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はて、なんの写真か?答え、リーゼンツパークの芝生に寝っころがって空を見上げている目線。隣でスースーと気持ちよさそうに寝息を立てている人がいる。イギリス旅行記どうやら1日すっぽかしたようだ。記憶があいまいなのは歳のせいだろう。あいまいなロンドンでの2日間は、大英博物館、ポートレート博物館、ミュージカル、本屋、フォトナムで食事意外は、ほとんど公園で過ごした。ロンドンにはいっぱい公園が有る。キューガーデン、ホランドパーク、リーゼンツパーク、ハイドパーク、グリーンパーク、セントジェームスパーク。私が訪れただけでもこんなに。人々は公園で何をするか?花の写真を撮る?散歩する?たくさんの人々がベンチでなんて言わないで、公園の広ーい芝生でピクニックをするのである。公園内にカフェテリアも有るし、海に有るようなチェアーも置いて有る。リーゼンツパークは娘のマンションからはちょっと遠い。家から歩いて、リスや白鳥がいる大好きなセントジェームス公園を突っ切る、そこからバッキンガムが見える。グリーンパーク、ハイドパークもすぐだけど、そちらには行かず、マルを突っ切って、ピカデリーに抜ける。そのあたりでバスを拾い、リーゼンツストリートを北に向かう(たぶん北)。オックスフォードサーカスを過ぎ、シャーロックホームズで有名なベーカー街の近くに、バラで有名なクイーンメアリー公園やロンドン動物園を含んだリーゼンツパークが有る。何回来てもどんぴしゃでバラは咲いていない。いつか満開の時に来たいなあと思いながら、それでもたくさん咲いている薔薇の写真を撮り、園内を散歩していると、皆が昼寝している大きな木がいっぱいある芝生に出た。自転車を放り出してその横に寝ている若者、犬と戯れているお父さんの横で寝ている子供達。大きなリュックをしょってやってきて昼寝を始めた旅行者。輪になってディスカッションでもしている10人ぐらいのいろいろな人種の若者たち。芝生に寝っころがって、木々の枝の間を流れていく雲を見ていると、夫が寝てしまった。仕方がないから真っ青な空を漂う羊雲でも眺めていよう。
July 20, 2013
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先週末の連休、中山道の旅人になっていた。それはまたイギリス旅行記の後に書くとして、早く旅行記終わらさなければ、書いている自分も飽きてきた。読んでくださる方もとっくに飽きてきただろう。旅行記に戻るブルージュで一泊して翌日も目いっぱいブルージュで遊んだ後、午後の電車でブルッセルに向かった。ユーロスターの出る南駅を通り越し、中央駅で電車を降りる。駅のロッカーに鞄を入れ、掏りに気を付けながら、グランパレスに向かった。地理には絶対的自信が有ったはずなのに、道を間違えて地元の人に聞く。電車に乗っている時から降り出した雨のせいにしよう。教えられた道を信号で曲がると、ティンティンがいた。うん、いいところに出た。そして予定では時間が無く廻らないはずだった小便小僧を見て、市庁舎やホテルやゴディバが有るグランパレス(広場)に出た。雨の中、夕暮れ時、いつもはきっとすごい人だろうにあまり人がいない。ぐるーっとグランパレスの四角の角をつつくように一周して、広場の見えるレストランで夕食をとる。ヨーロッパだからそんな早い時間に食べているお客はわたし達だけ。チョコレートとワッフルの試食でお腹がすいていないわたし達、軽く頼んだつもりがそこはヨーロッパ、どっさり出てきた。夕食後は遠くには行かずグランパレスに隣接するアーケード内を見て回った。ブルッセルはただの観光、見て回っただけだから。体験コースが無い分きっと後で思い出す感想は「行った」ということだけだろうな。それでも、食事はおいしかったし、グランパレスはきれいだった。スケールの大きいパリのコンコルド広場や、ロンドンのたくさんの人と誇らしげな銅像のあるちょっと騒々しいトラファルガー広場やハイデルベルクのちょっと哲学を感じてしまうような、重い感じの広場ともまた違って、狭い中に広場を囲んでそそり建つ絢爛豪華な建物群はすばらしかった。たった2日のベルギーを充分楽しんだ旅人2人は、またユーロトンネルを抜けて、深夜にプリマの引退バレエ公演を見に行って留守のロンドンの娘の家に帰宅したのだった。
July 18, 2013
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インドネシア旅行記、毎日のこのムシムシする天気の中、カビが生えないうちに書き上げよう。イスラム教の人と思い浮かべたら、日本の人は一番最初に何を考えるだろうか。やっぱりテロリスト?あんなのはほんの一部の一部の人だけで、ほとんどの人たちは人懐っこくて、親切すぎるほど親切で、宗教を大切にして、世界と人々の暮らしと、自分の心に平安が訪れるように一日に何回もお祈りをして、自分が間違った道に行かないか、人の道に外れないか、常に心と向き合っている人たちなのである。毎朝、16歳の男の子フェリは私にコーヒーを入れてくれ、朝ごはんを用意してくれた。だれもそうしろと言わないのにだ。彼は勉強が嫌いだけど、料理が大好きだから、将来は料理人になるんだという願いを持っている。彼が作ってくれたタコ焼きは、日本のどこで食べても引けを取らないほどおいしかった。私は毎日たくさんのノビさんの親戚の男性に握手をして挨拶をした。そしてたくさんの親戚の女性や友人達に右の頬と、左の頬を交互にくっ付ける挨拶とハグを繰り返した。それがインドネシアの挨拶だから。朝、16歳のフェリ、18歳のナスティティ、18歳のララは目上の人に挨拶する時、自分の右手で相手の右手を取って、目の位置まで上げ、自分の額にくっつけて挨拶をするのである。今の日本の若い子が見たらひっくり返るかしら。大人を敬う。心から敬う。イスラムの世界がそうさせるのか、インドネシアの気質なのか。人々は陽気で親切ですぐに仲良しになる。友だちの友達は皆友達。滞在4日目、ノビさんのいとこが迎えに来て、高原の高級リゾート地のレストランでご馳走してくれた。そして新たなる友達を作ったのである。チルボンバティックのお店を開いている友人宅にも連れて行ってもらった。初めて会ったのに前からの知り合いみたい。友達になった。ノビさんの一番上のお姉さんの勤め先の社長さん、結婚式で紹介された人。その人が高級レストランの夕食に招待してくれた。インドネシアでは数少ない仏教徒の彼、同じ仏教徒の私にお守りや湯飲みをお土産にいっぱいくれた。インドネシアの女性は強い。お祈りの場所は分けられているのに、社会進出している女性はいっぱいいる。皆快活で、積極的でぱっぱと物事を決めて行く。辛いものが食べられない私の為に、郷里のカリマンタン風ソトアヤムを奥さんのアトゥンが私のちょっと早い誕生祝いに作ってくれた。涙が出そうになった。ホームスティってこういうことなんだな。アメリカの友人の家やドイツの友人の家にホームスティしたことは有るけれど、なんだか今回は現地の言葉を覚えに行く高校生の気分。別れの時、一番最初に泣いたのはララ。フランス語の勉強頑張ってね。家を出るとき、一家の主のノビさんのお兄さんの顔がくしゃくしゃになった。アトゥンも涙ぐんでハグしてくれた。英語は出来ないから、一番の私のインドネシア語の勉強になったアトゥン。いつも物静かなアトゥン。ご飯おいしかったよ。そして空港で、フェリーさんが泣いた。フェリーさん、今度は日本で会おうね。わたし達、facebookでも、Lineでも繋がっているからね。いつでも、英語でも、インドネシア語でも、習い始めた日本語でも会話しよう。ウサギは泣いたかって?テレビでウルルン何とかってやっているでしょう?たった5日でも一度家族になってしまえば、あの気持ちがようくわかる。テレビではいつも最後にナレーション。「そして別れの時」と。別れは新しい再会の始まり。 完長い文章の旅行記読んでくださった方がいたら、ありがとう。お疲れさま。
June 19, 2013
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2度目のジャカルタにはインドネシアのパスポートを持った私のインドネシア語の先生のノビさんと一緒に入った。空港にはノビさんのお姉さんのフェリさん、もう一人のお姉さんのリタさんとご主人が車で迎えに来てくれた。私はインドネシア語で必死で「初めまして私はウサギです」と3人に挨拶をした。フェリさんには前回会っているにも関わらず・・・。大失態。先ず空港から、ホームステイするノビさんの実家に向かう。高層ビルがにょきにょきと東京よりたくさん建っている。このすてきなビルの谷間にごちゃごちゃした裏街が有るジャカルタ。前回来たから良くわかる。ところが・・・、そんな私の見たものはほんの一部のジャカルタだったことがこの先だんだん思い知らされるのである。2時間近く渋滞の高速道路を走り、ポンドク・ゲデで降りる。降りた途端ものすごいショックに襲われた。一般道は交通ルールも規則もへったくれもない。車の間を前を。縦横無尽にヘルメットをかぶらない2人乗りバイクが縫って行く、クラクションがあちこちでびーびーうるさい。1mの高さが有る中央分離帯の反対車線の一部を無数のバイクが逆走する。おかげで対向車線は1車線しか走れない。思わず目を覆う光景。そしてちょっとでも車が止まれば2車線の間を荷物を持った物売りが何人も命を懸けて窓をたたく。「買ってちょうだい」と新聞、バナナ、お菓子を売り歩く。物乞いは中央分離帯で座っている。思わずお金を探るが、ぼったくられた前回の轍を踏まないように、空港ではお金を替えてないので、施しをするわずかなルピアも手元にない。そして、埃っぽい線路脇の道を走ると車を止めて路地を入る。ノビさんがさっさと開け放たれたドアの外で靴を脱ぎはだしで家に入った。遅れまじと私も続く。スーツケースは?車の中で良いの?そして家族に挨拶する。「よろしくウサギです。日本から来ました」青いジルパプを被ったお姉さん(リタさんという名前を早、忘れたのである」が言った。「ここは私の友人の家で、頼んでおいたからルピアを替えるよ」もちろんインドネシア語はノビさんの通訳を介してだ。何だ、ノビさんの実家じゃないんだ。ドドーンと山盛りの3種類の焼き菓子、ケーキと甘い紅茶が出た。そしてまた車に乗る。車1台がやっと通れる路地や、屋台のような店が並ぶ街を走る。そしてちょっと雰囲気が違う住宅地に入ったら1軒の家の敷地に入った。「着いた、ちゃんと挨拶しなきゃ」玄関の外で靴を脱ぐ、入ってすぐの応接間には10人ほどの人が談笑したり寝そべったりしていた。「初めまして、よろしくお願いします」一人ずつに挨拶する。相手の名前なんて聞いても多すぎて覚えられない。鞄は?下ろす?「ここはリタ(青いジルバブのお姉さん)の家」があーーん。親戚の子たちが集まっているんだ。まだノビさんの実家じゃないのか。青いお姉さんに台所に連れて行かれる。「べべ(鴨)をあなたのために作って置いたから食べて」そこに有ったお皿にご飯を自分でよそって3種類のおかずを載せて食べた。そしてまた車に乗る。「明日結婚式に出る従弟の実家に寄って挨拶するね」ええい、この際もうどこにでも寄ってくれ。またごちゃごちゃの街を通り、ゲートのあるこぎれいな住宅街地区に入る。そうなのだ、ウサギの今回の目的はノビさんの実家に泊まって、ノビさんの従弟の結婚式に出させてもらうことであった。結婚する息子さんがいるお兄さんの家。もう慣れた家への入り方。靴を脱いではだしで大理石の床を歩く。必ずある玄関わきの応接間には親戚の人がいっぱいいた。誰が誰だかわからないまま、挨拶をする。最後に息子さんにお祝い品と祝い金を渡す。彼とは英語。お父さん、お母さんにもお祝いを言う。インドネシア語。その弟が日本語の片言で話しかけて来た。そしてまたまた連れて行かれたテーブルには、カレー、ご飯、牛肉の料理、野菜料理、おいものサラダ、烏賊の料理。皆が食べろ食べろと言い。皆がてんでに自分でよそって食べている。この先が心配な私、ちょびっとよそったら、もっと追加された。居合わせた親戚の女性が、私に挨拶してないよという。「すみません、日本から来ましたうさぎです」彼女、にかって笑っておかずを私のお皿に追加してくれた。そして、空港からかれこれ4時間、そこを辞する。ごちゃごちゃしたメイン道路から、小路に入り、車一台通れる道を曲がって曲がって曲がって曲がって、着いたところがノビさんの実家だった。地図の読める女のさすがの私も、もうメイン道路に一人では出られない。家では、ノビさんのお兄さんと奥さん、中学生の甥御さん、一緒に住んでいる女の子が出迎えてくれた。そしてもう一人、去年フェリさんといっしょにバティック廻りで私に付き合ってくれた懐かしいララが待っていた。車の中でも青いお姉さんの特訓を受けて、インドネシア語で口が回らなくなって来ていた私、思わず天の助けと「あなたとは英語でしゃべる」と抱きつきながら宣言したのだった。家にはちょっとしたつまみ以外何もご飯は無かった。誰も親戚は来ていなかった。良かった。いや、途中、お兄さんの家で1人拾って車に乗せて来たから、親戚が1人。すぐ後でまた違うお姉さん夫婦がオートバイでやって来た。3人。その日私は何人に握手してハグしたんだろうか。たぶん軽く40人は超えていると思う。明日、また今日挨拶をしたジルバブを被ったお姉さんたちに、「初めましてウサギです」と言わないことを願いながら眠りについたウサギであった。これから何回か書くジャカルタ旅行記。ウサギが感じたまま正直に書く。でも決してインドネシアとその人々を卑下しているわけではない。彼らを愛し、感動し、何十年前の日本と同じような街がにょきにょきと成長する様をうらやましく見ているのである。成長するだけしてしまった国とこれから成長する若者のような国と、もう何十年後はどうなっているのだろうか。もし、今日の日記、全部読んでくださった方がいたら、お疲れさまそしてありがとう。
May 31, 2013
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