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我が家の墓地は上の写真にあるこの場所が私の知る限りでは2ヶ所目である。私が物心ついた頃の墓はここから1kmくらい離れた北側にあった。もっとも同じ山には違いない場所だが、以前は比較的一般道路に近い場所だったが、納骨堂の写真のあるここは海抜では100mを超す山の上に位置する。ここに引っ越す前は納骨堂ではなく、個別の墓標があった。そこからここに引っ越したのは私が鹿児島を離れて転勤族として他所で暮らしていた時だった。そこが区画整理になり、そこも山の中腹まで広がる大きな墓地だったがここに引っ越すことになったのだ。蛇足ながらいまそこは一般の住宅の他、マンションがやまの中腹まで林立している。そのため私の母と両親(私の父の弟夫婦)がその墓に一緒に入っていた私の従兄弟と話し合って、全てを取り仕切ってくれたのだった。そして納骨堂にして先祖代々のお骨をまとめてここに納めたのだ。今回ここを墓じまいしたのは、2年前に亡くなった妻を納骨するために新しくお寺さんに納骨堂を買ってそこに妻を先に納骨していたのだが、そこに今回墓じまいをして、先祖も再火葬して納骨しよということにしたのだ。しかし、母と話し合った従兄弟も昨年亡くなってしまったので、その息子と今回話し合いを持ったところ相手も引き取って別にしようと思っていたらしく、話し合いは計画どおりに順調に進み後顧の憂いなく遂行できた。 下の写真は私の祖父の墓石を引っ越し後もそのまま使って表書きを「〇〇家之墓」としたようで、横に生年月日と没年が残されている。以前から知っていたことではあったが、今回改めて見てみると、生年月日と亡くなった日が同じ2月28日である。つまり、誕生日に亡くなっているのだ。それともう一つ興味を持ったのは、生年が明治4年(1871)という廃藩置県の年であることだ。明治維新の年から4年目に生まれたということで、そのような時代に生を受けた祖父がわずか私の二代前だったのかと思うと感慨深い。祖父が満6歳の明治10年(1877)に日本最後の内戦と言われる「西南戦争」が起こっている。2月に始まった西南戦争は9月24日の西郷隆盛の自刃を以って終結するのだが、わずか6歳、現代であれば小学校一年生に当たる祖父の周辺はどのようなものであったろう。祖母は私が小学5年生の時に亡くなったので、曾祖父や祖父から西南戦争の時の様子や庶民の生活などのことを聞いていたかもわからないので、聞いておけば良かったと思うが、後の祭りである。 墓地内には前の墓地から移したお地蔵さんも置かれていたが、これも今回の墓じまいでお願いした石材店において整理されてしまうのだろう。「長い間見守っていただいてありがとうございました。」と祈って墓地を後にした。
2024.11.19
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11月13日(水)私たち楠声会合唱団は朝10時30分、貸切バスに乗って霧島市に向かった。10日の長島町の総合文化祭に行った日は雨だったが、今回はいい天気に恵まれて高速道路を一路鹿児島空港のある溝辺まで走り、インターで降りて霧島に向けて進んだ。途中牧園町の町並みを抜けて、未だ紅葉に程遠い木々を眺めながら霧島温泉郷に入った。温泉郷の真ん中あたりにある高千穂小学校に到着、先生方の出迎えを受けて控室に入った。 学校全体の佇まいも素晴らしいが、控室は目を見張るような美しさである。特に天井の素晴らしさに目を奪われた。ここで小休止の後、仕出し屋の幕の内弁当を食べた。おじさんたちも嬉しそうに頬張った。 弁当を食べていると、もう一つパックに入ったモノが配られた。今回のコンサートのために尽力してくれた地元出身の団員でかって牧園町教育長を務めたTさんが関係する「牧園町特産品協会」からの心尽くしのプレゼントである。鹿児島で「がね」と呼んでいるが、サツマイモ入りかき揚げのことである。揚げた姿が「かに(鹿児島弁でがね)」に似ていることからこのように呼ばれている。地域や作る人によって材料や味も異なるが、共通点は「さつまいもを粉類を使い油で揚げたもの」ということである。昔から、正月料理に加えられるとともに焼酎の肴やお茶請けまた子供のおやつとして親しまれているが、クマタツおじいさんも大好きな食べ物の一つである。 学校行事の一環「芸術鑑賞授業」としての今回のプログラムは次のようなものだった。1,「高千穂小学校校歌」生徒たちと私たちと斉唱2,「輝く黎明」 楠声会合唱団団歌3,「ゆりかごの歌」4,「紅葉」と「冬景色」5,「箱根八里」 男声合唱の仕組みの説明 団員司会者と指揮者の下で「夕やけ小やけ」をパートごとに歌ったり全体で歌ったりして子供たちに仕組みを理解してもらった。 6,君をのせて7,旅立ちの日に8,群青 終わって実行委員長から「霧島神宮」に参拝して帰るとの話があり、バスは神宮に向かった。 この階段は、昔々 小学校の6年生の修学旅行で霧島神宮に参拝した時、階段にズラッと並んで記念撮影をした場所であり、その後、「大浪の池」に登るために全員杖を持って写っている。 私も車の免許がある頃は、ほぼ毎年、初詣に来ていたが、80歳で免許返上してからはそれも叶わずブログで振り返ってみると2021年12月に娘一家と参拝したとの記録があるので、ちょうど3年ぶりの参拝だった。
2024.11.14
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11月10日(日)あいにくの雨の中、予定が決まってから団員皆が楽しみにしていた「長島町総合文化祭」の開催される長島町文化ホールに向かった。縁あって、今年の文化祭に特別ベストとして招待を受けたのである。朝8時20分集合、8時30分発で鹿児島中央駅西口から貸切バスに40数名乗り込んで出発し、途中「道の駅・阿久根」でトイレ休憩、予定より早くホールに到着した。現地に直接自家用車で来た団員とも合流し、主催者のご配慮でバザーで販売中のうどんとご飯の接待で昼食を済ませて、練習に入った。午後から2番目の出番であったが、40分の予定が終わって時計を見ると15分オーバーの55分経過していた。進行上でご迷惑をおかけしたのかもしれない。 演奏曲目は次の通りで、今回は誰でも知っている歌がほとんどであった。団歌・輝く黎明 ゆりかごの歌 砂山 諏訪指揮者かあさんの歌 見上げてごらん夜の星を 言葉は 田中指揮者我が人生に悔いなし 群青 諏訪指揮者 楠声会のピアニスト 落口詩織ふるさとのうた(長島町民歌) 「コールうずしお」さんと合同合唱 指揮富永指揮者 私たちの予定では、演奏会の後、時間のよゆうもあるので「針尾公園」に行って天下の絶景を眺める予定だったのだが、雨のため止むを得ず針尾公園行き中止となった。ただ、雨の中だったが、島内の「だんだん市場」に寄り道をして皆思い思いに海産物のお土産など買い求めた。下の写真は行くことの叶わなかった「針尾公園」。この写真は今年3月1日、阪急交通社のバスツアーに高校の同期生8名で長島を訪れた時、写したもので、3月11日のブログに詳細を書いた。 ところで、明後日3月13日(水)は霧島市立高千穂小学校のスクールコンサートに出演予定である。
2024.11.11
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9月30日、ちょい旅に出たkくんと私は鳥栖で息子の車に乗せてもらって、午前中に佐賀県の祐徳稲荷神社と肥前浜宿、午後は吉野ヶ里遺跡公園を見学した。その後その日のうちに大分県の日田市に入るべく息子に久留米駅まで送ってもらって、久大本線に乗車した。乗って見てびっくり! 久留米発~日田止まりのローカル列車で途中から高校生なども乗り込んできて立錐の余地もないほどの込みようだった。日田駅からはタクシーでその日の宿・「日田天領水の宿」に向かった。上の写真はホテルの入口にあった「小鹿田焼」(おんたやき)。比較的ここに近い「小石原焼」と共に九州では陶器の産地として有名であるが、クマタツにとっては小鹿田焼」の産地は未踏の地である。小石原には数回行ったことがある。 日田の豆田町は「上町通り」(うわまちとおり)と「御幸通り」(みゆきとおり)の二つの通りが有名である。先に訪ねたのは「上町通り」。昔を偲ばせる建物が続く。 今回、Kくんが事前予約までしてくれて訪ねたのが「日本丸館」。国登録有形文化財である。木造四層三階建ての資料館に万能薬「日本丸」。昔の家や家財道具等を展示。三階の天望楼からは市内が見渡せた。 三階からの眺望 他にも見たいもの、見どころはたくさんあり、予定では城跡などピックアップして訪れる予定を暑さによる疲労のため端折った。今となると残念! この老舗の羊羹屋さん始め甘党の私を引き付けるお店やさんも全てスルーした。ただ、暑さしのぎに喫茶店に入りコーヒーをので小休止したり、もう一軒の喫茶店では生まれて初めての「タピオカミルクティー」の抹茶入りを飲んだりした。いつも写す写真も撮り忘れる有様だった。この後は大分市に入ります。
2024.11.06
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吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼市神埼郡吉野ヶ里町にまたがる丘陵地帯にあり、他にも北の背振山地沿いには多くの遺跡が存在しているという。私は、ここを40年くらい前に職場の旅行で訪れたことがあったが、この歴史センター入口(東口)に到着した時に、近代的なデザインに先ず驚いた。何という変貌ぶりだろう。 入場する時に手にした「吉野ヶ里歴史公園」というパンフレットには次のよう書いてある。「弥生時代は約700年間も続く長い時代です。吉野ケ里遺跡は、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見された学術的価値の高い遺跡です。集落が最盛期を迎える、弥生時代後期後半(紀元前3世紀頃)を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査結果をもとに復元整備を行っています」とのことで時代もわかりやすい。 弥生時代前期(紀元前5~前2世紀)吉野ヶ里丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生する。やがて南側の一画には環壕を持った集落が出現し、出現し「ムラ」から「クニ」の中心集落へと発展する兆しがみえる。 弥生時代中期(紀元前2~紀元1世紀)丘陵の南側を一周する大きな外環壕が掘られる。首長を葬る「墳丘墓」や、たくさんの「甕棺墓列」もみられる。集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから争いが激しくなってきたことがうかがわれる。 弥生時代後期(期限~3世紀)国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになる。これらの内郭には、祭殿や物見櫓などの大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたる。ここ吉野ケ里遺跡はまさにこの時代を再現している。 大きな甕棺が並ぶ 物見櫓 下の2枚の写真は物見櫓からの眺望 物見櫓の上にはガイドさんが待機しており、説明をしていただいた。
2024.10.19
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祐徳稲荷神社を出た私たちの乗った車は、ナビに従って肥前浜宿に向かう。同じ鹿島市内にあって15分くらいで駐車場に到着した。車から降りて浜宿に向かうと、国登録有形文化財というだけあって、昔にタイムスリップしてしまう光景が目の前に現れた。 浜宿通りに入ってすぐの左側に、継場(つぎば)という案内板のある旧家を見つけた。 観光案内所も兼ねたような家で、私たちと同年配くらいの女性のご老人が出て見えて、「家に上がって、家の中もどうぞご覧ください」との嬉しい言葉をかけていただいた。私たちも大喜びで家の中を見学させていただいた。 この部屋の天井は「船底天井」というそうだ。 この部屋の天井は「吊り天井」 「酒蔵通り」とも呼ばれるだけあって現在も操業中の酒蔵が多い。 郵便局跡 以上、ここに書いた肥前浜宿・酒蔵通りは江戸時代から昭和時代にかけて酒や醤油などの醸造業を中心に発展した地域だという。現在は「富久千代酒造」・「光武酒造場」、「峰松酒造場」(肥前屋)という3つの酒蔵(2酒造会社)が製造をを続けている。お酒の無料試飲や購入、酒蔵スイーツ、酒蔵見学などが人気で国内外から観光客が訪れている。また写真で見るように昔からの白壁の建物が美しく、写真撮影のスポットとしても知られている。春には「酒蔵ツーリズム」(肥前浜宿花と酒まつり)というイベントが開催され全国から8万人以上の来場者が訪れる。肥前浜宿の酒蔵通りは、すぐ近くの「肥前浜宿・茅葺の町並み」と共に歴史的に価値のある地域として国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。 この項の参考資料ー佐賀県鹿島市公式観光サイトから 上記の説明にあった「肥前浜宿・茅葺の町並み」は今回勉強不足で事前に知ることができていない。そこでネットから下の写真を拝借した。ここには旧乗田家住宅(江戸時代後期の武家屋敷)など茅葺の町並みが見れるそうだ。次回、機会があれば又、酒蔵通りとは違う雰囲気を味わうために訪ねたいものだ。
2024.10.12
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9月28日(土) Kくんと鹿児島中央駅で待ち合わせて7時42発の新幹線「さくら544」に乗り佐賀県新鳥栖駅に9時8分に着いた。わずか1時間26分で鳥栖まで行ってしまう新幹線は有難い。そこに現在鳥栖に単身赴任中の息子に来てもらっていた。この日「祐徳稲荷神社」と「肥前浜宿」(ひぜんはましゅく)、「吉野ヶ里遺跡」に車で連れていってもらうようにしていたからだ。 祐徳稲荷神社への参詣は2018年以来、6年ぶり2度目である。一回目のことは、当ブログの2018年5月3日に「福岡の結婚式を終わって佐賀県へ 祐徳稲荷の巻」に書いている。下の写真はその時の一枚である。 祐徳稲荷神社は佐賀県鹿島市にあり、伏見稲荷、笠間稲荷と並ぶ日本三大稲荷の一つである。商売繫盛、家運繁栄、交通安全、縁結びなどのご利益ありと信仰されており、年間300万人の参拝者がある。 創建は貞享4(1687)年。鹿島藩主鍋島直朝(なおとも)の夫人・花山院萬子姫が京都から輿入れする際、京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神から分霊されたものである。 木々の緑に映える建物の緑鮮やかな朱色が印象的で、神殿、拝殿、楼門など主要な建物は総漆塗りであり、「鎮西日光」とも呼ばれている。 「楼門」前では赤ちゃんの「お宮参り」のめでたいシーンを見ることもできた。 2018年に行ったときにはなかったガラスの光る建物が建てられていた。何かと思ったら有料のエレベーターだった。ここをエレベーターで昇っても奥の院までは、まだ相当の距離がある。こういうのも老大国の一つの光景か? 楼門を真正面から見る 緑に映える朱色の建物は、九州ではここが一番だろうと感じさせる光景である。
2024.10.04
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8月29日に鳴り物入りで鹿児島地方を通過、迷走しながら日本中を騒がせて駆け抜けた台風の被害が我が家にもあった。我が雑草園と家を囲んだのは、家を建てた当時、板塀ではなく全て「かいづかいぶき」だった。ただ、娘のところの二人の孫たちが幼い頃、婿の勤務地が地方や奄美大島だったりしたので、夏休みを中心に休みを過ごすのは、ジジ・ババの住む我が家だった。そこで我が家では少し大きめのベランダをつくることにした。その時、今板塀にしてある部分のかいづかいぶきを抜いて、現在よりも高い板塀にしたのだった。夏はビニールのプールを作り、寒い冬はゴザを敷いて日向ぼっこをし、たまにはバーベキューパーティーをしたりして楽しんだものだ。しかし、所詮は木造のベランダである。孫たちが大きくなるにつれて使う機会も減ってきた頃、老朽化してきたので、これらを取っ払って、また雑草園に戻してしまった。そして、かいづかいぶきも板塀もなくなったこのコーナーだけがポンと空いてしまったのだ。そこで二男がうまく工作して作ってくれたのが今回台風で半分破壊されてしまったのだった。今回の台風被害から約2週間、我が家の前のゴミステーションに毎日ゴミ捨てにみえる近所の方々の目にはどう映ったかわからないが、朝から洗濯物を干す私の様子が見える状態だったので、見て見ぬふりをする人が大部分だった。ただ親しい人は声をかけてくれたりした。そして、この3連休の中日の昨日、二男が材料購入に行って、半日がかりで見事に補修してくれた。たまたま買い物に行く車の中から見かけたという、いつも親しくしているIさんから「ご苦労さん」ということでビールの差し入れをいただき、息子は大喜びだった。Iさん、ありがとうございました。 話は変わって、先日の南日本新聞に今年も「彼岸花」が咲いたというニュースが掲載された。それを見て、「毎年咲いてくれる我が家の彼岸花は今年はどうだ?!」 ということですぐに雑草園を見た。一輪だが、おお 咲いている。急いで出てみるともう一輪咲いている。周りを見渡すと、あと2輪つぼみがある。今年までは何とか季節を忘れずに咲いてくれたようだ。 そして、雑草園を見渡すと、先日「蕗さん」に教えていただいた花の名前「カリナタ」がまた咲いている。カリナタは、間を置きながらこれで3回目の開花である。彼岸花もカリナタも私を慰めてくれる嬉しい花だ。 風勝
2024.09.16
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(台風一過、我が家に咲いた花々の写真4枚) 8月もアッという間に終わってしまった。その8月のブログはお盆明けの16日に一回書いただけで終わってしまった。ほとんど雨が降らず、晴天で高温の続いた8月だったが、月末になって前宣伝で大きな台風が進路を変えて南九州方面に来襲するということで、慌てふためいた8月でもあった。県内でも最大で20万戸を超す家庭での停電が発生し、所によっては2,3日の停電を余儀なくされたようだ。我が家は29日の明ける前の深夜に10数分の停電で済んだ。 それより前、7月中旬に私の左耳が塞がったような感じで突然聞こえなくなってしまった。そういう状態のまま日曜日には定例のコーラスの練習にも出かけた。ところが家では会話にも大した不都合はないと思っていたのが大きな間違いで、コーラスで大きな声を出すと頭の中でガンガン響き渡って歌うどころでなかった。その後も2日くらい様子をみたが、元に戻らないし、不快に感じたので、耳鼻咽喉科を訪ねた。生まれて初めて「聴音検査」なるモノを受けて病名がついた。「突発性難聴」という。ビタミン剤などを主力とする薬を1週間分調剤してもらって真面目に服用し、一週間後に再び病院へ。再度聴音検査があり、グラフを見せられたが、だいぶ良くなっていた。そこで再び同じ薬を今度は2週間分調剤され続けて服用した。すると、いくらか違和感はあるもののほぼ日常生活には影響はなくなった。 9月1日(日)この日は日置市公民館での練習日だったので、いつも車に同乗させてもらう仲間にも連絡して1ヶ月ぶりに練習に参加した。案ずるより生むは安し? 普通通りとは言わないまでも、まあまあ歌うことができた。現在は東京楠声会が東京で10月20日に開催する演奏会に向けて鹿児島からも助っ人で行くので、その曲を中心に練習している。私も年齢からして東京の演奏会に行くのは最後かもと思って、意気込んでいたが前記のようなような事情で今回も参加は取りやめた。しかし、これから秋に向けて、地元鹿児島でも地元の文化祭や小学校でスクールコンサートなど3つの演奏機会があるので大いに楽しんで歌いたいものだ。
2024.09.05
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お盆に先祖の霊を迎える「迎え火」と「送り火」には宗派や地方によって様々なようだが、我が家は私が物心ついた頃から一回も欠かしたことのないやり方を守ってきた。 今年のお盆も二男と二人で13日の夜早くに迎え火を焚いて、15日は迎え火より遅い時間に送り火を焚いて先祖を見送った。孫たちが小さかった頃は、毎週土曜日には泊まりに来ていて、特にお盆や正月はしばらくの間、泊まり込んでいたので、私たちがするそういう行事が大好きで大騒ぎしながら賑やかにやっていたものだ。二男と二人でやる昨今のことだが、もう返らない昔が懐かしい。 それより前、13日の午前中には、先祖の眠る墓参りと、妻が眠るお寺さんの納骨堂に二男の運転する車でお詣りをしてきた。昨年手に入れたお寺さんの納骨堂には現在、妻が一人眠っているが、先祖の眠る昔からの墓地は、この秋にも墓じまいをして、お寺さんの納骨堂に移すように手配済みである。 14日は、恒例の家族だけの集まりを我が家の仏壇の前で行い、今年は8人が集まった。娘のところの長男(孫)は東京にいるのだが、お盆の前の8月7日に帰ってきて12日には、もう上京して行った。長男(私の息子)の長男(孫)は沖縄の大学にいるのだが、今年も母方の実家がある与論島に行ったのか帰ってこなかった。 この日は娘と長男の嫁が手分けして料理を作って持ち寄り、我が家に来てから手を加えたりして、大賑わいの昼ごはんとなった。おかげで日持ちのする料理は昨日15日も、今日16日まで私たちが御馳走になっている。妻が亡くなってからの盆・正月はこの形でやってきたのだが、娘が言うには「この形はお父さんが生きている間は続ける」とのことなので有難く甘えることにしようと思う。
2024.08.16
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(我が家は東南の角地にある。上の写真は東側で手前には玄関がある) 2022年の冬に市のシルバー人材センターにお願いして人を派遣してもらい壁代わりに植えている「カイズカイブキ」や庭(雑草園)にある2本の大きな木など3人がかりできれいにしてもらってから1年半が経った。これまでは2年か3年毎にそれらをやっていたのだが、今年の雨の多さや、その後の猛暑のせいなのかいつもに増して「かいづかいぶき」の下部に生えている文字通りの雑草や雑木が繁茂して我が家の前にある「ゴミステーション」にゴミ捨てにくる人たちの邪魔になりそうな気配になってきた。そこで今年は早めに剪定してもらおうかと電話をして見積もりに来てもらった。その方は、いつも来ていただいた人ではなく、初対面だったが、見回るうちにこ前回の書類を見ながら「前回は3人で一日仕事になっている。今回は最低二人での仕事になるが、いつもの相棒が入院してしまったり、その他の人も身体が空いていない。暑さもあるし秋口に伸ばしたいがどうでしょう」とのこと。私もそれに賛成して、とりあえず秋までまつことになった。 そこで考えたのが、カイズカイブキの下からのぞいているツツジやその他の雑草類を自力でやっつけようということだった。7月24日(月)二男が勤務に出た後の7時30分くらいから1時間少しの時間で東南の角地に位置する我が家の二面の下草を刈り取った。 (下の写真は南側で、ゴミステーションが画面の左側にある) ここからは余談になるが、これらの写真を写していつものようにパソコンに取り込もうとすると、どういうわけか「ファイルシステムのエラーです」と表示され何回試してうまくいかない。それから昨日25日まで4日間ウェブ検索を繰り返し調べて、やっと再び取り込むことができた。パソコンだけではなくメカに弱い元々不器用な私にしては画期的なことである。(ここでも自画自賛!)しかし、再度同じようなことが起こればまた何日もかかるだろう。
2024.07.26
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昨日19日も午前6時起床。このところ午後8時30分には寝るようにしているので目覚めは午前4時だったりするが、まだ早すぎるのでもうひと眠りしようとなる。しかしもう睡眠が足りているのかその時間からは眠ることは出来ない日もあり、そういう時は2階に寝る二男に気兼ねすることもないので、一人起き出してスマホを見たり、パソコンを起動させたりで6時までの時間を潰している。ただ年齢の事も考えて出来るだけ5時までは寝床を離れないように努めてはいるところである。 この日は以前から決まっているいわゆる「きょういく」「きょうよう」はなかった。まあ大体毎日がそうなのだが、水曜日と土曜日はグラウンドゴルフがあり、日曜日はコーラスの練習がある。ただ毎日の「簡単な炊事」や「あとかたずけ」や「洗い物」、決まった曜日の「分類したゴミ出し」一日置きの「洗濯」と金曜日にする「電気掃除機」がけなどそこそこ気の抜けない毎日ではある。こうしてみると毎日主夫としての仕事もあるので、ボケている暇はない。最近はこのようなことが気にならなくなり、身についてきた。一歩前進?! そのようなことからグラウンドゴルフのある妻の月命日の20日土曜日を避けて一日早く妻の墓参りを今月は19日にすることにした。10時5分のバスに乗るべく歩いて1分くらいのバスの始発場所に向かった。鹿児島県は現在九州一のコロナ流行地となったとの報道もあり、年配者の多いバス利用者は皆さんマスク着用である。私自身も散歩や買い物に行くのにもマスクを外したことはないが、街では若い人を中心に素顔をさらした人が多くなっている。 バスに揺られること20分くらいで妻の納骨堂のあるお寺さんのすぐ近くのバス停で降りる。そこから歩くこと3分くらいでお寺さんに到着する。この日は本堂に人影はなく、一人静かにお参りする。その後2階の納骨堂にお参りし線香を焚き静かに手を合わせる。 そこから鹿児島中央駅へは歩いて5分くらいの距離である。買い物もあったので鹿児島中央駅方面に向かう。昔朝市があったころから行っていた場所に今でも賑わう一角がある。そこでいつも買っているものをいくつかいつものように買う。そして駅のアミュプラザへ。ここには自宅の近くにもあるスーパーがあって、毎朝食べる決まった食パンがあるのでそれを買いに寄り、ついでに総菜を2,3品買う。これで今晩はご飯を炊くだけでいいので助かる。自炊の為の食材と出来合いの総菜を買うのと組み合わせながら一応栄養にも気を使っているつもりでもある。外食は昔よりむしろ少なくなった。昨日の帰りも11時22分のバスに乗り昼には帰宅して、いろいろ組み合わせて一人昼食を摂った。この日も帰ってスマホの万歩計では4000歩近く歩いていた。 めでたし! めでたし!こういう動きの真夏の一日だった。
2024.07.20
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今年も我が雑草園にいつの間にか鹿子百合が咲いているのを発見。最近ますます雑草園化した我が庭を思い立ったように草取りをするのだが、単なる雑草といわくありげな植物とはこの私でもいくらか解る。そのためいわくありげな植物はそのまま残して雑草らしきものだけを征伐するので、その成果が出てこのような美しい鹿子百合を今年も見ることができた。 それに加えてもう一つ嬉しいことがあった。昨年初めて植えたアサガオだったが、今年は時期を逸して植えていなかった。ところが昨年の落とし種から芽を出したと思われるアサガオの花が見事に咲いてくれた。喜んだ私は昨年花が咲いた場所に他には育った新しい芽はないかとそれこそ目を皿のようにして見て回った。あった! あった!しかし、育ちが悪く今のところこの写真の2輪以降は他で花を見ることは出来ていない。 今年の鹿子百合はいつにも増して数が多い。下の写真のような花がもう一ヶ所あり、そちらも綺麗だ。
2024.07.19
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あの吹上浜の夕日の向こう側に消えってしまったのか。6月15日、LINEにKくんから入ってきた文面に驚いた。なんと闘病中だった「本〇どん」が13日に亡くなったとの知らせだった。昨年末から病状が思わしくなく入退院を繰り返されてはいたものの、病床からいつもと変わらぬ几帳面な文章を送ってくれていた本〇どん。最後となったLINEは、6月8日(土)の早朝だった。しかしこのLINEは他の人に送ったつもりだったようで数時間後に本人から「ごめんなさい!! 宛先を間違えています!」という断りの送信が届いた。それと別なLINEにも次のような文章が届いた。同じ日の前の間違いLINEより早い時間の夜中の2時26分となっている。「〇〇どん! ありがとう 最近の舎友のO氏やM氏に近づいています。今後については、もうすぐ自分では、諸々の方々の所に楽しくも波乱万丈を乗り越えて来たとの自負をもって、堂々と参上します。その想いで一杯です」 これが私たち仲間が見た本〇どんの最後のLINEになってしまった。この○○どんは高校が私たちと同期であり、本〇どんとO氏やM氏と一緒に東京で学生時代を同じ寮で過ごした舎友のことである。当時このLINEを読んだときは、それまでの本〇どんの少なくともLINE上で見る限りはそれほど深刻な状態とは思いもせず軽く見ていたが、今読み返してみるとご本人は覚悟を決めていたのかなと思われてならない。 私と「本〇どん」との出会いは、私が2011年の秋頃からそれまで好きだったが時間もなく調べることもなかった鹿児島の歴史を退職もして時間も出来たので史跡めぐりも始めたことがキッカケである。そして4年間特に島津家や西郷隆盛のことを中心に本を読んだり、史跡を訪ねたり、講演会に行ったりして、ブログの記事にも薩摩の歴史のことが多くなっていった。振り返って自分の手帳を見ると2015年11月に本〇どん在住の日置市吹上町永吉にある歴代永吉島津家の墓地である「天昌寺跡」を訪ねている。その時、墓地の一角にビニールの袋に入ったものが置かれているのが目についた。外から見るとマジックで何か書いてある。よくよく見ると「この天昌寺跡墓地を見学の皆さんへ」とあり「電話をくだされば駆けつけて説明を致します」というような趣旨の事が書いてあり電話番号も書いてある。当時の私はパソコンは持っていても、小さな文字でやり取りする携帯電話は苦手で持っていなかった。その後、家に帰って電話をして、メールアドレスなども交換しメールでのやり取りが始まった。そして本〇どんのブログ「中期高齢者である田舎人のタワゴト」も知ることになる。お互いのブログへのコメントも書き込むようになって、交流は深まっていった。そのやり取りの中で、2016年の南日本新聞の元旦の紙面に永吉島津家二代目・豊久の記事が掲載されるということを知る。そしていよいよ2016年の正月はきた。なんと新聞の第5部に二面ぶち抜きで「最強イケメン島津豊久」というタイトルの記事があり永吉島津家の二代目豊久(島津四兄弟の義久、義弘、歳久の末弟家久の子)のことで埋め尽くされている。このように島津家に連なる一分家の豊久がこれほど大々的に取り上げられられたのにはわけがあった。曰く「戦国時代の薩摩の武将・島津豊久が脚光を浴びています。関ケ原の合戦で奮戦し、命と引き替えに叔父の義弘を守りましたが、知名度は高くありませんでした。最近、漫画やゲームで新たな命を吹き込まれ大暴れしています。豊久人気の秘密に迫ります」ということで地元の南日本新聞が大々的に取り上げたようだ。その記事の中で、この島津豊久が眠る「天昌寺跡墓地」を掃除をしたりして守る「永吉南郷会」の会長へのインタビュウー記事があるが、その会長が本〇どんである。(当時)この記事の詳細は当ブログの2016年1月4日に「最強イケメン島津豊久、お正月の紙面を飾る」に書いたので興味のある方はご覧ください。 (天昌寺墓地の一番奥にある島津豊久の墓碑) 2016年1月7日、いよいよ本〇どんと会うことになり、私は天昌寺跡墓地に向かった。駐車場で待っていると本〇どんが人なっつこい笑顔で車から降りて見えた。その2ヶ月くらい前からメールやお互いのブログのコメント欄への書き込みで大体のことはわかっていたので歴史好きの高齢者同士の初対面だったが何らこだわりもなく話をすることができた。天昌寺墓地跡を改めて案内していただいて益々興味は深まった。その後、「大辻石塔群」も是非見たもらいということで本〇どんの車のあとについて行った。なんとそこは広い畑の片隅に珍しい石塔群が並べられていた。島津忠良(日新公)に敗れるまでの300年間、日置南郷を支配していた桑波田氏一族の石塔をここに集めたものでここも永吉南郷会によって守られているとの話で感動した。ここの詳細は2016年1月9日の当ブログに詳しく書いた。 その後、本〇どんのお宅にお邪魔したのだが、大学から東京に行かれて就職し、定年後に鹿児島に帰ってこられてから先祖代々の地に建てられたという愛宕山を望む絶好の地にある広い広いお屋敷に驚いた。初めてだったのに厚かましくも上がり込んでいろいろな話が弾んだ。同じ年齢で高校は違ったが話をして見ると共通の友人・知人の名前が次々に出てきたのもある意味鹿児島の狭さだろうか。そのこともあって一層親しさも湧いた。 長くなったがこれが「本〇どん」との出会いであった。それから数えて8年半、私の高校の同期生を巻き込んでの楽しくも意義のある交流が続いたのだった。東京から帰ってきた同期の仲間とKくんなど一緒に訪問したのが二回目だったかな。ある時は、Kくんの関係する日中友好協会の関係者である中国人の留学生も一緒に本〇どんの屋敷を訪問し、梅やビワの収穫をし、昼にはバーベキュー大会をしたこともあった。特に印象に残っているのは、2021日3月14日の事である。この日も私たち同期生数人は「本〇どん」の案内で「黒川洞穴」「西郷隆盛御座石」「西郷殿屋敷跡」「天昌寺跡墓地」「梅天寺跡墓地」(永吉島津家初代・家久が眠る)「南郷城曲輪跡」「六地蔵塔」「小松帯刀の眠る梅林跡墓地」などを訪ねた後、夕陽の沈む吹上浜に行った。その時写したのが上の写真である。左がMくん右がKくん、波打ち際にいるのはNさんかな?この吹上浜の夕陽は忘れることができないものとなった。本〇どんの奥様がいくらか落ち着かれた頃にお参り方々吹上浜を訪ねようと仲間同士で話をしているところだ。 もう一つ大きな忘れることができない思い出がある。 (甑島のトンボロ)それは、本〇どん、Kくん、Mくんと私の四人で行った甑島2泊3日の旅である。当ブログに2021年11月5日から12月1日にわたって13回の旅行記を私も書いているが、当時も本〇どんは、持病の脊椎管狭窄症に苦しみながらも車の運転は達者で初日は探すことができなかったトンボロ(陸繫砂州)を再び探すために凸凹で坂の上り下りを本〇どんの運転で探し出すことができた。何事にも熱心な本〇どんは、旅の宿でも帰りのフェリーの中でもKくんからスマホのことをいろいろ習得しようと教えを受けておられた。この旅が本〇どんとご一緒した最初で最後の旅になってしまった。 本〇どんの永吉島津家を中心とする歴史の研究は本格的で県内各地の歴史講演会に呼ばれて講師を務めたり、また島津義弘や豊久などが戦った関ケ原の戦いや大分の戸次川の戦いの現地に出かけて当時の敵方の子孫と交流したり現地の慰霊をしたり、その実行力にも驚くほかない。 一方音楽にも造詣が深く、奥様共々音楽の都・ウイーンを何回も訪ねて♬に浸り、当地鹿児島国際大学のオペラの講座に数年間通ったり、若手の音楽家の育成に努めたりもされた。またヘラブナ釣りにも思い入れが深く、出水や地元の山奥の湖に出かけてはヘラブナと対話をされる一面もあった。そして、各地で出会った友人を大切にされて毎年の年賀状は数百枚に及んだという。筆まめで、歴史の講演の資料も全て手づくりで枚数も多くわかりやすく、また全国の友人に「近況報告」としてその時々の事を送っておられた。私にも付き合いが始まってから大型封筒に墨字の宛先・名前を書いて送ってきたものだ。いつも頭の下がる想いで感激しかなかった。 最後になったがT高校卒業の「本〇どん」は、上記のようなつながりから私たちG高校の卒業生でつくる「G高校八期会」の特別会員! あるいは賛助会員! 異色会員! として私たちの3つのlINEに入り、新風を吹き込んでいただいた。感謝。 本〇どんのご冥福をお祈りいたします。 合掌
2024.06.24
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今日は父の日。妻亡き後の去年の父の日もそうだったが今年も忘れずに子供たちが訪ねてきて「父の日のプレゼント」をもらった。長男家族は、先週訪ねてきて素敵なポロシャツをプレゼントしてくれた。母の日にもそれぞれ訪ねてきて仏壇に線香をあげた後、素敵な飾りのついたお供え物をしてくれた。それが全く同じメーカーのデザイン違いと思われる可愛いもので、仏壇の左右にそれぞれ置いてある。妻が好きそうなものを子供たちはよくわかっているなと、一人で納得した。 そして父の日の前日の昨日、娘から電話があり、「今日の晩御飯はもう決めたの」と聞く。まだ午前中だったので、夜のご飯のことまでは考えていなかったので「まだ決めてないよ」と答えた。すると娘が「もうお父さんは着るものは山ほど持っているから、今年は山形屋デパートで開催中の東北の物産展の海鮮弁当にしようか」という。私は「それがいい! それがいい!」と答える。すると昼前には、娘が同居する二男の分までかかえてやってきた。滅多に口にすることのない東北の豪華な弁当を夜食べたがおいしさもボリュウムも満点。一緒の届けてくれたケーキはお腹いっぱいで今日の10時のおやつにした。二男からはもう一足欲しいと思っていたスニーカーのプレゼントだった。こうして今年の父の日も子供たちの嬉しい心遣いで最高の一日となった。感謝!! そして今日の夕方、ピンポーンと鳴るので玄関を開けると近所のグラウンド仲間のお一人が立っておられる。「田舎から送ってきたからどうぞ食べてください」との差し入れだった。男所帯では季節のものを食べようという気も回らず、まだ今年はスイカも食べていなかったので、晩御飯のあと美味しくいただいた。ほんとにい一日だったなあ。明日からまたがんばろう。
2024.06.16
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今年も私の大好きな花が知らないうちに咲いていた。そういつも梅雨時になると忘れていても咲くノウゼンカズラである。そしてブログは、やっと1500回の節目にたどり着いた。 振り返るとブログを書き始めたのは、2008年4月9日である。今からちょうど16年前のことだ。その日の表題は 「今日から始まり」 となっている。 「空はどんより。でも気を取り直し今日から始めよう」という書き出しだ。これは、それまでも何回かブログに挑戦しようと思いながらいろいろ気を巡らしながらなかなか始める勇気がなかたので、書きはじめるにあたってこのようなことを書いたのだろう。 書きはじめの頃のブログを読み直して見ると、写真もなし、日記風で当時現役は引退したものの関連の仕事で月に一回、九州の各地をまわっていたため3日~4日の出張があった。その出張の日を除いてほぼ毎日書いている。気真面目な頃もあったものだと自分でも感心する。娘のところの男の二人の孫が小学1年生と4年生であったことや、その娘一家と当時借りていた市民農園に行ったことなどを書いていたので懐かしさが込み上げてくる。その二人の孫も長男は東京で、二男は今年から鹿児島で社会人として働き始めた。たった16年の歳月がこのように人の境遇を変化させるものだと思うと感慨深い。 こうして振り返るとたった16年の間に私のブログのスタイルもいろいろな変化を遂げている。旅のこと、男声合唱のこと、グラウンドゴルフの事など自分のライフワークとなっていることも書いてきた。特にそれまでも好きだった「薩摩の歴史」にはまり島津家や西郷どんのこと、鹿児島の歴史遺産である石造物などを探求し始めたのは2011年9月頃からである。またそこから派生する日本の歴史や古代史、中国の歴史など諸々のことに興味を持ち始めたが、もう残された時間も少なくなった? 現在 気持ちだけででは前に進むことができず焦り気味の毎日である。 私の1500回のブログは毎日、しかも何千回も書き綴っておられる先達の皆さんには及ぶべくもないが、これからも少しづつでも書いてみたいと思う。
2024.06.10
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5月20日(月)東京から久々の里帰りという高校同期のAさんを迎えていつものMくん宅で少人数の同期会が開かれた。同じ東京に住む娘さんと一緒に帰鹿し妹さんの家にしばらく滞在しているという。何回か同期の旅行でも参加していて、すっかりお馴染みの顔であるが、鹿児島在住の私たちとは久々の対面である。 今回はMくん宅での集まりの常連であるNさんは、手術を目の前にして欠席、高校は違うが同期の賛助会員である本〇どんは入院中ということもあり、少し寂しい集まりとなったが、新しく10年くらい前に帰ってきて指宿に居を構えたKSくんがこの会に初めて参加し、いつもと同じくらいの人数での集まりとなった。 春の日をさんさんと浴びたMくん宅の庭園はいつもと変わらぬ姿で私たちを迎えてくれた。季節ごとの花々が美しい。 奥まった場所にある「地神」「水神」にも挨拶してから玄関を入った。 話題は次々に展開したが、昨年の東京旅行の話題や1月にここMくん宅で同じように歓迎した東京から帰ってきた同期生同士の夫婦・MD夫妻の話など話題は尽きず12時から午後4時まで4時間も続いた。しかし、この歳になると体調のことで一番盛り上がるのは仕方のないことか。 今回もMくんご夫妻には大変お世話になった。特に「冷そうめん」用の回る機械を2台も用意してもらって、そうめんもわざわざ「島原そうめん」を用意してもらっていて冷たいそうめんに舌鼓を打つことができた。感謝の他ない。今回、可愛いワンちゃんが3匹新規加入で鎮座していた。
2024.05.26
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4月28日(日)鹿児島市の宝山ホールにおいて、「創立70周年記念 第11回 楠声会合唱団演奏会」が開催された。楠声会(なんせいかい)合唱団は鹿児島大学男声合唱団 フロイデ・コールのOBによって結成された合唱団で現在でも全国に500人近くの会員を擁している。 コロナ禍までは、3年ごとに開催してきた定期演奏会が今回は何と6年ぶりの開催となった。当日全国から集まった110人の団員は93歳を筆頭に80歳越えが30人くらいの正に熟々年のメンバーである。 そういう中で、5ステージ24曲とアンコール一曲の全25曲をほとんど休憩時間もなく歌い上げることができた。私が言うのもなんだがまだまだ捨てたものではない。この老人パワーはどこから来るのか。 私の友人である大石くんが撮影してYouTubeに投稿してくれた一部を紹介します。他にも撮影してくれた人がいて「楠声会合唱団演奏会」とYouTubeに入力すれば見ることができます。
2024.05.18
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私の所属する男声合唱団・楠声会合唱団(なんせいかいがっしょうだん)が4月28日に6年ぶりに演奏会を開催する。コロナ禍前までは3年に一回のペースで開催してきたが、実に6年ぶりということで、私たち老人の多い合唱団にとっては貴重な6年を失った年月でもあった。 称して「創立70周年記念 第11回 楠声会合唱団演奏会」である。 私たちの楠声会合唱団は鹿児島大学男声合唱団・フロイデ・コールOBで結成されて以来70年という記念すべき年を迎えた。フロイデ・コールの創設者で指揮者となり、楠声会結成後は永年に渡り会長を務められた根本千春(故人)先輩の著書「青春のフロイデ」によると、「フロイデ・コールの第一回卒業生は昭和28年に卒業している。その次の年の昭和29年(1954)に西部合唱コンクールが地元鹿児島で開催されるにあたり、卒業生や上級生を中心に一般同好の方にも加わっていただいて鹿児島グリークラブが結成されコンクールに出場し3位に入賞した。これが楠声会の母体なので、この年を創立とすればフロイデに遅れること5年ということになる」とある。つまりはその1954年から昨年が70年になったので、今回の演奏会を70周年記念と銘打ったわけである。 全国に500人を超す卒業生がいるが、今回はそのうち年間を通して毎週日曜日に練習をする鹿児島の60人くらいを中心に全国各地でCDなど使って練習したり、これまで2回土・日を使って地元鹿児島であった強化練習に参加したりした鹿児島以外の会員も集まり100人を超す九州では珍しい男声合唱を披露する。
2024.04.09
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この日のバスツアーは阪急交通社と長島町の共同企画だったが、チャーターされたバスは霧島観光交通のものだった。添乗員さんも運転手さんも親切で心ら旅を楽しむことができた。感謝! 行人岳に行く前に「道の駅 長島ポテトハウス」から東シナ海を眺めて、それぞれ土産物など買った。その後、「エグチペジフル」に寄ってこの日の目玉の一つであった「長島赤土じゃがいも」を3kgいただく。綺麗に化粧箱に入れて準備してあった。持ち帰ったジャガイモは2個だけ家に残して娘に渡したが、娘が大量のポテトサラダをつくって届けてくれた。ご飯のおかずにしたり、朝ごパンに乗せてオープンサンドとして食べて美味しかった。 他にもう一つのお土産をいただくために、長島研醸に寄り長島町限定でしか売られていない「焼酎 島娘」900ml 一本をいただいた。これは同居する二男へのお土産の一つとなった。 そしていよいよ最後の楽しみの早めの晩御飯をいただくために「焼肉一貫」へ。謳い文句は、長島生まれ! 長島育ち! 「黒毛和牛 焼きすきセット」焼きすきとは? スライス肉(タレ付)を網で焼き溶いた卵につけてすき焼き風にして召し上がっていただきます。とあった。焼肉屋ですき焼き風と思って食べたが食べてみて納得の味と美味しさだった。 ここから帰路についたが、鹿児島中央駅に19時30分頃到着して、楽しかった一日は終わった。
2024.03.21
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ここは山岳信仰の地・行人岳(ぎょうにんだけ)。標高は394mあるという。最初に行った針尾公園とはまた違う風景が広がっている。 山岳信仰・修験道の聖地だけあって周囲は灯篭や石造物が多い。その昔、ここに登ってきた山伏たちが一心不乱に修行に励んだ場所として今に残る。 自分としても久しぶりの歴史ある石造物に興奮して、いつの間にか仲間たちとは離れてシャッターを押すのに夢中になっていた。ここに取り上げたものはその一部に過ぎない。 「行人岳の山岳信仰」については、下の案内板を一覧ください。 本尊の「蔵王権現」を綺麗に写すことは、残念ながら叶わなかった。 蔵王権現像の説明文 不動明王像 鐘撞堂 漁業の町だけあって七福神の一人、恵比寿さんの像もある。 行人岳を後にする頃には少し日も傾きかけていた。
2024.03.17
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昼食を食べた後、私たちツアー一行は、チャーター船に乗って長島遊覧へ。養殖ブリ生産日本一の養殖筏が散在する海を巡り、船長からいろいろな説明を聞くことができた。 東町漁業協同組合が商標登録した「鰤王」の養殖現場を目の当たりにして、私が想像していた以上のそのスケールに驚いた。その生産量は年間約12000トンだそうだ。稚魚(モジャコ)から出荷まで一貫しているとのこと。 午前中に針尾公園の展望台から下に見えた伊唐大橋を今度は海上から眺める場所に案内された。 養殖場の珍しい場所を見て満足した私たちは、今度は化石で有名な獅子島に案内された。嬉しいことにここで約15分の上陸をすることもできた。 船を降りて目の前の崖の上に「獅子島幼小中一貫校」があった。 その崖の下の道路沿いに「アンモナイト」と「サツマウツノミヤリュウ」の大きな造り物があった。ここで、ほとんどの人々が記念写真を写していて、この写真を写すまでは少し時間がかかった。 獅子島はお隣の熊本県御所浦島と共に日本有数の化石産地だという。島の大部分は約1億年前「白亜紀」の地層とされる御所浦層群で覆われいる。島の北西岸の御所浦周辺には新しい姫浦(ひめのうら)層群が露出し、更に片側から白浜を結ぶ海側には、より新しい数千年前の古第三紀の地層が表れている。いずれの地層にも化石が多く含まれるが、特にアンモナイトや爬虫類の化石も発見される白亜紀の地層は古生物ファンにとっては魅力があるのだという。 船着場の前にはちょっとした食堂兼お土産屋の「獅子島屋」があった。 船着場の前には「片側港」というバス停があっかご
2024.03.14
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3月1日(金)いつもの高校の同期仲間6人で長島のバスツアーに行った。今回のツアーはいつものバスツアーとは少し異なるお得なものだった。 先ず、旅行代金14000円の内、7000円を長島町からの助成金適用で各自の負担は7000円と格安だ。日帰りだが、昼食と夕食の2食付き、更に長島赤土栽培のジャガイモ約3kgと島内限定でしか売られていない焼酎「島娘」900m1本のお土産付きである。これは行かない手はないぞと仲間内で衆議一決しての参加であった。 鹿児島市を出発した朝早くは曇り空だったが、まだ未完成ではあるが、一部開通の西九州自動車道を北上、国道3号線に降りて阿久根市街地を通過し右折、しばらく走って九州でも有数の黒潮の流れがある上に架かる黒之瀬戸大橋を渡り長島町に入る。その頃にはお天道様も機嫌よくなり大歓迎してくれた。 先ず案内されたのが長島は八景の一つ「針尾公園」。下の2枚の写真はその展望台からの眺めである。ここは東町北部、八代海に臨む崖上にあり、大永年間、今から400数十年前、もと天草一帯を支配していた豪族・宮地氏が実権を握り砦があった場所だという。展望台から北を望めば雲仙天草国立公園が視界いっぱいに広がり、眼下に広がる「薩摩松島」の景観は時を忘れる素晴らしさだ。養殖生け簀もよく見える。 下に見える橋は平成8年に完成した伊唐大橋。この橋を眺めるのにも最適な場所である。 昼食を摂るために、少し早めの11時過ぎに「長島大陸市場食堂」に案内された。食べるのに夢中で写真を写し損なったが、脂がのって絶品の「鰤王定食」。大量の刺身とあらの煮つけを中心にした美味しい食事だった。 養殖ブリの生産量日本一!! を誇る長島東町漁業協同組合の魚市場。
2024.03.11
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サボってばかりのクマタツが久しぶりの更新をします。去る1月13日(土)北九州の小倉に住む妻の妹から一本の電話が入った。叔父が亡くなったという知らせだった。それより2,3日前にも電話があり叔父が家で転んで入院したが、2,3日で退院して帰ってきたから一安心、だがもう一週間何も食べられない状況だという知らせだった。それから亡くなるまでの間があまりにも短かったので、驚くほかはなかったが、一昨年11月に今は亡き妻と一緒に叔父の顔を見に行った時は、まだまだ元気だったのでまだしばらくは大丈夫だろうと思っていた。しかし男性としては長寿の満96歳と聞けば、まあまあ大往生という事だろうと自分を納得させた。 翌日の14日(日)が通夜で15日が葬儀だという。すぐに子供たちに連絡し、衆議一決、14日の朝、二男の運転する車でフルメンバーの親子4人で行くことに決定。日曜日の朝、北九州に向けて出発した。九州自動車道を運転する息子の車に乗りながら、私が40代から70代まで家族を乗せてこの道を何十回いや百回を超えるくらい走ったなあ、と思いながら感無量であった。 葬儀など一切は家族葬であったが、団結の固いS家一族だけあって50人近くは集まった。叔父も惜しまれながらも安心して旅立ってくれたことだろうと思うことだった。 通夜が済んで会食の後、我が家の長男と二男は翌日、月曜日の仕事に備えて深夜の九州自動車道路を運転を交代しながら走るということで帰って行った。後で聞いたところ午前1時前には鹿児島に帰着したという。 私と娘は、翌日の葬儀にも出るため2日間、妻の妹宅にお世話になることにした。葬儀も悲しみの中にも粛々と終わり、火葬場に行って荼毘に付した後、再び葬儀社に帰り、初七日も営まれた。 上から3枚の写真は、いつ行っても綺麗に手入れされて、美しい花を見ることが出来る妹宅の庭である。夫婦でよく手入れがされていて、寒い冬場でもこの美しさである。男所帯になった我がも少しは見習わなくては思う事だった。 明けて16日(火)私と娘は新幹線で鹿児島に帰るべく小倉駅に向かった。少し時間があったので、いつものように62年前に銀行に就職し、初任地の小倉支店があった京町通りに自然に足は向かった。北九州市で一番の繁華街である魚町と交差するここ「京町商店街」も時代の移り変わりで昔の店は数えるほどしか残っていない。銀行の支店跡も一時はパチンコ店になっていたが、今はビジネスホテルになっている。もっとも銀行は私が在勤当時に馬借町に新築移転していてそこの現在は銀行の前の通りの上にはモノレールが走り景色は一変している。 京町商店街のアーケードを抜けて左に行くと勝山公園があり、北九州市役所が小倉城を凌駕するような形で建っている。(グレーの建物) 右の建物はNHK。その間に小倉城が小さく見えている。 新幹線に乗車する前に「小倉駅7番、8番ホームの名物うどん」を娘と食べた。これは、一回食べたら病みつきになるおいしさ!(私の感想)今回もお土産にも妹からいただいて帰ってきた。まだ、二袋残してある、楽しみはとって置く。
2024.02.19
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一昨年の12月に妻を亡くした我が家に2回目の正月が巡ってきた。それでも13ヶ月も経っていない正月である。元旦の朝は、我が家では二男と二人で二男がダシをとったお雑煮をおかわりをして食べたり、これも二男が二日がかりで煮た黒豆だけの朝食を食べた。この食事も妻在世中からと何ら変わりはない。 ふと考えると今日はもう1月も最終の31日である。正月のことを二月になって書くのもと思いパソコンに向かっている。 昨年の正月は二男と娘で餅を搗いたり、娘がおせち料理やお雑煮を造ったりはしたが、長男が年末にコロナに罹患し、結局は娘家族と二家族で妻亡き後2週間も経たない慌ただしい中で正月を迎えるという盛り上がりも何もない正月であった。 今年の正月は妻が生きていた頃の正月を出来るだけ取り戻そうと、娘と長男の嫁が分担しておせち料理を造って持ち込んでくれた。それはそれで、感慨無量の私は年始の挨拶でしばらく涙が止まらず、子供や孫たちに見苦しいところを見せてしまう始末だった。 それはともかく、出来上がったおせち料理は妻がいる時と何ら遜色もなく、皆で美味しくいただいた。2日と3日は二男は外出したので、私は両日とも昼は、おせちの残りを食べながら至福の日々だった。 そして5日の誕生日には前々回書いたように「鹿児島五社詣り」で今年の体力試しと幸運を祈った。夜は家族も来て誕生日を祝ってくれた。7日は近所のNさんから「七草がゆ」の差し入れをいただいた。我が家は都合で後日造った。8日は黎明館であった「石垣シンポジュウム」に参加した。目出度い正月もここまでで、13日には北九州小倉の妻の叔父の訃報が入った。急遽私と子供3人で北九州に向かった。そのことは、次回に。
2024.01.31
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歌を忘れた状態のクマタツが今年2回目のブログ更新を思い立った。もう1月も今日は28日(日)である。一日10時間近くベッドにもぐりこんでいるクマタツも勃々目覚めなくてはと思いやっとこれではいけないと・・・。 日記というのは苦手な私も1969年29歳の時に転職した時から営業の日報の他に自分のための備忘録などを兼ねる手帳を書き始めた。しかし北九州から長崎、徳山と転勤する度に捨ててしまったのか鹿児島に帰る1981年41歳からの手帳しか手許にはない。1981年の11月に鹿児島に帰ってきたのだが、その年の手帳には帰ってくるための親会社との打ち合わせの日付や内容などが詳しく記載されている。それ以降の2017年までの手帳には単年毎にプライベートな主な出来事を全て記載してある。私が自分史でも書こうとするならそれ等を中心に写真なども見ながらということになるのだろうが、もう現状では無理かなと思う。 2018年からは、妻がその頃から書いていた3年手帳を勧められて私も使うようになった。書く欄は少ないが、その日の朝の室内温度や出来事など書くのには何ら不自由はない。2年目、3年目になると同じ日に何があったかということがわかり悲しい出来事であれば、感慨にふけることもあるが、それはそれでいろいろなことを思い出すきっかけにもなる。 2018年~2020年、 2021年~2023年の黄色の3年手帳が昨年で終わり、今年からの手帳を単年の手帳にするか、3年手帳にするか考えたが単年手帳に切り替えるのは、縁起が悪いような気がして、思い切って3年手帳を買ってきた。今年は前年や前々年の出来事を振り返ろうとすると、古い手帳を引っ張り出さなくてはならないが、それはそれでいいし、過去は振り返らないという意味ではいいのかもしれないと考えたりもする。 当面考えるのは、この手帳を完結するまで元気でいようと、そのためには生活全般をどのように過ごしていくかということだけである。
2024.01.28
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新年の挨拶が遅れましたが、「皆さま明けましておめでとうございます。このところなかなかアップされない拙ブログ共々、本年もよろしくお願いいたします。」 今日は私の何と84歳の誕生日です。いつものように朝6時起きで、身の周りの事を済ませ、同居する二男を勤めに送り出すと、自分の自由時間である。今日は、ここ数年続けている誕生日記念の「上町五社詣り」の日である。天気晴朗にして、朝方こそ今シーズン最低の2℃を記録したものの、日中の最高気温は14℃予想である。昨年は家庭の事情で行けなかった五社詣りを決行することにして、朝9時10分のバスで順路で一番になっている「南方神社」に近い清水町バス停で下車する。ちょうど10時に到着した。 この南方神社については、これまでも何回も書いてきたので詳細は省くが、鹿児島五社の筆頭の神社である。信州諏訪大社の分社で諏訪神社(おすわさあ)と言われる。薩摩藩主の崇敬が厚かったが、庇護を失い衰退した。2004年に社殿が老朽化により取り壊された。現在の社殿は2010年に再建された。場所は鹿児島城(鶴丸城)の前を通り島津家の磯庭園(現在の仙巖園)に向かう国道10号線沿いの左側にある。 続いては2カ所目の「八坂神社」。言わずと知れた祇園祭(おぎおんさあ)で有名である。 すぐ隣の石橋公園から見た櫻島。私自身、今年初めて写した櫻島である。迫力に欠けていますね。 八坂神社から南方神社方面に引き返し、再び南方神社前を通り、仙巖園方向に行き、左側に入った山の下にあるのが3番目の「稲荷神社」ここも以前何回も詳しく書いているので詳細は省きます。 稲荷神社の鳥居の前から右側に歩くと我が母校・清水中学校がある。ここは清水城のあった場所でもある。 清水中学校を背にして稲荷川に架かる橋を渡って清水小学校に向かって進むと左側に「仁王堂水」がある。私が中学校や高校に通うためにこの前を通るころはまだ湧き水を掬って飲む場所ったが、現在は水道になって、蛇口からみづが出るというなんとも無粋なことになっている。 清水小学校を左に見ながら三叉路を左に行くと4番目の「春日神社」に到着。 春日神社から引き返し、先ほどの三叉路を道なりに進むと5番目の「若宮神社」である。ここも今回は省略。 若宮神社を後に右に出て大きな道路を左に行くと国道10号線に帰ってくる。ここの昔から美味しいと評判の「つきあげ」(さつま揚げ)の早﨑屋がある。これも恒例になっているのだが、今年も買って帰ることにした。たくさん買ったら、一本味見をさせていただいた。空腹につけあげが美味しかった。 その後、鹿児島駅前で今は亡き同級生の息子さんが経営するお好み焼き屋「彦太郎」に寄ってお好み焼きを食べて金生町のバス停まで歩いた。バスに乗ってスマホの万歩計を見るとなんと「8880」歩となっている。何とも言えない縁起の良い数字に驚いた。若宮神社で「五社詣り」も終わったと思い万歩計を見た時は6700歩くらいだったので、それから2000歩くらい歩いていた。今年最高の歩数だったが、疲れも感じることなく歩くことができた。この調子で今年は生きたいものだ。
2024.01.05
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我が家に一足早い正月が来た。昨日、昼過ぎにチャイムが鳴るので「ハ~イ」と言いながら玄関に出てみると、近所のTさんが大きな鉢を抱えて立っておられた。この鉢は、先日妻が生存中に近所の仲のいい4人で毎月「女子会」と称してランチをしていた3人が玄関に置く鉢物を造るから適当な鉢はないかと訪ねて見えて託したものだった。その中のお一人でいつも県の美術展入選のTさんがセンス良く仕立てていただいたものだ。鉢の白い模様もTさんが描かれたものと思う。これも花鉢にピッタリでセンスがいいですねぇ。正月花や正月飾りも華やかに仕上がっていて、このところ殺風景だった我が家の玄関に文字通り一気に花が咲いた。妻の一周忌の12月を迎えて沈みがちだった私も一気に元気を取り戻すことだった。 12月3日(日)は北九州に住む妻の妹家族5人が前日から鹿児島に入り、西本願寺別院で極々近い親族だけ10数人で法要をお願いした。その後、城山ホテル鹿児島で会食をし、午後には高速道路を北九州まで帰って行った。12月10日(日)は新しく買うことが出来た西本願寺中央出張所で納骨式の後、納骨をすることが出来た。私や子供たちも一周忌までには納骨を済ませたいと思っていたので、一応の一安心ではあったが、寂しさも感じるこの頃でもある。 先祖代々の納骨堂は近々墓じまいをして、先祖のお骨も新しい納骨度に納めようと思っている。20日の命日に向けて自宅の仏壇にお参りしてくださる方や、供花など送ってくださる方があったりで、忙しい日々を過ごしていた。 そういう中で、大変嬉しい出来事あった。私が10年以上前に書いたエッセイ「花瀬望比公園」を2019年8月17日に 終戦記念日に寄せて(その三)「花瀬望比公園」と題して拙ブログにアップしたものがあった。それから4年以上経過したこの12月4日にある方から思わぬコメントが入ったのだ。いずれ詳細を書くことになると思うが、わかりやすくは下記の通り入力いただければ概要がわかると思う。 https://plaza.rakuten.co.jp/kumatake123/diary/201908170000/ その他にもグラウンドゴルフの忘年会や妹の傘寿の祝、姉と妹たちのコーラス「いきいき」の演奏会、友人中村隆重くんの「哲学の庭」出版記念パーティーなど嬉しいことも山盛りの12月だった。 そして、今年最後の今日のグラウンドゴルフで何と一年に何本も出ない50mホールでホールインワンを出すことが出来た。「終わりよければ全て良し」と一人悦に入っている。
2023.12.27
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旅の二日目も天候に恵まれて、博多の今宿にある「生の松原元寇防塁」に向かった。道路沿いにあり見つけ易く、駐車場も完備しているので訪ねやすい所だった。 案内板に従って行くと綺麗な海に到着。 「福岡市の文化財」のネット情報によると次のように書いてある。文永11年(1274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁と呼ぶ。長垂海岸から小戸海岸にかけて約2,5kmの間、白砂と松原の境を元寇防塁が縫うように走る。ここを生の松原地区元寇防塁と呼ぶ。昭和43年発掘調査が行われ海への傾斜面に幅1~1,5m 、高さ1,8mに石を積み上げ、その後を粘土で補強していることが判明した。また積みあげられた石の種類が、西側は長垂海岸に見られるペグマタイト(花崗岩)、東側は小戸岬一帯の砂岩ときれいに分かれていた。史料によればこの付近の防塁構築は姪浜の備前国、生の松原が肥後国とあり、この石材の違いは両国の分担地区を示す可能性がある。「蒙古襲来絵詞」に肥後の御家人竹崎季長が防塁の前を馬で進む場面は、この生の松原の情景である。さらに防塁の前面に玄武岩で作られた一列の石積みがあり、修理のあとと考えられている。 下の写真の現地案内文と読み合わせて理解が深まると思う。 「蒙古襲来絵詞」の現地説明文 「蒙古襲来絵詞」 写真撮影の場所から透明なガラスを透して現地のリアルな姿をを見ることができる。
2023.12.02
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昨日25日(土)はどんぐりの会(老人会)グラウンドゴルフ部の忘年会だった。いつものように午前8時30分にいつもの公園に集合して先ずは公園の清掃から始めた。2年前に伐採してもらった大木が今年はそれにもめげずもうたくさんの葉っぱをつけていたのだが、初冬になって枯れ葉を散らし、また私たちを翻弄するようになり始めた。たった2年間の癒しだったのか。 現在のグラウンドゴルフ部の登録人数は11人だが、このところ参加者が少ないので今回は忘年会には必ず出ていただくようにお願いした。その結果、腰が痛かったりしていたメンバー二人の参加もあり9人が集まった。残りのご夫婦は通院日でもあり、会食には参加するとの連絡が事前にあっていた。 何より良かったのは、この日の天気予報では今シーズン最大の寒さになると聞いていたのが、公園に行ってみると集合時間には暖かい日差しが公園いっぱいにふりそそいでいたことだ。そして風もなくこの上はないというグラウンドゴルフ日和となった。4人と5人の二チームに分かれてそれぞれが1番ホールと3番ホールからスタートした。組み合わせはいつも箸に数字を書いたものを引く抽選なのだが、4人組は女性だけ、5人組は男性4人と女性一人という偶然とはいえ面白い組み合わせになった。いつもと同じで2ゲームやった後はお菓子をつまみお茶を飲みながらの休憩時間である。この時間は風論談発で皆自分の言いたいことを勝手に話して盛り上がる。休憩後再び2ゲームを楽しむ。いつもと同じパターンだが、この日は賞品もかかっているのでいくらかの慎重さがある。またそうでなければ大会の意味もない。 結果女性一人、男性一人が4ゲームを通じてそれぞれ3本の「ホールインワン」を決めて男性のIさんが優勝、女子のHさんが準優勝に輝いて3位と合わせて豪華な賞品? をゲットした。因みにクマタツジージはホールインワンを1本出したものの4位に終わった。昨年は2位だったと思う。 11時過ぎにゲームを終えてそれぞれ帰宅した後、同じ団地内の寿司屋に12時に集合。少し遅れてゲームに参加できなかったKさんご夫婦も到着し宴会が始まった。ビールやウーロン茶で乾杯の後、差し入れのワインや焼酎も出て大きく盛り上がった。途中表彰式もあり、ホールインワン賞の残りや、差し入れのお菓子のじゃんけんでの取り合いもあり、いい歳のジジ・ババが歳を忘れて盛り上がった。因みに日頃の公園清掃の御駄賃やホールインワンをした人が小さな郵便ポストに入れる@50円なども積みあがっていて、宴会費用や賞品、ご褒美の1人あて2000円のご苦労さん賃も全てひっくるめて自己負担0円で全ての事を賄うことが出来た。めでたし! めでたし!
2023.11.26
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福岡県の志賀島で奴国王金印の地である「金印公園」を訪ねた後、車で5分くらいの「蒙古塚」に向かった。下の案内板にあるように、また私たちが学校で習ったように元寇は日本の鎌倉時代中期の1274年と1281年の2回にわたりモンゴル帝国(元朝)および属国の高麗により対日本侵攻を行った。1度目を文永の役、2度目を弘安の役とよんでいる。特に2番目の弘安の役において日本に派遣去れた艦隊は当時世界最大規模のものであったと言われている。チンギスカンの血を引き継ぐモンゴル帝国第5代皇帝フビライの命によって1268年高麗から派遣された使者は大宰府において口頭と書面によって「蒙古」の存在を伝達したことで日本側にも知られるようになった。この戦いで最後は神風によって勝利たということが伝わっているが、近来の研究においてはそれも疑問視されているという話もある。 昭和2年建立された蒙古塚(蒙古軍供養塔) 張作霖書による「蒙古軍供養塔賛」 話題は飛んでもない方向に発展するが、蒙古軍来襲で日本に大きな騒ぎをもたらした元(モンゴル)が今、日本の大相撲に大きな影響をもたらしているのはどういうことなのだろうと考える。いや大きな影響どころか、今やモンゴルの相撲取り失くしては、日本の大相撲が成り立たないほどになっているのは日本人としては悔しいけれども現実である。特に安定した力を求められる横綱にはこのところなかなか昇進することがむつかしくなってきている。68代 朝青龍、 69代 白鵬、 70代 日馬富士、 71代 鶴竜、 72代 稀勢の里(日本人)73代 照ノ富士。 そして次を狙う大関も霧島、豊昇龍のモンゴル勢2人と日本人・貴景勝の1人である。関脇で好調の琴の若にがんばってもらいたいものだ。日本の国技たる大相撲が「庇を貸して母屋を取られる」という状況にモンゴルとの歴史が関係しているとは思わないが、不思議なことではある。しかし、大相撲にモンゴル勢だけでなく広く外国人が参加していることはいいことだとも思う。 遅い昼食のために「旬彩処 大岳」に入る。 この後、ホテルに向かった。
2023.11.24
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このところ体調もいいとは言えない中で、昨年までは夏場が過ぎると始めていたウオーキングも今年は暑さが続くとはいえ始める気分にならないまま今日まできていた。10月27日にこれではいけないと思い少し歩いてはみたのだが、身体がだるくなって30分くらいで切り上げたことがあった。そこに持ってきて29日の校区運動会での顔面を負傷するという無様なことも起こしてしまった。 そいう中で11月2日、少し懸念していた自分自身の問題が解決したのである。それ以来2,3日しか経っていないが、不思議なものですっかり元気を取り戻すことができた。そして昨日はカットバンをつけたまま定例のグラウンドゴルフに参加して、仲間の皆さんに運動会で迷惑をかけたことを詫びたり、年末のグラウンドゴルフクラブの忘年会の打ち合わせをしたりすることができた。そして、今朝は母校・鹿児島大学の駅伝部が出場する「第55回全日本大学駅伝対校選手権大会」を第二中継所まで見て9時40分に家を出て歩き始めたのだった。 するとこれまで買い物に行ったり、その他の用事でも外出して少し歩くだけで違和感を覚えていた体調がどうもない。これはいけるぞ! とこれまでの歩きのコースをどんどん歩き始めた。30分くらい歩いたところで自分の体調を推し量ってみたが、まだいけそうである。そこで同じペースで久しぶりのコースをどんどん進んでいった。温度も上昇しているのだろう。肌着の代わりに着たTシャツが汗ばんでくる。そして、ここから引き返せば大体1時間くらいの場所というところまで来て引き返すことにした。もう少しコースを変えれば1時間15分くらいという私なりのコースもあるのだが、今日はこの辺りでということで戻ることにした。 帰りにちっちゃな野菜屋さん兼果物屋さんで果物でも買おうと店の前を通ると今日は休みだった。青果市場が休みだから営業は出来ない日曜日だということまでは頭が回らなかった私である。家に帰ってTシャツを着替えたがその上にシャツをつけることもなく夕方まで過ごしたほどの暑い? 一日だった。 爽快な一日を過ごした今日だったが、明日は午後から雨模様の予報が出ている。しかし、傷も癒えてきたので明日から通常の生活に戻る予定である。
2023.11.05
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昨日29日(日)は校区コミュニティ協議会主催の「元気づくり親睦運動会」だった。何しろコロナ禍による世間の動きから4年ぶりの開催であった。幸い絶好の秋晴れに恵まれて気持ち良く開会式から参加した。 まあ、この80歳をとうに超えた年寄りが運動会に参加? と思われる方が多いだろうが、これにはそれなりの理由もあった。私も数年前までは町内会長や体育部長などなど様々な役職を経験し、町内会の参加する校区の催しなどにもほとんど参加してきた。そして3年間の中止を経て、今年の開会となった。そこで3年前まではまだ最後の70代ではあったので、これまでのいきさつもあって何も考えず当然のように参加してきたのだ。しかし、今年は、参加希望の回覧が回ってきたときに体調もこれまで程快調ではないし、一旦はどうしようかと考えた。そこでグラウンドゴルフ仲間とも話し合ったが、町内会の会員数が激減しこのままでは町内会として運動会に参加できないかもしれないという話もあり、参加の方向で動くことにした。実際今回は大人28人(そのうちの大半がどんぐりの会という老人会のメンバーであった)、子供6人という校区にある6つの町内会の中で最低の出席人数であった。そのために私たちの町内会は今年からは運動会の華である「あいご会対抗リレー」や「町内会対抗リレー」のメンバーが足りず出場できない状況に陥っている。因みに私が町内会長を最後にやった6年前は参加者は8,90人くらいだったと思う。極端に人数が減ったのは子供が「あいご会」を抜ける年齢になると「もう町内会にお世話になることはない」という親御さんがいたり、あるいは「町内会を抜けてもゴミ捨て等にも何ら支障はないし、町内会に留まっても何らメリットはない」というような事柄が原因だと漏れ聞いている。しかし最大の原因は「町内会長初め町内会役員が各班に定期的に回ってくる」ということのようだ。そのため、過去に町内会長を経験された方々がほとんどと言っていいくらい町内会を脱退されるという残念な状況に陥っている。 ついつい話が逸れてしまったが、昨日の私は「ゆっくり急いで」という各町内会20人づつが出場して色水を茶碗で運び、一升瓶が満杯になるまで何回でも運ぶという競技に出場し、それは無事に終了した。不名誉な負傷を負ったのは次に出場した「ボーリング」であった。これも20人出場でペアを組みボール一個でビール瓶2本を倒したら次のペアに渡して、10組が早く終わるのを競う競技であった。私はTさんという女性と一番最初のスタートのペアになった。一人は手前からもう一人は20mくらい離れた反対側におり、中間に置かれたビール瓶2本を1本づつでも2本同時にでも倒したらスタート地点に急いで戻り次のペアに渡すという段取りである。Tさんが手前から私が20mくらい先でTさんが転ばしてきたボールを今度は私が拾って瓶に向かって転ばして2本倒せばいいという単純なものだが、それが思うようにはいかない。2,3回お互いに向き合って転ばしたが不発である。そして何回目かにTさんが転ばしたボールが見事に瓶に当たり2本とも同時に倒れたのである。喜んだ私は反対側からボールを一時でも早く次のペアに渡そうと瓶が倒れたところまで走った。そしてボールを拾って走り出そうとした瞬間に前につんのめってしまったのだ!なんという不覚。なんという様だ。一瞬顔に手を当てると血が付いた。しかし、あまり痛さはなかったので骨に異常はないだろうとその瞬間にも思った。 そこから救護の看護師さん二人のいる本部席へ連れていかれた。どなたが連れて行ってくださったのか血が出ていたのはわかったが、その時どのような形で、また周囲の人はどのように見ていたのか、全然覚えていなが、ただただ恥ずかしかったのは覚えている。看護師さん二人に手当てをしてもらっていると町内の体育部長のTNさんが冷たいお茶のペットボトルを持ってきてくださって一息つくことが出来た。その後、近所のNさんも駆けつけてくれて、看護師さん共々世話をやいてくれた。最終的には、傷の場所に砂が少し入っているようだということで、水道で洗顔してから消毒をし、ガーゼを当てて絆創膏で留めていただいた。保険も利くので病院に行くときは申し出てください、とのことであったが、今朝私も絆創膏を外し、昨日その後ガーゼの表まで沁みてきていた血もすっかり止まっていた。傷の場所は鼻の上方で眉間の真下である。打ち所が悪く強い当たりであれば危険な部位でもあると思われるので不幸中の幸いであった。今日はもうカットバンだけで済ませるような状況だがカットバンが取れるまで用心のためもあり、一週間から10日くらいの自宅謹慎を自分に申し付けた。 教訓として、気分はいつまでも若いつもりでいた自分に歳の事を考えなさいという警告として受け止めることだと思った。グラウンドゴルフでも、次のホールまで仲間の忠告も聞かず走っていたが、今後はそいうこともやめて、ゆっくり動くようにしたい。
2023.10.30
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志賀海神社を見学した後、「金印公園」に向かう。「漢委奴国王金印発光處」(かんのなのわのこくおう)の石碑があり、その上に公園が広がっていた。 下の石造物は金印には何ら関係ないと思われるが、石造物好きの私がパチリとやってしまった。 金印公園は紀元57年に後漢の光武帝が奴国(なこく)の王に与えたされる「漢委奴国王」と記された金印が天明4年(1784)にこの付近で発見されたことを祈念してつくられた。 金印って何でしょう?下の説明版を熟読ください。 実際にどんな風に使われていたの? これも説明文を熟読してください。使い道には現在も同じように使われていることもありますね。例えば銀行の札束の封印とかに。 展望広場にある金印のモニュメント。博多湾と福岡の街を背景に古代大陸との交流の様子を想像するとロマンがありますね。 金印の本物は「福岡市博物館」に展示されているとのことだが、今回は訪問しなかった。
2023.10.26
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鹿児島県合唱連盟と合唱振興基金の主催で11月3日「世代と仲間をつなぐコンサート」が開催される。今回のコンサートは文字通り世代と、どこそこの合唱団員という枠を乗り越えて歌うように下のポスターにある8つのステージが設けられている。私はその中の「一般男声合同」と「シニア合同」の二つに出演して歌う予定である。 今日は私たちの男声合唱団・楠声会の練習日だったのだが、その会場に他の合唱団3団体から男性の有志が集まって総勢70人くらいでの練習となった。本番は80人くらいを予定しているとのことだ。今回「一般男声合同」で歌うのは4曲。 1,秋のピエロ(「月光とピエロ」より) 2,梅雨の晴れ間(「柳川風俗詩」より) 3,群青(福島県相馬市立小高中学校平成24年度卒業生 構成 本田美樹) 4,少年時代(井上陽水 作詞・作曲)「月光とピエロ」は男声合唱をやったことのある人なら誰でも歌ったことがあると言っても過言ではない堀口大学作詞、清水修作曲の有名な歌である。「柳川風俗詩」も同様で北原白秋作詞、多田武彦作曲である。いずれも男声合唱曲の定番であるので、男声合唱の合同演奏の時にもよく歌われる。 今日はこの2曲を男声合唱団「ひびき」の指揮者の指導で歌った。あと2曲の「群青」と「少年時代」は我らの指揮者の指導で歌った。本番もこのお二人の指揮で演奏する。本番までの練習は29日、再び同じ方法で行われる。 もう一つ私がエントリーしている「シニア合同」は過去二回練習があったのだが、いずれも参加して練習した。最後の練習は10月24日(火)の予定である。こちらは2曲 1,マイ・ウェイ(片桐和子訳詞、野間幹夫編曲) 2,切手のないおくりもの(財津和夫作詞・作曲 野間幹夫編曲)この2曲とも皆さんご存じの有名な歌である。いずれにしてもシニアと男声の残された一回づつの練習を楽しんで本番に備えたい。
2023.10.22
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鹿児島市の「史跡めぐり ガイドブック」に掲載されている「横山安武・森有礼成育の地」に住むMくん宅で今日久しぶりに同期有志の会を開いた。Mくんが先日あった歴史講演会の帰りに雨に濡れた坂道で滑って転倒し、足を骨折したという。そのために20日くらいギブスを装着して、家から出られないという話が伝わってきた。そこで私がKくんにラインで「美味しい弁当でも持って見舞いがてら顔を見に行こうか」と連絡したところ、それではいつものメンバーで集まろうという話に発展して今日の集まりになった。 久しぶりのM邸は秋の風情が漂い花は少ないが、いつもの佇まいで私たちを迎えてくれた。結局集まったのは、7人になった。そのため、今までのMくん宅での集まりがそうであったようにMくんの奥様が弁当の手配やお吸い物・お茶の世話までやっていただく結果になってしまった。本当にいつもお世話をかけるおじいちゃん、おばあちゃんたちである。 由緒ある屋敷だけに地神、水神などあって歴史を語る。 まだ残る紅葉が庭に華を添えていた。 今日集まった七人の中で、この二人はテレビや新聞で全国で顔が売れている同期の二人のおじいちゃんなので敢えて顔出しをすることにした。あくまでも私の一存である。 左が現在アメリカ女子プロツアーで活躍中の「勝みなみ」ちゃんを育てたおじいちゃん。みなみちゃんが子供のころから一緒に打ちっ放しやゴルフ場に連れて行って、コーチもつけずにおじいちゃんが育てあげた話は有名である。彼もこのところのMくん宅での同期会の集まりのメンバーの一人だが、先日来アメリカツアーの応援に行っていた。本人曰く「10日くらいで帰ってきた」とのことで、本日の参加となった。 右はこの会には初登場の「鹿児島のイチロー」として有名なおじいちゃん。本名は満山一朗。wikipediaによると「バッティングセンターのホームラン王」「バッティングセンターの怪物」「燃料和尚」(モータージャーナリストとして執筆しているコラムでの通称)とも呼ばれているとのこと。鹿児島のバッティングセンターでホームラン王になったのをきっかけに一躍有名になった。そして九州一円に遠征するうちに全国的にも有名になって、全国をまわりテレビにも数多く出演している。そのイチローは今回初参加であった。ただこれもテレビや新聞で報道されたが前立腺がんに罹患してしばらく闘病生活を続けていた。そして退院した数か月前に飲食店で彼を励ます会をしたとき、Mくん宅の会があることを知り、是非自分も参加したいとの話があって今日の集まりに初参加となった。二人とも、それぞれのことを成し遂げたいい顔である。 今日は正午集合で談論風発。気が付けば午後3時30分をまわっていた。楽しい半日だった。私はイチローくんの車にバス停まで乗せてもらって帰ってきた。
2023.10.19
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9月7日から一泊二日のドライブ旅行に出た。いや、正確に言うと私にとってはドライブ旅行だが運転した人間にとっては重要な主目的がある運転である。 九州自動車道をひた走り、私が先ず降ろされたのは博多の街中。博多にはほとんど土地勘のない私が一人でうろついていると博多座の前にいたという次第である。歌舞伎の旗も賑々しく「十三代目 市川團十郎白猿襲名披露 八代目 市川新之助初舞台 九州博多座大歌舞伎」そのものの公演の場所だった。歌舞伎には疎い私でも名前は聞いたことのある役者の公演のある現場に偶然立って写真を写す幸運に恵まれたというわけだ。 博多座を後にして、また歩いているとこれも名前は聞いたことのある「上川端通」に行きあたった。初めての通りに物珍しさもあってブラついてみた。知らない街を歩くのは楽しいものだ。その後、ドン・キホーテを見て回り連れとの約束の時間が近づいてきたので、先ほど降りた駐車場まで戻った。ちょうど時間も合ってそこで再び合流できた。 車はこの日の私の目的地である志賀島へ向かう。海の中道を通って快適なドライブコースを進む。志賀島はもう20数年以上前までに数回訪ねたことがあるが、今回はその時も訪ねていない「金印公園」と「蒙古塚」が主目的地である。 その二つの目的地を訪れる前にも一つ気になっていたのが島に入ってすぐ右側にある「志賀海神社」である。下の写真の案内板にもあるように万葉集の時代からある歴史ある神社である。 鳥居の先は階段になっている。 階段を登って行くと左側にいきなり宝篋印塔(ほうきょういんとう)が立っている。この宝篋印塔は鹿児島の島津家菩提寺福昌寺跡にある島津家歴代の当主とその奥方の墓標としても造られているので私の目にすぐ飛び込んできた。 ここの説明版に以下のように書かれていて、私も宝篋印塔について詳しく知ることができた。宝篋印塔はもともと過去・現在・未来の幸福を願った仏典(宝篋印陀羅尼経)を納めた塔で、わが国では石塔婆(いしとうば)の名称となっている。 志賀海神社のこの石造宝篋印塔は花崗岩を用い高さ334,5cm、上部に反花座(かえりばなざ)のある基礎、立法体の塔身、二弧式馬耳形の隅飾りを持つ笠、その上の相輪の四石からなり、塔身の四方には文殊、宝生、阿弥陀、不空成就の四仏の梵字をまた基礎には二面にわたり造立者と貞和3年(1347)の造立年を刻んである。 現存する宝篋印塔としては県内最古であり、その清楚な姿からしても福岡県を代表する石造物の一つである。 神社の前に狛犬が睥睨するかのように参拝者を見つめる。 拝殿前の山門も立派で歴史を感じる。 本殿
2023.10.16
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公園から右方向を見渡すとツツジが満開であった。真ん中に見える道を歩いて行くと激戦地跡に行くことが出来る。車が時々行き来していたが、今回も私はそこまではたどり着けなかった。 西南戦争の顕彰碑として建てられた「崇烈碑」。 これが歌でも有名になった「馬上豊かな美少年」の彫像。 西南戦争とは関係のない戦国時代の島津と戦った証がこのような形で残されていた。 「田原坂西南戦争資料館」これまでの案内板などにもあったように田原坂は西南戦争で17日間にわたり戦闘が繰り広げられた激戦地で、当時の貴重な政府軍と薩摩軍の武器、弾薬、備品などの遺品や戦争資料約600点が展示されている。
2023.10.12
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去る4月某日、商談のために熊本と北九州に行く用事が出来た身内の者から「自分が商談を済ますまで時間があるのでその間、近くの田原坂方面の見物でもするのだったら一緒に乗せていくよ」という話があった。私にとってはまさに渡りに船の嬉しい誘いである。田原坂にはもう20年くらい前に近くを通りがかった時に訪ねて、その時はあまり時間もなく、慌ただしく見学しただけでもう一回訪ねたいなと思っていた場所の一つであった。 早朝、車で出発、九州自動車道を熊本に向かった。 西瓜の産地として有名な植木町に到着。同じ植木町にある「田原坂公園」に向かう。 田原坂公園に到着。私だけ降りて、連れは仕事に向かう。 まさにこの説明版にあるように「日本最大・日本最後の内乱の地」がここ田原坂である。 弾痕の跡が生々しく残された土蔵。この隣には私が最初に訪ねたころにはなかった資料館が出来ていた。 田原坂からの眺め。次回へ続きます。
2023.10.10
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白池地獄を後にして、有名な7ヶ所の地獄の中でこれまで行ったことのない「鬼石坊主地獄」と「かまど地獄」に行こうとしたが、それまでの長崎の旅で歩き回った疲れがドッと出てきて残念なことに、もうどうでもいいやという心境になってきた。そして「鬼石坊主地獄」は入口から見ただけでスルー、「かまど地獄」もスルーしたが、7ヶ所には入っていない「山地獄」を目にして、ここで少し休憩しようと入場料を払って入場した。そこは、山のいたるところから噴気が上がっていたが、疲れのせいなのかそれらの写真は一枚も写していない。ここはまた温泉熱を利用してカピバラやヤギなど小動物が飼育されていた。結局上の「山地獄」の写真の1枚だけで、ここの前に座り込んでしばらく休憩しただけだった。 山地獄の見学を終えて、もうその日の宿泊地である別府の市街地に向かおうと歩いているとその日、高速バスを降りた場所の近くに亀の井バスの営業所を発見し、そこからsunQパスを使って別府駅まで行くことが出来た。 別府駅前で久しぶりに「油屋熊八」の銅像に対面した。この油屋熊八は別府観光の生みの親と言われている。満面の笑みで両手を高く挙げたポーズで有名。 この日はホテルに入り、温泉にも入ってゆっくり休憩した明けて3月30日、この日は鹿児島に帰る日である。 先ず「海門禅寺」の近くにある「海門寺公園」に向かう。お寺の向こうに別府タワーを望める公園である。ここでしばしゆっくり過ごした。 歩いて別府タワーへ。ここも久しぶりの訪問だったが、展望所には上らなかった。 海を眺めたくなり別府湾の方向へ歩く。正面に見えるのは猿で有名な高崎山。 左側にはホテル群が見える。 別府からバスで鹿児島に帰る方法は九州横断道路の「やまなみハイウェイ」を通って熊本で乗り換えて鹿児島に帰る方法もあるが、今回はバスのつながりが悪かったので、別府~博多乗換~鹿児島のルートをとった。ここは別府北浜のバス停近くにあったスターバックスコーヒー。時間があったのでコーヒーを飲んでゆっくりした。 バス停からは斜め前に「西鉄リゾートイン別府」が見えた。ここは現役時代に出張に来て宿泊したことがあった懐かしいホテルである。 こうして3月27日鹿児島を出発し長崎に2泊、別府に1泊の一人旅は終わった。一言で言えば「ちょっと長いバス旅で疲れたなあ」。
2023.10.07
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先日東京に行くという話題が高校同期生のlineで沸騰した時、天丼が美味しい店として東京は浅草の「まさる」が出たりしていろいろやり取りをした。もちろん、その他の店の話題も出て、羽田空港の地下の食堂(名前は忘れましたが)も美味しいので帰りに羽田空港でということになっていた。ところが、羽田空港に着いたときは昼ごはんが遅かったこともあり、まだ食べる気にならず結局関東風天丼は今日までお預けになっていた。 そういう中で再びlineで鹿児島にも関東風の天丼を食べさせる店が2店あるということになり、その中の一軒である鹿児島市荒田1丁目の「新橋」を選び、今日の昼に行ってきた。今日の参加予定の一人は急に用事が出来て参加できなくなりちょっと寂しい三人だった。注文した天丼が出てきて思ったのは「なるほど、東京のうどんのスープと同じで今まで食べたものと比べると色が濃いな」ということであった。一口えびを口に入れると、甘さがない。正直少し戸惑いを覚えたが、少しづつ箸を進めるうちに「ああ、これも美味しい。これもありか」と思うようになり、結構な量の天丼を完食した。 帰ってまたlineで情報が行き交ったのだが、ここを教えてくれた食通のH氏からは「新橋は天丼も美味しが、ここのおはこ(十八番)は実は かき揚げ天丼 です」というlineが入った。食い助の私は今度行って「かき揚げ天丼」に挑戦しようと思う。 いずれにしても、今日は初めての経験で美味しいものを食べることができたいい一日だった。
2023.10.05
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長崎のバスターミナを午前9時20分に出発した高速バスは大分別府鉄輪口(かんなわぐち)に12時54分到着した。鉄輪は別府八湯と呼ばれる温泉の中でも「地獄」が多いことでも知られている。別府には「海地獄」「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」「鬼山地獄」「白池地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」7つの有名な温泉噴出口がある。もちろんこの他にもたくさんの噴出口はある。私はこれまでに「海地獄」「鬼山地獄」「血の池地獄」「龍巻地獄」の4ヶ所には訪れてこともあった。特に「海地獄」には数回訪れた記憶がある。 今回の別府行きの大きな目的はこれまで行ったことのない「鬼石坊主地獄」「かまど地獄」「白池地獄」を踏破したいということであった。先ずはバス停から歩いて3分の「白池地獄」に到着。 入園料450円也を支払って入園。有名地獄めぐり7ヶ所共通の入園料もあり2200円である。亀井バスのバスツアーもあるそうだ。 入園してみると私の大好きな石造物が次々に目の前に展開して、地獄を見るより石造物に熱中した。 やっと地獄にたどり着いた。
2023.10.03
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一日中歩き回った私は今回の長崎の旅の終わりに西日が差し始めた長崎港を望む大波止と「長崎水辺の森公園」に向かった。 ここは、展望デッキやレストランなどが建ち並ぶ複合商業施設の「出島ワーフ」。海鮮料理や中華料理、イタリアン、カフェなどが揃いオープンデッキで海を眺めながら味わうことができる。 緑豊かな市民憩いのスポット「長崎水辺の森公園」水辺のプロムナードやビードロの道など変化に富んだ散歩コースが揃っている。この日も親子連れなどで賑わっていた。 遠くにはグラーバー園から見えた外国のクルーズ客船を見ることが出来た。 帰り道には長崎の街を眺めながら歩いた。長崎の街はどこから見ても絵になる。又来る日までと長崎の風景をしっかり焼き付けてホテルに向かった。 この夜、もう一泊して翌朝早く高速バスで別府に向かった。
2023.10.01
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再び三度3月の長崎へ戻る。 いよいよ長崎の旅も残り少なくなってきた。あと一回書いたら終わり別府に向かう。「唐人屋敷跡」を後にして、歩いて長崎市の中心街・浜の町方向に向かう。お馴染みの中島川に架かる石橋を見たいと思ったからだ。何度見ても飽きない風景の一つである。春の光を浴びて散策する楽しそうな人々が行きかっている袋橋。私の大好きな前川清が歌う「重い切り橋」のメロディーが頭の中で浮かんでくる。 男が一人 女が一人 たった二人の 愛なのに ささいなことで別れてしまう 難しすぎます 大人の恋は あ・・・ あ・・・夜が泣かせる ここは長崎 思い切り橋 誤解のないように言うが そのような経験はないのにだ! (爆) 中島川の橋を渡って山側に行くと寺町に行きあたる。それぞれの石橋を渡り、その先に続く商店街を抜けていくと「寺町通」に出る。ここの通り沿いにはたくさんのお寺があるが、有名な興福寺や崇福寺もこの中にある。さらにそこから山の方に坂道を登ると「亀山社中記念館」や坂本龍馬像のある「風頭山」に行くことができる。この辺りは何回も訪れて過去ブログにも何回も書いているので今回は時間の都合もあり訪問しなかった。 眼鏡橋を渡り口から写した。 眼鏡橋を写そうと思って河原の石畳まで降りて写したが、夕方が近く、逆光でもあったので橋の姿すらくっきり写っていない。まして光を反映しての眼鏡の形などとは縁遠い写真になった。 汽笛一斉新橋を♬ ♩ ♪ が日本で一番最初にSLが走った場所かと思っていたが、長崎でトーマス・グラバーが最初に走らせたという案内板があった。SL発祥の地は長崎だった。 眼鏡橋を後に、この日の最終目的地の出島の海岸方面に向かう途中「出島和蘭商館跡」(国指定史跡)の前を通過。ここも寺町などと同じく何回も訪れたことがあるので眺めるだけだった。 これまでも何回もたずねているのに気づかなかったが、橋の流れるようなデザインに見入ってしまった。
2023.09.29
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私は現役時代に柳川下りを2回経験した。社内旅行と本社の人間を案内しての2回である。その2回とも好天気で楽々と川下りを楽しんだ記憶がある。ところが今回は昼食を済ませて外の出たころから小雨が降りだして船着場に到着した時にはかなりの雨になっていた。橋の下を通過するので傘は持ち込めないということで簡易カッパを渡されて、全員上のような格好で乗船した。 船は柳川下りの名所と言われる柳の横を通過。私たちの船頭さんはおじいちゃんだったが、その案内の声や歌を聞くとまるで少年かと錯覚するくらいの声音を出していた。外国人のお客さんにはどのような対応をするのかと乗客の中から質問した人がいたが、何か国語がの簡単な言葉を勉強されているようで ひったまがった。(鹿児島弁で驚いた)先日、長崎に行った時のブログで「さるく」という言葉は鹿児島弁かと思っていたら長崎でも使われており、帰って調べたところ「さるく」はほぼ九州一円で使われている言葉と書いたが、今回船頭さんが船が曲がることを「まぎる」と連発していた。この「まぎる」も鹿児島弁かと思っていたので驚きの一つだった。まだ調べていないがいずれ調べてみよう。 柳川と言えば表題にも書いた「北原白秋」。白秋は1885年、現在の熊本県南関町で誕生したが、育ったのは現在の福岡県柳川市だという。詩人、童謡作家、歌人と言われる。有名な歌としては「雨降り」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」などなど、たくさんの歌の作詞をしている。 私たち男声合唱を経験したものにとっては、欠くことのできない組曲「柳川風俗詩」がある。作曲は多田武彦。混声合唱にも編曲されているそうだが、混声では歌ったことも聞いたこともない。「柳河」「紺屋のおろく」「かきつばた」「梅雨の晴れ間」の4曲で構成された無伴奏曲である。私も大学時代から、現在のそのOB会の楠声会までいろいろな演奏会で歌ってきたし、男声合唱団が合同で演奏するような機会にも歌う有名な曲である。来年4月28日(日)の創立70周年記念演奏会でも歌うことになっている。 このような橋の下を通過したり、まぎったりしながらの40分の柳川下りも雨が降っていたにも関わらずあっという間に終わった気がした。 柳川を下船後向かったのは「高橋総本舗」。野菜のジャガイモと玉ねぎの詰め放題と「博多豆せんべい」詰め放題への挑戦である。写真を写したつもりだったが、そこの写真は一枚もなかった。詰め放題に夢中になって忘れたか? とにかく証拠は持ち帰った商品のみ。たくさん詰める方法など袋を使って実演もあったが、少し離れていたのでよく見えず、結局自己流でやって大きな成果はなかった。これも愛嬌である。それでもここで2000円のクーポンで買い物もして、持って行ったリュックサックでは入らず、買物袋にまで入れて持ち帰った。帰りは、新船小屋駅から16時1分発で7時21分には鹿児島中央駅に帰り着いた。
2023.09.27
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「かえる寺」を後にして、向かった先はこの日の楽しみの一つ「梨狩り体験」のフルトリエ。果樹園の人の案内で梨畑に向かう。1kgは無償とのことで大体3個が相当するとのこと。品種は「甘太」(かんた)という比較的新しい品種だという。先に配布されている2000円のクーポン券も使えるということで、同行のkくん、Mくんは5個と4個買って差額をクーポン券で支払っていた。更に出口で柿2個とイチジク6個入りの袋をいただきニンマリ。持って行ったリュックサックが2/3くらい埋まってしまう。 そこから出て、今度は「久留米絣」の下川織物に向かう。久留米絣は、寛政の末(1800年)頃、井上伝という女性によって考案されたという。日本の風土と暮らしの知恵から生まれ磨かれ、昔ながらの素朴さと美しい表情にモダンな感覚と粋を織り込んである。昭和32年には国の重要文化財に、昭和51年には伝統工芸品の指定を受けた。 工場に案内されて実際に織り込んでいるところを見学することができた。この工場の織物機械は100年前のものをメンテナンスしながら大事に使っているとのことだった。 商品は昔の着物、上っ張りを代表するものから、最近は着物ばかりでなく、、絣の風合い、特徴を生かしてワンピース、日傘、帽子、作務衣、、カッターシャツ、サロンエプロン、袋物、その他モダンなインテリアに用途を広げているそうだ。 この日の西鉄貸切バス。 次に向かったのは、「八女伝統工芸館」バスが駐車場に着くと、目の前にいきなり大きな「石灯籠」が待っていた。県指定特産民工芸品「八女石灯ろう」として有名だそうだ。熱さや寒さに強く、石苔がつきやすく柔らかくて趣のある石質が特徴だという。 ここからは八女の伝統工芸品の数々の紹介である。 「八女福島仏壇」「八女提灯」などなど。 「八女手漉き和紙」「八女竹細工」「八女和こま」「八女矢」「八女すだれ」「久留米絣」「桶」「刃物」「水車場のお線香」「木工品」「焼物」「節句人形」「釣り竿」など展示されている。これほどのものをまとめて見せる場所は、これまで見たことがなかった。 さあ いよいよお楽しみの昼食会場へ。うなぎの大きな看板が目立つ「福泉操」。 私たち3人組には三人のグループにはグループ毎のテーブルが用意してあり、知らない人に気遣いすることなく昼食を楽しむことが出来た。内容は柳川名物・「うなぎのせいろ蒸し」のミニセイロ蒸しを中心に過不足のないものだった。ミニセイロ蒸しもそれなりのボリュウムがあって、美味しくいただいた。 昼食場所の「福泉操」の右側には、「西鉄 柳川駅」があった。私鉄ながら、流石に福岡県を代表する企業だけあってJRの駅にも負けないスケールである。この後、すぐ近くの「柳川下り」の乗り場に向かった。
2023.09.24
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鹿児島市の福祉バスを利用しても老人会の旅の疲れもとれない中、昨日22日(金)今度は阪急交通社の「梨狩り体験といちじく・柿のお持ち帰り付き水郷柳川をめぐる納涼日帰りの旅」に応募して行ってきた。いつもの高校同期生3人組で応募したものだ。 添乗員さんの指示に従い、鹿児島中央駅発 朝7時9分発の新幹線に乗車。総員30名くらいのツアー。各駅停車で8時47分には新鳥栖駅に到着。待機していた西鉄の貸切バスに乗車した。先ず向かったのは如意輪寺。天平年間(729年)に行基が開寺したものだという。福岡県小郡市では最も古い歴史と由緒のあるお寺だという。境内にはあらゆる場所にかえるが置かれているが、なんと5000体にものぼるというから驚きだ。 入口の階段を登ってすぐ左側にあるのが下の看板。人の一生をかるで表現したというので、塀に沿って歩いてみた。 先ずはたんじょうの感謝を両親へ。 人生修行中。 遊びも大いにやりましょう。このように、節目節目の場面が続く。 最後は人生を讃えて終わっている。 お寺なので仏像もある。 何故か、ウサギも登場する。 そんな如意輪寺の夏の風物詩が毎年6月から9月頃まで開催される「風鈴まつり」だそうで、暑い夏を乗り越えようと風鈴の短冊に願いを書いて奉納するそうだ。ちょうど期間中だったのでたくさんの風鈴が吊り下げられているのを見ることが出来てラッキーだった。この写真の場所だけではなく、階段の両側にも賑々しく飾られていた。 様々の形、色のかえるがいて楽しめるお寺だった。
2023.09.23
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9月20日、私たちの町内の老人クラブ「どんぐりの会」はコロナ禍にたたられて久しく開催することが出来なかったバス旅行に4年ぶりに行くことができた。使ったバスは鹿児島市が無償で提供してくれる福祉バスである。目的地は南さつま市のりリヤス式海岸で次々と海の風景が開ける226号線を南下しながら見る綺麗な海沿いの美術館や史跡である。鹿児島市から九州自動車道をちょっとだけ使って市外へ。約1時間で南さつま市に到着し市街地を抜ける。海の雰囲気が漂い始めるとすぐに「くじらの館」に到着。運転手さんがトイレ休憩のため寄ってくれたようだ。ちょっとした道の駅である。 2002年1月、吹上浜(日本三大砂丘の一つ)南端の大浦町に14頭もの巨大なマッコウクジラが集団で座礁するということがあった。当時、テレビを始めマスコミが連日このことを取り上げたので私も鮮明な記憶として今も残っている。座礁当時はほとんどのクジラが生きていたため大しけの海を前に決死の救出作業が行われたが、救出できたのは1頭岳で13頭は死亡した。クジラが死亡した後も20~40トンもの巨体を動かすこともままならず、腐敗が進んで処理に苦労し、やっとのことで塊を付けてクジラを海に沈めるという世界でも例のない作業が完了したのは座礁から11日後のことだった。死亡した13頭のうち1頭は砂浜に埋められ、約10年後に掘り出して骨格標本が作製された。「大浦ふるさとクジラ館」に併設する(下の写真)「クジラの眠る丘」にはこの骨格標本が展示されている他、死亡した13頭を悼むモニュメントが設置されている。 クジラ館を後に、バスは坂道を必死に走り、次に着いたのは「笠沙美術館」。ここは当地・笠沙出身の画家・黒瀬道則さんの美術館である。私たち一行は美術館上からの眺望を楽しんだ後、下に降りて行ったのだが、管理する女性の方がおられて、無料鑑賞ができるとのことで、絵をたくさん見ることができた。絵は撮影禁止とのことだったのでここでは披露できないが、ここの風景にもマッチした素晴らしい絵の数々だった。 海に向いた窓から海に浮かぶ島を写すと一幅の絵になった。この島はジェームスボンドの「007は二度死ぬ」の撮影が当地であった時にロケ地として使われた。 笠沙美術館を後に南に向かって走るバスの窓からこの記念碑は見える。この10mくらい先には次の目的地・鑑真和上の上陸地があり記念館がある。 ここは鹿児島県南さつま市坊津町秋目浦。鑑真記念館があり、「鑑真大和上」の石像がある。鑑真和上と言えば、まず頭に浮かぶのは、ここ秋目浦の次に「奈良の唐招提寺」である。 肝心記念館は入場料@200円也。皆で入館して歴史資料と動画を見ることができた。いただいたパンフレットの表紙に次のようにある。鑑真のもとに二人の日本僧が訪ねて来た時、鑑真は日本の長屋王が唐の僧へ贈った袈裟に「山川は域を異にすれども、風月は天を同じくする。諸仏子に寄せて、共に来縁を結ばん」という意味の四句が刺繍されていたというエピソードなどを挙げて、日本は仏法興隆に有縁の国であると述べた。とある。 このように日本に関心を持った鑑真は日本で戒律を広めようと日本に渡ることを決意するが、様々な障害に会い、6回目にして初めて日本に渡来することができたという。その第一歩が坊津の秋目浦だった。後に奈良の京(平城京)に迎えられて奈良の仏教の興隆に専念、唐招提寺の開山となる。 鑑真記念館前からの眺めも素晴らしい。赤い小さな花はハイビスカス。南国らしい風景だ。 鑑真記念館を後にして、40分走って、この日の昼食場所の「枕崎おさかなセンター」へ。着いたのは予定した午後1時ぴったりだった。会長の私は、訪ねる場所と時間のスケジュール調整に頭がいっぱいだったが、食事時間の1時に「枕崎おさかなセンター」に着くためには、余裕があれば行きたいと思っていた「丸木浜」や「坊津歴史資料センター・輝津館」などは残念ながら訪ねることはできなかった。私はこのコースは大好きで、車の免許のあるころは毎年のようにドライブしていてほとんどまわり尽くしていた。それだけに皆さんにも見てもらいたいという思いが強かったのでこのコースを選んだのだった。 私が選んだのは「かつおたたき膳」、わがチームで一番人気は「ぶえんかつお膳」だった。頭のでっかいあら炊きが美味しかった。 「枕崎おさかなセンター」の売店も充実していて、食事の後、我先にと買い物をしていたが、帰りにもう一ヶ所、南九州市の「道の駅・川辺 やすらぎの里」に寄ってここでもせっせと買い物をすることだった。
2023.09.21
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9月も終わりに近づいた今頃、3月の長崎の旅を書いている呑気なジージである。それも途中であちこちに飛び火するばかりか、書き込む間も途方もなく緩慢で忘れたころにやっと神輿が上がるという有様である。その昔、一年間、間を置いたこともあるジージにすれば、これももう習い性になってしまったのかと、自分で思う。実に情けない話である。 さて、今日のタイトルの「長崎新地中華街をさるく」の「さるく」の意味をブロ友の皆さんはご存じだろうか。以前、長崎の話題を書いたときに同じ「さるく」という言葉を解釈も入れずに使った記憶がある。「さるく」とは長崎でも使われていることは、その昔、長崎に3年間住んだ私には「ここは鹿児島か」と戸惑った記憶もある。鹿児島弁でも同じ意味で使っているからだ。そこで今回「さるく」という言葉をネットで調べてみた。すると、「長崎、佐賀、福岡南部、宮崎、熊本、鹿児島で使われていて、九州の共通語に近い」と書いてあるのを発見した。私は長崎で鹿児島を感じたのだが、思っていたよりも九州各地で使われていることを初めて知ることだった。肝心な「さるく」の意味はもう皆さんお気づきと思うが「うろつきまわる」「ぶらぶら歩く」「歩いて回る」「歩く」などである。因みに鹿児島ではそれが訛ると「きゅはいっぺこっぺさるっもしたやすったいだれもした」(今日はあちらこちら歩き回ったのですっかり疲れてしまいました)というような使い方をするが、もう鹿児島でも若い人には通じない。 この日は3月28日。これまで飛び飛びで書いてきたように朝早くから「一本足鳥居の山王神社」「原爆落下中心地の松山公園」「平和公園」「浦上天主堂」「如己堂」「オランダ坂と東山手」「孔子廟」「グラバー園」「唐人屋敷」とさるき回って、やっと中華街にたどり着いた。長崎に来た観光客は日本人、外国人を問わずほとんどの人が訪れる場所である。 「長崎新地中華街」は文字通り新地町に形成された中華街であるが、横浜中華街、南京町中華街(神戸)とともに日本三大中華街と称される。南北250mの十字路には、長崎の姉妹都市である福建省福州市の協力により石畳が敷かれ中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねる。四つの門があり、四神及び五行に基づく色は次の四つである。東門 「青龍」 (青)西門 「白虎」 (白)南門 「朱雀」 (赤)北門 「玄武」 (黒) 下の門は「北門」 ちゃんぽんを食べた後だったので、「角煮まん」と「ごま団子」を買って中華街に隣接する「湊公園」で食べた。この湊公園は毎年旧暦の正月に当たる春節に開催されるランタンフェスティバルのメイン会場となる。ランタンフェスティバルにはまだ行ったことがないが、一回は行ってみたいと思っている。
2023.09.19
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今朝も5時少し前に目が覚めた。昨夜、寝たのはいつもより30分早い9時だった。雑草園を見たら彼岸花が一輪咲いていた。 同居する二男が久しぶりに夜釣りに出かけた。昨日の午後4時30分に家を出て、6時ごろ出港の遊魚船に乗って、今日の午前10時ごろ帰ってくるという。そういうことで、日曜日の今日は息子を職場に送り出す必要もない。もっとも出勤の日も私が特別に面倒をみることもない。私は、勝手に早起きして、仏壇に線香を立ててお参りし一日が始まる。 昨夜洗っておいた食器の収納や、身の周りのことを済ませて、一人でさっさとコーヒーを沸かすなど朝ごパンの準備をし、自分だけの食事を済ますのだ。いつも7時前には朝ごパンは終わっている。息子は7時ごろ起き出してきて、これもまた勝手に自分なりの食事の真似事をして、7時40分頃には職場に向かう。 昨日は土曜休みで、息子の洗濯物も少なく、いつもの6時起きで洗濯機を回す必要もないのに習慣は怖いものでいつもの目覚め、いつもの6時起床である。いつもと変わらない朝だが、息子がいないというだけで、何となく静かな朝である。 昨日は11月3日に開かれる鹿児島の「世代と仲間をつなぐコンサート」の出番の一つ「シニア混声合唱」の全体練習のため鹿児島中央駅前にあるイオンの8階・よかセンターに午前中出かけた。先週の日曜日も同じ場所で練習があったのだが、私は義兄の四十九日の法要と重なったので、昨日が初めての練習だった。もっとも自分の合唱団で少しは練習していたが、女声も含めた100人? くらいの練習は初めてだったので新鮮味があった。妻の所属していた合唱団の指揮者や皆さんが私を見かけて挨拶に見えたので恐縮した。同級生でお母さんコーラスの団長をしている友人や私の妹とも会って言葉を交わした有意義な一日だった。練習した曲は2曲「切手のない おくりもの」と「マイ・ウェイ」。どちらもいい曲だ。この全体練習は10月に2回あるので、何とかなるのではと思っている。 一方の男声合唱は「秋のピエロ」「梅雨の晴れ間」「群青」「少年時代」の4曲である。これまで1回全体練習があったが、あと3回9月24日、10月22日、29日の練習が残されている。こちらは私たちの練習日に合わせてあるので、特別な日に出かける必要はないし、これまでに歌い込んだ曲ばかりなので心配はないと思う。それが終わると、いよいよ私たちの楠声会の創立70周年記念の演奏会が開かれる来年4月28日(日)に向けての本格的な練習が始まる。来年になると全国から集まるメンバーも含めて2回の強化練習も計画されている。楽しみの中にも緊張感もある。演奏会成功に向けて先ずは体調の維持が最優先である。
2023.09.17
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