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「ボランティア連絡協議会」というのに少し関係している。最近は「ボランティア」という言葉が増えた。流行みたいなところもある。NPOを立ち上げやすくなったので、いろいろな団体や組織が一斉に増えた。世の中にはいろいろな人がいる。人の心の中には、いろいろな部分がある。この世界は「複合」で成り立っている。人間もその心も社会も地球も宇宙も成り立っている。だから「純粋」の部分もあるが、「純粋」だけでは世界と係われない。「ボランティア」も同じだ。言葉に惑わされるが、中身は「複合」だ。これは、少しでも関係してみるとよくわかる。まして「人間」がしていることだ。「純粋」だけで成り立つはずが無い。こういう話は申し訳ないのだが本当なんだ。あまり誰も言いたがらないけど、知る必要はある。そうでないと、更に混乱と被害が出てしまう。ヤクザでさえ「ボランテェア組織」を申請しているんだぜ。詐欺グループなどにとっては、うってつけの名称だ。「商人タイプ」の人達はもっと敏感だ。ワシは悪口や道徳を説いているのじゃないぞ。全て、何をしても許しちゃう。「ボランティア」を利用して何をしようが、世間を騙す隠れ蓑にしようが、そんなの当たり前だ。人間社会、会社もだいたいは同じだと思うよ。ただね「ボランティア」の言葉に「純粋」を求めすぎだ。それは双方にとって、誤解だらけの社会を作る。悲しみ、苦しむ人達を生み出す元になりやすい。参加している自分の心にも苦しみを生みやすい。本来は「暮らしやすいお手伝い」なはずなのに、苦しみを生み出しては変だろう?ワシはヘソ曲がりだ。「組織」の綺麗事だけを押し付けられるのは好きじゃない。額に縦皺を寄せている行為は金儲けだけで充分だ。笑顔だけで過ごしたい為に「ボランティア」があると思う。それは社会の為でも善意の心でもない。「自分の気持ちよさ」がしたくて係わっている。どうしても「ボランティア」の言葉とイメージは、ワガママなワシには馴染めないんだなぁ。「建前」や「綺麗事」が必要なのは、食う為の仕事だけでいいんじゃないか?ワシ流の「ボランティア」は自由気ままだ。
2004/11/30
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今年の「ごったくまつり」が昨日あった。第9回目になるから、9年目だ。「無料氣功体験コーナー」として、会場に来てくれた人の「癒し体験」を担当して7年。いろいろが変わってきている。「ごったく」というのは「ごちゃ混ぜ」という方言だ。この地区のいろいろな活動をしている組織や会や個人が、ごちゃ混ぜに集まって、一つのイベントをしている。こんな活動をしている。こんな人もいる。紹介も横のつながりも地域とのつながりも「ごちゃ混ぜ」にして、みんなで愉しんでしまおう、という「まつり」だ。基本的に営利を目的としない「まつり」であり、行政が主導していた「ボランティア・フェスタ」と似ていた。「ごったくまつり」は参加者、訪問者が非常に多いので、「ボランティア・フェスタ」が相乗りを申し出てきた。毎年運営費に苦労していた「まつり」も渡りに船。合同で行うようになって、3年目になる。これも「ごったく」のいい面だと思う。ワシはとてもワガママな人間だ。どんな素敵な組織であれ、どうしても違和感がある。だからボランティアの組織には入る氣がしない。群れが苦手なのだ。そんなワシでも「ごったく」なら一緒にできる。「ごったく」という考え方や運営の方法には、これからの社会のあり方の大きなヒントがある。個人と組織と価値観の違いを混ぜてしまう。元々、ワシの生き方と同調できる。ワシはハチャメチャが好きなんだ。福祉センター全館(4階)で行う。2年前からは高校生のグループが参加し、60歳以上の人達と「ごったく」状態だ。「生命」って、こういう事で活性化するんだ。決して「若いモノ」の中にあるわけじゃない。寂れてしまった商店街。地方経済。観光地。日本中の経済界。こんなに大きなヒントが観えないなら、代表者は降りたほうがいいぜ・・・。ターゲットを絞って成長できない時代だ。ワシは商人じゃないから観える部分がある。「媚びる」商売はやめたほうがいいかもよ。「全部」が対象とした行政・政治・経済じゃないと、日本は続かない・・・。もともと日本って「全て(自然)」の国なんだぜ。(とても、お節介な雑記でした・・・すんません・・・)
2004/11/29
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「手」が「氣」を中継する「手様」に変わった。すると、もう一つオマケが付いた。「御筆先様」だ。自動書記機能だ。ワシは美少年時代から本を読むのが好きだった。高校生になってから、少し書き事をしていた。だが頭で書いていたから、筆が進まなかった。嫌いじゃないのに、苦労して書いていた。もちろん、秀作は出来なかった。童話で佳作になったのが最高だった。40歳を過ぎてから、この道に入った。氣功師というアヤシイ立場になってしまった。中国気功と違い、頭を空っぽにするタイプの氣功だった。ボケ~とするのは、ワシの特技でもあった。だから・・・天職のように道を歩けた。氣功時に頭(心)が空っぽになるクセがついたら、随時、意識してスイッチが切り替われるようになった。「書く時」もスイッチが切り替わる。すると、勝手に文章が書けるようになった。「そうかぁ、これがウワサの御筆先様かぁ・・・」こういうモノが付いて解った事がある。この世では肉体を持っている人間との合作だ。人間側に才能がある程度無ければ、「豚に真珠・猫に小判」状態なんだなぁ・・・。ワシに付いた「御筆先様」は優秀だったかもしれないが、オッチョコチョイでもあった・・・。ワシはいい。書いたモノを読んで感心する。学ぶ事も多々ある。でも、文体がハチャメチャだし、ワシも直そうとはしないし、他の人には解りづらい文章だと思う。ワシとしては内容なんかどうでもいいから、「売れる文章」を書いて欲しいのに、「御筆先様」はワシの希望を無視する・・・。ワシもお返しに下品を心掛ける・・・。それでもワシから離れない・・・。「手」も「手様」も「御筆先様」もいて、ワシは「口」は悪いが、幸せ者だと思っている。三者?共、尊敬もしている。これから先もよろしくね(ハート)
2004/11/28
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「手」が「手様」に変わってから、ワシも少しは変わったようだ。一流の投手は日常生活でも利き腕を大切にする。寿司職人も掌を荒れさせない。ピアニストもヘタに重いものを持たない。微妙な感覚が狂ってはプロの仕事が出来ない。というわけで・・・ワシも一流を見習って力仕事をしない。手が荒れるのは「手様」に失礼だ。美味しいモノで栄養をつけなくちゃ。時には面白いマンガで楽しんでいただこう。そう思っていたのに・・・「アンタ、一流じゃないでしょ!」何も言い返せない・・・そ、そうです・・・。それに一流の人達は自分の力だけど、ワシはワシ以外の力が宿っているだけだ。荒れた「手」はクライアントに失礼だから、不快にならないようにしているが、感覚はワシ以外から教えてくれるようだ。ワシの努力のタマモノじゃない・・・。むしろ、ワシがヘタな努力すると感覚が狂うようだ。これが「手」でプロになっている人達とワシの違いだ。では、ワシの何処が変わったか?アソコとアレが変わったのだが詳しく話せない。(そ、それ、単なる老化現象だと思うよ・・・)ここで話してもいい下品じゃない箇所は、変わったのではなく、消えていったのかもしれない。「生きている事」は「常に変化している事」ならば「手様」だからじゃなく、生きているモノは誰でも変わっている。ワシでも変わっているんだ。(最初から変人というウワサも・・・)死んでいる幽霊は、なかなか変わらない。「変わらない」のは利点じゃないぞ。「こだわり」であり「しつこい」のだ。幽霊が「こだわり」を手放せば、成仏できる。「心変わり」は生きている証だ。幽霊と一緒にしては申し訳ないのだが、「神」も「変わらない」。どちらも、人間みたいに生きてない。「生きている」魅力は「変わる」魅力だ。ワシはクライアントを観ていて、そう思う。いつでも変われる。だから、未来に生きていけるんだ。
2004/11/27
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人間って平等だと思う。見方では不平等だけれど、(顔スタイル才能財産モロモロ)観方ではほとんどが共通している。人間だけじゃない。生物全般はほとんど共通している。平等は人間側から言うべき言葉じゃなく、創った側からなら平等だと理解できるんだ。グレちゃん(創造主)は分け隔てしない。優しい、というより・・・たぶん、差別するのはメンドウだったのだと思う。ワシが創造主なら、そうしている。仕組み。多種多様が集まって一つ。地球に限定しているか、この世に限定しているかはわからないけど、全部が共通で成り立っているようだ。それぞれの役目がある。ミクロに観れば細胞がそうだ。「何でオレが盲腸なんだよ」「アタシ、肛門で一生を終えるの?」「不平等だ!差別だ!同じ待遇を要求する!」なんて不満をいうのは人間くらいだろうなぁ・・・。だから「手」には「手」の役割がある。そしてワシにもワシの役割があるようだ。ワシは人間が未熟だし進化しようと思わないから、たっぷりグレちゃんにも不満や不平を言うが、それでも納得はしている。不平不満なんて趣味だと思っている。「何で?」と考えてもわからない。する、しか無いじゃない。こうなってしまったんだもの・・・。見えないけど、ドブに入る仕事でもある。悪臭腐臭漂う「場」を掃除する仕事でもある。「変化」に立ち会えるのは大きな喜びだけど、ドブが好きなマゾじゃない。(それほど嫌でもない。というか、氣功中は心が鈍くなっている。)これらは「手」が中心で行っている。一応、ワシの管理下の「手」だけど、「ワシの手」でもなければ、「ワシの心の代行者」でもない。(これはワシの場合だけ。普通は心の代行者だよ)ワシはお礼を貰うだけの役目だ。そう考えれば、悪くないなぁ・・・。
2004/11/26
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「体」は借り物だけど、管理は自分だ。一生借りて、壊れた時に返すレンタカー。だからこそ責任を持って大切に扱う約束だ。そんな事を忘れて生きている場合が多すぎる。人間同士の約束は破ってもいいけど、(トラブルがメンドウな人は守った方がいいよ。歴史をみれば政治家や国家などウソの約束だらけだ)神様との約束を破るのはマズイんじゃないのか?社会常識は逆になっているぜ。普通の人は「心」がキチンと働く。でも「心」は幽霊みたいなモノだ。「思っている」だけじゃ役に立たない。「思い」は伝わる事はあっても役には立たない。異論が出そうだけど、伝わる事は自己満足の世界だ。「思い」より「行為」が重要な世界がこの世。だから物質(肉体)界なんだぜ。「思い」優先の世界は(たぶん)あの世だ。悩むだけなら、あの世に行ってからで十分だ。この世は「行う事」が意味を持つ世界だ。「神との約束」も同じだ。「思う」「信じる」そんな事より「行う」事だ。どうせ「心」は揺らいでいる。生命は「揺らぎ」として表れている。「揺らぎ」は感謝と歓喜なんだ。幽霊みたいな「心」が実体として動けるのが「手」。だから「手」は自分の管理する「体」を労わる。(借りてきた)「体」を愛しむ。「ヨシヨシ、毎日、イイコだね」撫でてあげなよ。「体」って不思議なんだ。元々が神様のモノだから、不思議なのは当たり前だけどね。管理者(人間)の「心」が具体的な「行い」をすると、病んでいても、急速に回復する力が湧き出る。「体」が「心の具体的行為」(ナデナデ)を認めると、「元氣」(大元の氣)が(宇宙の何処からか)届くんだ。元気になるのは難しい事じゃない。理屈はメンドウだから理解しなくていいけど、「行い」は誰でも、いつでも、何処でも出来る。誰にでも出来る仕組みが最初から創られている。グレちゃん(創造主)って、エライ!それなのに・・・する人は少ないんだなぁ。だからワシの仕事がある。本人の「手」の代わりになる。「命」共通の「何か」が宿っている。(明日は川崎まで出張治療ですので書けません。明後日に2日分書きます。)
2004/11/25
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ワシは我欲も煩悩も大切にしているのに、根性が少ないので「心」が保てない。その為か「手」は心以外のモノと通じている。「手」は「心」が無いと淋しいのかもしれない。案外、情けないヤツだ!普通の人はワシよりも根性がある。「心」も豊かだ。豊かだから悩んだりするようだ。「持つ者の悩み」かぁ・・・。うらやましいなぁ・・・。金や群がるオナゴや地位や才能やその他モロモロ。一度くらい悩んでみたい・・・「手」は「心」の代行者だから、生きている人は最低限の義務がある。法律も学校も会社も社会も教えてくれないが、誰にでも共通で最優先すべき大切な行為だ。世の中ってヘンだと思う。命が大切だって言うじゃないか。特に自分の命は大切にするよね。専門家(何の?)とかエライ人も言う。でも大切にする具体的行為は指導しない専門家?もマジメ顔で言うけど、自分で自分を大切にしてないよねぇ。その代わりに命を縮める行為は好きみたい。ひょっとしたら・・・知らないの?世の中って・・・ヘンだと思わないか?まぁいいや。世の中がヘンなのは不思議でもないし、ヘンだからワシでも暮らしていられる。世の中のヘンはどうでもいいが、命は大切にしなくちゃならんぜ。「してはいけない事」「しなくてはならない事」はそう多くないが、無闇に殺さない(自由を奪わない)事と、肉体を労わる事は含まれるんだ。生きているモノ達の約束だ。人間においてその具体的行為がある。行為は暮らしの中に溶かして行うものだ。他(人)とのスキンシップもいいけど、自分で自分の体を労わる行いだ。それが「手」の大きな役目だ。「体」は借り物。「心」は自分。「手」は「心」の代行者。しかも体に一番身近・・・。(って、体の一部だし・・・)
2004/11/24
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理屈じゃわからない。というか・・・理屈で解る事など、ほとんどない。この世の事の半分以上は理屈じゃない。(ワシは97%くらい理屈じゃないと思う)ワシは十代の終わりから精神世界という、とてもアヤシイ世界に係わりだした。でも、ワシの事だから熱心じゃなかった。熱心じゃなかった事がワシを救った。偶然じゃないだろうが、歩き方は正しかった。それから20年経って急に別な道に入った。お師匠様が出現した。2人も・・・。不肖の弟子ではあるが「気づき」は得た。それまでの精神世界の霧が薄くなった。(晴れてはいない、と思うよ)そして・・・更に10年経った。わかった事がある。ほとんどは・・・解らん、とわかった。少なくても、頭では理解できないと、わかった。だから基本は「わからん!」わからないのだから、何でも認める。何でも、アリ、だ。ワシの「手」がイキナリ「手様」に変わっても、理屈じゃ説明できないけれど、アリ、だ。この世はなんでも、アリ、なのだ。アリ、の母(基本)は、「ありのまま(ママ)」だ。(自然体ともいうなぁ・・・)禅やヨガの行き着くところも同じかもしれない。行き着くと、たいていは元に戻っているもんだ。余計な事を考えない赤ちゃんや胎児の頃と同じだ。最初から備わっているモノが素直に活用できる頃だ。次第に余計なモノまで身に付けて歩き出す。そして余計なモノを脱いでいく事が「学び」となる。「学び」を「身に付ける事」だと勘違いしがちだけど、「身から外す事」が「学び」であり基本でもある。基本を知れば、解らない事だらけでも何とかなる。誤解しないでね。ワシは行き着いてないし、行きたいとも思わない。煩悩が好きなんだ♪煩悩を愉しむ事も生きている証だと思う。最近は「手様」が常時のさばっていて、煩悩を愉しもうとしていても氣功になる。つまりその状態は、心が僅かになってしまう。マジメも不マジメも僅かになり働かない。不埒な行為が出来ないわけじゃないが、心や感覚はボケ~としている。手様は本体が手しかないので、ワシに嫉妬してイジワルをしているのかも・・・
2004/11/23
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心はネジレや曲がりで出来ている。心の無い人はいないから(少ない人はいる)、人間はネジレているし曲がっている。体は借りモノだけど、心は自分のモノ。だから、心は体を労わる責任があるんだ。ところで、ワシが出会った素敵な人達は、(表現がヘンだけど)とても心が少なかった。心を自我と置き換えれば、何となく解るかなぁ・・・。心が少ない分は(たぶん)愛が溢れていた。心が少なくなると・・・「手」は心以外の何かを受け持つ。それはそれぞれの人によって違うようだ。例えば・・・天性の画家や彫刻家。棟方志功の作業映像を見ると、あきらかに本人以外のモノが「手」に宿っている。ワシの場合は本業である「氣」。宇宙だか地球だか神様だか知らないけど、そこからの周波数と同調するようだ。ワシは優秀じゃないが天職だと思っている。天職である「手」に変わったと思っている。これは素敵な人達のように心が静かになったわけじゃなく、ワシの場合は心を動かす根性が極端に少なかった・・・。邪心や乱心は好んでいるのに根性が無い・・・。それをオッチョコチョイの何者家が間違えたようだ。ワシは不マジメな心が可愛いし、使いたい。どういうわけか解らないが、「手」に付いたモノは10年も離れない。お蔭様でこれが職業となった。一応「手様」でメシを食っている。敬意を評し、手に足を向けて眠れない・・・。人妻やね~ちゃん、ばあちゃんも喜ぶ。「気持ちいいねぇ。この手、持って帰りたい」本気でいうと・・・・恐い。ナタなど持ってきてないか、確かめよう。時々、泣く人もいる。近頃はオッサンが増えた。「あ~、きもちいい」う~m・・・そうオッサンに言われてもなぁ・・・。本気で口説かれたら・・・どうしよう?ワシはオナゴなら人妻でも妖怪でも歓迎だが、「手様」はワシ以上に節操が無い。オッサンでもケモノでもオバケさんでも区別しない。「手様」が主導権を握っている時、ワシの心は隅で小さくなっている。「それ・・・き、嫌いなんだけど・・・」確かにワシの心はあるのだけど、僅かしか動かない。これは自分でも不思議だと思う。
2004/11/22
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「手」はヘンな奴だ。体の一部ではあるが、別な存在でもある。他の部分と違い「手」は本人の意思で動ける。他にも動ける部分があるが「手」ほどじゃない。足や口が「手」の代わりとなる事もあるが、それは特殊な場合のみ可能なのだ。目や耳は意思を反映するが、自由ではない。例えば「目」は見たいものを見たり、見たくないモノなら閉じる事はできるが、あくまで、前面に限る。真後ろを見る事は出来ない。眼球の動かせる範囲は僅か顔の中だけ。「耳」は閉じる事さえ出来ない。本妻に「アナタ、何も聞いてないのね!」と言われるが、「耳」は聞きたくない事をキチンと聞いている。ただ・・・脳が認知しないだけだ・・・。あるいは・・・すぐ、忘れている。我ながら、いい性格だと思う。足は移動するのには便利だが、かゆいところに届かない。ボールや相手を蹴るのも得意だが、可愛いオナゴを撫でるのは不得意だ。握手も出来ない・・・。ムスコは更に言うことを聞かないが、詳しい解説はしないでおこう・・・。心臓や肝臓や腎臓などは完全に勝手だ。「毎日毎分ご苦労さま!今日は休みにしていいよ」そう優しい言葉をかけても、言う事を聞かない。どうやら「優しい」だけではダメになる事もあるようだ。それにしても・・・内臓って生真面目だよねぇ~。ワシが心臓だったら、持ち主はもうこの世にいない・・・。体のどの部分よりも「心」に忠実な「手」だから「手」は「心」と「体」をつなぐ役目がある。「手」の代わりになるということは、「心」の代わりになるということなのだ。体を「自分のモノ」と思い込んでいる人が多い。「自分のモノ」なら自由に出来るだろ?病気にさせる事が出来るなら、自由に治せるだろ?ところが・・・思うようにならない。死んでも「体」は持ち帰れない。「心」は持って行くのに・・・。「自分の心」が自由にならないのは、「心」は性格がイジケているからだ。「イジケ・ネジレ」が「心」の成分なのだ。だから「綺麗な心」はありえない。「心」が消えたとき「綺麗」になるんだなぁ。
2004/11/21
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この雑記で「紅の国」という即興創作を書いた。よく恥ずかしくないなぁ、というくらい酷い出来だった。平気じゃないけど・・・恥ずかしさがマヒしていると思う。そもそも、日記の類はそんなものだ。創作モノだって、そんなものだ。生きている事だって、そんなものだ。ヘタに振り返るから恥ずかしい。過去なんてあの世に行ってから思い出せばいい。未来を夢見るから、恥ずかしさは痛手じゃない。ワシはいつだって開き直れる・・・。ワシはいつだって独善世界に住める。天上天下唯我独善!(き、気に入ったぁ。これから使おう!)ワシが書くモノはワシと手(御筆先様)の合作だ。文章表現が稚拙なのはワシ(頭)のせいだが、表したい内容は手様の担当だ。だから内容の凄さはワシが驚く事がある。しかし文章はワシが担当だから他の人には伝わらない。残念!(ワシに伝わるから、いいかぁ♪)慌ててワシに取り付いた御筆先様のミスだ。ワッハッハ。この世はミスマッチの世界なのだよ。「紅の国」で感心した内容(手様の担当)がある。「山は高さと周囲に深さがある」「山は上る為だけにあるわけじゃない」「上るのは、元に戻る為(帰り道の確認)」深読みすれば、まだまだあるのだが読みきれない。山の周囲に広がる様々な結界の世界には、「迷い道・はぐれ道」から入る事ができる。真っ直ぐな道からは観えない世界なのだ。入ってから来るべき世界だと知る事もある。求めていた世界だと納得する事もある。「迷い道・はぐれ道」は「まわり道」。そもそも山に上る道も同じだ。真っ直ぐには上(登)れない。例え(目指す)頂が見えていたとしても、真っ直ぐな道は存在しない。時には頂を目指すのに下る事もある。下らないと上れない仕組みがある。無駄な事を経験しないと次に続かない。ジグザグと螺旋と上下を繰り返して、その人に必要な「まわり道」となるようだ。迷いっぱなしで人生が終わる?そんな恐れもしなくていいよ。人生は今生だけじゃない。それにね、誰だって未完成のままなんだ。「まわり道」を体験するために来ているんだ。(明日は書けません。明後日に2日分を書く予定です)
2004/11/20
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ワシが御幼少の頃。小学校の昼食時間は椅子の上で正座をして食べた。食事は正座で食べるもの、と思い込んでいた。反動というのがあり、今は美味しいモノは漫画を読みながら食べる。御母堂の仰るには、ワシの美少年時代は、松が曲がっているのが気に入らない性格だったとか・・・反動というのが天理としてあり、今はオナゴの曲線をこよなく愛している。(た、ただのスケベなオッサンじゃないかぁ)以上の極めて個人的な狭い判断材料から、真っ直ぐなモノ、正しいモノを理想とすると、反動でグレてしまう、という事が判明した。「グレる」は「ハグレる」の意味であり、真っ直ぐな道から、横道に入り込む事をいう。「グレる」はグレート・サムシング(創造主)、通称「グレちゃん」と同じ音でもある。音が同じだと、波動は通じ合うのが原理。グレちゃんと通じ合えば、たいてい何とかなる。グレちゃんは優しいから自然と「幸せ」に導く。まわり道、横道、はぐれ道。思いもかけない出来事が待っている。計算以外の出来事との出会い。「生命」は計算外からの応援で活動する。(グレちゃん達を計算できると思うなよ)だから、はぐれたら、ラッキーなんだ。子供がグレたくらいでオタオタしない。グレたくらいでオロオロしなくていい。特に親は子供を想うあまりに間違う。真っ直ぐな人生を歩ませようとする。真っ直ぐな道は不幸になる確率が高いかもしれない。それにねグレて困って学ぶのは子の人生なんだし・・・。親の人生じゃないって。困ってもいいじゃない。傷ついてもいいじゃない。その方が後で面白いって。(あっ、つい、余計な口出しを・・・)ワシによる、ワシの為の応援歌。ワシの「まわり道」人生は素晴らしい。「まわり道」こそが最良の道だ。これからも、はぐれたら、ラッキーと感謝するぞ。この文章こそが、我田引水、独善世界なのだ。やはり、文章はこうでなくちゃ・・・
2004/11/19
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ワシの観方の基本がある。何度もしつこく書いているのは、基礎とか基本とか土台とか故郷とかあれば、それだけで迷っても灯りが観えるからだ。「この世はヒネくれている仕組みだ」グレちゃんは意地悪じゃない。優しいと思う。でも、オチャメではある。それが「ヒネくれ」だと思う。優しさはマジメじゃないんだなぁ。だからこの世は優しいとも思う。以前にインド・ダラムサラのチベット亡命政府で、「チベット仏教特別講座」を受けた。(変人・奇人のワシ等のグループに無謀な事を・・・)チベット仏教大学生達にもめったに講義をしないという、高僧高齢のゲシュナム・リンチェン師が講師をしてくれた。(高僧は難しい話をしない・・・から、深いのだ)あるレベルの人達には共通の雰囲気がある。優しい。笑顔がチャーミングとでもいうのか、とても素敵だ。そして時々、イタズラ小僧の瞳で冗談を言う。オチャメなワナを仕掛ける。この世が愉しくて仕方ない。人が可愛くて仕方ない。そんな雰囲気が伝わってくる。グレちゃんや高僧の爺っちゃんがする事なら、ワシは無条件で信用する。たぶん・・・この世は真っ直ぐじゃない。一番愉しい道は、真っ直ぐじゃない。それは確信に近い。まわり道には宝物が落ちている。まわり道には遊びが待っている。愉しさや嬉しさは「まわり道」にある。何故って・・・・この世はヒネくれているからなんだ。人間はせっかちだから、正しく真っ直ぐなモノを追いかける。でも、神様はせっかちじゃないから、幸せになる方法を教え導く。自分の思い通りにならない人生は、神様が応援しているのかも・・・・ワシなど、好きで横道にそれる・・・まわり道より無駄な道を歩いてきた。こうなりゃヤケだ。食べ始めたラーメンは途中で止められない。(ワシ流の珍言だと、こうなる。いや、もっと好きなのがあるけど・・・下品すぎて、ここでは書けない・・・・こういう無駄話が横道だ、ちゅうのに・・・)
2004/11/18
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ワシは楽天思考だし、楽天嗜好だ。楽天志向だし、楽天試行も意識してする。(注:IT企業の楽天から賄賂はもらってない)そんなワシでも辛い事もある。本妻がいう事をきかない・・・。そんな程度なら何とも思わない。いよいよなら家出してやる・・・。(出て行け!なんて怖くて言えない・・・)振り返るのは好きじゃないけど、何で未だ、こんなままなんだ?と思う。社会に出てから、イロイロやった。結婚もハズミでしちゃった。子供もハズミで出来ちゃったそれからイキナリ、こんな道に入った。40歳を過ぎてからの乱心だった・・・。店は閉店し治療院に変わった・・・。下の子は一才前だった・・・。本妻は泣き、愛人は・・・あれ?違うなぁ・・・本妻は平気だったし、愛人はいなかった・・・。毎日、未生活状態で(結構面白かった)、いつの間にか10年が過ぎた・・・。本妻は相変わらず平気だし、愛人は増える一方だった。子供達は大きくなった・・・。実際に大きくなってきて、困った・・・。(靴が4人分変わらぬ大きさで、可愛くない)何とかプロとして一人前を自覚できたが、(あっ、収入的には立派に半人前ですぅ・・・)社会的な年代からすると20年は遅れている。ボチボチ、早期定年退職する同級生だっていそうだ。これからマトモに働くとして、20年は若返る事にした。若返りはメンドウだがしょうがない・・・。ワシはこれでも社会を気にしている小市民なのだ。でも、なんで一人前が今頃なんだ?どこかで「まわり道」をしていたのか?そもそも「まわり道」って何だ?一人前になっても、相変わらずヒマなワシは、美味しいコーヒーを飲みながら冥想する。(昔は喫茶店のアホマスターだったのだ。冥想は目を瞑ることじゃない・・・)
2004/11/17
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こんなテーマの雑文で、これだけ引っ張れるのなら、ワシだって退屈な役人仕事も勤まるかもしれない。公務員全員を一まとめにして揶揄してないけど、どうでもいいことを何年も続けている役人仕事も世の中には沢山、沢山、沢山溢れているんだなぁ。でも、こういう事をつい、口が滑るというか、手が勝手に滑るというか書いているから仕事の依頼が無い。(違うだろ、才能やその他モロモロが欠けているからだろ!そうです。ワシは自分の事を棚に上げるのが好きです。チュ!)閑話休題・・・「体は結界」嫌な奴とは付き合わなくていい。でも、ワシのように気が弱いと断りきれない。だから自然に付き合わなくていいような仕組みが備わっていた。それなのに・・・「人間、皆、平等。区別なく愛しなさい!」なんとなく、こんなアホな常識がまかり通っている。それじゃあ・・・変態だろ?あるいは・・・偽善者だろ?他人にウソをついてもいいけど(ダメ?)自分にウソをつくとバチが当たるぞ。ワシは博愛主義を目指している。特に気前のいいオナゴは区別しないで愛したい。人妻だろうが妖怪だろうがヨシヨシしてあげる。そんなワシでも「区別なく愛しなさい」はヘンだと思うよ。嫌いなタイプの人とも付き合うのが浮世だが、無理して本気で受け入れてしまうと病気になる。「結界」を外して区別無く受け入れると、自分の内側は深く乱れてしまう。こういう人を治療していると、世の中、間違った倫理観が多いなぁ、と思うよ。何のために「体」があるか?せっかくグレちゃんが親切に創ってくれたんだ。グレちゃん(自然の理)を無視すると病気になる。嫌な人とは付き合わなくていい。社会上係わらなくてはならない時は、芝居で付き合ってくれ。本気で愛さなくていい。好きな相手だけ受け入れればいい。健康を維持すれば自動的に「結界」は張っている。誰でも自然体なら「体は結界」なんだ。
2004/11/16
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こんな事を書くつもりじゃなかった。なのに手は勝手に文章を作っていく。世の中なんて、こんなもんだ。我が子、我が妻、我がムスコ・・・。いう事をきかない・・・。心もいう事をきかない。手だって同じだ。勘当してやる!フッ、と思いついた事があった。「そうかぁ、体は結界なんだ」この事を書くつもりだった。何故、体があるのか?体の役割は何か?ワシの氣功は心が空っぽでないと使えない。ちょっと違うか・・・心はロクデナシのままなのだが働かない状態だ。(それじゃ、普通だし・・・何といっていいのか・・・)心は何処かに行っている状態かな?そんな時に、フッと浮かぶ事がある。ほとんど、ショムナイ事ばかり・・・。閃いても、役にたたない・・・。言っても、理解されない・・・。でも、閃いてしまったのだから、しょうがない。「体は、結界!」ワシ的には、心が晴れるような納得なんだけど・・・。物質と非物質が混同しているのが、この世だ。何故、不自由な「体」が必要なんだろう?不自由と引き換えに、何か特徴があるはずだ。グレちゃんのことだから、完璧な仕組みがあるはずだ。(相変わらず、グレちゃんを過大評価しています。ワシも結構、謙虚じゃない?)あの世なら、波動だけだから同波動帯でしか交流できない。異なモノとの交流は出来ない。異なモノが入り込む事はない。だから「結界」も必要ない。ところが、この世は物質世界だから、何でもアリだ。混乱、淫乱、カオス、混同、乱筆、メンドウがある。だからといって、何でも勝手に交流されては困る・・・。どんな相手とも交流できる自由はあるが、勝手に混乱や淫乱をされるのはなぁ・・・そう、グレちゃんは思ったんじゃないかな?「そうだ!体に結界を付けてしまえ!」一応、グレちゃんは創造主だ。思いつきであっても、そう創られた。これって、結構便利だと思うよ。
2004/11/15
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強く断れない性格だ。入ると殴るぞ! と言えない。力ずくで追い出せない(貧弱だぁ・・・)。上手く断る術もない・・・。(結婚を本妻に押し切られるわけだ・・・愛人が次第に増えるわけだ・・・)だからワシは「結界」を使う。相手(魔)が勝手に入らない。入れない。勝手に出られない。相手が魔や邪であっても、モメゴトは嫌いだ。(まてよ?積極的に係わっている仕事だなぁ。それほど魔や邪が嫌いでもないしね・・・)この「結界」の副効果なのだろうか、ワシに係わるクライアントは「いい人」ばかりだ。(たまにはヨイショ・・・)「氣」の合わない人は入ってこられない。係わっても、二度と来ない・・・。浅い精神世界の話では、「その人の波動が魔を引き寄せる」なんていうけど、そればかりじゃないんだなぁ。深い意味の「縁」というのがあるんだなぁ。だから「魔・邪」だけに「結界」は効果をする。本人も魔の仲間なら、最初から入れない。人の生き方は様々だ。魔や闇と仲良くしたって良いと思う。勝手にやってくれ!だ。だから「魔や闇や邪と離れたい」と思う人だけがクライアントとなる。「結界」を活用して「氣功次元結界」にすると、依頼しただけで、依頼内容の半分は済んでいる。実際に会えたら、三分の二が解決している。一度でも受けたら、四分の三が消えている。何度も受ければ、依頼以上の効果が増えるだけだ。(そんな感じだけど、これは比喩ですよ。宣伝しているわけじゃないけど、半分事実だから、固定概念で判断しないでね)「結界」は最初から使っていたが、その頃はこんな使い方をしていなかった。そんな余裕も無かった。いろいろを「守る」為に使っていた。(今も変わらずに余裕の無いのは現金だけかも)「いいかげん道」も10年も修行すれば、一応、二流くらいにはなれる。二流をバカにしてはいけないよ。二流でもプロ側にいるのだから、「結界」の新たな使い方くらい開発するぜ。
2004/11/14
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ワシは仕事柄、意識して「結界」を作り活用するが、「結界」の定義を広げれば、誰でも無意識に作っている。例えば家は「結界」でもある。アナタが泥棒さんになったつもりで想像してみよう。(この、なったつもりゴッコは意外と気づきが多いぜ)特別な防犯システムが無くても、「入りやすい家」と「入りにくい家」がある。(ワシ家のように、入っても意味の無い家もある・・・)その違いは家族の普段からの意識の違いによる。「結界」は見えないフィルターのようなものだ。面白いと思うのは、泥棒さんにとって「入りにくい家」は、知人にとっては「入りやすい家」なのだ。(誰にとっても入りにくい家もある・・・家族にも・・・)知人と泥棒は同じ人間でも意識が違う。ある(意識)波動はフィルターで止められてしまう。「結界」ってそういうモノなのだ。防犯システムは泥棒さんと知人を区別しないが、「結界」は両者を完全に区別して壁を作る。(力技で入る事はできるから、完全な防犯にはならない。この世は意識よりも物質優先の舞台なのだ・・・)当然「結界力」には強弱があるが、「何に対してのフィルターか?」なのだ。「結界」は単なる自分を守るバリアーじゃない。守るだけなら核シェルターがお薦めだ。核シェルターに暮らしてみれば、「守りは幸せじゃない」と気づくだろう・・・。自分を守るのは安全かもしれないが、心の安定にはならない。心はヒネくれているのだよ。安全を求めると・・・心は不安定になる。(ガードマンが増えるほど、安心できない)心は開放できると、満足になる仕組みだ。結界」は安全の為に使うモノじゃない。「幸せ」の為に使うモノなんだ。相手と自分の双方を存在させるために使う。お互いが、より暮らしやすくする為にある、一つの技であり、グッズでもある。例え「魔」や「闇」であっても、相手を滅するのはこの世界の唯一のタブー。とはいえ、誰とでも仲良くはできない。ワシのような心の狭いオトコは尚更だ。魔と仲良くしたいとは、思わない。(来るものは拒まないけど・・・意思薄弱、意思軟弱なんだ・・・)だから「入っちゃダメよ」あるいは「迷惑だから、出ちゃダメよ」という「場」を作るのだ。プライバシーってヤツ?(ち、違うだろ!! )
2004/11/13
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「結界」には大きく分けて二種類ある。ある条件がそろわないと入(出)れない(結界と、ある条件があると入(出)れない結界だ。ほとんど排他的な結界と、一部のみに作用する結界だ。昔からある神社や寺には結界が張ってある。しめ縄であったり、木や石や造形物が使われているが、時には、経や呪(じゅ・呪いじゃないよ)であったりもする。そして、稀ではあるが、そこの管理者の意識であったりもする。ようするに、何でも結界には使われるのだ。もちろん使われるモノにはそれ相応の(見えない)力がある。本来の「破邪の業物」を作り出す刀鍛冶師なども同じだ。神社と同じような「結界」を張り、常に自身を浄化しながら、一打一打に「氣」を込めて作る。刀は(本来は)人殺しの道具じゃないのだ。鍛冶師の場合は「火」を扱う。「火」は魔や邪を寄せ付けない結界となる。「闇・魔」を扱う為に「結界」を張る場合もある。これらは通常は秘密裏に行われるから気づかない。それでいい。知らないままでいいのだ。人間にも特殊な(闇側の)連中がいる。興味本意に近づくと、ケガじゃ済まない。マジメに近づくと、更に最悪の事態となる。それでも近づく一般の人達がいるが、ホントに止めた方がいいよ。それは愚かというものだし、それじゃ済まなくなるよ。(一応、警告したからね・・・絶対不幸になるからね)ワシ等のような治療師も「結界」を張るが、「闇・魔」を扱うわけじゃなく、係わってしまうのだ。ワシも闇(病)より、明るいネ~チャンの方が好きだ。だけど「来るモノ、拒まず」だから、しょうがない。ただし、クライアントに付いてきたモノだけだ。余計なモノにまで手を出すほど無知でもモノ好きでもない。闇(病)人にもよるが、中には「闇の塊」を付けてくる。大きさや強さも様々だが、結界内で治療する方が早くすむ。結界内というのは、波動フィルター空間のようなものだ。こういうモノ(闇波動)を付けている場合は、同種のモノ(波動)を呼び続けている。放っておくと、どんどん増えて、大きくなってしまう。だから外から余計な邪魔をされないようにする。ワシの場合は、神社などの「結界」を更に発展させている。仕事が回復力の増強だし、生命の応援だ。結界内を「氣場」として、濃い「調和氣」で満たすのだ。これにより、単なる「結界」から「治療空間」になる。結界内にいるだけでも、回復力が増すように作ってある。(内緒だけど、この方が楽できるんだ・・・ワシはいかにして楽になるか、工夫するナマケモノだ)
2004/11/12
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何かの壁で「閉じた場」を結界という。氣功はどんな「場」でも出来るが、「場」によって影響に大きく差が出る。自身の健康の為の保健氣功も種類によるが、野外の方が効果がある場合もある。保健氣功は「内氣功」という。他に「氣」を流す、他に「氣」を共鳴させるのを「外氣功」という。「外氣功」には力学的エネルギーをぶつける、「硬氣功」といわれる武術系のものがある。一般の武術でも「気力・気迫」として応用している。やはり他に「氣」を出す「外氣功」でも、「軟氣功」という柔らかな波動もある。ワシの専門は「医療氣功」だが、昔からある「手当て療法」などもそうだ。(医療氣功と手当ては似ているが、違うモノだ。ここの説明はとてもメンドウだから今回はパス!)調和・生命応援・回復的な軟らかい波動だ。氣功療法は野外で全て開放しても出来るが、それには「氣場」が調和されていないと仕難いのだ。科学技術が発達していなかった循環型の時代なら、野外は調和されていたから楽だったと想像できる。日本では江戸時代までは自然との調和がとても出来ていた。「自然氣」が整っていた時代だ。最近の日本や世界の状態は「氣場」が乱れている。科学技術が悪いのではなく、未熟なだけだ。科学は「意識」と連動してこそ活用出来る事に気づいてない。ま、未熟だから人間として存在できるのだからしょうがないかぁ。ワシは二流の未熟を自覚しているつもりだが、「鼻くそ」が「耳くそ」や「目くそ」を笑うようなもんだ。だから、独善でなければやってられない・・・。原因や理由は偉い学者センセーに任せるとして、このように「氣場」が乱れていると影響が出る。ワシのような仕事は結界を張らないとやり難いのだ。そこで「結界」というのを張るわけだ。方法はいろいろあるが「閉じた場」を創るのだ。ワシにとっては「結界」を張るのは、それほど難しくない。思い起こせば最初の頃は苦労した・・・かも?よく解らなかったし、感覚も鈍かった。今も感覚は鈍いらしい。「もう、鈍感なんだからぁ。女心、ちっとも解ってない!」愛人、人妻などに幾度、責められたことか・・・(あ、もちろん、モテナイおっさんの妄想です・・・)「氣入れ」したグッズや昔からある浄化装置も使うが、結界は「意識」だけでも張れる。「氣場」の状態やその他の条件によって大きさは異なるが。
2004/11/11
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霧の区間が終わる。この霧は結界の壁だ。結界の壁は力では抜けられない。「壁」は「迷い」で出来ている。「迷いの帯」が「壁」といわれるものだ。厚みはあるが、誰でも抜けられる程度だ。だが、抜ける人は少ない。オサムは自分の行動の意味が解らなかった。何故、裸になったのか?意味は解らなくても、行動は出来る。それが壁を抜ける最良の方法だとは知らなかった。相手が望むから、そうした。望んでいると感じたから、そうした。イキナリ、別の世界に飛び出た。「紅の・・・国」同じ深山には違いない。木も草も土もそして湖も。見上げれば、蒼い空。同じ山の頂も見える。だが・・・、別の世界だった。時期は秋。紅葉ではある。だが・・・。木も草も土も岩も湖も、見えるモノ達全てが・・・紅。「こんな純粋な紅の世界が・・・」気がつくと、オサムの肌が紅だった。吐く息が紅だった。風が・・・紅だと感じた。何の意味も解らないが、紅の中にいると何かが目を覚ます。「生きよう」その思いが強くなる。山は登れは帰り道が解る。頂は目指す場所ではなく再生する場所だった。どんな場所からでも、登れば帰れる目印だ。山の周囲には世界が無限に広がっている。紅の世界は「生命」の世界だった。頂は透明な「場」だった。頂に向かって帰り始めたオサムに、山の周囲の世界が一瞬観えた。紅の世界は「肉体(人間)界」白い世界は「菩薩(精神)界」そして、山を離れて金色の世界もある。「神の世界」もあるのか・・・オサムは・・・裸だった事に気づいた・・・(これじゃ、支離滅裂のお笑いだぁ・・そのうち、書き直しますよ・・・)
2004/11/10
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「好奇心。未知なるモノに魅かれる心。いや、心じゃない。もっと深いところからの力だ」オサムは歩きながら、自分の内部も旅してた。空は蒼。風は立ち止まると感じる微流。深山ではあるが、急な崖を越える事はない。急な崖を降りる事も必要ない。「そうか。山は平坦でも深くなる。登るだけが山じゃないのだな」どちらが東だか西だかもわからない。ずっと真っ直ぐ進んでいるのか、曲がりくねっているのか、わからない。それでも歩けば、歩いた分だけ進むのは確かだ。「それで十分だ」迷いは頭の中にあり、足には無い。こんな当たり前の事さえ歩かなければ忘れている。深山に道はない。歩いた跡を誰かが「道」と名づけただけ。ならば真っ直ぐや曲がる事はどうでもいい。何処を歩いても地球の上だ。深山に入ると道(タオ)を求める事から離れる。「そういうことか」オサムに笑顔が浮かんだ。言葉で伝わる事がある。音楽で伝わる事がある。映像や造形で伝わる事がある。優れてた「表現」で伝わる事は多い。だが、絶対「表現」では解らない事がある。伝わっても・・・解らない事がある。「そういうことか」解ってしまえば単純な事。何故、心と体があるのか?何故、解らない事があるのか?解ってしまえば、当たり前の事。オサムはザックを下ろした。靴を脱いだ。服を脱いだ。メガネを外した。裸になった・・・。乳白色の霧が出てきた。上を向くと、澄んだ蒼空。霧は濃くなり、数センチ先も見えない。素足でゆっくり前に進む。裸になれば、それほど寒くない。大丈夫だ。用意されている。迎えてくれている。
2004/11/09
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(この時期になると、何か書きたくなるなぁ。でも、キーまかせだからどうなるか・・・)「迷ったか・・・」そう思っても、足の動きに躊躇はない。本当の目的地は自分でも判らないのだ。「迷った方が行き着けるかもしれない。迷わなければ・・・たどり着けないかもしれない」オサムは迷う事を求めて生きていた。空気は冷たいが、ザックが当たる背の部分は熱い。とりあえずの食料はある。シュラフも防寒用具もある。山の頂上を目指すのなら、現在位置が不明でも難しくない。上に登ればいいことだ。直接登れなければ、回り込めばいいことだ。必ず登るルートはある。しかし、オサムは頂上に行きたいわけじゃない。山は頂上ばかりが目的地じゃない。自立すれば、自分の目指す場所がある。他人とは違う場所だと気づくものだ。何処だか見えなくても、方向は匂う。探しに行く時期(チャンス)も判る。出発前の希望や胸の高まりは、実際に山に踏み込んだ瞬間から消し飛ぶ。「そんな甘くないな、やっぱり・・・」深山は想像を超えて存在している。予想できる範囲を超えて広がっていた。「迷って、当たり前だな」迷う事を期待していた自分が観える。世界地図で見れば日本は小さい。日頃の情報メディアに接していると、日本の中で不明な場所があるとは思えない。何処までも入りこむカメラ映像に死角があるとは思えない。ところが実際は不明な場所だらけなのだ。知っている場所は微々たるものだ。それは頭でなく、足で知ろうとした人だけが理解する。一歩深く入り込む。更なる一歩を道を外して入り込む。もう、そこから先は初めての光景が広がる。更に更に入り込む。戻る事など考えなければ、深く入れる。引き返す事など諦めれば、別の世界が見える。不安はある。悩みもある。それらを包む夢もある。希望はないかもしれない。未来は続かないかもしれない。それでも進みたい好奇心がある。
2004/11/08
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光側から観ると、病は闇に観えない。光(生命)の一部としか思えない。光(いのち)を認識(感謝)する為に、巧妙に仕組まれたアトラクション。だから程度の差はあるが、誰にでも起こる。生が誰にでもあり、老いも誰にでもある。死も例外がないように、闇(病)は他人事じゃないんだ。全てが本質体の成長の為に用意されている。(とブッちゃんは思ったんじゃないかなぁ?)闇(病)の中で出会う「縁」は濃い。「濃い」は「恋」に変化する事さえある。闇は苦しみだけで構成されているのではなく、愉しみや喜びや望みも内蔵されている。苦しみだけに「とらわれ」ないでくれ。もったいない、だろう?何度も繰り返す。この世はヒネくれて創られている。この世は「幻」が最大の力を発揮できる。「幻」は「気づき」に弱いんだ。「闇(病)は気づきのメッセージを含んでいる」闇の正体に気づくと闇は消えていく。正確には・・・闇の不都合部分が消えていく。闇は思ったほど、深くもなければ広くもない。パニック状態の浅瀬・・・電球の切れたトイレの中。落ち着いて手を差し出せば出口は見つかる。大丈夫だよ。闇は恐くないから。権力に狂った人間の方が恐い。欲に狂った人間の方が恐い。(ワシは美味しいケーキとコーヒーが恐い。札束を抱えた気前のいい美人が怖い・・・)誰でも目を閉じれば闇。目を開けば明るいものさ。最初から(明るい)場(この世)は変わらない。気づくと・・・閉じても明るい・・・。闇(病)は光の中にあるわけじゃなく、光の中で創る事ができるモノなんだねぇ。
2004/11/07
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「こだわり」は闇(病)へのルート。しかも自動歩道の機能付き。「こだわり」続けりゃ勝手に辿り着ける。闇(病)に行きたい人にはお薦めですなぁ・・・。ブッちゃん(仏陀)が看破したように、生老病死は皆さんに平等だ。四苦ではあっても、大切な意味が込められている。この平等というのは「同じ」という意味じゃない。(ここを間違う人が実に多い・・・)「それぞれ違うようにに与えちゃうよ」という意味だ。解りづらいかなぁ・・・。与える事は全員だけど、その人に適したように与える。その人が最高に役立てるように、時期や大きさを違える。だから平等は人間技じゃ出来ない・・・。平等な社会なんて、人間では無理なんだぜ。(一応お断り・・・ワシは楽観主義者です。)闇(病)は全員に与えて下さったようだ。誰だか知らないけど、偉大なナニモノか、らしい。ワシはその偉大なナニモノをグレちゃんとよんでいる。グレート・サムシング・・・グレートサスケじゃない。そんな偉いのが仕掛けた事ならば、有り難いに違いない。きっと深遠な考えがあっての事だろう・・・。でもワシは性格がヒネくれている。相手がグレちゃん(創造主)であっても容赦しない。偉いから深遠と思い込むのは固定概念だ。深遠じゃなく、いいかげんに創ったのかもしれない。人間だけじゃなく、この世界というものを・・・。失礼! 「いいかげん」ではワシと同じだ。ワシは二流の独善家を精進中だが、(精進って、そういう使い方でいいのか?それに一流じゃないのか?三流では?)グレちゃんと同じなんて思い上がりは無い。真に偉いと・・・オチャメになる。だから人間に闇(病)をセットしたのは、単なるイタズラだったのかもしれない。闇の正体は・・・単なるイタズラ・・・。これを観抜くと・・・闇は消えてしまう。・・・・・ちょっと待ったぁ~!闇(病)の中にいる人からは、正体がイタズラでは納得出来ないと思う。納得出来なくてもワシの責任じゃないが、そうだなぁ・・・別の表現もあるよ。闇(病)の正体は・・・「愛」。(尚更納得しないだろうなぁ・・・)では、闇の正体は「光(生命)を観る為の次元」「病(闇)は(光の)気づきのメッセージ」という諺もあるし。(ワシ的には気に入っているんだけどねぇ)
2004/11/06
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闇(病)は自分の周りが見えない状態だ。だから不安になり、自分の事を訴える。でも冷静な客観視は出来ないから、「こだわり」の部分だけを考えている。(闇の人・病人って、かなり自己中・・・)こちら側から闇(病)の人を観ると、「こだわり」の中に閉じこもっている。決して「闇(病)の中」にいるわけじゃない。大きな闇(病)という次元(空間)にいるわけじゃない。とても小さな「こだわり」次元から出て来ないだけだ。だから闇(病)からの脱出は難しくない。すぐ外側には光(健康)があるんだ。別な表現をするなら・・・闇(病)の中に閉じ込められているのでなく、闇(病)というテントを被っているんだ。(しかも一人用。かなり小さい・・・)闇のテントを握っているのは本人。手を放せば、闇のテントは落ちてしまう。闇(病)からの脱出(回復)は、他人がテントを引き裂く事でもなければ、無理やり入り口を広げ、外に連れ出す事でもない。しっかり掴んでいる手を放すだけでいい。その掴んでいる力を「こだわり」という。とはいえ、放すにはお手伝いが必要な場合が多い。長らくしっかり掴んでいると、手が固まってしまう。放すのは本人でも、放せるように柔らかくする手伝いがいる。そのための助言やお手伝いが施術者なんだ。その施術者の一部分に西洋医(ドクター)がいる。闇のテントの構造や成分などに詳しい・・・ドクターのたむろする建物が病院なんだ。(単なる例えです・・・下種のタワゴトです・・・権威ある人達に楯突くつもりはないです・・・口が滑るのはDNAのせいで、ワシの責任じゃありません)ヒュギエイアという女神様がいる。闇(病)を観る事よりも、光(命・生命力)を観る女神様だ。明るい光の中で、綺麗なおっぱいを隠さない女神様だ。ヒュギエイア女神派の施術者はヒーラーとよばれる。どうやらワシは(派閥には関係ないが)、ヒュギエイア神の庇護の中にいるようだ。闇(病)を観る神はアスクレピオス。ドクター達はこちらの派に属する。アスクレピオスは医神(男神)であり、ヒュギエイアは健康神(女神)だ。ワシは抱かれるのなら、オトコよりオナゴだ。(この書き方は相手が神様でも、何か変だ?)だから光(生命力・自然)側から観る闇(病)の正体ということになる。
2004/11/05
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こう書いていても伝わり難いだろうなぁ。「こだわり」を観てしまったのは、ワシがあるクライアントと接触して感じた事だ。ワシは根性の無いナマケモノだ。だから出来るだけ簡単に回復するポイントを探す。ワシのところに来るようなクライアントは、今まで多くの時間を苦しんできたろうと思う。他で回復の道が見つからなかったから、藁でもいい、と思って来たのだと思う。(藁が見つかるのと見つからないのの差は、藁の大きさ重さ以上のモノがあるんだよ)ワシは苦しみが悪い体験とも思わないが、苦しみ続けるのは卒業した方がいいと思っている。だから、回復法でもいろいろ有るが(苦労する回復法)出来るだけ軽く速く簡単に済ませたい。ワシは努力と根性で乗り切るタイプじゃない。一点集中というか、集中もしないというか、とにかく、変わるポイントを押すだけだ。ワシが扱う「氣」は元々がワシの力じゃないから、する事に区別や差別や種類があるわけじゃないが、「氣」は、ポイントを観抜けば速さが違うのだ。ナマケモノはナマケモノの仕事の方法がある。この場合は、観抜く事が仕事のコツだ。そして一つを観抜けば、全体に応用できる。ホントのポイントは、一つでも万なんだ。何処がポイントだろう?誰にでも当てはまるモノを探している。万能力、万能ポイントを観つけてる。ホントにワシはナマケモノ・・・。闇(病)の正体を観るのは、マジメな探究心からじゃない。不マジメなナマケモノだからだ。楽をしたいからだ。楽が好きだからだ。相手にも楽が楽だと知ってほしいからだ。「楽」は「気まま」の変化でもある。闇(病)が「苦」の変化なら、闇(病)からの(光への)回復は、「楽」が一つのポイントになる(全てじゃない)。「苦しまなくては乗り越えられない」この固定概念は間違いだと思うよ。苦しんで乗り越えたなら、一息つける「喜び」はあるだろうが、その先には更に高い壁があるんだ。だって・・・「苦しみ」が「壁(闇・病)」だもの。
2004/11/04
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「○○してはいけない」こういう指導の仕方を多くみかける。学校でも社会でも法律でも宗教でも同じだ。でも、これは心の仕組みを無視している。「こだわりを持ってはいけない!」これで心が言う事を聞いたか?事実は誰でも確められる。これで闇(病)から戻ってこられたか?アレしてはいけない。コレしなくてはいけない。コウでなくてはいけない。そんな事(理屈)ばかりで押すから、心は反発するし、体はイジケる。「気まま」でいいんだ。「気まま」がいいんだ。こういう表現の仕方がワシ流なんだ。「こだわり」にこだわらない方法だ。闇(病)に居たかったら、それでもいいけど、闇(病)から抜けたかったら、方法がある。しかも・・・誰でも出来る方法がある。どうする?そういう話をしている。闇(病)が悪いわけじゃない。ブッちゃん(仏陀)が家を出る時、どうして生老病死があるのか悩んだ。でもこの四苦は同じように扱った。(ワシなんてもっとクダラナイ事で悩むのに、さすがに偉ぇなぁ・・・)生まれるのが悪いと言う人は少ない。(たまにいるんだよねぇ・・・)老いが悪いと言う人はいない。(嫌いな人は圧倒的に多い)死が悪いと言う人もいない。(皆さん、アキラメているね)でも、病(闇)だけは悪者扱い・・・。(弱い者イジメだねぇ・・・)ワシはワシよりブッちゃんの方が偉いと思っている。(当たり前なんだけど、皆さんは時々違うみたい)だから、ブッちゃんの言う事はうなづく。ブッちゃんは闇(病)を悪者にしなかった。だからワシも闇(病)を必要だと思った。ここから出発して健康を追い求めている。そしてキーワードが「こだわり」だった。病気からの回復を「病気治し」にしないで、「健康」そのものに目を向ける。同じように「こだわり」に目を向けないで、「気まま」に目を向ける。ワシって・・・ヒネくれているかなぁ?
2004/11/03
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一瞬だった。一方向からだけだった。それでも隙間から観えた。ホンの一部分だが・・・。闇の一部である病。ワシは闇なんて観たくもないが、回復を健康から追い求めると、観たくなくても観てしまう。ホントにこの世はイジワルだなぁ・・・。おっぱいの綺麗な女神様でも見ていたいのに、闇に蠢く人間達の苦しみを観てしまう。まぁ、観るのも仕事ならしょうがない。アキラメはいいほうだ。で、気づいてしまう。前々から気づいてはいるのだが、その深さに改めて気づいてしまう。読みが浅かった事に気づいてしまう。どこに分れ目があるか?その点(ターニングポイント)を指摘し、変える手伝いが、ワシの仕事でもある。だから、分岐点を観るのは大切なんだ。力が入っていては、見落としてしまう。今回見つけた隙間は、今までと同じだ。でも、その重さが違う。言っておきながら、意味の深さが解ってなかった。多くの人が指摘している。同じ言葉でも深さは幾重にもあるもんだ。体に悪い事。心に悪い事。自然法則に逆らう事。これらをしたからといっても、即、闇(病)になるわけじゃないのだ。(倫理や法律は人間が勝手に決めた事だから、逆らっても闇・病には落ちないぜ)闇(病)への道は体や心に悪い事をするからだ。もう少し深い言い方では、自然法則に逆らうから、闇(病)になる。というのが定説だった・・・。定説は表面的な解説なんだなぁ・・・。定説とか常識なんて、信じちゃダメよ・・・。といって、無視をするとメンドウが起きる。社会的に生活する上で、信じるフリをする、程度の事で充分だ。「こだわり」一言でいうなら「こだわり」が分岐点だ。分岐点は良い・悪いじゃない。「気まま」が足りない心理状態だ。
2004/11/02
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9を意味する月。いくらローマ歴では3月が一年の始まりであっても、そのまま11を9で押し通すのはなぁ・・・。その点、日本語は美しいぜ。「霜月」(下付きなどと、話を落とさないぞ。って、書けば落としてるじゃん・・・。意味の解らないヨイコの皆さんは、お父さん、お母さんに聞いてみよう・・・)「露ごもりの葉月」なんて言い方もある。日本語は奥も深いが、綺麗でもある。「一陽来復」の月でもある。「神楽月」でもある。そんな11月にワシは生まれた・・・。振り返るのがあまり好きじゃないワシだが、(恥や愚ばかり観えちゃうしねぇ・・・)生きてきたんだなぁ、52年も・・・。生きてきたんだなぁ、52年しか経ってないけど・・・。(正確には52年になってないけど、まぁいいかぁ)自分の歳を言うのが、この頃は平気になった。(あれ? 以前から平気だったなぁ・・・)隠したって意味ないし、隠すほどの秘密もないし。それでも11月になると誕生日があるせいか、年齢とその過去を意識する。振り返れば、面白い52年だったが、これからはもっと面白く生きてやる。歳を重ねると衰えを感じる。だから、もっと面白く生きようと思う。もっと楽しく、愉しく生きようと思う。ワシにとって愉しい事は、人やモノがイキイキと変わる事だ。変わっていくのを見るのが好きだし愉しい。自分の事もいいけれど、他が明るくなるのは、気持ちいいものだ。それを知ってしまったから、この仕事が辞められない。ワシの個人的な我儘でもあるし、愉しみでもある。決して「世の為、他人の為」じゃないぞ。自分の愉しみの為に仕事をしているのだ。偉い仕事などと、時々言う人がいる。(アヤシイ仕事と思う人の方が多い・・・)とても誤解されやすいです。褒められるのは・・・不本意です。そうじゃないのに・・・我儘でしているのになぁ。
2004/11/01
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