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今日まで来られた。ありがとう。誰に対してだか、何に対してだか、ますます、わからなくなってきた。よくわからんが、感謝はできるし、したい。ありがとう。温かい体になってから、少し涙もろくなった。競争社会では「負け組」を選ぶワシだ。「勝ち組」に成りたいとは思わない。だから温かい体でいられる。温かい何かを感じる事ができる。ありがたい。ワガママになったのだか、自由になったのだか、力が抜けるようになったのだか、単に年老いたのか、判らないが、ストレートで生きられるようになった。ありがたい。好きな相手に好きと言える。ありがたい。嫌いな相手と縁が切れる。ありがたい。愛しい相手に愛しくできる。苦しい時には愚痴が言える。嬉しくなると、笑顔になる。目が見える。見えないモノを感じられる。聞こえる。話せる。歩ける。恵まれている事を感じている。何者かに抱かれていると確信できる。何度も「ありがとう」と言われた。そうじゃない。こちらこそが、ありがとう。でも、そこは理解してくれないよね。メチャクチャでモノグサなワシが、崖っぷちの仕事を10年続けてきた事に、今までは、自分で自分を褒めていたが、どうやら勘違いをしていたようだ。生きていられたのは、ワシの素質じゃない。理屈じゃなく、そう思えるようになった。ワシのイイカゲンだけでは乗り切れなかったはず。生きていても、大ダメージを負ったはず。危ない場面でも、回復は早かった。氣功師としての能力の高さでもない。ただ単に守られていただけだったと、今、わかる。守ってくれたモノは一つじゃない。何人かの人。何らかのモノ。人以外の存在達が複合一してくれたのが、今になって、わかる。ありがとうございました。嬉しいです。とても、嬉しいです。(今年最後の雑記も書き終わりました。訪れてくれて、ありがとうございますまた、来年も書きます。皆様、よいお年をお迎え下さい)
2004/12/31
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「風に流される生き方」人によってこのとらえ方が違うだろう。単なる根性無し(うっ、当たってる・・・)単なるメンドウクサガリ屋(同上・・・)でもね、それだけでも無いんだなぁ・・・。ワシは人生は自分で切り開くものだと思っている。足は自分以外の力でも歩かされる事があるが、息をするのは自分だけだから、生きているのも自分からの力で生きている。深く観れば「息」も「生き」も与えられているから、生かされている、という言い方が適している。与えられているが、管理者は自分なのだ。この仕事をするようになって、多くの「生きる」部分を観てきた。生きようとする力を観てきた。その力は人に属しているとはいえ、人以外の大いなるモノからだと感じてきた。最適な回復法や健康法を求め伝えるのは、ワシの(プロとしての)仕事だ。世の中の常識や道徳などと相反する事も多いが、プロの治療者や指導者とはそんなもんだ。世に迎合する方法は(プロ)商人の方法であり、職人のプロじゃない(治療者などは職人型だ)。最適な方法は幾つもある。その人にとっての最適だから、同一ではないが、「生き方」と深く連動しているは共通している。独立した回復法や健康法では、一時しのぎにしかならない。生活の中、暮らしの中、生命の中に溶け込んでこそ最適になる。「生き方」はいろいろだ。人生イロイロ。でも「回復・健康に適した生き方」は幾つも無い。多くの場合は「自然体」が最適になる。でも、これが通常は難しいようだ。社会は「余計な力を使って」成り立っている。その癖が「生き方」にまで及んでいるのだ。社会と個人の生き方は別にしなければ病むのに・・・。ワシのように、社会的生き方をアキラメた場合は、体や心は楽だけど、生活は苦しい・・・。社会は「余計な力を使って」成り立っている。力を入れるほど社会的評価や経済が高まる仕組みだ。その癖が「生き方」にまで及んでいるのだ。社会と個人の生き方は別にしなければ病むのに・・・。ワシのように、社会的生き方をアキラメた場合は、体や心は楽だけど、生活は苦しくなる。「風に流される生き方」は根性無しだけの理由じゃないのだよ。ワシの「氣功状態」が「自然体」からだから、24時間の氣功師を目指すには、常時自然体で生きたいのだ。目指せ!常時、根性無し!(そ、そうかぁ?)故伊藤真愚先生の教えの「前夜からの始まり」はこの「流される生き方」状態が最適な行動をとるのだ。無理の無い生き方は、よりよい未来を創りだす。ヘタな準備よりも「力の抜けた日々」が最良かもよ。
2004/12/30
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02年12月のコラムにも書いたが、「始まり」はいつが始まりか?(龍村道場にて伊藤真愚先生から学びましたが、次の世界へ旅立たれました。直接教わる機会に恵まれて幸運でした。感謝・合掌 )一日の始まり、一年の始まり、新しい生活の始まり。始まった時が、始まりじゃない。この「気づき」も深さがある。深さによって「観」が変わる。一日の始まりは「気持ちのいい一日」でなければ意味がない。ただ漠然と生きていては意味がない。(うっ・・・何故か、み、耳が、痛い・・・)(ワシ流では)立派に生きろ、というわけじゃない。何か生きてきた証を作れ、というわけでもない。(そういう激励に導く話が多いけど、ワシ流じゃない)一生は「気持ちよく生きて」こそ意味がある。一日は「気持ちいい一日」が過ごしたいのだ。だから「始まる前の過ごし方」で「始まり」が変わる。例えるなら、前夜を徹夜して朝を迎えても、あるいは、酒を飲みすぎて二日酔いで次の日を迎えても、気持ちのいい一日とはならない。一日の始まりは、イキナリ始まるのではない。ならば一年の始まり、新年は、すでに始まっている。「年の瀬」は新年のポイント(分岐点)を握っている。それは個々の意識状態。来年は更に「気持ちのいい」一年になると、ワクワクしながら待ち望んでいる場合と、今の不満や未来の不安を持ち続けている場合とでは、実際の未来が変わってくるのだ。未来は確定していない。(確定部分もあるが、不確定幅があるのだ)一日24時間が、僅か前夜の数時間で左右するように、一年間が「年の瀬」の数日間で左右する場合がある。「年の瀬」は想像以上に未来に大きな影響力を備えている。もちろん「年の瀬」だけで一年が決まるわけじゃないが、ある程度の期間を凝縮し、影響を与えるのも間違いないぞ。簡単だろ?「来年は更にいい事が待っている(かも?)」「来年は更に飛躍するぞ!」「何でもド~ンと来い!」そんな意識で迎えるだけで、事実が違ってしまうのだ。この学びには、更に深い「気づき」があった。ワシは「風に流される生き方」を好んでいた。次の日の準備(意識)をするよりも、出たとこ勝負!のイイカゲンな生き方でいた。一見、この学びと矛盾するようだが、最近になって、この学びの深さと一致したのだ。
2004/12/29
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本来なら年の瀬はワクワクする時だ。新しいモノが近づくのはワクワクする。新車・新妻・新夜(そうくるか?)・新会社・新事業。新年が近づく年の瀬は、忙しさの中にワクワクがある。ところが「生命力」が低下していると、新しいモノが「不安」に思えてしまう。新車、新築の支払いをどうししょう。新妻はいつ鬼妻に変わるのだろう。新会社に入るのが怖い。社会に出るのが怖い。学校に行くのが嫌だ。心の閉じこもりは不安からだ。不安の原因は心の中にあるのじゃない。そこを勘違いして対応しているから、いつまでたっても治らない。「生命力」の低下か不調和が原因なんだ。状況が変わらなくてもいい。過去を振り返らなくてもいい。「生命力」を上げてしまえば勝手に治る。上げる方法も幾つもある。それを実践、指導する人が少ないだけだ。今、日本全体の生命力が低下している。その上に住む日本人の多くが影響を受けている。会社も地域も学校も影響を受けて低下している。個々の分析をしても、回復は出来ない。分析ばかりしているこの20年間を振り返れば、ほとんど役に立たなかった事は、事実としてある。もう今までの概念や方法では行き詰っている。「病気」になって耳を傾ける。「苦しく」なって目を向ける。今度の新しい年は、新しい概念を取り込む年だろう。故お師匠様が言っていた。「21世紀は「氣」を正面から応用する時代だ」ワシは今になってわかる。2000年になってすぐ切り替わるわけじゃない。「病気」や「苦しみ」は新しい時代への前触れだ。来年からは「氣」の取り入れの年になってくる。(海外では、もうすでに多くの分野で取り入れている。日本は医学も他の分野もとても遅れているのだ。ハード機器は進んでいても、概念が古いから意味がない)お~!ワシも飛び出す年が近づいてきたかぁ。自画自賛、独善ではあるけれど、年の瀬がワクワクしてきたなぁ。
2004/12/28
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「いい事」を振り返ると嬉しくなる。「お世話になった事」を振り返ると温かくなる。お世話になった事は人の温もりが込められているからだ。心や体が冷たい時は、いつでも振り返ればいい。ワシの体、特に手は特殊な温かさを持っているが、(物理的にも通常の人間より高い温度だ)それはワシの温かさじゃないからだ。ワシ自身なんて、結構冷たい。クールガイ、と呼んでくれ!(誰だ!爆笑しているのは!!)ワシはワシだが、手は「ワシの手」と「手様」がいる。自由に入れ替わる能力が仕事(氣功師)でもある。だから「手様」がどんなに立派な能力や温かさでも、ワシは普通(以下)のオッサンのままなのだ。(ハッタリが出来れば商売になるのに・・・何しろ、普通以下の根性と、気ままな生き方を選んだ)「手様」はかなり優秀だが、優秀なモノはオッチョコチョイが多い。「手様」も間違ってワシに張り付いたが、モノグサな性格でもあったようで、そのまま居ついている。さらに「手様」は人間じゃないから「お金」を必要としない。ワシに借家しているのに家賃を払う事すら思いつかないようだ。ワシは「流される人生」を自ら選んでいるので、金に不足して窮屈な生活でも、まぁ、いいか、と。でも年末になると、人間界はアチコチへ支払いがあるのだ。だからワシも無駄と知りつつ「手様」に言う。「おい!たまには家賃払えよ!」(聞こえないフリをしている。ネコみたいなヤツだ)とはいえ「手様」が居ついて、いい事も沢山ある。本当はワシがお世話になっているのに、クライアントは「手様」と「ワシ」が同じだと思っている。(まぁ、通常は当たり前だよねぇ・・・)ワシに(勘違いして)感謝してくれる。ワシも「役得」だと思って、いちいち関係を説明しない。(しても理解してくれないし、謙遜だと更に勘違いするし)「感謝」はする方にも、される方にも同時に力が働く。「生命力」がプラスされるのだ。具体的な感覚としては「温かく」なる。ワシの体は(手を除いても)結構温かい。「手様」のお陰でもある。「役得」はまだある。何しろワシの手に付いている。ワシ自身を直接温める事が常時可能だ。無料働きをいつでもさせている。「手様」はエネルギー体ではなく、エネルギー中継体なので、働くほど喜ぶ。マゾみたいなヤツなのだ。(エネルギー体だと、使うと消耗するが、中継体は使う事で活性化するのだ)(一年を振り返って、たまには「手様」に感謝するか。チュ!「手様」が(生意気にも)嫌がった・・・。オッサンのキスは苦手らしい(ワシと同じだ)ラッキー!手様の弱点を見つけたので、ワシが威張れるぞ。来年は脅して、別な力を使ってやる。(例えば、あんな事をさせるとか・・・)
2004/12/27
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クリスマスの雑記が気分良く書けなかった。あれじゃあクリスマスプレゼントにならないね。メリークリスマスだから世界中のキリスト教信者が、「隣人を愛してね。」「右の頬を打たれたら、最良の解決方法は左の頬を出すんだよ」と、叡智の塊のような言葉を理解してくれたら戦争は無くなる。戦争は一日もかからず、たちまち消えるんだ。それが世界中に配られるクリスマスプレゼントだ。生きていれば苦しみは必ずある。「生老病死」に係わる苦しみは誰にでもある。でも、戦争で生まれる苦しみは無くす事ができる。戦争を無くせばいいのだから。それが本来ならキリスト教信者には出来るのに・・・。クリスマスプレゼントは神様が信者にくれるのじゃないぜ。信者が無償(見返り無し)で世界に配るモノだ。頑なな思い入れや忠誠心は争いを生む事を知ってほしい。それをキリちゃんは「右の頬を・・・」と示したのに。○○教を理解しなくてもいいから、その真髄は理解してくれ。せっかくのキリちゃんの生誕祝日だ。キリスト信者じゃなくても祝えるし尊敬もできる。キリちゃんの望みは「世界のやすらぎ」だ。戦争下での苦しみの波動は、自己中のワシでさえ辛い。クリスマス関係はこのくらいにして話は変わる。ワシは「反省」を薦めない。むしろ「反省はしないほうがいい」と薦める。反省で未来を明るく出来る人は心のコントロールが出来る人だ。そんな人は少数派だ。反省すると(闇・暗に)落ち込んだり、心を捻じ曲げたり、誤魔化したり、無理をしたりで、ほとんどの人の未来は回復してくれないのだ。回復は明るい方向にしか置いてないモノなのだ。年末になると一年を振り返って「反省」する人が多い。ときどき振り返るのはいい。元気の元に振り返るのなら、なおさらいい。笑顔を取り戻す振り返り方なら、とてもいい。だけど「反省」は嫌な事柄に照準を当て振り返る。年末だもの、一年を振り返るのなら、いい事に照準しよう。ワシもいい事が沢山あった。あんな事やそんな事もあった。とてもこんな事は書けないほど、いい事があった。いろいろな事がもちろん、あったが、いい事探しもキリがない。誰にでも思っている以上にあるものなのだが、嫌な事や辛い事や悲しい事を振り返る癖がついていると、せっかく体験したいい事が見つけられない。「いい事」は、この年末に、ご主人様(アナタ)に、もう一度見つけてもらいたくて、(見えない)尻尾をふって待っている。
2004/12/26
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今日はキリちゃん生誕祝祭日。昨日の雑記はキリスト教関係者には、辛辣な内容だったかもしれない。(ワシは友人・知人にも信者がいる。個人的に素敵な人達だからこそ書いている)クリスマスという祝祭日だからこそ、信者はキリちゃんが示した真意を見詰め直してほしい。(教会の教えに)マジメで善良な行いをし、道徳的規律を正しく守るのは個人の勝手だが、他に押し付け広める事を望んだのはキリちゃんじゃない。それは組織(教会)関係者の野望だ。「隣人を愛してね。それだけで世界から苦しみが軽減する」こんなにも深い言葉を理解していないのは、残念ながら、多くの教会信者なんだなぁ。もちろん信者の中にも理解し行う人はいる。ワシがとても尊敬しているマザー・テレサ様もその一人だ。「キリストの教えを広めよう」これはキリちゃんの望みじゃない。「世界から苦しみを少なくしたい」(無くしたい、は無理だと思う)ブッちゃんもその他の超偉人達も動機は同じだ。キリちゃんは心がとても広いから、信者も信者以外も差別しないだろうが、(教会関係者はとても差別したがる・・・)信者は少し困った人達だなぁ、と思っているよ。「クリスマスは彼女と高級ホテルに泊まる日」そんなワ(バ?)カモノには微笑むキリちゃんでも、「イエス様を信じているから、七面鳥をたらふく食える」暖かい暖炉の前で本気で祈る敬虔な信者には笑顔が曇るんだ。「私の言う意味が解ってねぇなぁ・・・信じる、信じないなんてどうでもいいから他に優しくしてくれ。誤解を広められるのは、あまりいい気持ちじゃない・・・」ワシは個人的にキリちゃんが好きだ。(身だしなみに気を使わない)あのだらしない格好も、(見かけや地位で)相手を区別しないモノグサな性格も、裏切り者にさえ優しく接するお人好しさも、超偉人に共通のモノがある。言った言葉が幾つ正確に残っているかわからないけど、聖書に書かれている言葉の裏からは、とても深い愛情を感じる。だけど、教会や信者の解説は間違いが多いと思う。自分の評判なんてどうでもいいから、苦しみを少なくしたい。だから磔まで引き受けたキリちゃんの生き方を理解してない。信者や勢力を広める事なんて、キリちゃんの教えに反している。苦しみの少ない平和な世界に人類が貢献できるには、宗教心はとても大切な智慧を内臓している。だけど、宗教組織や一つの宗教を頑なに信じる信者は、苦しみを増やし、争いの世界を継続しているんだ。メリークリスマス!(キリちゃん! 言いたい事を代わりに書いたぞ! 褒美に○○をプレゼントしてくれぇ~)
2004/12/25
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冬至も過ぎて陽の時が増えている。闇(病)と陽(光)は敵対するものではないが、ほとんどの生物は陽が好きなように創られている。少数派だが嫌明性の生物もいる。ドラキュラとかゴキブリとか幽霊とか泥棒とか・・・。ワシはヘソ曲がりだから少数派にヒイキしがちだが、陽に関しては多数派に属し、積極的に応援する。闇(病)に光を流し込むのが仕事だしねぇ・・・。残念ながら、ドラキュラやゴキブリは依頼してこない。ワシ、闇の者達から嫌われているみたい・・・。でも幽霊は依頼してくる場合がある。(まだ拗ねている最中の霊は近寄って来ないが)幽霊の本心は明るくなりたいようだ・・・。いつでもいらっしゃい。治療に関してはワシは相手を差別しないが、幽霊の欠点は治療費を持って来ない・・・。でも変わりたいのなら、引き受けるよ。ワシは「来るもの拒まず、猿は追わず」今夜はクリスマスイブ。約2000年前の24日夜から25日にかけて、「氣」に敏感な人達は心地よい動揺を感じていた。何か、明るいモノが出現する・・・。後に魅力的なオッサンに変身するキリちゃんは、闇に大きな光を射し込んだ一人となる。キリちゃんは魅力的な光を広めたが、キリちゃんを教祖とした教会と信者達はそれほどでもない。心の広さを示したキリちゃんに比べ、信者達は教会の教え(キリちゃんの教えじゃない)を守り、ますます心の狭い狭徒(教徒)となった。「お~、いいぞぉ。何でも許しちゃえ~」そう言ったキリちゃんなのに、信者達は違った。「アレしちゃダメ! ソレをしなくちゃダメ!」そんな事ばかり言って、関係者以外幸せになると思う?関係者は満足かもしれないが、幸せの顔じゃない。作り笑顔は・・・無理が表れている。アフガン・イラクで赤ちゃん・子供・一般市民の上に平気で爆弾を落としたのは、敬虔な教会信者達なんだ。狂った大統領を支えているのは「愛と正義」を売り物にした、信者という名の狭徒達なんだ。(事実でしょ)狭徒は自分の判断を放棄したから狂徒となり、キリちゃん信者以外からは凶徒となる。キリちゃんが正義の為という名目の戦争を支持すると思う?クリスマスイブに喧嘩を売るつもりはないが、キリちゃんの教えを最も守らないし理解していないのが、キリスト教会とその信者達だというのは・・・まあ、よくある話か・・・・。でも今夜も戦争で苦しんでいる人達が事実いるのだ。回教徒は邪教か? 民主主義以外は殺してもいいという教えか?反論は聞かないよ。反論するヒマがあれば、戦争を止めなよ。こんなに長い間、正常な判断が出来ないのなら、ワシの乱暴な書き方も訂正しないぞ。
2004/12/24
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「好運グッズ」「お守り」を勘違いしているから、「氣」の立場から仕組みをもう少し書こうかな。出会った双方により新たに発生する「運」。振動(活動)する、ある深さの「氣」よる共鳴作用。共鳴は増幅作用でもあるから周囲へ影響し、具象化して状況を変える、あるいは守る。グッズにパワーが注入されているわけじゃない。エネルギー発生器じゃないのだ。「好運エネルギー」や「守りのパワー」の塊じゃない。中継装置がグッズやお守りになる場合もあるが、仕組みから観たなら、共鳴形物体となる。作用する相手と出会わなければ、何も発生しないのだ。だから運エネルギーが涸渇するような事はない。何年使っていても減るわけじゃないのだ。しかしモノも人もいろいろな影響を受ける。しかも生きている人の「氣」がこの世では最強だ。それが高度のホンモノのグッズでもお守りでも、使う人の闇の影響からくすんで(変化して)しまう事はある。上手く同調していれば、半永久的にも作用する。例えれば・・・触媒のようなものだ。触媒は新たな化学変化を起こさせるが、触媒自体は何も変化しないし、減らないのだ。しかし触媒が無ければ、新たな変化(運)は生まれない。触媒(好運グッズ)だけ揃っても、呼応するモノ(ある深さの氣)が無ければ、新たな変化(好運)は起こらない。好運グッズじゃないけれど、その作用が強い人がいる。昔からいわれる「アゲ○ン」「アゲチ○」もそうだ。誰にでも作用するわけじゃないし、その本人自体が特別「好運」の持ち主でもない。ある相手と出会うと「好運」が発生する組み合わせがある。出会えたら、ラッキーだよね。残念ながら、その逆のケースも多々ある。出会ったばかりに転落の道を歩む場合もある。男女間ばかりじゃない。ある政治家が最高位になったら(出会ったら)、「転落の運」や「不幸の運」を発生する事もある。しかも世界規模で発生する事もある。最近の日本や世界を観ていると、「不幸(不調和)運」を発生させている政治家が多すぎる。支えているのは、善良(考え無し)の国民達なのだが・・・。「好運」の仕組みを観てみると面白い。この世が多種多様なモノ達が存在していて、出会う相手により新たな変化を起こす。しかも基本となるのは相手ではなく、自分側だ。自分のどの部分(氣の深さ)を振動(活動)しているかに、自分とこの世の変化がかかっている。世界の中心に、自分の「氣」の深さがある。
2004/12/23
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「幸運グッズ」というのがある。困ったなぁ・・・。ワシが正直に書くと営業妨害になるのだろうか?ワシは独善世界を書いているのだから、本気でモンクを言わないでね・・・。(口が滑るけど、悪意は無いから・・・)「持っているだけで幸運がおとずれる」「宝くじに当たった」「ベンツの王子様がやって来た」「パチンコ・競馬が当たりまくり」これらのうたい文句に騙されるのは、騙されるほうが愚かだとワシは思う。社会はこのくらいのウソは常識だから許されている。TVコマーシャルなど、もっとオーバーだもんね。「ウソ」って言っちゃったよね・・・。口が滑りました・・・すいません・・・。97%くらいは全くのインチキです・・・。のこりの2.99%くらいは、勘違いです。(この言い方の方が関係者は怒るかなぁ?)このほぼ3%は何らかの影響があるんだけど、仕組みが解ってない。意図的な詐欺ではないけど、これが害になるんだなぁ・・・。最初からインチキなら害はお金だけだから問題ない。価値の無いモノなど、資本主義社会ではあふれている。お金を払って害になるものも巷にはあふれている。政府公認のタバコだってそうだしねぇ・・・。だからワシは正義感で書いているわけじゃない。正義感が無くは無いけど、こんなところに使わない。「好運」の仕組みは「氣」の共鳴だと書いてきた。つまりあるレベルの「氣」の深さを振動しているモノは、確かに「運」に影響を与える事ができる。ただし「氣」は双方の共鳴だから一方的に影響を与える事はない。買えば、身に付ければ「好運」が訪れるわけじゃない。ほぼ3%が何らかの振動していると仮定しても、本人側の同調する部分は「好運」ではなく「不幸運」だ。何故なら、「幸」は調和に基づいて訪れるが、本人が望んでいる事柄は「我欲」の塊だからだ。「我欲」は「ほのぼの愉しむモノ」であり、ガチガチの塊にすると「不幸」になる(戦争が象徴だ)。こんな事ぐらい、社会の常識にしてくれよなぁ・・・。我欲がいけないわけじゃない。人間は我欲の部分も含まれて創られている。グレちゃん(創造主)はイタズラ好きなんだ。道徳主義の人は「我欲を失くせ」と無理難題を言うが、我欲は(ほのぼの)愉しむ為にあるんだぜ。世に言う「幸運グッズ」を身に付けると、不幸になりやすい。(ほとんどはインチキだから安心してね・・・)問題をややこしくしているのは、残りの0.01%~0.0001%だ。「万が一」「百万が一」というところにホンモノがソッとあるのだ。ホンモノは少ないから商業的に売られる事はありえない。冷静に考えれば判る事でしょ。何らかの「縁」が無いと手には入らない。(そうでないと双方の同調共鳴が起こらないから・・・)お金で誰でも買えるグッズは、趣味として楽しんで下さいね。風水・占い・その他の怪しげな事柄は、全部がウソじゃないけど、通常ホンモノには出会えない仕組みだよ。
2004/12/22
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今、生きている人は全て「運」がある。更にいえば、全て「幸運」でさえある。(死んでいる人に「運」があるかはわからない。それは死んでから考えればいい事だ)これは観念論じゃなく単なる「事実」だ。思える、思えないは個人的だから勝手にしていいけど、「運」「幸運」が有る事は、現実であり事実だ。しかし人は「幸運」に気づかず「好運」を求める。宝くじで大当たりが・・・ハンサム・優しい・お金持ちのカレシ・・・大きな仕事が舞い込む・・・普通のダンナ・・・(これが幸運だと思う人も・・・ん? ほ、本妻かぁ?)宝くじを買うお金がある。売り場に行ける足が動く。口がきける。目が見える。欲しいと思える意識がある。これらは、すごい恵まれた「運」であり「幸運」だ。大病を患った人はわかる。死の淵を彷徨った人はわかる。今、不自由な体を自覚している人はわかる。その人達の傍にいる家族達はわかる。そして大切な人を失った人達は充分わかる。生きているだけで「幸運」だ。ワシは難病・重病の人達と係わる仕事だ。最後の時に立ち会ってしまう仕事だ。だから「生きている事」を観てしまう。生きている意味と価値を感じてしまう。生きているだけでラッキー(幸運)というのは、精神論じゃなく、奇跡のような事実だ。だから安心していい。自分に都合の好い「好運」を求めているのは、その事自体がとても「幸運」だ。好きなだけ「好運」を求めていい。狭義の精神主義は自制・自省を促すが、ワシは遠慮せず「好運」を求めるのがいいと思う。ただし「好運」が叶えられなくても「不幸」じゃない。「運」が無いわけじゃない。そこを勘違いしないで次の「好運」を夢見ればいい。誰でも、どんな状況の人であっても、すでに「幸運」だ。不幸だと嘆くのは勝手にしていいけど、それは間違いだ。生きていれば「不幸運」は存在してないのだから。
2004/12/21
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人は誰でも同じ大きさの宇宙を持っている。同じ大きさなので共通という言い方でもいいと思う。ユングという心理・精神学者は、無意識の底にあるこの部分を「普遍的集合意識」と名づけた。誰でも心の底にはとても広い世界が共通してあるのだ。ワシが、とっても嫌いな卑怯な政治家ジジイとワシは、残念ながら、同じ世界を共有している・・・。しかも、活動している部分(「氣」の深さ)は、「出会い」によって、ワシの同じ部分と共鳴する事さえある。「朱に交われば紅くなる」とは、そういうことだ。ワシも政界に入れば、リッパな無責任センセイに変わるかも・・・。(い、いや、いまでも充分無責任だと思うが、卑怯ではないぞ)10年前、ワシは故お師匠様と出会った。お師匠様が活動(振動)している「氣」の部分は、ワシの中では眠っていた深さだった。その部分を振動させている人は、とてもマレだと思う。偉いとか、レベルが高いとかの言い方は間違いだと思う。偉人ではなく、異人・変人・奇人・珍人だ。(ワシの中ではとても偉人だと思っている)「出会い」と「時期(タイミング)」が重なると、眠っていた部分が共鳴して、目覚めてしまう事がある。この10年の間に霧が晴れるように解った事が沢山ある。今の素質がワシのルーツに備わっていたと知ったのも一つだ。用意されていたが「出会い」が無ければ目覚めなかった。その「出会い」も「時期」が熟してなければ、目覚めなかった。「出会い」により「運」は新たに発生するが、発生する元(タネ)は誰の中にも用意されている。最初から誰の中にも備わっている。現れる時の状況で「好」「不好」はあるが、「幸」にするか「不幸」にするかは活用次第だ。まずは「運」を発生させなければ話にならない。買わない(出会わない)宝くじは当たらない。買ったからといって、必ず当たるわけじゃない。(確率論からは絶望的といってもいいのだ)しかし、買えば券(運)は必ず発生する。当たるには、どの部分の「運」(券)が来るかだ。つまり振動する「氣」の深さ(種類・部分)が必要になる。偶然はこの世には存在しない。必ず対応する「氣」(波動)が存在する。でも、わからないし、解明するのがメンドウな時は「偶然だね!」という(それでいいと思うよ)。「氣」は柔らかすぎて、確定しない。「氣」が万物の元となるこの世界。解らない事は「元氣」と対応する。解らないことだらけだから、未来に生きられる。
2004/12/20
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「出会い」から新たな「運」が生まれる。「好」か「不好」かは判らないが、「運」は間違いなく発生する。その「出会い」を「縁」という。発生してしまった「運」は、「好」であろうと「不好」であろうと、その活かし方次第で「幸」にも「不幸」にも変えられる。「幸せ」は他から一方的に受けるモノじゃない。自ら変化させるモノなんだ。つまり「好運」はあっても「幸運」は無いのだ。「運」は発生しても「幸運」は発生しない。「好運」や「不好運」を「幸運」に変える事が出来るのだ。ここを理解していないと、幻に翻弄させられる。「運」はいつでも発生する。この世を創ったグレちゃんは太っ腹だ。「出会い」さえ行えば「生命力」も「運」も恵んでくれる。どんな人にでも恵んでくれる。差別や区別をしないのだ。(というより・・・差別・区別がメンドウなのだと思う)「生命力」に、ある条件の塊が付随すると「生命」になる。種の子孫だけでなく、条件次第で、新たな種も発生する。条件がつかなくても「生命力」は必ず発生する。(これはワシの仕事である「回復力」に関係する部分なんだ)病気回復の一つの大きな方法は、誰にでも平等に用意されていた。グレちゃんって、かなり、優しいと思うよ。「運」は「出会い」によって必ず発生するが、「出会う」相手によって、その質が違う。「氣」は森羅万象の元だから「氣」の質が違うのだ。というより、振動する部分が違うのだ。(波動という言葉の方がわかりやすいかもしれない・・・)「出会う」相手によって影響する「氣」の深さが違う。深い部分から振動すれば「運」も大きく深い。この世の現象も大きく影響する。その人の生き方にも大きく影響する。単純に好・不好という意味じゃないが、深ければ、深い「幸」に変える事は出来る。基本として、この世は「出会い」の場だ。閉じこもっていては「生命力」も「運」も発生しない。その「出会い」も「深い出会い」ほど大きく変われるが、どの相手が「深い」か、一見ではわからない。だから「出会い」を繰り返すのだ。(今、流行のゴーコンとは違うと思うけど・・・)「氣」と「氣」・「波動」と「波動」は、同周波(同種類)が共鳴するだけじゃない。類は類を呼ぶが、それだけじゃないんだ。異周波同士であっても共鳴する。それは「深さ」に関係しているようだ。
2004/12/19
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あえて「幸」の文字をつかわずに「好運」とした。ホントの「幸」を判断するには、人は観方が狭すぎる。一生が限られているし、心があるからだ。心の容量は結構大きく広く深いものだが、利用する部分はとても狭い範囲からズームしている。しかも、心はどんな人もヒネくれているものだ。「私は真っ直ぐだ!」という人は勘違いしているだけだ。真っ直ぐなら、心にならない(心の本質は幻だし・・・)ヒネくれているから、間違うとも限らない。ヒネくれているから、ホンモノを判断できる場合もある。ヒネくれている、というのは、あらゆる可能性を秘めている。心って、ヒネくれがあるから、結構面白いのだ。だから「人にとって都合の好い」という意味の「好運」だ。テーマは心の話じゃない。「氣」から観た「運」の話だ。昨日の雑記の「氣功で宝くじが当たるか?」の関連だ。宝くじに当たる事が「幸運」か否かは一概に判断できないが、金が欲しい人にとっては間違いなく「好運」だろう。ワシも(幸せでなくても)当たって欲しいと思う・・・。(というか、好運を幸運に変える事は出来るもんね)(好)運がついてる、という。(好)運が巡っている時期という。でも「運」はゴミじゃないし、霊でもない。その人に付く、モノじゃないんだ。エネルギー的なモノでもない。運は湧き出てくるものだ。何故「出会い」があるか?イキナリ、こういう話になってしまう。この世は「出会いの場」として創られている。現代風に言えば「ゴーコン?」(ち、違うような気がするが、未体験なので断言できない)「出会い」は人と人だけじゃない。人と人以外の生物。生物と生物以外のモノ。モノとモノ。時間。空間。それ以外との出会い。(例えば、妖怪とか神様とか・・・。妖怪と神様をあまり区別しないワシは、とても心が広いと思わないか? 思わないのね・・・)例えば、人と人が出会う。例えば、オトコとオナゴが出会う。すると・・・新たな生命が生まれる。(いろいろな事を端折ってます・・・)これは「出会った」から生まれたモノ。「出会い」で「生命」まで新たに生まれるんだぜ。「好」になるか「不好」になるかは別として、「運」が新たに生まれるなんて当たり前だと思わないか?
2004/12/18
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ワシは根性が無いわけじゃないが、少ないとは思うし、使うのが好きじゃない。最近流行りのMでもないから(流行っているのか?)痛い、苦しい、辛い、も好きじゃない。病(闇)を抱える人達を偉いとは思わないが、根性や辛抱強さはあると思う。社会的にマジメで一所懸命働く人は病も多い。抱え続ける根性があるからだ。デタラメな社会生活で病を抱える人も、仕事はダメだが、根性と辛抱強さはあると思う。仕事や社会生活に活かさないだけで・・・。ワシはメンドウくさがりやで、根性も少ない。ちっとも辛抱強くない。「えっ、もうダメなの? もっと頑張ってよ!」す、すいません・・・淡白な性格ですから・・・。だから病(闇)になる前に、処理してしまう。暗い、苦しい、辛い、痛い時間は嫌なのだ。そんなワシだから「セルフヒーリング」は欠かせない。人の生き方は様々だと思う。苦しい経験を味わって、乗り越えたい人もいるだろう。痛いのが好きな人だっている。「も、もっと、イジメテ!」だから、押し付けるつもりはないが、病は早めに底から綺麗にしてしまうと、あまり苦しまなくてすむんだけどなぁ。仕事もお金も家族も会社も見栄も大切かもしれないが、常時正常状態の方が効率も気持ちもいいと思うよ。自分の体の為に、あまりお金をかけたくない人が多い。社会生活(外側)をキチンとしたがるタイプに多い。それは、個人の好みだからいいけど、それなら「セルフヒーリング」はうってつけだと思うよ。さて、質問3だ。「氣功で宝くじが当たりますか?」答え「わからん」「氣」は不確定要素が多すぎるんだ。というより、可能性としてはオールマイティなんだ。「森羅万物現象の元」ともいえるから。宝くじに当たる「氣」の使用方法はあるだろうが、今のところ、ワシには扱えないでいる。(ワシの豚子はくじ運が強いけど、何か要素があるんだろうね今までの感触からだと、ワシ自身に利益はあまり集まらないが、クライアントがワシの氣功につながっていると、仕事や会社は、そこそこの幸運はあるようだ。店は、大繁盛ではないが、まぁ何とかまわる。(客まねき、にはなるようだ・・・)それまでより、少し上向き程度ってところかな。ワシ、控え目だからなぁ・・・。ワシと離れてしまうと、今の現実の厳しさに直面するみたい。(事実だけど、この手の話はイヤラシくなるから・・・)
2004/12/17
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質問2はあらゆる「プロ」に共通するテーマを含んでいる。常時回復状態。常時正常状態。常時冷静状態。テンションを上げる。モチベーションを上げる。これらは表現上使うが、本当のプロは上げない。(上げたら・・・疲れるし・・・)表舞台ではそれぞれのポーズもあるが、裏舞台でメンテナンスにどれだけ重点を置くか、が、共通する一流(プロ)とそれ以外(プロ風)の違いだ。(注:ワシは1.5流のプロを目指しているけど・・・)「セルフヒーリング」は最重要の基本であり、目標でもある。だから、調整・回復の具体的方法は個性があるものだ。ワシはそっち方面(回復)の「プロ」だから、ワシ個人の「セルフヒーリング」が独自にある。書いてもいいけど、ほとんど参考にならない。だって、ワシの感覚・観覚がベースになるものね。手段もワシの「氣」の使い方が独自にある。ある意味、ワシ等は通常の人の10~100倍の「病」を受ける。マトモに溜めるわけにはいかない。溜めると、コイツ等(病・闇)は勝手に増殖する。現金なら勝手に増殖してもモンクないが、コイツ等はちと困る。いちいちモンク言うのもメンドウだから、増殖する前に消えてもらう。ワシは誰とでも仲良くしたいわけじゃない。時間がある時は、一人のクライアントが終ったら、すぐする。無いときは、一日分まとめて、する。この時間が結構気に入っている。ワシは相手が変わるのが好きだけど、セルフヒーリングも好きみたいだ。ワシの氣功はワシ自身にも「気持ちいい」のだ。出張する機会が多いから、車の中や電車の中でする。特殊なポーズをするわけじゃないから変人扱いもない。濃くすることもできるから、数分でも可能だが、基本的に「気持ちいい」から、出来るだけ長くする。時々、寝てしまう・・・・あっ、乗り越しそうだ!で、ワシは思う。「こういう段階なら病なんて数分で治るのになぁ」なんで、大きく育てるんだろうね?大きくなると正常回復まで、多少時間がかかる。苦しくならないと、なかなか治そうとしないよね。「セルフヒーリング」の長所は、自分が最も身近にいる事だ。レンタカー(肉体)から離れる事は死ぬとき以外にない。だから、病はいつでも初期で回復行為が可能なんだ。だだ、しないだけ・・・。ま、いいけど・・・。日本の医療費問題・健康問題なんて簡単に解決できるけどなぁ。その代わり・・・職が無くなる人が(医療・健康関係者と企業)ま、別な職につけばいいことだ(必要な仕事は山ほどある)
2004/12/16
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「セルフヒーリング」はプロの治療者はもちろんだが、医療従事者や他の癒し行為をする人達や、他人の体に触れてしまう職業の人達も特に必要だ。(理容・美容師なども相手からの影響を受ける職業だ)この場合は、それぞれの「プロ」としての基本行為でもある。(設備の整備をするようなものだが、もっと重要)長い期間を続けられる事がプロの条件の一つだ。1年で辞めました、ではプロじゃない。常時体調を整えてあるのがプロの基本条件の一つだ。ところが、他人の病(闇)をある程度引き受けてしまう場合、日頃の体調管理だけでは不十分なのだ。原因が自分のモノではないからだ。プロ立場の「セルフヒーリング」は、もっと積極的なメンテナンス行為となる。自分を他人と見立てて治療回復をするのだ。自分を一人のクライアントと同じ扱いをする。ワシはそうでもないが、これが結構難しいようだ。セルフヒーリングではあるが、自分一人だけで手に負えない場合もある。なまじパワーや技術がある人はここでつまづいてしまう。自分一人だけで何とか乗り切ろうとしてしまうのだ。孤高の「プロ」は長持ちしない・・・。「師」がいる事はとても重要だ。ある日突然能力が付いてしまった人(師がいない)あるいは・・・トップにいる、と思い込んでしまった人は、そこから先に「気づき」が無いと、長続きしない。年数が経つにつれ、不幸な顔になる。自分が大病・重病になってしまう。本来は「幸せ」のお手伝い役なのに、自分が不幸になるようでは、プロじゃないのだ。「師」を求め、巡り合ったならラッキーだ。ラッキーが無ければ、運命じゃない。別な道を歩いた方がいいと思うよ。「師」は必ず存在するものなんだ。この世は自分一人の世界じゃないからだ。自分がトップだと思ったら・・・もう未来は無い。特にこの職業の場合は「命」がかかっている。更に大きな存在との通路を維持しておかないと、メンテナンスは完全じゃない。「命」は人間界のモノじゃないからだ。大きな存在を仮に「神様」と名づけた時、「プロは立派になれ」というわけじゃないようだ。少なくてもワシの狭い経験と観からは、立派になると・・・神様は見放す感じがするんだなぁ。単に優しくなるほうが、双方浄化しやすいと思うよ。(不マジメでもスケベでも神様は可愛がるが、立派な人間には興味が無いようだ・・・)
2004/12/15
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質問2「自分で自分にも氣功治療ができるか?」答え「できるよ」(そ、そっけない答え・・・)これは立場によってセルフヒーリングの意味が違う。氣功は基本的には誰でも出来る。運転や泳ぎや話と同じだ。誰でも(基本的には)話せるし泳げるし運転できる。しかし出来る事と「プロ」は次元が違う。上手く出来れば「プロ」になれるわけじゃない。(最近はあらゆる分野でシロウトのプロが活躍してる・・・)氣功のソース(大元)によって大きな差があるが、基本的には誰でも自分で自分を氣功治療できる。一般的な中国気功は「自己の氣」をソースにする。自分で自分を回復・保健するために使う保健氣功には、中国気功は充分ではないが、適していると思う。(医療氣功への応用は単純に適しているとは・・・)ワシのようにソースを人間以外からつなげている場合、自分で自分を回復・治療するといっても、扱う「氣」は自分以外からだから、自分でも他人なんだ。確かにセルフヒーリングではあるけれど、「氣」側から観れば、自他の区別は無い。自分も他人もイヌもミミズも場所もモノも区別無い。ワシとミミズの違いなんて、立場が違えば区別無いんだ・・・。それなら同じ人間で同じオナゴで同じく大切な、本妻と愛人を区別するなんて変だよね。心の狭い道徳主義者はもう少し魂の勉強をしろよなぁ・・・。世界平和や正常な環境を心狭い道徳(正義)者達が阻害している、とはいわないけど、暮らしにくい社会にはしているよね。(絶対、異論反論があるよね・・・マジメな人達は怒りんぼだし・・・すいません、ワシはグレてますのでマトモに相手をしないで下さい)何度も書いているが、自分で自分を愛しむのは大切だ。それも最優先して行うほど、重要な行為なんだ。その手段が氣功であろうと、本質の大切さは変わらない。ワシは「○○すべき!」という「べき」は使わない方がいいと思う。でも例外として「自分で自分は愛しむべき」だと思っている。(体が愛しいレンタカーと知れば、べきじゃなく、自然にするけどね)実はこの「愛しい思い」がワシの扱うソースとつながる鍵でもある。ワシは母親が赤ちゃんに寄せる思いに近いと観ている。だから、誰でもこの氣功は扱える可能性がある。ソースが遥か宇宙だか、地球そのものからだか、月や太陽からだか、あるいは「神みたいな存在」からだかは不明だけど、そんなようなトコロからの通路ではあるようだ。自分で自分を氣功治療・回復するのは、「プロ」立場を外しても、こんなに重要なんだよ。「プロ」立場からは、更なる重要な行為となる。
2004/12/14
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数年前に南インドに行った。アルナーチャラ山という聖地に登った。インドの聖地は裸足という約束がある。上り口で靴を脱ぎ、裸足で登った。ほとんどが岩の山だったが、岩が温かい。多分・・・遠赤外線が豊富だったようだ。この山は「マハリシ」と称される聖者がいた。「マハ」は偉大という意味だ。「リシ」はある境地に到達したヨガの称号だ。つまり「マハリシ」は個人名じゃないが、そう呼ばれる聖者は少ない。ここのマハリシは「裸の聖者」と呼ばれている。一生を半裸で過ごしたからだ。ここのマハリシの最後が「癌」だった。ワシは何故病気になったのか不思議だった。しかも意識と関係の深い「癌」。(癌は特に意識と係わる病症状なんだ)これほどまでに自然と調和した生き方をして、霊性を浄化し昇華し利他行をしたのに・・・。それでも事実として「癌」になった。今は理解できる。「病気」は間違うから起こるのじゃない。必要だから起こるのだと。ワシの病気と聖者の病気はレベルが違うが、人間としては同じように起こりうる。ワシは体と心に悪い(不調和な)モノを食べ、体と心に傷つける生活習慣を平気でし、神を畏れぬフトドキな言行をして、当然の結果として病気になる。(いや、どういうわけか、未だなった事がない・・・)不調和を行えば病気になる。これも事実なんだ。しかし病気はそれだけじゃない。ブッちゃんだって腹を壊して入寂した。人間だから、死ぬにはキッカケが必要だった。より高いレベルに上るにはキッカケが必要だ。間違いだから病気になるだけじゃなく、更に素晴らしくなる為に病気になる。これ・・・よく観ると、同じなんだ・・・。だからブッちゃんの看破した通り、人は平等に「生老病死」がセットで付いている。生老死も同じなんだ。ワシ流の言い回しなら、「この世は経験する為にある」正誤や正邪もあるかもしれないが、経験・体験が優先するだろうと思う。全てを体験・経験できないけれど、基本的な経験は誰でも出来る。それが「生老病死」だ。だからワシのような欠陥人間でも「病」はある。グレちゃんは、偉い人とアホな人を差別しないのだ。質問1の答えになったろうか?
2004/12/13
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よく訊かれる。1・「病気にならないですか?」2・「自分で自分にも氣功治療ができますか?」3・「氣功で宝くじがあたります?」4・「氣功でオンナにモテますか?」(4の質問はなかったなぁ・・・)それぞれが別の質問だから、別に答えよう。1番は「もちろん病気になる」ブッちゃんという人がいた。人として真理を観る事に最も近づいた一人だろう。そこらの坊さんや学者さんの言う事は、(悪気が無くても)(全く)あてにならないが、ブッちゃんやキリちゃんのいう事は信用できる。(注:宗教組織が引用する言葉の意味はあてにならない)人が真理を語るのは、通常はおこがましいのだが、その例外が何人かいるものだ。目覚めた人の意味を持つブッちゃん(仏陀)。同じくイエスという称号のキリちゃん(キリスト)。他にも何人もいるだろう。例外はどんな場合もこの世ではある。この世はヒネくれて創られている。ヒネくれている、というのは「絶対」が無い。だから、どんな場合でも希望があるのだ。グレちゃん(創造主)は「愛」の形を「ヒネくれ」として現した。そのブッちゃんが言った。「人には生老病死が必ずある」ワシはこの事が長い間解らなかった。生老死の三つは納得できる。でも「病」は間違わずに生きれば無いのでは?そう解説している健康の達人達の本にうなづいていた。達人であろうが所詮人間。ブッちゃんと達人を比較するワシが馬鹿だった。ブッちゃんのいう事が理解できないからと、理解しやすい人の解説を信じようとしたワシが愚かだった。ワシは愚かなままだが、一応「プロ」になった。「人を観る」のが仕事(ライフワーク)になった。すると、「正誤」にこだわる事自体が間違いだったし、「間違い」というのなら、人の存在自体が間違いだと知った。更に100歩譲って、間違わないで生きられたと仮定しても、「病」は起こるように仕組まれていたと気づいた。「生老病死」には大きな意味と仕組みがあったのだ。やはりグレちゃんはタダモノではない。(グレちゃんとはグレート・サムシングという偉大な御方)創造主にむかって畏れを知らぬ、この書き方・・・でもね、グレちゃんは、そんな事で腹は立てない。腹があるのか、どうかも判らないけど・・・。
2004/12/12
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泥からの脱却には、ドライバーの協力が必要だ。適度なアクセル操作とハンドル操作があれば、押す側としても、とてもスムーズにいく。例え難しい状況でも何とか乗り切れる。運転する側と押す側との合氣があれば、かなりの不都合も解決できるものなのだ。ドライバーが「役割」をしなくても、時には、押す力だけで車を動かす事はできる。時には、一時的に泥から車は出す事はできる。しかしその先の泥道を乗り切れるわけじゃない。すぐにでも同じような泥に落ち込むだろう。車を運転するのはドライバーだ。一生後ろから押すわけにはいかない。一生付いてお手伝いは出来ない。ドライバーがドライバーの「役割」に気づき、それまでの運転を変える事に意味がある。泥道にはまった(病気になった)事が活きるんだ。動けなくなった状態からの脱却は、未来に続かなくては意味が無い。病気を治す事だけでは、意味が無いのだ。いずれレンタカーは返さなくてはならない。レンタカーから降りる事は決定事項なのだ。病気を治しても、治さなくても降りるのだ。意味は運転の仕方にあり、ゴールでもなければ、スピードでもない。スタックした事(病気)は失敗じゃないのだ。運転の意味を覚える為に動けなくなる、ともいえる。その最大の気づきが、レンタカーを大切に扱う事なんだなぁ。ドライバー(心)がどんなに成長しても、レンタカーを粗末に扱うようでは、この世(物質界)では、劣等生なのだ。優先するのはレンタカーであり、ドライバーじゃない。この点を逆に学んでしまうのは、頭のいい人に多い。気をつけよう。心の成長なんてどうでもいい。そんな事はあの世にいってからで出来る。この世は物質(肉体)界なのだ。ならば、この世での学びの最優先は、肉体(物質)への「愛」だろ。素直に観れば、簡単にわかることなのに・・・。生きているモノ達に共通の「役割」は、肉体を愛しむ事なんだ。心を愛しむのは趣味でやってくれ。
2004/12/11
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何故「役割」が必要か?「生命」は「つながり」で回復するからだ。一方向だけの力では生命力が湧き出ない。双方、多方の協力と共鳴があると、遥か宇宙か何処か、あるいは神様かは知らないが、「生命」の大元から応援がある。それは間違いないし、これが回復力でもある。地球上のモノはほとんど「金」で買える。人の心も、ある程度は買える。プライドだろうが、運命だろうが、環境だろうが、ある程度は買えるのが事実だ。「生命」もある程度は買える。(注:生命を狭い定義で使ってます・・・)残念ながら、これも事実だ。だが「生命」は買えても「回復力」は買えない。どんなに「金」を積んでも買えないのだ。極端な例を話そうか・・・。「臓器移植」というのがある。とても高額な医療技術料がかかる。お金が無ければ、受ける事は出来ない。有れば、優先して受けられる。だが、世界一の金持ちでも「回復力」は買えない。「回復力」が入ってこなければ「活かせない」。意味が無いのだ・・・。心の病でも同じだ。押す役割の人にお礼をすれば解決するわけじゃない。それぞれの「役割」を実行した時に双方以外の次元から応援が来る。体や心の闇・病からの脱却・回復は、力や知識のある押し手(医師・治療者)だけでは、「回復力」(免疫力を含む元氣)は湧き出ない。むしろ病を抱える側の「役割」実行力にかかっている。常に「生命」の主導権は本人なのだ。このポイント(コツ)さえ覚えれば、病からの脱却は、そう難しいものではない。難病・重病・奇病といわれるものでも、最重要は「回復力」であり、治療法じゃない。治療法は「回復力」があって活きる方法だ。正反対の治療法でも回復する人達がいる。ワシはこの点が疑問だった。でも「回復力」を土台にした時、その疑問は氷解したのだ。「回復力」の流れ方。その一つに双方の「役割」があった。(役割だけが全てじゃないけどね・・・)
2004/12/10
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「病名」というのがある。これを多くの人が勘違いしている。多くの病人さんが勘違いしている。病名は誰の為のものか?病名は担当する医者の為にあるんだ。その病に対処するための符牒(マーク)だ。だから同じ人の同じ病でも、病名は西洋医と東洋医では違う。アーユルヴェーダ医もチベット医もエジプト医も、それぞれ違う病名をつける。だから対処の仕方も、それぞれ違う。患者は「病名」が自分のモノだと思ってしまう。病名を調べる事が自分の「役割」だと思ってしまう。更に病気の治療法まで調べだす・・・。難しい専門用語や薬名の知識も調べだす。医者になる事を目指すなら、それもいいし、知識を増やすのが趣味なら、それもいい。病気はシロウトの半生知識で対処する相手じゃない。それは「医者」という専門家が「役割」だ。だから厳しい試験があり、資格が必要なのだ。(本当の資格のある医者がどれだけいるか、は別問題だよ)病気は対処を間違うと、危険な相手だ。「病」を抱えているのは本人。「病名」は医者(他人)のモノ。共に、回復を目指す為に共同作業をする。主導権は常に「生命」側にある。つまり、共同作業をする相手(医者など)を選び、決定するのは病人側の「役割」だ。立ち往生した車を押してくれる(手伝う)人は、ドライバー(本人)が決めるのが「役割」なのだ。動けないレンタカーをそのままにしていいわけがない。時間が経てば、自然に動けるわけじゃない。何もしなければ、より深く沈んでしまうのだ。だから、近くに適当な人が居なければ、大声で探すのもドライバーの「役割」だ。どんなに深い溝に入り込んだとしても、あきらめないで探し続けるのも「役割」だ。ドライバーが動けない現状分析をする事が、無駄や必要外とはいわないが、それを調べて対処するのは押す側の「役割」。病名を知ってもドライバーには手が出せない。それよりも対処しやすいように操作する必要がある。押す側との呼吸を合わせて、ハンドルやアクセルを調整する。それがドライバーの「役割」だ。
2004/12/09
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ドライバー(心)とレンタカー(肉体)は、一体じゃないが、最後まで一緒だ。レンタカーが動いてくれないとドライバーは喜べない。動けない(見た目じゃない)車に乗っているとイジケてしまう。単純な事実なのだが、普段は車が動いているから気づけない。順調に動いているから(余計な)悩みなど愉しんでいる。(悩んでいる人、きつく感じたらゴメンナサイ・・・)レンタカーが泥道で立往生してみると、ほとんどの悩みなど、どうでもいい事だと気づく。仕事や、愛しい人や、金や、評価などは、レンタカーが動いているのが前提だったわけだ。これはなってみたら理解できる。心の中だけの悩みは・・・結構贅沢な悩みなんだ。例えば自分より大切な家族という。その気持ちに偽りはないが、優先順位が違うのだ。生きている時はレンタカーが最優先になる。(死んでしまえば、家族の方を優先できると思う)どんなに悩んでも、食べるし、寝るし、息もするし・・・。心的には悔しいかもしれないが、事実なんだなぁ。生きている人間は「動物」なんだ。動いている(存在できる)物なんだ。ドライバーはレンタカーが動いて存在できる。(注:この世で生きている場合はですよ。あの世の事はあの世に行ってから考えて下さいね)泥道でタイヤが空回りして前に進めない。ドライバーだけではレンタカーを脱出できない。ドライバーはハンドルとアクセル操作が担当なのだ。それがドライバー(心・本人)の「役割」だ。だから、脱出のお手伝いが必要になる。それが、医者や治療者やヒーラーなどだ。もちろん運転の上手いドライバーもいる。かなりの深い泥道でも運転だけで脱出できる。車(肉体)の事を理解しているからだ。ドライブ(心の操作)は車(肉体)との共同作業だ。車を理解せず、大切に扱わないで、マトモにドライブできるはずがないよね。お手伝い側にもいろいろなタイプがいる。力だけで押すタイプがいる。泥道も車の状況も見ないで押す。方向が合っていれば脱出できるけど・・・横から押しても脱出はできない。まして力が強ければ、車は横転して(死んで)しまう。そんな例は残念ながら、あちこちで見られる。「車は引き抜きましたが・・・廃車です・・・」パワー(知識も含む)が有る事よりも、もっともっと大切な事があるんだ。「生命」「いのち」を観れなければ、パワーのあるお手伝いは迷惑なだけだ。技術や力や知識を詰め込むより優先して、「いのち」を観る事をしてほしいよねぇ。お手伝い側の「役割」は力じゃないんだぜ。
2004/12/08
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本来の仕事は「生き方」でもあるし「奉仕」でもある。それぞれの「生き方」があるように、それぞれの「仕事」がある。(ここでいう仕事は収入の有無を問わない)本来のその人の仕事に巡り合い、あるいは目覚めた人はラッキーだと思う。本来の仕事ではなくても、人はそれぞれの「役割」があり、それで様々な出来事が変化し成り立つ。それは、その時の「役割」であり、その場限りの「役割」の場合もある。ワシがワシの仕事(健康へのお手伝い)をする時、いろいろなクライアントと出会う。多くは「病・闇」を抱えている。何とか抜け出したいから、ワシと係わる。ワシにはワシの「役割」があり、それはクライアントには出来ない事だ。クライアントにはクライアントの「役割」があり、それはどうしてもワシには手伝えない事がある。本人の力では無理でもワシには出来る事がある。本人がするべき事も指導できる。だが、本人がしてくれない限り、抜け出せない「闇・病」は多いのだ。(病にはいろいろな種類があり、必ずしもではない)そうねぇ・・・たとえ話にしようかな。ドロドロの道がある。平なアスファルトの道の時もあるけど、最後まで平な道はありえない。岩だらけや雪道や道が見えない道もある。高い場所から行く方向を確かめる事が出来たとして、最良の道を選んだつもりであっても、実際の道はアクシデントが起こる。そうでなくては・・・ツマラナイ。生きていくのだから、アクシデントが起こり、ハプニングが起こり、退屈しないようにしてある。グレちゃん(創造主)って結構優しい(と思う)で、ドロドロの道にはまり込む。最後まで使う専用のレンタカー(肉体)は、時々スタック(立ち往生)してしまう。う、動けない・・・こ、困った・・・ひ、日が暮れそう・・・暗いなぁ・・・これが病(闇)状態だ。よく観てみよう。レンタカーが動けないから、ドライバー(心)は困っているのだ。ドライバーよりレンタカーを動かすのが先だ。
2004/12/07
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12月だ。ワシも氣功師という「師」の仲間である。多分にアヤシイので「シッ!」と追い払われる。他の「師」は偉い人や立派な人が多い(?)「先生」と「師」はかなり違うのだが、今日は説明する気分にならないから、まぁ同じでもいいや。世の中にセンセイは多い。欲脂ギトギトの政治家は全員センセイだ。教師や医師などは試験さえ受かっていれば、学校出たてのアンチャン、ネーチャンもセンセイだ。中国に行くと、どういうわけか、ツアー全員がセンセイだ。街を歩くと、妙齢のイロっぽい御婦人が、「センセ!お久しぶり。寄ってらして」などと、誰彼かまわずセンセイにしてしまう。(注:我が町にはそういう御婦人はいない。代わりに猿と狸と熊と狐がいるが声はかけてくれない)そういうセンセ達が走り回る月だそうだ。身分保障されて税金から給料の出るセンセ達は、忙ナスという茄子を夏と冬に貰い、先ほどの妙齢の御婦人達と食べるらしい。本妻さんには内緒の食べ方があるらしいが、ワシはその茄子を貰った事が無いので推測です・・・。(ウワサでは食べたり、食べられたりするとか?ど、どんな食べ方なんだろう?興味津々)茄子はつかないが、ボーさんという「師」もいる。正月は比較的ヒマになる職業らしいので、12月中に「経」のバーゲンで稼いだらしい。頭から汗をかくほど走り回るが、ボーさんだから、ケガ無い。(御仏様が守ってくださる?)これが「師走」の最有力説だそうだ。ワシだって見栄がある。アヤシイ「師」としてのプライドがある。今月くらい他の「師」のように忙しく走りたい。「センセ、アタシも癒してね・ハート」「センセ、今夜は私が癒してア・ゲ・ル。」なんて次から次へと走り回りたい。(ホントは色っぽいのは苦手です・・・。って、何を言い訳しているのかなぁ、ああ、忙しい・・・タイヤ交換が・・・)師走だから忙しいわけじゃないが、毎日の綱渡りに油を塗って、自転車操業の自転車も壊れた。今は一輪車に乗って渡ってますから、慌てると危ないかも・・・(い、いや、そうじゃなくてもヤバイと思う・・・)
2004/12/06
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いつも月の初日に書くネタだったのに、続き物を先月の終わりから書き出したので今日になった。相変わらずのワンパターン。いいや、ワシの文章やテクニックの事じゃない。(注:ワシにテクニックって程のものは無いだろ?)ローマ暦の2ヶ月遅れの名前だ。December は10番目の月名を意味する。面白くも何ともない。ヒネリが無い。ワビ・サビもない。ユーモアも無い。なんて書くと、ローマ好きオナゴから抗議が来るなぁ。その都度、あやまり、言い訳をするワシです・・・。はい、ローマは素敵です・・・。イタリア人はカッコイイです。クドイです・・・。(オナゴには特にスケベです・・・マメです・・・)24節気では「大雪」と「冬至」になる。冬至は黄経(太陽の通り道の角度)が270度。最も南限になり、北半球では昼が最短になる。だから、この日は北半球では「祭り」になるんだ。だって、後は日一日と昼が長くなるんだぜ。ビバ! クリスマス! 祝福日だぁ!(クリスマスを個人の誕生祝福日なんて、狭い考え方をする人は、狭徒という教徒になる。キリちゃんはもっと大きな祝福を望んでいるぞ)これは各人の生き方にも応用できるなぁ。どん底の暮らしに落ちた日は「祭り」なんだ。ワシの家なんて、毎日が「祭り」だ。ビバ! 綱渡り! 今日も祝福日だぁ!昨日が「どん底」だと思っていたのに、今日は「どん底」の蓋から下に行けた。じゃあ、今日が最高の祝福日だぁ!祝福日が続いている。ラッキー!すると「どん底」の下には「奈落」があった。ならば、チョーラッキー!どこまでも落ち込む事ができる。今日から上がる一方かもしれない。そう期待し「祭り」を続けて10年間。振り返ってみれば・・・毎日がラッキーの祝福日だったなぁ・・・。毎日が幸せだったなぁ・・・。(生活は苦しいけど、それだけだものなぁ)本妻は「こんなに毎日お祭りするのも疲れたから、持つ者の苦しさを味わおうよぉ」なんて罰当たりな言葉を言う。ワシも罰当たりは言うのもスルのも好きだから、全面的に賛成しているのに、何故か神様にヒイキされているワシは、今日も綱渡りの祝福日を与えられている・・・。
2004/12/05
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龍村師匠から聞いた話だ。ワシが勝手に取り違えているかもしれないが、脳は誰でも勝手に理解しているものなのだ。異論があれば、脳の専門家の養老孟司氏と議論してくれ。人と人は「勘違い」の上で世界を築いているものだ。だから「正しさ」を主張すると争いになるんだ。龍村師匠のお師匠様は「沖正弘」という人だ。沖道といわれるヨガの本道を日本と世界に広めた。求道ヨガともいわれ、心魂身の修正法として活用した。1985年にイタリアにて入寂された。龍村師匠はその後を道場長として任されていた。故沖師は世界各国の医療法と宗教を研究し、特にインドではマハトマ・ガンジーの下で修行した。ガンジーが暗殺された後も数年間をインドで過ごした。その数年間が「奉仕行」の本質を極めた時代らしい。マザー・テレサがその後、同じ活動をした。後に沖師は語った。あらゆる「行」の中で「奉仕」ほど厳しいものはない。その内容が重く厳しいものでも最初は誰でも出来る。見返りを求めない行為を「奉仕」という。見返りを求めない心を「奉仕」という。ところが、年を過ごすほど、「なんで自分がこれほどしてやっているのに、感謝の言葉一つ言えないのか?」「これほどの期間を奉仕しているのに、どうして誰も評価してくれないのか?」こういう心が沸き起こる。何年も誰一人感謝せず、誰一人評価しない。感謝や評価の言葉があるなら「奉仕」は続けられる。だか、それは「偽の奉仕」なのだ。ホンモノの「奉仕」は、とても厳しい行いである。「奉仕」とは自身の傲慢な心に気づく行為であり、その心を克服(浄化)する行為。この傲慢な心こそが、心の中でも底にある部分だという。だから「行」の中で最上位が「奉仕」となる。こんな厳しい話を聞かされて、根性無しのワシが簡単にボランティアなんて出来ない。独自の言い訳をしなけりゃ「奉仕」なんて考えられない。そこで「奉仕趣味論」が出来上がったわけだ。これならワシでも参加できる。ワシは偽の奉仕でもいいと思っている。生きている人間なら誰でも、「他の為にもなる生き方」をしたいのだ。自分の為だけでは空しすぎる。他の為だけでは、無理がある。だから「(自の為にも)他の為にもなる生き方」心の底には、その部分が結構大きいと思う。だから「奉仕」したいのが本音だと思う。理由はいらないんだよねぇ。
2004/12/04
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イチローという野球選手がいる。その哲学から野球家といってもいいだろう。他人の収入の詮索は好みじゃないが、彼は年10億を越す収入がある。彼が「社会奉仕」を意識しているか知らないが、彼がひたすら野球をする事によって、多くの人達が喜び、勇気つけられ、元気になる。事実として、大きな「社会奉仕」をしている。見返りを求めない行為。ある意味、自分勝手な行いでもある。好きな道を好きなように歩いているのだから。その歩く姿から、多くの人達が「勝手に」喜びを得る。「勝手に」勇気を受け取る。「勝手に」元気を取り戻す。「勝手に」意識をやわらげ、広げる。「社会奉仕」は利権や収入の有無じゃない。利益と別次元の事であり、ことさら「無報酬」にこだわるかぎり、ホンモノの「社会奉仕」は出来ないかもしれないね。報酬・無報酬なんて超えたところからの「行」だと思う。そのイチロー選手の言葉がある。「どうしたら、イチロー選手みたいになれますか?」「好きになる事!」この世の仕組みだと思う。「好きになる事」相手が「道」だろうが「人」だろうが「モノ」だろうが、好きになる事で、支えあう生命力が沸くのだと思う。「好きに生きる」というのは、利己主義じゃない。「利己」(自分の利益のみ)なんて考えてない。利益なんて(ある意味)どうでもいいんだ。「好き」だから行動してしまうのに理由はない。そこには「社会意識」も関係ない。だから「社会奉仕」も意識していない。いつも書くように「この世はヒネくれている」「社会奉仕」も「利己」も意識しない行為は、結果として大きな「社会奉仕」になったり、結果として大きな収入になったりする。(必ずなるわけじゃない。ワシがいい例だぁ・・・)この地球が住みよい世界になるなんて簡単だ。「好きになる事」様々な顔や性格があるのだから、様々な「好き」があるのだ。森羅万象が「好き」だらけになる世界。それが「平和」ってやつじゃないのか?そのときには「社会奉仕」なんて言葉も無くなるだろう。
2004/12/03
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そもそも「社会奉仕」って何だろう?人と人が支えあって生きていくなんて、基本的に当たり前だし、それ以外で生きられない。人と人以外のモノとも支えあわなければ、この地球から「生命」は失われてしまう。ことさら「社会奉仕」が流行る時代は・・・かなり、末期症状なのかもしれないねぇ。そもそも「仕事」って何だろう?暮らしやすい社会を作り維持する為に、いろいろな役割として尽くす。それがお互いに個人や家庭を維持する糧となる。役割は細分化しているがプロフェッショナルだ。本来のプロになる事。それが「社会奉仕」でもあったはず。「はず」は、外れやすいからなぁ・・・。「社会奉仕」にならないのなら、それはプロの仕事じゃない。迷惑が多いドシロウトの仕事なんだなぁ。もう一度この国の現実、事実を冷静に観てみよう。トップの政治からして、ドシロウト仕事。行政界も誰も責任を取れない、ドシロウト。経済界も大銀行があの有様のドシロウト。ドシロウトが、大流行のこの国なんだねぇ。プロ職人なんて絶滅指定されるくらい少ない。お金は必要だし、心は多く欲しかったりする。(ワシなど喉から手が出そう・・・)すると、この国を導くエライ人達は、自分達をモデルにして真っ先に仕組みを作るから、ドシロウトの方が多く収入があるようにした。結果・・・ドシロウトが蔓延し、プロが激減した。そうかぁ・・・そうだったのかぁ・・・ワシの貧乏は、プロを目指したからなのかぁ。ドシロウトになり、口先だけになり、この国のトップ達を手本にして、責任を取らない仕事をすれば安泰だったのかぁ。でもねぇ、ワシは不安定が好きだという癖がある。トップ達を揶揄したい趣味がある。金は欲しいし、本妻も愛人も養いたいし、どうしようかなぁ・・・頑張って、ドシロウトを目指そうか・・・あ~、これが「悩み」というヤツなのかぁ・・・。仕事がドシロウトだから、仕事以外に「社会奉仕」をするわけでもないだろうが、仕事のプロはそのまま「社会奉仕」になる。
2004/12/02
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もっと「愉しみたい」からしている。「純粋に愉しみたい」からしている。その部分を進んでいると・・・自由気ままな姿になる。「ボランティア」を「奉仕」と訳すから、そこに様々なモノが入り込む。入り込むほど、重くなる。同じ音でも「胞子」なんだと思うよ。風に吹かれ、気ままに漂う「胞子」の姿。以前にも御筆先様が「奉仕」について書いた。「初期段階・他への行いは自己の気づき」「奉仕には感謝が付きものだが、奉仕する側が感謝だ。させていただくのは、こちら側の勝手な行為だから。」気づきを受け取るのも、奉仕をする側なんだから、出来れば、お金を払ってもいいくらいなのだ。義務感や正義感や道徳感や憐憫感からでは「奉仕」にならないが、この「胞子」なら、楽で温かい社会になりそうだ。今までの社会常識って・・・変だと思わないか?もう一つの表現の仕方がある。「ボランティアは趣味」これも一所懸命している人達からはモンクが出そう・・・。マジメな人達は「場」が読めない欠点があるね。「正しさ」にこだわると、息はつまりやすいんだ。「楽」になるには「楽な場(雰囲気)」が必要なんだなぁ。「心」はウソがつける。「感情」も「理性」も芝居ができる。「行い」もゴマカシがきく。作り笑顔も声もできる。だけど「氣」はウソがつけないし、誤魔化せない。自分が愉しくなけりゃ誤魔化すしかないね。それじゃあ、どんな行為も「奉仕」にならない。社会的な評価はあるかもしれないけど、相手と自分が愉しく変わってしまうのでなければ、それは「建前立派な社会」しか作れない。立派はねぇ・・・疲れるんだ・・・。「好き」だから行う事を「趣味」というんだ。そこには、どんな理由をつけても「好き」なだけだ。だから、結果がどうであろうともガッカリはない。次に続くんだ。いつまでも。誰に云われるわけでもない。他人の評価は関係ない。金が無けりゃ、工夫するだけだ。とにかく、することは愉しいしね。
2004/12/01
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