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先週、中仙道の旅完歩しに行って来た。滋賀県の鳥居本宿から草津宿まで3日で43.2kmである。中仙道は江戸日本橋から、京都の三条大橋までであるが、最後の大津宿場と草津宿場は東海道と共有している。われら弥次喜多道中で5年前に東海道を京都まで完歩しているので、草津から先は歩いたことにして、中仙道今回にて完歩である。あとは新幹線で行って、三条大橋をちょこんと踏んで終わり。前回からドイツ旅行などしていて時間が経ってしまったが、近江鉄道の無人駅、鳥居本は印象深く覚えていた。そこから、琵琶湖、彦根城、石田三成の佐和山城、信長の安土城跡、近江商人の近江八幡など、戦国武将が駆け抜けた地や近江商人の夢の跡をはるか右手に見ながらひたすら平らな道をいくつかの宿場を通過しながら草津を目指した。ほんのちょっとだけコスモスにつられて回り道をしながら・・。中山道 posted by (C)灰色ウサギその道はかやぶき屋根の家がたくさん残っていた。中山道 posted by (C)灰色ウサギ中山道 鳥居本から posted by (C)灰色ウサギこんな粋な展示を庭先にして旅人を楽しませてくれる家もあり、中山道 posted by (C)灰色ウサギ近江商人の町だけあって、丸紅と伊藤忠商事を作った伊藤長兵衛さんと伊藤忠兵衛さん兄弟の屋敷があったり、第75代総理大臣の宇野宗助さんの家があったり、近隣も中仙道上もなかなか面白い。宇野家 posted by (C)灰色ウサギ一日目は鳥居本宿から、高宮宿、愛知川宿を通り、武佐宿まで。23.6km翌日近江八幡見学のため無理して歩く。二日目は武佐宿から10km歩いて途中の駅から近江八幡に戻って近江八幡を見学。三日目は前日終わったところから武佐宿を通って草津宿。9.6km中仙道は東海道と違って山の中を通る。碓氷峠、鳥居峠、和田峠、十三峠など常に熊ベルを持ち、熊や猪の痕跡に怯え、サルに威嚇されながら山の中を歩く旅であった。厳しい自然の洗礼を受け他雨の峠越え、南木曽の土砂崩れで中断し、御嶽山の噴煙を見ながらの旅でもあった。しかし、厳しい道のりであったからこそ、美しい自然や山懐に昔のまま残る保存された街並みを目にすることができ、美しい日本を体験しに来たたくさんの外国人にも出会った。遠くの目標を達成することが難しい年齢になって、宿場を一つずつ踏むような目の前の一つ一つの目標をクリアーしながらの旅は本当に楽しいものだった。草津駅では東海道の旅で草津駅でお会いしたブロ友のringoさんが再び待っていてくれた。懐かしい友との再会。琵琶湖を車で案内してくれ草津のクラブハリエでお茶を飲んで近況を語り合った。クラブハリエ イチジクのババロア posted by (C)灰色ウサギ
October 20, 2015
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タイトルには中山道ー彦根城と書いたが実は国宝彦根城は中山道上には無いのである。 そして今頃書いているがこの記事は3月の終わり桜が咲く頃の旅日記である。取り敢えず前の旅を終わらせておかないと、次には進めないような気がしたのだ。続きのある旅だから。 中山道ももう直ぐ終着である。東海道の時草津から京の三条大橋まで歩いたから、重複期間を抜けば、草津で終点ということになる。 話し戻して、2泊3日の旅の3日目、前回の日記の続き。 関ヶ原を越え、ほぼ平らな道をのどかに歩く。幾つかの宿場を通り抜ける。綺麗な清流に小さい魚がいっぱい泳いでいる小川を中心に保存された宿場もあれば、1、2軒の古い家が残るのみの寂れた宿場も有った。 琵琶湖、米原に近ずくとなんだかほっとして何時でも電車に乗れると安心したのだったが、中山道は鉄道からも琵琶湖からも離れ山際を高速道路に沿って曲がっていくのであった。 足が痛い。人気が無い。タクシーを呼べそうな店もバス停も無い。 道はなぜか高速道路を見下ろせる位置まで登っていく。嫌な予感。 難所は関ヶ原とお思いきや、思わぬところに落とし穴があった。摺針峠。 峠を越えると琵琶湖が見える。今回の終点鳥居本。 私鉄の小さな無人駅から見える山は佐和山。石田三成の城があったところである。その向こう琵琶湖畔には彦根城。井伊家の城である。 実は彦根城下にはその日の前日泊まって、お城見物をしてから電車で戻って中山道に復帰したのである。 彦根城は岐阜城ほどでは無いが、山のてっぺんにある。階段階段、石垣。物凄い石垣の量である。どこからこんなに持ってきたのか。余りにたくさんの石垣を必要としたので、足りなくなり、一部は佐和山から持って来たと書いてあった。 戦いに負けるのは辛いもの。 ブロ友のたけさん情報によれば佐和山城址に登る道は非常にわかりにくくなってしまっているそうだ。 そこもまた栄枯盛衰の強者どもの跡なのだろうか。 彦根城 posted by (C)灰色ウサギ なんとか今年中には完歩できるかな。
May 22, 2015
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4月になってからの我が家の来客数は50人、いっぺんに30人というのもあったけれど、1日あたり⒈7人。3日続きでの来客もあった。 流石に忙しくてブログも書けない。ブログ友さんのところにも遊びに行かれない。 ふと思い出したら、3月下旬の2泊3日の中山道の旅日記が大垣で止まっていた。実は琵琶湖の見えるところまで旅は続いたのである。 旅の2日目は大垣(赤坂宿)を出発して関ヶ原の先の醒ヶ井迄。旅をしていてうれしいのは、JRでも私鉄でも近くを電車の線路が通っていること。関ヶ原辺りは琵琶湖に抜けるため山間を川も中山道も電車も自動車道路も高速道路も新幹線までもが互いに寄り添ったり立体交差したり常に近くに有る。流石に新幹線には飛び乗れないが、疲れたらどこででも電車に乗ればいいので、その安心感はありがたい。 関ヶ原を通過する間、徳川方の陣地だとか戦場跡だとか、机上の歴史ではなく自分の足で測る各陣地の距離は、歴史授業で習ったことがより身近に感じて面白い。様子見のコウモリ武将がやっぱり一歩引いて陣を張っていたり、大将の徳川家康と石田が意外と近かったりして興味深かった。 この地はまた壬申の乱の戦場でもある。歴史はもっと遥かに遡る。途中に大きな大きな前方後円墳もあった。都は近い。 image posted by (C)灰色ウサギ
April 24, 2015
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この頃の中山道の旅、ついでにお城見物もしようという欲張りな旅になりつつある。その上春である。いっそのこといつもでは見られない遠くの桜とお城のコラボを見る良いチャンスとばかり、桜の咲くであろう時期にホテルの予約を設定した。しかし、それは見事に外れたのである。関東で桜が満開になりつつある頃、岐阜市から琵琶湖に向かう地域は桜前線は1週間も遅いのだった。道理で簡単にホテルが予約できた訳だ。今回の旅は2泊3日。加納宿(岐阜市)から関ヶ原を抜けて、あわよくば滋賀県琵琶湖の彦根あたりまで行かれればと思って出発したのである。1日目、前回終わった加納宿から歩き始めた。前回過ぎた木曽川、長良川、次にやってくる根尾川、揖斐川と大きな川がいくつも有る地帯なので、標高は低く、それら大河に流れ込む小さな川が無数にあって、大垣市に入ると水都という表示の通り、池や小川、泉がきれいな地域だった。どんなに小さい小川でも両側に桜の木がぎっしり植えられ、桜の園を形成しているのだった。悲しいかな 桜はほとんど2分か3分咲き。「満開だったらもっときれいだったのにね」と何回言ったことだろう。中山道根尾川 posted by (C)灰色ウサギ中山道揖斐川近く posted by (C)灰色ウサギその辺りの中山道は水都を歩くだけ有って、起伏のほとんどない平らな道なので小雨が降ってはいたが歩き易かった。揖斐川を越えて2時間ほど歩くと東赤坂の小さな小さな無人駅に着いた。今日はここで終了。実はその樽見鉄道を50分ほど北に行くと日本3大桜の根津の薄墨桜に行かれるのである。もちろん計画立てる時は旅の途中に立ち寄るはずだったが、インターネットぎりぎりまで検索しても結局、蕾状態から変わらないのだった。仕方がないので最後の望みを託して赤坂宿(大垣)に到着してホテルにチェックインしてから、ライトアップしている大垣城を見学に行ったのである。大垣城にはソメイヨシノの桜祭りはまだであったが、城の前には美しいしだれ桜が3本ほど咲いていて、緑色にライトアップしたお城を飾っていた。IMG_4144 posted by (C)灰色ウサギその日の中山道、歩いた距離はだいたい18Km。いつものようにお城から帰ったら安宿の割に、広くてセミダブルのベットがゆったり置いてある部屋で、バタンキュウと桜の夢も見ず爆睡したのであった。
April 6, 2015
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旅の二日目中山道、鵜沼宿を過ぎたところから復帰して歩いた。鵜沼宿から次の加納宿までは16.8Km有る。宿場から宿場がとても長いので、お城見物して如庵でゆっくりしたので出発が遅くなった不安が付きまとう。加納宿(岐阜)に宿が取ってあるのでなんとしても夕暮れまでには到着したい。道はあまり面白味のない、民家が多い地区を進む。平坦な道ではあるが、山の中と違って、緑がすくないのは旅人にとって寂しい。それに何より、岐阜に近づくに連れて、伊吹おろしの西風が冷たくて寒い。あまりの寒さに、途中の店で毛糸の帽子とネックウォーマーを買った。喜多さんも、スーパーやコンビニを見つけてはせっせとトイレに通う。コメダが有った!飛び込んで温かいココアとコーヒーを飲んだのである。岐阜市内に入ると、小刻みに曲がらされる例の曲がりの表示。ああ、やっと宿場に入った。岐阜には外れの方の金華山に織田信長の岐阜城が有るが、戦国の世が終わった江戸時代には岐阜の真ん中に加納城という平城を作ったそうで、宿場に入って少し進むとその大手門跡が有った。時刻はそろそろ4時、日暮れ前には目的地に着いたけれど、そのころにはもう宿場や本陣なんてどうでもいいぐらいに疲れていた。早くホテルに行こうという夫。その途中、栗きんとんの店を見つけたウサギ。「ああ、そうだ、岐阜には以前手土産ベスト1になったことが有る弁天堂の栗粉餅が有るじゃない。買ってからホテルに行こう。」しかーし、弁天堂も遠かった。中山道からも駅からもホテルからも離れていくのだった・・。それでも執念で足を引きずりながら、その小さな弁天堂の店を探し出し、無事栗粉餅を買いましたとさ。ホテルに着くころにはすっかり暗くなった空から白いものがふわふわと、とーっても嫌な予感。部屋のテレビが、今夜は猛吹雪だと言っていた。どうせ明日は雪だから歩けないとぐっすり眠りについた翌朝、窓から見える景色は案の定、真っ白白の雪景色。どこもかしこも雪景色。これから向かう先の中山道は新幹線がいつも雪で止まる関ヶ原に近づく道。弥次さん、喜多さんは暗黙の了解で、出勤する人々が雪の中をつるつる滑りながら歩いて行く外をホテルのレストランから眺めながら、ゆっくり朝ごはんを食べていたのであった。今日はもう歩かない。歩けない。
January 9, 2015
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中山道の旅はまだまだ終わらない。でも犬山の近くを中山道がかすめた以上、川向こうとはいえ寄り道しないわけにはいかない。倉敷方面への旅以来、どういう訳かお城が付いて離れなくなったのである。中山道と城、二兎を追いながらの旅である。ましてや犬山城は日本に4つしかない国宝の1つ。山の家が有る県にある国宝松本城はもう何べんも外国人を案内して行った。先日姫路城を見た以上、ここは制覇しなければ。実際、昔犬山城は来たことが有るのであるが、すべて忘れてしまったからやり直し。ホテルの朝風呂に入り、動けなくなるぐらい朝ごはんを食べ、部屋に荷物を置いたまま、早朝の犬山城に登った。 城に登城とはよく言ったもので、大概山を登ってお城に行く、本丸はともかく天守にはまた狭い階段を登る。姫路城の入り口ではそのあまりの広大さに「殿、火急のお知らせがと城門を入ってから殿のいる天守まで何分かかるか」と夫と話していたのだが、さて犬山城ではその狭さと急さの為、「火急の御知らせ」のためには何べん階段で足を滑らせ、何べん梁に頭をぶつけるだろうかと話し合った。松本城が好きな理由、遥昔の姿のままの急階段。犬山城も好きになった理由。大勢の人が上り下りしてつるつるぴかぴかになった歴史のあるこの階段。天守からはすぐ足もとに木曽川が見えた。ここも天然の要塞になっていた。このお城のすごいところは最近まで城主がいたこと。その城主の血統が初期の頃よりこの地で脈々とこの城を守ってきたこと。長い長い江戸幕府、転封もされず、お家断絶もなく。さて、此の先中山道の旅を続けて行くと、4つ目の国宝の城がルート上にある。二兎を追う旅人にとって願ってもない旅は続く。
January 6, 2015
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倉敷旅行から帰って、ほとんど1週間ぐらいしか間をおかず、今年最後の中山道の旅に行って来た。これだけ旅が続くと、きちっとした時間配分を事前にしておかないと山の中で日が暮れたり、予約のホテルまで辿り着か無い心配のある中山道の旅でさえ、地図だけ掴んで家を出ることになる。今回は3泊2日、前回の木曽路を出て、美濃路を歩く旅。伏見宿(可児町)から赤坂宿(大垣)の近くまで歩く予定で新幹線に乗った。名古屋駅で新幹線から名鉄犬山線で犬山経由、日本ライン今渡駅で降りた。天気予報の通り、雨。完璧な雨。喜多さんも弥次さんも雨具装備の中山道。しかし雨はやっぱり辛いなあ。歩き始めてすぐ、木曽川を渡る。木曽川の土手を中山道は歩く。中山道が木曽川の土手から離れると、太田宿。脇本陣後の旅籠、資料館なども整備されていた。資料館は地域ふれあい館のようになっていて野菜の直売所にもなっている、次から次と自家製野菜を持ちこむお年寄りが車で集まり、そのまま併設のカフェでおしゃべりしながらモーニング。木曽川向かいの愛知のカフェのモーニングは有名だが、ここでもモーニングは人気らしい。気が付けば歩いてくる道にもやたらレストランではなくカフェが多い。太田宿を出ると、木曽川の土手上に道が無く仕方なくトラックがびゅんびゅん通る国道を歩いた。雨具が有るから雨は良いとしても、車が歩道まで水しぶきを飛ばして走り去るのには閉口した。ウサギは地図の読める女なのである。しかし、なんとしたことか、いくら地図とにらめっこしながら、道路際を探しても、地図にあるはずの国道から反れて山の中に入る中山道の道しるべも、入り口らしきものも見つけられないのであった。探しながら先へ先へと歩くと、それらしき脇道を見つけた。しかし、それは中山道ではなく、本来の中山道に入る地点をとっくに過ぎていたのである。ウサギは太陽が無い時の方向には弱いのである。東海道でも、中山道でも道に迷う時はいつも方向を示す太陽が無い。結局、後戻りを絶対しない喜多さん(夫)がいるので、本来の中山道を反れているのは解っちゃいるが、IphoneのGPSにお世話になりながら、本来の道の行く手に合流する落としどころを探りながら歩いたのであった。本来の道に復帰するのに30分掛かった。合流地点の少し手前で、運よく昼食時、江戸時代から続く本物の弥次、喜多さんも食べたという鰻屋、うな神を見つけたのである。喜多さん(夫)、鰻は大好きだけど、ひつまぶしはあまり好きじゃないんだそうだが、その店はおいしかったそうだ。そうでしょ2,700円もするんだから。ぶうたら言ったら罰が当たる。そしてまた中山道。鵜沼宿を通り越し、トラックに水を撥ねられながら雨の中歩いた。その日は4時少し前、名電各務原駅でリタイヤ。実は宿は川向こうの愛知県犬山に取ったので、あまり遠く離れすぎない方が良いと、その日の歩きはそこでやめ電車で宿に向かった。ホテルは、名鉄犬山ホテル。夫には中山道の旅はビジネスホテルで十分だからといつも言っているのに、自分の泊まりたい理由が有ると勝手にグレードを上げるウサギなのである。なぜ名鉄犬山ホテルか。実はその敷地内に国宝の茶室如庵を持った有楽苑が有るのだ。如庵の割引券ももらえる。国宝犬山城のほぼ真下というロケーションも翌日も中山道続ける我らには時間の節約になるのだった。シティホテルもいいけれど、九州の旅行以来、昔ながらの観光ホテルもなかなかいいということがわかって来た。部屋もリゾートなので広いし、駅にはお迎えバスが待機しているし、昔からの日本的サービスがあって小奇麗。レストランもゆったりロビーも売店も、荷物を運んでくれるスタッフもドアガールもいる。そして何より浴衣で行かれる大浴場の温泉!
December 28, 2014
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先日、関西や九州、東京方面への転勤を繰り返す甥の東京方面に来た時は何時だけと考え込む事が有った。長い時間軸の繋がりの中で、順序が思い出せないことが有る。歳の所為かなあ。というわけで、時間軸の中に忘れて埋もれてしまわないように、先日、山の家から行った中山道を記して置く。山の家を朝、4時半に出て中央道をひた走ること3時間半、中津川駅前駐車場に車を置いて、電車に乗った。ここまで書くとちょっと前に同じ記述で始まる日記が有るから、デジャブに陥るが、あの時のコースは野尻から妻籠。今回は妻籠から馬籠宿を通過して中津川までのコースである。南木曽駅からのタクシーを妻籠宿の一番はずれで降りる。そして中山道に復帰してから山越えルートを今日のコースにと歩き始めた。「Youは何しに日本へ」のTV でやっているように、この区間の中山道を歩く外国人が一番多い区間である。歩き始めてすぐ、朝まだ早い靄の中の川沿いの朝露降りた草道を最初の外国人4人組とすれ違った。彼らが来た方は山の中の「間の宿」のような大妻籠の民宿群しかないので、たぶんそんなところに泊まったのだろう。「おはようございます」「konnichiwa」日本語で挨拶して互いにすり抜ける。山の中は時々石畳の道、へいこら言いながら400mの標高差を登る。朝早かったせいか、中山道一番のハイライトにしては外国人以外なかなか旅人とすれ違わない。あるいは御嶽山の風評被害だろうか。木曽だからなあ。例によってところどころで備えつけの大きな熊ベルを鳴らしながら歩いていくと山の中に一軒の茶店が有った。無料休憩所のようだ。中に入ると主人のほかに2人の夫婦がいた。「こんにちは」私が挨拶すると夫が「ハロー」と言った。「え、外国人?」改めて振り返ると年配の外国人が茶店のご主人にもてなされたお茶を飲んでいた。「こんにちは、どこから来ましたか」「オランダから」そしてお茶を飲みながらお喋りと互いの今来た道、行く手の情報交換。それはずっと中仙道を歩いて来て、今まで何人もの旅人としたのと変わらない。会話が英語だというだけの事だ。「熊ベルが有ったけどそちらは熊に会った?」なんて冗談で聞かれ。「熊には会わなかったけど会いたい?」と冗談で答える旅人同士の会話。「この茶店はお金を払うの?チップはいる?」と聞かれ。「ここは無料、チップもいらない」と英語を話さない茶店のご主人に代わって答える。3週間の日本旅行、軽井沢や松本城、能登にも行くんだって。このコースはどこで知ったのと聞くと、ガイドブックに古い日本と自然を体験できるコースだと書いてあるそうだ。この頃は京都・奈良だけでなく、こんな体験コースも人気らしい。わが身に置き換えればイギリスのコツウォルズやウェンチェルシーまでのハイキング楽しかったものね。「ここでおしゃべり出来て楽しかった」と言われ。「私たちも、この先の3週間の日本旅行楽しんでね」と言って別れた。わたし達は彼らがやってきた馬籠に向かって。彼らは私たちが今登って来た道を下りながら妻籠へ。馬籠に近づくとだんだん行き交う旅人が増えて来た。唐辛子や芋ずる、豆などが干してある農家の庭先にシュッシュと煙の出る煙突と吹かし釜。その横の笊には、「ふかしイモ100円」夫がちゃりんと瓶に100円玉を入れて、おいもを笊から取って2つに割って私にくれた。たどり着いた馬籠は坂の宿場。土産物屋や民芸品屋、馬籠の本陣の出である島崎藤村記念館など覗いたり、こんなものを食べたりしながら、どんどんどんと坂の街並みを下る。名物はすべて食さないと損な気持ち。中津川川上屋の栗きんとんの支店で一休み。トントンと一気に麓まで降りて、平らになった田んぼの道を進むと、「これより美濃路」と書かれた木曽路と美濃路の国境の標識が有った。長かった信濃路ともお別れ、ついに美濃に突入。冬に入ろうとしている。伊吹おろしは寒かろう。中山道の旅、春までお預けかなあ?
October 27, 2014
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中山道続きの旅、今回は中央線木曽路の野尻から出発である。東海道新幹線を使って名古屋廻りで行くか迷う所であるが、ちょうど山の家に滞在していたので朝4時半に起きて中央高速を走って南木曽駅に車を置いて電車で2区間戻る方法を選んだ。辺りの風景はすっかり秋の様相を見せて、真っ青な空にピンクのコスモス、田んぼは黄金色に輝いていた。巨岩が重なり前回訪れた寝覚ノ床のような景勝を見せる木曽川の清流に添ったり、山間の里を曲がりくねった道に入ったり、木曽ヒノキの薄暗い森の中を通り抜けたり、そのあたりの中山道はいろいろ変化に富んでいる。島崎藤村が書いているように木曽路は山の中なのである。中央線の線路も19号線の道路も中山道も木曽川も本当に狭い谷合を互いに編むようにして下って行く。里を通ると田の畔に、神社の境内に、曼珠沙華が群れて咲いていて、東海道の旅や中山道の旅で季節が巡って来る度に思い出す釈超空の句。山際にたわわに実った栗の木からこぼれ落ちたいがぐりの中にはまだ大きな栗が入っていた。中山道を歩き始めてからずっと、中津川に近づいたら名物の栗の茶巾絞りを食べようと狙っていたが、季節はドンぴしゃ栗の季節にここを通過することになった。南木曽の先の妻籠宿に着くのが待ちどおしく、ついつい歩みも速くなった。前回歩いた後、集中豪雨の土砂崩れで被害が有った梨沢川を通る。復旧したばかりの橋が架かっていた。あたりにはまだ流れてきた流木が残っていた。車の置いてある南木曽駅で妻籠まで空腹を我慢できない夫のためにお昼を食べた。その日の最終目的地、妻籠までは4キロぐらいしかない。妻籠でたっぷり遊べる。竹藪を抜け、田んぼをくるりと回ると、妻籠宿。途端に、がやがやと騒がしく中仙道を歩いていた時は何人かの外国人と日本人にしか会わない田舎道だったが、宿場の中は観光客でごった返していた。入り口の鯉岩、水車小屋、高札場を抜けると土産物を売る店や、茶店を覗く人達で狭い道路は溢れていた。妻籠宿、馬籠宿は中山道の中でも一番のハイライトである。住人達は互いに、「家を貸さない」「家を売らない」「家を壊さない」という約束を守っているので、江戸時代の宿場そのものの雰囲気が味わえる。しかし、最初は大きい宿場だと思ったそこも3回目ともなるとどこに何が有るか分かってしまってちょっと興味が薄れた。エミリーのたっての願いで来たし、プイさんとも来たなあ。そんなことを考えながら、中津川の名物茶巾絞りを売っている茶店に入って栗を食べ抹茶を飲んだ。もちろん、その日の最終目的地であるから、道中の荷の重さを考えなくてもよい。茶巾絞りと栗蒸し羊羹も買い込んでタクシーで駅まで引き返したのである。1時間かかった南木曽妻籠間の道のりはタクシーで15分であった。山の家に帰り着くと、長野のテレビ地震速報が震度一の地震が木曽町であったと伝えていた。そして、木曽路のところどころで歩きながら眺めていた御嶽山が噴火したというニュースを聞く。木曽の人々は、信仰の山、御嶽を「御嶽さん」と崇め、谷の反対側の木曽駒が岳を「木曽殿」と親しみを込めて敬う。御嶽山の噴火で亡くなった方々のご冥福をお祈りします。
September 29, 2014
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前回の記事からずいぶん経ってしまったが、前回の記事と同じ日のことである。雨の中、熊にも会わず、然してずぶ濡れにもならず藪原宿に着いた。無情にも出て行ってしまった電車を見送り、食堂かレストランを探すもそんなものはどこにもなく、駅からすぐ畑と山間を縫う自動車道路が有るばかり。おばさんが1人待合室にいる村の公民館で雨宿りしながら、喜多さんと作戦会議を開く。スマホで次の宮ノ越駅から塩尻に戻る特急が出る木曽福島宿までの普通電車の時間と木曽福島発の特急の時間を調べる。そしていつも参考にしている地図と今回奈良井宿でもらった木曽路用の中山道地図で、今いる所から次の駅の宮ノ越駅までの距離を見積もった。地図ナンバー68の藪原から、次の地図の宮ノ越までせいぜい6キロ。1時間半あれば楽勝で行かれる。そんなこんなを話している脇で、集まりが有ると皆を待っていたお婆さん、だれも来ないのでどこかに公衆電話で電話を掛けていた。そして、集合時間を1時間間違えていたらしい。公民館を出て行った。「お婆さんだからねえ、間違えちゃたんだねえ。だいじょうぶかねえ」そういう私に夫が答えた。「あのお婆さん雨の中、なんで帰って行ったと思う?自分で軽トラック運転して帰って行ったよ」交通の便が悪い木曽路、強くなきゃ生きられない。そして、公民館を出て弥次喜多珍道中再開。そこからはほとんど車のびゅんびゅん行き交う国道の脇の歩道を歩く。歩道には柵が有るといっても、ひっきりなしに通るトラックからの風圧はすごい。傘を持つ手がしびれた。そしてついに、車道の水たまりを通過したトラックが、それまで運よく濡れなかった私のパンツにバシャンと水をかけたのである。レインコートから出ている下半分ずぶ濡れ。山間の狭い空間、国道と川と鉄道が橋やトンネルや洞門や鉄橋で何度も交差する。しかし、歩いても、トンネルを抜けても、歩いても、橋を渡っても、なかなか宮ノ越駅には着かないのであった。私より年を取っている喜多さんが遅れ始める。また電車が行ってしまったらどうしようと弥次さんは焦る。後、20分で電車が来る。宮ノ越の村に入る手前で、中山道は木曽義仲の資料館の方向に、川を渡り国道から離れる。そして、そこに表示が有った。中山道、宮ノ越駅まで1.8キロ。「まだ1.8キロも有るじゃない。絶対無理だよ」喜多さん叫ぶ。そうだ絶対無理だ。しかし、ここで諦めたら、普通電車には乗れないのである。そして、木曽福島からの特急にも間に合わないのである。そして、変更の利かない35%割引の塩尻から新宿行のあずさの切符も、パアになるのである。負の連鎖。私はほとんど競歩状態で進む。川向こうの中山道は、観光で来た時、歩いたことが有る。2度歩く必要はない。なんて、無理矢理自分を納得させて線路のすぐ脇の中山道ではない道を歩いた。いや競歩した。後、10分。夫がこの速さに付いて来られるか心配しながらほぼ走り状態に突入。街並みに入った。道路から駅に曲がる道から駅まで50mの登り坂。後5分。心臓が早鐘を打つ。何で駅はいつも高いところにあるのかとぶつぶつ言う。幸い駅員がいない。改札も自動切符売り場も無い。後は上り線に渡る線路橋の階段を登って、階段を降りるだけ。後3分。下りの階段はもう足ががくがく、心臓がバクバク。そしてホームに降り立った時は残り時間2分。自分でドアを開ける普通電車がゆっくりと入って来た。座席に座るのもはばかられる濡れ鼠で、レインコートを脱ぎ、リュックを降ろす。そして、傘と一緒に握りしめ歩きながら見たよれよれになった地図を仕舞おうと確認したら、何と68番の次が70番になっているのであった。私が印刷し忘れたのである。しばらく放心状態。そこに無い抜かしてしまった69番の地図の距離はたぶん4km。地図は無くても歩いた距離は見積もりプラス4km。「そんなことだろうと思ったよ。弥次さんの言う通りなら、僕の計算でちゃんと着くはずだからな」喜多さん、呆れ顔でずぶ濡れの靴下を脱いで、昨夜履き替えた洗濯してないけど、乾いている靴下をリュックから出してまた履いていた。
November 1, 2013
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松茸たらふく食べ、奈良井宿の宿に泊まって、ぐっすり寝て起きると、ざあざあと雨の音が聞こえた。天気予報も80%の雨予報。朝食の席で、朝から松茸の味噌汁とご飯を食べながら、同宿になった自転車で中山道をやっている男性と、今日の峠越えは無理ですねえと話していると、ひとり旅の女性が、昨日、雨の降る前に鳥居峠に行って来たという。「きれいでしたよ。ぜひ行ってもらいたいですが、この雨じゃあね」喜多さん、弥次さん、朝の作戦会議でも端から雨の中、1,190mの峠越えなどする気がさらさら無いので、その日は、昔カフェ、塗り物や、お土産やなど1日いても飽きないだろう奈良井宿で、予約変更できない塩尻発の帰りの電車まで過ごすことにした。宿に荷物を預け、店や、幾つかある資料館、古い町並みを楽しんでいた。11時頃になると、雲が切れて霧がどんどん空に上がって行く。駐車場で降りた30人ぐらいの山登り装備のシニアの団体が街並みを通り抜け鳥居峠に向かって歩いて行った。弥次さん、喜多さん、顔を見合わせる。頭に電球がぴかっと灯り、閃いた。「行けるかも」「行けるよね」宿にとって返すと、奥さんがコーヒーを淹れてくれながら、「きれいですから是非行ってください」と唆す。旅支度を整え、峠に向かって歩き出すと、同宿だったひとり旅の女性に街の中でまた逢った。「絶対行くべきですよ」と唆す。途中のお団子やさんのベンチで、お昼のつもりで五平餅を食べて、さて、鳥居峠に向かったのであった。奈良井はどこかデジャブの有る街と思っていたら、東海道の鈴鹿峠を背負った関宿とよく似ている。関宿に着いた日も土砂降りだったなあと思いながら、峠を登り始めた。紅葉にはまだ早いが、霧立ち昇る風景の中、ところどころ黄色に葉が変わって美しい。踏みしめ登る急な山道は、雨の後でもフカフカの落ち葉が雨を吸収して歩きやすい。ところどころにどさりと熊の喜びそうな団栗がまとまって落ちていた。そこを通ると、団栗が靴の下で弾けて、バリバリという。昨日登ったという同宿の女性が「意外と簡単でした」と言う割には険しい山道だ。そうこうして、峠まで100mという所で雨が降り出した。お休み小屋のところで先行の団体に追いついた。ところが雨脚はだんだん激しくなる一方だ。後悔先に立たず。後戻りは出来ない。今来た奈良井に下るより、もはや先の藪原に下った方が早いのであった。2人とも傘は持っている。私はレインコートをリュックに忍ばせて来た。しかし喜多さん(夫)は何もないから、これまた私が常備している非常用寒さ除けの銀色のフィルムをリュックに被せてあげた。さながら銀色のスーパーマン。木々の中、意外と雨は下までは落ちてこないもので、そんなに濡れない。途中、幾つかある熊よけの鐘を鳴らしながら、人間こわがりの熊さんに私たちが通ることをお知らせして、ただひたすら下って行った。そして到着した藪原宿、藪原駅。ああ、無情にも2時間に1本ぐらいしかない普通電車が目の前で行ってしまったのであった。公民館で雨宿りしながら、今後の作戦会議をする2人には、その日、まだこの先いくつもの難関が待ち受けているのをはかり知ることが出来ないのだった。じゃんじゃん~!「熊も人間が怖いのです。鐘を鳴らして、人間がいることをおしらせしてあげましょう」だって。
October 25, 2013
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中山道、前回空白域の塩名田から長久保まで埋めたので、これで全線繋がって、前々回の終点、護衛が足が痛く塩尻宿目前にして無念のリタイアした地点まで、特急「スーパーあずさ」を降りてからタクシーで向かった。タクシーの運転手、リュックを背負って観光地でもなんでもない街道沿いのコンビニを行先に指定した我らを見て「中山道かね、天気もいいし、山もきれいでいいねえ」と言う。「熊は大丈夫でしょうかね」という私に「僕もハンターしてるけどね、今年は山に栗や団栗が多いから大丈夫だよ」と言う。ふーん、前回の瓜生峠で出たそうだけどね。その会話を聞いてた夫、あわてて自分のリュックをごそごそ。「今頃遅い!。熊ベルなら自宅秘書の私がちゃんと持ってきましたよ」塩尻宿はこれと言って何もない宿場。宿場を抜けると幾つかのワイナリーとブドウ畑を縫って歩く。信州ワインの桔梗が原を右手に見て方向を木曽の山間に取る。そこから善光寺西街道との追分のある先馬宿、本山宿、「これより木曽路」の碑があって、いよいよ山深い木曽路の旅に入る。山と山の間の谷を中央線と国道19号線、中山道、奈良井川が通っている。狭い谷の中なので何度も川を渡り、鉄道と交差し、国道と合流して歩く。歩く地図を見ると、まるでその4本がさながら紐を三つ編みに編むように絡まっているのだ。川は歩いて来た塩尻方面に流れて行く。次の贄川宿まで18.4km。実はこの区間宿は全くないのである。バスはそれぞれの地域の地域振興バスが1日4、5本。それぞれの町か、村の運営なので、村はずれで折り返してしまう。電車は木曽路を走る中央線。もちろん小さい駅は特急は止まらない。ずっと先の木曽福島で止まった電車は次の停車駅塩尻まで止まらない。ようは特急は駄目なのである。各駅は2時間に1本ぐらいの間隔だから、歩いていてその時間に最寄りの駅に到着していなければアウトである。したがってその日の目標は何が何でも観光地で、宿のある奈良井宿まで行かなければならないのである。念のため、保険を掛けるつもりでそれぞれの区間の地域振興バスとそれぞれの駅の普通電車の時刻をプリントアウトしてきた。良くできた秘書である。それ以前に奈良井まで歩き通すという設定が無理があるという事も有るのだが・・・。贄川宿を通過するといよいよ谷は狭まり、奈良井の先の鳥居峠に向かって少しずつ少しずつ道は登って行く。谷が狭いほど陽が早く山に隠れ、3時半には太陽が山肌に隠れた。日没は近い。贄川から奈良井まで7.3km気持ちは焦るから自然と速足になる。奈良井は以前アメリカ人のプイさんと来た他に2回ほど車で来ている。谷が少し広くなった場所で奈良井の街並みに向かって橋を渡った。見知った風景がほっとさせる。歴史街並み保存地区になっていて、街並みも昔のように再現されているから、ああ、宿場に入ったという江戸時代の旅人が味わった安堵感を味わうことが出来る。http://www.naraijuku.com/narai/index.html25.7km歩いて来て、足は痛いが、夕暮れになって、宿泊客以外の観光客が潮の引くように去った街の入り口に立つと、一般車が入れない路に並んだ軒の低い黒い建物群のところどころに柔らかい黄色い灯りが灯って疲れも吹っ飛び気持ちが高揚した。そこかしこで店じまいをする、塗りものやさん、蔦の絡まる黒い木戸を持ったカフェ、お土産物屋さん、民藝店、木曽ヒノキのお箸やさん。その合間に有る水場にも灯がともる。思わず、まだ開いていた1軒のお焼き屋さんの前で匂いにつられて二人で胡桃お焼きを買ってほうばった。宿場の中に何軒かある宿はすべて昔風の建物で、街並みに紛れ込んでいる。私たちは予約が遅かったので、今日は民宿。でも外観は皆、街並みに溶け込んでいるから、民宿も旅館も外からはそう変わりないのである。ガラガラと前かがみにくぐり戸を開けると、宿の黒い吹き抜けと、昔、税金逃れのために間口を狭くして、奥行きを深くしたうなぎの寝床のような通路が目に飛び込んできた。1泊お世話になります。旅人は草鞋を脱いで(靴?)荷物を解くのであった。夕食は3,000円追加して、今年最後だという松茸づくし!すっかり民宿慣れした我らであった。
October 22, 2013
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又ほったらかしてしまった私の分身のブログ。いやボケてしまった老後のためにこんな人生を生きていたという思い出しの為の忘備録。だから物はすぐ書かなきゃだめなのに・・・。自戒。忙しかったのよと言えば簡単だけど、わたしよりずっとずっと忙しくてもブログをきちんと書いている人はいっぱいいる。一体何が忙しかったのか?アメリカ人のカイルが長い日本生活を切り上げてアメリカに帰るといい、中国で仕事をしていたはずのイアンがなぜか3人目の子供がオーストラリアで生まれたと、写真を送って来、(また名前はOから始まるのかい)サンディーがハワイに去った。ベトナムにいるはずのスーさんからなぜか日本消印の小包の中にベトナム茶が入って送られてきた。単身赴任中の娘がロンドンから一時帰国して(我が家にではない、それでは困るのだ。連れ合いの元にでなければ)ツイッターで「さよなら日本また会う日まで」なんてくすぐったい言葉を空港から残してロンドンに帰って行った。それらはおいおいブログで書くとして、私はと言うと母の三回忌に長野の善光寺に行った。ついでにその帰り妹夫婦と雲上の温泉、高峰高原ホテルでまったりし、翌日から2日かけて佐久平の中山道を歩いた。ところでタイトルの「繋いだ」のは何か。中山道と中山道を繋いだのである。最難関の和田峠を一番条件の良い時期でやってしまったので、残して置いた佐久平の塩名田から八幡、望月、芦田、長久保間を歩いて埋めたのであった。宿場の入り口と出口には木の箱が有って、中を開けるとその宿場内の見どころ地図が入っている。佐久平は米どころ、黄金に輝く一面の道を歩き道祖神に会う。そして次第に小さな宿場宿場を繋ぎながら丘から森へ、峠越え。アケビが垂れ下がる。伸び上って採る。熊もこうするのかな。まゆみが真っ赤な実をはじかせている。引っ張って先端を観察する。「うん?へ? ぎゃあー」先端にはまだできたばかりの青白いあしなが蜂の巣が・・・。秋の瓜生坂坂を超えると望月の宿街の放送が流れてきた、「本日望月トンネル付近で熊の目撃情報が有りました」望月トンネルってどこ?へ!瓜生坂は望月トンネルの上を通っている。あっけなく越えた笠取り峠熊が怖くて足早に歩いた木立の中の道長久保宿に着いたら2時間もない上田行のバスと、レストランも食堂もカフェもない村。いろいろあったけどとにかく繋いだ中山道、次回からは塩尻に戻って木曽路からです。
September 27, 2013
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前回の中山道、諏訪の温泉に泊まってまったりしてしまって、予定してあった先に進むのはやめようかと気持ちが萎えてしまったことは書いた。ついでに記録も日記に書く気が萎えてしまっていたが、書かなきゃ次の旅に出発出来ないので、遅ればせながら書いておく。諏訪の温泉でゆっくり起き、14階の諏訪湖の見える展望風呂と別棟の露天風呂を梯子して、ゆっくり朝食を食べ、そしてはたと気が付いた。中山道その日もその先まで歩くつもりだったので、帰りの切符は、中央線塩尻駅からの「あずさ」を予約してあったのだ。変更出来ない切符で!仕方ないので、のろのろと11時頃、上諏訪から湖畔バスに乗って、下諏訪駅まで行き、前日の中山道上に立つ。そして旅を繋いだのであった。前泊の宿のみわで、5街道を完歩した旅人に、今までどこが一番きつかったかと聞いたら、うーん塩尻峠もすごくきつかったですねと言うじゃないか。和田峠越えたのに、まだきついところが有るの?しかしそこを越えなければ塩尻駅には着かない。遅い出発だから、うまく越えられなければ、電車は出てしまうであろう。明らかに戦意を喪失している夫を、鰻と言えば下諏訪、岡谷と言うぐらい有名な場所なので、お昼の鰻で釣る。うまいぐあいに中山道沿いに1軒ある。ちょっとだけ歩いて、鰻を食べて、さあ、目の前の塩尻峠・・・・。いやあ、きついきつい。昨日の和田峠の上りよりきつい。なんで?標高も登る標高差も、峠区間の距離も少ないのに、喘いでも、喘いでも峠に着かない。わかった。角度が急で、山の上りにありがちなくねった道をしていないのである。協力エンジンの付いた車の通る設定のアスファルトの道なので、急角度でお尻を擦りそうな道を一気に峠に登るのである。階段だってそうでしょ。踊り場が有るくねり階段なら休み休み登れるけど、外国の教会の尖塔に有るようなひたすら登る螺旋階段や、有名なお寺にありがちな、ひたすら登る一直線の階段は、休みのタイミングが取りにくい、一定した休みのリズムが掴めない。あっという間に諏訪湖が遥眼下に見渡せる位置に登り、10歩登っては「ヘイヘイ」言って、擦れ落ちそうになりながら、前屈みにアキレス腱を伸ばしながら、ストレッチ状態で休憩を取る。写真を撮るどころではないので、峠の写真は無い。そうして息も絶え絶えに峠を登りきると、さっき登った分を下るのがもったいないくらい、緩やかにどんどんどんどんと塩尻に向かって下ったのであった。そしてその日の目標の塩尻の宿場たぶん20mぐらい手前になって、急に夫が言った。「脚が痛くなった。もう一歩も歩けない」見ればちょうどよくコンビニとタクシーの電話番号が書かれた公衆電話が・・・。宿場を目の前にして、中山道リタイア、タクシーで塩尻駅に向かったのであった。もう一軒その辺に鰻屋が有れば・・・・・・・・・。JR塩尻の駅のホーム、ちょっとすてきでした。桔梗が原と言われるそのあたり、有名なメルロー種のワインの産地ですから、ホームの屋根もぶどう棚。お酒があまり飲めない夫、次の旅は葡萄酒で釣れないなあ。
August 25, 2013
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さて、和田峠に一番近い地点から皆に大きく水をあけてハンディを貰って出発したわたし達。和田峠登り口歩道に入っていきなり度肝を抜かれる。「6月○日、この辺りで熊が目撃されました。登山する人はラジオなど音の出るものを付けるなどして十分気を付けてください」という立札を見たからだ。夫が大げさにビビる。ラジオなど持っていない。スマホにはラジオ放送のアプリが入っているが、いかんせんとっくに電波が届かなくなっている。仕方がない音痴の歌でも歌おう。山道は下草が刈ってあって広いし、歩きやすい。でも、どこかに熊がいる気がして落ち着かない。歩き始めはいつもエンジンがかからない夫、しょっぱなからの上りの連続で歌どころか、話もしない。仕方がないので、リュックに結わえていた熊ベルならぬ「アメリカ自由の鐘」のミニチュアを盛大に振りながら歩いた。和田峠までは距離的にはそれほどでもないけれど、標高差が私たちのところで600mだからかなりきつい。8時頃登り始めて、10頃には最高地点に到着した。今まで登って来た上田平、長門地区とは反対の諏訪や岡谷が見下ろせる。富士山は見えなかったけれど、南アルプス、中央アルプスが見渡せた。ここで美ヶ原の方に登ると思われる人1人に会う。まだ宿にいた旅仲間の誰にも追い抜かれていない。休憩。お昼にはまだまだだけど、せっかくの眺望。ここにも熊目撃情報。熊は怖いけど、座ってお握りが食べたい雰囲気。宿で作ってもらったお握りの内1つを食べてしまう。そして下諏訪に向かって長い長い下り。いやあ、下りだからとなどってはいけない。碓氷峠のくだりもずるずると滑って谷底に落ちそうで怖かったが、それ以上の角度と砂利道、急角度で滑り降りる細い道。膝のお皿が笑うと良く言うけれど、顔は引きつっていたと思う。熊も怖いけど下り坂も怖い。ハアハア言っても登りの方が良いよう~。碓氷峠では手を差し伸べてくれた夫、今は自分の身を守ることで精いっぱい。唯の街道歩きがなんでこんな危険なの?2kmほど下り、西餅家跡近くで反対側から登って来る旅人に会った。きっと朝早くに下諏訪を出てきたのだろう。登りなのに早い。こちらルートの方が登りの距離は長いが、下りの膝への負担は少ないかもしれない。ここにも熊目撃の立札。その直後に自転車を押しながら登って来た人に会った。無理無理、あの川に落ちそうな滑るがけ崩れの場所は自転車押しては通れないだろうなあ。そして少しの間車道を歩く箇所に出た。車道の横の崖の上で痛くなった足をさすって休憩していると、来た方角から旅人がやって来た。直ぐ後から出発した旅人と思いきや、昨日の地図の2番目の和田の宿場から出発した旅人だ。挨拶をする。ここで彼に会ったということは3番目の旅人をも彼は追い越しているということか。そこからはただひたすら下る下る下る、長い下り道。諏訪の少し手前、下諏訪、春宮近くまで来た時、諏訪湖が見えた。日暮れ前に着いた。1人にしか追い抜かれなかったね。春宮に参拝、終点の秋宮に行く前に、シルバーのお婆さんやお爺さんが接待する、歴史ある家屋を保存した無料休憩所で麦茶を貰って休憩。お婆さんの信州なまり(本当は信州はそれほど強いなまりが無く、イントネーションの位置が標準語と違うのだが)が懐かしく、あまりに心地が良いので、おばあさんのついでくれる麦茶を3杯も飲んで、漬物を食べて、30分も油を売ってしまった。そこを出て中山道と甲州街道の合流点でペットボトルの水を買っていると、あれ? 道路の向かいの日帰り温泉の入り口で寛いでいる人を発見。私たちの出発点に一番近いところから出発した3番目の旅人だった。「いつ着かれました?」「40分ぐらい前、温泉に入って出たところです」なるほど、春宮参拝中か無料休憩所でか、それ以前のお握り食べて休憩中に抜かれていたのである。5街道完歩おめでとう。私たちは3等賞。箱根で言えばシード権落ちかな。最後の旅人は、宿場距離で言えばみんなの2倍歩かなければならない。そして登り道もかなりある、はたして夜までに下諏訪に着くだろうか。下諏訪では歴史ある古い旅館をインターネットで予約した。そうしたら夫が、「せっかく諏訪温泉地なんだからもっといいホテルに泊まろうよ」と言って、キャンセル。わざわざ電車で一駅戻って、下諏訪より大きな上諏訪の温泉地で宿泊。夫が会社からアナログで取った「紅や」の特別室。昨日の民宿との格差があまりにも大きすぎる。「あああ、極楽。明日もう歩くのやめようかな。温泉に浸かってゆったりしていようよ」やっぱり、そう言うと思った。私も、そうでもいいかなと思い始めていたのであった。
August 13, 2013
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前日の作戦会議(いや、夕食時の情報交換)の時、他の旅人に私は聞いてみた。日本橋から京都までの今までの区間で、日程の都合上戻る方向に歩いたことはあるかと。皆それは旅の再現と言う主義に反するのだと言った。私もそう思う。だけど、もし日暮れで到着したところにバスが無ければ、「反対歩いたら?同じコースじゃん」と言う、中山道スポーツと心得る夫の弁である。君はあくまで護衛じゃから、奥方様に従うべし。さて、「箱根マラソンのごとく」とタイトルに書いたけれど、箱根より西に住む人には何のことやら。そこで、まずは箱根マラソンのルールを少し。年の初めにTVで見る方も必死になる関東の大学駅伝である。コースは東京から箱根まで5人で繋ぐ往路。箱根から東京まで往路と違う5人で繋ぐ復路。前年度にいい成績で通過したシード校10校と学年選抜の11チームが走る。ここまでは普通の駅伝。それなのにお正月のど真ん中、なぜそんなに見る方も走る方も興奮するのか?違うのは、復路の到着順で翌日の出発順が決まり、タイム差で出発。何分か以上差が有る後の全員は一斉スタート。だから、襷の中継所での順位はタイムにカウントするまでわからず、屈辱となる。さらに、最初のチームが中継所に着いてから20分以内に中継所に到着しないと歴史ある襷は受け渡せなくなり、代わりの襷でスタート。アナウンサーは言うのである。「アー間に合いません。後数秒なのに。襷を繋ぐべき走者が見えるのに無情にも時間が来てしまいました涙涙の無念の襷リレーです。」箱根マラソンはスポーツではあるが、ドラマなのである。話を中山道に戻す。今日の同宿の各々のルートと出発地点。しかしこれはあくまでも和田峠までである。この日は峠を越えてから下諏訪までが長い長い。クリックすると大きくなります。地点1番長久保宿 標高660m 和田宿まで7.9km1番最初の旅人出発 50代ぐらいの男性、昨日は長久保宿を少し和田宿の方に進んだ分かれ道で終了。きちんと順番に日本橋から中仙道を歩きて来ているが、かなりの強行軍のようだ。一日に歩く距離が少し無謀に見える。宿は歩きながらその日の到着地点を見越して、その日に予約するのだそうだ。前日5、6宿前の佐久から20km以上歩いて来ている。寄って、本日は前日のその分かれ道の地点から下諏訪を目指す。一番後ろからの出発。夕方6時半の下諏訪発の東京に帰る高速バスを予約済み。地点2番和田の宿場長久保からはだらだらと坂を登ってきている。標高800m 3番目の人の出発点までは1.5 km2番目の旅人。前日暗く成るまで歩いて、和田宿まで宿のご主人に迎えに来てもらった。1番目の旅人に遅れる事10分でスタート。ここまで歩いておいて懸命だったと思う。地点3番鍛冶足バス停ここより少し先携帯電話の電波は入らず。標高850m程 最後の出発点までは約5km 3番目の旅人。中山道、本日が最後に残した難所。この日で五街道全部完歩。凄すぎる!2番目の旅人に遅れること2分で「みわ」ご主人の車を降りスタート。地点4番。観音沢バス停。ほぼ和田峠登り坂の入り口付近。標高約、1,200m。和田峠までは標高差600m、4.3km。4番目の旅人は私と夫。年齢を見越して少しでも先に進んでおいてこの日の難所を日が暮れる前に下諏訪に着こうと考えた。3番目の旅人から遅れる事5分で車を降りる。さあて、何処で誰に抜かれるか。ちょっとゴルフのハンディもらったのに似ているね。全員和田峠を越えて、下諏訪に向かってスタート!
August 12, 2013
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4週間ほど前の連休に中仙道を3日連続で歩いてきた。前回は碓氷峠を越え、軽井沢を通り、信濃路の塩名田宿で終わった。その5宿場先には中山道最大の難所と言われる標高1,600の和田峠が待ち構えている。東海道の鈴鹿越え以上で、電車もバスも近くを通らない。その上歩く道は車道とはかけ離れた山の中。交通手段が無い地域を22km以上歩き通す。もし越えられず山中で日暮れになれば遭難?そうなん?なんてしゃれを言ってる場合じゃない。そこで前回の終点塩名田宿から八幡宿、望月宿、芦田宿、長久保宿間を次回に残して、連続して歩ける連休に和田峠旅越え設定した。金曜日の夜、まずは最寄の駅である上田に新幹線で行って、宿泊。最寄りの駅?いや、そこがいちばん長久保宿からは近いのだが、バスは1日数本、長久保までバスで上田から約1時間、そして朝、9:05のバスしかない。上田駅前のタクシーで聞くとだ5,000円から8,000円と言われた。うーん、江戸の旅人にはきつい。早くに出発して出来るだけ和田峠の近くでその日を終え、明日につなげたい我らとしては、遅い時間の長久保宿スタートは辛いところが有るが仕方ない。地図9:05のバスに乗って、長久保宿でバスを降りる。宿場見学は次回に回し、(しかし次回ここで終わって日暮れになったら、どうやって上田駅まで帰るんだろう)すぐにスタート。10時を回っている。田んぼの中を歩き、藁ぶき屋根の市域循環バス(地域しか回らない)のバス停や、水筒に水を入れられる湧水や、昭和の面影を残した小さな中学校等を通り、ただひたすら和田の峠に向かって田園地帯を進んだ。熱中症にならないように水の補給に湧水はありがたい。和田宿は文久3年火事で全部消滅したけれど、皇女和宮の11月の輿入れのために急遽再建されたという言われ付きの宿場で、当時の脇本陣屋旅籠、昨年まで営業していた旅籠が良く残っていてなかなか趣が有る。そこで、旅籠の資料館など見学して小休憩。「おいおい、先を急ぐ旅人が見学などしていていいのか?」とは思うが。お昼は旧街道内のお店が休みで、仕方なく車の通る中山道まで往復20分出て、道の駅で食べた。無駄な時間、江戸の時代から現実に呼び戻されるつまらない時間。宿場を出ると一度車道と交差して、いよいよ和田峠に向かってどんどん登る。どんどん山に登って、日が暮れたらどうするの?と言う疑問が出るだろう。実はそのあたりに泊まれる宿が無いのである。去年まで営業していたという和田宿場内の旅籠は潰れてしまい、その日の出発点長久保宿近くの民宿しかやっていない。それでは現代の中山道の旅人は困る。何しろ夕方になってルートのどこで旅を終えても戻るバスも行くバスもないのだから。そこは良くしたもので、たった1軒、長久保分かれ道近くの民宿「みわ」のご主人が、泊り客のためにその日歩いて、ギブアップした地点がどこであれ迎えに来てくれるのだ。旧中山道和田越え、ほとんどゲームなのだ。私たちは事前に、携帯電波が入らなくなる最終地点の和田宿を越えて4km地点の唐沢バス停でのピックアップをお願いしておいた。和田を出る頃から日暮れまで歩けるか、足の調子が大丈夫か心配になりながら歩いた。何度も言うようだが今日出来るだけ歩いておいて、明日のために保険を掛けたい。そして3時頃、電波が入る少し手前で宿に電話する。「もう少し歩けそうなので、着いても電波が無いので連絡できませんが、少し先のバス停まで歩きますのでそこに4時にお願いします。」宿の奥さんが答えた。「もう一つ先最終バス停まですぐですから、そこで待っていてください」なるほど宿の方も女連れの旅では明日のために、出来るだけ峠に近い方が良いと見たか。その日、民宿に泊まったのは4組5人の旅人。それそれの地点でピックアップしてもらい夜集合した。暗くなって8時頃到着の旅人もいた。彼は和田宿でピックアップしてもらったようだ。でも最後の1時間か2時間は暗い中歩いたことになる。やはり明日を考えたか。食事をしながら、我らは互いに明日の情報交換をしたのであった。
August 11, 2013
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算数の問題ではない。旅の問題である。土曜日の朝、私と夫は三度この橋の上に立っていたのである。羽を持った麒麟像。1度目は、東海道を1人で始めた時、そして箱根から途中参加した夫の旅を、その箱根まで再び歩いて、完成させるために侍女と夫と出発点に立った2度目。3回目もまた橋の向こう側のスターバックスの外テーブルに、次女もコーヒーを飲みながら待っていた。今日からまた、旅が始まる。旅の起点は東海道と同じ日本橋、終点も同じ京都三条大橋。中山道六十九次、530km。東海道と30Kmぐらいしか違わないのに、宿場が16も多い。それだけ中山道の方が過酷だという事だろう。ざっと先達の記録を見ても、ルート上に立つための毎回の電車移動が、かなり困難なようだ。時には最寄の駅から中山道上に出るのに電車とバスを乗り継いでもまだ、かなり歩かないといけないところもあると書かれている。最大の難所は1,531mの和田峠だ。新幹線に乗れば朝、東海道線上に立てる五十三次の旅とはわけが違う。綿密な計画と慎重な行動が要求されるだろう。何しろ日本の屋根と言われる県を通過するのであるから。じゃあ、家に帰らないで途中全泊しながら、一気に京の都を目指したら?と言われる御仁がいらっしゃるだろうと思われるが、何しろ京から逆コースでお江戸を目指してお輿入れした和宮と同様、盗賊に襲われないように屈強なる護衛が必要なのだ。屈強?重いものを持たせると必ずぎっくり腰になる。自分では地図も万歩計も何の事前情報も持たないのに追分では必ず心のままに躊躇せずわたしより先に進む。神社仏閣、名所旧跡はすっ飛ばし旧街道の旅はハイキングと心得る。途中、地図を見ながら、旧街道は回り道が正しいと声を大にして叫べども、どうせ先で合流すると、私の声が聞こえないふりをして我が道を行く。蛇を目撃すると間違いなく私を置いて先に逃げる。悲しいかな、その屈強殿はいまだ現役の宮仕えなので、宿下がり(男にも使うのかえ?この言葉?)の時しか旅に出られないのである。東海道は途中父の看護と看取りが有ったが、約3年かかった。さてさて中山道は何年かかるのだろう。東海道の時、草津宿でお会いしたringoさん、草津宿は中山道も同じ場所。気長に待っていてね。前置きが非常に長くなったが、そんなこんなで、日本橋を出発して、日帰り中山道は荒川を超えて蕨宿の一歩手前で1回目は終了。本当は2日連続で歩きたかったのだが、お付きの侍女(次女)が足に豆が出来て歩けないとか、ぶーたれたので、次回に持越し。上は、中山道街道上、東京大学正門前にあるレストラン「山猫軒」。看板に書いてある文字の意味が分かった人は子供の頃の心をいまだに持ち続けているかと・・・。
January 8, 2012
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