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藤原道長(ふじわらのみちなが)この世をばわが世とぞ思ふ 望月の虧かけたることも無しと思へば藤原実資さねすけ『小右記しょうゆうき』(寛仁二年・1018 旧暦十月十六日、新暦換算11月26日付)この世をば、わが世だなあと思うのだ。この満月の欠けたところもないのを思えば。註日本史上名高い、いわゆる「望月の歌」。NHK大河ドラマ『光る君へ・望月の夜』、11月17日放送。詠まれた時季と放送日もほぼ一致して、新たな感慨にいざなわれた。作者・道長と紫式部が、若き日の満月の夜の褥(しとね)の交情を二人で密かに思い出しているという脚色は、想定内ではあったが、やはり見事な伏線の回収だった。その美しく情熱的なラヴシーンがあったのは、春まだ浅き3月10日放送の遠い過去なのであった。この場合、「このよ」は「この夜」(思い出の夜)ということになり、満月は二人の愛情の比喩、またはまひろへの賛辞になるだろう。これでも確かに意味が通る。望月の歌はまひろに捧げられドラマとしてはこれにてまほら 野原が、実際には以下の解説のごときが穏当であろう。望月のかけたることもなしと思へば : この下の句の正確な解釈は、意外と難しい。古来、上掲拙訳のニュアンスあたりで理解されてきたのだが、一般的な解釈としてはそれでいいと思うが、少し穿てば「満月というものは、かつて欠けたことがない」という論理的な(理屈っぽい)ニュアンスかなとも思われる。または、この夜の月は、実際には十六夜(いざよい)で、わずかに欠け始めていたのだが、それを「欠けたところもないと思ってみれば」という、説明的な意味だという説もある。案外これが正解かも知れない。当時の彼ら上級貴族の必修科目の教養で、当然作歌の参考にしたであろう『古今和歌集』には、こういった(やや散文的な)理屈の歌が少なからずあり、後世、万葉集を称揚した明治の巨人・正岡子規によって論難され、その戒めの流れは現代短歌にも及んでいる。いずれにせよ、「辞世」とまでは言わずとも、今でいう「生涯詠」的な深い詠嘆の情が込められていることは間違いないだろう。いわゆる「今がピーク」という思いもあっただろう。平安時代中期、事実上の最高権力者である左大臣(現・内閣総理大臣)の地位にあった藤原道長(今年の大河ドラマでは柄本佑が見事な好演)の詠んだ歌として古来著名。教科書には必ず載っているが、国語(古文)ではなく社会(日本史)なのも珍しい。道長の長女・彰子(あきこ、しょうし / 見上愛)は、一条天皇の中宮(皇后)となり二人の皇子を生んだ。この二人は、のちに後一条天皇と後朱雀天皇となる。この歌は、彰子と腹違いの娘・威子(たけこ、いし / 佐月絵美)が後一条天皇の中宮に入内(じゅだい)することとなり、その立后の儀式後のめでたい祝いの宴(うたげ)で詠んだ。この時点で、彰子が太皇太后、妍子(きよこ、けんし / 倉沢杏菜)が皇太后、威子が中宮となり、三人の后(きさき)を道長の娘が占め、皇室との縁戚関係でほぼ地位が決まった当時の上級貴族社会での権勢は、絶頂に達していた。これで人間、天狗になるなという方が無理であろう。あえて露悪的に「天狗ですよ」と演じて見せた面もあるかも知れない。この時道長は、当時としてはすでに老境といえる52歳。その場に同席した、碁敵(ごがたき)のような政治的好敵手で、有職故実にも博覧強記のきわめて几帳面な学者肌の実力者だった藤原実資(ロバート・秋山竜次)が、その日記『小右記』にこの宴席の模様を客観的に詳らかに書き残したため、長く後世に伝わることとなった。そして、この歌自体が故実・伝説(レジェンド)となった。・・・実資、グッジョブだった作者・道長自身の日記『御堂関白記』には、この夜歌を詠んだことは書いてあるが、内容は書かれていない。その場の即興(インプロビゼーション)ゆえであろうか、「思ふ」「思へば」の重複、2句目の字余り破調、下2句の意味が今一つ分かりにくいなど、和歌作品としての完成度が高いとは、お世辞にも言えない。いわば「文芸担当」の部下だったともいえる紫式部(吉高由里子)も達人だった、当時すでにかなり発達していた象徴主義的な表現の幽玄微妙などどこ吹く風の、露骨ともいえる直截な表現である。が、それにもかかわらず、凡百の和歌が裸足で逃げ出すど迫力があることはご覧の通りである。読み取れるのは、一部は隠しようのない実感・満足感、一部は祝いの席での放埓な哄笑、さらにはややはったりの虚勢・強がりといったところだろうか。巷間、怪物的な自恃自矜(ナルシシズム)の典型のように批判的に言われてきたが、よく読めば、案外それほどの排他的(エグゼクティヴ)な心境を示したものではなくて、単純素朴で無邪気(イノセント)な、子供っぽい多幸感(エクスタシー)を率直に表現したものとも思える。酒席での座興の陽気な乗り(アドリブ)ということもあり、全く共感できるとまでは言わないが、かなり情状酌量すべき余地はある。われわれ庶民といえども、人としてこの世に生まれてきた以上、道長の何百分の一であっても、このような境地を二度や三度味わうのは悪くないのではなかろうか。結婚や、子供が生まれた時とか、仕事で大成功したとか、そして、道長と同様、子供がすくすくと成長して、ひとかどの大人になりゆくときなど、枚挙にいとまはなけれども。ただ、当時の権謀術数渦巻く平安国家権力中枢にあって、これほど脇の甘い太平楽な歌を詠むとは、案外お人好しの、人好きのする「いい奴」だった面があるのではないかとも思えてしまう。人望があったわけだ。実際に、長女・彰子の女房(侍女兼家庭教師のようなもの)だった天才的なスーパーインテリジェント・キャリアウーマン紫式部をはじめ、当時の一流の女性たちにもてもてであり、あの「光源氏」のモデル(の少なくとも一人)となったことは疑いないと言っていいだろう。(ちなみに、「紫式部」は『源氏物語』のヒロインである「紫の上」になぞらえた後世のニックネームみたいなものであって、当時の宮廷での準公式呼称は「藤式部」であった。本名は定かでない。「薫」説は割と有力。)もちろん、現代のような民主主義社会ではないから、作者のような権力者は威張っている側面もあっただろうし、庶民は苦しんでいたなど、言い出せば切りがないが、その時代の制約の中で、おのが運命の中で精いっぱい生きた人の晩年の、ひとつの喜びの絶唱ではないかと思われる。・・・と同時に、この歌に、わずかに不吉な翳が射しているのを読み取るのは私だけではあるまい。「望月」が欠けたところがないという我田引水で牽強付会なイメージの展開が、今現在の境遇がピークであり、満ちた月は明日の夜から欠け始めるという栄枯盛衰・生者必滅・色即是空・祇園精舎の無常を微かに連想させてやまない。当時、位人臣(くらいじんしん)を極め全権力を掌握していた藤原氏の完全無欠な権柄と栄耀栄華は世を覆っていたが、すでにこの時、道長の身体は貴族社会の不健康な生活習慣・栄養の偏りや運動不足、過度の飲酒、ストレスなどによってであろうが、飲水病(現・糖尿病)に罹患しており、眼病(糖尿病性の黄斑変性症などの網膜疾患?)や脚気衝心(心臓神経症=ビタミンB群欠乏症)も患っていたという。藤原氏の繁栄も、彼一代が頂点であり、はつかなる綻びと衰亡の予兆も垣間見せ始めていた。彼自身、さすがに悟ることがあったと見え、この翌年には剃髪して仏門に入り、病気の治療を加持祈祷の神通力に縋る次第となった。そんなこんなの、日本人なら誰しも持っている「諸行無常」な感受性を呼び起こす点でも、やや下手で放胆なこの歌をして、天下の名歌たらしめているゆえんであるといえよう。僕らの世代には、松任谷由実(当時、荒井由実)の『14番目の月』の歌詞も連想される。・・・それにしても、あと数回で終わってしまうという今年の大河ドラマは、僕個人的には歴代最高水準の大河だった。よくやってくれた。一年間、本当に楽しかった。毎週日曜日の夜が待ち遠しくてたまらなかった。僕にとって「光る君ロス」「まひロス」は甚大な精神的打撃になると予感される。「ましゃロス」とか「にのロス」とか言っていた女の子たちの気持ちがよく分かる晩秋なのである。
2024年11月18日
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光源氏(ひかるげんじ)もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに 年もわが世もけふや尽きぬる紫式部『源氏物語・幻』物思いに耽って過ぎ去ってゆく月日にも気づかないでいた間にこのひととせも、わが人生も今日尽きてしまうのだろうか。* NHK大河ドラマ『光る君へ』11月3日放送。
2024年11月04日
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藤原彰子(ふじわらのあきこ、しょうし)見るままに露ぞこぼるる おくれにし心も知らぬ撫子なでしこの花後拾遺和歌集 569見ているだけで涙がこぼれるのです。見ていると、朝露がこぼれる撫子の花を無邪気に摘んで持ってきた、遺されたことを心にも知らぬ、花のような撫でし子よ。註一条天皇の中宮(皇后)だった作者が、崩御によって皇太后となったある日、まだ父の死を知らぬ頑是ないわが子・敦成あつひら親王(のちの後一条天皇)が、撫子の花を摘んできたのを見て詠んだ。「文学担当」の女房(侍女、女官)だった藤式部(紫式部)の指南も入っているかも知れない。象徴主義的技法を用いている佳品。* NHK大河ドラマ『光る君へ』10月27日放送。
2024年11月03日
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一条天皇 御製(おおみうた、ぎょせい) 御辞世露の身の草の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞかなしき藤原行成『権記ごんき』藤原道長『御堂みどう関白記』露のように儚いこの身がかりそめの宿である草の葉に君を残して塵にまみれた現世から去ってしまうことがたまらなくかなしいのだ。註NHK大河ドラマ『光る君へ』第40回「君を置きて」、10月20日放送。超絶美青年・塩野瑛久あきひさの好演が評判となった。明らかに一人の女性への思慕を詠んでいるのは、公の立場の高貴な上つ方の辞世歌としては珍しい例なのではないか。「君を置きて」の一字余りが、ここでは強い執着を示し、むしろ印象的・効果的。辞世:この世を辞するにあたって詠む和歌。もと皇族・貴族の風習だったが、のちには武士階級とその末裔にも伝承され、現在に至る。君(を置きて):この「君」が誰であるかについては、古来憶測を逞しゅうされてきた。最期を看取った中宮・藤原彰子と見るのが普通だろうが、いやそうではなく、今は亡き前皇后の藤原定子のことだという解釈も根強い。定子は第3子出産時に逝去しているが、当時の仏教の教理では、産褥死は成仏できず、その霊はまだこの世をさまよっているという考えによる。行成は定子説、道長は当然実の娘の彰子説だったといわれる。同時代に生きた紫式部(藤式部)の見解も聞いてみたいものだ。まあ、今となっては永遠に答えが出ない問題ではある。ことぞかなしき:この結句は、側近の重臣で能吏だった行成の公的職務日誌『権記』による。道長の『御堂関白記』によれば「ことをこそ思へ」(~ことを深くしみじみと思うのだ)となっている。この場合、「思へ」は命令形ではなく、強調の係り結びの連用形。ただ、どちらにしても歌の大意に影響はない。
2024年10月25日
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藤原惟規(ふじわらののぶのり) 辞世都にも恋しき人のおほかれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ後拾遺ごしゅうい和歌集今昔物語京の都には恋しい人がいっぱいだからなおもこの度は生き抜こうと思うのだ(浄土に行く前に、都にもこの旅は行こうと思うのだ)。註NHK大河ドラマ『光る君へ』13日放送。作者は、紫式部の兄弟(兄または弟)。大河ドラマでは弟の設定。姉妹・紫式部ほどのずば抜けた文才はないが、快活で人好きのする風流人であったと伝わる。演:高杉真宙。ナチュラルな演技が良かった。越後守(えちごのかみ、勅命による新潟県知事のようなもの)として赴任した父・藤原為時の命に従い、おそらく役人実務見習いとして訪れた越後国で、間もなく病を得て急逝。まだ三十歳代だったという。大河でも、ややあっけにとられるぐらいの急な展開だったが、おおむね史実だという。この一首は、今わのきわの病の床で自らしたため、「思」の字まで書いたところでこと切れたと伝わるから、まさに辞世中の辞世の歌。父・為時が悲しみの中で末尾の「ふ」を書き足したという。このたびは:「この度は(今回は)」と「この旅」を掛けている。菅原道真(すがわらのみちざね)の名歌「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」を踏まえている。全体としても、この道真の歌の華やかなイメージをそこはかとなく響かせているとも見える。いかむ:「行こう」と「生かむ(生きよう)」の両義を掛けている。「この旅は行こうと思う」の文脈の場合、「死出の旅だが、せめて魂だけでも都に帰ろうと思う」という、哀切悲愴なニュアンスも帯びる。
2024年10月16日
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和泉式部(いずみしきぶ)もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれ出いづるたまかとぞ見る後拾遺ごしゅうい和歌集 1162もの思いに耽っていると沢に舞い飛ぶ蛍も(あなたが恋しくて)この身からさまよい出た魂かと思えるのです。註あくがる:現代語「憧れる」の語源だが、平安時代ごろまでの原義は、「あく」(場所などを漠然と示す上古語の形式名詞)から「離(か)る」(離れる)こと。いわば「幽体離脱」のような意味。
2024年08月11日
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藤原定子(ふじわらのさだこ、ていし)夜もすがら契ちぎりしことを忘れずば 恋ひむ涙の色ぞゆかしき栄花物語後拾遺ごしゅうい和歌集 536私との夜よを忘れずにいたならば君の涙の色は何色―― 俵万智訳(『NHK短歌』8月11日放送)ひと晩中ともに過ごして契ったことを忘れないでいてくださるならばわたくしに恋い焦がれるあなたの涙の色が何色なのか知りたいのです(それは、血の涙・紅涙の紅でしょうか)。註この歌を贈られた相手は、一条天皇(今年の大河ドラマでは塩野瑛久)。ドラマでこのところ展開されつつある、中宮(皇后)として次第に孤立を深める八方塞がりの状況の中で詠んだ絶唱。けっこう怖い情念と執炎の歌か。日本女性のトップの地位ともいえる皇后だが、ドラマの中で何度も言及されているように、幸せとは言い切れないようだ。むしろこの回のタイトル「いけにえの姫」の通り、いわば人身御供なのかも知れない。この歌は、ほぼ辞世(この世を辞するに当たって詠んだ歌)に近い。作者はこのあと第三子を出産直後、逝去。享年24歳。高畑充希が、悲運の高貴な姫君を渾身で演じて、見事なはまり役。ゆかし:もとは動詞「行く」を形容詞化したもの。「行ってみたい」の原義から、「見てみたい、知りたい」、「慕わしい、いとおしい」などの多義的なニュアンスを伴って現代語「ゆかしい」に至った。「奥ゆかしい」の語も派生した。ちなみに、清少納言は作者の女房(おそば付きの侍女兼家庭教師のような女官・官女)だったが、作者の死没とともに零落したともいわれる。また、のちに歌聖と呼ばれた若き西行(佐藤義清)は、のちに最高権力者となった同い年の平清盛とともに、一条天皇の北面の武士(御所を守護する近衛兵)だった。平安の世(日本古代の最後期)の絢爛たる文化はこのころピークを迎え、その終末(武士の世への変革)をも微かに兆していた。
2024年07月07日
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俵万智訳神にさえ止められぬのはこの心 ただただ恋しい君にあいたい『NHK短歌』14日放送。伊勢物語「ちはやぶる神の斎垣いがきも越えぬべし恋しき人のみまくほしさに」の、半ば創作的な現代語訳。
2024年04月15日
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細川ガラシャ玉 辞世散りぬべき時知りてこそ 世の中の花も花なれ人も人なれ先立つはけふを限りの命とも まさりて惜しき別れとぞ知れ慶長五年(1600)旧暦七月(新暦8月)散ってしまうであろう時を知ってこそこの世の中の花は花なのだ 人も人なのだ。あの世へ先立つくやしさは今日を限りに果てる命ということよりもあなたとの今生のお別れなのだと知ったのです。註細川ガラシャ玉(または珠):戦国武将・明智光秀の娘で細川忠興の妻。ガラシャ(Gracia、グラシア、グラーシャ)はキリスト教の洗礼名(クリスチャン・ネーム)。英語グレイス Grace。ラテン語(古代ローマ公用語)で(神の)恩寵・賜物の意味。本名「たま」に掛けて名づけられたとも言われる。辞世:この世を辞するにあたり短歌を詠む伝統的風習。また、その歌。「こそ・・・なれ」は、強調の係り結び。「なれ」は連体形(命令形ではない)。「ぞ・・・知れ」も同様。
2024年04月11日
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いろは歌色は匂へど散りぬるを 我が世誰たれぞ常ならむ 有為うゐの奥山けふ越えて 浅き夢見じ ゑひもせず花の色は照り映えているけれどもやがて散ってしまうのを見ればわれらが現世はいったい誰が常磐であろうか。有為転変の奥山を今日も越えて来て浅き夢などもう見るまい、酔いもするまい。註長く敬愛されてきた不朽の名歌。作者は不詳だが、知識階級であった僧侶の誰かであることに間違いはないだろう。有為:仏教概念で、因縁によって生じるすべての現象と変化。4行目は、「浅き夢見しゑひもせず」であるとする古来の解釈もある。この場合は、「浅き夢見し(ことに)ゑひもせず」の省略形となる。「見し」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形で、「連体形の準体言用法」となる。この場合の訳は、「浅い夢を見たことに酔いもしなかった」となり、これはこれで十分に意味は通じるし、捨てがたい解釈である。当時、濁点表記がなかったために生ずる異見である。また、2行目の「常ならむ」は、もともと可能の「え常ならむ(恒常的でいられるだろうか)」だったとする説もある。「越えて」の「え」はヤ行の「え」、こちらはア行の「え」で、上代では区別したので、一理あるといえる。
2024年04月11日
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本居宣長 六十一歳自画像 寛政二年(1790)旧暦八月賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのがかたなり筆のついでに しき嶋のやまとごころをひととはば朝日ににほふ山ざくら花」(筆者註:適宜濁点を加えた。)本居宣長(もとおり・のりなが)敷島しきしまのやまとごころを人問はば 朝日ににほふ山桜花自画自賛(自分の肖像画に銘として書いた詩歌)「この国の、われわれ日本人の心とは何なのでしょうか」と人々が私に問うならば、(その答えは)朝日に照り映える山桜花。註明治維新を思想的に準備した、江戸期の国学の大成者の、ほぼ辞世(遺言)ともいえる名歌。優渥な表現でありつつ、内容は「道歌」(哲学・思想的観念を表現した歌)とも言える。敷島の:「やまと(大和)」に掛かる枕詞の一つ。* 交配でソメイヨシノが作り出されたのは幕末で、普及したのは明治時代とされるので、当時は桜といえば野性味のある山桜のイメージが強かった。 本居宣長 / オオヤマザクラウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2024年04月09日
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西行(さいぎょう)ねがはくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月もちづきのころ山家集願うのは桜の花のもとで春死のう。その如月の満月の頃。註(花の)下:読み方は、「もと」と「した」の両説があり、確定し難い。如月の望月:旧暦二月十五日の満月のこと。新暦では例年3月末~4月初め頃の桜の季節に当たる。ねがわくは・・・死なむ:「願うことは・・・死ぬであろうこと」の構文なので、この「む」は終止形でなく連体形で、「こと」などが省略されている「連体形の準体言(見なし体言)用法」。西行:本名、佐藤義清(のりきよ)。「歌聖」といわれ、後世の詩歌にもたらした影響は絶大。「俳聖」松尾芭蕉の傾倒ぶりは有名。若い頃は、鳥羽上皇院政下の北面の武士(御所の南大門を守った天皇家の近衛兵)で、武勇を以って聞こえた。あの平清盛とも同い年の同僚で、親友だった。この友情は晩年まで続き、伊豆の流人だった挙兵前の源頼朝や、奥州平泉の藤原秀衡を尋ねたりしている。あるいは、政治的な含みがあったとも考えられる。1140年、23歳の時、卒爾として地位も妻子も捨てて出家し真言宗の僧侶となり、現世(げんぜ)への執着に苦しみながらも、各地を漂泊して数々の名歌を詠んだ。伺候した一条天皇の崩御で世を儚(はかな)んだとも言われるが、詳細は不明。ほとんどの歌は家集『山家集』に収められ、新古今和歌集にも多数入集している。仏教の目的である、輪廻転生の煩悩から解脱して西方浄土へ行くという悲願を示す「西行」という出家名がすごい。経歴から見ても、決してなよなよとした青白きインテリではなく、むしろマッチョな男っぽい男だったと思われる。マッチョ系の作家、アーネスト・ヘミングウェイとか三島由紀夫とか石原慎太郎みたいな感じだろうか。この歌に詠んだ(予告した?)通り、西行は健久元年(1190)の旧暦2月16日に入寂した。奇しくもこれは、釈迦(ゴータマ・シッダールタ、紀元前566頃-前485頃)の涅槃(ニルヴァーナ)と同じ日であった。当時としてはかなりの長命といえる72歳の天寿を全うした。現在では、2月15日が西行忌とされているという。* 画像クリックで拡大ポップアップ。
2024年04月08日
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平兼盛(たいらのかねもり)世の中にうれしきものは 思ふどち花見てすぐす心なりけり拾遺和歌集 1047この世の中で何よりもうれしいのは思い合う者同士が同じ花を見て過ごしているその心だなあ。
2024年04月02日
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よみ人知らずちはやぶる神の斎垣いがきも越えぬべし 恋しき人のみまくほしさに反歌恋しくは来ても見よかし ちはやぶる神のいさなむ道ならなくに作者不詳『伊勢物語』より(伊勢神宮の)恐れ多い神域の垣根も越えてしまうでしょう。恋しいあなたに会いたい一心で。恋しいとお思いなら来てみなさいませ。(恋の道は)恐れ多い神様の諫める道ではないのですから。註NHK大河ドラマ『光る君へ』(2月11日・18日放送分の、いずれも重要なラストシーン)で、若き藤原道長がまひろ(若き紫式部)に贈った玉梓(たまずさ、今でいうラブレターに相当する和歌)として登場。実際には、当時の身分や男女の懸隔もあり、この時点ではまずありえない展開だが、のちのちこの二人の間には恋愛感情が存在したとも思われるので、なかなか面白い伏線となった。伊勢物語の原作では、女が男に贈った歌と、それに男が返した設定。ちはやぶる:「神」に掛かる枕詞(まくらことば)。語源は「逸早振る(いちはやふる)」といわれ、極めて激しく振る舞うものの意味。「神が鳴る」のが「かみなり(雷)」である。神の化身が、「大口の真神(まがみ)」、狼(おおかみ)である。また、「くま(熊)」も「かみ(上古語かむ)」と語源的関係があるという説がある。世界の多くの民族宗教に見られる通り、神の原初的イメージは、怒り荒れ狂う恐るべき絶対者だった。斎垣いがき:神社などの神域を囲む垣根。「斎い」は「斎宮(いつきのみや、さいぐう)」の造語成分でもあり、おそらく動詞「忌む」と同根か。
2024年02月21日
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* この記事は、2010年9月22日に投稿したものですが、これだけで閲覧数が数万アクセスに達する人気記事となっており、このブログサイトで常に上位にランキングされています。若干加筆修正して再掲します。藤原道長(ふじわらのみちなが)この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば藤原実資さねすけ『小右記しょうゆうき』(寛仁2年・1018 晩秋の条)この世をば、わが世だなあと思うのだ。この満月の欠けたところもないのを思えば。註望月のかけたることもなしと思へば : 満月というものが(言葉の定義、概念として)欠けたことがないという論理的な(理屈っぽい)ニュアンスか。意外に分かりづらい下の句である。ほぼ同時代の古今和歌集には、こういった理屈の歌がけっこう散見される。平安時代中期、事実上の最高権力者である左大臣の地位にあった藤原道長(今年の大河ドラマでは柄本佑)の詠んだ歌として古来有名。教科書には必ず載っているが、国語(古文)ではなく社会(日本史)なのも珍しい。道長の長女・彰子(あきこ、しょうし)は、一条天皇の中宮(皇后)となり二人の皇子を生んだ。この二人は、のちに後一条天皇と後朱雀天皇となる。1018年、彰子と腹違いの娘・威子(たけこ、いし)が後一条天皇の中宮に入内(じゅだい)することとなり、その立后(旧暦10月16日、折しも当夜は満月、新暦11月26日)のめでたい宴(うたげ)で詠んだ。この時道長は、当時としてはすでに老境といえる52歳。その場に同席した、碁敵(ごがたき)のような政治的好敵手であった藤原実資(ロバート・秋山竜次)が、その日記『小右記』にこの宴席の模様を詳らかに書き残したため、長く後世に伝わることとなった。その場の即興(インプロビゼーション)ゆえであろうか、「思ふ」「思へば」の重複、2句目の字余り破調、下2句の意味が今一つ分かりにくいなど、和歌作品としての完成度が高いとは、お世辞にも言えない。当時すでに発達していた象徴主義的表現の幽玄微妙などどこ吹く風の、露骨ともいえる直截な表現である。が、それにもかかわらず、凡百の和歌が裸足で逃げ出すド迫力があることもご覧の通りである。内容から読み取れるのは、半ば実感、半ば虚勢・強がりといったところだろうか。巷間、怪物的な自恃自矜(ナルシシズム)の典型のように言われるが、よく読めば、案外それほどの排他的(エグゼクティヴ)な心境を示したものではなくて、単純素朴で無邪気(イノセント)な多幸感(エクスタシー)を率直に表現したものとも思える。酒席での座興の陽気な乗り(アドリブ)ということもあり、全く共感できるとまでは言わないが、かなり情状酌量すべき余地はある。われわれ庶民といえども、人としてこの世に生まれてきた以上、道長の何百分の一であっても、このような境地を二度や三度味わうのは悪くないのではなかろうか。結婚や、子供が生まれた時とか、仕事で大成功したとか、そして、道長と同様、子供がすくすくと成長して、ひとかどの大人になりゆくときなど、枚挙にいとまはなけれども。ただ、当時の権謀術数渦巻く平安国家権力中枢にあって、これほど脇の甘い太平楽な歌を詠むとは、案外お坊ちゃま丸出しで「天然系」の、意外と人好きのする、けっこう「いい奴」だったのではないかと思う。事実、長女・彰子の女房(侍女兼家庭教師のようなもの)だったインテリジェント・キャリアウーマン紫式部(吉高由里子)をはじめ、当時の一流の女性たちにもてもてであり、あの「光源氏」のモデル(の少なくとも一人)となったことは間違いないと言っていいだろう。(・・・ちなみに、私の勝手な直感と想像で言えば、ロバート秋山こそ、道長の実像に近いのではないかと思っているぐらいだ。芸人として駆け出しのころからファンで、あの豪胆でありつつ繊細な感じが好きだった。キャスティングの皮肉ではないか。)・・・と同時に、この歌に、わずかに不吉な翳が射しているのを読み取るのは私だけではあるまい。「望月」が欠けたところがないという我田引水で牽強付会なイメージの展開が、今現在の境遇がピークであり、満ちた月は明日の夜から欠け始めるという栄枯盛衰・生者必滅・色即是空・祇園精舎の無常を微かに連想させてやまない。当時、位人臣(くらいじんしん)を極め全権力を掌握していた藤原氏の完全無欠な権柄と栄耀栄華は世を覆っていたが、すでにこの時、道長の身体は貴族社会の不健康な生活習慣・栄養の偏りや運動不足、過度の飲酒、ストレスなどによってであろうが、飲水病(現・糖尿病)に罹患しており、眼病(糖尿病性の黄斑変性症などの網膜疾患?)や脚気衝心(心臓神経症=ビタミンB群欠乏症)も患っていたという。藤原氏の繁栄も、彼一代が頂点であり、はつかなる綻びと衰亡の予兆も垣間見せ始めていた。彼自身、さすがに悟ることがあったと見え、この翌年には剃髪して仏門に入り、病気の治療を加持祈祷の神通力に縋る次第となった。そんなこんなの、日本人なら誰しも持っている「諸行無常」な感受性を呼び起こす点でも、やや下手で放胆なこの歌をして、天下の名歌たらしめているゆえんであるといえよう。僕らの世代には、松任谷由実(当時、荒井由実)の『14番目の月』の歌詞も連想される。
2024年01月15日
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よみ人知らず芹せり 薺なづな 御形ごぎやう 繁縷はこべら 仏の座 菘すずな 清白すずしろ これぞ七種ななくさ註南北朝時代の1360年代に、公家の学者・歌人四辻義成によって著された『河海抄』という源氏物語の注釈書が初出といわれる。秋の七草の歌は万葉集に見え、歌人・山上憶良というれっきとした作者がいるが、こちらは当時の俗謡のたぐいか。くだんの四辻義成作との説もあるが、不詳。いずれにしても、野趣溢れ人口に膾炙した、なかなかの名歌と言えよう。芹せり:セリ科。薺なづな:アブラナ科。通称・小児語 ぺんぺん草。生長すると花茎の塔(とう、あららぎ)が立ち、三味線の撥(ばち)のような果実を付ける。冬から早春の若葉(ロゼット)を食べる。御形ごぎやう:「おぎょう」ともいう。母子草(ハハコグサ)。キク科。繁縷はこべら:ハコベ。ナデシコ科。仏の座:コオニタビラコ(小鬼田平子)。キク科。現在の和名でいうホトケノザとは別種。菘すずな(鈴菜):蕪(かぶら、かぶ)。アブラナ科の根菜。古来、丸っこいものに、神聖感のある「鈴」の名を付けて美称とした。余談だが、「(お)ちんちん」にも似たようなニュアンスがあると思われ、鈴の音の擬音語。古語は「ふぐり(殖栗、睾丸)」。清白すずしろ:大根(アブラナ科)の美称。「蘿蔔」とも書く。
2024年01月06日
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源実朝(みなもとのさねとも)箱根路はこねぢをわれ越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ家集『金槐和歌集』昼なお暗き鬱蒼たる箱根の山道を私が越えてくるとああ 燦々と光さざめく広大な伊豆の海だなあ。遥か沖の小さな島に白波がうち寄せているのが見える。註映画技法の用語を援用すれば、(カメラの)移動とズームアップ、クローズアップが用いられている、叙景の名歌。下の句、作者の意識はこの光景に没入し溶け込んでゆき、ついには消失してしまうかのようである。越え:動詞「越ゆ」はヤ行の活用なので、連用形の歴史的仮名遣いは「越え」となる。「越へ」ではない。(伊豆の海)や:強い詠嘆(感動)を表す終助詞。一語で簡明に対応する現代語はない。もともと古くは「か」と同じく疑問の意味だったが、「これが・・・なのか」といった反語的疑問形のニュアンスから、しだいに「ああ、・・・なのだなあ」という深い詠嘆を示すと見なされるに至った。後世、俳聖・芭蕉が、その代表作で日本文学史上の最高峰でもある「古池や」「しづかさや」「夏草や」などの名句で多用して以来、俳句では「切れ字」の一つとしてきわめて重要視(神聖視?)される魔法の詩的単語。実作者であれば、軽々しく用いるのは慎むべきであろう。寄る見ゆ:活用語(この場合は動詞)の連体形の準体言(見なし体言)用法。「寄る(ことが、光景が)見ゆ」の括弧内が省略されている形。古典文学では普通に出てくる必須文法。現代でも、歌謡曲の歌詞などを含む詩的な表現や、レトロな格調を伴う言い回しではけっこう用いられ、この註釈文の数行前の「見なされるに至った」もその一つである(「見なされる(こと・仕儀)に至った」の略)。
2023年05月13日
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恵慶(えぎょう)天の原空さへ冴えや渡るらむ 氷と見ゆる冬の夜の月拾遺しゅうい和歌集 242天の原の空さえも冴え渡っているのだろうか。氷と見える冬の夜の月。註冴えや渡る:「冴え渡る(一面にわたって冷え冷えとする)」に、疑問の係助詞「や」を挟んだ形。
2023年01月08日
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よみ人知らず芹せり 薺なづな 御形ごぎやう 繁縷はこべら 仏の座 菘すずな 清白すずしろ これぞ七種ななくさ註南北朝時代の1360年代に、学者・歌人の四辻義成によって著された『河海抄』という源氏物語の注釈書・随筆が初出とされる。秋の七種の方は古代の万葉集に見え、歌人・山上憶良というれっきとした作者がいるが、こちらは当時の俗謡か。四辻義成その人の作との説もあるが、不詳。いずれにしても、野趣溢れ人口に膾炙した、なかなかの秀歌と言えよう。芹せり:セリ科。薺なづな:アブラナ科。通称ぺんぺん草。生長すると花茎の塔(とう、あららぎ)が立ち、三味線の撥(ばち)のような果実を付ける。晩冬から早春の若葉(ロゼット)を食べる。御形ごぎやう:「おぎょう」ともいう。母子草(ハハコグサ)。キク科。繁縷はこべら:ハコベ。ナデシコ科。仏の座:コオニタビラコ(小鬼田平子)。キク科。現在の和名でいうホトケノザとは別種。菘すずな:蕪(かぶら、かぶ)。アブラナ科。語源は、丸い形を鈴に見立てたか。ちなみに、「おちんちん」の語源も、睾丸をちんちん鳴る鈴に見立てたものである。清白すずしろ:大根(アブラナ科)の美称。「蘿蔔」とも書く。
2023年01月06日
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よみ人知らず芹せり 薺なづな 御形ごぎやう 繁縷はこべら 仏の座 菘すずな 清白すずしろ これぞ七種ななくさ註南北朝時代の1360年代に、学者・歌人の四辻義成によって著された『河海抄』という源氏物語の注釈書・随筆が初出とされる。秋の七種の方は万葉集に見え、歌人・山上憶良というれっきとした作者がいるが、こちらは当時の俗謡か。四辻義成作との説もあるが、不詳。いずれにしても、野趣溢れ人口に膾炙した、なかなかの秀歌と言えよう。芹せり:セリ科。薺なづな:アブラナ科。通称ぺんぺん草。生長すると花茎の塔(とう、あららぎ)が立ち、三味線の撥(ばち)のような果実を付ける。冬から早春の若葉(ロゼット)を食べる。御形ごぎやう:「おぎょう」ともいう。母子草(ハハコグサ)。キク科。繁縷はこべら:ハコベ。ナデシコ科。仏の座:コオニタビラコ(小鬼田平子)。キク科。現在の和名でいうホトケノザとは別種。菘すずな:蕪(かぶら、かぶ)。アブラナ科。清白すずしろ:大根(アブラナ科)の美称。「蘿蔔」とも書く。
2022年01月07日
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藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)さらぬだに寝覚めがちなる冬の夜を 楢ならの枯葉にあられ降るなり続後撰しょくごせん和歌集ただでさえ目覚めがちな冬の寒い夜なのに降り積もったナラの枯葉に、あられがけたたましく降っている(ので、うるさくてますます眠れないなあ)。註王朝和歌としては珍しく諧謔味・ユーモアを感じさせる佳品。昔の日本の木造家屋は(おそらく作者のような貴族の邸宅であっても)、すきま風は吹き込み、寝具・暖房も未発達で、京都盆地の都の冬はことのほか厳しかったろう。さらぬだに:そうでなくてさえ。「さ」(そう)+「あらぬ」(・・・でなく)+「だに」(さえ)。(冬の夜)を:さらに、その上。助詞「を」が、不満・被害意識などのニュアンスを示す。ものを(・・・なのに)。
2021年12月20日
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西行(さいぎょう)ともすれば月すむ空にあくがるる 心のはてを知るよしもがな家集『山家集』ともすれば月の澄んでいる空に彷徨い出てゆく心の行きつく果てを知るすべがあればなあ。註あくがる:魂や心が、本来の場所(体、当時の認識としては「心臓」?)から「かる(離る・離れ出る)」こと。現代語「憧れる」の語源だが、今でいう「幽体離脱」のようなニュアンスが強い。「あく」は、「こと」「もの」「ところ」などを漠然と示す上古語の形式名詞という。「曰く=言ふ+あく」(言うことは、言うことには)、「思惑(思ふ+あく、思惑は当て字)」の造語成分として現代語にも残る。「見らく」「語らく」などの語もあった。
2021年09月25日
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赤染衛門(あかぞめえもん)やすらはで寝なましものを 小夜さよ更けてかたぶくまでの月を見しかな後拾遺ごしゅうい和歌集 680 / 小倉百人一首 59 (あなたがお見えにならないと分かっていれば)ためらわずに寝てしまえばよかったものを(来ないあなたを待ちわびながら とうとう)夜が更けて西に傾くまでの月を見てしまったのよ。註やすらふ:ためらう。躊躇する。ぐずぐずする。で:打消しの接続助詞。~しないで。寝なまし:寝てしまえばよかった。古語動詞「寝(ぬ)」の連用形「寝(ね)」+完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」+仮想・適当(~すればよかった)の助動詞「まし」の連体形。ものを:形式名詞「もの」に、接続助詞とも終助詞とも解し得る「を」がついた連語で、活用語の連体形に接続し、上の句を体言化して、悔恨、愛惜、不満などの気持ちを表わす。このまま現代語でも用いる。cf.)「あの時、ああしておけば良かったものを」。
2021年09月24日
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法然(ほうねん)月かげのいたらぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞすむ浄土宗宗歌月光が届かない里はないけれどもまことの光はしみじみと見つめる人の心にこそ澄みわたっている。〔尊い阿弥陀如来の慈悲は全ての人に平等に注がれているけれどもそれを虚心に受け入れて見つめる人の心にこそ住んでおられるのだ。〕註浄土宗宗祖・法然上人の一首。道歌(どうか、思想・宗教観念などを表現した和歌)の類いだが、一個の作品として見ても、象徴主義的な隠喩を用いた秀歌であると思う。眺む(る):じっと見つめて物思いに耽ること。現代語「眺める」の語源だが、ニュアンスは異なる。「すむ」は「澄む」かと思うが、「住む」が掛けてあるとも思われる。■ 浄土宗ウェブサイト■ 木版画「法然上人 月かげ」
2021年09月23日
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この記事は、2010年9月22日に投稿したものですが、これ一つで閲覧回数は3万アクセス行っており、このブログで常に上位にランキングされております。読み返してみると、我ながら確かに面白い記事になっており、大きく訂正すべき点もないようなので、閲覧の便のためそのまま再掲載します。藤原道長(ふじわらのみちなが)この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば藤原実資『小右記』(寛仁2年・1018)この世をば、わが世だなあと思うのだ。この満月の、欠けたところもないのを思えば。註平安時代中期、事実上の最高権力者である左大臣の地位にあった藤原道長の詠んだ歌として古来有名。道長の長女・彰子(しょうし)は一条天皇の中宮(皇后)となり、二人の皇子を生んだ。この二人は、のちに後一条天皇と後朱雀天皇となる。1018年、彰子と腹違いの娘・威子(いし)が後一条天皇の中宮に入内(じゅだい)することとなり、その立后の日(旧暦10月16日・新暦11月26日)の宴(うたげ)で詠んだ。この時道長52歳。その場に同席した、道長に批判的だった政敵・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が、その日記『小右記』にこの宴の模様を詳らかに書き留めたため、長く後世に伝わることとなった。その場の即興(インプロビゼーション)ゆえであろうか、「思ふ」「思へば」の重複、下2句の意味が今一つ分かりにくいなど、和歌作品としての完成度が高いとは言えない。当時すでに発達していた象徴主義的表現の幽玄微妙などどこ吹く風の、露骨ともいえる直截な表現である。が、それにもかかわらず、凡百の和歌が裸足で逃げ出すド迫力があることもご覧の通りである。内容から読み取れるのは、半ば実感、半ば虚勢・強がりといったところだろうか。巷間、怪物的な自恃自矜(ナルシシズム)の典型のように言われるが、よく読めば、案外それほどの排他的(エグゼクティヴ)な心境を示したものではなくて、単純素朴でイノセントな多幸感(エクスタシー)を率直に表現したものとも思える。酒席での座興のアドリブらしいこともあり、共感できるとまでは言わないが、やや情状酌量すべき余地はある。われわれ庶民といえども、人としてこの世に生まれて、道長の何百分の一であっても、このような境地を一度や二度味わうのは悪くないかも知れない。結婚式や、子供が生まれた時とか、仕事で大成功したとか、枚挙にいとまはなけれども。ただ、当時の権謀術数渦巻く平安国家権力中枢にあって、これほど脇の甘い太平楽な歌を詠むとは、案外お坊ちゃま丸出しで「天然系」の、意外と人好きのする、けっこういい奴(?)だったのかも知れないとさえ思う。・・・僕が勝手に抱くイメージでは、「渡辺徹」みたいな?事実、娘・彰子の女房(侍女兼家庭教師のようなもの)であったインテリジェント・キャリアウーマン紫式部をはじめ、当時の一流の女性たちにモテモテであり、あの「光源氏」のモデル(の少なくとも一人)となったことも、ほぼ間違いないと言っていいだろう。・・・と同時に、この歌に、わずかに不吉な翳が射しているのを読み取るのは僕だけではあるまい。「望月」が欠けたところがないという我田引水で牽強付会なイメージの展開が、今現在の境遇がピークであり、満ちた月は明日の夜から欠け始めるという栄枯盛衰・生者必滅・色即是空・祇園精舎の無常を微かに連想させる。当時、位人臣(くらいじんしん)を極め全権力を掌握していた藤原氏の完全無欠な権柄と栄耀栄華は世を覆っていたが、すでにこの時、道長の身体は貴族社会の不健康な生活習慣と運動不足、過度の飲酒、ストレスなどによってであろうが、飲水病(現・糖尿病)に罹患しており、眼病(糖尿病性の黄斑変性症などの網膜疾患?)や心臓神経症(脚気衝心=ビタミンB欠乏症?)も患っていたという。藤原氏の繁栄も、彼一代が頂点であり、はつかなる綻びと衰亡の予兆も垣間見せ始めていた。彼自身、さすがに悟ることがあったと見え、この翌年には剃髪して仏門に入り、病気の治療を加持祈祷の神通力に縋る次第となった。そんなこんなの、日本人なら誰しも持っている「諸行無常」な感受性を呼び起こす点でも、やや下手で放胆なこの歌をして、天下の名歌たらしめているゆえんであるといえよう。なお、僕らの世代には、松任谷由実(当時、荒井由実)の名曲「14番目の月」の歌詞も連想される。
2021年06月30日
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香川景樹(かがわ・かげき)尾羽をばふれてあきつとぶなる草川の みぎはに咲ける大和なでしこ歌集『桂園一枝』(天保元年・1830)尾羽おばねを触れ合わせて番つがいの蜻蛉とんぼが飛んでいる草繁る川の水際に咲いている大和撫子の花。註「とぶなる」と「咲ける」は、現代語では「飛んでいる」「咲いている」という一律な訳文になってしまうが、助動詞「なり(なる)」は「~である」という確認(目撃・現認)、「り(る)」は過去の出来事やイメージが現在まで継続しているニュアンスで区別される。 トンボウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2016年09月30日
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浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり) 辞世風さそふ花よりも猶なほ 我はまた春の名残をいかにとかせん元禄十四年(1701)旧暦三月十四日(新暦4月21日)風を誘って自ら散る桜の花よりもなお急せいて(散ろうとしている)私はいったいこの春の心残りをどうしたらいいのだろうか。註日本史上、最も有名な辞世歌である。桜は散り際がもっとも美しい。それにおのが身をなぞらえて潔く死す、が、残念と怨みをのんで死ぬこともあわせて示唆している、凄絶な歌といえる。あの四十七士は、これに殉じたか。武士の嗜みとして最期に和歌を詠むという慣習も、美しい伝統であった。紀貫之「桜花さくらばな散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける」(古今和歌集 89)を踏まえていると思われる。春の名残:季節の春と自らの青春の残影を掛けている。享年35。いかにとかせん:「いかにと」(どのようにと)+「か」(疑問)+せん(せむ、・・・しよう)、反語的疑問形。強い詠嘆のニュアンスを帯びる。意味としては、現代語「いかんともしがたい」に近い。なお、「~とやせん」とする異本もあるが、意味は同じ。 長谷川貞信画 仮名手本忠臣蔵四段目ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大
2016年04月04日
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高杉晋作(たかすぎ・しんさく)いまさらに何をかいはむ 遅桜おそざくら故郷の風に散るぞうれしき今さら私は何を(くどくどと)言うだろうか。遅咲きの桜が故郷の風に散るのは嬉しいことだなあ。散りゆきし花に色香いろかは劣れども 同じ心の散る桜花散っていった花に色香は及ばないけれども同じ心で散ってゆくこの桜花、わたくし。
2016年04月01日
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西行(さいぎょう)ねがはくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月もちづきのころ山家集願えるのならば桜の花のもとで春死のう。その如月の満月の頃。註(花の)下:読み方は「もと」と「した」の両説があり、確定し難い。如月の望月:旧暦二月十五日の満月のこと。新暦では例年3月末~4月初め頃の桜の季節に当たる(今年でいえば今月23日)。ねがわくは・・・死なむ:厳密にいえば「願うことは・・・死ぬであろうこと」の構文なので、この「む」は終止形でなく連体形で、「こと」などが省略されている「連体形の準体言(見なし体言)用法」ではないかとも思われる。西行:本名、佐藤義清(のりきよ)。「歌聖」といわれ、後世の詩歌への影響は絶大。俳聖・松尾芭蕉の傾倒ぶりは有名。若い頃は、鳥羽上皇院政下の北面の武士(御所の南大門を守った天皇家の近衛兵)で、武勇を以って聞こえた。あの平清盛とも同い年の同僚で、親友だった。この友情は晩年まで続き、伊豆の流人だった挙兵前の源頼朝や、奥州平泉の藤原秀衡を尋ねたりしている。あるいは、政治的な含みがあったとも考えられる。1140年、23歳の時、卒爾として地位も妻子も捨てて出家し真言宗の僧侶となり、現世げんぜへの執着に苦しみながらも、各地を漂泊して数々の名歌を詠んだ。伺候した一条天皇の崩御で世を儚はかなんだとも言われるが、詳細は不明。ほとんどの歌は家集『山家集(さんがしゅう)』に収められ、新古今和歌集にも多数入集している。仏教の目的である、輪廻転生の煩悩から解脱して西方浄土へ行くという祈願を示す「西行」という出家名も印象的。経歴から見ると、決してなよなよとした青白きインテリではなく、むしろマッチョな男っぽい男だったと思われる。マッチョ系の作家、アーネスト・ヘミングウェイとか三島由紀夫とか石原慎太郎みたいな感じだろうか。現代の歌人でいえば、衆目の一致するところ、巨匠・佐佐木幸綱氏。ほぼこの歌に詠んだ(予告した?)通り、西行は健久元年(1190)の旧暦2月16日に入寂した。奇しくもこれは、釈迦(ゴータマ・シッダールタ、紀元前566頃-前485頃)の涅槃(ニルヴァーナ)と同じ日であった。当時としてはかなりの長命といえる72歳の天寿を全うした。現在では、2月15日が西行忌とされているという。* 画像は筆者撮影。クリックすると拡大ポップアップ。
2016年03月29日
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西行(さいぎょう)春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり山家集春風が花を散らしているさまに圧倒されわななくように見る夢は覚めても胸が騒いでいるのだよ。
2016年03月29日
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西行(さいぎょう)吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりけりあくがるる心はさても山ざくら 散りなんのちや身にかへるべき家集『山家集』吉野山の梢の花を見た日から、私の心は私の体を離れてしまったのだなあ。身を離れた心ははてさて山桜が散ったあとにこの身に帰るのだろうか。註「魂が(肉体を)離れる」という、動詞「あくがる」(憧れる)の原義がよく分かる歌である。「ところ」などを漠然と示す形式名詞「あく」+「離(か)る」(離れる)が語源。
2016年03月29日
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後伏見院(ごふしみのいん)なにとなく見るにも春ぞしたはしき 芝生にまじる花のいろいろ風雅和歌集 291何ということもなく見るにつけても春は慕わしいものだなあ。芝生に交じる色とりどりの花。 サンドロ・ボッティチェリ 春(プリマヴェーラ)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大
2016年03月28日
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本居宣長 六十一歳自画自賛像 寛政2年(1790)旧暦8月賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのがかたなり筆のついでに しき嶋のやまとごころをひととはば朝日ににほふ山ざくら花」(筆者註:適宜濁点を加えた。)本居宣長(もとおり・のりなが)敷島しきしまの大和心を人問はば 朝日ににほふ山桜花自画自賛(自分の肖像画に銘として書いた和歌)日本人の心とは何でしょうかと人が問うならば朝日に照り映える山桜の花(と答えよう)。註敷島の:「やまと(大和)」に掛かる枕詞の一つ。* 交配でソメイヨシノが作り出されたのは幕末で、普及したのは明治時代とされるので、当時は桜といえば野性味のある山桜のイメージが強かった。 本居宣長 / オオヤマザクラウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2016年03月28日
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加納諸平(かのう・もろひら)桃の花麻笥をけにうつして 賤しづの女めもけふはひひなの宮づかへせり『柿園詠草』(江戸後期)桃の花を桶にうつしたりして(やんごとなき貴族ならぬ)うちの娘もきょうはお雛様の宮仕えをしているのだなあ。註麻笥をけ:「桶」の原字、また雅語的表現。もと、績麻(うみお・うみそ、績苧=青麻あおそを細く裂いて糸として縒よったもの)を入れる器だった。賤しづの女め:自分の娘を謙へりくだって言っている。いにしえの貴族の子女でもないけれども、わが娘もさしずめ殿上人の姫君に仕える女房(官女)のようなことをしているのだなあ、という軽い諧謔的なニュアンス。
2016年03月01日
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井上文雄(いのうえ・ふみお)少女子をとめごがかしづくみれば いもとせの紙ひひなとぞいふべかりける『詞鶴集』(江戸末期)小さな女の子が大切に世話をしているものを見てみたら妹と背の紙の雛というべきものであったよ。註文脈から見ると、節句当日ではないのかもしれない。小さな女の子が何やら大事に扱っているものを覗いてみたら、紙で作った男女一対いっついのお雛様のようなものだったのが、たまらなく可愛らしかったなあ。かしづく(傅く):(女の子などを)大切に世話をする。大事に育む。いもとせ(妹と背):夫婦や恋人、親しい男女を言った上古語。妹背。紙ひひな:紙でできた素朴な雛。ぞ・・・べかりける:指定・強調・断定の係助詞「ぞ」と、当然・推量の意味の助動詞「べし」の補助活用の連用形「べかり」(「べくあり」が約まったもの)に、詠嘆を込めた過去の気づき・諧謔などのニュアンスの「けり」(「きあり」が約まったもの)がついた「ベかりけり」(べきだった、~のが当然だった)の係り結びで、語尾は連体形「ける」で受ける。「もの」「こと」「とき」などが省略された準体言用法でもあり、これらの形式名詞を補って読む。
2016年03月01日
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小沢蘆庵(おざわ・ろあん)そのかみのはらへに捨てし人かたは けふのひひなをうらやみぬべし『六帖詠草拾遺』(江戸時代中期)その昔、祓はらえとして流し捨てられた人形は今日の大切に飾られる雛をきっとうらやんでいるのだろうなあ。註今に続く雛祭り(上巳の節句、桃の節句)の源流の一つが「流し雛」の風習であり、雛が本来は災禍わざわいや穢けがれを憑依させて流す禊みそぎや祓いの神事の形代かたしろであり、「精霊しょうろう流し」などに類するものだったことは今日よく知られている。流され捨てられた昔の人形が、この歌が詠まれた江戸期から美々びびしく飾られるようになった雛人形を羨んでいるという、奇抜な発想が面白い。そのかみ:(すっかり様変わりした今から見て)随分さかのぼった昔。ぬべし:完了の助動詞「ぬ」の終止形に推量の助動詞「べし」がついたもので、陳述を確実にし強調する用法。きっと~だろう。確かに~だろう。cf.)正岡子規(俳句)「鶏頭の十四五本もありぬべし」。
2016年03月01日
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加納諸平(かのう・もろひら)桃の花麻笥をけにうつして 賤しづの女めもけふはひひなの宮づかへせり『柿園詠草』(江戸後期)桃の花を桶にうつしたりして(やんごとなき貴族ならぬ)うちの娘もきょうはお雛様の宮仕えをしているのだなあ。註麻笥をけ:「桶」の原字、また雅語的表現。もと、績麻(うみお・うみそ、績苧=青麻あおそを細く裂いて糸として縒よったもの)を入れる器だった。賤しづの女め:自分の娘を謙へりくだって言っている。いにしえの貴族の子女でもないけれども、わが娘もさしずめ殿上人の姫君に仕える女房(官女)のようなことをしているのだなあ、という軽い諧謔的なニュアンス。
2015年03月03日
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井上文雄(いのうえ・ふみお)少女子をとめごがかしづくみれば いもとせの紙ひひなとぞいふべかりける『詞鶴集』(江戸末期)小さな女の子が大切に世話をしているものを見てみたら妹と背の紙の雛というべきものであったよ。註文脈から見ると、節句当日ではないのかもしれない。小さな女の子が何やら大事に扱っているものを覗いてみたら、紙で作った男女一対いっついのお雛様のようなものだったのが、たまらなく可愛らしかったなあ。かしづく(傅く):(女の子などを)大切に世話をする。大事に育む。いもとせ(妹と背):夫婦や恋人、親しい男女を言った上古語。妹背。紙ひひな:紙でできた素朴な雛。ぞ・・・べかりける:指定・強調・断定の係助詞「ぞ」と、当然・推量の意味の助動詞「べし」の補助活用の連用形「べかり」(「べくあり」が約まったもの)に、詠嘆を込めた過去の気づき・諧謔などのニュアンスの「けり」(「きあり」が約まったもの)がついた「ベかりけり」(べきだった、~のが当然だった)の係り結びで、語尾は連体形「ける」で受ける。「もの」「こと」「とき」などが省略された準体言用法でもあり、これらの形式名詞を補って読む。
2015年03月03日
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小沢蘆庵(おざわ・ろあん)そのかみのはらへに捨てし人かたは けふのひひなをうらやみぬべし『六帖詠草拾遺』(江戸時代中期)その昔、祓はらえとして流し捨てられた人形は今日の大切に飾られる雛をきっとうらやんでいるのだろうなあ。註今に続く雛祭り(上巳の節句、桃の節句)の起源が流し雛の風習であり、雛が本来は災禍わざわいや穢けがれを憑依させて流す禊みそぎや祓いの神事の形代(かたしろ)で、「精霊しょうろう流し」などに類するものだったことはよく知られている。流され捨てられた昔の人形が、この歌が詠まれた頃(江戸時代)から美々びびしく飾られるようになった雛人形を羨んでいるという、奇抜な発想が面白い。そのかみ:(すっかり様変わりした今から見て)随分さかのぼった昔。ぬべし:完了の助動詞「ぬ」の終止形に推量の助動詞「べし」がついたもので、陳述を確実にし強調する用法。きっと~だろう。確かに~だろう。cf.)正岡子規(俳句)「鶏頭の十四五本もありぬべし」。
2015年03月03日
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平兼盛(たいらのかねもり)山里は雪降りつみて道もなし けふ来こむ人をあはれとは見む拾遺しゅうい和歌集 251山里は雪が降り積もって道もない。今日来ようという人に私はしみじみと感じ入ってしまうのだ。註あはれ(なり):「じーんとする」(橋本治『枕草子』訳)、「しみじみとする」「かわいそう、哀しい、切ない」「ありがたい、尊い、立派だ」など、いわく言い難い、感極まった情動を示す多義的な形容動詞の語幹で、古典最重要語。後世、転訛して「あっぱれ」にもなった。現代語の「あわれ(哀れ)」は、ニュアンスが狭く限定的になった。(けふ来こむ人を)あはれとは見む:「情趣(もののあわれ)を解する風雅な人と思う」といった解釈もあるが、ややうがちすぎか。 歌川(安藤)広重ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2015年01月30日
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素意(そい)法師埋火うづみびのあたりは春の心地して 散りくる雪を花とこそ見れ後拾遺和歌集 402暖かい埋火のあたりは春の心地がして散ってくる雪を花と見ているのだよ。註埋火うづみび:「火桶ひおけ」や「炭櫃すびつ」など(近世には「火鉢」になった)の灰に半ば埋めて火力を調節しつつ暖を取った炭火のこと。なお、「うづめび」ではなく「うづみび」なのは、比較的新しい口語的な動詞「うづめる」(下一段活用)でなく、古語動詞「うづむ」(四段活用)の連体形が慣用的に固定したものだからであろう。日本語の動詞の連体形の多くは、英文法でいう「動名詞」のような働きをする。「花とこそ・・・見れ」は整調・強調の係り結び。 囲炉裏ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2015年01月17日
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於もひをく言能葉なくて徒井爾行 道盤満よハしな類爾ま可せて 如水(花押)黒田官兵衛孝高 如水円清 (くろだかんべえ・よしたか じょすい・えんせい) 辞世思ひおく言の葉なくてつひにゆく 道はまよはじなるにまかせて真筆短冊福岡市博物館蔵思いを残し置く言葉など今さら何もなくて終ついの行き先に私は行くその道にもう迷うことはあるまい。なるにまかせて、行き当たりばったりで。註戦国乱世を駈け抜け、晩年に「如水(水の如し)」と名のった人の超俗洒脱な三昧境を示し、軽妙で涼やかとさえ見える非凡な辞世の一首。
2014年12月21日
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黒田官兵衛孝高 如水円清(くろだかんべえ・よしたか じょすい・えんせい)山深く分け入る花のかつ散りて 春の名残もけふの夕暮真筆短冊福岡県豊前市・国玉神社所蔵 / 求菩提資料館収蔵(平地ではもう桜は終わり)山深く分け入って見る花も咲きつつ散りはじめて春の名残も尽きようとしている今日の夕暮れ。註惜春の歌の佳品。作者の真意は茫漠としているが、一説によると、戦乱の世の習いで自ら武将として滅ぼさざるを得なかった九州の国人領主たち、とりわけ豊前(大分)宇都宮(城井)氏への鎮魂・追悼、あるいは後悔の念が籠められているという説があるのも尤もと思われる。* 豊前國中津 黒田武士顕彰会 求菩提山 桜狩* 豊前市ホームページ 官兵衛 桜狩の歌
2014年12月21日
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式子内親王(しきし・ないしんのう)秋こそあれ人はたづねぬ松の戸を いくへもとぢよ蔦つたのもみぢ葉新勅撰和歌集 345秋だからであろう/私に飽きたからであろう人は訪ねない/その人はもう来ない寂びれた松の戸を/私が待つ家の戸をせめて鮮やかに幾重にも閉じよ。蔦のもみじ葉よ。註侘しく寂しい心境と光景を詠いながら、言葉の両義性を駆使したきわめて技巧的な一首。* 蔦紅葉(つたもみじ) ツタ 紅葉ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年12月01日
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凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)影をだに見せず紅葉もみぢは散りにけり 水底みなそこにさへ波風や吹く家集『躬恒集』 472もう影すらも見せず紅葉は散ってしまったのだなあ。せめて川の底にさえ波風が吹いて紅葉を舞わせているだろうか。
2014年12月01日
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豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし) 辞世露と落ち露と消えにしわが身かな なにはのことも夢のまた夢露と落ちて 露と消えてしまったわが身だなあ。難波の日々や これまでのさまざまなことも今となっては夢のまた夢。註史上最も有名な辞世歌であるとともに、境涯詠の秀歌といえよう。前記事の西行の歌の本歌取り。また、かつての主君・織田信長が愛した幸若舞の謡曲「人間五十年化天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり」も踏まえているか。なにはのことも:「難波(大坂、大阪)のこと」と、「何はのことも」(そんなこんなの何もかも)を掛けている技巧的な修辞。位人臣を極めた栄耀栄華の日々も、わが生涯の全ての出来事も。○ NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』公式ウェブサイト 重要文化財 豊臣秀吉像 狩野光信筆 高台寺蔵ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014年11月09日
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香川景樹(かがわ・かげき)尾羽をばふれてあきつとぶなる草川の みぎはに咲ける大和なでしこ歌集『桂園一枝』(天保元年・1830)尾羽おばねを触れ合わせて番つがいの蜻蛉とんぼが飛んでいる草繁る川の水際に咲いている大和撫子の花。註「とぶなる」と「咲ける」は、現代語では「飛んでいる」「咲いている」という一律な訳文になってしまうが、助動詞「なり(なる)」は「~である」という確認(目撃・現認)、「り(る)」は過去の出来事やイメージが現在まで継続しているニュアンスで区別される。 トンボウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年09月28日
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黒田官兵衛孝高 如水円清(くろだかんべえ・よしたか じょすい・えんせい)山深く分け入る花のかつ散りて 春の名残もけふの夕暮真筆短冊福岡県豊前市・国玉神社所蔵 / 求菩提資料館収蔵(平地ではもう桜は終わり)山深く分け入って見る花も咲きつつ散りはじめて春の名残も尽きようとしている今日の夕暮れ。註惜春の歌の佳品。作者の真意は茫漠としているが、一説によると、戦乱の世の習いで自ら武将として滅ぼさざるを得なかった九州の国人領主たち、とりわけ豊前(大分)宇都宮(城井)氏への鎮魂・追悼、あるいは後悔の念が籠められているという説があるのも尤もと思われる。* 豊前國中津 黒田武士顕彰会 求菩提山 桜狩* 豊前市ホームページ 官兵衛 桜狩の歌
2014年09月24日
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藤原元善(ふじわらのもとよし)秋くれば野もせに虫の織り乱る 声の綾あやをば誰たれか着るらむ後撰和歌集 262秋が来れば野原いっぱいに織り乱れる虫の声の繚乱の衣をいったい誰が着るのだろう。註野もせ(狭):野も狭いほどに多く。野原いっぱい。野原一面。「野面」とも書く。 ブローニュの森 フランスウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年09月16日
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赤染衛門(あかぞめえもん)やすらはで寝なましものを 小夜さよ更けてかたぶくまでの月を見しかな後拾遺ごしゅうい和歌集 680 / 小倉百人一首 59 (あなたがお見えにならないと分かっていれば)ためらわずに寝てしまえばよかったものを(来ないあなたを待ちわびながら とうとう)夜が更けて西に傾くまでの月を見てしまったのよ。註やすらふ:躊躇する。ぐずぐずする。で:打消しの接続助詞。~しないで。寝なまし:寝てしまえばよかった。動詞「寝(ぬ)」の連用形「寝(ね)」+完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」+仮想・適当(~すればよかった)の助動詞「まし」の連体形。ものを:形式名詞「もの」に、接続助詞とも終助詞とも解し得る「を」がついた連語で、活用語の連体形に接続し、上の句を体言化して悔恨、愛惜、不満などの気持ちを表わす。このまま現代語でも用いる。
2014年09月09日
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