MoMo太郎日記

MoMo太郎日記

2024年06月09日
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カテゴリ: フォトグラファー
この浄閑寺には、色々と史跡があるようです。

全ては回れませんでしたが、見つけたものだけ紹介します。
まず山門の横にあった二基の石碑です。
右側にあるのが、「 萩原秋巌先生の墓 」です。
萩原秋巌(1803〜1877)は江戸時代後期の書家だそうです。

左側にあったのが、「 新比翼塚
比翼塚とは夫婦や心中した男女を葬った墓のことで、「新比翼塚」は明治12、3年頃に品川楼で情死した遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄の二人の供養のために建てられたそうです。


よほど永井荷風の心に残る塚だったんでしょうね。
そんなわけで、永井荷風は遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、たびたびこの寺を訪問していたのでしょう。

また、永井荷風の 詩碑 というのが建立されていました。
この詩碑には「震災」(→→→​ こちら ​)という詩が刻まれています。

またこの石塔は、「 新吉原総霊塔 」というものです。
これは、昭和4年(1929年)8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたものです。

以前の塔は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女500人余を供養していたものですが、こちらは新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と380年余りの間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政地震、関東大震災に死んだものを含めた25,000人を超える人たちの供養塔になっています。

ちなみに「 新吉原
しかし、江戸市街は拡大し続け、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっため、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤へ移転することになったのです。
そのため、移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶようになったというわけです。

新吉原総霊塔の台座には、明治時代から昭和時代にかけて活躍した川柳作家の花又花酔(はなまた かすい)の川柳「 生まれては苦界、死しては浄閑寺 」が刻まれていました。

【了】


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最終更新日  2024年06月09日 00時10分13秒
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