩摩の総勢 947人。 内異郷での病死者 34人、自殺者 54人。病死者と自殺者は義士として祀られている。死者を除いた860余人こそ耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで最後まで仕事を完成したので、称賛されるべきだろうにその称賛はこの郷土では全然ない。『輪中』という研究書がある。輪中とは木曽川下流の堤防の中の集落のことだが、この本によれば明治新政府は明治20年から木曽川、長良川、揖斐川の三川分流工事をオランダの専門家ヨハネス・デレークを招いて総工費一千万円(当時)の巨費をかけて行わせた。その関連工事は大正時代まで続き最初の計画から実に35年にわたる大事業だった。(クマタツ注:前に別な資料から26年かかったと書いているが、歴史的なものは見方とか、あるいは時には権力のありようで書き換えられることが多い)これで完全な三川分流工事が完成したので、伊勢湾台風にも耐えたと、地元ではいわれているという」とある。 また“「薩摩義士」を考える(三) 「宝暦治水工事」はなぜ秘密に?”には次のようある。「県育英財団発行の『薩摩義士』の終わりに『鹿児島の地元では木曽川治水工事のことは早々と忘れ去られて、生きて帰った藩士たちは多くを語らず、犠牲者はささやかに弔っただけで、遺族は他言をはばかりました』と。岐阜の農民には富農もおり、権利意識も高かった。その農民に対して薩摩の農民なら 黙れ!の一言で済む問題も隠忍自重に耐えた薩摩藩士たちがストレス過剰になり自殺者が出たのでは、とした。そこで思うに藩の重役は帰国した藩士たちに緘口令をしき美濃の国で見聞した一切は絶対に他言はならぬと厳命したのではないか」といっている。 この本を読んで私の歴史を見る目を史実は曲げられないが、見方はもっと多角的に見なくてはいけないと思うことだった。いや もっと言えば史実と言われるものもこれまでの少ない経験の中でも史料によっては異なるものもあり、沢山のものをみる必要があるということだ。そして歴史の面白さと奥深さを感じる今日この頃である。
2012.04.10
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今日は町内の“どんぐりの会”の花見である。朝早くから車の灰落しなどなどして、集合場所の町内会集会所前に急ぐ。今日は総勢15名。5台の車に分乗して、10時前には出発した。目的地は、いちき串木野市の「観音ヶ池 市民の森」である。私は3回目になるが、半数の人は今回が初めてのようだ。10時半には現地到着、駐車場も時間が早いので5台一緒にとめることができた。 昼ごはんには早いので1時間くらい思い思いに花見としゃれ込む。私は4,5人と連れ立って観音ヶ池を一周する。上の写真のようにこの池を改修した昭和10年ごろは「観音ヶ迫池」と呼んでいたらしい。池の周りには「水天神」もあった。 12時前から始まった昼ごはんは賑やかなもので、飲む人はビール・焼酎・ワインなんでもござれ!である。飲めなくて運転手役の私たちにはノン・アルコールのビールが用意してあり、至れり尽くせりである。下の写真のような満開の桜と雲一つない青空の下、3時間楽しんで帰路についた。帰りにチェスト館に寄って季節の果物や野菜の買い物をするなど、最後まで楽しむことができた。
2012.04.04
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