2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全19件 (19件中 1-19件目)
1
アドリブがほとんどで、そこが面白いところでもあるバラエティー番組にも台本はあります。ドラマや映画の台本とは全く意味の違うものですが、進行表ではなく、れっきとした台本は存在するのです。ディレクターが放送作家と打ち合わせをし、上がった台本にまたディレクターが手直しをし、スタジオやロケの当日、タレントに渡します。台本の通りに喋るタレントは全くと言っていいほどいないのですが、この台本は意外と大切なものなのです。何かモノを実現しようとする時、それを周りの人に具体的に伝えるという事はとても大切な事です。その一言一句は無駄になっても、行間、いわゆるその人の言いたいニュアンスは、必ず伝わるものだからです。こうなると面白いなと言う想定台本はタレントやカメラマンに自分の感性をアピールするために存在します。それなら、その雰囲気を口頭で述べるべきだと思いがちですが、実はそうではないのです。台本にすると言う事は、そのニュアンスを一度、具体化するという利点があるのです。プロの業界人なら、台本を見ればある程度の映像は想像できます。頭の中にそれぞれが浮かべた映像こそが感性としてタレントや技術スタッフに伝わり、その結果、そこにタレントや技術スタッフのスパイスが効いた新しい感性が具体化され、自分のやりたい番組が実現できるのです。私は、こういった経験から、何事においても、自分がこうなりたいと言う形や、こうしたいという事柄は、できるだけ具体的に人に伝えるようにしています。少しでも誰かがそのニュアンスを頭の中で具体化することによって、その夢がより現実のものとなりやすいような気がするからです。実際問題、自分の過去を振り返ると、自分の中で頭にぼんやりと描いていた夢より具体的に口に出して人に伝えた夢のほうが、高確率で実現しているということはいえます。たとえその通りにはならなくても、確かにそのニュアンスは形になっているのです。そう考えると、やりたい事が実現しなかったら恥ずかしいと言う理由で、自分の中にしまいこんでしまうと言う事は、可能性を狭めていると言う事に他ならないと思えるのです。人に伝えると言う事で、自分の目標にも責任感が生まれます。人に伝えると言う事で、その夢は魂が宿るのかもしれません。5年後、10年後やりたい事、なっていたい自分をの設計図をはやく完成さし、どんどん発表していこうと、最近はそんなことをよく考えます。私の価値観の中では不言実行より有言実行の方が明らかにかっこいいことなのです。自分の未来の台本は、主人公はタレントではなく自分自身、自分というキャラクターをどう周囲の人間とからませて、どういう設定をつけるのか、そして人に何を伝えていくのか、そんなことをいつも考えている私は、まだまだ新米の作家です。
Feb 28, 2003
コメント(2)
4月からの番組の企画会議が各番組とも本格的に始まりましたゲストを迎える番組はスケジュールを押さえることが必要となるため、その人選に力を入れる時期になっています。タレント名鑑を見ながら、インパクトのあるゲスト探しをする同僚がふとこんなことをつぶやきました。「まともな人はゲスト向きやないからな」私は、隣の席からその言葉を聞いて改めて面白いことに気付いたのです。話を聞いてみたいと思う人はどこか癖があり、世間一般でいうところの、不良が多いんだなと・・・まじめにしっかり生きている人、ハメをはずさない人は、生き方としては正解であるし、人生の浮き沈みも少なく、幸せに生きているけど、その話を聞きたいとはあまり思わないものなのです。たとえば、「完璧主婦の家事実践術」と「酔いどれ不良主婦の夫婦円満術」この二つのタイトルで番組企画を出した場合おそらく後者の方が視聴率をとるのだと思います。人の非行を見て自分の今生きている姿を肯定し、安心するという気持ちもあるとは思いますが、それと同時に人は、どこかに不良願望があり、不良な生き方をしながらもある程度の成功を収めるということに、爽快感を覚えるのではないかと思うのです。昔から、ガリ勉君の成績が1位であるよりより不良の成績が3位であるほうに注目していたような気がします。不良というキャラクターは、失敗すると、「ほら、やっぱり」というで目で見られ、最低の評価を受けます。しかし、逆に成功すると、「かっこいいなあ」とヒーロー扱いされる場合があるのです。人はみな、失敗のリスクがないなら不良でありたいと思っているのかもしれません。破天荒に生きながらながら世間からは認めてもらえる。そのためにはまじめにきっちり生きるよりも大変な努力がいるはずです。その努力がどこかに垣間見ることができるからこそ、その人に対して「かっこいい」という言葉が出るのだと思います。きちんと頑張って、成功する人は「偉い」と言われます。不良で破天荒に生きながら、成功する人は「かっこいい」と言われます。どういう風に自分はほめられたいかで生き方は変わっていくのです。芸能界は基本的には破天荒な人が多く存在する業界です。その中でも、不良とまじめは分類されます。どの分野にもその分け方はできると思います。不良サラリーマン、不良主婦、不良学生、不良老人、果たして自分はかっこいい不良にもしくは偉いまじめになれるのかそんなことを考えていました。まじめにもできない、不良としてレッテルを貼ってその上で、結果を出すこともできない。そんなどっちつかずにだけはなりたくはない、できれば破天荒に結果を出し、人に興味を持ってもらいたい。そんな不良願望をもつ目立ちたがりの小市民の私は、今日も地味に不良活動を続けているのです。
Feb 27, 2003
コメント(6)
ちょうど昨年の今日、私はその頃の上司である制作部長と衝突し、一旦、制作の仕事を離れる事になりました。当時、チーフとして仕切っていた番組も降ろされ、半年の別部署での謹慎期間の後、チーフの下に付く立場からの出直しとなったのです。「君は悪くない、よく言った」と応援してくれる人、「サラリーマンとして最低の行動だった」という非難の声、人間関係というものの難しさを目の当たりにすることになった出来事でした。痛い思いをしたにもかかわらず、1年経った今も、自分の考え、ポリシーを曲げる事の出来ない不器用さを持った自分が一部の上司からはにらまれ続けています。 一年前に反発した言葉・・・・・「一流を目指すもの以外はこの会社にはいらない、周りにいるディレクターは敵だと思え」業界に良くありがちな錯覚、視聴率と言うあいまいな数字でしか判断されないからこそ、自己評価を高くしないとプライドを保てないと言う考え方、自分と違うものを作る人間を否定する事で自分の評価を上げようとする手法。一流と言う偶像を祭り上げて、一個人の価値観を絶対のモノにしようとするエゴイズム。当然、組織である以上、一つのベクトルは必要です。しかし、人の感性を否定する事が、自己顕示であると言う考え方は、自分の中をどう探しても出てこないのです。一番を競い合うライバル意識が質の高いものを生む、これも一つの考え方です。しかし、私にはそこに存在する質が、どうしても、本当の質の高さではないと思えてならないのです。人間同士の信頼感、コミュニケーションがあってこそライバル意識と叱咤激励は良い結果をもたらす。私はそう考えます。世間一般で言う一流とは、上位にランクされる一握りです。そこにたどり着かなかったものが二流、三流と呼ばれます。そういうくくりで言うと私は負け組なのかもしれません。自分の大切に思うものを、信じてゴールを目指す、結果的にその評価が一流と呼ばれればそれに越した事は無いと思いますが、自分を抜いていくランナーの邪魔をする気もなければやっかむ事もしたくはありません。それが私の性分です。誰かが二流にならなければ自分が一流にはなれないとするなら、私は胸を張って二流でいたいと思うのです。私の考え方は甘い、全てはきれい事だと言う人もいると思います。そんなことにこだわって番組を降ろされるなんて、ばかげていると笑う人も多いことでしょう。しかし、私の目指すものは、ランキングなどというものではないと言う事を曲げる事は出来ないのです。4月からは番組も装いを新たにします。目標は一流を目指す者たちには決して出す事の出来ないオーラを持って、自分にしか作れない作品を生み出すこと。そう気持ちを新たにすることができた、226、左遷記念日という一日でした。
Feb 26, 2003
コメント(4)
我々の撮影した映像のテープは、一定期間ロッカーにて管理された後、今後使う事があるか無いかを判断した上で、消去されるものと映像ライブラリーという場所に保管されるものに分けられます。資料映像として、昔の映像を検索しているとき、自分が番組で使った懐かしい映像にめぐり合い、涙が出そうなくらい懐かしい気持ちになることがあります。日ごと、ロッカーの中には新しい映像が増え、それと同じ数の映像が消去されるか、映像ライブラリーの資料となります。そのときは、思い入れを込めて撮影した映像も、時間がたてばテープ管理庫の奥に、静かに眠る事になるのです。人の記憶も良く考えると、このシステムとほとんど同じです。次の記憶が入ってくると、昔の古い記憶は、消去されるか、もしくは、脳の奥のほうにしまいこまれるのです。何か記憶をたどっているとき、全然関係の無い昔の記憶がふと蘇り懐かしさに浸ることになったりもするものです。映像検索をしていてふと自分が思い入れを持って撮影した映像に出会ったとき私はいつもこう思います。あの時は、必死で作った番組でも、時間がたてば、それは懐かしい数秒間の映像としてしか残らない、今、悩みながら企画し編集、放送されて、視聴率に一喜一憂している番組も、数年経てば、映像ライブラリーの数秒なんだと・・・・生きていて、思い悩み、、一大事だと大騒ぎしているこの瞬間でさえ、数年後には思い出と言う資料映像になる。ついつい人間は、今起こっている事柄に関しては、その全ての記憶が自分の中に残っていくものと思いがちですが、記憶は必要のないモノは消去され、必要なものだけが数秒のワンシーンとして保存される、そんなものなのです。そのときに必死になっていればいるほど、後で見る、その資料映像はいとおしく懐かしく感動できるものです。何気なく作った番組の映像に出会っても早送りしてみるくらいのもの、今、悩み苦しむ事は、人生のライブラリーに感動の数秒を残すという事なのです。数年後に見るであろう資料映像は今のこの瞬間にも作られています。
Feb 25, 2003
コメント(2)
私がこの業界に入ったとき、最初に先輩からこんな言葉をかけられました。「僕たちは夢を売ることを仕事にする人間だから、非日常の素晴らしさを常に意識しながら生きなければいけないよ」そのときは、非日常=夢と言う方程式が成り立ちました。しかしそこから10年以上経った今、非日常の意味が少し変ってきたような気がします。日常の生活にはいい事もあれば、悪い事もあります。悩む事もたくさんあると思います。人の目を気にしながら、守っていかなければいけないもの、やらなくてはいけないもの、そんなことを忠実にこなしながら毎日を過ごす・・・人はみな、そうすれば世間一般でいう幸せに一歩でも近づくと信じて生きていくのです。日常を真面目に生きると言う大切さは誰もがわかっている事です。しかしながら、世間一般で言うところの幸福感の感じ方、計り方のものさしが全てに当てはまるとは限りません。世間一般的に幸せな生き方をしているからと言って、その人が満足しているかどうかは、本人にしかわからない事なのです。日常で自分の価値観でいう満足感を得ようとすると、それは時として非常識だと非難される事になります。カレーライス1杯で満腹になる人もいれば、3杯でも足りない人もいます。平均でカレーは1杯でそれが常識だと考えると、3杯食べなければ満足出来ない人は、常に空腹感を持ち続けなければいけません。そういった人の根本にある平均を超えたところの欲求を満たすものこそが非日常に存在するのだと思います。テレビ、お芝居、映画、そこに自分を投影する事で、日常の生活では満たしきれないものを補っていく、これが以前の非日常の欲求の満たし方だったのです。今は時代が変りました。携帯電話、パソコンなどの普及により、テレビや芝居と言った非現実の世界だけでなく、現実の中に、非日常を持てるようになりました。日常生活の中でありえない出会いをネット上で経験できたり、日常では出す事の出来ない自分のキャラクターをホームページ上で公開することも出来ます。ゲームでは知らない現実に存在する人と電話回線を通じて対戦できるようにもなったのです。どんなものにも裏と表があるように、人の生活にも日常と非日常があります。非日常を楽しむテクニックを得れば、日常での不満は解消され、世間一般でいう常識を生きることもうまくこなせるようになるのかもしれません。私自身、不倫やネット恋愛、嘘を頭から肯定しているわけではありませんが、色々な世界で表に出ないものが表に出る部分をを潤滑にしていると言う事は否定できないと思います。夢と現実の間にある自分だけの世界をうまく生きることを知るようになった現代人、人の進化がそこにあるような気がします。
Feb 24, 2003
コメント(4)
我が社の制作する深夜番組が4月からお昼の枠に引越しをする事になりました。一般的に見ると番組が出世したと言うことになり、喜ばしい事ではあるのですが、制作する立場、出演する立場の人間にとっては、うれしい反面、厄介なことになったというのが正直な気持ちだと思います。深夜番組と言うものは、一種独特の世界を作り上げていかなければ成立しないものなので、その世界を全く今までと違った視聴者にわかってもらうという事は、非常に難しい事なのです。その担当ディレクターに、会社の上司は何気なくこんな言葉をかけました。「これからは深夜の下品な部分は使えないよ」おそらくそんなに深い意味は無く、エッチなネタやどぎついお金の話は使えないなと言う意味で、軽く口にした言葉だったとは思うののですが、その言葉がその後、タレント、スタッフの中での論議の中心となったのです。「下品、上品って何?」一見、上品に見える、うわべだけの嘘を並べた奇麗ごとは、本当に上品と言えるのか、また、人の本質をえぐればえぐるほど、一般的に見た印象は下品に見えてしまうのではないか・・・・あるタレントが発した一言は波紋を呼びました。深夜に放送されている、トーク番組は腹の中を見せる事をコンセプトにしているものが視聴率を取りやすいと言われています。お金儲けの話や、バクチで負けた話。男に貢ぐ女の話、逆に貢がせる女の話・・・一般的にこういう会話は下世話、下品というくくりに入ります。そのタレントに言わせれば、昼にやっているワイドショー番組の方が、深夜でやっているそういう類の番組より、10倍下品ではないかと言う事なのです。私もその意見には賛成でした、タレントが誰と不倫しただの、隠し子がいただの、どうでもいい事をあたかも一大事のように取り上げる番組は間違いなく視聴率を取ります。番組をするから視聴者が見るのか、視聴率が取れるから番組を作るのかはわかりませんが、人の中にある下品な心は否定は出来ないような気がするのです。番組の根本、マスコミ論まで話は発展しました。上品な番組とはおそらく、子供向けアニメや時代劇、ドラマ、生活情報番組と言ったものになると思います。では実際、そういう番組ばかりでいいのでしょうか?タレント同士が悪口を言い合うトーク番組、タレントが熱いお風呂に入ってやけどしそうになりながら苦痛に耐える番組、タレントの不倫を暴き、袋叩きにするワイドショー、セックスについての深いところを探る番組はなくなったほうがいいのでしょうか?人が持つ根本的な下品な感情、これは否定できないものであるにも関わらず、それをテレビから知らされると、こんな番組はいらないと言います。おそらく誰も見なければそういう番組は淘汰されます。では何故、今もそういう番組は無くなっていないのでしょう?私は個人的にはこう思います。下品さは本来誰もが持っているものだと・・・他人を覗きたい心、人をイジメたい心、人の不幸、争いごとを見たいという心、それらを自制する心の強さが、上品さを作るのではないか・・・人は、上品になりきれないとき、下品と言う言葉を別のものに置き換え、それを非難し、自分を肯定しようとします。エッチな話をすると言う事、喋り方が汚いと言う事、お金の話をすると言う事、こういった類の事柄は確かにTPOをわきまえないと人に良くない印象を与えるということは確かです。しかしこれらは下品と言うカテゴリーとは違うと思うのです。上品なお金持ちの奥様でも下品な一面を持っている人はたくさんいます。逆に、下町の汚い言葉を使うおっちゃんがもつ人情はもしかすると何よりも気高いものであるかも知れません今の時代を映しているテレビでは、教育的な上品なものばかりが放送されるわけではありません。人の嫌な部分も映してしまう事もあります。影響力があるということから、犯罪、差別を助長するものは放送してはいけないものだと思いますが、下品な部分はおそらくこれからも描かれていくものだと思います。そこで考えなければいけないことは、本当に下品か上品かという価値判断はわかった上で制作しなければいけないということだと思います。最初に口火を切ったタレントは最後にこう言いました。「ゲスい番組だけはしたくないですね」私はこう受け止めました、いかにも上品な番組ですよと、鼻高々に実は下品な番組を作る。それこそが彼の言うところのゲスさなのだと・・・・
Feb 19, 2003
コメント(8)
仕事にはそれぞれ、職業病なるものがあるといいます。毎日、同じ部分を使う事によって、そこが麻痺したり、逆にその部分が休みなく働き出したりとその職業によって症状はさまざまです。腱鞘炎になる人もいれば、テクノストレスになって肩こりや偏頭痛が止まらないという症状もよく聞きます。私が職業病として悩む症状のひとつに、精神的な過敏症があります。毎日、何か面白い事や興味のわくものを探していて、面白いもの、興味のわくものが見つかるときはいいのですが、なかなか見つからないとき、異常にアンテナを張るため、仕事が終わっても、その状態から離れられない事があるのです。街で流れる音楽に感動したり、何気ない他人の会話に涙が出そうになったり、スーパーでおじいちゃんがクリームパンを買っているだけで、その人の人生を勝手に想像して胸が痛くなったり・・かさぶたがはがれた瞬間の皮膚のように、どんな事にも強く、反応してしまうのです。感動や喜びに関してだけ反応するならいいのですが、そのときは、ブルーの度合いも倍増するから厄介です。何度もそういう経験をするたびに、「ちょうどいい」と言う言葉の重さを感じます。なにか感動を求めようと感性を研ぎ澄ませば、必ずその感動と同じ単位でブルーも感じてしまうのです。なにか世の中の法則のような気がします。リスクの高いものほどリターンも高くなります。快感の強い恋愛ほど痛みも並大抵のものではありません。世の中、プラスマイナスのバランスは常に保たれるようになっているのです。私は、無意識のうちに、精神的ハイリスクハイリターンの人生を歩んできてしまいました。異業種の友人にはよくこう言われます。「うらやましいな、毎日が刺激的で、楽しいだろうな」と・・・決して否定はしませんが、私自身、マンネリズムへのあこがれがあるのも事実です。「ちょうどいい」そういう生き方のできる人は本当はすごく幸せで、もしかするとそれが一番難しい生き方なのかも知れません。退屈しすぎず、刺激も強すぎず、忙し過ぎず、暇でもない、そういう「ちょうどいい」環境にいる人だからこそ本当は、人の心をしっかりと見つめる事ができるのだと思います。そういう意味では、全くもってダメな自分に気付きました。自分自身、感性が豊かであると言う意味をもう一度考え直さなければいけない時期に来ているのだと思います。
Feb 18, 2003
コメント(6)
男性が女性に言われてうれしい言葉・・・というテーマで男性スタッフ同士で話をしていました。結局答えがまとまったのは、自分が他の人と違うと言う事を褒められたとき、男性はある意味その女性を特別視すると言う事でした。多くの男性は「こんなの初めて」という言葉にはかなりテンションがあがり、その言葉を言ってくれた人のために何かをしたいと本気で思うのです。若手のADはよく「自分はこの世界に向いてないんじゃないか」と言う悩みを持ちます。その根底には目標とする先輩たちのタイプと自分の未来が重なりあわないということがあると思います。私自身もそういう悩みは幾度となく持ちました。そんな時、その頃に付き合っていた女性たちのこの言葉が原動力となりその苦悩の時期を乗り越えれたのです。「あなたみたいな人初めて・・・」そう自分が何も、人のパターンにはまる必要はない、初めてのタイプ、自分1号になればいいんだ・・・そういう気持ちにさせてくれたのです。どんなものにも初めてはあります。今までこうだったからこれからもそうかと言えばそれはわかりません、むしろ時代は流れているので、今までの常識が、何年か先には非常識になっている事のほうが多いかもしれません。「こんなの初めて」と言う言葉を聞くためには、その人の枠を取り払うという作業が必要となります。しかし、今までついたイメージをなぞりそれ以上の印象を与えるよりは、その作業は逆にはたやすい事であるのかもしれません。どんな事にもこれはいえると思います。ディレクターらしくない、向いてないと感じたら、今までにあるその枠を取り払い、「こんなディレクター初めて・・・」と言わせればいいのです。主婦らしくない、主婦としては非常識、と言われるなら、「こんな主婦もいるんやな、初めて見たわ」と言わせるようにすれば、自分らしさは通せるのです。最近は女らしくと言う言葉もかなりイメージは変ってきました。この大くくりの「らしく」ほど無常のものはないと考えた方が何年か先を見据えるのには正解であるような気がしてならないのです。個性を通すと言う作業には壁はたくさんあります。批判される事も多いと思います。今までのパターンにはめた方が無難ですが、私は常にこれからも、「こんなの初めて」という言葉を求めて毎日を生きていきたいと考えています。自分の気持ちの中で、人から言われてうれしい言葉ってありますか?もしこだわりの言葉があれば教えてください。
Feb 17, 2003
コメント(4)
ディレクターと言う仕事をする男性は、異性関係に置いてはかなり派手であると言われます。かといって「オーディションに通してあげる」などと言って、タレント、女優の卵に手を出すと言う例は、実際、あまり聞いたことがありません。ほとんどの場合が、テレビとは関係のない業種の女性と付き合っているのです。人によっては3人4人を常に彼女としてキープしている人もいます結婚してからも、コンパやナンパを楽しんでいる、軽い人間が多いと言うのも認めざるを得ない事実です。忙しい時間をさいて、女性に会いに行く若手の話もよく聞きます。最初は、この業種自体が女性から興味をもたれやすいからそういうことになるのかと思っていましたが、色々なパターンから分析すると、どうやらそうではないようです。ディレクターという職業の男性には、女性好きが多いと言うのが一番大きな理由なのです。職種に関わらず、女性関係が派手な男性はいますが、特にこの職種はそういう男性が集まってきているような気がしてなりません。では何故、そんなに異性への興味が強いのでしょう。私自身を自己分析すると、きっとそれは精神的な抑揚から来るものだと思います。テンションを上げ、また平静を保ち、その繰り返しで我々の仕事は成立します。他の業種でもそれはあるとは思いますが、我々の場合、そのリズムが異常であると言えば異常です。仕事で緊張して家で安らぐと言うリズムが作れないことが多いのです。タレントや、スポーツ選手、ミュージシャンも同じ理由から異性関係の派手な人が多いと聞きます。彼らに関しては、実際にモテますし、世間一般が、そういう人たちはそうで当たり前と言う印象が強いと思います。しかし我々裏方稼業はそうモテる訳ではありません。精神的にはいつも異性を求めているにも関わらず、自分からアクションを起こさなくては、何も起きないのです。「恋愛は芸の肥やし」と我々はよくそういう言い訳をします。でも実際は違います。真面目一徹、奥さん一筋の人でもいいものを作っている人はいるからです。タレントを含めたテレビ業界、クリエィテブ職、精神の抑揚を必要とする職業の人たちの中で、そのコントロールをうまく出来ない人が、異性関係でそのバランスをとっているのです。全ては弱さの現われなのです。しかし、恋愛と言うものは相手のあるものです。ましてや既婚者であれば、パートナーからの信頼感を壊す一番の原因にもなる行為です。いくら2つ以上の恋愛が必要だと言っても、それはあくまで私事であり、相手には何の関係もない事です。私は考えます。恋愛ほど、人それぞれの価値観の違いが出るものはない、その中でお互いのギブ&テイクがたまたま成立してこそ、始まるものだと・・・・・そして、マナーとして、相手が嫌な思いをしないように最大限の努力をしてこそ、自分の価値観を通す事ができるのだと精神状態の起伏を繰り返す事で人は生きていく喜びを感じていきます。職業、自分の置かれた立場によって、その緩急はさまざまです。その中に恋愛というものが存在し、そのバランスをとっているのは事実だと思います。読んでいただいた方の中で、この立場にあるからこそこういう恋愛にあこがれると言うものがあれば教えてください。書きにくければ、ログアウトから匿名でもかまいません
Feb 15, 2003
コメント(6)
先日、私の知り合いの番組で、一般視聴者とのトラブルがあり、番組にプロデューサーが出演し、謝罪をしたという事件がありました街頭でタレントが「冷蔵庫の中身を見せて下さい」と一般の人にお願いするというロケ中に、ある主婦にその問いかけをしたところ、その主婦は、「もう、やめてください」ときつく返事をしたそうです。しかし、放送上、その「やめて」という部分は放送され、「大阪のおばちゃんはなれなれしいタレントに対しては怒る」というようなものとして演出されたのです。それを見た主婦は、すぐに局へと苦情を入れたそうですが、担当者不在であるとか、放送後に言われても・・・といったあいまいな対応しかしなかったという事だったので、改めて、きちんとした抗議をされたそうです。そのときの担当者は、「やめて」ということが、冷蔵庫を見せてというものと思い、放送するのを「やめて」だとは思わなかったとの事でした。どちらにしろ、視聴者に恥をかかす結果になったという事は事実です。私の意見としては、苦情を受けたときの対応さえきちんとしてれば、こんな大事にはならなかったでしょうし、出演した一般人には、放送日を伝え、記念品を渡し、放送しても良いという許可を取らなかったということがまずかったんだなと思いました。この話を聞いて、私にも昔、よく似たトラブルがあったことを思い出しました。2年前、深夜の番組のコーナー企画で、「おなら買います」というバラエティーを立ち上げようとしたときのことです。街角に大きな音声マイクを持ったタレントが登場し、おならの音を人はいくら出せば聞かせてくれるのかという事を実験するという内容のものでした。男性の場合、1000円が相場、安い人では200円でおならを売るのですが、やはりバラエティーとしては、可愛い女の子や綺麗な熟女のおならが欲しいところでした。そう思いながら、ある居酒屋に許可を得て中に入ったところ、20代半ばの、真面目そうな女性が、宴会で盛り上がっていたのです。話を持ちかけたところ、けっこうノリノリで、何人かの女性が手をあげ、結局2人の女性が、4500円でおならを聞かせてくれました。けっこうバラエティーとして面白く仕上がったと、編集も終わり、あとは放送を待つばかりという状態になっていました。そのとき、渡していた名刺当てにその当人からこんな連絡があったのです。「あの時は酔っていたのでやってしまったが、今考えると恥ずかしくて死にようだ、放送しないでくれ」放送を今から覆すとなると、今からまたロケに別企画で行きなおして編集し、音楽をつけるというかなりの無理な作業になるといっても聞き入れてもらえませんでした。金額的にも50万円近い損失でした。スタッフの中には、「そのとき酔っていたとはいえOKもらっているんだから、強行すれば・・・見た限り、そんな泥酔でもなかったし」というものもいました。結局、私のミスとして、ロケが一つ無駄になったということで片は付いたのですが、今から考えると、これは私は悪くなく、放送はしなかったけれど、おならをした女の子の責任は大きかったのではないかと思うのです。もしお時間があれば、ご意見をいただければありがたいです。テレビ側は、許可を得て一般人を画面に出す場合、ギャラを渡していない限り、映された本人の心境の変化を優先しなければいけないものでしょうか?逆に、テレビカメラの前に立つとなかなかNOとは言いにくくなるので、もっと配慮するべきなのでしょうか?もし、「テレビの収録でこんな嫌な思いをした」とか「ロケに巻き込まれてこんな災難に遭った」「ロケ取材を受け放送を見てみると最悪だった」「取材の仕方が横柄だった」などの経験があればそれもあわせて聞かせていただければありがたいと思います。
Feb 13, 2003
コメント(5)
我々の職業は、最先端をいくべき業界でありながら、女性の進出においては、他の業界よりも、対応が遅かったような気がします。私自身も、つい最近までは、女性ADへの理解はありませんでした。ロケでも女性スタッフが入ることで、タレントと別に一部屋用意しなくてはいけないということが面倒だったり、長時間の編集作業で、編集室に泊り込みになるとき、何日も風呂に入らないような状態があったりと、職場の条件が女性には適さないと思えたことが何度もあったからです。そして、何より、ADからディレクターになって一番、脂が乗る時期に、結婚、出産の時期が重なるため、本当に優れた作品を作る前に引退してしまうというもったいなさがあると思ったのです。テレビ局など大手の会社なら、育児休暇、託児施設などの配慮も出来ますが、制作プロダクションなど、福利厚生がしっかりしていない会社では、出産となると引退を余儀なくされるのです。確かに敏腕の女性ディレクターは関西にも数名います。しかし、育児をしながらという人は一人もいません。今まで、一般的に男性の職場といわれてきた場所への女性進出は雇用機会均等法が出来てから以降、それは当たり前の事になって来ています。最近は、私も、女性ディレクターを育てていかなければいけない立場になりました。この状況に、異論はありません。ただ、その方法論が見つからないのです。今、我が社には、入社二年目のADが二人います。正直、どう育て、どう指導していいのか、いつも考えます。女性の感性もテレビには必要であるにも関わらず、女性が安心して働ける職場でないというのが現状なのです。今、我が社にいる女性ADは個性が二人とも違います。一人は、女性というスイッチを常にオフにして、全く色気なく黙々と働くタイプ、そしてもう一人は、可愛らしく、男性の先輩に甘え、みんなから可愛がられるタイプ。個性なので、これはどちらが正しいかはわかりません。これはどんな職場でもあることなのでしょうが、男性の仕事に対するタイプわけとは少し違うような気がします。ここで女性の方に意見を伺いたいのですが、女性が、一般的に男性がする仕事と言われる職種で仕事をするときには、女性として身だしなみを綺麗にし、女として、男性にも異性として接しながら仕事をするべきなのか、男性と全く区別されないように、重い荷物も持ち、化粧もそこそこに、女を見せずに仕事をするべきなのでしょうか、人、それぞれと言ってしまえばそれまでなのですが、組織を考える上で、真面目、不真面目とか、コツコツタイプ、人間関係重視タイプとは違ったところに観点があると思うのです。もし経験談があればそれもふまえて、ご意見を聞かせてください。また、男性の方、あなたが社長で一人を採用するなら、どちらのタイプを選びますか?
Feb 11, 2003
コメント(11)
私の担当する番組の一つに。視聴者情報部に寄せられた、疑問、質問、苦情に答えるという、スポンサーを持たない番組があります。さまざまな苦情を各部担当者が、書面で答えるということがベースとなっている内容なのですが、いつもこの会議ではどの苦情を取り上げるかが問題となります。あきらかに一般論ではない、おかしい苦情と、これは放送局からとると耳が痛いけど放送するべき苦情の選択を、我々放送業界の人間がしなければいけないので、複雑な感情の元、会議は繰り広げられます。今回の内容はこんなものが挙げられました、「番組で岸部四郎をいじめすぎではないか、見ていて不愉快だ」「犯人の手錠にモザイクをする意味を教えてくれ」「関西ローカルで地方のお店を紹介するのは不親切だ、いけないじゃないか」というようなものこういうものにはある程度、答えが返せるのですが、一番悩むのは、是非問題です。例えば、犬にレインコートを着せるのはよいことだという放送をすると、反対派から苦情が殺到しますし、逆にそれを否定すると、肯定派から猛烈な抗議があります。こういう苦情への答えは難しいというより、答えようがないというのが正直なところです。そこで今回はこのページ上でテレビに寄せられた一つの是非問題を提示したいと思います。「デブ、ハゲ、チビを笑いにしているバラエティーは数多くあります。差別用語は放送しないのが倫理ではないか、明らかに差別を助長している」という苦情に対して、「使い方は時と場合によるもの、それを差別と捕らえると、笑いというものが規制されます。逆にデブ、ハゲ、チビを売りにしているバラエティータレントにしては死活問題。これは放送してもいいのではないか」というタレント側からの意見、さああなたはこの是非問題、どうお考えになりますか?デブ、ハゲ、チビは差別用語で放送するべきではない?放送しても良い?どっち?
Feb 10, 2003
コメント(7)
昨日、担当番組の番組収録がありました。内容は、マジック(手品)を2~3ネタ見た後、出演者が誰でも出来る簡単マジックを習うという、ありがちな企画ものでした。できるだけ、出演者の素のリアクションを撮りたいと、この企画に踏み切ったのですが、この収録で、テンションが上がったのは、出演者よりむしろスタッフの方でした。その理由は、マジックというのは、撮影の仕方によってネタが完全にばれてしまう可能性が大きいので、リハーサルの時にスタッフだけには全て種明かしをしてくれるという楽しさがあったからです。種明かしを見せてもらうと、「なんだそんなことか・・」ということばかり、スタッフは収録を前にして大いに盛り上がったのです。種明かしを知った上で、マジックをみると、マジックうまい下手は、ネタ、テクニックより、人の心理をどう操るかがポイントになっているということがわかりました。右手にネタが隠されているときは、あえて、左手で怪しい動きをしそちらに注意を向けたり、ポケットからネタを出すときは必ず、トークで笑いをとって気をそらせたりと、マジシャンは人の目をごまかすことに全精力をつぎ込んでいるのです。例えば、財布を開けた週間、大きな音がする仕掛けをしておいて、観客がびっくりしたときにポケットからモノを出して、あたかもそれが財布から出てきたようにみせたり、人を客席から呼び出し、お客さんの紹介をし、観客の目がその人に向いているときに、自分の手にネタを仕込んだりと見事に注意はそらされてしまいます。この収録で、マジックを通じて人の注意力というものの面白さを改めて感じることが出来ました。人は、大きな出来事、注目点があると、そこに集中してしまうために、他の場所を見逃してしまうという習性があるようです。誰かが大きな失敗をしたとき、人の注目はその人に集まり、実はその影で起こった数多くのミスは見逃している場合も良くあります。交通事故や、火事が起こった現場で財布のスリにあっても、家に帰るまで気付かなかったりもします。こう考えると、大きな、出来事、人が必ず注目することが起こったときこそ、その周りには必ず、落とし穴があるということが言え、それと同時に、人がが見ていないものを発見できるチャンスであるとも言えるのです。私は、この心理学のエンターテイメント、マジックを演じるスタッフの立場を体験することによって、面白い目線を学べた様な気がします。肝心なところは人が見逃すようなところに存在することが多くあり、そこを見るためには、場合によっては天邪鬼となり、人が見ない場所に焦点を当てることも必要なのではないかと思えるようになったのです。人間関係で悩むとき、社会の中でおかしいなと感じたとき、実は人が注目したくなるポイントとは全く違う所にその種明かしは存在するのかも知れません。
Feb 9, 2003
コメント(2)
昨日、自分の担当とは別の番組の若手スタッフと飲みに行きましたまたま、仕事が終わった時間が同じ頃だったので、誘い合わせたわけでもなく「一杯行こうか」ののりで安い居酒屋へと向かったのです。そのスタッフの担当番組ディレクターはその日は出張でいなかったと言うこともあり、少し早い目に終われたとの事でした。飲み始めると、当然のように、そのスタッフの上司に当たるディレクターの話題になりました。いい人だけど、真面目すぎるので、仕事時間が普通の番組の倍はかかると言う話や、細かいことに神経質すぎるので、下のものとしてはストレスがたまるというような、悪口といえば悪口、愚痴といえば愚痴と言うような内容になってきたのです。同じ立場の私が聞くととても複雑でした。いいかげんな性格の自分としては、「真面目すぎるのはこの業界には合わないで」と言う言葉がのどまで出かかったのですが、自分が同じように若手の前で別のディレクターから批判されることを考えると、これはやってはいけない行為だという気持ちが生まれ、あわてて口をふさぎましたした。私のほかは全員、若手のメンバーだったため、悪口を言うどころか逆に、真面目を絵に書いたような、自分とは正反対の、神経質で細かい人間を、肯定しなければいけない立場にたたされたのです。色々と冷静に、自分のことを考えずに、そのディレクターを見てみると、私から比べるとかなり、ひたむきに仕事に取り組んでいることは確かです。そして、よく考えてみると、私が馬鹿を言いながら酔っ払っている間も、仕事を続けている彼を、否定することは、私のいいかげんさを言い訳する、大人げのない行為に他ならないことだと思えてきたのです。私自身は、細かいことよりも、世間一般に真面目と呼ばれる人がもっていない、臨機応変な対応能力と、瞬発力を持っているという自信とプライドの元に仕事をしています。それを、誤字、脱字、精算の計算間違いで、全てを評価されることは非常に心外なことです。同じように、正確さやこまやかさ、ひたむきな仕事に対する姿勢を自分のプライドにしている人間を、マイナス面である、融通の効かない点や、仕事の時間の長さ、要領の悪さをとって、評価をするのは全くのナンセンスなことなのです。いいかげんな人間は、真面目な人間を頭から否定し、逆に真面目な人間はいいかげんな人間を否定するという傾向はどの社会にもあることだと思います。おそらくその人を肯定すると、自分そのものが否定されるような気がして不安になるというのが一番の理由です。愚痴を言う若手スタッフを前にして、いつもは口の減らない私が、今回ばかりは少し考え込んでしまいしました。人の個性を肯定することが、自分の否定になってしまう・・・・自分の個性を否定してまで、彼を褒める必要があるんだろうか・・広い視野で考えると、色んな個性があるからこそ組織は成り立ちそれぞれのポジションが決まると言えるのですが、なかなか自分の個性に対するプライドが邪魔をして、考えは狭くなってしまうものです。本当なら自分に必要なパートナーは自分にないものを持った人であるのに関わらず、自分にないものを持っている人の短所を取り上げ否定したくなっていた自分自身が、つくづく嫌になってきました。それと同時に、自分にない個性を素晴らしいと思う感情がどれだけ難しく、そして大切なことなのかに初めて気付いたのです。口では、あいつは素晴らしいといえても、本心から、真面目が一番几帳面が一番と思えるかどうかと言えばそれは疑問です。日ごろから、若手に偉そうに人間関係について語っている自分がまだまだ子供で、未熟な精神を持っているかを痛切に感じさせられました。一呼吸を置き、私は若手スタッフにこう言いました。「真面目、几帳面な先輩も大変やけど、だからこそ、救われたこともあるはずやで・・・僕と仕事していたらそれはそれで、いろんな大変なことがあるはずや、とにかく完璧な人間はおらんし、その人と仕事せなあかんねやったら、いい面を見ていったらいいんちゃう?色んな人と仕事してたら、僕らの立場になったとき、幅が出来るんやと思うで」なんの解決にも、アドバイスにもなっていないありきたりの言葉、そこにはもやもやと、自分のふがいなさを感じながら焼酎のお湯割りの3杯目を注文する私がいました。
Feb 8, 2003
コメント(7)
今朝、社内の風景の中に、プロデューサー同士が小さな声で、会社の体制について話し合っている姿がありました。テレビ局の出資会社である我が社は、人事異動の度に役員が変り、毎回、社内の体制もころころと変るのです。普通の上司が来れば問題はないのですが、本社で出世争いから外れたような人が役員になると、世間への仕返しのような無理な締め付け体制をとる場合があるのです。今回の、改革がそういったものだそうです。サラリーマン社会に入ったからにはそういう覚悟がないわけではありませんし、リストラが当たり前の世の中で、上司を選べるような環境があるはずはないと私自身はそう思っていました。しかし、どうやら事態はそうとう深刻な様子でした。プロデューサーが話していた内容は、テレビの制作に適さない環境に社内がどんどん変っていくだろうということだったのです。ディレクターのほとんどは、社内の体制より、自分の周りを一番に考えます。良い作品を作りたいだけの、職人が多いのです。おそらく、みんなで会社に対して組合を作るとか、体制への文句を言うというようなことに関しては、どの業界よりもまとまりのない集団であると思います。そのやり取りを聞いていて、私は、ふとある大工さんを取材したときのことを思い出しました。大工歴40年の棟梁は見習い大工にこういって聞かせていたのです「仕事をするときに一番に考えなければいけないのは足場だよ、いくらまっすぐに釘を打ち込んでも、足場がいがんでいたら、釘はまっすぐには立たんから・・・」私はこの話を聞いて帰ったときは、「やはり机の周りはきちんと整理しておかないと仕事ははかどらないんだな」と単純にそう感じ、机の整理をしたことを覚えています。しかし今、その話を思い返すと、単に棟梁はその話を整理整頓のために言っていたのではないような気がしてきたのです。足場とは自分の身を置く環境のことなんだ・・・・なんでそのときにそんなことに気がつかなかったのかと自分が恥ずかしくなりました。何をするのも、その行動を起こす環境をしっかりと作ってからはじめないと、自分のやりたいことが出来ないと、そう言いたかったに違いないのです。勉強をするにも、仕事をはじめるにも、子供を教育するにも、全て足場を作ることが大切です。良い足場の上に良い建物が立つと言うことと同じで、良い環境の元に人は育ち、人はいい仕事が出来るということを改めて考えさせらました。ついつい人は、今自分がおかれている環境の改善は後回しにし、行動についてを優先させてしまうものです。「しかたないから」「こういうものだから」と文句をいいながら良い行動がとれずにいることがあるものです。たとえ環境が少ししか変らずとも、その努力はしなくてはいけないなと、プロデューサー同士の社内の環境についての会話を聞きながらそう感じさせられたのです。会社の体制を変えるという事、組合を作って、規則を変えるという事は難しいことかも知れません。しかし、その体制の中で、いい仕事ができるようなしっかりとした足場を作れるよう、同僚たちとコミュニケーションをとることは、大切なことだと、そう考えさせられました。自分も会社の一員、サラリーマンなんだと言うことを改めて、実感させられた、どんな会社にもありがちな、何気ない朝の出来事でした。
Feb 5, 2003
コメント(5)
今年新入社員として入る、学生が今、研修でわが社に来ているのですが、早速、若手の社員は歓迎の新入生の「いじり」をはじめています。誰に似てるだの、服装がどうだの、喋り方がどうだのと、いろいろな部分を攻めて、笑いのネタにしています。「いじり」とはお笑い用語で、ボケてもいない人やまた、その人のが狙っている笑いとは全く違う部分で笑いを取ると言う方法です。これは一見、「ツッコミ」に見えるかも知れませんが、信頼感の中で生まれるボケ、ツッコミとは、全く違い、どちらかと言うと限りなくいじめに近い、笑いのとり方なのです。芸人は、お客さんをいじるというテクニックを良く使います。キャラクターの面白い人物を客席からピックアップし、その人をけなすことによって周りを笑わすのです。「お客さん、松阪慶子に似てますね・・あっ間違えたよく見たら、松阪牛やった・・・」人がけなされているのを見て笑うという、人本来がもつ残酷な心を刺激して笑いを取る、かなり危険を伴うテクニックですが、笑いのテクニックとしては、ボケ、ツッコミよりも確かなものなのです。いじりはアメリカのコメディショーで必ず一度はこの手法が使われるほどベーシックなものです。この笑いを理解できない人も多く、いじめだと、嫌悪感を持つ人も多いと思いますが、これは世界共通のれっきとしたお笑い芸なのです。よく自虐的な笑いを自分でとる人もいます。そういう人に言わせると、自分がいじられるポイントをわざわざ作って、みんなの犠牲となって周りに笑いをもたらすと言う行為も実際これをやってみると、かなりの快感があるそうなのです。芯の取れるタレントであるつるべさんは、笑っていいともではいじられ役を買って出ています。いじられ方もうまくこなす、つるべさんからは、どんな笑いでも受けて立つという器の大きさが感じられます。いじるという芸の基本は、いじられる人は常に同じ人であってはいけないということと、いじってはいけないタイプの人を見極めるということす。これを熟知していないと笑いは成立しません。逆にいじられる立場から考えると、いじられ方の上手な人は、人から愛されやすくなるという事を知らなくてはいけません。いじると言う行為をいじめられたと感じて、機嫌をわるくする人は、笑いのない本当のいじめを受けやすい人間であったりする場合がよくあるのです。うまくいじられる、一見プライドを捨てたかのような犠牲の心が、人に不快感を与えるはずはありません。いじる人間の思いやり、いじられる人間の器の大きさ、この二つのハーモニーが心地よい空気を生み出すのだと思います。私は思います。年下からうまくいじられるような上司になりたいと・・・・おそらくそれは、ボケてツッコまれるということよりも、もっと難しいことだと思います。ナメめられずにイジらせる、このテクニックこそが、究極のお笑い芸なのかもしれません・・・
Feb 4, 2003
コメント(1)
今朝、若手のディレクターが周りのみんなから非難を浴びている場面に遭遇しました。理由を聞いてみるとそれは、「オチのない話をした」と言うことでした。地方出身の彼はいつもそういう攻められかたをすると逆切れして、「そこが関西人の嫌なところだ、別に笑わそうとしていったんじゃない」と言います。しかし、関西人がよく言う「オチのない話」とは、笑わすための話が面白くないとか、落語のようにうまく洒落が効いていなかったというものとは少しニュアンスが違うものだと思います。「オチのない話」とは全国共通で言うところの「つまらない話」なのです。例えば、交通事故を目の前で見た時の状況の話や、本当においしい料理店を見つけてそれを報告しているとき、周りの人はオチをを求めたりはしません。しかし、日常の何気ない風景を淡々と語られた時には、それが話の最中であっても、「オチは?」と問い掛けたくなるものです。私はこう考えます。お客さんに料理を振舞う際、新鮮な、おいしい素材、珍しい食材が手に入ったときは、全く調理せずそのまま出したとしても、お客さんは満足します。しかし、スーパーで買ってきたありきたりの食材を、お皿に盛り付けただけでテーブルに出されたら、お客さんはなんと思うでしょうか、新鮮素材や珍しい食材を必死になって探し出し、そのまま手を加えずに出すと言うもてなしが報道であるなら、スーパーで買った何気ない食材を使ってアイデア料理を作り出すというもてなし法は、バラエティーの分野になると思います。そうそう毎日、楽しい、変ったことは目の前には起こりません。そんな日常の中、人の興味を惹く話(オチのある話)をするためには、多かれ少なかれ、バラエティー的な演出が必要だと言うことになるのです。バラエティーのVTRの組み立ては、まずネタを切ると言う作業から入ります。普通の素材でも切り口によっては面白いと感じれる場所が必ずどこかに存在するからです。切り口が決まったらそこをまず出口に設定します。これが俗に言う「オチ」と言われる部分になるのです。その出口にどうやってたどり着くかを考えながら、その内容を決定します。ここではその内容が出口に向かっていると言うことが大切なポイントとなります。全てが決まれば、あとは興味を一番惹くような入り口を設定、話の構成が決まった段階で、VTRを作り始めるのです。よく話しにオチがないと言われる人の会話は、素材が切れていないことが多いと思います。例えば電車内でおじさんが女子高生に説教をしていたシーンに遭遇したとします。これをそのまま話すと、普通の話しですが。その内容の中に、実は自分の娘に対するいつもはいえない不満を関係のない女子高生にぶつけていたとか、いい話だったけど最終的には口説いているような口調になっていたとか、真剣に説教するおじさんの鼻からは一本長い鼻毛が出ていて女子高生はそこばかり見ていたというような切り口があれば、話はそこに向かって進めていけるのですネタを見つけてそれを人に喋るときは、当然そのネタに面白さを感じたからこそ話題にするものです。その面白い部分は何かという切り口をまず確認してから喋ると言うことが、「オチのない話」をしないための大切な部分なのかもしれません。こう言いながらも、私自身、オチのない話をしていることはあります。切り口、出口が決まらないまま話をはじめ、話をしながら出口を探すのですが、結局見つからないまま終わってしまったりもするのです。そんな反省も踏まえながら、「オチのない話」をする人に対しては、出来るだけ頭ごなしに攻めず、ツッコミや合の手でできるだけフォローできるようにと心がけています。
Feb 3, 2003
コメント(5)
昨日、あるADに「編集をしてみたいか?」と言う質問をしたところ目を輝かせて「えっ、いいんですか」という返事が帰ってきました。やはりADにとって、雑用ではない仕事をさせてもらうことは、かなりうれしいことなんだなということに改めて気付き、たまには、こういうチャンスもないと精神的に辛いだろうと、思い切って自分の管理の元で、彼に編集を任せてみました。1時間ごとに、画のつなぎを確認するという、指導を行いながらの作業となったのでやはり、普通の数倍時間はかかり、気がつくと3分の1も終わっていないのに時間は夜の11時になってしまいました。普通なら全てが終わっていてもおかしくない時間なのですが、ここは自分が言い出したことだと、朝まで付き合う心がまえをしていたのです。ところが12時を過ぎた頃、なんとそのADは、体調が良くないので帰らせて欲しいと言い出したのです。私は自分の耳を疑いました・・本当に体調は良くなかったとは思いますが、そんなにいとも簡単に、チャンスを無駄にする考えは自分にはなかったからです。ひとり残され、後の編集を深夜続けながら色んなことを考えました「ここで腹を立てるほうがおかしいのか、しかってあげた方が良かったのか・・・本当はそんなにやる気はなかったのに、私の一声を断リきれなかったのか・・・・彼にとっては迷惑な話だったんではないか・・・」もう後輩の指導なんかするもんかという思いが頭に浮かんだときそれを打ち消すかのように高校時代のある出来事が思い出されました。高校のボクシング部だった私は10人ほどの部員と道具を買いに街に出ていました。そのときOBの先輩にばったりと出会ったのです。あいさつをすると先輩の第一声は「飯は食ったか?」でした・・「まだです。」というと先輩は、「じゃあ中華でも食べといで」と言って財布を開き、ありったけの千円札を私に握らしたのです。その先輩は、社会人になって一年目、、その上、妻子もち、お金に余裕があったはずはありません。おそらく、その先輩は、財布の中身を全部出したのだと思います。「すいません」という私たちに、「僕も学生のときには、先輩によくおごってもらってん、礼はいらんから君らがOBになったら、後輩に同じことしたってや」そういいながら先輩はその場を去りました。多分、その先輩も、その上の先輩におごってもらったとき同じ言葉をかけられたのだと思います。テレビ業界に入って、今、人に教えれるほどの立場でいられるのは、先輩ディレクターの方々の指導があったからこそなんだ、その高校時代の思い出が、私の気持ちを変えました。後輩を指導して、その後輩から礼を言ってもらおうとか感謝してもらおうと思ってはダメなんだと、気がついたのです。今、後輩に指導することは、昔、先輩にしてもらった事への恩返しなんだという体育会系の頃に学んだ精神がよみがえりました。お陰で、明日になって、彼が会社に出てきたら、なんのためらいもなく「また体調のいい日に頑張って朝までやろうな」と言ってやれる気持ちになれました。みんな未熟な時期に、色んな人に歯がゆい気持ちをさせているんだ、ここで怒るときっと彼は次の世代に同じ怒り方をする。避けることのできない事実として、近い将来、私は現役ディレクターを引退します。そのとき少しでも多く、自分の遺伝子をテレビ業界に残せるよう、後輩への指導も面倒くさがらずにしなければいけないとつくづく感じさえられました。
Feb 2, 2003
コメント(3)
私たちの仕事場では、常に、感性のトレーニングの為の、ボケ合戦が行われます。仕事中でも、急にネタふりがあり、それに対して普通の返しをすると、怒られる事さえあるのです。大抵、ボケるのは若手の仕事で、ベテランがツッコミに回ります。若手のいいボケに対して 年上のディレクターがいいツッコミをすることでそこに信頼感が生まれるのです。ツッコミは簡単そうに見えてかなりのテクニックがいる作業です。プロの料理店で味を盗み、家庭料理に生かすように、タレントのツッコミを学ぶことで、日常の会話を活性化することが出来れば、人間関係をより円滑にし、毎日を豊かに生きるきっかけになるのです。テレビでやっているボケツッコミのレシピを自分流にアレンジすることで、毎日の人との会話は大きく変ります。ツッコミには次のようなパターンがあります。怒り系のツッコミ。「なんでやねん」「いいかげんにしろ」「おかしいやろ」などで一番オーソドックスなものです。人に失礼なことを言った時や、天然系のボケに使うと効果的です。このときボケの人間は、なぜツッコまれているかわからないように装うのがいいとされています。ダウンタウンの浜田や吉本新喜劇の石田靖が得意とするツッコミです。頭を張ったり、どついたりというアクションと組み合わせることも出来ます。言い聞かせ系のツッコミ。これはナインティナインの矢部がよく使う手法です。「ちょっとまってください」「違うでしょ良く考えて下さい」「しっかりしてください」「ちゃんとしましょうよ」というようにボケた人間に対して反省を促すように、低いテンションでツッコむという形です。ここでは敬語で突っ込むということがポイントになります。調子に乗った人や、スベった感の強いボケには効果があります。明石家さんまが村上しょうじや間寛平に対してよく使う事があります。例え系ツッコミ。「お前はサルか!」「ボケ老人やないねんから」「お前は安モンのホストか」というようにそのボケの状況に応じて、他のモノに例えるというツッコミです。これはツッコむ側のボキャブラリーの多さが必要となるので、かなりの高等テクニックであるともいえますしぐさの面白さや、行動、服装のおかしさをツッコむ時に使います吉本では、中川家の礼二や和泉修、大御所ではタモリが比較的よく使います。のりツッコミ。素人で面白いという人はこの方法を良く使います。「そうそう」とある程度ボケを肯定した後、強い目の怒り系ツッコミを返すことで笑いを誘うという方法です。ここでのポイントは、乗っているときとツッコミの時のギャップが大きければ大きいほど笑いは大きくなります。自分に対して否定的なことを言われたときや、小道具がある場合によく使います。キレ系ツッコミ。怒り系の応用系ですが、自分がいじめられたような状況に追いやられたときや、強く否定されたとき、「できるか!」や「ふざけんな」、「笑い事ちゃうわ」「しゃれならんわ」と完全に喧嘩ごしになるツッコミかたです。上島竜平、極楽トンボの加藤などはこのツッコみ方の面白さを突き詰めたタレントと言えるでしょう。状況説明型ツッコミ。状況があまりにも普通でなかったとき、短い単語で感嘆する突っ込み方です。これは人に対してではなくその人が招いた状況に対してできるだけ早くみたままを言葉にすることがポイントです。例としては「でかっ」「長っ」「キツっ」などがあげられます。スカシ系ツッコミ。これは、通常のツッコミと異なり、タイミングをしくじると、空気をこわすことにもなりかねない、最後の手段的なテクニックです。あまりに場違いなボケや、的をはずしたボケに対して無視したり、「やってしもた、知らんで」と言って置き去りにする方法です。明石家さんまはこの方法をうまく使っているタレントです。また、トミーズ雅が相方の健に対してよくこの方法を使います。チャチャ入れ系ツッコミ。これもかなりタイミングの難しいツッコミの一つですが、人が話をしている最中に、あげあしを取った形で、話に割って入る、テクニックです。「何回もおんなじこと言わんでええねん」「いらんこと言わんでええねん」など、長い話に、聞いている人が飽きてきたときを見計らって、あげあしを取ります。場合によっては、「その話、長くなる?」と言って話を止めさせてしまうこともあります。ロンドンブーツ1号2号のあつしがこのタイミングの取り方を熟知したタレントと言えます。関西人は昔から、無意識のうちにこれらのツッコミを使い分けています。これらのテクニックを体で覚えているのです。一つの話術、学問として、これを身につけることは、人間関係の幅を大きくすることになると思います。理屈でいくら理解しても、実践がないと勘は鈍ります。上に挙げたものも組み合わせと、応用の仕方で、全く違う面白さを生むことがあります。私自身も、よくツッコミを間違え、面白いボケを何度もつぶしてしまいます。たかがツッコミですが、日々それを意識することで、人に対しての思いやりや、愛を学ぶことも出来るのです。人を面白く引き立てる、周りを面白く演出すると言う話術は、私にとって人生の大きな課題であると自覚し、日々勉強していきたいと思っています。
Feb 1, 2003
コメント(9)
全19件 (19件中 1-19件目)
1