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今日の会議の中で、こんな反省点が指摘されました。「なぞりスーパーが少なかったね」なぞりスーパーとはタレントが喋った言葉と同じ事を文字にして同時にスーパーとして画面に入れるという演出です。私がADの頃は、スーパーは白黒反転した文字を別カメラで撮り、合成するという手法で出されていたので、予算的にも手間的にもそういう演出は不可能だったのです。しかし、今はコンピューターによる打ち込みでいとも簡単に画面に出せるようになったので、それが当たり前のように行われるようになりました。以前は、スーパーは画面を汚すもの、見る人の気をそらすものと言われ、必要以上のスーパーを出すということはやってはいけないものとされていましたが今は違います。その原因には「視聴者の進化」ということが大きな要素としてあげられます。昭和の時代、テレビというものは目で見て、それがあたかも目の前で行われていることのように感じることで、その内容を理解し、情報として頭の中に取り入れるモノだったのに比べて、今の時代の視聴者は、テレビというものが情報を取り込む一つの機械であり、目で見ている現実の情景とは全く別モノであると認識できるようになってきたのです。昔のように、できるだけ目で見ているモノに近づけた映像演出より今は、テレビという箱に映し出される情報画面を作る演出の方が必要なのです。今の番組は、なぞりスーパーに限らず、今、何をやっているのかを画面隅に表示するサイドスパーが出しっぱなしになることも当たり前のようになっていますし、番組によっては、状況を説明したスーパーやタレントの心理状態を示すスーパーも盛んに出されるようになっています。これは一見、視聴者が一生懸命見なくても、番組を理解できるようにするための演出と思えますが、逆にいうと、一定時間内に読まなくてはいけない情報は何十倍にも増えているということなのです。画を見て、音を聞き、その上、字も読む、それを短時間の間に頭の中に入れることで、実際の情景よりもインパクトのあるものとして記憶に残せるようにと、視聴者が進化した結果、こういう演出が必要とされてきたのかも知れません。情報化社会の中、視聴者は無意識にどんどん進化しています。消費者も同じです、当然それに応じて、全ての供給者も進化が必要となるのです。昔の考え方を正しいものとして残す努力と、進化していく向上心、時代を超えて生きていくためにはこのバランスを取っていかなければ、置き去りにされます。頭では、理解しながらも、いつも気持ちはついていきません。どうしても、昔、自分が学んだものを正しいと言い張りたくなるものです。オヤジと呼ばれないよう、古い考え方に固執しないよう、日々勉強だと自分にいつも言い聞かせています。
Jan 31, 2003
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昨日放送された、担当番組の視聴率は2・2、深夜番組とはいえ褒められない数字です。単純に計算すると、関西エリアだけで22万人の人が番組を見たということになるのですが、最低でも3はないと番組的には成功とはいえません。低視聴率に落ち込んだときはいつも、視聴者がどんな気持ちで番組を見ているのかを想像します。きっと楽しみにしてくれている人もいるんだと思い、番組を終わらせないためにと気持ちを引き締めるのです。視聴率表を見るたびに私はいつも思います。人と人は、実際に会って、知り合ったり、友達になったり、時には恋愛関係になったり、一生忘れることの出来ないくらいに深い関わりになる以外に、さまざまなネットワークを通じて関わりあっているんだと・・・・何の気なしに手にした雑誌にも作者がいて、人に何かを伝えようとしている。そして偶然にもそれを手にした私は、その雑誌を通じて見たこともない作者と関わりあっている。そう考えると、自分の周りに数多くの人の影が見えてくるのです。昼に買ったコンビニのおにぎり、ここにも味の開発をした人や、実際に機械を操作した人、運んだ人、店頭に並べた人がいます。タバコにも、ライターにも、パソコンでもそうです。生きていればそれだけで、何万人、何十万人の人と実は関わりあっているのです。今朝、電車内で前の席に座った人も、一度も喋ったことはないけれど、もしかすると何らかの形で関わりあっているかも知れません。街で自分の担当番組の話題をしている女子高生を見かけると、つい、声をかけてしまいそうになります。当然、変なおじさんと思われるので、実際に声をかけることはありませんが、何かうれしい気持ちになるものです。取材でパンストを開発している、男性にインタビューしたことがありましたが、その人は、自分の開発したパンストをはいている女性の足を見るとついその女性が他人ではないような気がしてしまうと言っていました。こう考えると、全ての人に親近感を感じます。身近などんなモノにもすべて人が関わっている。労働の喜びは、モノを通じて人と触れ合うことで、自分が孤独ではないということを確認できる喜びなのかもしれません。よりいい作物を心を込めて作っている農業の人たちも、私たちの仕事も、同じ事なんだと感じることで、視聴率というものをもう少し違う目線から見ていこうと、あまり良くなかった担当番組の視聴率表を見ながら、そう考えていました。
Jan 30, 2003
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ADという仕事を一般的にイメージすると誰もが、厳しく、ディレクターからのいじめから耐えなくてはいけない、無理難題を押し付けられる仕事と思うはずです。しかし今のADの仕事は、時間拘束の長さではおそらく他の仕事と比べてもきついものだと思いますが、それ以外では割合、精神的な苦痛も少なくなり、楽になってきていると思います。こういう話をするとオヤジの説教とけむたがられるとは思いますが私たちがADの時代は、かなり理不尽ないじめが当たり前のように行われていましたし、失敗に対しては手をあげられることも少なくありませんでした。今のADとは待遇が明らかに違います。時代も違いますし、そのやり方が正解だとは、全く思わないのですが、その辛い思い、痛い思いなしに今の自分があるかどうかと考えるとそれは疑問なのです。人は、辛い思い、痛い思いを知ると、その経験から、次はそうはならないでおこうという自己防衛本能が働き、そういう状態を回避する能力が自然と身についたり、痛い思いをした精神は痛みに耐えるように強くなるのではないかと思うのです失敗も、反省して、もう一度考え直したから、なくなっていったのではなく、体が覚えていったと言う方が正しいような気がします。こういう書き方をすると、体罰を推進しているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。ただ、風邪を引くと免疫がつき同じウイルスには侵されなかったり、骨折した部分は折れにくくなったりするように、精神的な痛みは、能力をつけるためには、必要不可欠なものなのかもしれないと思うのです。筋力トレーニングの基本は、負荷をかけ筋肉に傷をつけその後に、たんぱく質をたっぷりと取ることで筋肉を育てることといいます。負荷がかかることによって骨や腱が痛まないように、その力に耐えうる能力が備わるのです。こういうことから考えると、上司から部下へのの嫌がらせは、決して肯定できるものではありませんが、それを受ける側からいうと、結果的に成長を促すための大切な負荷であるとも言えるのです。ストレスは万病の元といわれますが、適度のストレスがないと、精神は鍛えられません。私がADの頃に受けた、教育的ハラスメントは昔の体育会系がやっていたうさぎ跳びのように、必要以上の負荷であったとは思います。もちろん、これから育つ若い世代に、そういった、理不尽なストレスを与えるつもりはありませんが、ストレスにつぶれそうになっているADにはそれが成長に必要なモノだという観念は伝えていかなければいけないとは思っています。
Jan 29, 2003
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先日、自分のペースでしか仕事をしないADに先輩ディレクターが説教をしているところを隣の席にたっていた私は、その内容を何気なく聞いてしまいました。面白いことに、そのディレクターの話の中には、仕事の具体例は一切出てこず、全てがサッカーの話に置き換えたものでした。自分ひとりでゴール前までボールを持っていけると思っても、あえてパスを出さなくてはいけないこともある。パスを出して他の選手にゴールをさせることの出来る選手の方が本場のヨーロッパでは評価されている・・・・・人は、直接的に話を聞くよりその話を何か別のモノにに置き換えられたときの方がスムーズに心に入るのではないかと、その話を聞いて思いました。確かに結婚式のスピーチでも、普通に教訓を言うより、何かに置き換えているモノの方が、いいスピーチという評価を受けています。人生をマラソンに例えたり、恋愛を競馬などのギャンブルに例える人もいます。また、男性が女性を口説くときに「エッチしよう」という人は少なく、ほとんどが遠まわしに、間接的にその気持ちを表現しています。どうして人は、モノに例えた表現に対して受け入れやすくなるのでしょう。おそらく人は、意識しない中にも、この世の中に起こる全ての現象の中に一つの法則を求めいるのだと思います。そして、何か壁にぶつかったときその法則にしたがって行動を取ればうまくいくと信じたいのではないでしょうか。一つの出来事も一つの法則に従えば、色々な成功例と同じ結果を生み出す。その法則がどういうものかは具体的にわからないながらも、違う事柄に共通点があるという事は、そこに何らかの法則が存在すると信じることができるのだと思います。どんなジャンルでもその道の成功者の話には説得力があるものです。ジャンルは違っても、そこに自分の世界との共通点を探し出し、感覚的に法則の存在を肯定し、自分の生き方のヒントと思えるのです。実際に法則というものが存在するかどうかはわかりません。しかし、人の生き方は、大自然の摂理、スポーツの勝敗、料理の方法などさまざまな事柄と共通点をもつということは否定できません。ごくありふれた日常の中にも、人生を生きるためのヒントになることは必ず隠れているのです。春の来ない冬はない、やまない雨はない、出口のないトンネルはない、だからといって人生で辛いことも長くは続かないといえるかどうかはわかりませんが、そういう例え話がそう思い込ませてくれるなら、おそらくその例えのように、辛いことも消え去るはずです。人生の生き方は人それぞれ、これが正解と言い切れるものなんて一つもありません。それだけに人は、さまざまな例え話のなかに法則があると信じて、自分なりの道を切り開いていくのだと思います。
Jan 28, 2003
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今は亡き、桂枝雀さんは番組のインタビューでこんな言葉を残されています。「笑いは緊張と緩和だ」昨日、久しぶりに、タレント追い込み系のバラエティーを撮影しました。タイトルは、「NGが出たら一からやり直し時代劇」4分ほどの殺陣をつけた時代劇を1時間ほどの練習で本番に挑み、一人がどこかで失敗すると、全員が、一からやり直し、完璧に最後までいくまで、収録は続けると言う内容のものです。普通に、時代劇をやると、プロはいとも簡単に最後までやってしまうので、そこはバラエティー、芝居の中に、クリアーポイントを数箇所作り、ちょっとやそっとではクリアーできないような台本を作りました。難しい四字熟語がほとんどの長セリフがあったり、早口言葉があったり、縦笛で一曲奏でるというシーンがあったり、剣玉を成功させるというくだりを作ったりとわざと間違えさせるようにという演出を凝らしたのです。最初のうちは、失敗するごとに笑いが起こっていたのですが、それが5回10回と続くと笑いはなくなってきます。20回目の失敗に至っては、何ともいえない気まずいムードになり、とてもバラエティーの現場とは思えないほどの嫌な緊張感に包まれたのです。失敗した人間が悪者となり、限りなくいじめに近い現象が起こるのです。もうその部分は簡単にして撮り直そうとかその部分はカットしてしまおうなどと、ディレクターとしては何度も言いたくなるのですが、そこが追い込み系バラエティー演出をする上での重要なポイント、我慢のしどころなのです。不思議なもので50回目の失敗になると、全員が、その人間を攻めるということが、何の解決手段にもならないということに気付き始めるます。そしてその嫌な緊張感が、失敗をより生みやすくなると感じ始めたとき、新しい形の笑いが生まれ始めるのです。緊張が最大限になったときそこで起こる笑いはそこでしか生まれない独特のモノになります。そして笑いが新しい空気を送り込み、成功を生むのです。結局そのロケはその日中には終わりませんでした。しかし、スタッフもタレントも、疲れはしたもののその後にはみんなが声をそろえて「面白かった」と言いながら帰路についたのです。「緊張と緩和」このタイミングが生み出す笑いは、どんなテクニックを駆使した笑いよりも、心に残る、質の高いもののように思えます。おそらく、この収録現場の面白さは、番組にして、画面を通してしまうと、半分も伝えきれないものだと思います。しかし、番組作りの士気を高める上で、やって損は無い企画なのです。人間はある一定以上のストレスが加わると、自己防衛本能から、笑いに必要なホルモンが脳に分泌されると言います。常日頃からの笑いに比べ、体全体が笑いを必要としているという条件下の中での笑いは、脱水症状の中での水分のように、一瞬にして、体内に吸収され、全身へと行き渡るものなのです。お葬式のなかで、ふとした笑いのポイントがあると、涙が出るほど笑ってしまったり、格式ばった式典に出席したとき、偉い人の堅い話の中で、ちょっとした間違いを見つけただけで、笑いをこらえるのが必死になったという経験は、少なからず誰もが持っているはずです。長くお笑いを研究し続けた桂枝雀さんの「緊張と緩和」という笑いに対する考え方からも、笑いが精神への最大の栄養素であるということが伺えます。せっぱつまったシーン、真剣な場でこそ、笑いは必要であり、ストレスがかかっている場面でこそ、体と心は、笑いを求めているということを、改めて認識させられました。「スランプのときこそスマイルを」というのは、マラソンランナー増田明美さんの座右の銘です。昨日の仕事は、ついついストレスがかかったときに笑いを忘れ、しかめっ面になってしまう自分に、もう一度、笑いの大切さを考えさてくれた貴重なものとなったのです。
Jan 27, 2003
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昨日、ここに書いてもおそらく誰も信じてくれないような、身の毛もよだつ恐ろしい体験をしました。朝から打ち合わせをしにある場所に行き、そこの担当者と名刺交換をしました。その人の名は中村さん。別にそこまでは何のこともない仕事の風景なのですが、その後、会社に戻ると、ある人から、構成作家の方を紹介されました。名刺交換をするとなんとその人も中村さん、まあここまでは良くある偶然なのですが、そのあと、喫茶店にお茶を飲みに行き、何気なく自分にコーヒーを持ってきてくれた人の胸の名札を見ると、その人も中村さん、「なんだ、今日は中村さんに会う機会が多いな」と、そこまでは気にもとめてなかったんですが、会社に帰ると、電話の前にメモがありました、「中村さんから電話あり」その人は今日会った、どの中村さんでもなく、久しぶりにかかってきたプロダクションのマネージャー、中村さんからのものでした。だんだん恐くなってきました、これは中村さんのたたりじゃないかと・・・・そして仕事も終わり、飲みに言って、バーでその話をバーテンに話していました、「まさか、君の名前、中村やないやろね」と冗談を言っていると、カウンター席の隣で、一人でのみに来ている女性が、私の話を聞いて笑っていました、「ね、不思議でしょ」と話し掛けると、黙ったままその女性は、僕に、カバンからレンタルビデオ店の会員証を取り出し、見せたのです。もうわかると思いますが、その名前も、ナカムラだったのです、幸いかどうかその人は仲村という、今までの人とは漢字が少し違ったのですが、それにしても、こんな偶然が本当にあるモンなんだと、背筋が寒くなりました、家に帰る途中も、いつもは気にしていなかった中村という表札が目に付きました、本当に、今まで生きてきて初めてというくらいの不思議な体験だったのです。今日、こんな体験を、何かテレビ番組で取り上げれないかと、資料室で本をあさっていると、実際そういう体験は、シンクロ二シティといって、いろいろなところで事例が挙げられているそうです。今までに、日記で書いていた、運のよさや、奇跡とは違って、生活にはなんら問題のないことの中にも、偶然の一致というものは存在するんだと、一人で、くだらないことに感動していました。しかし、冷静になった今、その現象を分析してみると、それが実は、そんなに偶然ではないんではないかとも思えてきました。たまたま、二人続けて、中村さんに出会ったというよくある偶然を体験した瞬間から、私自身が必要以上に、中村さんを意識したことによって、いつもは何気なく見逃している、中村さんを認識しただけではないかとも思えてきたのです。普通は、コーヒーを運んでくる人の、名札を読むことも少ないでしょうし、バーでも、その話を大きな声でしたからこそ、隣の仲村さんが声をかけてくれたのだと思います。そう考えると、いつも、感性アンテナを張って生きていると偉そうなことを言っている自分も、まだまだ何気なく生きているんだなと思いました。きっと、世の中、自分の身の回りには、色んなことが起きているのに、まだまだ気付いていないことが多いんだなと改めて感じたのです。昨日の体験は、いい経験になりました。もっと、敏感に生きていたら、面白いことは身の回りにたくさんあるんだという、そんな気にさせてくれたのです。そう考えると、すこしまた、毎日が楽しくなってきました、一時は、気持ち悪く思っていた、中村さんに今は、心から感謝しています。
Jan 25, 2003
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昨日、若手のADとテレビ制作という仕事について話し合いました。それぞれの立場から、色んな意見が出たのですが、最終的に意見の一致したポイントは、バラエティー制作という仕事の根本的な意識の持ち方という点でした。バラエティー番組を作るという大きな作業の中で、我々ディレクターというセクションは雰囲気作りということが一番重要とされる仕事であり、技術スタッフ、出演者を立て、やる気にさせ、現場を楽しく盛り上げて初めて、自分の演出論を理解してもらえ、指示することができるのだという意識が大切だということ、この意識の持ち方に関しては誰も異論を唱えるものはいなかったのです。我々バラエティー番組を作るものの中では、人を乗せる技術のうまい人が、評価の高い、仕事の出来る人であることは基本であるともいえるのです。おそらく企業の管理職も、最終的に業績を残す部下を育てることの出来る人は、部下の乗せ方のうまい人ではないかと思います。私はその話をしながらその中に、人の生き方のヒントがあるんではないかと考えていました、人は自分の体や脳を働かすに当たって、精神という司令塔が指示を出していているのではないか、体調が優れなかったり、脳がうまく働かないという現象は、実は、司令塔である精神がうまく指示を出せてなくて体が働く雰囲気になってないのではないかと思えてきたのです。うまく自分の体や脳を動かすために、いい雰囲気作りをし、やる気を起こさせるという感覚で毎日を生きれば、もっと自分自身は元気に動くのではないかと、突拍子もない考えが頭に浮かんだのです。確かに自分自身は自分の思いどうりに動いてくれないときがよくあります。精神が安定していないときは、朝起きるとき、かなり体も重たくなりますし、頭も冴えません。逆にやる気が満々のときは、目覚まし時計の鳴る前にシャキッと目がさめ体も軽かったりするものです。そういった経験からも、自分自身は、体や脳、精神を含めた一つの集合体であり、その司令塔は精神であると思えるのです。番組がうまくスムーズに進行されるときは、司令塔と実際に動くスタッフの関係がうまくいき、みんながやる気を出しているのと同じように、自分の才能がうまく発揮できているときは、精神が体の各部にいい指令をうまく出せているときなのです。時に体がストを起こし、病気という事態になるときもあれば、司令塔そのものが機能しなくなって、体、脳もうまく動かなくなる、精神の病と呼ばれる状態になってしまうときもあります。いい雰囲気で自分自身をうまく励ましながら、体や脳に、やる気を起こさせる司令塔とスタッフのいい関係をもって生きていくことが、心身ともに健康であるということだと改めて感じました。何気ないスタッフ間の会話からこんな考え方がなぜ浮かんだのかはわかりません。いつもはあまり深く考える方ではないのですが、ここ最近、体調が優れなかったことが、自分というものについて深く考えるきっかけになったのかもしれません
Jan 24, 2003
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テレビ番組を演出するディレクターたちの間で、陰口を言うときこんなセリフを口にすることがあります。「あいつは自分の演出もロクに出来ていないのにテレビの演出ができるわけないよな」演出の基本は自分をどう見せるかということだという考え方は、演出を手掛けるものなら誰でもがわかっていることです。会議に出たときやロケバスの中、会社で人と会っているときに、目立つこともなく、面白くもなく、パッとしないというだけで演出力を判断されることも少なくありません。私はいつもこう考えて毎日を過ごします、自分と人が会うということはそれが、能動的にしろ、必要に応じてのものにしろ、その人が僕にチャンネルを合わせてくれたということで、いつもチャンネルを変えるリモコンを持ちながら見てくれているのだと・・・私自身も、人に出会ったとき、この人は、興味深いのか、面白いのか、ためになるのか、そう思いながら、観察している様な気がします、あまり目立たなくても、もっと見続けていたい人、派手でかなりよく喋る人でも、すぐにチャンネルを変えたくなる人、そういう評価を知らず知らずのうちにしながら、お気に入りのチャンネルを決めているのだと思います。視聴率を取るだけが、いい番組ではないというのと同じで、たくさんの人から興味を持ってもらえることだけが人の価値ではありませんが、自分を演出することによって、人の興味をひきつけることが出来れば、さまざまなチャンスがそこについてくるような気がするのです。テレビの演出はターゲットを意識してどういう層に支持を得たいかということで、演出方法は変ってきます、それと同じで、自分の演出方法によって、自分の周りに集まる、人たちの層も決まってきます。老若男女に人気のある番組もあれば、若い子だけしか見ない番組もあるように。人も、ファッションや言葉の使い方、身のこなしによって、周りに集まる人間の層はばらばらになったり、偏ったりするものなのです。自分というチャンネルを担当し、自分というタレントを使って、自分の身の回りの人たちに、自分という番組を見てもらっている。そう考えると、毎日はなかなか面白いものになってきます。視聴率はとれないけど、マニアの視聴者にはなくてはならない番組もあれば、主婦層から毎日楽しみにされている番組もあります。人は、少しずつマイナーチェンジしたり、ある日突然企画変更したりしながら、さまざまな視聴者にメッセージを贈り続けていくものなのです。凝った演出をせず、ありのままをドキュメントのように見せる番組もあれば、作りこんだドラマもあります。どんな見せ方でも、視聴者の心をつかむときはつかみ、チャンネルを回されるときは回されるのです。チャンネルを回されず、より多くの視聴者をキープするためには、小手先のテクニックでは長持ちはしません、いずれかならずボロがでます。本当にいい番組には、必ず一貫したコンセプトがあり、何を見せたいかがわかりやすく表現されています。昔からテレビ番組作りの基本は、視聴者の気持ちになって、何が求められているのかを知ることだといわれています。もしかすると自分を演出、表現する上でも、一番大切なことは、そういったところにあるのかもしれませんこんなことを毎日考えているにもかかわらず、いつも自分というチャンネルの演出には失敗しています。自分の見せたいものと人が求めているものが全く違ったりする場合がよくあるのです。少しずつ見せ方を変えながら、いずれ、「あのチャンネル、あの番組はなぜか見てしまう」とより多くの人に言われるような自分になっていきたいと思う今日このごろです。
Jan 23, 2003
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関西のテレビ番組が東京の番組と作り方として大きく違う部分の一つにリハーサルが少ないということがよく言われます。芸人さんが多い関西の番組では、段通りよりも、テンションを第一に考える方が面白いものが作れるという発想からリハーサルも少なく、打ち合わせも短かめにする場合が多くなるのです。よくタレントは、スイッチを入れるという表現をします。気持ちを切り替えるために、きっかけを作りテンションを上げ集中力を高める瞬間を作るということです。タレントはスイッチを切り替えることで、自分のキャラクターになりきることができるのです。芸人に限らず人はそれぞれさまざまなスイッチを持っています。そのスイッチの形や場所はそれぞれですが、このスイッチの切り替えの上手な人は生活をより楽しいモノにすることができますし、人からは魅力的に見られます。感受性を強くするときと、ぼんやりとリラックスするときのスイッチ、家庭的にほのぼのするときと、所帯臭さを出さず一人の男性、女性として異性と接するときを切り替えるスイッチ、仕事で熱くなって脳を理論的に働かせるときと、馬鹿になって遊ぶときのスイッチ、これは、昔から学校でよく習った「けじめ」という言葉のようにも聞こえます。しかしここでいうスイッチと「けじめ」は全く違う意味合いをもつものなのです。「けじめ」とは自分の意識のなかでやらなくてはいけないことを誘惑に負けずにコントロールするということで、強い意志を持つための教訓であるのに対し、スイッチの切り替えは、やるべきこと、今やるべきではないこととは無関係に、自分の多面性を使い分け、その全てを確立した人格として人に認められるためのテクニックであると思うのです。二重人格や多重人格というのは、その性格に一貫性がなく当然、人とのコミュニケーションは取れにくくなりますが、場面場面に応じて、そのときに一番適応した自分の一面に切り替えるということは、自分の生きる幅をより大きくできるものなのです。最近、若い人たちはよく仕事モード、、遊びモード、恋愛モードといった言葉を使い、無意識に、スイッチの切り替えをしています。今の風潮では、多面性がなく、全て同じテンションの人は魅力のない人ともとられがちです。自分のスイッチの入れ方、これは、一歩間違えると、とんちんかんな人間にも思われかねない微妙なテクニックでもあるだけに、年をとればとるだけ、うまくなりたいとつくづく思います。今は、この日記を書きながら、一番スイッチの切り替えの難しい、家庭モードにどういうタイミングで切り替えようかときっかけを探っているところです。
Jan 22, 2003
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テレビ番組の収録中、生放送中にスタッフが不必要に画面に映りこむことを業界用語で「ミキる」といいます。生放送ではそういうスタッフがミキっている姿を番組内で見かけることはそう少なくありません。先日とある番組でADが画面に映りこんでる姿をテレビで見て、わが社のADがうれしそうにその失敗を指摘している場面に遭遇しました。確かにその場面を普通に見た限りではADの不注意でミキってしまったようにしか見えませんが、私にはそのシーンでの失敗が、褒めてあげたいものだということがわかりました。おそらくその失敗の前後のシーンから推測すると、テレビに出ることが初めてで緊張している素人さんを画面ギリギリのところで最後までフォローし続けた結果、カメラから逃げ切れなかったものだったのだと思います。テレビは初出演で不安いっぱいの素人さんをほったらかしにし、そのひとが失敗し、恥をかかすことより、自分が映って、恥をかき、その上、怒られるという危険を選んだということなのです。その判断は、私個人としては、失敗というよりはむしろ、素晴らしい仕事だと思えました。基本的に人は、評価を受けるために、仕事をしたり、何か行動を取ったりするものです。よってできるだけ評価を落とす危険性のある行動はとりたくないものです。そんな中で、番組という一つの「公」のために「私」を捨てることの出来る人間は、本当は最高の評価を得るべきだと思うのです。自分のために生きることが、最終的にみんなのためになるということも一つの考え方ですし、今の風潮でもあると思います。自分を犠牲にして「公」のために何かをするというと、戦時中の日本で見られた軍国を想像し、危ない思想だと考える人もいるかもしれませんが、今、この考え方を評価するということも、私の個人的な意見としては大切なのではないかと思います。自分がミキる事を恐れて、安全な位置から指示を出すADは今は怒られることは少ないかもしれませんが、必ず、いつか自分に部下が出来たときに、信頼感を得ることが出来ない自分に悩むことになるはずです。ADに限らず、自分の安全を最優先させる人より、自分が怒られたり、評価を落とす危険に身をさらしながらも、チームメイトの動きやすいような仕事をする人間は、必ず最後にはいい評価が得れるはずなのです。仮にそれを評価する人間が居なかったとしても、その生き方は自分への誇りとなり、オーラとなって残るものだと思います。その失敗を笑っていたADたちに、説教するつもりもありませんしその自己犠牲の考え方を、強要するつもりもありません、ただ、彼らがもし、自分を犠牲にすることによって失敗をおかしたとき、そのときは、頭ごなしに怒らず、逆に褒めてあげれるような目を持っていられるような自分でありたいと、そう思いました。
Jan 21, 2003
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私たちディレクター仲間の間ではよく「神様が降りてきた」という表現を使うときがあります。ピンチのときに偶然がその危機を救ってくれたときに我々はその言葉をつかいます。ほかの業界のことはわかりませんが、テレビ業界に関しては、不思議と、そういう偶然に出会うことが多いように思えます。ロケに行く前に、ネタが面白くなくて悩んでいると、ロケ中、急に大きな犬が出てきて、タレントを舐め回し、大爆笑のVTRに仕上がったり、風景が寂しく、いい映像が取れない場所での撮影で、がっかりしていると、急に夕立ちがあり、その後に美しい虹がかかったり、草野球を取材したときに、5年に一度あるかないかのサヨナラ満塁ホームランが出たりと、数えればキリがありません。神様が降りてくるのは、ロケだけではありません。スタジオの収録で、微妙なタイミングが必要なとき、リハーサルで何度やってもうまくいかなくて、半ばあきらめながら生放送の本番に挑んだとき、本番だけはぴったっとタイミングが合ったりもしました。正直、本当に神様がいて仕事をうまく運んでくれているとは誰も思ってはいません。しかしそういう不思議な偶然があるということは経験上、認めざるをえないことなのです。私自身はこう思います、人の潜在意識は、自分が思っているよりもずっと、大きな力を持っているんではないかと、そしてその力は、意識しないところで、偶然を引き出すような現場のムードを察知してその場所に足を向けたり、そういう方向にもっていくような行動をとらせているのではないかと・・・・・動物には予知能力があるというのは生物学でも立証されています。人間は、進化と共に、その予知能力を意識出来なくなり、うまくコントロールできなくなっただけなのだと思います。しかし間違いなく、個人差はあるにしても、人にはそれぞれみな、少し先の未来を予測する能力はあるのだと思います。予知能力が働く部分は、目や、耳ではないため、五感を頼りに生きている人間にとっては、意識はしにくいものだと思いますが、あとから考えると、物事がうまくいくような行動を自分自身が無意識にとっていたということは多かれ少なかれ誰もが経験していることではないでしょうか、神様を信じて、奇跡を起こしたという体験談をよく聞くことがあります。私は無宗教ですが、奇跡という言葉を頭ごなしには否定できません。神様を信じるという行動が、自分の奥に潜む能力を引き出すきっかけになり、無意識に普通ではありえない状況をひき起こすことになれば、人はそれを奇跡と呼ぶのではないかと思うのです。自分の中には、まだ自分の知らない無限の可能性があると、うれしい偶然に出会うたびに感じます。成功とは、その能力をどれだけ引き出したかという結果なのかも知れません。きっとできる、何とかなる、といいながらうまくいかないときもあります、しかし五回に一度、十回に一度でも、自分の潜在能力を引き出し、うれしい偶然を作り出すことが出来れば、見通しは明るくなります。自分を信じれば、可能性はゼロではないことを知れるだけでも、自分の人生の辞書から、絶望という二文字は消え去るからです。どんなピンチのときにも自分を信じれる心、この心をもてるように意識をもって生きていきたいものです。
Jan 19, 2003
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今年4月入社予定の新入社員が2人、研修にやってきました。彼らに「君たちの夢は?」と問い掛けたところ、2人の答えは「ドキュメンタリーをやりたい」というもでした。たしかにジャーナリズムをもって自分の言いたい主張を本を書き綴るように映像化するドキュメンタリーは、これからこの業界に入る人間にとっては魅力的なものだと思います。しかし残念ながらバラエティー、情報番組専門のわが社に入社して、報道ドキュメンタリーを手掛けることの出来る可能性は限りなくゼロに近いものなのです。視聴者的に考えると、情報バラエティーも、報道番組も同じテレビ番組であり、テレビを作ると言う作業に一見変りはないように思えるのですが、実際作る側の立場からいうと、それらの違いは、ハンドボールとバスケットボール、サッカーとラグビーほどの違いがあるのです。あえてここで彼らにその話をしなくとも、1年もこの仕事を続ければその違いの大きさは実感できるものだと思います。だからといって彼らがジャーナリズムをもって自分の伝えたいことを映像化するという夢が果たせないのかといえばそうではありません。手法や見せ方が違うだけで、人に感動を与えることはバラエティーでも情報番組でもそれは可能なことだからです。夢の最終目的は職業や仕事の種類ではないと言うことに気付いたときに人は大きく成長することが出来ます。何かに夢中で取り組み、自分の職を身につけたとき初めて、その夢の向こうにある限りない目標が見えてきます。こうなりたい、こういう仕事をしたいという夢を抱いているときひとは、こうなって何をしたいのか、こういう仕事をしてどうしたいのかということは二の次になっている場合が多いと思います。若い頃はそれに気付かず、その職業につけないということは夢がかなわなかったと思ってしまいがちになります。自分のなりたい職業につける人、やりたい仕事ができるひとはほんの一握りです。職業が夢という考えからいうと、夢をかなえる人は数パーセントかもしれませんが、夢の向こうにある限りない目標をかなえている人は数多くいるのです。例えば私の場合、若い頃の夢は、芸人になることでした、その夢をかなわないと思ったとき、かなり落ち込んだものです。しかし今の職について、この仕事で食べていけるとわかったとき、その芸人という夢の向こうにあった目標が見えてきたのです。私が芸人になって得たかったものは、お金や人気者になる快感より、人を感動させたいということだったのです。これは料理人でもデザイナーでも、庭師、教師、カメラマン、さまざまな職業の人に共通する目標だと思います。何か夢を持ったとき具体的な仕事内容としてそれがかなわなかったとしても今、自分が出会った目の前にある仕事を自分のモノにすれば、違う交通手段を使って、夢の向こうにある最終的な目標には必ずたどり着けるはずなのです。ADとして同期で仕事を始め、挫折し、業界をやめていった昔の仕事仲間と連絡を取り合うことがあります。そういう人たちの今は、はっきりと二つのタイプに分かれます。次の仕事に打ち込んだ人間は、旅行会社の企画部に入ったり、料理人になったりしてその職業のなかで私と同じように、人に感動を与えるという快感を知ったと言います。逆に、夢がかなわなかったとずっとやめたことを悔やんでいる人間は、今だに仕事が面白くないと愚痴ばかりこぼしています。新入社員にはとにかく今、いつかはドキュメンタリーが撮れると信じさせるようにしようと思っています。そういう気持ちで一つの職業としてバラエティーディレクターとして確立すれば、きっと仕事の形態にとらわれずに本当に自分が求めていたことが何かと言うことに気付き、その目標は果たせると思えるからです。今、夢を超え手に入れた無限の目標は、私の中ではこれからも継続していきます。新入社員のすがすがしい緊張感を肌で感じながら、明日への決意をまた新たにすることが出来ました。
Jan 18, 2003
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昨日、編集をしながら、番組のクッションについて考えていました クッションとは時間を短くも長くもできる部分を番組の最後に作ることで、最終的な時間調整ができるようにしておくテクニックのことです。番組の最後に、いままでの振り返り映像がスローで重ねられ、ナレーションで語りあげるというシーンを良く見かけますが、そこには、番組に余韻を残すと言う演出だけではなく、クッションという大きな効果があるのです。生放送では番組の最後に、ファックス紹介で時間をつかうというコーナーが多く見られますが、これにもファックスの枚数を加減することで時間を調整する、クッション的な役割があるのです。クッションを作ることによって、番組進行中、編集中は時間をあまり気にしないで伸び伸びと面白いところを伸ばしたり面白くないところを早い目に切り上げたりすることが出来ます。クッションは番組を面白く楽しくするためになくてはならない部分なのです。編集中に考えていたことは、自分の生活の中にももっとクッションを作ったほうが、いい仕事ができるんじゃないかなと言うことでした。感情にも、時間の使い方においてもクッションがあるということは自分自信に余裕ができ、人に対して、思いやりをもって生きれるはずなのです。どうしても与えられた時間や与えられたチャンスに対しては目いっぱいに使いたくなるため、何事においてもフルに動いたくなってしまうものです。その結果、形にはめなくてはいけない場面に遭遇すると、窮屈な気持ちになってしまうのかもしれません。窮屈が嫌だからといって、全体に余裕をもちすぎると時間や気持ちは余ってしまいます。全体を緩くするのではなくクッションを作ると言う考え方は、無意識にやってそうで、実は行われていないことが多いとのではないかと思います。オーバーにならないようにするためついつい手を抜くと言うことになってしまいがちだからです。スポーツでは怪我防止のために使われるクッションは心の怪我防止のためにも必要なものなんですね。
Jan 17, 2003
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昨日今年最初のスタジオ収録が行われました。いつもとは少し違った内容で、スタジオ内でゲームを展開すると言う、かなり動きのある収録になりました。ADにとってはかなり難しい仕事になったようで、スタジオは段取りの悪さが目立ち、怒鳴られてばかりの一日となったようでした。日頃からパネラー席に座れば座りぱなしのVTR主体の番組を担当しているADにとって、一つのことをしながら次の準備をすると言うことは一輪車に乗りながらジャグリングをすることと同じようなモノだったのかもしれません。番組収録の進行は、進行されている今と言う瞬間を見ながら動いているのでは、スムーズに現場は進行されません。少し先を見ながら次の仕事をこなすことが、進行ADの能力として必要条件となるのです。かといってずっと先のことを先に済ませようとすると痛い目に合います。現場の空気によってどんどんと内容は変化していくからです。少し先の動きつつある現場を見ながら仕事をすることができるようになれば、ややこしい内容の現場もなんなくこなせるようになるのです。動いている現場を見る視力はどんな事にも大切です。時間の中で生きている人間が時間を効率よく使うためには、時間の流れの中で動いている物事の少し先の状態を見る動体視力が必要になるのです。料理店の取材をするといつもそのお店のシェフが持つ動体視力のよさに感心させられます。一度に5種類以上のメニューを同時進行で調理しそれぞれ時間のかかり方の違う料理を最後には同じ時間に仕上げると言う難しい作業をいとも簡単にやってのけるからです。慣れと言う言葉では片付けられないかなり鍛えられた能力だと思います。ひとはみな心に目を持っています。美しいものをいいアングルで心に送り込む、動かないものを見る目と、時間流れの中で動いているものを見続ける動体視力です。これはどちらも意識することでかなり鍛えられます。ボクサーが動体視力を鍛えると相手のパンチが見えるようになりよけることができるようになったり、野球選手が速い球を打てるようになるのと同じで、心の動体視力を鍛えると、現場対応能力が身につきます。会話をするときも、話の少し先の動きを見ることが出来ればツッコミもうまく入れることが出来ます。時代と自分の身の回りの動きを見る目も大切ですチャンスの瞬間をジャストミートするため、繰り出される困難のパンチをかいくぐるため、この動体視力を鍛えるということは自分の夢をより近いものにしてくれるはずです。最近は身の回りのスピードはより速さを増し、ついていけないものが多くなってきました。動きのある仕事をこなすための動体視力と共に、時代を見る目も養っていかなければ、これから来るチャンスを捕らえることは出来ない。そう考えながら心の目をこすり、毎日を見続けているのですが。チャンスという剛速球に対してはここ最近、空振り三振が続いていると言うのが悔しい限りです。
Jan 13, 2003
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今日は比較的温かく、朝も気持ちよく布団から出ることが出来ました、いつもこれくらい温かければいいのにと、温度計を見ると12度、温かいといっても冬なんだと気付きました。この温度がもし9月中旬だったら寒くて外に出るのは嫌になっていたことでしょう。昨日の制作部会で部長が開口一番言ったことは、今年4月からテレビ局の予算が大幅削減され、会社はまた一段と厳しい状況になるという発表でした。社内にはどんよりとした雰囲気が漂い、誰もが不機嫌な顔になりながらデスクに着きました。私も隣に座っているディレクターに愚痴をこぼそうとしたところ、思いもしなかった言葉が彼の口から出たのです。「こんなことで落ち込めるだけ状況は良くなったんですよね」最初は耳を疑いました。景気が落ち込みそのあおりがテレビ業界にまで及んできたと言うのに何が状況が良くなったのか、理解に苦しんだからです。彼は少し笑みを浮かべながらこう言いました。「ADやり始めた頃は、この世界でご飯を食べれるかどうかで毎日が不安でしたもんね」確かに彼の言うことは正しいと思いました。アルバイトからこの世界に入った私にとって、今、この世界でボーナスが減るとか、番組がなくなるといったことに不安を抱いてること自体、その日暮しで、いつクビになるかわからない状態の時から比べれば、いい状況になっているのです。ゼロから出発した人間にとって、ゼロでない限り、その状況は、悪くはないはずなのです。しかし9や10を一度経験してしまっただけに5や6の状態が苦しい、寒いと感じてしまうのです。ゼロでもともと、ゼロから10を経験できたんだから、これからまた5から15までを経験できるかも知れないのです。しかし人は、ついつい、10から5に落ちたことに目を向けてしまい、今度は5からゼロになるんじゃないかと不安になってしまうものなのです。一番いいときからの温度差を計ると寒いけど、一番寒かったときから比べるとまだまだ温かい。彼の発想は、かなり私を楽にさせてくれました。みんな、どんな成功者も、過去にここで間違っていたら全くのゼロだったという人生の分かれ道に立たされた事はあるはずです。しかしそこをうまく生きてきたおかげで今があるのです。最悪でもゼロ。また振り出しに戻るだけです。一度ここまできた自分、もう一度出来ないはずはないのです。不況はみんな同じ条件、自分だけが不況なわけではありませんむしろ周りのみんながネガティブになっているだけ、今、ポジティブになることはチャンスなのかも知れないのです。機嫌が良くなったので、そのあと、そのディレクターと飲みに行きました。居酒屋には数多くのサラリーマン。みんな少しでも温かい生活をしようとしてるんだ。みんな同じ条件。不思議と勇気がわいてきました。居酒屋の隅にあるテレビにはジョージアのCMが流れていました。ダウンタウンの浜田が会社をやめて新しい会社を立ち上げたと言う設定。最後に流れるテレロップは・・・「明日があるさ」 みんな寒さをこらえて笑顔で生きていると、なんでもないことに感動したなんでもない日常の出来事でした。
Jan 11, 2003
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今日は年末に収録したある有名グラビアアイドルの旅番組の編集に一日を費やしました。CMや雑誌テレビで大活躍のアイドル「Y」と仕事をすると言うことで、撮影の日は少し緊張しながら打ち合わせに入ったのですが、会ってみてその素朴さに感動に近いものを感じたのです。今まで会った有名人はほとんどの人がやはり普通じゃない、オーラがあると感じたのですが、彼女に関しては普通の可愛い女の子と言うイメージしかわかなかったのです。そして「この子はどこかで昔、会ったことがある」そんな気持ちにさせてくれたのです。撮影が進むにつれ、私は先程感じた「この子はどこかで昔、会ったことがある」という気持ちが、実は気持ちだけでなく、本当に会っていたことを思い出しました。そうこのアイドルは3年前、ある大阪ローカルのテレビ番組のオーディションで私が面接し、最後の選考で普通すぎると言うことを理由に落選させた女性にほかならなかったのです。カメラを通して見て、彼女の魅力を理解することはそう難しいことではありませんでした。どんな風景にも、どんな服装にも、どんな料理と組み合わせても彼女は前にも出すぎず、かといってかすむこともない、嫌味が全くないのです。個性派がそろう芸能界の中ではこういったキャラクターが逆に異質に見えるから不思議なものです。人より上を、人とは違ったことを常に求め、それを個性とする人たちが多い中、前に出過ぎない、癖のないキャラククターはなんともいえない味として心にすっと入ってくるのです。今、アイドルで流行の「癒し系」と言うのがこういったジャンルなのかもしれません。一時期、茶髪が流行った頃、個性を出すために髪を染める若者が増え、気がついてみるとほとんどの若者が茶髪になり、逆に何もしない黒髪の方が個性的に見えたという現象もありました。中学生の頃から人と違うことをすることが自分を人にアピールすることだと頑なに信じていた私にとって、このキャラクターの魅力というものは衝撃的でした。時代が生んだ、「普通と言う個性」おそらく彼女がここまで有名になったコツは自分のキャラクターに決して無理をしなかったと言うことなのだと思います。そう思って、電車に乗ると、素敵な人はたくさんいます。気持ちにすっと入ってくるような女性、今までは被写体としては考えられなかったような普通の人も、輝いていることに気付いたのです。今回は編集を進めるにあたって、あえて普通の演出にこだわってみました。薄味の持つおいしさ、ホテルのロビーでかかっているようなイージーリスニングのような音楽のここちよさ、この番組、このアイドルとさせてもらった仕事は、人に愛される条件はもっともっと深いところにあるんだなあと改めて感じさせられた意味のある出会いとして心に残るものとなりました。
Jan 10, 2003
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昨日、ディレクターなりたての若手が、私の担当番組のVTRを初めて作りました。ちょっとしたコーナーで凝れば凝れるけれど、別に普通に作っても成立はするといったVTRなので行く前に、たいしたアドバイスしなかったと言うこともあったのですが、出来上がりをチェックしてみるとごく普通の作りになっている上、完成度ももうひとつと言う出来具合だったのです。「どうですか?」と聞く彼に一言こう言いました「なんでこんなに普通なん?若いのになぜもっとチャレンジしなかったん?」彼はうつむきながらこう答えたのです「躊躇してしまいました」その時に私はこの「躊躇」と言う言葉の恐さを改めて感じました。普通に作ればもっと完成度が高いものが作れたにもかかわらず、おそらく彼は、何度も凝った、チャレンジしたものを作ろうと思ったはずです、しかし失敗するのではないかと言うことで躊躇したため平均以下のものしか作れなかったのです。最初からチャレンジする気がなければ、きちんと普通の作品が作れる能力があるにもかかわらずチャレンジしようかどうかという躊躇をしたため自分の能力を出し切れないまま終わってしまったのです昔、動物病院を取材したときの獣医の話を思い出しましたよく猫が交通事故に合うのは、道を横切る際、車が来ると躊躇して道の真ん中で止まってしまう習性があるからだそうです。犬は比較的一度道を横切ると決めたら車が来たとしてもとにかく向こう側にたどり着こうとするので結果的にはよほどタイミングがぴったりじゃない限り事故に合わないそうなのです。何事においても一番いいのはやろうと決めたことはとりあえず失敗を恐れずにやってみて成功すること、二番目はやろうと決めても危険を回避してやらずに安全策を取ること、三番目はやってみて失敗すること、最悪なのは「躊躇」することなのです。やって失敗してもそれは経験になります。その若手ディレクターはかなり後悔していたようです。「石橋をたたきながら渡る」という一番危険な行動、躊躇」ということをしてしまったと言うことに気付いたからです。しかしこれもまた一つの経験であり、「躊躇の危険性」を知っただけでも意味のあることだったと思います。悩むということも大切なことですがいったん決めたら、それをやるかやらないかの二つしか行動はないということをもう一度改めて自分に言い聞かせました。また一つ後輩から生き方のヒントをもらえた出来事でした。
Jan 8, 2003
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次回収録の番組の企画が決まりました。タイトルは「UNー1グランプリ」内容は巷で縁起がいいとされているトルマリンの石や四つ葉のクローバー、茶柱、等のアイテムの中で一番ご利益のあるものを決定しようと言うものです。それぞれのアイテムを身につけたタレントがくじ引きや黒ひげ危機一髪などのゲームをトーナメントで行い優勝者を決めると言うばかげた企画なのですが、この企画会議は意外にも盛り上がりました。会議に参加した人も自分でさまざまな縁起を担いでいるようで、思い入れがそれぞれにあったのが盛り上がった理由でした。基本的に運は自分でつかむものと言うことは誰もが意識はしているものの、何かに頼りたいという気持ちも否定は出来ないようなのです。運は誰にも公平に与えられ、一見不幸に見える人でも最終的にはプラスマイナスがゼロになるという考え方をする人もいるようですが私自身の考え方として、どう見ても、運のいい人と悪い人は必ずいるような気はするのです。歳を重ね、経験を積めば積むほどこの考えは確かなものになって来ています。だからといって運のいい人たちが特定の縁起かつぎをしていたかと言えばそうではないと思います。だとすればなぜ、同じ染色体の数を持った同じ人間の中にそういう差が出てくるのでしょう。私の数少ない経験からいうと、運をつかむ人に共通していることは、ここ一番で運をつかむというコツを心得ていることだと思います。1度何かラッキーなことにめぐり合ったとき、その状況下の空気、自分の状態を無意識の中で記憶していて、ここ一番のときにその状態に自分を持っていける能力があると言うことなのです。何か現象がおきるとき全てそこには目には見えない何かが感じられます。しかし目に見たもの、耳で聞いたもの以外の肌で感じる空気を記憶すると言うことはそういう意識を持っていないとそうそう出来ることではありません。この雰囲気、空気の存在は誰もが認識していることです。「嫌な予感」「勝てそうな気がする」そんな言葉を無意識に人は発しています。そういった現象が起きる前の空気と自分の精神状態を肌に記憶させる事が出来れば、運をうまく操れるに違いないのです。うまくいったときのアイテム、ラッキーを導いたときに身につけていたもの、とった行動といった目に見えるものを記憶していることによってそのときと同じ雰囲気を作ろうという考え方が「縁起かつぎ」です。私は基本的には無宗教ですが、もし神様が存在するとするなら、それは自分自身の中に存在すると思っています。人間の潜在能力は、五感で感じるものを信じすぎた結果、潜在したままになっているような気がします。おそらく運のいい人のほとんどは意識しないままその自分の中に潜む能力の引き出し方を心得ているのです。縁起ものを信じることが自分の能力を引き出すきっかけになるのだとしたら、そのアイテムはなんであろうと意味のあるものです。会話の中で「空気を読め」と言うことがよくありますが、こういう視点から見るとこの言葉は、人生を大きく左右するほどの大切なことだと改めて思います。最近この意識を持つようになってから、だいたいラッキーを呼ぶ空気は読めるようになってきました、その空気を確かに肌で記憶できるようになったのです。しかし、それを思い出すのがその事が起こってからと言うのがまだまだ修行が足りないところです。「やっぱりそんな気がしてたわ」そんなことを言いながら平凡な毎日を過ごしています。
Jan 7, 2003
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今年最初の仕事は、今年の春の特別番組の企画書作成とレギュラー番組の新コーナーの発案です。昨年からの持越しのVTR編集は残っていますが、これはほとんど作業的なことなので難しくはないのですが、やはり企画の発想は感性がモノを言うものなので、7日間のブランクが重くのしかかります。一度リセットしてしまった想像力の神経はなかなか元には戻らないものなのです。しかし不思議なもので、ここ数年、リセットしていなかった感性を振り出しに戻すことで、昔、この業界に入った頃にいろいろな人から教えてもらったことが、どんどんよみがえってくるものなのです。12年前生まれて初めて企画会議に参加した日、その会議終わりで、ある構成作家の人からこんな話をしてもらったことをふと思い出しました。「発想が浮かばないときは、その逆を考えるんや、面白いものを発想したいとき、まずは面白くないことを考えると、不思議やけどそのあとに面白いものが見えてくるものや、女の子に受ける企画を考えるときは、その前に、女の子が嫌がる企画から頭に浮かべて、それと全く逆と言う発想で、女の子に受ける企画を考える。これは不思議やけど、これからそう思ってやってみ」確かにそのときは、意味がわからなかったのですが、ある程度、経験を踏んだ今では、その発想法が理にかなっていることがわかります。ベクトルを同じ方向にだけ向けているとその力はそんなに強いものにはなりません。弓矢の矢を遠くに飛ばすためには、逆の方向にまず力を加え、反発を利用しなければいけないのです。わかりやすく言えば、高く飛ぶためには一度低い位置までしゃがみこまなければいけないという発想になります。ものの考え方にもこの法則は応用できると言うことを、その構成作家は教えてくれたのだと思います。発想に関してのみ言えば、考え方は同じベクトルにだけ向けると、脳の使う場所が限られるので、発想を転換させると言う要素も含まれているとは思います。しかし、この弓矢の法則は力学的なものですが全てのことに応用できるというのも確かだと思います。タバコをやめようと思ったとき、逆に今までの3倍の量を吸って、わざと気持ち悪くなって、やめた人もいますし、好きになった女性にアタックし続けて報われなかった男性が、逆に背中を向けた瞬間に逆に女性から追いかけられたという例もあります。前に進むことも肝心ですが、後ろに下がることも大切だと言うことです。反動を利用する。後ろに下がる、当たり前のこんな発想さえも忘れてしまうほど自分は思い上がっていたんだと、反省させられました。今、こんな企画は上司が嫌いだろうな、嫌われるだろうなというものを一生懸命考えています。
Jan 6, 2003
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この1週間、クリエイティブな感性は全く使わず何もしないことを考えて過ごしました。おなかがすいたら何かを食べ、眠たくなったら寝て、テレビが観たければテレビをつけ、退屈になったら表に出て、寒くなったらコタツに入る、ぐうたらを絵に書いたような7日間でしたが、今回はあえてそういう時間を作ってみました。感性は筋肉と同じで使わなければ衰えます。私自身、今までは、衰えるのが恐くて常に感性を使い続けていました。しかし、ここ最近、色々な人に出会い、影響を受けながら、自分の感性が、偏っているのではないかと言う不安にかられたのです。スポーツ選手も同じ競技を続けると、偏った筋肉のつき方をするといいます。他の競技をたまにしても、鍛えていない弱い筋肉を強い筋肉が補うため、きちんとしたプログラムに応じた筋トレをしないと弱い筋肉はずっと弱いままだと言います。昨年の年末、ふと、考えたのです。自分の感性に自信を持つがゆえに全く使っていない感覚、神経に気付いていなかったのではないかと・・・・久しぶりの長期の休暇が取れたのをきっかけに、一度リセットしてみるのも悪くはないのではないかとそう考えたのです。確かに何も考えずに、7日も過ごすと、正直、企画も思い浮かびにくいし、同僚のボケにも適切なツッコミが即座に返せなくなっています。面白いものと言えば2~30秒の間に思いついたものが今日の自分には何も思い浮かびません。でもここからが新しい感性を鍛えるチャンスだと思っています。テレビ業界人という観念も、クリエイティブ職だというプライドも一度リセットして、バランスの取れた感性と、偏らない思いつきの出来る、走、攻、守そろった選手になれるように今年は得意分野以外のことにもチャレンジしていこうと思っています。長所を伸ばすことは大切なことですが、同じ部分ばかり鍛えていた自分は昨年で卒業しようと思っています。使ったことのない感性で、新しい自分を創っていきたいと心に言い聞かせている今年初めての日記でした。
Jan 5, 2003
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